2019年1月3日木曜日

『アーネスト・サトウと倒幕の時代』孫崎亨 現代書館 2018


『アーネスト・サトウと倒幕の時代』孫崎亨 現代書館 2018


感想 私は、本書の読書開始当初は、筆者のことをたびたびけなしたが、それはその時点での私の感想であり、全体に及ぶものではない。
筆者が沢山の文献を読んでいることに感服した。また筆者は、外交官としての経歴があるせいか、他人のちょっとした言葉の中に、話者の深い意図を読み取る技術を持っているとも感じた。
私も昨夏『一外交官の見た明治維新』を読んだのだが、ここまで深読みできず、サトウの単なる回想談としてしか読めなかった。それは背景的な知識が不足しているせいなのだろう。

本書の特徴は、以下の点にあるのではないか。

・幕末史におけるイギリスの役割の重大さを指摘したこと、
・鳥羽・伏見の戦いで、英公使のパークスは、大阪城にいた慶喜に、日本国の主権は最早幕府にはないと明言したこと、
・江戸城無血開城を実現する時の英公使の役割の重大さ。英公使パークスが「降伏した者を殺すことは、いずれの国にもない筈」と、武力行使に反対したこと、
・明治政府の担い手が、血で汚れた過去を持っていることを暴露したこと、
・日本の初代総理大臣伊藤博文が、孝明天皇廃位の根拠を考案した、塙保己一の息子塙忠宝(次郎)を暗殺したこと、
・西郷隆盛が、江戸城攻撃の際、恭順な態度を示し続ける慶喜の首を欲しがっていたこと、
・天皇制の本質的な欠陥を指摘したこと、
・クーデターに基づく、幼い天皇も臨席する、最初の三職会議(新たな政治システムによる会議)で、土佐の藩主・山内容堂が、慶喜もこの会議に参加させるべきだとし、岩倉具視のやり方が、幼い天皇を利用した、自らの意志の押し付けである、と批判したことに対して、岩倉具視は、若い天皇が決めたことではない、などと言うことは、「天皇に対する不敬だ」と言って、自らの意志を貫徹してしまうこと、
・「定説」を覆したこと、
・公武合体論者坂本龍馬の暗殺の犯人像を、会津藩の見回組ではなく、武力討幕を主張する薩摩藩が大いに疑われると指摘したこと。

感想 ふと思いついたのだが、土佐藩の位置づけについてなのだが、坂本龍馬の公武合体論や、アーネスト・サトウやミットフォードから後藤象二郎を通して薩摩武力派に受け継がれたイギリスの政治制度は、五箇条の御誓文やその後の自由民権運動につながるのではないか、ということである。
 アーネスト・サトウやミットフォードが後藤象二郎に与えた政治システムに関するヒントが、薩摩・岩倉クーデター派の三職会議に受け継がれていた。223



はじめに(省略)

第一章 アーネスト・サトウの来日016

感想 著者はテキストを深読みしすぎる、つまり悪くいえば、テキストの主旨を飛び越えて、自分の意見を史実の中に注入しようとする。
また気になるのは、庶民を見下した啓蒙的な書きぶりだということだ。彼の言外の意図がそこに隠されている。いやな気分になる。
アーネスト・サトウが単なる一介の下級外交官に過ぎないのに、彼を過大評価し、まるで彼が日本の歴史を左右する外交上の大人物であるかのような書き振りである。034

第二章 「桜田門外の変」から「生麦事件」へ037--097

感想 絶対主義的な独裁制が、人民には好評だったとし、その理由は内乱がなく平和だったからだというのだが、それは歴史の逆戻りを肯定するかのような考え方で、容認できない。但しこれは他者の言を借りての発言だが。ジョージ・B・サンソム『世界史における日本』038
以上の難点は、彼が外交官や防衛大学校の校長を歴任し、その過程の中で国家主義的な考えを強めたせいかもしれない。

038 感想 アーネスト・サトウが倒幕側に与したというのは言い過ぎではないか。サトウは上司の判断で動いており、上司はイギリス外務省の指示で動いていること。それに、イギリスは客観的な判断に基づいて自国の外交方針を決定しているのであって、薩長に贔屓して方針を決定しているわけではない。また、決定的なことには、『一外交官』を読んでみて分かることだが、イギリスが、幕府側とも公平に接触しているという事実だ。そして幕府側と倒幕側との力関係が決定的となった、大政奉還以後、倒幕側との接触が多くなるのは必然の流れであり、それに与するとかいう話ではなく、実務的な都合によるものである。

043 ラザフォード・オールコック「再び鎖国、絶対にできない(=許さない)」

059 感想 日本の歴史では天皇を抱きこんだ方が必ず勝利する、と定説のように言うが、それは信じ難い。また天皇に刃向かうことは絶対できないと慶喜は言うが、それは慶喜の個人的な意見であって、そうでない将軍も数多くいたはずだ。

066 感想 伊藤や木戸が、御殿山(品川)で建設中の英国公使館の焼き討ち1863.1.31を担当していたとは知らなかった。そんなことをやってのける伊藤が、アーネスト・サトウと仲睦まじく接している様子が『一外交官』に記述されているが、サトウが真実を知ったら、どんなに腹を立てたことだろうか。

感想 批判ばかりして悪いが、日本人が外国人に支配されやすいことなど言われなくても分かっている。それは他国の歴史を見ればすぐ分かることだ。

感想 著者は多読だが、断片的な知識の寄せ集めで論理的な成熟度に欠ける。

071 公武合体論 和宮の降嫁 

072 特ダネ 木戸や伊藤が、水戸藩と密約し、武力行使は水戸藩が、その後の政治は長州藩が担当するという密約を交わしていた。(長州はずるいね、自分は傷つかない)坂下門外の変の実行犯は、水戸藩だが、それと連携していたのは、なんと木戸や伊藤で、坂下門外の変に遅刻して死に切れなかった川辺佐次衛門が、長州屋敷の木戸を訪れ、木戸の不在中に、木戸との関連がばれないように配慮して、自害し、伊藤が跡始末をしたらしい。木戸と伊藤は北町奉行で取調べを受けた。『維新風雲録』
 「水戸藩士と小五郎らの間には、破成の密約が結ばれていた。つまり、水戸側が現体制の破壊、長州側がその後の建設を引き受けるというのである。(坂下門外の変の)前年の文久元年十二月、水戸藩の情勢は、これ以上の遷延を許さないとして、決起が主張されたが、小五郎は、時期尚早を唱えてこれに反対した」大江志乃夫『木戸孝允』

076 これも特ダネ 伊藤博文はテロリストだった。
 伊藤博文は、塙保己一の息子塙忠宝(次郎)が、承久の乱を調べ、孝明天皇を廃位させる根拠を与えたとして、塙忠宝を暗殺した。それもイギリス公使館を放火した九日後の、文久二年十二月二十一日(1863年2月9日)のことである。「国賊」と呼びかけて彼を斬殺したという。『伊藤博文伝』(春畝公追頌会編)
 アーネスト・サトウは、文久二年十二月十二日(1863年1月31日)、伊藤博文がイギリス公使館を放火したことを知っていた、という記述が『一外交官』にあったとのことだが、私はすっかり忘れてしまっていた。「その後幾年か経って、最も確かな筋から、放火の犯人は主として攘夷党の長州人であったということを聞いた」また「その中に総理大臣伊藤伯と井上馨伯がいる」078

074 長州藩では佐幕・倒幕で議論が割れ、権力の所在が左右に揺れた。
文久元年(1861)三月、長井雅楽は「航海遠略策」を藩主毛利敬親に建白し、承認された。その中で長井は、「破約攘夷は世界の大勢に反し、国際道義上も、軍事的にも、不可能であり、航海を行って、通商で国力を高めるべきであり、朝廷が、幕府に、鎖国攘夷政策を撤回させれば国論は統一するだろう」とした。
075 そして長井は、老中久世広周や老中安藤正信に面会してその持論を説明したが、それは幕府も望むことだった。
ところが坂下門外の変の後で、長州の攘夷派が盛り返し、長井は切腹を命じられた。
ちなみに長州藩のもう一人の論客は吉田松陰で、攘夷派だった。
周布政之助は、当初「航海遠略説策」を支持していたが、変節して攘夷派になったが、椋(むく)梨藤太など幕府への恭順派が復活すると、元治元年(1864)9月に切腹を余儀なくされた。

079 1856年8月21日、オランダ人の米外交官ヘンリー・C・J・ヒュースケンは、総領事タウンゼント・ハリスと共に下田に来日し、ハリスの下で通訳官として働いていた。
庭野吉弘は『東日本英学史研究』の中の「ヒュースケンという人物」の中で、ヒュースケンが日本社会の中に溶け込んでいる様子を記述している。
ところが1861年1月15日、ヒュースケンは、芝・薪河岸(港区三田)の中乃橋で、攘夷派に斬られて死亡した。

082 1861年7月5日、英国公使のラザフォード・オールコックは、水戸藩脱藩の攘夷派に襲撃された。
オールコック著『大君の都』によれば、襲撃当時警備に当たっていた旗本、郡山藩士、西尾藩士ら150名は寝ていた。郡山藩や西尾藩は、戊辰戦争で新政府軍に加わった。
085 襲撃した人物の中で斬奸状に署名した14名の中には、黒沢五郎、高畑総次郎ら、坂下門外の変に参画した人物が含まれていた。

老中阿部正弘は「大船建造の禁」を撤廃し、海軍を創設した。長州藩でも木戸が、様式軍艦の建造を藩に上申し、1857年1月軍艦「丙辰丸」が進水した。この「丙辰丸」の上で、長州藩と水戸藩との密約が執り行われ、丙辰丸の盟約とか、水長盟約と呼ばれている。この時、長州藩から木戸、松島剛蔵、水戸藩から西丸帯刀(天狗党)が参加した。これがイギリス公使館東禅寺の襲撃、さらに坂下門外の変へとつながった。

087 また重要な事実 グラバーが関与する、イギリスのジャーディン・マセソン社は、中国でアヘンを売りつけ、中国への軍事行動をイギリス国会に要請し、日本では横浜を根拠地として、支店長を日本人にし、日本に兵器を売りつけた。
ジャーディン社は、1832年に広州に設立され、アヘンの密輸をやっていた。1863年、伊藤博文(俊輔)、井上馨(聞多)等の五名(長州五傑)が、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに留学できたのも、同社の便宜による。『密航留学生たちの明治維新』
 これには幕府の軍艦製造政策への転換085と、長州藩の外国から学ぶ政策とが影響しているようだ。
グラバーは、ジャーディン・マセソン商会の長崎支店として、グラバー商会を設立し、坂本龍馬、岩崎弥太郎を支援した。087
 吉田茂の養父吉田健三は、ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長で、軍艦や武器を日本政府に売り込んだ。

088 陳舜臣『アヘン戦争』は、ジャーディン・マセソン商会の中国でのやり方を詳述している。

091 公爵島津家編輯所が1928年に出版した『薩摩海軍史』によると、生麦事件当時、島津藩は幕府の政策を正そうとして、まず、天皇から勅をいただき、それを護衛する任務を帯びて江戸へ出向き、その任務が終わって帰ろうとしたが、生麦事件は、その帰途での出来事だった。
 リチャードソンを殺害した人物で名前のはっきりしている者は、供頭の海江田信義(武次)、奈良原喜佐衛門、久木村利休らである。
093 林薫『後は昔の記』によると、外人は「東海道は諸侯の往返頻繁なれば、成丈け通行を見合すように」と知らされていたが、外国人は、成丈け内外間に据え付けたる障碍を排除せんと欲し、友人が「今日は島津三郎(久光)通行ありたり。危険多ければ見合すべし」と忠告したが、四人は聞き入れなかった。
094 薩摩藩主の島津茂久の父久光は、公武合体論を唱えていた。1862.6.5、幕府の政策改革を目指した久光は上洛し、勅使(大原重徳)を江戸に派遣することになり、久光は勅使随従を命じられた。
095 その前、薩摩藩は安政の大獄への対応で意見が割れ、公武合体論派が久光であり、もう一つが、要人(関白九条尚忠京都所司代酒井忠義)を襲撃する蜂起派であるが、その蜂起派が公武合体派によって殺害された事件が、寺田屋事件である。久光の側近の大久保一蔵(利通)は、襲撃派の説得に当たったが、上手くいかなかった。
 京都に向かった西郷隆盛は蜂起派と誤解されて、沖永良部島に一年七ヶ月島流しにされた。
096 海江田信義は、水戸藩邸で、藤田東湖に尊王論を学んだ。海江田の弟が、桜田門外の変で井伊の首級をあげた有村次左衛門である。
097 オールコック卿は、『大君の都』の中で、「日本の今の社会状態は、イギリスのアングロ・サクソン時代のような無法で兇暴だった時代と良く似ていて、生命の保証がない」「責任者は日本政府であり、政府は国際法によって責任を負っている。政府には生命・財産を保護する法を尊重する責任がある」「諸外国が相手とすることのできる政府は、実質的に支配している政府だけである」と書いている。(感想 しかし、そんなことが当時の日本に通じただろうか。)

第三章 高まる「攘夷」の動き

098 1863.6.24、文久3.5.9、幕府は、各国公使館に開国決定からの撤退を伝えた。
「外国と交通するは、国内の興情に戻るを以て、諸港を閉ざし、居留の外人を引上げせしめんとす。この旨朝廷より将軍へ命ぜられ、…」(この時点で幕府に統率する力がなく、長州藩にその力が移動したことがわかる)
099 それに対してニール英代理公使は、この日本の処置によって「日本に生ずべき不幸な結果」を示唆し、「大ブリテン国が、条約上の責務を存続させるための、厳重にして断固たる処置に出ずることは疑いない」と脅し、その上で大君と天皇が、「条約上の責務をより満足に実施するための」「合理的な手段を実施できるだろう」とし、その意味はアーネスト・サトウによると、賄賂の提供であった。
100 オールコック駐日公使は「どの西洋諸国も、日本人がどうやっても力づくでは到底追い出せないほど強力だ」と脅した。
101 アーネスト・サトウは、前記の「合理的な手段」とは「物質的援助を示唆し、その援助の目的は、対外親和政策に反対する西南部の諸大名の運動を抑制し、大君と天皇との正式な妥協(公武合体)を妨害する運動を抑圧するためであったろう」と解釈している。(『一外交官』)
102 アーネスト・サトウは、通訳だけでなく、1895年から1900年まで駐日公使をしている。
この時期に折衝した老中は、松平信義(1860—1863)と小笠原長行(1862—1863)である。
竹本甲斐守と柴田貞太郎は、イギリスの物質的援助を辞退した。「大君は、自己の権威と兵力によってのみ大名との間の疎隔の解決に努むべきであるから、この外国の援助は辞退せざるを得ない、と言った」(『一外交官』)

