井上寿一『戦争調査会』講談社現代新書2017
感想 2026年5月6日(水)
著者は「あのような戦争(太平洋戦争)が再び起るはずはない。今の日本が戦争に向かっているかのように危機感を煽るのは、本末転倒である」244と言っている。「あのような戦争」そのものは起らないだろうが、戦争と名の付くものが現に起こっているではないか。
感想 2026年5月6日(水) 三国同盟対米交渉論は、脅迫外交である。脅して交渉し、利益を得るやり方である。
木を見て森を見ず 2026年5月5日(火)
201 1941年の日米交渉不成立の原因は、米側の要求のエスカレートにある、と述べる筆者は、日本の中国侵略という厳然たる大局的事実を見落としている。
異議あり 2026年5月4日(月)
著者は馬場恒吾や徳富蘇峰と与し、明治維新や日露戦争は侵略戦争ではなかったと居直っている。
131 「馬場恒吾や徳富蘇峰も言う通り、対米戦争の起源は明治維新や日露戦争ではない。(馬場や徳富の時代ではなく)今日の判断基準に照らしてもそうである。日露戦争は必要なかったという人もいるが、帝国主義戦争ではなかった。日露戦争は日本が仕掛けた合法的な戦争であった。徳富と馬場の明治国家「擁護」論には根拠があった。」
帝国主義時代の植民地収奪
他人も収奪をやっているのだから、俺がやっても、それ(収奪)は正しいことだ。
その考え方は、盗られる側、苛められる側、収奪される側にとってはたまったものではない。著者には、収奪される側に対する思いやりが欠落している。
感想 2026年5月2日(土)
不況の「領土的解決」というが、この言葉は一見無色透明に聞こえるが、極めて危険な言葉ではないかと思った。それは侵略そのものである。他者の立場を考えない自分よがりの発想ではないか。
149 疑問 最後の部分で筆者はロンドン軍縮会議を流会にすべきだったということを言っているのか。
「国内政治を犠牲にしてでも、条約を締結すべきだったのか」とはどういう意味か。「国内政治」とは軍備増強・対米英7割論ということか。
「ロンドン会議が成果を得なかったとしても、日米英の協調は続いただろう」とは、対英米7割論を強行し、ロンドン会議を流会にするということか。「日米英の協調は続いただろう」とはどういう根拠に基づくのか。無責任な感じを受ける。詳細は分からないが。
「浜口内閣が(条約締結を)強行する必要はなかった」とはどういう意味か。対英米7割論を強行すべきだったということか。
だとすれば、筆者は第一次大戦後の不戦条約1928をどう評価するのか。大戦中に亡くなった多くの人々の死は何の意味もないのか。戦争を準備するために軍備増強すべきだということなのか。悪いのは軍縮に向けて動いた浜口雄幸や幣原喜重郎だと言いたいのか。そして対米戦争の原因は浜口や幣原だとするならば、それは逆恨みである。
筆者がフジサンケイグループから「正論大賞」(「正論新風賞」)を受賞2011した意味が分かった。「正論大賞」の意味は、「自由と民主主義を守り、「国益」を第一に考える「正論路線」の基本理念を発展させた学者や文化人、オピニオンリーダーに贈る」としている。「国益を第一に考える」という自愛的傾向が特徴である。
感想 2026年4月27日(月)
どうも変だなと思って読んでいたが、Wikiで調べると、著者井上寿一はフジサンケイグループから表彰されている。
自身の意見なのか、対象となっている人物の意見なのかが、不分明で混在している。
また判断の根拠を示さないことが多く、例えば「幣原喜重郎は憲法改正に消極的だったことはよく知られている」036とするとき、その論拠を示さないなど、論理の裏付けがない書き方に違和感を覚えていた。
メモ
敗戦直後、多くの庶民が軍人を批判していた。018, 031
020 吉田茂外相が、幣原喜重郎を首相としてマッカーサーに「推薦」した。その前に幣原は吉田に意見書「終戦善後策」を提出していた。
「戦争調査会」はもともと「大東亜戦争調査会」であったが、GHQに訂正させられた。
戦争調査会のトップ(総裁)を引き受ける人がおらず、結局幣原喜重郎がトップになった。辞退者は、牧野伸顕(のぶあき)、若槻禮次郎らである。
戦争調査会の役員の人選では、GHQが戦犯を訴追したり追放したりしたので、対象が限定された。戦争逮捕令、公職追放令024
調査対象の人で自殺する人が多かった。
東条英機 自殺未遂
小泉親彦、東條内閣時代の厚相(服毒自殺)
橋田邦彦、東條内閣時代の文相(服毒自殺)
本庄繁・元関東軍司令官
近衛文麿(服毒自殺、1945年12月)
本調査会は評判が悪かった。日本人が日本人を裁くのはどうか(徳富蘇峰028)とか、生ぬるい(読売報知新聞)とか、朝日新聞も役員の人選を問題視し、「期待していない」と批判的だった。
役員人事
総裁 幣原喜重郎
副総裁 芦田均・衆院議員、日本自由党061
長官 青木得三・庶民金庫理事長
庶務 次田大三郎・内閣書記官長、元内務官僚 次田は戦争末期から幣原を首相に推していた。
委員
023 5つの部会とその部会長名
第一部会 政治外交 斎藤隆夫、衆院議員、日本進歩党
第二部会 軍事 飯村穣(じょう)元憲兵司令官、陸軍中将
第三部会 財政経済 山室宗文 元三菱信託会長
第四部会 思想文化 馬場恒吾(つねご)読売新聞社社長、貴族院議員
第五部会 科学技術 八木秀次1886-1976、大阪帝国大学総長、電気工学、元技術院総裁
026 柴田雄二・名古屋帝大教授、化学専攻、第五部会委員。
030 第一回総会での発言者7名
青木、幣原、八木、馬場に加えて、
渡辺銕蔵(てつぞう)元東京帝大教授、第三部会委員。反ナチス運動に加わり、投獄された経験を持つ。059
松村義一 貴族院議員
富塚清 東京帝大教授、機械工学、第五部会委員
Ⅱ章 戦争調査会は何を調査するのか?
051 大川内委員
054 柴田雄次委員026
055 宮崎周一委員(元軍人)、矢野志加三委員
061 芦田均 1946年7月10日の第三回部会長会議から、副総裁として参加。外交官、立憲政友会国会議員、戦後日本自由党、幣原内閣で厚生大臣、労働組合法をつくり、農地改革や選挙法改正に関与。吉田内閣では衆議院憲法改正特別委員会委員長。
Ⅲ章 戦争回避の可能性を求めて
081 軍部の政治介入による閉塞感 第四部会(思想文化)長の馬場恒吾(つねご、読売新聞社社長、貴族院議員)は、軍部による言論弾圧や非合法事件(五・一五事件や二・二六事件)を第四部会の調査事項として挙げた。その言論弾圧とは、1933年の、荒木貞夫陸相「軍民離間に関する陸相談話」である。
馬場恒吾「あれで新聞記者はびっくりしてしまった。あれは五・一五事件の翌年だが、それで黙ってしまった。」
1933年5月に日中停戦協定が成立すると、対外危機が沈静化し、国内で政党勢力が復活した。政党は軍事予算の削減を求めて軍部を批判するようになった。そのとき荒木陸相は12月9日付で、前記の談話を発表した。「この種軍民分離の運動は国防の根本をなす人心の和合結束を破壊する企図であって、軍部としては断じて黙視得ざるところである。」
部会のうち軍事を扱う第二部会は開かれないままこの事業が終わったようだ。その理由は分からない。
開かれたが記録として残っていない部会(第一部会と第五部会)もあるが、またその理由は分からない。しかし、連合部会や総会での発言から、その部会の内容を推測することができる。
対米英開戦を止めることができた時が3回あった。止められなかったのは右翼に殺されるのではないかと身をひいたことらしい。意気地のない人だ。
084 渡辺幾治郎委員(京大・日本史082)が述べる2回の対米戦争回避のチャンス
第一 1941年10月、近衛文麿内閣が倒れた直後、後任に東条英機ではなく、「「陛下もその方に御傾きあらせられた」ように東久邇宮稔彦内閣が成立していれば、戦争にはならなかっただろう。」
しかし、東条英機も開戦を決意して首相になったのではなかった。東条は述べている。「お上(天皇)より日米交渉を白紙にもどしてやり直すこと、成るべく戦争にならぬように考慮すること等、仰せ出され、必謹之が実行に当たる決意を固めた。」
085 第二 1939年、平沼騏一郎内閣が退陣する時に、米内光政海相と山本五十六海軍次官が、交替せずにそのままその職にとどまっていれば、戦争を回避できたかもしれない。
