2019年12月18日水曜日

『自由党史』下 板垣退助監修 遠山茂樹・佐藤誠朗校訂 岩波文庫 1958 感想・要旨・抜粋

『自由党史』下 板垣退助監修 遠山茂樹・佐藤誠朗校訂 岩波文庫 1958


序文 2019年12月18日(水)

 一般に歴史家には無意識的に自国の歴史を美化する傾向が心のどこかにあり、それからなかなか免れられないのではないか。特に自国の歴史を叙述する歴史家や、自国の歴史を扱う教科書を執筆する歴史家の場合は。

 「明治維新」という言葉がある。慶応からいきなり「維新革命」が起こり、人々の社会生活の在り方が一変したかの感で捕らえられることが多いのではないか。私は「明治維新」ではなく、「慶應Ver.2専制政治」と呼びたい。なぜならば、一般下層民衆の社会的地位の点で大きな変化がなかったからだ。「明治維新」政府は依然として下層大衆の民意に基づかない独裁制であり、強者の利益を限りなく追及する帝国主義者であった。
 当時すでにフランスの二月革命1848や、無政府主義やマルクスの理論1848が知られていたはずだし、第一インターナショナル1864が1868年以前に結成されていたはずだ。本書でもロシア無政府主義に関する記述が若干出てくるが、それははねあがりとして扱われていて、自由民権運動の主流ではない。

 「自由民権」と自称するが、その中心部隊は特権的な旧武士階級の「自由民権」であり、下層階級がヘゲモニーを持つ自由民権ではなかった。つまり、明治政府は一般下層庶民の意志に基づく政府ではなく、特権階級による独裁政府であり、政治の意思決定を下層一般庶民が決定していたのではなく、特権上層階級が決定していたのだった。つまり、公卿の岩倉具視、薩摩藩士の大久保利通、長州藩士の伊藤博文らである。
 彼らは単に武力で旧政権を倒し、自らがその座を奪ったに過ぎず、当然のことながら、一般下層庶民の意志を第一に反映する政治を目指したのではなかった。そして彼らは自らが持つ差別性を正当化するための道具として、天皇制に付随する差別性を大いに利用し尽くした。同様に「自由民権」論者も、この神道天皇制を抜け出ることができないばかりか、その積極的な推進者だった。それはおそらく自らが特権階級であることを自認していたことと、「尊王攘夷」のスローガンが彼らの存在基盤レゾンデトルだったからなのだろう。




感想 加波山の蜂起はロシアの無政府主義に倣い、政府側要人を狙った爆弾テロである。相手もさるもの、三島通庸は、民意を無視し、鉄道建設などの土木工事や学校建設を手掛ける一方で、警察署や監獄も建設した。弾圧が念頭にあったに違いない。蜂起は県庁舎建設落成式に列席する三島をねらったものだが、方針は時々の状況に応じてころころ変わった。
 蜂起は1884年、明治17年に起こった。日清戦争1894の10年前である。日本軍が外国の一般人を虐殺し始めたのが、日清戦争のとき、韓国の農民を虐殺したときからということだが、この頃もすでに自由民権運動に対する弾圧は、集会条例、新聞紙条例等の法的弾圧と共に、福島事件や群馬事件における取調過程は酷薄であった。
 加波山事件では、警官一人が爆弾で死んでいるが、それに対して7人も死刑にされている。それも執行が早く、2ヵ月後に執行している。獄死も2人いる。061 
 県庁舎の新築祝い10.22に内務卿の山県等は、すでにほとんどが逮捕されていたにも関わらず(二人捕らえられていなかった)、出席しなかったというが、それは恐怖心の現れなのだろう。2019年10月6日(日)

感想 第三章 自由党の解党 2019年10月9日(水)

「外にありては清仏二国まさに難を構え、朗松事件の談判既に破裂して、仏国水師提督クールベーは東洋艦隊を率いて台湾基隆(キールン)港を封鎖し、進んで福州を砲撃し、清国軍艦数隻を一時に轟沈し、鉄火の禍結んでとけず、風雲暗澹として、辺海の波濤我岸角を震撼せんとするあり。」073

 この表現の中で外国に関して、このことは伊藤博文の演説などを読んでいてもよく出てくることなのだが、また中身についてどう思っているのか分からないが、推察するに、かなり不安感をもってみている。自由党も自衛=攻撃を考え始めているのではないかと思われる。ここで触れられているベトナムの領有権をめぐる清仏戦争の10年後には、朝鮮の領有権をめぐる日清戦争が始まった。まさに帝国主義の時代である。

「自由党は…中央と地方と連絡を保ち、旅進旅退し、以て節度を厳にし、党員の行動をしてみだりに埒外に馳突せぜらしめんと欲せば、集会条例の堅く之を禁ずるあり。」073

 この文を、平穏・富裕を維持したい自由党幹部が、最下層の貧困層の立場に立つ過激な行動から生ずる弾圧や批判が、自分の身に及ぶと感じ、過激な行動を排除し、最下層民の気持ちに寄り添うことを放棄したと読み取れないか。
これより先、板垣が洋行から帰ってきた時にも、変節が見られた。ここでも加波山蜂起を見捨てる立場を鮮明にして、自分の身に類が及ばないように、自由党を解体してしまう。自由党の解体は、加波山蜂起の最中(1884年9月10日から裁判の判決が出る1886年7月頃まで)の、1884年、明治17年11月2日である。

 「『小作党』・『借金党』と称して、200人から300人が一団となって嘯集し、銀行、貸付会社、富豪等に債務の解除を謀る小農民蜂起が、武州南多摩郡、山梨県北都留郡、相州、豆州、遠州の豊田、城東、周知諸郡に伝播し、民情恟々(きょうきょう)その堵に安んぜず。」073

 関東を中心に蜂起事件や小農民の蜂起が多発しているが、このことは西日本の倒幕勢力に対する旧幕府側武士の不満の反映かもしれない。

感想 自由民権運動は、天皇制のトリックを自覚していなかったようだ。群馬の反乱は、天皇が来る高崎を避け、本庄にする計画だとか、国会開設早期実現(国会開設期限短縮の建白085)を天皇に要望するなどだ。加波山事件でも「姦臣が天皇を蔑視している」と、天皇を蔑視することを批判している。2019年10月10日(木)

感想 自由民権運動の末端で露西亜の無政府主義の影響を受けた武力蜂起派も、国権を唱え、樺太の領有権を主張し、台湾の獲得や朝鮮との武力対決を主張していた。亜細亜が西欧に乗っ取られることを恐れていたようだ。
飯田事件(未遂)の檄文は、明治の歴史を被支配者の立場で物語る長文の檄文だ。明治六年1873から岩倉・大久保らは独裁制を明確にし出した。このときの、西郷征韓論の否認は、岩倉の洋行=条約改正の失敗を糊塗するねらいもあったようだ。岩倉らはここでは内政重視を口にしながら、早くも二年後には江華島事件1975を起こし、「征韓」しているのだ。2019年10月12日(土)

感想 2019年10月15日(火)  岩波文庫『自由党史』下巻を読んでいての感想です。

 日本が戦争で近隣諸国の住民に対して初めて残虐性を示したといわれる日清戦争*の10年前、1884年、明治17年、植木枝盛が書いて村松愛蔵に渡した、名古屋の自由民権運動を担った公道協会員を中心とする飯田の武力蜂起(発覚し未遂)の同志を募る檄文の中に、既に侵略的要素が含まれていたのではないか。藩閥有司による明治政権の対内的残虐性と共通する対外的侵略性が「自由民権家」の中にあったのではないか。
自由民権運動は、少し前まで支配階級であった旧士族を中心とする運動であった。ロシア無政府主義の影響を受けていたとはいえ、下層民の利益を前面に掲げた運動ではなかった。岩波文庫『自由党史』下巻pp.107-108を読みながら、ふとそんなことに思い至りました。以下その部分の要旨を掲げる。

*講演「関東大震災における朝鮮人・中国人虐殺」慎蒼宇(シンチャンウ)を、以下のブログで参照されたい。
http://mkbookreview.blogspot.com

こうして国力が衰微すれば、外国が侮辱し、国権が失墜し、植民地になり、国辱を招くことになるだろう。千島も樺太も日本の領土だ。ところが政府は一を露国に与え、千島との交換だというが、これは露西亜を畏れて与えたのだ。
 明治6年、朝鮮がますます無礼を我に加え、速やかに問罪の使節を発するべきときに、他に口実を作ってこれを果たさず、禽獣のような台湾蕃民に遠征し、(日本)人を殺し、財を滅ぼす。結局弁理大臣を清国に派遣し、一個外国臣民(イギリス公使ウエード1874)の調整を待ち、僅かに50万錠(テール)の償金を収め、蕃地は我の有とならず。朝鮮は坤輿(こんよ、地上)の一国なり、台湾は一個の蛮島なり。台湾は、政府があって国家をなすものではない。朝鮮の我に無礼を加えるは、朝鮮国家の我日本国家に対する関係だが、台湾は山野の蛮民がたまたま我国数名の漂流人を虐殺したに過ぎず、国家と国家との関係ではない。朝鮮と台湾とでは軽重がある。大事を誤ったというべきだ。
1882年、明治15年、朝鮮乱民(兵士)が暴起し、我公使館を焚毀した。(壬午軍乱)清の兵隊が理由もなくやってきて、朝鮮は清国の属邦だと京城に掲示し、清の馬建忠は、大院君を清本国に騙して連れ去った。清国は日本の訂盟国(朝鮮)を辱めたのに、政府は一度も清国に対して詰問をしなかった。日本は世界の笑いものになった。これは歴史の汚点となった。悔しいことだ。(豈誠に切歯に堪へん哉。)

感想 中国人(袁世凱)は、日本の公使館を焼き払い、日本人の殺害や略奪や婦女暴行をしていた。130それは当然と言えば当然の話。明治17年、1884年から明治18年、1885年ころの甲申政変での出来事。*朝鮮の内政が親日派と親清派とに二分され、親清派が勝利したときに、日本の公使館が清軍にやられた。そのため、日本国内の世論は怒り心頭で、民権家も世論も、政府の弱腰を突き上げ、軍人に志願し、日夜武闘訓練をしたという。
 日本人も、中国人も婦女暴行をしていた。まず、そのことを認めなければならない。だから戦争やそれに類することに訴えてはならないという教訓を学ばなければならない。強いものほど悪いことができる立場にあると言えるだろうが。

 これまで立憲政治や天賦人権などを主張していた自由民権運動が、なぜ突然対外強硬論に転じたのか。おそらく政府に対する反発だろう。「自由民権」を唱えて政府の独裁を批判していた人たちの中にはこれまでも、西洋諸国に関しては条約改正の失敗で、朝鮮に関してはその無礼に対する弱腰な対応で、ロシアに関しては樺太領有問題で、中国=清に関しては台湾領有問題で、政府の失敗を批判していた人たちがいた。それが今回、日本人が中国人にやられたことによって国民が沸き、それに乗じて政府に対する批判を強めようという考えが民権家の人達の間にはあったのではないか。つまり、政権を批判するという点では、立憲政体確立の要求と対外強硬論とは共通点を持っていたと言える。
 自由民権家の主体は、政治的発言力のない貧困な下層民ではなく、威張って政治参加の要望を突きつけることのできる旧支配階級である武士や富農など上層ブルジョアだった。
 *この事件での主体は中国軍であったようだ。131

感想 2019年10月23日(水) 自由民権運動が朝鮮の改革派と同じ意見だとしても、他民族だという配慮はなかったのだろうか、不思議だ。そしてこれまでの自由民権派による武闘闘争は朝鮮に対する武力行使と繋がったというのだろうか。

感想 鹿鳴館時代に関して、本書は批判的に述べているが、当時の新聞は迎合しているような感じをうける。少なくとも、批判しているようには見えない。政府の宣伝や締め付けが功を奏したのだろうか。157

感想 板垣はいつの間にか国権主義者=覇権主義者になっていた。それでは政府の立場と変わらない。「亜細亜貿易趣意書」とは、日本も西洋諸国に負けないで、亜細亜での貿易の利益を獲得し、その基礎に立って武力の点でも強力になければならないというのだ。

感想 天皇制の抑圧的非合理性について考える。

 板垣の時代は身分制に縛られた時代だったことがわかる。板垣を批判する人のほうが身分制の本質をよくつかんでいたのではないか。つまり、華族などの身分制を認めないことは、天皇制自体を認めないことにつながるということだ。板垣はその点をつかれて、いや自分は天皇に忠義を感じている、と言うのだが、説得力はない。
 板垣は、華族制度が下層民衆を裏切るものだということ、また、自分に与えられようとしている伯爵という身分を、政府批判を抑えようとする目論見で、天皇ではなく長州閥が主体となって与えようとしているということを知りながら、最終的には、天皇に気遣って、辞爵の主張を取り下げ、叙爵を受け入れる。そのくだりを抜粋すると、

板垣惶懼(こうく、恐れる)、遂に天恩を拝辞するの途全く絶え、思えらく、一身の名誉は言うに足らず、豈に徒に宸襟を煩わし奉り、不臣の罪を重ねるに忍ぶべけんや。十五日、参内して拝受書を奉呈せり。(岩波文庫『自由党史』下188)

 板垣を含めて討幕側の論拠が天皇を基軸にしていたから、天皇を否定するという発想は、基本的に考えられなかったのだろう。
 明治以来の日本の政権=天皇制・身分制の束縛。これが日本の歴史の現実であり、それが現在にまで引き継がれている。東アジアではタイを除いて他はすべて共和制。タイと日本だけが、個人の意思を抑制する、旧態依然の政治システムに置かれているということだ。

感想 条約の改正に向けて明治新政権=長州閥政権も、外国公使を招いた会議を30回も重ね、頑張っていたようだが、法律顧問仏人ボアソナードが指摘するまで、日本側は不利な点に気づかなかったのか、気づいていても黙認するつもりだったのか。190

裁判を英語でやれ。198
外国人は理解できない日本語で書かれた条文を遵守する義務はない。199
外国人裁判官の裁判費用は欧米レートで払え。
裁判所は全国に8か所しかない。そこまでの旅費と宿泊費を日本人は払わねばばならないが、貧農にそんな支弁能力があるか。
欧米の様式で作成された裁判構成と五つの法典を制定し、英語でその条文を欧米に報告し、日本が欧米の法律に基づいて裁判を行っているかどうかを示せ。198

感想 第四章で扱われる「自由民権運動」は、民権の主張というよりも、ナショナリズムと天皇主義が目立つ。蓋し国権=ナショナリズムはやむを得なかった。それは植民地の一般的な傾向だからだ。しかし、この(明治20年、1887)すぐ後の日清戦争1894では、日本軍はすでに残虐な行為に及んでいる。この残虐性は日本固有の封建的残滓なのだろうか。それとも弱者にありがちな残虐性か。不可解。
 それと天皇を権威として利用する傾向が目立つ。明治維新は尊王攘夷をスローガンとして成立した。天皇の権威を利用して幕府と戦い、自らの政治方針を貫徹してきた。従って政権側も、それからはね飛ばされた人たちも、天皇を自らの正当性を根拠づける権威として利用したのは、至極当然のことであった。278

感想 ひどい、保安条例。予防拘禁の始まりだ。「恐れのあるもの」を取り締まる条例だ。明治長州政府は、自らの外交の失敗を糊塗すべく、民意を汲むどころか、厳しい弾圧でもって対応した。恐れ入りました。権力を手放したくなかったのだ。よっぽど権力欲の強い輩のようだ。それでも民権派は自説を主張し、縛に就いた者もいた。あっぱれだ。330 2019年11月26日(火)

感想 明治長州独裁弾圧政府が、愚民政策を取り、知識さえも独占しようとしたことが分かる。同政府は自らに不都合な集会、新聞、出版を統制・禁止した。伊藤博文らがドイツのグナイストから法学を学んだというが、そのグナイストの著書を翻訳して出版したことを罪だとし、監獄に入れ、罰金を科しているのだ。お前らは大人しく俺の言うことを聞いていればいいのだという尊大な考えを持っていた。現安倍晋三政権の文書隠蔽、言葉と実際にやることの食い違いなど、独裁的権力者としての共通点があると言えないか。346

感想 大同団結 349

 後藤象二郎はすごい。板垣以上だ。板垣は文章が流麗で美しく、それなりに説得力があるが、後藤象二郎には気迫があり、全国遊説をし、気力・体力とも充実している。一方板垣は敗れると、土佐に帰り、天皇におすがりする。
 「大同団結」とは旧自由党人士が他の反政権党との団結を目指すものである。
 後藤は欧米列強のアジアに対する植民地主義に危機感を感じている。今アジアで独立しているのは中国と日本だけである。政府の対外政策の現状を放置しておけない。後藤の論旨は、地租が高すぎ、人民に活力がなく、意見を自由に述べられないこと、自分の意見を自由に述べられないような人間は、一致団結して外国の侵略をはねのける力など付けられるはずもないことなど、これまでの論調とほぼ同じなのだが、特に治外法権撤廃のための諸外国との条約交渉過程で、日本の主権が脅かされようとしている点について、政府の失態を厳しく追及する。
 民権国会を認めるとされる憲法が発布される直前でも、政府は弾圧を緩めなかった。
 また伊藤らが作成した憲法原案は、枢密院の一部識者の反対で、議会の発議権・弾劾権を認めるようになったことから、伊藤らが作成した憲法原案がいかに非民主的な内容だったかが分かるし、また逆に、当時でも政府の弾圧一辺倒の政策を批判する賢人がいたということには感慨深いものがある。寺島宗則・鳥尾小弥太である。379

感想 2019年12月6日(金)

第二章 憲法発布379 この章の書きぶりは、これまでとは異なるように思える。誰か別人が書いたような感じを受ける。板垣その人か。というのは、この章の書きぶりは天皇礼賛なのだ。これまでも天皇を礼賛する傾向はあったものの、この章ほどひどくはなかった。これまでも自己宣伝的で、天皇主義的であったものの、実証的とまでは言えないが、史実を重視して書き綴ることを重視していたように思われる。
 そして本章の論旨は、憲法発布が自由党のこれまでの活動の成果であり、今後は、今までの長州藩閥政府に取って代わって自由党自らが天皇と結びつき、政治を担当していくのだという口ぶりである。それでは、天皇の政治利用という点で、これまでの長州閥のやり方と全く変わらないのではないか。長州閥による天皇制の政治利用を批判するなら、天皇制を政治から除外すべきだということにどうして思い至らないのか。論理的に無分別である。これは尊王攘夷をスローガンにしてきた人たちの限界か。「民主的」な土佐藩と言えど。
 この天皇制一辺倒の政治手法が、その後の日本の政治手法になったことは、この自由党の態度から見ても十分頷ける。

第八編 反動の悲劇

第一章 群馬の獄
017 政府の専制政治に苦しみ、その反動で実力に訴える激しい人々が生まれるのも無理はない。群馬の一揆、加波山の激挙、飯田、名古屋、静岡、埼玉の諸獄は、今でもその評価を下すことはまだ早い。一死を以てする者は前衛を任じ、自分の後に続くものを期待して、世の中を変えようと思ってやっている。
国家の側は言うだろう、天皇が国会開設を数年後に約束し、政府は立憲のために制度調査局を設け、憲法制定のために日々努力している。どうして性急になって民衆を扇動し、朝憲を乱すのか。憲法に基づいて行うべきだと。
 しかし、政府は口では立憲を唱えながら、現実は専制政治を行っている。一方で憲法と諸制度の調査をし、他方で集会条例、新聞条例の追加改正によって言論・集会・出版を圧迫するのを、どう両立するのか。
 すでに福島の獄や高田の獄で、政府は民間党を撲滅する真意を示している。民間党は政府の言葉を信じない。皆曰く、閥族妄りに君側を擁す。国民の口舌を鉗し、手足を縛し、言論、集会、出版の自由を妨げて、而してなお何の憲法を以てせんとするぞと。
018 自由党の少壮は、熱血が出るのを自制できない。彼らの虐節苦行、その心、敢えて利名においてせざるは、また以て偉とすべきなり。
 高崎の有信社が、群馬自由党の嚆矢である。有信社は1879年、明治12年4月、宮部襄(社長)、長坂八郎(副社長)、伊賀我何人、深井卓爾らによって創起された。また前橋の齋藤壬生雄ら、館林の木呂子退蔵ら、桐生の新井毫、南北甘楽郡の清水永三郎ら、藤岡の伊古田周道、埼玉県秩父の村上泰治等数百の同盟があった。1880年、明治13年、国会請願運動が起こり、全県を遊説して回り、一万六千有余の署名を集め、長坂、木呂子、齋藤、新井の4人を委員とし、請願書を奉呈した。1881年、明治14年10月、高崎の大信寺に政談大演説会を開き、板垣退助らが東北遊説の第一の地としてここに臨んだ。地方有志千名余が集まり、板垣の演説を聞いて感銘を受けた。後に、島本仲道、大井憲太郎、馬場辰猪、奥宮健之、林包明、竹内正志らが数回群馬を訪れ講演をした。
 1882年、明治15年、福島事件が起こると、東京本部から、高知県人とともに群馬県の長坂八郎、伊賀我何人、大木権平、松井親民、高橋渡、山口重修らが応援に駆けつけた。一方、清水永三郎、新井、村上は、福島と呼応して立とうとした。長坂は喜多方警察署に逮捕されたが、後に高等法院で免訴となった。
019 1884年、明治17年4月、清水永三郎、日比遜、井上桃之助らが、政談演説会を一宮町の光明院で開催した。清水永三郎は甘楽郡の豪族で県会議員や学務委員を勤め、日比遜は丹波の人で、かつて東京の政談演説で集会条例に触れ、逮捕を逃れて群馬県に入り、名前を変えて、小林安兵衛と称し、髪を削って光明院の僧となった。井上桃之助は茨城県の人である。
 光明院の門前には、竹槍の端に蓆旗(むしろはた)を交叉し、その蓆旗には『天に代わりて逆賊を誅す』、『志士仁人身を殺して以て仁を成す有り』と書かれており、その場は殺気に満ちていた。自由党本部からは、杉田定一、宮部襄、照山峻三らが来会し、聴衆数千人が集まった。また下仁田町や菅原村でも演説会があった。
 上毛人は昔から侠勇を尊び、人民は、義に勇み、弱きを助け、強きを挫き、剽悍で、健闘風である。演説会後、有志家の湯浅理兵が、清水永三郎、日比遜、井上桃之助らと懇談し、曰く、「民権自由や立憲政治は皮相の空論だ。干戈に訴えて惰眠を醒まそうではないか」と。
四人は部署を決め、南北甘楽郡を歩きまわり、甲州信州にまで至り、博徒、力士、猟夫らに声をかけ、黒滝、大桁、妙義等の山中で、運動会を装って、ひそかに軍陣進退の練習をした。

 八城の演説会で、町村人民は悉く竹槍を持って蓆旗を翻し、列をつくって、

昔思えば亜米利加の
独立したるも蓆旗
ここらで血の雨降らさねば
自由の土台が固まらぬ(『東陲民権史』183)

と唱えながら行進した。

松枝(松井田か)分署長の吉川廸は、会主を招き、諭して竹槍や蓆旗を撤去させようとしたが、民衆は納得せず、「警部巡査を追い払い、それから演説をせよ」と言い、不穏な雰囲気になった。井上桃之助が制して、鎮静して、演説会が始まったが、警官がこれを中止させ、再び騒擾を惹起し、伊賀我何人は吉川と相撃ち、修羅場となった。また侠客の山田城之助が子分数百名を連れて来て、曰く、「演説会解散を耳にし応援に駆けつけた」と。

この夜は宴を催して、山田を慰撫して帰らせた。日比遜、三浦は清水永三郎の家に泊まったが、多数の警官がやって来るらしいと仲間から連絡が入った。

 是より先に、山田の子分に関綱吉という者がいた。関は、かつて罪を犯していたが、スパイの藤田錠吉に、自首すれば罪が軽減され、六七十日の罰に止まるだろうと言われ、自首したところ、重禁固十年、罰金五十円を科せられた。綱吉の子分の町田鶴五郎、神宮茂十郎は錠吉を怨み、夜その家に火を放ったところ、錠吉が出てきて、鶴五郎を斬り、鶴五郎は棍棒で防いだ。茂十郎は錠吉を斬り斃した。
鶴五郎は深手で歩けなかったので、茂十郎は彼を背負って、林の中に入ったが、鶴五郎は本望を達したと言いながら死んだ。
茂十郎は井上桃之助の家に行き、茂十郎が傷を負っていたので、井上桃之助は清水永三郎と相談して、その土蔵の中で茂十郎を治療した。
探吏がかぎつけ、日比遜、井上桃之助、清水永三郎を、錠吉殺害の共犯とし、警部巡査数十名とともにやって来ようとしていた。そのことを三人に告げに仲間の者がやって来た。

021 4月15日未明、日比遜、井上桃之助、清水永三郎は、神宮茂十郎以下17名を伴い、清水永三郎の家を出て、白井峠にたどり着き、ここから清水永三郎は数名と共に、長野の党友高見沢馨を頼り、井上桃之助、日比遜は、信越を歴遊することにして分かれた。井上桃之助、日比遜は数日後に帰り、山田城之助を頼って潜んだ。
 この頃中仙道鉄道の落成を記念し、5月1日、開通式を挙げ、天皇が高崎駅に来るとのこと、日比遜は、山田城之助の子分と関綱吉の子分を集め、開通式に列席する顕官有司を攻撃すれば奇功を奏すると考えた。だが高崎でやれば不敬に当たるかもしれないので、手前の本庄で休憩するところを生け捕りにし、高崎の兵営を攻め、沼田城址に根拠を定めて大義を天下に宣言したらどうかと考えた。
022 井上桃之助がこれに賛成し、同士を高崎の観音堂に集めた。関綱吉は服役中だったが、逃走し、山田城之助と共に参集した。
日比遜を総長とし、三浦を副とし、山田と関は碓井、甘楽、南佐久、小県(ちいさがた)の博徒二千五百人を率い、高崎近辺に屯し、時を見計らって高崎鎮台を襲い、また、日比遜、井上桃之助、湯浅理兵は、野中弥八の部下と甘楽、秩父、多胡、緑野の党員を合わせ、総勢三千を率い、本庄付近に潜み、猟師や旅客を装って、顕官有司の到着を待った。
 ところが5月1日の開通式は行われず、5月5日に延期となったらしく、日比遜と井上桃之助は、坂本治平太、新井泰十郎、白石杢太郎らに、これを高崎の山田に伝えさせた。白石が、「行く先に相野田村があり、戸長の大河原泰助が平生官僚にへりくだり、我が党員を苦しめている。この際天誅を加えたらどうか」と提案したら、皆が賛成した。夜襲をかけ、亀吉少年が大杵(きね)で倉庫の壁を打ったが、びくともしない、そうこうするうちに中から砲声が聞こえ、こちらも発砲したが、結局泰助の所在は分からなかった。
 しかし5月5日になっても、開通式は行われなかった。井上桃之助は東京に行って、宮部襄、清水永三郎に会って話したが、二人は、軽挙妄動だ、時機を待てと戒め、関西の有志懇親会に向かった。
 しかし、同志はやる気満々だった。一方官庁の方も不穏な動きをつかみ、スパイ(諜奴偵吏)が警戒していた。
日比遜や湯浅理兵は、何もしないのでは大衆を欺瞞することになる、将来我々を信じなくなるだろう、今革命の旗を揚げよう、ひょっとしたら成功するかもしれないと考えた。その策とは、秩父の党友田代栄助や村上泰治を説得して埼玉で兵を挙げさせ、妙義山麓の陣場ケ原に集まり、一挙に富岡、松井田、前橋の三警察署を攻撃し、進んで高崎分営を陥れるということだった。
 ところが井上桃之助は自重し、時機を見計らって天下の同士とともに行動しようと言うと、両者は激論となり、野中弥八、上野文平が調停に入り、結局、井上桃之助は、小柏常太郎、新井某と秩父に赴き、党友を説いて兵を挙げさせ、日比遜、湯浅理兵は、野中弥八、上野文平らと共に、5月13日に陣場ケ原に集合せよという檄文数十章を作り、東間代吉と佐藤織治にそれを頒布させた。
 5月13日、大勢(三千人)が参集した。日比遜、湯浅理兵は一ノ宮や七日市町から兵器と糧食を運搬し、旗幟二十余旈を陣頭に立てた。会衆は、甘楽郡上丹生村岡部為作が設立した生産会社が平生暴利をむさぼりっているから、先ずこれを屠って民害を除くべきだと決定した。
先鋒を東間代吉、東間重兵があたり、中団は、神宮茂十郎、宮坂初次があたり、首領の日比、湯浅は、田村七五郎、野中弥八を従えて第三団を指揮し、5月16日午前2時に、乱入した。
024 家人は抵抗しなかった。家屋・倉庫に火を放った。それから松井田警察分署に迫ると、署員は潰走した。次に高崎分署を襲おうとしたが、糧食が尽き、離散する者もいた。日比らは団隊を解いて各地に潜伏した。結局埼玉の一隊や山田城之助の一隊は来なかった。
日比等は縛に就き、群馬監獄に幽閉され、前橋重罪裁判所は、日比遜以下42名を強盗、放火、殺人、兇徒嘯集などの罪で判決を言い渡した。裁判言渡書(省略*)は次の通りである。

 *『東陲民権史』190頁以下による。

039 裁判言渡書の中で湯浅理平が戸長在職中に徴収した国税60円を、所轄の郡役所に納金せず、逃走・消費したとあるが、実際は、専制政府に納税するよりはむしろ、自由党の費用に寄付するほうがいいとして、国税以外にも村費五百余円をも合わせて、陣場ケ原の一揆の用に供したのである。
 日比は有期徒刑13年、湯浅は同じく12年、二人とも北海道に移され、井上桃之助、上原亀吉は軽懲役7年に処せられ、前橋監獄に服役し、明治26年4月4日、日比、井上桃之助が仮出獄し、湯浅は脱獄に失敗したことがあって、最後に放免された。
 これより先、上毛の自由党は、本部の諸名士を招いて政談演説会を開くとともに、同時にひそかに福島の同志と呼応し、事を挙げる計画を立てていたので、中央の幹部と早くから通じていた。そのため鉄道開通式の陰謀も、嫌疑が島本仲道、大井憲太郎、宮部襄らにもかかり、また後に起こった国事探偵掩殺(えんさつ)事件も、政府は、これを開通式の陰謀と関連するものと看做したが、それは冤罪の観があり、そのため裁判が長引き6年にも渡った。
040 国事探偵掩殺の奇獄は、上毛自由党の最大の打撃であった。これより先、宮部襄は自由党本部の幹事に推され、長坂、清水永三郎等と上毛党員の牛耳を取っていたが、当時長坂の部下に照山峻三がいた。陰険傲腹で智弁あり、常に過激豪壮の言論を事とするが、難事に当たっては回避するので、国事探偵と疑われた。長坂は追い払おうとしたのだが、感情を害したら密事がばれる恐れがあった。
照山が新井愧三郎とともに、鬼石町の政談演説会で、条例に違反し、群馬警察署に召還されたのをいい機会に、秩父の村上泰治に照山の件を頼んだ。村上は17歳で温柔で婦人のようでありながら、精悍かつ果断であった。村上は照山の素行を知っていた。
 照山は傲慢で、村上を子ども扱いし、同志を罵り、党の大事を漏らした。ある日宴を張ったとき、岩井丑五郎、南関蔵、照山らが同伴した。村上は照山と激論となり、村上が銃で照山を撃った。村上は「驚くなかれ、私は天に代わって国賊を殺戮した」と言った。照山は絶息していた。会衆は村上と岩井を促し、照山の死体を林に埋めさせ、宮部宛の依頼書を二人に持たせて去らせた。
 宮部の寓処は芝区葺(ふく)出町で、ある日の夜、長坂八郎、新井愧三郎、深井卓爾が来ていたところ、新井愧三郎の門下生(岩井丑五郎、南関蔵)がやって来た。新井は応対すると、すぐに戻り、別室で宮部に村上の密書を出した。宮部は一読すると、長坂を呼んで之を示し、その書を火中に投じた。そして客を招き入れた。岩井と南である。二人は詳細に顛末を語った。
宮部は言った。「蟻穴の漏、猶おかつ全堤を崩壊す。今や我が党宿意未だ伸びざるに、この変あり。嘆息せざらんと欲するも得べけんや」「予が寓は諜奴四遍を包囲し、不便なり。都門に潜伏するは危険なれば、二客を茨城もしくは栃木の同志に託し、徐々に手段を講ぜん」
衆之に賛同し、即夜、二客を大井憲太郎の竹川町の邸に移し、茨城県の仙波兵庫に託し、そこに潜伏させた。
 数日後、長坂八郎、新井愧三郎が、集会条例違反で警視庁に引致された。
 この頃政府は政党克殺を唯一の政略としていたため、自由党員も反動し、もっぱら革命論に傾き、最後の運動に出ようとしていて、関西有志大懇親会もこのために起こった。
042 その要旨は、東西の脈絡を通じ、一挙に国礎を樹立することだった。東京本部から星亨、大井憲太郎、加藤平四郎、宮部襄らが出席した。群馬の党員、清水永太郎、伊賀我何人も宮部に同伴していた。会が終わってから、大井憲太郎、宮部襄、清水永太郎、伊賀我何人は、紀州の人井伊常太郎に同行し、摂河泉を周遊し、高野山に登った。大井と伊賀は東帰し、井伊は坂地(大阪か)に帰った。宮部と清水は一ヶ月留まった後、宮部は大阪に赴き、井伊を訪れた。一方清水は僧となった。
宮部のところに手紙が来た。照山殺害が露見し、村上泰治が捕らえられ、長坂、新井は教唆罪に擬せられ、宮部にも逮捕状が発せられたとのこと。
 宮部は井伊に告げ、東帰して長坂、新井のために冤罪を雪ぐつもりだと言ったが、井伊は、長崎から渡韓することを勧め、まず西京(京都)の友人の許に潜伏するようにと言って、梅田まで同行した。しかし、宮部は、梅田で切符を買うときから偵吏が尾行しているのに気づいた。人力車で逃げたが、前後を挟まれると、宮部は下り、夜陰にまぎれて京都にたどり着いた。
043 しかし三条の宿で泊った翌朝、警部巡査に捕まった。1884年、明治17年8月21日のことである。
宮部は十余日間大阪府庁の留置場に監禁され、清水も逮捕され、高野山から来た。二人は前橋監獄に移り、兇徒嘯集、謀殺犯等の疑獄で六年間経過した。村上泰治は、監禁三週間の警吏の厳しい取調のため、血を吐いて死んだ。岩井丑五郎、南関蔵は、茨城の仙波兵庫、富松正安、尼子義久等宅に潜伏したが、岩井は新治郡で捕縛され、群馬監獄に護送された。
裁判の結果は、宮部は謀殺教唆罪、岩井は同加功従犯に問われ、各有期徒刑12年に処せられ、樺戸集治監に服役した。清水、長坂は、免訴となった。
 宮部は、森岡の鈴木、福島の河野と同様に、上毛自由党の逸材で、最も専制政府が嫌悪する所であった。当局は村上が獄死したことをいいことに、(村上の)口述をほしいままに変更し、百方を羅職(冤罪)し、罪に落としいれた。宮部は北海道に6年いて、憲法発布の典で特赦された。

第二章 加波山の激挙

043 福島事件では父兄先進まで捕らえられ、県令三島の態度は改まらず、復讐の念を抑えることができなかった。
044 16年10月、政府は三島通庸に栃木県の県令を兼ねさせた。三島は17年3月、県会を威圧し、奥羽線路を開鑿し、学校、監獄、警察署を新築し、県庁を改築し、民の疾苦を顧みなかった。県民は思った。「三島の暴、此の如きは即ち政府之をなさしむるのみ。三島は一個の専制政府の傀儡なり」と。是において順直なる者漸く化して激徒となる。

 是より先、15年の冬、三島通庸は福島で大獄を興し、悉く志士を網羅して捕らえたが、16年4月、河野広中以下6人を除き、50余人を赦免した。河野広体もその一人だった。広体は三春の人で、広中の甥である。若くして土佐発陽社に学んだ。同県の友、琴田岩松、草野佐久馬等と東京で知り合い、三島通庸を刺そうと計画を立てた。16年11月、この三人に、岩手の鈴木舍定も参加した。
045 鈴木は三島の動静を探った。また自由党幹事の加藤平四郎は資金を提供した。
17年3月、琴田岩松は三島の家の近くに下宿し、草野佐久馬は三島の家の近くのマッチ工場に勤め、その門前の大和屋に下宿して偵察したが、三島は栃木から戻らなかったので、栃木に向かうことにした。
 福島の同志は、この他に、横山信六、原利八、天野市太郎、山口守太郎、五十川元吉、三浦文治、小針重雄、杉浦吉副ら、栃木には、鯉沼九八郎、平尾八十吉、大橋源三郎等がいて、皆青年の死士であった。
 鯉沼九八郎は熱心に爆裂弾を製造し、実験して威力を確かめた。愛知県の小林篤太郎、石川県の佐伯正門も参加した。
 17年7月、来る19日、宮内卿伊藤博文が会主となり、新華族数百名を招き、賜爵の祝宴を芝延遼館で開催するとの報道があり、これを襲撃することにしたが、その会は無期延期となり、嫌疑を慮って各地に逃げた。
046 三島が庁舎の竣工をし、開庁式を宇都宮で挙行し、大臣参議を招邀(よう)するとのこと。健児らは、「閥族を一掃し、天下の積憤を洩らそう」と考えた。河野広体、横山信六、鯉沼九八郎、杉浦吉副、佐伯正門が集まり、次の決定をした。

一、成敗を天下に任せ宇都宮で暗殺を行う。
一、奏功の暁には方略を転じて挙兵の手段をとる。
一、詳細の手段方法は稲葉(栃木県下都賀郡)で協定する。

河野広体は、福島の小針重雄、三浦文治、原利八を呼び、鯉沼九八郎は郷里の栃木県に戻り、爆弾を製造した。
栃木に杉浦吉副、山口守太郎、天野市太郎、平尾八十吉、五十川元吉、草野佐久馬、琴田岩松の9(7)人が潜伏し、富張の大橋源三郎とともに弾丸の製造をした。三浦文治、原利八もやってきた。開庁式は9月15日である。

 9月初旬、在京の河野広体、横山信六、小林篤太郎、門奈茂次郎は富豪から軍用金を得ようとし、10日、爆弾を持って神田表神保町の質商山岸某を襲った。僅かに敷金を得たが、河野広体、門奈茂次郎、横山信六等が、刀を抜いたまま逃げたため、人々が驚愕し、小川町警察署前に至り、巡査二人が出てきて、捕らえようとしたので、河野は爆弾を投げつけ、巡査や車夫を傷つけ、逃走した。しかし、門奈茂次郎は逃げ遅れ、巡査が背を斬って捕らえた。取調に対して門奈は名前を偽った。お粗末だった。
 栃木県の開庁式に三条太政大臣、山県内務以下の卿数名がこれに臨むとのこと。小川町の一件で政府は警戒し、探偵はますます厳密になり、栃木の稲葉の浪士の様子を窺がった。

 稲葉の同盟は次のような方略を定めた。

一 開庁式当日は四近各村より寄付のつき餅を馬で送るから、その体裁を利用して、馬三頭で爆裂弾を運ぶ。
二 三手に別れ、一手は下河原より、一手は日光街道より、一手は六道の往来より宇都宮市中に紛れ入り、明神山の裏に集まる。
三 鯉沼氏等が爆裂弾を投げつつ県庁内に斬りこむを機として、一頭の馬に石油を載せ、火を放つ。原利八氏がもっぱら之を掌り、人数は三人とする。
四 三頭の馬は、一刀斬り付け荒出さしめる。
五 県庁のことが首尾よく終わったら、二手に別れ、警察署と監獄署を襲撃し、その洋剣類を横奪する。
六 その後で監倉を開放し、囚徒で用いることのできる者を用いる。他の事項は河野広体、小林篤太郎、横山信六の三氏が来てからその議を凝らす。(『東陲民権史』227)

048 12日、鯉沼九八郎が製弾の際に火を発し、左手が吹き飛んで倒れた。鯉沼曰く「既に一死を分とす。この体敢えて惜しむに足らず。敢えて一塊の頭を贐(はなむけ)し、諸君の前途を壮(さか)んにせん。請う。之を斬れ」と。同志涙を揮(ふる)って決す(=別れた)。(鯉沼は死ななかったようだ。056)鯉沼は壬生町の病院に入った。

 同盟の9人、三浦文治、五十川元吉、山口守太郎、原利八、琴田岩松、杉浦吉副、天野市太郎、草野佐久馬、平尾八十吉等は、稲葉の林中で、大橋源三郎(栃木の人)と会し、そこで方略を一変し、開庁式日を期し、利根川の渡口に伏して大臣参議を要撃することにし、しばらく茨城県中田下館に潜伏することにした。
 開庁式は9月20日に変更になった。激徒は中田文武館に投じた。館主の小久保喜七は退き、有一館生の保多駒吉を介して対応した。保多は、旧石川藩士で明治初年に父と共に茨城県下館町に移住した。早くからその郷人の富松正安に随っていたこともあり、この要撃同盟に参加した。保多曰く「この地は危険だ。僕の生地下館に移るべし。下館に有為館あり、富松正安がそこの館長をしている。私は東京に行って河野を誘って来る」と。そこで9人は再び下館に移った。
049 富松正安は下館の士族で、36歳、有為館を興した人で、一行の密謀に加わることになった。さらに有為館の剣客玉水嘉一も加入した。小針重雄は福島県の矢吹からやって来た。保多駒吉が東京から帰り、健児13人となった。

 一方、河野広体等の罪状が広まり、逮捕状が出ていた。鯉沼の爆弾暴発事件とほぼ同じ頃、茨城県古川で舘野芳之助も爆弾製造時の事故で右手を失った。警察のスパイが、特に栃木・東京で張り巡らされた。開庁式は延びて9月27日となった。
 河野広体、小林篤太郎、横山信六が東京から稲葉にやって来たが、同志は四散していて、どこへ行ったらいいのか分からなかった。そこで相議して卿相を栗橋で要撃することにし、稲葉の藪の中に潜んで爆弾製造に取り掛かった。

 他方、有為館に潜伏の徒も爆弾を製造した。宇都宮の有志中山丹次郎等が資金援助した。杉浦吉副がたまたま河野広体の所在を知り、有為館に連れ帰った。

050 9月23日、富松正安を有為館に、霜勝之助という下妻警察署の探偵が訪ねてきた。彼は富松と知り合いだった。彼が言うには、「官は既に河野氏が貴館にいることを突き止めている。今夜捕吏がやってくる。従来の交誼により密告する」と。

 健児らは、逃げるよりも行動を起こすべく、蜑(あま)引山に行くことに決めた。一行は十有六人だった。富永正安、玉水嘉一、保多駒吉(以上茨城県)、河野広体、杉浦吉副、三浦文治、五十川元吉、草野佐久馬、山口守太郎、天野市太郎、琴田岩松、原利八、横山信六、小針重雄(以上福島県)、平尾八十吉(栃木県)、小林篤太郎(愛知県)である。
 玉水嘉一が爆弾を一発落として爆発させてしまった。富松正安を謀主とした。早朝、戸長の勝田盛一郎の家に着いた。勝田は富松と親交があった。勝田が蜑引山ではなく山深い加波山を勧めると、皆が之に随った。勝田は、お金若干と剣二口(ふり)と糧食数俵を村民につけて贈った。
 9月23日、加波山に着き、『一死報国』『加波山本部』の旗を掲げ、山の祠を本営とした。
051 平尾八十吉が提言した。「山下付近の警察署、即ち町屋分署を襲撃し、軍資武器を近郷の富豪に募り、旧笠間藩の不平士族を誘い、持久戦をすべきだ。今夜決行しよう」と。
 横山信六がそれに反対し「加波山に拠ったこと自体が早計であった。当初の計画通り、暗殺を第一にし、局面が一変したら天下に号令するのがいい。これから山を降りて身を潜めて、宇都宮の開庁式を待とう」と。しかし衆はすでに遅いとし、平尾の提案を採用した。檄文を散布することにし、村民に配った。