102 この前、長州藩は、京都の朝廷に対して影響力を持ち、岩倉や三条などの公卿もそれに同調し、天皇に攘夷の祈願を神社でさせた。
 文久3.3.31、1863.4.28、天皇は賀茂神社へ行幸し、攘夷を祈願した。
103 長州藩の久坂玄瑞(げんずい)は、次のように朝廷に働きかけた。
・安政五年の条約を下田の条約*まで引き戻す。
・幕府に重要政務を朝廷に奏聞させる。

*1854.3.31、嘉永7.3.3、日米和親条約(神奈川条約)
1857、安政4、日米和親条約修補条約。ここではこれを指すものと思われる。
1858、安政5、日米修好通商条約など、対米英仏露蘭。

久坂、木戸、三条、姉小路公知らが連携し、文久3.2.11、1863.3.29、関白鷹司輔熙(き)に、攘夷の期限を定めるように進言し、それに一二卿*が賛同し、朝廷がそれを受け入れ、長州藩世子・毛利定広(のち元徳)に「供奉」*を命じた。
*一二卿とは、三条、豊岡、正親町、滋野井、姉小路などである。
*「供奉」とは、行幸・行啓などのお供。
 文久3.3.31、1863.4.28、天皇は賀茂神社へ行幸し、攘夷を祈願した。
これに幕府側も参列した。将軍徳川家茂、水戸藩主徳川慶篤、将軍後見職一橋慶喜、老中水野和泉守、板倉周防守などである。
 長州藩の参加者は、世子毛利定広、清水清太郎(親知)、来島又兵衛、佐々木男也、毛利登人、村田次郎三郎、小幡彦七らである。
104 文久3.3.14、1863.5.1、朝廷は幕府に命じて攘夷の期日を決めて布告させた。
ところが、この日、島津久光は、朝廷に招かれ、関白や前関白近衛忠煕(き)に「攘夷の軽挙しがたきこと」を建言した。以上出典は『木戸孝允』
徳川慶喜(よしのぶ)は『昔夢会筆記』の中で、「長州が、加茂、八幡、大和などへの行幸を建白した裏に、倒幕の計画があった。加茂行幸は、将軍の権威を落そうとするものだった」と述べている。

第四章 薩英戦争後、薩摩は英国との協調路線に

107 長州藩・薩摩藩ともに藩内で佐幕派(公武合体論派)と倒幕派とに分かれていて、長州藩では、前者を俗論派、後者を正義派と呼んでいた。
 薩摩では久光が公武合体派で、一時主導権を握ったが、その後討幕派の西郷隆盛、大久保利通が主導権を握った。
108 英国は生麦事件で幕府に対しては10万ポンドを要求し、砲艦外交でもって幕府を脅し、幕府は何度か支払いを引き伸ばしたが、軍艦で脅されて、6月24日、(5月9日)、全額を支払った。
109 イギリスは薩摩藩に対しては、リチャードソン殺害者の審問と処刑、リチャードソンの親族と他の三名に対して、2万5千ポンドの賠償金を要求した。
110 リチャードソン殺害者の海江田信義、奈良原喜左衛門は、久光が指揮する寺田屋での上意討ちを担当していた。
111 薩英戦争での交渉担当・伊地知正治以下薩摩藩士40名は、隙を見つけて艦内のイギリスの主要人物を殺害する計画を立てたが、イギリス側が用心し、事なきを得た。
 薩摩の商船青鷹丸(サー・ジョージ・グレー号)に乗船した二人の日本人が捕虜になった。二人は五代友厚(才助)松木弘菴(寺島宗則)である。二人はこの船をグラバーに115売って、それを賠償金に当てようとしたが、薩摩藩の藩論を説得できなかった。
112 二人は文久元年12月22日(1862.1.21)の、幕府の第一次遣欧使節団(文久遣欧使節)に、通訳兼医師として参加した。(これには福沢諭吉も参加した)この使節団はオールコックの画策による。
『寺島宗則自叙伝』がある。
116 薩摩藩は三艘の船を所有していた。天佑丸(英国製)、白鳳丸(米国製)、青鷹丸(ドイツ製)である。
 薩英戦争の記述は、大山元帥伝編纂委員『元帥公爵大山巖』にある。
 大山巖は寺田屋事件では命拾いをし、鹿児島で謹慎させられた。
117 「生麦事件の責任者奈良原喜左衛門と海江田信義ら150名は、身を商売に扮し、スイカその他の果物を積み、各艦に漕ぎ寄せ、英艦を奪おうとしたが、英人は無用なりの意を示しつつ、我行動を怪しみ、梯子を外して登艦を許さない」
118 このとき西郷南洲(隆盛)は、沖永良部島に流刑中だった。
 イギリス人側の死者は11人、負傷者は50人だった。(『薩摩海軍史』)
119 薩摩藩の家老は川上但馬といい、『薩摩海軍史』に彼の戦況判断が記述されている。「薩摩側は砲台を全滅させられ、市中は大混雑。英人の死体も浜辺に打ち寄せられた」
120 「森有礼伝によれば、久光や大久保は、彼の長を取り、我の短を補うの必要を知り、…薩摩藩はこの戦いの後、開成所を設け、洋学を起こした」(吉川南湖『大久保利通』)
薩摩藩の商船は沈没した。
122 薩摩の高官二名がイギリスの公使館にやってきて、「生麦事件の賠償金を払い、リチャードソン殺害者を探し出して、イギリス人官吏の前で死刑にする」と約束した。しかしニール大佐は首謀者が久光であることを見抜いていた。

第五章 孤立化する長州藩、そして第一次長州征伐へ

感想 明治政府の中枢になぜ三条や岩倉などの公卿が入っているのか不思議に思っていたが、ここを読んで分かった。文久3年のころ急進派公卿は長州と与し、過激な攘夷論を主張したが、その底意は倒幕であった。
ところが文久3.7.2、1863.8.15の薩英戦争の後、薩摩によって一時的に長州が排斥される時期があったが、再び薩長の合同がなり、倒幕に突き進んだようだ。そして将軍慶喜もあえて権力に固執しなかった。

124 文久3.3.11、賀茂神社への行幸以後、長州藩は朝廷を動かすようになった。
5.20、尊王攘夷派の姉小路公知が暗殺されると、長州藩は堺町門の守衛を担当した。(禁門)
姉小路の暗殺に関して薩摩藩に嫌疑がかかり、薩摩藩は乾門の守衛を解かれ、薩長が対立するようになった。
 島津久光と松平春嶽(福井藩、親藩)は、こうした情勢に危機感を持った。

 前水戸藩主の斉昭は、江戸城に不時登城し、井伊直弼の開国に反対したが、それに対して井伊は、斉昭や松平春嶽を処分した。

 前関白の近衛忠煕の妻・郁姫(島津興子)は、島津斉興の養女である。

 8.13、大和行幸・攘夷親征の詔が出された。神武天皇陵・春日大社・伊勢神宮を行幸するという案である。またこれには倒幕の意味が込められていた。(『昔夢会筆記』徳川慶喜)
126 文久3.8.18、1863.9.30、突然行幸が延期され、三条実美の参内を禁止、長州藩が担当していた堺町門の警護を薩摩藩に代えることになった。

・朝廷への主導権を長州藩から薩摩藩と幕府に移す。
三条ら急進派公卿の影響力を排除する
・攘夷路線を軽減する。

 『島津久光公実記』によれば、

8.13 伝奏飛鳥井中納言、大和行幸の勅命を伝える。
聖上は、中川宮と共にその無謀を憂えた。
8.15 中川宮は天皇の意向を酌んで、行幸を止めようとした。
我藩の奈良原幸五郎高崎左太郎もこの話を聞いて遺憾に思った。
中川宮と近衛二条二公に会い、聖意を貫徹することで合意した。
天皇もそれに賛成し、命令を下した。
18 黎明守護職と所司代に勅して九門を守らせた。
我藩兵は命を奉し、堺門に至り、長藩に代わらんとす。長藩は訝(いぶか)って退かなかったが、勅使鷹司邸に臨み、諭し、長人退去す。(八・一八宮中クーデター

会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁した。
8.15、松平容保(京都守護職・会津藩士)の了解のもとに薩摩藩士、会津藩士中川宮を訪れる。
16 中川宮が参内して天皇を説得する。
17 天皇が中川宮に密命を下す。
8.18 中川宮、松平容保、近衛忠煕(前関白)・近衛忠房父子、二条斉敬(右大臣)らが参内し、会津、薩摩、淀藩兵により九門を警備した。
大和行幸の延期、尊攘派公卿と長州藩主毛利敬親・元徳父子の処罰を決議した。

128 19 長州藩兵千余人は、失脚した三条実美、三条西季知、四条隆謌(か)、東久世通禧(き)、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉ら公卿七人と共に長州へ下った。(七公卿落ち

井上馨と伊藤博文の留学

井上は、西洋に学び、海軍を創設することが必要だとし、日本は西洋には勝てないと思っていた。

高杉晋作とともに松下村塾の双璧とされた久世玄瑞は、井上や伊藤の洋行に反対した。

『密航留学生たちの明治維新』によると、

井上は「佐久間象山の言う如く、攘夷は決して実行できぬとすることについて半信半疑だったが、武備充実、海軍興隆は、私のもともとの考えであった」「私は攘夷をあきらめた」

一方伊藤は攘夷を捨てたわけでなかった。

文久3.4.18、1963.6.4、井上等は藩主の内命で洋行した。伊藤は途中で参画した。
5.12 ジャーディン・マセソン商会の船で横浜を出航した。
130 まとめ 井上・伊藤らが英国で、長州藩が外国船と戦闘を開始するらしいと新聞で知ったのは、偶然ではなく、イギリスのジャーディン・マセソン商会のヒュー・エム・マジソンの情報提供による。したがってアーネスト・サトウが「偶然」伊藤を見かけたというのは事実に反し、必然の出来事だった。井上・伊藤らは駐日英公使に面会を求め、イギリスの軍艦で長州へ向かった。

 井上ら留学生総勢5人の渡航費は、横浜の大黒屋六兵衛がもった。彼等はイギリスの下宿先が、化学の大学教授だったので、化学を学んだ。
『維新風雲回想録』によると、伊藤は、イギリスに来てからイギリスの文物が開けていることを知り、攘夷を断念した。
井上馨侯伝記編纂会『世外井上公伝』によると、井上は、当初海軍を興隆し、真の攘夷を実行しようと欲していたのだが、上海に来て攘夷を捨てた。
131 『伊藤博文伝』によると、ヒュー・エム・マジソンが、1964.1、日本の事情(長州藩による外国船への砲撃)を話した。
『伊藤博文伝』の中の「ヒュー・エム・マジソン回想録抜粋」によると、「彼等はオールコック公使との会談を手配するように私に要望した」
132 オールコックは、文久2.2、1862.3、一時帰国し、元治元年2月、1864.3、帰任した。
133 このころ、幕府による(外国公使への)攘夷(宣告)期日の実行と、長州藩による度重なる外国船への砲撃がなされた。
134 伊藤と井上は帰国してからオールコックに会い、彼の覚書を持って英軍艦で長州に向かったが、
135 藩主は理解を示したが、山県有朋らはいきり立って、伊藤を「殺すぞ」と脅した。結局、書簡は直接提示されなかった。
136 「井上公が懇請した君前会議開催のことは、敬親(たかちか、1819--1871)父子が直ちに採納し、6月27日開会の命があった。当日敬親は定弘と共に臨席し、…」井上公が説明すると、宍戸備前が藩是に反対する理由を推問した。藩是は「たとえ幾百艘の軍艦が来襲しても、藩一致死力を尽くして防戦する」だった。
公はいくつか出された反論を弁駁した。『世外井上公伝』

137 まとめ 長州藩主は井上・伊藤の考えを理解したが、山県有朋をはじめとする藩士全体が、攘夷熱に浮かされ、玉砕に突き進んだ。しかし敗戦後は打って変わって外国勢に従順なのだ。これは負けると分かっている太平洋戦争に突き進み、戦後は米軍に従順な、戦前戦後を通じて日本を代表した保守派日本人が取った行動とそっくりだ。

 井上・伊藤は、「外夷の間諜」「売国の姦臣」「彼等二人を斬って攘夷の血祭りと為すべき」などと言われ、身の危険を感じた。
君前会議の後、藩主は毛利登人*を二人の泊まる宿屋に遣わした。
毛利登人曰く
「特に君側(天皇側)の人々は、もし藩主及び世子にして、彼の二人の議論を採用するにおいては、一同お暇を請う外はない」「縦令焦土になることがあっても、勅命を奉じ、人心の向かふ所に従って一意攘夷を遂行したい決意」である。
*毛利登人1821—1865長州藩士
138 藩主は「藩主下し」を恐れた。
このような玉砕論法が通ったのは、鳥羽・伏見の戦いでも同様だった。将軍徳川慶喜は、「戦っても必勝期しがたく、徒に朝敵の汚名を蒙るのみなれば、戦いを挑むことなかれ」としたが、板倉勝静、永井尚志等は「公もしあくまでもその請を許し給わずば、畏(かしこ)けれども公を刺し奉りても脱走しかねまじき勢いなり」と言っている。(『昔夢会筆記』)
140 感想 アメリカは南北戦争中1861—1865.4にも関われず、長州藩への四国連合艦隊に一艘を派遣しているが、主力はイギリスである。
141 9.13、8.13、英国側キューパー提督と藩主名代の家老宍戸備前毛利出雲(毛利登人)等の代表団とが合意した。伊藤博文も参加した。藩主は蟄居していた。
 アーネスト・サトウ「大君の家臣は弱く、嫌悪感がする」「私は大名の党派に同情を寄せつつある」「大君の政府は、我々を大名たちから引き離そうと躍起になっている」
「我々にとって最も手ごわかった薩長二藩を確固たる味方に改変できた」「薩摩人にせよ、長州人にせよ、我々の行為に対して何ら恨みを抱く様子もなく…」

1866.3、慶応2.1、アーネスト・サトウは『英国策論』を発表した。
・将軍は主権者ではなく、諸侯連合の首席に過ぎない。
・現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。

143 伊藤・井上は、サトウに、直接天皇と条約結ぶために、天皇の大臣たちと会見することを進言したが、サトウは、1864.8、元治元年7の段階では、時期尚早とした。「将軍の権威は弱まってはいたが、大多数の大名は将軍を認めてこれに服従していた」
そして長州藩士は京都に進撃し、会津・薩摩両藩の大君軍の防戦に会い、惨敗した。(第一次長州征伐1864.8.24—1865.1.24)(第二次長州征伐は、1866.7.18—10.8

感想 アーネスト・サトウは第二次長州征伐1866.7.18—10.8以前に『英国策論』を発表1866.3している。状況が倒幕側に有利に展開してきているとはいえ、かなり早まった行動ではなかったか。
サトウは最初から倒幕支持ではなかった。幕府が弱くなったから強いほうにつく、という合理的で当たり前の行動だった。

