2021年2月21日日曜日

戦争と弾圧 纐纈厚 新日本出版社 2020 要旨・感想

戦争と弾圧 纐纈厚 新日本出版社 2020

 

 

感想 2021221()

 

戦前の特高関係者は戦後の公職追放に際して、解職・再雇用の手法で追放を逃れ、急遽新設した公安警察に再雇用され、戦前の反共的・国粋主義的性格を温存した。杉田和博が内閣に雇われているのも、日本会議が幅を利かせているのも不思議ではない。

 また、戦前最強・最大の内務省の関係者は、戦後、厚生省(厚労省)、自治庁(総務省)、建設省(国交省)などに分散され、陸海軍関係者も、朝鮮戦争時の警察予備隊幹部としてその勢力を維持した。

 そして、多くの(54人)警察関係者は戦後、自民党国会議員となり、保守的・国家主義的な政策を実現した。「建国記念の日」制定もその一つである。

 

感想 2021221()

 

本を読みながら涙することがしばしばあるが、本書を読んでいてもまた泣いてしまった。伊藤千代子は、拷問のため衰弱し、不衛生な獄中で発熱や皮膚病や頸部リンパ腺炎で苦しみながらも、自分のことより他の同志のことを気遣っていたが、拷問で精神に異常を来たし、急性肺炎が直接の死因となって1928年9月24日に生涯を閉じた。僅か23年と2か月の人生だった。

千代子は長野県で2年間代用教員を務め、給料を貯めて東京女子大学に進学し、社会主義思想に触れた。諏訪高等女学校時代の恩師土屋文明は、彼女の死に接し以下の詩を捧げた。それは千代子が眠る曹洞宗龍雲寺(長野県諏訪市湖南4797)の顕彰碑(1977年建立)に刻まれている。

 

土屋文明が伊藤千代子の死に際して詠んだ歌

 

まをとめのただ素直にて行きにしを

囚へられ獄に死にき五年がほどに

こころざしつつたふれし少女よ

新しき光のなかにおきておもはむ

高き世をただめざす少女等ここに見れば

伊藤千代子がことぞかなしき

 

弾圧による拷問死者数が何と514人(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部、また荻野富士夫は1697人)もいるとは知らなかった。また上層部を中心とする特高の半数が戦後の公職追放を逃れ、公安警察としてそのまま引き継がれていること、内務省関係者が、戦後は自治庁(後の自治省)、建設省、厚生省などに分散されたこと、特高を含め警察官僚で戦後政治家になった人が54人もいることなど、知りませんでした。

本書の主人公纐纈彌三も戦後政治家になり、建国記念の日制定運動の中心人物であった。彼は日本書紀を日本の歴史の正史ととらえ、神武天皇は実在していると信じて疑わない、3・15、4・16事件当時の警視庁特高課長であった。

 

感想 2021124()

 

戦後の公職追放で、戦前の特高や軍人のうち、下位者は路頭に迷ったらしいが、上位者たちは首尾よくすり抜け、特高は公安と名前を変えて組織を温存した。上位者でも、纐纈の場合、引き続き内務官僚にはなれなかったようだが、多くの者が政治家になり、保守的で反動的な法律を制定するのに成功した。例えば、教育二法は戦前の特高だった者*が制定に携わり317、纐纈の場合は建国記念の日を成立させた。このように民主派は戦後すぐの時代からすでに負けていた。民主派は弱かった。弾圧もあった。民主的な時代の雰囲気を受けて、民主派は多少は強気になれたころもあったようだが、実際は保守派が現実の政治を動かしていたとみるべきだろう。*吉田茂内閣時代の文部次官田中義男

 戦前、治安維持法に基いた検束・拘留による拷問やリンチで亡くなった人は小林多喜二くらいかなと思っていたら、何と500人もいたという事実を突きつけられ、当時の特高関係者の異常な精神、サディスト的偏向を再認識した。纐纈が戦後の答弁・討論の中で、「民衆の思想的傾向を鑑みながら治安にあたっていた」という、上から目線の態度にそのことを感じ取ることができる。(後述)そのような拷問が平気でできた背景には、おそらく、右翼的な天皇制思想による合理化があったと想像できる。

 

 筆者の推論は納得できるのだが、やや結論を急ぎ過ぎる嫌いがあるのではないかと感じた。生意気なことを言うようだが、もっと多くの事実を突きつけながら思考を深めても良かったのではないかなどと考える。しかし、筆者は博識だ。頭が下がる。自らの浅学を恥じるばかりだ。

 

纐纈は戦後の討論の中で、自分が「民衆を善導する」立場にあるかのような言を吐き、お高く留まっていたようだ。その纐纈の自信の根底に、筆者は天皇制・国体があるという。

弥三は1958年2月28日に開催された第28回国会衆議院内閣委員会の答弁の中で、旧内務省官僚としての矜持を披瀝し、強面で威嚇的とも受け取れるような答弁をしている。316

 

「(共産党を弾圧した特高課長時代の)昭和2年(1927年)から4年(1929年)のころ、私も筋金は通しておりますが、国の時世の進歩また国民の動向というようなものは十分に察知しつつ、自分の行動をとっていこうと考えておるわけでございまして…」

 

また纐纈は、歴史は科学ではない、人文科学は科学でないという。328主観の問題だというのだろう。それなら人それぞれが自分の価値観を一番だと信じ込み、相互理解は不可能になるのではないか。

 

経済的にまた思想的に自立した民衆が、民主主義体制にせよ、プロレタリア独裁体制にせよ、その体制の成否・在り方を変える。民衆が成長していないと、政治は腐敗するのではないか。為政者をチェックできる民衆の知力・発言力がその社会の「健全な」動向を左右するのではないか。

 

戦前・戦後を通じて、日本社会では、公安警察・公安調査庁が民主主義勢力を監視し、取締り、戦前からの保守勢力の守護神・ガードマンの役割を果たしてきている。残念ながら。

 

特高の上層部は戦争直後の公職追放の際、休職を装って従来の地位に就いていなかったとつくろい、従来の地位を温存するという知能犯的な犯行を行い、公職追放を免れた。234

 

 

メモ

 

はじめに

 

005 本書の主人公は纐纈弥(彌)三(こうけつやぞう、1893.12.19—1978.3.15)という。弥三は、1928年の共産党弾圧事件、3・15事件と、1929年の4・16事件の陣頭指揮を取った。

006 特高の歴史を述べる。朝鮮併合が強行された1910年、警視庁警視総監官房高等課から、特別高等課(特高係と検閲係)が分離されたことが特高の始りである。また大阪府では1911年、大阪府警察部長直属の高等課別室が設置され、それが1912年、特別高等課に昇格した。

007 そして1928年の3・15事件を契機に、特高組織が全国に張り巡らされた。

満州事変の翌年の1932年6月、警視庁の特別高等課は特別高等警察部に昇格し、それが敗戦まで続いた。

 

 特高は戦争遂行・植民地支配に支障になる組織を監視・検挙・弾圧した。その大義名分が国体思想であった。軍隊が侵略戦争の直接的担い手であるとすれば、特高は侵略戦争の内側の間接的担い手である。そしてその背後に、財閥、右翼、宗教界などの戦争支持勢力がいた。(国民全体も戦争を支えたのではなかったのか。)

 

 1927年から1928年までの三次に渡る山東出兵の時期と3・15、4・16が重なる。1928年5月3日、日本軍は済南事件を引き起こし、同月9・10日、済南の中国人民衆と兵士、3600人から6000人が死亡した。中国側の被害者の多くは、無差別砲撃と市内掃討作戦による虐殺の結果である。

また山東出兵は満州事変のさきがけとなった。

 

009 特高課員は最盛期に750人いたと言われる。特高課員は知事に統制される県警本部長の指揮下に置かれたが、実際は、内務省警保局保安課長の直轄下に置かれた。

 戦後、GHQの人権指令「内務大臣、警保局長、警視総監、特高警察官を罷免すること」によって、5000名の内務官僚、特高関係者が職を解かれ、その一部は公職追放となったが、特高警察組織の存続と再生を求めた政府関係者と旧内務官僚たちは、1946年8月1日、特高組織が解体される前に、内務省警保局内に、「社会不安の除去や秩序維持」を名目にして「公安課」を設置した

 

 現在、公安課は、公安一課(警備警察の運営に関する調査、企画及び指導等)、公安二課(警衛、警護など)、公安三課(警備情報の収集、整理など)に分けられている。

 

010 1945年9月、内務省に調査部が設置され、1946年8月、それが調査局に格上げされた。これが後の公安調査庁である。

 

 1947年、内務省は解体され、自治庁(後の自治省)、建設省、厚生省などに分岐した。

 現在警視庁は公安部を設置し、道府県の警察本部には、公安警察として警備部に公安課を設置している。

 このうち、総勢1100名の警察庁公安部の公安課は、五課で構成された。地方でも、神奈川県警の警備部は、公安一課から三課までと、外事課、警備課、危機管理対策課の計6課で構成されていた。

 

 現在においても、特高警察を基底に据えた公安部門は、日本共産党を含めた民主団体を、国家にとって危険な組織と見なして監視し、そのノウハウは戦前の特高組織の歴史と経験を活かしている。

 

011 軍人勅諭には「義は山岳よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」とある。天皇への忠義が絶対であり、臣民の命は鳥の羽よりも軽いとされ、天皇のために死を強制された。

 天皇制を堅持するために言論の自由を規制し、天皇制支配体制=国体を永続化するために、様々な治安立法が制定された。

 1925年4月22日に制定された治安維持法を盾に、特高は苛烈な弾圧を繰り返した。

 同法は「国体を変革しまたは私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りて之に加入したる者は、十年以下の懲役又は禁錮に処す」(第一条)とされ、国体の変革を志向する者の排除が法的に明確化された。

 

012 同法は1928年の3・15事件後に厳罰化され、「国体を変革することを目的として結社を組織したる者又は、結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者は、死刑又は無期若しくは7年以上の懲役に処し…」(1941年改正第一条)とし、これまでの条文数7条から65条に膨らみ、さらに厳罰化され、結社に到らなくても集団を禁止し、検事権限による被疑者の召喚・勾留や、刑期終了者への無期限の拘禁を認め、朝鮮では予防拘禁が行われた。

 

013 私纐纈厚は、纐纈弥三と親戚ではなく、同郷である。岐阜県の東側を東濃031というが、纐纈弥三はその東濃の岐阜県恵那郡蛭川村の出身であり、私はその隣村の加茂郡の出身である。私の祖父は村会議員で、纐纈弥三は1955年ころから1965年ころまで、衆議院議員の選挙応援を私の祖父に依頼に来た。祖父は弥三と帯同して挨拶回りをした。

014 日本共産党党史資料室に「纐纈弥三文書」があり、その中に弥三の6年分の日記、手書き原稿がある。

015 戦前の内務省は最大の官僚組織を擁していた。

弥三は戦前の内務官僚から文部官僚に転身し、戦後は国政に参画した。

016 弥三は反共主義と国体思想を戦後に持ち込み、紀元節復活の主張を国政の場で繰り返し、建国記念の日制定に導いた。

 戦前の権力者の多くは戦後の保守政党の所属となり、その公認を得て国政に参画した。

 弥三の言動は、安倍晋三の言う「戦後レジームからの脱却」に通低する。それは戦前レジームへの回帰だ。

017 そうした政治家が日本の保守主義や国家主義の体現者となり、平和憲法の形骸化を図ろうとしてきた。

 

纐纈弥三は一高を出たが、東大ではなく、京大の法学部に進学した。大学卒業後内務省に入り、入ったその年に、高文試験(高等文官試験行政科試験048)というスピード出世が保証された試験に合格した。

北海道庁勤務や兵庫県外事課長を経て、警視庁の特別高等警察(特高)課長兼外事課長となり、3・15事件を指揮する。その後、各地の警察部長を勤めてから、地方行政のトップである大分県知事となる。その後文部省の社会教育局長になるが、そこで官僚生活を終えて敗戦まで会社経営をする。

敗戦後は公職追放され、神職につく。

018 追放解除後、保守系議員として国体思想に基き、紀元節復活に全力を傾け、「建国記念日」制定に至る。

019 戦前の3・15事件など日本共産党弾圧事件は、戦後、紀元節復活による国体思想の再生に結果した。

 戦前期の日本共産党弾圧は、反国体思想排除を目指したものであり、戦後期の紀元節復活を目的とする「建国記念の日」制定も、国体思想の普及を意図したものではないか。

 

 その制定に日本社会党や日本共産党は反対した。

020 中曽根康弘や後藤田正晴は旧内務省官僚だった。

 

 旧内務省出身の官僚や政治家たちは現在でも大霞会という親睦団体を通して人脈を形成している。

022 『大霞会』(たいかかい) 明治百年叢書 第296 原書房 1980

 

 

Ⅰ 出生地と自分史を語る 国体思想の淵源

 

第一章 岐阜県蛭川村と父秋三郎

 

026 弥三の父親は蛭川村長を務めたことのある纐纈秋三郎1873--1939といい、弥三は長男である。

028 纐纈秋三郎を回想する『纐纈翁回想録』を蛭川村役場が編纂発行した。

030 村社は旧制度の社格で、郷社の下、無格社の上に位置するが、可児郡中村にある纐纈神社は、1879年に村社になり、祭神は纐纈縫之助という。

 

031 岐阜県は北部に飛騨地方、南部に美濃地方があり、その美濃地方は、東濃、中濃、西濃、場合によっては北濃(奥美濃)に分けられる。弥三の故郷は東濃で、現在の多治見市、土岐(とき)市、瑞浪(みずなみ)市、恵那市、中津川市からなる。私の故郷は中濃である。

032 弥三の郷里蛭川村は、現在では中津川市蛭川地区である。蛭川村には砒素やタングステンを採掘する遠ケ根鉱山、化粧品や医薬品の材料となるビヒマス(蒼鉛)を産出する恵比寿鉱山があった。

 

034 日露戦争で日本は多くの犠牲者を出し、多額の戦費を費やした割に、賠償金がなかった。100万名の大軍と、当時の国内総生産30億円のところ、20億円の軍事費をつぎ込んだが、10万余名が戦死した。米英に助けられて日本は辛勝したが、国力は消耗し、地方は衰退した。またロシアが捲土重来を期す可能性があり、ロシア再戦論*が問題となった。*再度対露戦争を仕掛けるということか。

036 ロシアは当時世界一の陸軍大国であった。

 

 地方改良のための官製運動が、桂太郎内閣の内務省を中心に取り組まれた。

 地方財政は戦争で窮乏・破綻した。国民意識を国家統制するために、帝国日本の臣民を育てるための教育改善運動が取り組まれた。普通教育や青年教育などを目的とした講習会が開催され、青年会、在郷軍人会、婦人会などが組織され、国家への奉仕の重要性を習得させ、国家統制の下、軍国主義思想が注入された。

 「市町村及市町村吏員表彰規定」に基き、弥三出身の蛭川村は1909年7月、恵那郡加子母(かしも)村、山県郡保戸島村、大野郡大八賀村とともに、県第一回表彰(50万円受領)の対象とされ、公民づくりの模範村とされた。

037 『纐纈翁回想録』によれば、「闔(こう)村輯(しゅう)睦(村中が穏やかで仲睦まじい)勤倹の風に富み、協力一致自治の発達を図り、且つ教育の振興、産業の改良、村有林の経営、及び基本財産の増殖等、その成績殊に良好なり」とのこと。

 地方改良運動をその地方の名望家や指導者が担当した。弥三の父秋三郎もその一人だった。

 秋三郎は1889年から1903年まで郡会議員を務め、1906年12月から蛭川村長に就任した。

038 秋三郎は二宮尊徳の報徳思想に心酔していた。報徳会は1905年に結成され、1912年に中央報徳会と名称変更され、農村共同体秩序が強化された。

 蛭川村でも報徳講が組織され、1884年、安弘見(あびろみ)報徳社が結成され、秋三郎がその幹事に就任した。

 内務省は模範村を定期的に公開・宣伝した。蛭川村は頻繁に模範村とされた。

 秋三郎は青年に農学を広めた。

039 秋三郎は『蛭川村暦』の中で、「青年たちが勤勉と修徳に励むことこそ、国を豊(とよ)ます(とどろかす)所以なり」と直筆で綴っている。

040 弥三は父秋三郎に関して「父は『日本及び日本人』の愛読者で、常に侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論をなし、日本精神に徹していた」と父への追悼文の中で語っている。

 『日本及び日本人』は1907年に哲学者三宅雪嶺が中心となって創刊された雑誌で、西欧化政策を進める明治政府に批判的で、国粋主義を基調とした。

 二宮尊徳の報徳教は経済哲学である。私利私欲を諌め身を捨てて社会貢献することが、いつかは自らに還元されるとした。節約と勤勉を奨励するが、社会の構造的な矛盾や不平等に立ち向う思想は希薄で、国家権力の暴力性や差別性には無頓着であった。

 昭和初期、それは国体思想に収斂されていった。

 

041 報徳思想は天皇制官僚の資質と合致していたが、それが日本共産党弾圧の一因だったのではないか。

 

042 蛭川村に岐阜県神国教の本部が置かれている。大日本神国教は神道系の新宗教で、旧蛭川村の住民の8割が今でもその信者である。大日本神国教は、1908年、立教された。明治初年に強行された廃仏毀釈によって信仰の精神や道徳が失われることを危惧した村の指導者たちと、農商務省嘱託員の井口丑二が立教した。

 井口は二宮尊徳を敬慕した。弥三は二宮尊徳の思想に深く共鳴した。

 秋三郎は報徳社の充実に意を用い、井口の支援の下で神国教導入に尽くした。

 

043 神国教は、仏教信仰者との間に軋轢もあったが、現代まで続いている。

 大橋博明によれば、神国教の信者戸数は1925年現在、全国で600戸しかなかった。(大橋博明「井口丑二と神国教――いはゆる地方改良との関連において」(『中京大学教養紀要』1979))

044 一木喜徳郎*は第二次大隈重信内閣で文部大臣や内務大臣などを歴任し、報徳思想の啓蒙活動に尽力し、大日本報徳社の社長を務めたが、(*一木喜徳郎1867.5.7—1944.12.17 帝国大学法科大学卒/教授)その一木喜徳郎が『纐纈翁回想録』に題字を寄せている。

 

 

 蛭川村では報徳思想や神国教はその後国体思想に収斂されていき、村落秩序と国家主義に繋がった。

 

 弥三が蛭川簡易科尋常科小学校を卒業するころ、小学校の入学率を上げる目的で、裕福でなかった子弟のために、読書、算術、作文、習字だけを履修する簡易科を設けていた。1890年簡易科が廃止されるまで、尋常科と簡易科の二科で小学校が構成されていた。

 

045 弥三は岐阜県立東濃中学校(現東濃高校)を卒業した。

046 弥三は東濃中学校から第一高等学校に進学したが、最初は入学試験に失敗した。第一高校は、一部に政治学、文学、二部に、工学、理学、農学、薬学、三部に医学があった。弥三はその一部に進学した。

 弥三は一高から京都帝国大学法学部に進学した。東大はエリート官僚養成所的だった。

 

 

第二章 日記のなかの家族と弥三

 

048 纐纈弥三は1920年(大正9年)京都帝大法学部卒業し、7月、内務省に入省。10月、出世コースが保証された高等文官試験行政科試験に合格した。

 高等文官試験は1894年から1948年まで続けられた高級官僚採用試験である。高文試験の合格者は高文官僚と呼ばれ、異例の若さでスピード出世して行く道が開かれた。現在人事院が実施する国家公務員試験(高等文官試験行政科)と、法務省が実施する司法試験に引き継がれている。2018年以降、国家公務員試験総合職試験が、高等文官試験行政科を継承する。

 

050 内務省は地方行政や警察関係などを担当し、強大な権限を有していた。内務大臣は副総理格であった。

051 纐纈弥三は、警視庁の特高課長兼外事課長1927.5になるまでは、愛知県、北海道、兵庫県(外事課)の官僚を歴任した。

 

弥三は1926年の日記の中で、兵庫での生活を綴っている。

056 1926年2月25日、友人の妻が息子と共に来訪し、その息子の就職依頼を受け、口利きしてやった。

057 1927年、弥三は妻の死1926に対する見舞金を神戸婦人同情会などに寄付した。

058 城ノブは神戸婦人同情会の創設者である。

 第一次大戦後の大戦景気で成金が各地で出現したが、一方では貧困と差別が生じ、特に女性・子供にしわ寄せが集まった。

059 弥三は婦人施設(神戸婦人同情会)、犯罪者の矯正施設である保護院や養老院に寄付をした。弥三は父秋三郎の実践した報徳運動の根底にある、社会秩序を維持するための弱者救済の必要性を理解していたのだろう。

この時代は、社会矛盾の構造的な背景への関心が、社会主義者やキリスト主義者など宗教者の中に広がった時代だった。

060 弥三は社会主義者に対する弾圧と慈善事業とを共に行うという矛盾した行動をとったが、なぜなのか。

 

061 また弥三のこのころの日記によれば、1926年1月28日、憲政会の加藤高明首相が死亡したとき、「若槻(憲政会)内閣に大命が下るべきだ。加藤首相の死は相当大きな禍根を政界にもたらすだろう」としている。

062 若槻礼次郎は大蔵官僚出身で、リベラル派であったが、弥三は若槻を支持していた。そして加藤内閣の外務大臣・幣原喜重郎は、対中国融和的として、対中強硬論を主張する政友会や軍部急進派から非難されていた。

 1927年、金融恐慌が起り、台湾銀行救済の勅令案が枢密院で否決されたとき、若槻内閣は総辞職した。その後の政権を取ったのが、政友会の田中義一だった。田中は陸軍大将で、政友会総裁であった。

 

063 読書家弥三 弥三はスエーデンの女性解放論者である「エレン・ケイの恋愛観などに共鳴した。」1926.2.23 エレン・ケイは当時流行作家であった。また、マルクス、クロポトキン、ラッセル、トルストイ、モリス(マルクス主義作家、ウイリアム)、カーペンター(社会主義思想家、エドワード)などの著書も出てくる。

065 弥三は当時兵庫県の外事課長1925.1—27.5であり、仕事柄外国事情に関心があったのかもしれない。また社会主義に対する関心と警戒心もあったのかもしれない。

大分県知事時代1939.4—1941.1には山岡鉄舟の武士道を読んでいる。

066 また「大西郷遺訓を読んで、」1939.6.4西郷隆盛に心酔したようだ。『立雲頭山満先生講評 大西郷遺訓』を読んだと推測される。そこでは西郷の天子への敬愛の精神が述べられている。

 1939年6月11日の日記には、国粋主義者・教育者の「杉浦(重鋼)先生の倫理御進講草案などを読む。」とあり、また、

067 大佛次郎『照る日くもる日』、本田美禅『御洒落狂女』、永田秀次郎『国民の書』人文書院1939*などを読む。(通俗的な本と国粋主義的な本の組み合わせか。時代を反映しているのかもしれない。創造性のないつまらない時代だ。)

 

*「戦時国民の覚悟」の章で始まる。永田は内務官僚で、三重県知事、東京市長、拓殖大学総長、貴族院勅撰議員、拓務大臣、鉄道大臣などを務めた。俳人でもある。

 

068 1939年3月15日付けの弥三の胃潰瘍入院快気祝いの礼状 「何分にも時局多端の折柄、…粉骨砕身非常時局下の重大時期に処し、邦家のため微力を致したき所存に御座候間、…」(この時代は戦争、国家しか眼中になかったようだ。)

父秋三郎は自宅を報徳社に提供し、私財を蛭川村のために投じたため、借金もあったようだ。その父が1939年1月ころ弥三の入院中に亡くなった。

 

069 1939年10月18日の日記に、「友松円諦の人生と死を読む」とあるが、この本は実在しない。友松は宗教家で仏文学者、全日本仏教界の創立者である。

070 敗戦の年の弥三の読書傾向は、国家主義・国粋主義的な本が多くなるが、これも時代の反映か。例えば水戸学の創設者・藤田幽谷の次男で尊王攘夷派を主導した藤田東湖(とうこ)1806—1855の「『東湖全集』を読み始めた」とある。1944.7.27

 

感想・要旨 弥三は1927年5月に警視庁特高課長兼外事課長に任じた前後に、職業柄、社会主義関係の本を読んだようだ。外事課長051, 065に任じて兵庫県(の神戸)に住んでいた頃は、外国の自由主義や社会主義関連の書物を読んでいたが、これも職業柄の読書傾向なのだろう。

しかし、弥三の本心は、1944年頃の国家主義や国粋主義的な読書傾向に示されるのではないか。063, 065, 069

 

