板垣退助監修 遠山茂樹・佐藤誠朗校訂 『自由党史』中 岩波文庫 1958
序言
本書の特徴を思いつくままにまとめてみると、次の三点になる。
・明治憲法の骨子が、憲法制定前に、しかも伊藤の洋行前の早い時期(明治14年7月)に、岩倉具視によって構想されていたことを示していること。
・集会条例や新聞紙条例の改正によって、一層弾圧の過酷さが増し、福島、高田、星亨などの弾圧が行われ、自由党内で非合法活動もささやかれるようになったこと。
・一方で洋行後の板垣泰助は、日本が軍事力を持たなければ条約改正はできない、文だけでは不十分、武を鍛えよと公言したが、それは政府のその後の針路と矛盾しない立場ではなかったか。
2019年3月3日(日)
金井正之
第五編 自由党の大成
第一章 立党の情勢
019 民撰議院による立憲政治システムを志向する運動は、明治7年の愛国公党からスタートし、国会期成同盟を経て、これから自由党という政党に変身しようとしていた。
「顧みれば明治7年1月、愛国公党の興りしより、茲に七載の星霜を閲(けみ)しぬ。今や自由の大気の磅礴(ほうはく)する所、率土(そつど)の濱に及び、嘗(かつ)て輿人(よじん)を軽んじ官を以て家とせる衣冠の人々も、亦た将に目覚めて白旗の野に遍きに驚かんとするに至れり。久しく政党の実を有せし国会期成同盟は、此の一刹那、及(すなわ)ちその主義を固定して名実ともに完(まった)き政党に化醇(かじゅん)すべき機会に達せる也。」
明治13年11月10日、東京の元愛社(げんあいしゃ)支社で、国会期成同盟第二回大会を開催した。13万余人を代表して64名の委員が集まり、河野廣中を議長に挙げた。
この時、群馬県の新井毫は起草委員に挙げられた。
020 同盟団の名称を、大日本国会期成有志公会と改称し、次の合議書数条を更定し、別に遭変者扶助法を設け、会員の不慮に備えた。
国会期成同盟合議書
第一条 国会開設の為め今茲に合同する者を国会期成同盟と為し、国会の開設してその美果を見るに至るまで幾年月日を降るも敢えて此の同盟を解かざるべし。
第三条 来会までには其府県国郡の戸数過半数の同意を得て出会するを目的とす。
第四条 来会には各組憲法見込案を持参研究すべし。
第五条 来会の会員は百人以上の結合ある者に限るべし。ただし、当会に列する単身のもの及び百人未満の者は次回までに百人以上の結合をなすべし。
第七条 全国を八区に区画し、其の区内の誘導は区内各組責任を定め分担すべし。区画如左。
…
021 遭変者扶助法
一 同情相憐れみ同感相愛するは人の性なり。故に弱きを扶け貧を救うは吾人の当に尽くすべきところの義務なり。況や身を犠牲に供し、国家の公益を計画するが為め、不時の変故に遭遇するものを扶助するに於いてをや。今や、我同志者は、茲に盟約を結び、将来切に国会開設を希図するの際、或いは恐る、同志者中不時の変故に遭遇するなきを保すべからざるを。是すなわち我党が変故に遭遇する者のために扶助法を設くる所以なり。…
第四条 我同盟者にあらざる者も我輩と同主義にて変故に遭遇し扶助すべきと認むる者は、其の近傍の組合其の事情を詳細具状し、同盟者と同様報知の手続をなすべし。
明治13年11月
023 以下署名が続くが、その中に、群馬県の旧士族や平民の名が挙げられている。これは『群馬事件』(徳間書店1979)でも紹介されていた人たちである。
群馬県上野国十四郡有志一万弐千百六名総代
群馬県上野国西群馬郡高崎駅龍見町士族
長坂八郎
同県下同国邑楽郡館林町士族
木呂子退蔵
同県同国南勢多郡下田駅村百五十壱番地平民
新井毫
同県同国東群馬郡前橋田中町士族
齋藤壬生雄
023 今や国会願望の一挙は、政府の峻拒するところとなり、再びこれを迫るも、その卻斥(きゃくせき)を被らんこと必せり。同盟団体がこれにどう対処すべきかということは、このときの大きな問題であった。
さらに情を究め理を尽くして、誠意を貫徹して、再び願書を提出すべきだと主張する人たちや、政府がなぜ上書を受理しないのか、その理由をただしてから、その後の対応を考えるべきだという人たちもいたが、立志社委員の植木枝盛は、政党の団結を強調し、政府が既に人民に誓願の権利がないことを放言しているのだから、同じことを繰り返しても徒労である。自らの本志を宣明し、益々広く全国人民の前に訴え、国民と相合体して、突き進むべきだ。その方法は、国会期成同盟を変革して、政党を組織することだと述べ、綱領規則の草案を提示し、名称を自由党とすべきだとした。
それに対する反対はなかったが、確定はしなかった。願書を再提出するか否かに人々の関心は集まっていた。
結局、同盟が全体として願書を再提出するのではなく、各地方ごとに、提出したければ提出することになった。また期成同盟は当面存置することになった。
政党結成の試みは、若干くじけたといえるが、政党結成を主張する人々は、今の期成同盟は、その版図は広大になったが、基礎は固いとはいえないと考え、期成同盟員と否とに関わらず、同じ主義の者が集まって政党を結成することに決め、11月20日、江東中村楼で、11月27日、枕橋八百松楼で、自由懇親会を開催し、11月30日、期成同盟員の集会を向島植半楼で開き、立党の議を尽くし、終に12月12日、及び15日、築地壽美屋楼で組織を決定した。そのときの参会者は、河野廣中、山際七司、松田正久、内藤魯一、沼間守一、山田平左衛門、森脇直樹、島地正存、植木枝盛、林包名等で、沼間を座長とし、盟約四条を制定した。
自由党結成盟約
第一条 我党は、我日本人民の自由を拡充し、権利を伸長し、及び之を保存せんとする者が相合して、之を組織する。
第二条 我党は、国の進歩を図り、人民の幸福を増益することに務むべし。
第三条 我党は、我日本国民が同権なるべきことを信ずる。
第四条 我党は、我日本国が、立憲政体の宜しきを得るものなるを信ずる。
(河野廣中家文書所収パンフレット)
京浜毎日新聞社を自由党通信所に当て、沼間守一を主任委員に挙げた。期成同盟団も自由党も、来年十月の再会を約して散会した。
036 政府は12月9日、五十三号布告を出し、請願上書を杜絶した。
「凡そ人民の上書一般の公益に関するものは、何等の名目を以てするに関わらず、全て建白と為し、元老院において取り扱い候条、管轄庁を経由して同院に差し出すべし。」(「法令全書」明治13年)
(直接提出するな、下部機関に提出せよ、ということか。)
政府は上書の規定を煩雑にし、人民に政治に対して口出しさせないようにした。明治八年の改革で立憲制度を始めるために創設された元老院は、今や世論遮断の府となってしまった。
土佐立志社は憲法調査に着手し、調査局を設け、片岡、山田、島地らがこれを監督し、坂本南海男、山本幸彦、植木枝盛、廣瀬為興、北川貞彦等を委員とし、さらに、谷重中、森脇直樹、兒島稔等を加え、欧米の典則を調べた。
037 明治十四年、フランス学派の自由主義が拡散した。当初の、イギリスのベンサム、ミル、スペンサーなどの思想から、フランスの思想へ転化した。
西園寺公望がパリでの留学から帰国し、それに松田正久、松澤求策、中江篤介、柏田盛文、上條信次、林正明等が加わり、3.18、東洋自由新聞を創刊し、西園寺が社長となり、自由主義を広めた。西園寺は華族だったが、人民の中に交わり活躍した。
政府は驚き、岩倉右府は公望の実兄の徳大寺實則をして説かしめ、公望は4月12日、社長を辞め、関係も絶ち、政府新設の参事院議官補となった。松澤求策はその顛末を新聞で報じたが、それを咎められ、獄死した。東洋自由新聞社は6月、廃刊となった。
しかしこの事件で人心は大きく動き、政府の干渉に憤った。
中江篤介(兆民)は、府下番町でフランス学の塾を開講し、自由主義を講じた。中江兆民は土佐の人で、維新前に長崎に留学し、後にパリに数年留学し、ルソーの民約論を講義し、人爵を排し、階級を撃ち、議論奔放であった。後に「政理叢談」という雑誌を発刊し、自由党の別働として活躍した。
第二章 台閣の波瀾
038 明治14年3月以来、国会開設の時期に関して、伊藤、大隈の意見が異なり、7月初旬、伊藤が辞職を申し出たが、岩倉具視(1825--1883)が仲裁し、大隈重信(1838--1922)をして伊藤博文(1842--1909)に会わしめ、大隈が自説を撤回して、事なきを得た。
また、政府は財政の失体で、威信は地に落ちた。そして7月下旬、開拓使官有物払い下げ事件*も起こった。
*開拓使官有物払い下げ事件とは、北海道開拓使長官の黒田清隆が、開拓使官有物を同郷の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払い下げることを決定したところ、世論の激しい批判を浴び、払い下げ中止となった事件である。これは明治14年の政変のきっかけとなり、伊藤が大隈を政府から追放した。また、同時に国会開設の勅諭が出された。(14.10.12)(ウイキペディア)
明治13年2月、岩倉が陛下に奏聞して、衆参議の立憲政体に関する意見を徴したところ、山県、黒田、山田、井上、伊藤、大木らの建議が提出されたが、大隈だけが提出せず、14年3月、有栖川左大臣が促したところ、大隈は衆参議が開かれたときに意見を申し上げるとした。ところが、これを上がお許しならず、結局大隈は左大臣に意見を上(たてまつ)ることになった。しかしその内容は、明治15年の末に議員を選挙し、16年の初めに国会を開くことになっていて、驚いた岩倉がこれを伊藤に見せると、伊藤は、以前大隈が、伊藤の説と自分の説は大差ないと言っていたのにと、腹を立て、辞職を岩倉に乞い、病気と称して出勤しなかった。
039 伊藤博文の岩倉宛の書
「大隈説は急進的で、また現在や将来についての意見も大隈とは異なる。欧州の歴史を見ても大隈説のようには進まないだろう。私はついていけないので、辞職したい。」
040 「大隈重信の建議
大綱を挙げることによって、細目が定まるものだ。明治八年の聖勅は、国議院設立のことに及んだ。私の意見を論述し、進呈する。
明治14年3月 参議 大隈重信
第一 国議院開立の年月を公布せらるべき事
人心が大いに進んでいるのに、法制が遅れているときの弊害は、法制を破壊するものだ。その逆の、人心が遅れ、法制が進んでいる場合は、法制は国にとって利益とならない。今は、進んでいる者はあまり多くはないが、遅れている者も少ないから、今法制を改進することは、国政上望ましいことだ。
去年から国議院の設立を請願する人民が多くなった。これは人心が進歩しつつあることを示すものだ。国議院の開設の時期は熟してきていると言える。
人心があまり法制に関心を奪われていると、外国との対峙や国内の改良などの重要案件が疎かになりがちだ。
国内の安定のためにも制法を改進して、漸次立憲の政を布(し)かせらるべき聖勅を決行あらせられんことこそ、今日の大綱であり、根本である。議院開立の年月日を布告し、憲法制定の委員を定め、議事堂を創築すべきだ。
第二 国人の輿望を察して政府顕官を任用せらるべきこと
041 君主が行政や立法などの官吏を抜擢する場合、国民輿論に基づいて行うべきである。独裁制では輿論をくみ上げる機関がなく、人物の抜擢は、その人物の功績に基づくことになるかもしれない。しかし、政体の中に輿論をくみ上げる機関があれば、適材が得られるだろう。
立憲政体で輿論が示される場所は国議院である。輿論は議員の過半数で示される。輿論を代表する人とは、過半数を形成する政党の党首である。国議員は国民が推薦する人である。議員は国民の意思を代表する。国民の過半数が崇敬する政党の党首は、輿論を代表する。このシステムによって、聖上は官吏を選抜する労が省けるばかりでなく、国家は安寧幸福を享受できる。なぜならば、選抜された人物は、人民参政の場である国議院において過半数を占めるから、外に対しては立法府を左右し、また内に対しては、聖主の恩寵を得て政府を担当し、自党の人物を要職に置くことによって、行政権を掌握でき、こうして、政治が一つの源から発し、事務が整頓するからだ。
042 列国の歴史を見ると、立憲政体でも擾乱に陥ることがあったが、その原因は、執政者がその地位にしがみつこうとしたことや、当時の君主が、寵遇の顕官を罷免することができなかったことなどによる。これは輿論を代表する立法部と、行政部との軋轢が原因である。1782年以前*の英国も、このような状態だった。
*1742年の間違いか。1742年、ホイッグ党のウォルポールは、選挙で少数派になったときに辞任し、議会の多数派が内閣を組織し、内閣は議会に対して責任を持つという責任内閣制が定着した。「世界史の窓」
1782年以降、イギリスの君主は、輿論を尊重して顕官を採用し、国議院の中で多数を占めた政党の首領らに重職を授与するようになり、政府と議院との間で軋轢が生じなくなった。イギリスでは、政党間の軋轢はあっても、政府内部における軋轢はなくなった。
形式と実質とを区別せよ。三権分立や人民の参政権は形式だ。多数党の領袖を採用し、これを顕要の地位に置き、行政を一元的に支配することは実質である。
形式だけを採用して実質を捨てたら紛乱が生じる。したがって多数党の領袖が行政を担当するのが望ましい。
しかし、その多数政党が上手く行政を担当できないこともある。その際は聖主が輿論を察して、新勢力を得た政党から顕官を抜擢すべきだ。その交代の過程は次の通りだ。
043 聖主の御親裁を以て、議院中の多数党の首領を召され、内閣の組閣を委任あらせらるべし。その内勅を得た首領は、その政党中の領袖を顕要の諸官に配置し、その後で、奉勅して内閣に入るべきだ。(内閣の組閣を委任される人は、通例その政党の首領でよいが、場合によっては、その党の中の外の人でも良い。しかし、行政の長は、その首領でなければならない。)政党に関係しない宮や三大臣は、顧問になっても良い。
内閣が少数党になれば、それが提出する法案が通らなくなるから、退職すべきだ。それでも退職しない時は、動議を提出し、それで信用を失えば、議院から聖主に奉書し、速やかに親裁更撰あるべき旨を請願すべきだ。なお退職しない時は、聖主は議院の求めに応じて罷免すべきだ。
044 議院で勢力を失い、信用を失う議決を受けようとする時でも、聖主が持っている議員解散の権をもって議員を解散し、自らの政党が多数党であることを証明することもできる。しかし、この権は乱用してはならない。英国でもこの例は両三回に過ぎない。
第三 政党官と永久官とを区別する事
政治の継続性ということからして、政権党の交代によって、行政官がそっくり入れ替わるのは不都合である。
政党の盛衰に伴って顕官が更迭されるとき、更迭が全部に渡るべきか、一部に留まるべきか。凡そ諸般の事務は習熟を要し、官衙の詳細は旧法古例を参照するから、属僚下吏の永続勤務が必要である。政党とともに更迭すると不便であるし、政党各派の軋轢がひどくなる。
官吏の中には、指令する部分と、指令を受けて細務を執り行う部分とがあり、前者を政党官とし、後者を永久官つまり非政党官、終身勤務の者とすべきだ。また上等官の中にも、治安を担当し、政党に関与すべきでないものもあり、これも中立永久官とすべきだ。(英国の例による)
046 政党官は、例えば、参議、各省の卿や輔(すけ)や局長、侍講、侍従長などであり、議員を兼ねることができる。永久官は、例えば、官庁の長や次局長を除いて、それ以下の奏任官や属官であり、議員を兼任できない。中立永久官は、聖主を補佐し、組閣の際に内勅を下す顧問としての三大臣や、軍官、警視官、法官などである。これらの官吏は、治安・公平を保持し、不偏・中正の徳を持つべきだ。もしこれが政党に関与すると、他党に対して武力や裁判権を用いることになり、そうなると治安を妨げ、公平を失することになる。また議員になってはならない。
第四 宸裁を以て憲法を制定せらるべき事
046 法がないと人事は動揺するものだ。宸裁を以て先ず憲法を制定し、これに基づいて国議院を召集すべきだ。さっそく内閣の委員を定め、速やかに憲法制定に着手すべきだ。
政治の要は実質にあるから、憲法は簡単でよい。憲法は次の二点を必須とする。治国政権の帰するところを明らかにすること、人民各自の人権を明らかにすることだ。
第五 明治15年末に議員を選挙し、16年初めに国議院を開くべき事
今国内に政党がない状態で、突然国議院を開設すると、多党が乱立し、政党が確かなものでなく、一般人民も政党の主義が分からないので、政党がたびたび変化するだろう。
立憲の政体を公示すれば、政党が生まれ、一年か一年半あれば、各政党の説が世間に広まるから、その時に選挙し議院を開設するのがよい。速く議員開立の布告をすべきだ。本年、憲法を制定し、15年初めに議員を招集し、16年初めに国会を開立するのがよい。
第六 施政の主義を定めらるべき事
政党の盛衰はその施政の主義が人心を得るかどうかにかかっている。国議院設立の年月の公布後直ちに、現在の内閣の施政主義を定めることを希望する。
第七 総論
立憲の政治は政党の政治である。政党の争いは主義の争いである。その主義が過半数を得れば、政権を担当し、得られなければ、政権を失う。
権力にしがみつき自己の利益を追求したいというのは病気だ。権勢を棄却することは、古来人情の難ずるところだが、強力な権力をもつ政治家が、権勢に執着しないで、立憲政治の本髄を確定すれば、その徳は、後世に語り継がれることになるだろう。また社会から賞賛されなくても、自ら顧みて気持ちのいいものではないか。政党交替の慣習を定め、国民の安寧を保証する端緒を開くことは、今の執政者の当になすべきことではないか。」
(「大隈重信関係文書」第四)
感想 大隈説はすばらしい、と思っていたら、福沢諭吉の受け売りだとのこと。そうすると、福沢はイギリスの政体を模範としていたのか、アメリカではなかったのか。
それにしても、大隈説に対する批判は、「急進的」というだけで、あまり中味がないように思われる。また大隈は、当時の政権担当者が、民意を採用せず、政権にしがみついていることを批判しているようにも見える。そうは言っても大隈自身が伊藤と並ぶ有力な権力者の一人なのだが。049
049 世人は大隈説を、節操がない、心変わりがあまりに急すぎる、始めだけ勇敢で後で怖気づくものだ、薄志弱行だなどと嘲笑した。当時の風説では、大隈の建議は、福沢諭吉の手になったものであり、福沢は大隈に、「あなたが輿論の先頭に立てば、天下はあなたの後に従うだろう」と言ったので、大隈は「急進論」を提出したということだ。しかし、これは穿った考え方だ。
右大臣岩倉具視も憲法の制定に関して意見を草した。
岩倉具視の意見書
一 憲法制定条目に関しては、議論が百出し、容易に決定しにくくなるかもしれないから、天皇が断じて、その大綱領数か条を確固不動のものにして決めてしまい、それを大臣に下付して、標準として指示されるのがよい。このことは今後百年間の紛議を裁断する鏡となるだろう。
050 一 憲法起草の手続を次の三様のいずれかに決定しておくべきだ。
一 公然と憲法調査委員を設ける。
二 宮中に書局または内記局を設け、一人の大臣がその総裁となり、内密に憲法を起草し、成案がなったら、内閣の議に付す。
三 大臣や参議の三四人が、内密に勅旨の下で憲法を起草し、成案がなったら、内閣の議に付す。
一 内閣は、憲法の討議においては一致しなければならない。衆参議の意見を一致させるべきだ。両公にその点で尽力いただきたい。
一 憲法の大綱領を以下に示した。
七月
具視
太政大臣殿(三条実美)
左大臣殿*
*左大臣とは有栖川左大臣038, 有栖川左府宮063, 左大臣熾仁親王074か。ウイキペディアではこの時期左大臣は欠員だったとあるが。また、ウイキペディアによると、有栖川とは有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう、1835--1895)とある。
別紙
大綱領数件を聖断され、その他の条目はこの主旨に基づいて起草すべきことを天皇から御沙汰あらせられしかるべしと存じ候事。
051 大綱領
一 欽定憲法の体裁にすべきだ。
一 帝位継承法は祖宗の遺範があるから、憲法とは別に皇室の憲則に載せ、憲法には記載しない。(皇室典範はこの考えに基づくのだろう)
一 天皇は陸海軍を統率する権を有する。
一 天皇は、宣戦講和・外国締約の権、貨幣を鋳造する権、大臣以下文武重官を任免する権、位階勲章および貴号等を授与する権、恩赦する権、議院を開閉・解散する権などを有すること。
一 大臣は天皇に対して重大な責任をもつ。
一 法律命令に大臣が署名する。
一 立法の権を分かち、元老院・民撰院を設ける。
一 元老院は、特撰議員と華士族中の公撰議員で組織する。
一 民撰議員の議員選挙法は、財産の制限を設ける。(貧乏人は排除)
一 予算で、政府と議院の意見が一致しない時は、前年度の予算を施行する。
一 臣民一般の権利義務を定める。
052 一 議院の権限
一 裁判所の権限
(以下は上記の反復のようだが、補足した部分もあるようだ。)
起草委員が自己の意見や一家の私的利益を交えないようにすべきことは当然としても、大体の目的を予め決めておかないと、徒に架空の議論を費やし、或いは主義に誤るかもしれない。したがって左の重大な条項を天皇が断じ、それを起草委員に下付し、その他の説目はその根本の主義により起草すべきであると天皇が仰せ出だされ然るべしと存じ候事。
綱領
一 欽定憲法の体裁にすること。欽定・国約の別は別紙で具陳する。
一 漸進の主義を失わないこと。付記 欧州各国の成法を取捨するに際して、孛(プロシャ)国の憲法は最も漸進主義に適する。
一 帝室の継嗣法は祖宗以来の模範によるから、新たに憲法に記載する必要はない。
一 聖上自ら(親ら)陸海軍を統率し、外国に対して宣戦講和し、外国と条約を結び、貨幣を鋳造し、勲位を授与し、恩赦の典を行う。
一 聖上自ら大臣以下文官の重官を採択・進退する。付記 内閣宰臣は議員と関わらぬこと。
一 内閣の組織は、議院の左右するものではない。(議院の左右するところに任せざるべし。)
一 大臣執政の責任は、根本の大政に関わること(政体の改革、領土の分割・譲与、議院の開閉、和戦の公布、外国条約などの重大事を根本の大政とすべきか)を除いて、主幹の事務については、各自の責任とし、連帯責任は負わないものとする。附記 法律命令に主幹の執政が署名する。
一 立法の権を分かち、元老院・民撰議院を設ける。
一 元老院は特撰議員と華士族中心の公撰議員とで組織する。
一 民撰議員の選挙法は、財産制限を用いるべし。附記 ただし、華士族は財産に関わらない特許を与えるべし。
一 凡そ議案は、政府より発すること。
一 予算で政府と議院とで意見が一致せず、徴税期限前に議決できない時、或いは議院が解散の場合、または議院自らが退散する場合、または、議院が定足数に満たない場合など決議できない時は、前年の予算で施行する。
一 一般人民の権利については、各国の憲法を参酌する。
意見第一
立憲政治を行い、民会を開くに当たって留意すべき点は、開設時期の適切さと、それが我国の国体・民俗に適すかどうかだ。
欧州で行われている立憲政体の目標は同じでも、その方法・順序は、それぞれの国の開化の度合いと国体民俗によって異なっている。つまり、国会の権に大小がある。その小なる者は、立法の議に参与するに留まり、その大なる者は、政令の実権を握っている。
054 英国の議院は立法権だけでなく、行政権も握っている。英国王は自ら政治を行わず、内閣宰相に任せ、内閣宰相は、議院での多数によって決定される。内閣は多数政党の首領が組織し、議院政党多数の変更あるごとに、内閣宰相が変更される。国王は、政党の勝ち負けに左右され、式で決まった言葉を述べるだけだ。名目上は行政権がもっぱら国王にあるといっても、実際は行政長官が、議院の中の政党の首領によって取られるから、行政権は議院の政党が持っていることになる。名目上は国王と議院とで主権を分かつというが、実質は、主権はもっぱら議院にある。「国王が国民を統率すると言えど、自ら国政を行わない」と英国の諺は言うが、それはこのことである。
一方、普魯西(プロシャ)では、国王が国民を統治しつつ、国政を執行し、立法の権は、議院と分かつと言えど、行政権はもっぱら国王が握っている。国王は議院政党の多少に関わらず、宰相執政を選任している。
055 それぞれ国体人情に合致している。イギリスにプロシャの制度を導入すれば、内乱になるだろうし、プロシャにイギリスの制度を導入すれば、平和が乱されるだろう。
イギリス式かプロシャ式か、それは百年の利害に関わる重大なことだ。
英国では二つの政党が交替するが、もし政党が結成されていない日本で今これを採用すれば、多数の政党が乱立し、団結できなくなるだろう。多数の少数党は、現政府を打倒するためにだけ団結するに過ぎなくなるだろう。それでは政治が安定しなくなり、政務や国事がおろそかになる。そしてしまいには武力闘争になるだろう。日本とイギリスとは同じではない。
056 英国では、各局・各課の長や法官は、永久官であるが、それ以外の諸省の卿や輔や書記官長などは、政党ごとに組織しているから、政党の交替があれば、それらの諸官は全員退職する。日本で参議や各省の長や次官や重要書記官が交代したら、後任が見つかるだろうか。二三の在野の俊傑や人気者や少年の才子に任せるのか。やはり日英では事情が異なる。
更新(幕府からの政権交代)以来王化(天皇制)は、未だ人心に行き渡っていないし、廃藩によって怨望の気が政府に集まっている時に、英国の政党政府の法に倣えば、今日国会を興して、明日内閣を一変することになることは、鏡を懸けて見るに等しい。議者は、内閣交代が速やかに行われれば、国の平安をもたらすと言うが、私は、議者が英国の成績に心酔し、我国の事情を反照していないと疑わざるを得ない。
一時に急進して事後に悔い、与えたものを後で奪わざるを得なくなるよりも、むしろプロシャに倣って歩々漸進し、後日の余地を残しておくほうがいいと私は信ずる。
意見第二
内閣執政は天子が選任するものであり、国会のために左右されるものではない。そのためには次の三点が必要だ。
057 第一 憲法に「天子が大臣以下勅任諸官を選任し、またこれを進退する」と明記すべきだ。宰臣は、天子の知遇と国家の慶頼(信頼)とによるものであり、衆議紛言に左右されず、その意見を一定にし、確然不抜の針路を取り、たとえ議事で議院の少数の支持しかえられなくても、終始内閣の大局を全くすることができる。
第二 憲法で、宰相の責任を連帯責任と各個の分担責任とに分かつべきだ。フランスの1875年の憲法では「宰相は政府の大政については連帯責任を負うべきだとするが、各個の職掌については各自がその責任を負う」とある。英国では、諸大臣は連帯責任を負うとするが、そうすると一人の省長官の失策が議院で攻撃され、交替が頻繁になり、争いの的になる。職の分担と議員の集団とは性質が異なるはずだ。
第三 プロシャの憲法第109条で「旧税はその力をもつ」とあるが、これに従うべきだ。これは、予算案が政府と国会とで意見が一致しないときは、前年の予算が効力を持つというものだ。
058 これは行政権を維持するために必要だ。議院は自己の主張を通すために、徴税を拒否する手段を使うからだ。(この条項を持たない)イギリス、ベルギー、イタリーなどでは、議院のために政党内閣を組織し、議院の衆望を買うことに努めている。「旧税はその力をもつ」の条項がないと、天子による宰相進退の条は有名無実となってしまう。
意見第三
意見第二の第三の「旧税はその力をもつ」は、政論学者が不満とするものだ。それが圧制や議院の無気力をもたらすと彼等は指摘する。
元老院上奏の憲法草案第八篇第二条に「法律の承認を得ざる租税は、これを賦課することを得ず」とあるが、これは賦税の全権を国会に附与するものであり、これでは、国会が異議を唱えれば、人民は租税を課出する義務を免れることになる。
059 また第一項第二項において、執政の進退を天子に帰し、連帯責任を回避することに、現今の、国憲を主唱する論者は反対する。
交詢社起草の私擬憲法案第九条に「内閣宰相は共同一致し内外の政務を行い、連帯してその責に任ずべし」、第十二条に「首相は、天皇が、衆庶の望によって、親しくこれを選任し、その他の宰相は、首相の推薦によってこれを命ずべし」、第十三条に「内閣宰相たる者は、元老院もしくは国会議員に限るべし」、第十七条に「内閣の意見が、立法両院と相符合せざるときは、内閣宰相その職を辞すか、天皇の特権を以て国会を解散するものとす」などの各条の趣旨は、内閣執政をして連帯責任を負わせ、内閣が議院とその意見が合わない時は、その職を辞し、議院中で衆望のあるものがこれに代わるという政党内閣の新陳交替の説である。
今日の急進論は、世間に広まり、最上極点に至って止まるだろう。当局者は、理論に心酔し、各国の異同を考慮せず、永遠の結果を思わず、目前の新奇を悦び、内閣の組織を衆議の左右するところとする。ひとたび与えてしまった権利は、取り戻すことはできない。(流汗の再び回らすべからず)国体は敗れ、安寧や国民の幸福も失われるだろう。
衆議は紛擾し、停止するところなし。漸進の主義は、一時世論の満足しないところであり、物議を激動し、囂々(ごうごう)喧嘩、肘を払いのけて相迫るかどうか分からないが、確然不抜を以て永久の固めをなすものとしては、ただ我天皇の聖断と、輔相大臣の画策が誤らざることを頼むのみである。私の区々微衷は、実に仰望(ぎょうぼう)に堪えざるなり。
明治14年7月
具視
(「岩倉公実記」下)
060 岩倉はこの意見書に、欽定憲法考と各国執政責任考も添えて提出した。太政大臣書記官井上毅が岩倉を助け、資料を調査した。
感想 明治憲法の大枠は、否、かなり細部にわたって、この岩倉の案によって既に固まっていたことが分かる。伊藤やその部下の井上毅が、岩倉の指示に従ってそれを具体化したと思われる。憲法を内密につくること、天皇が憲法を作ったことにすること、(形の上で)、皇族を政治システムの中で、一定の発言権を持った集団として位置づけたこと、軍隊を天皇の指揮下においたこと等々。
岩倉はイギリスの政治システムを知らなかったわけではない。十分承知の上で、日本の「国体」、「実情」に合った憲法を、内密に作ろうとしたのだ。最初から広く衆議の上で憲法を作ろうなどという考えは毛頭無かったのだ。2019年1月24日(木)
感想 孫崎亨『アーネスト・サトウと倒幕の時代』*228が語る三職会議での岩倉の発言の中に天皇制の原初的形態を発見したと思ったが、ここで岩倉の憲法草案の骨子を読んでみると、ますますその考えを強くする。伊藤案は、元老院の充実や公選検査官の設置などを提案するが、岩倉案のように、明治憲法の各条項に逐一一致するものではなかった。(『自由党史』上340)
我々を今呪縛している天皇制の枠組みの創始者は、岩倉であったと言える。
*慶応3.12.9、1868.1.3、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らによるクーデター下で、十八時から、少年明治天皇臨席のもとに開かれた最初の三職会議で、将軍慶喜をこの会議に参加させるべきかどうかをめぐって、土佐藩と薩摩藩とが激論を展開した。土佐藩の山内容堂は次のように述べた。
「徳川内府(慶喜)は、祖先継承の覇業を自ら棄てて政権を奉還し以て国家の治安を永久に図らんとせるもの、その忠誠、誠に嘉(よみ)すべきものがある。然るを今、かくの如き陰険なる処置に出でらるるは、返ってその心を檄せしめ、国家の治安を害(そこな)う所以かとも存ずる。廟堂に事を行う人、幼冲(ちゅう)の天子を擁して、権柄を擅(ほしいまま)にせらるるが如きは、実に天下の乱階(乱の起る兆し)でござろうぞ」
それに対して、岩倉具視が言った。
「今日のこと、悉く宸断に出づるのである。幼冲の天子を擁して権柄を擅にするとは、聖上に対して不敬でござろうぞ。この席を何と心得をらるる。お控えなされ」228
明治14年1881年当時の年齢
岩倉具視(1825--1883)56歳、この二年後咽頭癌で死去。日本初の国葬。
伊藤博文(1841--1909)40歳
井上 毅(1844--1895)37歳
感想 天皇制は為政者にとって便利なツールだ。先ず、自らの権力を天皇という宗教的な存在で権威づけ、他者に自らの政策を容易に強制させることができる。また、自らの弱点や失敗は、自らが天皇よりも低く弱い立場にあるのだからとして、天皇に押し付けることができるということだ。岩倉はこのからくりを十分に承知の上で権力を振るっていた。2019年1月25日(金)
060 7月下旬、開拓使官有物払い下げ事件が起こった。
明治4年、政府は北海道開拓使を置き、薩摩の参議・黒田清隆がその長官となり、明治14年まで十年間で一千万円を投じることに決め、今、明治14年となり、開拓使を廃止することになった。
開拓使書記官の安田、折田、鈴木らは、大阪在住で薩摩の巨商五代友厚や長州人中野梧一と結託し、関西貿易商会を興し、開拓使官有物の全てを、三千万円、無利子、三十年年賦で払い下げしてもらおうと出願した。
明治初年から政府が投下した資本は、一千四百万余円だったが、政府はこの特典を許可した。
黒田が薩摩閥で、参議・長官だったため、このことに閣中で異議を唱える者はいなかった。情実比周(徒党を組む)は、専制政治の常習なり。当時の内閣は薩長の協合に成り、相牽制して、ともに政権を維持するの念が強く、時には嫉視排擠(せい)の状無きにあらざるも、破綻には到らず、藩閥の弊害は抜きがたかった。そのため、前年の、長州の豪商藤田傳三郎等の紙幣偽造事件もうやむやになってしまった。
参議大隈重信は財政政策で失敗し、名誉を回復したかった。また肥前人であり、薩長人ではなかった。大隈は密かに腹心を官職に就かせた。しかし大隈の在任中に結託した富豪が、北海道の官有製作所の払い下げを希望したが、拒絶されていた。
大隈はその富豪のお金で、大隈の部下の新聞や弁士に開拓使官有物払い下げの不法を囂議(ごうぎ)せしめ、一方では福沢門下を率いて国会開設論を鼓吹し、輿論の力を借りて自らの台閣での地位を高め、政府を一掃して、汚名を払拭しようとした。
062 薩長の諸参議は大隈を政府の謀反人と看做した。大隈の地位は風前の灯となった。その様子を三条実美から岩倉宛の書簡が物語っている。(この書簡を読むと、このころからすでに岩倉が体調をくずし、三条が岩倉の体調を気遣っているのが分かる。)
「…大隈氏建言以来、もっぱら福沢党の気脈、内部に侵入のことにいたっては、一同憤激の模様にこれあり候間、到底大隈氏と一和は整いがたく、必ず内閣破裂の場合に切迫いたし候事と存じ候。…
九月六日
実美
岩倉右府公」
(「大隈重信関係文書」第四)
063 輿論は激動し、大隈派の京浜毎日新聞、郵便報知新聞だけでなく、半官報的な東京日々新聞も払い下げを攻撃した。大隈の徒党やその系列の三菱会社の徒らは、大隈を称揚し、政府の中で払い下げに反対する者は大隈一人だと宣伝した。しかし、実際は、閣内で払い下げを非としたのは大隈だけではなく、大蔵卿佐野常民は開拓使廃止の延期を唱え、有栖川左府宮も不法を憤った。
064 7月29日、聖上が奥羽に巡幸した。
輿論が沸騰し、自由主義の同志は国会開設の急務を唱え、演説会を開いたが、その時の聴衆は常に数千を越えた。人心の激昂は名状すべからず。政府内にも払い下げの非計を鳴らす者が続出した。
板垣泰助は大政党を興立する志を抱き、東北を漫遊しようと、8月26日、土佐を出発し、9月1日、神戸に着いた。
9月10日、板垣は大阪で五千有余人を前に『未開の人民といえども権利に差等あるべからず』と題して講演した。曲学の輩は、「多数の愚者が少数の知者を抑制するを以て、(多数の愚者に)参政権を附与すべきでない」と言うが、当日の講演はこれを論破し、公議政体の已むべからざるを説いた。
065 15日、横浜へ。神奈川県会議員が出迎えた。板垣は晩餐会で団結と政党の組織化の重要性を説いた。
16日、東京へ。沼間守一、河津祐之の嚶鳴社(おうめいしゃ)、中江篤介の仏学塾、馬場辰猪、大石正巳、末廣重恭の国友会、東京経済雑誌の田口卯吉、東京日々新聞で政府を擁護し、国会尚早説を鼓吹した福地源一郎も板垣を新橋で歓迎した。その他三田福沢派の交詢社、大隈派、中立派も代表者を出して歓迎した。