感想 オールコックの長州攻撃は、イギリスの外務大臣ジョン・ラッセル卿の命令違反だと言うが、「取りやめる」という緊急の連絡と思われ、当初は攻撃を予定していたのではないか。英軍艦の武器充実、オールコックの権限拡大など、これまでの記述から想像したまでのことだが。

1863.7.26、元治元年6.23付け本国からの急信、「日本内地において断じて軍事行動をとることを許さず」

オールコックは10月、解任され、本国へ召還された。「瀬戸内海の通行は外国人の通商に必須な条件ではない」と書いてあった。

要旨 長州藩の尊皇攘夷強硬派は、蛤御門事件第一次長州征伐で、主流派から転落し、高杉晋作は地下に隠れるが、高杉は長州藩でクーデターを起こし、強硬派を復権させる。
また、著者157によると、西郷隆盛は、征長総督・前々尾張藩主の徳川慶勝152の尊王攘夷強硬論に配慮して、長州との前面戦争を避け、長州藩首脳部の粛清だけでけりをつけた。西郷は蛤御門の変で大活躍し、征長軍のボス(参謀格)に抜擢されていた。152

147 井上馨(志道、しじ)は、キューパー提督に京都情勢を説明した。

 「長州藩は天皇と大君との両方から攘夷の命令を受けそれに従ったが、罵言を受けたに過ぎず、藩主は京都に上ることを差し止められた。京都に釈明を求めて大挙して向かったが、そのとき武装したのは、会津藩が以前に二度、京都にいた長州藩士を皆殺しにしたことがあったからだ。藩主は三人の家老をして彼等を呼び戻さしめたが、彼等は承知しなかった。長州の京都在住の留守居役が、京都の長官の帰国命令を拒絶し、戦闘が始まった。(蛤御門の変
バロサ号が外国の代表の手紙を持って姫島に行ったとき、藩主は世子を上京させて天皇と連絡を取らせようとしたが、事態が紛糾してできなかった」「天皇に反逆する意図はなかった」

149 1864.7.8、元治元年6.5、池田屋事件 年表参照

150 文久3.3.4、将軍家茂は上洛し、3.7、孝明天皇に攘夷を約束した。
1863.4.28、3.11、孝明天皇攘夷祈願、家茂同伴。
家茂は京都に留まっていた。幕府は、京都所司代と京都町奉行だけでは危ないと判断し、浪士組を結成した。浪士組は、当初壬生浪士組と呼ばれたが、八月十八日の政変*で評価され、新撰組という名称がつけられた。*1863.9.30、文久3.8.188月18日の政変(文久の政変、禁門の政変)
新撰組は、尊王攘夷派が「中川宮を幽閉し、一橋慶喜・松平容保*らを暗殺する」のではないかと恐れた。*一会桑(後述)の三羽烏のうちの二人。中川宮は皇族。九邇(に)宮朝彦親王。

 『木戸孝允文書』によると、
「1864.7.8、元治元年6.5、会桑*及び新撰組が長州人を捕縛し、撃殺せり」(池田屋事件

*会桑とは一会桑政権のことらしい。一会桑政権とは、徳川慶喜、松平容保、松平定敬によって構成された体制。それぞれの役職は、順に、禁裏御守衛総督、京都守護職、京都所司代である。ウイキペディア

「孝允も池田屋で会う約束があり、出かけたが、同志が来ていなかったので一旦戻った。…新撰組が襲い、宮部鼎蔵、吉田稔麿ら十余名が斃れた」「天王山に兵を出す、ここに基づく」(つまり自滅作戦は、池田屋事件が原因だと言うこと)

鳥羽伏見の戦いにおける幕府側の自滅作戦もこれと同様である。そのとき西郷隆盛は、江戸で騒乱を起こし、幕府側の怒りを誘発させ、戦闘準備の整った火の中に幕府側を誘い込んだ。

151 八月十八日の政変に対して、長州藩の一部は武力に訴えようとした。来島又兵衛、真木和泉(保臣)などだ。
一方当時の慎重派は、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞らだ。
池田屋事件で殺された人の中に、松下村塾の三人の秀才のうちの一人、吉田稔麿がいた。それを受けて、福原元僴(かん)、益田親施、国司親相の三家老等は挙兵するが敗退した。
元治元年7.19、1864.8.20、蛤御門で、長州藩兵と会津・桑名藩兵とが衝突し、これに薩摩藩兵(西郷隆盛)が駆けつけ、会津藩を応援し、長州藩は敗退し、長州藩は「朝敵」と看做された。
152 久坂玄瑞、寺島忠三郎は、朝廷への嘆願書を持って、鷹司邸で自害した。
元治元年7.24、1864.8.25、朝廷は幕府に長州追討(第一次長州征伐)の勅命を発する。
松平大膳太夫(毛利敬親)儀、陪臣福原越後を以て嘆願に託し、その実、強訴…自ら兵端を開き、禁闕(けつ)*に対して発砲し、…防長に押し寄せ、追討これあるべきこと」*皇居の門。禁門。

元治元年八月、前々尾張藩主徳川慶勝が征長総督になった。
153 征長軍参謀西郷隆盛である。西郷は禁門の変=蛤御門の変で長州軍を撃退し、発言力を強めた。

10.22、軍議で11月28日攻撃開始を決定した。
10.24、西郷は、徳川慶勝に、「戦わずして勝てれば何より」と述べる。西郷は軍の全権を委任され参謀格になった。
11.2、岩国領の領主吉川経幹が仲介案を提示した。禁門の変で上京した三家老、国司、益田、福原*の切腹と、四参議、宍戸真澂(ちょう)、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛の斬首、それに、攻撃は止めるというものである。*福原元僴(かん)、益田親施、国司親相の三家老151
11.4、西郷は岩国に入り、吉田経幹と会談し、吉田は長州藩にその案を催促した。
11.11・12、1864.12.9・10、切腹実施。11.12、四参議の斬首を実施。
木戸孝允と高杉晋作は地下に逃れた。木戸は但馬出石に、高杉は10月、筑前158(福岡)の平尾山荘の野村望東尼に匿(かくま)われた。
154 第一次長州征討後、長州藩では「俗論派」が勢力を強め、高杉晋作、井上馨などの「正義派」は地下に隠れた。正義派の周布政之助は自刃した。158

第一次長州征討前の、元治元年9.25、長州藩で大評定が開催され、井上は「断固武力で対抗すべし」とし、藩主はこの意見を採用した
155 井上はその晩襲撃された。(『伊藤博文公伝』)158

西郷はもともと不戦論者ではなかった。
元治元年9.7、1864.10.7、西郷隆盛は対長州藩早期開戦を唱え、尾張藩を非難していた。
西郷「もし降伏を請うならば、僅かに領地を与え、東国へ国替迄は仰せ付けられなくては、先々宜しくないだろう」

このような西郷の急変の原因を勝海舟との関係に求めるのは、野口武彦『長州戦争』である。
元治元年9.11、1864.10.10、勝海舟は、征長総督府付参謀の西郷に会った。
5.14、勝海舟は軍艦奉行に任じられ、安房守と名のった。

157 著者は徳川慶勝との関係を重視する。徳川慶勝は、日米修好通商条約調印に反対し、江戸城に不時登城したことがある。

徳川慶喜は『昔夢会筆記』で次のように語る。
「西郷が軍を還したのは、長州藩内における急進派の復権があったのだろう。板倉伊賀守*によると、吉之助(西郷)は、一刻も早く兵を引き上げるべきだ、と言っていたとのこと」
*板倉伊賀守1823—1889、幕府の老中。板倉勝静(かつきよ)のことらしい。
「尾州(尾張藩の徳川慶勝)と西郷との間には内約ありしならんと思わるるなり」
「(長州藩内で)過激派がもう起りかかっていて、それを(西郷が)見て、その実際に起らぬうちに軍を引き上げるというのは、そこにいろいろな事情があったものとみえて…」
158 元治元年9.25、井上は、長州藩の大評定の後、襲撃された。(『伊藤博文公伝』)155
 『世外井上公伝』によると、
家老の当職毛利伊勢は、京都暴動の首魁(しゅかい)益田、福原、国司は厳科にし処し、…」としたが、それに対して「公は駁論し、『武備恭順*の藩是を確定後、幕府に弁疏し、容れなければ、止むを得ず武士道を以て飽く迄幕軍と抗戦する』とした。家老の毛利能登は、下関での攘夷と禁門の発砲は思慮浅薄とし、(家老の当職毛利伊勢の言に賛成した」「(藩主毛利)敬親は、武備恭順を藩是とした」「私浅吉*が、井上公にお供しての帰途、刺客が公を襲い、刀刃が公の背に刺さり、後頭部や、右頬から唇にかけて斬りつけたが、公は何とか身を隠した。刺客は公を見失い、立ち去った」(『世外井上公伝』)
*武備恭順とは、他国と仲良く振る舞い、表向きは従う態度を取りつつ、内心では戦うことも想定して備えること。
*浅吉とは、
160 筆者曰く、「論で負ければ刀で処理するというやり方は、幕末・明治以降の長州出身の政治家の特徴である」それが、高杉晋作、伊藤博文のやり方だった。
 高杉晋作は正義派の家老が処刑されると下関に戻り、同志の反対を押し切って、元治元年12.15、挙兵し、それに伊藤博文力士隊石川小五郎遊撃隊が加わった。
元治元年12.16、藩の拠点新地会所を攻め、軍艦二艘を奪った
12.19、奇兵、八幡、南薗、膺懲隊が整った。
それに対して、藩政府は毛利登人、前田孫右衛門を処刑した。
(反乱軍は)元治2.1.2、1865.1.28、伊崎会所を占拠した。
幽居中の井上を救出し、隊総監にすえた。
藩は和睦を申し入れ、高杉晋作の罪を赦した
161 元治2.1.21、藩は追討兵を引揚させ、「一和を保つ」ことにした。

正義派に属する人たちは、吉田松陰、木戸孝允、井上馨、久坂玄瑞、高杉晋作、村田蔵六(大村益次郎)、伊藤博文である。
元治2.3、正義派は俗論派の首魁椋梨藤太を排斥し、藩の実権を握った。
ここから薩長連合倒幕路線が生まれた。
ところが高杉、伊藤、井上は、下関開港を唱え、反発され、逃亡した。
高杉晋作はここで海外留学を考える。
元治2.3.20、1865.4.15、伊藤は、英国公使館員ハリソン高杉と長崎へ向かった。
162 伊藤はグラバーと面会し、洋行の支援を頼んだ。函館駐在英国領事ラウダーは、下関の開港を勧めた。
高杉は伊予の道後、井上は豊後の別府、伊藤は対馬に逃れた。
高杉は慶応3.4.14、1867.5.17、下関市桜山で肺結核のため死亡した。享年29歳、満27歳だった。

感想 下関開港や洋行という考えが、高杉、伊藤、井上らを動かしたようだが、その考えは一般藩士らには受け入れられなかったようだ。

第六章 薩長連合の形成と幕府崩壊の始まり

165 要旨 第一次長州征伐後、幕府は、自らの力量以上に長州をなきものにしようとし、結局十分な他藩の協力を得られず、将軍家茂(いえもち)の死をもって、それをいい口実として、敗色の濃い第二次長州征伐をやめた。

春畝(しゅんぽ)公追頌会『伊藤博文伝』によると、
「幕府は慶勝の処置を緩に失すとし、さらに周防一州を没収し、萩を吉川の所領に移し、長藩主及び三条以下五卿を江戸に召し出せとの命を下した。長藩がこれに従わなかったので、慶応元年5.16,1865.6.9、将軍家茂(いえもち)、江戸を発し、閏5.22、1865.7.14、京都に入り、参内した。
 幕府の底意は、長藩をして再起不能にまで屈服させることで、当時の幕府の老中阿部正外、同松前崇広、勘定奉行小栗忠順らは、長藩の後は薩藩に及び、他の雄藩も削少するつもりだったが、尾張、越前など雄藩も長州再討不可を唱え、薩藩までも長州再征を無名の師とし、幕府に警告し、朝廷にも建白した。
166 幕府は、慶応元年4.12、1865.5.6、長州再征を決定した。
徳川慶勝は先鋒総督に任じられた。
幕府は西国三十二藩に出兵を命じた。
長州藩に対して、禄を減額し、十万石にすると決定した。
毛利親子の禁固を命じた。
高杉晋作、木戸孝允を差し出すことを命じた。当時木戸は藩の実権を握っていた。
167 長州は鉄砲、大砲を準備した。イギリスのグラバーから間接的に入手した。169
討伐側は怯えて協力を断ったと徳川慶喜は『昔夢会筆記』の中で語っている。断った理由は「攻撃理由がない」だった。
 今回、西郷は参加しなかったが、後述のように、薩長同盟が土佐藩を仲介として進んでいたからだ。
 戦闘でも幕府側が負けた。彦根藩高田藩が壊滅、長州藩の大村益次郎は、藩主松平武聰浜田城を陥落させた。高杉晋作・山県有朋の長州藩が、小笠原長行の九州諸藩よりも優勢だった。
168 木戸孝允が、伊藤・井上に薩摩藩を介してグラバーから銃を買わせた。
慶応2.7.20、1866.8.29、家茂が大阪城で死亡。幕府はそれを口実に負け戦から脱出した。
アーネスト・サトウは、1867.11、慶応3.10頃、「秘密の回状が旗本の間で回った。それには『慶喜を攻めるには前将軍家茂の毒殺をもってし』と書いてあった」と述べている。
慶応2.8.11、小倉城が陥落し、慶喜は長州行きを取りやめた。
慶応2.8.21、1866.9.29、家茂の病死を理由に休戦の勅命が下った。
169 『伊藤博文伝』によると、木戸はグラバーに武器を売るように要請したが、グラバーは、幕府が売らないように通告してきているので、直接は無理だから、グラバーが所有する船上海へ行って、そこでの売買は可能だとした。
 また、土佐藩士の楠本文吉は坂本龍馬の使いで、「自分が薩摩藩と交渉し、薩摩藩名義で、長州藩が使用する兵器を買うことを薩摩藩が承諾した」と伝えた。
伊藤・井上は、慶応2.7.21、各々薩摩藩士の吉村荘蔵、山田新介として(偽名らしい)長崎に来て、薩摩藩の小松帯刀(たてわき)に名義貸しを依頼した。
慶応2.8.12・13、ミニエー銃とゲベール短筒などの兵器を、馬関(下関)に輸送した。
170 長崎・横浜での輸出入高と品目の相違について記述されている。