 弥三は父の影響のせいか、二宮尊徳の報徳思想に傾倒していた。1927年1月の日記に、報徳関係書類22冊をメモしている。

 

 弥三の自由教育観 当時自由教育は、国家権力の介入を前提とする公教育に対抗し、新教育とも言われる教育運動となった。それは人間としての教養を身につけることが教育であるとし、1921年、自由学園(キリスト教系)や文化学院が設立された。

072 弥三日記「自由教育とも人道教育とも言われるが、その範囲は混乱している。」1927.5.1 「自由教育とは畢竟この探検と変わらない。」1927.5.2

 「自由教育は定まったものではなく、結果が予測されない探検である。否定はしないが、信用できない。」

 

 弥三にとって、公教育による社会秩序の安定が教育の本来の役割であった。

 

 弥三のアジア思想観 「『亜細亜思想とは何か(室伏高信)抄録』 近代世界では、ヨーロッパと亜細亜は二つの対立する世界であり、二つの思想、二つの芸術、二つの生活(に分断され)、二つの生活の理想の(によって)地球表面を二つの別々の世界に分離してきた。特にアジアの立場からすれば、世界は即西洋であり、世界史は西洋史である。」1944.5.6

 

073 室伏高信は政治記者で、当初は在米日本人の社会主義集団を訪問したが、満州事変以後、国粋主義者に転向した。室伏の『亜細亜主義』批評社1926 の論旨は以下の通りである。

 

これからの世界は、既存のヨーロッパ中心の国際秩序からアジア中心のそれに変転するだろう。国際社会の現実は、思想・芸術・生活の諸側面で、対立的で並立的な二つが存在する。それが政治・経済・軍事面でも対抗的な関係に発展するだろう。西洋とアジアの思想や文化の違いから、いずれ両者の矛盾が深刻化するだろう。

 

074 弥三は日記に「欧州は物質的、アジアは精神的だ。」1944.5.7「実に我々アジアはヨーロッパの外的自由の観念に対して、内的自由の思想を持っていた。」と記した。

 

精神の自由は許されるが、国家権力による外的自由(制度・法律)は許されず、個々の人間は国家に従順でなければならない、と弥三は考えていたようだ。

 

 

Ⅱ 日本共産党弾圧を指揮する 三・一五事件の真相

 

第三章 日本共産党弾圧の理由

 

要旨 076--093 2021118() 

 

特高は政治・思想対策のための警察組織090である。

自由民権運動後の社会主義、無政府主義、労働・農民運動090, 091, 092などに対抗するために、大逆事件090後に、高等警察が創設された。

 

治安維持法092加藤高明内閣のときに成立1925.3した。

 

田中義一084, 086 は日露戦争で苦戦した経験を持つ軍人(陸軍大将)であった。田中は総力戦のために、民衆が積極的に政権の政策に協力することを求め、084, 085天皇制085の下に民衆をまとめようとした。

田中が政権を握っている時1927.4.20—1929.7.2, 086に、共産党弾圧事件が発生した。

 

076 弥三は1925年1月、警視庁警視に昇進し、兵庫県外事課長に就任した。

 

077 外事警察が明治時代に設立された当初、内務省警保局保安課が外事警察を統括し、国内に居留する外国人を監視した。朝鮮を植民地にしてからは、朝鮮独立運動を監視した。

 外事警察は、上海、ハルビンや、亡命朝鮮人が居住した間島(現在吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯)などの領事館を拠点とした。

 ロシア革命後はソ連の監視と調査が強化され、外事警察協議会が組織された。これは内務省に、陸海軍や外務省員も加わり、スパイ狩りを行った。

 

 弥三は1925年、兵庫県の外事課長になったが、その時1927.2.11孫文の側近・戴天仇が神戸に来た。戴天仇は日本が中国侵略をやめ、日中和平合作をするように訴えて日本の各地を講演して回った。

078 しかし、田中義一内閣は第一次山東出兵1927.7.4、を強行した。

 

 弥三は上昇志向の強い人間だったようだ。上海領事館勤務を先輩の赤木朝治に取られて悔しがった。1927.2.23 

080 弥三はその代わりに九州出張を命じられた。

 

 1927年5月、弥三34歳のとき、兵庫県外事課長から、警視庁警視・総監官房特別高等警察課長兼外事課長に就任した。栄転である。

 

日本共産党と当時の日本の政治状況

 

 日本共産党は1922年7月15日に創立された。

081 日本共産党は天皇制の廃止を求め、自由と平等の民主主義を実現しようとした。共産党以外にも国体や復古主義・国粋主義を嫌う人もいたが、結社して、国体の解体を実践しようとした人は共産党以外には多く存在しなかった。

 

弾圧犠牲者数 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部は2015年5月、国会に請願した。

082 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟編刊『治安維持法と現代』2019によると、

 

警察署での拷問による虐殺者        93名

服役中・未決拘留中の獄死者       128名

服役中・未決拘留中の暴行・虐待や劣悪な環境などによる発病で出獄・釈放後に死亡した者(獄死者に準ずる者)               208名

弾圧や周囲の圧力で再起できずに自死した者 25名

宗教弾圧での虐殺・獄死者・準獄死者    60名 (以上合計514人)

検挙者数1928—1945.5       6万8274名

起訴者数(送局者数)         6550名

起訴猶予               7316名

検束・勾留者              10万人 

 

荻野富士夫『特高警察』によれば、

 

拷問による虐殺    80人

拷問による獄中死  114人

病気による獄中死 1503人

以上合計     1697

 

感想 これが憎しみの実態だ。これは自身の身の危険を感じる特権階級の、日本共産党に対する嫌悪感の現われではないか。二宮尊徳教、日本教、天皇制は、支配・被支配を前提とした社会観ではないか。

これはまた今の米中関係に象徴される、米による中国に対するイデオロギー差別と同根ではないか。ただし、現中国もボスが牛耳る社会だけれども。

 

 当初旧財閥と新財閥とが抗争・対立していたが、その後両者とも総力戦のための国家総動員体制に組み込まれ、軍部と財閥とが密接に繋がる「軍財抱合」が行われた。

 

084 総力戦は日露戦争から始まった。日露戦争で日本は勝利したが、砲弾・燃料を予想外に消費し、継戦能力が低かった。

 ロシア革命のためにロシアの戦力が十分でなく、その点で日本は有利だったが、長期戦により補給線が伸び切り、備蓄した砲弾・燃料が枯渇し始め、敗北の可能性もあった。

 陸軍大将の田中義一は日露戦争に従軍し、政友会総裁に抜擢され、総理大臣になった。

 田中が日露戦争で得た教訓は、総動員体制の構築と、強力な権力の存在だった。

085 田中は、自発的・能動的に戦争に同調する民衆の育成を求めた。田中は国防思想を民衆に注入し、国防の大義名分として、天皇が主導する国家観を重視した。

 田中は、天皇の臣下としての日本人を育成するために、地域に適した国民教育を追及した。田中は民衆に国防意識を注入し、天皇を核とする国家体制=国体への自発的・積極的な同調を民衆に求めた。

 

 そのため、国体から逸脱する思想、行為、組織、運動は許せなかった。国体と相容れない社会主義や共産主義、天皇制の否定、階級差別解消をはかる日本共産党は、否定と憎悪の対象だった。

 

086 国民党と共産党の合作による武漢政府1926--1927樹立(1927年2月)を見て、日本帝国主義は日本軍部の精鋭部隊(海軍陸戦隊)を漢口・上海に進攻させた。(漢口事件、1927年4月)これは反封建・反外国勢力の国民革命に対する、英米仏伊と結んだ干渉であった。

 

 若槻内閣が金融恐慌の責任を取って総辞職し(1927年4月)、政友会総裁・陸軍大臣の田中義一が新内閣の首班となった。田中は外には中国侵略政策を、内には民衆運動を弾圧した。

087 当時の右翼メディアは優位な状況にあり、リベラルで対中外交交渉を重視した若槻礼次郎民政党内閣を批判した。

 

 政友会系メディア「日本新聞」は「若槻内閣は思想を放任し、共産党や無産党が速やかに発達した」とする一方で、「田中義一内閣閣内の小川平吉、原嘉道(よしみち)は、思想界の戦慄すべき現状を熟知している。また首相の田中は、国防の要義に徹して、その禍害を熟知しているが、その点日本新聞の旨趣と合致している。今漸く赤化撃滅の戦線が堅固になり、一歩一歩と兇徒の牙城を衝く道が開かれた。」としている。(日本新聞社編纂『日本新聞十年史』日本新聞社1935

 

 つまり政友会メディアは、若槻民政党内閣の外交方針を軟弱外交と批判し、国内の共産党や無産政党の発展に温和的だったと論難し、これに代わった田中内閣の対中国強硬外交を支持し、田中内閣に抵抗する諸勢力を排撃した。

 

088 1928年2月20日、最初の普通選挙が行われ、有権者数は前回の300万人から1200万に増えた。そして社会民衆党、日本労農党、労働農民党、九州民憲党など無産政党所属の候補者8名が当選し、田中権力はその結果に驚愕した。

 共産党は非公然だから名乗りを上げられなかったが、労農党の立候補者40名のうち、徳田球一、山本懸蔵、南喜一ら11名が共産党員だった。(倉田稔『小林多喜二伝』論創社2003

 労農党から山本宣治、水谷長三郎、社会民衆党から安倍磯雄、西尾末広、鈴木文治、亀井貫一郎、日本労農党から川上丈太郎、九州民憲党から浅原謙三など8名が当選した。

 

 無産政党からの候補者の選挙演説は北海道各地で盛況で、官権の妨害を打ち破って選挙運動が展開された。(倉田前掲書)

089 小林多喜二は北海道1区の山本懸蔵を応援した。(小林多喜二・小説『東倶知安行』1928)小林は1933年特高の拷問で虐殺された。

 『東倶知安行』は『改造』(1930年12月号)に発表された。山本懸蔵は2887票、得票率3.5%を獲得したが、落選した。

090 田中内閣は(無産政党に対する)選挙干渉を行ったが、無産政党出身者8名が当選した。3・15弾圧は、選挙違反取締に便乗できるから、当局にとって好都合だった。共産党弾圧の全国指令を、メディアに気づかれずに強行できるからだ。(しかし、それとは関係なく箝口令をしき、メディアはそれに従ったのではなかったのか。)

 

特高の歴史

 

 特高(高等警察)は当初社会主義運動や労働・農民運動など政治や思想を担当したが、その後全国民を対象にするようになった。特高は明治天皇暗殺計画を口実にされた幸徳秋水など、社会主義者、無政府主義者を逮捕・処刑した。

 

 明治政府はクーデターで成立し、民衆の支持基盤も正統性もなかった。

091 天皇は封建時代の中程度の藩財政規模しか持たなかった。明治政府はその天皇を利用して、政府の権力・権威を天皇によって強固にしようとした。明治政府は民衆に支持基盤を持たないから、権力を絶大化し、従属しない民衆を監視・弾圧するために、讒謗律1875、出版法1893、新聞紙法1909などを制定した。

法整備だけでなく、自由民権運動などの組織を弾圧した。

西南戦争1877の翌年起った、近衛兵らによる軍隊反乱である竹橋事件は、西南戦争に動員された兵士の論功行賞が不十分だったことに対する反発だったとされるが、この時、自由民権運動が、天皇を護衛する近衛兵にも伝播していたことが判明した。これに対して山縣有朋は、軍隊への自由思想の浸透を防ぐために、参謀本部を設置して、政治と軍事との間に楔を打ち込もうとした

 

092 自由民権運動後、社会主義や無政府主義、労働者・農民運動、国家主義の思想や運動などが活発化し、これらに対処するために高等警察が創設された。

 大逆事件を口実として、1911年、高等警察事務の主要業務である社会主義思想など危険思想を取り締まるために内務省管轄下の警視庁官房内に特別高等課が設置された。同課は、内務省警保局保安課の直接指揮下に置かれた。

 1913年、警視庁官制の改正が行われ、特別高等課は、特別高等警察・外事警察・労働争議調停の三部門を担当することになった。

 1922年7月15日、日本共産党が結成された。1922年から1926年までの間に、北海道、神奈川、長野、愛知、京都、兵庫、山口、福岡、長崎などの警察部に特別高等課が設置された。

 1925年治安維持法が制定され、法律面でも組織面でも強化された。

 特高はその後全府県に設置され、主な警察署に特別高等部が配置された。1932年6月、警視庁の特高課は特別高等部に昇格し、組織強化された。

093 特別高等部への昇格後、内務大臣の直下に警保局がおかれ、保安課、検閲課(図書課)、外事課の三課編成となり、保安課の下に、警視庁特高部が置かれた。

 

 元特高課員であった宮下弘は、『特高の回想 ある時代の証言』のなかで、「3・15事件の頃、警視庁特高課の総勢は、特高係、検閲係を加え総勢70くらいだったが、その年の8月に大増員があり、380名となった」という。

 宮下は1929年の4・16事件後の機構拡充に伴い、警視総監官房特別高等課特別高等係になった。

 

2 3・15事件の真相

 

 弥三は3・15と4・16の日本共産党弾圧事件で陣頭指揮を取った。

094 特高警察で内務省の保安課長事務官のポストを占めるのは、高等文官試験に合格した内務省のエリートである。通常は入省後大体5年で小規模県の特高課長になり、2年から3年して、全国各地の特高課長に就任する。入省から10年ほどして本省に戻り、保安課の事務官クラスに昇進する。特高課長や外事課長は、内務省の「指定課長」であり、内務省警保局保安課長がその任命権限を握っていた。

 

 特高には弥三のようなキャリア組とは別に、実戦部隊として各府県警察特高課や各警察署に所属する特高係がいて、現場で追尾、逮捕、拷問を担当した。警視庁特高課労働係の毛利基(もとい)や、宮下弘*などが有名だ。

 

*宮下弘『特高の回想 ある時代の証言』田畑書店1978

 

 毛利は1915年、警視庁巡査に採用され、巡査部長、警部補に進級し、3・15事件で、弥三の下で現場の弾圧にあたった。

095 3・15後は特高課労働係次席として活動し、1929年の4・16事件での功績により、特高課係長に昇進した。

 1932年、警視庁特別高等が特別高等警察部に昇格し、その中に特別高等課が置かれたとき、毛利はその初代課長に抜擢された。同課は第一課の左翼担当と第二課の右翼担当の二課に分かれていた。

 戦後、毛利は『文藝春秋』1950.9に「元特高課長・毛利基 旧特高警察の第一線――共産党検挙の苦心」という一文を寄稿したが、そのなかで毛利は3・15については一切触れず、4・16についてだけ語っている。

 毛利は共産党内にスパイを潜らせ、共産党弾圧の口実をつくらせ、様々な事件を仕掛けさせた。

 1933年2月20日、毛利は、安倍源基・警視庁特高部長の下で、小林多喜二に対して直接拷問を加えた。

 しかし、毛利は小林に対する拷問の事実を否定し、「心臓麻痺による病死」と語っているが、それは事実に反する。(悪い奴だ)

 

096 一方宮下弘は、元職工で、警察練習所から巡査になり、警部・警部補試験に合格し、特高に配属された。その後、警察署長、富山県特高課長に出世した。戦後は、罷免・追放処分を受けた。(上層部が宮下を見放したということか。)

 

 他方毛利は、1936年11月27日、日本共産党壊滅での功績が認められ、勲五等旭日双光章を受賞し、戦後は、東久邇宮稔彦内閣から「功績顕著」として、特別表彰された。また、毛利は戦後、公職追放にもあわず、埼玉県警察部長などを歴任し、引退した。(くそ、上層部が画策したに違いない。毛利の顔写真を見ても悪党そのものだ。096

 

 弥三が内務省に入って1920から7年後に警視庁特高課長に就任した1927のは異例のスピード出世だった。弥三はその後1929茨城県警察部長に転出した。

 弥三は、3・15、中間検挙、4・16の共産党弾圧を行った。

 

097 治安維持法関連文献を紹介する。

 

・荻野富士夫『特高警察体制史-社会運動抑圧取締の構造と実態』せきた書房1984

・荻野富士夫『戦後治安体制の確立』せきた書房1999

・荻野富士夫編集『特高警察関係資料集成』第Ⅰ期30巻、不二出版1991—1994

・荻野富士夫『治安維持法関係資料集』全四巻、新日本出版社1996

・荻野富士夫編集『特高警察関係資料解説』不二出版1995 (ダイジェスト版)

・纐纈厚『監視社会の未来―共謀罪・国民保護法と戦時動員体制』小学館2007 (明治から今日までの弾圧の歴史を、治安法規に基いて論ずる。)

 

098 弾圧側の資料として、毛利基・池田克「共産党事件少史」(『思想犯編』所収)は、3・15と4・16を要約しているが、3・15事件について、「(日本共産党は)一道三府二十県に亘る一斉検挙に遭い、治安維持法違反として検挙せらるる者484名、組織は壊滅に瀕した。」としている。

 

098 多くの者が拷問で虐殺されたが、伊藤千代子の例を紹介する。伊藤は1905年7月、長野県諏訪郡湖南(こなみ)村(現在の諏訪市南真志野(まじの))に生まれた。養女として伊藤家に入り、長野県下の自由教育に触れ、諏訪高等女学校(現在の二葉高校)に進学した。そこでアララギ派の重鎮となる歌人で戦後明治大学文学部教授となった土屋文明と出会い、薫陶をうけた。

 伊藤千代子は代用教員を2年間務め、その時の貯金で東京女子大学に進学し、社会科学研究会を立ち上げ、社会主義思想に触れた。

100 伊藤は1928年2月から日本共産党中央事務局で活動を開始し、1ヵ月後の1928年3月15日に検挙された。

 伊藤は毛利基警部に取調べられた。藤森明は『伊藤千代子の生涯とその時代』の中で次のように述べている。

 

千代子は拷問で衰弱し、不衛生な獄中で発熱し、皮膚病や頚部リンパ腺炎で苦しみながらも、獄中の仲間を励ましつづけ、自分のことより他の同志のことを気遣った。

 

 千代子は精神に異常を来たした。急性肺炎が直接の死因となり、1928年9月24日に亡くなった。23歳2ヶ月だった。

 

恩師の土屋文明は千代子のために歌を詠んだ。それは千代子が眠る曹洞宗龍雲寺(長野県諏訪市湖南4797)の顕彰碑(1977年建立)に刻まれている。

 

101

 

まをとめのただ素直にて行きにしを

囚へられ獄に死にき五年がほどに

こころざしつつたふれし少女よ

新しき光のなかにおきておもはむ

高き世をただめざす少女等ここに見れば

伊藤千代子がことぞかなしき

 

 人間が人間らしく生きられる社会こそ、土屋の言う「高き世」であり、誰しもが追い求め、実現する責務を負う。

102 千代子の志の純粋さと深さに胸打たれる人達が、現代社会の矛盾の克服に立ち向かっている。だから千代子は現在もなお多くの人たちの心の奥底に生き続けている。

 

 弾圧の犠牲者は男性が多いが、女性の犠牲者は、千代子の他に、「日本のうたごえ」運動の指導者関鑑子(あきこ)の妹で、プロレタリア演劇運動に尽力した関淑子、『女子党員獄中記』1930を発表した原菊枝、野呂栄太郎夫人となる塩澤冨美子などがいる。

 

 「纐纈弥蔵文書」には、弥三の日記や、戦後アメリカの陸軍防諜部隊(CIC)に要請されて執筆した日本共産党関連の記録や封書などがある。

 その中の「三・一五日本共産党検挙通牒その他一括」は、「三・一五弾圧の警視庁指示文書」であるとの説明がある。

 

103 「…検事局と協力して日本共産党の一斉検挙を行う。…

 

 

一、機密の保持

 

署長は全責任をもって秘密厳守に務めよ。

1.不時に(予定外に)部下を召集したり、電話で命令したり、打ち合わせ会議を開いたりするのはなるべくやめよ。しかも命令は巧妙な方法で徹底せよ。

104 2.班長だけに目的を知らせ、班員には集合場所、時刻、班長の氏名を知らせるだけにせよ。現場に集合するまではなるべく班員相互の氏名も知らせるな。一つの警察署限りの事件と装え。

3.顔色や態度の緊張感は、(班員)相互の私語などで周囲に感知されるから気をつけよ。

4.執行直前になって張り込みや尾行をし、その他の警戒は気づかれるからなるべくやめろ。

 

 また「纐纈弥三文書」の中に、弥三が『警察新報』に寄稿した「特高講話 日本共産党事件に就いて(一) 警視庁特別高等課長 纐纈弥三」という文書(発行年不明)がある。その中に以下の文章がある。

 

「予(かね)て之(日本共産党)が活動に対し、極力捜査・内偵の歩を進めつつありし我らは、彼らの主義行動が根本より我が国体を破壊し労農独裁政治の樹立を企画せるものにして、寸時も容認すべからざるものたるの確証を得るに至れり。

 司法当局と協議の結果、3月15日未明を期して、全国一斉に之が検束の手を下すに至りたるものにして、一味の検挙は今尚ほ継続して行われつつあるのである。」

 

105 当初特高は共産党再建の動きを察知していたが、しばらくは内偵の成果が上がらず、「ひたすらその内偵に努め、苦心惨憺日もこれ足らざるの思いをなし、半年以上の日子(にっし)を費やし、漸く準備万端整い、3月15日をもって一斉検挙を為し得るに至ったのである」

 

106 「4月末日までに起訴せられたる者、全国において340余名の多きに達しおる。わが東京のみについて見るも、起訴者105名、強制処分中の者10名にして、なお警察署において取調中の者も多数あるを以って、今後相当進展する見込みである。

 これを暁民共産党の8名、1923年の日本共産党事件の29名の起訴者に比較するとき、その数の激増に驚嘆せざるを得ない。度(たび)を重ねる毎に、この種の運動が益々進展し、しかもその戦術の巧妙にして深刻なりつつあるの実情を思う時、実に邦家のため憂慮に堪えざるものがある。」

 

 暁民共産党とは、早稲田大学学生の高津正道や高瀬清等を中心に、1920年5月暁民会が結成されたが、翌年の1921年3月、日本共産党暫定執行委員会が結成されると、暁民会はこれに参加した。当局はこれを暁民共産党と言うが、実際は結成されていなかったともされる。

 暁民会は、アメリカ帰りの社会主義運動家の近藤栄蔵等と共同して、共産党結成に向けて動いたが、1921年11月25日、近藤が逮捕され、翌月の12月1日、暁民会関係者が相次ぎ逮捕された。

 彼らは軍隊に向けた宣伝活動を果敢に行い、軍隊赤化事件とも言われた。暁民会のメンバーは、1922年7月の日本共産党創立大会に参画した。

 

107 弥三は戦後、「赤色戦線大検挙」(『文藝春秋』1955.8「当時の警視庁特高課長が自ら描く3・15、日本共産党大検挙の種々相」)の中で、

 

「突如として行われたこの全国に亘る一斉検挙は、共産党に一大衝撃を与え、その組織の上にも大混乱を来たしたことは明らかである。(赤色、大検挙、一大衝撃、大混乱など、センセーショナルな表現である。)彼らの秘密組織は縦の連絡はよく保たれていたが、横の連絡がない。従ってこの検挙がどこまで及んだものか、最高幹部にも急には見当がつかなかった。」(見てきたような口のききかただ。)

 

弥三は誇らしげに、高揚感と勝利感をもって語る。

 

108 共産党の軍隊内宣伝 

 

暁民会関係者は軍隊に呼びかけた。

 田中義一政権は、中国の北伐に対応する名目で、三次に渡る山東出兵を強行した。

 

 陸軍調査班「密受第443号 日本共産党一派の対軍隊宣伝状況送付の件」の中の、「極秘 日本共産党一派の対軍隊宣伝状況 昭和3年(1928年)6月 陸軍省」の「一、概況」では、次のように記されている。

 

軍隊破壊の目的を以て共産主義者の行う宣伝は、従来各種の手段を以て縷々実施されたが、今次の日本共産党の分派である日本青年共産同盟(正しくは日本共産青年同盟)の宣伝は、その手段・方法等において、軍隊幹部の考慮を要すべき点が少なくない。」

 

 日本共産青年同盟は1923年4月5日、現在の新宿区西早稲田の暁民事務所で結成され、同年1923年6月5日第一次共産党事件で、その中心メンバーが検挙された。

1925年7月に再建され、翌年1926年8月、「全日本無産青年同盟(ユース)」として結成されたが、1928年4月10日、3・15弾圧の中で解散させられた。

 

109 軍隊は日本共産党や自由主義・社会主義思想に警戒心を抱いていた。

軍隊は日本軍を「皇軍」と呼び、個々の兵士は自らを特別至上の「皇軍兵士」と捉えていた。天皇や天皇制を中核とする国体に異議を唱える共産主義や日本共産党は、天皇制を否定し、天皇制解体を目標とし、皇軍を溶解する危険な存在と看做していた。