この板垣漫遊によって、人々は、開拓使問題の解決と内閣改造とが簡単に成し遂げられるものと思い、また、これが大隈への声援となることも望んだ。
23日、藤田茂吉、末廣重恭らが板垣を会合に招いたが、そこで、板垣は、国会開設を目指す嚶鳴、交詢、国友など諸団体の団結を説いた。しかし、大隈の門下生で統計局権少(ごんのしょう)書記官の尾崎行雄が、高島小金次と共に、政党団結に反対し、開拓使官有物払い下げ問題に集中し、まず内閣改造に着手するように説くと、その場の人はそれに同意した。彼らは、民間の諸勢力を利用して政府を批判し、大隈の功名を成そうとするようだった。
しかし、板垣は、こういう(払い下げ問題のような)非理不法が行われる原因は、政府の組織が専制で、国民がこれを矯正する方法を持たないからだとし、過去十数年間、権威を利用し、猾賈(かつこ、賈は、あきなう)寵商(ちょうしょう)と通謀する者は、一人を変えてもまた次が出てくる。それよりも根本的に立憲公議の政体を建てることの方が良いとした。
067 しかし、尾崎らはこれに服せず、会は、政党組織の議が未だ熟さないうちに終わった。
板垣は東北へ向かおうとしたが、大隈派の人は板垣に、大隈を声援したら政府を覆せるはずだと言った。しかし、板垣は、一人の官吏を攻撃するのが私の目的ではなく、根本に遡って改変したいと答えた。
副島種臣もその徒の大東義徹を遣わし、板垣に、大隈を助けるように説いたが、板垣は前言のように答えた。
9月26日、板垣は東京を立った。新潟に至り、大隈の免職と国会開設の大詔煥発の報に接した。
068 板垣は東京の同志に『前途猶遠し、喜ぶ勿れ』と返電した。大隈の党輿は、予期に反した結果となり悔恨してやまなかった。
全国の有志が都下に集まった。一県として委員を出さないところはなかった。後藤象二郎も加わった。
10.1より国会期成同盟及び自由党合併の協議を開いた。永く二団体を存してその方向を分かつのは策の得たるものではないとし、合同の大会を開くことにした。
(参加者名簿の中に、群馬からは、齋藤壬生雄、宮部襄の名が挙げられている。)
感想 板垣がこの時始めた運動は、板垣が遊説のために東北地方を敢えて選び、国会期成同盟や自由党の関係者が全県に渡り、会津など薩長と敵対した幕府側をも取り込んでおり、薩長色を脱する意味で画期的なものであったと言えるのではないか。
第三章 大詔渙発と自由党の結党
069 多くの自由民権派の志士が東京に集結した。
070 9.18、参議山田顕義は、当時京都にいた岩倉を訪ね、内閣の意見をもたらし、次のように述べた。
「官有物の処分問題は小さい。それよりも憲法編制と国会開設の時期を予定することの方が重要だ。天皇が行幸から帰るときまでにそれを決めるべきだ。もし大隈の意見を採用するなら、内閣各員は辞表を出し、他方、内閣各員の意見が採用されたら、大隈を免職にし、かつその党与の官吏を排斥すべきだ。」
10月、岩倉が東京に帰ると、伊藤は、国会準備の詔勅案と元老院参事院章程を岩倉に示した。そして大隈を免職するように頼んだ。西郷従道も同様に頼み、岩倉は、大隈の免職を奏請しようと意を決した。
岩倉が伊藤の詔勅案を井上毅に見せると、井上は次のような文書で岩倉に返答した。
「第一 天皇が確固とした一定の方針を示すべきだ。
第二 内閣は一致すべきだ。
第三 勅諭でなければ、現在の人心の動揺を抑えられないし、人心を政府側に篭絡することもできない。
第四 勅諭は、急進党を鎮定できなくても、中立派を順服させることができるはずだ。士族の中には中立党が多い。今、勅諭の手を打たないと、中立党も急進党になってしまうだろう。
第五 勅諭を示せば党派の白黒がはっきりし、反対党は、明確に抵抗するだろう。それは好都合だ。
(明らかな天皇制・天皇教の利用である。)
071 10月7日
毅
右府公閣下」
(「大隈重信関係文書」第四)
翌日井上毅は再度岩倉に以下のような書簡を送った。
「今、立志社などが国会期成会を催し、福沢は盛んに急進論を唱えているが、その党派は三四千に満ち、鹿児島にまで及び、この二三十日で結合奮起の勢いであり、このままだと事変不測と見える。天皇の還幸後早々に誓旨を以て人心の方向を公示しないで、彼(民権派)より先鞭をつけられたら、憲法は空文に帰し、百年の大事を誤ることになるだろう。またこのたび内閣に小変動(大隈の件)が生じれば、一層風潮を激し、一時の勢は、政府が全力で取り組まねば撲滅できなくなるだろう。勅諭によって廟謨(びょうぼ)を示し、名義を正し、旗色を見せ、全国勤王の士に力をつけることが、第一の急務だ。これは国家の大事だ。
10月8日
毅
右相公閣下」
(「大隈重信関係文書」第四)
072 伊藤からも同日岩倉に書簡が送られた。
「私の詔書案は、今日の状況であなたが取りうるやむを得ない処置だと、よく考えた挙句あなたに差し出したものである。よく考えてもらいたい。国会論について早く結論を出すべきだ。そうしないと、明治政府の艱難は尽きなくなり、薩長による中興補翼の功績も水泡に帰し、天下後世のために禍害を残すことになる。速やかに英断をされたい。ただし、期限については一年二年の間に強いてやるべきものではないが、人心収攬の効果がなければ政策としての価値がない。先ず明治23年と定めれば、ちょうどいいのではないか。これはご英断の骨子である。三条にも伝えておいたのでよく相談して欲しい。
10月8日
伊藤博文
岩倉右大臣殿」
(「伊藤博文伝」中)
感想 伊藤が政界で力をつけて、相当自信を持っているように見受けられる書簡だ。
073 官権擁護派
これより先、元老院副議長佐々木高行、議官河田景興、伊丹重賢、楠木正隆、安場保和、中村弘毅、内務大輔土方久元、陸軍中将谷干城等は、三大臣を輔佐し、参議を廃して参議院を置き、功臣を議官にすべきだという論を唱え、自ら中正党と称した。これに諸官省の勅奏任官等が加盟した。一種の官権党である。彼らは有司を訪ね、話しをしたようだ。
074 10.9、三条実美、伊藤博文、西郷従道、山田顕義らが岩倉邸で国会準備の勅諭を宣布する順序を話し合った。
「一 千住駅で天皇の車を奉迎し、行宮(あんぐう)で、朝野の状況を説明する。
一 天皇が皇居に帰られたら、三大臣が直ちに談合し、諸事一決奏聞宸断を仰ぐ。
一 国会開設勅諭の件で、何年を期し断行すべきことと議決し、宸断を経てすぐ宣布する。
一 内閣と元老院章程改正は宸断を経て施行する。
一 参議院設置如何
一 開拓使官有物払下処分は速やかに定め、公衆をして安堵せしむ。」
10.11、車駕が奥羽、北海道の巡幸を終えて帰ってきた。
即夜(その日の夜)御前会議を開き、国会開設に関して廟議を尽くし、連署の上、天皇に意見書を進奏した。参会者は以下の通り。太政大臣三条実美、左大臣(有栖川)熾仁(たるひと)親王、右大臣岩倉具視、参議寺島宗則、山県有朋、伊藤博文、黒田清隆、西郷従道、井上馨、山田顕義等。
意見書
「天皇は、立憲の政体を立てんとし、乙亥(いつがい、明治8年)の年に、元老・大審の二院を設け、爾来地方会議を起こし、法典を改良した。一方、国会を熱望する者は、早急で、言に許して、行に果たさず、過激の論をなしている。今速やかに一定の廟義により、(憲法や国会に関して)天下に提示しないと、人民は天皇の謀を知らないで、方向を誤ることになるだろう。国会開設の時期を予定し、挙行の順序を決め、政治の向かうところを国民に示すべきだ。
これは大きな事業だから、草卒に行うと大きな間違いを犯す。慎重に順序だてて行うべきだ。期間は数年を要する。中興の事業もまだ道半ばである。
予定を示しても民間がなお私議を逞しくし、急いで扇動する如きことがあれば、それは、王化を悩まし、国安を害するものである。(それらに対して)宜しく処するに国法を以てし、良民を惑わさないようにしなければならない。
国によって建国の歴史事情が異なるのだから、憲法もそれに応じて異なる。祖宗が基を創(はじ)め伝えるに際して、神器を以てした。これは人民を守るための万世不易の方法であり、祖宗の遺訓を広めることである。民間政談をなす者は、欧米の過激な説を主張し、国体の何かを顧みない者が多い。私どもは、我国体の美を失わず、広く民議を興し、公に衆思を集めるが、天皇の大権を落さないことを願う。
076 立憲君治を強化する方法は、
一 元老院を貴族老成が組織し、
二 陸海軍を帝王が親(みずか)ら統帥することである。
上下両議院で、元老院は、下院と平衡関係にあり、急な変化の弊害を避け、憲法を保障し、王室を輔翼する。元老院を次のように拡充すべきだ。
第一 皇族は満18歳で元老官に列し、任期を限らない。
第二 華族は爵位の例を設け、有爵の貴族とし、その俊良を選抜し、任期を定め、元老官を勅任する。
第三 士族は、教育があり、意気も高く、有為の人材が多く、貴族の一部にすべきだ。その中から選抜して華族とともに元老院議員とすべきだ。同属から公選で選ぶものとし、一府県各若干名を挙げ、任期も華族よりは短くすべきだ。
第四 文武官は従来どおり勲業によって採用する。
天子は兵馬の元帥である。軍人は王室を守る武力である。軍人は国を愛し、君に忠なるものであり、党を結んで政治を議する権利はない。
077 明治14年10月11日
寺島参議
山県参議
伊藤参議
黒田参議
西郷参議
井上参議
山田参議」
(「岩倉公実記」下)
14.10.12、国会開設の詔勅
078 「私は、2500余年の歴史の始まりを受け継いでいる。私は、早くから立憲の政体を建て、明治八年、元老院を設け、11年、府県会を開かせた。お前たちは私の気持ちを了解せよ。
立国の仕方は各国によって異なる。私の祖先が御覧になっている。責任は私にある。明治23年を期し、議員を召し、国会を開く。これは私の初志だ。組織権限に関しては、私が裁決し、公布する。
人民は、進歩的でありすぎ、浮言を弄し、大計を忘れている。私は(今国会開設を)明らかにしたい。もし事を早急にし、人々を扇動し、国安を害する者があれば、国典を以て処すべし。以上のことをお前等に諭す。
奉
勅
太政大臣 三条実美
明治14年10月12日」
(「法令全書」明治14年)
(天皇になりすましてこの文を考案したのは、誰か。伊藤かもしれない。072)
大詔降下と同時に、薩長閥族は、参議大隈重信を放逐したが、これを受け、大隈に関係していた政府官僚、農商務卿河野敏鎌らが退官した。開拓使官有物払下に関しては、河村純義、西郷従道、大山巖をして黒田清隆を諭させ、太政官をして、開拓使庁に命令して、払下の許可を撤回させた。
079 このとき以来政府は、薩長の政府となり、伊藤博文の権勢は閣中で始めて大きくなった。
今春改革した各省内閣分離の制度を廃止し、参議と省卿との兼任を復元し、参事院を新たに設け、法律制定の府となし、伊藤博文が参事院議長を兼任した。また、
西郷従道は農商務卿を兼任
山田顕義は内務卿を兼任
大木喬任は司法卿を兼任
寺島宗則は元老院議長を兼任
海軍卿河村純義は、参議に任じられ、同卿を兼任
内務卿松方正義は、参議に任じられ、大蔵卿を兼任
文部卿福岡孝弟は、参議に任じられ、同卿を兼任
元老院副議長佐々木高行は、参議に任じられ、工部卿を兼任
参議山県有朋、黒田清隆、井上馨は、従来どおり。
感想 国会開設・憲法発布を今すぐ例えば一二年後ではなく、十年後(M23)にすべきだと発案したのは伊藤だった073。「国会開設の奏請」、つまり天皇への提言(M14.10.11)や、天皇の勅諭つまり所謂「国会開設の詔勅」(M14.10.12)の中に、「言うことを聞かないやつは弾圧する」という項目が明記されて、弾圧のお墨付きを確保している。弾圧する姿勢は今に始まったことではなく、新聞紙条例や集会条例で、既に規定路線ではあるが、ここで改めて再確認している。この文章を読んでいると、薩長当局が如何に民心を懐柔するかに腐心していたことが分かる。079 2019年1月26日(土)
感想 伊藤の言う「元老院の充実」とは、ヒエラルキーとしての差別構造を充実させるという意味だったのだということがここを読んでよくわかった。「充実」などと言うともっともらしく聞こえるが、だまされてはいけない。本書の上巻の最後で伊藤が提言した国会論でも元老院に触れていたが、それは身分差別的階層制の充実によって天皇を守る囲いを固めるという意味だったのだ。財産に基づく制限選挙にもその精神が貫かれていると見るべきだろう。076 2019年1月27日(日)
詔勅が出て国会期成同盟の希望が達成されたので、国会期成同盟は自由党と合流しようとし、17日、懇親会を開催した。18日、後藤象二郎が議長となり、盟約とその他規則を議定した。
「自由党盟約
080 第二章 吾党は善良なる立憲政体を確立することに尽力すべし。
自由党規則
第二章 総理一名、副総理一名、常議員若干名、幹事五名を公選し、任期を一年とする。常備委員十名を設ける。任期は一年とする。
081 第十三章 毎年十月、地方部より代議員を出し、大会議を東京に開く。…」
(国会図書館所蔵「樺山資紀文書」所収パンフレット)
列席人名
田中正造、宮部襄、斎藤壬生雄、植木枝盛、林包明などの名前がある。総数78名だった。
084 総理 板垣退助、副総理 中島信行、
常議員 後藤象二郎、馬場辰猪、末廣重恭、竹内綱、
幹事 林包明、山際七司、内藤魯一、大石正巳、林正明
総理を板垣にするか、後藤にするかは、それぞれが固辞してなかなか決まらなかった。後藤は、板垣の方が衆望があることを知っていた。板垣は固辞する理由として「かつて多年国事に周旋し、毀誉ほとんど相半ばする」としたが、結局板垣が引き受けた。板垣は、東北遊説を終えて、9日、東京に戻っていた。10日、自由党員は懇親会を開催した。
085 政府は、11月18日、板垣が東京に戻る一日前に、京橋警察署が自由党幹事の林包明を召喚し、詰問した。
警察「自由党盟約第二章に、『吾党は善美なる立憲政体を確立することに尽力すべし』と掲ぐるは、集会条例第三条によりて届出認可を得るべきものに該当する。然るを届けないで集会をするとは何ぞや。」
林「盟約第二条は唯だ党中の目的を示したものに過ぎない。吾党は政談のために結社したものではない。」
警察「弁解は聞きたくない。直ちに裁判所に告訴する。」
さらに警察は、現在の役員の姓名を聞き取った上で、自由党本部の表札を外せと命じた。林は、総理の板垣と副総理の中島は、まだ本人が就任を受諾していないと答え、常議員と幹事の姓名を提出し、党に帰った。
その晩、党の臨時会を開き、盟約第二章は、政治事項を論議する目的で起草したものではないが、暫くこれを削除して、他日条例に抵触しないと判明した時に、再びこれを加えてもいいのではないかとし、9日、臨時会でそれを承認した。(弱々しい)
30日、法廷は以下の宣告を下し、幹事全員が罰せられた。
「自由党幹事 林包明、山際七司、内藤魯一、大石正巳、柏田盛文(林正明と入れ替わっている)
其方共儀、自由党盟約第二条に掲載する処の主義においては、到底政治に関する事項を相論議するに非ざれば、決してその目的を達する能ざるものと認定す。集会条例に準拠して、その筋に届け出すべきものなり。また自由党に長なき上は、其の責悉く該幹事において担当すべきは勿論なりとす。この理由により、自由党は、其の管轄警察署に届け出ざる罪あるものと断定し、該条例第十一条に照らし、罰金二円申し付ける。」
第四章 諸政党の勃興
087 大阪の小島忠里が板垣を訪ね、大阪の自党(立憲政党)の総理になって欲しいと願い出たが、板垣は断り、その代わりに副総理の中島信行を推薦した。そのメンバーは、草間時福、古澤滋、田口鎌吉、小島忠里、土居通豫、永田一二、甲田良造等である。大和の豪農土蔵庄三郎が資金援助した。称して立憲政党という。15.2.1、立憲政党新聞を発行した。立憲党の大意と申合せ書は次の通りである。
「立憲政党大意
088 一 我党は五条の御誓を奉戴し、…明治8年4月の国家立憲の政体の詔書…との宸旨を対揚し奉り、以て皇室の尊栄光寵を増し、国人の権利福祉を進めるを以て志となす。
一 我党は、政治に関する事項を講談論議するがために結社したるものにあらず、…将来結社もしくはその他の方法を要する時は、別に規則を定め、国法に従うてこれをなすべし。」(従順!)
(「日本立憲政党新聞」明治15.2.1)
「立憲政党申合書
第九条 新聞学校その他社会の必要なる事業を起すべし。…」
089 15.2.25、参議伊藤博文は、参事院議長の兼官を免ぜられ、直ちに欧州派遣の命を受けた。憲法制度調査のためである。
090 天皇は3.3、伊藤を御前に召し、次の勅語を賜った。(誰が書いたのだろうか。)
「…各国の政治を斟酌して…
一 欧州各立憲君主国の憲法につき、その淵源を尋ね、その沿革を考え、その言行の実況を見、利害得失のあるところを研究すべきこと。
一 皇室諸特権のこと
一 皇室並びに皇族財産のこと
一 貴族の制度特権のこと
明治15年3月3日」
(「伊藤博文伝」中)
092 3.14、伊藤は、山崎直胤、伊藤巳代治、河島醇、平田東助、吉田正春、三好退蔵、西園寺公望、岩倉具定*、廣橋賢光、相良頼紹(自費随行)、戸田氏共(自費随行)らを伴って欧州に向け出発した。
*岩倉具視の第三子、次男
伊藤は、オーストリアのスタイン*に学び、ドイツのグナイスト*等の意見を聞き、保守主義の学説を生呑みし、国家説に帰依したようだ。
*387ページの注を参照されたい。
明治15年の春頃から、新聞や演説は、憲法問題に関して、弁難攻撃しながら、頻繁に扱うようになった。民論は憲法討究の先駆を為していた。論戦の要は、欽定憲法か国約憲法かということと、国家主権は何れに存すべきかということであった。
東京日々新聞は、政府の旨を受け、保守思想の代表をなし、欽定憲法、君主主権を主張した。他方、京浜毎日、郵便報知など朝野の新聞は、国約憲法、主権在議会を唱えた。また自由党の諸新聞は、早くから国約憲法説を執っていた。
政府党曰く「主権とは一国の最上至高に位する大権をいう。外に対しては一国の独立を表し、権威を保ち、内に向かっては、立法、行政、司法の三機関を統治する。したがって主権は、一国の最上至高なる元首の位地によって、その唯一を保ち、尊厳を持つべきである、つまり、憲法は欽定であるべきで、主権は君主に存すべきだ。」
民間党曰く「なるほど主権は国家統治の大権であるが、国家は君主でもなく、人民でもない。帝権と民権を合一して、はじめて国家権が生じる。君主がこれを代表するからという理由で、君主だけが主権を独占するものではない。憲法は君主と人民とが一致して定めるべきであり、国約憲法とはそういう意味だ。したがって憲法を制定するに当たり、先ず憲法制定議会を開くべきである。」
これは根拠を法理論に置くと、政治論に置くとの相違である。
政府党は大権を根拠に批判を受け付けないが、その真意は閥族の専権を擁護し、政府万能主義を鼓吹するにすぎない。そして、朝敵の正名を楯とし、国民の忠愛心を刺激し、反対論を拒む。
自由主義の有志は空しく憤涙を呑み隠忍せざるを得なくなった。さらに政府は、一方では君権論を擁する機関紙を駆り立て、他方では警察権、刑罰権を揮い、忌諱(きい、嫌がる点)に触れるものは仮借なく、新聞を禁止し、演説を解散させて弾圧した。
感想 天皇制の本質をよく理解している。政府党は、天皇の大権を唱え、朝敵の正名を楯とし、国民の忠愛心を刺激するが、その真意は閥族の専権を擁護し、政府万能主義を鼓吹することだ。
政府に仕える党派は勢いづき、英国保守党のエドモンド・ボルクが、フランス革命の惨禍に驚いて保守主義の長所を称揚した論文を翻訳し、それを頒布し、天賦人権説を妄想だとした。これは学問を鬻(ひさ)ぐものであり、国家から給料をもらう曲儒のなす業であると、民間党は論駁した。
094 全国各地で政党が生まれた。3.9、九州熊本で自由主義者が決起した。党の名称は、九州改進党である。熊本の公議政党の、嘉悦氏房、高田露、山田武甫、前田案山子らが、会結成の斡旋をした。各県の委員は次の通りである。(氏名省略)
福岡県 玄洋社、立憲政党、柳川有明会、
鹿児島県 自治社、公友会、三州社、博愛社、加世田郷、都の城、鶴田郷、知識郷、平佐郷、黒木郷、
長野県(ママ、佐賀県か) 佐賀開進会、唐津先夏社、
大分県
095 9日、各県委員協議会を開催し、11日、懇親会、12日、大会を開いた。
佐賀先憂社の江口甚六を議長とし、東京共同社長林正明が説明委員となり、次の党則を定めた。
九州改進党党則
「第一章 綱領
第二章 組織(党則)
第一条 吾党の結合を称して改進党という。
第二条 長崎に本部を設け、…
第十条 みだりに本党の名義を以て演説することを許さず。…」
(「朝野新聞」明治15.3.25)
096 政府は法令を周密にし、警察を厳しくして、民権党を鎮圧しようとしたが効果が無かったので、官吏を派遣して、利益で誘導し、党員を相互に離間させるべく、頑冥守旧の者を扇動し、薄志弱行の者を誘拐した。
097 高知立志社の支社の共同社長水野寅次郎は、13.10の会合の時に、分離状を提出し、「立志社が共和説を唱えている」と嘘をつき、部下を率いて去った後、和歌山県の少書記官となった。
14年末、参事院議官安場保和と太政官大書記官井上毅らは、古荘嘉門の徒と謀り、その郷里*で保守党を団結させ、紫溟(めい)会と称した。
*井上毅の郷里は熊本である。
同党は政府党の中堅となった。九州で自由主義者が団結したのはこれに反発したためだった。
大隈重信の改進党も九州改進党と同名だが、性格、感情、気風が異なる。
3.14、大隈重信ともに罷免された河野敏鎌、前島密、北畠治房、小野梓、牟田口元学等は、東京に立憲改進党を組織し、その趣意書を発表した。自由党の沼間守一は河野と仲がよく、自由党の馬場と仲が悪かったので、部下の嚶鳴社員を率いて改進党に加入した。その他、退官した人たちもこれに加わった。
098 「立憲改進党趣意書
我ともがら帝国の臣民は、…
少数専有の幸福は、我党これに与せず。それは、我党の希望する王室の尊栄と人民の幸福とに反するからだ。もし一二私党が、我帝国を専らにし、一時的な安楽を求めるならば、我党はこれを公敵と看做す。
099 急激の変革は、我党の望むところではない。(変節!)陋見(ろうけん)に惑い、守旧を主とし、急な変化を競い、激昴(げきこう)を務める者を、我党は斥ける。約束二章を次の通り定めた。
第一章
我党は名づけて立憲改進党と称する。
第二章
我党は帝国の臣民として…
一 王室の尊栄を保ち…
三 中央干渉の政略を省き、地方自治の基礎を建てること。
四 社会進歩の度に従い、選挙権を拡大する。(貧乏人に対する選挙権の否定)
五 外国に対し、勉めて政略上の交渉を薄くし、通商の関係を厚くする。」(周辺諸国に対する帝国主義的振る舞いの否定か。)
(「郵便報知新聞」明治15.3.14)
100 立憲改進党は結党時に自由党に気配りをしていた。河野は演説でこう述べた。「我党は自由党の別動隊である。自由党は正義、剛直、平等を唱え、貧民の味方であり、実行や少壮活発の士を重視するが、立憲改進党は、そういう自由党によって無視された富者、学者、老人も網羅し、将来自由党と合同することを視野に入れている。」
板垣は、訪れてきた河野にこう言った。「自由党は改進党がなくても自立できる。改進党は自由党を猟犬と看做し、獲物を独り占めしようとする。」
立憲改進党は後に自由党を、嘘言で以て傷つけたし、改進党内に大勢いるはずの老成者は、かつての幕兵沼間守一くらいしかいない。また国事で体を張って、刑に触れた者もいない。
101 15.4.16、立憲改進党は結党式を挙げ、大隈を総理に、河野を副総理に、小野梓、牟田口元学、春木義彰を掌事とした。後に、進歩党、憲政本党と称した。
改進党は、政府に対抗し、人民の側に立つ点では、自由党と共通していた。
政府は警察権力だけでは民間政党に太刀打ちできないと考え、政府党を組織することにした。
東京日々新聞を拠点とし政府に隷従する福治源一郎、かつて高知立志社を離反し、和歌山県少書記官となり、後に東洋新報社長となった水野寅次郎、征韓論が興ったころ兵を挙げて渡海しようとしてつかまり獄につながれ、釈放されてからは、政府の命令で明治日報を創刊した丸山作楽らをして、政府は、立憲帝政党を組織させた。
これは熊本の紫溟会、土佐の谷干城、佐々木高行等の吏権派を根拠とし、3.18、党議綱領を公にした。「三人政党」と世間から揶揄された。(大衆的基盤を持たないこと。)
「立憲帝政党党議綱領
102 我立憲帝政党は、勅諭を奉戴し、万世不易の国体を保持し、外は国権を拡張し、漸に従って歩を進め、常に秩序と進歩の併行を求め、以て国安を保維し、以て改進を計画せんことを主意とする。
第一条 国会開設は明治23年を期する。これは聖勅に明なり。我党これを遵奉し、敢えてその伸縮・遅速を議せず。
第二条 憲法は聖天子の親裁による。このことは聖勅で明らかだ。我党これに遵奉し、敢えて欽定憲法の則に違わず。
第三条 我が皇国の主権は 聖天子が独り総覧し給うところであることはもちろんだ。而してその施用に至っては憲法の制による。
第七条 聖天子は国会議院の議決を制可し、もしくは制可せざるの大権を有し給う。
第十条 国安及び秩序に妨害なき集会言論は自由なり。演説新聞著書は、その法律の範囲内においては、自由ならしむるを要す。」
(「東京日々新聞」明治15.3.20)
103 立憲帝政党綱領衍(えん)義
「わが党は、本月18日に党議綱領を公にし、党議綱領を内閣大臣参議諸侯に提示し、そのとき次のように言った。『もし今の内閣の主義と我党の綱領とが異なっていたら、知らせて欲しい。』
それに対して内閣諸公は答えた。『悉く同一である。』
我社(東京日々新聞065)の福地、岡本もこの言を直接聞いた。今日の内閣は、まだ政党内閣を掲げていないが、立憲帝政党と主義を同じくするのだから、現実には、立憲帝政党の内閣だといえる。立憲帝政党が今日の政局に当たる政党であると言ってさしつかえない。主義を以て合し、主義を以て離れ、主義が同じならば、賛成し、異なれば、排撃することは、政党のなすべきことだ。政党の合離に関して私憤私利をはさまなければ、その合離は公明正大だ。内閣諸公がこの主義を取れば、我党が、政府を補賛することを好まないと言ったとしても、党の主義上から政府を補賛しないわけにいかない。内閣諸公が、この主義と違うならば、政府を弁護したくても、党の主義上から弁護できない。これは論議の基が、政府ではなくて立憲帝政党にあるからだ。」
(「東京日々新聞」明治15.3.25)
感想 もっともなことを言っている。これは政党内閣制を推奨している。ところが後述するように、実際はこれとは違っていたようだ。つまり、実際は帝政党は政党内閣論を排撃していた。
立憲帝政党は、綱領を新聞に載せただけで、まだ党首もいないし、役員も、本部の位置も明らかにしていない。そして帝政党は今まで常に、その機関紙で政党内閣論を駁撃し、帝室内閣制の美を主張してきたのに、その綱領や衍義の中では、「今日の内閣は、未だ明らかに政党内閣の標題を掲げずと言えども、既に立憲帝政党と主義を同じくするものなりとある以上は、その実際についてみれば、すなわち立憲帝政党の内閣であり、立憲帝政党は、今日の政局に当たる政党であるということは、敢えて不可ではないだろう」と言い放っている。これは自己矛盾だ。
しかしこれは真意ではなく、薩長内閣が帝政党と主義を同じくするのではなく、帝政党が薩長内閣に主義を売って奉仕しているのだ。
105 立憲帝政党には党としての実体がなく、組織もないにもかかわらず、これを受け入れた者は、税金を食い物にする吏員であり、利益や給料のために自説を曲げた民権論者がこれに続き、国費で養成された大学生だった。村の学者、神官、僧侶、免職官吏などもこれに続いた。この党に入って就職しようとする者や、官庁に阿(おもね)り利益を得ようとする政府御寵愛の商人などもこの党のもとに奔った。また、自由民権説は国体を破壊するものだと信じた古勤王の徒や、帝政主義を崇拝し、法権で天下を経営すればいいと考えた人たちなどもこの立憲帝政党に入党したが、その数は少なかった。
立憲帝政党は、拝権、征利、熱官、固陋の分子を収拾し、隠然一団となり、東京日々新聞、明治日報、東洋新報、大東日報等が、政府から指示を受けながら宣伝を続け、天下は三分されることになった。(自由党、立憲改進党、立憲帝政党)
感想 大学生が立憲帝政党に入党するとは驚きだ。このころの大学生はまず実利を優先したようだ。その新聞は弾圧に抗することもなく、既に政権に迎合していたようだ。今日の新潮、文春の類なのだろう。右翼らしき人の入党者が意外と少ないようなのもまた意外だ。2019年1月30日(水)
第五章 岐阜の凶変
105 15.3、板垣退助は両毛で演説してから、東海道諸県を訪れた。随行者は、竹内綱、宮地茂春、安藝喜代香らであった。
106 15.3.10、静岡に達し、前島豊太郎、荒川高俊、土居光華らが歓待した。その時の演説は以下の通りである。(402ページの註によると甲府でも演説したようだ。)
自由党組織の大意
「これは親睦の会話であって党の政談ではない。(集会条例を意識しての言か。)大人物は物事の成就が難しいことを予想して努力するものである。そうするとその物事を成就できる。その難しい点を次に示す。
我国の封建統治時代における人間関係は、協力関係ではなく、武力による支配・被支配の関係であったため、被支配者は主体的に政治に関与しようとはしなかった。武士が国政に関与する、国民の一部を構成したが、君主に仕えることにだけ関心があり、それ以外のことには無関心だった。つまり自己の自由だけに関心があり、社会共同の自由に対する配慮に欠けていた。従って、君臣関係がなくなるとバラバラに解散し、放縦に陥ってしまった。これが障碍の第一点である。
107 封建時代における統治者には、他人を統治する気持ちしかなく、自らを統治する気持ちに欠けていた。封建時代における政治は、専制的で自治の精神に欠けていた。統治者には権力欲しかなく、公衆のために譲ることを知らなかった。猜疑心が強く、他人を貶め、他人の名誉を汚しがちだった。これが障碍の第二点である。
封建時代における被治者は、服従ばかりしていて、依頼心が強く、独立心がなく、自治自衛の精神がなく、人と徒党を組むが、主義で団結することはなかった。これが障碍の第三点である。
封建時代では武士は教育を受けたが、それ以外の人民は税金を払って財産を築くことにしか関心がなく、教育は受けなかった。
108 ところが開国し、西洋の文物がどっと押し寄せると、その気運は若い者に広まり、高齢者には広まらず、若者の学識と高齢者の経験とが融合することなく乖離した。これが障碍の第四点である。
封建時代の統治は世襲であり、そのため政治思想は統治者の専有物となり、被統治者には、それが全く欠けていた。上智と下愚との政治思想の間隙は大きすぎる。これが障碍の第五点である。
我国の歴史は二千五百年となるが、その間の政変は権力の交替に過ぎず、専制政治が続き、政治のシステムを変えることには到らなかった。その点で西洋とは異なる。未開人種なら若々しい天然の気性があるが、半開の民である日本人は、すでにできている物に捉われ、発展の契機が見つけにくい老人みたいなものだ。これが障碍の第六点である。
日本には神儒仏の三つの宗教がある。神道は、太古神政の遺制で、王制の輔翼となり、仏教は、本来外来のものだったが、今ではすでに国教化し、政治の従属物となって、政教一致を体現している。また儒教は、政治と道徳とを混同し、修身治国の方策をとり、政府を師父と看做し、政府が民衆を教化するものとしている。このように、日本では、政治と宗教とが入り乱れ、政治が私的分野に干渉し、私行が社交を害し、社行が私交を妨げている。これが障碍の第七点である。
感想 これは政治に関する議論をすると、必ず宗教的な教えが横槍を入れ、議論が前に進まない事情を述べているものと思われる。
109 以上のとおり日本で立憲政体を築くうえでの問題点は多いが、まず、人々は孤立するのではなく、共同すべきだ。国政の基本は、各人の権利を守ることだ。そのためには天然の自由を割いて、人文の自由を享けなければならない。自放自恣であってはならない。人は社会的交流なしには存在できない。公衆の自由と私的な自由とは両立する。日本人には共同の念が乏しい。それは専制の積習のせいである。人民に参政権を与え、国政に参与せしめ、私的な利益が公的な利益に通じるのだということを知らしめなければならない。単独の心を捨て、共同の念を興し、公衆の自由を進展させるべきだ。これが諸君に望む第一点だ。
110 我党の目的は、自らを治めることであり、他人を治めようとすることではない。才能を発揮する場所は広々としている。そのために治者である必要はない。イギリスのスペンサーは社会革新を自らの天職とし、自らを「地上の帝王、真正の立法者」とした。それは政治の実現である。実際政治を担当する必要はない。我々は自治の業を創めるべきだ。これが諸君に要望する第二点だ。
感想 これは板垣の下野した心情を反映しているのだろうか。
我々は、人に与するのではなく、道に与するべきだ。人に与することは、私党しかもたらさない。道に与するとは、信条を共有することである。公党とはその意味である。人の力は弱いが、人の志は強い。独立の志があれば、人が死んでも、志は継続する。自立の精神で以て道に生きる。これが諸君に望む第三点だ。
111 我々は民衆の力を集めなければならない。知者は進取的で、財産家は保守的で、経験者は自重的だ。人はそれぞれ立場が違うが、小異を捨て大同につくべきだ。目的は参政権の獲得だ。一院制にすべきか、二院制にすべきかや、普通選挙か財産選挙かなどの議論は、政体の変革が実現された後にすべき話である。我々は西欧諸国の政党に比べて未熟だから、主義を押し通して小異を取るならば、大に誤る恐れがある。我々は細かい点は争わないで、一大政党のもとに団結すべきだ。これが私の要望の第四点だ。
112 我党団結の趣旨は、輿論に基づいて政治を行う政体を立てることである。そのためには人民の政治意識を高めなくてはならない。輿論が政治家を牽制するから、人民の幸福はもたらされるのだ。もし人民が政治思想を欠き、輿論の力で治者を制する術を知らなければ、たとえ善政良法を立てても、たちまち専恣圧制に陥るだろう。上智が下愚を指導し、政治思想を全体として高めること、これは私が諸君に望む第五点だ。
腐儒者は言う「一身を修められないで、どうして一国の政治を担当できるのか」「長い歴史の道程を経て、ヨーロッパの今日がある。近道はできない。」と。我党は腐儒者の見解に従わない。先ず参政権を得て一国のことに与り、公私の利害が一致することを知り、以て一家一身の事に及ぼすべきだ。活機が重要だ。我々は、速く開明の域に達し、ヨーロッパを凌駕すべきだ。これは私が諸君に希望する第六である。
113 政治は人々の私的分野に干渉すべきではない。もし干渉すれば、人民は依存心を高め、独立心を失うだろう。政教(政治と宗教)を分離し、政治的干渉を排すべきだ。
我々は社交を問題とし、私交は問題としない。私的に仲が悪くても、社交に関する点で一致すれば、団結の仲間に入れるべきだ。これは私が諸君に要望する第七点だ。
以上七点をテコにして自由を獲得する事業は易しくはない。難しいと知って努めれば、必ず成る。自由を得る道は、ただ至誠剛毅のみ。権謀方略ではない。智と勇気が必要だ。
(国会図書館所蔵、旧憲政史編纂会蒐(しゅう)集写本「片岡健吉文書」)
115 政敵同志、都会田舎を問わず、新聞は争ってこの演説を掲載した。外字新聞もこれを翻訳し、海外に伝えた。自由党の初志は、ただ立憲政体を創造することだけではなく、社会を変え、人心を洗おうとすることだった。
自由党の勢いが増すと、薩長が存在することは知っていても、国家のあることを知らない政府党の諸新聞は、自由党を中傷し、嘘をついて、自由党に対して、国体を破壊するものという賊名を以てし、国民の忠愛心を扇動した。板垣はこれを深く憂え、今までの考えをまとめ、東海暁鐘(ぎょうしょう)新報の主筆である土居光華に口授した。土井はこれを編集して『自由党の尊王論』と題し出版した。