グラバーに関する参考文献
マイケル・ガーデナ『トマス・グラバーの生涯』
杉浦裕子『鳴門教育大学研究紀要』「幕末期における英仏の対日外交とトマス・グラバー」
『防長史談会雑誌第弐拾七号』(明治45.2)デ・ビー・グラバ「薩長英の関係」

175 第二次長州征討以前に薩長合意がなされていた。
第二次長州征討における幕府の方針「長州の次は薩摩」が、薩長を近づけることになった。
慶応2.1.21、1866.3.7、坂本龍馬の仲介で薩長が合意した。これより前に西郷は倒幕の意を固めた。175年表
176 幕府が「第一次長州征伐の処置がぬるかった」とすることは、西郷を批判することになる。
慶応元年10.11、西郷は箕田(藩主の窓口)に、「幕府の西欧諸国との交渉は不条理であり、幕府は朝廷を欺き、軍事力も弱く、何をしてもだめだ」と述べた。(下中弥三郎『維新を語る』)
177 感想 土佐の坂本龍馬が、薩長同盟に大きく関与した。それを後押ししたのが、アーネスト・サトウの『英国策論』であったが、この名称はサトウがつけたものではなく、日本人が勝手に「英国」を冠したものだ。
 そうは言うものの、客観的事実がなければ倒幕も動かなかっただろう。幕府の軍事的な弱体化である。
 著者はところどころで、我々読者に教訓めいたことを言う。「日本人は支配しやすい国民だ」それと忘れてしまったが、このあたりで何か言っていたように思うが、…後ほど思い出す。
178 1867.1.2、慶応2.11.27、アーネスト・サトウが鹿児島に到着した頃、新納刑部*がサトウに言うには、「今、木戸孝允が薩摩に来訪し、薩長間で和親の相談が進められ」ていて、サトウは、「今後薩長が大君に対決するだろうということがわかった」と述べている。*薩摩藩の家老
慶応元年(1865or66)12、薩摩藩士の黒田了介(清隆)は長州に出かけ、坂本龍馬とともに、木戸に対して、木戸自身が、京都にいる西郷に会うように説得し、それに対して木戸は、前回の5月、西郷がアポイントメントを破ったので気を悪くしてあまり乗り気はなかったが、藩公や、高杉晋作や井上に勧められて、上京を決意した。品川弥二郎ら三名が同行することになった。
慶応2.1.4、大阪着。
180 京都の薩(摩藩)邸で、小松*、桂*、大久保が木戸に面会した。*

*小松帯刀(たてわき)1835—1870、薩摩藩の重臣。通称は清廉。久光の側役。
*桂とは木戸のことではないのか?「木戸に面会した」は間違いで、「小松、桂、大久保らが面会した」か?
*西郷はこのときどこにいて、いつから現れたのか。

1.20、坂本龍馬が来訪し、協和の誓約をすることを勧めた。木戸は、薩摩を長州のような危地に誘うことを危惧し、「哀願したくはない」と言った。龍馬は西郷を詰(なじ)り、説得に努めた。
181 慶応2.1.21、1866.3.7、薩長が六条にわたる合意文書をまとめた。
第一条 長州が幕府に攻められたら、薩摩が京都・大阪に出兵して幕府に圧力を加える。
第二、三、四条 薩摩が長州の政治的復権のための朝廷工作を行う。
第五条 倒幕 兵士を上国させ、橋会桑*が、もったいなくも朝廷を擁し奉り、正義を抗(こば)み、(薩摩による、幕府・長州間の)周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無き事」
*京都にいる幕府側の三人体制、一会桑のことか。一会桑政権とは、徳川慶喜、松平容保、松平定敬150
 これに薩摩側は公的に合意していない。これは薩長両者が署名したものではない。182坂本龍馬が、木戸の、六条が書かれた手紙の裏にサインをして送り返したものが一応の文書である。龍馬は「小(桂小五郎つまり木戸孝允)西(西郷隆盛)両氏及び老兄龍(坂本龍馬)等も御同席にて談論せし所にて、毛も相違これ無き候、…坂本龍」と朱書し、二月五日付けで返信した。(宮内庁HP、書陵部所蔵資料「尺牘(とく)」(龍馬裏書))
以上は下中弥三郎『維新を語る』に基づく。余談だが、下中弥三郎は、1914年に平凡社を創設し、1930年ごろから国家社会主義の立場に立ち、1957年、日本書籍出版協会初代会長となった。179
182 アーネスト・サトウ『英国策論』によると、
・将軍は主権者ではない。将軍は僅かに日本の半国ほどだけを修めているのだから、「日本国主と唱えしこの名分は不正にして僭偽なく…」
・新たに、天皇及び連合諸大名と条約を結びなおし、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。「日本の君主たるように偽りし大君を廃すると言うとも、国家の転覆には到らざるなり」『英国策論』国立国会図書館蔵(このような東京の一局でしか情報を入手できないとは、知識の独占であり、秘匿である。どうして日本政府は、知識をもっと大衆化できないのか)
183 『英国策論』1866.3--5は当初無署名で無題だった。
184 サトウはジャパンタイムズ発行人のチャールズ・D・リッカビーと知り合いで、当初紀行文を投稿していたが、薩摩藩の船が横浜での交易を拒否されてから、政治的文章を書くようになった。条約では各将軍の外国との交易は自由だった。
1866.3.16、慶応2.1.30、第一回寄稿
1866.5.4、慶応2.3.20、第二回寄稿
1866.5.19、第三回寄稿
サトウは、対外発表を館内上司の許可を得ずに投稿したようだ。そして「天皇を元首とする諸大名の連合体が、大君に代わって支配的勢力になるべきだ」と主張した。サトウは、阿波侯(蜂須賀斉裕)の家臣沼田寅三郎を日本語教師とし、彼に手伝ってもらって日本語に翻訳し、訳文を沼田の藩主に提供した。
185 それが写本となって広まり、英人サトウの「英国策論」、つまり、イギリスの政策、という表題で印刷され、イギリス公使館の意見を代表するものとして日本国内で扱われた。
またこの時期の英国は、公武合体的な政権の発足を望んでいたようだ。

185 重要 倒幕・開国へ大きく関与したのは、岩倉具視だった。岩倉は、孝明天皇を排除した、新しい政治体制を考えた。ひょっとして孝明天皇を毒殺したのは、岩倉具視だったのかもしれない。孝明天皇曰く「私は、国家の大事とは全く関係がない。宮中廷臣の改革案などつまらない191

185 安政の条約で約束された江戸、大阪、兵庫、新潟などの開港に、孝明天皇は大反対だった。幕府とイギリスは密約束し、開港を遅らせた。倒幕の動きが強まった。

1858、安政5の修好通商条約は、横浜、長崎、函館の三港を開港し、両都(江戸・大阪)、両港(新潟・兵庫)の開市・開港を定めた。
1860.1、新潟を、1862.1、江戸を、1863.1、大阪・兵庫を開港することとされた。
186 1861.8.14、文久元年7.9、オールコック公使とジェームズ・ホープ提督、安藤信行老中(後に、坂下門外の変で襲撃された)、酒井忠眦(ます)若年寄が会談し、秘密に開港延期を決定したらしい。(オールコック『大君の都』)
 オールコックの支援で幕府の遣欧使節団が、文久元年12.22、1862.1.21、英艦で英国等に出航した。そして開市・開港を1863.1.1、文久2.11.12より五年遅らせる1868ロンドン覚書を締結した。
 オールコックの後任のパークスは、条約の天皇による勅許と、兵庫の早期開港を求め、慶応元年9.16、1865.11.4、三カ国連合艦隊(米は代理公使のみ派遣)を大阪に派遣し、圧力を強めた。
187 10.5、天皇が条約を勅許するが、兵庫開港は許可しなかった。
徳川慶喜の『昔夢会筆記』によると、
「孝明天皇は外国の事情に関して、外国人は禽獣だと信じ、そういうものと同居するのはいやだと言う。私が鷹司関白へ、外国船や大砲について説明しても、日本には大和魂があるから決して恐れることはないと関白はいう」
188 薩摩は、幕府が朝廷に条約の勅許と兵庫の開港を迫ったとして幕府に反発した。
189 野口武彦著『長州戦争』によると、第二次長州征討で、薩摩藩や広島藩は公然と出兵を断る上申書を提出している。
薩摩藩上申書「凶器は妄(みだ)りに動かすべからざるの大戒もこれあり、当節天下の耳目相開き候へば、無名(名義なしに)を以て兵機を作(な)すべからざるは、顕然明著なる訳に御座候」
 広島藩は「重ねて建白をなし、用いずんば出兵を辞することとなれり」『芸藩史』
190 第二次長州征討における戦闘の模様は『防長回天史』、『松菊木戸公伝』、野口武彦『長州戦争』、半藤一利『幕末史』などに記述があるが、半藤は、長州側が最新鋭の火器であるのに対して、幕府側は旧式の銃と刀と槍と弓ばかりだったとしている。
 家茂が死に、慶喜が喪に服したとき、岩倉具視はこれをチャンスと看做し、大原重徳、中御門経之らと計り、8.30、10.8、二十二人の宮中廷臣が、関白に、四か条の改革案を提出し、天皇への直訴を要望した。
天皇は二十二名と相会し、話を聞いた後、「話は分かった。しかしながら汝らの言うことは全て、国家の大事とは前々関係のない私にはつまらないことに思えるので、要求は全て斥ける」と追い出した。
 岩倉はこのとき決心した。これまでの朝幕体制、幕藩体制を完全に覆し、まったく新しい政治体制をつくろうと思いついた。
192 岩倉は、これまでの幕府との融和政策を投げ捨て、幕府を根底から滅ぼすために、大久保利通、西郷隆盛らと相談し、倒幕方針を固めたが、そのとき孝明天皇は外された。
 慶応2.12.25、1867.1.30、孝明天皇が崩御した。満35歳。この時代には、他にも、重要な人物が、重要な時に、突然、病死している。
 安政5.7.16、1858.8.24、薩摩藩の島津斉彬は、抗議のため藩兵5千名を率いて上洛するための練兵観覧中に発病し死亡した。
 慶応2.7.20、1866.8.29、家茂が大阪城で病死した。
193 『一外交官』によると、
 「噂によれば天皇は天然痘で死亡したとのことだったが、数年後に、『毒殺された』と某日本人が私に語った。家茂も一橋に殺されたという説が流れた」
194 アーネスト・サトウは、東久世通禧(みちとみ)や大原重実(しげみ)侍従と関係を持っていた。
 アルジャーノン・フリーマンは『英国外交官の見た幕末維新』の中で、「孝明天皇が生きていたら、その後の数ヶ月の出来事は全く異なっていたであろう」と書いている。
 1938、文部省「維新史料編纂事務局」が非売品として『英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録』を発行したが、「毒殺」の部分は「…」としている。

感想 重要 もし孝明天皇を岩倉具視が毒殺したとすれば、明治政府の正当性が根底から崩れることになる。戦前は毒殺説を口に出すことは憚られた。また、もし孝明天皇が生きていたら、徳川慶喜は天皇とともに政権を担うことができるほど、良い仲だった。これは徳川慶喜の自叙伝に基づいて推定されることだ。
毒殺説の根拠は、天皇担当の医師の日記で、砒素による毒殺の症状である。天然痘・疱瘡病死説もあるが、よく調べてみると、天皇の疱瘡は快方に向かっていて、快気祝いも計画されていたところを、急死となった。そして、天皇の侍女は、改革派・倒幕派の娘であり、また岩倉の実妹は宮中を退職していても、依然として宮中で厳然たる支配力を維持していた。
従来毒殺説を唱えていた佐々木克が、1990年に「あとがき」の中で、「自分が間違っていた」「原口清説(病死説)が正しい」と、謝罪したという。これも恐ろしい、何らかの力が働いたのではないかと疑われる。196

原口清(1922-2016)は、1944東京帝国大学文学部宗教学科入学、1948東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「幕末長州藩の藩政改革」ウイキペディア

194 天皇の主治医であった伊良子光順の日記の一部が公開され、光順の子孫の医師伊良子光孝が、この日記を見る限り、『急性毒物の中毒症状である』と断定した。(佐々木克『戊辰戦争』)
 岩倉具視は当時洛北に幽居中で、王政復古の実現を熱望し、孝明天皇が邪魔だった。孝明天皇は、京都守護職会津藩主松平容保を信認し、佐幕的朝廷体制を維持しようとしていた。
 岩倉は岩倉村に住み、行動が不自由で朝廷に近づけなかったが、大久保利通は、岩倉と固くラインを組んでいて、大久保は、大原重徳や中御門経之ら公卿の間に食い込んでいた。
石井孝も毒殺説で、その『幕末 悲運の人々』の中で、
「医師伊良子が、典医の一人であった曽祖父伊良子光順の記録によって検討した結果、天皇の死因は痘瘡ではなく、砒素系毒物による急性中毒であると結論を出された。
196 伊良子氏はこの毒物を石見銀山と推定している。石見銀山は亜硫酸のことであり、当時殺鼠剤として広く市販され、毒殺や自殺によく用いられた」
 ところが佐々木克『戊辰戦争』35版(2017年)で、佐々木は、1990年に書かれた「あとがき」で、「最近原口清氏は、暗殺説を否定し、天皇の死因は『紫斑性痘瘡と出血性膿疱性痘瘡の両者を含めた、出血性痘瘡で死亡した』と主張され、私も同意したい。本文の私のかつての記述は、誤りであったことをここでお断りし、あわせて読者の方々におわびもうしあげたい」とのこと。
 半藤一利『幕末史』によると、
197 慶応二年「十二月十二日から十四日にかけて天皇は高熱を発し、十五日に医師の診断で痘瘡の兆候がはっきりする。ところが二十一日、快方に向かっていると診断され、二十七日には全快を祝う祝宴を催すことが発表された。ところが、二十五日(1867.1.30)、突然死んでしまう。しかも発表されたのが二十九日で、空白の四日間についてはなんら史料がない。
 良子(ながこ)は天皇の面倒を見ていた典侍で、天皇に直訴した「改革派」中御門経之の娘である。
十月二十七日、改革案を迫った中御門経之と大原重徳は、「朝憲を憚らず不敬の至り」として、閉門を申し付けられた。
もう一人の典侍は高野房子で、これも怪しい。また岩倉具視の実妹である、元女官堀河紀子(もとこ)は、宮中では厳然たる女官の親玉である。
198 原口は、「孝明天皇と岩倉具視」という論文のなかで、「諸資料の分析から
・岩倉は慶応二年十二月(1867.1~2)の段階で、「倒(討)幕」の意思を持っていなかった
・孝明天皇の崩御は、岩倉の中央政界復帰に直接結びつかない」としているが、(明らかに嘘
半藤はこれに反論し、家茂死去後、二十二名の公家が「反幕府」で動いたのを、孝明天皇が叱責し、このころ反孝明天皇の意を傾けた、としている。
 将軍慶喜の『昔夢会日記』によると、
「孝明天皇 幕府を信頼し給いし事」が二箇所にあり、
「叡慮は、とても薩州へ兵権を任しても、長藩へ任しても、誰にもどうしても治まらない。どうあってもこれは前々の通り、徳川家に任せなければ、今他へ変えても治まらぬから、というようなお話を伺っているんだ」
199 以上は八月十八日のクーデターに関してである。そして、
 「孝明天皇が生きておられたら、慶喜も参加させた形での公武合体を追及した」と懸念する十分な根拠がある。