 

 陸軍省調査班「日本共産党一派の対軍隊宣伝状況の件」(防衛省防衛研究所蔵 『密大日記』1928.6 陸軍省調査班(アジア現代資料センター))の分析によれば、

 

110 「日本共産同盟は、無産階級が徹底的に勝利を得るためには、軍隊を獲得してこれを自己の軍隊にすることが絶対の要件であるとして、徒(いたず)らに軍隊赤化の困難をかこつことなく、あらゆる機会を捉えて各種の手段を講じなければならないとして、在営の兵卒や在郷軍人に対して策動しただけでなく、将来軍隊を構成することになる青少年に特に注目して、これに反軍思想を注入し、その環境をこれに導き、その目的の遂行を期待した。」

 

 青少年と軍隊との連携強化は、青少年教育の必須条件であると認識されるようになった。

 

 司法省刑事局「日本青年共産同盟の軍隊関係」(防衛省防衛研究所蔵 『陸軍省大日記 密大日記 1928』(アジア現代資料センター))によれば、

 

「日本青年共産同盟は、25歳以下の青年を以て組織している結果、成年に比べて、軍隊内の兵卒と密接な関係をもつ。各国でも反軍国主義宣伝は青年の役目であるように、日本でも同様に、日本青年共産同盟も反軍国主義運動を行うことを目的の一つにしている。だからその機関紙にも「成年衛兵」の名称さえ用いている。」

 

111 天皇制が民主主義を溶解するシステムであったのと反対に、当局の言う反軍国主義は、天皇制解体に直結する思想であり、それを実行する組織として「日本青年共産同盟」を位置づけている。

 ここの「成年衛兵」は、仏、伊、スウエーデン、ハンガリー、ブルガリアなどで、入営時に黒リボンの徽章をつけ、革命歌を歌いながら入営を行った、反軍国主義を標榜した青年組織である。

 

 さらに同資料によれば、

 

「昭和2年(1927年)10月16日、同同盟関西地方委員会が、青年の五大要求を定め、工場の青年などを獲得するための運動を激発・促進・指導することを決議し、次の五つの要求を掲げた。」

112 「一、青少年労働者保護法の制定実施、二、満18歳以上の男女の選挙権・被選挙権、三、政党加入、言論、集会、結社の自由、四、一年兵役制の即時実施、除隊後の復職、五、青年団の自由、補助金の五割増額」という内容だった。

 

 これに軍部と田中義一内閣は警戒心を強め、3・15事件の前年に提起された日本共産青年同盟の動きを、内務省と司法省は監視・警戒した。

 

 北一夫『日本共産党始末記』塩川書房1929にも、日本共産党による軍隊への働きかけが記されている。

 

「第二次共産党大検挙1928.3.15, 1929.4.16の発表以来、憲兵隊、参謀本部、海軍省は、連日東京地方裁判所の塩野検事正、松阪次席検事を訪問し、打ち合わせを行った。これは今次の検挙によって、共産党の怪物、いわゆる細胞組織が、極めて巧妙なる方法によって軍隊内、官営工場などに浸潤しようとしていた事実が明らかになったので、今後の対策を講じたものだ。」

 

 「今日までに明らかになったところでは、海軍関係では、舞鶴の海軍工廠であり、この大検挙で有力な前衛分子6名を検挙した。

  その他、呉、横須賀、佐世保の各海軍工廠でも捜査中だが、的確な証拠が上がったところもある。

 

113 徴兵された兵士も元は農民や労働者であり、日本共産党を含めた無産政党は、直接間接に兵士との連帯の動きを果敢に行っていた。当局は、天皇制の物理的基盤としての軍隊の瓦解を恐れた。

114 真崎甚三郎大将は「世間は知らないだろうが、二・二六事件の青年将校たちを含めて、みんなアカだ。統制派も皇道派もない。アカが何もかも仕組んでいろいろやっているから、軍もアカに攪乱されている。」(宮下弘『特高の回想 ある時代の証言』1978

 1945年2月14日、近衛文麿が昭和天皇に終戦の決断を迫った「近衛上奏文」の中で、近衛は敗戦による共産革命の可能性を示唆した。

115 軍警会編『軍事警察雑誌』1929.12は、軍人、内務官僚、財界人などが日本共産党の動向について寄稿した雑誌だが、憲兵大尉福本亀治は、その巻頭文「共産党事件に鑑み「インターナショナル」の本質を考察す」の中で、

 

「共産党事件の勃発当初、当時から概要として、『日本共産党は革命的プロレタリアートの世界第一インターナショナル日本支部として云々』なる旨が発表されている。日本共産党自体に対する研究は暫くこれを措き、基本である第一インターナショナルについて、その本質、歴史過程、並びに世界革命への進出情勢などを明らかにすると共に、インターナショナルの沿革、種別、伝統、活動情勢等を統制的に考察することは、現時の世相に照応し、あながち無益なことではないと信じる。」

 

116 福本はこの他に同誌に「思想戦に就いて」なども寄稿し、「我が国における社会主義運動の概勢」を記し、日本共産党を弾圧すべきだと論じた。

 纐纈厚も『憲兵政治』の中の「「左翼狩り」が最大の関心対象」の項で、憲兵隊が共産党弾圧に腐心していた状況を論じた。

 

3 関連資料の紹介と日本共産党

 

官憲資料

 

117 亀山慎一「日本共産党と「コミンテルン」との具体的連絡関係に関する件報告」1928.8.27*は、亀山が東京地方裁判所検事正塩野季廣(すえひろ)に提出した文書である。亀山は東京地方裁判所検事である。

 

*この文書は「日本共産党雑件/共産党事件関係調書 第1 日本共産党事件に関する東京地方裁判所並司法省作成調書 分割2(外務省外交史料館編『戦前期外務省記録』司法省刑事局、昭和4年10月25日(アジア歴史資料センター))による。

 

 それによると、

 

「一、日本共産党と「コミンテルン」との関係

 (第二次)日本共産党は、大正15年(1926年)12月4日の大会開催に至るまでは正式の党を結成しなかった。(それまでは)いわゆる「グループ」組織に過ぎず、党中央部を「ビューロー」と称し、中央委員会を「ビューローメンバー」と称していたが、この「グループ」組織は、「コミンテルン」の国別支部として結成されたもので、常に「コミンテルン」の指導下にあって、諸々の活動を行い、「コミンテルン」から活動資金を供給されていた。

118 「コミンテルン」が採用した、各国支部である各国共産党に対する指導方針は、各国に独立の事務局を設け、ここに指導者を派遣し、その指導者は「コミンテルン」を代表してその国の党との連絡を掌り、「コミンテルン」の政策や命令をその党に伝達し、その党の活動状態を「コミンテルン」に報告し、常にその党の指導に当たる。

 その指導者の権限は絶大で、常に党の中央委員会に列席し、また必要な時には、党中央委員会所属の全ての機関の会合に出席でき、また必要に応じて党員の誰とでも会うことができる。

 しかし、日本では共産党が公認を許されていないので、「コミンテルン」は、日本に独立の事務局を設けることができない。

 その(コミンテルンの)指導者は自由に(日本共産)党中央委員会に出席できないから、日本における「ソヴィエトロシア」大使館内にその事務局を設け、同大使館の中にその代表者を置き、(日本共産)党との連絡を掌らせる。その連絡方法は、常に(日本共産)党中央部の首脳者が右大使館に行って、館内の一室あるいは邸内の一部で、右(ソヴィエトロシア側の)代表者と会見している。」

 

119 国際共産主義運動やその思想が日本共産党を通して日本に流入して来ており、それが国体を棄損すると当局は捉えていた。

 またこの資料は、日本共産党中央委員長の佐野文夫、同中央本部政治部長の北浦千太郎、同中央委員の中尾勝男らが、ロシア大使館と頻繁に接触していたことや、党の運動資金についても詳細に記録している。

 

 さらに以下の資料も含まれている。

 

「日本共産党幹部の遊興関係並資金調達報告」(東京地方裁判所検事局思想部調査 昭和3年12月10日)

「昭和3年3月15日日本共産党検挙後に於ける党中央機関紙赤旗の発行に関する状況」

「日本共産党検挙後に於ける無産者新聞活動に関する状況」

「ロシア留学生帰朝後に於ける党の活動概況」

「日本共産党事件の梗概」

 

 以上、当時の調査能力の高さを示している。

 

120 北伐という内戦を奇貨として、中国侵略の第一段階として、山東半島に利権を拡大しようとした三次に渡る山東出兵に対する国内の反対運動を抑えることが、日本共産党弾圧の理由だった。

 三井財閥は中国での権益拡大のために、日本陸海軍との関係を強め、陸軍大将田中義一に接近し、田中を政友会総裁に、次いで内閣総理大臣に引き上げる画策を行った。

 

 田中義一内閣が成立するまで野党であった政友会は、若槻礼次郎民政党内閣の外務大臣・幣原喜重郎の外交を軟弱外交と批判し、対中強硬外交に転ずるように迫った。

 田中義一内閣成立後、田中首相は外務大臣を兼任し、中国での権益拡大のために、武力行使に踏み切った。

 中国では日本の対外侵略に反対するため、労働者や学生が立ち上がった。

 内務大臣・鈴木喜三郎に率いられた内務省の警察官僚特に特高組織が、中国への武力侵略に反対する国内の諸勢力を弾圧した。

121 山東出兵と3・15事件との関係を、纐纈弥三課長とともに共産党弾圧を担った品川主計(かずえ)は次のように語っている。品川は1928年7月、警視庁官房主事に着任した。(3.15以後)

 

「私の人生の中で、昭和初年のころ、共産党の取締をやっていた頃が一番楽しかった。田中義一内閣は山東出兵を強く推進する方針で、そのために戦争反対を叫ぶ共産党の存在が目の上のたんこぶだった。徹底的に検挙して根絶するように、田中内閣の下で強く要請された。だから共産党つぶしの仕事でてんてこ舞いだった。」

 

品川は後に満州国(満州帝国)に出向し、監察院長や監察院審計部長を歴任し、戦後は読売巨人軍の球団社長となった。(その後任が正力松太郎である。)

122 一部の特権階級である財閥は、自らの利益を国家利益にすりかえ、国家もそれに便乗した。

 警察機関は、財閥・国家・軍隊への反発や抵抗を抑圧した。その先鋭警察組織が特高だった。

 

123 次の資料は司法省刑事局長・泉二新熊(もとじしんくま)が作成した「秘密結社日本共産党に関する治安維持法違反事件に関する件」1929.10.25であるが、これは外務省欧米局長・堀田正昭に送付された行政文書である。

 

 「昨年1928年3月15日、東京地方裁判所検事正が行った、新聞記事差し止め並びに放送無線電話放送の禁止は、同年1928年4月10日に一部が解除されたが、同事件で逃走中の被告人、並びに残党員の検挙検査に関する事項について、同年1928年10月3日及び本年1929年4月10日の2回に渡り、記事と放送の差し止め・禁止があった

124 これに引き続いて今日に到っているが、今東京地方裁判所の予審で継続中の3・15事件の一部は、おそらく来る11月初旬頃に予審終結決定になる予定であるので、右予審終結決定の機会に、3・15事件は勿論、中間検挙事件並びに4・16事件についても、全国一斉新聞記事差し止め並びに無線電話放送禁止の解除を行う予定である。

 従って、右と同時に、当省において、別冊の通り、「第一次一斉検挙後に於ける日本共産党残党員の活動状況」を発表することになったので参考までに送ります。追って解禁の日時は確定次第、御通知致します。」

 

 また、同文書の中に次の文面が記されている。

 

 「一、秘密結社日本共産党は、昭和3年1928年3月15日の第一次全国一斉検挙によって大多数の党員を失い、党の活動が壊滅に瀕したが、検挙を免れた首脳者たちは、急遽その対策・方針を定め、中央部事務局・印刷局の再建や、党員相互の連絡保持、機関紙の復興、他の合法団体内におけるフラクション(党分派)の確立、工場細胞の再組織・整備拡大、並びに党活動の統制に努力し、(その勢力は)緊急勅令が発布された当時1928.6.29に戻った。」

 

125 当局は成果を得たとしつつ、その不十分性を自覚していた。次の資料「日本共産党残党員活動の一般情勢」(東京地方裁判所検事局思想調査部1928.12.10)がそれを示す。

 

 「 一、党中央部の活動状況

 本年1928年3月15日の日本共産党の一斉検挙により、党中央部は、中央委員佐野学、渡辺政之輔、鍋山貞親、市川正一、中尾勝男らはいずれも検挙を免れたが、事務局の水野成夫、喜入(きいれ)房太郎、斎藤久雄の逮捕、そして斎藤の住所である中央部印刷局の捜索によって、事務局や印刷局、アドレス*等の活動機関が全滅し、各地方機関とは勿論、関東地方との連絡も一時杜絶した。

 常任中央委員である渡辺政之輔は、検挙当日、その住所である京橋区鞘(さや)町番地不肖で、中尾勝男や菊田善五郎、門屋博などから検挙状況の報告を受けたが、その後、党本部である自分の住所が危険であることを察知し、右住所を引き払い、その住所をくらまし、その後は、中尾、門屋などと、荒川の堤や浅草公園観音堂裏の市村座前や、日比谷公園、四谷見附付近などで会見して連絡を保ち、それぞれ緊急な対策方針を中尾勝男に指示し、検挙後の諸般の党活動を統制した。

126 渡辺政之輔は以上の情勢に鑑み、3月15日以後、今回の事件を国際的にするため、「モスコー」へ報告するため、党員を海外に派遣し、さらに各地方オルガナイザーとの連絡のために党員を地方に派遣し、また検挙後の対策として、中尾勝男に次のような指令を出した。」

 

 その指令は、「第一、常任と工場細胞とを結合させるために、中央部、事務局、印刷局を再興し、各地方との連絡を回復すること」をはじめとして、全部で六点が示され、また、中尾勝男がその趣旨を踏まえた指示に従って果敢に行動をしたことをしめす記述がある。

 

 「纐纈弥三文書」の中に、弥三が戦後の公職追放時代にアメリカ陸軍対敵防諜隊(Counter Intelligence Corps: CIC)の要請を受けて提出した「日本における共産主義運動の発展過程」という手書きの原稿がある。その中で弥三は次のように語っている。

 

127 「私はかつていわゆる3・15事件、4・16事件の二つの重大事件に直接関係した一人である。当時の共産党事件の真相を回顧し、その主義主張、運動方針等を検討することは、今後の共産党対策に参考となる点も多々あるように思われるので、日本における共産主義運動の発展過程について記述してみよう。」

 

 ここで弥三は、日本共産党が戦前戦後を通じて排撃すべき対象であるという深い確信を語った。

 「第二章 第二次日本共産党事件(3・15事件)の第一節 日本共産党再建運動」に次の記述がある。

 

 「第一次共産党員一斉検挙によって、共産主義運動は一時壊滅したかに思われたが、その一味が引き続き刑期を終えて出獄し、日本共産党再建の議が同志の間に起こり、日本労働組合評議会の最高幹部である渡辺政之輔らが中心となって、同志と共に再組織準備に奔走し、第一次共産党の失敗は知識階級を中心指導者とした点にあったとし、今後は労働者で実行力のある者を中心にして、再建運動に乗り出した。

128 こうして大正15年1926年の6月と9月の二回に渡り、厳選して党員を募集し、120余名を獲得した。

 また9月20日、21日、神奈川県箱根芦ノ湯松坂屋旅館で、渡辺政之輔、中尾勝男を中心とする14名が参集し、共産党の外郭である「レフト」の組織としての赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)日本支部を創立した。」

 

 その会合に、渡辺政之輔、中尾勝男、田中辰三郎らが参加しており、彼らが中心となって、1926年(大正15年)12月4日、山形県五色沼温泉で党再建のための会合がもたれた、と叙述している。

 CICは日本共産党についての情報をほとんど持っていなかったためか、弥三は日本共産党の基本的情報について丁寧に叙述している。

 

 また再掲となるが、「纐纈弥三文書」の中に、弥三が『警察新報』に「特高講話 日本共産党事件に就いて(一) 警視庁特別高等課長 纐纈弥三」(推定1928.6—12頃)という文書があり、その中に以下の文章がある。104

 

「世界大戦後、欧米諸国の経済界の変調は、必然的に思想界にも大動揺をもたらし、各種の極端な思想が猛烈な勢いで各国の無産階級の間に伝播浸潤したが、我が国もその影響を大いに受け、これら各種の危険思想が澎湃(ほうはい)として侵入し、我が思想界を風靡しようとする状況になった。」

 

 弥三は日本共産党の弾圧の理由は国体壊滅を阻止することにあるとする。弥三のこの叙述は、天皇の僕(しもべ)としての官僚に貫く国体護持への強烈な思いを表現している。弥三は父秋三郎の影響もあり、故郷蛭川村の強烈なナショナリズムに幼少時から感化されたため、弥三のナショナリズムは他の官僚の中でも際立っていた。

 第一次共産党事件1923.5のために一時停頓していたが、日本共産党再建計画のころから活動が活発化した。第二次共産党事件(3・15事件)での日本共産党員の大量検挙について、弥三は以下のように記述する。

 

130 「日本共産党の存在については昨年(1927年)2月頃、その聞き込みがあったが、まだその実態を確かめることができなかった。苦心して捜査に努めていたが、漸く9月になって創立大会が行われた事実を探知した。しかし当時はその証拠物件を入手するまでにはいたらず、また、党首脳部の居所を突き止めることもできなかった。」

 「本件はまだ完結しておらず、引き続き被疑者の徹底的捜査に努力しつつあるが、(1928年)4月末日までに起訴された者は、340余名の多きに達した。

 東京だけでも起訴者が105名、強制処分中の者が10名で、なお警察署で取調べ中の者も多数いるから、今後相当進展するはずだ。」

 これを、暁民共産党の8名、大正12年(1923年)の(第一次)日本共産党事件の29名の起訴者数に比べてみるとき、その数の激増に驚嘆する。度を重ねる毎に、この種の運動が益々進展し、しかもその戦術が巧妙で深刻になりつつあることを考慮するとき、実に邦家のため憂慮に堪えない。」

 

131 弥三の強い思いは、検挙者への限りない拷問や弾圧へと駆り立てた。

 

 弥三がCICに提出した「日本における共産主義運動の発展過程」126には、公職追放された弥三が、一刻も早くその苦境から脱したいという気持ちと、追放解除の契機を掴みとりたいという執念が感じられる。

 弥三はGIC内部の反共産主義の姿勢を強く感じ取っていただろう。そして1950年代の米ソ冷戦時代に、警視庁特高課長時代の経験が役立つはずだという判断もあったようだ。

 「今後共産党対策に参考になる点も多々ある」という書きぶりには、かつての敵国アメリカにすがって戦後も行き抜きたいという打算も推察できる。

 

132 弥三の国家観念

 弥三は、CICに提出した「日本における共産主義運動の発展過程」126の「緒言」の中で、こう語った。

 

「19世紀の文明を大成した資本主義社会制度の反面、富裕層は益々富み、貧しき者は愈々貧しくなってきた。持てる者と持たざる者との闘争が漸次展開されつつあるとき、1848年、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」が発表され、「万国のプロレタリアよ、団結せよ」と呼びかけた。

 こうして両者の対立抗争は益々激甚となり、経済闘争から政治闘争に漸次進展することとなり、サンジカリズム、アナーキズム、コミュニズム等の主張は、漸くその勢力を拡大することとなった。

 こうして1917年のロシア革命の成功は、共産主義の実際的運動に非常に刺激を与え、全世界の思想界を席捲し、遂に共産主義運動は益々全世界に波及し、抜くべからざる勢力として、その面容を現すに到った。」

133 「3月15日午前5時、纐纈課長、浦川・石井両係長は、対策本部への連絡を待ちきれなかった。これより先、全国の新聞社を始め、報道機関に対して、午前5時を期し、一斉に、日本共産党全国一斉検挙に関する一切の記事掲禁止命令が伝達された。

 

 弥三はこれに続けて、「各新聞社が一斉検挙の動きを全く察知できず、特高の動きを知ってからは驚天動地の様子であった」と誇らしげに語っている。「誰一人事前に気づいていた者がいなかったので、胸をなでおろしたという述懐を漏らした者もいた。先ず秘密を事前に防止した点は成功であった。」「こうして官房班の班長から次々と検挙の報告がもたらされ、予期以上の成績を上げたことが判明し、捜査本部では凱歌をあげられる状況であった。」

134 この成功をもとに、報道統制が以後も続けられ、国民の耳目を塞ぎ、秘密裡に大弾圧が強行された。次の4・16でも繰り返された。権力の暴走だ。

 3・15は田中義一内閣の国策捜査であった。田中義一内閣の司法大臣・原嘉吉(かきち)は、原敬・政友会内閣の法制局長官で、政友会とつながりがあった。原嘉吉は、1923年時点の司法界の重鎮で右翼組織に影響力を持つ平沼騏一郎が主宰する国本社に参加し、その理事に就任していた。その経歴を買われて、司法大臣として入閣していた。

 また、内務大臣には、司法官僚出身の鈴木喜三郎が就任し、山岡万之助を警保局長に、特高警察を管轄する警保局保安課長には、検事出身の南波杢(もく)三郎が就いた。

 

135 3・15事件後、渡辺政之輔、鍋山貞親、佐野学、市川正一が党再建を目指したが、1929年3月18日、東京地方オルガナイザーの菊池克己が逮捕・拷問を受け、党再建の実情が当局に知られた。

 同時に、中央事務局長格の間庭末吉が検挙されて党員名簿が発見され、それをもとにして、4月16日に日本共産党の一斉検挙が行われた。

 北海道、東京・京都・大阪の三府、24県に渡り、計4942人が治安維持法違反で逮捕された。

 この4・16事件について弥三は、戦後の国会議員時代に、『特集人物往来 特集 禁じられた歴史』人物往来社1956.12に、「四・一六共産党大検挙」と題して寄稿した。編集者はこう解説する。

 

「当時警視庁特高課長として敏腕を謳われた筆者が、日本から上海へと舞台を移して必死に党員を追及した苦心の捜査記録を公開す!」

 

 そして弥三は次のように語っている。

 

「3・15事件以来、共産党の中間検挙は引き続き行われていたが、(1928年の)暮ごろから党の再建が相当に活発に行われているとの情報が絶え間なく入ってきた。

 (1928年)12月22日から3日間、本所公会堂で開催された新党組織準備大会が共産党の指導によることが明瞭であったため、3日目の24日、閉会を前にして、解散を命じた事件があった。」

 

136 日本共産党は党再建1926.12後間もなく、3・151928事件で一斉検挙され、1928年8月の中間検挙、翌年1929年の4・16事件と、連続して打撃を受けた。

 3・15事件で特高が最大のターゲットにしていたのは、日本共産党中央委員の市川正一、佐野学、鍋山貞親、三田村四郎らであった(が、3・15では彼らを捕らえられなかった)。

 4・16事件以後の4月26日、市川が、4月29日に鍋山と三田村が、6月14日に佐野学が、(いずれも)上海で検挙され、日本共産党は幹部クラスを悉く失った。

137 弥三は3・15、4・16での活躍の功労として、1934年4月29日(天皇誕生日)、勲五等旭日双光章を受けた。

 

 勲五等旭日双光章は、国家や公共に功労のあった者が授与され、別名「旭双」という。

勲五等旭日双光章の上の旭日大綬(じゅ)賞は、産業振興功労者が対象で、これには、納税功労、薬事功労、弁護士功労、地方自治功労などがある。地方自治体の議会議員、全国の商工会の役員、業界団体の役員にも授与され、その規模は一度に数百名で、これは各勲章の中でも数が最も多い。

 

138 横溝光輝「特高警察のために」(警察協会編刊『警察協会雑誌』1928.7)は、一連の事件を以下のように評価する。横溝は広島県警察部保安課長、福岡県警察部特別高等警察課長を歴任した。

 

「共産党大検挙が一斉に報道され、社会の耳目を少なからず動揺させた。(日本共産党員の一斉検挙は)社会に、特高警察の存在理由を力強く認識させ、特高警察の重要性をいやが上にも宣揚したことは、我特高警察の充実のために重要な契機となったことは疑いない。その結果、それは第55議会に、昭和3年1928年度歳入歳出予算追加案となって現れ、合計199万円というかなり大きな予算が通貨してしまいました。」

 