116 「自由党の尊王論
自由党のような尊皇家や忠臣は、彼ら(政府党か)のような尊皇家や忠臣とは異なる。我党は平生、尊王の主義をとり、立憲政体の事業に従事している。彼らは専制政体、否な有司専制を援助し、立憲政体を妨害する。彼等は我皇帝陛下をロシアの皇帝のように貶めようとしている。我等は我皇帝陛下をしてイギリスの国王の尊栄を保たせようとしている。我党は、我君を尭舜にしようとしている。我党は、我皇帝陛下を信じ奉り、我皇帝陛下が、堅く我国の千載に垂れることを信ずる。
我党は我皇帝陛下の明治元年三月十四日の御誓文、同八年四月十四日の立憲の詔勅、そして去年十月十二日の(国会開設の)勅諭を信じ奉る。(天皇が、)立憲政体を立てさせ給い、その慶幸に頼らんと宣給う以上は、(天皇が)我党に自由を与え、我党をして自由の民たらしめんと欲するの叡慮であることを信ずる。また「旧になじみ、故に慣れることなく」と宣給う以上は、旧時の圧制を甘受する卑屈奴隷の境界を脱せしめんと欲するの叡慮であることを信じる。我党が、天地の公道に悖り、天賦の自由を捨て、奴隷に安んずるの陋習を、破らないでいられようか。我党が自由を唱え、権利を主張するのは、仁慈皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、私心をさしはさまないことと同じだ。これを、本居、平田の陋教を奉じ、聖勅に悖り、頑固に自説を信じ、旧時の陋習を脱しない者と比べることはできない。
我党は我皇帝陛下を信じ、その意に従って、立憲政体の慶幸に頼るつもりだ。ところが彼等は、イギリスの盛大なることを理解できない。英国が栄えている理由が、君臣がそれぞれ権限を守り、専横抑圧がなく、君民が自由政治のもとで行動しているからであることを彼等は知らない。彼等は、ロシアが衰退している理由を知らない。ロシアの皇帝は、貴尊の身を以て、敵の囚人となって捕獲されたようなもので、いつも安全でないことを彼等は知らない。
地面に穴を掘ってその下に座り、地面が高いなどとは言えない。また足の遅い馬を御して上手に馬を御せたとも言えない。支那、ロシア、トルコなどの帝王は、驕慢無礼で、人民を馬鹿にし、他方人民はその帝王を畏怖し、怨望し、雷や敵と看做す。帝王が外国に軽蔑されても、人民は怒らない。人民が外国人に辱められ、殺されても、帝王はかまわない。ロシアには、愛国者も、権利自由を主張する者もいない。人民は野蛮で卑屈だ。帝王は文明諸国の嘲笑の的だ。
英国を見よ。人民は自由で、尊重されている。英国人民が世界の最高位にいるように、英国国王は世界の帝王の最高位にいる。外国人に一人の人民が殺害されれば、イギリス国王は怒り、国王が蔑視されれば、国民は怒る。
我党は、我人民を自由の民にし、我国を文明国にし、自由貴重の民の上に天皇を君臨させようとする。これは、聖旨を奉じ、自由主義を執り、政党を組織し、国事に奔走する所以であり、皇国を千載に伝え、皇統を無窮に垂れんと欲する所以だ。みだりに尊王主義を唱え、聖旨を違え、立憲政体の準備計画を暴圧し、皇家を率いて危難の深遠に臨まんとするものと我々とを同一視すべきでない。
(国会図書館所蔵旧憲政史編纂会蒐集写本「小久保喜七文書」)
感想 この『自由党の尊王論』は、ロシア皇帝のような専制的君主ではなく、イギリス式の立憲君主を提唱するとはいえ、共和制の可能性を端から問題とせず、天皇を崇め奉るという限界を示すものだが、そう言わざるを得ない所に追い込まれていたと言えないだろうか。それとも共和制は全く問題外だったのだろうか。
119 板垣の一行は、静岡から名古屋を経て、岩田徳義や安田節蔵から接待を受けながら、岐阜に到った。板垣の周囲には大勢の見物人が集まった。
15.4.6、懇親会を金華山麓の神道中教院で開いたが、板垣は演説の最後を、立憲政体を完成し、皇室の尊栄を図り、国民の福祉を増進すべきだと結んだ。世は中央集権が絶頂に達し、民生は困窮している時、一人板垣は、有司の放漫を弾劾し、国民の堕落を警告した。
120 「板垣総理の演説
私は帝王の位を危険に陥れるようなことは好まない。私のとる道が、王室の尊厳を維持することに寄与し、国を隆盛に導き、人民の福祉をもたらすことをこれから説明しよう。
121 求心力と遠心力との平衡とは何か、それがどんな場合に適用されるかについてこれからを説明しよう。
求心力と遠心力は、宇宙空間で行われている。惑星は太陽に接近せず、また遠ざかりもしない。これは惑星が太陽に引き付けられる求心力と、惑星が太陽から離れようとする遠心力とが均衡しているからだ。
122 この求心力と遠心力は、天体だけでなく、政治社会においても、人間の心理(感覚)においても、道徳社会においても現れる。
人の心が動くのは、外界を五官が感じとるからであり、それが知、情、意となって現れる。これは外物の求心力が我精神を牽引するからである。ところが、求心力が強すぎると、私は反省しないで、行動に走ることになる。また逆に、外界の感覚が無ければ、私は何も考えることができないし、意欲も起こらないし、情欲も起こらない。
123 外界の求心力が強すぎると、外界に刺激された情欲を制止することができなくなり、情欲に動かされ、正邪の判断ができなくなる。しかし私がそうしないのはなぜか。それは私の心の中に遠心力があり、省察し、情欲を節制し、押さえつけるからだ。豪傑が一大事業をなすことができるのは、外物の求心力によって意気が激揚しつつ、遠心力もあるから、反省し、物事の軽重を判断できるからだ。この求心力と遠心力とは、二つ相俟って有効となる。
124 さて、財貨は人を引き付けるが、貧乏は嫌いだ。財貨は求心力である。財貨に求心力がなければ人は行動しない。そして文明は発展せず、未開社会に留まるだろう。他方、財貨を好みすぎると、富が一極に集中し、たとえ有司専制の弊害を打ち破り、立憲政体を作り、国民同等の権利を憲法上で認めても、その実権は、一人のお金持ちの手に握られてしまうだろう。そして、一部の人がお金を全部集めて使わなくなると、お金の使い道、お金の存在意義さえなくなってしまうだろう。それは、お金の遠心力がないないからだ。
士君子は、お金の求心力を制御できなければならない。中道に立ち、情欲を制御し、内界心意の遠心力を養成すべきだ。お金の求心力は、守銭奴を生む弊害があるが、他方では、人類を物質文明の域に到達させる利点もある。分を守る心は、人の情意を圧迫する欠点があるが、人をして不義の人にしない利点もある。それは遠心力のおかげだ。求心力と遠心力の両力の平衡は、人生を生きるうえで大事なことだ。
外界事物の求心力が無ければ、活発な衝動を引き起こさず、内界心意の遠心力がなければ、冷静な省察力が起こらない。この両力が平衡してはじめて、大きな計画を立てて実行することができる。
126 次は道徳社会について述べる。(このあたり意味不明)
心神は天賦のものか、それとも自然の進化の結果なのかは分からないが、才能は人によって異なり、異なった才能があるからこそ、社会が成立する。
127 自然によるものであろうが、天の神によるものであろうが、人間に賦与された才能は様々である。その異なった才能を、言語が他人や次代に伝える。これは人類の特徴だ。
道徳社会における求心力は、社会的結交を求めることであり、その遠心力とは、人々がそれぞれの個性を発揮することである。この両力が平衡していないと、社会の公益を促進したり、一人ひとりの人間の品性を完成したりすることはできない。
128 結交力だけが偏重されると、各人の個性がなくなり、社会は一色になり、個人の長所が発揮されなくなる。遠心力によって、各人は異なる性質を保持しようとし、俗化せず、自らの意志を断行し、時に流されず、天命に従うことができる。
ところが遠心力が過度になると、人は、孤立し、自らの長所を他人に認めてもらう機会を失い、言語も文字も意味をなさなくなる。さほど極端な場合でなくても、個人の特異性は害され、人々はバラバラになり、互いに補い合うことができなくなり、一人で全てをやらなくてはならなくなる。それに反して、分業は製品の質を高める。
130 抑々(そもそも)人は各々異なるが故に結交して、その功益を見、結交するが故に、その本性の各異を遂ぐるを得べし。
131 さて、人心と外物との遠心・求心関係、道徳社会における遠心・求心の関係の次に、政治社会における遠心・求心の関係をこれから論じよう。
教育や文化が未発達な政治社会においては、弱肉強食がはびこらざるを得ない。平等の自由、人民の幸福、社会の安寧を維持するためには、政権を強固にしなければならない。それらが維持できるのは、政治権力の求心力のおかげである。人々が税金を払うのも、このためである。
132 政権の目的は、公共の福祉にあり、政権は人々の意思で成立するのだから、多数決で決定される。しかし、国家を構成する部分である州や県や市町村では、それぞれの風俗を異にし、それぞれ、幸福の感覚も異なる。国家全体の幸福が、部分である州県の幸福であるとは限らない。
政治の目的を極言すれば、不道徳者が道徳者の幸福を妨害するのを防ぐことである。
他方、政権という求心力だけを偏重し、政権の価値観を隅々にまで及ぼそうとすれば、多数者が威張り、多様な思想と行動をしばりつけ、人々の自主性をそぎ、智や勇を滅し、富を減少させることになるだろう。
133 だから、政権をしばる自治という遠心力を認めるべきだ。州や県だけに見られる特殊性は、その州や県の自治に任せるべきだ。できるだけ権力を分割して、人民の自治を許し、県全体ではできないことを郡ではできるようにする、そうすれば人々は自主の精神を発達させ、異様さを発揮し、智を磨き、富を増し、勇壮敢為の気を涵養するだろう。
134 しかし、自治の遠心力だけを執り、国家政権を忘却すると、国家政権の求心力がなくなり、平等の自由や幸福などを全うできなくなる。かといって、自治の遠心力が無ければ、政権の干渉暴圧を防げない。いずれか一方が偏奇すると、国家は滅亡する。
以上、要約すると、外界事物の求心力が無ければ、活発な進取の精神が生まれない。内界心意の遠心力が無ければ、公正な判断ができない。また社会結交の求心力が無ければ、社会結交の公益が絶滅する。一方、人の特異性がなくなれば、特異性の美徳は失われる。また、国家政権の求心力がなければ、公共の福祉を維持できない。人民自治の遠心力が無ければ、特異な嗜好を追求できなくなる。
もし以上のようになれば、知識の増進、道徳の向上、国家の安全は保証されなくなるだろう。
135 これらの平衡を維持したいと考える理由は、立憲政体の美を見たいからだ。一君を奉じ、中間の閥族を打破し、万民の権利を得るための公議政体を建てることは、維新改革の大勢である。これは天皇陛下が早くから望まれていたことだ。諸君、立憲政体を勝ち取ろう。
(「自由新聞」明治15.7.1・2・4・7・9・12・13)
感想 板垣はこの演説で集会条例を意識しているのではないか。開口一番、天皇制を肯定する。警官が会場にいて話を聞いている。そして警官にとっては眠くなるような、長々として、一見政治とは関係のない物理学にまつわる話しが延々と続く。物理学における力の均衡理論を、人間の知覚から、道徳へ、そして最後に政治に適用していく。立憲制については最後にちょっと触れ、力の平均・中庸理論を根拠に、専制政治をちょっと批判しているだけである。そしてその夕方、板垣は刺客に刺される。板垣のイギリス型立憲説は、専制的為政者にとっては邪魔なのである。 2019年2月1日(金)
岐阜の凶変(要旨)
・この日板垣はもともと体調が優れず、中教院での二時間に及ぶ演説を終え、疲れていたので、懇親会を中座し、一人で宿舎に戻ったところ、旅館の従業員にまぎれこんでいた刺客に、胸二箇所や両手や頬などを、応戦したものの、刺された。その後、板垣は旅館から党員と共に自力で歩き、道中の傘屋で休憩し、そこで医者の来るのを待った。胸部二箇所の傷は深かったが、肺臓には届かず、致命傷とはならなかった。
・板垣の刺客は、相原尚褧(ママ)という、元愛知県士族の小学校の教員で、東京日々新聞の愛読者だった。彼は板垣に向かって「国賊」と叫びながら短刀で襲いかかった。相原の両親宛の遺書には「小子儀、勤王の志止み難くして、国賊板垣退助を誅す。」とあった。136, 139
・板垣は刺客が仲間によって倒された時、刺客に向かって「板垣死すとも自由は死せず」と言った。136
・「誰か我党を過激という。彼(刺客)却って此の過激の事をなす。」137
・板垣は、本山団蔵から習った、竹内流の小具足組打(こぐそくくみうち)の術を用いて、刺客から身を守った。138
・板垣は彼(刺客)を敢えて告訴せず、赦免して欲しいと言った。140
・自由党の仲間数人が賊を殺そうとしたが、内藤魯一は厳しくそれを制して、みだりに殺させず、官権に手渡した。そのことで板垣は内藤に感謝して言った。「我党の面目はこれによって保たれた。私のことを粗暴過激となすものは、恥じることだろう。」と。139
・刺客は憲法発布時の恩赦で出獄後、板垣に謝罪した。そして今後は植民事業に従事するために北海道へ行くと言ったが、その途上の船上で行方不明になった。相原が悔悟して、自らのことがばれるのを恐れた、かつての相原の教唆者に殺されたのか。141
・岐阜日々新聞記者池田豊志知が、刺客の連累として逮捕され、県令小崎利準の門に出入りする弁護士田島鹿之助も嫌疑を受けた。このことは反自由党的行動隊の存在を示唆していないか。142
・板垣は、天皇から勅使が派遣されると聞いたとき、感涙の涙を落とした。143「聖恩の微臣に及びしなり。いずくんぞこれを拝受せざるべけんや」(嗚呼天皇制宗教の呪縛!)板垣を診療した後藤新平は、後に反対党が板垣を讒誣(ざんふ)し、板垣のことを不臣だと言うことがあるたびに、いつもこのことを以て板垣を回護したという。144
・勅旨の見舞いに際して、地の文はこう語る。「嗚呼聖明の其の功臣を愛撫する、何ぞ盛んなるや、一党感泣(かんきゅう)、士心為に安し。」147
・政府は自由党による革命を恐れて兵隊に準備させたとのこと。142, 146
・板垣は刺客を予想していた。そういう社会情勢だった。「予固(もと)より此の事あらんを知る。」145
・改進党が板垣を慰問した。大隈、河野、前島の連名、藤田、矢野の連名、並びに東洋議政会員、犬養毅以下十七名の連名を以て各慰問状を発し、同時に牟田口元学を慰問使として派遣した。145
・当時の官吏は自由党員を仇敵のように看做し、迫害していたが、勅旨派遣の報以後は、がらりと態度を変えた。142, 144
・後藤新平は愛知県病院長だったが、進退を賭し、板垣の診療にあたった。後藤は板垣がうれしそうな表情をしていたので「閣下は御本望ならん」と言った。板垣はそれに答えて、「然り、余は却って好死処を得たりと思い、衷心に喜びを感ずるなり」と言った。143
147 板垣大阪へ向かう。
14、小室、宮地、城山、岩田らが、政談演説会を開いた。
15、板垣は岐阜を出発した。中島、竹内が随行した。
16、彦根で懇親会を開いた。竹内、小室、植木が参加した。
17、琵琶湖で古澤滋が『自由万歳』の旗を掲げて板垣を迎えたが、これは、英語のLong
Liveを『万歳』と翻訳した始まりだった。
148 大阪府知事の建野郷三が板垣を迎えた。また秋月種樹が訪ねてきた。秋月は九州の諸侯で、山内容堂の旧友である。
6.1、板垣は、中島信行、片岡健吉、谷重義を伴って東京に帰った。
自由党や改進党は政府や保守党の動きを警戒し、改進党の沼間守一はピストルを外出時に携行した。
これより先、熊本に保守党の紫溟会が結成され、その首謀古荘嘉門を某客人が訪ねて言った。
「方今自由の大勢、八道を蔽う、足下等徒手一政団を興し、之に対抗しようとしているが、成算はあるのか。」
古荘「抑も自由論の巨魁は唯板垣あるのみ、その他何人かの領袖がいれば、名前をメモしおいて、機会を見て殺してしまえば、ちょっとした刃物でも効果が上がるだろう。彼等は大勢いても、何もできないだろう。」
これは新聞にも掲載された。
また当時の有司の一人は「板垣はまだ死んでいないのか。」と言ったとのこと。
149 壮士が政府転覆を議論したのも、止むを得ないような状況だった。テロの対象が、もし板垣ではなく、政権の有司で、暗殺を試みたのが自由党員だとしたら、政府は連累者を徹底的に捜索したことだろう。
当時は相原のような刺客が生まれるのも当然と思えるような状況だった。相原は、板垣をして、共和主義を唱える者、国賊と看做したが、政府党の言動には、それを誘発した責任がある。
150 デマや誹謗をでっち上げた新聞の責任は重い。
4.5、*帝政党の号令機関たる東京日々新聞が『名実の弁』と題して、デマ宣伝をした。
*実際の日付は5.5、これは板垣の事件が、東京日々新聞のデマ報道が原因で起ったことを著者が強調するために事件の前日の4月5日にしたかったという内心の働きがあったからかもしれない。
それは、板垣を共和主義者と看做す論文であった。*また大阪の政府党機関である大東日報もこれに類する記事を掲げた。それは扇情教唆であった。自由党の党員は怒って両新聞社に謝罪を迫った。
そのとき板垣は大阪にいた。板垣に随行していた安藝清代香、宮地茂春らは、大東日報社長羽田恭輔に面会しようとしたが、羽田は当初回避し、安藝らが「ここで徹夜してでも出てくるのを待っている」と言ったところ、漸く面会に応じ、当初は逃げ口上を述べたが、安藝らの理論に屈し、取り消し文の掲載を約束し、かつ謝罪書を書いた。
他方、東京日々新聞の『名実の弁』はこう語った。
「吾曹(ごそう、われら)は、最も驚くべき、最も悲しむべき一報を得た。その報が言うには、此の頃某政党の領袖たる某君が、東海道の某地で演説した話の中で、『日本人民代理○○君』云々と、憚(はばか)る色なく申されたとのことだ。また、『○○君』とは即ち主上の御名なれども、憚りてこれを『○○』とせり云々。…(中略*)…吾曹の推測によれば、某君は政党の領袖であり、急進論者が仰いで権威者と看做す先覚である。」
*中略部分を読むと、福地が如何に知能犯であるかを示している。根拠のない報道をする自らを合理化しつつ、また、板垣を誹謗しないと口では言いつつ、実質的には板垣の誹謗を実現している。
「この○○は、聖上の忌み名を明らさまに呼んだものである。吾曹は、如何に他人の語だとしても、これをそのまま書くのは忍びがたいと思い、代わりに○を用いた。この情報は、吾曹が某地方から得たものだが、その事実が本当に間違いないのか確証をもてないので、その人がどういう党の何という人か、どこの何という会合でそのような怪語を吐いたのかを敢えて公表しない。これは吾曹が確証もないのに、みだりにその人を讒謗(ざんぼう)することを避け、事実もないのにたちまちその人の罪を公に暴露することを避けたいからである。吾曹がこの情報を入手した当初は、その人がどうしてこのような倫理を乱すような妄言を聴衆に対して発したのか、この情報は虚構の讒言(ざんげん)ではないか、などと思ったものだが、再考してみて、この情報提供者がその人に対して恩も怨みもないのだから、徒(いたずら)に虚説を作為してその人を陥れ、さらには吾曹までも欺くような悪巧みをすることはないだろうと考え、またこの情報があるからには、これは必ずしも空中の楼閣ではないのではないか(と思った。)、兎に角信疑相半ばであって、今でも決定できない。しかし、…」402
151 これを読んだ自由党の同志は怒り心頭に発し、東京日々新聞社長福地源一郎に対して、思う存分やろうと言った。
谷重喜、大石正巳、佐伯剛平、奥宮健之ら「某政党の領袖たる某君とは板垣総理のことではないか。」
福地「政党の首領は板垣君のみにあらず。私は板垣君を指して書いたのではない。ただし読者がそう誤解しても、私の関知するところではない。」
谷ら「最近東海道で遊説した政党の首領の名前を他に挙げてみよ。」
福地「それは明言できない。」
谷ら「板垣君以外にいないではないか。世人は板垣君だと認めている。世人を触発し、板垣君を誹謗したのは、あなた以外に誰がいるか。」
152 福地は終に罪を謝罪し、谷らは以下の条件を要求した。
第一 社説で、間違っていたと書くこと。
第二 広告でその過失を明らかにすること。
第三 自由党本部に謝罪状を提出すること。
第四 情報提供者の名前を示すこと。
福地は第四を除いて合意したが、第四に関しては、別室で、談判員一人に秘密に打ち明けた。
4.12、福地は社説『悔悟の趣旨』の中で「私は無根虚構の報道であったことを今知った。情報が間違っていた。虚説を掲載したことは過ちであったと謝罪する。」
(「東京日々新聞」明治15.5.12)
広告蘭でも「無根の説で、取り消す。」とした。
153 また謝罪状では、
「計らずも貴党ならびに貴党の総理板垣君の名誉を毀傷する結果となり、社会をして風波を起こそうする気にさせ、恐縮である。私や弊社には、貴党を謗(そし)り陥れようとする悪意はない。これは予想外のことで、ぞんざいであった。過ちを謝罪する。」
(「東京日々新聞」明治15.5.12)
自由党を誹謗する官権党系のマスコミはその他にもあった。
153 (5日の東京日々の記事と6日の相原の事件とが相前後して起こったとしているが、150頁でも触れているように間違いである。)
政府や保守党と自由党との関係は危険であったが、只だ上に聖天子あり、隆恩よく功臣を覆い、速く勅旨を下して、畏くも慰問を賜い、下に領袖の鎮撫を得、以て帰嚮(きこう、方向)を誤らしめず。板垣も死を免れ、傷も浅く、次第に治癒したので、党衆は沈静した。
この事件で板垣の名が世間に広まったが、それとともに政権の圧力も強まった。
第六章 酒屋会議
要旨 酒税値上げに反対する酒造業社の運動を自由党員が盛り上げた。政府は運動員を尾行したり、拘禁したり、集会を禁止したりしたが、反対者側は、船上で会議を行い、請願書を取りまとめ、元老院に提出した。他県の同志は拘束されたが、植木枝盛だけが無罪・釈放されたのは、高知県の民意の強さを物語るのだろうか。
154 板垣事件以後、民心は自由民権運動に同情するようになった。実業家も覚醒し、我国家は必ず吾が手によって経営すべきであると悟るようになった。明治15.5、酒屋会議が大阪で起こった。
明治11年、政府は酒税を徐々に上げ、清酒一石に対し造石税一円を課し、明治13年、二円にした。政府はそれを海軍拡張費に当てるとした。
155 酒造業者は、消費が落ち込むと懸念し、増税が政府の紙幣濫発による財政困難を糊塗するためだとした。元老院に値上げ案が上程されると、一人中島信行だけが反対し、下野したが、他の議員は賛成して成立した。
全国の醸業者は騒ぎ立てた。高知県の酒造人300人は、明治14年5月、減税請願書を政府に提出したが、却下された。10月、自由党創立大会が開かれたとき、酒造業社の野村某は、立志社出京委員の植木枝盛、兒島稔らについて請願運動を計画した。
植木はこれを全国運動にしようとした。植木は300名の総代として東京に赴き、自由党大会に参加していた酒造業者の中から、島根県の小原鉄臣、茨木県(茨城県161)の磯山尚太郎の代理の磯山清兵衛、福井県の安立又三郎、市橋保身の代理松村才吉らを誘って、共に発起人とし、植木が檄文を書いて、全国の該当業者に伝え、翌年明治15年5月、大阪で会議を開き、減税の請願を政府に提出しようとした。
酒屋会議開催の議
「明治13年9月17日、政府は太政官第四十布告をなし、酒税改正規則を発し、酒税営業税と造石税を重くした。酒造営業人の皆さん、酒税降減の請願をしましょう。
156 酒造の業は、自由に営むことができるはずだ。初め私共に酒造営業人になることを許しておきながら、後に過超の税を課すことは、酒造業者に死ねというに等しい。私共は税金に耐えられない。
租税はもともと保護のためのものである。政府は酒の価格を上げればいいというが、それでは酒屋から酒を買う人がいなくなるだろう。価格を高くしても、酒は必需品だから飲まなくなることはない。酒の価格が他の商品の価格と同じように上がればいいが、酒の価格だけが上がれば、人々は自分で酒を作るようになるだろう。
租税はどの商品に対しても均一であるべきだ。酒造家は政府から保護を受けてもいない。
政府は、国家の秩序を正し、人民の自由権利を保護するに止まるべきであり、私的分野にまで干渉すべきではない。酒は健康を害するから酒税を上げるべきだと言う人がいるかもしれないが、そうなると酒を自分で作る人が現れるだろう。
158 酒は贅沢品だという人がいるかもしれないが、貧しい人は冬をすごすのに酒を飲んで体を温めなければならないこともある。又、仮に贅沢品だとしても、贅沢品に高い税金をかけなければならないという理由ははっきりしない。
政府が酒税を高くしたのは、最近、政府が国債を増加して、財政を苦しめたためではないのか。
明治15年5月1日、大阪に酒屋会議を開き、熟議の上、酒税の減額を政府に請願しようではないか。
付言
一 各地で自由に組合を結成し、…
明治14年11月1日
酒屋会議発起人
植木枝盛
兒島稔
小原鉄臣
磯山尚太郎
安達又三郎
市橋保身」
(「河野廣中家文書」所収パンフレット)
161 この檄文は新聞に発表され、諸国の自由党員は酒業者を遊説した。
12月下旬、東京裁判所は兒島稔を拘引し、みだりに檄文を配布し、人心を扇動したとし、新律綱領中の不応為罪*とし、禁獄に処した。
*新律綱領は12月に廃せられ、15年より刑法が実施された。
小原鉄臣は島根県に、安達又三郎、市橋保身は福井県に、磯山尚太郎、同清兵衛は、茨城県に、それぞれ処刑された。ところが植木枝盛だけは、檄文を書いたのに、檄文を発起人に渡しただけだとして、高知裁判所は無罪とし、釈放した。
その後も遊説は進展し、特に植木枝盛は、15.4、岐阜の変で赴いたついでに、大阪に出て、招集文を新聞に載せ、5月1日の大阪酒屋会議を宣伝した。
162 警保局長清浦奎吾は、大阪府知事建野郷三にこれを禁止させ、また各府県に訓告し、管下の郡村に、酒業者が大阪に赴くのを防がせた。
大阪府警察署は、植木を召喚尋問し、4.27、会議を禁止した。それに対して植木は、新聞に「大阪府知事によって酒業会議は差し止められたが、皆さんと相談したいので会議の有無に関わらず、大阪にお出かけ下さい」と広告を出した。府庁は狼狽し、警察署は植木を三回召喚し、次のように厳達した。
「植木枝盛 招集も相成らずと心得よ。 明治15年4月28日 大阪府」
これに対しても植木は屈せず、さらに広告を出し
「大阪府によって私は招集を停止されたが、私が招集するのではなく、酒造家諸君が自ら来阪しすれば私はお会いするつもりです」
と連絡した。府庁は、植木を説諭したり威嚇したりしたが、効果は無かった。
島根県は小原鉄臣を出会禁止としたが、小原はそれに服せず、逮捕されそうになったが、大阪に赴いた。
163 全国各地から酒造家40余名やって来た。やって来たのは、京都、大阪、兵庫、和歌山、三重、滋賀、福井、静岡、群馬、栃木、茨城、島根、鳥取、山口、広島、大分、福岡、熊本、高知、徳島の諸県だった。
岐阜、山梨、長野、福島、宮城、岩手、秋田の諸県の代表は拘留され、妨害されたために、期日に遅れた。偵吏が蝿のようにまとわりついた。
酒屋会議は解散の運命にあった。
植木、小原らは、5月4日、各県から集まった40余人と淀川の中流に船を浮かべて密議をした。9日、40四人は西京(京都)に入り、10日、祇園祠前の中村楼で会議を開き、小原鉄臣を議長に推薦し、次の数条を決定した。
「第一条 酒税減率の建白書を作り、会合した者の連帯で、これを元老院に差し出すこと。
164 第三条 総代が建白書を棄却された場合は、各地方において建白書を元老院に差し出すこと。
第四条 各地方からの参会者は、酒税減率請願書を、各地方の同志者とともに、太政官に差し出すこと。
第五条 自飲酒免税の請願書を太政官に捧呈すること。(自飲酒とは自分で酒を作ることか。)
建白書捧呈委員に小原鉄臣を推薦し、翌11日、同楼で懇親会を開き、散会した。自由党の常議員竹内綱らがこの会に参加していた。
165 総代の小原鉄臣は東京に赴き、回答数回の後に、請願書を元老院に呈出した。運動はそれで終わったが、この運動で手工業者は目を覚まし、入党する者もいた。この運動は、自由党同志の首謀になるものであったが、これは実業者の運動としては初めてのものだった。
「酒税減額請願書
酒造営業人、福島臻(いたる)、前島栄次郎、…等の総代、酒造営業人小原鉄臣は、慎みてこれを我天皇陛下に上請する。鉄臣等、我国の酒税と酒税の規則について陛下に望まざるを得ざるものあり。
166 陛下即位以来、我政府が始めて酒税を定めた時は、戊辰の年1868の5月29日であった。その条に曰く、
一 造酒百石につき、金20両を上納すること。
ついで明治4年1871、辛未(かのとひつじ)の年7月に、清酒、濁酒、醤油、鑑札収与、並びに収税方法規則を発し、その第一則に曰く、
一 新規免許鑑札願いうけ候者は、免許料として、清酒は金10両、濁酒は金5両、…納めるべし。
一 造高に関わらず、清酒は、稼ぎ人一個につき金5両、…免許税として納めるべし。
一 清酒並びに…代金の5分を醸造税として納付すべし。
ついで明治8年2月、第26号布告で、酒造規則を改め、その第一則に曰く、
一 清酒、味醂、… 酒造営業または請売りしたい者は、一期の営業税として、次の通り納付すべし。
酒造営業税 一種につき 金10円
酒類請売営業税 金 5円
一 酒類売りさばき代価の10分の1を醸造税として年々上納すべし。
ついで明治10年12月、第81号布告で、酒類税則を改正・追加し、その条に曰く、…*
*濁酒営業税と醸造税を追加し、酒類請売りでは、卸し売りに対して5円増税し、10円とした。
ついで明治11年9月28日、第28号布告で、
一 酒造営業免許を受けた者は、造石数に応じて醸造税を年々次のように納付すべし。
一 清酒 1石につき 金 1円
一 濁酒 同 金30銭
…
ついで明治13年9月27日、太政官第40号布告で、
第三条 免許税と造石税を納むべし
酒類免許税 酒造場一箇所につき 金30円
酒類造石税 1類 1石につき 金 2円
2類 1石につき 金 3円
3類 1石につき 金 4円
168 酒税は他の営業や物品に対する税金と比較して重い。政府は、これは間税であり、酒造家に税を課せば、酒価を上げればいいというが、それでは一般の人が、安い原料で酒を作り、酒が売れなくなる。
酒は体に悪い、酒を飲むと罪を犯し易いと言うのか。酒税は、禁止税か。しかし酒はたしなみだから、人々は自飲酒を醸造するだろう。しかも自飲酒は品質が落ち、健康によくない。酒は嗜好品だ。酒が入手しにくくなると、人々の心は窮屈になり、かえって罪を犯すことになる。
国家は公衆に関するところの政治を司るべきであり、世間の人々の一身上の私事に干渉すべきではない。
酒は驕奢品だろうか。しかし、貧乏でも寒い地方では酒は必需品だ。
なぜ政府は酒だけに重税を課すのか。これは酒造家いじめだ。
国家の財政が空虚で、公債が累積しているので、酒税を重くするのか。それなら等しく課税すべきだ。
酒造家がお金持ちだから課税するのか。それは虐政だ。税金は、政府によって保護された産業が、政府に報いるためのものであり、大もうけしている産業を制御するために課すべきである。
政府が明治13年に酒税を倍増したのは、政府がお金を必要としたからか。しかし明治13年度の歳入と歳出は均衡している。どうして増税する必要があるのだ。
税法の問題点は、税額だけではない。アダム・スミツス*は租税の賦課法について、次のような四点を挙げている。
*当時の日本人はsとthの発音を聞き分けていたことを示す表記である。
(以下アダム・スミスの説だけがそういう訳か漢文になっている。)
第一則 国民は国家に対して、その国家を扶けるために、その資力に応じて政府に租税を納める べきではない。つまり、国民は、国政や国法の保護を頼みにして、国家が見込む歳入額に準じて、租税を政府に納めるべきでない。
第二則 各人の納税方法は、確定しているべきであり、それを恣意的に変更してはならない。つまり、納税時期、納税方法、納税額などは、詳しく明らかで確実でなければならない。
172 第三則 租税の徴収においては、租税を納める者にとって、一番便利な時期や方法を採用すべきである。
第四則 租税の徴収では、収税経費が最も少なくなるようにしてもらいたいものだ。また人民が税金を出すときと、財政局に税金を納めるときと、この中間が極遠であってはならない。(意味不明、国家は、人民が収入を得られる時期とかけ離れた時期に徴税を迫るべきではないということか。)
今日の酒税規則は、販売額を基準にしないで、生産高を基準にして、税額を決定しているが、このやり方は、生産後に腐敗したり、喪失したりして販売できないこともあることを考慮しない。それでは収入と税額とが相応しない。
今日の酒税規則では、政府の検査吏が家の中まで入って来るので、安心していられない。検査吏の中には、製造法を知らず、原料の状態を考慮しないで、他所の例を基準にして判断し、密売していないかとか、他所に秘匿していないかとか疑って、検査しないと言って脅す。正直に答えていたのでは、好機に検査を受けらず、醸造時期を誤り、商機を失うことになるので、検査対象の酒に、水や検査済みの酒を混ぜて量を増やしたり、使用人が窃盗したと言って始末書を書いたりして、やっと検査を受けられる。また、清酒の検査の時に、濁り酒の検査手法を用い、ちょっとでもデータが合わないと、なかなか納得しない。
また重要な場所である製麹(きく、こうじ)室では、馬糞や牛尿が付着しているかもしれない杖を挿入し、杖の頭でつつき、打ち、その中の糟に疑いをかけ、それを杖でつき、反転させる。或いは、味噌をなめ、渋を舐(ねぶ)り、杖で戸棚の隅を捜索し、手でたんすの引き出しを開け、杖でいちいちその中のものをつつく。そして、酒造用と他用の倉庫に密造の疑いをかけ、酒造に無関係の倉庫の壁に穴を開け、酒造と無関係の帳簿を検査し、無関係の器物を破壊する。
子供たちは検査吏が来ると鬼の如く恐れ、妻は家の中を探りまわられ悲しみ、賊のために苦辱を与えられたかのようだ。
174 酒造業者には自由がないのだろうか。世間の人も酒造家を以て罪人とみなす。
酒造業者が商売をたたんでいないのは、利益があるからではなく、祖先の預金でまかなっているからだ。酒造用の機器は特殊なものだから、他の産業に振り向けることができない。廃業すればそれは無用の長物となる。行き掛かり上酒造業を続けているに過ぎない。
175 酒税を減額せよ。営業税と造石税と二つ課税するのではなく、造酒販売高に応じた課税にすべく、等級を定めよ。
今のような造石検査のやり方は、収税費の最も多くを要する。密造を疑い、家の中にまで及び、隣家にまで及び、安寧を損なう。そういう余計なことをやるから国家の税収も少なくなる。
陛下乞う熟察を垂れよ。
明治15年(6月)5月10日
連署人名
島根県石見国安濃郡波根東村酒造営業人
小原鉄臣
…」
(国会図書館所蔵「樺山資紀文書」所収パンフレット)
188 小原鉄臣が44人の総代であった。年齢は23歳であった。
第六編 暴圧の前潮
第一章 集会条例の追加改正
185 自由党の勢いはますます増大し、絶頂に達した。他方、政府は、去年の大詔に反して、政党に対峙し、政党と切磋訓練するのではなく、政党の存立を許さない方針に陥った。自由党員は、自由と憲政確立のためには、一時の不便を顧みる暇はなかった。
186 時の有司は初めから民意をないがしろにしようとする心はなかったが、その左右に集まる者が、「自由党は皇室に利益がない方向に向かっている、自由党は共和主義を説いて、国体を破壊しようとしている」と横槍を入れた。「自由党の某が天皇の乗る馬車について議論した」とか、「聖影を云々した」などとと告げると、民心は次第にそれを信用するようになった。そしてこのとき政党暴圧が行われた。
去年の国会開設の方針を示した聖上の鴻志をいかんともすることもできなかった。(聖上の方針?)