檄文

「建国の要は衆庶平等の理を明らかにし、各自天与の福利を全うするにある。為政者は人民天賦の自由幸福を増進すべく、濫りに苛法酷律を設け、圧虐すべきでない。外は条約未だ改めず、内は国会未だ開けず、姦臣が政柄を弄し、天皇を蔑視し、人民を収奪し、餓死者が道に横たわっていても調べもしない。言路がふさがり、志士を逆遇する。我輩同志、革命の軍を茨城県真壁郡加波山上に挙げ、自由の公敵たる専制政府を転覆し、完全な自由立憲の政体を造出せんと欲す。ああ三千七百万の同胞兄弟よ、我々と志を同じにすることは、志士仁人の本分ではないか。」(「自由燈」明治18.12.26)(他に、玉水嘉一家文書、『東陲民権史』、野島幾太郎『加波山事件』(明治33.12刊)もあり、若干異同がある。巻末注参照393)

052 玉水等が守備した加波山の東口に巨岩があり、ここで激徒が見張りをしていたことにちなみ、今日でも村民はその岩を「自由党の腰懸岩」と言っているとのことだ。

 山上に篝火(かがりび)を掲げ、時々爆弾を放ち、激徒数百率いて塁を守っていたが、午後10時、河野広体、小林篤太郎、三浦文治、五十川元吉、山口守太郎、天野市太郎、小針重雄、平尾八十吉、杉浦吉副の十人が隊をなして山を下り、町屋分署に進撃し、爆弾を投げると、署長諏訪長三郎以下数名は狼狽して逃げた。官金16円余、羊刀数本等を横領し、檄を壁に貼って去り、途中、豪商中村秀太郎の家に立ち寄り、説いて金若干を出させ、證券を留めて帰った。

「借用證券
一金二十円
右は我党、現政府を転覆するに当たり、創業の際やむなく借用せり。事業の大成を遂ぐるときは必ず返却すると雖も、若し事成らざるときは返却いたさざるものなり。」

9月24日、下館、下妻からの巡査40名が加波山麓の村落を固め、茨城からは巡査40名がやってきて、人夫数十を募って銃手としたが、他方激徒の方は、応援が来なかった。そこで、激徒は相議し「成敗を賭して宇都宮を衝き、県庁を襲い、監獄を奪い、東北の同志を結合するのがよい。勢力が大きくならなければ、東北に退き、そこで死のう。」とし、栃木県庁を襲うことに決まり、夜、山を下った。
054 15名を三隊に分け、河野、平尾、琴田、玉水、小林を先鋒とし、三浦、草野、小針、天野が中堅となり、杉浦、横山、五十川、保多、山口が後殿(しんがり)となり、富松が総将で、人夫を監督して最後につき、河野、三浦、杉浦が各隊の長となった。
篝火を挙げ、銃声を響かせ、『革命党加波山本部』と書いた提灯を先頭に進んだが、長岡村畷(なわて)で水戸警察署の警部神代澤身以下巡査19名と遭遇し、平尾八十吉が神代を斬り倒したが、死にはせず、平尾八十吉のほうが討ち死にした。巡査は逃げた。巡査側では、村田巡査が即死し、神代警部が傷つき、その他三名が負傷した。
本木村の戸長勝田盛一郎の家に立ち寄ったとき、爆弾を運搬していた人夫がいなくなっていた。弾丸百余個を失い意気消沈した。蜑引山の間道から宇都宮に出ようとしたが、道に迷い、岩瀬の山林にたどり着いた。追っ手が迫っていた。
ここで方針を変更した。解散して、潜行し、後日東京に集まるというものだ。横山一人が反対した。
055 「我が党の失敗は天命だ。もう逃れられない。生きて犯罪人の辱めを受けるくらいなら、潔く割腹しよう。」と。衆議は前説を可とし、10月25日、東京北飛鳥山に会うことに決めた。
宇都宮進撃を装って解散した。9月25日、小栗村に着いた。三浦文治がまず単身脱出した。石岡警察署長警部佐藤文衛は旅館亀屋で警戒し、土浦警察署の警部山崎銀太郎は、旅館江戸屋で警戒していた。彼我相接したとき、爆弾で一撃すると、警官が逃げ、激徒は二箇所の哨線を破り、26日午前10時、栃木県芳賀郡小林村の平林に着き、ここで金を分け、二手に分かれて解散した。

 9月28日、河野広体、杉浦吉副が栃木県の氏家で逮捕され、同夜、天野市太郎、山口守太郎が喜連川駅で逮捕され、共に宇都宮に護送された。小林、保多、横山は東京に入り、甲府に向かったが、10月2日、横山信六が警視庁の吏員に逮捕され、10月3日、小林篤太郎、保多駒吉が山梨県谷村警察署の手に逮捕され、同じく10月3日、草野佐久馬も早稲田で憲兵に逮捕された。玉水嘉一は10月7日、本橋区で、琴田岩松は10月9日、二子の渡船場で逮捕された。
五十川元吉は、10月15日、高輪付近の綱坂で、時の参議某の邸を要撃せんとして果たさず、逮捕された。小針重雄は10月19日、浜松駅で、富松正安は10月22日房州で逮捕された。一人原利八だけが北陸に逃げたが、半年後の18年2月、能登の海角で逮捕された。
056 東京憲兵一小隊が派遣され、春田少佐が引率し真壁に向かったが、事が終わっても、宇都宮に駐在した。福島県並びに栃木県の県令三島通庸は、10月22日、開庁式を挙行したが、三条相国、大木、佐々木の二参議以下数名が之に望んだだけで、山県内務卿その他の顕官は来なかった。
 この激挙に関連して拘引された者は、福島、栃木、茨城、山梨、東京に一時百人もいた。18年3月予審が終結し、事件連累者の皆が、強盗や故殺等の常時犯に擬せられ、重罪裁判所に移された。また同一犯罪なのに裁判は、四箇所で行われ、東京では、門奈茂次郎、三浦文治、横山信六、玉水嘉一、琴田岩松、草野佐久馬、五十川元吉、小針重雄、原利八の9人、栃木では、河野広体、鯉沼九八郎、杉浦吉副、天野市太郎、山口守太郎、佐伯正門、大橋源三郎の7人、山梨では、小林篤太郎、保多駒吉の2人、千葉では、富松正安の1人が(主に)逮捕地の獄舎につながれた。
 壮士は常事犯に擬せられたことを不満に思い、裁判所会議局に故障趣意書を提出し、自分らは政府転覆、国政改革の目的であったからとして、国事犯の罪名で高等法院での審判を求めた。天野市太郎は故障書で次のように述べた。

「我々の意思は事の成否に関わらず、決然身を犠牲に供しようとしたのだから、刑罰は恐れない。しかし、その意志と目的とを問わず、他罪を以て罰することは、後世にも、判官が法律にそむき、天理にもとる断獄だと評せられるのを恥じる。たとい不完全な政府が作為した私法でも、その法律の明文に従い、不当な予審終結を取り消し、速やかに高等法院に移す言渡あらんことを。」

時の栃木裁判所長の飯田判事は、この獄を国事犯とし、高等法院に移そうと主張して、転任を命ぜられたが、一方では大審院長玉乃世履が、常事犯律に固執したことは、司法独立の基礎が動揺しやすい専制暗黒時代ではおかしなことでもなかった。悪意の政略によって汚名で志士を辱め、世人の厭忌を引き起こし、反抗者を抑制しようとしたのだろう。激徒に敵対する政府の官僚が、どうして激徒の侠涙をそそぐだろうか。今や彼らの命は、敵の思うままにされている。
18年9月に至り、陳情も故障も全て却下され、公判が開廷されたが、東京における五十川、三浦、横山ら9人は、裁判管轄違いの申し立てをし、犯罪地で開廷すべきと異議を申し立てたが、受理されなかった。各地の公判は一時このために中止し、18年12月、再び開廷した。傍聴席が充満し、被告各自に熱血を注ぎ、秕政を痛撃した。当時栃木の公判廷における被告の一人が陳述した筆記の概略は以下の通りである。(18年10月2日「自由燈」所載)

「我輩は単に小運動、即ち暗殺をなして斃れんとするの目的で、決して、政権を握り、また名誉を博せんとするがごとき卑劣心あるに非ず。しかも肉身の快楽を忘るるのみならず、名誉をも之を放棄して顧みるの暇なきなり。斯く論じ来たればとて、我輩は既に多少の教育を受けたれば、いわゆる名誉の惜しむべきはよろず知るところなり。しかるに敢えて生命財産名誉をあわせて之を顧みざるものは、ひたすらわが国の改革を以て任じたればなり。また世間或いは改革の時機未だ至らずなどと言い、我輩の過激粗暴を笑んとするの徒あるも、これ共に論ずるに足らざるのみ。如何となれば、明治維新の革命は、遠く幕府専制の時にありて、勤王或いは攘夷を唱えるに原因せり。しかしてその説を唱えて奔走せし者、多くは当時の無頼浮浪の徒なり。然れども一旦その目的を達するに至りては、遂に王政復古の盛んなるを致し、その身はたちまち顕要の位置を占めたるにあらずや。しからば、今また我輩を目して粗暴の徒となすとも、千載の下公平なる道理裁判あるにおいては、必ず我輩の粗暴ならざるを知るべきなり。これをもって決心いよいよ堅固に、遂にはその目的を達せんがために賤劣なる所為も之を忍び、甚だしきに至っては此の如き犯罪を構成するにいたりしものなれば、その目的は、根本にして、この犯罪はもとより枝葉瑣末と言うべきなり。しかしてその初め、即ち明治16年7、8月の交を以て、鯉沼九八郎と共謀したるは、誠に天下志士の義気を感起せしめ、改革の機会を常時に発して、その大成を後日に期せんとするの意匠なり。また或いは博浪の一撃を逞しくし、以てその平生の抑鬱を晴さんと、露西亜虚無党のなすところに倣って、爆裂弾を使用し、敢えてわが大臣参議を暗殺し尽くさんと決心したるなり。」(「自由燈」明治18.10.2)

058 開廷二十有余日にして、再度管轄違いの申し立てをし、公判中止となり、また却下され、更に上告し、また却下され、19年6月、三度目の公判開廷となり、この時は傍聴禁止とされた。
 長岡村の巡査殺害は、死刑の論告を受けた主な原因であったが、そのときは暗闇だったので、誰がやったかが分からず、検察官は、未丁年者を一等減量する以外は、全員を極刑にした。
 東京公判廷で、五十川は、仲間に類が及ぶのを避けようとして、自分がやったと言うと、草野、三浦も同じことを言い出し、法廷で争った。
 7月3日、最後の判決が下り、死刑が、東京、栃木、千葉、山梨あわせて7人、無期徒刑7人、有期徒刑4人、犯人蔵匿の罪による軽禁固が、内藤魯一、神山八弥他数名に下された。*

*内藤や神山はこれまでに一度も出てこなかった名前である。おそらく自由党員の幹部に対する嫌がらせなのだろう。
 
死刑を宣告されたものは、富松正安、横山信六、三浦文治、小針重雄、琴田岩松、杉浦吉副、保多駒吉であった。
061 三浦、横山、琴田、小針、草野、五十川らは大審院に上告したが、8月12日、皆棄却された。
10月2日、三浦文治、小針重雄、琴田岩松は東京で、10月5日、保多駒吉は山梨で、富松正安は千葉で、杉浦吉副は栃木で、絞首刑に処せられた。
 山口守太郎は公判開廷前に獄死し、横山信六は処罰前に獄死した。(リンチか)

栃木、千葉両裁判所の宣告書は次の通りである。(以下宣告書に関しては、メモに感想を付して列記した。)

裁判言渡書

被告人 河野広体21、天野市太郎19、杉浦吉副39、鯉沼九八郎32、大橋源三郎33、佐伯正門26

 *数字は年齢

063 罪状の第二で、勝田盛一郎の件では、贈ったのを「押し入り強盗」とされている。050 また、第四 中村秀太郎の場合も、説いているのに「強盗」とされている。052
064 第五 藤村半右衛門の件は前記にない。
068 「医師の血痕鑑定費9円を被告人が出せ。」

明治19年7月3日、栃木県重罪裁判所において、検事植松長、検事補諸岡良佐、立会宣告す。(『東陲民権史』338)、(この裁判言渡書は「絵入自由新聞」明治19.7.7と「朝野新聞」明治19.7.6にも採録されている。)


 裁判言渡書

第一 勝田盛一郎の件で、「かつての知己」とはしているものの、ここでも「強盗」扱いである。050
第三 中村秀太郎の件も、「強奪」とされている。
第七 「小栗村の旅館二軒、細谷昇、前田半蔵方に警官が張っているのを知り、両家に爆弾を投げた。」この記述は前記になかった。
富松正安は千葉で佐久間吉太郎等の扶助を得た。
072 明治19年7月3日*、千葉重罪裁判所に於いて、検察官検事監野宣健立会い宣告す。
(玉水嘉一家文書所収「判決言渡書」謄本)(「時事新報」明治19.7.7と「絵入自由新聞」明治19.7.9にも掲載されている。)

*栃木の判決日と同日である。その他の点でも、例えば、協力なのに「強盗」とするなど、裁判所間で口を合わせているようだ。

 加波山の激挙を平定するのに二年かかった。露西亜の虚無党の例に倣い爆裂弾を使用した革命運動は之を嚆矢とする。大臣参議の護衛はこれ以降さらに厳しくなり、佩剣(制服警官)と共に私服警官を増やし、まるで敵陣に臨むかのように厳しくなった。


第三章 自由党の解党

073 外にありては、清仏二国、将に難を構え、朗松事件の談判既に破裂して、仏国水師提督クールベーは東洋艦隊を率いて台湾基隆(キールン)港を封鎖し、進んで福州を砲撃し、清国軍艦数隻を一時に轟沈し、鉄火の禍結んでとけず、風雲暗澹として、辺海の波濤我岸角を震撼せんとするあり。

内にありては、米価低落し、産業委頓し、無数の小農民は困弊のあまり、「小作党」や「借金党」と称して、200人から300人が一団となって嘯集し、銀行、貸付会社、富豪等に債務の解除を謀る小農民蜂起が、武州南多摩郡、山梨県北都留郡、相州、豆州、遠州の豊田、城東、周知諸郡*に伝播し、民情恟々(きょうきょう)その堵に安んぜず。

*相州は相模国、豆州は伊豆国、遠州は静岡県西部。

時勢の非なるを憤激して血熱し、肉躍れる自由党の少壮の士は、この時に乗じて事を挙げんとし、関東、東海など各地で決起した。

 一方、政府は無用の貴族を製造し、徒に太平を扮装し、国家の病の本源を知らない。これは明治17年8月から10月にかけての一般的な様相であった。

自由党は、政府の剋殺政略のために統一を妨げられ、中央と地方との連絡を保ち、旅進旅退し、以て節度を厳にし、党員の行動をしてみだりに埒外に馳突せぜらしめんと欲せば、集会条例の堅く之を禁ずるあり。また穏健な政論を鼓吹し、人民の政治思想を養成し、立憲治下の民たるに恥じないようにしようとすれば、出版条例や新聞条例が之を妨げた。
074 政府の探偵は専制政治の本能を発揮し、本部支部の間や各地方支部相互間の連絡を絶ち、自由党の言論機関を閉ざし、党員相互の信書を紛失し、開封し、スパイを放って党員を惑わし、相互に疑わせたために、党の存続が不可能になった。福島、高田の獄、群馬、加波山の激挙が起こったのは、政府が言論、出版、集会の自由を禁じ、自由党の統一を阻害し、自由党の節制ある運動を阻害したからだ。人民は之に影響を受け、単身で各地で立ち上がった。
帝政党、改進党の機関新聞は政府に迎合し、その暴政を助け、民情を激発扇動した。東京日日新聞は加波山の一挙を自由党首領の責任とし、次のように言った。

「茨城の暴徒 

政府を転覆し、朝憲を紊乱し、治安を妨害し、社会を紛擾するは、自由を享受するの道にあらず。自由は常に安寧を良友とし、破壊を讐敵とするものと知られている。今日に自由主義を執るの領袖先進の諸人を見れば、皆よく人生の自由を享有するには、その正道によらなければならないことをよく知っていて、おもむろに之を伸張する方法を講究するに係わらず、福島のことといい、頸城(くびき)のことといい、今また茨城のことといい、その暴徒は、自由の良友なりと自称せるものより出で、却って自由の讐敵たるの結果をなすは、気の毒千万である。凡そ流派を汲むの子弟後進は、その領袖先進の忠告を謹聴し、領袖先進は、その子弟後進を誘導・援助し、共に気脈を貫通し、志念を共有すべきなのに、末流末派にこのような挙動があるのは、その領袖の忠告に従わず、先進に誘導・援助されず、恣に己が欲するところに縦往して、自ら招くの禍なれば、領袖先進の罪にあらざるも、そのために領袖先進が世論にその責任を転嫁するようだが、それは悲しいことだ。(明治17年9月27日社説)396

 *頸城は新潟県上越市。

074 改進党の京浜毎日新聞も、9月30日の社説で、『北陸七州懇親会及び茨城の暴動』と題し、何ら関係のないことを併叙し、自由党全体を加波山の激挙に一致するかのように人心に印象付け、自由党を陥れようとした。
政府とその党与が自由党の統一を妨げているのだから、我が党は断然解党して、今後は党員各自の行動に任せ、有形の組織に代えて無形の精神的団結を以てすべきだ、と自由党の先覚の士は考えた。10月29日の大阪での大会を、自由党の領袖は最終回と想定していた。
075 丹波の人法貴発が大阪に来て、解党に反対したところ、板垣が、各地の有志の実情を探ってみたまえと諭した。法貴がまず、大井憲太郎の所へ行くと、その部下は事を挙げようとしていた。名古屋、静岡でも同様だった。法貴は考えを変え、解党を唱えるようになったとのことだ。
 10月18日、総理板垣は大阪に向かった。10月29日、この日は、両国井生村楼で結党してから三周期にあたった。また場所は、かつて愛国社の最終回で、国会期成同盟を約束した北野大融寺であった。今15万の大党を解党すると、天下に告白しようとしていた。代表百余名が集まった。
077 議長が秋季例会の開会を宣言し、幹事佐藤貞幹が『解党大意』を朗読した。

「解党大意

077 我が党は、大衆のための党であり、そのためにできるだけ多くの大衆を組織してきた。
078 党員数が多いため、統治の都合上、地方部局を置いた。ところが集会条例は、政党が分社分局を地方に置くことを禁じた。司令部の司令は信書では意を尽くさず、また一致事項を守らない党員や、死んでも行動を起こすという者もでてきて、司令部不在となった。これが我が党の困難の一なり。
079 集会条例は、また集会の自由を制限した。そもそも公同の事業を行うためには集会の便宜が必要だ。大衆と結合し、意見を出し合って会議をする必要があるからだ。しかしそれが集会条例のためにできなくなった。そのため単独行動が生じ、過激・危険に陥る人も出てきた。集会の自由を制限したのは、必ず已むべからざるの事情あるに出でたるべきも、我が党としては、それによって合同の事業がうまくできなくなった。これ我が党の困難の二なり。
 集会条例や新聞条例によって言論の自由を制限することは、世の必要上起こったことだろうが、その弊害はさらにある。各自の思想を、新聞や演説や著書で吐露することによって、愚者は知者によって正され、先覚者は後進を誘導できる。ところが今は言論の自由が制限されている。人は、政治に関して口をつぐみ、やむをえないときに発言しても、戦々兢々とし、薄氷を踏み、深淵に臨むの思いをなし、口渋り手縮み、その胸腹に貯蔵する百分の一だも尽くすこと能はず。それでは愚者や後進者はそのままで、臆断妄行し、顧みるところがない。治者と被治者とは言路によって互いにその情意を通ずるものだ。情通ずれば、即ち意和し、意和すれば則ち国治まる。赤心を吐露して廟堂の有司に注意を促そうとしても、法律の範囲内でそれをやるのは難しい。集まって天子への要望に関して話し合おうとすると、解散を命じられる。それでは上下が隔絶する。言論が不自由であることが問題だ。これ我が党の困難の三なり。
081 自由は個々ばらばらに分離する傾向がある。封建時代も命令に縛られていて、命令以外は、個々ばらばらで、公共的行為=協同事業は下手だった。封建時代も個々ばらばらで、現今の自由の時代も個々ばらばらとなる可能性を持っている。そして前述の三件の問題点がこの傾向を強めている。従って乱れのない民権運動を実行することは難しい。だから今自由党を解党する。後日、世の人々が変わり、公同一律の運動ができる時を待つ。しかし、自由主義を手放すつもりはない。がんばろう。(「自由新聞」1884年、明治17.11.2)

 総理板垣退助がさらに説明を加え、満場一致、起立全数を以て解党を可決した。植木枝盛と高橋基一が国会開設期限短縮の建白を提出する議案を発し、満場これに同意・調印し、高橋基一を提出委員に推した。残務委員を佐藤貞幹に嘱託し、通信事務を自由新聞社にゆだねた。
082 午後三時、曽根崎新地静観楼で懇親会を開き、板垣が演説した。

「板垣の解党演説

 私は私財を愛国愛民のこと(民権運動)になげうった。
083 我墳墓をして秋草茫々の裡(うち)に堙没(えんぼつ)せしめよ。有為の志士が、余の孤墳に対して白楊肅踈(はくようしょうそ)の秋(とき)に感じ、慷慨の心を発動せられ、その世道人心に益せんことを望むなり。しかして若し我三千五百余万衆の自由幸福、その完きことを得たるに及び、しかる後初めて我に相応ずるの碑を建つるを妨げず。これ余が民と憂楽を同うするところにして、死して後ち已まずとは則ち是を謂うなり。咄々、諸氏よ解党の故を以て余が心事を疑うこと勿れ。」(「自由新聞」明治17.11.6)

 自由党は形式の組織を解くが、精神の団結は固い。
084 連絡は暗通する。(負け惜しみ)

 星亨は新潟で官吏侮辱罪で捕まっていたが、この解党に反対して大阪に電報を打った。ところが、それを「馬鹿言うな電信の金が無益だ」と党衆が返電した。(反論になっていない)

宴会で参加会者が板垣を胴上げした。(仲間内の自己満足に過ぎない)
11月7日、板垣は土佐に帰った。
高橋基一は国会期限短縮の建白書を11月7日元老院に提出した。

085 「国会期限短縮建白書

 伏して惟(おもんみ)れば、陛下即位の元年、五事を天地神明に誓い給う。一に曰く、広く会議を興し万機公論に決すと。
また陛下は、明治8年4月、誓文の意を拡充し、元老院を設けて立法の源を広め、大審院を置いて審判の権を強くし、地方官を召集して民情を通じ、以て公益を謀り、漸次国家立憲の政体を立てると言った。
我々がこれまで陛下に民撰議院を設立されるように具陳し、国会を開設されるように請願したことは、二、三回に止まらなかった。
また明治14年10月、陛下は明治23年を期して議院を召し国会を開くと言われた。
086 今日の形勢は、内は人心が専制の政に飽き、外は国権ますます危殆の極に迫っている。14年10月の聖詔以前、人々は有司の政を嫌がっていたし、聖詔以後も、我々は政党を組織し人心をつなごうとしたが、政府の専制はますます強まり、それを嫌がる人が増えた。そして人民は政府と一致して国を愛する情を失い、政府を見るに寇讎(こうしゅう)と看做す人も出てきた。彼らは国家を思い、憂憤迫り、法を侵し、激動する者である。これからもそういう人たちが出てきそうだ。
今回の清仏戦争のように、東洋がますます他国に侵犯されることが多くなった。人民の心を一にし、盛んに兵備を張り、国力を養い、国権を確かめるべきだ。これは急を要することだ。今、天子親政の制典にして、君主不保任の憲法がない。(天皇を規定する憲法がないということか。)
087 憲法がないと陛下の安全も危ぶまれる。国会開設の期限を短縮し、速やかに民撰議院を興すべきだ。そうすれば、専制政治に嫌気が差していた人たちも、政府と一致し、国家を愛寵するようになるはずだ。
 そのためには人民の言論・集会の自由が保証されなければならない。自由に国事を論議し、自由に全国の人々と思想を交通することができなければ、人民は国家の事物を明らかにし、あれこれの利害を審らかにすることができないし、政府も輿論に基づいた政治ができない。速やかに新聞紙条例や集会条例を改正し、言論集会の自由を人民に許し、請願の路を開いてもらいたい。
国会がまだ開かれなくても、言論・集会・請願の自由や権利と、それに陪審制が保証されれば、人民は法律の安きをうけ、政府も輿論を受けて国会の準備をし、人民も自由に国事を議論し、全国の人々と自由に意思を通じ合い、国会の準備もできる。そうすれば、人民が政府を怨む気持ちは今ほどではなくなるだろう。
しかし、政府は、明治23年に国会を開くと言っておきながら、ますます言論出版集会結社請願の権利を制限し、輿論に基づいて憲法を作る路を閉ざしている。人民も、言論集会等の自由がなければ、国会準備に熱が入らない。」

088 政府はこれに対して10月30日、布達を発し、さらに出版印行の範囲を縮め、法力を前に遡って、既得の出版権も剥奪した。令に曰く、

「式により宣布せざる公文及び上書、建白、請願書を記載せる図書は、明治16年6月第21号告布以前の出版に係るものといえども、再版、反刻もしくはこれを抄出して出版するものは、新聞紙条例第31条(軽禁固2月以上2年以下罰金30円以上300円以下)によるべし。(17(18)年10月30日第26号布達)」(『法令全書』明治17年)(政府が宣布する以前の内部公文書や政府への提言をみだりに出版するな、秘密にしておけということか。明治維新政府が、政府に向かって意見を述べ、政府の方針に反対する文書を隠蔽しようとしたように、現代では安倍晋三政権が、公文書を隠蔽・改竄し、真実を隠し続けている。権力のやることは同じだ。奇しくも同じ山口県出身だ。)

 逆圧の結果は、秘密出版や秘密結社を促し、国民は怨望を加えた。12月、改進党でも解党論が起こり、大隈重信、河野敏鎌、前島密、北畠治房ら数名が脱党した。帝政党は16年9月に早くも消滅し、九州改進党は18年5月に解党し、世は暗黒に戻った。
089 政府と与党は、平和的改革者である自由党に対して暴力で臨んだ。自由党の首領を岐阜で斃したとき、自由党員はあだを復せんと誓ったが、板垣が一命を取り留めたので隠忍した。政府は自由党が暴力に訴えなかったので、今度は暴官を派遣して地方の県令に任じ、克殺の政治をほしいままにした。自由党の解党は正当防衛だ。自由党は党員各自の自由の行動を許したのだ。
090 解党と同時に、暗中の飛躍を策する者が出てきた。埼玉の暴動や、飯田、名古屋、静岡等、干戈を動かそうと企図した。
 また、朝鮮改革の大計画は、早くから有力者の間で熟議せられ、単身孤行を期し、ひそかに爆裂弾を製造した。吉松寿太郎、速見市次郎らは、爆裂弾を日比谷に装置し、爆発させ、杉田定一、栗原亮一らは清仏戦争に乗じて、一剣海を踏んだ。*これらは圧制の反動だ。

 *朝鮮のことか。


第四章 埼玉の暴動並びに飯田の獄

 秩父事件は群馬事件で村上泰治が官憲の拷問によって獄死したことに対する報復であった。043 
 井上伝蔵は村上泰治の親友で、村上と共に宮部襄に師事していた。井上は宮部を監獄から救出しようとしたが、不可能だと分かり、一挙に専制政治を攻撃し、政府を奪おうとした。
091 井上の同志は、田代栄助、落合虎市、柳原正雄、新井周二(次)郎、村上の妻半であった。
彼らは井上の大義を聞き、「生きて酷吏の凌辱を蒙るよりは、むしろ死して自由の神にならん」と答えた。群馬、長野、山梨の同士に働きかけ、秩父郡吉田村杢(もく)神社に集まった。長野県からは、南佐久郡の井出為吉、菊地勘平など1000名、群馬県南北甘楽郡と秩父の同士2000名が集まり、その構成は農民、博徒、猟夫などだった。
 蜂起3日前に、村上の妻を大井憲太郎のところに遣わし、事情を話させると、大井は軽はずみだとし、部下の氏家直国を遣わせて井上を鎮撫しようとした。氏家の話を聞いて納得した井上が、集まった人たちの賛否を問うと、彼らは納得しなかった。一人が「我徒父母妻子を捨てて義に応じ、天に代わって道を行わんとす。これを阻害するものは豺(さい、やまいぬ」狼と変わりはない。先ずこれを斬ってしまおう」と言うと、他のものも同意した。これに対して井上は、「在京の先輩が、我徒の前途を憂えて使いを送った。敬うべきだ。礼を失するなかれ」と言った。
092 氏家は、彼らの意気愛すべしとし、「諸君、予を殺して軍神を祭らんと欲せば、その好むところをなせ。予はただ同盟諸氏の友誼を尽くすのみ。」「今や諸君徒に蜂起するも、おそらくは兵陣射撃の法を知らないだろう。予もと兵団にあって、教導したことがある。乞う、命を授くるに先立って、諸君に攻守進退の大体を教えよう。」と言うと、衆は跪いて教えを乞うことになった。氏家は進撃、退却、撤兵等の体様を教えた。練習3日のおかげで、彼らは、警吏、郡吏を殺傷し、帝都の鎮兵や憲兵連隊と戦い、3日間、精鋭部隊を退却させた。
 彼らの目的の第一は、地祖軽減、徴兵令改正、師友のあだを討ちとこれを救いうこと、第二は高崎の兵営を襲撃して、第三は義を沿道に唱えて上京し、在京の同志と合体することであった。武器は竹槍、刀剣、猟銃で、郡役所を襲い、警察、監獄を壊し、富豪を脅かすと、警吏や巡査は逃走した。
093 明治17年10月31日、警報が東京に達し、官府は、東京鎮台兵一大隊、憲兵若干隊を派遣し、討伐した。
 官衙を破壊し、吏員を脅かし、證書地券を焼棄し、高利貸、地主を征誅し、金品を略奪分配し、平生の恨みを晴らすことが暴徒の第一の目的だった。彼らは借金党とか小作党と称し、実に一種恐るべき社会主義的性質を帯びていた。政府は都門を戒厳にし、千住、板橋、新宿の駅口に各50名の巡査を配置し、行旅を誰何(すいか)した。暴徒は一時燎原の勢ありしも、武器弾薬が尽き、3日後、敗退し、旬余日で鎮静した。
 首領井上伝蔵は逃亡し、所在不明となった。田代栄助、新井周二(次)郎、井出為吉、菊地勘平、落合虎市、柳原正雄、村上の妻半等は、浦和監獄に囚われ、後、明治19年11月、田代、新井、井出、菊地の4人は死刑に、落合、柳原の二人は、懲役10年に処せられ、村上半は放免された。(氏家直国はどうなったのだろうか。)
094 埼玉の一挙は、群馬の暴動、加波山の激挙と同様に、軽率な誤りだったが、各地で不平の徒による暴発が蔓延し、彼らは情報を交換し合った。

 愛知県は早くから自由主義が旺盛の地であった。地形上、名古屋、田原、三河の三つに分かれていたが、名古屋市長者町に設立された公道協会は、明治13年の創立で、土佐の立志社、盛岡の三師社、群馬の有信社と同じ傾向を持つ組織だった。
 田原方面では村松愛蔵が早くから英漢の学を修め、東京の外国語学校でロシア語を学んだ。村松の同志で同郷の川澄徳次、八木重治の二人がいた。
 明治15年の秋、村松は、愛岐日報に入り、専制政治を批判したため、政府の圧迫を受け、言論が迂闊であることを悟り、兵力による政体変革を目指した。明治17年4月、村松は、川澄、八木と名古屋で会い、「今は皆逆政に苦しみ、変を望まない者はいない。兵力が必要だが、その前に、檄を飛ばし、革命の機運を高めなければならない。」と言うと、川澄も八木も賛成した。
095 村松は露西亜虚無党を学んでいた。八木は兵役に徴せられ、名古屋鎮台病院の看護卒だった。
檄文を5万部作成し、東京や大阪、その他の都会で委員にそれを撒かせることにし、川澄徳次は資金調達の任に当たり、明治17年5月中旬、飯田の友人櫻井平吉を訪ねた。櫻井は軽井沢の出身で、飯田に来て、愛国正理社を始めていた。社員は300余名で、その中心人物に、石塚重平、瀧野周一郎等がいた。櫻井は、名古屋の暴発と同時に飯田でも事を上げ、資金調達にも協力すると川澄に約束した。
 川澄は名古屋に帰り、村松、八木と相談し、東京で檄文を印刷することにした。名古屋は狭くてばれる恐れがあったからだ。また八木重治は、兵営中で同志を募集し、多数の同志を得たので、鎮営を脱し、田中常直と変名した。
櫻井平吉は飯田での資金調達がうまくいかず、川澄から連絡を受けて、8月10日東京に行った。櫻井は村松に、飯田に不用の印刷機があるので、これを使ったらどうかと勧めると、村松も、東京では警察が厳重なので、櫻井の提案を受け入れた。
櫻井が飯田に帰り、檄の文案ができた後に、八木がこれを飯田に運び、共に印刷にあたった。
8月上旬、川澄は東京を出発し、参州岡崎に旧知江川甚太郎に会ってから、名古屋に帰った。八木は飯田から、江川はその郷里の高棚(尾州)から、松村は東京から、それぞれ名古屋の公道協会に集まった。
096 このとき加波山は失敗していたが、秩父の蜂起は盛んだった。また遠州敷知郡や参州新城に農民蜂起の徴候があった。
 11月8日、村松愛蔵、川澄徳次、八木重治、江川甚太郎等が公道協会に会し、「今は革命の気概が招かずして至り、檄を撒くのはすでに遅い。機に乗じて干戈を動かし、政府転覆の業を行おう」と決まった。
 第一に、名古屋の鎮台を攻略すべく、鎮台営内の同志に夜、弾薬庫に放火させ、非常砲を発し、営外の将校が営内に走ってくるところを襲い、その後、名古屋監獄を破壊し、囚徒で使えるものを兵隊として使い、それから信州に入り、下伊那の天険(自然の要害)を押さえ、ここで義を天下に唱えることにし、先に既にできていた檄文の末尾を変えて、挙兵の趣意書に代え、旗章と暗号を作った。

大隊旗
愛国義党
自由革命
天誅
自由万歳

分隊旗
天誅
自由万歳
租税軽減
徴兵令改正
印紙税廃止
貧民救恤

暗号

人員 … 米、   火薬 … 紙、      爆裂弾 … 豆(米)、 刀 … 硝子、  鉄砲 … 傘
火事 … ランプ、 初(はじめ)る … 筆、 発覚 … 本、     警察 … 靴、  鎮台 … 箱

(鈴木金大編『衆議院議員候補者評伝』)

097 「檄文

 現今の政府や官吏が、皇上の尊栄と民人の幸福増進のために機能していないことを以下に論述する。
 薩摩や長州は、慶喜に大政返上を要求したが、彼らが批判するところの幕府に代わって自らが王室を侮辱し、人民を軽んずることになりはしないかと、佐幕家の雲井龍雄は、倒薩を主張した。
098 天皇が即位したとき、天皇は、五事を天地神祇に誓い、広く会議を興し、万機公論に決すという大旨を示したが、そのとき、公議所を開き、制度や律令を議せしめ、公選投票を行い、官吏を登用し、立憲政体を直ちに創設することが期待された。
 ところが政府が、廃藩立県を武断してから中央の権力が強まり、官吏は暴慢になった。明治6年、廟堂が朝鮮問題を議したとき、「朝鮮今日の無礼たる、道理でも方略でも、その罪を問わないわけにはいかない。まず、使節を遣わし、道理を尽くし、その後で征伐の軍隊を出すべきだ。そしてこの使節は、西郷が願い出ているのだから西郷にしたらどうか」ということで意見が一致していた。(これは7月下旬、三条太政大臣が、後藤、板垣、大隈、副島、大木、江藤ら六参議と評議したことだ。)
そして三条は箱根にいた天皇に評決の次第を説明し、天皇もそれを可とした。これは日本の内閣の輿論であり、太政大臣が裁決したことだ。
 ところが欧米巡回大使の岩倉具視や大久保利通が9月下旬に帰朝してからの、10月14日、15日の内閣会議で、三条と岩倉が言うには、「国内のことはしばらく置いといて、先ず朝鮮のことを評議すべきだ。ロシア人は樺太で日本人に暴力を働いたが、ロシアが朝鮮に援兵しないという内約定をロシアと結び、その後で朝鮮へ使節を派遣し、征伐すべきだ。」と。そして大久保、大隈、大木が、これに賛成した。
一方、西郷、副島、後藤、板垣、江藤の五参議が、前の決議を主張すると、三条は前の決定どおりに使節派遣の議を決した。
099 ところが三条が病気になり、岩倉が代理を務め、廟堂は再び方略を議した時、岩倉は一人「予は我決するところを以て聖徳を補佐する。我説を奏聞する」と主張した。五参議が「三条が決めたことを天皇に言ったらどうか。」と言っても、岩倉は自説を曲げなかった。五参議が「三条は長官で、岩倉は次官で代理だ。代理は本官が決定したことを遵奉すべきだ。これを変える権利はない。」と言っても、岩倉が「三条は病気だ」と言うばかりだったので、五参議は冠をかけて下野した。
岩倉と大久保は、天皇がよしとし、太政大臣が決め、大勢の参議がよしとする朝論朝議を変え、独善を押し通した。岩倉が、内地優先を主張し、一日も許すことのできない朝鮮問罪使節派出を拒否したのは、欧米諸国が使節を辱め軽侮することが多かったので、帰国後は官制改革など目前の変革を行い、人目を晦まし、欧米回歴の失敗を覆おうとしたのではないか。それは国家を軽んじ、私を遂げることではないか。
100 副島種臣や板垣退助は民撰議院の建白書で、こう書いた「臣等伏して方今政権の帰するところを察するに、上王室にあらず、下人民にあらず。而して独り有司に帰す」と。
 明治10年、主上が西京に行在(あんざい)せらるるにあたり、高知県の片岡健吉が、その県の立志社総代として行在所に出向き、民撰議院興すべしの建白書を上ったとき、君側がこれを退けて「民撰議院のことは陛下も深き思し召しあり。またこの書中には不都合の廉々があるので却下する」とすると、片岡は「陛下も深き思し召しありの言葉からすると、叡覧の後に返却されたとは思われない。陛下も深き思し召しありとは陛下の直接の言葉か、それとも閣官吏の言葉か」と問うた。すると、吏曰く「陛下と内閣は一体なり」と。これは、陛下は大臣参議なり、大臣参議は即ち陛下なり、と言っているに等しく、暴慢である。
 明治13年、河野広中と片岡健吉が、日本全国国会願望者8万7千人の総代97名の委員となり、太政官に出頭し、その願望書を皇帝陛下に捧呈すると、太政官は「人民斯くの如きの請願をなすの権利なし」とした。天皇が請願権を人民に許さないというのだが、実は、有司が独り断じて「人民にはその権利がない」と言っているのではないか。これは僭越で、民意を覆うことだ。
101 国会政治は、五箇条の誓文の、広く会議を興し万機公論に決すの大旨の中に明らかである。
 明治8年、皇上は詔し「漸次国家立憲の政体を立て、衆庶と共にその慶に頼らんと欲す」と。これは一日も速く立憲政体が成ることを希望したものだ。政府は天皇を補佐しているとは言えない。政府は天皇に、明治23年を期し議院を開くという詔を出させ、明治23年まで国会開設を延期した。これは、政府が天皇に天地神祇を欺かせ、天下万民を騙したということだ。
 明治6年、副島、後藤、板垣、江藤、由利等が民撰議院興すべしと建白し、
明治10年、片岡健吉が立志社総代として民撰議院を西京行在所に建白し、
明治13年の頃、岡山、福岡など各県、各地が国会請願建白をなし、
明治13年4月、河野広中と片岡健吉が請願書を上るなど、その道を尽くしたというべきだ。他方、政府はこれを容れないばかりか、人民が皇上に上る書面を、一度も天皇に奏しなかった。
102 政府は
 明治6年、藩閥有司専制を明らかにし、
 明治8年、新聞紙条例と讒謗律を設け、
 明治16年4月16日の布告でその法を厳猛にし、国内で結社集会が漸く行われ、政談演説がちょっと盛んになると、集会条例1880(M13), 1882(M15), 1890(M23)を頒布して、これを抑圧し、その罰も甚だしい。新聞紙条例や集会条例は、集会、結社、言論の三大自由を抑制する最も大なるものであり、天下万人の舌根を抜き去るに異ならざるなり。新聞紙条例、集会条例は、古今万国の虐法を集め、これを大成したというべし。出版条例も、近日いよいよ厳密を加えてきた。さらに政府は請願条例を布いた。政府は恣意的で、国家を誤り、人民を禍している。
 天皇は明治8年4月14日の詔書で、「朕今誓文の意を拡充し、ここに元老院を設け、立法の源を広め、大審院を置き、審判の権を強くし、…」としたのに、政府は、元老院を設けた後、その権限を縮小し、正義の士を退け、欺いた。
103 府県会もその権限を縮小されている。大審院は門に看板が取り付けてあるだけだ。実際、大審院は司法卿に隷属している、つまり、内閣に隷属しているということであり、内閣が司法権を左右している。次の林包明の裁判がそれを示している。

高知県士族林包明儀、去る15日群馬県前橋本町料理店で止宿の節、巡査に対し侮辱を加えたる事件既に告訴に及び、現今東京軽罪裁判所に移し審判中にこれあるにつき、別紙の通り、該県(群馬県)より申し出で候趣きこれあり候。そもそも警察官吏たる者、常に人寄せ、飲食店その他の場所を巡案し、旅店、宿泊人を視察し、或いは時宜により、宿泊人に直接尋問をなす等のことは、その職務を執行するものとす。然るに本件林包明が所為は、全く刑法第139条及び第141条を犯したものと思考候条、充分事実審明、相当の処断これありたく、右等は将来警察権力に関する儀につき、あらかじめ裁判所へご案内相成り候様、この段御照会に及び候なり。