 特高は敗戦の直前まで国民の耳目を塞ぎ、戦況悪化の情勢も統制下に置き、世論の反戦・厭戦の動きを封じ込めた。人々は戦時動員されても、反発や異議申し立ての機会が奪われた。(人々は戦争に賛成していたのでは)

 

 一方、次のような論調もあった。

139 陸奥啓太は「3・15事件前後」(『中央公論』1931.6)の中で、以下のように述べた。

 

 「3月15日の大検挙の結果、日本共産党の存在とその勇敢な活動の真相は、全国の労働者農民の間に知れ渡った。党に対する大衆の支持は、数日の中に高まってきた。

 戦闘的な労働者農民は、党を支持援助すると共に、自分も党に結びつき、破壊された党再建のために献身しようとしていた。これは党の一切の活動にとって甚だ有利な情勢であった。ある意味、支配階級の弾圧が却って党の宣伝煽動をやってくれたという皮肉な結果となった。」

 

 しかし、リベラルとされた同じ『中央公論』でも評価は同じではない。

140 政治学者の吉野作造は『中央公論』が事件直後に企画した「特集 共産党検挙と労農党解散事件」に次のような一文を寄せた。

 

 「日本共産党の正体に関する見解、これについての政府側の見解は、すでに司法省から発表された。(事実が)この発表の通りだとすれば、日本共産党が国法に触れるのかどうか。もし、右の見解(政府見解)に私とともに賛同し、しかも日本共産党に国法抵触のおそれがない、というのならば、それは一転して事実の問題となる。(事実を無視しているということか。何を言いたいのか、さっぱり分からん。共産党は法律違反だということをいいたいのか。)

 

 吉野作造は晩年、右派無産政党である社会民衆党の結成に関わり、日本共産党に批判的であった。

 

 (共産党)事件以後、右派無産政党は解散を命じられても、離合集散して存続した。戦前の無産政党の統一政党と言われる社会大衆党は、戦前最後の総選挙1937.4で36議席(定数468)を獲得して第三党に躍進したが、最終的に戦争協力の側に立った。

 

 

第四章 事件の評価と記憶

 

1 事件を伝える人々

 

143 松本清張の記念館が北九州市小倉北区勝山公園内にある。

松本清張『昭和史発掘』第二巻文藝春秋1965によれば、

 

「1927年の8月半ば、警視庁特高課労務係に特高課長纐纈弥三と次席警部の毛利基と他3、4人の課員がいた。

144 そこへ毛利の部下(スパイ)から、山形県五色沼温泉で(第二次)共産党創立(再建)を目的とする重要会議があったという情報が電話で寄せられた。

 弥三は毛利を五色沼温泉に出張・調査させた。

 毛利はかねて日本共産党再建運動が秘密裡に進められているという情報を耳にしていたので、今の電話の告げた重要会議とは、その方面だと直感した。――と纐纈は回想している。」

 

 弥三は自由民主党の代議士時代に「赤色戦線大検挙」(107 『文藝春秋』1955.8)と題する文章を寄稿したが、松本清張の前述の文章は、弥三のこの寄稿に基いている。

 

145 松本の前掲書は、毛利に情報を提供した上記の内偵者(スパイ)の存在の大方の輪郭を明らかにした。しかし、不透明な部分も残っている。

 

 弥三は前掲寄稿で、台湾の基隆(ジーロン)で落命した渡辺政之輔の最後が、警官に追われた後の拳銃による自決だったとし、「遂に進退窮まって観念した彼は、自ら拳銃をこめかみに擬し、右から左に前頭部を見事に打ち抜いて自殺してしまった。」と記している。

146 松本清張もそれをそのまま借用しているが、真相は今でも定かでない。包囲されて拳銃を取り出したが、警官によって射殺された可能性も状況から否定できない。

 松本清張は、五色沼温泉での会合の事実を、「秘密結社日本共産党事件の概要」*を紹介する形で、「五色沼の情報は、警視庁だけでなく、大阪府当局にももたらされていたことが分かる。内部のスパイの存在が考えられる。」とする。

 

*司法省刑事局長・泉二新熊(もとじしんくま)が作成した「秘密結社日本共産党に関する治安維持法違反事件に関する件」1929.10.25, 123のことか。

 

 弥三は自らの部下による内偵の成果を強調するが、その根拠はどこにあるのか。弥三は事件担当者として、警視庁特高課が突き止めたことを誇示したいのかもしれない。松本の記述はその後一部修正された。

 

147 与謝野晶子は第一次世界大戦開始後、雑誌『太陽』に婦人問題を中心にしながら、社会・政治・教育などの分野で健筆を振るった。

148 与謝野晶子は『横浜貿易新報』1928.4.29に「国難と政争」と題した評論を寄稿した。同紙は現在の『神奈川新聞』の前身である。それによると、

 

「大袈裟な言葉が議会で流行する。『国難』などの言葉は最も不謹慎であり、また奇怪である。」

「共産党の秘密結社事件(3・15)の真相を私は知らないが、少しばかりその事実が存在しているのを、現内閣が政略のために誇張し、「国難」の感を国民に抱かせ、注意を転じさせて、内閣打倒運動の気勢を弱めようという計画だろう。総選挙の結果を見て、にわかにこのことが現内閣によって計画されたように思われる。わざわざ罪人を作るために、検挙の範囲が拡大されたのではないか。」(『与謝野晶子著作集』第19巻1924—1928, 龍渓書舎2002

 

 1928年2月の総選挙で、田中内閣の鈴木喜三郎内務大臣は選挙干渉を強行し、世論から大きな批判を受けた。それでも選挙結果は、政権与党の政友会と野党民政党との議席差は僅かで、無産政党の進出も当局に大きな衝撃を与えた。

 与謝野晶子は、日本共産党弾圧に、田中内閣打倒の要求を回避する意図があったのではないかと指摘する。与謝野晶子は次のように述べる。

 

「鈴木内相は思想取り締まりの最上の施政として、さらに警察政治を増大し、特高課のスパイを全国に張り巡らせるために、300万円の追加予算を要求する。思想が警察権で左右されるなら、学者も芸術家も社会改良家も要らない。まことに結構な国柄と言うべきだ。」

 

 与謝野晶子は警察政治の出現を洞察していた。

 

150 当時のジャーナリズムの多くは同事件について沈黙を強いられ、報道禁止措置に唯々諾々と従ったが、『東洋経済新報』の主幹・石橋湛山*だけは違った。次は石橋の書いた社説である。(松尾尊兊(だ)編『石橋湛山評論集』岩波書店・文庫、1984

 

*石橋湛山 陸軍少尉。ジャーナリスト、政治家、教育者。自由民主党。大蔵大臣、通商産業相、内閣総理大臣(1956.12.23—1957.2.25, 65日間)、郵政大臣などを歴任。

 

「共産主義の正体 その討論を避けるべきでない 1928.4.28

 

古来新思想の勃興を権力を以て圧迫してこれを滅し得た例は絶えてない。これはいやしくも歴史をひもとく者の等しく認めねばならぬ昭乎たる事実だ。」

 

石橋は、人間としての自由と尊厳を取り戻す思想や、その思想を根底に据えて社会を創造することを、物理的な力で押さえ込むことはできないと論ずる。

 

「最近の共産党事件(3・15)を考えると、記者は実に遺憾を感じないわけにいかない。田中首相は九腸寸断の思いを込めてこの事件を奏聞したとか述べたというが、彼にして九腸寸断という程の敬虔を以て自己を顧み、社会の現状を深く思うならば、そこに必ず発明するところがなければならぬ。」

 

151 石橋は自由な言論に担保されて初めて、社会の発展が期待されるとする。

 

「記者がここで強く主張したいことは、ただ次の一点である。世人はどういうわけか、共産主義と聞きさえすれば、その正体が何者かも知らないで、頭から国家を覆滅する危険思想だと断定する。そしていたずらにその研究討議さえも抑圧するが、これは却って危険なことだ。」

 「そもそも共産主義とはどんな者か。…一言にすれば、社会生活に対する一種の理想に他ならない。共産主義の古くからの標語であるが、各個人はその能力に応じて働き、各個人はその需要に従って生産物の分配を受ける。…いわば現代社会の家庭生活の如く、社会生活を藹(あい)然(穏やかに和らいで)とした団欒に化したいというのである。」

 

152 「共産主義が掲げる理想を、そんなことは夢だ、…というのは多分多くの人の感想だろう。が夢は必ずしも悪事ではない。たとい夢でも、善を求める夢であるなら、多いに夢を見るのが良いではないか。古来の大なる仕事は、全て人の夢から生まれた。」

 

 石橋は小日本主義を説き、侵略戦争に断乎反対する姿勢を貫いた。

 

153 木村京太郎は「思い出 三・一五事件」の中で、検挙された人々の弁護で活躍した布施辰治を高く評価した。(部落問題研究所編刊『部落』1968.9

 木村京太郎は1922年、水平社の支部である小林水平社を結成した。翌1923年、全国水平社青年運動の結成に尽力し、3・15事件で検挙され、懲役5年の判決を受けた。木村は懲役に服した後、大日本生産党*に参加した。(転向か。)

 

*大日本生産党は国粋・ファシストの政治団体。

 

 森長英三郎は『史談裁判』日本評論社1966の中の「三・一五、四・一六――日本暗黒史の序幕」で、布施辰治や、両事件などの公判で弁論をした弁護士を紹介している。森長は戦後、自由法曹団に参加し、労働問題にかかわる裁判の弁護をした。

 

154 黒田秀俊は『昭和言論史の証言』弘文堂1966の「第二部 暗い冬の時代」に収められた「2 三・一五事件とその波紋」に中で以下のように述べている。黒田は戦前『中央公論』の編集長となり、戦後は日本平和委員会の常任理事を務めた。

 

「いよいよ検挙が迫ると、極秘のことを運ぶ必要から、検察部を日比谷公園内の松本楼におき、一管の尺八に風流をしのぶ演奏会と欺き、警視庁の纐纈特高課長、石井石蔵特高係長、清川秀吉労働係長、鈴木義貞内鮮係長、毛利警部、志村俊則警部補らは、そこで党員の所在を精査したうえで、昭和3年3月15日午前5時を期して、検挙の幕を切って落とした。」

 

 このことは戦後になって明らかになった。弾圧は用意周到に準備され、被弾圧側はそのことを充分に掴み得なかった。

 その後事件の真相が一層明らかにされ、1960年代に大体の事件の輪郭が把握された。

 

 有澤廣巳は『学問と思想と人々 忘れ得ぬ人々の思い出』の中の「ドイツで知った三・一五事件」の中で次のように語っている。

 

155 恩師であり、植民政策学者であった矢内原忠雄に、ドイツ留学から帰国して報告のために面談した折、「有沢君、君のいないうちに日本は大変変わった。桑田変じて滄海となる世の中になった。」と落胆に満ちた語りを聞いた。

 

 谷口善太郎・筆名・加賀耿(こう)二は、「三・一五挿話」(『綿』三一書房1946や、『谷口善太郎小説集』新日本出版社1963)の中で、下関から釜山へ、釜山から中国へ渡り、大連からハルビンへ移動する日本共産党党員を執拗に追いつめていくスパイの動きを描いた。

 谷口善太郎は須井一の筆名も用いた。谷口は戦後日本共産党衆議院議員を6期務めた。

 

 立野信之は『壊滅』の「第一章 三・一五事件」の中で事件の詳細を語っている。

 小笠原克(まさる)は『國文学 解釈と教材の研究』(學燈社1967.9)の「事件史 三・一五事件と文壇」のなかで、次のように述べている。

 

「三・一五を取材した作品は、詩歌を除いて10篇近く管見に入ったが、やはり中野重治「春さきの風」(『戦旗』昭和3年1928年8月)と小林多喜二「一九二八年三月十五日」(『戦旗』昭和3年11月~12月、原題「一九二八・三・十五」)が重要である。

 

157 淡徳三郎(本名・馬込健之助)は『三つの敗戦』(時事通信社1948)の中の「三・一五事件」の中で、京都学連事件や三・一五事件で検挙された自らの体験を語り、最後は海外に脱出した様子を描写した。

 

 三枝(さいぐさ)重雄は『言論昭和史 抵抗と弾圧』(日本評論社1958)の「Ⅱ 昭和初期における言論の自由確保の闘い」の「3 「三・一五事件」と政府の暴挙批判の論調」の中で事件を描写した。

 

岡本功司は、『灰色の青春 学生社会運動史の一側面』(東京大学新聞社編集部刊1948)の「狂瀾の中に 三・一五から四・一六まで」の中で事件について描写した。

 

2 強化される情報統制

 

158 3・15は1910年の大逆事件以来の大弾圧だった。当時の新聞紙法第23条「内務大臣は新聞紙掲載の事項にして、安寧秩序を紊(みだ)し、または風俗を害するものと認めたる時は、その発売及び頒布を禁止し、必要においてはこれを差し押さえることができる」という規定によって、記事差し止めの状態が一ヶ月余続いた。(曖昧な犯罪構成要件。全く権力の恣意で新聞の差し止めができた。)

 

 1928年4月、田中義一内閣は、検挙者の予審中に、記事差し止めを解除した。中澤俊介は『治安維持法』中央公論新社・新書2017の中で、「予審が終わっていない段階で記事差し止めを解除するのは異例である。田中内閣は事件を早期に公表して、2月の総選挙での選挙干渉疑惑をかわそうとしたとも考えられる。」としている。

 1928年2月20日に施行された普通選挙法施行後初の総選挙である第16回衆議院選挙は、与党の立憲政友会と立憲民政党との激しい選挙戦となった。

 その選挙戦中、田中内閣は内務大臣の指揮下で、内務次官、警保局長、警視総監の内務三役に、選挙干渉の陣頭指揮に当たらせた

 これに対して立憲民政党は、選挙革正委員会を設置した。選挙結果は、立憲政友会が218議席、立憲民政党が216議席、いずれも過半数を得られなかった。

 この選挙で、労働農民党、日本労農党、社会民衆党、日本農民党などの無産政党や無産諸派は8議席を獲得し、これは政府にとって驚きの結果となった。

159 これらの無産政党は合法化されていたが、政府は日本共産党には弾圧と監視で臨んだ。

 田中政友会内閣は選挙干渉によって野党立憲民政党から執拗に批判を受け、この批判を回避するために、日本共産党の弾圧によって、野党や世論の田中内閣批判を緩和しようとした。

 

 1928年4月、報道統制が解禁となったが、4月11日付『東京朝日新聞』夕刊の一面見出しによると、

 

「共産党の結社露見し、全国で千余名を大検挙 過激なる宣言綱領を作成して画策した一大陰謀」「起訴四百名に上らん。尚逃走中の首脳多数。山形県五色沼温泉を根拠に、学生多数加盟す。国体を根本的に変革し、労農独裁政治を目論む 全国に散布せる党員数百名 司法省発表の事件の概要」

 

160 そして同紙二面では、

 

「五色温泉の集合に人目欺く無頼講の宴 社長の慰安会と触れ込んで 各自様々に変装して乗り込む」

 

センセーショナルで世論に衝撃と恐怖心を煽るような報道であった。

 

 しかし、同紙は同日の社説「共産党事件の検挙」の結論部分では、

 

「既成政党が今日の体たらくなる限り、普選が新興勢力の議会参加を要望する限り、無産政党が起るのは正に『正常』なる政治運動の発展であり、…」「社会の欠陥を矯正するためには、究極において支配階級の反省と、議会をして歩歩ますます完成ならしめ、民衆の「熱情」を合理的に遂げさせるほかにない。この意味において吾人は、議会中心政治を高唱するものであり、今回の事件を、希(ねが)わくは、政治刷新の一大転機にさせることを期待する。」

 

161 朝日新聞は比較的穏健リベラルだったが、田中義一内閣や政党政治への「強い」姿勢を一貫して示しており、その延長線上に3・15を捉えていた。

 1929年4月16日、1道3府24県にまたがる共産党全国一斉検挙が再び行われ、700名余が検挙された。市川正一、鍋島貞親、三田村四郎など共産党幹部も検挙された。

 3・15事件は内偵を重ねて偶然に得た情報を基にしていたが、4・16は、周到に準備された計画的弾圧であった。3・15、中間検挙、4・16などを通して、1929年11月までに合計836名が起訴された

 

162 3・15後、権力による日本共産党への弾圧を鼓舞し、評価する雑本が盛んに出版され、世論に衝撃を与えた。

 立山隆章『日本共産党検挙秘史』武侠社1929の「八、第二次日本共産党の大検挙――いわゆる3・15事件の真相」によると、

 

「かくて一つ一つと確証を握った警視庁当局は、共産党大検挙を行うことに決し、検事局、内務省警保局と打ち合わせを終え、着々準備を進めていった。先ず共産党員に手入れを気づかれぬために、本部を警視庁内におかず、市内某所に一家を借り受けて仮本部とした。

 纐纈特高課長、石井特高係長、浦川労働係長、鈴木内鮮係長以下、毛利警部、志村警部補初め、腕利きの特高刑事が仮本部に詰めきり、同僚に対してすら、病気、出張、欠勤などの名目で欺き、大検挙の下準備が備えられた。」

 

 北一夫『日本共産党始末記』塩川書房1929の「三・一五事件 当日の大検挙」も同様である。

 

「昭和3年1928年3月15日午前5時、東京を中心として、北海道、横浜、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡等、一道三府三十県にわたって、日本共産党秘密結社の全国的一斉検挙が突如として、疾風の如く、また嵐の如く行われた。事件の震源地である東京においては、東京地方裁判所検事局、予審、警視庁官房が、検挙方法について、水も漏らさぬ緻密な打ち合わせを遂げた。

 検事局松阪次席検事を総指揮官に、思想部の平田、亀山、中島、枇杷(びわ)田、渡邊の各検事が出勤し、予審からは、塚田、小林、藤本、八木の各判事、警視庁官房は、纐纈特高課長を指揮官に、特高、内鮮、労働、外事各150名の私服刑事を総動員して、市内外の各警察署と連絡を取り、前夜から蟻の這い出る隙もないまでに、十重二十重の警戒網を敷いて、15日払暁――との時の至るを待った。」

 

164 内務省警保局編『三・一五 四・一六 秘密記録 日本共産党検挙状況』内務省資料刊行会1929は当時の正確な数字を示す。

鈴木猛『共産党跳躍の全貌』奎文社1932の目次を見ると、□赤色ギャングと共産党、□法廷に佐野学一味起つ、□共産党大検挙秘録、□共産党運動の全貌、□共産党是非の弁、□共産党運動はどこへいく」

楠瀬(くすのせ)正澄『戦術を主とせる共産党運動の研究』新光閣1933は、扉に「思想国難」と記し、次のように記す。

 

「光輝ある和が国体の変革を企てる日本共産党が、検察当局の数回にわたる検挙を見たにもかかわらず、執拗に活躍し、検挙の回を重ねるたびにその検挙人員数を増していることは、一大恨事である。

 ことにその中に学識・教養のある真面目な青年が多数入党していることは、遺憾とすると共に、深く注意をひかれる。」

 

165 戦後になってもこの種の出版物は少なくなかった。

北条清一『昭和事件史 風雪三十年の裏街道』鱒(ます)書房1956の「暁の大捕(おおとり)三・一五事件」や、小泉輝三郎『昭和犯罪史正談』大学書房1966の「三・一五事件」などである。

 

宮下弘は富山県の特高課長まで努めた。

 事件当時巡査であった宮下への「――選挙直後に行われた三・一五の共産党検挙に、巡査は動員されなかったのですか」の問いに、宮下は次のように答えた。(前掲書『特高の回想 ある時代の証言』)

 

「それは各署の高等係、私服が行く。制服の巡査が動員されるほどのことはなかったですね。当時私は原庭署で外勤とか営業係だったから、ぜんぜん関係がありません。三・一五のことは、検挙からだいぶたって、新聞記事になってから読んだわけで、普通の人と同じ程度にしか知りません。

 三・一五は、一般の警察官にも寝耳に水でしたね。第一回普通選挙で、労働農民党から立候補した者が共産党のビラを撒いて、それで一般が共産党の存在を知ったようなもので、当時は共産党なんてぜんぜん意識にのぼってなかった。」

 

 宮下は、三・一五、四・一六事件前後に特高警察の大拡充が行われたときの1929年2月に、警部補に昇進し、原庭署(現在、東京都墨田区両国)から尾久(おぐ)警察署に異動した。

 

 さらに三・一五事件と毛利基(もとい)との関係について、宮下は、

 

「昭和三年1928年3月15日の大検挙は、そもそも端緒も検挙の主導権も、特高課の労働係で、治安維持法違反を担当する特高係ではなかった。そのわけは、労働係次席に優秀な毛利基警部がいたためで、特高係は当時面目ない状態だったということでした。」

 

167 同事件では労働係長であった石井警部が、三田村四郎と、渡邊政之輔の妻丹野セツを取り逃がしたこともあり、石井係長が三河島警察署長に転出し、代わって毛利警部が係長に就任したと(宮下は)言う。

 小林多喜二を拷問し、虐殺したとされる中川成夫警部について、「文化団体を担当していた中川警部が特殊に暴力的だったと思えませんが、書く人、書ける人が捕まってくるんだから、それで(特高批判が)書かれたということなのではないか。」と宮下は弁明した。

 

 これについて副田(そえだ)義也(よしや)は「彼(中川)は生来のサディストであったのか、それとも特高警察の非人間的な仕事をしているうちにサディストの性癖に目覚めたのか、「特高警察は天下国家の仕事をするところ、明るかった」という宮下の言い分をそのまますべて受け入れる訳にゆかない。」と述べている。

 

168 現在でも秘匿されたままの拷問と虐殺の事実が、依然として闇の中に閉じ込められたままである。

 

 詩人・佐藤惣之助は4・16事件について「四・一六事件公判――Y市法廷にて」において、次のように詠った。

 

再審――扉はパタリと世界を裁断した

被告十九人――棘(きょく)たる小鷲(わし)の背中からは青空と空気が酸のように離脱されて行った

若い性格――そこには田園の唄が煙っていた

熱い行動――生活がボロ靴のやうに忌棄されていた

直線的な目的――歯車の火が派のやうにこぼれた

判決――凄壮(せいそう)な武器は月の如く空中を飛行した

時間と空間は切断され、組み変えられた

ガーン、鉄製の冠は十個だけ天井から落下した

 

 

3 犠牲者の実相と支援

 

169 三・一五事件による弾圧は、日本共産党を含む無産政党や労働組合に深刻な打撃を与えた。

170 兵庫県労働運動史編纂委員会『兵庫県労働運動史』(兵庫県商工労働部労政課1961)の「第一節 三・一五事件を契機とする無産政党・労働組合の分裂と対立」には、以下のように記されている。

 

「神戸ではこの日の未明、神戸地裁検事局の20数名を非常招集し、これに判事6名も加わり、10数班に分かれて出動、私服警官180名も自動車に分乗して、神戸、阪神沿線、加古川、但馬、淡路で64名を一斉検挙(うち18名起訴)し、神戸市内だけでも労働農民党神戸支部をはじめ、84ヶ所で家宅捜索を行い、10数台のトラックに満載されたという証拠物件を押収した。」(凄い。)

 

 また、青木恵一郎『改訂増補 長野県労働運動史』(巌南堂書店1964)の「(2) 長野県における共産党の確立と三・一五事件」の節には、次のように記されている。

 

「長野県下においても、三・一五には百余箇所の捜索と、70余名が検挙された。即ち永井有三、神津敏治、竹城万次郎、小林伍作、神津菊雄…等が検挙された。」

 

 そして長野県警察部は次の発表を行った。

 

「検挙の理由 国体を変革し私有財産制度の否認を目標として社会変革を遂行せんとする秘密結社日本共産党に加盟する者がいるのを認知したので、治安維持法違反として検挙に着手したのである。

 検挙着手とその分子 共産党員は主として労農党及び全日本無産青年同盟、日本農民組合、日本労働組合評議会等、左翼的無産団体員中に存在したものと認められたので、3月15日未明、同団体員中の容疑者を一斉検挙に附し、証拠捜査を続行した。」(はっきり共産党員とは分からずに捕まえたことを白状している。)

 

171 数多の検挙者を出した労働農民党は、弾圧事件の翌日3月16日と18日に、緊急対策委員会を開催し、3・15事件の弾圧に抗して準備を進めたが、政府は、4月10日、労農党等に解散命令を出し、無産政党の息の根を止めようとした

 

 戦後になって事件の被害者たちは、獄中体験を含めて記録を数多く残した。

 

寺尾としは労農党の書記を務め、その後、日本共産党に入党し、袴田里見の下で1935年2月まで『赤旗』の編集に従事した。

172 寺尾としは労農党の書記時代、3・15事件で検挙され、拷問を受けた体験を語っている。また、1929年4月16日事件でも検挙され、その後転向と復党を繰り返した。