陸軍は三国防共協定を三国同盟に格上げすることを主張したが、外務省はそれに反対し、米内光政海相と山本五十六海軍次官も、外務省を支持した。「このとき1939.8に二人がやめないで、海軍大臣と海軍次官をもう少し続けていたら、三国同盟はできなかっただろう。三国同盟ができなければ、米国の感情もあれ程に悪化しないで、戦争を避ける機会があった。」(渡部幾治郎委員(京大・日本史))
次官になっていれば、生命の危険があった。
ロンドン海軍軍縮条約に賛成した海軍「穏健派」の一人である斎藤実(まこと)海軍大将は、二・二六事件の時に殺害された。山本五十六はその事実を知っていた。山本が海軍次官を続け、三国防共協定を三国同盟にするのを阻止したら、命の危険があった。086
第三 これは渡辺幾治郎委員(京大・日本史)の意見ではなく、第四部会(思想文化)長の馬場恒吾(つねご、読売新聞社社長、貴族院議員)の意見である。
岩畔豪雄(いわくろひでお)少将が、近衛文麿首相とルーズベルト米大統領とが首脳会談をするという、日米交渉試案(日米諒解案)が取り上げられていれば戦争を回避できたかもしれない。Wikiによれば、これは松岡洋右外相によって「反故」にされるとともに、6月の独ソ開戦によって、米にとってはこれを急ぐ必要がなくなった。岩畔は駐米日本大使館付武官補佐官で、1941年3月、渡米した。
071 軍の陥穽 放縦な経済 第三部会の第一回部会 財政経済の観点からの戦争の原因
1、経済・金融の実勢に合わずに、日銀が引き受ける公債(戦時国債)を発行したため、戦争遂行を安易に考えた。そのため戦時中から戦後にかけてインフレが起こった。
2、軍事は機密を要するという口実の下に、軍事予算に対する(議会による)査定権や審議権を無視した。
高市の無責任な「積極財政」は危険だ。現にインフレが進行し、貧乏人は困っている反面、軍事費は大幅な増加傾向にある。
海自潜水艦修理にまつわる海自と業者川重との癒着は、国会による詳細な監視が入らず、実質密室だからではないのか。一方、今の国家情報会議は、初めから国会の監視が入らないから、暴走(個人・団体への弾圧)の危険がある。
Ⅳ 未完の国家プロジェクト
090 極東委員会はワシントンに設置され、GHQを拘束した。それは米英中ソ仏、オランダ、カナダ、豪、ニュージーランド、インド、フィリピンの11か国で構成された。
朝海(あさかい)浩一郎は、「終戦連絡中央事務局」(外務省の外局)の総務部に勤務し、GHQと日本政府との連絡事務を担当し、対日理事会を担当していた。
092 対日理事会(東京)は、米人のジョージ・アチソンが議長で、米英ソ中の4か国で構成される、GHQの諮問・勧告機関で090、公開されていた。
そのソ連代表はクズマ・N・デレビヤンコ中将で、英連邦諸国代表は、マクマホン・ボール豪メルボルン大学教授であった。
117 戦争調査会について、ソ連、英、ニュージーランド、豪、カナダなどが、戦争調査会の第二部会が軍人を擁しているという理由で難色を示し、米もそれに協調し、吉田茂首相、幣原喜重郎総裁、青木得三長官の3人が戦争調査会の廃止を決め、1946年9月30日に廃止され、報告書をまとめることもなかった。113
第二部 なぜ道を誤ったのか? 報告書のない未完の戦争調査会の記録からその結論(報告書)を推測する
V章 戦争の起源
八木秀次は第五部会・科学技術の部会長で、大阪帝国大学総長、電気工学、技術院総裁だった。技術院は1945年1月24日に設立された。八木は(戦後の)衆議院予算委員会で「必死必中」の(特攻)兵器を作ったことを謝罪した。
八木は明治初年以来の統帥権の独立が軍に過大な政治力を与えたとする。その根拠は1946年5月の丸山眞男の論文にある。丸山は維新直後の征韓論や台湾派兵を批判した。
平野義太郎(よしたろう)は、戦前はマルクス主義法学者だったが、転向し、大東亜共栄圏を正当化し、戦後は再転向して共産党に再接近し、民主主義科学者協会東京支部長、日中友好協会副会長、原水爆禁止協議会常任委員などを歴任した。
1945年12月26日、平野は戦争調査会で講演した。演題は「今次戦争の原因の世界史的及社会構造的究明」であった。そこでは戦争の原因を、民族自決的ナショナリズムや、人口過剰や、資源不足や、統帥大権でもないとし、…
馬場恒五…
徳富蘇峰は、1945年12月3日、A級戦犯容疑の指名を受けた。
異議あり 2026年5月4日(月)
著者は馬場恒吾や徳富蘇峰と与し、明治維新や日露戦争は侵略戦争ではなかったと居直っている。
131 「馬場恒吾や徳富蘇峰も言う通り、対米戦争の起源は明治維新や日露戦争ではない。(馬場や徳富の時代ではなく)今日の判断基準に照らしてもそうである。日露戦争は必要なかったという人もいるが、帝国主義戦争ではなかった。日露戦争は日本が仕掛けた合法的な戦争であった。徳富と馬場の明治国家「擁護」論には根拠があった。」
帝国主義時代の植民地収奪
他人も収奪をやっているのだから、俺がやっても、それ(収奪)は正しいことだ。
その考え方は、盗られる側、苛められる側、収奪される側にとってはたまったものではない。著者には、収奪される側に対する思いやりが欠落している。
132 徳富蘇峰は啓蒙書を執筆した。『昭和国民読本』1939、『満洲建国読本』1940、『必勝国民読本』1944
133 幣原喜重郎は第一次大戦を戦争の起源とする。第一次大戦後の平和民主主義や緊縮財政は、軍隊の規模と価値を過剰に縮小した。
136 渡辺銕蔵は(日米)戦争の起源を1919年だとする。渡辺は第三部会経済財政の委員である。この1919年に北一輝が「国家改造案原理大綱」を執筆した。北一輝のこの論文は二・二六事件に影響を与えた。
139 第一次大戦後の平和とデモクラシーの時代に、国民は軍人を蔑視した。しかし、1919年度の国家歳出に占める軍事費の割合は45.8%であり、1921年は49.0%と高比率であった。(第一次世界)戦争直前の、イギリス40%、仏25%に比べて、日本は軍事費が多かった。
だから軍縮は必要だった。
宇垣陸相が軍縮を受け入れ、軍人から怨まれたと言われるが、軍事費は減らなかった。人員は減らしたが、武器装備は増やしたのである。
また1925年、田中義一陸軍大将が軍籍を離れて立憲政友会に入党し、党総裁に就任したが、それは陸軍の増強のためであった。
1921年、1922年、日英米仏伊の5か国はワシントンで海軍軍縮会議を開催した。英米日の主力艦比を5対5対3とすることに決まった。日本は対米6割である。日本海軍は反対し、米の7割2/3を求めたが、加藤友三郎海相は対米6割で調印した。
青年将校が腹を立て、大衆消費社会を指弾した。
141 1921年9月28日、安田財閥の創立者安田善次郎が刺殺された。朝日平吾は国家主義テロリストであった。その声明書には有閑階級や富裕層への呪詛が記されていた。
1921年10月27日、陸軍の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧治(やすじ)はドイツのバーデン・バーデンで「盟約」を結んだ。永田鉄山は、総力戦、国民の体力・精神力・知力の重要性、民衆と軍隊の結合を唱えた。この三人は「昭和軍閥」を後に主導した。当時、永田鉄山はスイス公使館付武官、岡村寧治は欧州出張中、小畑敏四郎はロシア大使館付武官で、いずれも陸士16期の同期生だった。Wiki
143 1930年、ロンドンで補助艦に関する国際軍縮会議が開かれた。堀悌吉は、1921年のワシントン会議では全権・加藤友三郎海相の下で随員として参加していたが、ロンドン会議では、海軍軍務局長として、山梨勝之進・海軍次官を補佐した。
1946年7月11日、堀悌吉は、戦争調査会事務局で講演した。
ワシントン軍縮会議以後、日本は主力艦を沈没や標的として廃棄したが、戦争調査会第二部会の臨時委員・矢野志加三・海軍中将・元海軍総隊参謀長も、堀悌吉同様、主力艦沈没時の兵隊の感傷や憤慨・反抗を否定した。
当時は浜口雄幸民政党内閣で、外相は幣原喜重郎、蔵相は井上準之助で、協調外交・緊縮財政の下で、軍縮を必要とした。
ロンドン海軍軍縮会議に財部彪(たからべたけし)海相が出席したが、ワシントンでは加藤友三郎海相が首席全権を勤めたのに対して、ロンドンでの首席全権は、元首相で民政党の若槻禮次郎であり、また財部彪海相は、妻同伴でロンドンに赴き、帰国してからもフロック・コートを着て海軍省に来て、「軍人根性がない」と海軍の一部から批判された。
海軍は当初ロンドン海軍軍縮条約の締結に同意していたが、加藤寛治(ひろはる)海軍軍令部長と末次信正海軍軍令部次長は、対英米7割を固執した。一方、米は6割で譲らなかった。
