石射猪太郎『外交官の一生』中公文庫1986、初版は読売新聞社1950
感想 2026年4月9日(木) 外交の基本 ビルマ逃避行
筆者は本書の最後で、外交の基本を語り、幣原外交を高く評価している。
外交の基本は、平和主義、国際協調主義、対華善隣主義であるとし、幣原喜重郎さんはこの三つの基本を遂行する上で気骨があったと評価している。
筆者のビルマ大使時代の最後に味わった苦境は、満洲開拓団の帰還の話に通じる。戦況が不利となり、身の危険を感じるようになった時、現地の軍首脳は飛行機で逃亡し、筆者らは取り残された。満州と違う点は、軍の下級の部下らが取り残され、筆者ら外交官と、傀儡政権の関係者、居留民らと共に、敵機の銃撃・爆撃の中を、陸路で散り散りになりながら南下し、ムドンというラングーンの東南方向の地で敗戦の通知を受け、最後はタイに逃げ、そこで英蘭軍に拘束された。
この困難な逃避行の途中で、傀儡政権のボス(バーモー)の娘が子を産んでいる。満洲開拓団の一部が自決したり、子どもを見捨てたりしたのとは対照的だ。
また、先に逃げられた者はまだよかった。現地に取り残された商社員で構成される実力部隊(商社隊)の800人いた。彼らは逃避行中に、その半数以上が亡くなったという。その逃亡者の生き残りがタイに逃げてきて、筆者は、その話を聞いたようだ。
感想 2026年4月7日(火) 著者石射猪太郎氏の気骨に感動。
1944年6月、サイパンを失陥し、1944年春、インパール作戦で惨敗し、戦局が絶望的となっている時、ビルマに赴任しないかと言われ、さすがの著者も即答はしなかった。しかし結局3日後著者は引き受けたのである。その理由は、外交官人生を全うしたいという彼の人生のポリシーであった。彼はたたき上げの人だった。
そしてこの人事の原因は、ひょっとしたら、著者の時局打開のための提案であったと思われる。当時の日本に勝ち目はなく、無条件降伏を迫られようとしていた。それを避ける方法は、中立国ソ連に仲介を依頼することであったが、ソ連は独ソ戦開始のころは、日ソ中立条約の遵守を日本に要望しておきながら、日本の立場が弱くなると、日本の仲介依頼を見捨てた。
そこで著者が考えたのが、重慶政府による調停案であった。大胆な提案である。これまでさんざんさげすんで来た中国に調停を願うという。しかし著者はその可能性を信じていた。それだけ中国人との親交があったということなのだろう。しかしそれは当時の為政者からすれば、とても受け入れがたいことだったに違いない。
感想 2026年4月6日(月)
今のネタニヤフ・トランプによる対イラン戦争に関するトランプ発言についても言えることですが、トランプの言っていることの真逆が真実であることが多いようです。このことは戦争に限らず、為政者の発言は往々にしてそういうことが多いようです。尻尾を掴まれたくないのですね。
戦前の日本でも(今の日本でもしかり)同様のようでした。「ミッドウェー海戦は勝っていた」と国民は思い込まされていましたが、事実は負けていた、ということを為政者たちは知っていました。
次は著者が軍令部総長から直接聞いたという話です。当時の東条英機憲兵政治とともに御一読下さい。無知と宗教や町内会は怖いですね。町内会は両刃の剣です。
私のリオでの想像通りに、戦争への決意は気短に軽率に決められていた。「断乎」「必勝の信念」「八紘一宇」「大東亜共栄圏」など、空疎な語音が単純な大衆を酔わせていた。
しかし識者は早くも前途を憂えていた。同窓の東亜同文会理事の宇治田直義は「この戦争は勝ちっこあるものか。日本の負けに決まっている」と罵り、永野軍令部総長は、勝ったと思わせられていた去る6月のミッドウェー海戦が、まるきり逆であったことを、密かに私に打ち明けた。
「興亜奉公日」が「大詔奉戴日」に変えられて儀礼と形式が強化され、国民儀礼が町内会や隣組の会合で行われ、町内会は盛んに神参りを催し、各家庭に参加を強要した。「御民われ天地の栄ゆる時に逢えらく思う」とか「神州不滅」など、古典を引用する時局便乗者の神憑り説が幅を利かせ、国民大衆は赫々たる戦果を謳歌した。東条内閣の憲兵政治が国民を完全に押さえつけていた。
感想 2026年4月6日(月)
戦争になったからと言って、居留民を拘束して家宅捜索する、というのは行き過ぎではないか。それが1942年の3月にブラジルが日本に対して行った行為である。宮澤・レーン事件というのも、それと同種の行為かもしれない。
感想 2026年4月2日(木)
筆者がどんなに日本政府の方針に反対だと言っていても、ブラジルから国外追放され、日本からの交換船の舷側に描かれた日の丸を見た時、歓喜で興奮したという。日頃政府・軍部を批判する筆者であるが、日本だからとして意味もなく歓喜する、そういう人が、戦前の日本では大部分だったのではないだろうか。日本船の日の丸を見て「誰もが歓喜で興奮した。」378
ちなみにこの時の交換船(1942年7月3日~8月19日)は第一次交換船(1942年6月、Wiki)だと思われる。そして宮沢・レーン事件で、レーン家の一番下の双子の姉妹がこれに乗っていたと思われる。この時ハロルド・レーン夫妻(ポーリン)は、一旦横浜まで移送されたが、突然変更になって札幌に戻され、翌年1943年9月の第二次交換船まで待たねばならなかった。ハロルドの父ヘンリーは1942年2月に亡くなっていた。Wiki
感想 2026年3月30日(月)
松岡洋右外相の時代1940.7.22-1941.7.18は、政府の意向に逆らう大使・公使などが首にされたという。「英米傾向だとして任地から召還され、馘首された。」恐怖の外務省体制が構築され、その構成メンバーは、斎藤良衛顧問、白鳥(敏夫)顧問、大橋忠一次官等である。(松岡旋風人事)346
ところが不思議なことに筆者はブラジル大使に任用された。346
松岡洋右外相の時代に、三国防共協定1937.11が、三国(軍事)同盟1940.9.27に格上げされ、それに対して英米は身構えたらしい。筆者は、ブラジルに赴任する途中のサンフランシスコで、米人記者にそのことについてしつこく問われたという。349
ところで広田弘毅は中日友好主義者なのにどうして極東裁判では絞首刑になったのだろうか。ちなみに松岡洋右は、判決前に結核で死亡1946.6、白鳥(敏夫)は判決は終身禁固刑だったが、その半年後に癌で死亡1949.6.3した。
感想 2026年3月29日(日)
今から88年前の1938年の秋、外務省の権限を奪い、軍部が自由に対中政策を実施することを可能にする「対華中央機関」なるものが設置され、宇垣外相が抗議の意味を込めて辞任したとき、著者も失意のうちに外務省東亜局長を辞任し、オランダ大使に左遷されたとき、著者は当時の中日関係の実態を寂しく描いています。
「11月9日、オランダ公使を拝命し、間もなく中国旅行に出た。王克敏、梁鴻志など多数の日中人と旧交を温めた。北京の東単牌楼の横町という横町は日本料理店が軒をならべ、夜は絃歌の声が湧いた。古都北京のさびを踏み荒らしている感じであった。上海のガーデン・ブリッジは立哨の日本兵に敬礼しなければ通れなかった。中国民衆は無表情で、日本軍民だけが我が世の春を無反省に楽しんでいた。」
感想 2026年3月26日(木)
1937年、盧溝橋事件のころ、右翼と軍の殺傷暴力によってもたらされ、憲兵による異論排除によって維持された「中国膺懲」の嵐の日本社会の中でも、日中友好を心掛けていた人もいたのですね。筆者のみならず、芳沢、出淵、小川愛次郎、神尾茂、宮﨑龍介などの名前が出てきます。長文ですが、その部分の要旨をご紹介します。
感想 2026年3月26日(木)
本書はいつ書かれたのか。1950年の出版だから、戦後すぐに書かれた。自己保身は誰にもある。時代の変化に迎合するようなことが全くなかったとも言えないのではないか。筆者は「平和主義者」だったのだろうか。平和主義者として戦前は何をしたのだろうか。
再考 筆者の潔白は戦時中の彼の日記が証明している。
平和主義者の広田弘毅外相が、戦後なぜ絞首刑にされたのか。平和主義者でも時の趨勢に迎合せざるを得なかったのではないか。極東裁判ではその点は考慮されなかったのか。極東裁判の記録が公表されているらしいから、彼の部分を読んでみようか。
4 天津在勤
感想
048 1918年12月、著者石射猪太郎はサンフランシスコに赴任する際に、パリ講和会議に向かう牧野伸顕(のぶあき)全権と同船したが、そのとき牧野さんは幼少のころ渡米した時の懐旧談を著者に語ってくれた。
明治初期1871年、当時13歳の牧野少年は、岩倉訪米使節団に参加して初めて渡米したのだが、洋服でなくてはいけないということで、横浜中を探してようやく一着のモーニングを買って着せられた。ところが米国ではモーニングを着ている少年はいない。恥ずかしくたまらなかったが、我慢してニューヨークで子どもの洋服を買ってもらった。何かみじめな気分になりますね。
5 サンフランシスコ在勤
感想 2026年3月3日(火)
051, 059 1919年頃のサンフランシスコでの排日運動
日本人には家や部屋を貸さないと言う人もいるかと思えば、貸してくれる人もいて、家主とは親交を結ぶことができた。
053 日本人は閉鎖的なので嫌われたらしい。日本人は米国人と同化せず、日本人だけの集団で固まる、子どもをたくさん産む、陰謀的で、特殊な習慣がある。それと写真結婚。日本人は写真を見ただけで嫁を呼びよせることに反感を持たれたらしい。米では恋愛結婚が一般的だった。
054 村落の入り口に “No More Japs Wanted”の大立て札があちこちにかけられていることもあった。
6 ワシントン在勤
069 ウイルソン大統領は川で遊んでいた見知らぬ子どもに「ハロー、ウーデー」と声をかけられると、車に乗せてやった。それが新聞記事となって紹介されていた。
070 ウイルソン大統領は、国父ワシントン以来の対欧不介入政策を捨て、世界恒久平和の樹立のために、大きな国際的役割をアメリカに引き受けようとする高邁な理想を持っていた。
073 「西に雪洲、東に亀井」とは、美男子の日本人外交官二人のことを言うらしい。
080 私はサンフランシスコでも二、三度中国人と間違われたが、それは私の顔つきのせいばかりでなく、白色人の世界では、黄色人の代表者は中国人であるからだ。我々は一等国日本人だなどと肩肘を張ってみても、黄色人の代表者としては通用しないのであった。
083 日本の大礼服の野暮なけばけばしさが目立ち、ことに服装のお手軽なアメリカの雰囲気にそぐわず、我ながら沐猿冠を感じた。
084 食卓には禁酒国の最中にあって、シャンペン、ウイスキー、コニャックと、フランス料理の冷菜がふんだんに用意されている。
085 アメリカ婦人は好男子への愛好心を臆面もなく表現する。
翌朝のワシントンの新聞は当夜の(幣原大使夫妻の大夜会の)盛況を大見出しで報道した。
086 実用英語を教えずに、文法や論文や文学書のみを用いる日本の英語教育を受けて、本場の英語国に行くと、日常の用向きさえしかねる。ましてやや込み入った話になると、聞くことも話すこともできない。
087 降りたい時には〝揚げ豆腐ひや″I get off hereと言えばすぐ車掌が降ろしてくれる。
091 (ワシントン会議の)議長席に着いたヒューズ米代表は、先ず会議の運営進行の順序を宣明し、次に海軍軍縮の具体案を詳細に提議し、イギリス、アメリカ、日本の間に五、五、三の比率を維持すべきことを説いた。日本に関する限り、陸奥、土佐、加賀の三主力艦のほかに、起工・未起工の多数船舶を廃棄すべし、と一々艦名を指摘した。当時アメリカの頭痛の種と称せられた我が八八艦隊建造計画の実現を食い止める案に他ならない。
会議の劈頭にこんな具体案を持ち出すとは、誰も思っていなかったようであった。アメリカの決意と打つ手の凄まじさが感じられた。
094 かねてからアメリカの嫌がっていた日英同盟は、海軍軍縮と両立しないものであるから、ワシントン会議で寿命が尽きるのは当然だろうと思っていると果たしてそうであって、その代替案として着想だれたのが四国条約案であった。
しかるにその話ははじめイギリス、アメリカの間だけで行われていた。それに幣原さんが憤慨して佐分利参事官に、条約発案者のバルフォア卿に抗議させると、バルフォアは、「この間徳川全権に話しておいた」というのだが、イギリス全権団の事務総長サー・モーリス・ハンケイに確認すると、ハンケイは、四国条約に関する英国案が日本側に交付もれになっているのに気が付いて慌てたという。また徳川全権が他の二全権(加藤・幣原)に黙っていたのは、事の重要性が分からなかったのに違いない。
096 四国条約の漏洩事件は醜悪に相違なかったが、日本はそれよりもさらにひどい、そして重大な醜態を知らずに演じていたのだった。外務省の暗号電信がことごとくアメリカ国務省に傍読されていたのだ。
感想 2026年3月5日(木) 日本の戦前の歴史上の陥穽は、対華21箇条の要求ではなかったかと思う。ワシントン会議には、米英が中心となって、日本に参加を呼び掛けたが、その時すでに会議の青写真ができていたようだ。ワシントン会議は日本の軍事力にとって不利な結果となったが、日本もその誘いに乗ったのだから、何も文句は言えない筈だ。
ワシントン会議は米英日の保有艦船の比率を決め、日本の場合では、艦船の名前さえ挙げ、建造中の艦船も含めて、削減を要求したというから、米英は会議に当たって、事前に周到な用意をしていたのだろう。
対華21箇条の要求は、日本が中国に対して過重な要求をし過ぎたと言える。米英はバランス上、それを咎める必要を感じたのだろう。
米は艦船の比率だけでなく、中国問題もテーマにし、英日だけでなく、中国、仏伊ベルギー、蘭、ポルトガルなど中国に利害を持つ9か国を招待し、中国問題を、つまり中国における日本の出過ぎた侵略行為を議題とし、中国にとっては有利な会議だった。
7 メキシコ在勤
113 メキシコはディアス大統領時代に外資を導入したため、金銀鉄亜鉛等の地下資源開発の利権は米英などの外国資本の手に帰したが、マデロ以降の革命は、その利権の回収を旗幟とした。英米の対メキシコ外交のもつれは、この利権回収が大きな要因だった。
我々がレストランなどに入ると、居合わせたメキシコ人達が一斉に日本万歳といって酒盃を挙げることも一再ならずあった。
116 メキシコでは人種的差別感がなく、しかも日本人は特に尊敬されていた。かつて強大国ロシアを屈服させた日本を、武勇の権化と崇拝し、彼らが嫌忌するアメリカにとって油断のならぬ日本の武力を頼もしとする民衆の心理であった。
117 メキシコの反米思想は、アメリカの発展途上で幾度も犠牲を払わされたという怨恨が累積してきたものだが、メキシコはアメリカという御目付なしでは存立し得えず、一旦国際的に緩急あるときは、どうしてもアメリカに味方をせざるを得ない。だから日米国交万一の場合に、メキシコの反米思想なんかを計算に入れるならば、大きな誤算に陥るだろうと私は本省に報告した。
120 (軍人Y中佐は天皇制を信じ切っていた。)私が日本の叙勲が適正に行われないのを理由に、「いっそうのことアメリカ流に勲章制度などない方が良いし、爵位も一代制を取るべきだ」と言うと、Y中佐は「君は天皇の栄誉大権を否認するのか。君の議論は天皇の大権を私議するものだ。けしからん。天皇の地位を何と考えるか。不忠の臣!」と言って私の胸に灰皿を投げつけた。
123 メキシコ政府は1917年の憲法に則って、アメリカ人の所有地と鉱業権を取り上げ、それが米墨間の国交回復の邪魔になっていた。
8 本省勤務
129 1922年、(米国で)「歩合移民法」が実施された。同法は概して質の劣る南欧移民よりも、良質の北欧移民の入国に「歩」が良かった。ところが同法の効果がよくなかったので、1924年5月、「排日移民法」が米議会を通過した。これは日本移民の入国に年180余人の「歩合」を認めながら、実質は一人も入国を認めなかった。そのため日本国民の反米感情はひどく荒んだ。
130 「黄色人種の帰化禁止」、カリフォルニア州その他の「排日土地法」と、この「排日移民法」で、日本人は踏みにじられた気持ちであった。
131 移民法に憤慨したある男が在京アメリカ大使館前で割腹して抗議したり、他の男はアメリカ大使館構内に侵入して国旗を引き下ろして逮捕されたりした。また震災後はアメリカ式娯楽が非常な速力で東京に取り入れられ、中でも社交ダンスが流行したが、ある晩、帝国ホテルの大広間に内外人が踊っている真中に、「俺が踊って見せる」とばかり、日本刀を提げて一壮漢が太刀を抜いて剣舞を始め、居合わせた内外人を縮みあがらせた。日本の品位を自ら下げる苦々しい国粋発揮だった。
150 私はイギリスに着任する途中で、ハバナでの「第二回国際移民会議」に事務総長として参加したが、その時日本側が開催した晩餐会で、随員の井上雅二氏が、勲三等らしい妙な勲章を襟に吊っているのを見た外人客が「それは旭日章か」と聞くと、井上氏は臆面もなく然りと胸を張った。勲章に惹かれる民間人の心根に、浅ましさと憫れさが、感じられるのであった。
149 移民会議でキューバ代表から「移民は国内問題であり、国際問題ではない」という決議案が提起されたが、日本は1924年の「排日移民法」以来、これに反対してきたから、もしこれが通れば、脱退すると議長に脅して、結局廃案となった。
感想 当時の日本は今の外人排外主義とは真逆の立場でしたね。
感想 このハバナ会議への筆者の随行者として「山崎巌」が出てきた149のにはびっくりした。山崎は「社会局事務官」とあるが、これは内務省の事務官である。山崎巌は治安維持法時代の、鬼畜のような拷問で庶民を苛め抜いた悪名高い特高であった。東大出。
9 イギリス在勤
156 ロイター電で知った「張作霖爆死事件は、日本軍の仕業だ」と私は断言した。
内田康哉(こうさい)伯の訪英は、日本と英国との中国問題における齟齬を解決するためであったが、田中内閣の対華強硬政策と、英の対華融和政策とは協調の余地がなかった。
163 内田伯が署名した不戦条約1928における文言「国民の名において」が問題になるとは想像できなかった。
「各国元首は国民の名において政略の具としての戦争を放棄する」における「国民の名において」が枢密院で大問題となった。「戦争を放棄するのは天皇の大権に属し、国民の名においてするものではない、不戦条約の文言は国体に反する」という国粋論である。「国民の名において」の部分は日本だけには当てはまらないということで各国の了承をとりつけた。
169 私は林久治郎奉天総領事の内輪話で、張作霖死亡事件の真相を知った。陰謀の張本人として関東軍参謀河本大作大佐の名前が語られた。その他、易幟(えきし)問題*の経緯や、楊宇霆(てい)、常蔭槐(かい)暗殺事件の真相も、林総領事から知った。
*易幟問題 1928年12月29日、張学良は、日本の影響下にあった北洋政府の五色旗を捨て、蒋介石の国民政府の青天白日満地紅旗を掲げて国民政府への服従を表明した。これで中国の形式的な統一が完成した。
*楊宇霆(てい) 奉天派、1929年1月、張学良に緊急逮捕され即座に銃殺された。
*常蔭槐(かい) 奉天派、1929年1月11日、張学良に緊急逮捕され即座に銃殺された。
10 吉林総領事時代
メモ
171 張作相は満洲の副王であり、その居城は吉林にある。私は1929年に吉林総領事として着任した。日本人居留民数は1000人足らずだった。
177 墳墓発掘事件
元巡査の某日本人が殺されて埋められたが、その埋められた場所とされた所は古墳だった。私は中国人に謝った。これは日本が素直に中国に屈した唯一の例ではないかと思った。
178 万宝山事件
1931年夏、長春で、朝鮮人が中国人から借りた土地に無断で水路をつくった。借地契約そのものの合法性も怪しかった。長春県長が巡警隊を出して、朝鮮人を追い払おうとした。長春領事館も警察隊を派遣して双方が対峙した。朝鮮各地では在留中国人に対して報復大虐殺が行われた。私は問題の解決を先延ばしした。
180 中村大尉事件 満州事変の前奏曲
張作霖は日本にとって有益な存在だった。彼は日本に依存していた。張作霖は京津(北京と天津)で負けて、日本の生命線である満洲に逃れた。(満洲では)張作霖は最小限度の不可侵的地位を、頼まなくても日本が保証してくれた。また日本も張作霖がいれば、その特殊権益を維持できた。両者はもちつもたれつの関係だった。ところが日本は張作霖を爆死させ、日本にとって大事な傀儡を失ったのではないか。
*1928年(昭和3年)6月、北洋軍閥・奉天派の指導者であった張作霖は、蒋介石率いる国民革命軍の北伐(北伐軍)に敗れ、本拠地である満州(奉天)へ撤退する途上の6月4日、日本の関東軍によって爆殺されました(張作霖爆殺事件、または皇姑屯事件)。
敗北の背景: 1928年春、北京・天津地方(京津地方)を支配していた張作霖の「安国軍(北軍)」は、蔣介石の国民革命軍(南軍)による激しい北伐攻撃を受け、各地で敗退しました。
北京撤退: 戦況の悪化に伴い、日本政府や軍部(関東軍)は張作霖に満州への撤退を勧告しました。これを受け、6月3日、張作霖は北京を脱出し、鉄道路線「京奉線」で奉天(現・瀋陽)へ向かいました。
爆殺事件: 6月4日早朝、張作霖が乗った特別列車が満鉄と京奉線の交叉する三洞橋(奉天近郊)に差し掛かった際、関東軍の河本大作大佐らが仕掛けた爆弾により列車が爆破され、張作霖は重傷を負い、同日死亡しました。
密かに興安嶺を踏査していた中村震太郎大尉が、洮(とう)南で、奉天軍兵に銃殺された。関東軍はこの件で中国側の奉天省政府が誠意を示さないなら実力に訴えると出たが、関東軍は次の事件(満州事変)のために、敢えてこの事件の未解決を望んだと伝えられた。
181 満州事変
9月19日の早暁、領事館警察の佐久間巡査が「長春領事館から電話連絡。昨晩10時ころ、張学良の軍が奉天北方で満鉄線を破壊した。我が軍が出動し、張学良軍と戦闘開始。長春で我が軍は目下中国軍兵営を攻撃中」と私に報告した。
182 私は関東軍がとうとう始めたなと思った。
張作相は郷里の錦州で母の喪に服して不在なので、私は省庁代理の煕参謀長と会見した。煕は「日本軍に対して(中国軍を)発動させない」と約束した。
夕方、省政府の軍事顧問大迫(おおさこ)通貞(みちさだ)少佐(林中佐の後任)が来訪し、私に軍を呼べと力説したが、私は拒んだ。
大迫顧問に養われていた浪人が一日本人の店に発砲した。これは謀略である。大迫公館には一、二人の壮漢が居候していた。それは軍人であったかもしれない。
183 9月20日、関東軍は司令部を旅順から奉天に移した。民会幹部が「せめて婦女子を吉長鉄道が通じている間に長春へ移したい」と言うので、私は自由意思に任せるが、業主と青年男子は留まるように指示した。ただし領事館員と警察官には家族を動かすことを禁じた。
それでも居留民が不安がるので、残留婦女子を領事館内に収容した。それを見て吉林市民は不安がった。
私は万一に備え、軍の救援が得られるかどうか確かめるべく、小森(喜久寿)書記生を長春に派遣したが、軍は混乱していて応対してくれなかった。
184 第二師団の吉林占領
9月21日、吉長鉄道が不通になった。吉林駅に達した専用電話によれば、長春の吉長駅に多数の車両が集結しているとのことである。関東軍の来吉が予想された。
昼過ぎ、日本軍の飛行機が通信筒を領事館の敷地に落とした。それには「第二師団の主力が数十両の列車にて只今吉林に向かって進軍中なり。」とあった。
この書面を発表すると、領事館内の居留民は歓声を挙げ、強気になり、中には日本刀を腰にして、肩で風を切る者もいた。
施履本交渉員と省政府秘書の張燕卿(ちょうえんけい)が、省政府代表として来訪した。「省政府は絶対無抵抗に決し、すでに省城の吉林軍を城外に移動させ、恭順を厳命した。日本軍が砲火を発することなく平和裏に進駐するよう、省城20万の市民のために、貴総領事館の斡旋を懇請する。吉林駅から特別車を用意する」と述べた。
185 私は即座にこの懇請を容れ、多門二郎第二師団長宛ての書面を自筆し、これを浜村量平書記生に持たせて特別車で吉林駅を出発させた。これに省政府を代表して張秘書が同行した。二、三駅先の樺皮廠駅あたりで軍用列車と会うはずだった。
施交渉員はそのまま私のところに留まった。9月21日午後5時、日本軍が平穏に着駅したという報に接し、私は施交渉員と駅に向かった。多数の居留民が師団長に挨拶しようとしているのを制し、私が先ず駅長室で師団長に挨拶し、施交渉員を引き合わせ、省政府の意向を披瀝させた。居留民の中からは「総領事はこの期になってもまだ省政府におべっかする気でいる」という声が聞こえた。
名古屋館に師団司令部がおかれた。翌朝、(9月22日)、関東軍司令官名義の布告が要所要所に貼られた。その趣旨は「張学良政権を膺懲し、東三省の民生を塗炭から救うのが軍事行動の目的であり、日本軍は住民に対して秋毫も犯さず」とあった。領事館も「居留民は行為を慎み、いやしくも中国人に非行を加えるがごときことあるべからず」と民会に諭達した。