 3・15事件当時、特高は合法政党である労農党と日本共産党との関係を執拗に監視・追跡していた。寺尾は1928年3月15日に、勤務先の労農党事務所に向う途中で検挙された。寺尾の自伝的作品『伝説の時代 愛と革命の二十年』(未来社1960)によると、

 

「何のための検挙だろう。しかし大勢だから留置場でも景気のよいデモがやれるなどと私は考えていた。1928年3月15日、私達にとっては生涯忘れることのできぬ恨みの記念日である。」

 

 寺尾は日比谷署をはじめ、何箇所かの警察署で勾留と保釈を繰り返される。そして最初に勾留されてから三ヶ月後に警視庁に連行される。勾留されていた富坂署から警視庁に連行された時の様子は以下の通りである。

 

「長かった29日間の勾留期間がようやくあけて、私はこんどこそ自由の身になるのだと心がはずむ。ところが自動車に乗せられて警視庁へ行った。留めおかれるのかと内心気が気でない。しかしそれは杞憂だった。纐纈特高課長の説諭と、志村警部補の注意を頂戴するために、わざわざ連れて行かれたのであった。」

 

173 原菊枝『女子党員獄中記』の「三・一五」(春陽堂1930)の章によれば、下記の通りである。

 

「刑務所に送る。二三日前に不思議にも、少し散歩に出すから出て来いと、しかも(纐纈)特高課長が、ニコニコやって来た。何となしに一物ありそうである。ズンズンどこまでも階段を上がっていく。どこへ何しに行くのかと言ってもただ笑っているだけである。」

 

174 杉森久英1912--1997の徳田球一1894.9.12—1953.10.14評伝『徳田球一』の「一斉検挙の鉄槌下る」(文藝春秋1964)の中に、三・一五事件を党員側が事前に予知していたとする次の記述がある。

 

「三・一五事件のあることは、少し前からうすうす分かっていた。九州地方委員長の藤井哲夫が、3月8日ころ、近く大掛かりな手いれがあるらしいから用心するようにという情報を手に入れて、東京へ知らせ(て来)たことを記憶している。東京でも、いろいろな動きから、近く何かあるらしいと感づいて、一般党員に警告しようかという意見も出たが、若い人たちを萎縮させたり、いたずらに動揺させたりするのも考え物だというので、迷っていた。」

 

 徳田球一は三・一五事件の三週間前の2月26日に、検挙された。

175 特高は1928年2月に実施された、普通選挙法施行後最初の総選挙に、徳田球一が労農党から福岡第四区から出馬しており、事実上の共産党員(事実上の共産党員とはどういうことか)と分かっていたから、監視と尾行を続けていた。徳田は総選挙が終わって1週間後に検挙された。

 杉森のこの徳田の評伝の中に、同事件で、弁護士資格のある徳田が、田中義一内閣による山東出兵を批判したという記述がある。

 

 弁護士・布施辰治は人権擁護のために、明治後期から昭和初期にかけて活躍し、三・一五事件ばかりでなく、種々の弾圧事件で検挙された日本共産党員を弁護した。

176 以下は「布施辰治懲戒裁判関係資料」(明治大学図書館所蔵、布施辰治旧蔵資料)の中の「日本共産党事件の弁論速記 弁護人 布施辰治」(1932年7月7日 於東京地方裁判所刑事法廷)による。

 

 1932年7月7日午前10時3分に開廷した法廷で、弁護人の弁論が始まった。

 

「私は、まず第一に、検事の論告と求刑に対する総合的な反駁として、余りにも空疎な論告内容と酷烈な求刑との間における矛盾を指摘するものであります。」

177 「治安維持法特製の法律術語になっている国体という問題については、歴史的にも政治的にも、特に法律的にも、すでに被告諸君からその妄想的な正体が粉砕されつくされているのであります。更に私有財産という問題につきましては、最も強く、かつ詳細に、世界恐慌の波に襲われた資本主義の危機・没落が、完膚なきまでに暴露しつくされておるのであります。」

 

 布施は、検事の述べる「国体」とは、幻想以上のものではなく、その「国体」なるものを法律によって強引に解釈し、これに抵触するとして反国家的行為と断じることの無意味性を説いた。そして、

 

「私が指摘したいことは、現実社会の進化発展の動きがどこに向っているかということ、しかもそれを示す労働者・農民・勤労大衆の現実的な動きを全然無視しているという妄断であります。」

「3・15事件は、絶対不可避の変革期に直面している日本の現状に、歴史的な時代を画する一大事件だということだけを一言して置くことには、おそらく何人も異議を挟むことはできないと信じる。」

「日本共産党の主張・活動は現実を無視しておるものである云々、これは何という滑稽さでしょう。検事自身が余りにも現実に目を蔽い、これを無視しておりながら、被告諸君の主張と活動が現実を無視しているものであると言ってこれを批難し、そして、その故に、極刑まで要求せられたことは、誠に驚くべき笑うべき矛盾であります。これは絶対に被告諸君の受けるべき非難でないと信ずる。かえって検事当局の自己批判に適切な非難でなければならない。」

 

178 裁判官は時折質問めいた発言をするが、ひたすら布施の弁論を聞く一方だった。

 

 「布施辰治懲戒裁判関係資料」の中に、獄中から出された、布施の支援に対する感謝の書簡が収められている。

 3・15事件裁判は、一部は分離公判もあったが、4・16事件の被告と統一して行われた。被告たちは公判を日本共産党の主張を展開する好機として捉え、法廷闘争を展開した。

 

179 1932年10月、3・15事件の被告であった徳田球一、志賀義雄、杉浦啓一、河田賢治らに最高刑である懲役10年の刑が下された。

 

 市川正一は豊多摩刑務所に収監された。市川は山口県厚狭(あさ)郡宇部村(現在の宇部市)出身で、市川の本籍地とされる山口県光市鮎帰(あゆかえり)の、光市と柳井(やない)市とを結ぶ県道22号線沿いに、没後27周年と記念して、1972年3月15日、「市川正一記念碑」が建立された。

 

 市川は31歳の時に日本共産党に入党し、1923年6月、治安維持法1925で(1923年当時はまだ治安維持法は制定されていないのではないか。)懲役8ヶ月の刑に服した。党理論雑誌『マルクス主義』編集委員、党合法紙『無産者新聞』主筆を努めたあと、1926年2月、党中央委員、1929年4月16日、逮捕された。

 市川は布施弁護士の弁論を受けつつ、公判で党史を踏まえた果敢な陳述を行った。その陳述は戦後、『日本共産党小史』として出版された。1945年3月15日、最後の収監地であった宮城刑務所で死去した。53歳だった。

 

 以下は市川の布施辰治に宛てた書簡である。日付は1930年2月8日である。

 

「愈々ご多忙の事と察します。何卒ご健闘の程祈ります。予審どころか検事の調べも一向はかどらない(まだ一回も聴取なし)のはどうしたのかと大いに憤慨していますが、これから盛んに催促もし、又上申も出すつもりです。今まで少し僕もボンヤリ怠慢に過ぎた様です。斯うして予審が後れるのも皆の同志と一緒に後れるのなら少しも苦痛としないのですが、何だか特別にホリ放なしにされている様なヒガミ(?)が起ります。

 若しそうなるのだとすると、僕等は分けられたうえにも、分けくれる結果になって、甚しく法律上不都合を来たすでせう。こちらでも今後大いに法律上の権利を行使しますが、どうか貴方の方でも、その御積りで御尽力ください。僕のためだけでなく御願いします。」

 

180 市川は日本共産党の幹部だったが、統一公判を前提に法廷闘争を展開しようとした。

 

 丹野セツは市ヶ谷刑務所に収監されていた。丹野セツは1926年、日本共産党に入党。党の婦人部長から、1927年、関東婦人同盟に加入し、常任委員となる。1928年8月検挙。1932年懲役7年の判決を受け、1938年宮城刑務所を満期出獄した。丹野は渡邊政之輔の夫人である。

 

181 丹野セツ獄中書簡1932.8.4

 

「毎日お暑い日のみ続いていますが、先生(布施辰治)にはお変わりなく、ますますお元気にて御奮闘のことと心からお喜び申し上げます。いつも心にのみで失礼して誠に申し訳ありません。

 過去一年余に渡る公判闘争に於ける先生始め皆様の心からなるご努力を感謝いたします。おかげ様にて一先ず休戦の形にして、私などこの暑さと戦いつつ元気でいます。

 益々深刻な時期に於きまして、今後私たちに与えられるものは想像以上だろうと思います。しかし、いつも奮闘して下さる先生のご恩に報いるために、元気で過ごすことをお約束いたします。」

 

182 布施辰治の注記

 

「丹野さんは珍しく輝いていた婦人闘士である。公判闘争の席でも法廷委員の中へはさまれて第一列に席を占めていたが、使命黙秘(氏名黙秘か)にも、何か事あって順次報告の意見を述べる場合にも、一般の注目を引いているものだが、並ぶ男性の闘士に伍して少しの遜色もなかった。

 丹野さんは前から知っていたが、保釈出獄中、基隆(ジーロン)で仆れた渡邊君の論文集を整理したりする時など、色々話を聞く機会を得たが、丹野さんの成長は、渡邊君の教養によるものらしい。」

 

183 「丹野さんのある意味における聡明さを示したものは、突如として控訴を取り下げ、一審判決へ服罪したのであった。」

「第一審判決へ一斉に不服を申し立てていた丹野さんが、途中単身突如として控訴を取り下げた時には、お母さんも驚いたし、皆どうしたのかとびっくりしたのであったが、後で考えてみると、佐野、鍋山氏等の転向問題に巻き込まれないで、渡邊君の志を守るというのが、丹野さんの控訴取り下げの所以であったらしい。」

 

 

 三枝重雄『言論昭和史――弾圧と抵抗――』の「3 「三・一五事件」と政府の暴挙非難の論調」によれば、

 

「(推測される弾圧の動機は、)初の普選が予期の結果をもたらさず、議会乗り切りはとうていできそうになかった田中内閣が、共産党弾圧という目標によって、半封建的勢力およびブルジョア諸勢力の超党派的な賛成を勝ち得ようとの陰謀から出たものである、というものであった。この見方は、4月17日の朝日新聞に見られる「にわかに変わった貴族院の雲行 共産党事件で政府に有利」という見出しで始まる次の記事から推して、相当根拠のあるものであった。」

 

 その朝日新聞の記事とは、

 

「共産党事件に関する政府の発表は、現内閣に対し反対気勢を高めんとしていた貴族院に方向転換の機会を与え、今まで反政府熱が高まっていた研究会を初めとして、他会派においても、その際政府を鞭撻して共産党の根絶をはかろうとする政府鞭撻の運動が起こってきた。」

 

 田中内閣は、中国侵略の本格化を阻もうとする諸勢力を弾圧し、対中国強硬外交を実行しようとした。天皇制国家に異議を唱える諸勢力を根絶し、自らの内政外交政策を強行し、これを背後で支援する三井などの財閥の利権を擁護しようとした。

 

185 1928年2月の総選挙で、日本共産党は2万8816票、労働農民党は19万3028票で2名の当選者、社会民衆党は12万8756票で4名の当選者、日本労農党は8万6974票で1名の当選者、九州民権党は2万3015票で1名の当選者、その他の無産政党が6万447票で、無産政党の総得票数は、52万1037票、当選者は8名だった。

 

 

Ⅲ 戦争を内側から支える ――官僚の戦争責任――

 

第五章 思想統制と思想動員

 

1 国体思想の注入

 

188 纐纈弥三は特高課長後、1929年5月、茨城県警察部長、1931年6月、静岡県警察部長、同年1931年12月、三重県警察部長を経て、1932年8月、外務省アジア局第二課事務官、1932年12月、上海領事となり、1934年4月から、関東局書記官を兼務した。これは、内務省所管の外事課からの派遣だった。

 

189 外地勤務の内容は、諜報であり、外地での日本人スパイの監視・情報収集をした。

 上海は欧米諸国の諜報員の集積の場だった。

 上海領事館の石射(いしい)猪太郎が外務大臣広田弘毅に提出した「警察事務に従事する領事副領事並びに警視の出張に関する件」1933.11.4の冒頭に、当時上海領事だった纐纈弥三の名前が、佐伯敬嗣上海領事や佐伯多助上海副領事らと共に書かれている。そして、以下の文面が記されている。

 

「当地に於ける不逞鮮人等の数次にわたる不敬兇暴の行動に鑑み、之か取り締まりの徹底を期する等のため、客年193212月、当館に警察部を開設し、警察事務に従事する領事、副領事等を置き、また警視以下警察官を増員せられ、爾来警察部長以下、その目的達成のため鋭意努力しつつある次第なるか、近時不逞鮮人らは当地を中心として北支南支等に相往来し、密に連絡を取り、今回兇暴計画実行の機会を狙いつつある。」

 

190 上海は国際都市として、政治闘争の場であった。朝鮮独立を志向する政治勢力が、欧米先進諸国を巻き込んで独立計画を進めていた。朝鮮独立を志向する勢力を監視し、その動きを封じるのが弥三たちの任務だった。

 弥三たちは、上海、香港、広東を始め、中国各地に出張した。

 1933年1月、日本は熱河省へ新たな侵攻を開始し、国際連盟をはじめ国際世論は、日本の対中国政策や膨張主義に不信と警戒を強めていた。

 当時の斎藤実(まこと)内閣は、1933年2月20日、国際連盟が日本の満州国建国を否認する決議を強行した場合は、国際連盟から脱退する決意していた。

 その後、日本は1933年3月27日国際連盟を脱退した。

 中国政府は警戒心を強め、中国国民も日本への反発を具体的な行動で示した。日本政府は、中国国内での不穏な動きに一層注力していった

 

191 弥三の中国での仕事は、公務としての表立った視察だった。

 

 弥三は上海領事を辞任後、再び警察部長になった。1935年1月、宮城県警察部長、1936年4月、兵庫県警察部長、続いて茨城県、静岡県、三重県など、5県で警察部長を歴任し、1939年4月、大分県知事となった。

 

 纐纈彌三が宮城県警察部長時代に『警察協会雑誌』に寄稿した「尊き経験を鏡として」がある。同誌は全国の警察部長、企業経営者、名望家層が寄稿する官製雑誌である。

 

「今や年ここに改まり、衆議院議員選挙は、解散の有無に拘わらず、近く行われることは既定の事実にして、昨秋の試練に基き、一層緊張の意気を以て取り締まりに当たらなければならない。蓋し、昨秋(選挙)粛正運動並びに取り締まり検挙が極めて好成績だったとはいえ、選挙の積弊は多年の癌と言うべく、一、二回の選挙により根本的に取り除くことができないことはやむをえないことだから、欠点は反省考慮して、巧妙に法網を免れようとする所や戦法に対しては、予め策戦を講じて、明朗公正な取締を励行し、以て選挙界を蠹(と)毒する悪弊を改め、真の浄化の実を挙げる決意でなければならない。」

 

 1925年の普通選挙法施行以後、買収や贈収賄事件が多発し、政党間の対立が激しくなるにつれ、それはひどくなり、かえって普通選挙への関心を削いだ。

 選挙腐敗防止策を、「選挙粛正」とか「選挙革正」と呼び、その施策を警察が担った。警察は国民世論の動向を監視し、選挙関連の事件を摘発した。

 1932年、5・15事件が起き、犬養毅政友会内閣が倒れ、政党内閣は事実上終焉し、汚職事件で世論から顰蹙を買っていた政党に代わって、「革新官僚」や「新官僚」の一群が現れた。

 

193 犬養内閣を継いだ斎藤実内閣や岡田啓介内閣になってから、選挙粛清委員会(会長は斎藤実前首相)が設置され、同委員会は選挙粛清中央連盟を結成した。

 内務省の指示を受けた知事や警察部長は、公明正大な選挙の実施を名目に、選挙監視と選挙啓発とともに、国民教化運動が推進され、愛国心を注入した

 

 警察は、「選挙粛清・革正」の中に、世論の動向を的確に掴み、当局にとって不都合な組織・団体・人物の選挙活動を牽制する意図も含めていたし、また、「選挙粛清・革正」のためには、政策の転換ばかりでなく、有権者や政党人に国体思想を身につけさせ、安定した秩序を形成することも含めていた

 

194 警察部の由来は1875年に各府県庁に第四課(警察担当)が設置されたことに始まる。以後、警察本署1880、警察本部1886、警察部1890、第四部1905、警察部1905と名称が変遷して1947年まで続き、1947年に都道府県警察になった。

 東京府には内務省直属の警視庁を置き、東京府以外の、北海道と樺太を含む府県は、府県庁の部局として警察部を置いた。また外地の地方官庁にも同様の部局を置いた。(樺太は共通法一条で内地と規定されていた。府県庁は、当時、内務省管轄だった。)

 警察部長(現在の警察本部長)は、奏薦による奏任官であり、勅命による勅任官である知事の指揮監督下で警察事務を遂行した。

 

 GHQは戦後の占領政策で、極めて強力な権限を有した治安弾圧機関としての警察の権限を制約するために、片山哲内閣に、中央集権的な警察権限の縮小案を作成するように要請したが、それが不徹底だったため、地方分権を骨子とする新警察制度の設置を命令した。

 

195 その結果1948年3月、警察法が施行され、府県警察部が廃止され、都道府県国家地方警察と、1600箇所の自治体警察(市町村警察)とに分割された。

 GHQは、弾圧と監視によって国体を守護した特高を含む戦前期警察や、天皇制を支えた国体思想を解体した。

 占領軍は「国体」を軍国主義とかファシズムと呼んだ。国体思想が侵略戦争を支えたと占領軍は解析した。

 

 纐纈弥三は1939年4月、大分県知事に就任した。知事職は内務官僚としては、本省の高位の役職以外では、多くの官僚が就任を目指すポストだった。

 戦前期の知事は、1947年に地方自治法が成立するまで、内務省を中心として中央官庁から派遣された。知事は勅任官であり、各省の次官や局長と同等の地位とされていた。

196 高文合格者でも勅任官まで昇進できたのは、その半分程度とされた。

 当時、全国の知事は、内務官僚出身者が務めていた。内務省における本省外で、部長経験者クラスが、順次地方の知事に任命された。

 戦前の知事は、地方行政を担っただけでなく、監視指導も行った

 

 1939年5月14日の父秋三郎の葬儀の翌日の15日、弥三は蛭川村主催の安弘見(あびろみ)神社での歓迎会に招かれた。

 

 

2 文部官僚時代の言動

 

197 1941年1月、弥三は文部省社会教育局長に、1942年5月、文部省普通学務局長に、同年11月、文部省国民教育局長に就任し、1943年、退官した。弥三は戦後の国会議員時代に、文部行政にかかわった。

 

 内務省は他の省にも影響力を持つ巨大組織であった。教育は社会思想に与える影響が大きい。弥三は青年の思想動向に強い関心と警戒を抱き続けていたから、教育の実態を監督・指導したかったに違いない。青年層の教育を通して国体思想を普及させる点で、警察行政と文部行政とはつながる。明治近代国家成立以来、教育と軍事・警察は表裏一体だった。兵舎と校舎の建築様式や制服が類似していたように、国体思想を注入する場としての教育が重要視された

198 1941年1月8日付で文部省が改変されたころ、弥三は文部省社会教育局長に就任した。社会教育局は1929年7月1日付で文部省に設置されていた。

199 従来内務省の管轄事項だった青年団・教化団体に関する事務が、1928年10月、文部省に移管され、それが社会教育局の所掌事務となった。実務補習学校関係事務も、文部省の社会教育局に移管された。

 

 弥三は社会教育局長時代に「新体制と青年学校」(青年教育振興会『青年と教育』1941.4)と題する論考を寄稿した。これは日中戦争が泥沼化し、欧米各国との対立が次第に深まりつつある頃の論考である。

 

200 「世界は今や歴史的一大転換の機に際会致して居ります。我が国もまた有史以来の大試練に直面し、肇国(ちょうこく)の大精神に基づき、大東亜共栄圏の確立に邁進しつつあるのであります。而して我国がよくこの大事業を完遂し、進んで世界秩序の建設に指導的役割を果たさむと致しますためには、国家の総力を整えることが絶対に必要なのであります。

 すなわち高度国防国家の体制を確立することが、現下喫緊の要務であります。この要務遂行のためには、一億同胞が真に一体となって各々その職域を通じて、奉公の誠を致す国民翼賛の新体制を樹立することが必要でありましょう。」

 

201 以下は、聖戦に勝利するうえでの青年の役割を強調する「皇国民錬成の青年教育」(大日本雄弁会講談社編刊『雄弁』1941.5)である。

 

 「未曾有の時艱(じかん)に際会し、聖戦の目的達成の前途はなお遼遠にして、予断を許さざるの今日、将来の国民の後勁(後に続く優れた者たち)として之が大成に当たるべき青少年の責務は、極めて重大と云わねばならぬ。宜しく自奮自励、気于を闊大にして識見を高尚にし、益々徳を磨き、業を収め、品性技能の玉成に務め、以て聖旨に答え奉らねばならぬと同時に、青少年の教育の万全を期すべきである。」

 

202 「現下における青年の覚悟」(日本青年協会『アカツキ』1941.6

 

 「我が国もまた聖戦(日中戦争1937)の火蓋を切ってより既に五か年、凡百の国難を排して肇国の理想顕現に邁進しつつあるのであるが、この時に際し、国民の後勁として、之が大成に当たるべき青少年の責務の極めて重大なるもあるを痛感しつつ、いまさらながらこの(教育)勅語のありがたさに感激措く能わざるものがある。」

 

 高度国防国家は、戦争形態の総力戦化に対応する国家総力戦体制と同義語である。

203 青年を国民の後勁と位置づけ、これを鼓舞動員していく政策の遂行を、弥三は自らの任務と考えていた。弥三は文部省社会教育局長と同時に、青年教育振興会副会長にも就いていた。

 

 「年頭に際し全国青年指導者に告ぐ」(青年教育振興会『青年と教育』1942.1)によると、

 

「畏(かしこ)くも昨年12月8日、米国及び英国に対し、宣戦布告の大詔渙発せられ、我が国が世界秩序建設への炬火(きょか)を翳(かざ)し、大東亜戦争に突入せる最初の輝かしき新春を迎えたることは(狂人!)、慶賀に堪えざるところである。…思うに今次の征戦は、皇国の隆替、東亜の運命のかかるところにて、大東亜共栄圏の確立は、我が自存の立場からも、これら東亜の諸邦と共存共栄の関係を増進せんとする上からも、極めて自然的なる欲求にして、万邦をして各々その処を得せしむるの大義である。

 かかる時我が国が盟主として国威を中外に宣揚しつつあるのとき、この嘉辰(かしん、めでたい日)を迎えたることは、「御民われ生けるしるしあり」*の欣喜(きんき)を今さらの如く体得せられ、我らが皇国に生を享けたる光栄をしみじみと痛感せられるのである。」

 

*天皇の民である我々は、生きている甲斐があることよ。(狂い咲きだね。)

 

204 「大東亜戦争」は「大東亜共栄圏」から来ている。それは侵略戦争や植民地支配の目的を隠蔽した。以下の「躍進途上における青年学校教育」(青年教育振興会『青年と教育』1942.4)は、弥三自身の戦争責任の重さを物語る。

 

「そもそも教育は、国家隆盛の源泉に培(つちか)う最も根本的なる部門を担当しているのでありまして、大東亜戦争の嚇々(かくかく)たる大戦果を確保し、永久不滅の大東亜共栄圏の建設が達成せらるるや否やは、一に教育の振否にかかっていると申しても過言ではないと存じます。而して、この教育振興の根本は、国体の本義を明らかにして、国体の精華を発揚し、いわゆる自我功利の確立を期するにあります。」(他者はどうでもいい。)

 

205 本来教育は個々の青少年に潜在している能力を引き出す場と時間の提供であり、他者の恣意的な目的や思惑によって誘導されるものではない。戦前日本の教育は「国家教育」と言われる。これに対置されるものが、個人の自由と平等を担保する「自由教育」である。人間が人間としての幸福を獲得し、人間としての権利を担保するのが近代国家の役割だとすれば、弥三らが目指した「国家教育」は、その人間の生存や権利を国家の都合によって剥奪し、そのことを「教育」という用語のなかで説明しようとする。

 

206 「戦時下家庭教育指導方針について」(中央報徳会『斯民』1942.4)によれば、

 