第七章 「倒幕」志向の英国と、幕府支援のフランスとの対立

201 フランスは将軍の軍隊のために、シャノワーヌ大尉が指揮する陸軍教官団を呼び、イギリスは、薩長などの大名のために、トレイシー大佐が率いる海軍教官団を呼んだ。フランスのロッシュ公使とイギリスのパークス公使とは対立関係にあった。(英外交官ミットフォード『英外交官の見た幕末維新』)
202 英国は日本に対する英国の援助を公式には語らなかったが、その理由は、もともと攘夷をスローガンにしていた明治維新政府の面子を保つためであった。そのことを、英外交官のミットフォードは『英外交官の見た幕末維新』の中で、「明らかな理由があって、今まで大して注意されていなかった」と述べている。
203 日本がインドや中国のように植民地にならなかったのは、日本の側の要因だけでなく、イギリスの外交政策の転換のためでもあった。イギリスは19世紀の初め頃から、植民地での治安維持費用が、植民地から吸い上げる利益よりも上回ることに気づき、自由貿易で利益を上げる方針に転換した。これを「小イギリス主義」といい、1890年に外相ローズベリーがはじめてこの言葉を使ったとされる。
 イギリスは1850年代までは植民地主義を取っていた。
204 石井孝『学説批判明治維新論』を参照されたい。
1863、文久3.3、ニール英代理公使は、生麦事件以来、幕府がイギリスの要求に応じられないのは、反対派による幕府の無力化であると看做し、仏公使のギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールと協議のうえ、幕府に対して海軍力の援助を提案したが、将軍側は、内心は欲している者もいたが、さらに国内の反対が強まることを恐れ、謝意を示しつつ、「今はその時期ではない」として断った。石井孝『明治維新の舞台裏』を参照されたい。
 当時英公使のオールコックは幕府の支持者だった。
206 この時期は、文久3.5.10の「攘夷を決行する日」など、日本国内で攘夷熱が高まった時期だった。アーネスト・サトウ「日本人は自分のことは自分で解決したのだ」
208 著者は、日本にとって最もありがたい選択となったことに貢献した人物として、パークス、アーネスト・サトウ、徳川慶喜を挙げる。
209 ロッシュは横須賀に兵器廠を設立し、徳川氏の軍事組織を近代化しようとし、軍隊を教練するためにフランス士官を周旋した。
北独の代理公使フォン・ブラント、伊公使ラ・ツール伯は、仏に追随し、一方、蘭の外交理事官は、英に倣い、米公使ファルケンブルグ将軍は、中立を保った。
矢田部厚彦『敗北の外交官 ロッシュ』によると、
元治元年8.5、1864.9.5、四国艦隊が下関を攻撃した直後、小栗田忠順は勘定奉行に復活し、幕府内で親仏派を形成し、横須賀製鉄所(造船所)を建設した。
210 ロッシュは、建設費に、生糸の輸出をあてることを提案した。
 ロッシュの援助は急激だったので、イギリスはフランスに抗議し、仏外務大臣のド・ムースティエはロッシュに警告し、英と協調させた。
211 フランスは、条約国との協調、日本の内政への不干渉の基本線を維持した。

第八章 統幕への道

感想 幼少の天皇の名を借りて、将軍慶喜殺戮命令書を、岩倉具視が、薩摩藩士や公家らと謀って作成し、それを薩長に送付したというが、その文面を見ると、恐ろしい限りだ。221

このころ、公武合体論と倒幕論とがあった。まず公武合体論は土佐藩の坂本龍馬や後藤象二郎が作成した。
船中八策」は、慶応3.6.9、1867.7.10、坂本龍馬が後藤象二郎に提案した案である。

・天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決す*べきこと。
・有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備え、官爵を賜い、宜しく従来有名無実の官を除くべきこと。

*この言葉の起源は、坂本龍馬であり、さらにその前は、アーネスト・サトーやミットフォードだった。

慶応3.10.3、1867.10.29、後藤象二郎が老中板倉勝静に建白書を提出した。
松平(山内)容堂大政奉還建白書を書いた。
「王政復古の業を建てざるべからざるの一大機会と存じ奉り候」
 そして、その付録の「大政奉還建白書別紙」は、

一 天下の大政を議定するの全権は朝廷にあり、及び我皇国の制度法制一切万機必ず京師(けいし、都)の議政所より出べし。
一 議政所上下を分かち、議事官は、上、公卿より、下、陪臣庶民に至るまで、正明純良の士を撰挙すべし。

慶応3.11月、坂本龍馬は「新政府綱領八策」を提示した。

第一義 天下有名の人材を招致し顧問に供う。
第二義 有材の諸侯を撰用し、朝廷の官爵を賜い、現今有名無実の官を除く。
第三義 外国の交際を議定す。(攘夷ではなく、開国を採用するということか。それとも単に外交関係を話し合いで決定するということか)
第四義 律令を撰し、新たに無窮の大典を定む。
第五義 上下議政所
さらに、これに付け加えて、「○○○自ら盟主となり、これを持って朝廷に奉り、始めて天下万民に公布云々」

 ○○○は、徳川慶喜、山内容堂、松平春嶽などが想定されたが、彼等は倒幕派ではない。

渋沢栄一『徳川慶喜公伝』によると、坂本龍馬の人事構想は、
「関白、議定、参議を定め、別に内大臣を置き、公(徳川慶喜)を以てこれ(内大臣)に擬したり(据え付けた)(由利公正手記)」由利は福井藩士。
215 渋沢栄一らが徳川慶喜に質問し、それに対して慶喜が答えたものを記録した『昔夢会筆記』によると、徳川慶喜は、
 「朝幕ともに有力者は下にありて上になければ、…百事公論に決せば可ならんとは思いしかど、…」
 「松平容堂の建白書のうちに、上院・下院の制を設くべしとあるを見て、これは良き考えなり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、…」
この慶喜の考えは、坂本龍馬の案とほぼ同じで、坂本案は、慶喜が大政を奉還を決意する契機になった。
 慶応3.10.14、1867.11.9、徳川慶喜は「政権を朝廷に帰し奉る」と明治天皇に奏上し、大政奉還を行ったが、それは、自らの政治関与を全て放棄することではなく、大いに関与を希望していた。
216 大政奉還上表文は「政権を朝廷に奉り帰し、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ…」とし、諸藩の連合政権を構想していた。つまり、天皇を形式的に頭部に置き、諸国連合が国政を決定し、慶喜の役割は、諸侯会議のリーダーから一大名までのバリエーションである。全国3000万石中で、徳川は400万石だから発言力は強いはずだ。
 大政奉還上表文の「広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ…」は、将来の政権の有り様を語っている。
アーネスト・サトウは「列藩会議で大君(慶喜)は、自派勢力の一致を目的とした。そこで大君は、大多数の票を得て元の職に復帰できるはずだ」
 渋沢栄一『徳川慶喜公』によると、慶喜は、大政奉還の前の、慶応3.10.12日、幕臣を集め、こう語った。
「今徳川家の武備は衰弱しているから、これまでのやり方に執着していたのでは、終には奪われてしまう。だから、今政権を朝廷に帰し奉り、政令を一途にし、徳川家のあらん限り、力の及ぶ限り、天下諸侯とともに、朝廷を助け奉り…」
 慶喜「朝廷の御指図を受けて国家のために尽くすつもりだった」
218 土佐藩の考えでは、新政府で慶喜が中心となることが想定されていた。
井野邊茂雄「山内容堂(土佐藩)は、議政府を想定し、議政府の議長を、御前(慶喜)にお願いして…」
これに対して慶喜は「それは山内容堂の考えだ。私は何でも朝廷の命を奉じてやるつもりだ」

慶応3.8.14、1867.9.11、長州藩の密使御堀耕助*と柏村(はくむら)数馬が、京都の小松帯刀(薩摩藩家老)の館で、西郷等と会談した。
*御楯隊の総督。高杉晋作に呼応して行動した。
219 西郷は、「主張を貫徹するためには、武力による倒幕しかない」と主張した。
西郷「(京都の)薩邸に居合わせの兵員千名はある。三分の一を以て、御所御守衛に繰り込む。正義の堂上方(公家)残らず参内。三分の一を以て、会津邸を急襲する。残る三分の一を以て、堀川辺幕兵屯所を焼く。別に国元(薩摩)より兵員三千差登す。これを以て浪花城*を抜き、軍艦を破碎(さい)する。江戸表にも定府(じょうふ)*その外取り合わせ千人位はおる。他に水藩(水戸藩)その他の浪士のもの所々に潜伏しおる。…期を定めて三都(京都・大阪・江戸)一時に事をあげる策略」
*1大阪城のことか。
*2定府とは、参勤交代を行わずに江戸に定住する将軍や藩主およびそれに仕える者の状態。
 これに対して長州側は、「ご決心のほど、誠に感服の他ない。時来たらば死力を致す考えにつき、この上とも御見捨てなく御協力のほど相願い申し上げる」(下中弥三郎『維新を語る』)
また坂本龍馬に関しては、「策を持ち出しても、幕府で採用はあるまいから、右を鹽(エン、しお)に幕と手切れの策をとる」と、龍馬が薩摩藩側に説明している、と西郷は長州側に述べた。
220 9.11、島津珍彦は千余人を従えて京都に乗り込んだ。また大久保利通は、長州に行き出兵の打ち合わせをした。

岩倉具視は薩摩藩士と謀議を重ねた。
10.4、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通は、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之に、倒幕の宣旨降下の執筆を依頼する趣意書を出した。
10.9、岩倉具視は、「断然と征夷将軍職を廃せられ、大政を朝廷に収復」することを求める奏聞書を書いて、中山忠能をして密奏させた。
そして以下の詔が、源久光(島津久光)、源忠義(島津忠義)、長州藩主宛てに発出された。

「詔、源慶喜は累世之威を籍(か)り、闔(こう)族(閉鎖的な一族)の強みを恃(たの)み、妄(みだ)りに忠良を賊害し、数(しばしば)、皇命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯(ため)して懼れず、万民を溝壑(かく、みぞ)に擠(せい、おしおとす)して顧ず、罪悪の至る所、将に神州傾覆せんとす。朕、今民の父母と為り、是(この)賊にして討ずば、何を以て上先帝之霊に謝し、下万民之深讐に報ん哉。是朕の憂憤する所、諒闇(りょうあん、天子が喪に服するへや)に在ても顧みざるは万已(い)を得ざる也。汝、宜しく、朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく、殺しつくす、殄(つきる))し、以て速やかに回天(時勢を一変する)の偉勲を奏し生霊を山嶽の安きに措くべし。此朕の願を敢えて或懈(わくかい、懈おこたる)するなかれ」
221 慶応3.11.13、藩主島津忠義は、三千の兵を率いて京都に向かった。(『維新を語る』)
11.15、坂本龍馬が暗殺された。

感想 以下に天皇制の本質を原初的な形で発見した。慶応3.12.9、1868.1.3、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らによるクーデター下で、十八時から、少年明治天皇臨席のもとに開かれた最初の三職会議で、将軍慶喜をこの会議に参加させるべきかどうかをめぐって、土佐藩と薩摩藩とが激論を展開した。土佐藩の山内容堂は次のように述べた。

「徳川内府(慶喜)は、祖先継承の覇業を自ら棄てて政権を奉還し以て国家の治安を永久に図らんとせるもの、その忠誠、誠に嘉(よみ)すべきものがある。然るを今、かくの如き陰険なる処置に出でらるるは、返ってその心を檄せしめ、国家の治安を害(そこな)う所以かとも存ずる。廟堂に事を行う人、幼冲(ちゅう)の天子を擁して、権柄を擅(ほしいまま)にせらるるが如きは、実に天下の乱階(乱の起る兆し)でござろうぞ」

それに対して、岩倉具視が言った。

「今日のこと、悉く宸断に出づるのである。幼冲の天子を擁して権柄を擅にするとは、聖上に対して不敬でござろうぞ。この席を何と心得をらるる。お控えなされ」228

222 1867.12.14、慶応3.11.19、吉井幸輔がアーネスト・サトウを訪れ、次のことを述べた。
薩摩、土佐、宇和島、長州、芸州の間に連合が成立し、主張を貫徹するために、事態をどんづまりまで押していく決心をしている。大君派の中には、長州藩を完全にやっつけるため、戦争の再開を強行すべきだという連中が多い。
1867.12.20、慶応3.11.25、サトウは伊藤博文に会う。伊藤は「戦争は回避しがたい。その目的は、あまりにも大きい徳川の領地を大君から取上げることだ」と述べた。
1867.12.24、慶応3.11.29、サトウは、薩摩藩の留守居・篠崎彦十郎(『一外交官』では弥太郎)から、「小松帯刀(たてわき)と西郷に、平和を維持するように説得してくれ」との手紙を受け取った。

223 篠崎彦十郎は、物頭格*をへて、江戸藩邸の留守居となった。慶応3年、西郷の命を受けた益満休之助らが、浪士を集めて幕府側を挑発した時、篠崎彦十郎は、江戸取締りの鶴岡藩兵を主力とする幕府軍に、江戸藩邸を砲撃され、慶応3.12.25、1868.1.19、戦死した。
*物頭(ものがしら)とは弓組・鉄砲組などの足軽の頭。

・幕府に対して武力行使を主張する人 西郷隆盛、伊藤博文
・公武合体を模索する人 後藤象二郎

ミットフォード「薩摩の藩主が、将軍職と閣老の制度を廃止し、それに代えて国務大臣と行政機関で構成された立憲政府に類似した政体を作ることを提案しているらしいが、それはサトウと私が、後藤象二郎に、彼の求めに応じて、与えた助言を反映している

224 慶応3.12.9、1868.1.3、天皇は王政復古を宣する。

王政復古は徳川家を政治に参画させないクーデターであった。
慶応3.12.8夕方から翌朝にかけて、摂政二条斉敬が主催した朝議で、次の事項を決定した。

・長州藩主毛利敬親・定弘父子の官位復旧と入京の許可
岩倉ら勅勘(勅命による勘当)の堂上公卿の蟄居赦免と還俗
・九州にある三条実美ら五卿の赦免

225 西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視がクーデターを起こした

慶応3.12.9、1868.1.3、朝議が終わり、公卿衆が退出した後、西郷隆盛指揮の下、五藩*の兵が御所の九門を封鎖し、摂政二条斉敬や朝彦親王ら親幕府的朝廷首脳の参内を禁止した
*薩摩、土佐、宇和島、長州、芸州