第二師団が主力を挙げて進軍して来たのは、吉林軍を潰滅させるべく、手ひどい一戦を予期してからであった。私の禍はこの時から始まった。
186 ピストルピント(拳銃口)の独立宣言
9月22日の夜、煕参謀長が来訪した。「日本軍が吉林軍の武装解除を言い出した。屈辱を感じて吉林軍中には抵抗する部隊ができるかもしれない。武装解除は省政府自身の手で穏やかに実行したい。師団長に願ってみてほしい」
私はすぐ師団長を訪ねて煕参謀長の願意を伝えると、師団長は直接煕参謀長に会って話をつけたいと言い、会見の日時を翌日9月23日午後3時に指定した。
9月23日、煕参謀長、施交渉員と通訳官が、私を来訪し、私と共に名古屋館へ向かった。師団長が「この会談は軍事的なものだから外交官は席を外してもらいたい」と言うので、私と施交渉員は別室に引き取った。
会談が思ったより長引いたので様子を見に行くと、会談の室のドアは固く閉じられ、廊下に数人の将校が、抜身の拳銃を捧げて立っていた。
煕参謀長と通訳官が会談室のあった二階から降りてきて、あたふたと自動車に乗った。
187 (省政府の)張秘書から情報が届いた。それによると、「会談で煕参謀長は吉林省の即時独立宣言を師団長から要求され、居並んだ参謀連から「独立宣言か死か」と拳銃を突きつけられた。煕参謀長はこれを承諾した。但し吉林軍の武装解除は省政府の手に委ねられた」という。
日本政府の事件不拡大方針が宣言され、その内容の訓令が私に届いていた。私は吉林省独立宣言の強要を看過できないと思った。
その夜、私は師団長を名古屋館に尋ね、「吉林省を独立させる工作は、中国への内政干渉として由々しい問題を引き起こすであろう。強要工作をいかに厳秘にしようとも、間もなく世間に周知して、日本政府の対外的立場を不利にするのは必然である。事件を満鉄沿線に局限して、早急に局面を収拾しようとする政府の方針の破綻をきたす因になろう。私の職責上この独立工作について再考を求めざるをえない」と申し入れた。
多門師団長は「貴官のお話はよく了解できるが、自分の関する限り再考の余地はない。すべて関東軍司令部の命令に出ずるところだから、再考は軍司令部に向かって求められるより外にないであろう。しかし貴官は、独立工作は軍人どもがやったもので、自分の関知しなかったことだとして黙過されては如何」私は「私の職責がそれを許さない」と応酬した。話は物別れに終わった。
188 事態を詳説した私の報告電が、その夜本省と奉天総領事とに走った。
多門師団長が一小隊長として日露戦争を戦った記録『弾雨を潜りて』は、かつての私の愛読書だった。多門師団長はこの後馬占山軍と嫩江(のんこう)で戦った。
吉林省政府は煕洽(こう)を省長として。9月28日、国民政府からの独立を宣言した。これは東三省独立の先駆をなした。
感想 2026年3月9日(月)
186 満州国の独立は、日本の関東軍による中国人為政者(煕洽参謀長172)に対する武力的脅迫による強制の結果であった。無理やり独立を宣言させたのである。著者が総領事を勤めていた吉林省の中国人為政者が独立を宣言したのが第一号であった。これは特ダネ。
187 著者石射猪太郎は張作霖爆死事件や満州事変が、関東軍による謀略であると直感したという。そしてその軍の行為が外務省の不拡大方針に反すると軍に言ったら、それ以後著者は軍から排斥されるようになったという。石射さんは偉い。毅然としている。
188 第二師団の軍紀
第二師団の兵は私と同郷(福島県)で、純で、軍紀に忠実だった。兵の多くは給与を郷里に送金し、多数の朝鮮婦人を輸入した慰安所は繁盛しなかった。しかし将校の中には料亭で抜身を振り回すような乱暴者もいた。
郷土出身の将校の願いは恩給と勲章と年金であった。今度の事変で金鵄勲章功何級を貰えば、年金がこれだけ上がるなどとよく口にしていた。事変数か月後に勲章局総裁の下条康磨が吉林を訪問したとき、将校たちは如才なく彼をもてなした。
189 軍の反感――居留民の離反
軍は最初から外務省の出先機関を敵視していた。出先機関の皆が幣原軟弱外交の片割れと見られた。中には政府の不拡大方針の指示に従わず、軍に名声を揚げる公館長もいたが、私にはその芸当ができなかった。
私が軍の行動を報告したのが告げ口とみなされ、軍に相談なくやったとして軍との非協調とみなされた。
大迫少佐は今や特務機関長として独立吉林省政府の内面指導を握っていた。居留民は権勢のある所に阿った。私への反感が大迫公館に漲っていた。
190 ある晩張燕卿秘書が密かに私を来訪し、独立吉林省政府の国際法上の性質について私の所見を求めた。大迫は張のこの密通を知り、「総領事の所へ出入りする者は敵とみなす」と張を叱った。
居留民も第二師団進駐と同時に私から離反した。吉林省の官民は軍の威力に屈従し、総領事は居留民にとって不必要となり、軍に接近して総領事を批判することが彼らの利益となった。
居留民会長の三橋政明は大迫の推挙で省政府の顧問になると、総領事の元に来なくなった。満鉄公所の浜田所長も、同様だった。浜田は私に大迫への帰順を勧めたが、私は応じなかった。
私は大迫少佐に相談せず、相変わらず交渉員を通じて省政府と連絡を持った。交渉員の施履本は、吉林省独立の内情を(中国の)中央政府に報告したことで軍から追われ、代わりに謝介石が来たが、(中国)外交部特派員としてではなく、吉林省交渉員としてであった。この人は時局便乗に長けた人だった。
事変第一年の暮れに家族を東京に帰した。妻は軍の送迎や慰問行事に駆り出されていた。また在満外務機関の元締めである林奉天総領事は、私以上に不愉快な思いをしていた。
191 私の事変観――軍の兵変
スティムソン米国務長官の非承認主義についてはここでは書かない。ここに記すのは、満州事変を私がどう考えたかである。
192 柳条溝事件の情報を聞いた瞬間から私はその真実性を疑った。張学良もその軍隊も抗日意識に燃えていたが、満鉄線に手を触れることが身を亡ぼすことを十分知っていた。それに張学良は北京にいて不在であった。私は張作霖爆死事件で立証済みの軍の謀略性にぴんときた。「また軍がやった。」それが私の直感であった。
奉天に出張した際に総領事館から、関東軍が事変を目指していかに周到な準備をしていたかや、柳条溝事件の状況証拠がいかに荒唐であるかを知り、自分の直感が当たったことを確信した。
その後関東軍は政府の局地解決方針を潜って既定事実をつくったが、その行為を裏づけるものはすべて虚構の理由であった。その虚構の最たるものが「三千万民衆の民意」に基づく満州国の独立だった。過去に生きる数人の清朝の遺臣を除いて、東三省中国民衆の一人として、独立を希望した者があっただろうか。第一世論がないのだ。世論の形式を取ったものはみな偽装だった。
今日の強国はいずれも遠からぬ昔他国の全部か一部を盗んで大をなした。私はそれを是認できなかった。今日は国際協調の時代だ。ことに隣那中国とは怨恨を去って固く結ぶべきだと思っていた。満州事変は私のそういう信条に真っ向から加えられた打撃だった。
193 「自衛戦」、「生命線の確保」、「満蒙問題の解決」など、いずれももっともらしいが、私は満州事変は関東軍による兵変mutinyだと思った。「政府が何と言おうとも、軍中央がどうとどめようとも、満州を制覇して、自分の自由意思で運営できる国家機構をつくる、これを遮るならば本国でも容赦しない」というやり方を、兵変(反乱)という。
私は満州事変を呪った、まして軍のお提灯など持つ気にはどうしてもなれなかった。軍に対するパッシブ・レジスタンスが、満州事変を通じての私の一貫した態度であった。
193 関東軍からの弾劾
1931年暮、若槻内閣が閣内不統一で倒れ、犬養内閣に代わった。
1932年1月、新内閣の外相となる芳沢フランス大使の帰途、奉天で面会した。奉天総領事館で私は関東軍から外務省に対して弾劾されていたことを知った。つまり関東軍参謀会議が外務省に「石射吉林総領事は軍との協力の意思なしと認む、至急召喚を要求す」と決議・伝達していた。
このとき林奉天総領事は奉天を去っていた。
私は本省にすぐ帰朝下名を申請しようとしたが、思いとどまった。軍による弾劾の効果をすぐに形にするのは悪例となると思い、しばらく思いとどまった。吉林に帰ると本省から「精々軍に協力せられたし」という訓令が届いていた。
私が本省に帰朝申請をしたのは1932年5月末であった。そこに「本官は関東軍と両立せず」と明記した。後任に奉天の森岡領事を推薦した。
194 執政就任式――溥儀の人相
吉林省の独立に続いて他の二省もそれに倣った。
1932年の年初には軍事行動が一段落し、満州は関東軍の手に帰した。東三省の政体をどうするか、共和制か、帝政か、という議論が奉天でなされていた。結局帝政と決まり、溥儀1906-67(宣統廃帝)が引き出された。私は帝政は欺瞞だと思った。悪に徹して保護領にしたらどうか。*「宣統」は清朝最後の皇帝(在位1908-12、2歳から6歳まで)の称号。
溥儀が極秘裏に天津から連れ出されたという情報が、天津総領事から我々に伝えられた。満洲での溥儀の存在は公然の秘密となり、奉天の某外国通信員は、溥儀の即位日は4月1日がふさわしいと言ったという。実際は3月9日だった。溥儀には最初は帝位につかせず、満洲国執政として帝王見習をさせられた。
195 溥儀の執政就任式は塩務権運局で行われた。専門学校の卒業式程度で簡素だった。私も訓令で参列した。
式終了後のレセプションで乾杯の音頭を取ったのは、黒竜江省から軍政部総長に据えられた場占山であった。これは板垣征四郎参謀に懐柔された結果である。
執政政府の財政部総長に吉林の煕洽、外交部総長に謝介石、実業部総長に張燕卿がなり、長春は新京と改称された。
溥儀は長身蒼顔でどことなく気品を湛えていたが、不幸な顔をしていた。私は吉林に帰り藤村俊房領事にその感想を話した。藤村は「満洲国を中国内につくっても4億の民衆は仕切れない。満洲国も一時的現象さ」と応じた。藤村は中国各地で30年間勤務していたが、私の勧めで奉天から吉林に転勤していた。
196 馬占山は執政就任式後間もなく脱走し、反旗を翻して黒竜江省の古巣に戻り、民衆の英雄になった。関東軍は彼を追い回したが、取り逃がした。
196 薩摩焼の元祖――ある資本家 吉林総領事館来訪者
沈儒官(沈寿官)は豊臣秀吉の朝鮮征伐の時に、鹿児島の島津義弘に連れて来られ、鹿児島で薩摩焼を始めたが、名前は朝鮮名のままで10数代にわたって日本名に変えなかった。
財閥のOは付き添いの将校に媚びて「零下何十度という寒さの中で兵隊さんが雪の上に伏せたまま3時間も4時間も戦ったという話を伺いまして、私は本当に涙を流しました。」私は彼の卑劣を感じた。
哈爾浜(ハルビン)アメリカ総領事のハンソンと、その随員で東京アメリカ大使館のソルスベリー書記官が来訪した。二人は吉林省の拳銃口独立の次第を知っていた。
199 私は、事変勃発の報を聞いて特務機関に駆けつけた奉天の森島領事に「留め立てする奴は容赦せぬ」と軍刀を抜いて居丈高になった花谷少佐にも会うことはなかった。石原莞爾参謀にも会わなかった。民間人の事変の立役者である駒井徳三や笠木良明などにも会わなかった。
関東軍司令官の本庄繁は事変の当初幕僚に軟禁されていたらしい。私は吉林を引き払う時に奉天で彼に会見した。張作相の奉天別邸が司令官官舎になっていた。事変がこの将軍の意図に反して敢行されたことは世間の常識となっていた。この人は軍人でなく紳士であった。(東京裁判の時1945.11.20に自殺した。)
200 リットン調査団
リットン調査団は暴れる猫に鈴をつけるネズミの役目を負わされて満洲国にやって来た。途中関東軍や満洲国から色々言いがかりをつけられながら、奉天、長春へと北上し、5月7日に吉林にやって来た。私は吉田伊三郎大使に「おい君、拳銃口独立のことはしゃべるな」と言われた。外務省からも言って差し支えないことが訓令で来ていた。私は拳銃口独立については聞かれなかったが、知っている真実の全部を言えないのは、後ろめたいと感じた。質問は主にリットン卿とマッコイ将軍が行い、独仏伊の委員は並び大名に過ぎなかった。会談は微温的雰囲気の中を1時間余りで済んだ。中国側随員の顧維均が気まずそうだったので声をかけてやった。
次の会談相手の煕洽が拳銃口独立をばらしたと、間もなく知った。
202 吉林市民の感謝
1932年7月、私に帰朝命令が発せられ、後任は奉天の森岡領事がなった。
煕省長は送別会と吉林土産の餞別をくれた。また後日吉林市民数人が来訪し、吉林が砲火を免れたことに対して謝意を示し、記念品として乾隆御物の堆朱(ついつじ、漆工芸品)の小机を貰ったが、残念ながら東京の戦火で灰になってしまった。
203 地球の黒点満州を去る
私は7月某日の朝、大勢の見送りを受けながら吉林を発った。大連で親友富田氏の霊前に花を捧げた。彼は5月に病気で長逝した。
大連の映画館に「子ども、軍人さん半額」と、昔はつけなかった敬称がつけられていた。
海路水平線に沈みゆく大陸を返り見ながら「太陽から見た地球の黒点は満洲国だろう」と思った。
上海へ転任
私は東京に着くとすぐに村井倉松氏の後任として上海総領事に任命された。
五・一五事件で犬養毅総理が殺され、今や斎藤実(まこと)内閣。外務省は満鉄総裁から転じたばかりの内田外相の下に、有田次官、谷アジア局長、白鳥情報部長らが目立った。白鳥情報部長は事変以来、軍とタイアップして欧米の非難攻撃を蹴散らし、狼の如き凄まじい存在振りを見せていた。
204 満州事変に引きずられ、三月事件、十月事件の噂におびえ、五・一五事件で胆を奪われ、国民も政党も、のしかかって来る軍部の圧力のもとに、自由意思を失いつつあった。国家改造を目指す右翼の一人一殺主義の噂が、不気味に伝えられていた。
内田外相は就任早々の1932年7月の議会演説で満州国承認を宣明し、議会もそれを満場一致で決議した。有吉前伯(ブラジル)大使が駐華公使に任命され、私より先に上海に赴任した。
上海は私の母校の地であるが、難局が待ち構えていた。満州事変が上海に飛び火して、一・二八事件となり、中日両軍が上海周辺で死闘を繰り広げ、英米仏伊の介入による停戦協定で終息したが、中国人の怨恨は解けないと聞いた。
この春4月、上海事件後の「官民合同天長節祝賀会」会場に、金丸一味の朝鮮独立党員が潜入して爆弾を投じ、白川義則、野村吉三郎の陸海軍大将を傷つけ、重光公使は隻脚(せっきゃく、片足)を失って一時死線を彷徨し、村井総領事は片脚の脾肉(ももの肉)を削ぎ取られた。もし私が3年前の人事で予定された通りに上海総領事になっていたら脾肉を削ぎ取られていただろう。
9月に私は上海に単身赴任し、オーストラリアへ転任する村井総領事から引き継ぎを受けた。
感想 1931年9月の満州事変に際して、外務省は不拡大方針を取った。ところがその1年後の1932年7月には内田外相は満州国を承認している。この1年間に何が起こったのだろうか。この豹変ぶりはとても信じられない。三月事件1931.3、十月事件1931.10、満州事変1931.9、五・一五事件1932.5.15という右翼と一体化した軍による暴力への恐怖心か。満州事変も右翼が絡んでいたらしい。
それだけか。国民の利己心もあるかもしれない。現に満州事変勃発後、吉林の日本人居留民は関東軍の到来に歓喜したというから。
感想 日本人の民会(居留民団)が国家主義的な利己心を中国側に押しつけて問題を起こす事例が見られた。
204 先ず1932年の第一次上海事件では、天皇に対する不敬だとして中国紙を批判し(457 注11 「民国日報」の不敬記事事件)、次に日本人僧侶に対する中国人による暴行事件1.18が発生し、日本海軍が第19路軍の上海からの即時撤退を要求した1月28日の深夜、両軍が激突した。
中国では満州事変に対する不満が高まり、排日・排日貨運動が激化し、上海では抗日救国会が対日ボイコット運動を展開し、抗日義勇軍が組織され、上海駐屯の第19路軍でも抗日意識が高まっていた。
217 次に1935年6月にも中国の週刊誌『新生』による不敬事件が起きた。天津総領事館がその記事を指摘し、それを上海の邦字紙が書き立て、それに対して居留民が激昂し、大使館と領事館も中国側に対応を迫らざるを得なくなった。その時問題を大きくしようと背後で画策していたのが「浪人」や軍人であった。居留民とともに新聞、政治家、軍人、右翼などが、日中間の国際紛争を大きくする構造があった。
11 上海時代 1932年9月~
206 上海の日本居留民は3万人で、土着居留民と商社側とで構成されていた。土着居留民は港口(こうこう)サイドに住み、商社側は、紡績九社その他と大商社・銀行の支店で構成されていた。紡績会社は大勢力をなしていた。数人の名誉職行政委員が居留民団の執行機関となり、福利厚生に当たっていた。
国際関係では、共同租界全体の治安と福利厚生を担当する工部局があり、それは9人の市参事会員が運営していた。市参事会員の構成はイギリス人5人、アメリカ人2人、日本人2人の計9人で、毎年1回納税者によって選出された。一方、フランス租界はこれとは独立していた。
中国側は上海特別市制を敷き、呉鉄城が特別市長で、愈鴻鈞が秘書長で、紅湾路のはずれに孔子廟式の庁舎が新設され、特別市中心区の市街計画が始まっていた。私は呉鉄城と交渉した。
207 私の着任は(第一次)上海事件(1932年1月28日~3月3日)の5か月後(9月)であった。上海事件は日本居留民の強がり分子の不必要な冒険がきっかけで始まった死闘だった。引き分けに終わった。両者に反感が残った。私は「上海だけは如何なる場合にも無風状態におくのが私の抱負だ」と着任後の新聞記者会談で語った。
日本が国民政府を承認してから、公使が上海に常駐し、ガーデン・ブリッジを港口側に渡ったところにある総領事館の中に公使館も同居していた。有吉公使は新任だった。公使館には情報部や商務官事務所もあった。
208 総領事館は井口貞夫が首席領事で、領事館警察は上海事件以後増強され、纐纈弥三が内務省から派遣されて警察部長だった。50人の大所帯だった。司法領事は下川久一で、領事裁判を担当した。
上海には日本海軍がいて、第三艦隊の旗艦八雲が総領事館前の黄浦江(こうほこう)岸に横付けされていた。(海軍)陸戦隊の兵舎が江湾路の終わりにあり、その兵力は2000だった。海軍は上海と長江一帯を勢力範囲としていた。海軍は陸軍と比べて非謀略的だったが、加害責任は認めず、損害には他者を追求し、威信を維持したがった。
上海には日本陸軍がいなかったが、公使館付き武官や補佐官がいた。武官以外の尉・佐官のなかで、補佐官の影佐禎昭(さだあき)が曲者だった。
上海における中日間の感情のしこりは次第にほぐれていき、日本側との交歓も回復された。
210 私は外務省の国際協調政策の一使徒に過ぎなかったが、学生時代の同文書院で培われた唇歯輔車(もちつもたれつ)観念に基づくユートピア的理想を持っていた。
寺崎副領事は上海事件による第三国人の賠償要求800万元を20万元で納得させた。井口首席領事とその後継者の杉原領事は私のよき女房役であった。
1935年5月に中日間で大使交換の合意がなってから、有吉公使は無任所大使兼駐華公使から、駐華大使に一本化された。有吉大使はあれ荒んだ中日関係を軌道にのせた。その温情と真摯さが中国側を絆(ほだ)した。
212 民団 民団は居留民の自治体である。民団は、上海事件による損害復興のため、日本政府から銀塊5万貫を借り、それをロンドン市場で資金化して被害居留民に貸し出した。その復興資金部は正金から桜内篤弥を招いて資金部長としたが、被害者は多くを借りようとして民団に対する怨恨のもととなった。
居留民の間には派閥があった。港口サイドの土着居留民の間に「各路連合会」という町内会兼自警団的組織があり、林雄吉という右傾老人が工部局と直談判するほどの鼻息だったが、私はそれを押さえた。
商社側の紡績九社、大銀行、大商社の重役乃至支店長は穏和で、一度は欧米への渡航経験のある知識人で、その利害は上海の平和と一致していた。一方居留民は右翼的だった。
邦字新聞には「上海日報」「上海毎日」「上海日日」の三紙があり、それに電通や聯合の通信社、朝日、日日の支局があった。
上海停戦協定の補強
213 上海事件の停戦協定は、それが定める地域の外に両軍を撤退させることになっていたが、中国側と、停戦協定締結に介入した英米仏伊は、その規定が停戦協定の成立と同時に解消されたと解釈し、軍隊立ち入り禁止区域内のゼスフィールド・ジャンクションを通って、南京・杭州間をしばしば中国軍隊を通過させた。それに対して日本の外務省や海軍省は(陸戦隊)は抗議した。
私は停戦協定の効力の存続を中国側に認めさせる一方で、ゼスフィールドの通過を日本側に認めさせた。
214 越界道路問題 この問題は私の上海在任中には解決できなかった。
共同租界工部局が、租界内の外国住民の乗馬や遊歩のために、疎開外に土地を買い広げて道路をつくった。それを越界道路という。その道路面や道路に面した家屋と住民に租界行政が及んだ。しかしそれはもともと中国側の土地である。越界道路は西部と港口サイドにあった。中国側からその土地を「譲りうけよう」とした。日本の外務省はこの問題の解決を重視していた。
215 蔵本書記生失踪事件
1934年6月8日晩、有吉公使が南京の汪外交部長を訪問してから上海に戻ったとき、南京総領事館の蔵本英明書記生が行方不明になった。
これより先、公使館情報部長の須磨書記官が南京総領事に転出し、その後任に河相(かわい)達夫が着任していた。
蔵本書記生は後進に抜かれて副領事に進めなかった。排日分子による他殺説も浮上し、須磨総領事は他殺と考えて、中国外交部を詰問し、責任を追及した。また第三艦隊は旗艦八雲を南京に派遣し、上海の陸軍武官室からも補佐官が駆けつけた。邦字紙が書き立てた。
ところが6月13日の午後、蔵本は中国警察によって生きて発見された。自殺の目的で明孝陵の背後の紫金山に入って洞窟に潜んでいたが、空腹に耐えられず、食を求めて里に出て来たところを中国の警察に抑えられた。本人は中国の外交部で自供した。中国紙によれば、
「自分は外務省に多年勤務するが、同輩や後進が昇進する間に独り副領事になれず、周囲から侮蔑され、恥が多く、悲観が極に達し、自殺を決意した。これは中日両国に関わる問題ではない。」
須磨総領事は外交部に行って陳謝した。それに対して汪精衛外交部長は一切を水に流すと答えた。
上海頓宮病院の小児科医が、蔵本を精神異常と診断した。蔵本は首になった。須磨総領事はおとがめにはならなかった。
217 『新生』不敬事件――磯谷少将と影佐中佐
1935年6月、中国の週刊誌『新生』による「不敬事件」が起きた。天津総領事館がその記事を指摘し、それを上海の邦字紙が書き立て、それに対して居留民が激昂し、大使館と領事館も中国側に対応を迫らざるを得なくなった。その時問題を大きくしようと背後で画策していたのが「浪人」や軍人であった。居留民とともに新聞、政治家、軍人、右翼などが、日中間の国際紛争を大きくする構造があった。
上海で発行される中国の週刊誌『新生』が、「閑話皇帝」と題して随筆を掲載した。筆者の筆名は易水と言った。
「日英の各皇帝は骨董品ゆえに博物館送りにしたらどうか。現在の皇帝は昔と違い有名無実となり、日本の天皇は世襲により天皇に留まり、外賓接見、親兵式、諸儀式で必要である以外は、人民は天皇を忘れている。日本の真の統治者は軍部と有産階級である。生物学を喜ぶ日本の天皇が一意研鑽すれば、その成果は現在以上に有意義であろう。イタリアの皇帝はムッソリーニによって蔽われ、英皇帝は宮中にこもって時々狩猟をするだけである。イギリス人は平気で皇帝を一種高貴な装飾品と考えている。」
『新生』は左翼文士と思われる杜重遠の主宰する小雑誌で、公使館情報部もこの一文に気づかなかったが、天津の総領事館が指摘し、それを不敬事件として上海の邦字紙が連日書き立て、居留民が激昂した。そこで大使館は国民政府に、私は市政府にこの問題を取り上げ、責任官憲の謝罪、発行者と文責者の厳重処分などを申し入れ、中国側は大体日本側の要求を呑んだ。
そこへ陸軍武官の磯谷少将が「軽すぎる。国民党の解党を要求すべきだ」と、有吉大使や私に要望したが、有吉大使は断った。
218 不敬事件や国旗侮辱事件は逆効果である。天皇自身は騒ぎをしてくれるなというだろうが、政治家や右翼が事件を利用し、言論機関はそれに迎合する。
一方、英社会は何等異議を唱えなかった。ブレナン英総領事は、「外国人がどんな批評を加えようと問題ではない」と言った。
219 有吉大使や私に「不忠の臣、ただちに自決せよ。罪を闕下(朝廷)に謝せ」と、血書した匿名の手紙が届いた。領事館警察が犯人を1人突き止めた。それは上海常住の小型浪人の西村展蔵で、数人の子分にやらせていた。また西村の背後に陸軍補佐官の影佐中佐209がいることも判明した。