3月13日、対米6割9分7厘5毛の妥協案が成立した。そしてそのわずかな不足分を補うための、潜水艦の保有比率でも、米は当初の対米6割から10割を認めた。ただし、米は、日本側の主張する7万8千トンを5万2700トンに引き下げた。
それに対して、加藤寛治(ひろはる)海軍軍令部長が反対した。
山梨次官*が3月31日、(日本から)加藤寛治海軍軍令部長の捺印を得た上で、財部彪に打電し、若槻全権と共同歩調をとるように促した。
4月1日、政府は日米妥協案を受諾した。さらに、
4月3日、伏見宮博恭(ひろやす)王海軍大将が、海軍に対して「既に閣議決定せる以上、海軍が運動がましきことを為すは、却って海軍にも不利となるべき」と諫めた。加藤寛治海軍軍令部長は日記に「末次(信正・海軍軍令部次長)に政治団体に交渉をもたざる様忠告す。」加藤は辞任の覚悟だった。
147 統帥権干犯問題
ロンドン会議で海軍軍務局長だった堀悌吉の、戦争調査会の講義原稿「統帥権問題は海軍から起こる理由がなく、それが起こるとは海軍では思いもよらぬことだった。」
一方、野党政友会は政府を攻撃した。「軍令部の反対を押し切って民政党内閣が軍縮条約を締結したことは統帥権を侵す。」
青木得三・戦争調査会長官「政友会が加藤や末次に働きかけて、統帥権干犯だと言わせた。それは政友会が浜口内閣を倒すためだったのではないか。」
堀悌吉「政友会と加藤・末次は、お互いに利用し合った。」
幣原外相「すでに批准しているから、この条約が国防を危うくすることはない。」と、木で鼻をくくった答弁だった。(これが筆者の言いたいことではないのか。)
「天皇に責任を帰し奉るとは何事であるか。」(これは誰の言葉か。筆者は何も言わない。)天皇の信任をめぐって(政友会による政府追及が)政治問題化した。
堀悌吉は政友会も、加藤・末次も、両者を批判する。
渡辺銕蔵(てつぞう)元東京帝大教授委員「ロンドン軍縮会議は(時の政情に)利用された。」「統帥権干犯」は、北一輝の造語だと言われている。ロンドン海軍軍縮問題1930は、海軍内の国家革新熱を煽情した。
1930年11月14日、浜口雄幸首相が東京駅で狙撃された。首謀者の佐郷屋留雄は「ロンドン条約に関し起こった軟弱外交・統帥権干犯の世論に刺激され、また政教社のパンフレット『統帥権問題詳解』及び『売国的回訓案の暴露』等を読み、痛く憤慨した結果、この挙に出た。」(司法省刑事局)
1932年、五・一五事件が起こった。
149 疑問 最後の部分で筆者はロンドン軍縮会議を流会にすべきだったということを言っているのか。
「国内政治を犠牲にしてでも、条約を締結すべきだったのか」とはどういう意味か。「国内政治」とは軍備増強・対米英7割論ということか。
「ロンドン会議が成果を得なかったとしても、日米英の協調は続いただろう」とは、対英米7割論を強行し、ロンドン会議を流会にするということか。「日米英の協調は続いただろう」とはどういう根拠に基づくのか。無責任な感じを受ける。詳細は分からないが。
「浜口内閣が(条約締結を)強行する必要はなかった」とはどういう意味か。対英米7割論を強行すべきだったということか。
Ⅵ章 戦争と平和のあいだ
152 満州事変不拡大の可能性
1931年9月18日、満州事変が勃発した。これはロンドン軍縮条約批准の1年後である。
満州事変勃発当時の首相は、前年にロンドン海軍軍縮会議の日本全権を勤めた民政党の若槻禮次郎だった。若槻内閣は満州事変を、政党政治に対する軍事的挑戦、(日本の)外からのクーデターと受け止め、野党の政友会との協力内閣、つまり大連立内閣をつくって事変不拡大を目指した。
協力内閣構想が実現に近づいて関東軍が自重し、事変収拾の可能性が生まれた。しかし民政党内閣が途中で単独で乗り切ろうとすると、政友会は非協力的になり、関東軍は再び戦線を拡大した。
また内大臣・牧野伸顕は協力内閣を志向し、一方、西園寺公望は単独内閣を志向したが、西園寺も条件付きで協力内閣を容認にしていた。牧野・西園寺の間に確執があった。
結局、協力内閣は実現しなかった。
153 協力内閣構想
日本国外での1931年9月18日の満州事変勃発に加え、国内では、陸軍将校の桜会によるクーデター未遂事件が起こった。彼らは満州事変1か月後の1931年10月24日を期して、首相官邸を襲い、警視庁や新聞社を占拠し、荒木貞夫・陸軍大将を首班とする軍部内閣の実現を図った。(10月事件)
1946年2月15日、戦争調査会の青木長官は、満州事変当時首相だった若槻禮次郎を訪ねた。若槻は「政友会、国民党、民政党が一致協力してこの軍部の横暴を押さえるよりほかに途はないと思った」と当時を回想した。
154 なぜ協力内閣構想は実現しなかったのか
続けて若槻禮次郎は「井上準之助・大蔵大臣も、江木翼(たすく、第二次若槻内閣1931.4-12の鉄道大臣、民政党の知恵袋)も、民政党のこれまでの財政・経済政策や外交政策の混乱を恐れて大連立に反対した。」
満州事変以前から政友会と民政党は世界恐慌からの脱却方針をめぐって対立していた。
政友会は積極政策である。金本位制から離脱して円安を誘導し、輸出を拡大する。積極的な財政投融資により、国内では地方振興を、対外的には満蒙開発を重視した。
一方民政党は、緊縮政策である。金本位制の下で緊縮財政を行い、財政規律を健全化して日本経済の信用を高め、公債の増発を控えて、国民生活を守る。国内で社会政策を実行し、対外的には日中親善を重視した。
150 江木翼の反駁
江木翼は民政党の中軸だった。江木翼は内務省官僚出身の政治家で、緊縮財政を忠実に守り、官吏減俸を推進した。閣内では安達謙蔵内相と対立した。江木は柳条湖事件19310918の直前に病気のため鉄道相を辞任した。
ロンドン海軍軍縮条約をめぐり、1930年4月25日、政友会総裁・犬養毅は、海軍軍令部が4月1日の政府決定をやむなく受け入れているのに、それを蒸し返して海軍軍令部を擁護して政府を論難した。
協力内閣ができれば、首相のポストは野党の政友会に渡す予定だった。
一方、犬養毅も協力内閣を模索していた。1931年10月16日、犬養毅の三男の犬養健(いぬかいたける)は、元老西園寺の秘書・原田熊雄に「軍部の行動に対して親父が非常に心配している。「最近何かクーデターのようなこと(10月事件)があるそうだが、原田のところへ行って聞いてこい」ということであった。もしそんなことがあれば、陸軍の根本組織から変えなければならないが、そうなると政友会一手ではできない。どうしても連立していかなければ駄目だと思う。」
疑問 仮に大連立が成立していたとしても、軍部や右翼の力を押さえることができたのだろうか。
158 二大政党制の限界
若槻民政党内閣の中で安達謙蔵・内務大臣は協力内閣構想に最後までこだわり、翻意していた若槻との間で閣内不一致となり、若槻内閣は倒れた。それに代わって犬養政友会内閣ができた。犬養は満州国成立1932.3.1までの間に個人的なルートを通して対中国関係の修復工作を行ったが、効果はなかった。
もう一つの(満州事変収束への)チャンス=リットン報告書
159 リットン調査団の報告書は1932年10月に出された。リットン調査団に参加したドイツ人政治家ハインリッヒ・シュネーの調査同行記「日本の大企業の幹部連が、当面の日中間の紛争をいかに解決すべきかについてそれぞれ興味ある演説をした。」
戦争調査会第一回総会1946.3.27で渡辺銕蔵委員「リットン報告書には、「満州は日本で自由にしなさい」と書いてある。」そこまでは書かれていないが、報告書は「満州事変が侵略だ」とは書いてない。満洲国は中国の主権が認められる自治政府にすべきだった。報告書には「過激な変更なく現制度より(中国の主権が認められる自治政府に)進展させることが可能である」と書かれていた。
ところが日本はリットン報告書が満州国を否認していると誤解した。(おそらく渡辺銕蔵)「日本は勝手に一人で腹を立てた。」リットン報告書に基づいて日中は折り合うべきだった。(筆者)
161 日中冷戦
日本はリットン報告書に基づく国際連盟の対日非難に反対して、1933年3月27日、国際連盟を脱退した。
162 人口問題と資源不足問題
戦争調査会の第三部会(財政経済)第一回部会1946.4.16で、渡辺銕蔵委員「1930年代の日本は経済的に非常に窮屈だった。」人口問題と資源不足問題をどう解決すべきか。「経済的発展でよろしいともちろん我々は主張していたが、領土的拡張でなければならないという考え方が優った。」「英帝国内特恵関税制度に対して日本では誤解があった。」