「今日の戦争は正に国家総力戦である以上、武力戦のみを以てしては到底勝敗を決すべきでないことも自明の理である。かかる見地よりして、今次戦争に何が何でも勝ち抜くためには、これに備える万全の措置を講ぜねばならぬ。この意味にして、次代の皇国を双肩に担うて立つべき青少年を、その芽生えの中より教養し、肇国の大精神に徹したる皇国民を練成すべき必要を、今日ほど痛切に感ぜらるることは、いまだかつて見ざるところであろう。」

 

 「戦時下家庭教育指導方針について」(帝国教育会『帝国教育』1942.4)によれば、

 

「殊に今日の如き非常時戦下におきまして、家庭教育をいかに指導するかは、銃後の国民生活を充実する意味から申しましても、また皇国の生命を永遠に発展せしめて行く上から致しましても、極めて緊要なることと申さねばなりません。」

 

 「跳躍途上における青年学校教育」(社会教育会『社会教育』1942.5)によれば、

 

「そもそも青年は国家活力の根源でありまして、畏(かしこ)くも青少年学徒に賜りたる勅語*の中にも、「国体に(を)培い国力を養い、以て国家隆昌の気運を維持せんとする任たる、極めて重く、道たる、甚だ遠し、而してその任、実につながりて、汝青少年学徒の双肩にあり」と仰せになっているのであります。

 青年こそ、大東亜共栄圏の建設に身を以てあたり、大東亜民族の良き指導者としての資質と気魄とを有するものでなければならないのであります。」

 

*教育勅語にはこの語句は見当たらない。

 

208 以上は、青年教育を担う青年学校への期待と貢献を強いる物言いであり、青年を帝国日本の兵士予備軍として捉え、戦地に赴かせることを自らの役割と規定し、文部行政に没頭した弥三の心境を髣髴(ほうふつ)とさせる。弥三は文部官僚としてひたすら国家のために忠勤を励んだ。

 

 1942年5月、弥三は文部省普通学務局長に転じた。1881年10月24日、文部省通達によって、それまでの官立学務局地方学務局が廃止され、普通学務局が設置された。

 

209 1942年6月のミッドウエー海戦で、日本は主力空母4隻を失ったが、その事実は伏せられた。それから三ヵ月後の9月、弥三は聾唖教育福祉協会主催の大会で次の挨拶をした。「第一回会員大会挨拶」(聾唖教育福祉協会『聾唖の光Ⅰ 教育号』1942.9

 

「皇国は今や大東亜戦争完遂のため、国内体制整備に万全を期し、以て国外に向って国家の総力を発揮せねばならぬ時期に際会しておるのであります。現下この要請に基いて、国内諸般の態勢(は)、政治的にも思想的にも、八紘一宇の皇国の本然の姿に立ち返り、国家一元の大理想に向って堂々と邁進しつつあるのであります。」

 

 視覚障碍者や聴覚障碍者も戦争に動員された。

 

 弥三は国民学校の社会的・国家的な役割について「国民学校における職業指導に関する通牒」で次のように説いた。

 

「国民学校教育の目標は、教育全般を皇国の道に帰一せしめることであって、皇国の道の修練がその一切なのである。国民学校における職業指導もまた、児童をして皇国の道に徹せしめ、皇国民として将来国家の要望に応じさせる職業生活に必要なる基礎的修練を与えることにあって、そのことが国民教育において重要なることは、さきに公布せられたる国民学校施行規則の中において職業指導を行うべきことを示されたことについて明らかなるところである。」(纐纈彌三「国民学校に於ける職業指導に関する通牒」(日本職業指導協会『職業指導』1942.11))

 

 国民学校は対英米蘭戦争が開始された1941年4月1日制定の「国民学校令」によって設立された。それは小学校制度を廃止し、初等科6年と高等科2年(前期中等教育)の合計8年間の教育機関とするものであった。

 国民学校は、教育勅語の精神を体現する教育施設として、強力な国家主義思想が貫徹された。

 国民学校令第一条「国民学校は皇国の道に則りて、初等普通教育を施し、国民の基礎的練成をなすを以て目的とす。」これはドイツの国民学校Volksschuleを模したものだった。

 ここでは児童・生徒の自律的・自主的な判断や、価値観の多様性を容認するような教育は封印され、国家の用意する雛形に押し込む画一教育が実践された。

211 国民学校は国家に隷属する児童・生徒の教育の場だった。

 

 弥三は普通学務局長時代にも、国家総力戦論を書いている。「大東亜教育と生活の科学化」(国民生活科学化協会監修『生活科学』1942.11)によれば、

 

「思うに、近代の戦争はいわゆる国家総力戦であって、戦争は単に第一線のみに止まらず、銃後国土も当然戦場であり、銃後国民も当然戦士でなければなりません。また単なる武力戦のみを以てしては、戦いの勝敗を決することはできないのです。思想戦、経済戦、宣伝戦など、あらゆる点に国家総力を綜合的に発揮活用することによって、初めて戦争の目的を達成し得らるるのであります。」

 

 これは軍部だけでなく官僚たちが盛んに宣伝した非常に基本的な国家総力戦論である。総力戦が現実となった場合、戦場と銃後という区分は解消され、日常の生活空間が常に戦場化する。戦場では兵士が、銃後では国士が、国土防衛=国体護持に注力しなければならない、と纐纈彌三は説く。

 それは民需産業を含めたあらゆる産業と国民精神を含め、戦争に集中動員する。そこでは国家社会が抱える矛盾や多様性は無視・排除され、国民の思想も国体思想を基軸に据えられ、強制的に同調させられる。

 

 弥三は、1942年11月から1943年1月の退官まで国民教育局長を務めた。

213 普通学務局は1942年11月1日付けで改編され、国民教育局と名称変更された。

 

 警察講習所編『警察講習録』に、筧克彦「国体の本義」平泉澄(きよし)「日本精神講話」が掲載されるころ、すでに文部省普通学務局長(国民教育局長)を退官1943.1していた弥三も、「国民教育の方向に就いて」を寄稿した。

 筧克彦は東京帝大で教壇に立ち、法哲学が専門の神道思想家であり、天皇中心の国家主義を説いた。平泉澄も東京帝大で教壇に立ち、日本中世史が専門で、皇国史観を唱えた。

 

214 纐纈弥蔵「国民教育の方向に就いて」(『警察講習録』松華堂1943.9

 

「三・一五事件、四・一六事件と申しますれば、皆様もすでにご承知の通り、1928年3月15日及び1929年4月16日に行われた日本共産党の全国一斉検挙を言うのでありますが、たまたま私は警視庁の特高課長を致しておりまして、この事件に直接関係いたしたのであります。

 由来いわゆる思想犯罪というものは、一つの特異の犯罪として考えられていたのであります。即ち思想犯罪に問われます者の多くは、あるいは健康上恵まれないで不治の病、主として呼吸障害の者が多いのでありますが、そういった不治の病に侵されまして世を儚(はかな)み、自暴自棄に陥りました結果、思想方面に頭を突っ込むというような者とか、又は継父、継母に育てられたといったような状態におかれましたために、結局性格的にも国体を変革し、社会改革を実行しようとするような不逞極まる非国民が、しかも20歳から30数歳程度の青年層に際立って多く輩出したということは、万世一系の皇統を戴き、世界無比の国体を誇った我が国家と致しましては実に由々しき大問題でありまして、一度日本共産党検挙のことが発表されまするや、朝野をあげて非常な衝撃を受け、また世人をして痛く震駭(がい)せしめたことは、当然のことといわねばなりません。」

 

 弥三はここで、「思想犯」の出自について差別的な認識と偏見を堂々と披瀝する。

215 弥三は自らの価値観や認識と異なる人たちや組織を徹底的に排除することによって、国体を護持し、国家を保守する戦前期官僚の姿を暴露する。

 

 しかし、官僚たちのなかには、日本共産党員の優秀さと、その思想性への暗黙の評価を吐露した文面を書き残す人もいた。

216 事件当時の検事総長小山松吉は、3・15事件の報道が解禁となった日の新聞取材に次のように答えている。

 

「今回の事件は思想的の国難 大検挙で感じたこと 小山検事総長の談

 

 今回の事件で感じることは、検挙された者の中には、単なる思想かぶれした者でなく、真に無産者のためを思う熱情から加盟している者もある。こんなところからみても、これは社会制度に、乗ぜられるべき欠陥があることに違いない。このとこに官民共に真面目に研究しなければならぬ問題である。このことなしには、いくら検挙しても何にもならない。」(『東京朝日新聞(夕刊)』昭和3年4月11日)

 

 弥三は、山本五十六大将がブーゲンビル島上空で米軍機により撃墜され死去した1943.4.18ことに伴い、「故山本元帥を偲びて教育者に望む」を育英出版『興亜教育』1943.7に寄せた。

 

217 「私は、国民教育を振作し、以て国運の隆昌を致すがために、一日中青少年の教育のために挺身努力せられる皆様と共に、故元帥が遺されました範にならい、その烈火の如き御精神をそれぞれの胸に移して、忠良有為なる皇国民の練成に最善をつくしまして、幾多未来の山本元帥を輩出せんことを期するものであります。」

 

 弥三は、異常なまでの差別意識で論じた「社会変革者」と、山本に象徴される「崇拝者」とを峻別し、一方を国体の破壊者と難じ、他方を国体の擁護者として敬う。

 天皇の官僚ならそれは当然かもしれないが、心酔と排除の峻別は、合理的な思考を阻害する。

218 彼のこの峻別が、日本共産党弾圧を突き動かしたのではないか、過酷な弾圧と拷問を強行し、それを成果として自己評価できるのではないか。

 

 弥三のこの差別意識は戦後も変わらなかった。むしろ戦前の官僚時代以上に戦後の国会議員時代に増幅された。

 敗戦によって戦前国家を失った耐え難い思いを抱きつつ、もう一度戦前国家を取り戻したいと考える人々は弥三以外に多く存在した。彼らは平和と民主主義の実現を求める動きにブレーキをかけ、戦前回帰へのアクセルを踏み続けようとする。

 

 

第六章 新たな戦前の模索

 

1 生き残った特高警察たち

 

219 弥三は1943年1月、23年間の官僚生活を終えて、会社の顧問等に就任した。弥三の日記によれば、「1944年2月1日、日本油化の顧問となる。同年4月下旬、日本硫鉄の副社長となり、9月末日、日本硫鉄の社長となる。耐火煉瓦の社長も受ける。」(「昭和19年の思い出」)

 

220 「マリアナ群島の状況、必ずしも我は有利ならず。サイパン島上陸部隊は漸次増大せられつつありという。」1944.7.1

「サイパン島の戦況は吾に不利のようだ。」「かなり善戦の様でもあり、一般人も相当自決も、また捕らえられたものもあるとのこと。」1944.7.6

 「どんな調子で変化するかも知れず、神の加護厚き我が国は、一段の国民の努力によりて、光輝ある三千年の歴史に傷をつけるようなことはないと確信する。」1944.7.10

221 「科学戦に対しては、科学を任じ、更に旺盛なる意識を以て努力してこそ、初めて神の加護が現れるのであろう。」1944.7.10

「今日サイパン島の皇軍玉砕の発表あり。」1944.7.18

 

弥三は、新聞記事「フィリピン沖海戦戦果並びに損害(一覧表)」を日記に貼りつけている。「近頃すばらしき戦果と言うべし。」1944.10.18

 

 しかし、それは幻の大戦果だった。戦果確認能力が不十分であった。海軍上層部は、この過ちを陸軍側や昭和天皇に知らせなかった。

 以後の作戦計画がこの誤報を元にして行われたことから、予想以上の被害を受けることになった。

222 フィリピン沖海戦とは、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦などの総括名称である。現在ではレイテ沖海戦という。

 民衆は誤報に基くレイテ沖海戦の戦果に喜んだ。戦勝を祈願していた人たちにとって、日本に再び神風が吹いて、この鬱積した状況を吹き飛ばしてくれると信じたい思いが先行した。その思いは「逆上陸」の用語に示された。

 

 1945年4月1日、沖縄本島への連合国軍の侵攻作戦の中で、昭和天皇は、牛島満司令官が指揮する沖縄第32軍守備隊に対して、包囲した連合国軍を背後から突くという、「逆上陸」作戦を命じた。しかしそれは無謀だった。

 

 「レイテ島方面の皇軍の働きめざましく、モロタイ島へは我が精鋭部隊逆上陸に成功す、と報道す。」1944.12.2 も誤った報道に基くものであった。

 

223 1944年8月から9月にかけて、アメリカ陸軍4万人、アメリカ航空兵力1万7千人が投入され、インドネシア東部モルッカ諸島の一つモロタイ島上陸作戦が行われたが、同島に展開していた日本軍兵力は、第32師団を基幹とした5千人だけだった。

 日本軍はアメリカ軍の上陸を許した。同年11月16日、歩兵第211連隊が上陸したが、全面奪還はできなかった。それにもかかわらず、これを「逆上陸」と宣伝した。

 

 「レイテの戦況が不利なことの話あり。」1944.12.29 「大東亜戦争の状況は必ずしも我に有利ならず。東條内閣後、小磯と米内を首班とする内閣出現。比島を中心とする戦いとなり、10月1日以来、敵機帝都に来襲することしきりなり。」(「昭和19年の思い出」)

 

 

224 内務省は敗戦後も特高警察拡充の方針を打ち出し、「昭和21年度警察概算要求書」に、組織拡充を目途(もくと)として、総額1900万円を要求することにしていた。その理由で最初に掲げた項目は、「視察内偵の強化」だった。

 それは「右翼組織や先鋭分子を対象とする」としていたが、最大の対象は、日本共産党による共産主義運動であったとされている。その他の理由として、連合国軍駐屯地域における不穏活動の監視と防止、労働・小作争議の防止などを挙げた。

 1945年10月4日、(内務省は)連合国軍最高司令官総司令部GHQに、警察力拡充計画の許可申請をした。

 

 しかし、GHQは、戦前の日本の警察力、特に特高警察の所業を熟知しており、人権命令によって治安維持法の廃止と特高警察の解体を命じた。

 

 内務省の上層部は、この指令にもかかわらず、同年1945年12月19日、特高警察が解体される代わりに、内務省警保局に公安課を設置し、全国の警察部に警備課を設置し、事実上、公安警察=特高を維持・復活させた。

 

225 アメリカ人ジャーナリストのマーク・ゲイン『ニッポン日記』筑摩書房1963から引用する。マーク・ゲインMark Gayn 1945年12月に来日し、1年間日本に滞在した。本名はMoe Ginsbourg という『シカゴ・サン』の特派員であり、『トロントスター』の記者でもあった。以下は山形県に出向いた時の話である。

 

「特高警察関係の役人や明白に戦争犯罪人と目される警察の長は全て解職するよう、特別の司令が発せられていた。隣県の山形県では、5人の特高警察の幹部が解職されたが、暫くしてその5人の所在が発見された時、みんな警察の幹部級の地位についていた。」

 

 特高に所属していた現場の警察関係者は、戦後、連合国からの処分を恐れて、一旦解職の手続をし、その後に新たに戦後警察の職を得るという手法を取った。

 

226 また、マーク・ゲインが東北のある町で、警察の特高係だったという人物を取材したとき、日本敗戦直後から、山梨県警察部大月警察署の署長をしているという人物のことを記している。

 

 「彼は、『日本敗戦まで隣町の警察で特高として勤務していた。私達は全部8月から9月にかけて異動されました』と言う。」

 

(日本の内務省は、特高の)解職から再雇用の形式を踏んだのである。

 

 「私(マーク・ゲイン)が署長に『特高警察が解体され、破壊的分子を監視する機関がなくなったのは、まことに困ったことではないか』と言うと、彼は『それは大したことではない。なぜなら、特高関係の仕事は県庁の公安課の司法官の手に引き継がれたから』と説明した。」

 「特高警察の連中は、今からちょうど3ヶ月前、今日の指令といささかも異なるところのない指令によって、その権力から放逐されたが、彼らはただレッテルを変えただけで、涼しい顔をしているのではなかろうか。」

 

227 さらに(マーク・ゲインは)関西地方の軍政部長ムンスケ中佐の証言として、

 

「私の管轄下のある県では、14人の警察署長のうち7人は特高関係にいた男だった。5ヶ月前、われわれは特高関係の連中を追放する指令を出したが、日本側は、どういうわけか知らないが、ともかくそれを事前に嗅ぎつけ、その指令が出る直前、この連中は辞職した。日本側は、これで彼らの履歴は技術的には無傷だと主張する。しかし日本政府は、すぐさまその連中を警察署長に任命した。現在の抜け目ない仕組みに抗して私にできることは、ただ報告するだけだ。」

 

228 GHQの参謀第二部G2が、特高警察関係者の中で公職追放された者を、内務省調査局とその役割を受け継いだ法務庁特別審査局に雇い入れ、日本共産党の監視を継続した。

 法務庁特別審査局の調査第三課は、戦前の内務省警保局保安課と構成がよく類似しており、同課は事実上戦後版特高であった。

 

 G2は公安警察と深い関係があり、弥三は、G2の管轄下にあった対敵諜報部隊CICの要請で、日本共産党弾圧事件の真相などの執筆を依頼された。

 

感想 内務省による、反共的組織温存のための独自の動きと、G2による反共の動きとが、相互に相補強し合って、今日の公安警察=実質的戦前の特高の実態を形作ったということか。202128()

 

 戦前期に弾圧された人々は、戦後事実上残された特高の存在を批判した。1952年10月24日、志賀義雄は東京放送の番組に出演して以下のように述べた。(小林五郎『特高警察秘録』生活新社1952

 

「いわゆる政治警察或いは政治憲兵だが、これは連合軍最高司令部の指令によって愈々(いよいよ)廃せられることになっているが、これは表面のことで、実は温存している。私はそれについて色々の事実を挙げることができる。

 例えば、現在、秘密警察官であった者を免職してみたところで、有名な安倍源基*の子分は、多いときには、東京地方の警察署長の半分以上が、彼の子分であって、現在では三分の一以上いる。これは特高警察部の出身であって、特高警察部を廃したところで、全体の警察機関がその仕事をやっていくことになる。また、秘密憲兵というものも明らかに活躍している。」

 

*安倍源基1894.2.14—1989.10.8は内務官僚、政治家、弁護士。東大卒。警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任。政治団体「新日本協議会」代表理事。

 

230 戦前期に権力の暴力装置としての軍隊組織や警察組織の中の、軍人や警察官で中堅の地位にあった人物が、戦後も生き残った事例は実に多い。戦後の再軍備過程で創設された警察予備隊から保安隊、さらに自衛隊に至るまで、軍関係者がその幹部として復権を果たしている。

 だが、それ以上に数多の元特高警察勤務の警察官が復職している。特に中堅から高位の地位にあった警察官の復権過程は、今後明らかにされなければならない。

 こうした特高警察官が戦後もほとんど戦前の特高意識を抱いたまま職務に当たっていることは問題だ。

 戦前からの警察官僚は、GHQの査問をどうやって潜り抜け、生きのびるかに知恵を絞っていた。内務大臣を努めた山崎巌の発言を以下に示す。

 

 内務大臣・山崎巌がロイター通信東京特派員ロバート・リュベンに語った発言内容が、1945年10月4日、米軍機関誌『スターズ・アンド・ストライプス』Stars & Stripes に掲載され、それが『朝日新聞』の「秘密警察なお活動 山崎内相、英記者に語る」1945.10.5として転載された。

 

「山崎内相は、思想取締の秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者容赦なく逮捕する、また政府転覆を企む者の逮捕も続ける旨言明した。

 内相は、政治犯人の即時釈放を計画中であることを語ってはいるが、現在なお多くの政治犯人は独房に呻吟(しんぎん)していて、さらに共産党員である者は、拘禁を続けると断言している。

 内相は、政治形態の変革、特に、天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される、と語った。同法は過去十ヵ年間の恐怖政治下において、直ちに逮捕、処罰並びに死刑を宣告することができた。同時に内相は、余は共産党員以外の者は絶対に逮捕した覚えはない、と述べた。」(これは嘘でしょう。横浜事件はどうなの。)

 

*山崎巌 1894.9.16—1968.6.26 内務官僚、政治家。警保局長、警視総監、内務次官、内務大臣、自治大臣兼国家公安委員会委員長を歴任。東大卒。

 

232 この復古主義的な山崎発言は、さすがに世論の耳目の疑うところとなった。敗戦を経ても、依然として戦前の特高思想を体現している人が、内務大臣の職に留まっているのかというものだ。

 

さらに、1945年9月26日に獄死した三木清の件について質問された山崎内相は、

 

「『この件は司法省の管轄であるから、自分は事件の真相を知らない。』(嘘つき)と答え、現在制服と私服の特高警察官の総数3000名に上っている旨内相は語ったが、その数は急速に減少される模様である。(本当か)しかし全警察官の増強は、現在内務省の最大の問題である、と彼は語った。」(『朝日新聞』の「秘密警察なお活動 山崎内相、英記者に語る」1945.10.5

 

 ここで山崎は戦後も、共産主義に対する弾圧監視を継続すると宣言した。GHQはそれを知り、彼を罷免した。また山崎と同様の考えを抱いていた東久邇宮稔彦内閣も総辞職に追い込まれた。

 しかし、内務省上層部が依然として特高警察の存続を希求していたことは確かで、特高は解体されるが、戦後様々な警察組織の中で形を変えて事実上存続された。

 

2 公職追放と解除

 

233 敗戦によって内務省は解体され、労働省、自治庁、建設省、厚生省などに分割されたが、内務官僚たちの多くは、一時期公職追放された後、再び、その分割された各省に分散していった。

 

234 天皇制が戦前の元首制から戦後の象徴制に、内実を変えながら生き残ったのと同様に、内務省も、事実上生き残った。特に内務省の中堅幹部たちは、これらの(分割された)省の官僚組織を背負うことになった。

天皇制が残置され、聖断が敗戦過程をリードしたことは、戦前の天皇制権力を、戦後の権力機構へスライドさせる役割を果たした。聖断は演出されたのだ。そして多くの内務官僚も、その組織力と人脈を使って国政の場に進出した。

 

 元特高関係者のうち、5000人が公職追放になったとされる。特高課に配属されていた下級警察官は失職したが、特高官僚たちは「休職扱い」とされて復権の機会を得た。

 GHQの人権指令によって、特高警察の在籍者であった警察官僚や警察官は、公職追放の対象者にされたが、政治家や軍人と異なり、基本的に戦犯指名を受けた者は一人もいなかった。この職域にあった人たちは戦争犯罪人として問責や処罰の対象とはならなかった。

 

 「休職」扱いとなった者は、内務大臣、警保局長、保安・外事・検閲の各課長、および各府県の警察部長級の51人、特高課長・外事課長の55人、警部の168人、警部補の1000人、巡査部長の1587人、巡査の2127人の、合計5000人とされる。

235 「休職」とは「異動」処分に相当する。「休職」だから復職措置が用意されていた。

 

 特高警察関係者は、およそ1万人余であり、その内の半分が休職扱いとされて、その後「依願退職」して離職した。つまり、彼らは在職中の行為について全く裁かれなかった。(解職、休職、依願退職など語彙が揺れるが、実際はどうだったのか。)

 但し、罪を問われなかったものの、公職に留まることが許されないで追放された者が、319人いた。それでも「一斉罷免者」は86人に留まり、大多数の者(319-86=233人ということか。)は、復職を許された。

 

公職追放令 連合国軍最高司令部GHQは、1945年10月4日自由化宣言を発し、1946年1月4日付けで、連合国軍最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」(第一次公職追放令)を発した。

236 この公職追放令は、団体組織の解散命令(SCAPIN548)と、人物に対する追放指令(SCAPIN550)とに分けられた。ちなみに、SCAPINとは、Supreme Commander for the Allied Powers Directive, 連合国最高司令官指令である。

 

 (SCAPIN550は、)排除すべき人物をA項からG項まで分類した。A項は、戦争犯罪者、B項は、陸海職業軍人、C項は極端な国家主義者、D項は大政翼賛会・大日本政治会等の重要人物、E項は、日本の膨張政策を担った開発会社や金融機関の役員、F項は、占領地の長官、G項は、その他の軍国主義者・極端な国家主義者であった。

 このうちのG項はあいまいで、恣意的選択の余地があった。

 当初この振り分けを決定したのは、連合国軍最高司令部内の民間諜報局(CIS)であり、対象時期を1930年以降とした。

 ところが日本政府や担当者からこの選定方法に批判が出て、結局対象時期は1937年7月以降に限定され、陸・海軍省と軍需省の三省に絞り込まれた。

 

237 3月1日、以上の点を明確にして(再度)発表された。それによると、対象期間は、1937年7月から1945年8月までの8年間とされ、政府の政策に何らかの形で参与したものすべてが対象にされ、その言動が(明らかに)平和主義的でない限り、追放の対象とされた。

 