警察は影佐を追求できなかったので、私は磯谷武官に影佐中佐の処分を迫ったが、磯谷武官は受け入れなかった。私は外務省に報告し、陸軍の注意を喚起するように要請したが、なしのつぶてだった。
第一次近衛内閣の宇垣一成外相が、興亜院問題*で職を辞した時も、当時の陸軍軍務課長・影佐大佐が浮上した。また影佐は、汪精衛を重慶から脱出させ、南京に遷都させた。影佐は謀略にかけては土肥原賢二将軍にまさる。
一方磯谷武官は「上海の正金・三井・三菱などの大銀行が、天長節でも平日通り店を開けているのは不都合だ。なぜ休業して祝意を表させないのか」と私に苦情を言った。彼は国際為替銀行の性質を知らない無茶な国粋論者だった。
また総領事館での天皇節レセプションで、私が大礼服で、宗子文が平服で、写真を新聞記者が撮ったら、磯谷は「大礼服で平服の宗氏と一緒に写真を撮らせたのは媚態だ」と、私に悪声を放った。磯谷は軍務局長として東京に去り、喜多少将が後任(陸軍武官)として来任した。
*興亜院問題とは1938年、軍部が興亜院をつくり、軍部だけで現地中国での外交方針を決定し、外務省の機能を骨抜きにしようとしたことである。これをうけて外相宇垣一成は辞任した。
興亜院設置に外務省が強硬に反対したが、結局、満州政策における「対満事務局」と同様の機関として新設された[2]。興亜院の設置は外務省の対中外交に関する権限の縮小につながり、宇垣一成外相の辞任の一因となった。
興亜院は実質的に陸軍の出先機関に近く、初代長官には陸軍中将の柳川平助が就いたほか、最重要ポストの政務部長も陸軍出身者が占めた[2]。また、政務部第一課と第二課は海軍大佐と陸軍大佐がポストを分け、外務省からは経済部長や政務部第三課などの地位に就くにとどまった[2]。Wiki
220 大東亜模擬戦、日本の惨敗
上海共同租界の行政組織である市参事会員数は、英米日の上海における権益量を反映し、英5、米2、日2の計9議席であった。もともと日本は議席をもたなかったが、紡績業や大商社の進出によって日本の権益量が増加し、英国が日本に2議席を譲った。
市参事会員選挙は領事団が管掌し、租界憲章に基づき、毎年2月に行われた。
222 土着居留民は日本の議席数の1増を狙ったが、私はその要望を抑えた。土着居留民はイギリス側が市参事会員の多数を占めて工部局に影響をあたえていることが面白くなかった。それは偏狭な国家主義の発露でもあった。
私は選挙よりもイギリス側の妥協による会員数の増加を求めた。ところが1936年2月、各派連合会の林雄吉が、3人立候補を私に求めた。ブレナンイギリス総領事は日本人3人案に反対だった。結局私は3人立候補説に同調した。満鉄支社の郷敏、三井支店長の卜部卓、弁護士の岡本乙一に立候補を引き受けさせた。林雄一が選挙長で、独伊の票を集めた。
「ノース・チャイナ・デーリー・ニュース」は「イギリス、アメリカ結集して日本側の野望をたたきのめせ」と連日書き立てた。英は候補者を5人に絞った。
工部局が選挙結果を発表した。卜部氏が落選し、後の二人は最下位で当選した。
225 票の数え損ないが発覚し、私は選挙のやり直しと日本側候補者2名とすることを居留民の主だった人々に提案した。ブレナンもやり直し選挙は無選挙にできるとしてそれに同意した。
選挙後、日本人居留民は工部局のイギリス人吏員の責任を追及した。
226 イギリス人は普段は足並みが乱れることもあるが、一旦共通の利益が侵されるとみるや、感情をプールしてこぞって相手に立ち向かうということを発見した。
上海領事団――ブレナン総領事
領事団には二種類あった。中国に対して治外法権を持たない国を含めた領事団と、持つ国だけのそれである。上海には20か国以上の領事がいた。治外法権を持つ国の領事団は、共同租界の行政に指揮監督権をもち、「条約国」と呼ばれた。
領事団長は先任順に、初めアメリカ総領事のカニンガム、後にイギリス総領事のブレナンであった。
月一回の定例領事団会議で、私は日本政府の政策を体して意に染まない主張をし、会議を困らせることが何度もあった。
227 呉鉄城市長
上海は特別市で、省と同位である。呉市長の前の市長は、黄郛(ふ)、張群であった。
満州事変後の日本は中国に対して嵩(かさ)にかかって詰め寄った。それに対して呉市長は日本側の親切心を求めた。私はそれを本省に報告したが、さざ波も立たなかった。
「大題小做」ターテーシャオツオ、大きな事件でも小さく片付けることが、私と呉市長のモットーだった。
228 上海から見た日本の世相
私は3年10か月上海に在任したが、この間の日本は自由主義が完全に国家主義・国粋主義に排撃され、政党と議会が凋落した。満州事変から五・一五事件へと軍の圧力が増大し、その証拠は大阪のゴーストップ事件に現れている。軍内部では派閥が相克し、革新思想と下剋上が錯綜し、相沢事件*、二・二六事件の中で兇器の威力が発揚され、国民も言論機関も軍の睨みに射すくめられ、右翼と軍の合作である国体明徴論に政府・議会・国民教育が屈従した。
*相沢事件 相沢三郎陸軍中佐が1935年8月12日、政党や財閥を敵視し、永田鉄山軍務局長を斬殺した。相沢が銃殺刑に処せられるとき、(周囲の相沢支持者によって)君が代が歌われたという。
日本は斎藤内閣の下に国際連盟を脱退し、連盟総会から退席して帰国した松岡代表は、国民歓呼の声に迎えられた。
斉藤内閣の内田外相は焦土外交を唱えていたが、内田に代わった広田外相は、就任当初の議会演説で万邦協和を強調し、「拙者在職中は戦争は起り得ない」と言明し、アメリカのハル国務長官に平和メッセージを送った。しかし間もなく天羽声明*で協調主義が破綻し始め、広田外相自身もワシントン軍縮条約を破棄しなければならなくなった。
*天羽英二は外務省の情報部長。1934年4月17日、天羽は列国の対中援助を非公式に非難した。これに対して列国は「日本のモンロー主義」だとして批判した。それを受けて広田外相は、「中国の主権を侵害したり、第三国の権利を無視したりはしない」と弁明した。
天羽声明の内容は、「中国が列国から援助を受けたり、日本を排斥したりするのには反対だ。列国が満州事変や上海事件に関して中国を擁護するならば、それが財政援助や技術援助であっても、それは政治的であり、日本はそれに反対する。」
広田内閣は二・二六事件後の政局を担当したが、組閣に当たって軍から痛めつけられ、軍部大臣現役制の復活を迫られ、完全に軍門に下った。
230 1933年の年初から関東軍は熱河の張学良軍を討伐して長城の線を確保し、その5月、中国軍代表との間に、塘沽停戦協定を結び、冀東地区を非武装地帯とした。そしてこれがもとになって、梅津美治郎(よしじろう)・何応欽協定1935.6.10や、土肥原・秦徳純協定などの現地協定が結ばれた。しかし、これらは関東軍や華北駐屯軍がそれらの一存で、つまり外務省とは無関係に、中国側に強要したものであり、日本政府はそれらを既成事実として押しつけられたのである。華北における外交権は、全く軍の手に帰した。
軍は華北の「特殊地帯化」を企図した。殷汝耕の冀東防共自治政府はその最初のものであった。他方、国民政府は日本に対する「緩衝機構」として、北京に、冀察政務委員会を設けて「一時逃れ」をしようとした。日本政府は華北における軍の行動に何ら掣肘を加えることができなかった。
その頃の日本政府の対華交渉の基調は広田三原則であった。
一、中国は排日を徹底的に取締り、対日親善政策を採用すること、
二、中国は満州国の独立を黙認し、華北と満洲国との間に経済文化の融通・提携を行うこと、
三、外蒙から来る赤化勢力を排除するため、中国は日本の希望する諸施設に協力すること。
中国はこの三原則を歓迎しなかった。その文面が拡張解釈される恐れもあった。
しかし有吉大使はこの三原則に基づいて汪精衛外交部長と、また蒋介石と交渉し、その結果日中間のしこりが解けかけ、華北における日本の専横な策動は別にして、日中関係が「正常化」しつつあった。1935年5月の大使館昇格や、その6月の中国政府の「邦交敦睦令」の発出はその成果である。
感想 最後で述べられている「成果」は本当か。また、広田三原則は、梅津・何応欽協定や、土肥原・秦徳純協定と排日行動の禁止の点で似ているように思えるのだが、著者は別物のように扱っている。
231 我観蒋介石
満州事変1931後の数年間は、「蒋介石と汪精衛の時代」であった。汪精衛は行政院長兼外交部長として「一面抵抗一面交渉」の標語の下に日中の国交を調整し、蒋介石は軍事委員長として共産党を討伐した。
国民政府は中共問題に悩んだ。1927年の北伐後、国共が分裂し、中共は各地にソビエト運動を開始し、江西省の瑞金に中共中央政府を樹立した。これに対する国府軍の屡次の討伐は失敗したが、1933年10月の第五次討伐が奏功し、1934年10月、中共は瑞金を捨てて大西遷を行い、陝西の延安に政府を開いた。
国府軍は共産党との戦いの中で実力をつけ、蒋介石は声望を高め、汪精衛よりも優位に立った。
232 1933年の蔡延錯による福建人民政府樹立や、1936年の広西の李白の抗日戦促進は、反蒋介石の運動であったが、蒋介石はこれらを軽く抑えつけた。
1935年10月、南京での国民党六中全会で、汪精衛(汪兆銘1883-1944名古屋で病死)行政院長が凶弾に傷つき、同年12月、外交部次長の唐有千が上海の自宅で暗殺された。
当時日本の新聞雑誌は蒋介石を批判し、軍部も蒋介石を、「排日抗日を利用して自己の覇権を確立しようとする中日国交上の障害物」としてとらえたが、有吉大使は、蒋介石との接触を通した結論として、「中日国交回復の同志」としてとらえた。
蒋介石は1935年11月の国民党六中全会で、日中関係を諦めておらず、抗日論を戒めた。
233 蒋介石は大使館付の磯谷陸軍武官に、「中日国交の調整は、私の在職期間中だけで可能である」と語った。また中国の某民間人も私に、蒋介石が「説到那児弁到那児」(言行一致)の人だと評価した。
私が上海を去るころは中日関係が改善しそうになっていた。確かに危険もあったが、蒋介石が存在して日本側も対華態度を反省すれば、中日関係は破滅しないと思った。
私が上海を去った年の12月、西安事件1936.12.12についてバンコクで聞いた時、私は蒋介石の命運を憂えた。その後蒋介石の『西安半月記』が刊行されたが、その中で、蒋介石が所信を曲げなかったことが示されている。
234 上海と二・二六事件
1936年2月26日の早朝から、理由も分からず、日本との電信連絡が途絶した。ただ1本、払暁に、正金支店に電信が入り、日本で何か重大な異変が発生したことを示唆した。
午後に電信が復旧し、外務省情報部からも公電が届き、その最後に「あまり事態をアラーミングにとらぬようにせられたし」とあった。千何百という兵隊が兵変を起こし、内大臣や首相を始め、政府の首脳たちが暗殺されたのに、「アラーミングにとるな」とは何たるたわごとかと、腹がたってならなかった。
「東洋の安定勢力」と外には誇称しても、内では近年暗殺騒ぎではないか。これでは日本の政府は、「暗殺の、暗殺による、暗殺のための政府」ではないか。正に「狂暴性脳梅毒症状」だ。日本はどこへ行く、私はそう叫んだ。
その日の夕方、折柄来遊中の世界的声楽家のシャリヤピンを紹介するためのレセプションが、上海白系ロシア人社会の領袖、C・メツラー氏夫妻の名において、フランス俱楽部で開催された。そこで私は梅蘭芳と知り合った。みんなが私のところに寄って来て、「東京の事件はどうなるのだ」と言う。「なあに大したことはない、そのうちに鎮定される」と何気ない風を装ったが、私は一流国にはあるまじき醜い姿を覗かれた気持ちで内心恥ずかしさでいっぱいだった。
235 二・二六事件に続いて、お定エロ事件が起こった。クラブでも料亭でも数人集まれば、この話で持ちきりで、いつも取りすましている「ノースチャイナ・デーリー・ニュース」も細かく報道した。この事件は国際的爆笑を買った「朗報」であった。
上海知人録
上海は国際都市である。多くの著名人がここに住み、ここを訪れた。
大谷光瑞(こうずい)氏は上海に居住してはいなかったが、来ると西本願寺別院に長逗留した。博学で独創的な対外強硬論者であり、それを喜ぶ人もいたが、その異常性格のために、識者からは敬遠された。
なめらかな京都弁で腰が低かったが、馴れ馴れしくふるまうと不興を被って、どこかで仕返しを受ける。この人には「猊下」(げいか)という敬称が不可欠であると言われた。大谷氏が乗った船の船員たちは、慎重にご機嫌を取らないと、船長を非難する毒舌が本社に飛ぶと言われた。有吉大使はロンドン以来の友人で親しく交際していたが、私はいつも適当な距離を取った。蔭ではみなが「光瑞坊主」と呼びながら、面と向かっては「猊下、猊下」と奉った。
236 勅撰議員の坂西(ばんざい)利八郎陸軍中将も度々やって来た。中国通で、貴族院に存在価値を持ち、「色揚げ」目的だったようだ。来ると李択一氏がどこからともなくやって来て、坂西に形影相伴った。
松井石根将軍も一、二度やって来た。大アジア主義なるものを中国人に押し売りし、至る所で気まずい話題を醸し、中日国交上有害であった。
237 同文書院同窓の長老山田純三郎氏は、兄の良政氏以来、兄弟相継いで中国国民党員で、孫文の信頼を受けた。
自然科学研究所は中国にとっては文化侵略機関であった。
中華学芸社は日本の文化事業費でフランス租界につくられた。
リース・ロス氏は中国の幣制改革のために来た。
238 1932年来、中ソ国交が回復され、初代駐華大使ボゴモロフ氏と、その後にやって来たクリチンスキー総領事は、上海では孤立していたが、革命記念日のレセプションだけは、ソ連総領事館は賑った。
238 上海での私生活
240 シャム公使へ転任
「三シャを避ける」という言い伝えがあった。ギリシャ、ペルシャ、シャムの公使である。不潔で官歴の袋小路だからだ。
1936年7月の初め、家族と上海を発ち、東京に向かった。
「大公使心得」を人事課から渡された。
・三陛下*始め各宮家に参向して、任地御礼の記帳をすること、
・出発前、天皇陛下に拝謁を願い出ること、
・明治、伊勢、橿原の三神宮に公式参拝すること、
・総理と各大臣に挨拶の名刺をおくこと、
*三陛下とは天皇・皇后、上皇・上皇后、皇太后。
私は宮家への記帳廻りを略し、天皇への拝謁も御遠慮申し上げ、参拝は伊勢神宮だけで御免蒙った。各大臣への名刺置きもばかばかしいのですっぽかし、ただ総理大臣だけに面謁した。広田は総理たるの貫禄に捉われ、すっかり往年の明朗さを失い、無表情で話に乗ってこない。用心深さだけが感じられた。
池田成彬(しげあき)は三井物産内にシャム室を置き、シャムの流寓(放浪)政治家プラ・サラサスを客員として、シャム事情を研究した。(三井物産は同社員の本多敏郎に娘を嫁がせた会社239)
242 輸出超過の日本・シャム親善
シャムは1933年2月の国際連盟総会の、満州事変に関するリットン勧告案の採決で棄権して以来、日本のジャーナリズムが喝采し、シャムとの親善がはやり物になった。シャムが日本に対して厚意を持っていると解釈されたのだが、それはうぬぼれか政策的であり、シャムは冷静だった。安川雄之助を団長とする経済親善使節団は押し売り親善であり、シャム政府は迷惑がった。私は親善の押し売り行為を退けた。
ミトラカム駐日シャム公使は、日本式宴会には紋付和服姿で出席し、新・柳二橋*では「桜さん」で通っていた。
*新・柳二橋 明治時代から昭和初期にかけて隆盛を極めた新橋と柳橋の二つの花街のこと。新橋には金田中、新喜楽が現在でも営業しているが、柳橋では昭和初期まで亀清楼が栄えたが、現在は存在しない。
244 クラ地峡開鑿夢物語
クラ地峡開鑿案について新聞で喧伝された。クラ地峡が開鑿されるとシンガポールの価値が下がるので、イギリス紙もこれを取りあがた。しかしよく調べてみると、これは千三つ屋*の着想であり、実現性はなかった。
*不動産業者を皮肉った言葉で1000の言葉のうち本当のことは3つしか言わない。
245 赴任途上
1936年9月下旬に東京を発ち、伊勢を参拝し、神戸からシンガポール経由のヨーロッパ航路の郵船白山丸に乗船した。東京で沼田源太郎夫婦をコックに雇って同伴した。
門司で前任者矢田部公使と面談した。矢田部公使は8年間熱帯で勤務し、神経痛を患い、歩行も不自由であった。
門司から上海、基隆(キールン)、香港を経由した。
船長や事務長は私を閣下と呼ぶ。私はこの敬称のもつ陸軍的語感が嫌だった。断ったが、郵船では大公使を閣下と呼ぶ定めになっていた。
シンガポールで英字紙の記者からクラ地峡開鑿について問われたが、根拠のない流説だと答えた。出迎えてくれた郡司喜一総領事によれば、クラ地峡問題の他に、もう一つシンガポールの神経を刺激する事件が起こっていた。
246 日本の某海軍将校が身分を偽ってシンガポールの軍港に関するスパイ行為を働いて追い出され、それを手伝わされた日本人会長が自決したのである。
インド独立の志士を自認する千田牟婁(る)太郎に会った。
鉄路をシンガポールからシャムへ向かったが、公園からジャングルに変化した。到着したバンコクでは雨季の終わりころであった。
12 シャム公使としての半年
247 公使館と居留民
248 シャムの欲する日本・シャム親善
1932年、無血革命で立憲民主政治が確立された。
249 国際連盟でのリットン勧告案の票決で、イエスと投ずれば、日本が怖いし、ノーと投ずれば、国内250万の華僑が納まらない。シャムはやむなく無難な棄権に逃避したのだが、日本はそのことを知らない。
250 プラジット外相
251 ピブーン国防相の失言 ピブーン国防相はラジオで国民に呼びかけた。「シャム国内を通過してシンガポール攻略を狙う日本と、それを押さえて北進するイギリスに備えなければならない。」
日英はこの発言に抗議した。ビブーンは失言を認め、放送のやり直しを約束した。
252 バンコクでの私生活
バンコクには東京にはないものが三つあった。冷房装置付きの映画館、市中にあるゴルフ場、エレベーター付きの中華大飯店「海天楼」である。
外務省人の郡司喜一『十七世紀における日本・シャム交通史』と元在シャムのイギリス領事ウッド『シャム史』を読み、山田長政を知った。
254 シャム史上の山田長政
山田長政はシャムではオクーヤ・セナー・ピモックというシャムの官名で知られている。
日本の伝説では山田長政は在留日本人を義勇軍に組織し、外敵の侵攻を防ぎ、六昆王リゴールに封ぜられたとするが、シャム史では内戦での活躍となっている。
国都やアユチヤの長政の残党の住む日本人町は、シャムの陸軍大臣によって殲滅された。現在長政祠がある。
ボルネオのサラワク王国はイギリス人ジェームス・ブルックによって建設され、今でもそれが残っている。
256 Legate Mr. Ishii 『東洋』のシャム座談会
三島通陽子爵の青少年団が来訪した。
日本側の醜悪な思い上がり 大蔵公望関係の雑誌『東洋』のシャム座談会で、経済使節団長の安川雄之助や大蔵、尾崎某が、「シャムなんて国は人類の住むべき所ではないですね」「シャム人は動物が人間の形に変わったものです」などと暴言を吐いた。それが留日シャム学生の目に触れて、憤慨を買い、在京シャムの公使館もそれを問題にした。安川は東京シャム協会の副会長であった。
259 シャムからの展望
1936年11月の日独防共協定は、額面そのままに受け取れなかった。越年し間もなく1937年、広田内閣が総辞職し、宇垣氏の組閣が流産し、林銑十郎内閣が成立したが、これらを通してみえることは、内閣の生殺与奪はいよいよ陸軍の手中に帰したのかと心を暗くした。
林内閣の佐藤尚武外相が「戦争に直面するのもしないのも日本次第」と表明したことに対して、軍部や右翼が「時局認識の不足」として問題視したが、私は日記に「日本は滅びる」と書いた。
1936年秋から川越大使と張群外交部長との間で国交調整交渉が開設されていたが、その11月に綏遠事件が発生して頓挫した。綏遠事件は内蒙における関東軍の謀略によるものであり、全中国を対日強硬論に駆り立てた。
続いて西安事件。私は中日国交の明日への望みを蒋介石にかけていたので、その生還の報を喜び、祝電を呉上海市長に送った。蒋介石は西安を去る時、張学良と楊虎城に訓戒を与えたが、私はそれをバンコクの華僑紙で読んだ。言々句々に愛国の赤誠があふれ、私の胸を打った。
260 イギリス国王エドワード8世のシンプソン事件*が起こり、国際連盟はイタリアのエチオピア攻略を抑えることができなかった。世の中は合従連衡に還元しつつあるかに見えた。
*1936年、エドワード8世は、離婚歴のある米女性ウオリス・シンプソンとの結婚のために、教会や政府の反対を押し切って王位を投げ捨てた。(反対する方がおかしいのでは。当時のイギリスでも保守的だったことが分かる。)
公使から東亜局長へ
1937年3月末、本省から東亜局長就任を打診されたが、「私は中国を本領とするが、現下の状勢で良心的に勤まるか」と呻吟した。一晩考え、「対華問題につき大局的見地から軍側とそりが合わないことを承知ならば」と返事をした。私の後任は村井倉松シドニー総領事であった。
4月22日、従者の沼田夫妻とバンコクを発ち、アンコールワット、サイゴンを経由して日本へ戻った。
13 東亜局長時代――中日事変
感想 2026年3月23日(月)
石射猪太郎さんが外交官として活躍した戦前は暗い時代だったと思うのだが、石射さんの文章を読んでいて暗さが感じられない。為政者から苛められる共産党員のような立場ではなく、為政者の側にいたせいもあるだろうが、暗さを暗いと感じない強さがあるのだろう。それは石射さんがたたき上げの人であったこととも関係するのかもしれない。石射さんが外交官になったのも、何年もかけて検定試験に合格したからであった。
石射さんは戦後公職追放にあったが、日中戦争中は、日中は和解すべきだという自らの信念を主張した。軍部が新たな機関をつくって外務省の機能をそこに移管させ、対中政策を軍の下に置こうとしたとき、外相の宇垣一成はそれに抗して外相を辞任したが、石射さんも東亜局長の地位を辞し、結局オランダ公使への配転となった。1938年9月末から10月初旬ころの話である。当時軍部は「対華中央機関」(興亜院)をつくって外務省の対中政策を骨抜きにしようとしていた。
メモ
263 近衛内閣の出現
私が日本に帰国した当時の外相は佐藤(尚武)で、東亜局長の、私の前任者は森島守人であった。そのころは、1937年3月末に林内閣が「食い逃げ解散」した後の選挙中であった。林内閣は総選挙で敗れ、5月末に退陣した。
6月初め、近衛内閣が国民に待望されながら成立した。広田が近衛に懇請され副総理格の外相になった。広田は平和主義者で国際協調主義者なのだが、先年、広田内閣は組閣時に軍部の注文を唯々諾々と受け入れ、軍部大臣現役制を復活した。
近衛首相は中国を始め外国からも期待された。日本一の家柄、西園寺公望元老のホープ、革新思想、軍部中堅層に支持され、颯爽とした美丈夫で、内閣の一番番頭に新聞人を抱え、ジャーナリズムの受けも良かった。しかし近衛の側近は近衛を「本領のないインテリ」と評した。
265 中日事変の勃発
中日国交調整は昨年1936年11月の綏遠事件以来途絶えていた。1937年春の、佐藤外相による「平等の基礎に立つ中日国交調整論」や、5月に帰朝した川越大使の対華再認識論は、中国側に新鮮味をもって迎えられたが、中日関係の癌である華北の現実は、悪化しつつあった。中日の緩衝役である冀察政務委員長の宗哲元は、華北特殊化を目指す日本軍の要求に耐えかねて、この1937年5月、展墓(墓参)を口実に故郷の山東省に逃避したままであった。日本軍はいらだっていた。一方国民政府は華北の特殊化を許さないと表明していた。
綏遠事件による対日強硬論と、西安事件による内戦停止と一致して外に当たるという国共妥協が、国民政府の強い態度の根拠であった。
日本駐屯軍は不穏な空気をもち、国交調整案は日本にはなかった。「今さら広田三原則230でもない。」
私は国民政府の外交部亜洲司長の高宗武との私的会談を計画したが、盧溝橋事件勃発で一切が夢になった。
266 1937年7月8日の払暁、私が外務省に着くと「とうとう始まったね」と河相達夫情報部長に言われた。広田(弘毅、文官としては唯一死刑)大臣、堀内謙介次官、東郷茂徳欧亜局長と私は、事件不拡大、局地解決の方針を決めた。事端は「中国軍の不法射撃」とされるが、柳条溝の手並みを知っている我々は、「またやりやがった」と思った。
その日8日の午後、後宮(うしろく)淳陸軍事務局長と豊田副武(そえむ)海軍事務局長と私は、事件不拡大の方針を決めた。(三省事務当局会議)
午後の閣議では、事件不拡大、局地解決の方針が決定され、陸海外の出先機関に訓令され、現地で善後交渉が開始された。
ところが11日の日曜日に緊急閣議が召集された。陸軍事務局から(外務省)東亜一課に、「今日の緊急閣議に陸軍大臣から三個師団動員案が出るので外務大臣が葬ってもらいたい」という。