明治15.6.3、集会条例がさらに厳酷に改正された。
「集会条例追加改正(明治15年6月3日太政官布告第27号(57号))
倍角部分は明治十三年四月五日太政官第十二号布告の集会条例に追加された部分や表現を変えた部分である。
第一条 政治に関する事項を講談論議する為に公衆を集める者は、開会三日前に、講談論議の事項、講談論議する人の姓名住所、会同の場所、年月日を詳細に記し、その会主または会長、幹事等より、管轄警察署に届け出て、その認可を受けるべし。
第二条 政治に関する事項を講議するため、結社する者は、結社する前に、その社名、社則、会場、及び社員名簿を、管轄警察署に届け出て、その認可を受けなければならない。その社則を改正し、及び社員の出入りがあったときも同様にせよ。この届出をなすに当たり、警察署より尋問することがあれば、社中のことは何事たりともこれに答弁しなければならない。
前項の結社及び、その他の結社において、政治に関する事項を講談論議する為に集会をなさんとする時は、なお第一条の手続を行え。
第三条 講談論議の事項、講談論議する人員、会場及び会日(会の開催日)の定規がある場合は、その定規を、初会の三日前に警察署に届け出て、認可を受けたときは、その後の例会は届出に及ばずといえども、これを変更するときは第一条の手続を行え。
第四条 管轄警察署は、第一条、第二条、第三条の届出において、治安に妨害ありと認めるときは、これを認可しない。または認可するの後といえども之を取り消すことあるべし。
第五条 警察署は、正服を着た警察官を会場に派遣し、認可の証を検査し、会場を監視させることができる。
二項 警察官が会場に入る時は、その求めるところの席を提供し、かつ、警察官が尋問することがあれば、結社集会に関することは何でも答弁すべし。
第六条 派出の警察官は、参会者が認可の証を開示しない時や、講談論議の届書に掲げていない事項に渡る時や、人を罪に教唆・誘導する意図がある時や、公衆の安寧に妨害があると認める時や、集会に臨むことができない者に退去を命じてもこれに従わない時などは、全会を解散させなければならない。
二項 前項(解散命令)の場合において解散を命じたとき、地方長官(東京は警視長官)は、その情状により、演説者に対し、一年以内、管轄内において、公然政治を講談論議することを禁止し、その結社に関わる者に対して、なおこれを解社せしむることができる。内務卿は、その情状により、さらに、その演説者に対し、一年以内全国内で公然と政治を講談論議することを禁止できる。
参考 明治13.12.23追加 但し、本条の解散を命じたとき、その情状により、東京は警視長官が、その他は地方長官が、その結社を解散させ、またはその管内において、一年以内、その会員の、公衆に対して政事を講談論議することを禁じることができる。
第七条 政治に関する事項を講談論議する集会に、陸海軍人で常備、予備、後備の名籍にある者、警察官、官立、公立、私立学校の教員生徒、農業工芸の見習生は、これに臨会しまたはその社に加入することができない。
第八条 政治に関する事項を講談論議するために、その旨趣を広告し、または委員若しくは文書を発して公衆を誘導し、または支社をおき、もしくは他の社と連絡・通信することはできない。
第九条 政治に関する事項を講談論議する為に、屋外において公衆の集会を催すことはできない。
第十条 第一条の認可を受けないで集会を催すもの、会主は、二円以上二十円以下の罰金若しくは十一日以上三月以下の禁獄に処し、その会席を貸したものや、会長、幹事、およびその講談論議者は、各二円以上二十円以下の罰金に処し、第三条の規定を犯したものも本条による。
第十一条 第二条第一項の規定に背きて届出を為さず、または尋問するところの事項を回答しないとき、社長は、二円以上二十円以下の罰金に処し、詐欺の届出を為し、或いは尋問をされて偽答するとき、社長は右罰金の他、さらに十一日以上三月以下の軽禁錮に処す。
第十二条 第五条の規定に背き、派出警察官の臨席を肯んぜず、又はその求めるところの席を供せざるとき、会主、会長、及び社長、幹事は、各五円以上五十円以下の罰金、若しくは、一月以上一年以下の軽禁錮に処し、警察官の尋問に答えず、または偽答する者は、同罪に処す。両(ママ、再)犯に当たるものは、十円以上百円以下の罰金、若しくは二月以上二年以下の軽禁錮に処す。
第十三条 派出の警察官が解散を命じた後でも退散しない者は、二円以上二十円以下の罰金、もしくは十一日以上六ヵ月以下の禁獄に処す。
第十四条 第七条の制限を犯したとき、会主、会長、及び社長、幹事は、二円以上二十円以下の罰金、若しくは十一日以上三月以内の禁獄に処し、その他情状の重い場合があれば、その社を解散させる。その制限を犯して入社し、または臨会する者は、二円以上二十円以下の罰金に処す。
第十五条 第八条の制限を犯した場合は、会主、会長、及び社長、幹事は、二円以上二十円以下の罰金、若しくは、一月以上一年以下の禁獄に処し、その社を解散させる。このことに関する者も、また同罪に処し、脅迫する者及び再犯の者は、十円以上百円以下の罰金、若しくは二月以上二年以下の禁獄に処し、その社長、幹事は、一年以上五年以下の期間、結社または入社を禁ずる。
第十六条 学術会その他何等の名義を以てするに関わらず、多衆集会する場合は、警察官において治安を保持することに必要だと認める時は、これを臨監することができる。もしその臨監を肯んぜざる時は、第十二条によって処分する。
第十七条 前条の場合、治安を妨害すると認める時は、第六条(集会と結社の解散と、一年間講演禁止)で処分する。
第十八条 凡そ結社もしくは集会するもので、内務卿において治安に妨害ありと認める時は、之を禁止することができる。もし、禁止の命に従わず、又はなお秘密に結社もしくは集会する者は、十円以上百円以下の罰金、もしくは二月以上二年以下の軽禁固に処す。
第十九条 成法に規定するところの集会は、この限りにあらず。」(明治13年4月5日版の第十六条)
(「法令全書」明治15年)
注記
187 第二条 「結社」の内容を拡大した。「何等の名義を以てするとしても、その実質が政治に関する事項を講談論議するために結合する者を併称する。」
そして次を追加した。「前項の結社及び、その他の結社において、政治に関する事項を講談論議する為に集会をなさんとする時は、なお第一条(事前届出・認可)の手続を行え。」
第四条 「国安に妨害あり」を「治安に妨害あり」に変更し、以下を追加。「認可した後でも認可を取り消すことがある。」
第五条 二項を追加。「警察官が会場に入る時は、その求めるところの席を提供し、かつ、警察官が尋問することがあれば、結社集会に関することは何でも答弁すべし。」
第六条 二項を追加。「前項(解散命令)の場合において解散を命じたとき、地方長官(東京は警視長官)は、その情状により、演説者に対し、一年以内、管轄内において、公然政治を講談論議することを禁止し、その結社に関わる者に対して、なおこれを解社せしむることができる。内務卿は、その情状により、さらに、その演説者に対し、一年以内全国内で公然と政治を講談論議することを禁止できる。」
第八条 政治に関する事項を講談論議するために、その旨趣を広告し、または委員若しくは文書を発して公衆を誘導し、または支社をおき、もしくは他の社と連絡・通信することはできない。(下線部追加)
188 第十一条 罰則 「偽作の社則または名簿を届け出て」を「詐欺の届出を為し」に変更。
第十二条 罰則 「…またはその(派出警察官の)求めるところの席を提供しない時は、…」を追加。
第十六条から第十八条を新設した。
第十九条は明治十三年四月五日太政官第十二号布告の第十六条にあたる。
これは国民の口を閉ざし、政治的動作を一切禁止するものだ。ロシアの専制政治といえども、多くを之に加えることはできない。しかもこれは国会開設が決定された時の措置である。なんの意たるを知るに苦しむ。
立憲政体は輿論政治である。健全な輿論は、国民の政治思想を養成しなければ得ることができない。明治政府の役人は、国会開設の後でも国民の政治思想が幼稚だといって嘲り、自家の漸進主義が当を得たものだと宣伝するが、これは政府の弾圧がもたらした結果である。
右大臣岩倉具視は、明治八年の詔勅が、下の民衆が上の天皇を捕らえる網だと考え、大権が下の民衆に移行してしまったと後悔し、さらに明治11年に府県会が開設されたことも後悔し、民間党が自由民権説を鼓吹し、官府に抗するようになった端緒は、府県会の開設であったとし、政府は、陸海軍や警視の勢威で之に望み、府県会を中止し、民心を戦慄させるべきだと唱え、府県会中止の意見書を三条実美に提出し、専制武断を慫慂した。
「府県会中止意見書
明治七八年以来、民心は日に躁進に赴き、上下が次第に乖離し、政府の権威がやや衰える兆しが見えてきた。これは創業が既に成り、上下とも一時的にやや安心したからと、また民心がまだ定まらない時に西洋の自由権利の説がどっと押し寄せて来て、人々を扇動したことによる。
創業は難しく、またそれを維持することも難しい。明治維新の業は、西南暴動鎮定の日をもって終わったともいえるが、最近の政体の基本は定まらず、さらに外国対峙の難もある。
後醍醐天皇のとき精忠勇武の臣が輔弼した。(私もそのような臣にならねばならない。)創業後安逸をむさぼっていると、大権を失い、禍が続き、どうにもならなくなるだろう。
191 憂愁無聊(ぶりょう)の徒は、当初は不平を言って、気を晴らし、百万無知の人民を扇動していたが、次第に増長し、猛然として政権に取って代わる意気込みを見せ、官府を攻撃し、施政の障碍をなし、事態が収束できなくなってきた。それは犯罪的で党派的で私的で、まるでフランス革命の前夜のようだ。
これには原因がある。それを以下に論じよう。明治6年、遣朝使節の件で内外が擾々したが、そのとき私は、遣朝使節の派遣が不可なることを論じた。しかし廷議は妥穏に帰せず、五人の参議官が辞任した。このとき紛議が百出し、崩党の兆しが見えてきた。
次に、佐賀の騒擾、台湾問罪が生じ、8年1月、二三の参議が大阪に密会し、同3月、板垣退助が再び参議となり、4月14日、漸次立憲政体設立の詔があった。これは、下の民衆が上を捉える道を開き、大権が次第に下に落ち、二千五百三十余年の確然不易の国体を一変し、また返すべからざらしむるの原因となる恐れがあった。私はこれは時期尚早だとしたが、用いられなかった。
私は辞表を提出し、病気だとして家に閉じこもったが、欠員があったので大臣の職を引きうけた。これは、先帝の寄託と今上陛下の知遇とによるもので、私は深い感銘を受けた。私は、何の顔(かんばせ)あって地下に先帝に見んやと思った。私は日夜天を仰いで長嘆息し、之に継ぐに痛哭流涕(りゅうてい)を以てした。(自らが先帝を暗殺したことをカムフラージュしようとしているのだろうか。)
同10月、朝鮮江華湾の変あり。(「変」とは変ですね。)議論鼎沸、人心揺動する。同3日、優詔(天皇の言葉)ありて、曰く「岩倉卿は本年4月以来、病で家居するといえども、今や外国の交渉の事(江華島事件)あり、安危不測のときである。まさに勤めて職に就き、廟謨に携わり、企画して欲しい」と。私は感激恐懼の至りに堪えないと思いました。また、今は、内事いまだ安からず、今また外患が生じ、実に国家の存亡に関わるときだとも思いました。私は病を押して廷議に参加した。朝鮮のこと既に平穏になり、また引退しようと思った。しかし、陛下の御恩はただ事ではないので、いまこそ聖徳を拾遺し、大権を失墜から救わなければならないと思い直した。
このとき維新の功臣の多くは、最後まで令せず、芳しい匂いもたちまち悪い匂いに変わってしまう者もいた。私は憂憤の情に堪えなかった。私は発奮して政務に従事した。
10年、西郷暴動あり。11年、分権自治のために府県会を定めた。このとき内閣の中で二三の人は、それはいけないと論じていた。私も同意見だった。この法は、大権を下に移す道を開くものであった。しかし、私共の意見は採用されなかった。私は、これからは多事になると思った。大本が揺らいでいるから、全てが定まらないのだ。
明治14年夏秋、開拓使のことがあった。これは行政事務の一小処分に過ぎないのに、明治七八年以来の上威軟弱下民横恣の弊が漸く蓄積して、このとき開いた。不逞の徒は、過激の論説でもって人心を扇動し、官民が鼎沸した。不逞の徒は、徒に口舌を鼓し、筆管を弄した。軍隊はしっかりしていたのに、政府は危うくなった。これは大権が下に移行したために生じたことだ。
193 今日の政府の権威は、軍事力を人民の手から切り離し、政府がそれを独占していることに基づく。しかし今日のように人心が収束せず、政府の権威が地に落ち、道徳倫理が低下すれば、軍隊が人民の側につく恐れがある。
このような状況は徐々になったものだが、特に人民を犯罪的な道に導き、政府を蔑視する思想を生ぜしめた原因は、府県会開催が時期尚早だったことによる。従って政府の権威を回復し、民心の頽爛を挽回しようとするならば、今年か来年か、時期を見計らって、断乎として一度府県会を中止し、陛下から官僚まで主義を一にして、万機を一新し、陛下の愛信と軍隊警視の勢威を以て、下の民衆に臨み、民心をして戦慄ならしめるべし。そして非常の際は、一人の豪傑が奮い立ち、武断専制を以て政治を行うことだ。半年や一年間は、民衆の間に不平が起ころうとも、考慮することはない。
194 私はフランスで碩学の某氏に政治学を学んだことがある。その某氏は次のように論じた。
開国する際に注意すべき点を、蛤の殻の開閉の例で説明しよう。蛤の上の殻が徐々に開いた後で、下の殻も開くものだ、始めて開く時は、迷いながら開き、時間もかかり、注意しなければならないことも多い。上の殻が開くのが早すぎると、下の殻は止まらなくなり、上下の殻が入れ替わることもあり、安定しない。イギリスは開いてから安定するのに数年を要した。ロシアはわずかに開き、ドイツは半分開いた。ところがフランスは、急いで開いたために、上下が転倒し、秩序が紊乱し、しばしば革命が起こり、未だに体制が安定していない。日本も急に開くと、フランスの二の舞になるだろう。
明治初年は急速な開化だった。府県会を開くのは時期尚早だ。今年か来年に、府県会を中止すべきだ。ただし、この措置は政府の威厳失墜を回復するためであって、圧迫暴戻の政治をしようというのではない。国の富強は民衆の富による。民に応分の権利を与え、以て自ら努めるところを知らしめるべきだ。国民文化の度合いを察して政治を行うべきだ。府県会を中止すると同時に、国民諮問会を開催し、民衆と政府とを中和し、寛大と威厳とを中和すべきだ。
195 朝鮮の変警(江華島事件)が起きた。軍備を増強すべきだ。私は別紙意見書を提出し、陸海軍の拡張、士族の授産、大赦の実施を論じた。増税で民心が離れている。民衆を政府に服させなければならない。だから、士族の授産や大赦の項目も入れた。
兵備が整い、内外の憂慮がなく、窮困する不平士族をなだめ、豪農巨商等中等以上の有為の力ある者を政府のもとに収めれば、民衆は、よほど頑冥な者意外は、政府の恩威に服従するだろう。府県会中止は、名目上はやるべきことではないが、大きな危険を防止するには、大手術が必要で、これは止むを得ないものだ。これは難しいことだ。私がやる。
196 別紙意見書もこの内容の延長線上にある。それは勧業院を設置する提案である。そこには政略があり、マル秘だから、ここでは論及しない。
十二月
具視
府県会中止案は、雷に対して耳を覆う暇がないほど政令を発し続ける政策実行過程の一つである。私は国家の福祉を希望している。府県会中止案に対する批判は、当たらない。
15年12月
具視」
(「岩倉公実記」下)
感想 岩倉のスタンスは、大衆蔑視が基本になっていて、極めて強権的な手法も、自らが政権に責任を持って行っているのだから、許されるという考え方だ。某フランス人が岩倉に教示したというが、そのフランス人も、王党派かどうかわからないが、民衆の革命を嫌っている一人だったようだ。岩倉には人民の側に立って考えるという視点が毛頭ない。こういう岩倉の考え方は、今の自民党に共通している。
197 15.6.12、自由党は臨時会議を開いた。地方代議員七十余名が参加し、片岡健吉を議長に、大石正巳を副議長に、林包明、山際七司、内藤魯一、土居光華を幹事に推薦した。
懇親会に移ろうとした時、京橋警察署より、即刻出頭せよとの命令があり、副議長の大石正巳が取調べを受けた。
警察は、改正集会条例に基づき、自由党も政治を講談論議する結社だから、認可を受けろという。
それに対して大石は、自由党は政談社ではない、政談社でない結社を取り締まる法律を作ってからでないと、従えないと答え、文書を以て、その考えを明らかにした。
6.27、幹事林包明が京橋警察署に召喚され、取り調べを受けた。以下はその問答である。
198 警官「自由党の盟約第一条の自由、権利、社会の改良などというが如きは、皆政談に渉らないでその希望を達することができるのか。」
林「自由権利、社会の改良の意味は広く、政治以外の領域も含む。自由党は政治に触れないでいる。」
…
警官「足下は如何なる口実を設けて弁解あるも、その目的、その形跡ともに貴党の政党なる事を証するに於いては十分なりとす。故に条例によってさらに届出の手続を為すか、又はあくまで政党にあらざる旨を以て届け出あるべし。」 (「自由新聞」明治15.7.1)
到底官府認定の意を翻すことはできなかった。自由党は即日協議し、遂に届け出の手続をすることに決め、29日、臨時会を開き、その翌日、次の届出書を提出した。
「私ども儀集会条例を遵守し、別紙規則書の通り政党団結致したく候間、御認許なし下されたく候なり。」
明治15年6月30日
自由党幹事 宮部襄
林包明
党名 自由党
位置 京橋区銀座三丁目十九番地寧静館
役員
総理 板垣退助
党議員 馬場辰猪、大石正巳、末廣重恭、林和一、大井憲太郎、北田正董、竹内綱
幹事 林包明、宮部襄」
(「自由新聞」明治15.7.1・2)
感想 従順。こうするしかなかったのか。合法活動を前提とする限りは。
条例を遵守したため、地方部をもてなくなった。馬場や末廣らが組織していた国友社も政談社であり、多くは自由党員である理由で、条例に抵触し、解社やむべからざるに到った。政府は7月8日、自由党を認可した。
改進党も6.13、警察の詰問を受け、26日、規則等の届けを出し、認可を受けた。
201 地方党員は、それぞれの政党をつくった。
自由党系の結社が数では一番多かった。自由党系、改進党系、帝政党系、無系統団結の各結社名。
202 集会条例で弾圧を強めても、政府は、自由党本部と地方との連絡を切断することができなかった。人々はますます反発を強めた。「政府は、集会・言論の自由を寛大にして、国民を研磨する素地を与えるべきだ。然るに政府はたくさんの法律を制定し、集会を検束する。政府は23年に本当に国会を開くのだろうか。」
去年の大詔降下以来、新聞の禁停せられるもの、演説を中止されたもの、編輯人や演説者が罰金禁獄に処せられたものなど多数に及んだ。一年間、または数ヶ月間、地方を限り、或いは全国に通じて、演説禁止に処せられた者少なからず、自由党系の新聞は、一月間に停止を被らないものはなく、演説会が中止されなかったことはなかった。政令は末端に行くほど過酷で、地方官警察吏の中には、兇険賞を求める者も出てきた。彼らは上に媚びるために下を虐げ、職権を濫用し、大阪府では演説者に徴税し、兵庫県では演説していない人に演説を一年間禁止し、作州*久世駅では、田舎の懇親会を解散させ、越前鯖江では、僧侶の説教を解散させた。
*作州とは美作国(みまさかのくに)山陽道。岡山県北部。
高知の自由主義的新聞である高知新聞は、この数ヶ月間で六回の停止処分を受けた。15.7.14、高知新聞は発行停止処分となり、高知自由新聞が高知新聞の後継となったが、三日もたたないうちに禁止された。同地の党友が組織した新聞埋葬式に参列した人は、数万人に及んだ。人民の圧制を憎む情は激しかった。これは米国独立の際行われた弔祭のようだった。
203 6.25、自由党本部は、機関新聞「自由新聞」を創刊した。板垣が社長となり、島本仲道が主幹、田中耕造、馬場辰猪、末廣重恭、田口卯吉、大石正巳らが社員或いは客員となった。その他の組織と構成員。中江篤介、植木枝盛の名も見える。
204 自由新聞は、十数万党員の光明となり、板垣、田口、馬場らの議論が紙上に掲載された。板垣洋行の件で紛糾し、田口、馬場が去ったが、古澤滋が、立憲政党新聞より来たり、主幹となった。
205 以下に全国各地の新聞雑誌名を掲載する。(省略)帝政党系の新聞の数は、自由、改進二派の新聞の三分の一に達しなかった。
206 自由主義系の新聞社数は多かった。自由湯、自由温泉、自由糖(飴)、自由丸(薬)、自由亭(割烹)、自由講釈、自由踊、自由帽子などの自由を冠した名称が現われ、自由の二字は庶民に愛された。
第二章 総理外遊の内訌
207 6月、板垣は東京に帰り、自由新聞を興した。7月、後藤象二郎が、板垣に海外漫遊を勧めた。「政府は伊藤が憲法調査で海外に出かけているが、あなたや私はまだ海外に行っていない。立憲の規模を学ぶために、共に西洋に行こうではないか。経費は華族の蜂須賀茂韶(つぐ)から借りられるように取り計らう」と。そして、訳員(通訳)の今村和郎と自由新聞社員栗原亮一が随行することに決まった。
ところが、馬場、大石、末廣らは、党がまだできたばかりだから、党首が不在になるのは望ましくないと反対した。
板垣は、逞しい君等がいるから大丈夫だ、今が洋行の適時だ、一年間だけだ、と説得した。
このとき改進党が自由党を弱体化しようと画策していた。改進党は地方遊説で自由党を「過激だ」と批判しながらも、公然とは攻撃していなかったが、今回総理洋行を聞き、公然と批判し始めた。旅費が政府から出ているのではないか、後藤はかつて伊藤と謀るところがあった、西洋で板垣が伊藤と会い、党の本来の目標を挫くのではないか、とかを宣伝した。
板垣は馬場の猜疑心を静めるために、スポンサーを大和の土豪土倉庄三郎に替え、土倉は直ちに三千金を拠出し、そのことを板垣は馬場に説明した。9.15、板垣は、自由党幹事宮部襄に馬場宛の手紙を書かせた。
「あなたがたが心配しておられた、旅行経費の出所と地方党員の向背の問題や、政府と脈絡しているのではないかという懸念は、断じて潔白であるから、来る12日から板垣らは洋行する、と常議員諸君に伝えるように板垣から言われたので、直接話すべきところ、不在だったので書面で申し上げる。委細は面会したときに申し上げる。
9月15日
幹事
馬場辰猪君閣下」
209 この処置は板垣が専決しないで公議で決めようとする態度の現われである。
このとき土佐立志社の領袖は総理外遊に賛成だったが、壮年の社員は不可とし、疑惑を抱き、臨時大会を開き、多数決で、坂本南海男と兒島稔を委員として上京させた。大石正巳はこの二人を尋ね、「府下在留党員を集めて臨時会を開き、衆議を一括して、板垣に翻意させることもできるのではないか」と言った。馬場もこれに乗った。感情の相阻し、讒(ざん)間の相毒する、洵(まこと)に明達の人と雖(いえど)も難い哉(かな)。
210 馬場は節操が堅く、気骨があり、学識に富み、雄弁であったが、感情に走るところがあった。馬場は、国友社の社員を連れて自由党に入党し、非常に世話好きだった。馬場は日ごろ板垣を尊重していた。「伊藤は才略学識あるも、志操薄弱、心志定まらず。大隈は思慮胆略(大胆)あるも、性行険怪にして公明ならず、独り板垣は、至誠淡白、言行表裏なし。頭脳透明、頗る泰西政治家の風あり。…」
馬場が板垣らの洋行に反対する理由は、旅費が政府から出るのではないかという疑惑以外にもあった。板垣が自由新聞の社長となり、主筆に馬場を推薦しようとしていた頃、末廣重恭が板垣に言った。「馬場氏は、英語の才能はあるが、和漢の学や文章力が未熟である。だから主筆には不適任だ」と。板垣は「馬場氏の文章に欠点があれば、社中既にあなた(末廣)や、中江、田口、植木、栗原がいる。これを以て補正できる。」実は末廣は主筆になりたかったのだ。
211 その後末廣は馬場に「板垣総理は、あなたには英語の才能はあるが、日本語の文章力がないのを遺憾としている。日本の新聞は、邦文を良くする者を主筆にしなければならない。総理の意は、暫く私を主筆に当てようとしているようだ。あなたに異存はないか。」と語った。馬場は「先日総理は私を主筆に推すと言っていた。あなたの今おっしゃられたことをもってすると、総理の意図は不可解だ。」とした。
末廣は板垣、馬場の間を往来して、二者の交情を冷殺することが多かった。そして党員の中でも、末廣の言動を疑問視するようになった。
また、板垣は旅費の件で馬場が納得すると、馬場を栗原亮一とともに通訳として随員に挙げようとし、馬場にそのことを告げ、馬場もそのつもりになっていた。ところが後藤が、すでに通訳は、栗原と今村和郎が行くことになっていると反対した。
立志社壮年の徒が板垣の洋行に反対すると、馬場は再び前議を復活し、もし板垣が意を変えなければ、自由新聞によって全国党員に激を飛ばそうとした。
212 改進党は末廣をそそのかした。立志社の非外遊の委員は、馬場、大石、末廣の挙動を疑い、板垣に「閣下が既に洋行を決心されているのだから、我々は前議を捨てよう。閣下意の如く断行せよ。」と言った。
馬場や大石は、東京旧地方部員数十名を集め、臨時会を開き、外遊を非難し、次の決議を行った。
「第一 総理の洋行は自由党に不利である。
第二 総理が我々の忠告を聞かないのなら、板垣を領袖から外す。」
会議で林包明、中島又五郎は馬場と争ったが、馬場や大石らは、改進党の総理大隈重信が洋行費の出所が政府であると確言したと言い、冷嘲熱罵で圧服し、以下の書を総理や常議員に提出した。9月17日のことだった。
「第一 総理の洋行は自由党に不利である。
214 第二 総理が我々の忠告を聞かないのなら、板垣を領袖から外す。
別紙の通り忠告の書面を草した。もし総理が第一の希望を容れないならば、諸君は断然第二議決の処分決行するに遅々なからんことを、我党は切望に堪えざるなり。
明治15年9月17日
旧東京地方部員
常議員御中
旧東京地方部員等、謹んで書を板垣総理閣下に呈す。
今日の国家は多事で、今日の我党は繁忙している。我党は閣下が洋行を数年後に延期され、党首としての責任に背かないことを切望する。もし閣下が常議員の切望を拒絶し、洋行を決行するならば、それは、閣下の平生の言っていることに反する。
議決の要旨は、我地方部は、閣下の今回の洋行を可認しないこと。総理が強いて決行するならば、総理を信認できない。我党は自由党本部の役員を促して、これを全国自由党に訴えるつもりだ。以上が議決の要旨だ。我党が閣下に望むことは、
第一 閣下は洋行を国会開設の後に延期すべきということだ。第二 閣下があくまでも決行するならば、総理を辞任して欲しい。辞任なら閣下の名誉の一部を保つことができる。しかし閣下がこの策をとらなければ、我党は閣下を総理から解任せざるを得ない。これは我党にとって不利であるし、閣下も面目を失うことになる。自由党旧東京地方部員等敬白」
215 常議員や幹事は、馬場や大石らが先に異議を納め、その他は板垣の外遊を不可だと唱える者はいなかった。もともと正式の議決は踏まなかったが、馬場らが総理の言に服従したので、板垣は22日、洋行しようとした。ところがこのような事態になってしまった。林包明が東京部員会議の書状を板垣に渡すと、板垣は怒った。「余の名誉を傷つけようとしている。失礼だ。」
216 板垣は、急遽常議員を寧静館に召集し、問題を解決しようとした。
板垣「改進党の讒説を信じ、余の名誉を汚すとは何事だ。これは志士相交わるの道と言えるか。」
馬場「余等が改進党の浮説を信じたというのは、伝聞の誤りだ。」
末廣「何者かが閣下にそう言ったのだろう。」
林包明「余は府下在住の党員会で、中島氏とともに、大石氏らの口より讒言を確かに聞いた。」
大石「それは誤聞だ。」
林「然らず。」
板垣「余を讒罵したかどうかは、今ここで追求する必要はない。諸君は外遊費に関してまだ疑っているようだ。人を信じるということは、その人のこれまでの言動で判断すべきである。余の今までの経歴において、諸君に疑念を抱かせるようなことがあっただろうか。」
大石「ありませんでした。」
板垣「諸君がまだ余を疑っているならば、諸君と誓約しよう。将来余に汚穢(え)の事実があれば、余は割腹して謝罪しよう。余に汚穢の事実がなければ、諸君は割腹して謝罪しなければならない。」
大井憲太郎「愉快なり。余は板垣君に賛成だ。」
馬場「割腹で誓約をするとは、野蛮の陋習だ。今日は法律の制裁があって許されない。」
板垣「諸君は平生二三の有司が専決したことは、たとえ善政美法であっても、承認しないと言っていたではないか。未だ国民議会の一致による政治法律を施くことができない現状で、志士が相誓って割腹で約束することがなぜいけないのだ。文明を誇称する欧州ですら、決闘の習俗があるではないか。割腹は実に丈夫と丈夫と相約する法律だ。」
218 馬場らはこれを認めず、大石は、「板垣に汚穢の事実があるかどうかの確証など、得られるはずがない。これは私どもを殺そうとするものだ。」とし、結局、議論を決することができず、馬場らは席を立った。
数日後馬場らは自由新聞によって、あくまでも外遊の非を全国の党員に訴えようとした。板垣は自由新聞社に発起委員を会して、馬場を退社させる議を諮った。皆が可とし、9月28日、社員解除を通告した。
「発起委員多数の決議を以て、貴下当社の員たることを解除候につき、此の段御通知申し入れ候也。
明治15年9月28日
社長 板垣退助
馬場辰猪殿」
感想 「讒間の相毒する、洵に明達の人と雖も難い哉」210とあるが、むしろ才能のある人ほど妬みが禍するようだ。板垣が洋行することに反対する理由は、現状が多難な時であるとか、旅行経費の出所が政府ではないかというのは口実で、実は「自由新聞」の主筆(主幹*)を誰にするかということが問題だったようだ。主筆に選任された馬場は、英語の才能はあるが日本語の文章力はない、だから主筆には不適任だ、と末廣重恭は板垣に言う。そして末廣は、そんなことを板垣は言わなかったのに、陰では板垣が言っている、と馬場には言う。実は末廣は主筆になりたかったのだ。
また、板垣の洋行に同行する通訳を誰にするかということで、板垣が一旦決まっていた今村和郎をやめさせ馬場に代えようとし、それを後藤に指摘されて撤回するという不手際も馬場の気持ちを害した。211
馬場はエスカレートして、自由新聞で全国の党員を扇動しようとしたが、そのとき板垣は新聞社の発起委員会議を開いて馬場を罷免した。2019年2月9日(土)
*主幹は馬場ではなく島本仲道になっているが203、どういうことか。
板垣は問題解決の手段として切腹を提案し、かつそれに固執した。217高々洋行するかどうかという問題にすぎないのに。また、当時は既に政府の法律によって、切腹は禁止されていたようだ。板垣の洋行に反対する人(馬場)が、「それは古い(過激で野蛮の陋習)」と板垣を批判している。当時すでに人命が尊重されるようになったのか、否、恐らく条約改正のためにヨーロッパの価値観を迫られてのことなのだろう。2019年2月10日(日)
感想 板垣が自分の名誉ばかり云々するのは、ピントが外れているように思う。しかし、この時は感情的になっていたのかもしれない。また板垣は熱血漢なのかもしれない。216
219--226 要旨 板垣は、政府がヨーロッパに憲法調査員を派遣しているのに、自分は自由が実際に行われている欧州に一度も行ったことがなかったので、是非一度実地に自由の社会を見たかった。
馬場はその後板垣に謝罪し、自由新聞は去ったものの、自由党の下で働いていたが、周囲から冷たい目で見られ続け、また馬場が学究肌で、自由党の実践的な風に合わず、また自由新聞が、馬場自らが関与する三菱会社を非難するのを快く思わず、結局、党を去って、独自の独立党を立ち上げたが、それも振るわず、米国に赴き、そこで病を得て客死した。226
219 板垣は外遊の趣旨を口演し、それを栗原亮一に記述させ、9月26日、自由新聞に掲載した。
「欧州漫遊の趣意書
諸君が或いは惑う所なきに非ざるを私は知っている。…私が冠を掛け閑地に居るころ、人は私に洋行を勧めたが、そのときは、私は心良しとしなかった。まだ時機が熟していないと思ったからだ。
220 今日、(自由党の)志士は率先して、演説、学校、新聞、結党に力を尽くし、人に党するのではなく、主義に党するようになり、実力が出てきた。今は、党の目標が達成される時までの、中間の間隙の時期であり、洋行には適時であると考える。
私は古いものは守りたくなく、新しいものを取り入れたいという気性だ。私は維新後大政に参与し、一旦迷いから覚め、勇退して野にあり、民権自由を首唱し、学士論客と議論し、ほぼその論理を解釈できるようになった。しかし未だ実地に自由を目撃していないので、彼の地に遊んでみたい。
221 我党の行うものは、世界中で通用するものでなければならない。世界の公評に耐えるものでなければならない。ロシアの無政府主義(改革党、虚無党)は、世界に現れないために、乱民暴徒の汚名を被っている。そして彼らは、悲憤の情に堪えず、ことさら奇激の挙動に出て、世界の視聴を驚愕し、世界の公評に係わり、審判を公道に訴えようとしている。我党は、魯国の虚無党と比較はできないし、その手段も異なっているが、世界の公評に訴えることでは一致している。我国の維新では、各藩の奇傑の志士は、運が悪く、俗吏に辱められ、惨禍に罹(かか)った者もいたが、その後各藩の交際が次第に密になり、かつての隠れていた名士が、各藩の公評に係り、初めて世に現われるようになった。世界各国の事情も恐らくこのようなものだろうが、我党も万国の公評に係り、広く世に現われたいものだ。
我国のこれまでの外国との交際は、政府間レベルであって、人民間の交流は通商互市に止まり、主義や論説に関して相互交流することはなかった。我が国では数年前までは、各地の志士の結びつきはなかったが、今では結びつくようになった。我々は、世界各国の志士と結びつき、人民間の交流を進めるべきだ。欧米では各国国民間の会同があり、その交際が極めて親密とのことだ。
222 我国では国会論は既に政治社会に浸透し、その挙行の日はまだ遠いとは言え、廟議はすでに挙行するに決まっていて、政府は官員を海外に派遣し、西洋各国の政体憲法を審査させ、国会開設時に憲法制定の準備をしているとのことだ。憲法制定について、その利害を討究することは、我党の急務であり、漫然として政府の手に委ねて、それが出来上がるのを待っていてはいけない。民間の志士も、憲法の審査に精力を傾け、海外諸邦の政体憲法の得失を実験し、我国の格好の政法を立てるべきだ。
後藤象二郎氏は、維新時の政体の創立に力を尽くした人だから、この人が海外で政法の得失を実験すれば、大きな成果が得られるだろう。私が氏に同行し、各国施政の跡をたどり、その利害を研究すれば、得るところが大だろう。我党が将来政談論上で争う際にも、利益になるだろう。私はこれまで立憲政体を唱えてきたが、実際その政体が実施されている様を、欧米各国で見たことがない。先覚者が実地に見ないのは、我党にとっても欠点になるだろう。
223 私がこの洋行を行う理由は、我党の利益を図り、我国の利益を謀るという衷情(ちゅうじょう)からである。私はこの洋行を是と考えているが、諸君は非とするかもしれない。しかし、そのことは今おいといて、私に時間を与えて欲しい。諸君の奮発が我党を導いてきた。私がいなくても大丈夫だ。私は縦令死んでも遺憾としない。岐阜の事件で私が死んだも同然だとすれば、私がいなくて、何の恨みもない筈だ。それに私の帰朝は僅か一年後に過ぎない。私はまだ体調が悪いが、それでも私が行くのは、大いに心に得るところがあると思うからだ。私の身は万里の外にあっても、心は諸君と一体となり、内外相応じ、力を竭(つく)して我党の主義を拡張すべきだ。余豈に諸君に負(そむ)かん哉。余今別を諸君に告ぐるに臨み、感情万緒(ちょ)、辞其意を罄(つく)す能はず。諸君幸に諒(りょう)焉(せよ)。」
(「自由新聞」明治15.9.26)
感想 板垣は文章がうまいね。情に訴える。
馬場が自由新聞の社員を解除されると、末廣重恭、西河通徹も自由新聞を去り、大石も来なくなった。田口卯吉は板垣を訪れ「改進党と自由党とは主義が大して変わらないのに相争っている、また改進党の中に親友がいるので退社したい」と願い出た。