 その結果、弥三の1928年と1929年の弾圧は不問にされ、その後の警察部長や知事のキャリアが、追放理由となり、弥三が書いた、国家主義・軍国主義の鼓舞、青少年を戦争に誘った発言や文章は不問とされた。

 

 GHQは機械的・事務的に公職追放者を認定した。

 

 1947年1月4日、第二次公職追放令が出された。

 1950年6月6日、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーからの吉田茂宛書簡で、日本共産党の幹部24名への公職追放が指令された。米ソ冷戦が激化するなかで、アメリカ本国等と同様に、レッド・パージが強行された。

 

238 弥三は公職追放となったが、戦争責任の罪は問われなかった。弥三は、1951年10月に追放解除されるまでの長期の追放期間を、予想していなかったのではないか。

 弥三は既述の追放区分の中のG項の「その他の軍国主義者・極端な国家主義者」に入れられたのか。

 五百旗頭真は『占領期 首相たちの新日本』講談社文庫2007の中で、当時のSCAPIN550を踏まえながら、次のように語っている。

 

「1937年から1945年8月までの期間に、政府の政策決定に関与した全閣僚を含むトップレベルの全ての官僚が、特に平和主義的であったと逆証されない限り、(追放に)該当した。」

 

 弥三が問われたのは文部官僚時代の官職であり、警視庁特高課長時代の責任ではなかった。

 戦争責任問題で、GHQは弥三の、警視庁特高課長としての日本共産党弾圧責任を全く不問にした。

 

 戦争と弾圧が表裏一体となって戦争が進められたとすれば、GHQの判断とは別に、今後戦争を起こさないためにも、3・15事件前後まで戦争責任の対象範囲を遡及させる必要がある。戦後の日本人はそのことを充分認識してこなかった。

239 侵略戦争と並行して、それを内部から支えた警察の役割も俎上に挙げるべきだ。

 侵略戦争を弾圧行為によって国内で支え続けた官僚の戦争責任を問わねばならない。

 

 弥三は公職追放後、世田谷区赤堤の六所(ろくしょ)神社の神職となった。現在の宮司は弥三の親戚である。

 六所神社は、徳川家康の家臣であった服部定信によって創建され、服部家の祈願所とされたが、後に赤堤村の産土(うぶすな)神とされた。産土神は神道で、その者が生まれた土地の守護神をさす。

240 1874年に赤堤神社と定められた。

 弥三は「奉賛会」のために各軒を集金して回った。

 

 1949年の夏、弥三は故郷の蛭川村に帰省したとき、アメリカ陸軍防諜部隊CICCounter Intelligence Corps)から依頼された、日本共産党弾圧史(記録報告書)の原稿を真剣に書いていた。CICは、占領地での情報収集のための特務機関である。

242 弥三は、共産主義勢力の台頭と日本への浸透の可能性を読み取っていたアメリカの姿勢を汲み取りながら、それ以上に、戦後でも共産主義勢力の台頭を許さないという決意と覚悟をもってこの報告書を書いていたことが、弥三の真剣さの中に見て取ることができる。

 またアメリカや日本政府の要請に応えることで、公職追放解除の機会を得ようとしたのかもしれない。

 またかつての日本共産党弾圧を正当化することも頭にあったのだろう。戦後も弥三は日本共産党や共産主義の動きや思想に深い関心を抱き続けた。

 

243 弥三は、8月15日の日記に、戦前期から著名な経済学者であった大野信三の「講演要旨」と題する三回の講演内容を詳述している。

 それは、「(一)経済安定の前提」(大井公民館及び中津南小学校)、「(二)農村恐慌は来るか」(蛭川地区公民館)、「(三)共産主義批判」(王子製紙工場)である。

 これには弥三が直接聞かないと書けないような内容がある。

 

大野信三は93歳の時に大著『社会経済学』(千倉書房)を出版した近代経済学者である。1971年、創価大学開学の時、経済学部長となり、後に同大学の学長を務めた。

 

「(三)共産主義批判(王子製紙工場にて、1949.8.15)で弥三は、大野信三の講演として、こう書いている。

 

「共産党に関する一般人の関心は、食わず嫌いと食わず好きが大部分のようである。よく研究してみると、共産党ほど謀略とハッタリの多いものはないようだ。」「共産主義は、政治的、経済的、文化的、思想的な意味によって分析して考えてみれば、政治的意味に最も重点が置かれていると見て差し支えない。」

 

 これが講演の引用かそれとも弥三の本心の吐露かは定かでない。

 

244 弥三は、激しい拷問にも耐えながら共産主義運動の前進に身を挺した党員たちを眼前に見てきた経験を持つが故に、(共産主義について)思考せざるを得なかったのではないか。

 

 国家や天皇の存在は弥三にとって絶対的な対象であった。弥三はその守護者としての役割を全うしてきたとする揺るぎない自負心を抱き続けてきた。

 

 弥三は1949年1月23日の第24回衆議院総選挙で、日本共産党が35名の当選者と298万4905票を獲得したことに注目している。

245 「共産党は一躍35名となったという。」

 

 この選挙で弥三の知人が当選したことも記している。大村清一(警保局長)、青柳一郎(熊本県特高課長)、中野清(京都府特高課長)、西村直己(静岡県特高課警部)、増田甲子七(かねしち、警保局図書課)などである。弥三の政治的野心が伺える。

 

追放解除決定までの経緯 1946年1月4日、占領軍はポツダム宣言に基き、日本民主化政策の一環として、「好ましくない人物の公職からの除去覚書」を発表し、これに基き、21万人を公職から追放した。ドイツでは100万人を追放した。

 

 1950年代、公職追放者の追放解除が検討され始めた。公職資格訴願審査委員会事務局が作成した「公職追放者訴願審査について」1952.10.13によると、「一、今回の公職追放恩赦に関する訴願審査の結果は次の通りである。」という通達が公表された。

 そこには(一)公職追放者概数、20万6000名、そのうち(二)訴願を提起した者の総数、3万2089名としている。被追放対象者の15%が追放解除請求をしたことになる。

246 その結果、(三)特免することが決定された者、1万90名。(請求者の30%)特免決定者の内訳は、在郷軍人会関係が3456名、陸海軍関係が3072名、翼賛会・翼壮団関係が226名、特高警察関係は9名だけだった。(四)特免しないと決定された者、2万1870名。その理由は、死亡や申し出なかった者、35名、書類不備26名、メモランダムケース*として審査不能、68名。*249

 

 弥三は「警視庁に田中栄一総監と古屋亨刑事部長を訪ねたが、警察関係は昨年19505月で申請を打ち切っていると聞いてがっかりした。」(日記1951.1.12

247 田中栄一は1927年に内務省に入省し、弥三の7年後輩になる。戦後、東京都の経済局長から1948年には、警視総監を歴任し、1958年の第28回衆議院選挙で自由民主党の公認を得て当選した。

 古屋亨は岐阜県恵那市の出身で、1934年に内務省に入省。弥三の後輩。1954年、警視総監代理、1967年の第31回衆議院選挙で、政界を引退した弥三の地盤を引き継ぎ出馬した。1985年、自治大臣兼国家公安委員会委員長。

 

 GHQの人権指令によって、特別高等警察に在籍していた官僚・警察官は、公職追放の対象になったが、戦争犯罪人として指定されて問責・処罰の対象になった者は、内務省・特高警察関係者には一人もいなかった。

248 本来なら追放対象者と思われる人もかなり外されている。特に官僚の追放は極めて恣意的で、そのため、国家主義や国体思想を抱く保守人脈が無傷のまま温存された

 特高関係者は戦後の公安警察に吸収された。国会議員の8割が追放処分されたが、その地盤と看板は世襲候補が受け継いだ。

公職追放によっても戦前の保守権力は、事実上生き残り、現在に続く分厚い保守基盤を形成している。

 

 弥三日記「田中君の話で、自分の追放は、日本共産主義者事件、労評事件、いま一つの事件と三事件に関係している。後で、『今の処、全面的解除に努力中であるが、まだ確実の処まで行かぬ』と言っていた。」1951.5.27

249 「追放解除の問題も簡単にはいかないようで、政府が、鳩山氏をめぐって、メモケース*の解除を進駐軍からのものと同一に取り扱うと申し出ているのを、ゴタゴタしていることに、何の政策的に、わざわざぐずぐずしているのだ、という声が段々高くなってくる。(意味不明)解除確実の人名の中に、小生の名も毎日新聞に出ていた、と田中の叔父からの話し。」1951.6.15

 

 メモランダムケースを、弥三はここでメモケースとしているが、それは占領軍によって実行された追放パターンの一つで、中央・地方の公職適否審査委員会の審査による追放指定の他に、重要な者には、総司令部覚書による直接指定(メモランダム・ケース)があった。

 総司令部による直接指定は、追放理由の明確でない場合でも、恣意的な解釈で追放対象者に加えることができたため、政略的な観点から追放指定をすることが可能となるものであった。

 

250 条件つき解除 弥三の日記より

 

 「今日、第一次追放解除発表。メモケースの石橋湛山、三木武吉、… 今回は、7万の追放解除者あり。余のことでは個人審査で(あるから、)第二次に恐らく入るであろう。」1951.6.20

 「伊藤君の話では特高関係は、(問題点が)三つまでの者は解除が確実だと云っていたので、自分は大体解除になると見ていいようにも思われる。」1951.6.24

 「9時過ぎに出かけて、平河町の自由党本部に行く。増田君がやって来る。追放解除の件で、三四日中に理由を書いて出せと言う。特高関係はかなり面倒らしい。」1951.8.14

251 「総理府の河合君が来ておられて書類(請願書)を見てもらったが、一寸(私の)見当の(が)違う様子で、総理大臣官房の人事課長栗原廉平君の処で修正してもらい、…どうも解除はかなり難しいようだ。」1951.8.20

 「夕刊に、特高関係の追放、大部が解除される、とあり。…今度は自分も解除されたのだろう。」1951.9.8「追放解除決定の報告を(日記に)する。警察、法務省、文部省には採用されないという条件がつけられ、結局役人関係には先ず復帰の望みなし。」1951.9.9

 

指定理由取消書

 

 弥三は警察官僚出身で、軍事官僚と同様に、追放解除に条件がついた。

 弥三日記の補遺欄に「指定理由取消書」が筆写されている。

 

「指定理由取消書        纐纈彌三

公職に関する就職禁止・退職等に関する勅令(昭和22年勅令第一号)四条の二に規定する、左記に掲げる指定の理由を取り消す。

  昭和26年9月8日    内閣総理大臣

 

 

特高警察

 

 覚書該当者としての理由取消について

 

 本日貴殿に対し別紙の通り、覚書対象者として指定の理由を取り消すという通知がありましたが、これは貴殿の経歴のうち、指定理由の取消書に記載された事項を、追放の該当理由としないという意味であって、今後公職に就かれる又は公選による公職に立候補されるとき、並びに公職に関する就職禁止・退職等に関する勅令(昭和22年勅令第一号)第5条第3項に規定する、受給権(公務員への就職か)の回復をしようとされる場合は、内閣総理大臣または都道府県知事に対し、公職資格審査の調査票を提出し、非該当の確認を受けなければなりませんから、念のため申し添えます。

 また、国又地方公共団体の官吏また吏員になられるときは、予め任命権者から、任命しようとする地位及び任命予定日を、内閣総理大臣に報告する必要があります。尚、貴殿は、警察、法務省、文部省には採用されませんから、念のため申し添えます。」

 

253 弥三はこの時直ちに政治家としての転身の機会を得た。自身の警察官僚としての実績が活かされる職域は、戦後にも保守色が極めて強かった政界だけだったのかもしれない。

 

254 弥三は1951年9月11日、宮司更迭の具申書の添付書類である履歴書を書いた。

 

弥三は9月29日、旧内務官僚の親睦組織であった霞が関会の、追放解除を祝う会に出席した。

佐藤尚武が挨拶し、岸、本島、日高、松本、石井康、西、田代、上村、星崎、井口、須磨、太田、芳沢、有田、栗山、石射、内山、沢田等の大先輩が同席した。

 

255 弥三は六所神社で神主だったが、宮司職だったのか、その下位の禰宜(ねぎ)だったのかは明らかでない。叔父の田口は宮司であった。弥三も宮司だったのだろう。禰宜の下位が権(ごん)禰宜である。

 

256 当時の読書傾向 弥三日記「辻政信『潜行三千里』を読む。戦犯を免れるために、僧形に変装し、藍衣社*の者を(に)連絡、重慶に潜った。この辺りまでは参謀本部作戦部員として、敗戦の責任を感じ、いつでもりっぱに死ぬ覚悟のあることが記述されているが、気に食わぬ感が一杯だった。」1951.1.7

 

 辻政信はノモハン事件、マレー作戦、ガダルカナル作戦の参謀として、指揮系統を無視した独善的な作戦指導を強行し、多くの犠牲を強いた。

 「作戦の神様」などと評されるが、実際は無謀な作戦指導で、多くの戦死者・餓死者を出し、失敗の連続だった。辻の独善性に上層部も歯止めがかけられず、追認を重ねて重大な結果をもたらした。

 しかし、辻に対する信仰に近い支持熱が続き、辻は衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。

 

*辻政信1902.10.11—没年不詳:1963年ころ。東南アジアや中国での潜伏から、1948年、日本に帰国し、国内に潜伏した。1950年6月、インドシナ半島に渡り、中国国民党のために工作した。(それからすぐ帰国したらしい。)1950年戦犯指定から逃れることができて、世に姿をあらわし、『潜行三千里』を発表してベストセラーになった。

 

辻は1961年4月、ラオスを視察中に行方不明になり、1968年7月20日に死亡宣告がなされた。

 戦後、辻が立案指導した作戦の詳細が明らかになり、その責任を問う声が深まったが、1951年ころは辻への崇拝に近い心情が強かった。

 *藍衣社は蔣介石直属の国民政府の情報・工作機関である。正式名称は三民主義力行社、また中華民族復興社である。

 弥三は、死ぬ覚悟をしながら死を恐れて変装までして戦犯を逃れようとした辻に同意しかね、辻は責任感の低い軍人だと見定めたのだろう。

 

 『西園寺公と政局』 西園寺公望侯爵は最後の元老と評され、昭和天皇に影響力を発揮した。同書は(西園寺の)秘書的存在だった原田熊雄が編纂したものだ。

 「南次郎陸相の無責任な態度、二宮治重、小磯国昭、建川美次らの策謀が記されている。」1951.2.18

「満州事変をめぐる軍部の横暴、重臣の憂慮、陛下の御心配、当時を回想して感慨無量。出先軍隊が勝手なまねをして云うことをきかない。全く軍規は紊れ、その後大東亜戦争に突入した。敗戦は当然のことだ。」1951.2.21

258 日本陸軍がその権謀術数ぶりを遺憾なく発揮した様子が、本来日本陸軍の好戦的姿勢に批判的であった西園寺(の口を通して)によって語り尽くされている、とする(弥三の)日記である。

 西園寺からすれば、日本陸軍の体質や好戦性が日本を戦争に引きずって行ったのであり、昭和天皇には戦争責任はないとする弥三にしてみれば、この書は彼が大いに支持できる内容であっただろう。

 

再軍備 「保科善四郎君がやって来られ、警察予備隊問題の件を是非実現してくれと云う。」1951.1.28

 保科は海軍軍務局長を務めた旧日本海軍の少将である。旧軍事機構の温存と復権を射程にし、終戦工作が敗戦直前まで行われたが、保科はその中心人物の一人であった。

259 保科は戦後吉田茂の軍事ブレーンとなり、再軍備の実行者の一人だった。保科たちは、「海上警備隊創設準備会」(Y委員会)を立ち上げ、新日本海軍の創設に奔走した。保科はそのために戦前の内務官僚にも接触を求めていた。

 保科は1947年11月28日、公職追放の仮指定を受け、1952年4月22日、追放解除となった。1955年2月27日、保科は第27回総選挙で旧宮城一区から日本民主党公認で出馬し、当選した。ちなみに弥三もこの選挙で初当選した。

 弥三は公職追放時代、いくつかの会社の顧問の資格で会社の経営に参画した。美和商事の顧問就任1953.6.1、ス井フト社社屋の建設1954.6.1などの記述が日記にある。弥三は日記から推察されるように、単なる名誉職ではなかったようだ。(疑問 1951年9月に既に公職追放解除になっていたのではないか。また公職追放時代は神職だったのではないか。239) 

 

260 弥三は神職や会社幹部などよりも、戦前警察官僚として追及した国体思想の普及のために、国政の場で活躍したかった。弥三は戦後国会議員として紀元節復活に奔走する。弥三にとって戦前は終わっていなかった。

 

 

Ⅳ 紀元節復活に奔走する ――新たな戦前の開始――

 

第七章 旧特高官僚たちの国政参画

 

1 出馬の意欲

 

262 偶然のチャンス 弥三は三男の道雄から出馬を勧められ出馬を決心し、蛭川村の村長を訪ねて出馬の意思表明をした。この時、平野三郎長谷川俊一も出馬するらしい。(弥三日記1951.10.11

 

 平野三郎は、庄川事件(庄川流木争議や庄川ダム争議)で活躍した衆議院議員の平野増吉の息子で、また戦前の農民運動家で戦後片山哲内閣の農林大臣を務めた平野力三の甥に当たる。

 平野三郎は、岐阜県郡上郡(ぐじょう)郡八幡町(現在の郡上市)の生まれで、慶応大学在学中に「左翼運動」に関わり検挙され、戦後、1947年、八幡町長に当選した。

 

 長谷川俊一は、1939年10月16日に岐阜県議会副議長となり、1945年12月3日から同県議会議長となった。(官選)1947年4月25日、44歳の時、戦後最初に施行された第23回衆議院選挙で、岐阜二区から民主党公認で出馬し、新人ながら、4万9123票を獲得して当選した。しかし、1949年1月23日施行の第24回衆議院議員選挙では、新自由党から出馬したが落選し、政界から身を引いた。

 

264 弥三の父は郡会議員を務めていたが、当時からかなり時が経過していたし、蛭川村という小さな村の出身で、選挙資金も十分でなかった。

 弥三が出馬するなら恵那郡など東濃地区からになるが、東濃地区では戦前から藤井家古谷家という二つの名望家出身者が地元政界を牛耳っていて、古谷善造、慶隆(よしたか)親子が、二代続けて衆議院議員を務めていた。藤井家と古谷家には選挙に関して約束事があった。

 

 「戦前、古谷慶隆氏が代議士で、藤井神一氏が県議会の重鎮だったころ、義隆氏の後は藤井家に代議士を譲るという約束があった。しかし、義隆氏が東京大空襲で突然亡くなり、藤井家にもそれを継ぐ人物がいなかったので、代議士の座は、戦後、纐纈弥三氏に移り、纐纈氏の後を古谷亨氏が譲り受けた。」(『中日新聞』1990.4.9

 

265 古谷家では古谷亨の引退後は、甥の古谷圭司が衆議院議員に、藤井家では藤井丙午とその三男の孝男とが参議院議員になった。(藤井孝男は1993年から衆議院議員)

 

 平野三郎は、1949年の第24回衆議院選に民主自由党の公認として旧岐阜二区から立候補し、初当選した。

266 四期までは自由党公認で、最後の第28回選挙では、自由民主党公認で五期目の当選を得た。後二回出馬するが落選し、国政から退いた。

 

 「平野文書」 平野三郎は幣原喜重郎衆議院議長の秘書官をしていたことから、報告書「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」を憲法調査会に提出したが、これが「平野文書」である。

 憲法九条の原案を誰が書いたのかが長年論争の的になってきた。幣原喜重郎は戦前外交官として、「不戦条約」など非戦思想や運動に関心を持っていたので、この平野文書は、幣原が九条原案作成者の一人ではないか、との説を証明する資料とされている。

 

 平野三郎は1966年9月18日施行の岐阜県知事選挙に出馬し、現職の松野幸泰を破って当選したが、汚職事件で辞職した。その間、三期10年間、知事職にあった。

 

 弥三は村長に自由党からの出馬意向を伝え、村長は賛成してくれた。(弥三日記1951.10.12

267 1951年10月23日、自由党の役員室で増田と面談し、立候補の意思を表明すると、直ちに自由党への入党を勧められた。増田によれば、牧豊も東濃から出馬するらしい。(弥三日記1951.10.23

 

 増田とは当時自由党幹事長の増田甲子七である。増田は1922年、京都帝大法学部を卒業し、弥三の先輩にあたり、内務省に入省するまで弥三と同様の道を歩んだ。戦後、福島県知事や北海道庁長官を務めたが、北海道庁長官時代に、炭鉱労組や国鉄労組のストライキへの強硬方針を貫いたことで、吉田茂に注目され、吉田内閣の運輸大臣となった。

268 その後長野四区から第23回衆議院選挙に出馬して当選した。以後、10回当選した。吉田茂の側近の一人とされ、労働大臣、官房長官、建設大臣などを歴任し、1951年、自由党の幹事長に就任していた。

 弥三はこの増田と長年の交友関係があった。(増田甲子七(かねしち、警保局図書課)245

 

 弥三の日記によれば、それから2年が経った1953年1月ころ、懇親会や旅行、書簡送付活動など選挙運動を続けていたようだ。

269 「自由党政調シリーズ8 教育上の当面の諸問題を読む。日教組の政治的偏向、教育内容の改善をめぐる諸問題が大いに参考となる。」(弥三日記1953.1.20

「自由党政調シリーズ」とは自由党政務調査1950—55を出版元とする、自由党の政策を解説したシリーズの一つである。

 

270 叙位叙勲 弥三は1937年9月4日付で従五位から正五位へ昇進した。

「兵庫県書記官纐纈彌三外千六百六十一名叙位の件」(叙位裁可書・昭和十二年・叙位 昭和12年9月4日)これは内閣総理大臣近衛文麿名で公表された。

 

「叙正五位 昭和七年九月一日従五位 五年以上経過昭和七年七月三〇日 与叙高等官三等兵庫県書記官従五位勲四等纐纈彌三 右文武官叙位進階内則第二条により謹て奏す」

 

  また戦後国会議員を務めあげた功績として、1965年の秋の叙勲で勲二等瑞宝章が授与された。

 

 弥三のこの叙勲による自負心は、国会議員時代に紀元節復活に奔走する大きな動機づけになったと思われる。

 

2 旧特高官僚たちの復権

 

271 戦前、公の職について権力を振るい、軍国主義に加担した政治家や官僚で、戦後GHQによって公職追放された人の数は10万人とされる。ドイツは110万人だった。

 戦前の権力は敗戦を終戦と読み替え、終戦を天皇の功績として位置づけようとした。戦争終結が聖断によるものという虚構である。先の戦争は「聖戦」だった、「聖戦」を「聖断」で終結した、というストーリーである。これによって天皇だけでなく、支持した人々の責任を棚に上げた

 

272 天皇の官僚たち、特に圧倒的な権力を握っていた内務省の官僚たちを、戦後、建設省、自治省、厚生省などに官僚組織を分散させ、温存をはかることに成功した。

 戦前の天皇制権力は、「聖断」の名によって、戦後権力の中核として戦後にスライドした。

 

 軍部官僚も同様だった。確かに、極東軍事裁判で東条英機、板垣征四郎など8人の陸軍軍人に、首相や外相を務めた文官の広田弘毅を加えて9人が絞首刑になったが、数多の軍人が戦犯指名はされたが、そのうちの多くは、再軍備政策の中で、警察予備隊の幹部へ転身して、再び権力を握った。

 

 内務省の警察官僚も同様だった。公職追放された警察官僚は、1951年前後に、公職追放を解除され、再び様々な分野で地位を築いていった。

 

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査2015によると、特高警察の拷問などで命を奪われた人が、514人、検挙された人は、6万8274人、検束・拘留者は数十万人に達するこの人道に悖る行為を職務の口実で行った特高たち5000名が、公職追放の対象になった

 このうち、特高課配属の下級警察官は職を失ったが、特高官僚たちの多くは戦後、復権の機会が与えられ、要職に就いて行った

 

273 『衆議院総選挙一覧』によると、弥三は自身にとって最初の選挙である1952年10月1日施行の第25回衆議院総選挙に、岐阜二区から自由党公認で出馬したが、落選した。

 旧岐阜二区は定数4議席で、岐阜県東濃と中濃を中心とした選挙地域である。

 弥三はこの時3万7票(得票率9.9%)を獲得し、6位だった。当選者は自由党の牧野良三、同平野三郎、社会党左派の楯兼次郎、改進党の安東義良(3万3347票)であった。

 

274 平野三郎は1947年、岐阜県郡上郡八幡町(現在の郡上市)の町長に就任していたが、弥三は政治家としては無名だった。

 当日の岐阜二区の有権者数は38万4857人、投票率は79.77%だった。

 