明治15年9月20日 内務卿(大蔵卿)山田顕義代理
大蔵卿(内務卿)松方正義
*下線部が正しい。

司法卿大木喬仁(たかとう)殿
追って別紙ご一覧済み、ご返却これありたく候なり。

感想 林包明が警官に向かって人民の自由を主張したことを、警官=国家に対する侮辱ととらえ、弾圧して欲しいと、内務卿=内閣が司法卿に要望している。

 今日刑法や治罪法があるが、法律に明記されないことは、どんなことをしても罰することができないはずだ。ところが政府は非常に恣意的で、法律の条文を無理やり当てはめて、政府が憎む者の罪を断じ、証拠も捏造したり、無いものにしたりする。「法律に正条なき者を罰せず」というは、畢竟泡沫のみ。
104 明治13年9月、これまで造石税清酒1石につき金1円の酒税法だったものを、造石税1石につき2円としたとき、酒造家は減税を嘆願したが、政府は顧みず、返って15年12月、更に増税し、営業者が破産したが、政府は憂えることもなかった。
 明治15年10月、売薬印紙税を制定し、
明治15年12月、明治8年10月に布告した煙草税則を改正・増税し、また米商会所や株式取引所仲買人納税則を制定し、
明治17年5月、證券印紙規則を改正し、
明治14年2月、地租徴収期限を改定し、期限を急にし、
明治13年11月、地方税を、地租5分の1以内を地租3分の1以内にし、
 検査吏員が家の中に入り、収税官人が税金を徴収した。
人民は事業をやっておられなくなり、納税に耐えないものは、公売処分にし、家を壊し、桑を伐採した。
105 租税のために死ぬ人が多かった。
官吏は租税収入を己の寵商に貸し付けた。明治14年12月14日現在、政府から銀行、会社、人民への貸付金は、大蔵省の検査を経たものだけでも、1775万1293円95銭4厘であった。無利子や、極めて低利で、返還期日も緩かった。税金は、高官自身や寵商、顕官、愛妓に供するためのものだった。
政府は明治6年7月28日、地租改正条例を頒布し、その第6章の注で、「従前地租の義は、自ずから物品の税、家屋の税等が混交しているから、改正に当たってそれをおいおい区別し、地租は地価の100分の1に定めるべきだが、まだ物品等の諸税目が興らないから、先ず地価の100分の3に定めるところである。今後、茶、煙草、材木、その他の物品税を追々発行して歳入が増え、その収入の額が200万円以上になったら、地租改正した土地に限り、その地税、右新税の増額を割合し、地租は終に100分の1になるまで、漸次減少する。」としていた。その後、明治10年、5厘の減税があったが、物品税が増え、明治16年予算表を見ると、合計1981万7511円であった。その200万円を超過する分は、1781万7511円であった。
それで、人民はこれによって地税の減額を請願建白したが、政府は、前述の第6章を無視し、請願を受け付けず、明治17年3月15日、地租条例を制定し、明治6年布告の地租改正条例を廃止し、その第1条で、地租100分の2.5を以て1年の定率とするとし、前条例の第6章の項目をなくした。これは約束違反だ。
106 政府は憚るところの者をことさら挑起(挑発)し、巧みに術中に陥れ、叫んで曰く、「反跡顕然なり」(謀反が明らかだということか)と。政府は、大いに兵を出して之を封じ、兵もし足らざれば、即ち之を国家に増徴し、金もし乏しければ、紙幣を増発し、不逞の徒を悉く平らげた。
107 前原一誠、西郷隆盛に施したことはこれであった。西南の役が済むと、今度は板垣がターゲットになった。政府は、天下有為の士を敬い、国家のために用いるべきだ。ところが政府は、彼らを巧みに挑発して敢えて兵を挙げさせた。
こうして国力が衰微すれば、外国が侮辱し、国権が失墜し、植民地になり、国辱を招くことになるだろう。千島も樺太も日本の領土だ。ところが政府は一を露国に与え、千島との交換だというが、実は露西亜を畏れて与えたのだ。
 明治6年、朝鮮がますます無礼を我に加え、速やかに問罪の使節を発するべきときに、他に口実を作ってこれを果たさず、禽獣のような台湾蕃民に遠征し、(日本)人を殺し、財を滅ぼす。結局弁理大臣を清国に派遣し、一個外国臣民(イギリス公使ウエードの仲介1874)の調整を待ち、僅かに50万錠(テール)の償金を収め、蕃地は我の有とならず。朝鮮は坤輿(こんよ、地上)の一国なり、台湾は一個の蛮島なり。台湾は、政府がある国家をなすものではない。
108 朝鮮の我に無礼を加えるは、朝鮮国家の我日本国家に対する関係だが、台湾は山野の蛮民がたまたま我国数名の漂流人を虐殺したに過ぎず、国家と国家との関係ではない。朝鮮と台湾とでは軽重がある。大事を誤ったというべきだ。
1882年、明治15年、朝鮮乱民(兵士)が暴起し、我公使館を焚毀した。(壬午軍乱)清の兵隊が理由もなくやってきて、朝鮮は清国の属邦だと京城に掲示し、清の馬建忠は、大院君を清本国に騙して連れ去った。清国は日本の訂盟国=朝鮮を辱めたのに、政府は一度も清国に対して詰問をしなかった。日本は世界の笑いものになった。これは歴史の汚点となった。悔しいことだ。

日本政府の大罪は以下の通りだ。

一 朝憲を僭窃し、国家を恣にしている。
二 民意を押さえ込み、忠言を拒否している。
三 皇上を欺き、聖旨を汚している。
四 公議を退け、輿論を排除している。
五 民意を抑圧し、自由を束縛している。
六 立法権を縮小し、司法権を紊乱している。
七 苛酷な税金を取り立て、人民を侵漁している。
八 約束を破り、国民を欺いている。
九 正人を猜疑し、国力を減殺している。
十 外交を誤り、国辱を招いている。

 政府の官吏は、自らの兄を殺し、妻を暴殺し、通貨を贋造し、自分の嫌いな警視官を毒殺し、賄賂をむさぼり、処女を姦し、妓をはらませたように、品行禽獣のごとし。
109 政府は警官を厳にし、憲兵を増し、徴兵令を密にし、兵備を盛んにした。政府はそれを外患を防ぐことを口実にしているが、実は藩閥有司専制を保持するために用いている。そして兵備を盛んにするために、税を増し、人民を逮捕して殺す。まさに残虐そのものだ。わが国三千余万の士は、この怪物の群れに向かって税を納め、その鞭撻を受け、その下で働き、諾々として害毒の犠牲に甘んずることができようか。
110 これは恥辱だ。三千有余万の士よ、奮って速やかにこの政府を改め、この国を正すべきだ。起て、同胞諸君。奮え、進んで革命の義挙を取り、速やかに賊魁を誅戮せよ。」(鈴木金大『衆議院議員候補者評伝』*)

*本檄文は、ガラス瓶の中に入れておかれたものだった。

 この檄文は村松が植木枝盛に依頼して、植木が書いたものだ。
 村松は、田原地方で、八木、江川は高棚地方で、川澄は飯田地方で同志を募った。

 八木が書いた軍令

 「軍令職緒言*

*職は衍(えん)字。余り字。余計な字。

 圧制残虐なる政府を転覆し、大罪賊魁なる官吏を誅戮し、立憲政体を立て、天賦の自由を全うし、税を軽くし、経済的に豊かにするために、革命の義挙を取る。これは単なる暴徒ではない。暴行、掠奪を戒め、老幼婦女を愛撫し、貧民病者を救恤せよ。しかし、政府と官吏に対しては、斃れてもなお止まらざるの剛胆勇気を振起せよ。進んで死すとも、退いて生きることなかれ。生は死にまさる恥だ。
軍令草者識」
(「時事新報」明治18.11.4)

 秩父の暴動が10日間のうちに平定されると、人心は沈み、敢えて動こうとする同志が少なくなった。村松は、機運が熟していないと判断し、八木、江川と相談し、挙兵を中止し、名古屋に同志を集めて共に住もうと決め、公道協会を小市場町から堀詰町に移した。名古屋鎮台の看護卒中島助四郎も兵営を脱して公道協会に潜伏していた。
112 12月初旬事がばれ、6日、村松が逮捕され、八木、江川、中島も捕まった。川澄は飯田で挙兵の志を捨てなかったが、12月4日に愛国正理社で捕らわれ、桜井も北信遊説の帰途で捕らわれた。また尾参と信州地方の自由党員も連繋逮捕された。
 名古屋で捕縛されたものは皆、長野軽罪裁判所松本支庁に護送され、明治18年8月11日、予審が終結し、村松愛蔵、八木重治、川澄徳次、中島助四郎、江川甚太郎、伊東平四郎(以上愛知県)、櫻井平吉(長野県)、弘瀬重雄(神奈川県)の8名が、内乱陰謀罪に問われ、長野重罪裁判所に移され、石塚重平以下19名は、證憑(ひょう)充分ならずとされ免訴となった。(省略、おそらく無関係の自由党員も含まれていたのだろう。伊東平四郎、弘瀬重雄は、初めて名前が出てくる人だ。)
 10月10日、公判が開廷し、各被告は心血を披陳し、傍聴人を感激させた。村松は、施政の逆を追及し、途中で嗚咽して言葉が出なくなることが何度もあり、裁判長が慰止した。公判の途中で、検察官が伊東と弘瀬の公訴を放棄し、無罪を宣告したとき、被告たちは義を重んじて、刑の軽重を争い、村松は、「自分に罪はないが、もし政府の法律が罪せんとすれば、自分が一番関係するので、川澄、八木を軽く処断されたい」と請うた。他方、川澄は、「11月8日の会で自分一人が挙兵を提唱し、今でもその決心が変わっていないから、罪があるとすれば、自分を重刑にして欲しい」とし、八木は「11月8日の会は自分が提唱した。法律が我党を罰するのなら、私がその第一にいるだろう。先に弁護人が酌量減刑を至当と言ったが、私の本意ではない」と言うと、裁判長は「潔い男子の言」と言った。23日に閉廷し、27日に裁判宣告があり、村松は軽禁獄7年、八木と川澄は軽禁獄6年、櫻井は軽禁錮3年6月、監視1年、江川は軽禁錮1年6月、監視1年、中島は軽禁錮1年監視1年と宣告された。
115 村松、八木、川澄は、飯田から檻送され、小菅集治監に移され、後、憲法発布時に大赦された。


第五章 名古屋並びに静岡の獄

 愛知の公道協会員は三派に別れていたが、三河方面には内藤魯一、渋谷良平、村雨案山子、福岡精一、後藤主一郎、相馬政則、遊佐発等がいて、田原方面には、村松愛蔵、神谷磯吉、川澄徳次、八木重治、鈴木滋等がいて、名古屋方面には、岡田利勝、塚原九輪吉、祖父江道雄、久野幸太郎、近藤寿太郎、大島卯吉、加藤豊成、庄林一正、荒川定英、国島博等がいた。これらの地方の先覚者が公道協会を組織し、一朝有事の日には、決起し事に従わんことを期していた。
 明治15年春、板垣が東海道を遊説し、明治16年星亨が遊説し、東海の自由党員は活気を呈した。星は「時勢は険悪であり、革命の機が切迫している」と示唆したが、星には政府の間諜、小勝俊吉がついていた。小勝は有志家を装い、遊説もしていた。
116 ある晩小勝が公道協会員を招き、「今の状況では非常手段を取る他にない。目的のためには手段を犠牲にして軍資を得たらどうか」と勧めると、賛同するものが多かった。
 このとき土佐の奥宮健之が、言論の罪で東京にいられなくなり、薩摩の三州社に寄って事を挙げようとし、愛知県に立ち寄り、かつての知己、塚原や祖父江を訪れた。
 奥宮は立志社の生徒で、後、加藤高明や小川金+冉吉*と三菱会社に入り、後去って、大石、西村(玄道)、佐伯(剛平)と共に国友会を組織し、自由党に加盟したが、井生村楼の演説で政府の忌憚に触れ、東京府下での一切の政談論議を禁じられ、後、講談師となって自由民権の福音を下層社会に伝播しようとしたが、これも官が禁ずるところとなり、遂に言論の頼むべからざるを知り、薩日隅で事を挙げようとした。

*「金+冉」は一字。

 奥宮は、塚原や祖父江に頼まれて公道協会で英語を教えたが、会員の一人が、「土佐人の言行は不一致で、革命を口にするが実行したためしがない」と言うと、奥宮は、「先輩の抑制があるので、青年は決起できないでいる。名古屋人士こそ柔弱ではないか。私が行動を共にしたいと思う仲間は九州男児のみだ。そう言う君らはどんな決心をしているのか」と反論した。
 このことがきっかけとなり、互いに胸襟を開き、政府転覆の陰謀を企てるようになった。軍資を徴集し、名古屋鎮台の兵を説き、これを奪い、監獄を破り、囚人を義軍に参加させ、県下を従え、各地の自由党員が蜂起するのを待つ、という計画を立てた。同盟者は、塚原九輪吉、祖父江道雄、久野幸太郎、大島清、鈴木松五郎、富田勘兵衛等十数人に及んだ。
 久野は剣客であったが、後、印刷を業とし、紙幣の私造に任じ、大島は奪略の方策を講じた。
118 明治17年8月17日、岐阜街道沿いの無道で知られていた豪家を掠奪し、軍資を得ようとし、奥宮、大島、鈴木、富田ら11人が、掠奪委員に選ばれ、雨の中を刀槍を持って、薄暮まだ門が閉まらないうちを狙って行ったが、すでに門が閉まっていたので、林の中で待ち、深夜零時に帰途についたが、平田橋付近で、名古屋警察署の警部1名、巡査2名、刑事1名が、刀槍を持つ彼らを認め、警吏と格闘になった。奥宮が3人を殺したが、1人は逃れた。
 名古屋警察署はこの件があってから自由党に対して厳しくなり、剣客でかつて山県有朋を暗殺しようとした庄林一正を疑うようになったので、奥宮らは、岐阜街道の掠奪計画を中止した。
 10月、奥宮は塚原と共に、大阪の大会に出席した。大島、鈴木、富田らは、愛知郡大草村役場に国税が集まっているのを聞き、白昼、刀を揮って吏員を脅し、金庫を破り、金を奪った。
 同月、田原方面の陰謀(12月とあったが、前章の村松愛蔵の件か)が発覚し、名古屋の党員20余名が嫌疑を受け逮捕された。大阪の会議が終わって帰ってきた塚原も逮捕された。奥宮は変を知らず、伊賀我何人と大和に入り、そこで遊説してから名古屋に帰り、近藤寿太郎を訪ね、注意された。近藤は祖父江の兄だった。奥宮は再び大阪に戻り、植木枝盛と広島、岡山、和歌山に遊説し、さらに朝鮮に赴こうとして、12月31日、東京に帰り、同夜大井憲太郎と会ったが、18年1月1日、逮捕され、名古屋に送られた。富田勘兵衛がまだ逮捕されていなかったので、裁判は3年間の長期間に及んだ。
119 富田は逃れて東京に入り、大井憲太郎に依り、朝鮮改革運動に加盟し、山本輿七郎とともに非常手段に訴えたために、逮捕された。明治25年5月、名古屋重罪裁判所は、奥宮を厳しく取り調べ、富田勘兵衛、大島清、鈴木松五郎は、巡査故殺並びに強盗犯で死刑に処せられ、奥宮、久野、塚原は、紙幣贋造、巡査故殺、強盗教唆を問われ、奥宮は無期徒刑、久野、塚原は重懲役各15年に処せられ、その他の者は、8、9年、乃至、11、12年の刑に処せられたものが20余名、祖父江、岡田は証拠不十分で無罪となった。奥宮、久野、塚原らは後ち北海道樺戸の集治監に入り、明治29年7月、板垣、片岡、林、龍野、石塚等の斡旋で特赦となった。政党志士は悪戦を避けず、目的を手段に誤ったが、その原因は政府だ。(奥宮は3人の警官を殺したが、死刑にはならなかったようだ。)

 明治12年、静岡で、前島豊太郎、大江孝之、藪重雄等が静陵社を興した。それが浜松の遠陽自由党と、静岡の岳南自由党に分かれた。主な同志は、山岡音高、中野二郎三郎、湊省太郎、宮本鏡太郎、清水綱義、小池勇、木原成烈、鈴木辰三、足立那太郎、山田八十太郎、村上佐一郎、荒川太郎、荒川高俊らである。
 明治15年春、当地に、板垣の遊説が、明治16年に星亨の遊説があったが、これより先に、明治15年11月、赤井景韶が石川島の獄を脱し、清水綱義の家に1ヶ月余潜伏し、浜松の中野二郎三郎に寄ろうとして大井川に来たとき、逮捕され、後、処刑された。それ以後政府は集会条例違反や官吏侮辱罪で暴圧を強めたため、23年の国会開設の約束は信じられなかった。そこで専制政府を転覆しようと皆が思うようになり、一地方だけでは政府の軍隊と警察に太刀打ちできないから、広く天下の同志を糾合しようということで、大動乱の陰謀が始まった。
 静岡の党員は各地の党員と通じ、山岡音高は茨城の富松正安と会い、藪重雄、村上佐一郎らは、大阪事件*の内藤六四郎と通じ、宮本鏡太郎は加波山の平尾八十吉と通じ、また飯田事件の村松愛蔵、八木重治、名古屋事件の奥宮健之、久野幸太郎、塚原九輪吉と通じた。

*大阪事件とは、1885年、明治18年、朝鮮の内政に関与しようとして発覚した事件のこと。第六章参照。

 当時茨城、栃木、宮城、秋田、福島の間に、福島、栃木の暴圧を契機に、東北的大動乱の陰謀があった。彼らは仙台の鎮台を襲ってこれを奪取し、これに拠り、政府転覆を計画したが、加波山の激挙が先に起こり、雌伏することになった。この類の運動が各地に発生しつつあった。
 
 山岡音高、中野二郎三郎は、静岡在住の徳川慶喜を擁して、旧臣で金谷ヶ原で農業をしていた者を用いようとしたが、累を旧主に及ぼすことを恐れて反対する者がいて断念した。17年9月の加波山から10月の自由党解党に至り、もはや全国的大動乱よりも暗殺主義にならざるを得なくなった。
 彼らは爆弾を製造し、運動費を徴収した。また山岡、中野は、同志の秘密漏洩を防ぐために、強盗犯である旨を掌に書かせ、また新しい同志に敢えて強盗罪を犯させ、死地に陥れ、秘密の漏洩を防ごうとした。
122 明治19年7月10日、箱根離宮の落成を告げ、諸大臣がこれに会し、式典を開催するとのこと。このチャンスに内閣諸大臣を殺そうとし、中野、山岡、湊省太郎、宮本鏡太郎等は伊豆から箱根に入り、山中を実地踏査した。また同志を警視庁や静岡警察署に入れて政府の行動を探った。静岡の刑事眞野信仭(じん)がこれである。
 山中に潜伏所を設け、7月3日、同志がすべてここに集まった。
 中野は、浜松で鳳雛(すう)舎という学舎を開いていたが、19年6月、陰謀が露見した。これより先、小勝俊吉は星亨に従い、静岡、名古屋を遊説し、激しい言葉で扇動していたが、ある時、山岡が小勝を同志にしようとして強盗を強いたところ、小勝は驚いて逃げ、静岡自由党の陰謀を警視庁に密告し、陰謀がばれた。
 この年6月3日、山岡、藪、湊、宮本、荒川太郎、松村辨次郎、島森友吉*等、在京の同志が捕らわれ、次いで静岡を中心として各地に散在していた同志も縛に就き、中野二郎三郎は6月19日、浜松で捕らわれた。岳南遠陽の二団体が一網打尽となり、同志百名余が逮捕され、小勝俊吉も一時逮捕されたが、後、すぐに放免された。(*松村辨次郎、島森友吉は初出)
123 明治20年7月13日、東京重罪裁判所は、百余の嫌疑者中25名を留め、他は皆放免した。山岡以下の同志を強盗罪とし、角田眞平が弁護士となった。湊省太郎(静岡)、清水綱吉(静岡)、宮本鏡太郎(栃木)、鈴木辰三(静岡)は有期徒刑15年、中野二郎三郎(静岡)、鈴木音高(静岡)は有期徒刑14年、清水高忠(静岡)は同13年、藪重雄(静岡)、木原成烈(静岡)、小山徳五郎(静岡)、足立邦太郎(静岡)、名倉良八(静岡)、小池勇(岐阜)、川村孫一(神奈川)は同12年、高橋六十郎(石川)、浅井満次(東京)、村上佐一郎(愛知)、潮湖伊助(静岡)は重懲役9年、山田八十太郎(静岡)は軽懲役8年、平野幸次郎(北海道)は同6年、上原春夢(静岡)は重禁錮4年、監視1年、大畑常兵衛(静岡)、眞野眞烋(こう)(静岡)は同2年6月、監視1年、小林喜作(静岡)、室田半二(静岡)は同1年6カ月、罰金10円、監視10カ月に処せられ、前島格太郎だけが無罪となった。
  判決後、同志は強盗犯とされたことを恥じ、絶食して死を図るものが多かった。そこで中野二郎三郎は裁判長の許可を受け、法廷でこう言った。「我々は、政府転覆の目的が達せられなかったら、斬死するか、法律の裁きを受けるかどちらかだと当初約束したはずだ。捕縛されたことを恥じることは、男子の所為にあらず。私は弁論で罪を逃れたくない。弁護士も不要だ。潔く服罪するつもりだ。」と。他の者もこの言を聞き、ことごとく弁論を用いず服罪した。
124 重罪者は石川島、小菅の監獄に、更に北海道空知集治監に移されたが、湊省太郎は病んで獄死し、その他の者は24年、板垣、河野、龍野、高津、奥野、玉水らの慰問を受け、30年1月、名古屋事件の奥宮とともに特赦復権した。

第六章 朝鮮改革運動

 維新革命の精神には、立憲政体を確立し国民を統一し、国民をして国家の隆盛と共にさせて、世界に進出し、東洋の平和を確立する狙いがあった。自由主義者は、国の対韓国政策が確立しないことを心配し、明治6年、そのことで廟議が分裂した。自由主義者が国際条約の改正を何度も建言したが、改正の端緒を挙げることができず、国権は民権とともに萎えた。維新の初年、西郷隆盛は言った。「王朝の昔時は、三韓我が版図たりし」と。
125 1882年、明治15年7月、韓王の生父、大院君李昰(ぜ)應(応)は、外戚の閔氏が独断政治をするのを怒り、兵をもって諸閔氏を斬殺し、我が公使館を襲撃し、鎖国の素志を実行しようとした。そのため我公使花房義質は長崎に退いたが、外務卿の井上馨は馬関=下関に赴き、公使を韓国に戻らせ、談判させたところ、韓国側は、謝罪の使いとして、朴泳孝、副使金晩植、金玉均を東京に派遣し、償金50万円を約束した。これを濟木浦(さいもっぽ)条約という。

 清国はすでに観察の馬建忠、丁汝昌等を、軍艦を伴って韓国に行かせ、大院君を北京に護送し、兵隊を漢城=ソウルに置いた。清国は以前から韓国を藩属と見なしていたが、この時から韓国の内政に干渉し始めた。そしてこれは、1884年(明治17年)*、1894年、95年(明治27、8年)、1904年、05年(明治37、38年)の戦争の元となった。

*1884.12.4、開化派のクーデター073
*1885.1、七艘の軍艦と二個大隊を率いて仁川に上陸した全権大使井上馨は、そのうちの一個大隊を引率してソウルに入り、朝鮮側の全権大使金弘集と談判し、漢城条約を締結した。130頁参照。

 朴や金は、開国党で、日本の文明を敬慕し、我が政府に依頼し、閔族の事大党を排し、内政改革しようという望みを持っていた。彼らはそのことを東京で外務卿井上に説いたが、顧みられなかった。政府は対外的には無為に勉め、ただ二三の強国の意向に沿うことに汲々としていた。そのため、朴や金は、在野の人、慶應義塾の福沢諭吉に諮ると、福沢は後藤象二郎を紹介した。
126 1883年、明治16年10月、後藤は井上角五郎を韓国宮廷に雇わせ、自らも客となって渡韓し、改革に協力しようと約束した。後藤は、事大党を一気に滅ぼそうとしていて、そのために資金百万円を集めようとしたが、うまくいかなかった。
 その時、清仏戦争1883.8.--1885.4が起こった。1884年、明治17年秋、後藤が資金面で板垣に相談すると、板垣はフランスの公使に尋ねてみようと言った。板垣がかつて渡仏した時、クレマンソーと面談していたが、そのとき、板垣が「今欧州列国が東洋諸国に臨む態度は、侵略である。自由の友として、東洋を繁栄させる意図をもつ国がない。自由の国であるフランスは、自ら率先して欲しい」と言うと、クレマンソーは賛成してくれた。
 板垣は自由党幹事の小林樟雄を通訳として仏国公使のウイツキーを訪ねた。小林は自由新聞社の仕事で何度も仏国公使館を訪れたことがあり、公使と面識があった。板垣はウイツキーに「私は自由主義を唱え、人権同等を唱えてきた。今朝鮮は長い間清国に圧せられ、独立党はあるが力が弱い。朝鮮の国王が日本に特使を派遣し、後藤に援助を求め、後藤を改革の全権にして、しかも宰相に挙げようとしている。私共は、清国の朝鮮に対する干渉を断ち、わが日本と同じようにアジアの半島に新立憲国を建造したいが、最近在野の有志のために尽くし、また秘密を要することでもあるので、資金を集めるのに苦しんでいる。今ドイツは韓国に顧問を派遣しているが、貴国は技能に優れている。貴国が百万円を貸してくれるなら、東洋の自由の友としての名誉を博するだろうし、勢力を張ることもできるだろう。フランスの義気ある人にこの件を紹介し、百万円借款の労を取ってくれまいか。」と言った。
 仏公使は賛成し、「職権上仏国として関与できないが、個人の資格で、親友のパリの銀行家に照会しよう」と約束した。
 日を経て、仏国公使館書記官のメーメルが、パリからの回電をもたらし、小林の宿である金虎館を訪れ、戸外より、「ビヤン、ツレビヤン」と叫び、吉報を届け、「百万円の為替はいつでも銀行から振り込むだろう。準備はできたのか」と言った。
 後藤はすでに竹内綱を出納係にし、壮士を糾合し、準備していた。噂では「仏国公使が、親友の水師提督クールベーに内報すると、密かに軍艦二隻を供給してくれると約束した」とのことだ。
 後藤は、国内では国論を起こして議院開設を決行し、対外的には自らが朝鮮の総務官になる計画を立てていた。
128 また、板垣も後藤を援助した。
 参議伊藤博文が後藤を訪ね、後藤に入閣を勧めた時、後藤は、政府が自分に朝鮮問題を一任してくれたら、成功して見せると言ったところ、伊藤は賛成した。
 ところが後藤はさらに金や朴との密約の件を伊藤に漏らした。伊藤が外務卿井上馨に話すと、井上は在野の人に託すことはできないと認めなかった。
 この話を聞いた井上は、後藤の画策を自ら行おうとし、かつての、事大党に近い政策を一変し、金、朴等の独立党を厚遇するようになった。
 1884年、明治17年11月2日、政府は、駐韓公使竹添進一郎に、次のように韓廷側に言わせた。「以前の濟物浦条約の結果、朝鮮が10か年賦で日本に支払うべき償金50万円のうち、すでに受け取った10万円を除き、残額40万円を朝鮮に還付する。日本の経験からして、新しい改革の試みには巨費を要するものだ。天皇陛下から勅命があり、40万円を朝鮮に返付し、補助としたい」と。翌3日、竹添は軽率にも、日本の天皇の天長節の祝宴会に集まった朝鮮事大党の領袖、清国公使、各国公使などを前にして、「日本政府は独立党を幇助し、改革に努める」と演説し、「やむを得ないときには兵力を貸与する」と暗示した。事大党や清国は猜疑心を強め、金、朴は、後藤に依頼する必要はないと思い、その旨を後藤に手紙で連絡した。「公使の態度が一変し、閣下の指揮を仰ぐ余裕がなくなった」と。後藤はびっくりし、失敗したと思った。

 12月4日の夜、洪英植、朴泳孝、金玉均等の独立党は、京城での郵政局開設式に乗じ、局の近くの民家に放火し、式場の閔泳弓+羽*等を傷つけ、王宮の閔臺鎬以下六名を殺した。国王は日本の公使に王宮の警備を頼み、公使竹添は、一中隊でこれを守ったが、6日、清の袁世凱が二千の兵を率いて、王宮を囲み、韓国の兵隊が中からこれに応じて、日本兵に向かって砲撃した。

 *弓+羽は一語。

130 国王は清の兵隊に投じ、公使竹添は公使館に退いた。途中、竹添は清や韓国の兵隊や民衆に攻撃され、その他の日本人も殺傷・略奪を被り、婦女も辱められた。その時陸軍大尉の磯林眞三がたまたま京城の外にいて、変を聞いて急いで帰ったが、乱民に殺されてしまった。
 日本公使館は三回攻撃され、7日、公使館員は仁川に退いた。大使館は焼失した。13日、東京に変の報告が届いた。24日、外務卿井上馨が全権大使となり、高島鞆(とも)之助、樺山資紀等とともに兵二大隊を率い朝鮮に向かった。清国も、呉大徴を欽差(皇帝に遣わされた)使臣として兵を率いて朝鮮に向かわせた。

 事大党が勢力を取り戻し、洪英植は殺され、金玉均、朴泳孝は仁川に脱し、日本に亡命した。

 日本の輿論は沸き上がり、清や韓国が日本に加えた不法行為を怒り、償金を得なければ、軍隊で膺懲すべきだと論じた。また、直ちに問罪の軍を送るべきだと論じる者もいた。
 18年1月3日、全権大使井上馨が京城に入り、6日、国王に謁したところ、韓国側は抗うこともなく、日本側の要求を容れ、次の五項目を約束した。

一、朝鮮国王は、謝罪並びに謝礼の親翰(しんかん)を日本の天皇陛下に贈呈すべきこと
二、磯林大尉等を殺害した者を逮捕し、厳刑に処すること
三、朝鮮政府は、日本人の死者の遺族と負傷者を扶助するため、並びに日本人所有財産の損害を償うために、金10万円を支給すべきこと
四、日本公使館を新たに建築すべし。朝鮮政府は該公使館並びに領事館に使用すべき十分な地所及び適当な家屋を供与すべし
五、日本兵営の地位を公使館に接近せしむべきこと。(これはどういう意味か。「地位」ではなく、位置か)

 朝鮮政府は、磯林大尉を殺害した兇徒の首魁二名を死刑に処し、徐相両とドイツ人のモルレンドルフを謝罪使として日本に遣わし、国書を天皇に奉呈したが、日本人公使の迫害や日本人の殺傷、日本人婦女の凌辱などをなした者が専ら清国兵だったので、韓国のわずか10万円の償金や謝罪使の派遣だけでは、日本国民の怒りが収まらなかった。清国は韓国を藩属と見なし、兵隊を京城に配置し、内政に干渉し、日本と韓国との条約をによって韓国が独立したことを蹂躙した。日本国民はこれを国辱だと思った。

 仏国公使のウイツキーは、密かに竹内綱の家で後藤と面会し、後藤にまだ諦めるなと言った。
 朴泳孝や金玉均は日本に逃亡し、後藤、竹内らが彼らをかくまった。

 東京では青年有志、官私各学校の生徒が、示威運動会を上野公園で催し、豚の頭を長い竿に突き刺して走り、隊伍を組んで銀座に至り、非戦論を主張した朝野新聞社の窓や戸を破壊し、拘引された者もいた。
132 地方では自由党の有志が主唱し、遭難者弔慰金を募り、義勇兵団を組織した。従軍を志願し、献金する者もいた。鹿児島、長野、福島、富山などが最も盛んだった。土佐では、板垣や片岡が全県の人心を統率し、義勇兵を編成し、軍事訓練を開始し、全軍を高岡仁淀蹟に集め、講演会を開いた。片岡健吉がその総指揮を取った。

 1885年、明治18年2月、参議兼宮内卿伊藤博文が特命全権大使となり、参議兼農商務卿の西郷従道とともに清国に向かった。清側は、兵部尚書直隷総督李鴻章が全権となり、呉大徴を副大臣とし、4月3日、天津で談判したが、話がまとまらず、日本側が折れて4月18日、条約に調印した。天津条約という。

一、朝鮮に駐屯している両国の軍隊を撤去する
一、両国とも、軍事教練のための教官を朝鮮に派遣しない
一、将来事件が起き、軍隊を朝鮮に派遣するときは、互いにその旨を文書で知らせる

付則 今回の朝鮮の変で、清兵が日本人を殺害凌辱したことには確証がないので、他日証拠が出てきたときに、刑に処すべきものとする。

 国内の輿論は、条約が不完全で、譲歩しすぎだとし、清が日本や日本人に対する損害や凌辱を償わず、清の韓国への干渉を黙認したと批判した。
133 清国は駐屯軍の将であった袁世凱を駐韓大使にし、漢城に対する影響力を増した。韓国では事大党が復権し、日本の影響力が減少し、後藤の計画も水泡に帰した。
 伊藤が清国に向かうとき、イギリス公使パークスと面会し、日清間の調停を依頼していたことが判明し、国民はこれを知り、天津条約の存在理由がないことを指摘し、政府の惰弱を批判した。
 板垣や後藤の下で斡旋の任を果たし、朝鮮改革運動に与した小林樟雄は、土佐の板垣に、壮図に立ち上がるように説得したが、板垣は断念せよと諭した。小林樟雄は納得せず、この年1885年5月、大井健太郎の家で磯山清兵衛と会い、朝鮮改革について話した。(他国に対する干渉ではないか)三人は、朝鮮が孤立していて弱いのを改め、朝鮮の独立を全うさせ、清国の干渉を避けさせるためには、事大党を倒し、朴や金一派の独立党を政府に用いるべきだと一致した。また、そうすれば日本の受けた侮辱を雪ぐことができ、日清韓三国間の葛藤が起これば、人心が奮起し、政府は狼狽し、輿論に諮らないわけにいかなくなるから、その時、内治改良をし、立憲責任政治を創始できるだろうということでも一致した。
134 大井、小林は日本にとどまり、金策を司り、渡韓後、事を挙げてから、日本国内の改革をやることにし、磯山は、渡韓実行者の首領となり、新井章吾を副首領にし、有一館生その他の壮士20余名を率い、事大党を屠することにした。6月以降準備をし、大阪の山本憲を招き謀議し、朝鮮八道に撒布する檄文を書かせた。

「朝鮮自主を告げるの檄

 朝鮮は自主の国だ。清は武力で朝鮮を封冊し、朝鮮の国権を殺いだ。朝鮮は単独ではこれを防ぐことができない。朝鮮人は憤慨した。列国は暴力的に侵略する。中国は韓国の王を脅し、その王の父を幽閉し、その王の妃を辱めた。朝鮮の宮廷にいる数人の人々は事大と唱和し、清と情を通じ合っている。この数人は臆病者で売国奴だ。朝鮮の義人はそれを滅ぼそうと長い間望んできた。清人は、犬や羊の精神を持ち、豚のような振る舞いをしている。そして頑迷・傲慢で文明を遅らせている。清はかつてフランスとベトナムに関して争ったのに、それに懲りず、また今度は朝鮮に干渉している。
135 我々は常に自由の大義を抱き、痛憤慷慨してきた。我々は天に代わって清の罪を咎め、朝鮮の先業を回復したい。欧米の文明文化を広めようとすることは、もともと朝鮮王朝や朝鮮国民の願いであった。我々は事を好まないが、自由はなくしてはならない。アメリカ13州は英国に抗するとき、フランス人の力を借りた。しかしフランスも列国の一つだ。イギリスも列国の一つだ。イギリスの植民地の乱に、フランスは関わりがないが、大いにアメリカに力を貸し、このことは美談となった。自由を失ってはならない。我々は今天使をもって自任し、天に代わって清を威圧する。我々は至誠の精神で誓い、身を殺して、義に殉ずる。成功するかどうかはわからない。しかし、邪は正に勝てない。時を失うべきでない。朝鮮の多くの人々に、我々の精神が明らかであることを、そして、自由の大義を害する者がこれを恐れることを、知ってもらいたい。」
(「大阪朝日新聞」明治20.5.26)

 大井健太郎等は資金調達のために、同志を獲得し、石塚重平(長野県)、稲垣示(富山県)、井山惟誠(石川県)、景山英(岡山県)、内藤六四郎(愛知県)等に委嘱した。稲垣示は、高岡の寺島松右衛門、南磯一郎、野崎栄太郎、島省左右、釜田喜作、金武央等から六百数十円を得、石塚は、同県人小松大とともに、各百円を調え、館野芳之助は拠出金を出して、同盟に加わった。
 景山英は、女流で、早くから女権拡張、政治改良に志し、女学校を岡山に興し、女子教育に従事していたが、官府に停止され、上京した。1884年、明治17年の暮れ、朝鮮の変(甲申政変)が起こったとき、景山は自由民権を拡張しようと望み、小林樟雄、大井健太郎を訪ねたが、その企画に入れてもらえなかったので、実力を示そうと思い、1885年、18年の晩春、名目上は、婦人教育のための不恤緯会社を創立するためとして、神奈川県の天野政立、山川市郎から資金を得て、これを小林に渡した。そこで当計画の資金調達係として参加できた。景山は130余円を集めた。
136 磯山清兵衛は有一館生を始め、以下21人の壮士を選んだ。
 田代季吉(福島)、内藤六四郎(愛知)、稲垣良之助(富山)、魚住滄(富山)、井山惟誠(石川)、窪田常吉(石川)、久野初太郎(群馬)、橋本政治郎(栃木)、赤羽根利助(栃木)、川村潔(富山)、武藤角之助(神奈川)、大矢正夫(神奈川)、玉水常治(茨木)、田崎定四郎(茨木)、落合寅市(埼玉)、加納卯兵(富山)、加藤宗七(福島)、土屋市助(長野)、吉村大次郎(大阪)、川北寅之助(茨木)、山崎重五郎(群馬)
 
 田代季吉はもと鍛冶職人だったので、爆発物製造を担当した。小田秀吉と変名し、本所仲の郷に鍛冶工場を設け、田崎定四郎と謀って爆裂団装置、鉄片、ガラス罐(かん)、鉄罐、ブリキ罐等二万個を製造し、また刀剣も鍛出し、これを本所小梅村の稲垣示の家や有一館(当時は本所柳島に移転していた)に蔵匿していたが、製造が完成したので、これを同年9月、浅草松葉町の石塚重平の家に移した。
137 1885年、明治18年8月17日、新井章吾は、先発として、橋本政次郎、井山惟誠、加納卯兵、吉村大次郎、山崎重五郎等を率いて、大阪に下り、また、磯山清兵衛も9月中旬、景山英、田代季吉、魚住滄、河村潔、久野初太郎、玉水常治、赤羽根利助等を伴い、爆裂弾未製の薬品、刀剣類を携えて大阪に来て、合流し、爆発物を山本憲、安藤久次郎宅に託した。
 これまでに集めた資金1千円余では不足であることが判明した。これより先、7月10日、大井、小林は、募金のため、名古屋、四国、中国を旅したが、思うに任せなかった。小林は大阪にとどまり、磯山らと合流した。
 10月、土佐の人波越四郎が来訪した。彼は自由党員で、かねてから小林と知り合いで、小林から計画を聞いて賛同し、資金調達に協力することになった。そして、波越は、讃州高松に行き、素封家の、久保財三郎から490円、藤井繁治から500円を拠出してもらい、それを小林や磯山に渡した。
 一方、神奈川県の有志村野常右衛門は、山本与七、水野安太郎とともに計画に参加していたが、大井に言った。「この計画に正当性を持たせるためには、先に亡命して来た朝鮮の金玉均を擁して行った方がいい」と。大井もこれに賛成し、「小林樟雄は金玉均と旧知であるから、小林に東帰を促して実行しよう」と言った。そして村野に手紙を持たせて小林のところに行かせ、小林を説いたが、小林は、「玉均は軽率な男で、後藤の計画を破ったことがある。危険だ」と言ったので、この案は反故になった。
138 村野は自腹で130円を拠出した。
 10月25日、磯山、小林等は、渡韓隊の副首領の新井章吾に、久野、橋本、田代、窪田、魚住、赤羽根、稲垣(良之助)武藤等を引率し、長崎に向かわせた。
 各地から有志が集まった。平田橋で巡査を殺害した富田勘兵衛(愛知)、秩父の暴動で小隊長を務めた落合寅市(埼玉)、砲兵工廠の鍛工下長だったが、そこから脱走してきた片岡光政(高知)やその他、氏家直国(宮城)、山本鹿造(未詳)、前田鈴吉(未詳)、佐伯十三郎(神奈川)、難波春吉(神奈川)、長坂喜作(神奈川)、菊田粂三郎(神奈川)等、剽悍な者が各地からうわさを聞いて集まってきた。
 壮士の中には凶暴さに任せて富豪を脅かし、資金を集める者もいた。長坂喜作、山本与七、菊田粂三郎、大矢正夫らは10月21日の夜、相州(相模国)高座郡座間村戸長役場に侵入し、1千余金を略奪し、大半を自分で消費して、余った400円を神奈川県有志の拠金と称して提供した。そのほか、佐伯十三郎、難波春吉も、富田勘兵衛と謀り、相州の村落を劫掠した。
139 また、氏家直国、内藤六四郎、山本鹿造、加納卯兵、吉村大次郎、前田鈴吉、落合寅市らは、10月3日の夜、大和国平群郡新貴畑村の千手院を襲い、番卒を縛って金をとろうとしたが、わずか青鋼数十円にすぎなかった。また、彼らは、10月10日の夜、高市郡小槻村岡橋某の家を脅かしたが、取るものがなかった。

 1885年、明治18年5月以降始まった対韓運動は、対馬海峡を渡ろうとするときになって失敗した。実行隊の首謀磯山清兵衛は茨城の人で、早くから自由党に参加し、有一館を運営していて、渡韓実行の総将だったのだが、荒くれ者の部下、氏家、加納、山本(与七)、佐藤等が彼を軽侮し、命令に従わなかったので、大井らと分かれ、分派行動をしようとした。10月下旬、党友日下部正一(熊本)が播磨にいたが、磯山は彼と大阪で会って謀議し、10月30日、磯山は兵庫に来て、山名一平と変名し、長崎にいた新井章吾に電報で「荷物濡れた、東に帰れ」と伝えた。また一方で田崎定四郎を遣わし、秘匿しておいた爆発物や刀剣を山本憲の宅に預からせた。山本はおかしいと思った。そのため、磯山は、日下部に、京都府巡査で日下部と同県人の中村楯雄に委嘱させ、11月11日、中村を山本宅に赴かせ、「事が発覚したかもしれない」として爆発物を奪い取らせ、それを播州に運んだ。
140 磯山はすでに盟を破り、播州伊保崎村眞浄寺に潜伏していたが、日下部、田崎、中村らと会い、彼らに渡韓の準備をさせた。寺の僧井村智宗、遠藤福寿に爆発物や薬品等を隠蔵させ、自分たちは塩田の温泉に身を隠した。日下部ははじめから、磯山と大井の間を分離させようとしていたので、磯山がやって来たのを見て喜んだ。日下部が謀主となって、磯山に道を誤らせたのだ。(盟を破らせた)

 小林樟雄は、磯山の異心に気づき、大井と新井に相談した。新井は先発隊を率いて10月27日長崎に達し、磯山からの陰謀発露の電報に接したが、怪しいと思い、久野、橋本を大阪に向かわせたところ、磯山の異心と、まだ事が現れていないことを知った。新井は大阪に帰って小林に会った。大井は変報の意味がつかめず、稲垣示を大阪にやったところ、稲垣はそこで磯山の異心と、資金が底をついていることを知った。
 稲垣は、石塚重平と東京に帰り、資金を集め始めた。同郷人の尾崎某から中山道鉄道公債券1000円を借り、山際七司(新潟)に委ねてこれを売り、10月12日、大井とともに大阪にやってきた。
 小林、大井、稲垣、新井、景山等は、中の島の銀水楼に会し密議した。新井を渡韓隊の首領にし、景山英を韓地通信の主任とし、稲垣は資金を携帯して長崎に至る間の監察役となった。
 同月16日、各人は身を扮して爆発物を携え、内藤、川村、井山、玉水らを伴って大阪を出発し、20日、長崎に到着した。そして新井は佐賀に赴き、佐賀新聞社の江口一三に会った。江口はかつて海軍少尉試補だったが、1884年、17年の朝鮮の変(甲申政変)に際して、清国の所為に憤り、官を捨てて逃亡し、後、僧衣をまとって隠れていた。そして今新井とともに長として渡韓することにした。

141 11月23日の朝、大阪で陰謀が発覚し、大井、小林以下皆捕らえられ、新井、稲垣、景山その他の壮士も、同日長崎で捕らえられ、全国各地で捕縛されるものが、翌年まで続き、総数130余名となった。
 1886年、明治19年7月12日の夜、吉村大次郎、玉水常治が獄を破って脱走した。
 軍籍脱走の江口一三、前田鈴吉、片岡光政は軍法会議にかけられた。その他、嫌疑が解けて放獄されたものが多かった。
 予審が1年半続き、1887年、明治20年4月14日に終結し、大阪控訴院検事長犬塚盛魏は、嫌疑者58人を大阪重罪裁判所に移した。58名の罪状は以下の通りである。