英帝国ブロックは、1932年7月から8月まで、オタワで「英帝国経済会議」を開催してオタワ協定を結び、英帝国内特恵関税制度を確立した。しかし、これによって日本経済が排除されて戦争に至ったという考えは事実に反する。誤解である。(後述)
163 五・一五事件の波紋
陸海軍の青年将校たちは、ロンドン軍縮条約の締結に反対した犬養毅でも暗殺した。犬養を襲った首謀者の一人である篠原市之助は裁判1933.7.27で「(民政党でも政友会でも)現在の政党はこの非常時に政権に執着し、挙国一致の意思がない。また合法的手段がなかった。」
164 内閣の組閣を担当していた元老西園寺公望は、衆議院の多数政党から首相を出す慣例に従って鈴木喜三郎・政友会総裁を選ぼうとしたが、そのとき天皇から「希望」が伝えられた。このとき天皇には政党内閣への不信感と軍部の暴走への危機感があったらしい。結局西園寺は、ロンドン海軍軍縮条約の締結に賛成した斎藤実・海軍大将を首相として選んだ。斉藤は海軍の穏健派と言われていた。
斎藤内閣1932.5.26-1934.7.8に、犬養内閣の高橋是清・蔵相(日銀総裁、政友会総裁、1936年暗殺)が留任した。
「外交時報」による検証
斎藤内閣は非政党内閣である。高橋是清・蔵相は政友会出身であるから、その財政方針は、
第一、金本位制からの離脱による円安の誘導と輸出の振興。実際、輸出は拡大した。
第二、低金利政策による投資の呼び起こし。
第三、財政支出の拡大 農村を救済する土木事業「時局匡救(きょうきゅう)事業費」を行った。
『外交時報』は1898年の創刊で、寄稿者には専門家、政治家、軍人がいた。
166 保護貿易と自由貿易
東京商科大学教授・猪谷(いたに)善一「世界貿易の新情勢と貿易学説の再吟味」(『外交時報』1935年4月1日)は、高橋財政(斎藤内閣1932.5.26-1934.7.8)の成功を数字で示している。
1931年度=100として、1934年度の輸出189.4、輸入184.7
猪谷善一「世界恐慌下の貿易収縮に対する新しい動向として、政治的・経済的に従属関係に立つ国々を糾合したブロック経済が台頭したが、ブロック間の貿易は、ブロック外の貿易に比べて、貿易委縮度が少ないか、増加している。」
英帝国特恵関税ブロックの
1931年 1933年 (オタワ会議(1932年7月から8月まで)を間に挟む。)
輸入 対英帝国内が微増しているが、ブロック外からの方が多い。
対英帝国 28.8% 36.9%
対英帝国外 71.2% 63.1%
輸出 大きな変化はない。
対英帝国 41.1% 41.8%
対英帝国外 58.9% 58.2%
167 昭和研究会(近衛文麿首相の助言者集団)報告書1939によれば、
第一、世界の経済ブロックは自給自足が可能な十分な資源を持っていない。
第二、ブロック内での生産は、ブロック内で消費しきれない。
第三、自給自足圏は空想に近い。
日本はブロック経済に依存しないで通商貿易の自由を求めなければならなかった。
『外交時報』猪谷善一によれば、
「高橋財政による輸出の増加は、世界的な(日本商品の)ボイコットを招く恐れがある。古き自由貿易を修正しなければならない。ブロック経済を否定しないが、ブロック経済を批判する。政治的・経済的従属国はその支配国に対して、商品市場を排外的に提供するよう運命づけられているが、その支配・従属関係を改め、両者は共存・共栄すべきである。」
168 高橋蔵相の対満投資抑制論
積極財政の高橋是清蔵相は、財政健全化に転向した。
経済回復が軌道に乗り始めたこの年1935年の1月18日の閣議で、高橋是清蔵相は、満州事件経費の削減と対外投資の一つである対満投資の抑制を求めた。高橋「国際収支と為替相場に及ぼす影響を考慮すると、削減と抑制が必要である。」そして高橋は特に陸軍に注意した。新聞は「高橋が前年度の満洲事件費1億4千万円のうち、4千万~5千万の削減を考えていた」と推測した。高橋は民間の対満投資も、為替相場等に及ぼす影響を考慮して慎重な対応を求めた。
高橋は財政収支の均衡を求めた。
この年1935年の4月、『東洋経済新報』主筆の石橋湛山の「この正月ごろ(高橋)大臣は大分世間を驚かせた」に答えて、高橋「満洲の事はとかく無駄遣いになりたがる…ちょっと注意したのです。」
恐慌から脱出するためには赤字公債を発行してでも財政投融資による景気刺激策が必要だったが、これ以上の出超が許されない水準に達したと高橋は判断した。
169 青木得三の反論 青木得三は戦争調査会の長官
一方、青木得三や大河内輝耕貴族院議員(子爵)は、満州国への投資を主張した。(しかしそれは希望的観測ではなかったか。)
青木得三は(1935年)当時大蔵省を退官していた。青木は日本と満洲との関係が支配・従属の関係を脱すれば、日中戦争は起きなかっただろうとする。(希望的観測)
1946年5月6日の戦争調査会の第一・第二連合部会で、大河内輝耕は「満州事変で(侵略を)終わりにし、(それ以後の侵略をやめて、)開発をしていたら、今日1946年の日本は、(戦争に負けないで)至る所歓呼の声であるだろう。」
170 修復に向かう日中関係
1935年の日中関係は修復に向かっていた。広田弘毅外相は1935年1月の議会で「在任中戦争なし」と演説した。
横田實「日支関係の一大転換――蒋介石氏の支那統整と(日中)提携必死論」(『外交時報』)は、「日本と握手して友好関係を恢復する以外、支那存立の方策なし、とした支那最高首脳部の動きは、直ちに輿論に反映して、過去に全く見るを得ざりし活発なる日支提携論が両国輿論界の主流をなすにいたった。」
この論考は「難局」を打開した外務省の勇気と努力を讃え、「日本は宜しく一国を挙げて日支提携の完成に努力すべきである」とした。
革新運動対自由主義陣営
戦争調査会の第二部会(軍事)の調査室(第二調査室)は、当時の資料を収集した。その中にジャーナリスト・岩淵辰雄の論稿「日本右翼運動史」(『世界週報)がある。そこで岩淵は斎藤内閣時代1932.5.26-1934.7.8の国内の政治・社会状況を描写している。
「これら自由主義者が漸次その勢力を回復しつつあり、公然、社会の表面に現れるようになった。当時いまだ日本の社会思想を左右していた左翼自由主義は、軍部の政治干与を不当だと手痛く論難した。」
それに対して軍部の革新運動は1933年12月9日、荒木貞夫陸相が「軍民離間に関する陸相談話」を出し、軍民分離を批判し、「「戦死したのは庶民階級のみして高級指導官に戦死者なし」とか「軍事予算のために農村問題は犠牲に供せられる」というような軍民分離の運動を黙視できない。」とした。
172 それに対して第65議会で安藤正純や斎藤隆夫は軍部を批判し、1934年、荒木陸相を辞任に追い込んだ。荒木は国内革新の先鋒であった。その退陣は軍部革新派の一頓挫といえる。
「合法派」対「非合法派」 問題は北一輝ら非合法派と中国現地軍の動き
岩淵辰雄はさらに論稿「日本右翼運動史」の中で、こう指摘する。
「軍部内に合法派と非合法派とがおり、非合法派はテロやクーデターなどの非合法手段で国家革新の実現を目指す。」
「国家社会主義陣営の至る所で不穏行動の計画や情報が聞かれ、発行人不明の怪文書・不穏文書は全国同志の間に乱れ飛び、斬奸状は白昼堂々と重臣顕官の邸に舞い込んだ。非合法派を陰で操っていたのは北一輝たちだった。」
173 「自由主義思想と合法派との連携による非合法派の抑制という可能性があった。両者は「朝飯会」を通して接近し合った。「朝飯会」は内務官僚出身の貴族院議員・井沢多喜男を中心とする政治グループであり、主要な会員は、永田鉄山・陸軍軍務局長、元老西園寺公望の秘書の原田熊雄、内大臣秘書官長・木戸幸一だった。そこへ統制経済体制による国家社会主義を志向する革新官僚が参加した。」
「非合法派は北一輝らの影響を受け、彼らには軍部の永田グループが国家革新を阻止しているように映り、その結果、陸軍中佐の相沢三郎は1935年8月12日、永田鉄山を斬殺した。(相沢事件)
またこの年1935年、国家社会主義者たちが天皇機関説問題によって自由主義陣営を追い詰めていた。
一方中国現地軍が再び動き出し、1935年、中国の華北五省を蒋介石の国民政府から政治的に分離して親日地帯化する「華北分離工作」を始めた。
174 二・二六事件