267 その日の朝の9時、私は広田大臣に三個師団動員案への反対を要望したが、閣議ではあっけなく同案が可決された。広田大臣は、「居留民の保護と現地軍の自衛のために必要が生じたときだけに動員するという条件付きで、万一のための準備動員案だから、主義上異議なく可決された」と言う。私と東亜一課は広田大臣に失望した。
しかも(近衛)内閣はその11日の晩「重大決意をなし、華北派兵に関し、政府として執るべき所要の措置をなすことに決した」という声明を発表し、翌12日の夜には、政界、言論界、実業界の多数有力者を首相官邸に集め、首相自らが、政府の決意に対する了解と支援を求めた。官邸はお祭りのようににぎわっていて、政府自らが気勢を上げて事件拡大の方向へ滑り出そうとする気配であった。
その言い訳は、「事件があるごとに政府は後手に回って軍部に引きずられるのが今までの慣例だったので、今度は政府が先手を打って軍をたじろがせた方が事件解決に効果的だという首相側近の考えからやったことだ」という説明だった。
268 石原少将――風見書記官長
当時参謀本部第一部長の石原莞爾少将が、一カ月ほど前に、外務省の幹部会で「わが国防上最も関心を持たなければならぬのは、ソ連への護りである。中国に兵を用いるなどはもってのほかだ。自分の目の玉の黒い中は中国に一兵も出さぬ」と言い切っていた。
確か7月13日、私は河相達夫情報部長の斡旋で、平河町の河相氏宅で石原と会談した。河相も同席した。そこで事件局地解決の方針を約束した。石原は「この会談は秘密にしてくれ。軍内部の連中や右翼が自分の行動を付け回して困る」と言う。石原は作戦用兵を掌っていた。
7月11日、現地では解決条件が日中相互間で成立し、山東省に逃避中の宗哲元が駆け戻って事件の前後処理に乗り出し、日本軍は橋本群参謀長の下に平静を保っていた。
南京でも事件解決交渉が行われた。事件発生の直前、川越大使が華北に出張していたので、日高参事官が本省の訓令を受けて、外交部と折衝した。国民政府はもとより不拡大方針だったが、解決条件が中国の主権を侵害するなら容認しないという建前だった。
7月18日、日曜日の夕方、風見章(あきら)書記官長に呼ばれて首相官邸に行く。中日問題の解決案を乞われ、書面にして提出した。広田外務大臣にも提出した。
269 蒋介石氏の廬山演説――三個師団動員決定
7月11日の日本政府の重大決意表明は中国側を刺激し、中央軍が北上した。そして7月19日、蒋介石は廬山会議で重大声明を発表した。一昨年1934年の六中全会では蒋介石は「中日国交は未だ最後の関頭に達していない。軽々しく犠牲を言ってはならない」と急進抗日を抑えたが、今回はその最後の関頭の到来を宣言し、中国主権擁護の決意を国民に訴えた。悲憤の大演説であった。
7月20日、政府は閣議を招集し、三個師団動員を議決した。
270 その日の朝、私は後宮(うしろく)淳陸軍事務局長と豊田副武(そえむ)海軍事務局長266と、三個師団動員問題を議論した。海軍と外務の両局長は絶対反対であるのに対して、陸軍の後宮局長は「個人としては反対だが、部内情勢上また国内情勢上、動員はやむを得ない」と頑張った。
7月20日の午前に閣議が始まる前に、私は外務大臣宛てに、石射・上村の連名で嘆願書を作成して大臣に渡した。
大臣は夜の11時過ぎに戻ってきた。三個師団動員は大した議論もなく閣議で決定され、外務大臣もそれに賛成した。
翌7月21日、私は上村一課長と連名で、外務大臣に辞意表明をした。広田外務大臣はいつもと違って「黙れ、余計なことを言うな」と一喝し、「「動員はしても事態が急迫しない限り出兵はしない」と陸軍大臣が言っており、また現地は解決に近いのだから、しばらく成り行きを見守ることにして辞表は撤回してくれ」と言ったので、簡単にそれに従ってしまった。
柴山軍務課長が華北に行って来て「現地は冷静で、解決条件は次第に実行されつつある。増兵の必要なし」と報告した。現地(天津軍)の橋本参謀長からも「援兵無用」の急電があった。
272 軍は動員をしばらく見合わせた。
7月23日、陸軍が現地協定の内容とその実施状況を発表した。朝の三局長会談で陸軍の柴山軍務課長が代理で出席した。後宮軍務局長が「中央軍の撤退を南京に外交工作してくれ」と(私に)せがんだが、私は「問題が解決すれば、そんな工作はいらない」と退けた。7月25日、日高・高宋武会見で、国民政府も現地解決条件を黙認する意向とのことである。
三人づれの悪魔
一つ目の悪魔 しかし7月25日から26日にかけて郎坊事件が起こり、日中両軍が撃ち合ったことから形勢が逆転した。日本側は責任を中国軍の不法射撃とするが、動機は日本軍末端の不必要な動きが作ったものと私は判断した。
日本の現地軍は態度を硬化させ、最後通牒を宗哲元につきつけ、29軍の保定方面への全面撤退を要求し、容れなければ「自由行動をとる」と通告した。
満州事変以来、国防のための飼い犬は、ここでも主人にお構いなしに、相手にかみつかんと猛けるのであった。
273 もう一つの悪魔 同じ7月26日の夕刻、広安門から北京に入城しようとしていた日本部隊が、城壁上の中国軍から兵火を浴びた。中国軍の故意か誤解であるとされた。橋本参謀長も部内の興奮を押さえきれないと考えた。部下の参謀に、名うての策謀家和知鷹二中佐がいた。
宗哲元は屈辱的条件の受諾よりも抗戦を選ぶと中国政府に告げて支援を求めた。
軍は27日の閣議に、三個師団の動員を通告し、臨時議会には事件費9,700万円を要求した。議会はそれを鵜呑みにし、華北派遣将兵への感謝決議まで行い、政府は軍事行動礼賛の声明を発表した。
7月28日の早暁、29軍に対する膺懲戦が開始された。ジャーナリズムは政府の決意を礼賛して怪しまず、民衆は戦争熱に浮かされた。(南苑攻撃)
三つ目の悪魔 7月29日、傀儡冀東政府の保安隊1,500が叛乱し、通州の日本守備隊、領事館警察、居留民の250人を殺傷した。これは日本軍の油断が招いた惨劇だったが、罪は29軍の扇動に帰せられた。(通州事件)
274 天皇のお思し召し(天皇のお思し召しによって始まった和平工作だったが、大山事件によって破産した。大山事件が日本軍によって敢えて仕組まれていたことは、笠原十九司『南京事件 新版』が語っているところである。)
広田大臣によると、(通州事件が起こった)7月29日の晩、天皇から近衛首相に「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」とお言葉があった。
7月31日、柴山軍務課長が来訪し、「停戦を中国側から言い出させる工夫はないか」と相談してきた。私は「私の全面的国交調整案を停戦交渉と平行的に試みれば、停戦の可能性がある」と答え、その国交調整案を柴山軍務課長に説明した。
私は柴山とは20数年前に知り合った。柴山は陸軍部内でも最も正しく中国を理解する第一人者であり、そのため柴山は部内でたびたび忌まれた。また梅津陸軍次官の信任も厚いと言われた。
船津工作
8月1日の午後、陸軍の柴山課長、海軍の保科善四郎軍務一課長と私が会同し、私は停戦交渉と全面的国交調整案に関する私の腹案について説明した。
その腹案とは、ちょうど都合よく滞京中の在華紡績同業会理事長の船津辰一郎に停戦案と全面的国交調整案とを授けて上海に行ってもらい、船津自身が仄聞(噂に聞く)した日本政府の意向として、それを高宋武亜洲司長に試み、その受諾の可能性を見極めた上で、外交交渉の糸口を開くというものであった。
なぜ船津を介在させるのか。それは今、日中政府とも重大決意を表明し、「断乎膺懲」、「徹底抗戦」を叫んでいがみ合っている時に、停戦案と全面国交調整案をいきなり外交交渉に載せるのは、機微に過ぎるので、まず私人の船津を通して局面収拾の可能性を相手に示唆して国民政府の抗戦意識をほぐすべきである。高宋武はかねてから中日和平に専念していたし、船津は高と親しい。交渉の糸口はここから開けるに相違ないと私は考えた。
この着想に陸海両課長は賛成した。船津は東大病院で病気の妻に付き添っていた。妻は重体だったが、広田大臣からの懇請もあり、船津は引き受けてくれた。
保科(海軍)、柴山(陸軍)、上村伸一(外務東亜局一課長263)の三課長を会同して停戦案、国交調整案を練った。
船津は8月4日の夜の9時半、東京から上海に向けて発った。上海の岡本季正総領事278に対して、紡績同業会の堤孝理事に事情を話して高宋武を船津との会見に誘い出すよう、また外務の出先は手を引いているように訓令した。
8月7日未明、三省事務当局案が、陸海外三大臣会議で確定され、上海総領事に発電された。
276 停戦交渉案の要点
一、塘沽停戦協定その他華北に存する従来の軍事協定は一切解消せしめる。
一、特定範囲の非武装地帯を設ける。(満州国との間にということか。)
一、冀察・冀東両政府を解消し、国民政府において任意行政を行う。
一、日本駐屯軍の兵力を事変前に還元せしむる。
一、停戦の話し合いが成立したる時は、中日双方において従来の行き掛かりを捨て、真に両国の親善を具現せんとするニュー・ディールに入る。
277 国交調整案の要点
一、中国は満州を承認するか、「満州国を今後問題とせず」との約束を隠約の間になすこと。(これは中国は受け入れないのではないか。)
一、中日間に防共協定を為すこと。
一、中国は全国に渡り、「邦交敦睦令」を徹底せしむること。
一、上海停戦協定を解消する。
一、日本機の自由飛行を廃止する。
一、両国間の経済連絡貿易の増進を図ること。
停戦交渉案の中の「ニュー・ディール」の中には、中国に対する経済援助、治外法権の撤廃が考えられていたが、それは国交調整交渉の過程で明らかにすることになっていた。また国交調整案中の(中国による)「満洲国の承認」は、中国にとっては不可能であることは明らかであるが、「中日間の癌である満州国のことは、もう強いて触れないほうがよい」という意向が、国民政府の中にあるという信ずべき情報が事変前にあったので「今後これ(満州国)を問題とせずとの約束」が出てきた。
川越大使の介入――船津工作の流産
紡績同業会の堤孝理事が、高宋武氏と連絡を取り、8月9日に上海で高・船津会談が行われることになった。ところが8月8日に川越大使が華北から上海に帰任し、船津の代わりに川越自身が高宋武と話すと言い出し、停戦交渉案や国交調整案は部分的にしか話されず、不十分な結果になった。またそれどころか、8月9日の夕方に大山事件が起こり、私の和平工作は失敗に終わった。
川越大使は静養のために青島に行っていたが、事件発生後は北京・天津へと北上し、大臣からの帰任の訓電を無視し、なかなか上海に帰ってこなかった。堀内謙介次官266の発案で、(東京に)在省中の三浦義秋漢口総領事を、(外務)大臣からの帰任督促使として、川越大使に差し立てた(差し向けた)。
8月9日、船津は高と会ったが、東京で授かった使命については何も話さず、その頃釈放された抗日救国連合会の首領の沈鈞儒等について話し、上海での排日策動の取締りを要望した。その後に行われた川越・高会談で、川越は「日本に寛容な態度の持ち合わせがある」としつつ、停戦案や国交調整案の具体的内容には十分に伝えなかった。
大山事件が船津・高会談の行われた8月9日の夕方に勃発した。
中国側が第一次上海事件の停戦協定区域を侵しているらしいという情報が海軍陸戦隊を神経質にし、海・外両省から現地当局に、第二の上海事件を起こさぬように訓令が出ていた。
大山事件はモニュメント路で起こった。そこは共同租界の行政権が及ぶ西部越界路の一つで、路面の外側は中国の行政区である。8月9日の夕方、陸戦隊の大山勇夫中尉は、部下の一人と共に自動車でモニュメント路を通行中に、中国保安隊に惨殺された。(これについては笠原十九司『南京事件 新版』を参照。問題を起こすために、死を覚悟の上で、敢えて突っ込んだのである。)
280 岡本総領事は、英米仏伊の停戦協定委員に依頼しつつ、兪鴻鈞(上海)市長に対して事件解決に当たった。ところが海軍は政府の承諾なしに佐世保から1000人を上海に増派した。
8月13日、戦争が始まった。陸軍の松井大将が軍司令官となって上海に向かった。
南京の日高参事官に、高司長に対して停戦案と国交調整案を打診させようとしたが、8月15日、日本海軍機が南京を空爆し、高氏と連絡がとれなくなった。そして日高参事官は本省の訓令で館員ともども16日に南京を去った。
日本政府は8月13日の臨時閣議で上海への大量出兵を決議し、14日、声明を出した。「中国軍の暴戻を膺懲し、南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとるの已むなきに至れり。此の如きは東洋平和を念願し、中日の共存共栄を翹望(ぎょうぼう)する帝国として衷心より遺憾とする所なり」とかっこをつけた。
8月15日の私の日記「無名の師(理由のない戦争)だ。それがもとだ。日本はまず悔い改めねばならぬ。中日親善は日本次第という中国の言い分は正しい」
8月21日の日記「午前9時半着の日高南京参事官によれば、国民政府は腹を据えて驚かない態度。空爆の日も南京は落ち着いていた。最悪の場合をもちゃんと予想してかかっていると。
日本は馬鹿にしてかかった中国に手ごわい相手を見出した。軍部のミスカルキュレーション。国民は愚にせられてウルフ(中国)を相手にしているのを知らないのだ。」
事変が全面的に拡大した結果、長江筋その他の居留民も出先官憲も、安全地帯に引き揚げさせた。
282 ジャーナリズム、大衆、議会(この一節はコピーに値する。当時の民衆の様子が分かる。)
盧溝橋事変の発生以来、新聞・雑誌は軍部に迎合し、政府の強硬態度に礼賛一色で、「中国膺懲」「断乎措置」に疑義を挿む論説や意見はほとんどなかった。人物評論では「明日の陸軍を担う」中堅軍人がもてはやされ、民間人や官吏は嘲笑を浴びせられた。(ジャーナリズムが)事変遂行に反対したり、軍部を非難すれば、すぐに憲兵にやられた。言論は軍部の課した枠内に圧殺された。対華和平工作のために近衛首相の密命を含んで上海に行こうとした宮﨑龍介が、神戸かどこかで憲兵隊に押さえられたという噂は事実らしかった。
*宮﨑龍介1892-1971 孫文の盟友宮崎滔天の長男。編集者、弁護士、社会運動家。
9月初旬に開かれた臨時議会は、またしても出征将兵感謝決議をして軍部のご機嫌を取り、事変費20億2000万円を鵜呑みにした。私は日記に「憲政はサーベルの前に屈し終わんぬ」と書いた。
この議会で近衛首相は、事変の局地収拾方針を転換し、全面的かつ徹底的打撃を中国に加える方針に切り替える旨を明らかにし、その目的を達するまでは長期戦も辞さないと説き、「諸君と共にこの国家の大事を翼賛し奉ることを以て光栄とする」と結んだ。
予めこの演説の草稿を入手した私は日記に「軍部に強いられた案であるに相違ない。中国を膺懲するとある。排日抗日をやめさせるには、最後までブッたたかねばならぬとある。彼は日本をどこへ持ってゆくというのか。アキレ果てた非常時首相だ。」
元来好戦的である上に、言論機関とラジオで鼓舞された国民大衆は、意気軒昂。無反省に事変を謳歌した。入営する応召兵を擁した近親や友人が、数台の自動車を連ねて紅白の流旗をはためかせ、歓声を挙げつつ疾走する光景が東京の街頭風景になった。「暴支膺懲国民大会」が人気を呼んだ。
283 「中国に対して少しも領土的野心を有せず」という政府の声明を国民大衆は本気にしなかった。彼らは中国を膺懲するからには、華北か華中かの良い地域を頂戴するのは当然と思った。
地方の有力者は外務省員にこう詰め寄った。「この聖戦で占領した土地を手放すような講和をしたら、我々は筵旗で外務省に押しかける」と。ある自称中国通は私に「山東や河北位をもらわにゃなるぬ」と意気込んだ。またある宗教家が来訪して「上海あたりを取ってしまえ。それが平和確保の道だ」と説いた。これはコーランを片手に、剣を片手にする回教牧師だった。
9月某日次官室に行くと、官界出身の知名の某勅撰議員が来訪中で、私に「こうなったからには長江筋の要処を割譲せしめ、その他の所を長期占領すべきだ」とすごい鼻息だ。私がこんな知識人でもそんな暴論を唱えるのかと腹立ちまぎれにその誤りを鋭く指摘したところ、彼は私の悪声を議会内に放ち、「こんな時局にあんな弱い東亜局長では困る」と言いふらしているらしく、同じく勅撰議員の小幡元大使が「人を見て法を説け」と注意してよこした。
私は印刷物を通して対華意見を発することは敢えてしなかったが、あちこちの私的小集会に希望に応じて出席し、事変遂行の不可を説いた。すると先輩の芦田均や郷里の助川啓四郎代議士が「君の対時局意見について、外部にとかくの噂がある。慎むがよかろう」と好意ある忠告を受けた。
285 一方、芳沢、出淵両氏を始め、時局を憂える諸先輩や民間人から、事変収拾についての建言が蝟集した。中でも上京中の上海満鉄事務所員の小川愛次郎の意見書は鮮明剴説(適切)であった。小川氏はその意見書を近衛総理や官界政界の要人にも送呈した。氏はたちまち憲兵隊に拘禁され、私は救出に苦心した。彼は在華多年、中国を最も正しく認識する人であった。
私はジャーナリズムの評判がかんばしくなかった。私が新聞人との会見に快く応じなかったからだと言われた。記者を相手に心にもない虚言を弄して場面を糊塗するのは嫌いだった。さりとて真実を語ればたちまちスクープに利用される。自然、触らぬ神にたたりなしという退嬰が私の対ジャーナリズムの態度であった。ただ朝日の幹部、神尾茂氏だけは例外で、交友30年のこの人は、真実を打ち明けても他言無用を絶対に確守した。
ヒューゲッセン大使の奇禍
日本政府は注意していたが、欧米列強の在華権益に対する日本軍による加害事件が多発した。アメリカから抗議を受けた件数は400件に上った。
8月26日、ヒューゲッセン駐華英大使が南京から上海に向け、イギリス国旗を掲揚しながら車で向かっていたところ、上空の飛行機から射撃され、背骨を銃弾が貫通し、重傷を負った。同乗者は日本軍機によるものと証言した。当時上空の制空権は日本海軍が握っていたので、犯人は日本海軍しか考えられないのに、日本側は1か月間それを否定した。当初艦隊長官・長谷川清中将が見舞ったが。
英大使館から謝罪要求が提出され、堀内次官とクレーギー英大使との間で折衝が行われた。
吉田茂在英大使からも英国の国民感情を害するとの来電があった。
事件発生の翌々日、宮内省から英皇帝への御親電送付の可否を外務省に求めたが、広田外相は海軍が裁決するものだと言って、結局取りやめとなった。
287 アメリカ大統領の「隔離」演説
事変について列国の世論は中国に同情し、日本を非難した。独伊の新聞でさえそうだった。一方、日本の言論は、罪は中国にあると色々と論じたが、諸外国には詭弁としか響かなかった。
10月5日、ルーズベルト大統領が、「戦争は伝染病である。病人(日本)を隔離すべきだ」と演説した。これに対して河相(外務省)情報部長は「無産者が有産者に針路を阻まれるとき、戦争になるのは自然の勢いだ」と声明した。これにはさすがの陸海軍も驚き、外務省に河相声明の取り消しを求めた。また日本は独伊米に、事変に関する日本の立場を説明するために人を派遣した。
9月、中国が国際連盟に提訴した。連盟は日本が9か国条約と不戦条約に違反するとして、9か国条約締約国と1928年の不戦条約国を会同した。これにはアメリカも参加した。日本も招請したが、日本は拒否した。私も9か国条約への参加に反対した。問題の解決は中日二国間でしか解決できないと考えていたからだ。
11月3日、9か国会議がブラッセルで開かれ、日本の9か国条約と不戦条約違反を指摘し、関係列国の協議で問題を解決すべきであるとして散会した。
288 トラウトマン大使の仲介
国際会議で日本の非を認めても国民大衆は納得しないだろうと(外務省人は皆)考え、日中間の直接交渉につながる斡旋者(国)を考えた。
事変の当初、グルー大使を通じて、米からの斡旋打診もあったが、当時は中日の直接交渉の可能性があったので謝絶した。このころ陸海軍は兵力を増強したが、まだ解決に望みをつないでいた。
10月2日、「陸海外三局長会議」で、「(国際会議のように)日本を被告として扱う干渉や調停ではなく、英米その他第三国の好意的斡旋は、中国側を引き出す道具として利用できる。第三国の公正な和平勧告的斡旋は受け入れる」と決定し、それを総理・陸海外の4大臣もOKした。
289 この方針は、10月27日、広田外相が英米仏独伊の5大使を個別に引見し、9か国会議への不参加の理由を説明すると共に、「中日直接交渉を開くための好意的橋渡しならば日本も希望する」と伝えた。
その際広田は日本政府が希望する条件も付け加えた。その条件は8月初旬の船津工作の条件と同じであり、それは10月1日、総理・陸海外4大臣が決定した「事変対処要綱」で再確認されていた。
英から申し出があったが、陸軍が反対した。英は中国に補強工作をしていた疑いがあった。日本国民も反英的であった。陸軍はドイツを望んでいたようだ。陸軍の某がドイツ大使館のオットー少将武官に、すでに日本の条件を説明して仲介を要望していた。
1937年11月の日独伊防共協定は、コミンテルンだけでなく、英米をも睨んでいたのだが、日独の対中利害も一致していなかった。中国はドイツの市場であったし、フォン・ゼクト独将軍は、国民政府軍の顧問で、討共軍事を指導していた。ドイツは中日対立を望まなかった。
11月中頃、国民政府は重慶に遷都したが、内政、外交、財政の三部だけは漢口に留めた。南京駐在の各国外交使節の大部分も漢口に移駐した。このころトラウトマン駐華独大使が徐謨(じょも)外交部次長とともに漢口から南京に下り、在南京の蒋介石の意向を打診した。11月3日であった。
11月7日、在京デリクセン独大使が広田外相を招き、「蒋介石が日本側の条件を承諾した」という。また中国側の和平の前提として、
・日本側に原状回復の用意があるべきこと、
・和平条約は中日の将来にわたり友好関係の礎石とするに足るべきこと、
・華北の主権・領土・行政を中国側が完全に確保すべきこと
を付言した。
これに基づいて総理・陸海外四相会議が開かれた。続いて陸海外三局長会議が開かれ、和平条件を議論し、新たに損害賠償要求が付加された。青島の日本の紡績工場焼き払いなどに対する弁償である。
ところが翌日、杉山元(はじめ)陸相が「ドイツの仲介を断りたい、首相も同意である」と広田に言い出し、広田もそれを認めた。
しかし陸軍は、海外事務当局の工作でドイツ仲介を認めた。
次のステップは大本営連絡会議と閣議であるが、大本営が癌だった。
294 大本営連絡会議は11月20日に陸軍の発意で設置された。海軍は反対した。政界財界にも異論があった。「政戦両略」の美名のもとに、政府・大本営の間に連絡会議が生まれ、この会議を経なければ重要政務は通らなくなった。
政府大本営連絡会議――和平条件の加重
1937年12月14日、「政府大本営連絡会議」が首相官邸で開催された。メンバーは、近衛首相、多田駿(はやお)参謀次長、古賀峯一軍令部次長、杉山陸相、広田外相、米内海相、末次信正内相(海軍大将服を着用)、賀屋興宣(かやおきのり)蔵相と、幹事役の風見(内閣)書記官長(欠席)、町尻量基(かずもと)少将・陸軍軍務局長、井上成美(しげよし)少将・海軍軍務局長と、和平案説明役の私。
293 私は説明した。「この案は大乗的見地から立案されたが、それでも中国側の受諾が疑問視される。」近衛首相は終始沈黙していた。原案を支持したのは、米内海相と古賀軍令部次長だけで、多田(参謀次長)、末次(内相)、杉山(陸相)、賀屋(蔵相)から条件が過重された。
末次内相は隣席の米内海相に「海軍はこんな寛大な条件でよいのか」「華南地区に海軍基地として永久占領地を持つ必要はないのか」と詰問した。かねてから和平論者との評判の多田参謀次長からも、条件加重の意見が出た。広田外相は一言も発言しない。
私は説明以外に発言権がなかったが、「かくの如く条件が過重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と争ったが、冷たく無視された。
加重された条件は
原案「華北の中央化を妨げない」加重案「(華北の日本傀儡)特殊地域化」
原案「塘沽協定など諸軍事協定の解消、冀察・冀東政府の解消」の削除。
原案「南方の(中国軍が入れない)非武装地帯を上海周辺に限定」加重案「(上海周辺だけでなく)華中占領地に拡大」
加重案「和平協定成立後初めて停戦協定に入る(それまでは攻撃を続ける)」「日本政府は、中国側より講和使節を日本に送ること、和平交渉に入るや否やの中国側の回答は、年内になさるべきことを期待する」
これは中国に降参を強いるものである。私は両軍務局長に言った。「これではぶち壊しだ。もう一度連絡会議のやり直しを工作しよう。」ところが両軍務局長は「一旦決まった以上やり直しは不可能だ。」