谷重喜が板垣不在中に社長代理となり、古澤滋が大阪立憲政党新聞から来て主幹となり、中江篤介が客員となり、植木枝盛、曾田愛三郎が社員となった。
10.12、板垣は予定していた出発を脳症のために延期した。10.23、九十余名で壮行会を行った。11.11、板垣は、後藤とともに、栗原亮一、訳員今村和郎を伴い、仏国郵船ボルガ号で出航した。
225 その前、大石正巳は板垣を訪ね、「私は閣下の薫陶(大石は立志学舎の生徒であった。)に頼ったことがある。不遜であった。復帰したい。」と謝した。板垣は「主義を変えていないのなら、ともに頑張ろう。馬場氏にもその旨伝えて欲しい。」と答えた。
先の寧静館会議216の時、後藤は大石、馬場に対して憤って呼びかけていた。板垣の従者堀江某は、大石の親友であったが、その件に関して大石に勧告して、大石は後藤に陳謝した。馬場も板垣を訪ね、謝した。
226 馬場、大石、末廣は自由新聞社を去っただけで、自由党には留まった。
古澤滋が自由新聞社の主幹となり、三菱会社の積弊を論撃し、その保護独占を弾劾したが、政府が新設した共同運輸会社に対しては厳しくなかった。また古澤は、時の農商務大輔品川彌二郎や参議井上馨らと相通じているのではないかという嫌疑を招き、馬場は彼の処分を帰朝後の板垣に願い出ようとした。
翌年6月、板垣が帰朝し、高橋基一が古澤の処分を提議したが、板垣は「確証がない」とし、高橋は納得したが、馬場は失望し、脱党した。馬場、大石は、三菱会社と関係があった。
また当時の自由党員は議論よりも実行を主とし、馬場のような学者肌の人には相容れず、またかつての内訌が尾を引き、党員の彼に対する態度は変わらず、馬場は自由党を去った。
227 馬場は後に大石らと独立党を組織し、専制を攻撃したが、勢力はなく、明治19年、米国へ渡航し、不運にもそこで客死した。彼は生前政府から誘われたが、志を曲げなかった。
星亨が入党した。星は英国に数年留学したことがあり、帰国後司法省付属の弁護士となり、資産家で、名声があった。星は後藤の推薦で入党した。星は、数年後の自由党の逆境の時に、その資産を投じて党を助けた。
第三章 偽党撲滅
227 15.9、改進党系の諸新聞は、板垣の外遊に関して、その旅費の出所が政府であると批判するキャンペーンを張った。さらに伊藤が板垣を呼んだとも言った。
228 9.9、このキャンペーンは、沼間守一の東京横浜毎日新聞から始まり、矢野文雄の郵便報知新聞も追随した。
改進党の大綱に問題はないが、素質が異なる。改進党は政権を獲得したいと望んでいる。
229 13.11、自由党の結成時に沼間守一は嚶鳴社員を率いてやってきた。しかし、14.10、自由党と国会期成同盟とが合流した時、沼間は東海にいて合流しなかった。沼間は東京で大隈を助け、15.3、改進党を結成した。改進党の副総理河野敏鎌が板垣に述べた言葉100は、改進党全体の態度表明と看做せる。
改進党は、結成後しばらくは自由党を容認していたが、一年足らずで刃を自由党に向けてきた。
15.7、三菱会社海権専横問題が世上に上がったが、改進党系の新聞はこのことに関して一言も述べなかった。ところが政府が新たに共同運輸会社を補助し、三菱会社を牽制すると、論難し始めた。自由党は自由新聞で三菱会社の濫私を指摘し、改進党が賄賂によって三菱会社を擁護する理由を叩き、『偽党撲滅』『海上政府退治』の宣言を行った。以下その事情を詳述する。
三菱会社は、土佐の人岩崎弥太郎一族が創立した。その巨万の富は、内務卿大久保利通、大蔵卿大隈重信が在官のときに始まった。
明治7年、征台の役があったとき、政府は三菱会社の船舶に輸送を託した。しかし、三菱には11艘の小型船しかなかった。政府は税金140万ドルを投じて、大型汽船13艘を購入し、これを三菱会社社長岩崎弥太郎に委託した。
このとき米国太平洋郵船会社は、日本沿海の航行権を占領しようとし、桑港から横浜に達し、さらに神戸長崎を経て上海に達する支線を開いた。内務卿大久保利通はこれを憂い、8.5、閣議に三つの案を提案し、その第二案が採択された。
第一案 人民が独歩できれば、ただ航海条例を設け、保護するに留める。
第二案 人民が未だ独歩できない状態ならば、恩威を以て国内の船主を連合団結させ、政府所有の船舶を下付し、さらに他の方法でこれを補助し、また商船私学の設立を命じ、海員教育の業を挙げ、漸次独立できるまでに教導する。
第三案 人民が第二案の段階にまで達していないとすれば、政府自らが回漕運輸の業を行い、日本近海や上海間の航路を開拓し、商船学校を官設し、海員を養成する。
政府は、三菱会社に明治八年分として30万円の助成金を下付し、郵便蒸気船会社の船舶18艘を32万5千円で購収し、三菱会社に下付し、上海まで航路を延長させ、定期航業を営ませ、年々25万円の保護金を給与することに決めた。
岩崎は、米国太平洋郵船会社と競争し、業績が不振になると、大久保や大隈に、米国太平洋郵船会社の上海線関連の船舶機械一式の設備を80万円で買い取るよう依頼した。洋銀81万ドルを三菱会社に貸与し、三菱は、汽船4艘、脚船2艘、支店倉庫などを得て、独占を完成した。また政府は年額1万5千円を三菱会社に与え、商船学校を起こさせた。さらに岩崎は、今後14年間、年額25万円の助成金と1万5千円の学校資金を支給する命令書を得た。後に、三菱は、英国ピーオー会社と競争して勝利し、10年、西南戦役の際に暴利を獲得し、戦乱の機に乗じて、70万ドルの洋銀を借り、10艘の汽船を購収した。これで海運の独占状態は、後戻りができなくなった。
232 この時三菱会社が国庫から吸入した金額は、925万余円だった。三菱は新船を一艘も買わないで、別に鉱山、銀行、その他の運用にこの国庫のお金を使った。このとき大隈大蔵卿は、財政の策に失敗し、紙幣が下落し、洋銀は六割強騰貴していたが、三菱会社は、船客の乗賃を洋銀に限り、船賃を六割以上騰貴させた。また当時正金銀の輸送は、外国船では保険料を合わせて一万円につき一円の運賃であったが、三菱は紙幣の運送に対して、25倍の運賃を取り、大小銀行、実業者から暴賃を徴収した。
233 大久保利通の廉潔にして敢えて三菱の如き一商社と結託して私を営める者にあらざるは、死後その遺産を検して殆ど葬費すらも無かりしと云へる一事に照らして之を察すべし。
故に大久保の死後、独り力を極めて三菱会社を保護し、漫然とその専横を黙過した責任は、大蔵卿大隈にある。大隈が開拓使官有物払下問題で失脚すると、政府は検束の手段を三菱会社に加えるようになった。そして、農商務大輔品川彌二郎は、諸国の漕業者を糾合して半官半民の運輸会社を興した。之を共同運輸会社という。明治15年7月のことである。大隈が下野してから政府に反対し、三菱を糧食の府としていたことがその一因である。改進党は、共同運輸会社を批判しても、三菱の不正を批判しなかった。
234 かつて改進党の前身である嚶鳴社や報知社は、13年と14年の晩秋、板垣を褒めちぎっていたが、その後すぐさま改進党を組織し、板垣の名誉を損なう発言を行った。
15.10.24、自由党は自由新聞で、改進党と三菱会社を批判した。さきに14年の夏、北海道開拓使官有物払下事件に関して、大隈はその不可を言い、下野してからも、報知、毎日などの諸新聞でその攻撃を継続したが、三菱に対しては一言も批判しなかった。自由党は改進党を偽党撲滅の対象とし、藩閥掃蕩とあわせて取り組んだ。
16.4.23、自由党大会を浅草井生村楼で開き、これに各県総代70余名が相会した。
236 ここで改進党討撃の議を協定した。
5.13、5.20、久松座で20余名の党員が、偽党撲滅の演説会を開くと、3500人の聴衆が集まった。5.21、横浜羽衣座で、6.10、新富座で同様の演説会を開いた。
237 これに対して改進党は、毎日新聞や報知新聞で時々弁明する程度であった。
これより先16.3.29、改進党員で報知記者である矢野文雄と尾崎行雄が名古屋で遊説したが、愛知の自由党員の内藤魯一、国島博ら十数名は、改進党懇親会に臨み、三菱問題の是非を報じないのはなぜかと問い、それに対して改進党は、日を改めて答えることになった。(自党の宴会の席に反対党員を入れるとは、今のようにとげとげしくない優雅な時代だったようだ。)
内藤魯一の質問事項
一 三菱の岩崎彌之介が、政府による共同運輸会社創設を駁論する意見書を政府に提出し、それに対して政府が弁妄書を岩崎に与えたというが、それを貴社報知新聞に掲載しないのはなぜか。
一 意見書は当を得ていて、弁妄書は実を得ないと判断しているのか。
一 貴社は、かつては横浜西字新聞に、三菱会社の運賃を論じていたのに、今回報じないのは、国家の重要問題と認識していないのか。
(「自由新聞」明治16.4.12)
238 矢野は次のように答えた。
「一 開拓使事件や共同運輸会社のような新設事業については報道するが、三菱会社のような既往のことについては、効果がないので載せない。政府は三菱会社との約束を守るべきだ。
一 三菱会社だけの問題なので重視しなかった。
一 三菱会社の運賃が国益を損ねるほど高いとすれば、政府はそれを下げさせるべきだが、わが社はそれが国益を損ねるほどの運賃とは考えていない。」
(同前)
239 尾崎は「政治に関する重大問題ではない。」とし、矢野は「帰京後紙面で可否の論説を載せる。」としたが、その論は三菱専横を擁護するものだった。
自由新聞は三菱社を「海上政府」とし、改進党をその「臣妾」とした。改進党はその創立趣意書に反する。また綱領では「貨幣の制は硬貨の主義を持す」とあるのに、大隈が在官時は、紙幣を濫発し、下野してからは、硬貨制を唱えるという矛盾を呈した。
240
「改進党は、自分の代わりの誰かに仕事をさせ、利益を追求し、臆病で、弱弱しく、腐敗し、ずるい。我等はこのような党の存在を恥ずる。」
(「自由新聞」明治16.6.5)
その後も自由党の改進党攻撃は続いた。17.5、星亨が私費を投じて新聞『自由之燈』を創刊し、藩閥政府と改進党を批判し、三菱一党を「海坊主今浄海」と名づけた風刺小説を掲げた。明治20年後までの数年間、改進党の存在感はなかった。
241 世間は、自由党が、政府に対する以上に厳しく改進党を攻撃するのを、漁夫の利と批判した。しかし、それは史実を知らない。改進党が似非であることを知らない。改進党は、この専制時代に共闘できる仲間ではない。改進党には国事に殉じた者がいない。改進党は、民間党から政権党に移るかもしれない。自由党の偽党撲滅キャンペーンは止むを得なかった。
感想 大隈重信の改進党を手厳しく批判するのだが、そして言っていることは尤もなのだが、府に落ちない。大隈の憲法草案は、たとえそれが福沢の受け売りだとしても、すばらしかった。改進党は実践力不足だというが、どうなのだろうか。ただし、改進党が三菱と癒着していたためか、三菱の独占的放縦経営を批判しなかったことは、批判されていい。
感想 大久保利通が死んだ時、ほとんど遺産がなかったとのこと。これは、薩長史観批判が行われているが、「薩長史観」と全否定するのではなく、肯定的に捕らえるべき一面ではないか。
また、大久保のイニシアティブで三菱財閥が出来上がったのだが、新興国は、国家が一部私企業を育てないと、海外の大資本に太刀打ちできない、これは新興ナショナリズムの現実ではないか。他にどうしたらいいというのだ。今でも、アフリカでは一部指導者に先進国の資金が集中していることが問題視されているが、これも同種の問題ではないか。アジアの歴史でも同様のことが言えないか。例えば韓国における一部大財閥への資本の集中のように。
しかし、それは大局的には修正されなければならない。世界的な規模で。例えば、既に世界的な意味で資本集中が出来上がったアメリカが、二三年前のTPP議論で、ベトナムでの国家による企業支援を問題視していたが、発展途上国としては、国家が企業を支援せざるを得ない。既に出来上がったグローバル大企業と太刀打ちするためには、国家の支援が必要だ。また今、米中知的財産問題で、中国の国家によるIT企業支援が問題視されているが、これも同じ構図ではないか。2019年2月12日(火)
第七編 政党克殺の時代
第一章 福島の獄
245 集会条例は、政党政社を束縛し、新聞演説の口を塞ぎ、殆ど国民に、政治を是非するための筆舌を禁止した。その法令の威力は、下層に行くほど厳しくなり、地方の牧民官、警察官、郡町村役場の吏員などは、政府の意を迎え、傲慢であった。警官は、演説会を中止、解散させ、人々を拘引しないと、職責を果たしていないと思い、中止、解散、拘引の数で、上吏の恩賞をつろうとし、それが一種の功労評価となった。『解散警吏』が各地で多数現れた。帝政党員や国事探偵が跋扈し、官民の調和を破壊し、人心を挑発し、禍乱を扇動した。政党抑圧から政党鎮圧の政略に変わり、再変三変して政党解散を強い、政党撲滅を期し、芽が出る前に摘み取らないでは気がすまないようだった。暴官喜び、酷吏躍る。明治15年以降の数年間は、暗黒時代であった。
246 この時代を象徴する酷吏の一人である三島通庸(みちつね)は言った。「某(それがし)が職に在らん限りは、火付け強盗と、自由党とは、頭をもたげさせ申さず。」
明治15年春、三島通庸は、山形県県令から福島県県令となると、会津の旧士族の中の頑冥固陋な者と結び、書記官郡長以下の下級官吏を免職させ、それに代えるに、旧知人、姻戚、隷従する下僕を採用し、巡査・看守が多数採用された。また、きたない商人がみやげ物をもって県庁を訪れた。
三島は就任後すぐに、若松から越後と米沢に至る二つの道を開削する計画を立て、南北会津、耶麻、河沼、大沼、東蒲原の郡村吏を脅し、六郡連合町村会を組織させ、予算も、測量もない段階で、国庫補助金を得る名目で、議員を強いて、六郡負担額37万円を議定させた。
この連合会議員は、郡役所が指名した官撰議員で、議員選出は成法の規定を踏んでいなかった。さらに賦課法を制定し、六郡民は、男女15歳以上60歳以下の者は、2年間、1ヶ月1日の工役に従事すべきと定め、その工役として、銀、男1日、15銭、女1日、10銭を徴税することにした。
福島県下の有志は、六郡連合町村会の不法行為を問題視し、それが正されなければその議定を行わないと評決したが、三島は、それに対して、それは国安妨害だとして解散を命じ、公益を害し、反抗したとして、法廷が刑罰を与えた。
247 また、三島は、かつて県会が議定した予算を破り、越額の支出を行い、県会や常置委員会に付すべきことを無視して、警察署を新築した。
15.4.24、福島県会開会日に、三島は出勤せず、若松の酒楼で遊び、施政の説明を本人ではなく属僚にさせた。県会は怒り、毎号を否決した。
「地方税を議定するにあたり、施政の進路が公衆の望に沿わず、輿論に背くゆえ、本会は該費用を支弁するを欲せず。故に議案毎号を否決す。
明治15年5月12日
福島県会議長 河野廣中
福島県令三島通庸殿」
(国会図書館所蔵「樺山資紀文書」所収「パンフレット」)
三島はこれを反省しないで、内務卿山田顕義に頼み、その指導の下に、15年度の予算を管内に達し、之を断行し、会津地方二線道路の開鑿に着手しようとした。そのとき、国庫補助の議がまだ決定されていなかったのに、従役税を追徴した。
248 福島県三春の三師社と岩手県盛岡の求我社は、早くから自由主義を唱えていた。求我社は、鈴木舎定、鵜飼節郎が首領で、後ち谷河尚忠らが加わり、三師社は河野廣中らが始め、後ち磐城岩代の有志を糾合し、無名館を福島に設け、河野や田母野秀顕がこれを教育し、植木枝盛を招いて、その機関である福島自由新聞の筆を執らせた。
三島は自由党撲滅に力を注ぎ、党人を暴徒と看做し、集会演説を毎回中止させ、金をばら撒き、山林払下の香餌を掲げて、帝政党を募り、市井の無頼をそそのかし、河野以下を狙撃しようとした。8.17、田母野を若松で帝政党党員が襲い、田母野は傷害を負った。
三島は薩摩出身である。上に媚び、下に対しては驕り高ぶり、土木工事は、上に媚びる彼の方針の一環であった。邸宅には六十余人の隷属を蓄えていた。
15.10.1、三島は、安積(あさか)疏水式を挙げ、そこに岩倉右府、山田内務卿を始め、卿輔数人や隣県の数人の長官を招き、数日間、遊女を大臣に供した。
六郡の民衆は、郡村連合会の組織を更生し、道路案を再検討するよう願い出たが、彼は皆容れなかった。福島県視察中の内務卿山田顕義への直訴は、タイミングが合わずに失敗し、県令への願い出は無視された。民衆は土功中止の訴訟を若松裁判所に提起したが、斥けられた。宮城控訴裁判所への提訴も試み、自由党員宇田成一、三浦文治らがその総代となった。
県令三島は、県属郡吏を使って防衛し、帝政党員や遊食の士族数百人を巡査に仕立て上げ、探偵、間諜を用いた。
民衆の中には工役税を拒む者がいて、それに対して県官郡吏は公売処分を行った。各村戸長らも連合会の議決を無効とするよう請願したが、斥けられた。人民の中には憤りのあまり、自刃する者が三人出た。
250 東京の自由党本部は控訴応援のために、高知県人荒尾覚造、岡本正栄(五六郎)、小川又男(後ち安岡正象)、川口清忠らを派遣した。群馬県人の長坂八郎、伊賀我何人、大木権平、松井助一、高橋壮多、杉山重義らも赴いた。
11.26、警吏は、郡民の総代宇田、三浦ら数名を、喜多方署に拘禁した。
11.28、郡民数千人は、耶麻郡喜多方弾正ヶ原に集まり、総代拘禁の理由を正そうと、喜多方警察署に向ったが、警吏数十人がこれを退散させた。しかし、夕方、群集がまた警察署に迫り、警吏は剣を抜いて、数人を傷つけ、五人を逮捕した。
このとき、自由党本部から派遣された荒尾、伊賀我らは、新合村赤城平六の家にいたとき、知らせを聞いて警察に赴いたが、途中で群集が潰走してきたので赤城家に戻った。
15.11.29、捕吏が赤城の家を囲み、荒尾以下40余人を逮捕し、若松に送った。
このとき、河野廣中らは福島無名館にいた。県令三島は決死隊を作り、河野を逮捕あるいは殺害しようとし、数名の部下に河野の出入りを狙わせた。
三島は自らの身の安全を警戒し、東京に赴いたり、白川に退いたり、いつも属卒巡査数十に護衛させた。三島は命令に従わない士民を殺し尽くそうとし、県官が、自由党員を無実の罪に落としいれようとした。
12.1、夜、書記官村上某は、警官巡査看守押丁(おうてい、刑務所の下級役人)等数百名を指揮し、無名館を囲み、河野廣中、愛澤寧堅等数人を逮捕し、福島警察署に送った。
このときから、東京、白川、磐城平、福島、会津で2000人が逮捕された。
251 これより先、栗原亮一は、板垣の命令で、(福島に来ていた)植木枝盛を上京させた。そのとき河野は栗原に会ったが、自らも上京して板垣に会った。河野は、板垣に頼まれて、鈴木舎定とともに鹿児島の島津久光に会うことになった。しかし、そのとき福島から道路問題に関する連絡が入り、福島に急遽帰り、山口千代作らに三島を行政裁判所に起訴させる準備をした。
この夜、河野は愛澤とともに無名館にいた。多数の暴漢が門を叩き、門を開けると、数十人の者が抜刀していた。中には警官の制服を着ている者もいた。短い袴を身につけ、白鉢巻に白襷(たすき)をしている者もいた。
河野「卿ら何を為すか。」
警吏「河野はいるか。」
河野「予は河野なり。もし所用あらば座に上られよ。」
警吏は土足のまま闖入(ちんにゅう)し、福島警察署の令状を示し、河野を拘引した。
252 河野は大人しく令状に署名し、悠々と逮捕された。寝巻きを着替えるのも許されず、福島警察署に護送された。
河野を逮捕した警吏は、薩摩の人で、三島が寵用していた。彼は三島に、もし河野が抵抗したら斬り捨ててもよい、と言われていた。だから彼は河野を挑発し威嚇した。後ち、彼は新潟警察に転じ、星亨の捕拿に与り、さらに転じて石川県の郡長になった。
当時福島の獄医であった某が自白したところによると、福島の官憲が獄中で河野を毒殺する計画があったとのことだ。そして博徒の親分で警察と縁故のある某は、河野に、県会で給仕が出す茶菓を食べないように注意したという。
逮捕された者は当初兇徒嘯集の罪に問われたが、その証拠はなかった。16.1、中旬、急に国事犯の嫌疑に切り替えられ、若松裁判所に檻送された。裁判官や警吏は、三島に与していた。裁判では、罪ではなく人が問題だった。当局は、文章を作り上げ、必ず刑務所に陥れなければ気がすまなかった。厳しい尋問、拷問が行われたが、福島、若松の警察署と裁判所が、特にひどかった。警部岩下敬蔵、判事赤司欣二が最も恐れられた。
253 極寒の冬、積雪のある中、冷水を頭から注ぎ、自白しないと棍棒で叩き、気絶するまで続けた。さらに飲食を五昼夜与えなかった。平島松尾、山口千代作、加藤宗七、河野廣體らは、最も苦しめられた。抵抗して屈しなかった者は、命を落すことになった。岩代の人紺野民五郎はその一人だった。同囚の苅宿仲衛は、紺野を祭る一文を書いた。
「祭紺野民五郎文
明治16年3月9日、国事犯未決囚苅宿仲衛は、石川島監獄で、恭しく、鶏卵二個(伊東道友氏差し入れ)、牛肉三切れ、菓子若干(坂地孚光氏差し入れ)を供し、飲食を絶ち、直立し、田村郡中山村紺野民五郎君の霊を祭る。
私は1月18日より、飲食を禁じられ、三昼夜直立させられ、気絶すること数回、ついに警吏の三個の難題に偽って服従し、若松監倉に回送された。そのとき私は君の死を知らされた。曰く、君も又風雪の中を直立させられ、左目の上を打撲させられ、痩せ細り、憔悴し、かつての壮勇な風姿はなく、余命少なく、嗚咽しながら言った。『私は既に拇印が済み、警察の調べはもうどうでもいいが、体の疲労はどうにもならない』と。その夕方君は若松に護送される途中の島上坂で鮮血を吐き、路傍に倒れ、その一昼夜後の2月3日、黄泉の客となった。君は冤罪で死んだ。そのことを人々は知っている。今日は、35日に当たり、粗末な食事を供え、私は飲食を絶ち、直立して、これを祭る。」
254 無名館に、鎌田直造という事務生がいた。彼も同じく若松の獄に捕らわれたが、先に放免され、無名館に還り、本箱を発見し、廃紙の中から血印のある書を見つけた。そこに専制政府転覆等の字があるのに驚き、そのことを知人の佐々木卯三郎に知らせた。またたまたま無名館の召使の田村曉雲という者がこれを知った。卯三郎は、その書を地中に埋め、さらに破棄して、濠の中に投げ入れた。これを警吏が耳にし、国事犯の罪案が生まれた。
「誓約
255 第一 吾党は自由の公敵たる専制政府を転覆し、公議政体を建立するを以て任となす。
第二 吾党は吾党の目的を達するが為め、生命財産をなげうち、恩愛の繋縄(けいじょう)を絶ち、事に望みて一切顧慮する所なかるべし。
第三 吾党は吾党の会議において議決せる憲法を遵守し、共に同心一体の働をなすべし。
第四 吾党は吾党の志望を達せざる間は、如何なる艱難(かんなん)に遭遇し、又幾年月を経過するも必ず解散せざるべし。
第五 吾党員にして吾党の密事を漏らし、又背戻(はいれい)する者ある時には、直に自刃せしむべし。
右五条の誓約は吾党の死を以て決行すべきものなり。」
この血誓書は、明治15年8月1日の夜、河野廣中、田母野秀顕、愛澤寧堅、花香恭次郎、澤田静之助らが、無名館で作ったものだ。花香が文案を草し、澤田が清書した。後に、平島松尾(平島松尾で一人であって、二人ではない)も加盟した。血誓の目的は、自由主義でもって天下を粛清することであって、直近の目的ではなかった。
このころの福島自由党は、厳しい弾圧の中で壊滅的な打撃を受け、事を誤るおそれがあった。彼らの身の安全もままならなかった。だから統一や節度が求められた。
たとえ革命を企てるとしても、どうしてすぐにも暴露しそうな手書きの書類で、身分の低い使用人の目に触れるようなことをしたのか。彼らはそれを本箱に入れ、無関心だった。しかし当日捨てられた一枚の紙片が、スパイの密告によって酷吏のために決定的な材料を提供し、謀反の罪をなすりつけられることになった。
この一枚の紙片が、福島裁判を決定づけた。若松軽罪裁判所は、内乱陰謀の事由あるとなし、16.2、河野以下50余人を東京に護送した。
司法卿大木喬任は、奏請し、上裁を仰ぎ、高等法院を大審院内に開き、大審院長判事玉乃世履を高等法院裁判長に、判事巖谷龍一、兵頭正懿(い)を予審判事に、元老院議官の長岡護美、河田景興、林友幸、及び判事の岡内重俊、関義臣、武久正孚(ふ)を、陪席判事に、検事渡辺驥(き)、竹内維積、堀田正忠、澄川拙三を高等法院検事に任命し、2.12、審問を始めた。
高等法院は、15年1月実施の新刑法の治罪法に基づき、初めて開かれた。法院は、福島や若松の裁判庁と異なり、酷虐でなかった。4.12、予審が終結し、河野、田母野、愛澤、平島、花香、澤田の六人を除いて、50余人は免訴釈放となった。その人名は…
257 逮捕された人の中に勝田虎四郎がいた。偽名を安積戦という。(安積三郎か256)彼は、陸軍の脱兵で、宮城県出身。福島県警吏岩下敬蔵252の下で探偵になり、志士に扮し、党人の行動を探り、郡民の間にまぎれ、危言矯行で禍乱を扇動・挑発した。弾正ヶ原では、軍令や暗号を作って、撒布し、郡民を陥れようとした。喜多方の騒擾はこの男が起こしたらしい。後ち、同じく高等法院に送られたが、他の人が釈放される前に独り獄を出た。世間はこのとき初めて事実を知って驚いた。彼の他にもスパイがいた。無名館の使丁田村曉雲254もその一人とのことだ。
258 弾正ヶ原250の件で逮捕された郡民、坂内代五郎以下十数名は、若松重罪裁判所で兇徒嘯集教唆罪で軽懲役7年ないし6年、重禁固5年ないし1年に処せられたが、それに服せず、大審院に訴えると、大審院は、原裁判を擬律錯誤と看做し、破毀して無罪放免にした。
7.19、高等法院が公開された。星亨は河野廣中の弁護人となり、大井憲太郎は田母野秀顕の、中島又五郎は平島松尾の、北田正董(とう)は愛澤寧堅の、山田泰造は花香恭次郎の、植木綱二郎は澤田静之助の弁護人となった。開廷40余日後の9月1日に閉廷した。人々は無罪を予測したが、河野は軽禁獄7年、田母野以下5人は、軽禁獄6年となった。
「裁判言渡書
右被告人等は、明治15年7、8月中、福島町無名館で、政府を転覆することを目的とし、内乱の陰謀を為したものと判定す。
河野廣中は、明治16年1月27日、若松軽罪裁判所予審庭で、明治15年8月1日、福島県無名館において、花香、愛澤、田母野、澤田、平島と誓約したことを陳述し、誓約文記憶の問いに対して、自ら筆を執り、認(したた)めたが、それは次の通りである。
誓約 (255ページの誓約文とほぼ同じ文章である。)
明治16年1月27日
若松軽罪裁判所において認む。
河野廣中 拇印
261 また明治16年4月4日、本院予審庭において、河野は、「政府を転覆し」が、万国をさし、日本政府ばかりを指すものではない、と陳述した。
平島松尾は、明治16年1月17日、(河野より10日早い。)福島警察署において、「汝等六名でなしたる盟約書第一条『我党は我日本にありて圧制政府を転覆する』とあり、抑(そもそも)圧制政府とは、現今日本政府を指したものだろう」との問いに対して、平島は、「現今日本政府は圧制の傾きあり、而して、盟約第一条の圧制とは、広く指したものだ」と答えた。「『傾きあり』とは圧制の意か。」の問いに対して、平島は「然り、現時の圧制に迫り、盟約したものだ、」「圧制政府とは、現今日本政府を指したものだ」と答えた。(拷問で追いつめられ、供述が次第に前言を翻していることが分かる。)
また、明治16年1月25日、若松軽罪裁判所で、検事が、「明治16年1月2日、3日、17日、24日の福島警察署と若松警察署における尋問に対する平島の陳述が、相違ないかどうか」という問いに対して、平島は、「兇徒嘯集事件については、陳述と相違しているが、盟約書やその他は陳述と相違してない」と答え、また盟約加盟者追加方法に関して、「我自由党員中にも右誓約書に連署の外は、漸次各自の信友中より遊説し、加盟せしむる見込みである」と答えた。
また、明治16年1月25日、若松軽罪裁判所予審庁において、明治16年1月2日、3日、17日の福島警察署での陳述や、16年1月24日の若松警察署での陳述に関して、相違ないかとの問いに対して、福島警察署での陳述調書で、兇徒嘯集の件で河野らと協議したと申し立てたとすることは、全く無実の申し立てである、と答え、盟約その他は全て相違ないと答えた。
262 花香恭次郎は、明治16年1月17日、福島警察署において、「盟約書について、本書には『専制政府』と記載してあると聞くがどうか」の問いに対して、「圧は専の誤りであり、第二条では、『恩愛の繋縄を絶ち、生命財産をなげうつべし』と正誤して欲しい」と答えた。また専制政府が明治政府を指すことも認めさせられた。恭次郎は次の盟約書を筆記していた。
第一条 我党は我日本国に在りて、圧制政府を転覆し、真正なる自由政体を確立することを努む。(河野案とやや異なる。)
第二条 我党は前条の目的を達せんがため、生命を賭し、財産をなげうつべし。(「恩愛の繋縄を絶ち」が脱落している。)
第三条 我党は我党の会議で決定した事件を決行する。(これはおかしい。警察の口車に乗ったのか。)
第四条 我党員にして我党の密事を漏らす者は、直に斬に処すべし。(河野案第五条は「自刃せしむべし」としているが、実質は変わりないか。)
第五条 河野案第四条と同じ。
そして結びは、河野案に「神明に誓い」が追加されている。
明治16年1月14日
花香恭次郎 拇印
263 また、明治16年2月3日、福島軽罪裁判所若松支庁予審庭において、「明治16年1月17日に福島警察署で申し立てた尋問調書の通りかどうか」と問われると、花香は、「相違あり」とし、まず、盟約書の第一条「我日本国にあり」は、「自由の抗敵(河野案は「公敵」)たる」の誤写であり、第四条の「直に斬に処すべし」は、「直に自刃せしむべし」の間違いであり、また調書の中で、「明治政府を指すのか」との問いに対して「然り」と答えているが、その意味は、「地球上全ての専制政府を指すものであり、日本政府もその中に入る」とし、「政府を転覆するとはどういうことか」との問いに対して、「政府をひっくり返すことである」と答え、「政府をひっくり返すとは謀反のことか」との問いに、「然り、如何様にも御名づけありて然るべし」と答えた。
河野廣中は、明治16年5月2日の本院での下調庭において、8月1日夜に相談した人数が四人だとすると、他の二人が決盟したのはいつか、の問いに、二三日後に愛澤が、またその一両日後に、平島が結盟した、と答えた。
愛澤寧堅は、明治16年1月28日の若松軽罪裁判所の予審庭において、裁判官が、平島松尾、花香恭次郎、河野廣中の申し立てた誓約書を読み聞かせた後、そのどれが自分の記憶に一番近いかの質問に、河野案がやや近いとしたが、自分の記憶するところとは少し違うが確信はできないとし、愛澤が自ら誓約書を書いたところ、裁判官が、あなたの案は河野案とほとんど違いがないではないかと問うと、私は確信できないと答え、誓約した年月日、場所、一緒にいた人の名前を、明治15年8月初旬、福島県無名館で、河野廣中が誓約書を示し、河野、花香、田母野、澤田がすでに加盟血印していたと答えた。
264 花香恭次郎は、明治16年4月30日の本院下調庭において、平島が8月1日にいたかどうか分からないとし、草稿を起こしたのは六七日前の、7月22、23日ころで、平島はその席にいた。平島が8月1日に不在だったとしても、結盟の事情はよく知っていたはずだ。そうでないと盟約の調印が成り立たないと答えた。また、8月1日以前に集会したとき、平島も同席していたのかの問いに、同席していたと答え、盟約書起草の日は、7月何日かの問いに、結盟一週間前で、7月22、23日だと答えた。一週間前に談判した人数は何人かの問いに、河野、田母野、澤田、自分、平島だと答えた。
田母野秀顕は、明治16年1月25日、若松警察署において、河野、平島、花香らと非常の盟約をしただろうとの問いに、明治15年7月ごろ盟約したと答え、場所や同席した人物について、河野廣中、澤田清之助、花香恭次郎、自分の4人だったが、その後聞くところによると、平島松尾も加盟したというと答え、警官は「お前は盟約を記憶していないとして、その盟約を免れようとしている」と言い、(田母野の)請求によって、警官が平島松尾の供述や盟約の筆記を見せ、その朗読を聴いてから答弁せよの命令に対して、田母野はそれを許諾した。警官は、平島松尾が福島警察署で筆記した盟約書、つまり、若松警察署調書の末に綴じられた謄本を田母野に示した。以下はその謄本である。
盟約書
第一条 我党は我日本国に在って、圧制政府を転覆し、自由の制度を確立することを努むべし。
第二条 我党は前条の目的を達するためには、生死を顧念せず。
第三条 我党は妻子眷属の係累を絶ち、かつ財産を尽却するを顧みず。(これは既出盟約書の第二条に含まれる記述である。)
第四条 我党の衆議を以て決するものは断行すべし。(これは河野案にはない。)
第五条 我党中の秘事を漏らすものは斬に処すべし。
右の条々死を以て誓うものなり。
明治16年1月14日夜8時
平島松尾 拇印
警官の「汝が盟約書の記憶がないと言うから、(平島松尾の盟約書を)朗読して示した。盟約書に覚えがあるだろう」の問いに、田母野は、「私には記憶がないが、朗読を聞いて、その盟約書だ」と答えた。また、警官が「盟約書第一条に、圧制政府を転覆するとあるが、これは日本政府を指したものか」との問いに、田母野は「日本政府のみではなく、全てを含む」と答えた。
266 また、明治16年6月18日本院下調庭において、田母野は、「盟約をした時は、15年7月下旬で、六名が無名館に会したとき、たまたま社会の安寧を企図する話から、この盟約の草稿を試みることになり、8月1日、六名が集まり、盟約血判した。発議は5、6日前だった。7月下旬に相会した人物は、盟約した6人であり、偶然この6人が集まった。その6名とは、花香、平島、河野、愛澤、澤田、田母野であった」と答えた。
また田母野は、「この盟約書を澤田が浄書したとき、6人の中で、特に、第一条、第二条では意見が合わず、第一条で『自由の公敵たる圧制政府を転覆する』で、『転覆』は干戈を執って政府を倒すという意味だから、今の自由主義上では、言論や文章で政治の改革を図るべきだから、『転覆』は穏やかでないとか、『自由の公敵たる圧制政府』と書けば、『転覆』の文字を置かないと、文の勢いが拙くなる、必ずしも干戈を執るだけの意味とは限らないとかの意見があり、結局、清書の際には、『転覆』ではなく『改革』(『改良』)という文字を採用したように思うが、不確かである。清書前は『転覆』の文字はあった。」と答えた。
267 花香恭次郎は、明治16年3月2日の本院予審庭において、「政府を『転覆』するの二字は、起草するときは『転覆』だったが、調印するときは、『改良』に改めるのがいいという意見があった。その理由は、ひっくり返すだけでなく、さらに改良する方がいいからである。『改良』にしたと今思い出した。改良するとは転覆後に改良するという意味だ。」と答えた。(この最後の部分は、『転覆』の二字を何としても入れたい当局の誘導に、花香がはまったと思われる。)
平島松尾は、明治16年4月4日の本院予審庭において、「『圧制政府を改良』であったと記憶しているが、私はこの誓約書作成協議には関与しておらず、爾後20日して河野廣中から示され、同盟に加わったので、誓約書の字句はよく覚えていない。『改良』でも『転覆』でも同じ意味だ。改良するためには転覆しないわけにはいかないし、転覆すれば改良しないわけにはいかない。」と陳述した。
澤田清之輔は、明治16年5月30日の本院下調廷で、「明治15年7、8月、無名館で、河野等と血判盟約したことがあるか」の問いに、澤田は「8月30日に約束した。場所は、福島町字南裏通2の15番地で、福島自由新聞が設置されていたところである。無名館のあるところだ。旧名は六軒町であったが、今は字南裏通2である。同席した人物については、私が新聞社のことで忙しかったので判然と覚えていない、田母野、花香、河野が居たことは覚えている。」と答えた。
268 「死を以て誓う」、「自刃せしむ」、「斬に処す」、「死を以て決行する」等の被告の記憶の書き取り及び連署(盟約書)の他に、「漸次遊説し、加盟血印せしむ」という申し合わせの供述、「改良のためには転覆しなければならない」、「転覆すれば改良しなければならない」という供述、「転覆した後に改良する方がいい」、という意味で「改良」にしたという供述、「改良」とは「転覆後の改良」だと答え、「政府をひっくり返すとは、謀反の意味だ」と答えたことなどから、前文*の通り判定する証憑は十分ある。
*政府転覆を目的とした内乱陰謀罪260