岩倉具視が参内して、「王政復古の大号令」を発し、新たに三職の人事を決定した。
その指導体制は、

総裁 有栖川宮熾(し)仁親王
議定 島津忠義、徳川慶勝(尾張藩)、浅野茂勲(芸州藩)、松平慶永(春嶽、越前藩、山内豊信(容堂、土佐藩)
参与 岩倉具視、大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、橋本実梁、尾張藩士3人、越前藩士3人、芸州藩士3人、土佐藩士3人(後藤象二郎等)、薩摩藩士3人(西郷隆盛、大久保利通、岩下方平)

慶応3.12.918時頃から、御所内の小御所で、明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた。
中山忠能が開会を宣言した。「徳川慶喜が大政を奉還したのだから、王政の基礎を肇(ちょう)設し、万世不抜の国是を建定し給わんとす。各階聖旨を奉体し、以て公議を尽くすべし」との勅旨を述べた。

 感想 どうして「公議」か。排除しておきながら。

226 山内容堂(豊信、土佐藩)が、「この会議に速やかに徳川内府(慶喜)を召して出席せしめ、朝議に参与せしむべし」と述べた。

『浅野長勲*自叙伝』1937によると、

*浅野長勲(ながこと、1842--1937)は、安芸広島新田藩士。

会議に参加せず警備に専念していた西郷吉之助(隆盛)は、会議の紛糾の様子を聞いたが、驚く気色もなく、次のように述べたという。「已むを得ざる時は之あるのみ」と、剣を示した。
岩倉具視はその言葉を聞いて「事を一呼吸の間に決せんのみ」と独白した。岩倉は、余を呼ばしめ、一室に誘って申した。『薩土の間、議大いに衝突す』岩倉は余に、「後藤象二郎を説得せよ」と依頼された。余は答えた。「余は卿(岩倉)の論を以て事理当然とするが故に、今、辻(将曹、維岳、安芸国出身の広島藩士1823--1894)に命じ、試みに後藤を風諭して、卿の論に従わしめんことを図っている」と。…豊信(山内容堂)は、心折れ、敢えて復た之を争わず、黙して語らず。ここにおいて王政復古の国是を議定し、無事に会議を終了した

下中弥三郎『維新を語る』によると、

西郷はこの朝議に態(わざ)と列せず、大久保に一切を譲り、…
慶喜をこの三職会議に参加させるべきかどうかで議論がまとまらないのを板倉が憂慮し、西郷の意見を聞いたとき、西郷は「今となっては口舌では埒が明かぬ。最後の手段を取っていただきたい」と述べた。
岩倉は短刀を懐にして、芸州侯浅野長勲(議定に指名された浅野茂勲(芸州藩)225か)の控え室に行き、「もし山内容堂侯が堅く執って動かぬならば、別室に召して喁刺(刺し違)えて死ぬる」と言った。
浅野大に驚き、辻将曹を呼んで、急ぎ後藤象二郎を説かしめる。後藤も聞いて黙ってはいられない。遂に山内容堂を宥めて帰邸せしめた。

天皇このとき15歳。彼に指導力はない。

『維新を語る』によると、山内容堂、岩倉具視は次のように発言した。以下は前述の感想を参照されたい。

感想(再掲) 以下に天皇制の本質を原初的な形で発見した。慶応3.12.9、1868.1.3、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らによるクーデター下で、十八時から、少年明治天皇臨席のもとに開かれた最初の三職会議で、将軍慶喜をこの会議に参加させるべきかどうかをめぐって、土佐藩と薩摩藩とが激論を展開した。土佐藩の山内容堂は次のように述べた。

「徳川内府(慶喜)は、祖先継承の覇業を自ら棄てて政権を奉還し以て国家の治安を永久に図らんとせるもの、その忠誠、誠に嘉(よみ)すべきものがある。然るを今、かくの如き陰険なる処置に出でらるるは、返ってその心を檄せしめ、国家の治安を害(そこな)う所以かとも存ずる。廟堂に事を行う人、幼冲(ちゅう)の天子を擁して、権柄を擅(ほしいまま)にせらるるが如きは、実に天下の乱階(乱の起る兆し)でござろうぞ」

それに対して、岩倉具視が言った。

「今日のこと、悉く宸断に出づるのである。幼冲の天子を擁して権柄を擅にするとは、聖上に対して不敬でござろうぞ。この席を何と心得をらるる。お控えなされ」228

感想 明治政府は明治三年、拷問を加えながら、坂本龍馬の暗殺者を、幕府や会津藩がつくった239京都見回組と断定し、薩長ではなかったことを確定したかったようだ。ウイキペディアでは、見回組が実行犯であるという説を定説231としている。
 土佐藩と幕府とは利害が一致し、大政奉還となった。それに対して、薩長は、武力による倒幕を考えていて、龍馬が邪魔だった。
後藤象二郎には坂本龍馬のような知力はなかったようだ。「後藤の命は弥縫(びぼう)によって免れた」(『昔夢会筆記』)

229 慶応3.11.15、1867.12.10、坂本龍馬(才谷梅太郎)と、陸援隊の中岡慎太郎は、京都川原町蛸薬師の醤油商近江屋新助宅の二階で殺された。土佐藩邸は道向かいにあった。
 二人は後藤象二郎の部下だった。
薩摩の吉井友実は、坂本の親友だったが、坂本龍馬殺害直後に現場に駆けつけた。
犯人は、定説では(ウイキペディア)佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、それに見張り役の今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎とされている。
230 慶応2.1.23、1866.3.9、龍馬は伏見の旅館寺田屋で、伏見奉行によって襲われたとき、妻となるお龍に助けられ、吉井が、負傷した龍馬を薩摩藩邸に運んだ。
土佐藩主の山内容堂は、大政奉還建白書および同別紙を、後藤象二郎署名のもとに、幕府に提出した。

230 ウイキペディアによると、

十津川郷士と名乗る男数人が来訪し、面会を求め、従僕の藤吉を斬り、二階に上がって、龍馬を斬った。

当初、新撰組が疑われた。

また、坂本龍馬ら土佐藩脱藩浪士によって結成された海援隊士は、紀州藩による、いろは丸事件*の報復を疑い、12.7、紀州藩の陸奥陽之助(宗光)らが、紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃し、三浦の護衛に当たっていた新撰組と斬りあった。(意味不明。いろは丸事件で報復するとしたら、むしろ土佐藩の方が紀州藩に報復してもいいのではないか。また、紀州藩の内部同士での闘いのように記述されているが、一体どういうことか。)
*いろは丸事件とは、慶応3.4.23、伊予国大洲藩所有の英国製の船「いろは丸」が、紀州藩の明光丸と衝突し沈没した事件。

慶応4.4、1868、新撰組局長の近藤勇は、下総国流山で出頭したが、土佐藩士の主張で、斬首にされた。

新撰組大石鍬次郎は、龍馬殺害の疑いで捕縛され、拷問の上、自らが龍馬を殺害したと自白したが、後に撤回した。

明治3、1870、函館戦争で降伏し捕虜になった、元見回組*1の今井信郎が、組(与)頭*2の佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂速之助、土肥伴蔵、桜井大三郎)による龍馬殺害を供述し、これが現在定説となっている。

*1見回組とは、京都見回組のことで、幕臣が結成した。
*2与頭とは、村の五人組の頭、あるいは、武士の組の頭。

また薩摩藩黒幕説、フリーメイソン陰謀説、紀州説、土佐説、攘夷派説まで色々ある。

宮内省編『修補殉難録稿』は、「刺客に関しては明確の証を得ず」としている。

232 磯田道史は、『週刊現代』2010.11.6の「龍馬暗殺143年目の真実」の中で、龍馬暗殺は「ミステリーとされている」としている。

その他の文献は、

菊地明『龍馬暗殺完結篇』、大浦章郎『徹底推理・龍馬暗殺の真相』、木村幸比呂『龍馬暗殺の謎』、新人物往来社編『龍馬の暗殺の謎を解く』など多数ある。

半藤一利『幕末史』によると、

下手人は見回組であることは確かだが、黒幕はいたはずだ。同志とも言うべき薩摩が黒幕ではないか。龍馬が邪魔だからだ。龍馬は、「武力倒幕はとんでもない、徳川家が大政奉還して一大名に下がったのだから、船中八策のように万機公論に決すべし、それぞれの藩から有能な議員を出し、皆で会議し、一致した意見で国家を運営していくべきである」としているから、権力を武力によって勝ち取ろうとする薩摩にとって、坂本龍馬は邪魔である。

井上勲が『王政復古』で語る説は、本質を理解していない。幕末時代専門の歴史学者とのことだが。

加来耕三『坂本龍馬の正体』2017の論理はすっきりしている。

234 加来によると、土佐藩の後藤象二郎は、龍馬と接触し、龍馬の「船中八策」説を採用し、前藩主の山内容堂を説き、慶喜に大政奉還を進言した。
それに対して武力倒幕を唱える薩摩藩は、薩土盟約を一方的に破棄し、明らかに偽物*の「倒幕の密勅」を下したが、同じ10.14、大政奉還を慶喜にやられ、敗北した。
*所定の手続を踏まず、摂政・二条斉敬(なりゆき)も知らなかった。

 証拠がある。肥後熊本藩『改訂 肥後藩國事史料』によると、「坂本を害し候も薩人なるべく候事」

 また海援隊士・佐々木多門の書簡には、「右の他、才谷(龍馬)殺害人姓名まで相分かり、これにつき、薩藩の処置等、程々愉快の義これあり」とある。

 小松帯刀、西郷隆盛、大久保一蔵らは、十分黒幕と疑われてよい

 薩摩藩はかつて亀山社中*に出資し、月給もやっていた。
*亀山社中とは、1865年、坂本らが長崎で結成した、浪士による貿易結社である。

薩長同盟を成立させたのは坂本だった。ところが龍馬は倒幕とは正反対の路線を提示した。
235 (薩摩藩にとって)後藤や福岡なら、何とでもなる。
龍馬が暗殺され、後藤は知恵袋を失った。小御所会議で、山内容堂が崩れ、慶喜の勇み足もあって、鳥羽・伏見に始まる戊辰戦争に突入した。

236 加来は見回組実行犯説を疑う。
237 それは論理的におかしいからだ。武力勢力(薩長と土佐強硬派)が龍馬を狙う可能性は高い。
見回組説には根拠がない。

見回組説の根拠は、見回組の今井信郎が兵部省に対して行った「兵部省口書」(明治3年2月)である。これは、『坂本龍馬関係文書第一』に載っている。
『坂本龍馬関係文書第二』には取り調べの背景が記述されている。

・新政府は坂本・中岡の刺客の発見に焦心した。
・新撰組は函館で降伏したが、この中の横倉甚五郎、相馬主殿は刺客でないことが判明した。
238 新撰組の大石鍬次郎は、「近藤勇とともに、坂本・中岡を暗殺した」と自白したが、後日取り消し、「勇(近藤)咄(はなす)には、坂本龍馬討ち取り候ものは、見回組今井信郎高橋某等少人数」と申し出た。
・今井信郎も函館降伏人の中にいて、彼の自白調書には「見回組の渡辺吉太郎らが二階に上がり、『龍馬は討ち留め』と言って下りてきた」と記載されている。
・これにて万事が解決し、首領見回組の佐々木忠三郎、下手人渡辺吉太郎、桂隼之助と記している。

菊地明『龍馬暗殺完結篇』によると、
新撰組は「自分たちがやった」とした件に関し、
「坂本龍馬を暗殺の儀、私どもの所業にはこれなく、これは見回組海野某、高橋某、今井信郎ほか一名にて暗殺致し候由、勇よりたしかに承知仕り候。薩藩加納伊豆太郎(道之助)に召し捕られ候節、私ども暗殺に及び候談、申し立て候へども、これは全くかの薩の拷問を逃れ候ためにて、実は前申し上げ候通りに御座候」(坂本龍馬関係文書)

 今井信郎に対しても拷問があったはずだ

今井は「見張り」で「殺害」ではないからか、明治5年、1872、特赦により釈放されている。
239 殺害に加わったとされる見回組の連中は、鳥羽・伏見の戦いで皆戦死しているから、今井の供述を裏づけるものはない

見回組は、元治元年、1864年、江戸幕府によって、京都守護職の会津藩主・松平容保の配下として、蒔田廣孝と松平康正を京都見回役に任命し、また両人は、配下に組を持ち、隊士を指揮した。
見回組は御所や二条城を管轄とし、新撰組は祇園や三条など町人街・歓楽街を管轄とした。従って坂本龍馬が殺された川原町の近江屋は、新撰組の管轄である。
 後藤は会津藩の重臣外島機兵衛、上田伝二に建白書の了解を求めている。

渋沢栄一『徳川慶喜公伝』によると、

 後藤に会った後、外島機兵衛は帰邸して、会津藩主・松平肥後守(容保)に語った。

「土藩の建議を根底より説破すべき確論あらば可なり。さもなくして、徒に異議を唱え、土藩の気勢を損ずることありては、第二の薩州を生ずまじきにあらず」

しかし「藩議では議論区々にして一決せざりき」とのことだったが、慶喜は結局建議に従った。

240 勝海舟『鶏肋』によれば、文久二年の記事で、

「井伊大老・安藤閣老遭難より、邦内の士大夫、大に激昂し、切歯扼腕、何れの侯伯を論ぜず、自ら脱藩浮浪となり、或いはその国の大夫を暗殺し、脱走潜伏する者、或いは慷慨また撃剣者流且浮浪の輩、時を得たりとし、京師(京都)並びに江戸に徘徊する者、その大数、四五千名に下らず、幕士もまたこの風を是とし、攘夷暗殺を試みんとなす輩五六百名」としている。

西郷隆盛は、この時期、江戸でこうした浪士を使い、江戸警備担当の庄内藩を挑発した。

 慶応3.11.20頃より、倒幕の兵が京都へ集結した。薩摩から3000人、長州から1200人、芸州から300人の藩兵が送られた。236

9.11、島津珍彦は1000余人を従えて京都へ向かった。
11.13、藩主島津忠義は、3000の兵を率いて海路京都に向かった。

見回組や新撰組は、これらの大軍にどう対処すべきかが、問題だったはずだ。

要旨 徳川(一橋)慶喜は、部下の好戦的な態度を斥け、戦いを避けた。ただし、鳥羽伏見の戦いだけは、部下に押されて、戦闘を許可したが、途中でひそかに退散してしまった。

 慶応3.10.14、1867.11.9、大政奉還。その後、会津藩士は慶喜に愛想をつかして辞表を出し、その代わりに薩摩、芸州、土佐藩が御所警護を担当した。そのことが幕府の正当性を損ねることになった。