折から南京陥落12/13祝賀の大提灯行列が街路を遊行していた。
連絡会議の決定案が閣議で決定された。
12月23日、広田外相からデリクセン大使に回答。ドイツ大使は「これでは蒋介石はきくまい。」またドイツ大使は、年内に中国側の回答は期待できないとし、それではと1月5、6日に延期された。
295 「国民政府を相手にせず」(1938年1月16日近衛文麿内閣が発表した。)
1938年1月4日、デリクセン独大使から広田大臣に中間報告があり、国民政府がこの時点で諾否について返答していないことがわかった。
このころ、和平交渉を打ち切って国民政府との交渉を断つべきだという声が、軍や政党から聞こえてきた。私は広田大臣に「あの加重条件では到底色よい回答が中国側から来るはずがないから、和平は絶望的であり、日本が覚醒するまで待つしかない。それまでは「国民政府を相手にせず」に同意する」と進言した。
1月13日、閣僚午餐会で、15日までに回答がなければ、交渉を打ち切るとの非公式決定がなされた。
1月14日、閣議で、中国側の回答を待たずに「国民政府を相手にせず」で進めるべきかどうかを議論した。その最中にデリクセン大使から広田大臣に中国側の回答がもたらされた。「日本側が提示する条件は漠然としている。具体的に明示されたい」というもので、閣議はこれを遷延策だとして、「誠意がない。国民政府を相手にせず」に進むべきだと決定した。
296 1月15日、政府大本営連絡会議で参謀本部は和平交渉に未練があり「国民政府を相手とせず」の発表の延期を主張したが、政府側が押し切り、1月16日にデリクセン大使に仲介を謝絶し、「国民政府を相手とせず」という声明を公表することに決まった。
感想 トラウトマン独大使が中日を仲介したが、政府大本営連絡会議が対中条件を厳しくした。結局中国側との交渉を一方的に打ち切り、「国民政府を相手とせず」を発することになった。ドイツの仲介は単なる伝書鳩に過ぎなかった。
陸軍はもともと和平に関心はなかったようだ。というより、自らの立場も弁えず、過重な対中条件を望んでいたともいえる。
297 御前会議――白い御手袋
陸海外三省間に「事変対処要綱」が三回議定され、日本軍の道義的精神を書き込んだが、実際は陸軍は要綱を破り、「第三国の権益を尊重」するどころか、その権益を荒らし、軍中央はそれを制止できなかった。
1938年1月11日、陸軍の要望で過去の対処要綱を総合した「事変処理根本方針」を御前会議にかけた。陛下は終始お言葉がなく、御前会議は中味のない形式的なものでしかなかった。
298 南京アトロシティーズ
南京は12月13日に陥落した。福井領事や上海総領事から報告が入った。日本軍による中国人に対する略奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数。福井領事は制止を試み、身辺が危ないという。
暴虐の首魁の一人は、元弁護士の中尉で、部下を使って女を拉致し、暴行。銃剣で脅した。
299 私は三省事務局長会議で陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。しかし暴行者は多すぎて、処分されたという話を聞かなかった。当時南京在留の外国人で組織された「国際委員会」から、日本側に報告書が提出された。それは1月末の数日間での70余件の暴虐行為を記録していた。最も多いのが強姦で、60余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかった。
参謀本部第二部長の本間雅晴少将が軍紀粛正のために現地に派遣された。
日本の新聞は記事差止で、同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、海外では非難が日本軍に向けられた。知らぬは日本国民ばかり。大衆は赫々たる戦果を礼賛するのみであった。
極秘日本人名録
これは中国外交部の編纂で「最密件」(極秘)とある。回覧されてきた。
土肥原陸軍少尉は、その中国攪乱の謀略工作が指摘され、中国人で彼を憎まない者はいないとあった。また須磨総領事は、対華強硬態度を非難され、中国に対して非礼暴言を吐いたと記してあった。私は「政治手腕に富み、運動好きの総領事」とある。不敢当不敢当(身に余る光栄)
300 パネー号、レディー・バード号事件
揚子江停泊中の米艦パネー号が、日本海軍機によって撃沈された。海軍は責任者を処分し、日本の子どもまでが在京米大使館に同情の手紙を寄せ、救恤金を送った。米のご機嫌は損じないようにという空気があった。
また英艦レディー・バード号が蕪湖沖で橋本欣五郎大佐の砲兵隊に撃たれた。陸軍は口実をつけて謝罪に手間取った。橋本は予備大佐であったが、軍も憚るほどの威力を持っていた。
302 如水会館香村寮の一夕
1938年2月2日、私は一ツ橋如水会館香村寮での懇談会で、中国問題の講師を頼また。私は事変から「国民政府を相手とせず」に至るまでの内情を忌憚なくぶちまけ、「国民政府を相手とせず」を乗り越えられる政治家の出現が望まれると語った。
懇談会の主賓は、数か月後に外相になる宇垣大将で、宇垣は当時政府諮問機関の参議であった。参議制度は1937年10月に設置されていた。
303 中華民国臨時政府と中華民国維新政府
陸海外事務当局者の間に当初から堅い了解があり、陸軍もこれを破ろうとしなかった。それは、
・中日事変をあくまで一事変として解決し、国際法上の戦争にしないこと、
・華北その他いずれの地区にも、第二の満州国を作らないこと、
・占領地に軍政を布かないこと、
しかし、占領地が拡大するにつれ、地域内の行政を担当する中国人による新機構が必要になり、また治安維持会のような自警団的存在では間に合わなくなったので、1937年末、王克敏の中華民国臨時政府が北京に、1938年3月、南京に、梁鴻志の中華民国維新政府をつくった。
この両政府の樹立計画は、陸海外事務当局会議が検討して現地軍に訓令した。私は両政府の樹立を陸軍と争わなかった。
両政府は、背後の日本軍の対抗意識もあり、折り合いが悪かった。
304 対事変新機構「征華行省」案
1938年早々、内閣方面に「東亜事務局」設置論が浮上した。企画院が提起したこの「東亜事務局」(=総理直属の「対華中央機関」)設置案は、最終的に頓挫させたが、これは後の「興亜院」や「大東亜省」となった。これは外交の一元化を損なうものであった。
「東亜事務局」の発案者は外務参与官出身の船田中法制局長官だった。
外務省の堀内次官や米沢調査部長と私が、広田大臣に同案の可決を阻止するよう進言し、広田大臣は近衛首相を抑えて議会の質問に確答を与えさせず、閣議にも議題に上らなかった。広田大臣はやがて辞任した。
タイトルの「征華行省」とは、元の世祖が日本征服を目的に設けた「征東行省」の援用である。
3月2日の私の日記「船田と1時間余論争した。船田の考えは占領イデオロギーである。」
305 「黙れ」議会 国家総動員法の可決
議会の消滅、ファッショ化は進行しつつあった。
1938年2月17日夜、立憲政友会、立憲民政党の両党本部が、「政党解消」を要求する「防共護国団」の600人に襲撃された。その背後に、塩野季彦(すえひこ)法相や末次内相がいると噂された。
2月24日、「国家総動員法」が議会に提出された。この法案は陸軍の発案であり、統帥権発動のためにはあらゆる国民の自由を剥奪するもので、衆議院は騒然となった。
3月3日、この法案を審査する委員会で、説明委員として出席した陸軍軍務課員の佐藤賢了少佐が、議員の議論に対して「黙れ」の一喝をくらわした。
翌日陸相が陳謝したが、佐藤少佐は何の処分も受けなかった。同法案は結局可決された。
306 広田外相の辞任――宇垣新外相の登場
1938年5月末、近衛首相は、広田、加屋、吉野信次の三相を退け、外相に宇垣大将を、蔵相兼商相に池田成彬を入閣させた。広田が陸軍を抑えようとしないので、近衛首相から飽きられているという噂があった。近衛自身が陸軍のままに動くくせに、これは虫のいい他力本願である。
広田の辞任をきっかけに、白鳥敏夫を(外務省の)次官に擁立する動きが、「革新派」と称する若手事務官たちの間に起った。彼らはファッショ派である。彼らは内閣や軍部方面にも働きかけた形跡があった。しかしこれは実現されなかった。佐藤尚武や有田が宇垣により外務省顧問に任用されたことは新規な出来事であった。これは外交を正しく立て直そうとするものであった。308
307 宇垣は政界の大物で、軍部から嫌われていた。私は香村寮で宇垣に会っていた。私は宇垣に「国民政府を相手とせず」を乗り切るように依頼した。
近衛首相は宇垣に、「(暗殺された)井伊直弼・掃部頭(かもんのかみ)になれ。1月16日の声明(「国民政府を相手とせず」)を反故にしてもよい」と言ったという。宇垣は私に「命を投げ出して事変を解決する決心じゃよ」と言い、私も「水火の中へお供します」と受けた。
私は米沢調査部長その他数人と、対華中央機関問題に関して、宇垣に外交一元制度の擁護を要請した。
309 「今後の事変対策についての考案」
私は「今後の事変対策についての考案」と題する意見書をまとめて宇垣に提出した。宇垣はそれに賛同し、宇垣の要望で五相会議のメンバー(総理、陸海外蔵)にも配布した。会議では異論も出たが、宇垣はこれで行くと宣言したという。
張鼓峰事件――板垣陸相の虚言
1938年7月11日、国境が不明確な紛争地点であるソ満朝国境の張鼓峰でソ連軍が陣地を構築したとの情報が入り、7月29日、沙草峰で、日ソが軍事衝突した。7月31日、朝鮮駐屯軍が独断で攻撃して張鼓峰を占領した。それに対して8月6日、ソ連軍が反撃し、日本軍は大打撃を受け、8月10日に停戦協定が成立した。
この時のソ連軍の軍事力や物資力に関する認識が日本軍には欠けていて、その反省もなく、翌年1939年のノモハン事件で日本軍は完敗することになった。日本軍はソ連内の反スターリン派粛正であるトハチェフスキー事件をいいことに、関東軍の中に「対ソ威力偵察論」が台頭した。460
現地の日本軍はソ連軍と交戦したが、軍中央は事件の拡大を望んでいなかった。当時杉山の後任の板垣陸相は、外交交渉による解決を宇垣外相に要望し、モスコーで外交交渉が開始された。ところが間もなく板垣は「事件を武力で解決する」と宇垣に申し出た。それに対して宇垣は今交渉中だとその申し出を撃退した。しかし板垣は「宇垣が了承した」と(天皇に)嘘をついて、裁可を願った。嘘がばれて陛下の御不興を蒙った。板垣は陸軍省部内の意見に振り回されていたらしい。
陸軍省部内では、閣議で板垣が宇垣にやり込められているので歯がゆいと感じていたようだ。
309 宇垣外相の和平工作
宇垣外相は漢口陥落1938.10.27以前に和平工作を思案していたが、その時、6月26日、香港の中村豊一総領事から飛電があり、孔祥煕の腹心である蕎輔三が、中村に「(宇垣の)和平条件について知りたい。和平条件として蒋介石の下野を要求するか」と密かに尋ねてきた。これは重慶和平派からの反響である。
310 宇垣は蒋介石の下野を条件としたが、私はそれでは成り立たないと反対した。宇垣は日本国内の反蒋感情を考慮していたのだが、最終的にはそれは除くつもりだった。それで結局その件は「後の商議に委ねる」ことにした。
中村・蕎会談が開かれ、孔・宇垣による雲仙での会談予定も組まれた。
それと同時に影佐軍務課長が、高宋武亜洲局長を香港から東京に呼び出し、汪精衛の重慶からの誘い出しを策していて、それがのちに現実のものとなった。私は汪精衛がそんなに馬鹿だとは思っていなかった。
311 外務省革新事務官グループ(外務省の変質)
宇垣大臣は就任後間もなく、クレーギー英大使からの、事変による在華英権益の調整希望に応じた。(宇垣・クレーギー会談)
外務省の若手事務官8人が宇垣宅を訪れ、宇垣の世界観と外交方針を知りたいという口実の下に、自らの方針を宇垣に強要した。その8人は東光、三原、中川、手場(ママ)、青木、甲斐、高瀬、高木の事務官であった。
彼らはまた人事にも口出しし、皇道外交を唱えた。
「今日漢口攻略を目前に控え、蒋政権壊滅、防共枢軸の強化、在華英仏ソ政治勢力の排除をすべきだが、最近の大臣の関係大使との交渉を憂う。私どもは「皇道宣布」の前衛たる外務省員として「皇道外交」の綱領を持っている。」
「アングロサクソンと東亜で妥協する必要はない。蒋介石や国民党政府との和平や妥協は絶対に許されない。対蒋援助を高言する英政府の代表者との会談は、日本の弱体を世界に表明することである。百言あって一利なき日英商議は直ちに中止すべきである。」
「外交施策は独伊との関係を強化すべきである。」
それに対して宇垣は「国民の要望は一日も早く戦争を中止することである。1月16日の政府声明(「国民政府を相手とせず」296)は、差し当たり遵守すべきだが、将来変更するかもしれない。」
彼らはいわば外務省の青年将校であった。彼らは白鳥を望み、軍の一部と連携を持っていると言われた。
後にこれらの事務官の中から狂信的な日独同盟論者やドイツ心酔者が出て、「皇道外交を奉ぜざる者は斬る」などと陸軍的な思い上がった言辞を弄した。
313 対華中央機関――宇垣外相の辞職
宇垣が外務大臣に就任後間もなく、事変処理のための「中央機関」設置論が再燃した。これは総理直属の機関であり、事変に関する事務処理の権限を集中し、占領地にもその機関の出店を出し、現地の政務処理に当たらせるというものである。主唱者は従来の法制局と企画院に陸海軍が加わった。当時陸海軍務局は柴山・保科両課長から、影佐・岡敬純(たかずみ)両大佐に交替していた。
影佐・岡両課長は、度々私のところにきて口説いた。影佐課長「対華中央機関ができ、事変関係の仕事を一手に引き受けるようになれば、現地軍に一切の現地政務から手を引かせる。」岡課長は宇垣大臣に直訴した。
314 外務省の米沢調査部長と東亜局は妥協案をつくって法制局と企画院に向かったが、受け入れられなかった。
そのうちに内閣側は陸海のバックで、自らの中央機関設置案をつくって閣議にかけた。近衛首相了承の上である。9月29日、大臣室で宇垣大臣を囲んで幹部会を開いた。佐藤・有田両顧問、次官、各部局長が出席した。米沢調査部長が経過を説明した。結論は出なかった。私が大臣の裁量に任せると言ったら、大臣は「よろしい」と言って散会した。そのときの大臣の顔にただならぬ気色が見えた。
315 それから1時間も経たぬうちに、宇垣外相辞表提出の情報が内閣から伝えられた。(外相就任は5/26、辞任は9/30、その間4か月間)翌日、堀内次官と私は辞表を出した。10月3日、宇垣前大臣と近衛兼摂外相との引き継ぎがあったとき、宇垣は私に「事変の解決を私に任せると言っておきながら、私の権限を削ぐような近衛内閣に留まれない。諒とせよ。」と言った。惜しい大臣だった。
オランダへ転出
堀内次官と私の辞表は、次官が駐米大使に、私が駐蘭公使に転出という形でさばかれた。上村一課長も東亜局を見限ってイギリスに転出した。後任の次官は沢田廉三参事官、新東亜局長は栗原正ルーマニア公使と内定した。この人事は未だに赴任しないで在京中の白鳥伊大使から出たとされ、新聞は「白鳥、石射を遂う」と評した。
316 私は11月初め、後任の栗原の着任まで名義上東亜局長の椅子にいた。近衛首相は白鳥の言をいれて在米の斎藤大使に外相を打診したが断られ、結局有田外相が出現した。
堀内前次官と沢田新次官との引き継ぎの際、沢田新次官は訓示を始めた。時局の困難を詳説し、異常な決意を要するゆえんを力説した。私は答辞を述べさせられた。「我々も貴意を体して大いにやります。」何か陸軍的な形式主義を感じて後味が悪かった。
11月9日、オランダ公使を拝命し、間もなく中国旅行に出た。王克敏、梁鴻志など多数の日中人と旧交を温めた。北京の東単牌楼の横町という横町は日本料理店が軒をならべ、夜は絃歌の声が湧いた。古都北京のさびを踏み荒らしている感じであった。上海のガーデン・ブリッジは立哨の日本兵に敬礼しなければ通れなかった。中国民衆は無表情で、日本軍民だけが我が世の春を無反省に楽しんでいた。
在京中の私生活
私は東亜局長時代に勅任一等に昇進したが、移民課長時代だった狭い家に住んでいた。
新橋山口の宴会場に卑猥な股旅踊りに演じる向島芸者を呼んで新橋芸者に叱られた。
宴会費は自腹ではなかったようだ。
赴任途上オランダ領東インド視察
1939年2月、オランダに向け単身で出発した。
スラバヤで斎藤音次領事の世話になる。
バダビヤで馬瀬総領事に迎えられた。
インドネシアは舗装道路が完備していた。それに対して台湾では舗装が未完成である。
ナポリで堀田大使遺留の沼田コック夫妻を収容した。
ロンドンには重光大使と、ヒトラーに追われた藤井啓之介チェコ公使がいた。
ハイドパークでは防空壕が掘られていた。
4月5日、大陸のフラッシングに渡り、萩原書記官に出迎えられ、夜の8時にヘーグに着いた。
14 オランダ公使時代
私がオランダ公使になったころの欧州の日本大使・公使は以下の通りである。
英 重光葵
独 大島浩→天羽英二
伊 白鳥敏夫→来栖三郎
ベルギー 来栖(くるす)三郎、栗山328
ソ連 東郷茂徳
ポーランド 酒匂(さこう)秀一
スイス 天羽英二
スペイン 矢野真(公使)
スウェーデン 栗山茂
仏 空席→沢田廉三
322 オランダ公使には幣原喜重郎や広田弘毅が歴任していた。
325 年表
1938年末、軍務課長影佐の工作が奏功し、汪精衛が重慶を脱出。近衛声明(11/3、東亜新秩序の建設)
1939年5月、汪精衛が上海に。中日事変が拡大。
1939年1月、平沼内閣が成立。日独伊同盟論が活発化。
1939年4月、独が英との海軍協定を破棄。9月、独ポーランド開戦。独が英仏と開戦。
1939年7月、米が日米通商条約を破棄。日本の国論が険悪化。オランダで政変、コライン内閣からデ・ヒーア内閣に。
1939年8月、独ソ不可侵条約締結。平沼内閣が辞して阿部信行内閣が出現。1940年1月、米内内閣成立。
1940年5月、独軍がベルギー・オランダに進入し、オランダのデ・ヒーア政府が英に亡命。
1940年6月、独軍がダンケルクで大勝し、パリを占領。
1939年1月、平沼内閣が成立。日独伊同盟論が活発化。白鳥イタリア大使、大島独大使らが三国同盟締結を強硬に政府に迫ったのに対して、米内、山本五十六の海軍と、有田八郎外相、石渡荘太郎蔵相は反対した。陛下は同盟はお嫌だった。
私は、ドイツ外交の神髄は「必要は法律を知らず」であり、ヒトラーは変態的犯罪者だと思っていた。1939年5月末、ローマ駐在の下条同盟支局長*がヘーグに来遊し、私にこう言った。
「白鳥、大島の両大使は、枢軸条約締結への平沼内閣の躊躇を手ぬるいとし、「そんな内閣は潰してやる。自分らの意見を採用しないのなら、召還してくれ。三国同盟ができれば、英米ソ仏への牽制になり、ヨーロッパ戦争が避けられ、中日事変の解決も楽になるだろう」と考えている」と。
*同盟は国策通信社1936~1945 共同通信と時事通信の前身。
329 私は下条に「その考え方は大間違いだ。海外蔵の三相が反対している。白鳥がじたばたしてもそんな同盟はできやしない」とけなした。すると後日白鳥は萩原書記官を通して「石射の馬鹿野郎。いらんことを下条に話したというではないか。そんなことをいう奴は本省に言ってやって首にするぞ。」
1939年8月21日、独ソ不可侵条約が成立すると、平沼内閣は従来の対欧政策を放棄して、道義的独自の政策を建てると表明した。それは三国同盟を清算するという意味であろう。ところが8月28日、「複雑怪奇」の語を残して平沼内閣が辞職し、8月30日、阿部内閣が成立し、野村海軍大将が外相になった。
9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。私は新外務大臣の野村に「日本は同盟関係をいかなる交戦国とも結ばず、あくまでもこの戦争の局外にいて、中立を高価に買わせつつ、専ら経済的発展を期すべきである」と進言した。この転電を受けた白鳥は激怒し、9月7日、反対意見を本省に送った。
独ソ不可侵条約によって日本での同盟条約論が下火になったらしいが、開戦以来のドイツの目覚ましい勝利に日本が目を奪われてドイツ模倣熱が高まるのを私は憂えた。
私の12月23日と31日の日記「ドイツ崇拝の迷夢から覚めなければ、日本には平和は来ない。東洋にも平和は来ない。1940年にドイツは敗北し、米紙が言う如く、ヒトラーは大失策者として歴史に残るだろう。それは日本にとって良い教訓だ。」英仏によってドイツが敗北することを私は願った。
331 ヨーロッパ開戦からドイツ軍のベルギー、オランダ進入に至るまで10カ月であった。小国オランダにとって最も望ましいことは中立平和であった。オランダは前大戦ではドイツ軍の侵入を免れた。
1939年8月下旬、オランダ、ベルギー、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、ルクセンブルグの各国の代表がブラッセルに会同して平和を提訴したが、1週間後にヒトラーは(ポーランドに)侵攻を開始した。
オランダは独・英いずれにも中立策を取った。ドイツの侵攻に備えて「洪水戦術」を用意し、腹の底では味方と頼むイギリスにも海岸防備を固めた。領空侵犯の飛行機には英・独に関わりなく反撃した。英・独の間諜活動にも厳正に対処した。ドイツからの文句に対しても屈せず、条理をもって対処した。
332 ドイツがオランダの軍服や警官服を密輸入しているとの情報があった。1939年10月末、ドイツの大軍がベルギー・オランダの国境に集結した。11月6日の深更、ベルギー皇帝がスパーク外相とともに突然ヘーグを訪れてオランダ女皇と協議し、翌7日、交戦各国に和平斡旋を申し入れた。するとドイツの侵入態勢が解かれた。
そのころの数日間、オランダではいろいろな出来事が起きた。11月7日、南部オランダの独逸国境フェンローで、奇怪な殺傷事件が発生した。どういう目的かは分からないが、国境のドイツ軍との接触を密かに取りに向かったヘーグのイギリス公使館勤務の某陸軍大尉と、これに随行した一オランダ陸軍中尉が、国境を無視してオランダ側に侵入した平服の独逸人の一団に襲われ、オランダの陸軍中尉はその場で銃撃されて斃れ、イギリスの陸軍大尉はドイツ国境内に引きずり込まれた。この事件の真相は分からない。
11月10日の夜、オランダのナチ党員が集会を開き、ドイツ軍侵入歓迎の意を表明した。またオランダ軍内のナチに共鳴する将校数人が拘引されたとのうわさがあった。
11月12日、ベルギー、オランダ国境のブレダで、クレフェンス・オランダ外相と、スパーク・ベルギー外相が会見した。結局ドイツ軍は進入しなかった。チェンバレン英首相は “Hitler missed the buss”(キスでなく、バスに乗り遅れた)と揶揄した。
私のドイツ戦略分析
ドイツは敢えてマジノ線*を越えてフランスを攻めることはないだろう。犠牲が大きいと予測されるからだ。だからドイツはオランダとベルギーをいずれ攻めるだろう。オランダ上空を通った方がイギリスを空爆するときに直線距離であり好都合である。そしてベルギー国境からフランスを攻めるだろう。
オランダ人はこの私の考えを好まなかった。前大戦の経験に固執したがったのだ。1940年4月9日、ドイツがデンマークやノルウェーを攻撃したとき、オランダ人は自国は安全だろうと楽観した。
*マジノ線 フランスのマジノ国防相の提案で、1927年から1936年の10年間の歳月をかけて設けた独仏国境の要塞線。南は地中海の仏伊国境からスイス国境や独仏国境を経て、ベルギーとルクセンブルクとの三角点国境に至るまでの322kmに要塞を設けた。しかしベルギーとフランスの国境には設けていなかった。
334 当時の日本は、蘭領東インドに対して、天然資源そのものばかりでなく、資源開発への日本資本の参加や日本人への渡航制限の緩和を求めていた。
長岡春一大使が蘭領東インドに出向いて交渉したが、物別れに終わり、次にハルト・オランダ領東インド経済局長官と石沢豊総領事との間に経済関係が樹立された。(ハルト・石沢協定)
海軍は有事の際に蘭領東インドを「足掛かり」にしようとしていたし、ジャーナリスティックな南進論も禍して、蘭領東インドの対日感情は悪かった。
オランダの植民大臣ウェルター氏は、日本の合理的な要望は十分考慮すると私に約束した。
ドイツがオランダを占領したら、蘭領東インドも占領するだろうか、その際英仏はどう出るか、日本の南進論者はそれに乗ずるだろうかなどさまざまな問題があった。
ドイツがオランダを占領する前に、日本の蘭領東インドに対する態度を国際的に明確にしておくべきだ、そうすればオランダの安心と信頼が得られるだろうと私は考えた。つまり蘭領東インドに対して日本は領土的野心がないこと、それと同時に他国の手も封じること、できればそれにアメリカも参入させることであった。これに基づいて1940年4月16日、有田外相の声明が行われた。不十分だったが、列国の反響も良かった。