被告人らは、血判誓約書を既に取り消したと言うが、その証憑がないから、それは成立しない。誓約書記憶の書き取りでは、「政府を転覆する」という文字があったのに、誓約書の原書に添付した紙で、「改良」に変えたと申し立てるが、既に血判した誓約書を改正したと主張することは成り立たない。(改変を許さない、やったことは永久に取り返しできないということか。)
誓約書記憶の書き取りで、「政府転覆は言論上の転覆だ」とするのは成立しない。「転覆する」と言った事実が、暴行による転覆であることを判定するには、上記の証憑で十分だからだ。
「転覆」は内乱を起こす目的であって、(実際に実行したのではないから)、内乱暴行を行う陰謀をしたことはない、という申し立ては成立しない。誓約書記憶の書き取りで、「政府を転覆し」と記載し、「死を以て決行し」と記載し、「政府をひっくり返すとは、謀反である」ことを認めているからだ。内乱・暴行を行う陰謀を企てなかったという申し立ては不当である。
誓約書記憶の書き取りにある、「政府を転覆する」という文字があるのは、外国政府を指したもので、我政府を指したものではないという申し立ては成立しない。以上の証憑により、「政府」が、我政府を指していることは明瞭だからだ。
269 刑法第121条 政府を転覆し、または邦土を僭竊(せつ、ぬすむ)し、その他朝憲を紊乱することを目的となし、内乱を起こした者は、左の区別に従って処断する。
一 首魁及び教唆者は死刑に処す。
二 群衆の指揮を為し、その他枢要の職務を為した者は、無期流刑に処し、その情軽き者は有期流刑に処す。
三 兵器金穀を支給し、または諸般の職務を為した者は、重禁獄に処し、その情軽き者は、軽禁獄に処す。
四 教唆に乗じて付和雷同し、または指揮を受けて雑役に供した者は、二年以上五年以下の軽禁固に処す。
刑法第125条 兵隊を招募し、または兵器金穀を準備し、その他内乱の予備をなした者は、第121条の例に照らし、各一等を減ず。内乱の陰謀を為し、未だ予備に到らざる者は各二等を減ず。
270 刑法第104条 二人以上が、現に罪を犯した者は、皆正犯と為し、各自にその刑を科す。
刑法第68条 国事に関する重罪の刑は、左の等級に照らして加減する。
一 死刑
二 無期流刑
三 有期流刑
四 重禁獄
五 軽禁獄
高等法院において、刑法第125条第2項により、刑法第121条第1項の例に照らし、二等を減じ、各有期流刑に処すべきところ、減量(原諒)すべき情状あるを以て、刑法第89条第1項に重罪、軽罪、違警罪を分かたず、減刑することができる。
刑法第90条に、酌量減刑すべき者は、本刑に一等または二等を減ずるとあるから、各有期流刑に、二等を減じ、刑法第23条、軽禁獄六年以上八年以下の範囲内において、河野廣中は軽禁獄7年、田母野秀顕、愛澤寧堅、平島松尾、花香恭次郎、澤田清之輔は、各軽禁獄6年に処す。
明治16年9月1日、東京高等法院において、検事渡邊驥(き)、検事竹内維積、検事堀田正忠、検事澄川拙三、立会い宣告す。
高等法院裁判長判事 玉乃世履 印
…
(「自由新聞」明治16.9.2)
271 証拠は、誓約書しかなかった。しかもその誓約書は泥の中に捨てられていて現存しない。誓約書は、拷問の末に得られた、福島警察署や若松裁判所等の口述書に書かれたものに過ぎない。その誓約書は、各自差異がある。
政府を代表する堀田正中検事は、論告で、「専制政府転覆とあるが、これは正しく内乱陰謀であって、陰謀とは、思想にまで立ち入って罰するものだから、行為は不用だ。」と言った。
272 判決は検事の希望通りになった。昔、趙宋の丞相秦檜が『莫須有』の三字を掲げて岳飛を刑死したが、今は『転覆』の二字がもとで有罪となった。民衆は検事堀田等を行政府の奴隷と呼んだ。
数千人の罪のない人々が、罪に落としいれられたが、ことごとく釈放され、六人だけの刑罰に止まったのは、特別の恩恵であった。人々の同情は、六人に注がれ、カンパが集まった。後藤象二郎は、家族と遺族を扶助し、出獄後までお金を贈ったという。
河野廣中に老母あり、その六歳の幼孫を養い、寡居す。和歌を罪獄の子どもに寄せて曰く、
国のためこころをつくしはげめよや
われにひかれて思い残すな
夜風にさそわれてゆくむら雲も
ほどなくはれんあり明けの月
11.28の夜、田母野秀顕は病んで石川島の監倉で逝く。時に35歳。秀顕は三春の旧藩士で、戊辰の年には河野と共に勤王を唱え、土州の軍断金隊に投じた。明治12年、三師社を設立し、自由民権の説を講じた。
12.1、自由党の同志は寧静館に会し、党葬を行った。
感想245—249 警官や役場の官吏など、官僚でも下層官僚ほど、人民に厳しく当たり、それが自己の昇任のための点数となった。県令三島通庸は、常軌を逸した男だ。この男には人としての規範は通用しないようだ。自分の見栄のために、土木工事に目をつけたようだ。そのような発想しかこの男にはないようだ。
感想 福島事件は、当局が、新設の刑法に合致するようにストーリーを事前につくり上げ、拷問による自白を根拠にした裁判、つまり、フレームアップであり、また、スパイや探偵の利用が始まった最初の事例かもしれない。2019年2月14日(木)
疑問 板垣はなぜ植木枝盛を福島から東京に呼び寄せたのだろうか。251警察の手入れがあることを事前に知っていて、植木枝盛を救出しておきたかったのだろうか。しかし逮捕者の中には高知県出身者も4人含まれている。257
まとめ 地中に埋め、池に投棄した血判書なる文書は、スパイがその存在を当局に通報し、それが拷問による自白につながったが、それぞれの自白には食い違いがある。264
感想 誓約文第一条で「日本政府の」転覆か、それとも「世界中の」専制政府の転覆かに関して、勿論日本政府も含むだろうが、作成者は、恐らく後者の広い意味で用いていたはずだが、それは無視された。また、「転覆」ではなく「改良」に、最終的に語句が修正されたが、それを、証拠がないとして無視された。同じ論理を用いれば、この宣誓書自体が、自白に基づくもので、証拠がないのではないか。
感想 花香の警察での供述を、裁判所では本人が訂正してもらいたいと言っているように、誓約文第一条の「日本政府の」を、警察当局が強引に自白させたことが伺われる。263
第二章 高田の獄
273 政府は民間党に対して、正面からは冷酷な法律の力で鉄槌を下し、裏面からは探偵や偽の不満分子(スパイ)を党人の間に交わらせ、事件をでっち上げ、挑発し、民間党を撲滅しようとした。今までこれほど法律が厳しく、警察が過酷で、探偵やスパイの数が多かったことはなかった。
16年3月、北陸の頚城(くびき、高田)自由党がターゲットになった。
3.10、北陸七州自由党懇親会が、高岡の瑞龍寺で開かれ、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の七州、及びその他の諸県の有志400余名が参会した。
274 時に新潟県中頚城郡に漂遊せる長谷川三郎というスパイが、国家権力によって放たれていた。東京の産とか言う。某医者の家に寓していた。高田裁判所検事補堀小太郎が長谷川を使役していた。長谷川は常に有志の動静を探偵した。堀小太郎も等しく深文の吏員であった。(深文とはいつも探りを入れているという意味か。深読みするとか。)堀は、七州懇親会が開かれると聞き、スパイ長谷川三郎に金を与え、会議に探りを入れさせた。党を摘発し、波瀾を起こさせる意図であった。そして自分は出世するつもりであった。
長谷川三郎は、間諜の疑いを持たれ、高岡での自由党の会合への参加を拒まれた。また、越後の八木原繁社や土肥善四郎の家で、盛んに政府への不平を漏らし、酒の席では「自由を買うためには、血を流さなければならない」などの詭弁を弄し、挑発して事件を起こそうとしたが、誰もそれに応じなかった。
そこで長谷川三郎は、高田裁判所検事補堀小太郎に自らを捕縛させた。放生津警察署は、高田裁判所検事局の命令で、長谷川を捕らえて、高田に送った。途中、立名で、堀検事補が来て、三郎を釈放した。これは長谷川が捕らえられたという事実を作り、自らが間諜ではないと偽るための工作であった。
三郎は高田に帰り、「私は放生津で捉えられ、立名で釈放された。どうしてか分からない。このような陵辱を黙認するのは我党として恥だ。私はこれから高田警察署に行って、その理由を正そうと思う。」と言い、頚城自由党員の赤井景韶(しょう)を誘ったが、赤井は断った。
三郎は夜(3月19日か)、警察署に出向き、頚城自由党員20名を、大臣暗殺、内乱陰謀の兆候があると誣告し、自由党員の名前をばらした。全警察官が総動員された。
275 3.20早朝、各地で捕縛者が出た。八木原繁社、鈴木昌司、山際七司、江村正英、江村正綱、堀川信一郎、笠松立太、清野迂策、横山環、森山信一、加藤貞盟、小島周次、赤井景韶、今村到和、風間安太郎、小林福宗、富澤喜文治、上田良平、岡崎直中、古川良治、土肥善四郎、樋口亮太等が、高田や新潟で逮捕され、井上平三郎、加藤勝彌、清水中四郎、富樫某は越中で逮捕され、皆高田に護送された。
深夜(19日か)、県令永山盛輝の宅に、書記官・警部長が集まり、19日夜、丹羽某を警部に任じ、巡査30名を率いて、船で高田に向かった。ついで、木梨大書記官、井上警部長も高田に赴いた。東京では司法卿大木喬任は、控訴裁判所検事長長岡豐章、検事橋本胖三郎に内命を下した。高田警察署長や中頚城郡長は次のような掲示を建てて捜索をした。
「今般当郡自由党員中、国事犯陰謀者露見の趣を以て、新潟軽罪裁判所高田支庁検事安達隆則において犯人逮捕の処分これあるにつき、万々一心得違いより右陰謀に与し候といえども、速やかに悔悟自主候時は、刑法第百二十条に明示ある如く免罪相成るべく、ついては犯人より兵器金穀等の依託を受け候者も自主に及び候はば、同様免罪たるべきにつき、この段心得のために掲示候なり。
明治16年3月20日
中頚城郡長渡邊健蔵
高田警察署長(警部)赤木義彦」
(「自由新聞」明治16.3.31)
276 逮捕者数が数十人に上り、獄舎が不足し、高田町の劇場大漁座を臨時の監倉に変えた。当局は証拠を上げることができず、このまま釈放すれば、上司から恩償を受けられないばかりか、誤認逮捕の咎めを受け、官位を下げられる恐れがあったとき、たまたま赤井景韶の家を捜索したところ、廃紙の中から天誅党旨意書という断片が出てきた。また長谷川三郎が、町田屋会同278の件を告げたこともあり、罪がでっち上げられることになった。
赤井景韶は、越後中頚城郡高田木築町の出身で、25歳、父は喜平という。父は、維新の時に勤王側につき、戦死した。その後景韶は母に育てられ、自由党に加わり、八木原繁社らに従った。15.5.11、寝ている時、一人で天誅旨意書を書き、後これを破って捨てたが、それを官権が利用することになった。
277 「天誅旨意書
世運衰退し、人情軽薄に流れ、国勢は日に危殆に赴き、義理は地を払う。実に痛哭流涕の至りなり。奸物要路に塞がり、その欲を逞しうし、私利を之れ営み、吾人の国は将に売られんとす。吾人は将に臣妾たらんとする、将に近きにあるべきなり。故に吾人は天誅党を組織し、天に代わり奸物を払い、世運をめぐらし、人情を敦厚(とんこう)にし、国勢を挽回し、義理を重んじ、吾国家を永遠に維持せんと謀る。幸いに同志の士、来たり与せよ。
吾党は前陳の旨意により、ここに牛耳を取り、盤血をすすり、左の条項を誓う。
天誅党盟約規則
盟約 第一章 苟(いやしく)も、吾国家の為にならないものがある時は、吾人は踵(くびす)を返さず、天に代わり、之を誅罰すること。
第二章 吾党は義理を重んず。故に、義理のためには身を致すことを誓う。吾党の人は、吾党全体の議決によりては、何等故ありとも、これの実行を辞せざること。
規則 第一条 吾党は何人たりとも、前書盟約を守れる者は、党員3名以上の紹介を以て、党長に申し込むべし。党長は総党員の是とするをもって、入党を許すことあるべし。
第二条 吾党は定期会を置かず。事ある時は臨時会をなすゆえ、月幾度となっても顧みない。
第三条 吾党は前条の如き場合を保つ故に、多額の入費を要す。よって、月に50銭を、党に納むるものとす。
第四条 吾党は、党長三名を置き、党事一切之を理せしむる。
(「自由新聞」明治16.12.12)
278 15.11.4、赤井景韶は、親友井上平三郎(八木原繁社の実弟)、風間安太郎と共に、高田町の旅亭町田屋に相会した時、赤井は、「立憲政体の創立は聖旨であるのに、今日まで宏謨が伸びないのは、要路の大臣や参議が之を抑えているからだ。敢えて身を挺して彼等を粛清しなければならない。」と述べた。三人は東京で事を謀ろうと約束した。三人は9日に家を出て、新潟に入り、三国街道を経て南上しようとした。つまり、迂路をとり、追策を逃れようとしたのだ。
八木原繁社は、鈴木昌司を新潟にやり、彼等を抑留させ、また親戚今村致和にも三人の跡を追わせた。
12日、景韶らが新潟に入った。翌朝鈴木昌司が新潟に到着し、今村致和も着いた。二人は景韶らを酒楼偕楽館に誘い、説諭して留まらせた。景韶らは説諭に応じた。風間安太郎の伯父相羽嘉尚もやって来て、今村致和や景韶とともに高田に帰った。15.11.19日のことであった。この5ヵ月後に赤井は、長谷川三郎のために摘発された。
279 赤井景韶は当初自白しなかったが、長谷川三郎が暴いたのでもう逃げられないし、また、先輩同志に罪を着せるようなことになってはいけないと思い、法廷で事実を話し、町田屋や偕楽館のことを話した。また、天誅党の主意を行うときは、卿以上の権官を皆斬殺するつもりだったが、新潟で説諭され、自らも考えた結果、その考えを放棄したと述べた。しかし、この自白が後で命取りとなった。
当初スパイがもたらした誇大な情報に基づいて大勢を逮捕したが、証拠がなかった。ところが赤井が白状することによって、赤井を内乱陰謀の刑に当てはめた。
八木原繁社を不敬罪、及び鉄砲規則違反と為し、その他は皆赦免した。八木原は拳銃三挺を所持し、届出を怠り、及び二年前の14.10.18、小林福宗に贈った私書の中で「明治14年10月12日は、堂々たる我日本帝国亡滅の日なり」と記載し、また詔勅に言い及んだために、不敬罪に問われ、重禁固二年に処せられた。皆、家宅捜索で発見されたことがもとになった。
24日、赤井らは東京に護送された。赤井は、結党して三人の青年を得ただけだった。
280 高等法院では、裁判長玉乃世履以下が、福島の獄と同様に任命された。8月から11月まで、判事巖谷龍一、兵頭正懿(い)などが十数回尋問し、11.14、予審が終結し、風間安太郎、井上平三郎は、赦されて獄を出たが、赤井一人が公判に付された。
12.11より大審院内で開廷され、武藤直中が弁護人となった。傍聴人は一日数百人集まった。開廷一日目、赤井自らが、内乱陰謀の予備さえなかったと述べ、また弁護人の武藤は、被告が要路で邪魔者がいないことを自覚し、所志を放擲したのだから、謀殺の予備すら行っていない、これを政府変乱の目的で謀殺したものと同様に断定することは、事理を顚倒するものではないか、被告の考えは、上に邪魔者があれば、これを除こうとしたのであって、もう邪魔者はいないのだから、暗殺の目的は既にない、と述べた。
しかし、検察官の堀田正忠は、福島の獄での論告の経験に基づいて、「縦令一旦これを捨てたと言っても、既に暗殺を企図したのだから、内乱陰謀罪になる。既遂や未遂の別や、自ら中止したか、他人が止めさせたのかは、犯罪の消滅にはならないとした。
赤井は「理を以て論ずるも、理に動かず。このような検察官は、電気に感応しない物体と同じだ。」と絶叫した。
12.17、高等法院は、「政府変乱の目的を以て、諸省の卿以上を謀殺せんと決意し、その予備を為した」と断じ、重禁固9年に処した。宣告書は次の通りである。
281 「
被告人 赤井景韶
二十四年四ヶ月
右被告人は、政府を変乱するの目的を以て、諸省の卿以上を謀殺せんと決意し、その予備をなしたとの公訴により、判決すること左の如し。
判決
…被告人は、町田屋で井上や風間に、自分の決心の深奥は明かさなかった。…探索して之(天皇の考えを擁蔽する要路の顕官)を除こうと申し聞かせ、…明治15年11月8日より両人を誘導し、…。…他人の為に(その意思を)止められたのは、予備を為したものと判定する。その証憑は左の通りである。
被告人赤井景韶は、明治16年4月15日、新潟軽罪裁判所高田支庁において、検察官が「法には法の推測があり、係官には係官の推測があり、今汝の如く、ただ知らず然らずと言えば、いずれにも認定推測をしないわけにいかないから、それは却って汝の不利益になるのではないか。」と言うと、赤井は「今まで自分が言ったことは偽りであった。偽りを言ったのは、自分の保身のためではなく、今回捕縛された党員の安危に係わることだったからだ。これからは真実を語る。」と答えた。
赤井は続けて「天誅党の旨意書の精神は今では放棄した。」と言い、さらに「船中山際七司に会い、共に社会平権論の意を講じ、新潟に着いたが、すぐ後に鈴木昌司がやって来た。それは、先に私が、郷里を出るとき、ピストル等を携え、『熱血を以てせざれば自由を得る能ず。むしろ不自由で生存するよりは、死して犠牲となるに如かず』と唱え、かつ、『自由党を脱する』などと言ったりしたので、八木原繁社が私の考えを察したらしく、(八木原繁社が)電報を以て鈴木昌司に通知したからやって来たようなのだ。しかし、鈴木昌司はそのことは語らず、山際七司から、私どもが新潟に来たことを聞いたような風をしていた。
ついで小柳卯三郎、加藤勝彌、その他常置委員等がやって来て、我々の自由な行動を阻害したので、我々は翌日住吉屋に宿を移したが、また彼等がやって来て、さらに今村致和、相羽嘉尚が我々を迎えに来て、遂に、鈴木昌司、今村致和、加藤勝彌等が、自分たちを偕楽館に伴い、説諭したのだが、私は、『尚我志は、我が為すところにあり。』と言ったのだが、そのうちに覚るところもあり、さきの志を放棄して帰郷した。」と陳述した。
「天誅党の主意を実行すると決心したとき、大臣参議のうち誰を暗殺するつもりだったのか」の問いに対して、「目的は、残らず斬るの意味であった。」「天誅党の主意書等を井上平三郎等に示さなかったので、彼ら(井上平三郎と風間安太郎)は、それを知らなかった。彼等とはただ主意を協議しただけで、書面は私が試しに寝床で書いただけだった。」と赤井は答えた。また、
「東京に出て決行するつもりだったが、手段については話し合っていなかった。また、私的に恨みがあったからではなく、国家のためと思っていた。また、他人から教唆されたのでもなかった。」と赤井は答えた。
283 明治16年4月18日の新潟軽罪裁判所高田支庁の予審庭において、赤井は「11月9日、当地を出発し、同夜黒井宿に泊し、10日、青海川宿の片岡という旅館で泊まり、11日、長岡に泊まり、12日、蒸気船で新潟に着き、二番町の秋田屋に一泊し、13日、住吉屋に移転し、二日間滞留した。16日、新潟を出発し、その晩は新潟から一里半のところで泊まり、翌日の17日は寺泊で泊まり、18日は柏崎に泊まり、19日、高田に着いた。」と答えた。また、赤井は、
「三人で新潟に行った。井上平三郎、風間安太郎、自分の三人であった。目的は政治の改良を図るためであった。行くに先立って三人で議決したことはなかった。ただし、明治15.11.4頃、高田町の町田屋で、三人は政治についての話に及び、政治の改良を思いつき、20日ころ、東京へ出て、事を図る約束をした。」
284 「改良とはどういうことか」の問いに対して、赤井は「天皇の明治初年の立憲政体を立てる詔があったのに、立憲政体が未だに立たず、人民が益々苦痛に陥るだろうということを二人に話すと、二人は同感した。」また、
「三国街道を通って行くつもりで新潟に向った。その理由は、風間安太郎を同人宅に迎えに行くと、信州路は本道で、風間安太郎の追っ手が来るのではないかと、発覚を恐れたからで、間道を選んだ。また東京への為替高が満数になり、東京へ為替を組むことができず、新潟へは為替を組むことができるので、新潟へ出た。」(意味不明。為替で送金する金額に上限があるということか。)「以上は三人が同意見であった。決定したのは11月9日、発足の当日のことだった。」
「二枚の草案は誰の起草か」の問いに対して、「天誅旨意書と天誅党盟約規則、二枚とも、私が起草した。15.10月末から11月初めころだった。」と赤井は答えた。286
天誅党主意書277ページのものとほぼ同じ。
286 「新潟から東京へ赴く決意も、この草案に基づくのか」との問いに対して、赤井は、「この旨意書の通り、感慨のあまり、政治の改良をなそうと思い起こしたが、盟約規則という草案は、これを直ちに履行する意図はなかった。寝床で試しに書いたまでで、また、他人に示したことはなかった。」
明治16年4月19日の新潟軽罪裁判所高田支庁の予審庭で、「政治の改良というからには不良の政治があるのか」の問いに対して、「まだ立憲政体が立てられていないのは、要路の大臣参議が、天皇による立憲政体の樹立を擁蔽しているためであろうから、之を除いて政治の改良を図ろうとした。」と答えた。
「之を除くとは、要路の大臣参議を誅罰することか。」との問いに、「然り、しかし、之を銃殺あるいは暗殺する手段は、当時まだ決議していなかった。」と答えた。
「其の方は、決議していなかった、と言ったが、町田屋で三人が話した内容は、天誅党の主意書にあると言った。それなら天誅党の主意を三人で話したのではなかったのか。」に対して、「天誅党主意書の意を以て三人で話をしたことは間違いないが、之は自分一己の草案であって、平三郎や安太郎に見せたことはない。天に代わって誅する、とは決して言わなかった。天誅党主意書の内容に沿って話し合ったにすぎない。」
「要路を塞ぎ、欲を逞しくし、私利を営みと言うが、それは誰なのだ。」また、末文に「『牛耳を取り、盤血を啜る』とあるが、この語は盟主という意味か。」という問いに対して、赤井は「誰でも各省の卿以上の者は奸物だと思った。人名は言えない。また、『牛耳を取り、盤血を啜る』とは、盟主となって誓うという意味ではなく、天地神明に誓うという意味だ。」と答えた。
「天誅党主意書の末文に、『来二月中旬を期し』、とあるが、この『二月中旬』は、本年の一月からを指したものではないのか。」の問いに、「否、本年になってから認めたものではなく、昨年15.10末か11月初めに認めたものだ。」と答えた。
288 明治16年9月14日の高等法院予審庭で、「諸省の卿以上を斬殺することを談合した、としているが、これはどういう意味か。」の問いに対して、赤井は「これは自分一己の思想のみによる。」と答えた。
明治16年11月5日の高等法院予審庭で、「『自分は東京に出たらすぐに天誅をなす精神だった』と言っているが、どういう意味か。」の問いに対して、赤井は「直ちに出京の上と申し立てたが、この直ちにとは、東京に出てその足ですぐに天誅をなすという意味ではなく、準備をしてから為す、という意味である。」と答えた。
289 刑法第123条 政府を変乱するの目的を以て人を謀殺したる者は、兵を挙げるに至らずといえども、内乱と同じく論じ、その教唆者及び下手者を死刑に処す。
刑法第125条 兵隊を招募し、または兵器金穀を準備し、その他内乱の予備をなした者は、第121条の例に照らし、各一等を減ず。内乱の陰謀を為し、未だ予備に到らざる者は各二等を減ず。
刑法第121条 政府を転覆し、または邦土を僭竊(せつ、ぬすむ)し、その他朝憲を紊乱することを目的となし、内乱を起こした者は、左の区別に従って処断する。
一 首魁及び教唆者は死刑に処す。
二 群衆の指揮を為し、その他枢要の職務を為した者は、無期流刑に処し、その情軽き者は有期流刑に処す。
三 兵器金穀を支給し、または諸般の職務を為した者は、重禁獄に処し、その情軽き者は、軽禁獄に処す。
四 教唆に乗じて付和雷同し、または指揮を受けて雑役に供した者は、二年以上五年以下の軽禁固に処す。
刑法第68条 国事に関する重罪の刑は、左の等級に照らして加減する。
一 死刑
二 無期流刑
三 有期流刑
四 重禁獄
五 軽禁獄
290 高等法院において、被告人赤井景韶に対し、刑法第123条及び、刑法第125条第1項により、刑法第121条及び刑法第68条に照らし一等を減じ、無期流刑に処すべきところ、原諒すべき情状あるを以て、刑法第89条第1項に、重罪、軽罪、違警罪*を分かたず、所犯情状原諒すべき者は酌量して本刑を減刑することを得、また刑法第90条に、酌量減軽すべき者は、本刑に一等または二等を減ずとあるにより、無期流刑に二等を減じ、刑法第23条の重禁獄9年以上11年以下の範囲内において、重禁獄9年に処するものなり。
明治16年12月17日東京高等法院において、検事…立会い宣告す。
高等法院裁判庁判事 玉乃世履
…
(「自由新聞」明治16.12.18)
*違警罪とは、明治13年刑法で規定した、拘留、科料にあたる軽い罪。当初違警罪を管轄する治安裁判所を設ける予定だったが、明治18年の違警罪即決例により、正式裁判によらず、警察署長による即決処分が認められた。昭和23年軽犯罪法施行で失効した。(日本国語大辞典)
291 赤井景韶は、石川島の監倉に投ぜられたが、罪のない自分は、法官が法を曲げて自分を罪に陥れたと信じた。否、法官が要路者に媚びるために、要路が暗示密命した罪に陥れたのだと信じた。
赤井は脱獄を計画した。同囚に石川県の松田克之がいた。松田は、参議大久保利通の暗殺に連なり、終身禁獄に処せられていた。松田は、景韶と逃亡を策した。
17.3.26、同囚河野廣中等数名と、松田克之の室で閑談し、夜の11時、監倉水掛口の鎖鑰(さやく、錠)を破壊し、川に至り、持参した服に着替え、潮が引けるのに乗じて、川を佃島まで渉り、小船で対岸の築地に上がった。
道中人力車を雇い、景韶の実弟新村金十郎の本郷龍岡町の家を訪ね、決別するとき、金十郎は「国事に尽くす」と約束した。車夫は異常を感じて挙動を注視していた。克之は車夫が密告するだろうと思い、むしろ忍んで之を殺そうと景韶に耳語し、車夫を千住に向わせ、夜明け、南足立郡彌五郎新田耕地に及び、景韶が鉄条を揮い、車夫の頭蓋を殴撃した。景韶は車夫に扮装し、克之を乗せ、再び東京に戻った。 京橋新肴町の、熊本出身の井上敬次郎を訪ね、お金と衣服を乞うた。
それから、克之は越後に、景韶は加賀に向ったが、27日、克之は板橋の旅館で逮捕された。
景韶は、山梨県南都留郡宝村の小学校教員林某の家に投じ、姓名を変え、信州飯山の人佐藤由蔵と称したが、数日で、同村広教寺に入り、剃髪して僧となり、名を拳龍と号し、五ヶ月ここに居た。8月、信州人山田賢治と称し、南静岡に走り、清水綱義に寄った。
9月10日、浜松に向かおうとし、綱義に送られて大井川に至る。静岡警察本署は、ほぼ跡をつけていて、数十人を川の両岸に待機させていた。午後二時、二人が橋の中央に来たところで、旅装の私服数名が景韶ら二人を捕らえようとした。綱義は怒って一人を砂の上に投げつけたが、景韶は綱義に言った。「清水氏よ、止めよ、余は赤井景韶なり。(私)一身の故を以て、禍を足下に嫁するに忍びず」と。
293 18.6、殺人犯で景韶、克之共に、死刑の宣告を受け、松田克之は、6月25日、赤井景韶は、7月27日を以て、市谷監獄署内の刑場で絞死した。克之31歳、景韶27歳だった。
景韶の実弟新村金十郎は、遺骸を乞い、寧静館で葬式を挙げた。同志数百名が相会し、谷中の墓地に葬った。時の人が悼んで歌を賦した。
果敢(はか)なくも河(あ)か*井の水は絶えにけり
人の袂に露を残して
*門構えに迦
福島高田とも証憑はたった一枚の紙切れにすぎない。誓約、旨意書の紙片にすぎない。而して後世の正議は果たしていずれを罪せんとするか。
感想 高田の獄も、福島の獄と同様に、本書で語られている通り、政府が刑法とスパイの二つを巧みに用い、自由党を潰すという政府の意向が強く働いた事件である。
スパイが組織の中に入って組織構成員の名前をかぎ出し、事件をつくり上げて、多数を逮捕する。逮捕の口実となる証拠を見つけ出すために、家宅捜査をし、罪に陥れるための一片の書類を見つけ出す。
政府に対する反逆を今は考えていないと弁明しても、一度考えたことは覆せない、という論法で、強引に罪に陥れる。自由党を潰したいのだ。
高田の獄の結末は悲劇的だ。刑務所を脱獄し、疑われたのではないかと思って、車夫を殺してしまう。名前を変え変装して逃亡を続けるが、結局つかまって、今度は、殺人罪で絞首刑にされてしまう。
そのとき一緒に脱獄したのが、大久保利通を殺害して無期懲役になっていた、石川県の松田克行であった。もう一人の河野廣中は、脱獄の相談の時には同席したが、河野の逃亡のことは書かれていないから、河野は脱獄せず、松田克行と赤井景韶の二人が一緒に脱獄したようだ。
刑法(明治13年太政官布告第36号)は、明治13年7月17日に公布され、明治15年1月1日に施行され、明治41年10月1日に廃止された。(ウイキペディア)政権は憲法よりも先に刑法を定めていた。
第三章 新聞紙条例の改正
15.6、集会条例の追加改正。
15.12、請願規則を設定し、府県会議員の連合集会及び通信を禁止した。
政府は人民を抑圧し恭順にさせてから、わずかにその手を収めようとするようだった。政府は人民と政党を敵視した。
294 16.3.15、大阪の立憲政党は圧迫に耐えず、解散した。抑圧政策は、民衆を柔懦(だ)猫の如くならしむか、それとも剽悍虎の如くならしむるか。政党を撲滅する政策は、秘密結社の発生を促すものだ。
16.4.16、政府は新聞紙条例を改正し、言論の自由を途絶しようとした。
「新聞紙条例
第一条 新聞紙を発行しようとする者は、その発行所の管轄庁、東京府は警視庁、を経由して、内務卿に願い出て、准許を愛くべし。
時々刷行する雑誌雑報の類は皆、この条例による。
第二条 新聞紙発行願書には次の事項を書き、持主若しくは社主より差し出すべし。
一 題号
二 記載の種目(政治、法律、農工商業の類)
三 刷行の定期または無定期
四 発行所及び印刷所
五 持主若しくは社主及び編輯人、印刷人の族籍、身分、氏名、年齢、住所。
第三条 社長幹事その他何等の名義を以てするに係わらず、新聞紙に署名する者は、すべて持主社主の例による。
第四条 新聞紙の題号、記載の種目、又は持主、社主を変更するときは、管轄庁、東京府は警視庁、を経由して、内務卿に願い出で准許を受けるべし。
前項の他、第二条の願書に掲げるべき事項において変更があるときは、7日以内に管轄庁、東京府は警視庁、に届出づべし。
第五条 持主若しくは社主が死去し、又は法律上その資格を失ったときは、仮に持主、社主を定めて新聞紙を発行することができる。ただし、7日以内に管轄庁、東京府は警視庁、を経由して内務卿に願い出で、准許を受けなければならない。
第六条 編輯人と印刷人は互いに相兼ねることができない。
第七条 内国人にして満20歳以上の男子でなければ、持主、社主、編輯人、印刷人となることができない。
公権を剥奪された者は、持主、社主、編輯人、印刷人となることができない。公権を停止され、及び演説を禁止された者は、その停止期間(中は)同様である。
第八条 新聞紙の発行を願い出るときは、保証として、左の金額を納めなければならない。ただし、専ら学術、技術、統計及び官令又は物価報告に係わる場合は、この例によらない。
一 東京府では、1000円
一 京都、大阪、横浜、兵庫、神戸、長崎では、700円
一 その他の地方では、350円
一 一月三回以下で発行する者は、各前項の半額。
296 第九条 保証金は、持主若しくは社主より為替方、又は銀行の預手形、或いは時価に準じた公債証書を以て、管轄庁、東京府は警視庁、に納めるべし。
第十条 新聞紙発行の准許を得た日より、50日を過ぎても発行しない場合は、その准許の効力を失う。
刷行を定期に発行しない場合は、7日以内に休業の旨を、管轄庁、東京府は警視庁、に届け出なければならない。休業届出の日から50日過ぎても再び発行しない場合も、前項と同様とする。
第十一条 新聞紙は毎号に、持主、若しくは社主、及び編輯人、印刷人の氏名並びに発行所を記載すべし。
第十二条 発行所の外において発売する者は、その発売所及び発売人の氏名、住所を管轄庁、東京府は警視庁、に届出すべし。
第十三条 新聞紙はその刷行毎に、先ず内務省に二部、管轄庁、東京府は警視庁、及び本管始審裁判所、検事局に各一部を納むべし。
第十四条 新聞紙に記載した事項で、治安を妨害し、又は、風俗を壊乱するものと認めたときは、内務卿は、その発行を禁止若しくは停止することができる。
第十五条 各地方、東京府を除く、において、発行する新聞紙で、前条に触れるものと認められるときは、府知事県令は、その発行を停止し、内務卿に具状して、その指揮を請うべし。
297 第十六条 新聞紙の発行を禁止若しくは停止したときは、内務卿は、その新聞紙を差押え、又は、発売を禁止し、その情重き者は、印刷機を差し押さえることができる。
第十七条 一人又は一社で数個の新聞紙を発行する者は、一個の新聞紙を停止されたときは、その停止中、他の新聞紙を発行することはできない。
第十八条 新聞紙に記載した事項に関する犯罪は、持主、社主、編輯人、印刷人及び筆者、訳者は共犯とする。
第十九条 新聞紙に記載した事項に関する犯罪は、その情状により、裁判官において、犯罪に係わる新聞紙を没収できる。
その告訴告発を為すに際し、予審判事、検察官、警察官は、裁判確定に至るまで、犯罪に係わる新聞紙を差し押さえることができる。
第二十条 裁判確定の日から7日以内に、裁判費用、及び罰金を完納せず、又は損害を賠償しないときは、保証金を以てこれに当てることができる。なお不足の場合は、刑法第27条、及び第47条による。*保証金を以て裁判費用、賠償及び罰金に当てたときは、持主若しくは社主は、管轄庁、東京府は警視庁、の通知を得た日から7日以内に、その不足額を完納すべし。もし完納しない場合は、その新聞紙発行准許の効力を失う。
*第27条 罰金ハ裁判確定ノ日ヨリ一月内ニ納完セシム。若シ限内納完セサル者ハ一圓(円)ヲ一日ニ折算(換算)シ、之ヲ輕禁錮ニ換フ。其一圓ニ滿サル者ト雖モ仍(なお)一日ニ計算ス。
2 罰金ヲ禁錮ニ換フル者ハ、更ニ裁判ヲ用ヒス檢察官ノ求ニ因リ裁判官之ヲ命ス。但禁錮ノ期限ハ二年ニ過クルコトヲ得ス。
3 若シ禁錮限内罰金ヲ納メタル時ハ、其經過シタル日數ヲ扣除(こうじょ、差し引く、控除)シテ、禁錮ヲ免ス。親屬其他ノ者代テ罰金ヲ納メタル時亦同シ。
第47条 數人共犯ニ係ル裁判費用、贓(そう)物*ノ還給、損害ノ賠償ハ、共犯人ヲシテ之ヲ連帶セシム。
*贓(そう)物とは、不正な手段で得た物品。
第二十一条 准許を得ず、また准許の効果を失った後に、密かに新聞紙を発行する者は、持主、社主、編輯人、印刷人、各、6月以上3年以下の軽禁錮に処し、20円以上200円以下の罰金を賦課し、なお、その発行した新聞紙を没収する。その禁止停止の処分を犯し、及び第十七条に違反して発行した者も同様である。
298 第二十二条 詐欺の願書若しくは届書を差し出した者、及び第四条第一項、第五条に違反した者は、持主若しくは社主は、1月以上1年以下の軽禁錮に処し、20円以上200円以下の罰金を賦課する。編輯人、印刷人で、事情を知る者も、また同じく処断する。
前項の場合において、内務卿は、その新聞紙の発行を禁止、若しくは停止することができる。
第二十三条 第四条第二項、及び第十条第二項、第十一条、第十二条、第十三条に違反する者は、持主若しくは社主は、10円以上100円以下の罰金に処す。その第十一条に違反する者は、編輯人、印刷人もまた同じく処断する。
第二十四条 禁止された新聞紙の持主、社主、編輯人、印刷人は、禁止の日から2年間、持主、社主、編輯人、印刷人となることができない。違反する者は、3月以上3年以下の軽禁錮に処し、20円以上200円以下の罰金を賦課する。
停止された新聞紙の持主、社主、編輯人、印刷人は、停止期間中は、他の新聞紙の、持主、社主、編輯人、印刷人となることができない。違反する者に対する罰則は、前項と同じとする。
第二十五条 没収若しくは差押えの処分を受け、又は発売を禁止された後に、その新聞紙を発売または頒布した者は、発売者、頒布者、新聞紙を受け取って販売した者、を問わず、各、10円以上100円以下の罰金に処す。
第二十六条 新聞紙に記載した事項は、その原稿を刷行した日から3週間保存し、官署の訊問に備えなければならない。違反した場合、編輯人は10円以上100円以下の罰金に処す。
299 第二十七条 新聞紙に記載した事項に関して、官署よりその出所の訊問を受けたときには、之を証明しなければならない。違反した場合、編輯人の罰は、前項に同じ。