翌年1936年、国家革新を目指す非合法派(皇道派)の青年将校たちが、元首相の斎藤実や元蔵相の高橋是清を殺害した。彼らの目的は自由主義陣営の打倒だった。岩淵辰雄は言う。「二・二六事件は陸軍が組織的に関与していた。軍首脳部はこれら青年将校のテロ行動を利用しつつ、元老、重臣、政府、財界、政党、言論界等を脅かし、順次その勢力を各界に伸ばした。」
二・二六事件は鎮圧され、北一輝や首謀者たちは死刑にされ、軍内部の非合法派は急激に抑圧されたが、その代わりに合法派が、自由陣営との連携を断ち切って、二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣1936.3.9-1937.2.2は、軍部大臣現役武官制を復活させた。(当時の内閣は海軍大将・岡田啓介内閣1934.7.8-1936.3.9)
175 宇垣一成の組閣断念
非合法派が敗北し、自由主義陣営にとっては好機が到来した。(1937年1月ころ)元老西園寺公望を含む自由主義陣営は、宇垣一成を(広田弘毅首相の次の)首相に推した。
宇垣一成は大正期に陸相として軍縮を進め、国民の人気も高く、浜口内閣後、民政党は一貫して宇垣を首相候補に考えていた。宇垣なら軍部を抑制できるだろう。犬養の政友会内閣崩壊後、政友会と民政党は政民提携内閣の首班として宇垣を想定していた。
戦争調査会も宇垣内閣が戦争回避の切り札だと知っていた。青木長官は宇垣からの直接聴取を求めたが叶わず、側近の林弥三吉・陸軍中将から話を聞いた。
二・二六事件後は、合法派と自由主義陣営との対立が顕在化した。1937年1月25日、宇垣が組閣の大命を受けた。ところが天皇は「組閣を命ず。組閣の自信ありや」と問うた。そして陸軍は「適任者なし」と通告してきた。1937年1月29日、宇垣は組閣を断念した。
176 1946年5月10日、戦争調査会の講演で、宇垣の側近だった林弥三吉は、1937年当時、天皇の意思に依拠して宇垣の正当性を主張した。「政治行為としての組閣行為に向かって軍を引っ提げて反対することは違勅である。陸相は果たして陛下の御裁可を経て発表せられたものであるか。」
一方、陸軍は三長官(参謀総長・陸相・教育総監)会議の推薦がないとして陸相を出さなかった。
陸軍の主張は辻褄が合わなかった。前年1936年の議会で、広田首相1936.3.9-1937.2.2は、「陸相は三長官会議の推薦を経ることなく、大命を受けました者が任意奏薦して宜しい」と答えていた。広田内閣の下で、軍部大臣現役武官制と、首相による陸相の任意奏薦は、合法派の要求だった。合法派は広田の後継に陸軍大将(林銑十郎)を想定していた。陸軍出身者の首相の権限を強化するためには、軍部大臣現役武官制と陸相の任意奏薦が必要だった。
ところが広田の後継として宇垣が大命を受けた。そこで合法派は自らが放棄したはずの権限(陸相の任意奏薦か?)に依存して陸相を出さなかった。
177 林銑十郎内閣1937.2.2-1937.6.4の限界 軍合法派に期待されていたが、軍人らしからぬ軟弱な林銑十郎 次期首相は近衛文麿 第一次1937.6.4-1939.1.5, 第二次・第三次1940.7.22-1941.7.18,
1941.7.18-1941.10.18
陸軍大将の林銑十郎は、自由主義陣営への接近によって政権を維持しようとした。シルクハットと燕尾服を用意していたことがそれを物語る。林が外相に佐藤尚武を起用したのもその表れである。佐藤は1920年代に国際連盟外交で活躍した国際協調派の外交官である。林は佐藤に対中関係の修復を託したのである。
林は合法派の期待に応えられなかっただけでなく、政党政治家にもなり切れなかった。首相に林を推した合法派の中心は、参謀本部の石原莞爾だった。石原らは林内閣の陸相に板垣征四郎を求めたが、林は陸軍首脳部の要求を入れて、中村孝太郎を選んだ。また林は議会をコントロールする目的で衆議院を解散したが、林が与党を持たなかったことから、選挙後の政党の勢力分布は変わらなかった。林内閣は5月31日に総辞職した。
このように軍部による政治支配には限界があった。その意味で戦争は回避可能だったといえる。しかし政党内閣は復活しなかった。
Ⅶ章 日中戦争から日米開戦へ
180 なぜ(日中)戦争は早期に終結できなかったのか?
林銑十郎内閣の総辞職後の1937年6月4日、近衛文麿内閣が成立した。
馬場恒吾・読売新聞社長「1920年代の後半、蒋介石・国民党が武力で国家統一を進める時、日本人はひどい目に会った。あの時堂々と国際連盟に訴え、いかに日本人が圧迫されているかということを明らかにしていたら、満州事変は回避できたろう。そしてそうなれば、日中戦争は起きなかっただろう。」(戦争調査会第四部会第一回部会1946.4.23)(手前勝手な発言では)
日本は対ソ戦に備える必要から、蒋介石は共産党との内戦に備える必要から、日中双方とも日中戦争期間中に和平の機会をうかがった。
181 宇垣外交の可能性 1938年の夏、宇垣一成外相が日中和平工作をした。
1937年7月7日、盧溝橋事件が発生した。近衛首相の「現地解決主義」による事態の収拾方針は奏功せず、戦線は拡大した。さらに1938年1月16日の、近衛首相による「国民政府を対手とせず」という声明は解決をさらに遠のかせた。
1938年5月、近衛は内閣を改造し、宇垣一成を外相に、板垣征四郎を陸相に、池田成彬(しげあき)を蔵相にした。
182 陸軍は嘗て宇垣の組閣に反対していたが、この時は宇垣に日中和平を期待した。というのは陸軍の一部が対ソ戦を準備する必要があると考えていたからである。
林弥三吉は宇垣一成外相の側近であったが、戦争調査会で、宇垣の和平工作についてこう語っている。
「先方(中国)の痛い所を押さえているうちに(漢口攻略作戦)話をつける(和平工作を行う)のがポイント(工作のタイミング)である。」「和平条件は、国民政府による満州国承認を前提とし、賠償金(を中国からとること)と(日本軍の中国本土での)駐兵を交換条件とした。撤兵するがいくつかの要所で駐兵を続ける。それなら(それでよければ)賠償金を放棄する。」つまり脅しながら和平するというものであった。せこい。トランプまがい。
要するに、宇垣の和平工作とは、「満洲国を承認せよ。撤兵するが一部で駐兵を続ける。賠償金は取らない。」というものであった。
183 宇垣・池田・板垣・石射の連携
宇垣一成外相の側近であった林弥三吉は、戦争調査会で、宇垣の外相就任時の状況を語った。
「宇垣一成は外相就任の条件として、近衛に「国民政府を対手とせず」という発言1938.1.16に拘泥しないよう求めた。宇垣はこの発言があると、和平実現という自分の志を遂げることは難しいと考えていた。」
近衛文麿の内閣改造1938.5で池田成彬が蔵相に入閣したことは、宇垣工作にとって好都合だった。池田成彬は戦争調査会のインタビュー1946.7.7にその様子を答えた。池田成彬は三井財閥のトップで、日銀総裁を歴任し、親英米派であった。池田にとって宇垣は、対英米協調と日中戦争解決を進める上でのパートナーだった。
184 池田成彬は近衛内閣の五相会議(首相、外相、蔵相、陸軍大臣、海軍大臣)を回想し、「陸相の板垣征四郎は平和論者であり、日中和平という我々の提案に、板垣は直ちに賛成した。」
板垣征四郎は石原莞爾とともに満州事変を起こしていながら「平和論者」とはおかしいが、これは一方では日中和平を、他方では対ソ戦準備をいうのであって、純然たる「和平論者」ではない。石原も板垣も(中国本土での戦いよりも)満洲国の独立を最優先していた。
石原は1938年6月3日、「戦争指導要綱」をまとめ、「速やかに(国民政府との)具体的講和条件を確定し、以て(日中)戦争の目的を明らかならしむる。」「好機を把握し、速やかに和平を締結す。」とし、石原は日中戦争の早期解決を志向していた。「講和条件を最小限にしなければ、早期解決は困難だった。」石原の講和条件案は「(大日本)帝国は中国の(満州国以外の)現領土に就きてはその完全なる主権を尊重す」というものであった。
185 また広田弘毅から宇垣一成への外相交代は、外務省東亜局長の石射猪太郎にとっても好都合だった。
日中和平工作の暗転
近衛の宇垣との約束違反(その理由は何か?陸軍内の次官以下の対中国強硬派か)と、陸軍内の下剋上、つまり、対ソ戦準備方針の陸軍内でのあやふやが露呈。
1938年7月7日、近衛文麿が記者会見し「今後いかなる事態が起こっても、国民政府を対手にすることはあり得ない。」東京朝日「蔣打倒方針毫も不変」