(1)朝鮮に対して私に戦端を開く予備をなした。
(2)爆発物の器具を製造し、注文し、所持した。
(3)治安を妨げるためのものだと知りながら、爆発物を譲与し、販売した。
(4)二名以上で凶器を携え、強盗をした。
(5)二名以上で凶器を携え、強盗をしようとして、すでにそのことを行ったが、障礙(しょうがい)があってできなかった。
(6)強盗を教唆した。
(7)強盗のための金だと知っていながらこれを受け取った。
(8)氏名を詐称して鑑札を受けた。
(9)罪人を蔵匿した。
(10)未決囚を逃走させた。

142 5月25日、公判廷が開かれ、評定官井上操が裁判長となり、評定官臣佐武、矢野茂が陪審判事となり、検事別府景通、堀田正忠が検察官となった。被告の名前は以下のとおりである。(省略)
143 星亨ら17名が弁護人となった。(省略)
 開廷4カ月間に、事実審問、事実弁論、法律弁論など、合計94回の廷数を経て、9月21日、弁論がすべて終結し、9月24日、次のような処刑が宣告された。

144 軽禁獄6年
 大井健太郎、小林樟雄、磯山清兵衛
軽禁錮2年監視1年
 田代季吉、(以下省略)
軽禁獄5年監視2年
 新井章吾、稲垣示
軽禁錮1年半監視10カ月
 石塚重平、館野芳之助、景山英、天野政立
軽禁錮1年監視10カ月(省略)
(以上外患罪)

有期徒刑12年
 長坂喜作
軽懲役8年
 山本与七
軽懲役7年
 菊田粂三郎
軽懲役6年
 佐伯十三郎、難波春吉、大矢正夫
(以上強盗罪)

重禁錮2年、罰金30円
 内藤六四郎、氏家直国、山本鹿造、加納卯兵、吉村大次郎
秩父暴動のため重懲役10年の処刑を受けたので余罪についてはこれを論じない。
落合寅市
(以上制縛罪)

無罪放免(省略)
(「東京日日新聞」明治20.9.29「めざまし新聞」明治20.10.12、13)

 大井、小林、新井、館野の4人はこの判決に服せず、擬律錯誤として、上告した。1888年、明治21年3月28日、大審院において、西岡逾明が裁判長となり、昌谷千里が主任評定官となり、山根秀介、中定勝が陪席評定官となり、川目亨一が検察官となり、原裁判を破棄して、名古屋重罪裁判所に移した。
146 ここでは、評定官中田憲信が裁判長となり、評定官山田慤、由布武三郎が陪席官となり、検事岡田豊が検察官となり、4月15日、再審廷を開いた。
 被告は治罪法第277条第1項により、公訴の受理すべからざる所以を申告したが、7月14日、それが棄却され、同日、さらに、大井、小林、新井は数罪が一時に起こったという理由で、爆発物取締罰則の重刑に問われ、各、重懲役9年に処せられた。また館野は軽禁錮1年6月に処せられ、監視6月を付加された。
 館野は前裁判と軽重がなかったが、大井、小林、新井はかえって上告のために3年の増刑となった。
 館野は服罪し、大井、小林、新井は大審院に上告した。大審院は7月15日から同28日に渡って開廷し、審判の結果は、上告の理由がないものとして棄却された。大井等は哀訴したが、ついに許されなかった。しかし、翌1889年、明治22年の憲法発布時の大赦令によって、獄を放たれた。

 公判廷に付せられた者の県別の内訳は全国に渡っている。(省略)

147 自由党員は雌伏した。


第九編 包囲攻撃の大勢

第一章 欧化攻略と貴族主義

 政府においては、大久保が斃れ、岩倉が16年7月に逝き、実権は、伊藤、井上、山県に移った。薩長連立は名目で、実際は長州が実権を握った。彼らは貴族主義、保守主義をとった。1885年、明治18年12月12日、国民が政争に敗れ、時世が小康状態になったことをいいことに、政府は内閣制度の変革を実行した。
 この日、太政大臣三条実美が退任し、太政大臣、左右大臣、参議、卿の職を廃し、新たに、内閣総理、宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務、逓信の諸大臣を置き、宮内大臣を宮中に属させ、その他の十大臣で内閣を組織し、その組織を次の通りに発表した。

内閣総理大臣兼宮内大臣 伊藤博文(長)
外務大臣  井上馨(長)
内務大臣  山県有朋(長)
大蔵大臣  松方正義(薩)
陸軍大臣  大山巌(薩)
海軍大臣  西郷従道(薩)
司法大臣  山田顕義(長)
文部大臣  森有礼(薩)
農商務大臣  谷干城(土)
逓信大臣  榎本武揚(幕)

150 次いで福島、栃木で暴威をふるった薩人の三島通庸は、警視総監に抜擢され、帝都の警察権を掌握した。さらに、制度取調局、参事院を廃して、法制局を設け、12月26日、総理大臣伊藤博文は、行政の綱領を下した。その要目は次のとおりである。

「一 官守(職責)を明らかにすること。
二 撰叙を慎むこと。
三 繁文を省くこと。
四 冗費を節すること。
五 法律を厳にすること。」
(「法令全書」明治20年)

151 伊藤は一寒族から身を起こして政権を握ると、法律制度を飾り、政権を荘厳にし、礼習儀式を始めて階級を華麗にし、貴族主義を実行した。
 外務大臣の井上馨は、膠着していた条約改正を目指し、内務大臣の山県有朋は、地方自治の制度を施こうとし、司法大臣の山田顕義は法典を完成させようとするなど、明治23年の国会開設前に何もかも整頓しようとしたが、国民はそのことを知らなかった。
 条約改正は、明治政府の20余年間の大問題であった。かつて日本が弱小だった幕末のころ、強迫の下に成った安政条約は、1872年、明治5年7月4日に満期に達し、それ以降ならいつでも改正を要求できるようになった。明治初年、大使岩倉らが欧米を巡回したが、改正は成らず、1878年、明治11年、外務卿の寺島宗則が第二回目の提案を出し、個別に談判を試み、税権の回復に重点を置いたのだが、また成らず、次に井上馨が二権の幾分かを回復しようとして、1880年、明治13年、第三回の提案をしたのだが、その内容が事前に国内にばれて、衆論がこれを攻撃し、撤回することになった。
152 条約改正ができなかった根本原因は、列国が、日本の文明と法律・裁判制度を信頼せず、日本を弱小・幼稚と見なし、対等の交際を認めなかったことにある。
 井上は欧風をまねて物質文明の装飾を企て、制度風物文化を欧化し、外人の歓心を買い、他方、談判の方法で連合会議の手法を採用し、1882年、明治15年、各締盟国の同意を得て、改正のための予備会議を開き、そこで領事の特権、民事・刑事の裁判権等の問題点を提出し、各国の意向を聞いた。
 また、伊藤と結託し、その貴族主義を取り入れ、欧化政略を行った。1884年、明治17年以降、官衙や邸宅を修築し、壮大で美しい建物を築き、鹿鳴館を設けて内外人のための舞踏遊興の場とし、東京倶楽部を創設して社交の場とした。
 1885年、明治18年末の内閣制度の変革も立憲制に向けた準備とはいえ、実は条約改正の困難にともなって外来の勢力が促したものと推測できる。1886年、明治19年5月1日、条約改正のための本会議第一回を外務省で開き、英、米、仏、独、露、伊、オーストリア、オランダ、スペイン、ベルギー、ポルトガル、スイスの12か国の公使を集めて談判した。この年の10月までに数回会議を開いたが、民間はその事情を知らなかった。外務大臣井上馨は、法律改正が条約改正のための必要条件と考え、これを司法省に任せず、1886年、明治19年8月6日、法律取調所を外務省に設け、自らその委員長になり、特命全権公使西園寺公望、司法次官三好退蔵、内閣雇法律顧問ボアソナード、司法省雇法律顧問カークード、同ルードルフ等を委員として、民法、商法、訴訟法等の調査を行った。
153 この時、文部省では、かつて洋風婚姻を率先し、一意拝欧に急な森有礼の知育主義を採用した。明治政府は条約改正のためなら何もかもを犠牲にするかのようだった。華美・奢侈を競う舞踏大会を開き、昼は遊び、夜は酒宴を張り、休む暇もなく、社会に堕風をもたらした。洋装女服がこのときから宮中で用いられるようになり、西楽、かるた、バスケットボールが蔓延し、模倣しないことを恐れるかのようだった。貴婦人慈善会は半ば遊戯になり、和を卑しみ、洋に帰った。ローマ字会、演劇改良、音楽改良、衣食改良、甚だしきは人種改良論を唱え、大和民族の血をコーカサス人種の血に換えようと言うまでに至った。都下女学校の醜聞が、まずこの時に発し、風俗道徳の堕落、ほとんど抑止すべからず、識者大にこれを憂う。以上は1885年、明治18年、1886年、明治19年ころから、1887年、明治20年に渡る一般の状態であった。いずれ反動の大波乱を招くことは皆分かっていた。

 1886年、明治19年10月24日、民権家の有志が東京に集まり、井生村楼で全国有志大懇談会を開いた。星亨、中江篤助、高橋基一、加藤平四郎、末広重恭、岡山兼吉、中島又五郎等が発起人となり、204人が集まった。旧自由党員が多かったが、改進党員も参加した。来会者府県別人員。(省略、東京が圧倒的に多く、52人)
154 星亨が発起人総代となり、開会の趣旨を演説した。
 「1881年、明治14年、政党が群起し、人心が奮い立ったが、その後諸種の困難に遭遇し、沈睡してしまった。往年党争が激しくなり、熱心のあまり、軋轢を来たしたが、それは不熟練の結果であった。小異を捨てて大同を旨とすべし。」
 改進党の人々は事故のため欠席した。翌年の再開を約束し、散会した。これは大同団結の萌芽であった。国会開設を目前して、旧怨を一掃して、民党の合体すべき必要が自然に沸き上がった。

 後藤象二郎は、朝鮮改革の計画が破れても、高輪亀が丘に三万坪の土地を買って、米国大統領のホワイトハウスに擬し、広壮な邸宅を建築し、功名の念を捨てきれなかった。1886年、明治19年12月、後藤は、東北地方を旅し、宇都宮で旧自由党員の塩田奥造、中山丹次郎等数十名に迎えられ、福島では、苅谷仲衛、猪狩眞琴等に、また仙台では、草刈親明、村松亀一郎らに迎えられ、話を請われた。後藤は、政府が徒に強国の鼻息を伺い、舞踏宴会に沈溺するのを攻撃した。二年後に後藤は、全国を歩き、国家の危急存亡を説いて、大同の牙旗を翻すことになったが、これはその伏線であった。
 1887年、明治20年の春、舞踏会の宴楽がますます盛況になり、4月20日の伊藤総理大臣の官邸における仮装舞踏会は、国事を挙げて溺没するの観があった。
156 これは昔の唐の没落を想像させる。当時の新聞を以下に示す。

 「20日午後9時から永田町の伊藤伯の官邸でフワンシーボール(fancy dress ball仮装舞踏会)が催され、内外朝野の貴顕紳士とその夫人400名が参集し、その衣装は、千差万別、意想外で、一驚を喫せしめ、喝采を博そうとするものであった。この舞踏会は、あたかも内外古今の人物を一堂に集めて、品評会を開いたようなものだった。
 さまざまに衣裳を凝らし(省略)た参加者は、三島警視総監、その令嬢姉妹、高崎東京府知事、その令嬢、渋沢栄一、その令嬢、山尾法制局長、その令嬢、鍋嶋桂次郎、末松謙澄、井上外務大臣、杉内蔵頭、佐々木顧問官、榎本逓信大臣、大山陸軍大臣、山田司法大臣、渡辺帝国大学総長、有栖川一品親王、山県内務大臣、北白川宮、伊藤大臣の夫人、伊藤総理大臣、その令嬢、岩倉具綱、三条内大臣の令嬢、山県伊三郎の令室、松方大蔵大臣、その令嬢、高木海軍軍医総監、多久某、加々美氏の令室、英国公使館付き某、ラウダ氏、カークウード氏などであった。
 舞踏会は昨21日午前4時頃に終了した。さてもさても太平無事の世の中、実に面白の御覧かな。」
(「時事新報」明治20.4.22)

158 大臣貴女等に関する醜聞が新聞に続出したが、外人の心をつかむことができなかった。これに激怒した保守党と進取党は一時提携し、欧化政略の弊害を攻撃した。中にはこれを亡国の前兆と見なす人もいた。

 高知県の青年吉松寿太郎、佐野義一、下村治幾、間直三、澤村良吉、大井善友等は、要路の諸大臣を殺戮せんとし、大阪に出てきた。1886年、明治19年の冬、伊藤総理大臣以下権官が、聖駕の西行に付き従い、京都から大阪に向かうという噂があった。吉松等は、昔の哲人が言っているように「不義にして悪者の為政者の頸こそ、われらが屠って神前に捧げるべき最良の犠牲だ」と考えた。
 吉松は先に、1885年、明治18年の春、速水市次郎と、爆裂弾を日比谷練兵場に埋設し、これを爆発させ、将相をことごとく殺そうとしたことがあったが、いまや、各人が変装して、新橋、名古屋、梅田の停留場に隠伏し、陪従の大臣をことごとく銃殺しようと考え、そのために資金を集めようとし、大阪に留学していた澤田熊吉に説明して資金の提供を求めた。
159 熊吉は一旦諾したが、変心し、官府に密告しようとした。吉松、佐野等は、1886年、明治19年1月3日の夜、熊吉を大阪府西成郡尻無川の堤に誘い出し、縊殺した。
 諸大臣が西下するという報がなかったので、佐野義一、間直三、大井善友、澤村良吉等は事を挙げんとして東京にやってきた。1月22日、陰謀が発覚し、佐野等は東京で捕らわれ、1888年、明治21年、7月24日、大阪重罪裁判所において、殺人犯として吉松、佐野は死刑に、下村、間は、無期徒刑に、澤村、大井は、重禁錮3年に処せられた。後、間は獄中で死に、下村は北海道の獄で在監中の、1900年、明治33年、皇太子、成婚の日に大赦された。(計画段階でも死刑か。厳しい。)
 板垣退助は、同志と議して新たにアジア貿易商会を創立し、東亜の開発と、主義の拡張に資せんとし、趣意書を頒布した。

 「亜細亜貿易趣意書

 日本は清国、インド、シャム、安南、ビルマ、南洋諸島等と貿易すべきだ。日本は西洋諸国に比べ、アジア諸国との距離が短いから、貿易上は有利である。
160 特に魚や海藻類は、日本にとって有利な輸出品である。中国は大河があるが、塩分が少なく、魚の味がよくない。中国南部で漁業が盛んだが、大陸全体の需要を満たすことができない。日本人は漁業を貿易に取り入れるべきだ。
 最近日本人の生活が欧化してきたため、日本人が必要とするものが以前と違ってきて、これまで日本人が利用してきたものが不要になった。それを貿易に利用すべきだ。高価なものも、低廉なものも、清国では貧富の差が激しいから、それぞれ需要がある。また、中国人が好むものと日本人が好むものとが異なり、日本人にとっては廃物であっても、中国の貧民にとっては食料や雑貨になる。
161 安南やシャムについても、中国の貧民と同様のことが言える。こうして日本人は利益が得られるはずだ。
 西洋との貿易も必要で、利益になるが、文明の程度が違うために、日本にとって不利なことが多い。日本の輸出品は、お茶や繭だが、それは天然の粗産であり、完成品ではない。蚕糸は西洋人が織物にし、西洋人の利益になる。フランスへの輸出品の中に、完成品もあるが、多くは古代の美術品であり、フランス人の要望に応じるために、利益は多くならない。アメリカとの貿易でも利益を得ているが、アジアとの貿易は、民情が共通しているので有利だ。
 利益を最大にするには、残ったもの、つまり、遺利を拾うことが肝心だ。遺利が残っている所がアジアだ。清国は土地が広く、沃野が広がり、物産が繁殖し、長江一帯は運輸・灌漑の便があり、内地は金銀銅鉄に富んでいて、まだ鉱山・鉱業が未開発であるから、収益の可能性が高い。
162 清国南部は気候が温暖で、百物が生成しているが、これは、西洋人が清国を自らの田園市場とし、富をいたそうとする理由だ。西洋人でアジアに来ている者を見ていると、彼らは弱小の商人である。彼らが商売に成功したのは、彼らの忍耐によるばかりでなく、この中国の地に遺利が多かったことによる。西洋人のうちで文化に優れ、財に富み、西洋の地で快楽を極め、貨殖に苦しまなければ、わざわざアジアにまで足を運ばない。亜細亜に来ている西洋人には、敢為の気力があるばかりでなく、西洋内部では利益が上がらないので、富を西洋外に求めたいという目的もある。日本でも同様で、日本国内で争っていてはだめだ。進取の気を持って海外に進出すべきだ。欧州各国は天然の富に恵まれていない。人力だけが西洋の富をもたらしたのだ。西洋に遺利がなくなり、アジアに進出したのだ。古くから開けた清国の港には遺利はないとしても、外人の足跡がまだ届かない内地ではまだ拾える遺利がある。安南、シャム、ビルマ等の蛮地はなおさらだ。内地で競争して失敗するよりも、新たな市場を求めて遺利を拾ったほうがいい。
163 米国は新開の地だから利益が得られるが、アジアには遺利が多い。

 アジアは、文学、宗教、風俗を同じくしているのだから、相互に交流し合わなければならない。日本でさきに興亜会が結成された理由はそこにある。最近日本では、西洋との交際は深まるが、アジアとの交際は疎になる傾向がある。これは、やむを得ない面もあるが、今後はアジアとの交流が広まるはずだから、憂うべきことだ。清国人は猜疑心が強いかもしれないが、日本人の情愛が至らないところもある。中国人と文学を論じるときは、日中関係は良いが、経済を論じる段になると、中国人は猜疑心を強め、日本人を虎狼と見なす。中国人は外国人を洋鬼ヤンクイと呼び、西洋人を西洋鬼シイヤンクイと呼び、日本人を東洋鬼トンヤンクイ、もしくは仮鬼チャクイと呼ぶ。これは日本人が西洋鬼の仮装をするからだ。その真意は、軽侮と恐怖とを兼ね含む。中国人は自らを中華中国と称しているが、西洋と日本が昔のように野蛮でないのを知り、西夷東戎の語に替えて、西洋東洋を以てする。今、中国との交情は疎になり、維新以来、日清の葛藤が解けない状況にある。
164 貿易は世界平和の要であり、交際を親密にする要因だ。最近欧州で戦国の様相が絶えないとはいえ、徐々に変わりつつあるのは、商業的利益を重んじ、貿易が繁盛したことがその原因である。亜細亜で交際が親密でないのは、まだ貿易の道が開かれていないからだ。

 貿易上の国際間の闘いは、国権に反映する。西洋諸国が商権を争うのは、国権を求めるからだ。今、英国の世界における覇権は、兵力によるだけでなく、商権がそれを後押したおかげだ。英国は、アジアに独立国は一国もないとみなし、自国の商利を謀り、他国の権利を顧みず、他国との条約では、自らの商業的利益の観点に従ってその得失を議定し、東洋外交は度外視し、外交官ではなく、商務官が中心的役割を果たす。日本も英国からこの屈辱を受けた。ドイツも東方でイギリスと覇権を争うようになり、その矛先が日本に向かってきた。ロシアもイギリスと対峙するようになった。
165 今、我が国はアジアで国権を争わず、列強の競争の弊害を受けるだけだ。最近では日本も社を結んで、清国内で営業するようになったが、まだまだだ。今、英米独仏は中国の主要な港で租界を定めているが、近い将来、中国全土に割拠するかの観がある。日本はまだ清国の港に租界がなく、居留人は外国の租界に散在している。日本の会社や商店が出店しているが、政府の特典をもらって活動していて、独立していない。そしてひどい場合には、一時的な利益のために、中国側の信用を失い、関係を終わらせてしまう場合もあった。ただ盛んなものは日本の淫売の茶店だけである。これでは国権はおぼつかない。商権を拡張してこそ、国権も大きくなる。

 内地雑居(外人が日本国内で自由に居住すること)は急要で、その準備をすべきだと最近言われている。政府は法律の制定や条約の改正に忙しく、風俗、習慣、歓楽、遊戯などを改良し、それを雑居の準備のためとしている。しかし肝心要の殖産興業の準備は遅れている。
166 いったん雑居を許せば、西洋人は日本に財をもたらし、内地で業を始め、その利はもっぱら西洋人のものとなり、日本の財源はすぐ枯渇してしまうだろう。日本人は今まで小天地に縮こまっていて、世界に雄飛する果敢な精神に欠けていた。明治維新で封建制を破ったが、それは政治上の世襲の弊害を改めただけで、社会上では封建制の弊害が依然として残っている。素封家は祖先の遺産を守るだけで、これを増やすいい方法が結社であることを知らない。外人雑居になった時、その備えがなければ、外人は知力と財力があるから、日本人は太刀打ちできないだろう。日本水産業も外人がうまくやるだろう。財源が外人の手に入れば、外人が兵を用いなくても、日本人は亡国を待つだけだ。そうならないためには、合同の精神を興して、広く結社の事業を企てることだ。政治思想の結合は、その力を用いる際に余地がなく、活発な実業に乏しく、空想に帰する憂いがあり、結合が強固でない。一方民間の共同会社では、各人が利害得失の責めに任じ、実業を勤めれば、結合も強固になり、愛国の情も厚くなるだろう。
167 清国、インド、シャム、安南、ビルマ、南洋群島等の貿易に関する取調書をまとめたが、膨大なので印刷分配できない。仮の方法規約を以下に示すので、協議を尽くしてほしい。

1887年、明治20年7月


有限責任 亜細亜貿易商会仮規則(一部抜粋)

第12条 頭取、副頭取および取締役は、株主の公選により株主中より成り立つものとし、その任期を各三年と定む。ただし再選に当たることを得。
第21条 清国並びに安南、マレイ群島、インドに支店を設置し、左の役員を置く。
 支配人 一名宛
 ただし、事業の拡張に従い、欧米に支店を置くことあるべし。
171 第25条 本商会事業に意外の損乏ありて資本金に不足が生じたときは、頭取よりその事実を総株主に告知して準備金を以てこれを補い、なお足らざるときはその後に生じた総益金の配当を中止してこれを補うものとす。
第26条 純益金配当第二の期日を以て株主総会を開き、本商会事業の成績損益収支入の決算を報告す。
第27条 取締役の監察より得たる事実、もしくは株主の検査より得たる事実につき、必要だと認めるときは、取締役二名の同意、もしくは株主五名以上の同意を以て、臨時株主総会を開き、相当の所分を決議することを得。
 取締役一名の時は、その取締役の意見に株主二名以上の同意を得て本文議会を開くことを得。
第28条 本商会株主の投票権は一株式につき一ケと定む。
明治20年7月」


172 板垣は阪神に行って遊説したが、その時、大阪での大井や小林等の獄の公判開廷の時期が近づき、星亨が東京から来ていて、板垣は星に会った。
 近畿の有志が中心となって全国有志の会合を中の島で開こうとし、板垣が招待されていたのだ。
 1887年、明治20年5月12日、板垣は西山志澄、池田応助とともに、青年子弟数十人を連れて、土佐を出発し、大阪に向かった。


第二章 板垣辞爵の顛末

 政府は、貴族主義を攻撃する声が周囲から起こると、1887年、明治20年5月9日、先に新華族叙爵の時に選考から漏れた板垣、後藤、大隈、勝等に、恩命でもって、伯爵を授け、華族に列しようとした。政府の目論見は、民間党の首領を抜擢して貴族の仲間に入れ、国民の反抗を弱体化しようというものであった。
 後藤が叙爵に際し、召されて参内したとき、総理大臣兼宮内大臣の伊藤博文は、後藤に、板垣の代理になって一緒に宣命を拝受するように求めた。後藤は、使者広瀬重正に辞令書を持たせ、神戸に行かせた。このとき板垣は土佐を出発し、大阪に向かっていて、恩命が発せられたのを知らなかった。
173 5月15日、全国有志懇談会を大阪中の島自由亭で開き、板垣、星、西山ら有志203名が参会した。星が開会の言葉を述べた。
 「今は自由党、改進党、独立党、保守党など僅かな主義の違いに拘泥すべき時ではなく、小異を捨てて大同につくべきである。昨年も本会を東京で開いたが、発起人が自由党だったため、照会状も自由党に傾き、参加した人も自由党員が多かった。しかし、本年は、自由党以外の政党員のほうが多い。良い結果を得たいものだ。」
(「東京日日新聞」明治20.5.19)

 板垣も演説をした。

174 「朋友には、経歴相伴の友と、同想の友と、異想の友と三種がある。経歴相伴の友とは幼少の時からの友であり、同想の友とは、心が相投合し親しく交わる友であり、異想の友とは、心は同じでないが、将来に向けた主義を同じくして親密になった者である。前二者は得やすいが、最後の異想の友は、政事思想のある高尚な人との間で成り立つ交友であり、得難く、従って真に尊ぶべき交友である。本会に参集した人は、この異想の友である。
 人間には冷情と熱情とがある。冷情は公平で判定を誤らず、熱情は偏頗に傾く嫌いがある。先年、主義上の小異のために分裂したのは熱情がそうさせたのであり、公平を誤った。その失敗を悟り、党派を解散したのは冷情がそうさせたのだ。しかし、物事をするには熱情も必要だから、冷熱両方を利用すべきだ。熱情がなければ事は成就しないし、冷情公平では頼れないことがある。思考は冷情で、実施は熱情でやるべきだ。
175 冷熱相利用して結果を見ようと私が言うのは、明治23年の国会開設があるからだ。この国会が満足のいく国会かどうかは知らないが、明治23年は私の目的が達した日であり、この明治23年まで2年余しかないので、私はその準備をしたい。」 
(同前)
 板垣は神戸に帰ると、叙爵の宣命を携えた後藤の使者に会った。板垣はこう思った。

「聖恩優渥(恵深い)遠く草莽の臣に及ぶを感激せざるに非ずといえども、その爵を受けるは、平生の主義に背くを以て、良心これを潔しとせず。栄典を固辞するのやむべからざる」と。

 板垣は天皇の下に行き、説明しようとした。阪神に集合していた諸国の同志は受爵を不可とし、板垣の決意を壮とした。東京で雑誌『国民の友』を発刊し、いつも平民主義を主張していた熊本出身の徳富猪一郎は、受爵を諌止する手書を板垣に送った。
 5月29日、板垣は東京に着き、伊藤宮内大臣を訪ねたが、伊藤は相州夏島の別荘にいて不在だったので、吉井宮内次官に会い、辞爵の事情を述べ、自らの願意を天皇に伝えて欲しいと懇願した。
 板垣は、公然と辞表を提出すると、名誉心が疑われ、聖慮を損なう恐れがあるので、周囲の人に頼んで、穏やかに辞爵の願いを達成しようと思い、今度は更に三条内府や黒田内閣顧問に会ったが、思うに任せなかった。自由党の多数は固辞すべきだと論じていたのに対して、政府党の人々は辞爵してはならないと言い、板垣受爵の一件は、社会の一問題となった。
176 これは自由主義の消長をなす問題となる一方で、閣臣の中には固辞は不敬罪に当たると論ずる者も出てきた。6月9日、板垣は決意して吉井宮内次官に辞爵の表を奉呈した。

 「辞爵表

  伏して五月九日の勅を奉ず、
陛下特に臣を伯爵に叙し華族に列せしむ。
天恩の優渥なる臣誠に感愧(かんざん)激切の至りに任(た)えず、…

 私はもともと南海の一介の士、朴忠自ら許す。常に、君に仕えて身を忘れ、国に報いて家を忘る。かつて維新中興の運に会し、錦旗を奏して東北戡(かん)定の功を奏すといえども、これ皆陛下威霊の致すところ。しかして陛下臣を賞するに厚禄を以てし、並びに物を賜うこと若干、次いで参議に任じ、正四位に叙せらる。陛下の知遇を受けるすでに極まり、人臣の栄これに過ぎず。何ぞ図らん、今またこの非分の寵命をかたじけなくするとは。
伯爵に叙し、華族に列する特典は受けられない。高爵を受け貴族の仲間になっては、天下後世の清議に顔向けできない。
 伏して願わくは
陛下臣が区々の衷情を憐れみ、その狂愚を咎めず、以て臣が乞うところを許されんことを。慚懼懇款の至りにたえず。臣退助誠惶誠恐頓首頓首
1887年、明治20年6月4日 
正四位 板垣退助」

 11日、吉井宮内次官が板垣を招き、「9日、辞表を奏聞し奉りたるに、天皇は、『板垣退助が皇室や国家に忠節を尽くしたことをよく記憶している、お前は退助を諭し、快く受爵せしめよ』」と言ったところ、板垣は恩命のかたじけなさに恐れ入り、謹んで言った。「隆渥なる聖諭を拝受し、恐懼言うところを知らず。そぞろに感涙を催せり。直ちに前言どおりの要求をすることはできないので、再び自分の考えを申し上げよう」と。
178 板垣は迷った。一は忠愛の情、隆恩に背く恐れ多きを思い、一は良心、主義により、栄爵を受けてはいけないという思いである。板垣は星に頼んで宮内大臣伊藤にこれを諮らせたが、伊藤はすでに避けて相州の夏島におり、星はこれを訪ね、(天皇への)斡旋を頼んだ。伊藤は「どんなに板垣が固辞しても、天皇は許さないだろう。」と言った。内閣では板垣辞爵の件について秘密会議を開き、各大臣に加え、三条内府、吉井次官らが出席したが、あくまでも板垣に受爵させようとした。
 そこで板垣は直接天皇に会うしかないと考え、20日、吉井次官に拝謁願いを天皇に言ってもらうことにしたが、許されなかった。23日、農商務大臣谷干城が欧州から帰朝した。板垣は谷、黒田、後藤に頼んだ。
 閣臣某が言うには、「爵を授けるのは有司の専裁ではない、天皇だ。辞することは勅命違背をまぬかれない。古来勅宣に違う者は朝敵とされ、許されなかったことが多い。服さないのなら強制するしかない」と。
 後藤は違勅と言われて驚き、守旧党のために板垣が再び奇禍を買うことを憂え、伊藤を説得した。板垣は辞表を再び提出せざるをえなくなった。板垣は、後事を島本仲道、竹内綱に託し、土佐に帰ろうとした。
179 6月26日、(東京)府下在留の自由党員等140名が、送別会を浅草鷗遊館で開き、加藤平四郎総代が辞を致した。

 「板垣はせっかく東京に出てきたのに、謹慎のため旧党友との面会を謝絶してきた。この集会は他人に勢力を示そうとするものではなく、新聞に広告を出したのは、時日が切迫していたためである。」
(「郵便報知新聞」明治20.6.28)

 板垣は新聞に公告を出したことを快く思わず、いったんは送別会への出席を辞退したが、党友が謝罪し、またせっかく出てきている党友もいると聞いて、出席を承諾した。加藤の挨拶の後で、荒川高俊、渡邊小太郎が辞爵の理由を聞こうとした。板垣は「今謹慎中なので公言を好まないが、皆さんの厚誼黙止しがたし」とし、演説を始めた。
180 「爵位のことは全く板垣一人のことであり、私の存意次第なのだが、すでに社会問題になってしまったので、その来歴を話しましょう。私は一昨年(明治18年)麻疹を患い、保養しようと思っていたが、その時同志が大阪の獄に繋がれたので、これを訪問方々有馬の温泉に入ろうと神戸まで来たが、そこで後藤氏の使者に会い、初めて授爵の件を知った。これらのことは公にする前に一応本人に照会するのが例であったが、今回は突然のことで面喰い、辞退しようと決意し、旅行先(からの出立)では恐れ多いので、郷里から礼服を取り寄せ、上京した。
 その時は簡単な手続きで辞爵が聞き届けられると思い、辞表には『私は外国に対して功を立てたわけではない。外国に対して功を立てた者に賞与があるべきだ。恩賜の取り消しを請う」としたが、どこまでも恩命に違背すべきでないとのことだった。また後藤氏、三条内大臣、黒田顧問等に依頼したが、聞き届けられず、辞爵の理由を書面で差し出すべしとのことにつき、余儀なく辞表を提出した。しかし、二三の友人からその辞表が建白書のようだ、穏やかでないと忠告され、今朝から辞表を書き改めているところだ。」
181 「当初後藤氏は政府より、板垣の代理となって受爵すべし、と言われたが、後藤氏は代理は本人から頼まれるものだと辞退すると、それでは取り次いでもらいたいと言われたので、後藤氏が仔細なし郵便にしたらどうかと言ったら、政府側は一旦はよろしいということだったが、御名御璽の印したものを書留郵便で送れないと言われ、わざわざ使いを出すことになったとのことだ。他の人の場合も、突然の授爵であったが、前日には、何爵に叙せられるにつき出頭せよとの通知を皆受けていたという。私も前報があれば、これほどまで奔走しなくとも円満に事が済んでいたはずだと思う。」
 「私は貴族が嫌いだが、それは維新時の勤王の心と共通する。昔、藤原氏以下源氏平氏に至るまで、名門貴族がどんな利益を社会にもたらしたのか、その外戚又は権臣が、威を弄して天皇主権をないがしろにし、人民を奴隷にしたではないか。このことが維新革命の理由だった。
182 ペルリがやってきてからその(貴族の)弊害が明らかになり、攘夷勤王の口実を以て門族を打倒した。それから武士の常職を解き、禄を廃し、四民を通じて婚礼を許し、ただ華士族の名だけが存在するようになった。ところが最近新華族の制度を設けたが、その必要は一体何なのか。
 一新聞は私を批判して、「貴族の制度を嫌い、これを廃止することは、結局王室をも廃すべきだと言うのだろう。貴族に害がなく益があれば、廃止することはない。階級を不都合だとし、貴族を廃止することは、結局王室も不都合だということになるだろう」と。
 貴族が有害なら廃止すべきだという論法を逆さまにして、有害な貴族を廃止すべきだということは、結局王室を廃止してよい、と言いたいのかと詰問すればよい。これは鹿を追う猟師、山を見ざるの説だ。
 前年朝廷が令を下して、武士の階級を廃止したとき、私は土佐で大参事を勤めていた。武士には半官半民の性質がある。常職があるから常禄がある。統率するには階級を置く必要がある。ところが、その常職を解かずに、先にその階級を廃止することは、道理に合わない。
183 私は旧藩主の容堂と相談し、上京して岩倉、木戸の二氏に会い、「武士階級を廃止するのは四民均一の主意か」と尋ねたところ、「その通りだ」という。「それなら華士族はただ名ばかりで、その特権はすべて剥奪するという意味か」と問うと、「しかり」という。私は帰国後他藩に率先して武士の常職を解き、模範を示した。他藩もこれに倣い、日本国中、武士の常職を解き、士族の名ばかりが存在するようになった。
 ところが或る人は、「貴族を嫌うことは王室をも嫌うことの始まりであり、結局共和政治を望んでいるのだろう」と言って私を傷つける。
 爵を辞すれば陛下に対して不敬だと言うが、面従の忠は姑息の忠なり。
184 ドイツは連邦を統率する必要から貴族制度を設けた。またイギリスは貴族制度が数百年前からあり、その制度に慣れていて、貴族は上院で権利があるが、維新前の大名がもたらしたような不都合はイギリスにはなかった。しかしそれでも上院廃止論がある。西洋各国は貴族制度を廃止しようとしても廃止できない。それに一度廃止してまた再興することはばかげている。
 特権のない貴族は害がないから良いのではないかという人もいるが、華族は名ばかりのものではない。特別の保護を受け、王室に親近し、尋常人の上に位するという栄をいただくから、華族という名義をもらいたがるのだ。
 私が道理を好み、均一=平等を尊ぶということは、なるべくそうしたほうがいいということであり、何もかもきちんと厳密にやれということではない。
 私は二十年来、門族を廃することを主張してきた。私は自らの信ずるところに従いたい。狂愚と言われてもいい。良心に背きたくない。なぜならば良心に背くことは、至尊を欺き奉ることになるからだ。
185 私は元来門地が、王室を危うくし、人民を害することを嘆いて勤王の心を起こした。私は均一=平等のポリシーに基づいて、やむを得ず爵を辞退する。それは勤王愛国の心だ。」

 当時の東京都下の新聞は、板垣の清貧を激讃した。近畿地方の富商豪農の有志は、板垣が辞爵したら大阪に迎え、国会開設の時には下院議長に推そうと話し合った。
 板垣が土佐に帰ると決心した後も、後藤らは、しばらく板垣を抑留して、辞爵の允許を得ようと努めた。7月7日、板垣は再び辞爵の表を奉った。

 「再辞爵表
臣退助謹言
 陛下宣諭慇懃、臣が請いを許さず。感恩惟重、泣汗(きゅうかん)共に下る。臣義以て重ねて固辞すべからざるを知る。
186 しかし、敢えて斧鉞(ふえつ)の誅を犯して、区々の微衷を上陳す。中興維新の大業は、もとより陛下聖徳の致すところではあるが、天下人心の向かうところに従って、これをしないわけにはいかなかった。
 門閥政治は中古覇政のころから、上下が離隔し、官民が乖離し、徳川幕府の末年ではそれが甚だしかった。農工商を奴隷に陥れ、外国がやってくると幕府は狼狽した。そこで天下有志の士が憤然として憤り、皇室を尊び、幕府を退けようとし、厳しい法律や刑罰を恐れずに戦って斃れ、また起き上がった。正義の諸侯が幕府に忠告し、幕府に政権を返させた。
 陛下が自ら大政を統括することになり、五事の神誓を天下に宣布し、封建門閥の弊を除き、おもむろに君民同治の制度に従うという聖旨を明らかにした。
 当時は聖旨、民意、廟議が一致していて、ついに公卿諸侯の称を廃し、華族となし、士族でも等級の別を廃止した。この時高知県では大参事が起こった。「朝廷は士族を今まで通り、政事兵役に従事させようとするのか、士の等級を廃するのなら、どのようにして官位を上下したり、善を賞し悪を懲らしめたりするのだ。今士の等級を廃止しようとしているが、これは四民平等の制度に従うべきだ」と。
 臣らは藩知事の山内豊範に話し、その命令で右大臣岩隈具視や参議木戸孝允と会い、廟議の意図を尋ねた。二人は「四民平等の制を行うのが廟議だ」と答えた。これに従って、高知藩は士族の常職を解き、世禄を廃し、禄券とし、その売買を許すことにして、それを実行した。これは他の諸藩に率先して行ったものだ。次いで藩を廃して県を置き、士族の兵役をやめ、徴兵の制を定めた。
187 非人穢多の称をやめ、華族平民間の結婚を許し、華士族の禄を廃し公債とし、その潤刑*を廃するなど、これらは皆人権を斉一にするという聖旨に基づくもので、ここに華士族は、ただ名称があるだけになった。

*潤刑とは、有位者、武士、僧侶などの特定の身分のものや、幼老、婦女、廃疾者などに対して、正刑に代えて科した刑。奈良時代の律で、官当、免官、免所居官、鎌倉・室町期の解官、除籍、江戸時代の逼塞、閉門など。改定律例1873「潤刑条例」

 明治八年、漸次国会を開くという詔があったが、これも門閥征治を廃し、人民平等の制度につく所以のものであった。これは偉いことだった。これは我が国千古の美挙であり、万国に誇れるものであった。
 ところが最近、華族を以て皇室を擁護し、人民の標準たらしめようとし、新たに五等の爵を置き、世襲財産の法を設け、更に功臣を華族に列せしめ、資産を賜い、それを世襲させようとする。この件につき、陛下が省察を加えられることを願う。
 我が国は中古以来門閥が禍乱を致した。英国の貴族は下院議士と拮抗して、国の大計を妨害することがある。フランスでは禍乱が貴族から生じ、王室を擁護したとは思われない。我が国は開闢以来、祖宗列聖の深仁厚澤、長く衆庶の頭脳に浸染し衰えず。外国ではしばしば革命があるが、それは我が国と比べものにならない。
 陛下が国会を開き、君民同治の化を敷くとき、我が国人民は感激して忠を陛下に表すことを願っている。だから特に華族に帝室を擁護させる必要はない。
188 私が沈黙して発言しないならば、自らを欺くことになり、それはひいては陛下に背くことになる。唐の太宗は長孫無忌等が世封を固辞するのを許した。英皇帝はグラッドストーンが辞爵するのを許した。陛下が私の要望を聞き入れてくれるならば、その恩徳は最大だ。
 明治20年7月7日
正四位板垣退助」

 翌8日、宮内省書記官櫻井能監は、命令を持って板垣の旅館芝金虎館に就き、「上書を天皇に見せたが、天皇の考えは変わらなかった」と伝え、辞表を戻した。板垣惶懼(こうく、恐れる)、遂に天恩を拝辞するの途全く絶え、思えらく、一身の名誉は言うに足らず、豈に徒に宸襟を煩わし奉り、不臣の罪を重ねるに忍ぶべけんや。十五日、参内して拝受書を奉呈せり。

 板垣は17日、宮地茂春を従え、箱根蘆の湯に赴いたが、事が起こってから二カ月も経っていた。

 長閥内閣が宮廷に跨って強大な勢力を扶植していることは、板垣のこの事件でますます明らかになった。
189 民間では、政府の欧化政略に憂憤する社会正義の感情が高まり、立憲責任を確かなものにし、皇室の安泰を願った。
 長閥を厭い、その専恣を憎む趨勢は民間だけでなく、廟堂の一角でも潜行していた。18年末の閣政改革の時、薩人の元老は政府の実権を長人に奪われ、ただ位を守るだけになった。
 伊藤は欧州から帰朝してから専らドイツ崇拝に傾倒し、憲法や法典編纂の顧問をドイツから招き、陸軍の教師も、法科大学の教師もドイツから招聘し、民間では「あいつもこいつもドイツでなけりゃ夜が明けぬ」と言われた。この年の4月、西遊を終えて帰朝した内閣顧問黒田清隆は、このドイツ崇拝に反対し、「ドイツに模するよりも、フランスやイタリアに鑑みた方が日本の国情に合う」と言った。これは薩長分離のはじまりとなった。黒田は板垣や後藤に近接し、後藤も密かに、薩人で前外務卿だった寺島宗則と結んだ。板垣と大隈が、後藤邸で会見することもあった。(7月13日)


第三章 条約改正の失敗

 条約改正会議は去年の冬から始まり、4月22日に第28回会議を開き、7月18日に第29回を開き、更に12月1日に第30回を開こうとしていた。
190 この時欧州をから農商務大臣の谷干城が帰国し、内閣のやり方に憂慮して意見書を提出したが、議論は行われず、7月20日、谷が参内しても聴許を得ず、26日、谷は辞職した。
 これより先、勝安房も時の悪弊を21か条掲げて建白した。また6月、内閣雇の法律顧問でフランス人のボアソナードが任期満了して帰国するとき、条約改正草案の中で裁判権に関する意見をまとめて内閣に提出した。これによってこれまで秘密にされていた条約改正の様子が世間に広まり、物議を醸し、鹿鳴館の楽器の音色はどこかに消し飛んでしまった。

 「裁判権の条約草案に関する意見 (ボアソナードの意見書)

 閣下は私に、条約改正部分となる裁判権の条約草案について意見を述べるように言われた。私は仏日間の利益に関して公平でありたい。
191 日本の委員はこの草案を採用したが、日本の利益、面目、安全に関して論駁したい点がある。裁判権条約に関して、会議は進捗したが、いまだに条約が成立しておらず、調印されていない。外国公使は全権公使だが、各国政府の許可がなければ裁判権条約案に調印する権利はない。各国公使は特許を政府に請求した。日本でも調印後、天皇の批准を必要とするだろう。