第二十八条 新聞紙に記載した事項について、裁判を受けたときは、その新聞紙において、直ちに宣告の全文を掲載しなければならない。違反した場合、編輯人の罰は、前項に同じ。
第二十九条 新聞紙に記載した事項で錯誤し、関係者から正誤を求められたときは、その求めを得た後の、次回又は第三回の刷行において、別に一欄を設けて、正誤の文を掲載し、又は正誤しなければならない。違反した場合、その編輯人の罰は、前条に同じ。ただし、その正誤の趣意が、法律に触れる場合、及び之を求めた者の氏名がはっきりしないときは、この限りでない。
第三十条 他の新聞紙から抄録した事項で、その新聞紙で正誤を載せた時は、関係者の求めがなくても、その新聞紙を得たときから、次回又は第三回の刷行で正誤すべきであることは、前条による。
第三十一条 式で宣布しない公文及び上書、建白、請願書は、当該官吏の許可を得なければ記載してはならない。違反する者は、2月以上2年以下の軽禁錮に処し、30円以上300円以下の罰金を賦課する。
その大意を記録し、若しくは草案を掲載する場合も、同様とする。
第三十二条 官省院の議事及び府県会の傍聴を禁じた議事は、詳略に係わらず之を記載してはならない。違反する者の罰は、前条に同じ。
第三十三条 重罪軽罪の予審は、公判に付さない前に之を記載することはできない。裁判官審判の議事、及び傍聴を禁じた訴訟の弁論は、之を記載することができない。違反する者の罰は、前条に同じ。
300 第三十四条 陸軍卿、海軍卿は、軍隊、軍艦の進退及び一般の軍事を記載することを禁ずることができる。その禁を犯す者は、3月以上3年以下の軽禁錮に処し、30円以上100円以下の罰金を賦課する。その情重き者は、印刷器を没収する。
外務卿は外交上の事件につき、記載を禁ずることができる。その禁を犯す者の罰は、前条に同じ。
第三十五条 新聞紙を以て人を教唆し、重罪軽罪を犯させた者は、刑法の例による。その教唆に止まる者は、本刑に二等又は三等を減ず。
第三十六条 刑法第二編第一章*の刑に触れる者は、印刷器を没収する。
*刑法第二編第一章は、皇室に対する罪を規定している。これは、新聞紙条例同様、どこか西洋の保守的な国の法律を借用しているはずだ。
第1章 皇室ニ對スル罪
第116条 天皇三后*皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
*三后(さんこう)とは、太皇太后、皇太后、皇后の三人。三宮。
第117条 天皇三后皇太子ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ處シ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
2 皇陵ニ對シ不敬ノ所爲アル者亦同シ
第118条 皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス其危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期徒刑ニ處ス
第119条 皇族ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ二月以上四年以下ノ重禁錮ニ處シ十圓以上百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
第120条 此章ニ記載シタル罪ヲ犯シ輕罪ノ刑ニ處スル者ハ六月以上二年以下ノ監視ニ付ス
第三十七条 政体を変壊し、朝憲を紊乱しようとする論説を記載した者は、1年以上3年以下の軽禁錮に処し、100円以上300円以下の罰金を賦課する。その第三十五条に触れる者は、重に従って処断する。本条を犯す者は、その印刷器を没収する。
第三十八条 成法を謗(そし)り、国民は法に従うべきだという義(常識)を乱す者、及び、顕わに刑法に触れた罪犯をわざとかばおうとする論を為す者は、1月以上1年以下の刑禁錮に処し、20円以上200円以下の罰金を賦課する。
第三十九条 猥褻(わいせつ)の文辞、図書及び誹謗を写した戯画を掲載してはならない。違反する者は、20円以上100円以下の罰金に処す。
第四十条 第二十九条の場合において、被害者の私事に係わる者は、告訴を待ってその罪を論ず。
301 第四十一条 この条例を犯した者には、刑法の自首減刑、再犯加重、数罪倶発(同時に起ること)の例を用いず。
第四十二条 外国の新聞紙及び書籍を訳出し、新聞紙に記載する者もこの条例による。
附則
現今発行の新聞紙は、東京府下はこの条例発布の日より、その他の地方は、到達の日より30日以内に、この条例に従い、願書及び保証金を管轄庁、東京府は警視庁、に差し出すべし。もし期限内に差し出さないときは、准許の効力を失う。
(「法令全書」明治16年)
この改正新聞紙条例は、発行保証金、罰金、禁獄の刑を重課し、社主、編輯人、印刷人、及び筆者、訳者までも共犯とし、印刷器機を没収するなど、旧法に比較して、細かく、苛酷で、厳密である。そうでなくても、これまでに、禁停、罰金、刑獄などで維持困難を告げてきた新聞は、ここでさらに襲撃され、廃刊に陥ったものが多かった。
改正新聞紙条例が出て一ヶ月もしないうちに、都下で廃刊に陥った新聞社が続発した。近時評論、中立政党政談、政海志叢、嚶鳴雑誌、独立新聞、曙新聞等13種である。地方では、山梨日々新聞、埼玉新聞などである。
停刊処分は倍増し、大阪立憲政党新聞は、停止5旬(50日間)に渡り開刊を許されなかった。言論界は、金銭で、刑罰で、筆禍で、苦しめられた。
次に明治14年から18年までの新聞雑誌発行の統計表を掲げ、明治15年、16年の言論弾圧の極みを示そう。
年次 発行部数 人口1万人につき1日平均部数
明治14年 64,506,655 49
明治15年 59,038,342 45
明治16年 57,278,112 42
明治17年 61,162,612 45
明治18年 62,580,468 51
平均 62,580,468 46
302 新潟日々新聞、庄内新聞は、一言の失によりたちまち社主、編輯人、筆者とも刑獄罰金に処せられ、印刷器械を没収された。
このように政府が言論弾圧を強めた理由は、民間党を誤解し、恐怖したからであって、自らの専制政治の善良性を確信する熱誠があったからではなかった。そして誤った情報に基づき、探偵の嘘の証言を信用し、民間党を共和主義者、革命内乱を企てる者とみなした。
一方言論界は政府に対する敵愾心を内向させ、新聞の論調は、婉曲隠微になり、革命文学をはらみ、フランス革命時代の残酷な歴史やロシアの虚無党の悲劇を小説にし、『西の洋血潮の曙』『自由の凱歌』『鬼啾々(しゅうしゅう、すすり泣く)』などの名前をつけて、言外に言いたいことを含ませようとし、政談演説をやめて講談演芸に託し、法網を脱して、思想の啓蒙に勉めた。新聞の紙面には、△○□〓‖等の點字、削字、倒印を用い、言外の意味を伝えようとした。例えば、
『○○は髭(ひげ)ある癖に、二重(ふたえ)腰、蝦(えび)の権利の後ずさり、ホンニ卑屈な態(ざま)かいな。
ここで○○は、官吏を指している。
言論界は、陰鬱、危険な状態で、治乱の情勢を顚倒させるような観があったが、新聞紙条例はこれを禁止することができなかった。
男ないとての替歌
『命ないとて苦にせまいもの、野辺の石碑に月がさす、見やれ苔にも花が咲く、監獄(ひとや)もどりに袖褄(そでつま)ひかれ、今宵逢うとの目づかいに、招く合図の旗印、すすきに雑じる髑髏(されこうべ)、心と読んだが無理かいな。
端唄(はうた)
『雨風が、育てるとても雨風が、強けりゃ花も散るぞいな、ホンニお世話もほどがある。
『○○は髭(ひげ)ある癖に、二重(ふたえ)腰、蝦(えび)の権利の後ずさり、ホンニ卑屈な態(ざま)かいな。
よしや武士 よしや武士
『よしやほころび縫わんすとても、縫うに縫われぬ人の口。
『よしや眠むくも門の戸開けて、叩く水鶏(くいな)を聞かしゃんせ。
『よしや隅田に浮かれて居よが、もとは鷗(かもめ)の都鳥。
『よしや南海苦熱の地でも、粋(いき)な自由の風が吹く。
『よしや待乳(まつち)と庵崎(いおざき)とても、心ろ関屋のわが思い。
『よしやおまえの仰せじゃとても、権利無い身に義務は無い。
『よしや朝寝が好きじゃといえど、殺し尽くせぬ明鴉(からす)。
『よしや此の身はどうなり果てよが、国に自由が残るなら。
独々逸(どどいつ)
『破れ障子とわたしの権利、張らざなるまい秋の風。
『二十三年*そりゃ大馬鹿よ、善は急げと書いてある。
*憲法発布を約束した年の明治23年のことか。078
『他所の花羨むばかしじゃそりゃ気が弱い、
我に自由与えよ、しからずんば、死を与えよ。熱血染め出だす十三州*
羨ましけりゃ咲くがよい。
*米国の独立十三州のことか。
305 16.6、政府は出版条例を改正した。
血気の士は絶望の悲観に赴いた。
自由党は集会条例のために地方との連絡を遮断され、少壮血性の者は、単独で事を処せんと図り、分裂傾向を示した。板垣の外遊後、谷重喜が代理となり、島本仲道が顧問となり、星亨、片岡健吉、大井憲太郎、内藤魯一、加藤平四郎が輔翼し、熱騰する士心を抑えた。谷はかつて板垣に従って土佐藩の兵に将として東北に転戦した。後、大阪鎮台司令官となったが、征韓の議に破れて野に退いた。後数年して病に斃れた。
感想 この新聞紙条例改正は、明治政権の権力的独善性丸出しの弾圧政策そのものである。明治政府が暴力的であったことがよくわかる。彼らは公卿や江戸時代の大名のようにプライドが高かったのだろう。そのプライドは差別構造の上に立っていた。
この弾圧政策は、急進思想が日本でも現れる原因にもなったのではないか。伏字やひねくれた表現が現れるようになったという。303
第四章 板垣総理の帰朝
306 16.6.22、板垣が欧州旅行から帰還した。板垣はパリを中心に滞在し、イギリス、オランダを回り、クレマンソー、ヴィクトル・ユーゴ、アコラス、スペンサーと交わった。後藤は当初米国を経て帰朝する予定だったが、結局板垣と行動を共にした。栗原亮一、今村和郎も共に帰朝した。横浜の自由亭で歓迎会を開いた。
今村太三郎の歓迎の辞「…我党が、閣下のその忠君愛国の効を奏せんとする、日一日より深きを知ることは、言うまでもない。…」
(「自由新聞」明治16.6.23)
308 東京での歓迎の辞「…紀元2543年6月22日、東京において
自由党員総代 加藤平四郎謹述」
(「自由新聞」明治16.6.23)
309 板垣の答辞(省略)
(「自由新聞」明治16.6.23)
310 6.24、向島八百松楼で祝宴会を開いた。参会者100余名。これまで政府関係者しか洋行しなかった。板垣は、スペンサー、アラコス、ユーゴの著書を始め、英独仏の書を数百巻持ち帰り、翻訳させた。栗原亮一も演説した。板垣はフランスについて「野蛮の元気を以て、自由の精神を率いている。」と評し、『西洋聞見一班』を自由新聞に載せた。
「西洋聞見一班
私は、今回の旅行の当初は、ヨーロッパ文明が衰えつつあり、日本が追いつくことができるのではないかと思っていたが、終わりごろには、ヨーロッパ文明は、益々盛んで、血気盛んであり、なかなか追いつくことができないのではないかと思うようになった。
これまで洋行した人の話では、ヨーロッパの外形は、奢侈文弱、つまり身の程を過ぎたおごりであり、弱弱しいとされている。家屋市街の美は金殿玉楼にすぎない。衣服は鮮を争い、車馬は麗を競い、酒は万国の醇を嘗(な)め、膳は五州の珍を集め、国民の心はこれらの贅に注がれている。欧州人は、こうした社会日常の事物に束縛されているのだから、どうして学問考究のための時間を割くことができるのか。だから西洋文明も漸く老けて、支那、インド、エジプト、ギリシャ、ローマ文明の徹を踏むのではないか。東洋は、奢侈文弱を戒め、創業心を持ち、社会の改良を謀れば、今の東西文明の力関係を逆転できるのではないか、と考えていた。
311 しかし、よく観察してみると、決してそうでないことが分かった。人民は活発で、また政治家は、肉欲を去り、物貰いの子どもを見てよくないことと思い、価値が下がるとされるアパートの上階に居を構え、お金を払って人力車に乗り、古い帽子を被り、質素な服を着て、きらびやかな服装で立派な馬車で通勤する人に対しても恥じることがない。そして議会では議論に熱心で、論難排撃、直言、正言、喧噪叫号し、議論が昂じて決闘することもあるほどだ。
312 学者は一心にその学を勤め、衣服に頓着しない。老人が少年と競技で戦い、下層社会では、仮面をつけて乱舞する。ヨーロッパでは、学問が進歩し、政治が改良されたから、商売や農工が繫昌するのだろう。
文明の進歩は、東西の別に関わりがない。ヨーロッパの文明が益々盛んである理由は、相互に刺激し合い、各国がそれぞれの長所を伸張させたからだ。フランス人は、活発で、創造力に富み、イギリス人は、沈着で持久力があり、ドイツ人は、思考力に富み、ロシア人は武力に富み、それぞれが、それぞれの長所を伸張して国家を立てたから、国内・国外ともに元気なのだ。ナポレオン一世はヨーロッパを統一することができず、かえって各国の独立を早めた。
ヨーロッパ各国は、ローマ帝国を蹂躙した匈奴の気風と封建時代の武士の精神を持っている。
314 日本はどうか。今の日本人は、十二三歳の若い娘がいきなり主婦になったようなもので、まだ実力がない。
日本人は老いやすく、元気がない。今日の政府は武力に訴えて生まれたが、今では軟弱になった。保護過剰である。日本人は40歳を過ぎると老けて引退するが、西欧では50歳まで基礎訓練を積み重ねる。
このことは、経済、政治、学問において大きな影響力をもつ。元気がキーワードだ。
315 政党について。改進党新聞の文章は西欧に倣っているが、その精神はどうか。西欧の政党は、国家を支えている。西欧の政党は道徳に基づき、軟弱、詐欺、保護とは無関係である。改進党には道徳がない。
日本人に元気がないから、改進党が生まれた。日本の学者も視野が狭く、旧態依存としている。ちょっとはみ出すと、狂っているとか過激だとか言って非難する。それは西洋の価値観からすれば、女のすることだ。「我が堂々たる男児国を如何んせんや。」
316 西欧の本質を掴むべきだ。その精神元気を学ばなければならない。制度や社会組織の改変だけでは不十分だ。上下君民の幸福は、それにかかっている。国の富強文明も、それにかかっている。法律・政治・風俗については、すでに述べられているので、私は触れない。
(「自由新聞」明治16.8.22・23)
感想 失礼ながら板垣の演説、つまらない。虚飾が多いのだ。心に残るものがない。一読しただけだが。西欧文明の優秀さを、ただ「元気」という主観的な言葉で捉えようとしているようだ。西欧では高齢になっても元気に頑張っている老人が多いとか、政治家が、身分や貧富の差に臆せず、対等に振舞っているのに驚いたとか、西欧社会がますます元気を増進・維持し続けていくだろうとかである。
板垣は通訳を連れて行き、外国語を話せなかったようだ。また、外国の書物を読んだことがあったのだろうか。同伴した後藤象二郎が、当初アメリカにも行くつもりだったようだが、途中で考えを変えてしまったのは残念だ。
感想 板垣はヨーロッパで何を見て、何に驚いたのか、それを日本の何と対比したのか、なぜすぐには追いつけないと思ったのか。
ヨーロッパでは、身分的・経済的な上下関係に基づく桎梏がなく、身分的・経済的上下関係の束縛から解放された人々の自由溌剌さが、ヨーロッパの物質文明を培った。それが、日本にはない。日本では尊大な身分的上下関係、政府による強権的人民支配、それに甘んじる民衆の卑屈さなどを想定していたのだろうか。その点がいまいちよく伝わってこない。313
316 8.15、板垣は東京を発ち、大阪を経由して土佐へ向った。改進党や帝政党はこれを板垣の引退と看做した。
8.20、大阪自由亭で懇親会を開いた。集会条例の検束を避けるために、名称を懇親会とした。立憲政党員も来た。200余名が参集した。板垣が談話を述べ、それを筆記したものが次の一文である。
317 「欧州観光の感想
…政党を解いたにもかかわらず、ここに参会された立憲政党諸君の精神気力の旺盛なるを賞賛し、…
319 私は、徳川氏の鎖国時代に青年時代をすごし、維新の後に、我国に渡航する外人に交わっただけで、自ら進んで交際を求めなかった。
320 香港はイギリス領である。この地に住んでいる中国人は、皆イギリス人である。その中国人は、イギリスによって自分の土地を奪われたことを顧みず、生活上の不満は言っても、政治上の不満は気にかけない。それは、日本人が自分の利益だけを考えて、政治思想を持たないのと同じだ。ヨーロッパ人が支那人を虐待しているが、これはおかしい。かつてヨーロッパ人が忌み嫌い滅ぼしてしまった貴族の特権とは、同一権利の人間社会でありながら種類を分かち、上等種が下等種を虐待するものであり、それは道理に合わない。ヨーロッパ人はそれが道理に合わないことを認めながら、支那人を虐待している。ヨーロッパ人は、人権の平等を達成した国民でありながら、アジア人に対しては貴族のような特権を持っている、これはどういうことなのだ。
ヘンネツシー氏は、この状態に関して自由説を唱えた。つまり、香港の議会では、鎮台の官吏が議長となっているが、それでは権力の正当性が薄弱だとし、中国人を選挙によって香港議会に参加させるべきだと主張した。しかしこれに対して、香港在住のイギリス人が反対し、氏を退任させ、本国に帰らせた。イギリスは自由の保護者と言われるが、これでは自由の破壊者と言わざるを得ない。
321 サイゴンは仏領である。シンガポール、セイロンは英領であり、その国人は卑屈で、奴隷の域に安住している。そして貴賎の別が激しく、党派の分裂が甚だしく、英国の覊絆から離脱できる見込みがない。セイロンは釈迦の生誕地であったのに、慨嘆するばかりだ。アラビアのアデンは、アッシリア人が言うには地獄という意味であるが、ヨーロッパ人にとっては、アジア・アフリカ航路の中継点であり、ヨーロッパ人はここから乗船し、アジアやアフリカに向う。アジアの要路の地は、ヨーロッパ人の占有するところとなっている。このように欧州人は貴族の地位にあって、この地を、アジア人を駆役する城砦とした。次に紅海に入り、スエズ海峡を経て、ポルトサイドに至る。ここはエジプトの領分で、今はトルコの属国となっているが、インドよりはましだ。地中海を経てナープルに至る。(ナポリか)この地はかつて専制政治の弊害を被り、貧弱で、今日では貧乏人の巣窟とのことだ。しかし港のつくりはすばらしく、欧州的雰囲気がする。マルセイユは文明の中央である。
322 これまでの旅行を通して、私は慨嘆することがある。自由平等を唱え、文明を誇称する国人が、その己がかつて忌み嫌ったところの貴族の権利を恣(ほしいまま)にして、東洋人を虐待することである。これは、本国では営業できず、あるいは私欲あくなき徒が東洋に出て、ひたすら己を利し、正理公道を亡失したものだ。
その本国人は、日本をどう見ているか。その中等以下の輩は、日本国があることを知らない。彼らはすべて黄色人種、支那人と看做す。これは昔日本人も、外人を見れば全て唐人と看做し、今日でも欧米人のことを夷人というのと同じだ。ヨーロッパの本国人は、アジアに来て私利私欲を働く輩とは異なる。人種の別は免れないが、これは差し迫った問題ではない。問題は宗教だ。この観点から欧州人は日本人を外道の民と看做し、卑しむ。一方日本人は耶蘇教を邪教と看做したとしても、日本人は野蛮状態を抜け出せずにいる。宗教の力は大きい。宗教は他教を卑しむものだ。
323 欧州諸国の文物典章は燦然とし、文明は進歩して勢力がある。だから、耶蘇教は、それを信じない国人を蔑視する。
欧州では政治は、多数の人民の意向に沿って行われている。政治家は多数の人民の歓心を買わないではやっていけない。政治は、社会進歩の度合いと共に進行するから、社会の不完全な状態を維持しながら進まざるを得ない。歓心を得る対象は、少数の知者ではなく、多数の愚者である。上流の人が人種や宗教にこだわらないとしても、多数の歓心を得るためには、人種や宗教に拘泥せざるを得ないこともある。欧州のアジア政略はここから生ずる。アジアは野蛮だ。日本も野蛮だ。野蛮国内に少数の知者がいても、大勢が野蛮なら、国家全体としては野蛮と看做される。同様に、日本がいくら進歩しても、アジア全体が野蛮だと、日本も野蛮だと看做される。
324 条約改正についてもこのことが言える。日本だけが進歩してもだめだ。欧州人で東洋に来る者は、概ね自己の利益に汲々としていて、欧州の本国にいる者は、彼等の情報や新聞で東洋の形勢を臆断し、トルコ、エジプト、ペルシャと東に行くほど野蛮の度合いが増すと考えている。そして未だトルコと条約改正をしていないのだから、日本と条約改正をすれば、トルコ、エジプトとも条約を改正しなければならなくなる。だから日本の条約改正作業は容易ではない。
それではどうしたらいいのか。平凡な策ではだめだ。日本は、文明国が先頭に立って作ったもの、政治、法律、学術などの短所を捨て、長所を取ることができる立場にいる。非常の改正を為し、欧州人をびっくりさせるような政体を作り、欧州人に治外法権を捨ててもいいと思わせるような立派な法律を作ることだ。そうでなければ海軍を拡張して、欧州人の腰を抜かせるような海軍力をつくり、もし日本が隣国と戦うことになれば、欧州人が日本の盟友になりたいと思わせるような武力を養成しなければならない。文武いずれか、その一つによって、非常の英断を行わなければならない。そういうことが分かった。(それでは泣く人が又出て来るのではないか。)
325 フランスの軍艦は大小498艘、内甲鉄艦58艘、イギリスは大小243艘、内甲鉄艦は、48艘、ロシアは三艦隊大小223艘、内甲鉄艦は30艘である。
イタリアの海軍卿は、世界第一の軍艦を造った。価格は1千万ドル。その軍艦を造る時、一つの政党が、大きな軍艦を少数造るよりも、小さな軍艦を多数造った方が、イタリアのように海で囲まれている国の防衛には望ましいと反対した。後に、その反対党派の出身者が、海軍卿に就任したが、従来の少数の大きな軍艦という方針を受け継いだ。
私は弱小ながらも多くの軍艦を造った方が、イタリアのためにはいいのではないかと思う。日本の場合はどうかと言うと、巨大な軍艦を造った方がいい。日本国民は強鋼で陸戦には強いが、海軍では弱い。日本はイタリアのように周囲を大国で取り囲まれていない。たとえ英仏が香港、サイゴンを城砦としていても、遠距離から軍隊を派遣することはできないだろうからだ。日本は若干の堅牢な軍艦を購入すべきだ。そうすれば欧米人はびっくり仰天し、条約改正も可能になるはずだ。
326 そうでなければ、完全な政体や立派な法律を作り、欧米人をびっくりさせることだ。今の日本には不完全な国会もないのだから、海軍を拡張して武力を養成すべきだ。専制政治の下、強制的に人民を指揮し、欧米と戦わせることはできない。人民が進んで政府の方針に従わなければ、陸軍や警察の力で人民を強制することになるから、その戦闘力は弱い。政府は、陸軍を強化し、警察力を厳格にするために、財力を消費してしまう。
英仏には自由兵がいる。自由兵は、人民自らが編制した兵隊で、士官は人民が投票で選出する。そういう軍隊の行軍は、勇気凛々とし、侵すべからざる勢いがあり、民衆もそれを声援している。
それは、日本における、かつての豊国神社の祭礼で、各町家の父母が、己の子を軍人に扮装させ行列に参加させ、これを誇示するのと同じ光景だ。
この自由兵は人民を抑圧するためのものではなく、国を守るためのものであり、人民と親睦し、憲法を護衛し、人民の保護兵となる。
日本でもこのようにすれば、陸軍の常備兵を少なくでき、海軍を拡張できるだろう。
文武いずれかの方法で条約改正をすべきだ。すぐさま立派な政体を作れなくても、国会を開き、陸軍常備の兵を減少させ、警察の費用を減少させ、人民を制圧する費用を、国防費に転じ、海軍を拡張すべきだ。文武相伴って、かならず同一の道(条約改正)を歩行しないわけにはいかなくなるだろう。
328 私はフランスでアコラス氏に、ヨーロッパに来てどんな感想を持たれたかと問われ、欧州では哲学が進歩し、生活社会が進展しているが、政治社会は遅れていると指摘したところ、アコラス氏もそれを認めた。
欧州では、精巧広大の事業を為し、衣食住、農工商ともに善美であり、村にも工場があって煙突が林立し、為替は迅速な売買を可能にし、道路は滑らかで、運河を開鑿している。
329 ところが、政治社会では、個人の自由に任せるべきことを政治が干渉し、町村の自治に、中央政府が干渉し、政党も私党の弊害を免れていない。例えば、仏国の下議院は貴族を放逐し、英国の下議院は、ブラドローが誓いを承諾しないので、議院に入るのを許さなかったが、これは児戯だ。
日本は欧州と反対だ。生活社会は低度であり、政治社会は進歩している。町村、郡区、府県など、地方の官治が整っているが、生活社会は、たとえば村落には、地主と小作人しかおらず、工場はなく、財力者と力役者とが合同できていない。会社も少ない。資産家が株を持ち、知者が発言し、力役者が製造運搬に従事し合同協力する組織がない。為替会社もなく、運搬会社もなく、保険会社もない。
330 今の日本人は、己を利することに汲々としていて、全体を見ていない。それは野蛮な人民が、各自に闘争するようなものだ。政治社会が生活社会を圧迫しているといえる。
人間社会は、生活の必要があって、その後に政治の出番が出て来るものだ。欧州では、この理に沿って物事が進行しているが、我国ではそれが逆転している。我国でも昔は逆転していなかったのだが、昔から専制政治が行われていて、人間の素質とも言うべき生活社会が遅れた。一方、欧州では、生活社会の為に政治社会がある。
331 生活社会を挽回するためにはどうしたらよいか。殖産工業か。それは凡庸な考えだ。私は生活社会を阻害する政治社会を改良し、その干渉の弊害をなくすべきだと思う。そうすれば人民が政権を得て、その度合いに応じて、生活も進歩するはずだ。
欧州では生活社会が政治社会を改良し、富豪者は、自分の財産をつぎ込んで政治家を賛助し、愚者は知者に従い、生活社会の勢力が、政治社会を改良している。
欧州人は公共の為に生命をなげうつ気概を持っているから自らの財をなげうつ。一方、日本ではこれと違って、公共の利益の増進が、自らの利益につながることを理解せず、保護政策を実施するにしても、少数が保護を受けるのではなく、全体が保護を受ける利益にあずかることを知らない。生活社会の貧弱な日本では、政党内での親密さを広げることができない。
332 そして、生活社会の保護は、政治社会の力に頼るべきものとするから、製造商業会社は、知力や財力を共同することを知らず、官の保護を受けるばかりだ。
しかし、ここで反論があるかもしれない。日本はまず生活社会の改良から始めなければならないのではないかと。しかしそれは皮相の見解であり、政治社会が生活社会の弊害を招いたのだから、政治社会を先ず直さねばならない。
ルソーは、人民は胃で、政治は頭だとし、だからまず胃を改めなければならないと言った。その通りだが、ルソーの言を転じて言えば、我日本人は頭(政治)が悪かったので、消化の悪い食べ物を胃の中に入れたのだから、先ず頭を改善しなければならない。
333 政治の干渉の弊害を一掃し、頭脳=政治の健全を図るべきだ。
しかし、以上は極論であって、政治社会を改良することと、生活社会を改善することとは、ほぼ同時進行する。
法律は生活を改善し、政党は共同の事業を可能にする。政治社会を改良すべきだ。
(「日本立憲政党新聞」明治16.8.22・23・24・28・29)
感想 前記の感想で板垣の演説には見るべきものがないと言ったが、板垣のこの演説には、核心を突く内容があった。
それは、西欧諸国が貴族階級の圧制に抗して政権を獲得したのに、貴族から受けたその同じ苦しみをアジア諸国にもたらすのは納得できない、としていることだ。
ところが、板垣は次に、日本の条約改正が難しいとし、その理由は、日本との条約を改正すれば、同様にトルコやエジプトとの条約も改正しなければならなくなるからとし、結局板垣は、その解決方法として、西欧諸国が治外法権を手放してもいいと思えるような法律を日本が整備しなければならないとするだけでなく、西欧をあっと言わせるような強大な海軍力を日本が持たなければならないという、西欧のいじめ論理と握手する結論に達する。322, 324, 325
感想 アラコス氏に欧州の感想を問われた板垣が、生活社会と政治社会という対比を示したところ、褒められたとのことだが、けなす人はいないのではないか。物質文明を生活社会と捕らえ、ヨーロッパでは生活社会が政治社会に先行しているのに対して、日本ではその逆で、政治社会が先行し、生活社会が遅れているとし、その理由は、日本では政治が庶民の自由な活動を阻害してきたからだとする。
しかし、それなら、政治社会が進んでいるのではなく、むしろ遅れていると捉えるべきではないのか。ただし、進んでいるとか、遅れているとか言っても、その倫理的な意味と機能的な意味とが想定され、板垣は、その機能的な意味でとらえているのかもしれない。
政治と民間産業との関係に着目したことは、板垣が、日ごろから政治システムについて考えていて、ヨーロッパに来て、その物質文明が進んでいることに驚き、このような対比を思いついたのだと思われる。
板垣の言いたいことは、ヨーロッパでは、人々が政治家を動かし、人々の活動が活発に行われ、活気に満ちている。日本もそうでなくてはならない。そのためには、集会条例や新聞紙条例のような政治的抑圧をやめなければならない、ということなのだろうか。
2019年2月23日(土)
感想 板垣のこの演説が改進党から批判された333とのことだが、板垣は洋行後、変身したというか、もともとそうだったものが顕在化したのか、条約改正のためには、海軍力を増強すべきだという主張は、明治政府の方針となんら変わるところがない。板垣は、集会条例や新聞紙条例の弾圧に屈し、政府と同調すべく、穏健になったのではないか、だから植木を、人民闘争の恐れのある福島から呼び寄せたのではないかなどと憶測する。
333 改進党は、洋行後の板垣が、政府の篭絡するところとなり、引退するのではないかとか、帰朝後議論が一変して軟化したとか、飽く迄心を構える気がなくなったとか、批判した。その根拠は関西でのこの談話に基づいていた。
324 後年『新日本史』の著者*もこの談話を引用して、板垣が、アラコス氏の言を引いて、生活社会の方を政治社会より先に改革すべきだと論じたとしたが、それは誤解である。
*『新日本史』竹田与三郎(1865--1950)著、西田毅(1936--)校注1891年刊(岩波文庫)
板垣は確かに洋行後その議論を深めたが、自由党の唱える政弊改革、憲政樹立、自由主義を捨てたわけではない。関西懇親会での談話で、板垣は、条約改正、国権伸張が難しいと認識したうえで、日本は政治の威力を以て生活社会を圧してきたため、生活社会が幼稚なままである。だから、生活社会が進んで政治社会を改良することなどあるはずがなく、政治改革を急務とせざるをえない、と結論づけた。これは後年の板垣の社会改良論の端緒となった。
22、板垣は大和の土倉庄三郎を訪い、29、土佐に帰還した。老壮悉く赤帽を被り、板垣を迎えた。
336 丸山台の式場で歓迎会を開き、翌日は懇親会を開き、これから連日、200人を一組として自由亭で、板垣は観光の談をした。つまり、支那、インド、トルコ、イタリアに対する、英仏の隆盛を論じ、日本の前途の方針を指示した。
このころ血気の徒は、文よりも武を講じ、統一を失いかけていたが、板垣がこれを抑えた。(群馬や秩父での民衆の反乱を暗に指すのだろうか。)
第五章 資金醵(きょ)集の運動
336 政府の弾圧に負けて、主義をなげうって、官吏の下にひれ伏す人や、田舎に隠遁してしまう人も出てきた。自暴自棄になって一時的な功名を求める者もいた。主義を貫く人は希であった。党費も集まらなくなり、ただ神奈川、高知、新潟だけは拠出した。板垣は、維新時の家禄を殆ど使い尽くしてしまった。
338 15年の秋、寄付法を定め、醵金活動をすることになった。
「自由党寄付金法設定要旨
…
自由党寄付金規則
…
第五条 寄付金を拠出した人の過半数の決議で、その支出を決定する。
第八条 委員は10名とする。寄付金総会で委員を選出する。選挙人と被選挙人は、寄付金を拠出した人に限る。405
以上は、明治15年11月に寄付金発起人が集まったときに議定した。406
407 寄付金発起人申し合わせ規約
…
自由党寄付金人名
…
明治16年4月
自由党寄付金委員
(明治新聞雑誌文庫所蔵パンフレット)
340 福島・高田の大獄に激発されてますます奔騰し、党中往々にして地方に編曲し、単独軽挙を事とする者を生じ、協同一致、旅進旅退の目的を誤らんとする傾向に陥れり。少壮血気の輩は、皆な言論の道絶えたりと称して、郷関を脱走して東京に走り、定職も、住居もなかった。(福島・高田事件を否定的に捉えているようだ。本書当該の部分では政権の一方的な弾圧として批判的に記述していたように思うのだが。)
板垣はこれを抑えるのに苦労したが、脱徒は、板垣を因循姑息と看做し、収拾が難しかった。栃木、福島など関東北部の壮士は、県令三島通庸の暴政を実際に体験し覚悟ができており、意気が高かった。その直後、群馬、加波山*の挙があった。
*明治17、1884、県令三島通庸と政府高官の暗殺を計画していた、栃木、・茨城・福島の自由党員が、茨城県加波山にたてこもり、宇都宮県庁を襲撃するために下山したところ、逮捕され、富松正安ら七名が死刑になった。
上京した志士の一隊が、自由党事務所の寧静館を宿舎代わりに使おうとしたが、板垣はこれを退散させた。本郷の長元寺は、高知県の脱徒数十人を受け入れた。これらの脱徒は、福島の件で集まった者たちだった。
341 16.8、板垣は土佐に帰るとき、常議員幹事などと共に、資金十万円募集の義を発し、また党の秩序を立て直そうとした。寧静館から各地党員に寄せた報道書を次に掲げる。
「資金募集の激
板垣総理が言った。『これまでのことを振り返ってみると、まだ我々の目的は実現していない。私には不満がある。株金を拠出していない者がいて、そのため新聞事業が進展していない。寧静館にいる党員の巡回や庶務の経費として、一年間につき数百千金が当てられているにすぎないし、その経費の半分が集まっていない。これではいくら経っても、目的を実現できそうもない。団結しなければならない。
目的達成の手段として、講習所の設置、外国人との交流、集会の開催などがある。
343 新聞の発行や党員の巡回は言うまでもなく重要だ。
講習所は、読書や講義のために必要だ。
出版社で我党と軌を一にするものには、賛助してもいい。特に党独自に設ける必要はない。
練武場設置の必要性はこうだ。現在武力行使を軍人に任せ、一方で文芸が開けたが、そのため肉体の鍛錬が乏しくなった。それでは士気が上がらない。青年に銃撃や剣術を習わせる必要がある。
欧州人と交際し見聞を広めなければならない。アジアを眠りから醒まさせなければならない。
344 党会を結成し、輿論を培養すべきだ。そのためには討論し演説するための集会所が必要だ。
以上の事業を実施するためには、数十万の金が必要だ。』
私共は協議の上、総理のこの言に従うことにした。諸君も総理を選んだのだから、従って欲しい。
明治16年8月
寧静館」
神奈川、栃木、茨城の各県ではカンパが多かった。
出資者人名(一部)
「明治16年7月18日
…
…」
(「自由新聞」明治16.8.1・2・3・4・10・25・31、9.11・12・13・14・20・21・22)
358 11月初旬、各地の委員が東京に集まり、3日、寧静館で、4日から15日まで伊勢勘楼で協議会を開催した。板垣はそのとき郷里に70日間滞在していて、これから上京するところだった。板垣は10日に土佐を発し、15日、東京に着いた。16日、浅草井生村楼で臨時大会を開き、80余名が参加した。
359 星亨が議長に推薦され、加藤平四郎が説明委員となり、十万円募集の議案を採択した。
各県に分担額を定めた。その議決は次の通りである。
360 「臨時大会決議録
361 組織を基礎からつくらねばならない。そのためには資本が必要だ。
議決事項
第一 盟約書第14条、及び第15条を廃し、金十万円以上を募集する。
…」
362 今は、一死を以て至誠を尽くすべきときだ。専制政府に対抗して活動を期せんには、我党もまた中央集権の組織を立て、総理指揮の下に進退すべきだ。今は、政党存立が至難な時である。