336 1940年4月29日ころ、ドイツによる侵攻の兆候があった。5月8日、ベルリンへ行く途上の伊藤述史公使はヘーグに立ち寄り、(オランダの)旧友スヌック外務次官から、ドイツ軍の侵攻が一両日中に行われるだろうと聞いた。
1940年5月10日の払暁、ドイツがオランダへの侵攻を開始し、オランダ空軍は一挙に葬られた。
私共は地下室に退避した。
第二日、第五列(スパイ)狩りが行われ、各所で銃声が聞こえた。
本省からオランダの石油を含む必需品13品目の供給をオランダに承諾させよと訓令が来た。5月14日、私は外相代理のスヌック外務次官を訪問した。女皇とその政府閣員はすでにイギリスに亡命していたが、スヌックとファン・ローエン政務局長が残留していた。
私は本省に「貴電御訓令の執行は、あたかも臨終の床に貸金の催促に行きたるの感あり。貴電はまことに執行に適せざる御訓令なりし」と打電した。
(5月14日)午後5時、ウィンケルマン司令官が全陸軍を率いてドイツ軍に投降したとラジオが報じた。この日の午後ドイツ軍がロッテルダムを空襲し、大惨禍を与えていた。防戦5日でオランダ軍は潰えた。
私がスヌック次官に手交した蘭領東インド交渉の覚書は、密使船でロンドンのオランダ政府に送り届けられたという。これが土台となって芳沢が交渉使として蘭領東インドへ渡った。
340 ロッテルダムの惨状
5月14日、オランダ軍の武器が焼却された。
5月16日、ロッテルダムの惨状を視察。途中ドイツの輸送機が野原に乗り捨ててあった。30分の空爆で3万人が死亡した。
341 ベルリン出張と陳介重慶大使
ヘーグ外交団の中で、英仏ベルギーの公使はオランダ政府と一緒にロンドンへ逃げ、中立国の外交官は残った。16日以後電信が通じなくなり、私はドイツ政府の許可を得て、6月、ベルリンへ向かった。そのころドイツはダンケルクを陥れ、パリに迫っていた。ベルリンの町では凱旋兵が大通りを行進し、それを市民が熱狂的に迎えていた。
ベルリンで重慶政府大使の陳介と久しぶりに会った。陳介は一高・東大卒で塩業銀行の経理として上海経済界に重きをなし、1936年、国民政府の外交部次長になった。当時リッペントロップ独外相が中日事変解決を重慶に提案していたが、鎮介によると、これまでの日本の経緯から、中国は日本の誠意を疑わざるを得ないと交渉を疑問視した。
1940年6月22日、フランスが降伏した。
345 さらばオランダ
ドイツ政府の要請で、中立諸国の公使はヘーグを引き揚げることになり、私は矢口書記官と書記生一人を残して、7月15日の朝、館員と家族を率いてヘーグを出発し、夕方ベルリンに到着した。
第二次近衛内閣1940.7.22-1941.7.18の成立直前で、松岡が外相になるらしい。私は松岡の「機会主義」に不安を感じた。
ベルリンの夜はブラックアウトで食糧は切符制度で果物が貧弱であった。
8月1日、ベルリンを発ち、モスコーに到着。東郷大使、七田参事官からノモハン事件について聞いてびっくりした。日本は完敗していた。去年私がヘーグに着任したころ、磯谷関東軍参謀長は「ノモハンのソ連軍を一気に片付ける」と言っていて、その後も戦争は勝っているとのことで、停戦協定が結ばれたのだが、実際はソ連軍の科学兵器に手も足も出ず、日本軍が全滅していた。
モスコーの沿道の民衆の服装は、前年通過した時に比べて見違えるほどよくなっていた。また前年は見えなかった煙突が、沿道の主要都市に林立していた。マンチュリーから満洲国に入り、哈爾浜、新京、大連経由で、8月20日に東京に着いた。
婦人連が銀座で「自粛自戒しましょう」と贅沢を戒めているとのことだった。近衛首相が政党解消=政党滅亡の弔鐘を鳴らしていた。
346 ブラジルへ転任
外務省は松岡外相、斎藤良衛・白鳥両顧問、大橋忠一次官で固められ、松岡旋風人事が吹きすさび、多くの有為の士が、英米傾向だと言う理由で、任地から召還され、馘首されていたが、私は桑島主計の後任としてブラジル大使に内定されていた。
建川美次中将がソ連大使に、堀切善兵衛がイタリア大使に任命された。型破りの松岡旋風人事は大衆の受けが良かった。
347 1940年9月27日、日独伊同盟条約が成立した。ドイツからスターマーが来て、極秘裏に商議を進めていると耳にした。私は松岡に三国同盟の危険を語ったが、松岡は「この条約はあるいは日本にとって大変なことになるかもしれないが、アメリカとの戦争を避け、中日事変を解決するためには、これより外に行く道がない。途中そう説明してくれ」と言った。
私は10月4日横浜を出発し、アメリカ経由でブラジルに向かった。
殊勲甲の奥田ホノルル領事
ホノルル港には空母が多数浮かんでいた。
松岡が危険な内容のステートメントを某米人記者に渡していて、奥田乙治郎ホノルル総領事代理にそれを取り戻せと命じていた。運よく取り戻せたが、その内容は、
「自分は幼少時代からアメリカで教育を受け、アメリカに第二の故郷を感じる者であるが、三国同盟の行く手が阻まれる場合は、これと戦うもまたやむを得ないことだろう」
という内容であった。松岡が中途で正気づいたのはまだしもであった。
私がホノルルを出てから二日ばかりして、甲板の楽焼会で、反戦平和の句をつくって焼いたが、三回とも真っ二つに割れてしまった。四回目は挑戦しなかった。
その句とは、
太平洋裏多貝玉 檀香島上金剛角
隠約更蔵珍珠湾 願無戦塵掩彩色
349 サンフランシスコからリオまで
サンフランシスコでは記者に取り囲まれ、三国同盟の意義について問われたが、「アメリカとの戦争を避けるためのものだ、ボスがそういうのだ」としか答えようがなかった。
シカゴ経由でワシントンに着いた。堀内大使帰朝のあとを森島守人参事官が代理をしていた。河上清がホテルに駆けつけ、「三国条約には困る。アメリカの悪感情をなだめる材料はないか」と問う。私は「アメリカとは絶対に戦争はやらないという条件付きで枢密院を通った」と話した。
ニューヨークでは井口貞夫総領事、旧師の角田柳作先生、旧友の伊藤七、朝日特派員の富桝周太郎、ジャパン・センターの前田多門らと歓談した。
ニューヨークからリオデジャネイロへ向かい、11月初旬に到着した。40日間の旅だった。
15 ブラジル大使時代
352 1940年11月、着任数日後に、カテテ宮でバルガス大統領に国書を奉呈した。アラニア外相が通訳をしてくれた。大統領は革命で天下を取っていたが、風雲児というよりも法律家の印象をうけた。
大使官邸はボタフォゴ湾に面し、事務所はラランジュラスにあった。
着任一か月も経たない12月初め、父の訃報を受けた。狭心症による急死だった。(外交官の筆者は葬儀に出席しなかったのだろうか。)
リオの海岸美は素晴らしい。そして大使官邸背後には、キリストの巨像を山頂に支えるコルコバドの絶壁が眉に迫る。
354 独伊の大使が私に接近してきた。私は三国同盟やドイツを嫌っていたが、1942年1月の南北アメリカ外相会議のころは、情報交換をするとともに、共同工作を謀議した。
当時のブラジルでの日本人移民数は23万で、1934年の移民制限法や中日事変の影響を受けても、毎年相当数の日本人が移住してきた。サンパウロ州での日本人の農業技術は、州統領に高く評価されていた。1941年の3月、4月ごろ、私はサンパウロの訪問を試みたが、時節柄、ブラジル政府が英米に気兼ねして、公式訪問はできなかった。
日本はブラジル棉を購入し始めていて、海興、ブラ拓、東山農事、南拓(上司氏のジュット栽培)、正金、大阪商船や、三井、三菱などの繊維商社、蜂谷兄弟商会などの日本企業が活躍していた。
ブラジル政府は1937年、ポルトガル語以外の初等教育を禁止し、日本人小学校での日本の教科書の使用を禁止し、1941年5月、6月には、外国語新聞も禁止し、日本語新聞の発行を禁止した。私は邦字紙についてはブラジル政府と交渉したが駄目だった。多数の日本人がポルトガル語を解しなかったからだ。そこで私は、リオ・グランデドスール州で大洪水が起こった時、その義援金醵出を呼びかける記事を日本語新聞に載せる工作をしたり、アルゼンチンの邦字紙にブラジル版をつくってもらおうともしたが、いずれも失敗し、さらには私の義捐金醵出工作は、邦字紙「ニューヨーク新報」で、媚態外交だと罵られた。
358 この国の友人、日本への憧憬
私の前任者の桑島大使が、「日本ブラジル文化協会」を創設した。ブラジル中央協会の小林進が、日本語学校を主宰していた。
359 日本人の誰彼
私は愛蔵のH・Gウエルズの “The Shape
of things to Come”に書かれている運命が日本を待っていると、サントスでバナナ園を経営する元の私の長官・古谷重綱に説明した。
1941年6月の独ソ開戦により、ソ連経由が不通になり、ブラジル経由となった。時局がいよいよ切迫感を持つようになった。
361 日本・アメリカ会談
国際関係では、
1941年2月、野村大使がワシントンに赴任し、日米会談が開始されたが、会談は停頓した。この間にアメリカは、武器貸与法を制定し、非枢軸国に対する援助の決意を明らかにし、1941年5月末、無制限国家緊急状態を宣言した。
6月23日、独ソ開戦。7月、日本が仏領インドシナの南部に進駐すると、英米は日本の資産を凍結し、パナマ運河の日本船通過を閉鎖し、8月、大西洋憲章が宣言された。
11月半ば、来栖大使がワシントンに赴任した。
ABCD会談が開催された。
日本では、
1941年3月、松岡外相が訪欧して日ソ中立条約を締結した。
7月、松岡外相が辞職し、後任に豊田貞次郎外相が就任した。
362 本省から一電「日米会談を促進するつもりだから、当地でもそのつもりで対処されたい」が届いた。私は「日米会談の結実を念願する」と返電したが、中には在メキシコ三浦公使の返電「貴電あきれるの外なし」には驚いた。三浦公使は本省から叱責を受けた。やがて日米が開戦した。
1941年7月、日本船に対してパナマ運河が閉鎖され、在アメリカの日本資産が凍結された。それまではアメリカで燃料を買い、帰航はパナマ運河を利用していたが、今度は南米のマゼラン海峡をまわり、ブラジルで燃料を買うことになった。そしてブラジル政府は日本に対してダイヤや水晶、マンガンを禁輸した。
363 情報網計画
1941年8月、ワシントンの寺崎英成一等書記官が、本省の訓令を受けてリオに飛来し、日米開戦に備えて、ブラジル大使館を中心に、南米の情報網を張ることになった。間諜(スパイ)も検討したが、危険なのでやめた。結局開放的な米の新聞・雑誌をチェックすることになり、その担当者として寺崎外一、二人の人員をワシントンからリオに転任させること、中南米各大公使も情報入手にあたることになった。
1942年1月、日本・ブラジルが国交を断絶し、ブラジル政府は諜報容疑者として多くの在留日本人を拘留し、家宅捜索を行った。
真珠湾――豈朕が志ならんや
1941年12月7日の夕刻、リオのラジオが真珠湾の急襲を報じた。
364 宣戦の詔勅が(本省から)打電されて来た。私は館員と居留民を大使館事務所に集めて、詔勅捧読式を行った。私は「豈朕が志ならんや」の言葉に叡慮が集約されていると解説した。
その後の訓令はブラジルの中立宣言を確保することを求めた。私はアラニア外相や新聞の記者会見で、日本がABCDとの戦いに追い込まれた理由を説明し、日本の対米開戦が中南米諸国の脅威にはならないと述べた。一方カフレー米大使は、日本の開戦は米大陸全体の安全を脅かすと声明した。ブラジルの新聞論調は日本に悪くなかった。
真珠湾やマレー沖での日本軍の素晴らしい戦果のお蔭で、どこでも話がしやすかった。戦争になった以上、勝つの一手だ。
私は館員に対して、この戦争を1942年中に終結させなければ負けると断定した。補充力、軍需品の生産力において米が圧倒的に優勢であることがはっきりしていたからだ。
日本に続いて独伊が米に宣戦した。三大使は工作を練った。私はドイツ嫌いの感情を棚上げしなければならなかった。
365 開戦後間もなく、西半球の共同防衛措置を講究するために、アメリカ大陸21か国の外相会議が、1月15日にリオで召集されると発表された。この発表を境にして、ブラジル新聞の論調が日本に不利になった。
リオ外相会議の前夜
前史
1933年3月、新任早々のルーズベルト大統領は、善隣政策を宣明し、全米大陸を結束させた。
1938年12月、リマでの汎アメリカ会議は、西半球共同防衛責任を宣言し、「汎アメリカ諸国のどの一国の平和、安寧、領土が脅威をうけても、米大陸全体に対する脅威とみなし、共同して排除する」と約束した。(軍事同盟)この宣言は1939年のパナマ会議、1940年のハバナ会議で再確認・強化されていた。
366 米は「真珠湾急襲は全米大陸への脅威だ」として、共同防衛責任を発動すべきだとした。
1942年1月12日、米代表サムナー・ウェルズ国務次官がリオに到着し、新聞は彼を歓迎した。ブラジルの宣伝情報局にはすでにアメリカの情報官が乗り込み、言論と報道の指導に当たっていたと言われる。ラジオと新聞は完全にアメリカに握られた感があった。黄色の文字で日本人を侮辱する記事さえ現れた。
一方、キナス・アルゼンチン外相は、共同防衛責任の発動は尚早だと声明し、これより先に、アルゼンチン、チリ、パラグアイの三国が、中立を決定しているとの情報を得たので、日独伊の三同僚は、アルゼンチンとチリに工作した。
367 外相会議とその帰結
1942年1月15日、汎米外相会議が(ブラジルの)外務省内で開催され、アラニア外相が議長に推薦された。バルガス・ブラジル大統領が、汎アメリカ協調の演説を行ったあとで、米ウェルズ国務次官が爆弾演説を行った。「米大陸諸国に枢軸国の外交官がいるのは有害無益だ。彼らがスパイ行為を行い、任国の秩序攪乱工作をしている証拠がある。」
会議中、対枢軸国宣戦案、国交断絶案が検討されたが、アルゼンチン、チリ、パラグアイはいずれにも反対した。それに対してウェルズ氏が反対説得したり、ブラジルが中立の立場で斡旋したりしているらしい。
結局、「国交を継続することはできない」という拘束案から、「国交をたつ」勧告案に変化して成立した。会議は1月28日に閉幕した。
368 日独伊の三国の同僚は、アラニア外相宛てに、国交断絶がブラジルにとって不利なことや、これまでの親善関係について述べ、中立の維持を要望する文書で送った。また、アルゼンチン、チリ、パラグアイには、国交断絶反対の立場の堅持を工作し、ローマ法王使節にも訴えた。しかし、1月23日に国交断絶勧告案が成立した。
次に私はブラジルが国交を断絶しないように、大統領に面会しようとしたが、連絡が取れず、1月26日、ナブコ外務次官に、大統領への要望を述べ、大統領への伝達を依頼した。
1月27日、大統領を囲んで閣議が開かれ、軍部の異論を越えて、国交断絶が決定されたという。
1月28日、外相会議の最終日に、アラニア外相がブラジルの対枢軸断交を宣言した。40年に渡る日本・ブラジル国交が終焉した。
369 国交断絶の通告
1月28日午後6時、ブラジル外務省員のカステロブランコが、国交断絶通告書と、国外退去を要求する出国旅券をもたらした。
同時に通信が断たれたが、ブラジル政府の取り計らいで、電信を送受することができた。またドイツを通して、ブエノスからも発電ができた。
370 監禁生活――(二転三転する)居留民に対する圧制
3月7日、それまでは比較的自由に振舞っていたが、突然リオ警察が、大使(私)を官邸内に監禁すると宣した。1日1時間だけ警官付きで外出できるが、外部との通信交通を禁じられ、ラジオと新聞だけが許され、外部からは、日本の利益代表国であるスペイン大使だけが出入りできた。これは東京のブラジル大使が受けた冷遇への報復とのことであった。
3月12日、大統領令の緊急事態宣言により、外国人の身体・財産に対する憲法上の保護が停止され、日独伊人に対する検挙や家宅捜索が行われた。旅行が禁止され、公開の場での日本語の使用が禁止され、リオの正金支店が投石された。
大使館員までも取調べや家宅捜索を受け、スペイン大使を通じて国際慣例違反だとして抗議した。この背後にアメリカがいるらしいが、私はもし日本が戦勝した場合は、ブラジルの官憲に思い知らせてやろうと思った。
3月24日、突然、私の監禁は解かれたが、居留民に対する検挙と捜査は続いた。
372 一方イタリア人には緩かった。それはイタリアに対する英米の融和政策の反映とみられた。ブラジルがイタリアを見くびっているからだとも言われた。
私はゴルフを再開したが、5月末、会員権を停止された。これは英米の発議に相違なかった。
日米交換船の話が進んだ。民間人も乗れるが、一般居留民は除外された。リオから便乗するのは官民あわせて300人だった。居留民の保護をするスペイン大使を補佐する早尾二等書記官を残留させた。ブラジル政府はそれを承認した。
373 再び陳介重慶大使と密会
1942年5月初旬、私はまた陳介・重慶大使と会った。陳大使は、前年1941年7月、ヒトラーが汪精衛政権を承認した結果、ベルリンを退去し、アメリカに来ていた。私は森参事官宅で会うことにした。
私は高宋武が滞米中であることを陳から知った。高は当初、汪精衛政権樹立計画に参画したが、日本側の条件に愛想をつかし、その条件を香港で暴露した。しかしそのことを日本人は知らされなかった。こうして高は漢奸の汚名をそそいだ。
375 交換船
7月4日、リオを出発。7月20日、南アのポルトガル領ロレンソ・マルケスに着いた。
7月3日、スウェーデン船のグリップ・ホルム号がリオに着港した。午後1時、スペイン大使クエスタ氏と乗船した。野村・来栖の両大使と若杉要公使も乗船していた。
出航時に某ブラジル人婦人が大声で「枢軸がきっと勝つ。日本万歳!」と叫んだ。北米から乗船していた人々は、ニューヨーク出航時には見られなかった光景だと感激した。私は船室で3日間寝た。
私は野村大使の「事務報告」を熟読した。大使が政府の訓令に苦しめられた様子がよく分かった。
377 ロレンソ・マルケスでの冷や汗
ロレンソ・マルケスは博物館、動物園、植物園を持つ美しい街だった。日本人は日本での物資難を知っていたので、そこの携帯可能な商品を買いつくした。
2日後の7月22日に南北アメリカの外交官と民間人を満載した日本の交換船浅間丸とイタリアの交換船コンテベルデ号が入港した。舷側に染め出された日の丸を見て、誰もが歓喜で興奮した。
翌日7月23日、北米からの引き上げ者は浅間丸に、中南米からの人はコンテベルデ号に乗った。三浦義秋メキシコ公使、秋山理敏パナマ公使、柳井恒夫コロンビア公使、坂本竜起ペルー公使と私が、中南米組の幹部であった。
ロレンソ・マルケスに駐在する独・伊領事が夜会を開催し、招待された私は高齢のドイツ領事婦人の手を取ってダンスを始めなければならないことになって、汗だくだくになった。招待してくれた主婦に主賓がダンスを申し込んでダンパを開催するのが儀礼だった。
ロレンソ・マルケスからヨーロッパに赴任する森島守人ポルトガル公使他数人と別れて、7月26日、昭南シンガポールを目指して出航し、8月9日に昭南に、水雷にも会わずに、無事着いた。
昭南の二日
昭南の主人・寺内寿一軍司令官が、大晩餐会を開催してくれた。軍の案内で、英将パーシバルが降伏したフォード組立工場を見物した。
日本軍の占領後、何千という中国人が虐殺された。華僑はここを「星港」と呼んでいた。
飛来した久爾朝融(くにあさあきら)海軍大佐の宮に拝謁した。光機関*の要員でインド独立工作に携わる千田牟婁太郎氏と幾年ぶりかで会った。
8月11日、昭南発。8月19日、館山港に仮泊し、その夜、横浜港に投錨した。東京湾周辺は灯火の閃きもなく寂しい夜景だった。
460 *光機関 1941年12月、マレー作戦の時に投降したインド兵を中心に、南方軍の藤原機関が新軍を育成した。1942年2月、岩畔豪雄大佐を機関長とする軍事顧問部(光機関)が新設され、1943年10月、ドイツから、亡命中のチャンドラ・ボースを(前述の新軍に)迎え、昭南に自由インド仮政府を樹立し、その一部はビルマ軍事作戦に参加した。
岩畔機関長の後継として、1943年3月、山本敏大佐が、1944年1月、磯田三郎中将が、就任し、磯田機関長のときに敗戦を迎えた。また磯田は1944年1月、南方軍遊撃隊司令官を兼任した。
光機関より先に、ビルマで、オンサンなどの独立運動を支援する南機関が設置され、日米開戦後は、それがビルマに進出したが、第15軍作戦終了によって1942年6月に廃止された。
その後ビルマ軍が新設され、そこに(日本の)軍事顧問部を置いたが、敗戦直前に反乱がおこり、解散した。
380 二年ぶりの東京
翌8月20日の早朝に上陸した。出迎えの妻や長男と話す暇もなく、埠頭で神奈川県知事と横浜市長が催した歓迎会に臨み、終わると三大使は自動車で入京した。沿道は歓呼の声に沸いた。
まず宮城に降り立ち遥拝し、外務大臣官邸で東郷外相と会談後に帰宅した。
翌日8月21日、拝謁し、神社廻りをし、東條首相の午餐に出席するなど多忙な数日が続いた。
日本は戦勝に輝いていたが、民衆は配給所の前に長蛇の列をなし、店先には商品がなかった。随所に道義的標語が貼りだされる一方で、「世の中は星に桜に顔と闇、馬鹿正直が行列に立つ」「胃袋に入るべき物もあらぬ世に、慰問袋に何を入るべき」という落首が耳に入った。
私のリオでの想像通りに、戦争への決意は気短に軽率に決められていた。「断乎」「必勝の信念」「八紘一宇」「大東亜共栄圏」など、空疎な語音が単純な大衆を酔わせていた。
しかし識者は早くも前途を憂えていた。同窓の東亜同文会理事の宇治田直義は「この戦争は勝ちっこあるものか。日本の負けに決まっている」と罵り、永野軍令部総長は、勝ったと思わせられていた去る6月のミッドウェー海戦が、まるきり逆であったことを、密かに私に打ち明けた。
「興亜奉公日」が「大詔奉戴日」に変えられて儀礼と形式が強化され、国民儀礼が町内会や隣組の会合で行われ、町内会は盛んに神参りを催し、各家庭に参加を強要した。「御民われ天地の栄ゆる時に逢えらく思う」とか「神州不滅」など、古典を引用する時局便乗者の神憑り説が幅を利かせ、国民大衆は赫々たる戦果を謳歌した。東条内閣の憲兵政治が国民を完全に押さえつけていた。
私は9月18日付で待命を仰せつけられ、臨時外務省の事務に命ぜられた。東郷外相は大東亜省設置に反対して辞職した。東郷は「さんざん論じて君の仇を取ってきたよ」と私に言った。私はかつて興亜院問題で闘っていた。
東郷の後を谷正之が継いだ。間もなく大東亜省が実現し、興亜院は発展的解消をした。
16 待命大使時代
382 戦時調査室
任地を失った多くの外交官は待命となり、「戦時調査室」なるものが作られ、私は松本次官から頼まれてその委員長となった。
戦時調査室は戦争遂行上や終戦上で参考になることを調査し、政策的結論を出すことを任務とし、1943年1月から始まった。
383 省の内外から諸問題の権威者を招いて聴取した。一般に対しては禁断だった外国短波の速記録がもたらされ、敗北が近づいていることを知った。聞き込んだ国家機密は、さらに陰惨だった。船舶喪失量の激増、製鉄量の激減、戦略物資の入手難、陸海軍の相克、重囲の中に陥っているドイツ、そしてイタリアは蝕まれた大木が空ろになりつつあるようだった。
連合国は1943年1月のカサブランカ会談で、枢軸の無条件降伏を戦争目的と定め、互いに協調を密にしつつあった。戦時調査室では、その1943年の夏、戦争遂行絶望論と早期和平論に湧き、敗北主義者の巣窟とみられるようになった。
中国旅行
1943年4月、中華大使の重光葵が外相に任じられ、谷外相が中国大使に転出した。
1943年1月、日本は汪政権の対英米開戦を認めるとともに、治外法権やその他の対華特権を放棄した。こうして重光が汪政権の政治力を強化し、それは重光の対華新政策の効果だと、東條首相は「重光業あり」と重光を買ったという。
私は退官の意思表示をしたが、重光が慰留した。
384 重光は戦調委員に中国視察を勧めた。私は森参事官と秘書官野崎正勝を伴い、6月、上海に向かった。
陸軍の形式主義 上海の紅湾飛行場から私の行く沿道を銃剣兵が立哨し、それが終わると領警警察官がピストルで立哨した。これは親任官に対する儀礼だそうだ。
385 上海は物が豊富で、出発地の福岡とは対照的だった。
面会した袁履登は日本軍を罵り、袁良は日本軍をあざ笑い、周作民は日本に愛想をつかして隠棲していた。中国青年党の陳友仁は外国生まれで英語しか話さず、大東亜共栄圏をこきおろし、「日本には盟主たる度量がない、盟主たる潜在力を持つのは中国だ。幣原は時局をどう見ているか」と幣原を懐かしがった。
上海棉業界の重鎮聞蘭亭老やその他二、三の人は、日本軍の上海占領事に憲兵から受けた屈辱を語り、終生忘れないと悲憤した。そして皆汪政権の弱体を非難し、汪政権に対する対華新政策など益もないと言った。