 日本に居留する外国人のために草案が定める特許裁判権は、日本の位置を悪くする。
 第一に、それは日本の利益にならない。外国人が混交する裁判所で、訴訟人の私権が害されるだろう。また国庫の負担が増すだろう。
192 第二に、日本の面目が丸つぶれになるだろう。外国人混交裁判所の構成権限と、法律の改正をあらかじめ外国政府に通知することについて述べる。
 第三に、日本の安全のためにならない。国民が怒って内乱が生ずるかもしれない。外国が日本に干渉するかもしれない。
 最後に私の代案を述べる。

第一章 草案の総論

 今日本に居留する外国人の特権は大きい。治外法権であり、外国人の裁判官は領事であり、本国の名において裁判権を行使し、本国の法律を適用している。確かに、このために日本が受ける損害は少ない。外国人が居住できる土地は狭いし、外国人は内地で商売できないし、旅行も公然とはできないからだ。これは、外国人が日本の法律を守らず、日本の裁判官に服さないことから生じるものだ。治外法権は、外国人が被告人の場合に限られている。
193 他方、外国人が原告になり、日本人が被告になるときは、日本の法律を適用し、日本の裁判官が裁き、手続き、言語も日本のものを用いる。

 さて条約案を見ると、第一条で、日本全国を外国人に開くこととしており、第二条で、それは旅行ばかりでなく、居住や商業、土地所有も許す。日本は譲与するばかりで得るものがない。外国人委員は、外国人を日本の法律で日本の裁判官が裁くと言うが、日本の委員はそうは思わない。また日本の法律は外国政府の承認を要する。そして裁判所は多くの外国人裁判官で構成される。

第一項 日本の利益が害されること

 訴訟人の利益と国家の公益とがある。

 第一、訴訟人の利益が害される。

(1)日本人が外国人に告訴されると、日本人裁判官による裁判が受けられなくなる。今は日本人が裁判している。
194 (2)日本人は外国人が関わる訴訟をするために遠くまで出かけなければならない。外国人が多数いる始審裁判所は日本全国に8か所(区画)しかないからだ。
(3)日本人は裁判で外国語を用いなければならない。手続きや代言人(通訳)のための費用がかかる。

 第二、外国裁判官の俸給が高いから、国庫負担が大変だろう。(給料を日本で決められないようだ。)英国の裁判官の給料は高く、さらに、外国に出張するときは、内地以上の高給を請求するだろう。独米白仏伊やその他の国の裁判官の本国での給料が、英国の裁判官の給料より低くても、英国の裁判官以下の給料にするわけにはいかないだろう。税関条約案新税から生ずる予算収入の利益でこれを支弁することはできないだろう。(意味不明)
195 日本人裁判官は日本人だけにかかわる事件を審判するが、外国人裁判官はこれを担当しないから、日本人裁判官より暇になる。このため、日本人裁判官と欧米人裁判官との待遇の差がさらに大きくなるだろう。
 条約によれば通弁官(通訳)と訳官(翻訳家)の給料は、裁判所の負担である。また裁判所が許可するすべての言語に対応するように通訳と訳官を配置しなければならない。(第7条12項8)

第二項 日本の面目

 多数の外国人裁判官で構成される裁判所は、日本の裁判所とは言えない。外国人裁判官を日本国民と見なさないし、帝国臣民ともみなさない。
 もし、それでもこれが日本の裁判所だと言うなら、どうして条約草案に、外国裁判官だけでこの裁判所を編成するとしなかったのか。またなぜこの裁判制度を無期限に認可しなかったのか。
196 外国委員がこのことを請求しなかったのには理由がある。日本人が反対するだろうからだ。
 また、外国の裁判官の判決は天皇の名で下すのだから、日本の裁判だと主張する人がいるかもしれないが、それは形式的な論法にすぎない。
 日本で外国人が官職に就くことは、今回が初めてだ。日本は20年間、国家の進歩のために多くの外国人を雇ってきた。これは他国では見られないことであった。陸軍、海軍、行政、教育などの分野で雇った外国人は、顧問や教師であって、権力は与えなかった。しかい、今回は違う。権力を与えるのだ。
 どの国も官権を行うのはその国の国民の特権だ。裁判官は官権の中でも一番重要な地位にあるから、これを外国人に委任することはできない。
 私が知っている限りでは、例外はエジプトの立言裁判所であるが、エジプトは独立国ではなく、トルコの付属国である。ところが、トルコにはエジプトを支配する力がなく、イギリスが占有するのを防げないのだ。
197 従ってエジプトの例に倣うことはできない。もし日本がエジプトの例に倣えば、これは由々しいことであり、万国の侮辱を受けるだろう。トルコは、今の日本が欧米諸国から受けているような要求を受けていないし、もし受けたら、承諾しないだろう。
 
 純粋の、つまり外国人混合の裁判所でない、日本裁判所(区裁判所)は、些細な事件しか審判できない。民事は100円以下、刑事は拘留以内、科料30円以下だけだ。これは、日本の裁判所が独立しておらず、その学識が信用されていないことを物語るものだ。
 区裁判所の権限は、些細な事件なら、始審、終審、上告などのすべてが日本の裁判所の管轄内にあると考えるのは間違いだ。区裁判所の裁判に対して、地方裁判所に控訴するときには、外国人混合の裁判所に控訴しなければならない。また上告も、外国人混合の控訴院(大審院)に訴えなければならない。
198 このように条約草案は日本の面目を汚し、条理に悖るものだ。日本人は日本人裁判官による裁判で敗訴したときだけ外国人裁判官の管轄を受けないですむ。(勝敗いづれの場合も、控訴・上告があるのだから、外国人裁判官による審判を受けなければならないのではないか。)
 日本人が区裁判所で勝訴し、外国人が控訴した場合は、遠くまで出向かねばならない。(これは日本人でも外国人でも同じではないか。外国人のほうが都会に住んでいることが多いから、その点、日本人のほうが地理的に不利かもしれないが。)
 外国人混合の裁判所では英語を使わなければならない。それは時間とお金の無駄になる。当初は、日本に居住し、又は日本に土地を持つ外国人に、日本の法律が適用されていた。つまり、民法、商法、行政法、刑法が外国人に適用されていた。

 草案で日本政府は次の三か条を約束した。

第一 ヨーロッパの原則に則り、帝国裁判権および現今起業に関わる五成典を制定すること。(第4条)
第二 条約批准の後二年以内にこの法典を頒布すること。(第5条)
第三 この法典実施8カ月前、つまり批准交換から16カ月以内に、その正条を英文で外国政府に通知すること。(第6条)

 第一は履行しやすい。日本政府は条約改正以前からヨーロッパの法典に則って、法律制定に着手していたからだ。
199 第二の約束は、早計だった。法律の制定には、長期間を必要とするから、この期限内に成案を得ると約束すべきではない。つまり、この期間があれば十分だとするのではなく、少なくともこれだけの期間は必要だという必要条件を示すべきだ。
 日本の法典は、条約の批准を延期しない限り、批准後16カ月以内に成案を作れないだろう。しかし、第13条では、批准は、全権委員が調印後1年以内にしなければならないことになっていて、批准を延期するには、調印を延期しなければならない。ただし、調印しなければ話は別だが。
 第三の約束は、困難だ。外国政府に日本の法律を通知する目的や性質はどういうものか。条約では何も語っていない。
 第5条(第三の約束に関することだから第6条ではないのか。)に関する議事録(9、10、11)を見ると、法律を通知するときに用いる言語に関する議論は次のようであった。

 ・外国人には、条文の意味を理解できない法律を遵守する義務はない。(議事録第9の11葉)
 ・どの言語で日本の法典を見られるかは、外国人にとっては切に知りたい事柄だ。(議事録第16条)
 ・英語で通知するのにも8カ月は必要だ。(議事録第11条の7葉)
 ・外国人裁判官は日本の新法を適用する前に、これを学び、知る時間を要する。

200 この時までは、外国の委員は、日本政府を信じており、また、日本政府も、外国人に対して、日本の法律を適用することができると思っていた。また、外国の委員は、日本がヨーロッパの原則にかなうという約束を破らないと思っていた。つまり、この時までは、ヨーロッパの原則の遵守に関する、統制や吟味に関する話は何もなされなかった。
 ところが3月18日、監獄則を通知する件で議論が起こり、外国公使は、日本側からの西欧側への法典通知に、別の目的を指示し、法典の通知は、日本政府が法典成案の約束を守ったかどうかを調査するためではなく、法典がヨーロッパの原則に適合するという約束を守ったかどうかを調査する手段とすべきだと言い始めた。
 つまり、以下のような意見が出された。つまり「もし、西欧の原則に基づくという約束を精密に履行しなかった場合は、条約は批准の後でも無効にできる。」と。
 これに対して日本の委員は抗弁し、「我が政府がこの通知をするのは、単に外国に告知するためだけであると理解している。」(議事録第23の14葉)と。
 これに対して外国の委員は一同に異議を唱え、条約は実施前に破裂しそうになった。
 西欧側は、西欧の原則に適合するかどうかに関して、日本の法律を監査する権限があると主張しながら、立法に関しては、日本国の独立の権利を尊重すると言って、自己矛盾しているのだ。
 イタリアの委員は、他の場合には日本の委員に賛成していたが、この点では日本を離れ、西欧側についた。(議事録第23の18葉)
201 日本の委員はこの点についての日本の立場に関する回答を、次回に延期するように請求した。
 条約改正会議は破裂しそうだったが、日本政府は会議を最後までやろうとした。外国委員は恐れた。それは彼らが過大な要求をしたと認識していたからだろう。私のように日本を愛する者は、これは不当な立場から脱出できる好機と考えたが、実際はそのことは起こらなかった。私は日本のために、日本の国権と面目を回復するための陳述書を書いた。
 会議は15日間開かれなかった。その間(日本側は)外国側の有力者と相談したが、その時、(私の)陳述書は参照されなかった。3月31日の会議で(議事録第24)、日本の委員は謝辞を述べ、イタリア委員の議案を承諾した。この議案は、法典通知の性質を変更し、その通知は、日本委員が言うような(日本側による)告知ではなく、(西欧側の)承諾や認可の請求となった。
 その後、意見が合わなければ、条約を批准の後でも実施しないと決定され、(議事録第24の2葉)日本の委員は、すでに論点が定まった後で、前言の表現を変え、「日本政府が立法に関して自治の権利を自由にかつ十分に施行する権利を持つ」(同上2葉)と再び主張した。つまり「外国人が関わらないことなら外国の干渉すべきことではないが、日本の法律は、先ず外国政府がこれを調査し、認諾し、承諾するのでなければ、外国人に適用されないという以上、それは日本政府が立法権を持たないということになる。」と日本政府は先の西欧側の自己矛盾をついた。(しかし後の祭りか。)
202 ところがさらに、外国による承諾や認諾は、立法だけでなく、この法律の変更も、実施8カ月前に外国に通知すべきということになった。(第5条)
 これに対して日本の委員は、法律の変更は、(西欧の)外交官の異議に関わらず、実施する権利があると主張した(議事録第24の3葉)が、イギリスの委員が、外国政府に監査権があると論じ、独仏伊の委員もこれに賛成して、日本委員もそれを承諾した。(同上7葉)従って日本は外国人に日本の法律を適用できると言っても、実質は無いに等しい。

第三項 日本の安全

 6カ月前にロンドンで、英独が条約に関する議案を公表し、日本の英字新聞もこれを掲載した。その時日本の新聞がこれを掲載したかどうかは分からないが、民衆の不満は起きなかった。草案の結果は、日本政府の努力次第で変わりうる。
203 英独は日本に助力する好意を示し、日本側は条約会議の最初に、英独の全権公使に栄誉となる章典を与えた。
 日本政府は草案の公布をしたくないと考えている。それは国民の満足を得られないと思っているからだ。
 日本政府が議場で敗北すれば、日本政府は輿論を後ろ盾にして、そのバックに調印を拒絶すべきだ。いずれにしろ日本政府は国民に草案を示すべきだ。
 国民から反論を受けるにしても、後回しにすれば、一層反論は高まり、反対者は国乱をもたらすだろう。今後さらに刊行の自由が拡大し、論駁の程度も後に行くほど高まるだろうから、今のほうがその度合が低い。調印後に批准を拒むとなると、それは重大なことだ。批准したら、損失や危害を救う道はなくなる。批准したら、日本は海外の16か国に拘束されることになるからだ。国権を失うことがもはや取り返しがつかないことを国民が知ることになれば、国民は外国に対して君主の独立を毀損したとして、大臣を追及するだろう。
204 日本の法律を改正し、実施できる日になっても、外国人に対しては8か月後に先延ばしされ、また外国から認許されなければ、法律を施行することができないことを国民が知れば、国民は腹を立てるだろう。三年後に日本は国会を開くだろう。その議員はおおむね従順で軟弱な者と想像できるが、自由主義者もいないわけではない。自由主義論者の影響力は新聞よりも大きい。
 日本人の中で、外国の官吏を侮辱する者が出てくるかもしれない。そうすると外国政府は自国民を保護する名目で日本の国権に干渉し、日本の独立が脅かされる恐れがある。
 そうなると軍備費用が高くつき、独立自治の国体を失うかもしれない。それはエジプトの二の舞だ。
 20年前、外国人の交通を許したことを不当だとして革命がおこった。今は倒すべき幕府はなく、天皇の権威が影響を受けるから、今回のほうが一層危害が大きくなるだろう。
 以下その対策を述べる。

第二章 変更の見込

205 日本の委員は、窮地に陥ったら、内閣の意見を聞いてから返事をすると言えばいい。ところが日本の委員は内閣に相談しないで、英独案の立案者に相談した。日本の委員は外国顧問(私)の案を採用しなかった。私の意見が採用されなかったので、私は驚いた。
 一度だけ日本の委員が私の案を採用し、外国委員の説を排撃したことがあった。それは死刑を宣告された外国人に特赦を許す件についてであった。ただし、これは、草案中に不都合な部分が多く、廃棄された。
 日本委員が英独案を採用する前に、私が意見を述べる機会があったならば、今でも私は変更を求めるだろう。不幸にも英独案は1886年6月15日に採用された。私は同年8月になってそのことを知った。私が裁判所構成法取調委員になった時のことだ。しかし、この時も私は意見を問われたことがなかった。ただ裁判所構成法がこれに抵触するため、参考として示されただけだ。(意味不明)
206 私が変更を求めたい点は次の通りだ。

第一、 外国人混交裁判所の権限を、外国人が民事の被告になる場合に限るべきだ。しかし、これでも外国人に譲歩している。現在の条約規定の範囲内で考えるとして、私の考えは、外国人は民事、商事、行政の訴訟につき、始審、控訴、上告のすべての場合に、また、被告人であるときも、純粋に日本人の裁判に服従すべきである。
第二、 外国人裁判官を置くのは、控訴院(七か所)と大審院に限るべきだ。(第一と矛盾しないか。)これは外国人から保護を剥奪するものではない。始審で外国人が敗訴したら、控訴して外国人裁判官の下で裁判を受けられるからだ。
 また外国人のために八つの始審裁判所に区別する必要はない。そうすれば日本人は遠くまで裁判のために出かける必要もなくなり、外国人裁判官を大勢雇用するための国費も必要でなくなるだろう。
 民事に関する細小の訴訟(百円以下)や違敬罪は、最後まで、つまり、区裁判所、始審裁判所、控訴院、上告審において、日本人裁判官だけで行われることになるだろう。
 第三、 原告被告を問わず、裁判を一段階超え、最初から控訴院へ訴え、また一時に、始審終審裁判を受けられるようにすること。
207 イタリアやオーストリアの公使は、私が提案するこの方法に賛成した。これは外国人の特権ではなく、日本人にも適用されるべきだ。これによって費用と時日を節約できるからだ。
 第四、 検察官はすべて日本人であるべきこと。草案では外国人に関わる刑事事件では、検察官を外国人にすべきだとしているが、それは、外国委員検察官やその職権に対する無知から生ずる間違いだ。検察官は裁判所に対して自国の政府を代表する機関である。それは代言人が訴訟人の代理であり、かつその機関であるのと同様だ。
 第五、 法律の制定や法律の変更をあらかじめ通知することは、外国政府への告知のためだけであるべきこと。
 日本の国権を損なうことなく、この通知が重要だとすれば、それは、日本の法律を外国人に適用する前に、これを知らせるという原則、つまり、「何人も法律を知らないとはみなされない」という原則の重視である。
 通知は実施の6カ月前で十分だ。
 条約批准後、法律編纂のために18カ月猶予されるべきだ。
 しかし、先に述べたとおり、外国委員が日本に命じた通知は、不当であり、大問題である。その理由を以下に追加する。
208 第一、 外国委員の目論見は、この通知によって、その政府が、日本の法典が、ヨーロッパの原則に適合しているかどうかを確認するためのものである。しかし、日本の法典がその原則に完全に適合することは不可能だ。
 ヨーロッパ諸国に、アヘン製造・輸入に対する刑罰があるだろうか。もし英国の政府が、この点で日本の刑罰を争うとすれば、それはどういうことなのだ。(日本の刑罰は以前に比べれば、かなり寛大になったが)
 また日本の法律は刑事の陪審制を許さない。また公用土地買い上げ規則にも陪審制度を許さない。もし、これらに関して陪審制度を許している国家、それは西洋に多いが、そういう国家から、その国民のために、日本に対してこの制度を設けるように請求すればどうなるか。また金銭の貸借で、ヨーロッパ諸国は利息自由の原則を許しているが、日本は、利息自由の原則に弊害があるのに、この原則を採用しないといけないのか。
 これらの点で、日本政府が外国政府の認諾を請求するとき、外国政府がこれを拒絶しないだろうとは必ずしも言えない。もし認諾しなければ、日本政府が莫大の金を費やし、国を開き、新裁判所を組織した事業が、一朝にして水泡に帰することになる。これはひどい話だ。
 第二、 ある国は日本の法律を承諾し、他のある国は、条約会議で付与された権利を行使して、これを承諾しなかったとしたら、どうなるのか。そして第二の国との関係はどうなるのか。また、第一、第二の国相互間の関係はどうなるのか。外国委員はこの重大な困難に関して一言も発言しなかった。この難問が起こった場合にどう対処したらよいのかを考えないのだ。
 日本の委員はこの点を、異議を唱える根拠にすべきだった。
209 私は陳述書の第一章で、この点について指摘した。不同意の国があった場合どうなるのか。一国あるいは数ヵ国が不同意の場合、他の同意した国が条約から得られる利益が失われてしまうことは、許されるのか。
 また、不同意の国は、条約の要件を守らないでも、日本国での利益を享受できるのか。またこの国は、治外法権の維持を主張しながら、その権利を放棄した国が得られるような利益を要求できるのか。
 草案第12条は、このことを許すようだが、このような不条理な結果を生ずる請求をするような者が出ないことを希望したい。正当な理由もなく、独り条約から脱してその責めを負わずに、その利益だけは得るとは実に不正の極まりではないか。
 第三、 日本の法律がヨーロッパの原則にかなうかどうかについて信用しない外国委員は、第11条をどう解釈するのか。その不信の心情と該条の精神とをどう調和させるのか。第11条は、条約批准の後、日本人と雑居しようとする外国人は、日本の民事裁判に服従するなら雑居できる、と定めている。
 付言 日本の裁判権とは日本だけの裁判をいうが、これは、外国人が多数いる裁判所を、日本の裁判所とみなさない証拠だ。
 雑居を許された外国人は刑事についてだけ、日本の裁判権から除外される。その外国人は、その母国の国法あるいは条約で定めた刑法以外の刑法に服従する自由がないからだ。(なぜ刑法だけ特別扱いするのか。)
 したがって(日本の法律ができるまでの)二年間は、その外国人の母国の国法に基づく領事裁判に服するものとする。一方、民事、商事、行政に関する訴訟で、外国の委員が、その国民の利益に関して、恐れるべきところがないだろうか。いな、この日本の法律は、野蛮で、もしくは荼(と)毒(=苦痛)の法でないか。
210 日本人裁判官は知識に欠け、もしくは使役される者ではないか。
 (日本の法律が制定される前の)二年の時期よりも前にその他の信用(利権)が与えられる外国人に関して、条約の実行によってどんな結果が生ずるだろうか。その外国人は条約の適用に入るべきか。その外国人は混交裁判所の管轄に属すべきか。この問題は奇妙で、非論理的だ。(意味不明)
 この外国人が常に純粋な日本人裁判所の管轄に属して、他の外国人と異なる地位にあることは、怪異である。
 したがってこの条約改正の草案の言語表現は、決められない困難を含んだ奇妙な文章になるしかない。
 私は第25回の議事録にまだ目を通していないが、第11条は、今まで討議されていない。日本委員が第11条を熟考すれば、条約の半分を省略できるだろう。民事、商事、行政の事件すべてに関して、日本の法律と裁判管轄が、日本国内に雑居する外国人に適用されるからだ。その外国人に日本の法律が適用されているのだから、日本政府はこれについてさらに別に条約を結ぶ必要はない。
 日本政府は、日本の法律と裁判所に服従すると承諾した者に入国を許した。
 条約の半分で必要なものは、刑事の法律と裁判管轄に関することだ。これに関する一時又は単に控訴に関して、外国人裁判官を参入させるべき場合がある。

211 私は草案全部を没にして、新たに最初から起草すべきだと勧める。それが無理だとすれば、草案13か条のうち、重要なものを変更するように勧める。

 草案に加えるべき変更点

第4条 通知を刑事の法典(刑法と治罪法)に限定すべきであり、この通知は告知の意味にすべきだ。
第5条 8カ月を6カ月に短縮すべきだ。
第6条 新裁判所の管轄を刑事に限るべきで、これも控訴(控訴院)と上告(大審院)に限るべきだ。英語を保存すべきだ。軽減されない死刑に関する第18項を保存すべきだ。

結論
212 今は草案段階だから大幅に変更すべきだ。また君主と直接調印できる権利を外国が要求してきているが、それは断固拒否せよ。草案全部の放棄すなわち廃棄を内閣に要求せよ。外務大臣がこれを担当するのが一番穏当な方法だ。この方法は内閣の中での権力争いや分裂、辞職などの結果をもたらさず、勝者も敗者も生じないからだ。外務大臣以外に、日本の第一委員が提案したものを引っ込めることを論駁できる者はいない。
 私はこの方法を第一委員に提示したが、うまくいかなかったし、私自身が言ったとしても採用されないようだ。
 一方もし外務大臣の同僚の中に、権力がある人がいて、その人がこの方法を適当だと判断し、またその人が第一委員の友人ならば、この第一委員とこの件の問題点を理解した上で、自ら草案の棄却を提案することを期待する。

 日本の第一委員が内閣の同僚に次のように述べたが、それは高見だった。

 「会議中に外国人委員に譲歩しなければならないことが多かった。それは我々が日本の法律を外国人に適用したかったからだ。
213 外国委員は最後になって、外国政府に日本の法律を告知する際に、日本の威厳を損ね、日本の認める趣旨と程度に注文を付けてきた。我々は、草案のすべてを放棄すべきだと勧告する。
 外国政府の委員が、日本側が予見できない権利を持つという不信用の態度を示す以上は、条件付きの条約を締結するよりは、日本の法典を完成し、それを頒布・実施する時まで待ったほうが良い。その時の方が、双方とも事情がよく分かるからだ。
 我々は二年以内に、刑事・民事・商事・行政等の事件について、階級の別なく、外国人が原告であれ被告であれ、日本の裁判所に管轄権があると要求すべきだ。外国人裁判官の立ち入りを許すのは、ただ刑法を適用するときだけで、しかも裁判所も控訴院と大審院に限るべきだ。」

 もし日本の第一委員がこの発論をなせば、内閣が認めるだろう。日本の委員は、それまで外国の委員と話をしてはならない。日本の委員が便益を失ったのは、外国の委員と私的に討議したためだ。日本の第一委員が内閣に発論する際、決議に至るまでこれを秘密にしておくべきだ。
 日本の第一委員が内閣にこの発論をなすまでに至ったことは、第一委員の失敗ではなく、かえって将来の条約に関して第一委員が国民の信用を受ける原因になるだろう。
214 これに反して第一委員が内閣に草案を認許してもらうように発議し、その発議が承認されなければ、第一委員は内閣を辞さざるを得なくなるだろうし、また認許されれば、これまで草案を批判してきた内閣の一員は、内閣を辞することになるだろうし、その責任はいっそう重くなるだろう。なぜならば国辱となる草案を批判しつつそれを容認するからだ。
 私は日本の第一委員が草案の棄却を発議するのが一番いいと思う。そうすれば内閣が分裂することもないし、内閣の更迭もないからだ。(この部分のちょっと前212では、外務大臣か、外務大臣の同僚が草案棄却の提案をするのがいいと言っていて、ここでは第一委員が提案するのがいいと言い、論理に一貫性がない。それとも第一委員が、外務大臣かその同僚であるということか。)
東京において
ゼ、ボアソナード」
(国会図書館所蔵三島通庸文書所収コンニャク版)

 
「勝安房(安房守、あわのかみ、海舟)の意見書

一 意見が合わないと、とかく不愉快になり、すべてのことについて折り合わず、ひいては、国家が貧国に陥る恐れがある。経済が落ち込まないようにすることが最も大事なことだ。
215 一 旧政府は天保の末年に倹約に努めて国庫が充実したが、その後政府内部で意見が折り合わず、たちまちにして国庫が枯渇してしまった。
一 戊辰以来百万石が七十万石に転落しても、一家の経済が混乱するくらいで、何とかやりくりしてきた。これも経済の要が和不和であることを如実に物語っている。
一 年々下層民が貧困に陥っているが、このことが原因となって政府財政もいずれ欠乏するはずだ。この点に注意すべきだ。
一 旧薩長出身者でなければ政権を担当できないと国民がみな心得ているし、両藩同志もいずれ政権を争うことになるだろう。協和が大事だ。
一 薩長両藩の人は、他藩の人よりも一層、えこひいきの無いように注意すべきだ。
一 両藩人は互いに協力しているように見受けられる。両藩が敗北しても、政権が転覆することはないだろうが、両藩人は能力も気力も高いからこそ自重して欲しい。
一 近来高官がさしたることもなく宴会・夜会に明け暮れているが、これは太平無事だが奢侈とも見受けられる。穏便にされたい。
一 舞踏会が淫風を媒介しているという風評があるが、これはあってはならないことだ。程度をわきまえてもらいたい。
216 この二点はどうでもいいことなのだが、窮乏した下民がこの話を変質させ、虚言も出回っているようだ。また外国人の間でも誤解が多い。
一 下民が税金で苦しみ、天皇に対する恩や愛国心が希薄になっているようだ。下民でも士太夫に恥じない人もいるので、よく調べて税の免除や恩賜等で特別に賞与を与え、下民に元気を与えたいものだ。
一 民間でも洋学者が増えている。そのうちの上位のものを天皇に拝謁させ、中以下でも褒めたり学資を提供したりして、学問の維持のために、優待して欲しい。
一 鉄道は人民の便利のためばかりでなく、軍備の必要も大きいので、陸軍省は多人数を徴兵するのではなく、鉄道の築造に費用を回してほしい。
一 なるべく士族出身者から近衛兵を選抜して欲しい。
一 明治政府のこれまでやってきた改良の規模は遠大とは言えない。小事の目先の成功を急ぐべきでない。財政はすでに逼迫し、事業が中途半端で終わっている。また財貨が海外に流出して、何事も好結果が得られないようだ。
一 数百年来の悪習は、一旦やめてもまた元に戻るものだ。その改革に要した財源は大きく、無駄だった。
217 一 田を畑に切り替えることはなかなかできない。そのままでよいものはあえて手を加えないほうがいい。
一 田の租税は低くなったが、他の賦課は高くなった。下民の窮乏に注意を向けられたい。
一 今、幕府の法が好まれず、無益の改正が行われている。幕府の法も、新法ではなく、古い慣習を利用して弊害を改めてきた。長い間、ある法を使っていると、弊害が生じ、その法でカバーできなくなるものだ。良く調べた方がいい。
一 慶長以来日本の金銀の総数は多くはなかったところへ、維新でその半分を失った。これが富国のためにどうかは分からない。このことについての調査・研究が書物に載っている。これからは中国との交易が、経済的観点から重要で、富国の基礎となるはずだ。
一 清国は隣国であり、我が国の制度文物はことごとく清国から伝来した。清国を仇敵のように扱わないで、信義を以て交際を厚くすべきだ。(清国との関係で)国辱などと言ってはならない。懇切を尽くすべきだ。
一 外国との交際は偏頗に陥らないようにすべきだ。このことについては旧政府(=幕府)の轍もある。

 以上は、私が数年間下野している間に志士論客の話を密かに聞いたものをまとめたものであり、私だけの話ではない。天皇の恩を感じつつ、腹蔵なく述べたものだ。すべて世上の事がオープンに行われれば、おのずから公平になるものだ。
 私は幕末の些事に汲々としていて、人材の養成ができなかった。外国からの攻撃がなく、…(中略)横井、佐久間、西郷、大久保、木戸らが変死した理由は、後世明らかになるだろう。それはひと夏の夢であり、あと20年もすればどうでもよくなるだろう。従って、将来のために人材を養成すべきだ。今の政権の期間中にすべてをやり遂げようと考えないことだ。性急になってはいけない。性急は労して功なしだ。現在の英士を養成したものが何であったかを考えてもらいたい。
(明治新聞雑誌文庫所蔵パンフレット)

「谷干城の意見書

*谷干城は土佐藩士1837--1911

 私干城は命を奉じて欧米を視察してきたが、今日本の将来を思うところがあるので、それを次の通り、内閣や諸公にお見せしたい。
 ギリシャ、スイス、ベルギーはやり方が良かったので、国を富ませ、強固にすることができた。やり方を間違えると、敵国のために働かされ、国は衰退する。インド、ポーランド、トルコがその例だ。国の方針は遠大で、隅々まで行き届かねばならない。事には緩急と軽重があるが、一番重く、急を要し、かつ興廃・存亡に関わるものは、条約改正である。
219 伝え聞くところによると、条約改正は、締盟諸国が皆治外法権を廃し、日本の法律に服従する方向に向かっていると。しかしまた聞くところによると、日本のこれまでの法律や規則には外国人には不適当なものが多く、従って外人は服従しないだろうから、外人に適当な法律規則を作り、外人の歓心を買おうとしているとも。
 これでは日本の国政は独立していないと言わざるを得ない。法律規則は一国の建国歴史及び人民の風俗、習慣、教法等から発生するものであり、自国の安寧と幸福を保全するためものである。ところが外人のためにこの法律規則を改変するならば、独立の精神はないことになる。日本の法律規則でよくないものがあれば変えたいが、建国歴史に暗く、習慣風俗を異にする者に諮って、風俗習慣を異にする者の意に沿うように法律規則を改変し、その歓心を得ようとすることは、独立の大権である立法を他人の干渉の下に置くことを許すものであり、それでは国家衰廃の始まりとなる。立法に外人の口を挟ませる始まりを開けば、その害は大きい。
220 幕府が初めて締結した条約は、当時の起草者が、ハリス氏の日本に対する好意の下に結んだのに、幕府が事情をよく呑み込めなかったために、治外法権の約束を結び、そのために苦悩が始まった。
 また次のように言う論者もいるだろう。開港の時点で幕府が国権を傷つけ、自治の権利を失ったために、今日それを取り返すことのできない状況に陥ってしまったと。しかし、それでは、今日では、条約改正が不可能だとあきらめることを正当化するようにも見える。幕府300年間の平和のために武士は文弱になり、海外の形勢を知らず、治外法権がどういう意味かを理解できず、通商の法、海関の税などの詳細を知らなかった。また国内では不平の浪士が雷同して攘夷の暴論を唱え、外からは軍隊で威嚇して締盟を脅迫したため、当時、日本の法律に外人を屈従させることができなかった。
 しかし今日はそういう状況ではない。海外の状況がよく分かり、外交のやり方が上手になり、治外法権の弊害を熟知し、海関税が軽いと国内財政を傷つけ、国内の工芸を害することが明らかになり、国内では恐るべき諸侯伯は存在せず、攘夷の暴説を主張して残暴する者もなく、全国民が条約の改正を求め、外からは外国が軍隊で脅しているわけでもない。今は条約改正の好機に恵まれている。
221 また次のように言う人もいるだろう。今の条約改正には意に沿わない部分もあるが、甘んじなければならない。治外法権を廃止し、日本の法律に服従させるためには、大いに譲歩して、外国の歓心を買わなければ、外国は承諾しないだろうと。
 また、次のように言う人もいるだろう。これまで日本は名目上は独立していたが、実質的には独立していなかった。今回初めて対等の権利を回復し、法律を欧風に改良し、外人に多少立法の権に参与させることは惜しむことではないと。
222 また、治外法権は名目上も実質的にも恥ずべきものだが、実質的な害はそれ程でもない。それによって独立安寧が妨害されることは少ないと。
 しかし、外人に日本国内の政治に立ち入らせる道を少しでも開けば、その害は大きい。
 また、これまで条約改正のために努力してきたし、これ以上の結果は望めないという意見もあるだろうが、私がヨーロッパ諸国の条約の決め方を見てきたところによれば、条約締結の過程を秘密にし、外務省に丸投げして決める例を見たことがない。欧米では各省の長官に意見を聞き、それを外務に移すのであり、外務の業務はこれまでの意見を転達するに過ぎない。
223 外務に一任すれば、各省主任者と協議・討論・決議することができない。外務はすべてのことに通暁しているわけではない。
 条約改正をしないわけにはいかないが、今日それを行うのは良くない。明治23年に現政府の組織を一変し、立憲公議の新政を施行した後で条約改正を行うべきだ。西欧諸国は不服を表明し、空脅しをし、脅迫するだろう。また軍隊を派遣するかもしれない。しかし、西欧諸国は一枚岩ではないから、日本に与する国も出てくるはずだ。
 欧米諸国は立憲公議に慣れ、世論で決定する。外交でもそうだ。礼を厚くし、信を表し、親密の交を求めることはいいことだが、依頼主義は良くないと西欧では見なされている。
 外交には秘密が求められると言われるが、西欧ではそれを採らない。それは狭量で疑惑を招く。
 天皇陛下は人民の公議に従い、上下が一致し、内には結束し、外に対しては競う精神を奨励し、改正案を人民に諮り、世界の公判に訴えるべきだ。
 トルコは秘密主義だと欧米から批判されているが、トルコは国権を争うときは軍隊に訴える。決して依頼主義ではない。小国は大国に庇護されるとういう人もいるが、自衛自強の力に依存すべきだ。
 欧米を動かすには、日本国内の輿論と、それを醸成する新聞と演説が必要だ。新聞や集会などの諸条例を寛大にすべきだ。
225 しかし欧米人も利己主義で正理を顧みず、暴策を行うものもあるだろうから、軍隊が必要だ。
 外交官は天皇陛下の聖意を奉戴し、立法官の決議に基づき、天下人民の輿論に拠り、条約改正の談判を開き、こう言うべきだ。「これが我が天皇陛下の真意なり、立法官の決議なり、行政官の希望なり、また人民の輿論なり」と。さらに内外の新聞の力を借りてこれを主張し、それでも欧米諸国が不正不理の挙動に出れば、身命を国家の犠牲に供し、成否を兵馬の間に決する決意を示せば、欧米諸国も我が意を容れるだろう。欧米諸国は兵を出すかもしれない。兵備は今日では不必要かもしれないが、兵は百年にして用いず、一日もまた備えざるべからず。
 近年欧米諸国は外交操縦の道に長じ、しばしば虚喝をもって弱国を脅迫することがあるので、輿論と兵馬の備えが必要だ。兵備は一日も怠るべからず。

国家の大患
情実の弊

 情実に流されるのは確固たる自説がないためだ。
226 情実に流されると、因習に堕し、活発有為の元気が消耗し、報国の精神が腐敗する。維新の時は鋭進活発だったが、次第に情実の弊害が起こり、冗費冗員が増えた。明治18年、内閣諸公は、大英断でもって大改革を行い、新たな官制を設けたが、一年もたたないうちに、旧態に戻ってしまった。今は徒に太平無事を装飾し、歌舞遊楽し、消費するようなときではない。
227 そもそも我が国の君臣の間は相親密な風俗で、君主は父母であり、人民は赤子である。天皇陛下は、一視同仁に臣民を見給まい、人民が政治思想の点で相異なっていても、決して愛憎をその間に挟むことはない。
 しかし近年、執権者が天皇を見ること、自党のごとくであり、3700万の聖王たる実を、民間に失わせようとする恐れがある。従って有功勲位の人でも、当路の執権者と政論を異にすると、天皇陛下の罪人のように扱い、国家に不忠不義な者と同じ扱いをする。我が国の国体では、天皇陛下は、民命の主として、千古動かすべきものでなく、一方、政論は事務の一部だから、反対が生じるのも当然であり、またそのことは国家にとって良薬ともいえる。
 従って天皇陛下と政論とは相異なるもので、執政者と意見が同じか違うかで待遇が異なるべきではなく、宮内大臣は行政部分から離れ、在野の名士を当てて、それを在朝の官吏を当てるかのようにすべきだ。現今のごとく総理大臣と宮内大臣とを兼任するのは失当であり、皇室に害がある。欧州でもそんな例はない。
228 そうすれば不平の先は執政者になり、天皇陛下になることはなくなるだろう。
 そうしないと、天皇の名を語り、天皇の身を擁して、法令を天下に発し、その結果自党を利する恐れが生じ、天皇が人民の恨みの対象となるだろう。天皇は公平無私、一視同仁である。天皇が天下億兆の輿論に従えば、安泰で長久となるはずだ。

内閣の弊

 欧州諸国では、内閣の会議が次の順序で行われていることが多い。
 一大臣の議案→内閣会議(諸大臣が同意の時は連帯責任、不同意の時は各自の責任)→君主→立法官

 諸大臣の責任

一 君主に対する
二 立法官に対する
三 内閣の疑問に対する
四 信用投票
五 普通投票
六 特別投票

229 一大臣が一議案を内閣に提出し、総理大臣以下皆がこれに同意したときは、その議案につき、その内閣は、君主と立法官に対して責任を負う。これは連帯責任である。また、内閣会議において一致せず、一大臣がその自説を主張し続ければ、大臣各自が責任を持ち、一身の進退を以て決める。そして可否を裁決するのは君主であり、君主は連帯責任と各自の責任とを問わず、皆裁決する。
 内閣会議による決定がないものを君主が裁決することはない。これが内閣制の本質だ。しかし、日本では内閣制なのに、往々にしてこの手続きを踏まないで、天皇の裁決を仰ぐことがあるが、改めるべきだ。
 今は戦時でもなく、刺客が横行する時代でもないのに、日本では大臣に巡査が護衛しているが、欧米ではこのような光景を見たことがない。外人がこれを見れば、威厳とみるか、怯懦とみるか、あるいは、日本には未開野蛮の徒が多いとみなし、それを条約改正を許さない理由とするかもしれない。政治家の美学として、これはやめた方がいい。死を決して暗殺を企てる者がいれば、一二の巡査が護衛していても、とても防げるものではない。旧幕の末、造官された者は、人民に対する思いやりが薄く、在官とともに驕慢になり、傍若無人となり、天下に自分以外に政務を知る者はいないなどと皆思い上がっているのだろう。
230 しかし、その後多くの人材が輩出し、維新の大業が成就した。人材は多いのだ。
 執政者は、政治の主義を一定にし、その主義に基づいて行動をすべきだ。主義によって、合同し、団結し、離れるのだ。そして人望を得れば、その位に上るべきだ。また、輿論に背けば、退任し、政治以外の分野で国家に尽くすべきだ。どうして巡査に護衛されて、内外人の嗤笑(ししょう)を招くを用いんや。(名言、安倍君耳を傾けたまえ。)

軽佻の弊

 明治18年の財政緊縮の改革で、陸軍の砲台が建築中にもかかわらず中止しようとする議論が起こったが、しばらくすると臨時建築局を設けて、土木工事を興し、臨時砲台建築局を設けて大工事に着手し、また大臣官邸を新築し、交際費を増加した。
231 また、海軍を拡張しようと、1500万の国債を起こし、急に海防を主張して、皇室から数十万金を下付し、民衆から義援金を募り、沿海の防御にあてた。しかしこれは急を要することではなかった。
 その裏では奢り、華美を競い、大臣の邸宅で舞踏会を開き、婦人の服は西洋を模した。日本の官吏の俸給は欧米と同等になったが、欧米は物価が高いから、日本の官吏の俸給はさらに高くなる。これはすべて人民の血税である。
 朝令暮改の政治は、外交にも当てはまる。朝鮮の変乱、金玉均の処置などに、このことが現れている。従来欧米諸国は清国を軽侮し、日本をほめていたが、近来は全く相反し、清国の評判が高まっている。
 日本の政治方針はドイツに傾き、学術も、軍事も、商業界も、さらには衣服までもドイツに傾いている。
232 欧米は商業目的で日本にやってくる。商業は万国が争うもので、政府がドイツを保護すれば、他国の恨みを買うだけでなく、それは政治を逸脱した行為だ。
 アメリカは最初から厚誼が厚く、公平な国で、商業上のいいお得意さんだ。ところが条約改正の際にドイツ人の勧告を受け入れ、またイギリス人の歓心を買おうと、イギリスの産物税を軽くした。アメリカは条約改正に賛成したが、それは公平主義の現れだ。こういう差別をしたら、各国の信義を失うだろう。ドイツが日本を助けるのは利益のためである。信念がなく、みだりに外人を信じ、外人を恐れ、ただその歓心を求めて国家の独立を維持しようとするのは失計である。

外交の弊

 外国と親密にしないわけにいかないが、国権を争い、自国の安寧を保つためには、死を賭す勇気を要する。その時には他国をして、日本を敬い遠慮する気持ちにさせるものだ。外国の歓心ばかり買おうとすると、外国から軽侮を招き、外人の姦策をもたらす所以となる。
 日本は国防上有利な地理的位置にあるのに、西欧と対等と見なされず、軽侮・凌辱を受けているのはなぜか。
234 欧州諸国の外交家には、談笑中に剣がある。ところが日本のこれまでの外交は、欧米諸国に対する畏敬であった。だから日本は欧米諸国から敬い遠慮されず、軽侮の対象となった。日本は平和を唱えるばかりで、理否を論じない。今一二の外人の哀憐を得て条約改正をすべきか。利己主義を執り、射利あくなきの欲を抱き、虎視眈々食を方外に求め、好機を得たら領地を海外に作ろうとするのは欧人の志である。依頼主義ではこの欧人を動かすことはできない。
 従来の、他国に依頼する外交方針を放擲し、兵備を厳にし、以て欧州の変乱を待つべし。欧州の変乱は東洋にも動揺をもたらすだろう。日本は西洋に影響を与えることはないが、東洋では牛耳を取って盟主となり、軍艦20余艘、陸軍軍人10万で、東洋で覇権争いをすれば、欧州の日本に対する評判も高くなるだろう。(帝国主義者としての自由民権運動)
235 英ロ戦争が起こった時、日本がロシアに与すれば、英を制することができる。その逆もしかり。また、軍事援助をしなくても、病院、通信、糧食の便を欧州諸国が日本に求めることができれば、戦争を有利に展開できるだろうから、日本は座して東洋勝敗の全権を握り、欧州諸国の驚憚を得ることができる。日本が欧州諸国の強国と対峙することができれば、それは一大快事ではないか。依頼主義ではそれができない。
 東洋と勢力を争わない欧州一二の国に依頼して、日本の国権を伸長し、日本の独立を固められると考えることは一大失計である。