1938年7月8日、五相会議で「蔣政権あくまで打倒」の方針を決定。
7月9日、石射は宇垣に問いただしたが、宇垣の説明はあやふやだった。
中国側で和平を模索していた国民党宣伝部長の周仏海は、親日の国民党政権ができても不可かと落胆した。周仏海は後に蒋介石政権から離脱し、親日政権をつくり、日本との和平を目指した。
ところで宇垣一成外相は和平工作を諦めていなかった。1938年9月4日、宇垣は石射猪太郎に指示した。「事変の収束は君の言う通り、蒋介石相手の他にあるまい…漢口攻略前に蒋介石と話をつけたし。」
宇垣一成は会談場所として台湾か長崎の雲仙を考えたが、日本側の非公式接触者は、中国側が長崎まで来ることの困難さを考慮して、日本海軍の軍艦を提案し、結局宇垣が軍艦上で直談判する案となった。
ところがその時の池田成彬は慎重姿勢に転じたようだった。池田成彬は戦争調査会のインタビューに「日本の外相が出向いて行っても、相手にその意志がなかったら恥さらしになるから、慎重に研究してから支那に渡った方がいいという意見を宇垣君に伝えた。」
また池田成彬は「板垣陸相は平和論者だったが、次官以下には非常に強硬論者がいて、それが板垣君をひずっていたと思う。」
満州事変では現地軍及び陸軍中堅層(課長クラス)の、上層部に対する下剋上だった。盧溝橋事件でも、武藤章作戦課長が、石原莞爾作戦部長に異論を唱えた。武藤は前年1937年?、関東軍参謀として中国への軍事干渉を指揮していた。
188 孤立する宇垣一成
1937年7月7日、盧溝橋事件直後の一週間、毎日、大陸浪人数十人、数百人が首相官邸に呼ばれた。1946年4月18日に戦争調査会で講演した星野桂吾もその一人である。
1938年9月30日、第一次近衛内閣の宇垣一成が外相を辞任した。宇垣の和平工作は陸軍に反発され、近衛首相がそれを援護してくれなかったことが原因。
1939年1月4日、近衛内閣が総辞職した。
国策の大転換
第二次近衛内閣(1940.7.22-1941.7.16、第三次近衛内閣1941.7.18-10.18)は、三国同盟を締結し、仏印(北部1940.9/22,南部1941.6.25)へ進駐した。これはドイツによるフランス占領1940.6に呼応するものであり、仏印進駐は援蒋ルートを絶つという目的があった。近衛はこうして中国に圧力をかけて日中戦争を終結し「和平」を実現できると考えていた。
感想 こういうのを「和平」とは言わない。屈服の強制とすべきである。言葉の選択が間違っている。
190 三国同盟と日中和平
対ソ不可侵条約を結んでいるドイツが加入する三国同盟への日本の加入が、それまでの日ソ関係を修復する効果を日本は期待していた。
感想 中国国内での抗日の主力が中国共産党だと、考えるのは間違っているのではないか。
また当時アメリカが中国と利害関係をもたなかったとか、日本が日中戦争を継続することをアメリカが何とも思っていなかったといのはどうか。もちろん当時米から日米戦争を仕掛けることはなかっただろうが。
191 分岐点としての南部仏印進駐
当時陸軍はソ満国境で対ソ戦を挑もうとしていた。近衛文麿首相はこれを抑えるために仏印進駐に同意した。(青木)
近衛手記「政府は対ソ即時開戦論を押さえたが、その代償として仏印進駐をせざるを得なくなった。」「陸軍の強硬な対ソ積極意見を鎮撫する必要があり、そのために北方工作を承認すると同時に、軍の南方に対する関心を利用し、その要求を容れておく必要がある。」
青木はこの近衛の(仏印進駐という)考え方は間違っていると思った。(その理由を筆者はここでは明記していないが、194頁で、青木は仏印進駐が日米戦争を誘発したからということらしい。)
1940年から陸軍省整備局戦備課長だった岡田菊三郎「ヨーロッパでのドイツの優勢が日本における対ソ戦を誘発した。」1941年6月22日、独ソ戦が開始され、ドイツが優勢だった。そこで陸軍が関東軍特殊演習を発動した。
193 岡田菊三郎「南部仏印進駐では日米開戦を決意していなかった。」南部仏印進駐は、北進論の抑制が目的で、対米戦争は予想していなかった。
南部仏印からフィリピンやシンガポールに飛行機が届くので、米英にとっては嫌なことだった。
194 北進論の抑制
岡田菊三郎は北進論に反対した。ソ連打倒に必要な兵力、期間、石油はいかほどか。ドイツと戦っているイギリスから石油を依存できなくなるだろう。岡田は対ソ戦不可を上申し、結局北進論は抑制された。
青木「南部仏印進駐は、米による通商条約破棄や石油の禁輸、日米戦争につながった。」岡田も同意見だった。
195 対日全面禁輸――南部仏印進駐1941.7.28に対する米の反応
1941年初頭、「情勢悪化」の中、参謀本部が岡田らに、「1941年4月1日(日米)開戦の可能性」の検討を依頼した。その検討の結果は「戦争は避けたほうがいい。蘭領インドシナとの経済交渉を進め、南方に平和的貿易圏を拡大し、無益な英米刺激を避けて、国力の基礎を培うべきである」
南部仏印進駐は、1941年7月25日、在米日本資産の凍結と、8月1日、対日全面禁輸をもたらした。岡田の戦争調査会宛て文書「日米開戦前の物的国力と対米英戦争決意」は、その対日措置がもたらす結果の明白さを語っている。
南部仏印進駐は日本にとって「予防的措置」だった。(予防的措置とは、南方への進出を強める米英蘭の連携を断ち、インドネシアの石油を確保し、援蒋ルートを絶ち、日中戦争を「打開」するための先手と日本側は考えていた。甘い。)
岡田「南部仏印進駐当時、対米英戦争を敢行する決意はなかった。」甘い。
197 日米交渉の開始
1941年4月、日米交渉が開始された。当時の外交のキーパーソンは、野村吉三郎(海軍軍人)駐米大使と松岡洋右外相の二人だった。
野村は、第一次大戦中、駐米大使館付海軍武官で、F・D・ローズベルトと親交があり、第一次大戦後の講和会議や、ワシントン・ロンドンの両海軍軍縮会議に出席し、アメリカも野村を人格者として信頼していた。
野村は陸軍省軍事課長の岩畔豪雄大佐を同伴した。岩畔は前年の1940年11月、カトリック神父J・A・ウオルシュとJ・M・ドラウトが来日したことを知っていて、この二人の背後に、日米国交交渉を模索するウォーカー郵便長官がいた。日本側はこのルートをN工作と呼んでいた。米は岩畔を「機略縦横な俊才」と評価していた。
日米交渉はワシントン郊外の岩畔のアパートで行われ、1941年4月16日、戦争回避の日米了解案がまとまった。「日本はドイツが米に攻撃された場合に限って三国同盟の参戦事項を適用する。日中戦争では、日本の撤兵と、中国の満州国承認を条件に、米が和平を仲介する。日米通商関係を復活させる」というものであった。
198 複雑化する日米交渉
野村は日米了解案の中の日本にとって不利な項目を日本政府に打電していなかった。その不利な項目は、ハル国務長官が提示した。
1、(中国を含めた)全ての国家の領土保全と主権の不可侵
2、内政不干渉
3、通商の機会均等
4、和平的手段以外による太平洋の現状の不変更
感想 これを筆者は「日本側が受け入れがたいことは容易に推測できる」というが、よくわからない。しごく当然のことだと思うのだが。
一方、1941年4月13日にモスクワで日ソ中立条約を調印した松岡外相が帰国し、独日伊ソの四国協商の外圧でアメリカと交渉する意気込みを示し、野村の日米了解案に難色を示した。
近衛首相は、ローズベルト大統領との頂上会談に望みをつなぎ、7月16日、松岡を更迭するために第三次近衛内閣を組閣した。
しかし日米了解案は細部で了解できず、結局頂上会談は実現せず、1941年10月16日、第三次近衛内閣は総辞職した。
200 日米了解案
木を見て森を見ず 2026年5月5日(火)
201 1941年の日米交渉不成立の原因は、米側の要求のエスカレートにある、と述べる筆者は、日本の中国侵略という厳然たる大局的事実を見落としている。
野村吉三郎の戦争調査会での談話「松岡洋右は、「三国同盟は軍事同盟ではなく平和(実現のための)条約であり、それによって対米戦争は回避できる」とし、近衛文麿首相も松岡洋右のこの考えに同調しているようだった。しかし私は、米側はそうは受け取らないだろうと思った。米は日独を一体視し、独を精神的には敵とみなしていたので、日独同盟と日米国交調整との関係は、難しく複雑であった。」
「ドイツの勝利が有望な6月の独ソ戦開始時は、米は日本に対して非常に柔らかく出てきた。しかし、1941年7月、日本が南部仏印に進駐すると、交渉は非常に難しくなってきた。」
