海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達をしていた。
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『終わりなき海軍』
中曽根康弘は、戦時中に海軍に所属し戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本である『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)の中で、慰安所を設立した事実を書いた。タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心を掌握し、戦場を乗り切ったかという自慢話である。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」
2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたが、そのとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。
『終わりなき海軍』の編者である松浦敬紀は、その10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本書いてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と言っていた。
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防衛研究所の戦史研究センター所収の資料「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「第2設営班資料」)
この資料は、第2設営班の工営長だった宮地米三が記録し、戦史研究センターに寄贈したものである。
第2設営班とは、中曽根が当時、主計長として統括していた海軍設営班矢部班のことである。
「第二設営班矢部部隊」
「一編制」
「主計長海軍主計中尉中曽根康弘」
「5、設営後の状況」
「バリクパパンでは◯(判読不可、飛行)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると、工員連中ゆるみが出た風で、又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為、皈(ママ)心矢の如く、気荒くなり、日本人同志けんか等起る様になる。主計長の取計で、土人女を集め、慰安所を開設、気持の緩和に非常に効果ありたり」
また「上陸時」と「完了時」の地図があり、「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたと記されており、その場所に「上陸時」になかった「設営班慰安所」と書き加えられている。
彼女(土人女)たちは、「日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかも知らないまま、日本兵の引率のもとに連れ去られた」ことを証言している。そして、年端も行かない女性達が「いきなり慰安所で複数の日本兵に犯された」という悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
安倍政権が、慰安婦問題はなかったことにするために立ち上げた自民党のプロジェクト「日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会」の委員長に中曽根の息子である中曽根弘文が就任した。
フジ産経グループの総帥だった鹿内信隆も、慰安所づくりに関与したと発言している。
出典
感想 戦前の日本軍が犯した罪を認めることは「日本を貶める」ことにはならない。それを否定することこそ貶めるということを理解すべきだ。「広島や長崎への原爆や東京大空襲はなかった、それは日本人のでっち上げだ」と言われたらどう思うか、立場を入れ替えて考える度量の大きさが求められる。
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