行政の弊

 功績のない官僚が問題だ。企画を中止・廃絶し、数百金を浪費した例が多い。その源は人民の血涙だ。
236 失敗しても譴責されないのは無責任だ。
 これは情実から来る。爵位授与の際、功労者に爵位が与えられるのに合わせて、功労がない者にも与えられている。これでは勲位が官位に随伴するかのようだ。
 官吏が多すぎる。これは無責任から起こることだが、情実が一番多い。仕事のために人を用いるのではなく、人のために官位を設け、官位のために事業を設ける風がある。政府は、有功者を賞するはずなのに功労ではなく官位を賞し、旧友を憐れみ、私徳に報じ、朋党を作り、遊楽を求めるために、更には在野の有志の口をふさぐために、官位を授与している。官職を私物化し、租税を私物化し、日々官吏が増え、無要の官吏が終日不要不急の事務に従事し、徒に煩雑の弊を増し、かえって要務を遅滞すること、ますます甚だしい。
237 国家の長久を図るために欧米に倣い、無用の官吏を一掃し、官吏試験を実施し、情実で公事を曲げず、甲省から退けられた者が、乙省に仕えることのないようにすべきだ。

 各省は広大を誇り、定額の多少で長官の賢不肖を評定し、各省間で事務の分画を争い、互いに協力しない。この弊害は、省中の各局にも波及している。

 地方の政務は知事の賢不肖による。40有余の賢人を選ぶことは無理で、費用も掛かるから、小県を合体して大県にし、県の数を今の半数にしたらどうか。

238 郡長を民選に委ね、郡長の権限を広くし、行政警察も郡長に委任し、県郡の分離結合も、それぞれの県郡の実情に合わせて、中央政府に不都合でなければ、地方人民の希望に応じて編成替えし、中央から干渉しないのがよい。そうすれば郡県庁や裁判所が設立されるかどうかで地方の人心が冷熱を感じるようなこともなくなるだろう。

 方今、県吏、郡吏、警察吏等が人民に接する態度は、征服した蕃地を鎮圧したようで、小吏が威権を弄することは特に甚だしい。人民の租税で自分が食っていられるのに、人民に対して誠実に義務を果たすべきだという自覚がない。それどころか、人民を見ること、奴僕のごときものがある。
 欧米の官吏は忠篤誠実だ。最近では豪農、豪商または名望家が、人民の依頼を受け、俸給を受けず、名誉のために、地方の官吏の任に当たっている者が多い。金銭よりも名誉を重んじているのだ。
 日本ではそうではない。地方の名望家が人民の輿論に従い、その地方に尽くそうとしても、まず官位が付与されるが、正式な判任でないから等外の官位に過ぎず、腰を折るような冷遇を受けている。
239 そして、経験がなく、資産がなく、道徳のない青年が、官名を濫用し、少し文字を解するからとして徒に文字に拘泥し、更に取捨斟酌し繁を省き費用を減ずる努力をしない。人民に労働させ、威張ってばかりいる。これは改善すべきだ。

 警察事務を改良すべきだ。人民の幸福安寧を保全する行政警察に力を尽くさず、もっぱら司法警察を務め、罪を未然に防ごうとせず、現行犯で捕らえることを事としている。細かいことで人民を拘引し、公義心でする行為に対して、連累のごとく扱い、未決人を囚徒のごとく扱い、過酷奇怪な処遇を往々見聞するに忍びざるものあり。
 条約改正は、自ら進んで外人に証するに、内地人の開明進歩を以てし、法律規則の改良完全を以てし、以て、外人が日本の法権の下に立とうとするように誘引すべきだ。ところが警察事務が今のようだと、欧米人は不平不満を唱え、意想外の難事を引き起こすだろうことは明白だ。かつ秘密探偵なるものは殊に人民に害があり、政府の益は少なく、宜しく改正せざるべからざるものなり。

倹勤

 近年不景気で財源が枯れているのに、政費は増加し、地方の困憊は見るに忍びない。
240 日本は工商が遅れているから、農業が國の産業の中心である。農業が富まないと、次の工商の段階に行けない。今農民の税は過酷だ。今日の租税は維新前と比較すれば軽減したという人がいるが、今と維新前とは事情が異なる。封建の時は租(物納)以外に国家に対して義務を負わなかった。今は血税の義務がある。封建の時は土地が政府の所有で、農民は小作人だったといえるが、今は地券が交付された。封建の時は物種税であり、金納ではなかった。また地方分権だったから、地方の資金が地方にとどまった。今は租税がことごとく金納となり、中央集権となり、地方で殖産することができなくなった。西欧を倣って租税を軽減すべきだ。
 政費を省き、中央集権の偏重をやめ、上流社会の驕奢を慎み、節検を基本とし、国家の大本である民力を休養させるべきである。
241 日本の物種税は日ごとに増加している。聖詔に基づき地租を軽減し、民力を養い、その不足分は所得税を新設して、補填すべきだ。最近所得税の令が下ったが、まだ地租が軽減されていない。先年皇后陛下が農業を視察され、殖産を奨励し、養蚕を自ら行った。そのことから、日本が外国に対して経済を維持するために、養蚕を第一にするようになった。今は行政を倹約して農民を休養させるべきであり、宮中や府中で文明の末節を追う暇などないはずだ。
 確かに衣食住を改良すべきだが、そして今日舞踏会等を創設して衣服等の改良をしようとするようだが、欧米では舞踏会に関して物議があり、漸次廃止しようとしている。風教壊乱の始まりがここにあることを恐れる。
 そもそも衣食住では日本は清国に及ばない。文明は数十年を要しなければ欧米に追い付けない。ところが世人は欧米の書を読み、欧米の説を聞き、その口ぶりを模倣し、その論説を剽窃し、自己満足し、改めなくてもいいものを改めようとしている。
242 あるいはもう文明に達したと空想する者もいる。文明は生活レベル全般を言う。一つの指標だけでは測れない。
 エジプトは40年前は国が富み、兵も強く、その兵がしばしばトルコやギリシャに迫っていたが、英傑メヘメットとアリ父子の死後、欧米文明の皮相をまね、すぐ同じレベルに達しようとしたが、財源、国力に限度があり、外人を招き、外人にへつらい、外国を模倣しようとして、豪奢を競い、勤倹に勉めず、国破れ、民衰え、30年にして亡国の惨状に陥った。それは日本の現状とよく似ている。参考にすべきだ。

立憲政体

 あと3年後に立憲政体が組織されるはずなのに、憲法草案ができたという話を聞かない。それどころか各省は土木工事を競い、在野の諸士は、現在の集会条例や新聞条例が過厳・過酷のため、密かに明治23年を期して、多年鬱積した不平を晴らそうとしているが、それは間違いだ。
243 政府には金や軍隊があり、どんなに非理性的な憲法をも断行することもでき、どんな不平の徒も殺しつくすことができる。しかし、政府がやましいことを抱えていていながら、人の口をふさごうとするのは不可だ。政府は輿論を察して政治を行うべきで、一方民衆は聖意を奉戴し、立憲公議の真意に背くべきでない。政府が人民を敵視し、人民が政府を仇のように見て、互いに衝突を考えているのは嘆息の至りだ。この原因は政府が人民の口を閉ざそうとするからだ。政府が新聞条例を改め、集会条例を緩やかにし、縦横自在に世人に論じたいことを論じさせれば、明治23年の準備がうまくいくはずだ。つまり、人民はその思想を明らかにし、意見を詳細に述べることができ、その結果、人民の不満を処理する方法も容易に見いだせるだろう。これに反して、集会条例や新聞条例の厳しい決まりがあれば、人民の感情は政府に通ぜず、人民の希望も明らかにならない。相手が思っていることを知った上で政治を行うことによって、目くらめっぽうな政治から抜け出せる。
244 新聞条例や集会条例を解けば、人民がみだりに過激な言論を行い、ほしいままに政府の処置を攻撃するようになるだろうという人がいるが、そんな心配はいらない。政府は、欧米を見習って、人民の側の非理を新聞や演説で討論弁解すべきだ。そうすれば互いに自らの考えを改めることができ、それによって士気も上がり、人心も活発になり、政治を眠りから覚まさせ、腐敗を回復でき、それによって国家の利益にもなるだろう。政府が欧米の事物、法律規則、家屋衣服、政治などを倣い、欧米人を日本の法律に従わせようとしながら、一方では、新聞や演説で政府と異なる方向を示し異議を唱える者を、治安を妨害する者とみなし、それを禁止し、停止することは、言行が相反している。欧米の識者がこれを知ったら笑うだろう。
 元老院はその情実による弊害から、世人は元老院を「衰老人の引退所」とみなし、元老院議員もその批判に甘んじ、再び県知事になることを希望している。元老院を改革せよ。政府は自らの利益を優先する観点からだけで欧米の文物を取捨選択してはならない。

1887年、明治20年7月
農商務大臣 谷干城
内閣諸公閣下
(『谷干城遺稿』下)


245 爾後林有造や松尾清次郎をはじめとする多くの人も条約改正反対の建議を行った。

 嬌柔な欧化政略に基づく、井上外務大臣が提出した条約改正案の概要は、以下のとおりである。

海関税
 輸入品に対する課税は、一部は従来通り5分、綿羊毛は7分、驕奢品は2割乃至2割5分とし、他はすべて1割とする。
 輸出品に対する課税は従来通り、すべて5分とする。
 輸入税を課する方法は、輸入港における価格に基づく従価税とする。
 この新税は明治22年末まで実行しない。

法権
 治外法権は撤去せず、一部変更する。そして治外法権を変更する際、外人に、外国法と日本法と二重の身分を持たせ、7か所の開港場に住んでいる外人は、新条約実施後の3年間は、日本の法律外にある。(つまり日本の法律は適用されない。)
 ただし、この3年間でも、内地に雑居し、土地や財産を所有しようとする外人は、日本の法律に服するが、極刑に当たる者は、本国の(つまり外国の)法律で裁かれる。民刑=民事で外人を審判するときは、日本判事だけでなく、外国判事も陪席させなければならない。ただし、外国判事は、日本政府が傭聘する者であり、外国政府を代表する者ではない。
246 明治24年以降12年間は、開港場と内地とを問わず、すべての外人に対する審判は、日本判事と、外国政府を代表する判事との共審とし、日本法を適用する。
 明治37年以降は、外国政府の制限を一切受けない。

 これは欧米に屈服するやり方を残すもので、エジプトの合議裁判を踏襲し、国家の独立を損なう点が多く、公憤は破裂し、売国的性格を論駁し、朝野の別を問わず、政府を批判した。
 7月29日、井上外務大臣は、各国全権委員に向かって、「日本政府は先ず、諸法律の編成を完備し、その後に条約改正をする」と通告し、条約改正の試みは突然消滅し、無期中止を報じた。井上、伊藤は、この責任を取らないで、その地位に留まり、四面の攻撃が強まった。
 
 板垣退助は、後藤象二郎の訪問を受けた後、国の将来を案じ、また忠愛の念から、議員宮地茂春に口授し、10か条の政府の弊害を指摘する文章を作り、東京に来て、8月12日、これを天皇に上奏し、翌13日早々帰国した。

247 板垣退助の封事

 「臣伏して近日の朝政の向かうところを見、国勢の赴く所を察するに、誠に流涕大息にたえざるものあり。今間違いを修正しておかないと、取り返しのつかないことになる。陛下と国家のために、今の政治のいくつかの弊害を指摘したい。
 今は言論が詰まり、陛下にまで言葉が通じていない。私の場合も同様だった。私が天皇から爵位を授けられる際、私は黙っておられず上奏したが、天皇は許されなかったので、私は爵位を受けた。その際出した上奏の書は部分的な内容だったので、今ここで私の考えをいくつか申し上げたい。
 今は対外的には条約改正で、国内では国会開設で多難な時であり、国家百年の大計を定めるべき時だ。
248 陛下が即位されたとき、その施政方針として、封建門閥の制度を廃止し、人民を教化しようとして、ここに五事を神明に誓い、諸侯にその封土を返還させ、四民の権限を平等にし、地券を頒与し所有の権利を明確にし、兵制を改正して報国の義務を尽くさせ、欧米の典籍を採用するなど、十九世紀の気運に遅れないように努めた。
 明治8年、陛下は私を召し、私どもが建議した民撰議員の議を採用され、それを命じた。そのとき私も廟堂に入った。ところが当路の有志がその方針を遮ったため、私は下野した。
 政府はその後、有形の事物は欧米に倣うが、政治形態に関しては、改進を嫌っているようで、専制の古い制度にしがみつく弊害を示した。彼らもそれは本心ではないはずだ。いったん高位につくと、富のために淫となり、安逸となり、天下の大計を判断する気力がなくなり、情実に流れるようになるものだ。
249 政府はいったん専制の陋習に慣れると、その専制の永続を願い、その立場を固めようとし、改進を嫌悪するようになった。明治8年の議を採用していたら、今頃は代議政体が生まれていたことだろう。現政府は欧米の文運、道義を明らかにし、正理を助けることを真似しないで、古い制度を温存しようとしているが、それは自然の理に反することだ。自由、文明の流れを防ぎ、専制の古い制度を維持するためは、威嚇と篭絡(言いくるめること)の二手段によって一時的な安泰を盗むしかない。
 威嚇と篭絡は常義に反するから、無気力の人民を脅し、無知識の人民を欺くための手段は、威力と財貨しかない。その結果が中央集権である。中央集権は、地方人民の元気を萎靡させ、その地方人民は中央政府に従わなければ、志を遂げることができない。
250 中央集権は、財貨・知識を中央に集めるため、東京都では高い建物が林立するが、地方は荒涼し、行き着く先は、亡国か擾乱かのどちらかだ。
 中央集権を尊ぶことから生ずる威力を防ぐための対策を講じるのが、十九世紀の気運=在り方であるので、その十九世紀の在り方に圧力を加えられなければ、当路有司の取りうる手段もなくなるだろう。十九世紀の気運により、欧米諸国では、文化が発達し、専制抑圧を破り、貴族僧侶の専横を懲らしめ、保護干渉の間違いを明らかにし、奴隷貿易の不義を正し、政治や道徳から始まり生活の在り方を通して、改進の精神が喚起され、活発な気力を喚起することができた。そしてそれは力強い自然の流れであった。今、日本の当路有司が十九世紀の気運を嫌悪するとしても、それは無駄である。有司が頑陋な者に金銭で以て恩を着せ、その歓心を買おうとすることは、改進の進路を絶つことになるだろう。
251 その頑陋な輩とは、維新以後改進に反対し、有司が排除した人たちだった。ところがその後、有司自らが私義を恣にして、その頑陋な者を篭絡利用し、十九世紀の大気を防圧しようとした。有司は私的な視野から離れることができなかったから、みだりに私恩を売り、金銭の利をくらわして、世の頑固者を篭絡した。
 仕事のために公務員は必要なのであって、人のために役職を設け、役職のために仕事を作るのでは、弊害が多くなる。
252 現在は後者の状態にある。有司は世界情勢を知らず、専恣をたくましくし、そのため人心は離反する。自分に付和雷同する者は誰でも党与とし、それを支援する。利益に基づき結託する。財貨の多少を問題とし、正邪の当否を論じない。今は、中央集権が甚だしく、地方に財や利がなく、人民は休養できない。従って仕官が第一の糊口をしのぐ手段となり、有司はそれを利用する。有司は無用の官を設け、羞恥心のない人を篭絡し、己の利益を広げる。
253 人のために官職を設けることは、必要のないことを行い、必要のないことを務めることだから、費用が増え、事務が増え、その付けは庶民に回って来る。政治は簡素なのが良い。
 政府は人々に不羈独立の精神を養わせず、もっぱら官立学校を興し、民間の教育を阻喪させている。政府は画一の学制を敷き、心智を拘束している。国は、様々な才能を集めることによって、よく文化の美を呈するものだから、人々の天賦の才能を発揮させるためには、一つの器=学校に限定しない方がいい。政府は、同等や自由を阻害するから、教育に干渉しない方がいい。政府の干渉は、心の自由や知能の発達を奪うものである。政府が干渉し、不羈独立の精神や思想の発達を委縮させるならば、それは本然の理を冒すものである。政府は、十九世紀の気運に抵抗し専制の基礎を固めようとする上で、人々に知恵がつき、その気力が強くなることは、それを欺き威嚇するいつもの手段を執行するうえで不都合だから、国家に害があっても、人智の発達を妨げようとする。

 政府は十九世紀の気運を防圧しようとして、農工商など民間の私業に干渉する。政府が干渉すれば、良い結果が得られず、自治の発達を阻害するだろう。
255 干渉には保護と制限とがある。保護は一部企業に対するひいきである。他の企業から財を奪い、特定の企業を偏愛するようなことは政府のやるべきことではない。それによってわずかな効果があっても、他の企業を阻害し、全体として効果が上がらないからだ。また国家による制限は不当である。それは行為の自由を犯すもので、政府の本分ではない。政府の務めは、人に自由にさせ、万人同等の自由の原則と矛盾しないようにすることだ。
 政府は一部企業を偏愛し、補助金を支給し、他方で認許の規約を設けて、自由な経営を防圧する。
256 不振の農業を立ち上がらせるために政府が保護干渉するのだという人がいる。外国からの輸入を防ぐために保護するという人もいる。企業間の偏倚を防ぐために制限するという人もいる。干渉政策はやむを得ないという人もいる。
 しかし、現政権の干渉政策は、国の利益や国民の利益のためではなく、有司自己を益するためである。人々は独立の志気をくじき、政府に依頼し、有司の利害と一致させようとする。保護は偏愛に、干渉は威服に変質する。少しでも政府と意見が異なれば、政府は、自らと考え方が一致する業者に、正当な事業者を衰滅させるように画策する。また政府への賄賂が多いほど愛し、へつらうほど、起業資金を与え、そのため不急の土木を起こし、無用の工事を営み、他方では公正の事業を害す。それは有司の便のためのようだ。政府が制限認許の規約を設けて民間の事業に干渉する理由は、もし人民に自由に経営させると、自治の力を養い、その結果有司に媚びなくなるからだ。
257 コルベルトは商業を隆盛させるために、富豪から自由放任を求められた。フランスは1700年代の革命で商業工芸が興隆した。本来は平時に興隆するはずだが、なぜか。乱の中で古来の干渉政策がなくなり、自治の気力を発揮したからだ。干渉政策も一時的に成功することがあるかもしれないが、何を干渉すべきか、すべきでないかを国家が判断することは難しい。干渉して失敗するよりも、干渉しないで放任しておくのがいい。
258 政府による篭絡策は、威嚇策に転じざるを得なくなるだろう。

 法は権力の濫用を防ぎ、各人の自由を守るためのものだ。警察は権力の濫用を制限し、各人の自由を保護し、国家綱紀の紊乱を警戒するためのものだ。ところが実際は、警官は個人の自由を束縛している。警官は人民に対して温和で信愛な態度で接すべきだ。米国の警官は、一般人民に接する際、恭謙丁寧で、威嚇的な態度を取らない。ところが日本では警察権力を拡大し、警官は威厳をもって人に臨み、仰ぎ見る存在で、近づきがたい感じを与える。警官は兵器を携行して、人を戒める態度をとっている。
259 その武器は威嚇手段に他ならない。帯剣条規があっても、警官の横暴を制限することができない。武器使用は警官個人の判断に任されており、感情が理性を上回ることがふつうであるから、公正な判断ができなくなる恐れがあり、適当な措置が望めない。日本の警官は、封建時代の武士出身者が多く、武断・濫殺に慣れ、今日でもそれから抜け出せていない。その点で欧米との格差は明白だ。警官は武器を適切に使用できないので、危険である。
260 江戸時代、武士は人々を威嚇していたから、封建殺伐の習俗が今でも残っているとしても不思議ではない。今の帯剣は明らかに威嚇手段だ。廃刀令も効果がない。警官が剣で人民を追い散らしたという話を聞いている。人民は安心できない。警官の人民に対する言葉遣いも、元のままだ。封建時代、武士は他の三民を奴隷視していた。従って今でも警官の使う言語が、侮慢の言語になるのだろう。封建の昔でも罪人を逮捕した際、刀剣を用いず、(罪人となった)武士に対しては侮蔑的な言葉を用いなかった。今の警官は不快である。警察は苛察で、犯罪を作り上げる。少しでも外見がおかしいと、すぐに捕らえて、数年間拘留する。
261 拷問が廃止された今日だが、緊縛・殴打し、痛苦に耐えず不実の白状をさせたことがなかったか。人民を拘束し、寒中雪の中に立たせ、死に至らしめたことはなかったか。公会の場で人民に向かって剣を抜き、刀を振り回したことはなかったか。良民をみだりに殺害したために、訴訟になったことをはなかったか。要人の車を警官に護衛させ、その門を守らせ、治安名目で自らの身体を戦々兢々と予防し、人民を敵視したことはなかったか。警官にも兄弟がいるから、兄弟を敵視するようなことも起こりうる。有司は自分の身を守るために同胞を駆逐し、人々を敵視したことはなかったか。人民は国家を維持する上での大本であり、陛下の赤子だ。人民を侮慢してはならない。おそらく有司でもこういうことが正しいとは思っていないだろう。外国人居留地では警官は帯剣せず、侮蔑的な言葉を使わないが、有司もダブルスタンダードでよいとは思っていないだろう。その本音は、内に向かって威圧したいということだ。人民を卑屈にさせ、有司自らは専ら恣にし、私を遂げようとするために、このような事態になった。そうしないと有司の目的が遂げられなかったからだ。以上が、有司が警察を威嚇篭絡の手段とした理由だ。

 帝国主義時代の十九世紀にあって、日本は東洋で重要な地理的位置を占めているので、陸軍よりも海軍を拡張すべきだが、そうは言っても陸軍も十分とはいえない状況だ。軍隊は外国に対して用いるべきであり、対内的に用いるべきではない。
263 ところが有司は人民に対して軍隊の威容を見せつけ、人民は有司の怒りに触れることを恐れ、発言せず、静かにしている。
 国民皆兵とし、普段から勇敢の気を養い、敵愾心を培養すべきだ。常備兵は多くはいらない。
264 欧米諸国でも国民皆兵を採用している。非常兵の制度を設けるべきだ。常備兵を減らした分を、海軍に向けるべきだ。しかし現状では、民間を威嚇するために軍隊を用いるから、それができない。

 人道に反する外国とは争うべきで、争って負けたら、死を以て道義を守るべきだ。ベルギーやスイスは強国に囲まれた小国だが、独立の道義心を持っているから、独立を守れている。
265 大国に阿ていたら独立を維持できないだろう。日本の場合はどうか。常に外国の鼻息を伺い、その喜怒を占い、その挙措を以てその当を得るとなすは、痛嘆に耐えざるなり。十九世紀の気運に抗してつくられた日本の法律は、外国に対して拒むことができず、西洋文明の表面だけを真似し、国内では民権が伸長することを恐れ、どうしたらよいか分からずに迷っている。国政の私物化が、国権を張ることができない理由だ。有司は隠蔽に務め、内に向かい、人民を威嚇篭絡し、対外的失敗で自らの地位が危険にさらされることを恐れ、それを因循で取り繕うばかりだ。国民は一朝事が起これば、政府に反対などしないのに、政府はそれを疑っていて、自分だけが正しいと思っている。
266 日本の外交は衰弱し、独立の体面を持っていない。今の有司には社稷を死守しようとする心がない。その原因は、有司の人民に対する威嚇篭絡の政策だ。
 
 先般有司は新たに貴族五等を設けた。維新の美事として、門閥政治を撲滅したのに、今日またそれを復活させ、新たに侯伯の爵を作り、顕栄の位を与えることは、王室を支え、勲績を賞賛するという面もあるが、名望家を篭絡し、専制の命運を長らえようとするものだ。つまり、陛下の恩威を借り、他の人民を威嚇して、専恣の欲を長らえようとするものである。王室を支えるには権力が必要だが、すでに権力があるものが、これを濫りにすれば、それは陛下を蔑如する権力となるだろう。薬には毒の作用もある。
267 これは、昔、藤原氏が高位を継承し続け、源平二氏が武力を独占したことと同じではないか。藤原氏や源平二氏が、王位に逆らい、王位を蔑如する権力ではなかったのだろうか。そんなはずはない。それなら空爵であり、虚位だ。どうして少数の空爵虚位が、王室を守るために、多数の人民に対することができるだろうか。これが私が有司が威嚇篭絡が得意だとする理由だ。上古、門閥制度のような陋習はなかった。一王のもとに庶生がいた。王家と衆庶との間を門閥が塞ぐ必要はない。それでは上下の意思が通じなくなる。公侯伯子男という貴族五等の制において、有司の威嚇篭絡の手段が垣間見える。

 今日の有司が卑劣な手段を取っているのは、言論集会の自由がないからだ。言論の自由は政府にとっては耳や目を意味する。今の政府はその耳や目をふさいでいる。
268 有司が政治を私物化しようとすれば、必ず国民はそれについて議論する。それは有司にとって邪魔だから、有司は言論集会の自由を禁じる。それでは政府は聡明になれない。一人では全てをうまく行うことができない。

 有司は、事物や思想が日々に新たに進入する十九世紀の気運を阻害するために、人々を篭絡・威嚇をしなければならない。
269 有司は、革新を疑う頑固者に利益供与し、恩を売って、改進の道を遮断し、人のために官職をつくり、縁者と結託して、私利を恣にし、学事に干渉して思想の発達をくじき、農工商に干渉・篭絡して、その歓心を贖う。さらに有司は威嚇する。有司は警察や軍隊を利用して人々を威嚇し、外交上の失策を隠蔽し、五等の爵位を設けて、威嚇篭絡の責めを塞ごうとする。それには言論集会の自由がないことが大いに寄与していて、そのため冗費が多くなる。税法を改正し、それを収斂すべきだ。民生の赤貧は名状しがたい。地税、物品税、所得税、公債、義捐など様々な名目で人民から絞り上げる。また紙幣の増刷減刷を急速にしたため、物価の変動が激しく、財産を失う者が多発した。農工商は困り果てている。地方は衰退し、囚人が増え、その数は常備兵の二倍に達し、荒村破屋がいたるところに見られる。
270 全村で納税を拒んだり、ことごとく公売にかけられたりする場合もある。税金の督促が厳しく、人民は税吏を見ること虎豹のごとく、警官を見るに夜叉のごとし。これは中央集権の極まりだ。有司もこんな状態が長く続くとは考えていないだろう。
 私は明治8年に職を退き、10年に故郷に帰り、13年に上京し、以後往復三四回したが、東京は退歩の観を呈し、商勢は不振だが、有司の衣服や車馬だけは立派で、その邸宅は壮麗で、舞踏会は盛んだ。驕奢淫逸の様は、陛下がその食事を減らし、宮内庁予算を減らして人民を率いるという聖旨に反する。このような格差は、威嚇篭絡政策の一端である。もし人民が舞踏会に踏み込んで恨みを晴らしたらどうなるのか。
 幕末、将軍家は立派な建物に住んでいた。京都の皇室が貧しく貧相な建物に居住していたのに、江戸では将軍家が立派なたたずまいの家に住んでいるのを見た勤王の士氏は悲憤慷慨し、覇府を退け、王室を尊ぶ心を起こした。
271 今の有司もこの気持ちを共有していた。物騒な時代には、才能がなくても、志をたくましくすれば、反乱を遂げることは容易だ。今それが起これば、有司はどうするのか。「二万の警官と六万の軍隊は、そのためにだけ準備している。兵に歯向かう賊など、手で捕らえる値打ちがない」とでも言うのか。ところがその過程で、兄は弟を殺し、子は父を傷つけたら、人々は悲しみ、その愚かさを悟り、悔いることだろう。騒乱が天下を転覆させることは起こりうる。そうなれば有司自身は逃げられても、事態をどうするのか。
 総理大臣が宮内の長官を兼ね、陛下の威福を借りて国内に向かって号令し、専恣の欲を遂げようとする。民衆が怨怒すれば、これを陛下の責任に転嫁する。
272 幸いに陛下の威徳や祖宗列聖の余沢を以て、反乱が静まれば、民衆は怒りの矛先を有司に向けるだろう。日本人民は昔から忠孝の教えを受け、それは広くいきわたっているから、王家に逆意を持つ者はいない。人民は、有司が陛下の恩になれ、至誠至忠の衷情がないことを憎む。有司は、責任宰相とか総理大臣とか自称し、陛下をただ一つのよりどころとしているのに、敗れれば、それを陛下の責任にするならば、その不忠不義は、万世に比べるものがないだろう。有司の威嚇篭絡策は、亡国か擾乱かどちらかをもたらすしかないだろう。

 以上十か条述べてきたが、当路有司のなすところは、民財を消耗させ、民智を抹殺し、人民の元気を阻喪させる政策でしかない。人民は国の大本である。人民が富んで強くなれば、国も富み強くなる。人民の権利が発達すれば、人民も富強になる。そうしないと、国威が失われ、列国の鼻息を伺って、その軽侮を受け、それに対して何もできず、ただ運を天に任せることになるだろう。
273 自らを捨て、彼に求めると、外人は内政に干渉し、日本の法律を左右し、国は滅びるだろう。条約改正を途中でやめれば、信頼を失い、約束を破棄することになる。法律の対象は国内ではなく、外国である。今の条約改正案では、外人は次第に国内に雑入し、日本の資金を海外に全部持ち出してしまうだろう。今のままでは外国が国を亡ぼすか、内乱が起こるかのどちらかだ。
 昔先帝は国の衰えを憂え、武官の専横を憤って、その回復を期したが、途中で崩御してしまった。このことは天下正義の志士が痛嘆したところで、この痛嘆が、維新の事業を翼賛して、中興の気運を速やかにした。陛下は
維新当初の聖意に背かず、早く憲法を頒布し、天下の正義を取り入れ、輿論を採用し、速やかに過酷な税金を減らし、人民の休養を量り、責任内閣の実を表して、衆怨を排し、民怒を除けば、内乱を避けることができ、上下が意を同じくし、君臣が力を発揮できるだろう。そうすれば、外圧は恐れるに足りない。今の国政を改めなければ、国勢は傾くだろう。
明治20年8月12日
正四位伯爵 板垣退助印
(国会図書館所蔵「三島通庸文書」所収写本)


275 板垣が上奏書を提出した二か月後の10月4日、事実に相違があるとして、新宮内大臣土方久元から上奏書が却下され、14日、高知県令田邊良顕に託して、板垣に返戻された。

 各県の学生、壮士が決起した。子爵谷干城は意見が合わず、内閣を勇退したが、8月1日、林包明は300余名の壮士を集め、九段の靖国神社で、谷のために名誉表彰の運動会を開き、谷の邸に向かい、万歳を歓呼した。
 壮士が東京に続々集まり、8月17日、東北の有志220名の総代として、青森の壮士斎藤進一郎等数名が井上外務大臣を訪ねたが、井上は、富岡の別荘にいて不在だった。
276 9月2日、新潟、鹿児島、熊本、高知、茨木、長崎、千葉、宮崎、神奈川、宮城、岩手、栃木、島根、山口、群馬、大分等17県の有志総代として井上敬次郎、長塩亥太郎(熊本)、井上平三郎(新潟)の三人が、宮内省に来て大臣に面会を求め、天皇陛下への上書を要請したところ、閣内の人はそれを拒否した。9月7日、在京の壮士90余名が谷中天王寺に会し、運動方針を議論した。一方、東北の壮士は転じて、伊藤総理大臣の門に迫り、外務大臣の辞職を勧告し、総理大臣の宮内長官兼任の不可を唱え、条約改正中止、集会、出版、新聞条例の改正に関して陳情した。壮士が動き出し、世情は騒がしくなった。9月17日、遂に外務大臣が辞職し、宮内大臣を更迭し、二三の閣僚が移動した。1887.9.17

・内閣総理大臣兼宮内大臣の伊藤博文は、宮内大臣の兼官兼任を免じられると同時に、臨時外務大臣1887.9.17--1888.2.1となった。
・外務大臣の井上馨は、外務大臣と建築局総裁や宮中顧問官を解かれた。
・内閣顧問の黒田清隆は、農商務大臣に任命された。
・農商務大臣兼議定官の土方久元は、宮内大臣に任命され、元の通り、議定官を兼任した。

277 谷が農商務大臣を退き、土方がそれに代わったが、そのすぐ後、黒田がそのあとを継いだ。土方は閥族の傀儡にすぎなかった。井上は、8年間の長きにわたり外務大臣を務めた実力者で、伊藤内閣はこの人で持っていた。井上は条約改正の失敗がもとで退任したが、交渉中止以後二か月間は引退を決めずにいた。これは伊藤内閣崩壊の端緒となった。これは民間反抗の勢力が一歩勝利をしたと言える。帰国後、ドイツ主義にあきたらなかった黒田内閣顧問が、農商務相になったのは一見驚きだったが、それは不思議なことではなかった。
 これより先に薩長二閥の軋轢の兆候があり、それでは民間党を利すると、その間違いを説き調停した人がいた。そこで伊藤は黒田と面会し、自分が退官したら総理大臣にならないかと言って誘いをかけ、両者の旧交がやや元に復した。黒田の考えは、元勲網羅の策であり、板垣、後藤、大隈等を招致して連立内閣をつくり、上下一致して外事に尽くそうという考えだった。従って、伊藤の勧誘にすぐには乗らず、井上が去ってから漸く入閣を承諾した。これで薩長の和は幾分達成された。また、外務の後任として大隈を推す傾向が生じたが、大隈は去就をすぐには決せず、「内閣がまだ責任制度を確立せず、明治14年に引退した私にはできないことだ」と断った。しかし、和睦の兆しは見えていた。形勢が変わったのだ。大隈は半年後入閣し、その後黒田が総理大臣になった。
278 輿論は不完全な条約改正を中止させ、外務大臣の更迭を促したが、井上の更迭だけでは満足しなかった。伊藤はまだ総理大臣をしていた。

第四章 三大事件の建白

 三大事件の建白を契機として、民間党は一致団結するようになった。三大事件とは、地租軽減、言論集会の自由、外交策の挽回を要求する請願運動である。
279 この運動は最初、明治20年8月ごろから、欧化政略に反対して起こり、運動の主力は高知県だったが、新潟、栃木、長野など、全国の支持者もいた。そして守旧党、改進党も、国権の挽回と窮民の救済を目指す点で自由党と一致した。活動家は、老重な郷紳、剽悍な壮士、農工商の輩など多彩で、彼らは署名して総代を東京に送った。東北地方、熊本、新潟等17県の壮士から始まり、総代は建白書を携えて東京に集まった。
 秘密出版が各地で行われ、板垣の封事(建白書)、谷や勝の意見書、ボアソナードの建言書、各種憲法草案、グナイストの講義筆記などが広まった。政府から送られた探偵が厳密に捜索したが、発行者を発見できなかった。政府は狼狽してさらに狗吏を放ったが、志士や壮士はすばやく逃げた。
 全国八道、ほとんど一県として建白書を提出しなかったところがなかった。有志連合、数村連合は、委員を県庁に送り、元老院に送達することを要求したり、委員が元老院に赴いて説明したりした。諸県の総代は以下のとおりである。(省略280-283、熊本県の総代に前田案山子がいるが、これは女性ではなく、「かがし」1824-1904)
283 明治13年、国会期成同盟会が、2府22県8万7千人を代表し、片岡健吉、河野広中を請願書奉呈委員に推薦し、彼らが太政官、元老院に行くと、各地方も争ってそれに従い、そのことが政府に国会開設を約束させた。今回の三大事件建白運動は、これとやや異なり、諸県が独立してそれぞれ委員を出し、一県下でも郡村がことごとく総代を推薦し、少なくとも二人以上を東京に派遣したために、建白人員と、東京にやってきた総代の数は、前回の国会期成同盟会時の二倍になった。また元老院議員の中にも理解を示す人もいて、政府は四面楚歌の中に孤立したが、薩長分離を繕い、警察権と兵権に依存した。
 9月20日、高知県潮江で爆発物による火傷事件が起きた。発陽社の青年岡本方俊、西内正基が爆弾を製造し、東京に運ぼうとして、この日西内の家で弾薬を数個作っていたのだが、岡本が誤って爆弾を爆発させ、裂傷を負って倒れた。西内も右目を破り、傷を負った。二人は高知裁判所で重禁錮二年、罰金二十円に処せられた。岡本は左手を、西内は右目を失った。当局は建白運動との関連で彼らを追及したが、何も明らかにならなかった。
285 爆弾製造は高知県下七郡の各所に散在していた。血気の士の心は、爆弾の原料である塩酸カリと金や硫黄などの配合で夢中になっており、壮士は神気昂然として東上し、これを白衣冠して送る者もいた。
 後藤象二郎はこの機会をとらえ、政界に入る目論見で、政談会を開こうとしたが、会場がなかなか見つからなかった。鹿鳴館に断られ、劇場や寺院にも断られた。後藤は10月3日、70余名の政客を芝公園の三縁亭に招き政談会を開催した。参会者名(省略、「めざまし新聞」明治20.10.9)
286 来賓は弁護士や新聞記者、県会議員等の地位のある人で、自由党員、改進党員、保守党員が混在していた。後藤が卓上演説(テーブルスピーチ)をした。

 「満堂の諸君はいずれも世に大名を顕(あらわ)された諸君であり、我々と同感の政友であり、初めて拝顔する人でも旧知の政友と認める。
287 諸君は有為の人物で、愛国の志士である。近時の日本は、外には独立の国権が振るわず、内には人々が貧困で苦しみ、忠君愛国の大義名分は駆り尽くされた。我々の目は覆われ、耳はふさがれ、舌は縛られているとはいえ、我々は今の状況を放任できない。
288 腐敗しきった空気を新鮮にし、我が三千余万の同胞が天皇陛下の玉座を仰ぎ奉るべきことは明らかだ。
同胞をして、独立不羈の国旗を海外に翻えさせることができると我々は信じている。」
 (「めざまし新聞」明治20.10.9)

 後藤は、維新の元勲としての熱望と大胆さによって、民間党を勇気づけ、隠然その首領となった。後藤は京橋日吉町に丁亥倶楽部を設立し、次のような趣意書と規則を公にした。

 「丁亥(ていがい)倶楽部趣意書

289 同じ志を持つものは集まって提携しよう。それは国家にとって良いことだ。私はここに倶楽部を創設した。地方にも同様の機関を設立しよう。
明治20年
創立者 後藤象二郎
 丁亥倶楽部規則

第一 本会は同志者の通信往復かつ親睦を目的とする。
第二 大体の目的を同じくし、創立者の承諾を得たものは会員になれる。
第三 本会の費用は創立者がすべて負担し、会員に維持費を募らない。」

 翌10月4日、全国の同志200余名が集まり、懇親会を浅草鴎遊館で開催した。かつて軋轢していた自由、改進の二党はすでに解党していた。ところが、時勢が急で険に傾くと、改進派の一派には、身を挺して闘う勇気がなく、声を潜めて傍観した。またその首領の大隈重信は、すでに外務大臣に擬せられ、政権に取り込まれようとしていた。
290 改進派の多数は三大事件の建白運動に冷淡で、わずかに尾崎行雄やその他12の士がやって来ただけだった。次いで10月9日、10日、有志連合の演説会を鴎遊館で開き、末広重恭、角田真平、大岡育造、荒川高俊、板倉中、加藤平四郎、山川善太郎、尾崎行雄、吉田嘉六、大石正巳、渡邊小太郎らが登壇したが、演説半ばで中止解散の命令が下り、満場沸騰し、器具をなげうち、警吏と抗争した。逮捕者13名。会主渡邊小太郎は、官吏侮辱罪で禁錮、壮士数名もまた罰せられた。
 各地で壮士輩が団結し、愛国有志同盟会を組織し、10月16日、上野公園で大運動会を開き、羅鼓(らこ)を鳴らし、隊を組んで公園から街道に行進しようとしたが、警官隊数百がこれを遮り、解散を命じた。そのとき衝突が起こり、委員の齋藤一郎以下が拘引された。11月25日、茨城の壮士高安亀次郎等が主唱し、再び大会を上野の末廣亭で開催した。この時は事なく解散したが、会主の高安他数名が、集会条例違反で処刑された。この後、世の中は、政党剋殺時代となり、警察の力が増した。
 これより先、土佐七郡各町村の組合は、60余名の上京委員を選定し、片岡健吉、山本幸彦、坂本直寛が先発隊として10月15日に出発し、これに数十名が従った。林有造、竹内綱らはすでに東京にいて、星亨、中島信行らとともに各地の同志と連携した。10月29日、諸県の委員40余名が、京橋新肴町の開化亭で集会し、次の申し合わせを行った。

一 来る11月10日までに各地方から上書や建白を行うこと。
一 各地方の有志は前記の期限までに委員を選び、上京させること。
一 上京した委員は全国の有志と東京で懇親会を開くこと。

291 11月15日、有志大懇親会を鴎游館で開催した。400名、酒三行の後、末広重恭が挨拶した。彼は改進党員が招待に応じなかったことを遺憾とし、この会が社会の要求に基づいて開催されたと述べた。次いで伯爵後藤象二郎が次の演説を行った。

 「今日法律上の自由はともかく、天賦の五官の機能は依然として存在しないのだろうか。これを使用して努力することは明治20年の現在に対する我々の義務である。我がこの口舌を以て兵刃(へいじん)に換え、我がこの肉体を以て砲台に換えよ。」
(「めざまし新聞」明治20.11.17)

292 次に星亨が演説した。

 「有志家の中には建白請願や懇親会、その他時事のために奔走することを非難する人もいるが、それは俗論だ。商人は目前の利益のみを追及する。その点から考えれば、時事に奔走することは時間の無駄で、雑用であるから、その点を非難するのはもっともなことであるが、国事に熱心で政治家を自称する人がそう非難するのは怪しい。そういう人は種子をまかずに果実を得ようとするようなものだ。良心に問えば、必ず国に尽くすべきだと言うだろう。しかし良心に基づきながら運動を非難する人は、怪しい。それは普段立派な論談をしても、いざ実地となると閉口するのと同じだ。皆さんは良心に従って運動していただきたい。」
(「めざまし新聞」明治20.11.17)

293 これは改進党一派を批判したものだ。警部巡査数名が場内の四隅で厳しく臨監した。「参会者名。(省略)
299 右人員三府三十五県北海道合計348名だった。」
(「めざまし新聞」明治20.11.20)

 諸県の人民の総代は元老院に上り、議官宅を訪問し、内閣大臣に面会を求め、宮中顧問官に頻繁に会った。政府は建白書を受け取る専門の事務官を置いた。また議官の中には同情する者もいた。次に高知県人民から提出された建白書を掲げる。