16.11.29、板垣は片岡健吉と郷里に帰った。
363 17.3、自由党は東京で大会を開いた。板垣は松山の井出正光、紀伊安太郎とともに乗船し、29日、今治で四国懇親会に望み、3.10、横浜に着いた。13日、総会を浅草井生村楼に開いた。片岡健吉が議長に選ばれた。各地から集まった総代は61名だった。
出席人名
…
364 討議の後、議案数項を決定した。次に寧静館報道書を掲げる。
「春季大会決議報道書
365 近頃民間の政治社会にやや退歩の兆しがあると言われているが、今やこれまでの輿論や議論を実行に移すべきときだ。国政が中央集権の下に置かれているのだから、政党も中央集権にしないと、運動が活発にならない。これからは細目を党議に付して、衆論で決定する方法を用いないこととする。首領を選び、全権を任して専断決行しないわけにはいかない。地方が本で、中央は末だ。地方に滋養がなければ、中央からの集権は不可能だ。以下検討されたい。
規則に関して
第一 常議員を廃する。
第二 地方党員の中から常備員若干名を選出し、彼等にその地方の党籍を扱わせる。その選任は総理が指名する。
第三 幹事三名を若干名に改める。
第四 会議に出席する各地方の総代は、その地方の選挙会で選定された者とする。
第五 脱落。
第六 例会は毎年春秋二回とし、春は東京で、秋は大阪で行う。
第一 常議員が実質的な仕事をしなかったからだ。これに代えて諮問を置き、それを総理の参与とする。
第二 常備員を各地方から選出するはずだったが、これもまた実際には行われなかったので、その人員を減じて、総理の特撰に任せ、常務を担当させ、地方総代の資格で上京し、その人員を増やす可能性を認めて、人員を繁簡に応じて増減できるようにした。
第四 従来のこの精神が適用されなくなり、個人の資格で参加する者が出てきたのでここに明記した。
第五 これまで人頭や地方分担の法則で党費を徴収してきたが、煩雑のため、昨年から寄付金方式に変更した。爾来、資産に応じた寄付金を拠出してもらうことにした。
367 第六 従来の活動が東日本に偏し、関西との連絡が取れなかったので、東西合同のためにこれを設けた。
規則に関しないこと
第一 諮問若干名をおき、それを総理の参与とし、選任は総理の指名にする。
第二 総理に特権を与え、党事を専断決行させる。
第三 文武館(仮称)を設け、活発有為の士を養成する。
第四 各地へ巡回員を派遣する。
第五 会議に参加する総代を選挙する区画とその人員を定める。
第七 総理を改選する。
第一 諮問は、総理の相談相手であり、すでに、星亨、大井憲太郎、北田正董が選考されたが、北田氏は辞退した。
第四 明言しにくいことである。各自が考えて欲しい。
第五 選挙区を定め、会議の前には、各選挙区で選挙会を開き、会議に出席する総代を選出する。
第七 板垣君がまた選出され、東京で党務を行うことになった。
明治17年3月14日
寧静館」
368 常備員には、奥羽全体を森岡の鵜飼節郎に、新潟全県を頚城(くびき)の鈴木昌司に、群馬、栃木、茨城、埼玉、千葉の五県を東京の大井憲太郎に、愛知県を三河の内藤魯一に、山陽地方を岡山の小林樟雄に、山陰地方を島根の高橋基一に、四国全体を高知の森脇直樹にそれぞれ委託し、神奈川、北陸、近畿、その他の地域でもそれぞれ定めた。常備員の任務は次の通りに規定した。
「一 東京にいるときは、党議に参加し、地方にいるときは、受け持ち管内の党務を行う。
一 寧静館の報告を各管内に伝え、これを実践させる。
一 時々受け持ち管内を巡回して、党員を奨励し、その盛衰を視察し、その状況を寧静館に報告する。」
幹事に杉田定一、加藤平四郎、佐藤貞幹を挙げ、諮問は北田正董が辞任したので、片岡健吉がその後を継ぎ、かつ片岡は文武館(後に有一館と称す)の主幹となり、磯山清兵衛がその幹事となった。
大会決議で代議員の地方選挙区を次のように定めた。
…
370 地方巡察員の派遣
片岡健吉、植木枝盛は、東海道から北陸道へ、齋藤壬生雄は奥羽地方へ、杉田定一は長野、新潟地方へ、宮部襄は東海道へ、小林樟雄は山陰、山陽道へ、星亨は千葉、茨城地方へ、磯山清兵衛は栃木地方へ、北田正董は神奈川県へ、それぞれ4月初旬から出発した。
このとき各地の党員が逮捕された。越後の八木原繁社は不敬罪で、群馬の長坂八郎、新井愧三郎、越中の稲垣示、栃木の塩田奥造は集会条例違反で、福島の岡田健長と東京の林包明は官吏侮辱罪で獄に投ぜられた。
1月、鈴木舎定は、病でついに立たなくなった。鈴木は、森岡出身で、自由党幹事、常議員を歴任し、求我社を興した。享年29歳だった。
明治10年の乱のとき、立憲政体創立を唱え、土佐立志社の徒と共に革命を企て、獄につながれていた、陸奥宗光、林有造、大江卓らの刑期が満ち、陸奥は15.12に赦免され、林、大江は、17.6.4に仮出獄した。7年間の在監であった。
371 自由党は、文武研究所の建築に取り掛かった。
このころ板垣に刺客があった。刺客は5昼夜床下に潜伏したが、機会を失い、未遂に終わった。そのことは、刺客の法廷での自白で分かった。
このころ関西の士気は、岡山、大阪を除いて、消沈していた。
372 九州の改進党は、5月、博多で集会を開催し、視察員を各地に派遣する決定をし、和泉邦彦、長谷場純孝らが北陸に向った。
自由党の東京の党員は、近畿や中国へ出向き、6月、関西有志懇親会を大阪で開催し、100余名が集まった。これには参尾以西の士が皆集まった。
参加者氏名
「…」
(「日本立憲政党新聞」明治17.6.10)
374 そのとき次の決議をし、幹事に大阪の寺田寛、江木信、岡崎高厚を挙げ、庶務に当たらせた。
決議事項
「一 関西親睦会は、関西各州で同じ主義を抱持する者が親睦のために集まって結成する。
375 一 本会員は地方の便宜に従い、各々組合を設け、組合の中に通信委員三名をおく。
一 毎年大阪で本会を開設する。
一 会ごとに次の会の幹事3名を選挙し、組合の中に通信員を三名置き、庶務にあたらせる。」
(「日本立憲政党新聞」明治17.6.10)
8日、懇親宴会を新地の静観楼で開いた。旧立憲政党や大阪付近の改進党員もやってきた。9日、自由党員の協議会を開き、関西事務所を大阪に設けることに決め、これを北浜五丁目の玉桜方に置き、相輝館と称した。片岡健吉がその派出員となり、檄文を諸県に送った。
「関西自由党員に告ぐ
これまでの自由党の活動は関東に偏り、関西とは連絡が密でなかった。それはなぜか。資力が不足したこと、党勢が衰えたこと、様々な障害があったことなどだ。
しかし、総理が外遊から帰還してから、自由党の組織を改変し、党勢が回復した。
376 東西とも報国の至誠を取り、天地の公道を守るのだから、東西が分かれているのはおかしい。またすでに、南海地方や中国地方には元気な自由党の士が大勢いる。
近畿では先に立憲政党があった。この党は自由党と実質的に殆ど同じ内容の党であった。ところが最近その党が解党してしまった。これは残念なことだ。また最近では志士が感覚を乱し、方向を誤ろうとしている。以上が大阪での会議のテーマであった。これから派出員は大阪に相輝館を設け、ここを起点として各地に巡回するつもりだ。そして金を関西で募り、文を修め武を講ずる所を開き、集会討議の場を設けるつもりだ。
明治17年6月10日
関西派出員」
関西での会議後、片岡健吉は北陸や越中へ、星亨は伊勢へ、大井憲太郎は紀州へ向った。
感想 自由党の組織を、板垣を頂点として中央集権化したというが、なぜなのか。残念な気がする。政府の悪い点を真似することはないと思うが。組織の機能化を重視したのか。詳しい説明はない。
第六章 有一館の設立
377 自由党は明治16年11月以降、資金醵集活動を初めていたが、明治17年の現在でも約束を果たせない者がいた。しかし大和の土豪土倉庄三郎や、讃岐の素封家鈴木傳五郎、久保財三郎などが巨万を寄付した。
集まったお金で文武研究所を築地新榮町に創設し、6月、ほぼ完成した。主監は、片岡健吉が大阪相輝館の派出員となって転出したので、その後を内藤魯一が継いだ。また磯山清兵衛が幹事となった。その規則は次の通りである。
「有一館規則
…
378 第四条 本館館員となるためには、保証人2名以上を要する。主監(主幹)が選考する。
第五条 ここに入館できる人数が掲載されていない県は、寄付金が確定したときに定める。
…
明治17年6月」
(「自由新聞」明治17.6.24)
379 寄付金千円に対して一人の館生を出す割合とした。醵金が多かった県は、高知、神奈川、東京、栃木などである。
8.10、有一館の落成式を挙行した。国旗が翻り、朝日に映えて美しかった。500余名が集まった。内藤魯一が開館の主旨を述べた。
「開館の主旨
書に曰く、帝徳広運、すなわち聖、すなわち神、すなわち武、すなわち文と。文武の徳は至大だ。文武は車の両輪のようにいずれも重要だ。
しかし近頃世人は文武を偏用し、文に傾く者は、文章の些細な違いにこだわり、身体は弱弱しく、事に処し変に応ずる気力がない。また武に傾く者は、理に暗く、激しやすい。
今は立憲政体を設立する時だから、有志者は、国家の重要な任務に着くべき時であり、文を以て世を益し、民を利する道を明らかにし、武を以て事をなし、志を遂げる気を養わなければならない。
明治17年8月10日
有一館主幹 内藤魯一(謹言)」
(「自由新聞」明治17.8.12)
380 ついで、内藤魯一は景山流の居合を試み、八幡十郎は神道無念流の居合を、三浦正行、川島兵吉は無念流の方式を、千葉之胤、海保振は北辰一刀流の方式を演じた。その後館生数十名が、数番の撃剣を試み、勝負をした。その後、総理板垣が祝詞を述べた。
「祝詞
本館設立の趣意は、文を修め、武を講ずるとあるが、文は、他の学館に譲り、本館の主とするところは武である。(内藤魯一の発言を批判している。)
日本で封建の制度が廃されてから、尚武の気が衰え、文弱の弊に陥った。世人は言う、武を用いるのは野蛮の習俗だ、人世の目的はただ平和だ、自分が武を以て抵抗すれば、他人も武を以て自分に当たってくる、自分が文を以て他人を待てば、その他人も、文を以て遇するだろう、温和で相互に侵すことがないから、自分の権利や自由も受けられると。
381 しかし、実際は違う。人がまだ智や徳を完備していないとき、武を廃止することはできない。温和で以て権利を得られ、自由を享けられるのなら、女や子どもなど最も温和な者が、最もよく自由権利を享けられるはずだが、実際はそれに反しているではないか。文が開けておらず、強者が弱者を制し、暴力が義を滅ぼすような世の中では、ただ文だけではいけない。武で自らを守らなければ、権利や自由を全うできない。
人の心身の強弱は相関するから、精神を強くするためには、身体を壮健にしなければならない。身体が弱い者は、精神も強くなく、大難にあたって偉業をなすことができない。
筋骨が堅硬で勇気が凛然としている者を見ることは壮快なことだが、諸君の今の強さは、天下に誇れるものだろうか。強さは相対的なものだ。今の社会のように、文弱かつ軟弱で、婦人女児のような輩の中で強いといっても、かつての封建時代の武人の勇強壮烈さには及ばない。
382 維新のころ私が東北若松の中堅部隊を衝いたときに共に行動した者は、勇猛の剣客だった。彼らは発砲や練兵を習っておらず、弾薬の装填の仕方も知らなかったが、その剣はよく切れた。剣は銃砲の利に優るものだ。砲弾や銃弾が飛んできても、一本の剣は、群がる敵兵を辟易させた。それは私の力の源泉であった。その点で君たちは彼等に劣るが、全体的に見れば、諸君は自由を根拠にしている強みを持っている。それは、君たちの力が、利益に誘われた暴力でも、他人に雇われて振るう暴力でもないからだ。
諸君が文武を養成し、士気や実力を高めれば、必ずしも武力を用いなくても済むかもしれない。私には、有一(いちあり)、どうして憂えることがあろうか。(一とは自由ということか。)
明治17年8月10日
自由党総理 板垣退助」
(同前)
383 寧静館幹事の杉田定一が祝辞を述べた。
「祝詞
何年もかけて事を成し遂げる性質の仕事は学者のやる仕事であり、今すぐ結果を出すべき類の仕事は創業者のやる仕事だ。学者は議論が緻密で、創業者は思想が簡便で、理論よりも実用を重視する。
咸陽に火をつけ、秦を倒したのは学者ではなかったし、また、ある江東の人は、書は姓名を記すだけでいいと言った。
米国の独立戦争やフランス革命は、お金持ちの紳士が成し遂げたものではなく、無知の賤民が成し遂げたものだ。我党は、米仏の殺伐残酷は嫌いだが、学問がどんなに優れていて、書物をどれだけ沢山持っていても、それは、昔の積弊を一掃し乱によって正しい状態に戻すためには、実用に適さないということを知っている。
しかし文武はいずれも政治に必要であり、書は大義名分を理解するだけで足り、剣は勇猛果敢の精神を鍛えるだけでよい。私は、重箱の隅を突っつくように文の細部を追求することには係わらない。
384 昔、藤田東湖は弘道館を興し、吉田松陰は松下村塾を設け、尊攘の大義を唱え、敵愾(がい)心と孤高の慨嘆を燃やし、ついに江戸封建制の弊害を矯正し、維新を成し遂げた。今、我党が唱える自由は、尊攘とは名目は異なるが、国を愛し、君に忠なる点では同じだ。自由自主の大義が有一館から進展したと後世に伝えられるならば、光栄なことだ。
明治17年8月10日
杉田定一」
(同前)
壮士が慷慨の謡を奏し、また力士数名を呼び、相撲を取らせた。
有一館が設置されると、諸県はその噂を耳にし、皆、武に心を傾け、競って剣の訓練し、馬を草原に走らせた。中でも土佐高知の連合各社は有名だった。
385 自由党の組織は、軍隊のように秩序乱れず、国家の隆昌に尽くし、公の福祉に貢献した。それなのに在朝の政治家は、どうして政党を畏れ、呪詛し、悪鬼のように扱い、ちょっとのことで集会条例を適用し、新聞を出せば、新聞条例で逮捕するのか。自由党はよくこれに耐えた。
政府は言論を抑圧する以外に何もしなかった。五条の皇誓や14年10月の大詔はどこへ行ったのだ。上下の懸隔は広がるばかりだ。地方官や警察官は、刑獄のために存在するようなものだ。政治のすべてが秘密裏に行われ、政府は、人民を馬鹿にして国を治めたと思っている。
386 大久保が倒れてから、政府は右大臣岩倉具視を中心として、薩長二藩閥によって結合され、厳令な君権主義を維持し、階級と法度を城壁としている。他方、多数の国民は、冷血で柔弱、口を閉ざされ、手足をしばられても怒らない。嗚呼、天下益々泰平だ。
16年7月、常に政府の棟梁であった右大臣岩倉具視が、病気でこの世を辞すと、8月、伊藤博文が独墺から帰国し、政権を掌握した。
17.3、制度取調局が宮中におかれ、伊藤がその長官となり、参議を以て宮内卿を兼ね、参事院議官井上毅、伊藤巳代治、荒川邦蔵らを挙げて、取り調べ局兼務とした。伊藤の声望は赫々となった。
17.7.7、ドイツの制度に私淑した伊藤は、華族令を新設し、公侯伯子男の爵位を創始し、皇室と臣民との中間に貴族制度を施いて、所謂藩屏なるものをつくった。
この日爵を授かった者は500余名、特旨によって新華族に加わった者も多く、山県、伊藤、西郷、黒田など薩長出身者が特に多かった。しかし維新の功臣たる在野の板垣、後藤、大隈には与えられなかった。門閥階級を打破した維新の改革は、ここに突然終わりを告げ、爾後貴族主義が勢いを増した。
感想 この時期、つまり、板垣が洋行から帰国した後の、明治17年頃、板垣が、平和的手段である言葉による説得ではなく、武力が必要なのだ、武力で世界に対峙するのだ、という侵略的な傾向を孕む考え方を是認する方向に向う様子が見られる。「自由民権運動」は、この時期から、日本が侵略者になるためのお先棒を担ぐ素地を持つようになった。その現われが、有一館という、文よりも武を鍛えるための学習所の建設であった。しかし、他方では、板垣が平和的手段を唱えている人を批判しているのだから、そういう人も当時すでにいたことが伺える。381
しかし、演説の最後のあたりでは、武力を用いなくても済むかもしれないとも言っている。382
第七章 北陸七州懇親会及び星亨の拘引
387 薩長氏の政府は、因襲的な専制干渉主義を貴族的保守主義で粉飾した。政略はビスマルクに擬し、理論はスタイン*1、グナイスト*2に倣い、法権の威力を更に一新した。
*1 ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein, 1815年11月18日 - 1890年9月23日)は、ドイツの法学者・思想家。フランス初期社会主義・共産主義思想、並びにプロレタリアート概念をドイツにおいて、初めて学術的にまとまった形で紹介した。
伊藤博文にドイツ式の立憲体制を薦めて、大日本帝国憲法制定のきっかけを与えた人物としても知られている。1882年に憲法事情研究のためにヨーロッパを訪れていた伊藤博文は、ウィーンのシュタインを訪問して2ヶ月間にわたってシュタイン宅で国家学の講義を受けた。その際、日本が採るべき立憲体制について尋ねたところ、プロイセン(ドイツ)式の憲法を薦めた(なお、この際に伊藤は日本政府の法律顧問として招聘したいと懇願しているが、高齢を理由に辞退して代わりになる候補者を推薦している)。ただ、シュタイン自身はドイツの体制には批判的であり、日本の国情・歴史を分析した上で敢えてドイツ憲法を薦めている。また、実際に制定された大日本帝国憲法の内容にはシュタイン学説の影響は少ない。これには伊藤とともに憲法草案を執筆した井上毅がシュタインに批判的であったことが大きな要因であるものの、伊藤にドイツ式を選択させた背景にはシュタインの存在が大きい。
また、カール・マルクスは1842年のシュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』から社会主義・共産主義思想を学び、私淑しながらも自らの思索を深めていった。しかしシュタインは、同時代人としての弟子マルクスを数多い著作において一貫して無視しつづけている。(ウイキペディア)
*2 ハインリヒ・ルドルフ・ヘルマン・フリードリヒ・フォン・グナイスト(Heinrich
Rudolf Hermann Friedrich von Gneist, 1816年8月13日 - 1895年7月22日)は、プロイセン時代のドイツの法学者(国法学)で政治家。ユダヤ系ドイツ人。
主著は1872年に初版発行の『法治国家』。保守的で穏健な自由主義者であったが、当時の社会情勢から「国家」と「社会」の本質的対立を見出し、両者を止揚するため、行政の非党派性・専門性を重視した彼の理論は法治主義を形式的で法技術的な原理に転化するきっかけを作った。弟子はアルバート・モッセ。伊藤博文、伊東巳代治ら日本の憲法調査団にドイツ国法学を講義し、明治憲法にも影響を及ぼした。他の有名な教え子にはマックス・ヴェーバーがいる。(ウイキペディア)
民間党は、有形の団結を維持し正純な行動をなすことができなくなった。自由党の志士は皆、解党して無形の結合をし、神出鬼没の計に出ようと思った。
各地で地方懇親会が開催され、撃剣、用馬、騎射、旗奪等の武技を行った。壮士は、言論で政体を変革することは不可能と信じ、天下の変を思い、一死を賭して事を挙げようとした。
388 9.20、北陸七州懇親会が、新潟市西堀通の不動院で開かれ、200余名が参加した。東京寧静観から星亨、加藤平四郎が参加した。
参加者人名(省略。新潟県が多い。)
(「自由新聞」明治17.9.27)
390 撃剣の技、号鐘二点、酒三行が行われたが、井上米次郎(新潟県中蒲原郡)の演説中の「革命」の一語に関して、臨監の警吏が治安妨害だと看做し、会の中止解散を命じたが、参会者は立ち上がり、これと争った。しかし結局、法権の強力には逆らえず、一旦退散し、夕方、同寺で再会した。
連合共同会を設立することで意見が一致し、次の規約を定めた。それは集会条例の範囲外で運動する目論見を持っていた。
「北陸七州共同連合会規則
…
第十条 凡て本会は政治上のことを議せざるものとす。
右は明治17年9月、越後新潟において七州有志会同議決せし所なり。
北陸七州連合共同会」
391 連合共同会の事務所を新潟古町通一番町に置き、山際七司、松村文次郎が幹事となった。
翌21日、七州の有志は不動院で政談演説会を開いた。聴衆1800余名が参会した。新喜太郎、富田精作、加藤平四郎らの演説の後、星亨が『政治の限界』と題して次の演説を行った。
「私の演説はここに掲げてある如く、政治の限界というにあり。これを簡単に述べれば、政治の限りということにして、これを道理上と実際上の二に区別して御話致すわけなり。さてまた私が演説中、政府政治と述べるものは、世界の例を掲げて説かん。しかし世界とは余り漠としておれば、先ず例をロシアとドイツの政府に取るを以て、そのつもりで聞かれんことを望む。しかして諸君も知らるる通り、ドイツの如きは国会あれどもその国会はただ紙の上の国会にして、何の用にも立たず。しかのみならず、ロシアの如きは未だ国家の設立なくして、私の演説に例を引くには最も適当の国と思惟す。凡て説を為すには一つの手本がなければならず、故に私は右二国の政治を掲げて一つの手本をなさんとする訳なり。
392 まず、道理上の政治の限界について(それがどこまで許されるかについて)述べる。道理上の政府の務めは、二つある。第一は外患を防ぐこと、第二は内憂を治めることである。外患を打ち破る者は、我国では海軍である。内憂を治める内務省には、憲兵、裁判官、警察官がある。兵隊を募る方法は、各国それぞれである。年齢によって義務とする国と、志願による国とがあるが、ドイツやロシアでは、徴兵制である。私は、徴兵制は良くないと思う。兵隊は不足しているのが良く、嫌いな者を兵隊に駆り立てるのは、益なきことだ。ロシアとドイツは軍隊を増強しているが、私は良くないことだと思う。
次に政治上の限界について述べる。今、農商工を繁栄させることが、内政上望ましいと言う人がいるが、それは間違っている。それは外患に対して何ら力とならない。また商業は、政府が干渉することではなく、民間に任せるべきことだ。農業もそうだ。
393 ロシアやドイツでは、鉄道を官設にし、電信を政府が援助し、郵便に干渉した。我国の幕府時代は、これらは民営だった。三度飛脚で十分間に合っていた。鉄道建設も、必要な時だけ政府が金を出し、人民から借りるので十分だ。
政府が干渉すると、国税を費やし、損をするので、よろしくない。さらにドイツやロシアでは宗教上の干渉がある。教正や講義といって世話をし、教育でも自由主義の本を読むなと言ったり、教育方法に干渉したりするのはよくない。また日本では町村会と言うが、英国ではこうこうと言いながら干渉するが、それはよくない。幕府時代は、政府のお世話にならないでやっていた。幕府時代は、幕府の干渉がなくても、人々が無学文盲ばかりだったことはない。
彼の国には人間に等級がある。政府が、大貴族とか小貴族とか決めるが、これはよくない。何となれば人間中、斯くの如き貴賎の別あるものにあらず、貴なればとて敢えて目は三つあるでなく、我々と同じく目は二つなり。しかのみならず、貴族なるものは、返って人民より何にも知らぬ者沢山あり。試みに見られよ、我国幕府時代の貴族は、彼の公卿とか大名とか小名とかならん。この人々には無知の者が沢山ありぬということを聞きおれり。然れば、是は貴族、彼は平民と、身体に験(しるし)のないものを、特に政治が規則を以てその等級をこしらえるは、実に政治の限界を超えて、いわゆる余計なことを為しておるものなり。只に余計なお世話のみならず、甚だ害あり。故に人の等級は天爵、すなわち自然の帰するところを以てせざるべからず。私がロシアの政治を取る時は、斯くの如き余計の害あることを断然止めてしまいます。云々。」
(「自由新聞」明治17.12.21
394 この時、臨監警吏が立ち上がり、会主を呼び、中止解散を命じた。聴衆が騒ぎ立てたが、40余名の巡査が急遽馳せ来て、何とか鎮圧した。それから会員数百人は、隊を組んで常盤岡に向かい、旗奪の試合を行ったが、警吏が周囲を取り囲み、戒厳するかのようだった。
不動院での会の終了後、新潟警察署は、星を召喚しようとして、吏員を送った。
星「私は位記*を有する者なり。私を召喚するなら、至当の順序を踏まなければならない。警察署は誤っているのではないか。帰って質されよ。」
*位記とは、位を授けられる者に与えられる文書。
吏員がこの夜、書をもって星の宿舎にやって来て言った。「執事一名を即刻差し出すべし、云々。」
星は書を以て答えた。「私は旅行中であるから、執事を連れてきていない。従って、執事を出頭させることは難しい。御用があれば、東京から呼び寄せるべきでしょうか。」
署長樫尾某は、吏員に言わせた。「この地で雇い入れ、適当の代人を出すべし。」
星「(世も更けましたから)明朝申し上げましょう。」
警察署「本人が是非出頭致すべし、云々。」
星は寝てしまい、これに応じなかった。翌朝、星は新発田に向う時、警察署に書を送った。
「昨21日夜、執事出頭の儀につき、本日申し上げると返事をして置きましたが、昨夜11時過ぎ、執事が出頭することは難しいとしたところ、代人を出頭させよ、そしてもし代人が不可能なら、本人が出頭せよとのお達しがありましたが、執事は、旅行中につき連れて来ておらず、また代人に関しては、本人が出頭すべき場合に、本人が出頭できない時に限って、本人の代理をするものだから、今回は、法律上、本人が出頭するのを禁ずる場合に相当するから、代理人を出頭せしむることも、法律の許さないことである。よって、法律上、代人を出頭させることは出来兼ねる。」
395 呆然とした警吏が、中央政府に電請し、指令を仰ぐと、政府は、拘執起訴せよと命令した。星は新発田の北辰館の懇親会に臨んでいた。夜の8時だった。警官が二名やって来て、拘引状を星に示すと、星は「遵法の義務を守るべし」として、新発田の警察署に赴いた。罪名は官吏侮辱罪であった。23日星は新潟に護送され、獄に投じた。星は、10日後に、責付*(せきふ)となった。
*責付とは、被告人を親族が預かって、拘留の執行を停止すること。
検察官曰く、星は一大臣七卿を侮辱せりと。国政の是非を論評するのに対して、政府は誹謗毀損を以て答えた。12月18日、星は犠牲となった。
「裁判言渡書
東京府京橋区日吉町
第21番地平民代言人
星 亨
三十四年七ヶ月
右被告人は官吏を侮辱したりとの公訴により、審理を遂げ、判決すること左の如し。
被告人は、明治17年9月21日、新潟区西堀通5番町不動院に開きたる政談演説会において、政治の限界と題する演説をなし、口をロシア、ドイツの両政府に借り、我国現時の施政は有害無益の如く誹謗し、以てその責任ある当路の官吏、すなわち三条太政大臣を始め、内務、陸海軍、文部、農商務、工部、宮内、各省卿の職務に対して侮辱したる者と判定す。その証憑は左にこれを明示す。右演説会に臨監したる新潟県警部樫尾紋治他二名が現場において筆記したる調書中、…
…
398 右所為を法律に照らすに、
刑法第141条に曰く、官吏の職務に対しその目前において形容若しくは言語を以て侮辱したる者は、1月以上1年以下の重禁錮に処し、5円以上50円以下の罰金を附加する。
その目前に非ずといえども、刊行文書、図書または公然の説を以て侮辱したる者はまた同じと。
よって該条により、被告人星亨を6月の重禁錮に処し、罰金40円を附加するもの也。
尚明治13年司法省甲第一号布達、代言人規則第22条10項、第14条2項、第23条、第24条、第25条に照らし、被告人を代言人名簿中より除名す。
新潟軽罪裁判所に於いて検事補林通久立会宣言。
明治17年12月18日
判事 北条元利
書記 正野隆次
書記 加藤恵之
(「自由新聞」明治17.12.24)
感想 恐ろしい。政府を侮辱したら、重禁錮半年、罰金40円。これは刑法141条で決められていた。308
刑法 (明治13年太政官布告第36号) 1880年
第141条 官吏ノ職務ニ對シ其目前ニ於テ形容若クハ言語ヲ以テ侮辱シタル者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ處シ五圓以上五十圓以下ノ罰金ヲ附加ス
2 其目前ニ非スト雖モ刊行ノ文書圖書又ハ公然ノ演説ヲ以テ侮辱シタル者亦同シ
399 星は党望なり。而して一場の演説によって重禁錮6ヶ月罰金40円の苛刑を被る。この一事は熱火の人心に向て更に膏油を注ぐ力となった。星が18年10月、新潟の獄を出ると、山際七司以下の党友110余名が慰労会を開いた。東京からも加藤平四郎、野沢鶏一、林包明らが駆けつけた。東京でも11.8、府下大橋の万千楼で慰労会を開いた。星の名声これより高し。
2019年3月3日(日)
感想
・岩倉具視は早くも明治14年の頃から、明治憲法の骨子を構想していた。井上毅も関係しているらしいが、岩倉とどういう関係かは分からない。伊藤案も元老院の強化などで、明治憲法に影響しただろうが、岩倉案に比べれば、その内容は大まかだ。中巻049, 上巻336
・岩倉は孝明天皇を暗殺し、新天皇の実質的な摂政となり、癌で死ぬまで、明治初期の方向性を決定した。その後は伊藤が引き継いだ。
・自由党が共和制を考えたことは一度もなかったのだろうか。右派から批判を受けて、自己規制しなかったか。自由党に限らず、共和制という考えは当然あったはずだ。
板垣退助と天皇制宗教 2019年2月3日(日)
板垣は天皇制のからくりを知っていた。*1また共和制の選択肢も知らなかったはずはないだろう。ところが、板垣は「急進的」、つまり暗に反天皇制共和主義者として、政権寄りの東京日々新聞から批判されていた。*2それは「国賊」と叫ぶ国粋主義者=勤王派から襲撃を受けたことからも分かる。その襲撃者は、東京日々新聞社の愛読者だったとのことである。*3
またこの事件に関連して、反自由党キャンペーンを張っていた岐阜の新聞関係者も逮捕されたが、そのことは、その筋の動きがあったことを物語るものではないか。*4
板垣は勅旨の見舞いを受けたとき、天皇に感謝して涙を流して喜んだというが、*5それは政治的なジェスチャーであり、本心でなかった可能性がある。板垣がそれほどまでしなければならないほど、当時すでに右翼勢力の暴力が渦巻いていたのではないか。現に、板垣は右翼の襲撃を予感していた*6のであり、そのことはそれなりの根拠があってのことに違いないからだ。
本書の記述からその資料を示そう。
*1 政府党は大権を根拠に批判を受け付けないが、その真意は閥族の専権を擁護し、政府万能主義を鼓吹するにすぎない。そして、朝敵の正名を楯とし、国民の忠愛心を刺激し、反対論を拒む。093
自由主義の有志は空しく憤涙を呑み隠忍せざるを得なくなった。さらに政府は、一方では君権論を擁する機関紙を駆り立て、他方では警察権、刑罰権を揮い、忌諱(きい、嫌がる点)に触れるものは仮借なく、新聞を禁止し、演説を解散させて弾圧した。094
*2 板垣の刺客は、相原尚褧(ママ)という、元愛知県士族の小学校の教員で、東京日々新聞の愛読者だった。彼は板垣に向かって「国賊」と呼びながら襲った。相原の両親宛の遺書には「小子儀、勤王の志止み難くして、国賊板垣退助を誅す。」とあった。136, 139
*3 立憲帝政党は、拝権、征利、熱官、固陋の分子を収拾し、隠然一団となり、東京日々新聞、明治日報、東洋新報、大東日報等が、政府から指示を受けながら宣伝を続け、天下は三分されることになった。(自由党、立憲改進党、立憲帝政党)105
*4 岐阜日々新聞記者池田豊志知が、刺客の連累として逮捕され、県令小崎利準の門に出入りする弁護士田島鹿之助も嫌疑を受けた。このことは反自由党的行動隊の存在を示唆していないか。142
*5 板垣は、天皇から勅使が派遣されると聞いたとき、感涙の涙を落とした。143「聖恩の微臣に及びしなり。いずくんぞこれを拝受せざるべけんや」(嗚呼天皇制宗教の呪縛!)板垣を診療した後藤新平は、後に反対党が板垣を讒誣(ざんふ)し、板垣のことを不臣だと言うことがあるたびに、いつもこのことを以て板垣を回護したという。144
勅旨の見舞いに際して、地の文はこう語る。「嗚呼聖明の其の功臣を愛撫する、何ぞ盛んなるや、一党感泣(かんきゅう)、士心為に安し。」147
*6 板垣は刺客を予想していた。そういう社会情勢だった。「予固(もと)より此の事あらんを知る。」145
日本近代史で、明治維新は「革命」と言えるか。
私は明治維新は、単なる政権交代に過ぎないと思う。「四民平等」などと公言するが、その実、天皇制という差別構造を、復活・強化し、元老院を重視し、ことあるごとに(裁判での判決文など)平民にその身分の低さを自覚させる。つまり、天皇、皇族、公卿、華族、士族、平民というヒエラルキーだ。これは士農工商よりも差別構造を強化したものと思える。なぜならば、江戸時代においては、武士は、天皇・公卿を超越し、実質的にそれよりも上に立っていたからこそ、単に士農工商の身分しかなかったではないか。士農工商と言っても、実質は四つではなく、武士と平民の二極構造である。それを、明治政府は、「四民平等」と言いつつ、実質的に、天皇を頂点とする差別構造に強化・再編した。『何が私をこうさせたか』で描かれている社会の差別構造を見よ。
戦後の駐留軍による日本国体の破壊・変革こそ、日本近現代史で革命の名に値するものではないか。それがあったからこそ、我々は、戦前の天皇制身分的国体的価値観から解放され、自由になれたのではないか。保守派の画策と米軍の妥協的な統治上の方便から、象徴天皇制が残ってしまい、完全とはいえないものの、戦後になって大きく人民の平等が実現し、女性の参政権も実現した。これは米軍のおかげである。2019年2月22日(金)
年表
13.11.10、東京の元愛社(げんあいしゃ)支社で、国会期成同盟第二回大会を開催した。13万余人を代表して64名の委員が集まり、河野廣中を議長に挙げた。
13.12.9、政府は五十三号布告を出し、請願上書の手続を煩雑にした。
13.12.12、及び15、築地壽美屋楼で自由党を組織し、自由党結成盟約四条を制定した。
14.3.18、フランス思想の東洋自由新聞が創刊され、西園寺公望が社長になった。
14.6、東洋自由新聞社は、政府の弾圧を受け、廃刊に追い込まれた。西園寺公望は社長を辞め、松澤求策は獄死した。
14.10.12、国会開設の詔勅
14.11.18、板垣が東京に戻る一日前に、京橋警察署が集会条例違反で自由党幹事の林包明を召喚し、詰問した。
14年末、参事院議官安場保和と太政官大書記官井上毅らは、古荘嘉門の徒と謀り、その郷里熊本で保守党を団結させ、紫溟(めい)会と称した。
15.2.1、大阪の小島忠里らが立憲政党を樹立し、立憲政党新聞を発行した。
15.2.25、参議伊藤博文は、参事院議長の兼官を免ぜられ、直ちに欧州派遣の命を受けた。
15.3.9、九州熊本で自由主義者が決起し、九州改進党を結党した。
15.3.18、熊本の紫溟会、土佐の谷干城、佐々木高行等の吏権派は、その党議綱領を公にし、立憲帝政党党と称した。
15.4.16、立憲改進党が結党式を挙げ、大隈を総理に、河野敏鎌を副総理に、小野梓、牟田口元学、春木義彰を掌事とした。
15.5、酒屋会議が大阪で起こった。
15.6.3、集会条例が厳酷に改正された。
15.6.25、自由党本部は、機関新聞「自由新聞」を創刊した。
15.8.17、若松で田母野秀顕を帝政党党員が襲い、田母野は傷害を負った。
15.11.11、板垣は後藤とともに、栗原亮一、訳員今村和郎を伴い、仏国郵船ボルガ号で出航した。
15.11.26、警吏は、郡民の総代宇田、三浦ら数名を、喜多方署に拘禁した。(福島事件)
15.12、岩倉具視が、府県会中止の意見書を三条実美に提出した。
15.12、請願規則を設定し、府県会議員の連合集会及び通信を禁止した。
16.4.16、政府は新聞紙条例を改正し、言論の自由を途絶しようとした。294
16.6、出版条例を改正した。305
16.6.22、板垣が欧州旅行から帰還した。
16.7、常に政府の棟梁であった右大臣岩倉具視が、病気でこの世を辞した。386
16.8、伊藤博文が独墺から帰国した。
17.3、伊藤は、制度取調局を宮中に置き、自らその長官になった。
17.7.7、ドイツの制度に私淑した伊藤は、華族令を新設し、公侯伯子男の爵位を創始し、皇室と臣民との中間に貴族制度を施いて、所謂藩屏なるものをつくった。
17.12.18、星は一場の演説により、官吏侮辱罪で、重禁錮6ヶ月、罰金40円の苛刑を被った。
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