1867.7.23、慶応3.6.22、後藤象二郎と坂本龍馬は、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通と会談し、公武合体で同意した。(こういう時期もあった)

1868.1.23、慶応3.12.29、石川利政(河内守、外国奉行)が、英公使を訪問し、薩摩藩の動向を伝えた。それによると、
1868.1.3、薩摩は大君の廃止と、天皇と大君との間に立つ関白、伝奏、議奏の三職の廃止を建議し、新政府は、総裁(国務大臣)、議定(内閣)、参与(次官)からなると伝えた。それは私(サトウ)どもが後藤に示唆したものと多少似ている。また石川は、「それは戦争によって解決される」と伝えた。
244 アーネスト・サトウと薩摩藩との連絡は、西郷の親友木場伝内と、黒田新飢右衛門とが行った。
黒田は私(サトウ)に「大名側は、二百万石の土地と位階一等返上せよとの要求に対する慶喜の回答を待っている」と伝えた。私は「戦う必要があると判断するなら、すぐにもそれをやるべきだ」と助言した。
 長州藩の遠藤謹助は「戦争は必ず起る」と私に言った。

 慶応4.1.3~6、1868.1.27~30、鳥羽、竹田、伏見、橋本で、幕府軍と薩摩・長州軍とが対峙した。アーネスト・サトウは、パークスとともに兵庫の開港に備えて大阪に来ていた。
4日、アーネスト・サトウとパークスは、永井玄蕃頭(若年寄)に会った。慶喜は、永井尚志と板倉伊賀守を信頼していた。
幕府の軍勢は一万人、それに対する薩長は六千人、それなのに幕府は敗れた。
1.8、2.1、アーネスト・サトウは天保山に行き、幕府の傷病者から、「津藩主藤堂高猷(たかゆき)は山崎で寝返り、総指揮官竹中は淀で敵に投じ、慶喜は逃亡した」と聞いた。
1.13、2.5、寺島と吉井友輔(友實、薩摩藩)が訪れ、「連戦連勝であった」と語った。
246 徳川慶喜『昔夢会筆記』によると、
「予、既に大阪城に入り、物情の鎮静に力めしも、上下の激昂は日々に甚だしき折から、(西郷の挑発で)江戸にて市中警衛の任を負える庄内の兵と、薩摩の兵と争端を開きしかば、大坂城中、上下の憤激は一層甚だしきに至れり」
慶喜は、自分をはずして王政復古が行われたが、これは西郷隆盛や岩倉具視らの強引な手口によるもので、大人しくしていれば、自分が朝廷に求められるだろう、と考えていた。
247 慶喜「江戸に帰って、在京の薩摩藩士吉井幸輔(友實)から在府(江戸)の同藩士益満休之助に宛てられた書簡を見たが、『慶喜は、大阪にありて案外謹慎なり。この分にてはあるいは議定に任ぜられんも計らられざれば、今しばらく鎮まりおるべし』との文意なりき」
 西郷は、この時点で戦いを起こせば、有利に展開すると考え、幕府の堪忍袋の緒が切れるように江戸で挑発した。
 「江戸の薩摩藩邸に集まれる浪人が、庄内兵の屯所に発砲するなど、ことさら幕威を陵犯するに力めしは、全く薩摩の使嗾(しそう)に出でたるを知るべし。されば江戸にてもこの上幕威を保つには、是非とも薩邸を討たざるを得ざる勢いとなりて、遂に干戈を交うるに至りしが如し」
 西郷は浪人を集め、江戸警備に当たる庄内藩を挑発した。
「大阪城中にては、上下爆発の勢ほとんど制し難く、老中以下大小目付に至るまで、ほとんど半狂乱の有様にて、もし予にして討薩を肯んせずば、如何なる事を仕出さんも知るべからず」
 慶喜は「孫子」の「彼を知り己を知り、百戦危うからず」を引用し、幕府に、西郷隆盛(吉之助、隆永)や大久保一蔵のような人物がいるかと伊賀守に問うた。伊賀守は「無し」と答え、それでは必勝期し難く、いたずらに朝敵の汚名を蒙るばかりだから、決して我より戦いを挑むことなかれ」と制したが、板倉・永井は、将士激動の状を説き、「公もしあくまでそのその請を許し給わずば、畏(かしこ)けれども公を刺し奉りても脱走しかねまじき勢いなり」と言う。慶喜は戦いの許可を与えた。
 
 下中弥三郎(芳岳)『維新を語る』によると、
 四日、征討大将軍仁和寺宮が御出陣となり、東寺の本営に錦の御旗が翻った。(これは西郷の根回しによる)
西郷は宮殿下を擁して自ら先頭に立ち、錦の御旗を高く掲げて押し進む。官軍一時に振るう。(幕軍の重要人物は大阪城にいた)
勝敗の局面が一変した。
淀の城主稲葉正邦が、西郷の使者の勧めに応じ、官軍に降り、山崎の橋本の藤堂采女四条隆平卿が勅使に立たれたため、既に官軍に味方していた。
 五日、大坂城中の慶喜にパークスからの書状が届き、その中でパークスは「政権を返上された以上は日本国の主権は今や朝廷に存する。その主権者に対して戦いを挑まるる如きは、我等その意を得るに苦しむ所である。大阪城にあってなお戦争を続けらるる覚悟か否か」とした。
250 大阪城内の人々は、もう一戦して敗辱を雪がねばと意気込んでいたが、慶喜は六日の夜、変装して苫舟にのり、会津・桑名の両公とともに、開陽丸で江戸に帰った。
 
 薩長軍には幕府軍の五分の一の兵員しかいなかったが勝利した。その勝利の理由は、
・優秀な武器 薩摩藩の大砲、先込め銃でなく、元込め銃(米の南北戦争が終わり、余った銃を買ったとのこと)(半藤一利『幕末史』)
一方、佐々木克は『戊辰戦争』で、幕軍には薩長に優るとも劣らない優良兵器があったとしている。
・戦術、正当性と士気、裏切りと裏切らせた西郷の手腕。
252 淀藩稲葉家は徳川恩顧譜代の藩で、稲葉正邦は当時幕府の老中だった。淀藩は幕府勢力の入城を拒否したが、逆に薩長軍の一部には城を開いた。(佐々木克『戊辰戦争』)
 ・指揮官の能力

アーネスト・サトウは、長州の学生遠藤*を京都にやって、諸大名に勧めて、外国の諸代表に対して、新政府の政策を宣言させようとした。サトウは、ミットフォードとともに、薩摩藩の友人たちに宣言書の下書きを与えていたし、土佐藩との間にもこの件で了解があった。(これはイギリスの、明治政府のシステム構築に対する介入があったことを示す)
 *遠藤勤助は1863年、井上馨、山尾庸三、伊藤博文、井上勝らとともにイギリスに留学した。
 2.5、慶応4.1.12、アーネスト・サトウは、寺島宗則*と吉井友実*に、天皇の使者が、外国代表へ告示を持参するように依頼した。
*寺島宗則は薩摩藩士。松木弘庵と称した。薩摩藩留学生を引率して渡英した。幕府・雄藩連合を提唱した。
*吉井友実(ともざね)は薩摩藩士。
2.7、1.14、天皇の使者東久世通禧*(ひがしくぜみちとみ)が、岩下、寺島宗則、伊藤博文を帯同して兵庫(の英船)に到着した。
*七卿落ちで長州に逃れていた公卿の一人。
2.8、1.15、東久世が通告を行った。その内容は、
 「日本の天皇は、各国の元首および臣民に次の通告をする。将軍徳川慶喜に対し、その請願によって政権返上の許可を与えた。今後我々は、国家内外のあらゆる事柄について、最高の権能を行使するであろう。従って天皇の称号が、従来条約の締結の際に使用された大君の称号に取って代わることになる
 (これで対外的に国家主権者が変更したことが公言され、諸外国は、今後天皇を相手にすることになった)
254 鳥羽・伏見の戦いの後、フランスは幕府に軍事援助を提案するが、慶喜は断った。
『昔夢今筆記』によると、

仏国ロセスが登城し、「一臂(いっぴ)の力を仮しまいらすべければ…」と武力抗争を勧告した。予は「日本の国体では、天子に向かいて弓ひくことあるべからず。予は死すとも、天子には反抗せず」と断言した。(本心か?)

255 渋沢栄一は明治の経済人で、豪農出身、江戸で剣術を学び、倒幕に参加。京都で江戸進学時代の知己一橋家家臣平岡円四郎の推挙で、一橋慶喜に仕えた。

渋沢栄一は語る。
「幕府が倒幕側と戦争をすれば、日本は大乱に陥り、国家の実力を損ねる。愚と言われようが、怯と嘲られようが、恭順謹慎をもって一貫するより他はない。天子を戴いている以上は、薩長の無理を通させるのが臣子の分である、と御覚悟をなされたのだということを、私が理解したのは、明治二十年以降のことであった」(『昔夢今筆記』の渋沢栄一の自序)

感想 本当かいな。これは明治時代ならではの発言なのだろう。内乱になれば国力を損ねるという配慮は理解できるが、それが天皇のため、天皇の臣下である自分の勤めだ、とするのは、あまりにも卑屈過ぎないか。

第九章 江戸城無血開城

256 感想 日本人歴史家の中には、英国が日本の歴史に与えた影響力を認めたくない人もいるようだ。しかし、当時の日本人は、英国をはじめとする諸外国の実力を認めざるを得なかった。それは薩英戦争、馬関戦争が彼等に教えた教訓だ。また海外渡航経験のある者なら、西洋の科学技術の進展ぶりは、すぐ分かることだ。
 パークスが江戸城無血開城に大きく関与していた。それを認めたくない日本人歴史家もいるだろう。パークスは、降伏して恭順な人を殺すことなど、許されないことだと考えていたようだ。一方西郷隆盛は「慶喜に少なくとも切腹させる、勝海舟の首を引っこ抜く」などと手下の武将たちに同意を求めた。幕末に死んだ人は2480余人*とのこと。当時は人の命よりも「大義」や身分制度の方が優先されていた。一方生麦事件でイギリスは執拗にそれらを口実とした日本人の人命軽視を責めた。
 *この人数の中に、会津や函館での幕府側の死者数は入っているのだろうか。「勤王志士」277とあるから入っていないのかもしれない。
 だから、勝海舟・西郷隆盛会談が、江戸城無血開城をもたらした、勝海舟や西郷隆盛は偉い人だ、という説は、半分誤りである。勝海舟は武力反抗を考えていたが、慶喜に止められていたし、西郷隆盛はパークスの拒絶で方針を変更していた。そう考えると、明治六年、西郷隆盛が韓国へ平和的外交を求めて交渉に出向きたかったのだと主張した『明治六年政変』の著者毛利敏彦は、西郷を買いかぶりすぎているのではないか、とふと思いたくなった。20181231()

感想 歴史は誰かが書くものだ、その時代の政権にとって都合の良いように書くものだ。
このことは江戸城無血開城における西郷隆盛の「太っ腹」な発言を美化する書き振りについても言える。西郷は勝海舟(安房)に言った。「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」というものであり、また、「江戸は惨禍から救われた」という宣伝だ。
ところが、その西郷は、二三日前には「勝海舟はもちろんのこと、慶喜の首も引き抜こうじゃないか」と部下を扇動していたのだ。何があったのかを歴史家は敢えて伏せているのだ。著者がそれを本書で明らかにした功績は大きい。

256 慶応4.3.15、1868.4.7、東征軍の実質的指揮官西郷隆盛はこの日を江戸城総攻撃の日に予定していた。

3.13、4.5、第一回勝・西郷会談
3.14、第二回会談。西郷は進撃を一時停止した。

4.11、1868.5.3、官軍が江戸城を接収した。

257 『氷川清話』は、明治30年、吉本襄が勝海舟の口述をまとめたものだが、『勝海舟全集』(講談社)は、『氷川清話』の一部不正確なところを修正した。それによると、勝は次のように語った。

 私は西郷に宛てて「田町の薩摩別邸で談判したい」と手紙を書いた。官軍から早速承知したと返事があり、芝、田町の薩摩屋敷で西郷と会談した。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。
 当時、品川からは西郷が、板橋からは伊地知が進軍していた。
 会談当日、私は従者を一人連れて、馬で出かけた。西郷は、古洋服に薩摩風の引つ切り下駄を履いて、忠僕・熊次郎を従えて、「これは実に遅刻しまして失礼」と挨拶した。
258 西郷は私の話を信用してくれた。「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れた。西郷は、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があの通り所々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるのかなどとは言わなかった。西郷は大局を達観していた。

 英国公使パークスが、東征軍先鋒参謀木梨精一郎と会談したが、そのことが無血開城に大いに関与している。そのことを渡辺清・談『江戸、攻撃中止の真相』が明らかにしている。渡辺は、倒幕側の人である。渡辺証言を信用できる理由がある。

・渡辺清はパークスとの会談に直接立ち会った。
・渡辺清は大村藩士であり、東征軍の中核にいた。
大村藩では幕末、佐幕派と倒幕派との抗争が起り、佐幕派を大粛清(大村騒動)し、大村藩は倒幕派の急先鋒となった。
・明治21年、宮内庁が、島津、毛利、山内、徳川(水戸)の四家に対して、「幕末、国事に奔走し尽力したる一切を詳細に調査せよ」と命じ、その調査のために明治22年、「史談会」が形成され、直接歴史に関わった人に聞き取りを実施した。「江戸、攻撃中止の真相」はその一つで、渡辺清の証言である。(『幕末動乱の記録:「史談会」速記録』)

260 
・明治初年正月中旬過、桑名城を、大村藩が、先鋒として取った。
・大村藩が駿府に到着すると、俄かに西郷が、各藩の隊長を集合させた。

西郷曰く、「勝麟太郎の手紙を見てくれ」そして、その勝の手紙の内容は、

もし徳川家において朝命を拒むというならば、如何様ともその所作は有るべし。(しかし)幕府側は朝廷に対して恭順の実を挙げておる。(そして)天下の形勢は目に着いてあるだろう。然るに、今日手を束ねて拝しておる者に、兵を以て加えるというは如何。兎も角も、征討の兵は、箱根以西に留めてくれなければならぬ。如何の乱暴者が沸騰するかも知れず。官兵箱根を越したならば、到底我々恭順の実を挙げることはできないによって、是非箱根の西に兵を置いて戴きたい。

西郷が、顔色火の如くになって申すに、

実に首を引き抜きても足らぬは、かの勝である。勝安房は申すまでもなく、慶喜の首を引き抜かねば置かれんじゃないか。況や箱根を前にして滞陣するは、最も不可である。諸君如何であるか。