 「三大事件建白書

 高知県人民1110人が連署してこの書を提出・建言する。現在日本では内乱亡国の兆しがある。このことは10余年以前から知っていて、それに対して努力してきた。政府に討議を求めたが、断られ、王室に哀訴嘆願しても、断られた。私たちは愛国の忠情、忠君の大義に燃え、恥を忍び、垢(あか)を含み、耐えてきたが、いよいよ情勢が切迫してきたので、死を以て論じないわけにいかない。
300 近時民力が疲弊して、産業が衰退し、言論が閉塞して、輿論が鬱結し、国権も萎靡した。政府が政弊を改めなければ、激しい士気は内乱をもたらし、亡国になるだろう。私どもは乱民になりたくはないが、亡国の民にもなりたくない。民権が伸長しなければ国権も発揚しない。政府が国内で民権を抑圧できても、対外的に国権を失うなら、黙って見ていられない。我々は慷慨悲憤に耐えない。血涙で紙を汚しながら、この鎬を草し、敢えて政弊を論じる。最も急用な論点に絞って以下に論じる。
 第一 政府には徴税を軽減してもらいたい。人民が政府の保護を受けるために、租税を納めるべきであることはよく知っているが、その出費が保護のためでないなら、納める責任はない。今の課税は過重で煩雑だ。総額も多すぎる。徴収税額に余りがないのか。冗費を淘汰し、官員を減らし、官員の給料を削り、人のために官職を設けたり、仕事のない者に給料を与えたりして、私党を固めるようなことをやめ、無用の土木を起こして、大臣各自の官邸を建築するような費用を省き、保護特典の制度を設けて、私恩を売って、歓心を買うようなことをやめ、舞踏会のような驕奢淫逸の風をやめて、簡約倹素にすれば、余剰が生まれるはずだ。
301 歳出で一番多いのが海陸の軍事費だが、これは敵国を攻め、外患を防ぐために十分だろうか。僅か数万の陸軍で3700余万の民衆を守ることはできない。数艘の艦隊で沿岸を防ぐことはできない。今の軍隊はただ内乱を鎮圧し専制政治を維持するためにあるに過ぎない。民心が離れていては外敵を防ぐことはできない。海軍費を義捐法で募っていたのでは不足だ。冗費を当てるべきだ。
 政府は人民を敵視している。だから常備軍で自らを守ろうとする。もし政府が軍制を改革して非常兵をつくり、人民に国土を守らせたら、費用は少なく、効果は大きくなるだろう。
 情実を採用すると財政は困難になる。従って収斂が急になり、徴収が頻繁になり、また民情を察しつつ国力を増大するような余裕がなくなる。
 租税の種類は多く、農業関連の税金は最も過酷だ。封建時代では、農民は奴隷のように国主の土地を借りて耕し、ただ地税を納めるだけで、兵役はなかった。
302 しかし維新となり、四民同権となり、農民に地券を与え、農民をそれぞれ地主にし、武士と同じく納税の義務を課したが、農業関連税だけを重くしてはいけない。先に地租改正があったとき、政府は条例で地価の100分の3を税額とし、物品税が200万円以上になったら、漸次地租を減らして100分の1にすると約束した。ところが物品税が200万円以上になり、ついに1000万円になっても、政府は約束を守らない。また農民が減税を請願すると、これを拒み、竹槍蓆旗の擾乱が各地に起こると、わずかに減らして100分の2.5にしただけだった。つまり、その土地に課せられる、その他の税額を合算すると100分の2.5にしても減税にならなかった。また地価を更訂することは、地券面の価格を変動する実際の地価に合わせ、地券面の価格と実際の価格とが乖離しないようにするためのものだったが、政府は地価更訂の時期を誤り、すでに二年が経過した。そのため実際の地価は額面の三分の一や四分の一にも下落した。だから税額は相対的に高くなった。
 農民は疲弊し、数村あるいは一郡を挙げて公売処分となり、農民は離散した。凶作の時は過酷さを増し、豊作の時には米価が下落して損をする。
303 農民が良い田んぼを荒らし、農業は衰えてきた。日本の産業は農業を主体としてきたから、農業が衰退すれば、商工も衰える。また商工にも重い課税が行われている。
 保護特典の制度は偏愛の私情であり、さらには制限する法をつくって、営業を妨害する。財貨を首都に集中して、地方は寂れ、監獄罪囚の繁殖するところとなっている。最近では所得税を新設し、その他取れそうな税も残らず新設した。政府は、国家の経済を誤った。外人雑居が近日中に行われるようだが、その時に備えて民間の財力を高めなければならない。今のように民間が疲弊すれば、外人の奴隷になるだろう。
304 従って収斂は良くない。それでは人民から恨みを買うことになる。官吏は人民の税金で食っているのだから、常に倹素を旨とすべきである。権勢の欲を逞しくするものは、肉体の欲を制すべきだ。もし一人でこれを両方とも兼ねれば、その恨みを招くだろう。西欧の立派な権力者は自制し、清貧に甘んじている。ビスマルクは専制的であるが、倹素を勉め、こう言ったという。「王者は貧民の首長なり、宜しく多数貧民をして王家の愛を感じるようにさせるべきだ。そしてその方法は唯一地租の制度をちゃんとすることだ。」と。日本の天皇が食事を減らしているのもこの意図からなのだろう。一方その臣僚が収斂を事とすれば、人民は恨んで、盗んだ方がいいという気持ちになるだろう。人民に納税の義務があれば、参政権もあるべきだ。参政権がなければ、納税の義務もないはずだ。米国の植民者が英国に背き、独立の檄を草し、万国に伝えたが、その中で、参政権がないから納税の義務はないと述べていた。納税の能力がない場合は、なおさら税金を納める義務はない。
 明治23年の新憲法に、新税を徴収するには国会の承認を必要とするという条文を入れても、それまでにあらゆる諸税を課し尽くしてしまっていたら意味がない。その条文は民権を重んずるように見えるが、実は自由を剥奪するものだ。政府が租税を軽減せず、ますますこれを過重にすれば、人民は納税を拒み、政府に参政権を求め、擾乱を醸す恐れがある。

 第二 我々は政府に言論集会の自由を要求する。言論集会の自由の必要性について今は論じない。ここでは言論集会の自由と今の時勢との関連について論じる。日本の国会論は、まずその精神が維新改革の時に始まった。慶応4年戊辰3月、五条の御誓文を発し、万機公論に決すべきの聖慮を表明した。次いで、明治8年4月14日、立憲政体の聖勅となり、漸次国家立憲の政体を建てるべきだとし、元老院を設け、大審院を置き、地方官を招集することになった。これは国会を開設するための準備であった。そして国会開設の大詔となり、国会開設の時日を定めた。この時在野の志士は、政党の団結は国会政治にとって不可欠だからとし奮闘した。ところが政府は新聞条例、出版条例を改定し、集会条例や諸請願規則を頒布し、言論著書の自由を牽制し、人民の国会願望の権利を束縛し、さらには府県会議員の連合交通を厳禁する令を出し、専制を長期化する準備をするように見えた。政府は未だに立憲の政治を施そうとする計画を立てているように見えない。いわゆる「漸次」は15年(16年)の長きになり、明治14年から数えても、10年の長きになる。有司は国会開設のための時間を与えられたのではなかったか。10年は長い。国会開設の大詔が下ってからすでに10年(7年)になる。
306 政府は計画を立てる責任を怠り、民間の志士の計画を妨げている。国会は輿論の勢いで構成されるところだ。輿論は人民の自由に基づくものだ。もし人民に言論集会の自由がなければ、輿論の勢力を高めることができない。従って国会の準備のためには、言論集会の自由がまず保証されなければならない。ところが政府はかえってますますこれを抑制し、公衆演説の会場で警吏が妄(みだ)りに凶器を使って聴衆を威嚇し、もしくは殺傷することまでしている。在野の志士は準備ができなくなり、密かに謀り、言論がすでに世を益することがないと知り、干戈に訴え、内治の改革と外交の汚辱をすすごうとし、それに失敗すると冤罪で獄に繋がれ、刑につく。これでは政府は忠良の人民を乱臣賊子に向かわせることになる。政府は、今頃になって新聞条例や集会条例を緩めれば、在野の志士が過激の言論に走り、政府を攻撃するだろうと考えているかもしれない。しかし、たとえそうだとしても何ら心配する必要はない。政府の官吏も堂々と壇上に立って、自由にその自説を弁論すればよい。そうすれば是非曲直がおのずと明らかになる。欧米では朝野を問わず、政党は持論を展開し、駁撃弁難を尽くし、文筆と言論で勝敗を決している。従って政治は良く活動し、腐敗することがない。しかし日本の政府は安逸をむさぼり、傲慢で、気ままで、恥じることもなく、民間の志士が政事を談じ、政府の方針に逆らうように聞こえれば、官吏を侮辱したと罪に問い、その説がおのれの説と違えば、国安を妨害したとして刑に陥れ、正論の道を塞ぎ、自説を自慢している。
307 周囲の人におだてられ、忠功の言は胸にしまい込み、虚美を手柄とし、禍が閉塞している。言論集会の自由を許さないまま国会を開設したら、志士は多年の鬱積を一時に発散し、激変を招く恐れがある。公然に集会を開き、新聞紙で候補者を示し、国会議員が会期の前後に集会することは不可欠だ。もしこれがなければ、どうやって議員を選挙し、議事を完結することができるのか。政府が国会開設まで言論集会の自由を認めず、国会開設後は、憲法に言論集会の自由が書いてあるとしつつ、それを弾圧すれば、人民の宿願は水の泡となり、国会は無用の長物になるだろうし、公議輿論の体面を汚すことになるだろうし、その方策は反乱をおこす原因となるだろう。世の論者は言うだろう。「政府の大臣は、威張り散らして人を従え、権勢を貪り、長くその地位に居座ろうとする魂胆だ。専制政治は大臣自身に安泰をもたらし、立憲の制度は自らの地位を危うくするから、彼らはもともと立憲政体が嫌いだ。しかし、彼らが立憲政体を欲しないと言えば、それは聖詔に悖り、輿論に逆らい、その結果我が身が危険にさらされることを恐れ、人民に向かって空言を吐露し、一日の安泰を盗もうとするが、それでは百年の計を忘れることになる」と。弁論をいくら飾ってみても無駄だ。

308 第三 我々は政府に外交の失策を挽回することを要求する。国家の利害、栄誉屈辱、安全危険にとって、外交は重大だ。幕府が初めて欧米諸邦と条約を結んだとき、国是を誤ったため、草莽の志士は慷慨悲憤し、尊王攘夷を唱え、幕府と敵対し、革命の乱を起こし、王政を中興した。確かに攘夷論は鎖国であり、恥ずべきことだが、国権を重んずる点は不変である。現政府の大臣は、幕府の外交の恥を改め、国権を回復すべきところだが、かえって恥を重ね、国権を失おうとしている。維新以来政府は、欧米諸邦に対して、また支那・朝鮮に対しても、外交政策を誤ったが、今はそれを論じない。近頃政府が条約改正を議論する過程で大いに国是を誤ったことを論じる。
 条約会議において決まった議定条款によれば、裁判所の配置がすでに備わっているのに、これを廃止し、外国人混交裁判所を設立し、各種裁判所の官員は皆外国人の方が多い。また英国の裁判官は自国で多額の俸給を受けており、遠隔の日本でこれを雇うなら、その俸給はさらに多くなるだろうし、その他の独、米、仏諸国の裁判官は、自国での俸給が英国人より低いが、日本で英国人より少なくすることはできないだろう。そしてこの俸給の総計は、改正海関税から生ずる収益総額よりも多くなるだろう。これまで海関税が低く、それが日本の産業を妨げていたが、条約によって海関税が高くなり、有利になっても、裁判官の給料を払えば収支はかえってマイナスだ。
309 外人は驕奢の風を好み、広大な裁判官庁を建築しようとするだろうし、政府は外人を歓待する傾向があるため、それを辞退することはできないだろう。日本の裁判官の給料は外人のそれよりも低く、また外人の裁判はまれだから、日本人裁判官の方が仕事量が多い。また通訳官の給料も裁判所の負担となる。
 私利においても損失だ。日本人が外国人に告訴された場合、外国人裁判官の審理を受けざるを得ないが、それは不利だ。また日本人が外国人と関係する事件では、外国人混交裁判所に告訴せざるを得ず、初審裁判所は、横浜、函館、新潟、神戸、京都、山口、長崎、名古屋の八か所だけで、控訴裁判所は、東京、大阪の二府だけで、最上等裁判所は東京にあるとすれば、遠くまで行かないと訴訟を起こすことができなくなる。
 従来外国の領事が日本で治外法権を行っていたことは恥だったが、日本のために害があったのは、外国人が被告の場合だけで、外国人が原告の場合は、日本人は日本の法律、日本の裁判官、日本の言語で審理されたので、害は大きくなかった。しかし、条約改正案によって害はひどくなった。
 もともと条約の改正は、治外法権を破り、海関税権を獲得するためであった。そのためには外人の内治雑居を許さなければならないが、それでは利害差し引きマイナスになってしまった。国家栄辱に関わる機関はどうあるべきか。
310 条約改正案では、日本の裁判所だと言えるか。裁判権は国家三大権の一つだ。維新以来多くの外人を雇ってきて、軍務、法律、教育の職に就かせたが、顧問や教師の称号を与えただけで、日本の臣民に対して直接官民の関係を持つような特権を与えなかった。外人に、裁判権だけでなく、すべての権利特権を日本人同様に与えたら、立法・行政の二権も彼らが掌握することになるだろう。これは万国公法に照らしているとしても、日本の国勢は欧米とは異なる。また外人は自分の利益にならなければ、万国公法を利用しない。そのような外人に日本の政権を与えれば、人民をその治下に隷属させることになる。帰化人はその国の資格を持つというのが万国公法の定款である。大帰化証を下付された外人は、国会議員に選挙され、行政幹部の長官、陸海軍部隊の司令官になれるとの条項も、条約が完全になるためには、掲げないわけにはいかないと言っても、それは屈辱だ。
311 かつて政府は法律編纂委員会を外務省に置き、これに立法の権を委ね、三条の約束を立てた。第一、西欧の原則に基づき五法典を制定する。第二、条約批准後二年以内にこの法典を頒布する。第三、この法典の実施は批准交換から16カ月以内に、その条文を英語で外国政府に通知するというものだ。
 ところがこの通知は告知ではなく、承諾を請うものであり、外国に法典の監査権を与えるものである。また今後法律を改正する場合も、外国の承認を求めなければならないというのだ。これは立法権を外人に渡すものだ。独立国家としての主権はないと言える。トルコでもこのことはやっていない。ただエジプトだけだ。我堂々たる日本帝国にしてエジプトの轍を倣う。恥これより大なるはない。
 西洋人は兵を用い、血を流さなくても、侵略がすでに行われていると言える。英国は外交の策に長じ、東洋攻略に早くから力を尽くし、偽りを抱き、術を使う。英国人の眼中にはアジア州の中に一つも独立の国はなく、ただ田園市場があるだけだ。英国は東洋諸国と条約を結ぶとき、ただ自国の商利だけを謀り、相手国の権利は毫も顧みない。その条約締結の担当は、外務官が主任ではなく、商務官が本職とのことだ。
 ドイツも近頃しきりに東洋攻略に意を用いているので、その詐術を知るべきだ。ところが日本の政府が謀り、信ずる国は、この英独二国である。日本政府は有利な条約が確定しない前から、この両国の全権大使に勲章を与えている。
 条約改正は国家の安危に関わる。宣戦講和のような外交政略と異なり、我々人民に秘密にしないで、早くから知らせるべきだ。輿論や公議が、条約締結のよりどころとならなければ、条約改正の功を奏することはできない。
312 政府がやっていることは輿論や公議と異なるから、政府はそれを秘密にしている。外務大臣だけが知っていて、早くから人民が知らないことはやむを得ないとしても、国家の各大臣もこれを知らず、たまたま外人(ボアソナード)の忠告でこれを知り、驚愕し、物議が沸いた。その後、条約談判を中止して、外務大臣を更迭したとしても、我々は安心できない。おそらく中止とは全廃ではないだろう。まだ調印批准しなくても、議決しておきながら全廃などということはあり得ない。外人は機会に乗じてまたやってくるかもしれない。国家の利害、栄辱、安危はここにあり。

 以上三点は急を要することだ。租税を軽減しないと民力が衰え食料が尽き、言論集会を自由にしないと、輿論がふさがり、人心は激し、外交の失策を挽回しないと、時期を失うだろう。これは内乱亡国の兆しだ。政府は天下の恨みを積み重ね、禍を蓄え、収斂は苛で、圧制が酷であったが、我々はこれを忍んできた。しかし、国が亡びるのは忍ぶことはできない。我々の愛国忠君の情は厚いからこそ、政府大臣の罪を責めないわけにいかない。大臣は禍を回避できるかもしれないが、人民や国土はどうなるのか。大臣が人民にその罪を謝罪し、内乱を防ぎ、亡国を救うための道は、この三大事を行うことだ。
313 政府は天下輿論に従って、民を安んじ、国を興すべきだ。それができないなら、職を辞せ。売国の臣が長く要路に当たり、国家を亡ぼすのを忍ぶことはできない。国家がいったん滅びれば、どんなに知者がいても、取り返しがつかない。どんなに勇者がいても勝てない。どんなに草莽義列の志士が奮闘しても、時期が悪く、敵の手に任してしまうばかりだ。生きて奴隷の民たらんよりは、死して自由の鬼たらん。我々は感憤激励の至りに堪えず。

 明治20年10月」
(国会図書館所蔵「三島通庸文書」所収コンニヤク版)

本稿の他に、宇田友猪家文書で「建白書議案」と題し、署名募集に使ったと思われるパンフレットがある。これは刊本や「三島通庸文書」所収のものとは大変違っている。巻末の注に全文が載せられている。(省略)私の感想は、これは本書よりも激しい印象を受けた。)

 各県の出京総代は、同胞姻親と決別し、郡町村民に見送られ、上書の目的を貫徹できなければ故郷に戻らないと誓った。一死を分とし、高談放言せず、経費を節約して長期滞在に備えた。政府が刑罰で応じるならば、それに従おう、報国の至誠に訴えて、後継者が奮起すればそれでよい、と考えていた。過激なことを避け、理義と情意を尽くし、正を踏んで斃れる他はなかった。

314 これより先、政府は建白運動が萌起するのに驚き、内務大臣山県有朋は9月29日、省令を発し、民衆を威嚇した。

 「意見を建言し、または各自の利害に関して請願する者は、明治13年第53条布告、および明治15年第58条布告を遵守すべきだが、最近建言を名目にして官吏に面会を求め、抗論喧擾する者がいる。どんな名義を用いるかに関わらず、その違反者はすべて、1882年、明治15年第58条布告によって処分すべし。」

 次いで総理大臣伊藤博文は、各地方長官を招集し、三項の訓示を行った。伊藤は、憲法、租税、外交に関する宣令を行い、施政に一つも瑕疵がないかのごとく弁明した。その大要は以下のとおりである。

 「第一 憲法発布の前、あるいは後に、敢えて憲法の親裁に異議する者があれば、断じて言論集会及び請願の自由の範囲の外に出るものとし、もしこれを名として暴動を謀り又は教唆する者があれば、治安を維持するために臨機必要な処分をすべし。
 第二 人民が租税と兵役の二大義務を果たすことを怠らしめず、人民に帝国忠愛の臣民たることを証明させ、また支費を正確にし、無用を省く事は政府の針路である。各員は人民を指導し、意を加えて休養の道を侵害しないように。
 第三 現行の治外法権の約款を改めて、新たに列国との間に平等の交際を結び、相互の便益を増進することは、我が国の内治法律の進歩完成による。これはやむを得ないことだ。外交のことで人民の公議に耳を傾けるべきだとする説があれば、それは立憲王国において断じて取らない。
(「東京日日新聞」明治20.10.6)

 これは人民の三大要求に関して、天皇の権威を利用して民意を威圧しようとするものであった。政府は地方長官ばかりでなく、各控訴院検事長や鎮台司令官も招集して、同様にこれを伝諭した。しかし喚き散らす民間の輿論は、これらの手段によっても消滅しなかった。
 元老院の議官尾崎三郎ら数名は、憲法草案を院議に付すべきとの建議を提出したが、多数が遮り、果たせなかった。また議官鳥尾小弥太が、同院の議権を拡張する提案を行った。

 11月8日、総理大臣伊藤博文は、陸軍大臣大山巌とともに、軍艦浪速に乗って、琉球、朝鮮近海に向かった。これは40日間に及び、年の暮れ、民間有志が東京に集まったが、伊藤は戻らなかった。
316 伊藤が不在の間、政府の中心は、山県内務の手にあり、山県は(上書)運動会の検束を始めた。山県は、11月10日、警察令を発して、屋外で集会または列伍(デモ)する者は、会主、幹事の選定、通行の線路等を届け出て、3日以前に認可を受けるべきとした。ついで、政府は、かつて政府が物色してその姿が得られなかった秘密出版の端緒を発覚し、11月28日、山川善太郎、荒川高俊、樽井藤吉などを捕らえ、ついで鈴木昌司、八木原繁社、加藤貞盟、井上平三郎、長塩亥太郎などを捕らえ、以後拘引される者が続いた。その投獄された人名は以下のとおりである。(省略)
317 投獄された者の累計は数十名の多きに達した。いくつかの秘密出版のグループがあった。荒川高俊、上野富左右らはグナイストの講義筆記を出版し、井上平三郎、長塩亥太郎らは檄文を散布し、その他のグループは、板垣の封事や、谷や勝の意見書、または憲法草案を刊行した。井上平三郎、倉茂範良、井上敬次郎、赤星龍雄、長塩亥太郎、北山作次郎、貞山至信の七名は、檄文散布のゆえに縛に就いた。これに連累した鈴木昌司、八木原繁社、加藤貞盟らは最初に放たれたが、井上等は数カ月間獄に繋がれた後、翌1888年、明治21年3月、公判に付せられ、井上平三郎、長塩、井上敬次郎の三人は、軽禁錮1年6月、罰金150円に、北山は同4月、罰金50円に、倉茂は同15日、罰金3円に処せられ、赤星、貞方の二人は無罪放免となった。秘密出版事件に座した人の中には、第一高等中学校生徒である宮本、竿代や、東京専門学校の生徒の野付、奥澤、今井、木原や、イギリス法律学校生徒などもいた。
 出京の総代は地位閲歴のある地方の名望家であり、影響力も大きかったため、近いうちに地租を軽減し、言論集会の自由を拡張し、外交失策のを回復すべきだと(元老院の)議官等に言わせることができた。
 後藤象二郎は都下で同志を鼓舞し、地方人士を屋敷に招き入れて議論・督励し、輿論に声援を与えた。12月2日、後藤象二郎は宮内省に来て、土方宮内大臣に拝謁を願い出たが、土方は拒んだ。後藤は封事を奉呈して退いた。この封事は中江篤介が後藤の旨を受けて草したものだった。
319 「後藤象二郎の封事

 先帝は、幕府が政を失い、内憂外患が起こったとき、我が国の危殆を憂慮し、威怒をふるい、中興の業を立てようとしたが、途中でなくなり給いしは、天下人民のあまねく痛悼惋歎(えんたん)するところなり。
 陛下は、先帝の遺志を継ぎ、敵愾の気を起こし、内憂外患を排除して、遂に維新の事業を成就した。当時私は中興諸臣の後について国事に奔走し、陛下の寵を被り、大政に参加したが、同僚と意見が合わず、内閣を退いた。今内政外交について考えると、痛嘆に堪えない。陛下に私の意見を述べようとしたことは今までに何回もあったが、遷延して今になった。
 今や外交の失敗は明らかである。傍観していられない。政府の内政外交は、その目的を誤り、海外の信用も失った。いちいち言わないが、条約改正会議についてだけ申し上げたい。これは日本の独立を妨害するほどの大事件なのに、内閣大臣は職を辞して罪を謝することもない。
320 条約改正にあたり、政府は全力で経営した。当初大臣等は、我が国の独立を維持し名誉を発揚するつもりだと陛下に言ったことだろう。しかしその結果は、外国の全権委員に要求され、立法・司法の二大権を外人の干渉に付してしまった。大臣らはこれを陛下に告げず、人民にも示さなかったが、会議の始末を知っていた外人がその失策を突然指摘したことから、異論が一二出てきて、政府は狼狽し、急遽交渉会議を中止した。条約改正は国家の安危に関わる重大問題だ。内閣大臣は辞職すべきだ。
 内閣の失敗は偶然のことではない。内閣大臣には定まった目的がなく、その政治を秘密にし、条約改正の担当能力がない。
321 彼らが失敗したのは当然だ。以前政府は朝鮮の事件に干渉し、清国と競争したが、小事変に遭遇すると、朝鮮を放棄して、その結果清国が専横跋扈することになり、日本は中国から軽蔑された。これは失策の一なり。 
 弱小国が強大国と応接する際のポイントは、特色がなければならないということだ。維新の初めのころの政略はこの点を考慮すべきだったが、実際は一二の強国に阿諛したために、かえってその国に軽蔑され、外交で困難に陥った。これが失策の二なり。
 内政の誤りはいくらでも指摘できる。言論集会の規律を過酷にし、憂国の志士が内政外交の得失を論じることを不可能にし、上書請願の条例を厳格にして、陛下の赤子が意見を九重に達することを不可能にしたことなどは、万機公論に決すべしのお誓いをに違背するものだ。
 財政に関しては黙っておれない。陛下が明治10年に、人民が休養するようにとの聖意により、地租を軽減したが、その後の民間生活は悲惨になった。内閣大臣は種々の口実を設けて、各種の租税を賦課し、そのため徴収税額が数年で2000万円になり、その結果、陛下の赤子は公売処分を余儀なくされ、流離困沌する者が、年に10万戸にもなった。海陸の軍備を増強するのはやむを得ないが、内閣大臣はこれを口実にして徴税した。ところが内閣大臣が不急の土木を起こしたために、国庫が底をつき、そのため年々租税を増やした。人民は怒った。
 また富豪に国防費を献納させた。賞金をかけて金を募ることは、幕府の弊政だったので、陛下はこれを維新の最初に禁止した。国家が非常のときの献金は、賛美すべきだが、旧幕府の御用金のような強迫でなくても、それは外人が文運半開だして軽蔑するものだ。欧州の文明諸国では戦時でもそんなことをやらない。ところが政府はこれを行ったのだ。
 また官宅で宴会を張るなど無用不急のことにお金を使って、軍備をおろそかにするようでは本末転倒だ。

323 以上内閣大臣が内外の政治で措置を誤ったのは、彼らが大臣の器でないからであり、陛下に忠でなく、国民に仁でないからだ。
 内外に信用のない大臣をその職に置くべきでない。日本も欧州の立憲国家に倣い、重要な内政外交に関して、各大臣は連帯責任を取るようになった。明治18年12月、三条太政大臣が奏議したとき、各部宰臣は等しくその責任を負うべきだと言った。その上に現内閣は成り立っている。ところが現内閣は、一人の大臣に責任を集中し、連帯責任を負っていない。連帯責任制は、三条の奏議によるものだった。談判の内容は内閣に示され、各大臣もそれを知っていたはずだ。
 ある省の雇人である外臣(ボアソナード)が忠告して、初めて我々はその専断の失策を知ったが、これは彼らが国の大事を度外視していたことを証明するものであり、大臣の放漫を示すものだ。他の大臣は各部を分掌するから外交に関しては直ちに責任はないとしても、中外の機務に当たり、全局の平衡を保持することを職掌とする総理大臣は、陛下に対し、国民に対し、外国に対し、条約会議での失策をまぬかれない。
324 欧州諸国では、内外の政で誤りを犯せば、国家の安危に関わらない段階であっても、内閣大臣が責任を取って共にその職を退くことが通例だと聞いている。そうしないと、交際している諸国の信頼を得ることができないし、人民の憤りも収まらないからだ。しかし、新たに内閣を置き、別の人物が外国との談判をするとしても、困難だろうが、少なくとも現内閣が継続して交渉に当たったら、失敗は目に見えている。人民は条約改正会議の内容を伝聞して、慷慨切歯しないわけにいかない。全国が一時に激動するかもしれない。彼らはその時には逃げるだろう。彼らは禄を貪る以外のことは知らないのだ。このままでは中興の大業は湮滅するだろう。
325 内閣の交代以外に解決策はない。
 現内閣大臣等は内閣の交代を、国家の秩序を改変する革命と同一視し、その言を誇大にしている。内閣の交代は危険ではない。国家の安危は内閣にあるのか、それとも国民にあるのか。陛下の信用できる一人の知識人を招き内閣を組織させれば、簡単に政治の面目を一新することができ、穏やかに内政を整頓できるだろう。
 陛下、私のこの進言を現内閣大臣に問いただすのではなく、在野の忠実な人士に尋ねられたい。それとも詔を下し、天下の忠言を求めたまえ。
326 最後に現内閣大臣は、私とともに維新の前後に活躍した人たちで、それを咎めるのは、私情では忍び難いものがある。今に及んでも陛下が現政権にやりたいようにさせることは優遇である。陛下には内閣の交代をやってもらいたい。」

 全国の壮士はこの月9日、鴎遊館で懇親会を開き、130余名が参加した。各地の総代の歴訪運動が盛んになると、そのうわさを聞いて上京する者が増える一方だった。官民の間は衝突点に達しつつあった。

第五章 保安条例

三大事件の建白運動が始まってから三ヶ月が経過した。総代等は内閣の各大臣、元老院議官、その他朝野の有力者を歴訪して、事情を説明したが、内閣の大臣は、逓信大臣の榎本武揚が会見に応じただけで、他はすべて面会を拒絶した。他方、元老院議官の鳥尾小弥太、尾崎三良、中島錫胤、本田親雄等が総代等の話を聞き、民意に左袒する傾向があった。特に尾崎三良は、ひそかに片岡に会見すると約束した。
 元老院の議決を促し、これによって内閣の進退を迫ることは、輿論を貫徹する上では当然のことだった。12月15日、二府十八県の総代90余名が相会し、建白事項を元老院の議題とし、その実行方法を立案し、これを天皇に上奏してもらうことを決定し、その建白書を元老院に提出するために、長谷川満壽弥、藤野政高、細野義昌、野崎栄太郎、島田邦二郎、福井孝治、落合貫一郎、柴孫次郎、齋藤自治夫、後藤善四郎、岡田健長、草刈親明、関農夫雄等が委員となって、登院しこれを提出した。
 一方島本仲道は、別に、鷲尾隆聚と謀り、東久世通禧を説いた。また、山本幸彦は林有造と謀り、上京する有志のために、本所西片町に大きな家を借りてこれを宿泊所として提供した。
328 内閣総理大臣伊藤博文は、大山陸軍大臣とともに、12月17日に帰京したが、これまでの海遊は海防のためだったのか、それとも三大事件の建白の進撃から逃げるためだったのか、その理由は分からない。伊藤は神戸について次のように語ったという。

 「大臣に面談せんのイヤ建白せんの何のと、有志者がやかましく騒ぎ立てるには、ほとんど拙者も困却せり。たといいかように民間の有志者が騒ぎ立つるも、これにて政府がどうするのこうするのということは決してなきはずなり。その騒ぎ立つるところのものは、十中八九無頼の書生か不平士族であり、その主張は、識見もなく、一時的かつ部分的で、真に国家を愛する精神から出たものではない。また一二の有識者が建白や請願をしに面会に来たとしても、政府はその見込みを放棄して、彼らの願いに応ずるわけにはいかない。」と。

 新聞がこれを報じると、有志は怒り心頭に発した。政府の戒厳も急になり、警視総監三島通庸は、内務大臣山県の邸に足しげく出入りするようになった。
329 建白総代等は、伊藤が帰京すると、有志議官に働きかけ、彼らを後援した。また、公卿の中に有志者を見つけた。そして最後に、内閣総理大臣を訪問すべく、その旨を議決し、星亨、大石正巳を先発とし、片岡健吉を殿(しんがり)とし、内閣に赴かせることになった。

 これより先、末広重恭は、総代等の集会で大言壮語し、秘密が漏れることも気にせず、片岡等はこれを嫌った。そのため公開の席では形式的な話だけにして、機密が漏れるのを避け、重要な計画は領袖の密議で決めた。

 90余名の総代等は、相会して委員の人選を行い、内閣に赴かせ、伊藤が面会を拒絶すれば、内閣の内に何日も座り込み、警察官が来て暴力的に引致すれば、それに任せ、軍隊が来て武器で掃蕩すれば、それに任せ、総理大臣に面会し、人民から委託された建白の趣旨を伝達できなければ、一歩たりともその場を退かないと決意した。星の決意は固く、委員を快諾したが、大石は躊躇して断った。翌日総代等は星の邸に集まり、片岡と星を選んで委員にした。二人は26日、ともに伊藤を内閣に訪問しようとした。
330 二人の決意は固く、一死を分とし、生還を期さなかった。片岡は郷里を出た時からすでに建白抗争の結果、獄に投ぜられたり、毒殺されたりしても、死に就く覚悟をしていた。

 民間は政府の拒絶的な態度を知っていた。壮士は激昂し、探偵があちこち行きかい、政府は驚き恐れ、「暴徒が火を放ち、道中で待ち伏せして大臣を殺害しようとしている」「どこそこに地雷が埋設してある」と言った。大臣は衙門の護衛を増やした。
 奇怪なる記念を以て明治の政史に印したる、明治20年12月26日は来たれり。この日の午後、政府は、官報号外を以て保安条例を迅下し、政客600人を都門から放逐した。保安条例の制定は、建白総代の二委員が総理大臣に面議せんとするその日その時間と同じくした。

 「保安条例

第一条 秘密の結社または集会は、これを禁ず。(すべて警察に届けろということだ。)犯すものは、二年以下の軽禁錮に処し、10円以上100円以下の罰金を付加する。その首魁または教唆者には二等を加える。
 内務大臣は前項の秘密結社又は集会条例第八条に記載する結社集会の連結通信を阻圧するために、必要なる予防処分をめぐらすことを得る。その処分や命令に違反する者の罰は、前項に同じ。
331 第二条 屋外の集会または群衆は、あらかじめ許可を経たると否とを問わず、警察官において必要と認めるときは、これを禁ずることを得る。その命令に違う者、首魁、教唆者及び情を知りて参会し、勢を助けたる者は、3月以上、3年以下の軽禁錮に処し、10円以上100円以下の罰金を付加する。付和随行したる者は、2円以上20円以下の罰金に処す。
 集会者に兵器を携帯せしめたる者、または各自に携帯したる者は、各本刑に二等を加える。
第三条 内乱を陰謀し、または教唆し、または治安を妨害するの目的を以て、文書または図書を印刷し、または
板刻したる者は、刑法又は出版条例により処分するのほか、なおその犯罪の用に供したる一切の器械を没収すべし。印刷者はその情を知らざるの故を以て、前項の処分を免れることを得ず。
第四条 皇居または行在所を隔たる三里以内の地に、住居又は寄宿する者にして、内乱を陰謀し、または教唆し、または治安を妨害するの恐れありと認めるときは、警視総監または地方長官は、内務大臣の認可を経て、期日または時間を限り退去を命じ、三年以内同一の距離内に出入・寄宿または住居を禁ずることを得る。
 退去の命を受けて期日または時間内に退去せざる者、または退去したるの後、更に禁を犯すものは、一年以上三年以下の軽禁錮に処し、なお五年以下の監視に付す。監視は本籍の地においてこれを執行する。
332 第五条 人心の動乱により、または内乱の予備又は陰謀をなす者あるにより、治安を妨害するの恐れある地方に対し、内閣は臨時必要ありと認める場合において、その一地方に限り、期限を定め、左の各項の全部または一部を命令することを得る。
一、公衆の集会は屋内屋外を問わず、および何らの名義を以てするにかかわらず、あらかじめ警察官の許可を経ざるものは、すべてこれを禁ずること。
二、新聞紙およびその他の印刷物は、あらかじめ警察官の検閲を経ずして発行するを禁ずること。
三、特別の理由により、官庁の許可を得たる者を除くほか、銃器、短銃、火薬、刀剣、仕込み杖の類、全て、携帯、運搬、販売を禁ずること。
四、旅人の出入りを検査し、旅券の制を設けること。
第六条 前条の命令に対する違反者は、一月以上二年以下の軽禁錮、または5円以上200円以下の罰金に処す。刑法又はその他特別の法律を併せ犯したるの場合においては、各、本法に照らし、重きに従い処断する。
第七条 本条例は発布の日より施行する。」
(「法令全書」明治20年)

 26日の夕方、剣と靴音を鳴らして警部巡査数名が、政客の家にやってきて、召喚状を示し、警察署に引致し、保安条例第四条により、24時間乃至3日間以内に、皇城を隔たる3里以外の地に退去するように命じ、かつ1年以上3年以下、皇城を隔たる3里以内の地に出入りすることを禁じた。この夜から28日までこの執行が続いた。人々はただ驚き見ているばかりで、何が行われているのか分からなかった。
333 新橋、上野、新宿、品川等の駅では、邏卒=警官と追い払われる人の姿を見るばかりだった。そして一旦退去の命令が下されると、巡査二人がその寓居に出張して起臥を共にし、これを3里の外に送り、直ちにその管轄地の警吏に伝え、その住居まで伴った。世人はこれをナポレオン三世のクーデターに比した。退去者名は以下のとおりである。(省略するが、多数に上る。高知県出身者が突出している。おなじみの人名を挙げると、尾崎行雄、星亨、山際七司、八木原繁社、島本仲道、片岡健吉、中江篤介、それに山崎卯子、高知県。これは女性か。)
338 土佐の有志総代片岡健吉等は、芝兼房町の金虎館にいた。警察署に召喚するにあたり、巡査憲兵が前後を警戒し、まるで軍虜を護送するかのようだった。片岡等はこれを拒んで次のように語った。
 「我々が一個人の資格で上京したのなら、命令に従わねばならないと言えるかもしれないが、実に数万人の総代となり、郷里を出発するにあたり、粗暴なことは行わず、建白の志望を貫徹すると固く同志に約束した。ところが、いま命令によって東京から退去すれば、それは同志の寄託に背き、我々が内乱を陰謀し、治安を妨害する企てをなしたと自ら認めることになる。このようなことになれば、故郷の同志に顔が向けられない。退去を命ずる証拠を示さなければ、命令に応じられない。」と。
 保安条例第五条第二項により、翌27日、片岡健吉、西山志澄、武市安哉、山本幸彦、細川義昌、坂本直寛、黒岩成存、今村弥太郎、坂本楠弥、前田岩吉、中内庄三郎、土居勝郎、楠目馬太郎、山本茂馬、溝渕幸馬の15人は軽禁錮3年に処せられた。
 総代等が警視庁の監倉に赴いた時は深夜で、寒風が吹き荒れていた。道中鹿鳴館(今の華族会館)のそばを通ると、門内には車馬が止められ、明かりが煌々と照らされ、音楽、舞踏の声が聞こえてきたとのことだ。
339 他の総代と同志は横浜に退き、これからの方針を話し合った。禁を破って東京に赴こうというもの、いったん引いて再挙を計るべきだというものなど、様々な意見が出されたが、まとまらず、個々に分散した。
 片岡、西山らが、刑に処せられたことを知ると、総代の長澤理定、安芸喜代香、横山又吉、門田智、黒岩一二らは「諸先輩がこのように処罰されたのだから、我々は郷里に帰っても朋友に顔を合わせられない。」とし、29日、保安条例廃止の建白を携え、東京から3里の川崎市駅を通過し、六郷橋を過ぎた。警吏が誰だと声をかけてきた。一行5人は言った。「我々は先に退去の命令を受けたが、この暴令に甘んじることはできない。今敢えて総理大臣に面会し、保安条例の廃止を請うために上京する。諸君は妨げないでくれ」と。警部は彼らを捕縛し、夜にもかかわらず警視庁に護送した。年末だったが、警吏は一人として休暇を取らず、明かりが煌々としていた。一行は保安条例廃止の建言書を提出した。

 伊藤総理大臣への建白書

 「某等百拝頓首謹みて、内閣総理大臣の閣下に啓す。(卑屈)政府は昨今忽然として保安条例なるものを頒布し、我々をして国安を妨害する者とみなし、天子から3里の外に放逐するという命令を下された。我々国民は苛税の重斂に苦しんでおり、農民の艱難を救いたいと思っている。国勢が振るわず、外人が凌侮するを憤り、条約改正の失誤を挽回したいと考えている。政府が人民に言論集会の自由を与え、明治23年に立憲政体を設置することを願う。このために干戈を以て政府に抗しようとするものではない。内乱を扇起して国安を妨害するつもりもない。しかし、法律の罪人になっても、亡国の民になりたくはない。古今専横暴虐の政府は、政治を議論する者にはこれに対抗し、有司を誹謗するものはこれを斬り、以て民の膏血を絞り、民の皮肉を喰い、金殿の上に談笑した。現政府のような過酷な政府は、我々は古今未だ嘗て聞いたことがない。我々は、新聞条例や集会条例が国家の誤った法律だと考えてきたが、保安条例はなおさらだ。
341 我々は警視庁に赴き、総監に謁を求め、その不法暴虐を論じようとしたが、何ら理解してもらえず、厳命の下に、官吏に護送され、いったん東京を退いたが、その後ますますこの条例の逆圧暴戻を感じた。この条例は国民を逆圧するだけでなく、わが日本帝国の千歳の汚辱であり、我が聖明聖徳を汚すものというべし。これが天皇から出たものだとしても、後世の万国輿論が聖徳を議論することがあるだろう。我々は好んで政府に抵抗し、法令に背くつもりはないが、国家が亡滅するのを黙視できない。むしろ不法の条例とともに亡び、それでやめようと思う。保安条例を廃止し、我々が先に建議したところを容れられたい。
(明治20年12月)
 内閣総理大臣伊藤博文殿
(国会図書館所蔵「三島通庸文書」所収写本)

342 5人は、その夜3時ころ、東京軽罪裁判所で、各々軽禁錮3年、監視3年に処せられ、片岡等と同じく石川島の監獄に繋がれた。
 
 保安条例実施の日、三島は、府下各警察署員を芝公園彌生社に招き、忘年会に託して酒食を饗し、午後3時急に総員を率いて登庁し、命令を下して実施に着手した。志士が暴発するのを恐れて、警察官に、もし腕力で抵抗する者がいたら斬って捨てよと内訓したという。巡査は非番休勤を問わず、ことごとく召集し、警部、憲兵等ともに全都の要部を警固し、軍用電線を縦横に架設し、陸軍省は宿直員を増加し、陸軍病院は医官を召集し、負傷救治の準備をし、憲兵本部は諸隊を分けて各所に配置し、東京始審裁判所予審局は夜を徹して事態に当たった。赤坂の仮皇居の四方には、近衛兵二大隊が屯列し、皇宮警察は警手に宮門を厳守させ、各大臣の官邸には護衛の巡査を倍増し、永田町付近は一丁ごとに正服、平服の巡査三四名をして巡邏させ、大蔵省には憲兵巡査の外、さらに二小隊の兵を派遣して警戒させ、小石川の砲兵工廠には一小隊を配し、その他陸海軍の火薬庫、兵器貯蔵庫など皆、暴徒に備え、一晩中、警官が身に着けた剣の音が聞こえ、官庁の光が煌々と輝きつづけ、さながら戦時のようだったとのことだ。
343 東京全体で、数日間このような状況が続き、晦日になったが、政府は万一の変に応ずるために、秘密訓令を発し、東京その他の師団に出陣の準備をさせたという。(関東大震災時の対応と酷似している。)

 外に向かっては柔で、内に向かっては硬なるは、十数年来の藩閥政府の特性であった。政府は高知県を三大事件建白の原動力と見なし、高知県出身の者は、運動に関すると否とにかかわらず、ことごとく放逐した。鰹節商、紙商、大工、左官、14歳の少年、官私各学校生徒、商船会社の支店支配人、監庫人、非職式部官までも対象となり、笑い話は在獄者にまで召喚状を出したという。そして馬丁(ばてい)、走卒までも対象となった。
344 ところが、先に後藤の教えを受け、その集会に何度も望んでいた大石正巳、末広重恭が対象から漏れていたため、二人が政府と通じているのではないかと見なされるまでに至った。中島信行は警察の召喚を受けたが、神奈川県下に住んでいたため、取り消されたとのことだ。林、竹内は西帰し、星は外遊しようと神奈川に退き、尾崎も欧米に赴いた。中江篤介は次の一書を末広重恭に送って大阪に去り、東雲(しののめ)新聞に入社した。

 「末広君、余は実に恥じ入りたり。この度私は一山四文の連中に入れられた。満二カ年間東京に居られない。自由平等の主義ますます尊ぶべきかな。明治政府の仁慈もまた至るかな。
篤介生」
(「朝野新聞」明治20.12.31)

345 他の有志は郷里に帰り、都下は静まり、一人として政府に抗言する者がいなくなった。後藤は腹心を失った。

 保安条例発布の三日後、政府は新聞、出版、版権等の諸条例を改正し、言論の検束を少し緩めたが、それは表面だけで、基本的に変わりはなく、新聞条例で機械没収の条件を減じたに過ぎなかった。政府は反動を恐れたのかもしれない。