「屯積」*という言葉は知っていたが、「落水」という言葉を初めて知った。「落水」とは「日本になびいて操を汚した」という意味である。*「屯積」は買いだめるという意味である。
386 陳璧君を中心とする公館派が汪政権を牛耳り、秕政(ひせい、悪政)これより出ずと非難されていて、それはすでに常識になっていたが、山田純三郎だけは陳璧君を欲深婆あ、汪を無節操漢と罵り、彼らが中国を誤る漢奸だと憤慨した。
上海から南京に向かい、汪に面会した。汪からは中国一流の名優という印象を受けた。
この方面の総司令官畑俊六大将に面会した。こんな軍人ばかりなら泰平だろうと思った。
南京から漢口へ往復。長江に船はなかった。あれば敵機の餌食になるからだ。漢口での戦線は湖南であった。
南京から北京へ。華北政務委員会委員長王蔭泰と会談。北京は反国民党的で、横着であった。それに対して南京は神経質であった。
徳王治下の張家口の蒙古人は30万、漢人は数百万で、蒙古人は漢人に見くびられていた。自治政府である。自治政府総理の呉徳齢からは「なぜ日本は独立を認めてくれないのか、心外に堪えない」と言われた。
帰路ムッソリーニの没落を耳にした。
中国での日本軍、官、民は、明日を憂えることなく、我が世の春を謳歌していた。汪政権は大地に根を下ろしていない鉢植えの木であった。
388 次女の筆禍事件
次女は父親の人脈で筆禍の咎めを免れた。次女が中国の姉宛ての手紙の中で戦況について触れたことがスパイ行為とみなされたらしい。当時憲兵は他人の手紙を一々検閲していたようだ。おそろしいことだ。
1943年8月、私の10日間の東北出張中に、板橋憲兵隊支部から女学校2年生の次女宛てに呼び出し状が来た。憲兵上等兵らしい係官が訊問した。問題は次女が数日前に上海在住の姉宛てに出した手紙で、先日九死に一生を得てガダルカナルから帰還した近親の軍医大尉の生還談を姉に報じ、「戦争ほどいやなものはありません」と結んだ。軍紀保護法違反であった。検閲されていた。係官と妻との会話。
「このガダルカナル帰還談は誰の話か」「その人も処罰されるのですか」「もちろんだ」「申し上げかねます」「隠し立てするとためにならんぞ。まっすぐに言え」「隊長さんに会わせて下さい」「女と思って優しくすればつけあがって。娘だけ会わせてやる」「いや私も一緒に」と押し切った。
憲兵曹長の隊長と妻との会話
「最も顕著な違法行為だ。知りつつ書いたのか」「子どもの事ですから違法とは気づかず書いたのです。母たる私の監督不行届きから御手数をかけて申し訳ありません。」「貴女の御主人は満州事変当時吉林総領事ではなかったか」「その通りでございます。私もその頃、良人と一緒に吉林におりました。」「ああそうですか。私も当時憲兵として吉林にいまして、石射総領事とお会いしたこともあります。」…「では今回は許してやる」
こんなことはごくなまやさしい事件だ。当時憲兵の揮った猛威の前に、国民はひたすら恐れおののくのみだ、一部ではGPUゲーペーウーになぞらえて、KPUケーペーウーと呼んだ。Ken-Pei-Unitの略称である。
389 大東亜会議
1943年11月5日、日本、中国、満洲、フィリピン、ビルマ、インド仮政府の代表者による大東亜会議が、帝国議会議事堂で開催された。戦調室はその共同宣言の立案をし、私と石沢委員が参加した。
390 戦局は日増しに不利で、10月初旬、関釜連絡船の崑崙丸が敵潜水艦に撃沈され、共栄圏の実現など不可能に思われた。また出席者を乗せた日本の飛行機は故障続きであった。
私は傍聴席で参観した。東条首相が議長で、中国の汪精衛、タイのワンワイ親王、満州国の張景恵、フィリピンのラウレル、ビルマのバーモー、インドのボースが左右に居流れ、背後に随員が陣取った。東條の後ろには、重光外相、島田繁太郎(しげたろう)海相、青木一男大東亜相が控えた。
東條は陸軍大将服に身を固め、ヒトラーばりの独裁者ぶりが身についていた。
翌6日、共同宣言五箇条が公表された。
7日、日比谷公会堂で大東亜国民大会が開かれた。
391 満州国の張景恵は、日本のお気に召すように傀儡的に動けば事足りると考えていたようで、会議を舐めていた。彼は汪精衛に「国政は日本人官吏に任せるに限る」と言ったという。
東條首相退陣、小磯内閣出現
1943年2月、ガダルカナル島から「転進」し、
4月、わが海軍の第一人者山本五十六大将を失い、
5月、アッツ島が玉砕した。
東條内閣打倒の声を憲兵が弾圧した。
1944年6月、サイパンが陥落し、
1944年5月以来のインパール作戦で惨敗した。その作戦は東條首相の人気挽回のための政略的作戦だと噂された。かつて東條は横町のゴミ箱を覗いて節約を説き、街頭の子どもの頭をなでて平民ぶりを発揮し、ジャーナリズムもそれを報道したが、今は逆にそれが攻撃の種とされた。東条は内閣改造で延命しようとしたが、重臣がそれを非としていると噂された。1944年7月18日、東條内閣が総辞職した。
後継に小磯国昭内閣ができた。私はオランダから帰朝したとき、星ヶ丘茶寮で小磯に面会した。当時小磯は蘭領東インド行きを政府から頼まれていた。小磯が「軍艦を出してくれるなら引き受ける」と言ったという噂があった。
私は「オランダは性の強い国で、武力で脅かされて言うことを聞くような国ではない。蘭印に対して手荒なことをすれば、英米が乗り出してきて大変なことになる。この交渉はとてもむずかしい大役です」と説明した。その翌日の新聞に、小磯が蘭領東印行きを政府に断ったと出ていた。
重光外相は小磯内閣に残り、大東亜大臣を兼任した。重光は頻繁に会合を開いたが、戦局が変転し、その調査研究は空回りに終わった。有田八郎顧問が「何ももうできないが、何かしている態勢を取るのが重光外交」と揶揄した。
その間連合国は、カサブランカ、ケベック、カイロ、テヘラン等の会談を経て、協力を緊密化していた。
393 駐独大島大使論
大島浩駐独大使は陸軍がバックにいて、客観的判断ができず、最後はドイツとともに心中するような人だった。外務省戦調室は遂に大島を突き放した。
大島大使はドイツに心酔し、英米仏については無知だった。彼の日本政府への報告はヒトラー、リッベントリップ口移しの楽観論で、ドイツの国情に関する判断の眼を閉じていた。日本からドイツへの希望も取り次がず、逆にドイツ側の言い分を本国に取り次いだ。彼は外交官として用をなさない、呼び返すべきだと戦調室では考えたが、すでに外務大臣の手に負えなくなっていた。
1943年2月、ドイツ軍がスターリングラードで全滅したときも、大島はドイツ必勝を謳い、大島のスポンサーである陸軍もさすがに気を揉んで人をベルリンに派遣したが、大島にやり込められてしまった。
394 松岡外相時代、大島大使はドイツ近隣諸国駐在の日本公使たちを区署する(区分して任務につかせる)権限を与えられ、日本公使がドイツに不利なことを本省に送るのを抑制したと言われる。
1944年1月、在ドイツ大使館の某官補から寺崎英成書記官に私信が届いた。「今やドイツの敗戦は必至である。大島大使周辺の大使館主流も、さすがにドイツ必勝論を捨てるに至ったが、なおドイツ盛り返し論を唱えている。主流以外は不勝論から必敗論に変わっている。在留日本人は在ドイツ日本大使を在ドイツドイツ大使だと非難している。ドイツ人はソ連を恐れ、英米軍の占領を望んでいる。」
対ソ戦線は盛り返しの望みがなく、1944年6月に連合軍の(ソ連戦線に次ぐ)第二戦線が大陸に形成された。外務大臣が今後のドイツの方針を心配して訓電したが、大島は「今さら何のご心配ぞ。日本はドイツと運命を共にするのみではないか」と返電してきた。
林総領事が「大島は駐ドイツ大使として最適任だ。ドイツと共に没落するのが彼の役目だ。」
395 近衛文麿公と私
近衛文麿は軟弱だった。私は彼を軽蔑していた。
東亜同文会は、近衛文麿の父近衛篤麿によって、明治31年1898年、中日善隣、中日間に戦争を起こさぬことを鉄則として興された。1944年6月、故近衛篤麿の40年祭が霞山会館で行われ、式後午餐会が華族会館で催され、私も参加した。近衛文麿は東亜同文会の会長をしていた。
近衛文麿が最後に謝辞に付け加えた。「…父のそうした苦心にも関わらず、私が総理として中日事変の措置を誤り、遂に今日の大事を致しましたことは、先考に対し、また皆様に対し、慙愧に堪えず、ひたすら責任を痛感する次第であります」
私は「ぐうたら、今さらおそい」と口走るところを抑えた。
私は常に文麿を軽蔑しきっていた。近衛文麿には意思力がない。外部の強制力に屈従する。近衛文麿は1940年7月、第二次近衛内閣をつくった。そのころ近衛文麿は密かに幣原さんに危機解消の方策について教えを乞うたという。しかしその実行はできなかった。
397 朝に一塁夕に一城
1944年6月にサイパンを失陥し、戦争の様相が絶望的になったのに、海軍は「肉を斬らして骨を斬る」と柳生流の極意を講釈し、陸軍は本土決戦と称して、国民に竹槍の稽古を強いたが、民衆は「朝に一塁、夕に一城、しまいに宮城」とささやき(地口)、疎開や学徒動員に動揺した。
小磯内閣は何とか無条件降伏を避けるために交渉による和平を求め、その「最高戦争指導会議」はさらに戦争を遂行して敵に大打撃を与える決意を固めた。軍が引きずるのだ。
戦調室も交渉による和平策を考えた。誰しも中立のソ連を介した和議申し入れを考えたが、私は中国を通した「時局策」を草して提案した。
「今や和を乞うべき時である。ソ連は従来の態度からして、ソ連に仲介を頼めばつけこまれるだろう。講和の要請は中国を通ずべきである。中日事変によって散々踏み荒らした中国に、最後の花を持たせる意味において、重慶政府に講和の斡旋を申し入れれば、彼は必ず厚意的斡旋に立ち、交渉による和平を得ることは必ずしも望みなしとしない。」
398 ソ連は1941年6月の独ソ開戦当時はひたすら日ソ中立条約の遵守を日本に要望していたが、ドイツが対ソ戦線で崩壊し、日本が太平洋戦争で不利となると、日本が逆に日ソ中立条約の確守を要望しなければならぬ番になった。重光外相はソ連に特使を2回派遣しようとしたが、それをソ連は冷たく拒絶した。ソ連が背後から一突きすることは明らかであった。
私の「時局策」はなしのつぶてのまま、ビルマに転出させられた。
399 ビルマへ転出
1944年8月26日(日記によれば、28日の間違いでは)、私は重光外相、松本次官から、沢田廉三大使の代わりにビルマへ行ってくれないかと交渉を受けた。即答を避けて考量の余裕を求めた。
不意打ちだった。私をタイ国大使に擬する噂を耳にしたが、タイへは数日前に山本熊一大東亜次官が任命されていた。沢田ビルマ大使は帰朝中に辞任したのだ。私の待命大使在官のリミットは目前に尽きようとし、私はそのまま退官を予期していた。
当時のビルマ戦線は、この1944年の春のインパール作戦で惨敗し、全面的崩壊は時の問題とされていた。またビルマに派遣される大使は、陸海軍と政府との申し合わせによって、大使の権限を「純外交」に局限され、実質的に儀礼大使でしかなかった。埋め草である。(埋め草とは、作戦上、殺されることが確実なのに前線に送られる兵士。)
来栖大使に相談しても、引き受け不賛成と言うばかりで、家族も反対する。私は一日一晩懊悩したが、持論の官吏道が勝って引き受けた。まだ官吏の身分にあるのだから、望ましくない任地だからとして断るのは官吏として卑怯だと考えた。1944年8月29日の日記「ビルマ行きを引き受けた後味の悪さ。たとえんにものなし」
知己の意見は様々だった。「馬鹿だ」、「よく引き受けた、君なればこそだ」
私は野崎秘書官に同行してくれるか尋ねた。野崎はブラジル以来の私の手放しがたい人物なのだ。「無事で帰れまいと思うが、それでも行くかね。」「大使にはどこへでもお供します。」
出発前に儀礼的往訪した小磯総理は、外交の手を打ち、ソ連の仲介に望みをつないでいた。米内海相は戦勝の絶望を示唆したが、及川軍令部総長は柳生流の奥義めいた観測を語った。
401 赴任途上
1944年9月22日、野崎秘書官と共に東京駅から福岡空港へ向かった。車窓から見た八幡製鉄所の空襲の跡がわびしい。福岡で1泊して台北に飛ぶ。長谷川清総督、蜂谷輝雄外事部長、加藤恭平台拓社長の歓待を受け、一泊。翌日サイゴンへ。三日間、芳沢仏領インドシナ大使の客となる。芳沢大使は自分の任務は終わったとして帰朝の決意を固めていた。
サイゴンから空路3時間でバンコクへ。大使官邸の客となる。アパイオン総理、セナ外相、ワンワイ親王らと旧交を修した。バンコクはピブーン前首相の文化政策によって著しく近代化されていた。街はほとんど戦禍を蒙ることがなく、日本軍民の消費する金で殷賑を極め、物は何でもあった。隣国ビルマと対照して「タイ極楽、ビルマ地獄」と言われていた。
滞在5日でラングーンに飛んだ。北沢直吉参事官、方面軍参謀副長一田次郎少将、光機関長磯田三郎中将らが出迎えてくれ、車で大使官邸に入った。10月9日であったと記憶する。
17 ビルマ大使時代
402 ラングーンの種々相
大使官邸はビクトリア湖の西端にあり、大使館事務所は、官邸とはビクトリア湖を隔てた工業学校に置かれていた。北沢直吉参事官、島津久大(ひさなが)一等書記官兼総領事、その下に、書記官、副領事、書記生など20人の館員がいた。陸軍武官は方面軍参謀副長の一田少将、海軍武官は根拠地参謀長中堂観恵大佐が兼任した。
信任状をロンギ(スカート)姿で盛装したバーモー国家代表に奉呈した。
日本のビルマ方面軍、一名森部隊は、軍司令部をラングーンに置き、インド国境、アラカン地区、雲南国境などで敵と接触する数個師団を指揮していた。軍司令官木村兵太郎中将と参謀長田中新一中将は着任したばかりだった。
403 海軍はここに根拠地司令部を置き、司令官田中頼三中将、参謀長中堂大佐の指揮下に、わずかな舟艇と陸上部隊を持ち、アンダマン島やアラカン(ラカイン)沿岸の守備に当たっていた。
独立ビルマ国政府は、元首兼首相のバーモー博士、その下のタキン・ミヤ外相、ウ・トオン協力相、オンサン陸相以下、バーモー氏のマハバマ党とタキン党との合作から成っていた。
バーモー博士はビルマ独立指導者として、イギリス官憲から嫌われ、日本軍侵攻当時、シヤン・ステート内の牢獄に幽囚中であったのを日本軍によって救出された。初めは(日本)占領軍の行政長官をしていたが、去年、ビルマの独立と同時に、国家代表(アディパディー)と呼ばれる元首の地位につき首相を兼任した。
バーモー政権は日本軍の支持のもとに傀儡的であったが、独立政府を組織して、(独立という)宿望を達した。国内には、カチン、チン、カレン、シヤン族などいて複雑であり、ビルマ全国が戦場になっていた。
ビルマ政府の招聘によって、小川郷太郎法博を首班とする70余人の顧問群が派遣されていたが、軍属を押し付けられて軍の支配を受け、顧問としての機能を発揮できないでいた。
ラングーンにはチャンドラ・ボースのインド独立仮政府が寓居し、35,000人の独立軍を擁していた。この仮政府に対して光機関が設けられ、その創始者岩畔豪雄(いわくろひでお)少将は、(この時すでに)部隊長としてプローム方面に転じていて、今は磯田中将が新任機関長となっていた。
404 岩畔少将が去ったのちのボース氏と光機関とは犬猿の間柄で、重光外相宛てのボース氏の密書では、光機関の無能を訴え、前線の光機関が鶏を徴発して食う以外に役に立たないという意味で「鶏部隊」と罵っていた。
ラングーンはイギリスが経営しただけに、バンコクとは数段立派な都会であった。(前言と矛盾)繁華街は空襲で壊され、華僑とインド人が店を出していた。
仏骨を祭るシュウェ・ダゴン聖寺の境内に入るには土足や足袋は禁止され、私は裸足で参詣した。
70の日本商社が進出し、各新聞社支局を置き、小さな邦字紙が発行されていた。
通貨は「南方金庫」が発行するルビー軍票であり、正金支店が金融を支配していた。
バーモー氏とボース氏との初会談
バーモーもボースも日本に対して不満を持っていた。
バーモー「ビルマ政府も国民も日本に協力しているが、日本軍は貪欲に物資を強要し、地方の日本部隊は、地方ビルマ官憲を無視し、トラックの代用として牛車の供出を要求している。牛は農業に欠かせない。インド軍もビルマの物資(食糧)で養われている。また地方では日本部隊がビルマの司法権を無視し、勝手に地方人を処罰している。これでは民心がビルマ政府と日本から離れるだろう。」
日本ではバーモーを酷評した。ビルマ国教に反してキリスト教信者である、混血児である、口舌の雄に過ぎないなどであるが、この春1944年の春、日本軍の一尉官が二、三のビルマ人を語らってバーモー官邸を襲った。ビルマ版五・一五事件である。
バーモーはケンブリッジ卒でビルマ一流の人物である。タキン党の領袖でかつ外相でもあるタキン・ヌーや他の閣僚は、バーモー前では一秘書官に過ぎない。
バーモーはウ・トオン協力大臣を連れて日本の小磯内閣に会いに出かけた。
チャンドラ・ボースも「鶏部隊」について不満を述べた。「今度の機関長はインド軍の要望を顧みない。ビルマ戦線におけるインド軍の働きが、光機関の悪意によって過小評価されているのではないか。」
ボースも日本に向かった。
406 イラワジ河畔の会戦
「イラワッディ河畔の会戦」とは、戦果に対して命名されたものではなく、単なる計画に過ぎず、その破産は事実によって証明された。
1944年10月末、レイテ島で敗れ、寺内元帥の南方総軍司令部はフィリピンからサイゴンに移動した。ビルマ戦線ではこの1944年の春のインパールで惨敗し、インド国境や雲南省境での戦線は、南へ南へと敗退を繰り返していて、その様子はニューデリー放送が日々伝えていた。
1944年11月、ビルマ方面軍は「イラワッディ河畔の会戦」という作戦計画を立てた。イラワッディ西岸の諸部隊を東岸に撤退させ、メーミョ、マンダレー、エナンジョン、プロームなどを扼して(抑えて)「戦争自給」態勢に入るというものである。これは田中方面軍参謀長の立案であり、兵器の製造とともに、戦争物資の屯田的生産に従事するというものであった。
前線から距離のあるラングーンでも空襲が激しくなる中を、上級将校は慰安所(翠香園)で酒に酔いつぶれていた。下町には「つわ者寮」など数軒の慰安所が、下級将兵や兵たちの相手をしていた。
408 大使の任務――三巨頭会談
三巨頭会談はお茶のみ話に過ぎなかった。太平洋戦争の緒戦を計画した田中参謀長に対して誰も建言できる者がいないようであった。
ビルマ大使の権限は「純外交」に限られ、その一つは国際約定の議定であるが、すでにビルマ独立の承認は締約済みであり、残る仕事はもっぱら儀礼だけだった。日本・ビルマ国元首間の慶祝親電の交換や、両政府間のメッセージのやり取りや、公式の集会や式場で祝辞を述べることぐらいだった。
バーモー国家代表は1944年末に日本から帰国した。
409 三巨頭会談が始められた。国家代表、軍司令官、大使の三者が月二回バーモー官邸で晩餐を共にしながら意見を交換する。木村軍司令官の通訳に勝俣顧問が当たった。
木村軍司令官は実情を知らずに、ビルマ警察の増強を提案したが、バーモーから、日本軍がビルマ警察からピストルを奪い、服もないと言った。一方、バーモーは戦況を質問したが、木村は日本軍の不利を覆い隠した。
バーモーの民衆に対する演説は説得力があった。
410 私はチャンドラ・ボースとも儀礼的交渉をもった。1945年3月、ボースの誕生日祝賀会が在留インド人によって催され、ボースに供出された民衆からの装飾品が山となった。ボースは終戦直後台湾での飛行機事故で亡くなったが、あの貴重品はどうなったのか。
軍内部だけでなく在留邦人のあいだにも反バーモー熱があり、その代表はバセインに開業した日本医師の木村某と、ラングーンに寺を持つ某日蓮僧の永井某であった。私はそういう反バーモー熱の是正を木村軍司令官に説いたが、どうも田中参謀長が押さえているようだった。田中は太平洋戦争緒戦を計画し、全方面軍を威圧していた。木村軍司令官は配下の軍から浮いていた。
411 大使会議――阿波丸の悲運
1945年3月初旬、私はバンコクでの三大使会議に出席した。出席予定者は、竹内新平大東亜次官、松本俊一仏領インドシナ大使、山本熊一タイ大使とビルマ大使の私であったが、松元俊一仏領インドシナ大使は、3月9日付の最後通牒を仏領インドシナ総督に突きつける任務があったので欠席した。
それに蜂谷輝雄(インド)公使と中村明人軍司令官も出席した。蜂谷輝雄公使は、チャンドラ・ボースへの公使として赴任する途上であった。
議題は仏領インドシナ、タイ、ビルマに通じる大東亜共同宣言の実践方法であった。
前述の竹内新平大東亜次官は、捕虜救恤品を南方に輸送する任務をもって阿波丸でバンコクに来ていた。当船は敵側から不可侵権を認められていた。
当時敵空軍はマンダレーのすぐ南(日本軍側とされていたイラワジ川東岸)のメイクテーラの日本軍飛行場を急襲し占領していた。
バンコク滞在中に、大使官邸の隣接地域が敵機の夜襲を受け、一時間防空壕に潜んだ。
阿波丸は昭南を終点とし、帰途は大東亜省職員と家族ら千余人を収容して帰航の途中、台湾沖で誤って米潜水艦に撃沈された。アメリカはイランでも「誤って」小学校を空爆した。今も昔も同じだ。竹内、山田芳太郎外務省調査部長、ビルマ政府顧問の首班小川郷太郎もその千余人の中にいた。
オンサン陸相の反乱 育てたビルマ陸軍の謀反
ビルマ陸軍一個大隊の出陣式が1944年3月に行われた。バーモー国家代表、オンサン陸相、日本軍司令官代理一田少将が列席し、私も招待を受けた。
その翌日か翌々日にオンサン陸相はこの部隊を率いてプローム方面へ進んだと見せかけて、郊外の日本軍警備陣にゲリラ戦を開始した。ラングーン以外の地方でも同時にゲリラ軍が蜂起した。戦局の不利が招いた結果であった。オンサン少将は嘗て日本軍をビルマ侵攻に導いた。オンサンは32、3歳。
ラングーンに日本の兵力がないので、商社員や顧問団の中から補充兵を召集して警備に当たらせた。
413 大空襲
私の着任後しばらくは日本空軍がラングーンに存在し、空軍司令部がラングーンに置かれていたが、いつしか制空権が敵手に帰していた。
ラングーンへの大空襲が3回あった。前2回はビクトリア湖辺の軍の貨物廠が襲われ、ガソリンの爆音が終日続いた。2回目は官邸裏手の慰安所もやられ、女三人が生き埋めになった。3回目は4月初旬で、軍司令部が狙われた。軍司令部は大使館事務所と背中合わせで、密林の中に秘匿されていたが、諜知されたのだ。
414 私はそのとき防空壕に逃れた。軍司官は堅牢な防空壕のお蔭で無事だった。大使館事務所は禍を逃れた。
414 蜂谷公使とチャンドラ・ボース
その頃インド仮政府公使として蜂谷が着任したが、蜂谷が信任状を授けられずに来任したため、チャンドラ・ボースは蜂谷公使に接受を拒んだ。蜂谷は接見が得られず、むなしく滞在するしかなかったが、ラングーンからの軍官民の総退却でその問題は解消した。
415 総退陣――ラングーン脱出
ラングーン北方のエナンジョン付近で敵がイラワジ川を渡河し、マンダレー前面の守りが不利となったという報を受け、私は、4月17日、木村軍司令官を訪問して、ビルマ政府と居留民を安全地帯に移すべきだと説いたが、木村軍司令官は、ピンマナ、エメチンの間のマンダレー街道の隘路(狭い所)で、敵の南下を挟撃しているので、危険は迫っていないとした。
ところがその5日目の4月22日の午後、軍司令部が突然通達を発し、「ビルマ政府、日本大使館、居留民は、翌23日夜、ラングーン南南東のモールメンに向かってラングーンを撤退すべし」とし、「そのうちビルマ政府と大使館幹部は、23日の晩9時に、憲兵隊本部から出発し、居留民は島津総領事以下、大使館員引率の下に12時に出発。トラックを軍が手配する」という。
大使館は書類を焼いた。
敵はピンマナ、エメチンの隘路を避けて、横腹からマンダレー街道に入り、南進中であった。また敵がラングーン北方50マイルのペグー方面の広野に空輸部隊を着陸させ、モールメン街道を遮断する公算が多い。軍司令部は慌ててラングーン放棄を決意した。
416 官邸の佐藤ボーイ長と料理人はトラックの荷物を管理し、私と、野崎秘書官、本間幸次郎領事の三人は私の乗用車に乗ることにした。
私は大礼服を焼き、剣と勲章をビクトリア湖に沈めた。私は勲章や大礼服の時代は去ったと見切った。
4月23日晩8時、私たちは乗用車とトラックで憲兵隊本部に集合した。北沢参事官も集合した。バーモー国家代表とその家族大勢、ビルマの閣僚たちが家族同伴で参集した。
護送指揮官はビルマ政府軍事顧問の平岡醇造大佐、護衛は森田守大尉率いる憲兵分隊と、森応召中尉が率いる一個小隊である。
出発は予定を2時間遅れて11時になった。平岡大佐の自動車を先頭に、私の車は野崎秘書官が運転し、トラックは官邸の運転手井上が運転した。
バーモー国家代表とその家族は自動車二両に分乗し、他の閣僚たちとその家族はトラック数台に分乗した。