各藩隊長「如何にもその通り」

・西郷の命令で、3月13日には、諸藩の兵は、江戸に着するようにし、翌14日に江戸城を攻撃するとあった。
・12日、藤沢駅に着いた。木梨精一郎が、大総督(東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王)の命でやって来て言った。その命令は、
負傷者の手当のために、横浜に行って、英のパークスの世話で、横浜に病院を造りたい。英管轄の病院があればそれを流用してもらいたい、との命であった。
清左衛門(清)も横浜へ同道せよ。

木梨がパークスに曰く、「今度かようの次第で、大総督より貴君(パークス)への依頼として、病院を世話してくれ」と申した。
パークスは変な顔つきをして、「これは意外なことを承る。我々の聞くところによると、徳川慶喜は恭順ということである。その恭順しているものに、戦争を仕掛けるとは如何」
木梨曰く、「それは貴君の関するところではない。吾々はどこまでも戦え、という命を受けてきた。兎も角用意してくれ」
パークス、「そんなことは出来ませぬ。いずれの国でも、恭順すなわち降参というものに向かって戦争せねばならぬということは無い筈」
木梨、「療治するだけはしてくれぬか」
パークスは、ひょいと立って内に入って戸を締めて出てこない。

木梨とともに退出し、露店で、木梨、「これはどうもいけない。彼の言うところは道理であるから、明日の江戸城討ち入りということは出来ぬ。早く各国領事に大総督より命令せねばならぬ。清は、急飛にて品川に行き、このことを西郷に告ぐべし」

木梨と横浜で別れて、品川に着いたのは、の、午後二時頃であった。すぐ西郷のところへ行き、説明すると、西郷も、「成る程悪かった」とし、パークスの談話を聞いて愕然としたが、西郷曰く、「それはかえって幸いであった」西郷の顔色は、さまで憂えておらぬようだった。

その後の話だが、(渡辺)清が、密に上記のことを西郷に言った時、西郷は、「自分も困却している。かの勝安房が自分に急に会いたいと言いこんでおる。明日の戦争を止めてくれと言うじゃろう。そこで君の話を聞かせると、全く我が手許に害があるから、このパークスの話は勝には秘密にしておいて、明日の討ち入りは止めなければならぬ。止めたほうがよろしかろう」「最早既に勝が来ておるから、君も一緒に行ったらどうかい」

清「お供しましょう」

そのとき西郷と一緒に出たのは、村田新八、中村半次郎と私だった。

勝安房曰く、「慶喜は恭順に服している。明日江戸城攻撃ということであるが、兎に角その見合わせを願うために参った」…「明日兵を動かして江戸城を攻撃するならば、何等の変動を引き起こし、慶喜の精神も水泡に属するのみならず、江戸は勿論天下の大騒乱となることは目前である」
西郷曰く、「しからば宜しい。先鋒隊の挙動は、拙者が関することであるから、攻撃だけは止めよう」

・勝が引き取った後、(東山道先鋒総督府参謀266の)板垣退助は中山道の兵を率いていたが、退助のほうに人を回した。

退助、「何を以て明日の攻撃を止めたか。勝が罷り出ることは密かに聞いたが、彼が言うたとて、止めるというはどういうことであるか」

西郷曰く、「先ず待て。ここに一つ吾に欠点がある。それはこの席にある渡辺が横浜に参り、かようかようである。どうもこれに対してはしかたがない」
板垣、「成る程仕方がない。それでは明日の攻撃は止めましょう。実は明日やらなければならんと思うて参った」板垣は帰った。

・西郷の気持ちは恐らくこうだろう。
西郷も、慶喜は恭順だから、まったくそう来ようとは従前から会得しておる。(嘘つき!)しかるに兵を鈍らしてはならぬ。また天下の大体のことに大いに関係する。(イギリス)勝は、慶喜が想像以上に恭順だったことを持ってきた。官軍の勢いを制止するのは大変だ。パークスの一件は、中止を決定するいい口実になった。(これはつじつまあわせでしかないのでは)

265 次は『改訂 肥後藩國事史料』
3.13、東海道先鋒総督府参謀木梨精一郎は、英国公使と横浜に会し、徳川慶喜の処置につき談判す。
英公使曰く、「この節、慶喜粗暴につき、御追討は御尤ものことなり。ところが慶喜はいよいよ恭順、相慎み候上は、死に入れ候道理はこれなく、助命之ありたく、江戸城を明け渡し、朝廷が之を御受け取りになれば、朝廷のご趣旨は相立ち申すべし。西洋各国においては、縦令暴悪の人といえども、一度大権を取り候人の体を死に入れ候例は、これなく、万国公法の道理かくのごとく、既にフランスの先ナポレオンが、その道を失い候へども、放逐までにして、死一等を赦し、これあり候と申し候。右の通りのことにして、木梨茂は、もっとものことと思い、大総督府に駈(か)け帰り、談判相済み候て、木梨は直ちになおまた横浜へ参り申し候て、同意の返答致しおり候。大総督府は、英公使の言を待たず、その前より*助命の内議は起りおり為し申すところ、幸いにして公使の一言を以て、いよいよそれに決定に相成り申し候模様に相聞こゆ。
 *本当か。

266 石井孝は『明治維新の舞台裏』で、パークスの役割を高く評価しているが、その『明治維新の国際的環境』によると、

・3.13、東海道先鋒総督参謀木梨精一郎は、西郷の旨を受けて、横浜のパークスのところに赴いた。木梨に同行した渡辺清(清左衛門)によると、負傷者治療について懇願するのが目的とされているが、実は、もっと大きなところにあった。
・新政府は財政困難で、兵器も十分でなく、海軍は「ひどく案じられる」と西郷が告白するほどだった。
・徳川側は海軍力で横浜を確保し、英国の支持を期待できるから、西軍はイギリスの支持を確認する必要があった。
・江戸の騒乱は横浜にも影響がある。
・西郷は、パークスの意向を聞いてしばし愕然としたが、パークスの発言を秘して、14日の勝との会談に臨んだ。

石井孝は『明治維新の舞台裏』で、その後について、

 西郷は勝の嘆願書を持って京都に行き、20日、三職(総裁・議定・参与)会議が開かれ、勝の嘆願書をほぼ採用した徳川処分案を決定した。
 参与木戸孝允は、「世間多くは、(パークスの強硬態度に接して)眼中徳川氏のみあるならずんば、眼中只欧州にあるのみ」
 西郷・大久保らが慶喜死罪論を主張したのに対して、木戸は寛大な処分を主張した。
268 西郷は、慶応4.2.2付けの大久保への書簡で、「慶喜退隠の歎願、その以て不届き千万、是非切腹までには参り申し候わずては、相済まず」(『大西郷全集』)

佐々木克もパークスの役割つまりイギリスの支持を重視している。(『戊辰戦争』)

ところが萩原延壽は、『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』の中で、江戸開城時でのパークスの圧力や、アーネスト・サトウの勝海舟との接点を否定しているが、これは事実に反する。萩原延壽は語る、

3.9、2.16、サトウが江戸に来た。
4.3、3.11、西郷が江戸に来たが、サトウはそれを知らなかった。
サトウは、勝海舟が軍艦奉行から陸軍総裁になったことをまだ知らない。

ところが、『一外交官』では、

3.31、慶応4.3.8、私は長官と一緒に横浜に帰着し、4.1、3.9、江戸に行った。私は人目を避けながら勝に会うようにしていた。
269 1868.4.12、慶応4.3.20、三日泊まりで江戸に行った。徳川軍の総帥となった勝は、自分と大久保一翁*が官軍との談判に当たると私に語った。さらに、サトウは次のことを、恐らく勝から、知っていた。

*大久保一翁(忠寛)は幕臣。東京府知事、元老院議官。

・西郷が勝の交渉相手である。
・慶喜に対する要求は、
一切の武器・汽船を全部官軍に引き渡す。
江戸城を明け渡す。
先頭に立って伏見の攻撃を誘導指揮した士官を死刑にせよ。
天皇は前将軍に寛大な処置をとる

270 明治元年10.13、1868.11.16、天皇は江戸城に入り、勝海舟は江戸を去った。

萩原延壽は、パークスの発言が、西郷・勝会談の後に届いたとするが、木梨精一郎の跡参謀である肥後藩士安場一平も、渡辺清同様に、パークス・木梨精一郎会談を裏付けている。

271 ところが勝海舟は無血開城前に、慶喜に抗戦を提言したが、慶喜が是とせず、勝はそれに従っていた。

『昔夢今筆記』によれば、

勝安房守、予に勧めて、「公もしあくまでも戦い給わんとならば、よろしくまず軍艦を清水港に集めて、東下の敵兵を扼(やく)し、また一方には薩摩の桜島を襲いて、敵の本拠を衝くの策に出ずべし」と言いたれど、予は「既に一意恭順に決したり」とて耳をも傾けざるより、勝も…遂に西郷と会見し…。勝のこの時の態度は、世に伝うる所とはいささか異なるものあり。全て勝の談話とて世に伝うるものには、多少の誇張あるを免れず」

273 サトウの送別会には次の人たちもいた。
・鮫島誠蔵は、薩摩藩士で、1865、イギリスに留学した。
・東久世通禧は、尊皇攘夷派の公卿で、1863、文久3.8.18の政変で、七卿落ちした。明治維新後、外国事務総督を勤めた。
・備前侯とは、議定心得で刑法官副知事の池田章政で、尊王攘夷派だった。
・宇和島の都築荘蔵とは、伊達宗城・宇和島藩主のことである。

おわりに

277 宮内省蔵『殉難録稿』は、亡くなった勤王志士の数を、2480余人としている。

「玉を取る」「錦の御旗を揚げる」それを得た人々が正当性を持ち、その人たちの政策が問われないようになった。
吉田松陰の言う「忠義をする積り」ではなく、「功業をなす積り」の人は、伊藤博文、山県有朋、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視らではないだろうか。

以上  201911()


年表

1854嘉永7.3.3日米和親条約調印。

1858.2.21堀田正睦が孝明天皇に条約調印の勅許を得ようと京都に向かった。
1858.5.3孝明天皇は不許可を下した。
1858.7.29日米修好通商条約に調印。
1858.9.14孝明天皇1831—1867.1.30が水戸藩に密勅を送り、その中で無断調印の幕府を責め、幕府や諸藩に攘夷推進を命じた。
1858--59安政の大獄
1860.3.24桜田門外の変

1861—65.4南北戦争中はイギリスの影響力が増した。

1862.2.13坂下門外の変で、水戸浪士6人が、老中安藤正信を襲撃し、負傷させた。

1863.4.28、文久3.3.11、孝明天皇が賀茂神社で攘夷を祈願した。
1863.6.6、文久3.4.20、将軍家茂が1863.6.25(文久3.5.10)を攘夷通達の期限と決定した。
1863.6.24、文久3.5.9、幕府が諸外国に開国の撤回を通知した。
1863.6.25、文久3.5.10、攘夷の日、長州藩が米商船を攻撃した。
1863.7.8、文久3.5.23、長州藩がフランスの軍艦(通報艦)を砲撃し、死者を出した。
1863.7.11、文久3.5.26、長州藩がオランダの軍艦を砲撃し、4名が死亡した。133
1863.7.16、文久3.6.1、長州藩が米軍艦と交戦し、敗北した。
1863.7.20、文久3.6.5、仏軍艦が馬関砲台を攻撃した。
1863.8.15、文久3.7.2、薩英戦争
1863.9.30、文久3.8.18、8月18日の政変(文久の政変、禁門の政変)で、過激な攘夷思想と長州の朝廷への影響を排斥した。

1864.3.2、文久4.1.24、オールコック英公使が帰任した。長州藩への厳しい対応を意図していた。
1864.7.8、元治1.6.5、京都守護職配下の新撰組の近藤勇が京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋で長州藩・土佐藩の尊皇攘夷派(勤王派)を襲撃した。
1864.7.21、元治1.6.18、伊藤博文、井上馨は帰国後英国公使に会った。
1864.7.28、元治1.6.25、長州藩は、伊藤・井上の和平の主張を却下した。

1864.8.20、元治1.7.19禁門の変=蛤御門の変。長州藩兵が大挙上京、幕兵に敗れる。
1864.8.24、元治1.7.23—1865.1.24、長州藩主征討の朝命。第一次長州征伐。
1864.8.28、元治1.7.27、四国英仏米蘭艦隊が横浜を出航した。
1864.9.5--7、元治1.8.5--7、連合艦隊が下関を砲撃した。
1864.9.8、元治1.8.8、長州藩が和議を請う。
1864.9.14、元治1.8.14、和議が成立した。
1864.12.9、元治1.11.11、長州藩主が服罪し、蛤御門の変の責任者が自刃した。
1864.12.24、元治1.11.26、オールコックが解任され、帰国した。
1865.1.27、元治2.1.1、長州藩主が服罪したので、長州征討軍を解いた。
1865.1.28、元治2.1.2、高杉晋作が下関で挙兵した。

慶応元年4.25、1865.5.19、西郷と土佐藩の坂本龍馬が薩摩藩の船に同乗した。
慶応元年閏5.6、1865.6.28、長州再征に憤慨した土佐の中岡慎太郎が鹿児島へ行き、薩長協和を西郷と相談した。
慶応元年閏5.18、1865.7.10、中岡、西郷、木戸会談を下関で計画したが、西郷が現れず、流れた。坂本龍馬は薩摩藩名義で長州藩の武器を購入することを画策した。
慶応元年閏5.22、1865.7.14、朝廷は第二次長州征伐をすぐには支持しなかった。
慶応元年6.24、1865.8.15、坂本龍馬、中岡慎太郎が、薩摩藩に西郷を訪ねた。
慶応元年9.21、1865.11.9、大久保利通が征長に反対の工作をして、一時成功したが、幕府が覆した。(どういうことか)
慶応2.1.21、1866.3.7、坂本龍馬の仲介で薩長が合意した。これより前に西郷は倒幕の意を固めた。

1866.7.18—10.8第二次長州征伐

1867.1.30、慶応2.12.25、孝明天皇崩御。
1867.7.23、慶応3.6.22、後藤象二郎と坂本龍馬は、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通と会談し、公武合体で同意した

1867.10.29、慶応3.10.3、後藤象二郎が山内容堂の建白書を幕府に提出。その後、後藤象二郎は、会津藩の重臣外島機兵衛、上田伝二に建白書の了解を得る。
1867.11.8、慶応3.10.13、岩倉具視が大久保に倒幕詔書を手渡した。
1867.11.9、慶応3.10.14 大政奉還
1867.12.10、慶応3.11.15、坂本龍馬が暗殺される。
慶応3.11.20~倒幕の兵が京都へ続々到着。薩摩三千人、長州千二百人、芸州三百人。
1868.1.3、慶応3.12.9 天皇が王政復古を宣言した。
1868.1.27~30、慶応4.1.3~6 幕府は鳥羽・伏見の戦いで討幕軍に敗れた。


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