 政府は明治21年になっても民間志士を追及し続け、秘密出版の罪跡を捜索していた。星亨は神奈川県に退き、この年、3月3日に米国に渡航しようとし、送別を受け、2月24日、相州横須賀の有志に招かれて、祖宴に望み、古谷正橘の宅に泊まった。翌25日の朝、捕吏が門に迫り、三浦警察署長加納某が巡査数名を率いて、東京軽罪裁判所予審判事の依頼と称し、寝所から星を拘引した。
 これより先、去年の8月下旬、世論が沸騰していた時、星はひそかに板垣の封事や谷、勝の意見書、および原規と題した憲法草案の官文書を印刷して、同志の間に散布しようとして、大阪の東雲新聞社主寺田寛(高知県)に謀り、寺田はこれをその社員前野茂久治(高知県)に頼み、数千部を印刷し、星は二千部を東京や北陸地方で分ち、石黒涵一郎(岡山県)も500部を岡山地方で配布した。
 星は去年の12月上旬、茨城の党友熊谷平三が秘密出版事件で捕まりそうになったのを、片野文助(茨城県)とともにこれを逃亡させた。探偵はこれを抑えることができなかった。
 それから半年がたって、事が発覚し、星が先ず捕らわれ、次いで寺田、石黒、片野等が皆捕らえられた。
 これについで、昨年の冬、上野富左右(栃木県)、荒川高俊(静岡県)等がグナイスト*の講義筆記を秘密出版し、密かに『西哲夢物語』と題して発売したとき、神奈川の壮士伊藤仁太郎も熊谷平三の委託を受けて、その数部を横浜地方で配布したために、星の獄に付随して東京軽罪裁判所に回送された。星は、未決監に4カ月収監された後、軽禁錮1年10カ月、罰金5円に、寺田は同1年2カ月、科料金20銭、(科料金は生児届を怠ったため)石黒は同1年、前野は同3カ月に、片野も同3カ月、罰金2円に、伊藤は罰金20円に処せられた。

*グナイスト1816-1895はドイツの法学者(国法学)で政治家。伊藤博文、伊藤巳代治ら日本憲法調査団にドイツ国法学を講義し、明治憲法にも影響を及ぼした。マックス・ヴェーバーもグナイストの教え子の一人である。

347 井上角五郎(広島県)は植民しようと米国に出かけ、今春その実行のために帰朝し、再び渡米しようとしたとき、官吏侮辱罪でこの年8月、重禁錮5カ月、罰金30円に処せられた。

 昨明治20年11月、三大事件建白運動が盛んだったころ、その影響は米国にも及んだ。サンフランシスコで自由主義を唱える日本人青年有志の、中野権六(佐賀)、廣田善郎(広島)、石坂公歴(神奈川)、菅原傳(宮城)、松岡達三郎(宮城)、中島半三郎(群馬)、中村政通(石川)、粕谷義三(埼玉)、海老原弥三(栃木)、山口熊野(和歌山)、片庭趙作(未詳)、池田政次郎(長野)、福田友作(栃木)、敷津林傑(東京)等25名が相会し、在米日本人愛国有志同盟会を組織し、その機関として『新日本』と題する新聞を発行し、本国政府の失態を攻撃し、当路者を恐れさせた。政府はしばしばその輸入を禁じたが、効果がなかった。その新聞は秘密に四方に伝播し、日米の同志は互いに気脈を通じ合った。ところが今春、山口熊野、石坂公歴、中島半三郎、池田政次郎、片庭趙作、廣田善郎らが米国から帰朝すると、たちまち官憲が問うことになり、明治22年1月、各々禁錮罰金の刑を受けた。

 政府は一時的に民間党を退治できたが、更に強烈な反発力を蓄積させ、不穏な空気がみなぎった。
348 2月1日、伊藤総理大臣は臨時外務大臣の職を降り、これを改進党の首領大隈重信に与え、内閣の一員に加えたが、その効果はなかった。敵として恐るべきでない者は、味方にしても役に立たないのだ。伊藤は唯一の支柱であった井上外務大臣を失って、長閥の権勢が凋落し、遂に、4月30日、伊藤は総理大臣の職を降り、それを農商務大臣の黒田清隆に譲った。長閥内閣はここに崩壊し、薩閥内閣がこれに代わった。伊藤は去る際に、枢密院を起こして、それを至高顧問の府とし、自身はその議長になった。ずるがしこい奴だ。

第十編 形勢換局

第一章 大同団結

349 他党と合流する大同団結の運動が起こり、人々はこの運動に引き寄せられたが、大阪の解党精神を保持していた旧自由党員はこれを抑えることができなかった。
 大同団結は、明治19年10月、浅草井生村楼での全国有志大懇談会に始まり、明治20年5月、大阪中之島の自由亭での有志懇談会、明治20年10月、後藤象二郎の三縁亭での招宴へとつながった。
350 欧化政策反対から三大事件運動へと、大同団結が盛んになったが、これは一時的な連衡であり、保守党、中立党などがあり、ばらばらな運動で、一つにならなかった。
 保安条例が出たために、活動家は地下に隠れて、軍団を結成したが、その時後藤象二郎が頭角を現した。
 1888年、明治21年、東北7州の有志が、大同の趣旨に基づいて、福島の松葉館で懇親会を開いた。後藤は、瀧本誠一、紫四郎、菅了法、安岡雄吉等を従えてこれに参加した。参加者数300余名。後藤は短い演説をした。福島県庁は全管区の巡査を非常招集し、警官数十名に会場内で監視させた。また保安条例による退去者には、前もって違法行為をしないように訓告したという。
 次の数項を議決した。

一 明治22年の当番は山形県とし、米沢で開会する。
一 各県に二三の通信委員を設置する。
(「福島新聞」明治21.4.24)

351 後藤は大同団結に専念し、6月1日、機関誌『政論』を発行した。大石正巳、菅了法、安岡雄吉、甲藤大器らが執筆を担当し、政府を攻撃した。
 また後藤は同志を糾合する目的で、各地に遊説した。7月5日、大石正巳らを従えて信州小諸に赴き、200余名の会員が集まる懇親会場である光岳寺で大歓迎を受けた。後藤は聴衆に語った。「今は内外危急の時である。国民の政治思想を振起しなければならない。そのためにはまず地方人民が結合ししなければならない」と。7月6日、上田の月窓寺での懇親会に臨み、7月7日、長野県城山館で、「内外危急、存亡に迫れるとき、大同団結が必要だ。幕末の時、将軍と侯伯の二者が断絶していたため、革命の業が遅れた。今、その弊害の二の舞を演じてはならない。二者が一致して、一国の元気を発揮し、真正の結合を謀るべきだ。」と説くと、聴衆は喝采した。7月8日、越後の八木原繁社、関谷貞太郎に迎えられて、高田に入った。250名が参加する高陽館で、後藤は団結の必要性を強調し、「自由改進等の小異に拘泥してはいけない。今日私は自分の主義を表明しない。地方の団結を勧告する。」と述べた。
352 会衆は保守、改進、自由の別なく渾然一隊となった。越後改進党の室孝次郎もこの集会に参加していた。
 7月10日、柏崎に向かい、7月11日、長岡に入り、7月12日、新潟に入ると、鈴木昌司、山際七司、松村文次郎が出迎えた。堀田楼での集会には、400余名が集まった。後藤は、危急存亡や対外形勢を論じ、「亜細亜は土地が広く人口も多いが、初め欧州人に削られたと思ったら、今度は奪われている。僅かに独立国の面目を保っているのは、日本と支那だけで、その他は有形無形に亡滅した。ロシアはシベリア鉄道を延長しており、すでに天山北路を経過し、ウラジオストクには直に到達するだろう。南方では米国がパナマ地峡を開鑿し、その竣工が迫っている。竣工すれば、欧州から日本まで27日で直航できるようになるとのことだ。そうすれば欧州のアジアに対する影響力は増すだろう。」と後藤は大声で、地方人士の憂国心を煽った。
 7月16日、新発田に入り、7月18日、水原に入り、19日、中条に入り、20日、山形県に入り、23日、米沢を経て、山形に達した。新潟の有志八木原等も一行に加わり、瀧本誠一が東京から駆けつけ、出羽新聞主筆の坂崎斌や山形県有志の委員小磯忠之輔も一行に加わった。24日、後藤は亀松閣での懇親会に臨み、次の演説を行った。
353 「後藤象二郎の演説
 総代の県会議長佐藤氏の祝辞の中で、私が明治7年に辞職したことを褒めてもらったが、それには当たらない。私が国家のために尽力したい点は変わらない。今回の漫遊もそのためだ。私は将来の運動について述べ、賛成をいただきたい。その概要を述べる。
 今は危急存亡の秋だ。内治、外交について論じる。国家の体面を保つ所以は、不羈独立の権利を持つことだ。日本が治外法権を撤廃しなければ、独立とは言えない。徳川の末から今日までの数十年間、民衆は治外法権に慣れ、対等でないことをに疑問を持たない。
 彼の要求に従わなければならないとか、己の自由にできないなど、他人の束縛を甘受するなら、その人は一人前とは言えない。
354 国家間の外交についても同様だ。それでは独立を失い、他の奴隷になる恐れがあり、完全な国家と言えるだろうか。
 ロシアはシベリア鉄道を延伸しており、四五年の内に日本海の対岸のウラジオストックに到達するだろう。そうなればロシア艦隊は一昼夜で酒田港に軍隊を送ることができるだろう。またパナマ運河が数年中に完成すれば、欧州大陸から日本に27日で直航できるようになり、そうなれば日本と欧州との関係は繁雑危険になるだろう。欧州大陸の形勢に関して、二三の学者が、19世紀の文運を誤信し、侵略主義の絶滅を予言しているが、実際は弱肉強食で、互いに百万の常備兵を擁して相睥睨(へいげい)し、今惨憺たる戦気が欧州大陸を覆っているではないか。欧州諸国の権力均衡政策の余勢が東洋に及び、日増しにその勢いが高まっている。インドが先ず亡び、近日安南、ビルマも相次いで呑み込まれ、アジアでは日本と支那だけが不完全ながら独立を保っているが、その危急存亡は危機に瀕している。
 一国の独立権を回復維持するためには、その国民の権利を伸長しなければならない。ところが日本国民の権利、すなわち一個人の権利は、日本が対外的に独立していないのと同様に、言論、集会の自由が束縛され、わずかに息をしているだけだ。
355 ところが国民はその不自由に慣れている。天賦の能力として、痛ければ痛いと言い、かゆければかゆいと言うことができる口がある。起居坐作のためには、自分の意のごとく運動するための体と手足がある。施政上の痛痒の感覚があっても、これに関して十分に発言することができないとか、十分に集会運動することができないとかすれば、それは一個人の権利を失っていることになる。ところが我が帝国の人民は、かの治外法権に慣れ、怪しまないのと同様に、この権利を放棄するならば、その行き着く先はどうなるのだろうか。
 人民は租税の徴収に堪えられない。政府が徴収する正租の総額は7000万円で、これは人民が負担できる金額ではない。明治18年には租税を払えず、公売処分を受け、身代限りをなす者が多く、一年ごとに、流離する者が平均40万人におよんでいる。統計年鑑によれば、15年に13万戸、16年に11万戸(が公売処分を受け)、一戸4人、(公売処分)10万戸として、40万人が流離していることになる。
 一国の独立のために必要な軍隊のためにこのような窮状があるならこれも我慢できるが、外交政略で濫費し、外人の歓心を買うために舞踏会を開き、その宴会に、雇用する外国人の給料を支払い、しかも条約改正には失敗している。
356 また日本の官庁の定額金(=予算)は、他国に比べて多すぎる。フランス大蔵省の定額(=予算)は400万円、日本の大蔵省の定額は1200万円。フランスの租税高(GDPのことか)は日本の20倍だが、徴収費(予算額のことか)は以上のように少額だ。日本の官吏は、7000万円の正租を何に使用しているのか。フランスでは郵便電信などの通信費が高くなりそうだが、フランス逓信省の定額は4万円にすぎない。一方日本の逓信省の定額は20万円だ。
 人民は租税を官宅のために消費しているのか、舞踏会のために消費しているのかを知らない。御年貢は納めるべきものと観念していた維新前の農夫と同様に、7000万円の正租の費途を人民は知らない。日本の人民は穀物を作って子孫に残すための貯蓄もなく、来年の税金をどうやって払ったらよいのかと憂慮するだけだ。人民は政府の奴隷だ。大地主も小作人も政府の奴隷だ。なぜならば、人民は膏血つまり租税の費途を政府に質問する権利を持たないからだ。

感想 フランスの租税収入(GDPのことか)は日本の20倍なのに、予算額は日本の方が多いとのことだが、舞踏会費はさることながら、後進国日本はインフラの整備に国家予算を大規模に費やさねばならなかったとも考えられ、それも予算額が多額になった要因の一つかもしれない。

 日本はあと数年で他国の属国になるかもしれない。国事に奔走して来られた地方有志の諸君は、以上私が述べた日本の現状を知っているかもしれないが、社会一般の人民は、欧州人民の気風と異なり、従順である。これは建国二千年来の習慣である。藤原氏が政権を執り、帝室が山城に都を遷し、文弱に流れ、武家すなわち士族の祖先は、社会の上流に位するようになり、政権を壟断し、その政事と国防が、武家専門の職務となった。徳川家の時代になると、封建武断の弊害が極度に達し、武家の権威が増長して、同等の人類に切捨御免の特例が行われ、また人民に少し余裕があると見ると、御用金を召し上げ、甚だしい場合には、浪華の豪商淀屋は、白無垢を着たために驕奢と見なされ、財産を没収された。当時人民は民草と称して、草同様に軽んじられる慣習があった。しかし、明治政府がその習慣をことごとく破った。これは人民にとっては自ら進んでその権利を回復すべき千歳の一遇であった。維新の革命は当初尊攘であったが、様々な経験を通して、結局、全国の人民が一致して外国に当たらなければ、独立を維持できないことが分かった。徳川内府が(慶喜か)祖宗以来二百有余年の政権を奉還したのも、一国の人民が協力して事に当たらなければ、外交上困難で危険であると悟ったからだ。尊攘の議論で各藩が功名を争っていた感情が一変して、維新の革命を成就したのだ。我日本三千万の同胞が一致協力してこれに当たるというのは維新の精神であり、私はこの精神を徳川内府に説き、内府がそれを容れて、大政返上となり、明治初年、この精神に基づいて、私は一二の人とともに、政体と号する職制を定めた。例えば、官吏の職は米国に倣い、四年交代かつ入札とした。御誓文五か条もこの精神である。その後の版籍返上から四民平等の大改革も、この精神を実地に履行したものだ。穢多を平民と同一の地位にしたのもその実例だ。しかし当時の人民には、自ら進んでその権利を取るという奮発心がなく、再び40万の士族のために妨害されて、今日に至るまで治者被治者の間に溝がある。それは私の遺憾とするところだ。
358 さてここで世界に目を向けると、日本は条約改正の談判で諸外国の信頼を失い、シベリア鉄道は東進し、パナマ地峡の開鑿は進んでいる。そして欧州各国間の競争は、アジアでの戦争を惹起しようとしている。日本人民が口を閉ざし、手足を縛られていては、外国の奴隷になってしまうだろう。それでは国都の廃墟に慟哭するポーランド人の轍を踏むことになるだろう。今こそ我同胞は争って立ち上がるべき時だ。維新の時に取るべき機会を失った人民の権利を、20年後の今日に回復すべきだ。一国の興廃は、その人民の精神如何による。
359 今日の人民には、国家のために自ら立ち、自ら進んで内治外交の大難に当たる覚悟がないようだ。一旦外国の支配下に入れられれば、国に殉ずるなどと言ってみたところで、一人では何もできない。だから一人一人の精神を集合しなければならない。そのための道筋は、各地方の有志の団結である。明治23年に運動するための準備を今しておかなければならない。
 無形の団結から有形の団結にするにはどうしたらいいのか。それは小異を捨てて大同団結することだ。私は山形県下の有志者が団結することを希望する。自ら進んで内治外交の大難に当たる覚悟を持つことを希望する。その団結の中から明治23年の国会に出る議員の候補者を選挙するのだ。その国会議員は、国家に対する義務から、また選挙区に対する義務から、そして帝国民の総代理者としての資格から、政府に対してその大臣の非を正し、国民権を伸長し、責任内閣を組織する覚悟を持たなければならない。
 その国会議員を選挙する人民が今いたずらに過ごしていたら、明治23年に一体どんな議員を出すだろうか。議員を出すためには、各地方に人民の政治団結がなければならない。今その準備をすべきである。その準備のために地方の団結が必要だ。
360 地方の団結は東京の団結と合同し、主義目的で大差なければ、各地方の団結を連合して、日本帝国の一大団結を作り、こうして国民権を伸長できるだろう。
 議員が政府の大臣や反対党と争うとき、その背後に有力な団結がないと、勢力に欠ける。欧米には地方の団結がある。全国規模で団結すれば、危急存亡を乗り切ることができるだろう。この精神をもつ国民が外国に当たれば、独立不羈の国権を維持できないはずがない。
 地方の諸君の中には、私に主義を明らかにせよという人がいるし、地方新聞の中には、主義を明確にしなければ、団結することはできないと言うものがある。これまで自由、改進の旗幟があったが、その旗幟だけでは党の内容は分からない。自由党は粗暴で、改進党は温和だという世人の評価は、その党の実際の行動に基づく評価であり、旗幟に基づく評価ではない。欧州でも自由、改進、保守などの党名があるが、それは自らがつけたものではなく、世人がつけたものだ。
361 フランスの国会議員には四つの党派があるが、自らがその党名を付したのではない。議会での着席場所によって、左党、極左党などと呼ぶ。共和国だから皆自由主義であり、王党派だけ名実が一致する。
 私の主義の概略を述べれば、日本国民の地位を高め、自らすすんで内治外交に当たる覚悟を持ち、責任内閣すなわち議員政治を以て日本の存亡を救うことだ。また、租税をなるべく節約し、少なくとも現在の三分の一もしくは半分にし、国会議場に上る議員は責任内閣を主張し、不当の予算案を拒絶し、我が国二千年来の不羈独立の国権を回復し、もし独立の国権を欠けば、一死を以てこれを維持する覚悟であるというものだ。そして以上の目的は、私が機関とする政論で詳しく知られたい。
 地方団結が成り、相会同すれば、議院の制限(の撤廃)や民力に見合った節約案などを、諸君と共に議決できるだろう。団結委員である諸君らと意見が合えば、共に運動し、合わなければ分かれるだけのことだ。今日の私の話は概要に過ぎない。
362 従来の政党は先覚者であり、いまだ幼稚であったが、それは今日の衰退の一因であった。昼夜間断なく運動すべきでない。前日の政党員は生産の事業を放棄し、日々政談と議論ばかりしていて、一旦動き出したら止まらず、落ち着かず、秩序を乱す挙動にも出たのだろう。
 各地方の団結に適当な人物がいれば、公選して首領を置くことができる。適当な人物がいなければ、6カ月や1年間の定期の委員を置くこともできる。そしてその首領や委員に準備の事務を委託し、運動する必要が起こった時、首領もしくは委員がその旨を同志に公告し、選挙期に、団結の指名により、国会議員候補を投票することができる。
 人間の能力には限界がある。必死になって昼夜運動して休まないなどでは、長続きしない。従来の日本の政党員は、運動の規定と義務の点で窮屈だった。首領や委員の他は、各自の本業をやめて昼夜運動をする必要はない。各地方の範囲内で団結することは許されるべきであり、その事情を、大団結の問題と混同してはならない。そのような団結は薄弱で、勢力が出ないだろう。諸君は他の地方の団結と共に、国家の重大事項に関与し、さらに全国の大団結を構成し、大団結から選出される国会議員は、その団結の勢力によって、責任内閣、つまり議員政治の目的を遂げる覚悟を持つべきだ。区々の事情のために目下の急務を忘れてはならない。内閣を組織する人物が、地方団結の首領から出て来る場合もあるだろう。(『東北漫遊 大同団結』)

363 7月26日、後藤は山形から新荘に、横手に、六郷に、29日、秋田に入った。秋田の委員沼田宇源太、菅原健治が一行に加わり、8月2日、弘前に達し、長勝寺での懇親会に臨んだ。参会者600余人。後藤の壮烈痛切な演説の一端を次に示す。

「日本人民は今や重税に耐えず、貧困の域に陥り、生活を保つことができない。人民にはこれを回復する権利がなく、言論の自由の権利もなくい。明治15年、税金未納ために公売処分を受けたものは13万戸、16年から昨年までは、年々平均10万戸であった。1戸4人として、年々40万人が生を寄せるところがない。昨年の政府の調査によると、餓死者数は1300人の多きに及んだが、この調査には病死者が含まれていない。
364 国民の負担する正租は7000万円であり、これに地方税を加えると、1憶8000万円となる。これは我が国の国民の富に相応していない。昨年外交を名として、舞踏や演劇を行い、諸外国の外交官の機嫌を取ろうとする鹿鳴館の夜会が盛んだったが、その結果は、これほど尽くしても、その甲斐がなく、法権回復の功が見られなかった。」(『東北漫遊 大同団結』)

 後藤は青森、七戸、八戸を経て、8月10日、岩手県盛岡に入り、翌日杜陵館での懇親会に臨んだ。警官が後藤の執事に、演説に関して謹んで条例に触れないようにと戒告した。おそらく弘前での演説の内容が激烈だったため、政府が内訓を下したのだろう。ここから仙台へ、福島に、若松に、郡山に、古河に、31回の演説を終えて8月22日、東京に帰った。
 後藤は9月中旬、埼玉、群馬、神奈川、千葉に大同団結の必要を説いて遊説した。

 政府は法権の力を頼み、また黒田内閣は、野党の一角大隈を取り込み、さらに条約改正で失敗し宮中顧問官に転落していた井上馨を7月25日、農商務大臣に任用して長閥と握手し、元勲網羅策を始めた。

 井上は失敗を挽回しようと焦っていたため、一党を組織して大同団結に当たり、東海から九州に巡遊して、大農論、人民自治の説を鼓吹した。また部下の野村靖(逓信次官)、青木周蔵(外務次官)、澁澤栄一、益田克徳、古澤滋、小松原英太郎、高梨哲四郎、大岡育造らに自治制研究会を創立させ、10月5日、ドイツ人で、内閣雇のモツセや大学雇講師のラートゲンらに自治制の原理を講義させた。世人はこれを自治党と呼んだ。その唱えるところは大農制であり、貴族主義であったために、参加者は、閥族の下で雇われる薄志弱行の官吏や、富農寵商の徒であった。この自治党はしばらくして自滅した。

 10月14日、全国の有志は大同団結の下に大阪新生楼で大懇親会を開いた。参会者数385名。栗原亮一、横田虎彦らが発起人総代となり、次の数件を議決した。

第一条 来る明治23年3月を期し、大同団結を謀るために、東京または横浜で全国有志大懇親会を開く。
第二条 来春の大会には、各地方の便宜に任せ、なるべくまとまりのある結合体に出会させる。
第三条 今回の懇親会に出席した有志者は、帰県して各地方で糾合体を拡充し、または創設する努力をする。
366 第四条 今回の懇親会に出席していない県には、近県有志者から以上の趣旨を通知し、実施する。

 この会は大阪の有志、栗原、横田、菊池等が斡旋し、三府三十二県の同志を糾合し、長い間孤立していた九州と連絡を取ることができた。来会者の人名は以下のとおりである。(省略)

372 翌10月15日、九州の有志の前田案山子、多田作兵衛等が、大阪と気脈を通じた連合運動をすべく、菊池侃二(かんじ)等と会談し、菊池を交渉委員にし、九州に派遣した。
 大阪の大会に続いて茨城県で有志大会があり、東北15州の委員も10月26日、新潟に集まり、大同団結の計画を定めた。
 10月28日から29日にかけて、九州の同志40余人の委員が肥後山麓で集会を持ち、山田武甫が委員会の決定条項を報道した。

第一 大同団結のために委員を出す。
第二 大同団結の綱目、方法、および委員の人選は大会で決定する。
第三 大阪府下の有志と協議すべき事項は大会で議定する。
第四 大会は22年1月上旬熊本で開会する。

 福岡の多田作兵衛が全国漫遊の見聞や後藤・板垣に関する談話を報道し、秋田の大久保鐵作は、大同団結に関する東北地方の意見や大同団結の必要性とその解釈を述べ、大阪北浜倶楽部から派遣された菊池侃二は、大阪の政治状況と府下有志が九州との連合運動を望む理由を述べた。参会者は以下のとおりである。(省略)

374 九州での大同団結に至るまでの歴史 明治14年8月、時の元老院議官安場保和が熊本に帰り、政府党を作ろうとし、実学派の山田武甫、嘉悦氏房、宮川房之と、学校派の佐々木友房、古荘嘉門と、この二派以外の有馬源内、松山守善、宗像政等に謀り、熊本における各党の軋轢を一掃し、政党を組織しようとした。実学、学校の二派はこれに賛同したが、民権主義の一派が賛成しなかったため、実学・学校の二派が合体して、紫溟会を組織したが、たちまち会は趣意書に関して紛糾し、実学派の嘉悦や山田は、固陋な帝政党の主権者に合流するのを拒否・退会・分離し、立憲自由党を作り、熊本では再び三党が鼎立し、立憲自由党、紫溟会と民権説を奉ずる相愛社の三派に分裂した。相愛社と立憲自由党は小異はあるが大綱の主義に違いがなかったので、公議政党を作った。これが九州改進党の起源である。公議政党は九州を大同団結しようとし、委員を福岡に派遣してた。福岡では玄洋社と他に一派があり、その主義は大差がなかった。そしてこの熊本、福岡の有志が主唱して、遊説員を九州各地に派遣し、15年4月、熊本水前寺での大会で、九州改進党ができた。その綱領は簡単だったが、それは大団結のためであった。一旦政府の弾圧で解党の議決をしたが、精神的結合は続いた。そしていま大同団結の気運が盛り上がった。(複雑)

 大同団結の勢いは関東から東北、北陸、関西、九州に及んだ。政府は不安に駆られ、11月7日、治安妨害を理由として、大同団結の号令機関である『政論』の第11号を禁売にし、『政論』そのものを発行停止にし、12日、発行人の大澤惣藏(群馬)、編輯人の西野友由(高知)、印刷人の諸橋浅三郎(新潟)の三人を拘引し、14日、記者の大石正巳(高知)、安岡雄吉(高知)、菅了法(島根)、甲藤大器(高知)、西直資(高知)も拘引し、三か月後の翌明治22年2月8日、東京軽罪裁判所は、西野、大澤、諸橋を、軽禁錮8月、罰金50円に、菅、大石、安岡、甲藤、西の5名を、軽禁錮1年6月、罰金百円に処した。『政論』第11号の『政治家の責任』が忌諱に触れたためで、偏狭な政府はこれを朝憲紊乱とみなした。その文の大意は以下の通りである。

「我が国現時の政府は、藩閥情実を以て構成され、国会開設後も簡単には他へ政権を譲らないだろうから、在野の政治家は、明治23年後のことを考慮に入れ、政府に、藩閥内閣の弊害を破壊させ、政党内閣制度を行わせるための準備をしなければならない。在野の政治家自らが直接政府に訴えるのではなく、民衆と団結して、正理に悖り、公平に背く主治者の命令に対応しなければならない。… フランスではチャールス10世の時、民間の政治家ラファエット氏を推して団結し、租税の徴収に応じないと約束し合い、すべての政令に服従せず、政治を行えないようにした。今のアイルランドのパーネル氏も、同様な手法で英政府と争っている。… 一致糾合して施政者を拘制し、我々に服従させる他に手段はない。」
(雑誌「政論」第12号、明治22.3.4)

376 この種の議論はヨーロッパの立憲国では課税拒絶の権利を説明する一般的なものであり、特別なものではない。茅影(ぼうえい)を見て幽鬼に驚く閥族内閣であるがために、日常的な文章でも直ちに爆裂弾を頭上に投撃されたかの感を受け、16、7年以来使われていなかった筆者連座の法が、奇怪にも憲法発布の目前で再び野党桎梏の具となった。大石等は法廷で尋問を受けると、等しく「専制政府の爪牙(そうが)たる法官に向かって敢えて陳弁するの用なし」と口を閉じて一語も言わず、甘んじてその刑に服した。
377 大石らは公判決定後幾日もならずして、憲法発布の大典に会い、大赦令によって放たれたが、在獄三カ月、一時後藤は仲間を失っていた。
 後藤は仲間が投獄され、娘(第三女梢子、若山鉉吉に嫁せり)を病気で失っていたが、東海、北陸への遊説を計画し、12月7日、綾井武夫、國友重章等を従え、四日市に向かった。栗原亮一等が大阪から帰ってきて後藤を迎えた。後藤は、津、桑名から名古屋に入り、再び桑名に帰り、熱田に行き、岐阜、大垣から敦賀に達し、武生、福井、山代、大聖寺、松住、金沢、七尾、高岡、富山等を経て、直江津から信州に入り、上田、浅間、松本、諏訪を経て、甲府に入り、沼津、静岡、掛川、浜松、田原、豊橋、岡崎を席巻し、明治22年1月25日、東京に帰った。

 陸軍中将の鳥尾小弥太は、保守党中正派と称する一団を結成し、欽定憲法、二局議院、民力休養等を政策として掲げ、『保守新論』という機関誌を発刊して、政府と大同団結との中間に位置した。

 政府内では、内務大臣山県有朋が欧州に出遊し、警視総監三島通庸が病死し、先に内閣総理大臣を辞し、新たに枢密院を設け、自らがその議長となっていた伊藤博文は、国会開設の目前に、(民意への)対応のために、これより先に勅命を奉じて、伊東巳代治、井上毅、金子堅太等の属僚と共に、憲法草案の編制に当たり、枢密院の討議にかけた。
 伊藤らは相模の夏島の別荘で憲法を合議・起草した。井上が憲法を起草し、金子は議院法を起草したという。伊藤は、井上を腐儒と罵り、伊東を三百代言と嘲ったという。これを明治20年の夏から冬にかけて秘密裡に行い、枢密院の議論にかけた。
 枢密院での議論があった時、天皇が臨席し、伊藤博文が議長をし、憲法草案の説明と議事の監督をした。伊藤が編制した憲法草案には人民の権利が少なく、帝国議会の発議権がなく、議院は単なる諮問機関でしかなかった。枢密顧問官の寺島宗則はこれを不可とし、これでは国民が激怒して、どんな擾乱が起こるか分からないと説き、遂に議会に発議権を与える条項を加えた。また議院に弾劾権がないことに寺島小弥太が憤慨し、専制国の支那ですら御史の設つまり弾劾権があると唱え、遂にその条章も補い、議会に弾劾上奏の権利を付与したとのことだ。発議権や弾劾権のない議会は傀儡に過ぎず、国民の代議機関とは言えない。藩閥政府の迷夢は、憲法発布、国会開設の際に至っても、全く覚めるところがなかった。

第二章 憲法発布
379 帝国憲法は1889年、明治22年2月11日に発布された。この日は、神武建国2549年の紀元節にあたり、憲法発布の記念式典が行われた。憲法発布は明治元年以来の方針だった。それは天地神祇、列聖の遺範を継ぐものであり、人民の願いでもある。君の仁と民の忠はともに融合し、和やかな雰囲気の中で憲法を発布したが、これは有史以来どこにもなかったことだ。これは陛下の聖力のおかげだ。陛下と人民との間に、藩閥が邪魔して、人民と藩閥とが抗争したが、人民は天皇とは対立しなかった。
380 政治形態が立憲君治の世となった。

 明治6年に天皇の住んでいた城が火事で焼失し、天皇は赤坂の仮皇宮に移り、17年後の今春1月に皇城が完成し、それを宮城と称し、11日に遷御した。
 憲法発布の儀式は新しい宮城の正殿で行われた。正殿は古代模様の合天井で覆い、四方に玻璃(はり)製四基の燈台を建て、とばりでめぐらし、紫の天幕をたらし、そこに玉座を作った。
 玉座の右斜めにちょっと低く皇后の台を設け、親王は玉座の左に列し、右大臣、宮内大臣は玉座の左右に侍した。参列議員は北に面して直立し、内閣国務大臣が第一列に、親任官侯爵勲一等がこれに次ぎ、勅任官、府県知事、麝香間祇候(しこう)、侯爵及び伯子男総代各一名がこれに次ぎ、外国使臣は玉座右方の紐線(ちゅうせん)外に列し、その他の文武高等官、外国人、新聞記者等は回廊に参列した。
 この日の早朝雪が降った。午前八時、宮内官が開門し、奏楽を奏し、神饌幣物を供した。九時、百官臣僚が並んで賢所の門内に進み、親任、勅任の諸官は左に、文武奏任官は中央に着席した。30分後、内大臣、宮内大臣、侍従長、式部長官以下と、親王、各国務大臣、枢密院議長が、天皇に付き従ってやって来た。
381 天皇は古代服を着ていた。一同が最敬礼した。天皇は御簾の中に入り、玉串を奉じ、憲法発布の告文を読み上げた。

「私は皇祖皇宗の神霊に告げる。私は神の計画に従い、神の天皇位を承継し、皇祖皇宗の遺訓を明らかにし、憲法典を成立させ、それを子孫に従わせ、臣民に翼賛させ、八洲人民の生活を増進する。(おせっかい)ここに皇室典範と憲法を制定する。これは皇祖皇宗が後裔に残した統治の計画であり、皇祖皇宗や亡父の威霊によるものだ。私は現在および将来の臣民に率先してこの憲章を履行して、誤らないことを誓う。」
(「東京日日新聞」明治22.2.12)

 鈴の音が簾内に十数回響いた。天皇は皇霊殿に玉串と告文をささげ、神殿へのお辞儀を終え、中に入られた。その間、親王以下は、これまで着席していたが、起立して敬礼した。一同は拝礼し、奏楽が奏でる中を幣物、神饌を片付け、扉を閉め、退出した。
 午前十時、参列していた百官群臣が、大礼服を着て、式場に入った。十時三十分、君が代の楽を奏する中を、天皇が大元帥の軍服を着て、正殿に移った。舎人、式武官、侍従長がその後につき、勅任侍従が剣璽をささげ、内大臣が憲法を入れた箱を捧げ、侍従が御璽(はんこ)を捧げ、宮内大臣、近衛将官等とともに、玉座の左右に並んだ。皇后が錦地で洋風の礼服を着て、親王妃を従えて来て、座った。諸員が起立して敬礼した。右大臣三条実美が憲法発布の詔勅を奉呈し、天皇が詔を言った。

「私は、租宗から受けた大権によって、現在と将来の臣民に向かってこの不磨の大典を宣布する。
 租宗は、臣民の祖先の協力によって帝国を始め、永遠を願った。このことは、租宗の威徳であり、また、臣民が忠実・勇武に国を愛し公に従ったことの結果である、光輝ある国史を残した。私は、今の臣民が、租宗の忠良な臣民の子孫であることを回想し、臣民が私の意を受け止め、私のなすことに従い、ともに協力して、帝国の光栄を宣揚するという希望を私と共有するだろうことを疑わない。」
(「東京日日新聞」明治22.2.12)

 次いで枢密院議長の伊藤博文が憲法を奉呈し、内閣総理大臣の黒田清隆が天皇の前に進み、天皇がその憲法を黒田に授けた。その時楽隊が君が代を演奏し、外では101発の祝砲が鳴った。天皇と皇后が、諸員が敬礼する中を入室し、一同も退散した。荘厳にして光輝ある憲法発布の式はこのようにして終了した。
 この日、伊勢の神廟、畝傍山皇祖の陵、後月輪先帝の陵に、勅使を派遣して、報告し、靖国神社、岩倉贈太政大臣、島津前左大臣、大久保贈右大臣、毛利贈従一位(敬親)、山内贈従一位(豊信)、鍋島贈従二位(直正)、木戸贈正二位(孝允)の墓へも勅使を派遣して報告した。さらに、西郷隆盛の賊名を除いて、正三位を贈り、藤田誠之進、吉田寅次郎に正四位を贈り、全国80歳以上の老男女に金を賜い、大赦令を発して、天皇、皇后に対する犯罪、朝憲紊乱の罪、内乱陰謀の罪、外国に対して戦端を開こうとした罪、兇徒嘯聚(しょうしゅう)罪、陸海軍刑法、保安条例、集会条例、爆発物取締規則、新聞条例、出版条例の犯罪など、国事上の意思から出た者を大赦した。
383 人民は数日前から祝賀の準備をしていた。町を飾り、軒に提灯を連ね、アーチを作り、山車を出した。
 午後から雪が晴れ、午後一時、天皇、皇后は、宮城の正門から青山観兵式に馬車で向かい、文武百官が付き従った。道の左右に各省の官吏、府会議員、官私大小学校の教員生徒、庶民数万が大小の旗を振り、万歳を叫んだ。青山で天皇は近衛と第一師団の兵隊と海軍の水兵の運動を見て、午後3時50分に帰った。
 夜の7時、宮中で、親王、親王妃、大勲位、親任官、各国公使、公爵、勲一等、勅任官、麝香間祇候(しこう)、公爵、府県知事、控訴院長、検事長、及び伯子男爵総代各一名、枢密院書記官2名、内閣宮内省委員、宮内省顧問、外国人とその夫人など、270余名が宴会に招かれ、10時に散会したが、続いて、正殿で舞楽を奏し、憲法発布の式場にいた諸員にそれを見せた。それが終わってから立食の宴を開き、12時に散会した。
384 翌12日、東京府民の請願により、両陛下は午後1時半、宮門を出発し、京橋、日本橋、神田、下谷を経て、上野公園に行くと、東京府民の代表者である府会議員の一同が博覧会場前で、また華族一同が音楽学校前で整列し、天皇を迎えた。天皇は華族会館で立ち止まり、位と爵のある華族と面会した。三条内府が次の祝詞を述べた。

「私ども家臣は天皇の訪問をかたじけないと思い、天皇に近くでお目にかかれた感激の意を述べる光栄を得た。天皇は、憲法で臣民の権利を保護し、天皇自ら率先してこれを遵守し、公議を推進する方針を示した。私どもは爵を賜い、華紳に列せられ、私を捨てて公に従い、国家を守る立場を引き受けた。天皇はまた貴族院を設け、立憲の要素を取り入れ、臣下の協議に任せた。私どもは天皇の恩を感じる。皇祚の万歳を祝し奉る。
 明治22年2月12日
華族会館長従一位大勲位公爵三条実美誠惶頓首」
(「東京日日新聞」明治22.2.13)
 日暮れに天皇は戻った。東京府民は天皇を間近に見て喜んだ。
385 全国各地で祝賀会が開かれた。横浜の外国商法会議所員も祝賀表を外務大臣に奉呈した。12日、黒田総理大臣は鹿鳴館に各地方長官を呼び施政方針を演説した。その中に次の文章があった。

「憲法は臣民の一言を容認するものではないが、施政上の意見は人々によってその意見が異なるから、意見を同じくする者が集まって団結し、政党を作ることは、情勢の免れない所だ。しかし、政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、公正の立場に立たなければならない。各員は不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭よろしきを得て、国家隆盛の治を助けることに勉めるべきだ。」
(「東京日々新聞」明治22.2.16)

 これは後日黒田内閣が超然内閣と言われ、憲法の解釈を緩める原因となった。13日、松方内務大臣も府県知事を召集して地方行政に関する演説をし、伊藤枢密院議長もこれに列席して憲法の講釈をした。15日、伊藤議長はさらに府県会議長を官邸に招き、16日、山田司法大臣が各裁判所長を招き、ともに憲法上の説話を行った。
386 大赦令によって、明治15年以来、自由党員で憲政創立のために活躍し、政府に罰せられた者が皆赦免された。福島事件、飯田事件、朝鮮改革陰謀事件、保安条例違犯、新聞条例違犯、秘密出版事件に関する人々が解放された。また後に、常時犯とされた群馬事件、加波山事件、埼玉事件、名古屋事件、静岡事件、大臣暗殺陰謀事件の該当者も、太后大喪や太子の成婚等の機会に漸次特赦、減刑、復権の恩に浴した。以下その該当者名。(省略、すでに処刑されていたり、獄死していた者もいた。)

389 政戦10余年、その間幾多の死者を出した後に、憲法の確立に至った。憲法は欽定憲法である。その起草者は民間党が抗敵した藩閥の有司だった。それでは民間の志士には全く功がなかったのか。そんなことはない。「功成らばそれを王に帰し、成らなければ、一人座すだけだ」というのは国士の平生の心構えだ。これまでの専制の威は熾烈であったにもかかわらず、民間の志士は率先して身を挺して自由を唱え、民権を鳴らし、維新五条の天皇の誓いを奨励し、8年、14年の大詔に遵拠し、公議を張り、輿論を振るうなど、立憲政体の創造に尽くさず、憲法ができるのをただ待っていたのでは、積弊を払い、平和を今日にもたらすことができただろうか。憲法制定の方式が、国が約束した通りにならず、ただ有司の手でなったことは、惜しむべきことだが、平和裡に発布されたことは、わが国民性の誇りである。一方欧州諸国では皆血を流し、君権と民権とが抗争し、結局民権が君権を制約して、両者間の契約が強制的に成立した。しかし日本では建国以来二千有余年間に、君民が軋轢を起こしたことがなかった。(ウソ、民衆が我慢していただけだ。)そして君の仁と民の忠とが相寄り添って、万国万世に卓絶した国体を形成した。ただ中間に私族があり、それが、憲法が制定されない前には、往々にして名を君権に借り、君側に潜んで、君民間の協和を疎隔した。藤原氏、源平、足利、徳川がその例だ。維新中興は、覇権政治を破り、王政を回復し、百姓統一の端を開いたが、成典の憲法によって大本を固定することができず、ただ五事の神誓と、立憲の国是を表明したに過ぎなかった。愛国の士が奮起して憲政樹立の義を唱えたが、一二の勲藩が要路を独占し、政権を世襲し、維新改革の目的を中断させようとしたので、これに猛然と反対し、専制の組織を打壊しようとした。また自由党は民権の伸長だけでなく、皇室権力の安泰のためにも政府と戦った。つまり、皇室の仁慈、人民の忠愛は依然として変わらないが、その中間にあり、独善的な政治をする藩閥政府を日本国民は恨んだ。
391 藩閥政府は自らの権力を維持するために、名を君権に借り、皇室と政府との間を不用意に区別しなかった。彼らが専制武断の政治によって、責任を朝廷に擦り付けようとしたことは、明らかな事実であった。しかし国民の忠愛はこれに乗ぜず、天皇は憲法を制定し、立憲政体が確立した。これまで死を以て闘ってきた者も、すっかり過去のことを忘れ、和気藹々としていた。(本当か)これは二千五百年来継続して来たわが国民の美質であり、日本国民が藩閥は恨むが、皇室は恨まない証拠だ。
 日本の憲政は、西欧諸国と異なり、皇室と人民との契合によるものであり、中間に介在する独善的な閥族に憲法を制定させたとはいえ、それは在野党の志士が、身命を刑罰になげうって促成した功であるともいえる。彼らの流した血は、憲政の根を培い、憲政の基礎となり、時勢を推進した。紛争は国民と閥族との紛争であり、閥族が遂に屈して、国民は自己の力で、憲法を勝ち取ったのだ。(思い上がりではないか。)在野党は憲政の樹立を得て、その志がほぼ成った。百戦から凱旋した兵士のようにこれを歓喜し、国民が敵国を征伐した勝利を祝うように、陛下の広い運を褒め称えない者はいない。
392 愛国公党から愛国社に、そして国会期成同盟、自由党、無形の団結へと、閥族政府と悪戦苦闘した。今や換局に際して、破壊手段から建設手段に変え、立憲的動作をふるい、憲政の発展進歩を促すべき時期になった。

2019年12月7日(土)

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