417 十五夜近くで、前車の尾灯を頼りにビクトリア湖の東岸を走り、マンダレー街道に出て、北進した。(一旦北進したのか。)アスファルトの道は砂塵で煙っていた。
ペグーを過ぎ、パヤジから東にそれ、モールメン街道に分岐した。そこには前方に軍用トラックの長蛇の列があり、大渋滞となり、我々の編隊はバラバラになった。明け方にワウ村に着いた。バーモー国家代表や先頭の平岡大佐は先着していた。
夕方ワウの渡しにかかった。唯一隻の筏で半丁(50アール)ほどの水面を一度に二両ずつの車両を運搬する。敵機来襲の警報が鳴ったが、来襲しなかった。夜半に渡河して一服し、次のシッタンの渡しに向かった。
418 広野をモールメン街道が続く。非舗装の道路で、泥濘に車輪が取られ、ビルマ閣僚の乗ったトラックや私の自動車のエンジンが動かなくなり、私と秘書官は手回り品を詰めた鞄一つを持って徒歩で歩いた。
右手に東へ走るモールメン鉄道の堤が見えた。これをたどればシッタン川に達するはずだ。遠くペグーやパヤジ方面で敵機が空襲しているらしい。昼、シッタン河畔のニャンカシ村に到着。平岡大佐が先着していて、その手配で民家に休息。夜通し一睡もしていなかった。空腹だった。バーモー国家代表も近くの部落に身をひそめた。閣僚の一部の消息が分からないという。
この日、ニャンカシ村が数回敵機に襲われ、防空壕に入った。機銃掃射され、バーモー国家代表の自動車が破壊されたが、幸いバーモー氏は乗っていなかった。
その晩はニャンカシ村に泊る。翌日夕刻、その村を発ち、夜、シッタン河を渡った。対岸の軍需品貯蔵所が空襲でやられて燃え続けている。
シッタン河を渡ってからは、平岡大佐がどこからか工面して来た二台のトラックにすし詰めで乗った。シッタン河以東モールメンまでの百二、三十マイルは普通は一日行程だが、8日かかった。民家の床板で寝た。護衛兵が食事をつくってくれた。
一方、傷病兵は徒歩である。モールメンに向けて落ち延びる傷病兵の群が延々と続いた。杖にすがり、喘ぎ、傷口からは蛆が湧いている。軍は傷病兵に構ってくれない。
この慌てて立案された脱出計画は岡本岩参謀少佐が立案したという。
420 バーモー氏令嬢の出産
逃避第5夜(4月27日)の夜中、チャイトー村の入口に差し掛かったとき、バーモー氏の娘が陣痛を起こし、チャイトー村の路傍の民家で男の子を出産した。バーモー夫人と産婆が付き添った。我々一行がトラックから降りていた1時間くらいの間のことだった。娘は陸軍士官学校長のボーヤンナイ中佐に嫁していた。
しかし平岡大佐はチャイトーの東2、30マイルの難所ビリン川を今夜中に渡河するため、産後直ちに行進を続けようとした。それに対してバーモー氏は激怒した。
バーモー氏は私に苦情を述べた。「約束していた途中の食事の手配や宿所の予定もなく、医者は産科医でなかった。平岡大佐は非常識だ。」それに対して私は「この疎漏な脱出計画について本国政府に報告し、ご不満に清算をつけるつもりだ」と答えた。
軍はバーモー氏とその家族だけは、空路でモールメンに送るべきだったと私は思った。しかるに軍司令官と主な幕僚は私の想像通り、いち早く飛行機でモールメンに逃れていた。ラングーン、モールメン間は空路わずか30分の距離だった。
その晩はチャイトーに泊った。私と秘書官は民家に入れたが、北沢参事官らは他の民家の軒下で過ごした。
バーモー氏は10日間はここを動かぬと言ったが、ビルマ医が徐行の自動車なら絶対に安全と診断し、チャイトー滞在3晩で行進を再開した。
422 ムドン村の潜伏生活
バーモー氏と私の一行は目指すモールメンに着いた。私は途中デング熱に冒され、軍用ホテルで病床についた。
大使館員一同がようやくここで落ち合った。官邸使用人の3人も無事に先着していた。
島津総領事が引率し、10数台のトラックに分乗してラングーンを脱出した居留民は、ペグー、パヤジ間で四分五裂に解隊した。トラックが次々に故障し、敵の空襲を受け、各自逃げ惑ってバラバラになった。島津総領事と館員たちも流民となりつつモールメンにたどり着いた。官邸使用人たちはワウの渡しでトラックを積荷ごと焼き捨てていた。
私はモールメンでベルリンの陥落とヒトラーの死を聞いた。悪魔の当然の没落。私は無感動だった。
モールメンの南18マイルのムドン村がビルマ政府と大使館の隠れ場所に選定され、数日後に館員一同がそこに移ったが、もう大勢の館員を必要としないので、北沢参事官、島津総領事や大多数の人員をバンコクに送り、私は野崎秘書官、角野三等書記官、官邸使用人とともにムドンに残った。ビルマ政府の運命を見届けるためであった。
バーモー国家代表は、私の勧告に従って、夫人と家族をタイに送ったが、その後その一行は平岡大佐付き添いの下に、仏領インドシナのコンポンチャム(カンボジアの某町)に身を潜めた。
私は5月初めから終戦までムドンにいた。タイ・ビルマ鉄道のビルマ川起点タンビザヤへの街道が、ムドンの村はずれを走っていた。
バーモー氏はムドン村の中央の民家に、他の閣僚たちも村内の各民家に分宿した。私は某華僑の住宅を借り、野崎、角野と共同生活をした。夜は蝋燭で明かりをとり、南京虫に攻められた。
424 私はバーモー氏の国家代表としての使命はもう終わったものと考え、彼を日本に逃避させるのが、日本政府の厚意でなければならないと考えたが、軍はバーモー氏を手放そうとしなかった。
このころ日本のビルマ方面軍は総崩れであったが、サルウィン川の東岸で陣容を立て直し、敵をこの河で食い止める作戦だという。敗軍の最中だというのに、木村軍司令官が大将に昇進した。
1月末、ルソン島で、2月、硫黄島で、4月、沖縄で敗れ、いよいよ本土決戦に追い詰められた。ポツダム宣言、広島・長崎原爆投下、ソ連の宣戦が、軍の報道によって、ムドンの私にも伝えれた、
425 終戦――バーモー氏の脱出
ムドンでの滞在中の当初、敵機はビルマ・タイ鉄道の空爆の途中にムドン上空を往来したが、襲撃はしなかった。ところが、8月11日、頻りに低空飛行をし、翌8月12日、近所の女性との茶会の最中(女性は英語が多少話せた。)に来襲して機銃掃射や爆弾投下。私は防空壕に入る時期を失ったが、壁に体を寄せてどうにか難を逃れた。バーモーも防空壕で難を逃れていた。バーモーを狙ったものと思われた。敵襲は20分続いた。敵はバーモーの所在を諜知していたはずだ。
バーモーは村はずれの民家に移動し、私どもも翌8月13日に、隣村の民家に退避した。
426 一通の電信が軍を通じて配達され、角野書記官がそれを解訳した。それは山本熊一タイ大使から転電された東郷外相の訓令だった。
「帝国政府は広島、長崎への原子爆弾の投下と、ソ連の宣戦とに鑑み、これ以上無益なる人命の犠牲を避ける人道的見地よりして、茲にポツダム宣言を受諾することに決せり。ついては貴大使は右の次第をビルマ政府に伝えると同時に、同政府が帝国に与えられたる従来の協力に対し、深甚の謝意を表し、併せてビルマ政府の今後の身の振り方は、自らの裁量によって決せられたき旨、同政府に通告せられたし。」
かねて期したることとはいえ、一同顔を見合わせるのみであった。
木村軍司令官の、バーモー処分に関する意向を確認するため、モールメンに車で向かった。軍はモールメンから離れた山間にニッパハウス(ヤシの葉で茅葺した家)をつくって潜んでいた。軍にはまだ停戦命令は届いていなかった。軍の意向は「バーモーは好きにせよ、大使(私)に任せる」とのこと。
夕方、ムドンのバーモーの所に戻り、訓令の内容を伝えると、バーモーは日本政府への謝意を表した。私は日本への亡命を勧めたが、バーモーはビルマに残って独立運動に徹すると言った。
427 それでも私は数回バーモーに日本への亡命を勧めた。バーモーは閣僚会議の開催後、私の勧告に従い、一旦仏領インドシナの妻子の所へ行き、その後情勢を見て、日本に向かうと答えた。他の閣僚はムドンに残ってイギリス軍と勇敢に闘うとのことであった。
1945年8月18日、バーモー氏と随員数名は未明ムドンを出発し、タンビザヤ駅から急行列車でバンコクに向かった。
私はバーモーの行方について英軍に追及された場合を想定して軍と口裏を合わせた。つまり「バーモーはバンコク行きの軍用車に乗ろうとムドンを出発したが、実際は乗らず、タンビザヤ駅からどこともなく身を隠した」とした。
バーモー氏がいなければ、私の仕事もない。翌8月19日の夕刻、私は野崎、角野と、たまたまバンコクから出張中の須藤理事官らと共に、バンコクのバーモーを追った。ビルマ閣僚のタキン・ヌー、タキン・ミヤ、ウ・トオン以下が見送ってくれた。
タイ・ビルマ鉄道では、臨時にバンコクに出張する将兵とともに、貨物列車にごろ寝した。タイ・ビルマ国境は峻険な幽谷で、枕木一本について人命一人の犠牲と言われる難所であった。
428 タイ極楽へ逃避
1945年8月21日、バンコク着。トロカデロ・ホテル泊。電灯と豪華なベッド、和洋食、ウィスキー、冷えたビールがあった。
8月23日に得た報によれば、バーモーはサイゴンから密かに日本へ飛び、夫人は子女とともにバンコクに向かったという。
ビルマからの居留民のほとんどはバンコクにいた。ラングーンの商社隊は悲惨だった。ラングーン放棄が迫ったころ、ラングーンの商社員7、800人が召集されて兵隊にされ、さらには軍に置いてきぼりにされた。彼らはラングーンから落ち延びる時に、幾十日間、山間沼沢を彷徨し、病気と飢餓で半数以上が斃れた。ビルマ引揚者の中にはこういう人もいた。
1945年9月、英蘭軍がバンコクに進駐し、トロカデロ・ホテルが接収された。私は山本大使官邸に収容されやがてそこに抑留された。そこで抑留された僚友は、蜂谷輝雄・水野伊太郎両公使、新納克己・結城司郎次両参事官、石川実総領事と私である。他の外務省関係者は隣接の大使館事務所と構内の館員官舎に分宿した。
居留民は、バンコクの在住者もビルマからの引揚者も、延べ2千数百人が、バンコクの西方十数マイルのバンバートンに抑留され、タイ国政府の賄いを受けた。
陸軍は中村軍司令官、花谷正参謀長、佐藤賢了師団長らが抑留された。参謀長浜田(平)中将は見事自決した。辻政信は地下にもぐった。
海軍は田中頼三中将とタイ国大使館付武官加藤達少将と少数の部下が共に抑留された。
バーモー夫人キンママ
1945年8月末、バーモー夫人とその家族が平岡大佐に付き添われて仏領インドシナのコンポンチャムからバンコクに到着した。バーモーは日本に飛ぶ前にコンポンチャムの妻子に別れを告げた。夫人はビルマに戻るべくバンコクで待機することにした。
平岡大佐はこれまでバーモー夫人の面倒を見てきたが、敗戦後はお役目御免とその任を私に委ね、そそくさとコンポンチャムに戻った。大佐は戦前、英軍のスパイをしていて、それが発覚し、英軍から放逐された経験を持つ。バーモー夫人は英語が良くでき、頭脳明敏であった。
430 抑留生活の種々相
抑留生活は、公務員と民衆とで差別的であった。
私は大使館の構外へは出られなかったが、構内ではゴルフや囲碁を楽しみ、出前の中国料理を食べ、華僑紙を購読することができたが、バンバートン・キャンプでの居留民は、雨季のため水上生活で、電灯・水道がなかった。またバンコク居留民にはお金があったが、ビルマを放逐された居留民は裸一貫で、寝具も着替えもなかった。
山本熊一タイ大使が10数万バーツ、私が8万バーツを出して互助救済機構が作られた。大使館とバンバートンとの文通も許された。
英軍のビッグウッド大尉が来て、バーモーの行き先を尋ねた。
432 1945年11月、蜂谷公使が戦犯裁判の証人としてニューデリーに拉し去られた。
ミズーリ艦上での降伏、連合軍の進駐、天皇の地位、戦犯容疑者の収容、東條大将の自殺未遂、食糧不足、追放令などのニュースが届いた。
1946年元旦、大使官邸で遥拝式を挙行し、国旗を掲揚し、君が代を合唱した。すすり泣きの声が聞こえた。祖国日本の末路に立って、過去の光栄に流す涙であった。
1946年4月、英政府は戦争中に東南アジア地区で日本軍に協力した英人の反逆罪を赦免すると公布した。バーモーもその閣僚たちも赦免されるだろう。
大使館を訪れた軍関係者のうち、中村軍司令官は祖国の悲運を身に染みて深く謹慎の態度を持したが、花谷、佐藤賢了両中将は談笑し、日本を亡国に導いた自分たちの役割についていささかも反省の色を示さず、自己の過去を忘れ去ったかのようだった。
433 タイ国の二重外交
タイは、表面では親日本だったが、裏面では英米と結託していた。以下は終戦後間もなく公表されたことである。
戦時中、タイは表面では日本に協力し、裏面では「自由泰運動」が英米に通じて日本軍潰滅を策していた。その運動の総帥は摂政ロアン・プラジットで、次帥はアドン警察司令官であった。この運動は秘密組織を持ち、英米と連絡を取っていた。
開戦当時米公使だったセニー・プラモートは、侵略者日本軍からの祖国解放を叫んだ。ピブーン政権(第一次1938.12.20-42.3.6、第二次1942.3.6-44.8.1)の没落後、ロアン・プラジットは、腹心のコアン・アパイオンを首相にした。アパイオン内閣は表面では日本軍に協力し、裏面では日本軍を一網打尽にしようとしていた。それを日本側で不審に思った者もいたが、裏面のたくらみを洞察できなかった。しかしこの陰謀が実行される前に終戦となった。
434 終戦によって表面では日本の道連れだったタイは敗戦国になったが、アメリカはタイを敵国とみなさないと宣言し、イギリスの講和条件は、アメリカの斡旋で軽減された。
終戦後タイは対日協力者を処罰するための「戦争犯罪人法」を公布したが、自国の戦犯者は自らの法廷で裁く了解を英米から取った上で同法を公布した。大審院が戦犯裁判の所管裁判所とされ、ピブーン前首相、ウィチット駐日大使、プラ・サラサスなどが逮捕され、審判に付された。ところが1946年3月、大審院はこの法律は憲法違反だとして無効を宣言し、被告一同を釈放した。タイは当初から違憲を承知の上で「戦争犯罪人法」を制定し、潮時を見てその無効を大審院に宣言させたに違いない。それは「タイの自由と独立の維持のため」であった。
しかしタイも、200万人ないし250万人の華僑には頭を悩ませた。ピブーン政権時は(華僑に対して)職業を制限したり、居住禁止区域を設定したりし、次のアパイオン政権はそれを緩和したが、華僑の恨みは消えなかった。
戦後華僑は戦勝国民となり、これまでのように屈従はせず、タイ・華人間で流血事件が頻発した。そこで、恐らくタイ政府によって、中国から特派大使一行がタイに派遣され、タイ国政府はそれを優遇した。タイ華国交が樹立された。
終戦後ヨーロッパから帰国した第8世マヒドン王が、6月9日、宮中で急逝した。拳銃弾が頭を貫いたのだ。これを政府は過失死としたが、タイ人の多謀性を考えるとどうか。
帰還
1946年の3月、4月ころ、シンガポールやサイゴンで帰還が開始されたとのこと。
6月13日、居留官民のバンコク出発が英軍当局によって決定された。日本の貨物船の辰日丸1万トンが、メナム河口数十マイルの沖合のコーシチャンに停泊していて、バンコクからそこまで進駐軍が上陸用舟艇で運んでくれた。大使館員は6月13日の未明、数台の軍用トラックで波止場に到着したが、バンバートンからの民間人3000人は、徒歩と小舟でそこに到着していて、大使館員に不平をぶちまけた。
全員の船への移乗が終わったのは6月13日の夜半で、その輸送指揮は、山下汽船支店長の海野午五郎が行った。
貨物船で客室はなかったが、山本大使、水野公使と私は船員室へ。それ以外はハッチ生活である。醜い場所争いが行われた。
1946年6月15日、コーシチャンを出航。三食麦飯、一汁一菜。船中は牛馬の生活であった。
7月3日の朝、鹿児島着。正午、上陸。「引き揚げ同胞援護局」が上陸手続きを担当。大使館組は山の手の旅館へ。外務省から出迎えがあり、留守宅の消息を伝えてくれた。私の家は4月13日の空襲で焼けたが、一同無事で、現在、長男の勤務先の王子製紙の飛鳥山社宅にいた。
鹿児島での二泊後、東京直行の列車に乗り、7月6日の夜9時、東京駅に着いた。外務省の車が迎えに来ていて、長男の社宅に到着した。
1日おいて(翌日)7月7日、私は日産ビル内の外務省に出頭して辞表を提出した。
18 依願免官――追放
438 私は1946年8月8日付で依願免官の辞令を受け、8月28日、ビルマ大使であったからとして公職追放令該当者に指定する通達を受けた。私の官吏生活は31年であった。
私はもともと生活のために外務省に勤めたが、地位が上がるにつれ、生活意識よりも国家への奉公心が先に立つようになった。日本と国民のために、「正しいと信じる」ところで働いてきた。私は国家の滅亡を食い止めることができなかった。私のこれまでの努力は亡国のために消された。そして追放と窮乏と頽齢が待っていた。それは悔恨ではなく、自分への憐れみである。
439 私は自ら生き抜き、家族を養ってきた。しかし追放のために今後の人生に制限がかけられた。今の心境は無為である。たけき者は遂に滅びぬ。
19 結尾三題
441 天皇と外交官 感想 筆者も天皇主義者。天皇は平和主義者だという。敬語の多用が鼻に突く。
外務省の職員の中でも、公使と大使だけが天皇陛下と接触できる。それ以前は特別の必要でお召しを受けない限り接触の機会はない。公使と大使は天皇の御名代として外国の元首に遣わされる身分である。
公使と大使には御信任状が発せられる。それは相手国の元首に宛てられた天皇の御書面であり、大公使がそれを相手国の元首に奉呈する。それが国書棒呈式である。その書面にはこう書かれている。
「今回何某を貴国に対して特命全権公使(大使)に任命する。本人は品行方正為人篤実にして、朕が使臣として全権を委ねるに足る人物ゆえ、貴方においても本人を信用され、貴我両国の関係について本人相手に御話し下さい。
親筆の御名 御璽(帝王の印)
朕が良友、何某国国王陛下(大統領閣下)」
日本語の本文に英語やフランス語などの訳がつく。
442 公使や大使は赴任する前に天皇への拝謁が許されるが、願い出なければ許されず、天皇の方から進んでお召しはない。私が初めて公使となってシャムに赴任する時は、拝謁を願わなかったが、オランダ公使として赴任する前に、私は初めて願い出た。
服装はモーニングである。指定の時間の20分前に参内すると、宮内官が面接し、拝謁の予行演習をつけさせてくれた。拝謁の間の入口で最敬礼、部屋に一歩入って最敬礼、数歩御前に進んで最敬礼、お言葉を賜ったらさらに最敬礼、すぐ後ずさりに後退し、部屋の出口を出たところで最敬礼、そして控室に引き取る。
定刻通りに「出御」があり、私は御前に進んだ。天皇は陸軍の軍装で、部屋の中央やや後ろ目に直立され、その後ろに、侍従長か侍従武官長などと見受けられる人物が従っていた。「ご苦労である。オランダに行ったら、女皇によろしく言ってくれ」だけであった。
私が天皇のお顔を咫尺(しせき)に拝したのはこれが初めてで、3分とかからなかった。拝謁の間は薄暗かった。(光線十分ならぬ感じであった。)
オランダから帰ったときも、願い出によって拝謁が許され、「御苦労であった」だけだった。
443 その後私は3回拝謁を許された。
赴任前の拝謁では(天照大神を祀った)賢所(かしこどころ)への参拝が伴い、神官の指図に従って、神さびた神前に恭しくぬかずいた。御神酒が下された。拝謁から引き続く参拝なので、乾いた喉に清浄な土器でいただく冷酒は甘露の味であった。
大使になる時には親任式があり、お召しにより参内し、天皇の御口ずから、「特命全権大使に任ず」と大命を拝する。
帰朝後の御進講は天皇のご意思によって大公使が御前に召される。時間は3、40分。任地での見聞を言上する。
私はオランダ、ブラジルからの帰朝後、御進講に召された。松平恒雄宮相が「御前ではポケットに手を突っ込むな。脚を組んではいけない。「私は」と言う代わりになるべく「石射は」と言え」などと喧しく注意した。
玉座から二間とは離れずに椅子を賜り、お茶、お菓子も出た。陪席の宮内大臣、内大臣からも質問が出た。君臣なごやかな雰囲気であった。御進講が済むと控室で御下賜品がある。
このほかに交換船で帰朝したとき、宮中の午餐に召された。つまりご陪食を仰せつけられたのである。そのとき一緒にお召しを受けたのは、野村、来栖両大使、その他南北アメリカから同時に帰朝した公使諸君であった。高松宮様、松平宮相、木戸幸一内府も同席だった。食後、別席でお茶を賜り、「大公使から肩の凝らない軽いお話を申し上げるよう」との宮内官の注文で、エピソード的な見分を申し上げ、私はベルリンとリオで陳重慶大使と密会した次第をお話しした。
私は10回弱、計3時間弱、天皇に会い、天皇の円満なる御人格を感じ得た。殊に平和主義者であり、非軍国主義であられることは、かねがね松平宮相やその他の側近からの内話で、私の信じて疑わざるところであった。だからブラジルで宣戦の詔勅を読んだとき「豈朕が志ならんや」を、主戦論者に対する天皇の抗議と解した。帰朝後仄聞したところでも、果たして天皇の御意思に出たものであった。
君側の奸は正論を叩き伏せようとする軍人や右翼であった。「戦争を早くやめられるのは天皇しかいないが、君側外の奸臣が邪魔して陛下も御自由がきかないだろう」と、私はビルマ海軍根拠地司令官の田中頼三中将に言った。
445 (敗戦後に)私が帰朝すると、拝謁の行事はなく、御粗末な一室での御進講に召された。最敬礼ずくめの儀式は廃され、やつれた天皇の姿は身近に感じられた。
外国への赴任前、天皇の拝謁が済むと次に皇后との拝謁があった。
皇太后とはシャムとオランダから帰朝したときに会った。(お召しを蒙った。)国母とは真にこの方にふさわしい呼び名であろうと思われるのであった。
446 位階勲等と外交官
船成金の山下亀三郎は、親戚で駐米大使館参事官の古谷重綱の勲三等は、実業界では150万円という相場だと褒めたという。民間人は位階を求めていた。賞勲局総裁が二、三の実業家に勲章を売っていた疑獄事件が発覚した。
447 一方、外務省人は一般的に叙位叙勲に冷淡だった。官吏は年功によって定期叙勲があったし、外務省は外国との勲章のやりとりにも介在していた。何々事件の功によりと総花的に授けられる場合もあった。私は満州事変では「逆行的」態度を持していたが、勲四等旭日に叙せられた。これを辞することは許されなかった。(どうかな)
軍人への叙勲は緩かった。少佐、中佐が、勲三等という場合もあった。
私は従七位勲六等から始まり、従三位勲二等に進んだ。
448 私は外国から2回高級勲章をもらったが、その時はうれしかった。一つはシャム政府からグラン・クロア・クローン勲章を貰った。普通は2年以上の公使としての在勤が条件であるが、私は半年でもらった。私のシャム国に対する厚意が通じたのである。
もう一つは私が上海総領事をしたことに対して、国民政府から藍玉大綬章を贈られた。国民政府が中国勲章を与えた日本人は官民通じて3人しかいない。有吉大使、堀内干城書記官と私である。一地方的総領事に対する叙勲は異例であった。私の「上海を無風状態に置く」という態度が評価されたに違いない。
私は満洲国から一度総花的に叙勲を受けたが、それは関東軍からもらうのと同様であった。
霞が関政党外交の没落
幣原外交は国際協調主義、平和主義、対華善隣主義を三本の柱としたが、この三主義は幣原外交以前にも漠然とした形ではあったが存在していた。それは霞が関正統外交の基調となり、国際連盟とワシントン条約がそれを強化した。幣原はそれを集大成した。それは幣原の議会演説の中に示されている。幣原には信念があり、身近に迫る危険を恐れなかった。
しかし幣原退陣後の外務省には信念がなくなった。
450 学者や政論家は理念を好み、戦中は「新秩序理念」、「大東亜理念」が論じられたが、それは曲学阿世の舞文(ぶぶん)であった。
外交では実利主義が支配する。客観情勢を判断して外交を行う。自国の国力、相手国の状勢、国際政治の大局を考慮する。彼七分我三分で決着をつけ、マイナスをそれ以上背負いこまないようにしなければならないときもある。
また国際信義がある。国際条約を守らなければならない。謀略に走ってはならない。
しかるに軍部や政党や右翼は目先の利益のみを望んだ。それが強硬外交ともてはやされ、幣原は軟弱外交とされた。幣原外交以後は軍人と右翼が外交の表面に躍り出た。政党や国民は強硬外交を喝采した。国民は外務省の没落を喝采し、無反省に猛き者と共にあった。
452 「国民外交」が叫ばれた。それは国民世論が支柱となり、推進力となり、力強い外交を行うという。しかし国民の世論ほど危険なものはなかった。政党は外交問題を政争の具とした。言論の自由が暴力で押しつぶされた。国民大衆は国際情勢に盲目で、思いあがって、常に暴論に迎合する。(危険)
太平洋戦争以前にドイツ人を乗せた日本商船を、英軍艦が房州沖で臨検した。それは国際法上認められていたが、日本の強硬論者は、その臨検が領海外で行われても、「富士山の見えるところでは許しておけない」と怒号し、政府の態度を軟弱外交だと責めた。今日では皇居前広場で進駐軍の閲兵式が行われている。
以上