しかし、三国同盟問題と南部仏印進駐があっても、ローズベルトは日米頂上会談構想を捨てなかった。米側は頂上会談以前の予備会談の積み重ねを重視したので、野村吉三郎はその予備会談に関する訓令を仰いだ。しかし訓令は来なかった。
日米交渉で最大の争点は、中国での日本軍の駐留問題だった。米側は日本軍の撤退を要求したが、日本側はいくつかの要所での駐兵を「防共」を口実に主張した。それは陸軍が強硬に主張していたからである。野村吉三郎は「米側も日本は撤兵を肯んぜざるものと判断していた」と推測する。
三国同盟を「骨抜きにせよ」という米側の要求はだんだん強まった、と野村吉三郎は調査会での質問に答えた。(このことはドイツの最初の優勢と後の劣勢という状況からみれば当然の結果ではないか。敢えて米側が後でエスカレートしようと最初から思っていたわけではあるまい。)
野村吉三郎は米が(戦争準備のための)時間稼ぎをしたという。とすれば交渉は最初から成立の余地のなかった不毛な交渉だったということになる。
感想 三国同盟対米交渉論は、脅迫外交である。脅して交渉し、利益を得るやり方である。
202 松岡外交の展開
1941年3月、松岡洋右外相は、四国協商の実現を目指してモスクワ、ベルリンへ向かった。
野村吉三郎によれば、アメリカは松岡洋右の渡欧を大問題にしていた。野村吉三郎は松岡洋右外相に渡欧しない方がいいと打電したが、松岡は(それを無視して)渡欧し、日ソ中立条約を結んだ。野村吉三郎は駐米大使を引き受ける前から三国同盟が米に与える深刻な影響を憂慮していた。
一方松岡洋右外相はそのことを承知の上で、三国同盟を結んだ。松岡洋右外相の側近で当時外務次官だった大橋忠一は「松岡洋右は米の猛烈な圧力があったからこそやむを得ず三国同盟を結んだ。」「三国同盟は日本がドイツから援助を得るためではなく、ドイツを支援するために結んだ。それは日米交渉を有利にするためであった。」(結局松岡洋右は三国同盟の虎の威を借りたのでは。)
三国同盟は英米の提携を欧州だけでなくアジア太平洋にも出現させた。
204 失われた可能性
野村吉三郎は松岡洋右への批判を強めた。一方、松岡洋右は1941年5月に帰国し、野村吉三郎の日米了解案を示されたが、それを無視したようだ。大橋忠一外務次官203によれば、松岡洋右は近衛文麿を首相の座から降ろして自らが首相になり、ローズベルトと直談判するつもりだったとのことだ。
然し実際は1941年7月18日、松岡洋右の方が解任され、代わって豊田貞次郎を外相に、第三次近衛文麿内閣が成立した。豊田貞次郎は海軍軍人で、グルー駐日米大使から高く評価されていた。
日米交渉での最重要事項は日本軍の中国からの撤兵だった。ところが10月12日、東条英機陸相が撤兵に反対して日米交渉は頓挫し、10月16日、第三次近衛内閣が総辞職した。
205 野村吉三郎の渡米に同伴した陸軍省軍事課長の岩畔豪雄大佐の証言
岩畔豪雄によれば、「近衛文麿首相がN工作と三国同盟論との板挟みになっていたという通説とは異なり「三国同盟を用いて日米交渉をやるつもりだった」と近衛の遺書に書いてあった。私も三国同盟は日米交渉上の力になったと思う。」
海軍も三国同盟を容認したが対米戦争決意せず、N工作の成立を条件付きながら希望していた。(1941年6月5日「現情勢下に於いて大国海軍の執るべき態度」)
昭和天皇も三国同盟の日米交渉での効用を認めていた。(『昭和天皇実録』1941年4月21日)
感想 だからと言ってどうだというの。脅しによる三国同盟論の方がよかったというのか。
207 独ソ戦の影響
1941年6月22日、独ソ戦が始まり、それを転機として米側の態度は大きくなった。(それは頷ける。)それ以前なら日米了解案はまとまる可能性があった。(岩畔豪雄)
日ソ中立条約1941.4.13はドイツにとっては不利である。1941年10月3日、日本外務省は中国からの全面撤兵の期限がついた譲歩案を作成するはめになった。
北部仏印から撤兵していたら日米交渉はまとまっていただろうと岩畔豪雄は語る。
209 連合部会の成果
近衛文麿の次の首相・東条英機はこれまでの陸相として強硬論を白紙に戻し、和戦両様の構えをとったが、「1941年11月までに外交交渉がまとまらなければ12月初めに開戦する」という、戦争を予定の中に繰り込んでいた。
Ⅷ章 戦争の現実
212 南方戦線の現実
南洋興発株式会社の社員・小松末松「手記 サイパン島失陥に際し」は、1944年2月から始まる日記である。「洞窟に逃げたとき、泣いて敵に覚られるというので、4歳以下の子供は命令で殺された。追い詰められて断崖から飛び降り、妻は死んだ。」
南洋興発は国策会社に近く、海軍との関りが深かった。
感想 自分の側の被害しか眼中にないのか。
213 サイパン島「玉砕」
「南洋毎日新聞 主筆 鈴木奔山氏談話速記録」1946.2.9は、1944年7月のサイパン島玉砕を伝える。重傷者・病人を見捨てて逃げ、軍人でない民間人の逃避同行を禁止し、民間人は米軍の戦車に向かって死んだ。7月4日、海中に集団投身自殺。
また米潜水艦対策をしていなかった海軍を批判した。日本軍は米軍上陸の第1日目に沈黙した。
216 ミッドウェー海戦=不要不急の作戦
1940年から陸軍省整備局戦備課長だった岡田菊三郎192の談話記録1946.5.23「世界から言わせれば悪いことをしたかもしれないが、悪いことは悪いことなりに、何とかもっと上手にできなかったか。私はやり方によっては、こんな惨めなことにならぬでもいい方法があったのではないかという気がしてしようがない」とし、「真珠湾攻撃のときにハワイを占領しておけばよかった」という。
東條英機には岡田菊三郎のような「常識」がなかった。1942年5月の議会で東条英機は「南方にある30万の兵力のうち10万を引き揚げる。学徒動員はこれ以上やらない」と演説した。
その翌月1942年6月のミッドウェー海戦で、空母4隻が全滅した。岡田菊三郎はミッドウェー海戦を不要不急の作戦だと批判した。
217 レーダーと戦争
岡田菊三郎(1940年から陸軍省整備局戦備課長)はレーダーの軍事的重要性を指摘した。
米軍はミッドウェー海戦時からレーダーを実戦配備した(ようだ)。真珠湾攻撃の時は奇襲攻撃が成功したが、ミッドウェーではそれが成り立たなくなり、その後、空中戦を避けて特攻を産んだ。
戦争調査会第五部会長の八木秀次は、八木アンテナの発明者だった。(松尾博志『電子立国日本を育てた男――八木秀次と独創者たち』)
戦争調査会の委託研究報告書「今次戦争に於ける特許事情」(1946年3月)によると、日本は海外の科学技術を「敵性特許権」として拒否していた。
元海軍技術研究所海軍技術大佐の伊藤庸二「某工場での真空管担当は女子と数人だけだった」
219 ガダルカナル島放棄論
ミッドウェー海戦の2か月後の1942年8月、米軍はソロモン諸島のガダルカナル島に上陸し、日本軍が建設中の飛行場を占領した。日本は制空・制海権を失い、翌1943年2月に撤退(転進)した。
岡田菊三郎は当時ガダルカナル放棄論者で、部内から憎まれた。軍部は勝利ではなく「妥協的講和」を望み、米軍が嫌になるまで粘ろうとしたが、それは希望的観測だった。
221 決戦を求めて
軍部は決戦して打撃を与え、その後に「和平」に持ち込もうと考えていたが、陸海軍で時期や場所で意見が一致せず、航空用ガソリンの需給に関して陸軍からは返答がなかった。(戦争調査会第五部会遠藤三郎陸軍中将・軍需省航空兵器総局長官(1943年11月就任))
223 物資動員計画
感想 日本が戦争に勝つことだけに関心が注がれている。
1937年10月、企画院が設立され、戦時統制経済の調査・立案を担当した。企画院は1943年11月、軍需省に吸収された。稲葉秀三が物資動員計画を立案した。稲葉は戦後、外務省特別調査委員会委員として、「日本経済再建の基本問題」を作成した。
稲葉によると、軍部官僚の経済認識は不足していた。
224 陸軍の統制派は、第一次大戦後、総力戦に備えたが、それが未確立のまま日米戦争に突入した。 国民生活用の資材が極端に削減された。戦争調査委員会事務局作成「物動計画運営より観たる大東亜戦争推移」(1946年2月7日)によれば、「民需物資は「徹底的に」不足した」とある。
物動の決定は企画院が策定したが、実際は陸海軍が指導した。
1907年時点の仮想敵国は、ロ米仏独の順位だったが、これは陸軍の主張であった。陸軍はロシアを、海軍は米を仮想敵国と看做した。
