ベアーテ・シロタ・ゴードン『部屋で唯一の女性』日本と人権と芸術の思い出 シカゴ大学出版
BEATE SIROTA GORDON, “The Only Woman in the
Room”, A Memoir of Japan, Human Rights, and the Arts, 1997
シロタさんなどと聞けば城田さんを想起し、まるで日本人との混血みたいに聞こえるが、そうではなく、シロタさんは、ロシア(ウクライナのキエフ)系のユダヤ人で、オーストリアに住んでいた両親がスイスで産んだ女の子がシロタさんである。
シロタさんの父親レオ・シロタはピアニストで、その後日本に移住し、シロタさんは10年間日本で両親と生活した後、米国に留学(1939年5月、サンフランシスコのオークランドのミルズ・カレッジ、文学専攻)した。
戦争が終わり、両親がどうなっているのか気がかりになり、駐留軍の仕事(GHQ民政局)に応募して、終戦後の1945年に日本にやって来た。
マッカーサー・ノート104というのがすでにできていて、シロタさんらはその基本原則に基づいて、日本国憲法の原案をつくったようだ。その時の参考資料は、ソ連憲法、米憲法、米独立宣言、フランス憲法、ワイマールの憲法、スカンディナビア憲法(フィンランド憲法)など107である。シロタさんが担当したのは女性の人権(憲法24条)についてであった。
マッカーサー・ノートは皇室の温存、戦争の放棄、華族など封建的身分制の廃止の三原則であった。戦争の放棄と世襲による天皇制の存続については、ポツダム宣言の受諾のときからある程度米軍も理解していたかもしれないし、幣原喜重郎と昭和天皇とマッカーサーとの個別のやりとりの中で固められたと笠原十九司は語っている。シロタさんらにこのマッカーサー・ノートが示された1946.2.4のはその後の話なのだろう。
Wikiによれば、ベアーテ・シロタ・ゴードン1923.10.25-2012.12.30
父レオ・シロタは1929年、山田耕作の招聘で、東京音楽学校の教授になった。
東京在住時代の小柴美代さんはお手伝い。
1940年5月、ベアーテは、2か月間、日本に帰国。
1941年夏、両親が1か月間渡米。
ベアーテは在米中、CBSリスニングポスト(後にFCC米国連邦通信委員会に吸収)で、日本の短波放送を英訳するアルバイトをしていた。その後、米国籍を取得した。
大学卒業後、戦争情報局USOWI,
US Office of War Informationに就職し、日本人に降伏を呼びかける放送の原稿を作成。
1945年3月、同局を2年間で退職し、叔母(母の妹)の住むニューヨークへ行き、タイム誌のリサーチャー職を得た。
1945年10月24日、タイム誌日本特派員から両親の無事を知った。
GHQの民間人要員(リサーチャー)として採用され、1945年12月24日、日本に帰国し、GHQ民政局(GS:
Government Section)に赴任し、政党課に配属され、女性団体や政党、女性運動家を調査し、公職追放を担当した。
1946年2月4日、民政局行政部の25人は憲法草案起草を命じられた。(この時の状況が“The Only Woman in the Room”なのだろう)そのうちの人権小委員会は3人で構成され、シロタさんは社会保障と女性の権利を担当した。しかし彼女の原案(Wikiで紹介されているが、画期的・革命的で素晴らしい原案である)は、運営委員会のケーディス大佐に反対され、大半が削除された。しかし彼女の原案は24条、25条、27条に生かされることになった。
藤原智子監督・脚本『ベアテの贈りものThe Gift from Beate』「ベアテの贈りもの」制作委員会(赤松良子代表)日本映画新社、企画:赤松良子、岩田喜美枝、落合良
104 マッカーサー・ノートの三つの基本原則
1、天皇は国家の頭である。それは世襲される。その義務と権力は、憲法に基づいて行使され、民衆の意思に責任を負う。
2、国家の最高の権利としての戦争は放棄される。日本は、国際紛争の解決のためや、それどころか自国の安全を守るための手段としても、戦争を放棄する。日本は自国の防衛を、今世界中で沸き起こっている高尚な理想に依存する。日本の陸軍・海軍・空軍は将来に渡って(その存在を)許されず、日本軍には将来に渡って戦う権利は許されない。
3、日本の封建制度は廃止され、貴族(華族)の(身分的)権利は現世代限りとし、それ以上は存在しない。ただし皇室だけは例外である。貴族(華族)の特権は、今からすぐにも、統治に関わる国家的・市民的権力をもたない。
3は今問題となっている旧宮家の皇室復帰問題と関わり合いがある。それは身分的差別を復活させるものと思われる由々しき事態だ。
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