226 極限状況の工場生産
戦争調査会「長野県下伊那郡及び飯田市出張報告書」(1946年3月19日)によると、
この地域の住民は「文化的水準」が高く、「能動的な進歩分子」も多い。この地域の中小工場労働者は、動員学徒と国民学校を卒業した少年少女であり、工場では軍隊式恐怖教育を行い、卑屈な従順を強いた。
227 都市部における生産性の低下
戦争調査会調査資料によると、1945年、空襲による工場の被害は10%であったが、交通が混乱して労働力が50%低下し、就業時間は10%減少した。
物資動員計画による生産力拡充により、労働者数が増えた。戦争調査会が筆記した堀木鎌三・運輸省鉄道総局長官談によると、1943年の工場勤務者数は1936年の5倍になり、この年に、旅客列車走行キロ(31万4000キロ)は、貨物列車のそれ(23万2000キロ)を追い抜いた。
また戦争末期の国鉄職員45万人中、女性は11万人に達した。若年層が多く、1944年3月時点で、20歳未満が46%、就業1年未満が26%だった。
228 戦時統制経済と新日本の建設 戦争礼賛
水津(すいつ)利輔は、戦争調査会の講演で、「戦争が日本の産業化をもたらした」と戦争肯定的である。水津は満洲の鞍山製鉄所(その後身の昭和製鋼所)に勤務し、1941年、日本製鋼統制会理事を勤め、日満支三国の鉄鋼増産計画を立案した。水津は、企画院で物資動員計画を立案した稲葉秀三225と親交があった。
水津は「支那事変を初めとする戦争は、勝つためという目標の下に、日本人に産業に対する熱意をもたらした」とし、戦後は、戦前の統制経済を指揮した企画院よりも強力な権限を持ち、国策を総合する国家機関をつくることを推奨した。
230 対ソ外交への過大な期待 終戦が遅れた理由
日本はソ連の仲介を期待し、1945年4月5日にソ連が日ソ中立条約の不延長を通告した後でも、ソ連の仲介を求め続けた。
231 問題を解く鍵 佐藤尚武駐ソ大使
佐藤尚武駐ソ大使は、1920年代の国際連盟外交を推進し、1937年、林銑十郎内閣177の外相として、対中外交の修復をめざした国際協調派の外交官だった。佐藤尚武は戦争調査会で講演をした。
佐藤尚武「ソ連がちょっとでも(日本に対して)参戦の気配を示すようなことがあったら、すぐに「ソ連の懐に飛び込ん」だほうがいい。英米に対して直接和を講ずることは不可能だろうから、終戦後(ソ連を)必要とするなら、ソ連を中間に立てなければならぬ。「ソ連の懐に飛び込む」とは、無条件降伏と同じ決心を持ってゆかねばならぬという意味である。」
ところが東京の外務省と鈴木貫太郎内閣は、佐藤尚武とは異なる考えだった。彼らはソ連に、少しでも有利な条件での和平を求めた。7月の対ソ交渉案は12項目を掲げ、非占領、自主的撤兵、戦争犯罪者の自主的処理、軍備の自主的制限などを掲げた。また東京でも広田弘毅元首相・元外相とマリク駐日ソ連大使との間で交渉が行われ、同月7月、近衛文麿をモスクワに特使として派遣すると決定した。
佐藤尚武「無条件降伏でも、米の態度はソ連よりも苛酷になるだろう。」米は対日戦争を一手に引き受け、大きな犠牲を払っていたからである。
1945年7月15日、佐藤尚武は本省に無条件降伏を進言し、「和平の具体的な条件を持たずに近衛文麿がモスクワに行っても、断られるだけだろう。」佐藤はスターリンとモロトフがポツダムに出発する前に、近衛特使の件で回答を求めたが、「到底不可能」という返事を得た。
1945年8月5日、スターリンとモロトフが帰国し、佐藤が会見を求めたが、7日になって「8日午後8時にお会いできる」との返事を得たが、それは宣戦布告だった。
223 一条件対四条件
1945年8月9日午前10時30分、首相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長、外相の6名からなる最高戦争指導会議が始まった。
この日8月9日の未明、ソ満国境からソ連軍が進撃を始めた。8月6日に広島に原爆が投下され、この日8月9日の会議中の午前11時2分に長崎に原爆が投下された。
7月26日、米英中の三国がポツダム宣言を発し、日本に降伏を勧告した。(このときソ連はどうしていたのか。8月5日、スターリンとモロトフがポツダムから帰ったと先述されている。AIによれば、スターリンは同席していたが、日ソ中立条約が有効だったので、署名はしなかったとある。)
午後から臨時閣議が2回開催された。
8月10日午前零時3分、天皇臨席の下に最高戦争指導会議が開催された。
外相は国体護持の一条件案を、陸相は、国体護持、自主的武装解除、自主的戦犯処罰、保障占領拒否*の四条件案を主張した。
*保障占領とは、敗戦国による講和条件の履行を担保するために、敗戦国がその義務を履行するまでの間、一時的に領土を占領すること。
陸相はまだ負けていないと考えていた。阿南惟幾(あなみこれちか)陸相案に、梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長と、豊田副武(そうえ)軍令部総長が賛成し、東郷茂徳(しげのり)外相案に、米内光政・海相と鈴木貫太郎・首相兼枢密院議長が賛成した。
二つの「聖断」
1945年8月10日午前2時、天皇は外相案に賛成した。「天皇の国家統治の大権を変更しないこと」を条件とした。
この日8月10日の午前7時、当時外務次官だった松本俊一は、ポツダム宣言受諾の訓令を出した。そこへ吉積正雄・軍務局長が、四条件訓令発出を求めてやってきた。バカな奴。
236 8月12日午前零時45分、連合国から回答文が来た。「国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれる。日本国の政府の形態は、ポツダム宣言に従って、日本国民の自由に表明された意思によって決定されるべきである。」
軍部はこの回答文では国体護持に不安がある、再交渉すべきだとしたが、松本は再交渉に反対だった。話が壊れることを恐れたからである。
8月14日の午前、第二回御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾が決定された。
松本俊一外務次官によれば、当初案は「皇室の地位に影響を及ぼさない」だったが、それが後に「天皇統治の大権に影響ない」となり、法律論的に難しくなった。
おわりに
239 「平和建設所」
戦争調査会は1946年9月末に廃止されたが、幣原喜重郎は、10月15日付の、財団法人「平和建設所」設立許可申請書を作成し、11月20日の設立者会合を決定したが、GHQは同所の設立を認めなかった。
1951年3月10日の幣原喜重郎の死後、1951年9月、幣原平和財団が設立され、石射猪太郎が1955年、幣原喜重郎の伝記を編纂したが、そこには戦争調査会に関する記述は見当たらない。
240 「太平洋戦争前史」全六巻
1952年、青木得三は、主に東京裁判史料に依拠して『太平洋戦争前史』をまとめたが、これも戦争調査会の資料を活用していない。本書は史実の記録を目的とした資料集である。
241 外務省報告書「日本外交の過誤」
吉田茂は政権と戦争調査会を幣原喜重郎から引き継ぎ、1951年1月、外務省政務局政務課長・斎藤鎮男(いずお)に、満州事変から敗戦までの外交の失敗原因をまとめた50頁の報告書を作らせた。これは大使経験者への聞き取り調査に基づく。本報告書は2003年に知られるようになった。
242 戦争調査会と今日の日本
戦争調査会の資料は2016年に公刊された。それまで国立公文書館と国会図書館憲政資料室にあった。
戦争責任の問題
「戦争調査会設置経緯」(1946年1月9日)によれば、戦争調査会は、戦争を「傍観」し、「敗戦を拍車した」者の責任も問う。「戦争は悪くなかった。敵が悪いのだ。負けたから皆悪いことを日本が背負っている」という民衆の責任も問う。1945年12月1日の幣原喜重郎の貴族院での発言にそれが見られる。
戦争体験の継承の問題
「あのような戦争が再び起こるはずがない。今の日本が戦争に向かっているかのような危機感を煽るのは、本末転倒である。」(という筆者の意図が分からない。)
歴史研究の問題
今の歴史研究は、「枝葉末節の史料実証主義に堕している」と筆者は言うが、それは何を指しているのだろうか。歴史研究のあるべき姿は「社会に役立つ歴史研究」のことらしいが、それは今の歴史研究とどう違うのか。
以上