 弥三は1953年4月19日の第26回衆議院総選挙に吉田自由党から出馬したが、再び落選した。

 吉田自由党は、当時第一党だった民主自由党が分裂し、その結果できた民主党合同支持派と(自由党とが)合流してできた党である。

 弥三は3万8268票を獲得し、得票率は13.2%だった。

 

275 当時筆者の実家を訪ねてきた弥三の態度は、子ども心にも、とても選挙支援の要請には感じられず、威風堂々とした雰囲気を残していた。

 

276 弥三は1955年2月27日の第27回衆議院議員総選挙で、日本民主党から出馬し、初当選を果たした。得票数5万6049票、得票率18%で、三位当選であった。

 トップ当選は同じく日本民主党の牧野良三(8万883票)で、平野三郎が二位当選だったが、平野と弥三の票差は147票だった。投票率は81.28%で、当時の有権者数は38万6129人であった。

 この時、右派社会党の加藤鐐造と自由党の岡本利右衛門が落選した。このころ保守再編の動きが出始めていて、また左右社会党も統一しようとして、両派の駆け引きが始まっていた。

 

 特高関係者を含め、警察官僚から国会議員になった者が54人もいる。中でも地方警察の特高課長経験者が多い。(柳河瀬精(やながせただし)『告発 戦後の特高官僚――反動潮流の源泉』日本機関紙出版センター2005、柳河瀬は、治安維持法国家賠償要求同盟大阪府本部会長、大阪府会議員を歴任)

弥三は地方警察特高課長より格が一つ上の、警視庁特高課長だったから責任は一層重い。

 

1大久保留次郎(警視庁特高課長)

2増田甲子七(警保局図書課)

3松浦栄(秋田県特高課長)

4大村清一(警保局長)

5鈴木直人(広島県特高課長)

6岡田喜久治(警視庁外事課長兼特高課長)

7青柳一郎(熊本県特高課長)

8鈴木幹雄(警視庁特高部外事課長)

9中村清(京都府特高課長)

10西村直己(静岡県特高課警部)

11館哲二(内務次官)

12町村金(警保局長)

13池田清(警視庁外事課長・警視総監)

14今村治郎(警保局長)

15大麻唯男(警保局外事課長)

16岡田忠彦(警保局長)

17岡本茂(新潟県特高課長)

18河原田稼吉(保安課長、内務大臣)

19菅太郎(福井県外事課長兼特高課長)

20薄田美朝(大阪府特高課警部・警視総監)

21田子一民(警保局保安課長兼図書課長)

22館林三喜男(警保局事務官活動写真フイルム検閲係主任)

23富田健治(警保局長)

24灘尾弘吉(内務次官)

25丹波喬四郎(京都府特高課長)

26古井喜実(警保局長)

27山崎巌(警保局長)

28吉江勝保(滋賀県特高課長)

29相川勝六(警保局保安課長)

30雪沢千代治(兵庫県外事課長)

31橋本清吉(警保局長)

32保岡武久(大阪府特高課長)

33伊能芳雄(警視庁特高課長)

34大達茂雄(内務大臣)

35後藤文夫(警保局長)

36寺本広作(青森県特高課長)

37広瀬久忠(内務次官)

38大坪保雄(警保局図書課長)

39岡崎英城(警視庁特高部長)

40唐沢俊樹(警保局長)

41纐纈彌三(警視庁特高課長)

42亀山孝一(山口県特高課長)

43川崎末五郎(警保局図書課長)

44高村坂彦(鳥取県特高課長)

45重成格(警保局検閲課長)

46増原恵吉(和歌山県特高課長)

47桜井三郎(警保局事務官ローマ駐在官)

48湯沢三千男(内務大臣)

49安井誠一郎(神奈川県外事課長)

50奥野誠亮(鹿児島県特高課長)

51古屋亨(岩手県特高課長)

52金井元彦(警保局検閲課長)

53原文兵衛(鹿児島県特高課長)

54川合武(長野県特高課長)

 

以上54名が国会議員になった。

 

280 1958年5月22日施行の第28回衆議院議員総選挙で弥三は三位で2度目の当選を果たした。得票数は5万9548票、得票率17.8%だった。

 弥三は1955年11月に結党された自由民主党に籍を置いたが、今回の選挙では自由民主党から、平野三郎、纐纈弥三、牧野良三が出馬した。牧野は前職だったが、落選し、当選者は平野と弥三と、残り2議席は、加藤鐐造と楯兼次郎(二人とも社会党)だった。社会党は1955年10月に、自民党より1カ月先に合同結党していた。(保革伯仲)

281 この選挙の有権者数は、40万5142名、投票率83.08%だった。

 

 1960年11月20日、第29回衆議院選挙が行われ、自民党の新人前田義雄が6万236票を獲得してトップ当選した。弥三はこの時、5万4043票で、最下位当選。次点の平野三郎と2000票差であった。(平野は落選)

 

 1963年11月21日施行の第30回衆議院選挙は弥三最後の選挙となった。美濃加茂市初代市長を務めた45歳の新人渡辺栄一が自由民主党から出馬し、6万976票を獲得してトップ当選し、弥三は5万4861票で3位当選だった。

 トップ当選の渡辺から3位の弥三まで自民党が独占した。最後の4議席目に、(社会党の)楯兼次郎が入り、元職の前田義雄(自民党)と平野三郎(無所属)は落選した。投票率は86.88%だった。

 

 

第八章 戦前期日本への回帰

 

1 紀元節復活の背景

 

282 弥三は1955年2月27日から衆議院議員となり、4期務めた。弥三の本会議での発言回数は第28期1958.5.22—1960.11.19の3回と、第29期1960.11.20—1963.11.20の4回で、計7回だけである。

283 委員長代理をしていたときもあるが、委員会での出席は552回で、うち発言回数は149回である。

284 弥三は内閣委員会に97回出席し、うち8回発言をした。ここでは、弥三の歴史認識がよく現れている。

 

 1957年5月13日の第26回衆議院内閣委員会(相川勝六委員長)で、紀元節復活の是非をめぐって弥三は日本社会党の受田新吉委員と論戦した。

理事は、保科善次郎(元海軍中将)、辻政信(元陸軍大佐、1961年4月4日、日本から出国して、失踪)、真崎勝次(元海軍少将)などの旧軍出身者や、相川勝六委員長、纐纈弥三、薄田(すすきだ)美朝(よしとも)、町村金五など内務省官僚出身者が多かった。

285 同委員会に弥三ら37名が「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案」を提出した。弥三はその中心だった。

 弥三の国会での発言の中で最も長く、意気込んでいた。

 

 受田は当時日本社会党衆議院議員で、青年学校長、中学校校長、山口県教職員組合副委員長を経て、政界入りした。

286 最初は無所属だったが、その後日本社会党に入党し、社会党の左右分裂以後、民社党の結党に参画した。1960年11月の第9回衆議院選挙では民社党公認で出馬した。党中央執行委員や国会議員団長を務め、「大衆政治家」と言われた。受田は選挙上手と言われ、当選12回を誇る。山口県周防(すおう)大島出身である。

 

 受田は紀元節復活に懐疑的である。民主主義の発展に阻害要因となるのではないか、軍国主義や侵略主義を再び肯定し、憲法改正に繋がるのではないかと表明した。以下、受田の質問である。

 

「現在の祝日は芦田社民連立内閣1948.3.1—10.15の時に成立し、それから10年になる。提案者は日本の祝日全般について再検討しないのか。」

 

 それに対して纐纈弥三はこう答弁した。

 

288 「その必要は認めるが、2月21日の件はかつて占領軍と折衝したが、バンス宗教課長に占領中は絶対だめだと命令的口調で言われ、やむなく保留になっていた。

 独立後この問題が再燃し、国民の間にこの留保になった問題を是非取り上げて祝日に加えてもらいたいという世論が非常に強くなってきた。

 その後年々国民の(紀元節)奉祝大会が盛んになり、そうした民意を尊重して、(紀元節を)祝祭日に入れたい。」

 

 弥三は正面から、「戦前への回帰」や、「一部右翼の軍国主義者に与する」ものではなく、すべての日本国民が国家成立を祝うということの重要性を指摘するが、これは現在まで続く靖国思想の一例である。

289 弥三は受田との論戦で、軍国主義思想の復活や憲法改正の可能性を否定し、紀元節復活とは言わず、「2月11日」を祝日に指定すると提起するが、紀元節復活を目論んでいることは明らかだった。

 

 弥三は「2月11日の問題を解決したい」と言い、戦争の中身を吟味もせず、国体思想の復活を目指す。

290 「2月11日」の根拠を受田から質問されて、弥三は「歴史上の疑義はあるが、私どもは日本の正史として伝えられてきた日本書紀にはっきりその日が出ている。これもやはり一つの根拠としてこの日を祝日としたい。」と、神話の世界を根拠に出してくる。

 弥三曰く「私どもは少なくとも2600年の間日本の歴史を尊重してきたが、これは国民感情であり、国民の間にそういう古い歴史を持っているということこそが、やはり民族の発展の誇りであり、どこの国でも国の歴史を尊ぶことが、国の発展の上で非常に大きな寄与をしている。」

 この復古主義的な歴史観は、後日の紀元節復活運動のなかで繰り返された。

291 弥三曰く「神武天皇が天の子として大和に都をお作りになって、当時としてはあるいは(日本の)部分的であったかもしれないが、近代国家から見て、一つの国の形ができてきた、と私どもは見ている。」と神武天皇が神話上の天皇ではなく、実在する天皇として前提され、堂々と皇国史観を口にする。

 

 弥三が、神武天皇は実在の天皇であり、日本は天皇=神の国だと確信することは、戦後も不変だったようだ。弥三日記「今日は紀元節だ。」1948.2.11 

 

 答弁の続きで、弥三曰く「今日、日本の国の初めとして、(2月11日は、)必ずしも私は、無理でなく、むしろ自然ではないかと考えている。」

292 弥三曰く「神武天皇が御即位になったその本当の趣旨というものが、平和主義であり、民主主義であるということが、誤り伝えられてきたことが、非常に疑念を起こしている。」

 

 弥三は神武天皇が実在の天皇であるばかりでなく、民主主義者・平和主義者であったと言う。弥三は、 神話の中の天皇である神武天皇の「御即位」の趣旨が、平和主義や民主主義の実現を企図したものだという虚構を、堂々と口にする。もはや質疑応答は成立しない。

 

 受田曰く「2月11日に、全国的な紀元節奉祝祭が各地で行われ、その奉祝の主催者は神社関係であり、ある特定の神社(靖国神社か)の前に集まった人々が右翼であった。」「郷友会――昔の在郷軍人会の(人々)中には、昔の軍服を着て、胸に燦然たる勲章をつけて、(靖国神社に)やって来た。そうなると、紀元節は、古めかしい昔をしのび慕う人々が祝う式だということになるし、天皇中心主義の思想を復活する儀式にもなるという印象を与える。」

 

293 弥三の示した皇国史観には、天皇制を国体とし、神国日本という誤ったイデオロギーの縛りの中で戦争に突入した戦前期日本のありようへの真摯な反省が欠落している。

 「建国記念の日」(1966制定)の法制化は、1950年代初頭から始まったが、こういう皇国史観の人々によって推進され、紀元節として復活した。

 

294 受田は憲法改正との関連性を危惧する。受田曰く「憲法を改正し天皇の地位を高めようとする政府与党の方針と、この紀元節復活とが一致したような印象を与えるのでは困る。憲法改正とは違うと提案されていなければ、国民は納得しない。」

 

 弥三はこれに応えて、「これが憲法改正とからんでいるとは全然考えていない。」

 

 政教分離を謳う新憲法と、弥三が中心となって提案した紀元節法案とは、真っ向から対立する。政教分離は、戦前期の過酷な宗教弾圧の史実をふまえて教訓化されたものだということを弥三も知っているはずだが、弥三の答弁はその真逆だ。

295 弥三の答弁は、戦後になっても祭政一致の原理を肯定する。

 

 受田曰く「近世の祝日大祭日の制度の中で日本の置かれた政治的な性格は、神を中心にした政治である。祭政一致、政治は常に神を祭ることにあるとする。それが問題であった。」

 

 弥三は自説を述べる。「祭政一致は、神武天皇御即位の時の詔勅にも、天つ神のいつくしみにこたえんというような言葉が出ている。神を中心とした祭政一致のまつりごとが、ずっと続けられてきた。(日本は)そういう国柄であり、明治以降も、日本の歴史を尊重する意味で、そういうことになったのだろう。」つまり、弥三は、祭政一致は、実在の天皇と考える神武天皇即位以来の国柄であって、新憲法下でもそれは不変である、と述べたのであり、憲法を超越するものとしての天皇の存在と、天皇制という国体を固く信じて疑わない。

 

296 受田が諭す。「(天皇を)神格化して、非常なユートピアの世界のような考え方に後世が指導していくことは、誤りだと思う。神も人間であって、過ちもあった。過ちを犯し、罪汚れを払いたまうという意味で祝詞(のりと)ができているならば、(今)古代の神格化を強調することは、現実の日本の国として、時代逆行の傾向があると思う。」

「(そのため)強制的に個人の意思に反して、ある方向へ無理やり気持ちを押し付けていくという政治的な策謀も実を結ぶ結果になった。それが戦争へ発展した。この紀元節祝日法によって、国全体をあげて祝い感謝し記念するというのなら、国民全体が納得して、その背景に政治的意図が全然ないものでなければならない。」

 

297 弥三「戦争で死なれた御霊(みたま)を靖国神社に祭ることも、日本古来からの風習であって、明治なってから特に神様を中心として、政治的な意図でやったのではない。日本の昔の習わしである。」

 「神に祭られた人の功績をたたえ、祖先を崇敬し、日本の古い歴史を尊ぶことは、日本国民の民俗性である。」

 

平行線である。

 

298 受田が天皇と天皇制に関して質問すると、弥三は、(戦後、象徴天皇制になって)表向きは変容しても、中身の天皇と天皇制は、戦前と何ら変わっていないと強弁する。

 

 受田曰く「神格化された皇室、神格化された国家という考え方の中には、偏向された思想と背景が潜んでいる。政府や与党の方々の中には、日教組の教育の偏向を唱える方々がいるが、神格化された皇室や国家を想定することこそ偏向である。あらゆる観点から偏向のない中正な教育と国家を望む。」

 

受田は天皇の神格化こそ偏向であり、平和主義や民主主義の実現を目標とする日教組を偏向だと批判するのはお門違いだと言っている。そして、

 「紀元節、建国の記念日をつくることには、慎重であるべきだ。日本の皇室を極端に神格化するよりはむしろ、(天皇を)平民的に見なして、同じ人間としての行為、同じ人間としての思想、束縛のない、さばけた形で皇室と国民をつなぐような政府を、纐纈先生はお考えか。」

 

299 弥三「国民は戦後十数年間、そう訓練されてきた。(上から目線)ここ(紀元節復活)で復古調が出てくる心配は毛頭ない。陛下も現人神として神格化されることのないように、人間として国民と接触され、一般国民と同じような気持ちになっていただくべきだと思う。」

 「ただ、その日(2月11日)に即位されたのが神武天皇だから、そこに結び付けられる。紀元、国の初めを祝うことの中に、天皇制も軍国主義も侵略主義もない。紀元をお祝いするという言葉をそのまま素直に受け取ってもらいたい。」

300 弥三は、(紀元節復活が)政治的偏向やイデオロギーとは無縁であり、軍国主義や侵略主義も介在していないと持論を繰り返した。

 

 法案が成立すれば、復古的で反動的な動きに拍車がかかることは、どの時代でも必至だ。国民に責任を果たし公明正大であるべき政治家は、起こりうる事態を想定しながら発言すべきだ。

 

 受田曰く「ごく一部の、小さくうずくまっている勢力が、紀元、建国記念日ができたことを契機に、黴菌のように増殖する恐れを私は案じる。」

 

受田は国民生活に混乱と不安を招きかねないと危惧する。

 

 受田「人間の思想は自由だが、動あれば反動ありで、こうした時世に紀元節ができた、いいことだ、と人々が動くことが、この間のメーデーの日に、メーデー反対の一団が、メーデーの大会場に乗り込んで紛争を起こしたのと同様の(動きを生む恐れがないかと危惧する。)」

 

2 拍車かかる戦前回帰志向

 

301 憲法改正問題に関する弥三の発言や、既述の国会での弥三の発言の中に、戦前回帰志向が鮮明に現れている。

 

弥三が提案した法案の根底に、憲法改正の意図が潜んでいるのではないかと受田は危惧する。

 

302 「紀元節法制化の後に憲法改正が潜んでいることを否定できない。憲法改正の中に、天皇の地位を国の元首にして復活させる意思があることを、岸総理が言明している。

 国の元首として天皇の地位を復活させるならば、国際的にみた場合、日本の国を代表する儀式的な行為の中で、天皇の行為に権威を持たせることになるだろうし、それと同時に、天皇が政治的責任の衝(しょう)に立つことにもなるだろうし、天皇の国事事項が一層強化されることになるだろう。そして天皇神聖に一歩近づく恐れがある。」

 「憲法の規定をさらに変えて、軍隊を堂々と持てる形に発展すれば、それは極右団体が待望していることだから、紀元節復活を喜んだ人たちを得意にさせることになる。憲法改正を意図しておられる纐纈先生のご意見を正したい。」

 

 当時の岸信介政権は憲法改正論者だったから、当時、憲法改正の気運が与党内とその周辺で強くなっていた。

 そのなかで政府は憲法記念日を祝う行事を取りやめた。

303 受田「政府与党が憲法記念日を奉祝する行事を取りやめたということは、将来憲法を改正する前提としてやめたと世間では批判しているが、どうか。」

 弥三「そのいきさつを承知していない。」

 受田「国民に新憲法の普及と周知の徹底を図るという形式的な仕事だけでも、相当な影響力があるし、わずかな予算でできる。それもやらなかったということに、憲法軽視の魂胆をみる。」

304「憲法記念日は祝日だが、どうせ改正しようとするのだから、あまりこれを祝うと憲法に賛成したようでへんに思われるからと、浅はかな気持ちでやられたのではたまらない。」

 弥三「この紀元節の法案をなるべく早く通してもらいたかった。憲法発布の祝日迄にはこの紀元節の法案が通るかと思っていた。十分にやらなかったことは、軽率だったかもしれない。」(意味不明)

 

 明らかに憲法に抵触する紀元節法案を、深い議論もせずに通過させることができるとする判断は、奢りである。

 受田「ずるい。憲法記念日までに通るからと言うのは、ずるい。この紀元節法案の審査をするのが不愉快になった。」

305「憲法の記念日はできている。その方は歴史的な十周年(記念行事)さえしない。憲法記念日までにはこの紀元節法案が通るだろうという逃避的な考えを知った以上は、この質問を続行することは不満だ。」

 

 弥三に受田の怒りが伝わっていない。

弥三「この紀元節の問題は、憲法改正とは何も関係がない。こういう事態は予想していなかった。」(意味不明)

弥三は受田の問題提起を正面から受けとろうとしない。

 弥三「ずるい考え方ではなく、まじめに考えた。この問題(紀元節問題)を憲法の改正と結びつけるような考えが、かえってずるい考えであったのではないか。私はそうは考えなかった。」

 

弥三は受田の発言の真意をくみ取ろうとしない。

 以上で、弥三の硬直した思考方法とコミュニケーションへの無関心さが明らかになった。

 

307 纐纈弥三と淡谷悠蔵との、内閣員会での「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案」をめぐる論戦1958.2.28に現れた、弥三の復古主義的歴史観

 

 淡谷悠蔵はかつて武者小路実篤の「新しき村」運動に共鳴し、その青森支部を結成した。社会主義同調者と見なされ、特高から監視され、3・15事件で検挙された。中野正剛らと日中平和を唱えた。

戦後は、日本社会党青森県支部連合会結成に参加し、1946年青森県連合会会長を務めた。

 

 戦前期、中野正剛らと東亜連盟に参画していたことで公職追放となったが、追放解除後、1952年10月1日実施の第25回衆議院総選挙で社会党の公認候補として初当選した。

308 1961年2月の予算委員会で、池田勇人首相に、「農民にも所得倍増はあり得るのか」と質問し、首相を絶句させた。

 淡谷悠蔵は、三里塚新空港反対闘争会議議長・社会党新空港反対特別委員長を務めたが、対する弥三は、1967年2月から1974年7月まで、強制代執行を強行して開港した新東京国際空港公団の監事を務めた。

 

 淡谷悠蔵は「建国の日を制定することで国民の間に意見の対立を生じ、抗争が起こることは好ましくない。2月11日の紀元節を復活させることに対して、すでに世論の中に反対の風潮が強くなってきた。」と指摘し、紀元節の復活が日本書紀に基づいたという提案理由に関して、その根拠を尋ねた。

 

 それに対して纐纈弥三は、

 

「日本書紀は、皇室が命じて編纂させたものであり、日本の正史として長く伝えられてきた。…1300年以上の長い間正史として伝えられてきた日本書紀は、日本の歴史として尊重していくべきものだ。」

 

309 淡谷は、弥三が虚構の歴史を根拠として祝日を決定しようとすると指摘する。紀元節の設定に、客観的な歴史研究を踏まえて反対する、和歌森太郎、林屋辰三郎、遠山茂樹、野原四郎などの見解を踏まえて議論を展開するが、弥三はそれを受け付けない。

 

 弥三「学者は日本の歴史を研究し、(紀元節復活に)異論があるが、それには敬意を表するが、その研究がすべて定説であり、日本書紀はすべてでたらめだという説をとることに、私には異論がある。」

 

310 堂々巡りの議論の応酬である。弥三は議論の過程で興奮する。

 

 弥三「淡谷委員は私の言ったことを誤解されているようだ。私は日本の歴史(日本書紀)がでたらめだと言った方々がいると言ったが、それを学者が言ったと私が言ったのではなく、(紀元節復活に)反対する方々が言っていると私は言ったのだ。」

 

 纐纈弥三は日本書紀の歴史事実が客観的かつ科学的でないと論ずる研究成果を認めようとせず、津田左右吉以来の日本書紀研究を否定する。

淡谷は非科学的かつ皇国史観を根底に据えた歴史認識による祝日日の決定方針に合点がいかなかった。

 

 纐纈弥三は国会論戦の中で戦前の特高課長時代の、上から目線の経験を自慢げに語る

 

311 戦後の評価を受け止めた場合、普通は戦前の前歴を自制すると思われるが、1957年5月14日の第26回内閣委員会文教委員会連合審査会の論戦の中で、弥三は逆に戦前の自らの経歴を披瀝して威嚇する。

 

このとき、社会党の佐藤観次郎が、紀元節復活を策する纐纈委員らを批判した。

 

 佐藤観次郎は戦前『中央公論』編集長や中京新聞社取締役を務めたことのある、議員歴8期19年の社会党議員である。佐藤は論戦の中で、戦前のジャーナリスト時代に特高から監視を受けた体験に触れる。

 

佐藤観次郎は「なるほど紀元節は初期の目的や制定の当時は、小川さん*が言われたように、軍国主義的でなかった。しかし、戦争が始まる数年前から、2月11日に建国祭が盛んにおこなわれた。建国祭はファッショの運動であり、当時右翼がこれを主催した。」と述べ、紀元節が建国祭などの形をとって、ファシズム運動として、戦争へと誘導していった戦前の歴史を教訓とすべきだとした。

312 佐藤観次郎「戦争の起こる数年前から、2月11日をその当時の軍国主義と結びつけて、国民を戦争の方へ駆り立てたということは事実だ。その当時相川さん*も警保局長か情報局長をやっておられた。また纐纈さんも警視庁の特高課長をやり、民衆を圧迫するようなことをやっておられましたが、私どもはその当時、中央公論の編集長で、発売禁止などを非常にやられました。」

「そういうこと(弾圧)は、小川さん*は関係ありません(小川は内務省関係者ではなかった。京都市議会や京都府議会議員だった。)が、それはその当時の政治的な情勢だから仕方がないと言われるかもしれないが、どう考えても、相川さん、纐纈さんの顔を見ると、もう一度昔のようなことをやられるのじゃないかという感じがしてならない。」

 

*相川さんとは相川勝六内閣員会委員長である。相川勝六(警保局保安課長)278, 284

 相川勝六は1919年、東京帝国大学法科大学卒業後、内務省に入り、1926年、徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任、神奈川県警察部長などを歴任後、1934年、内務省警保局保安課長となり、第二次大本教弾圧を指揮した。

 1937年、宮崎県知事時代に、「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」(現在は「平和の塔」と改名)建設を推進した。戦後、宮崎一区から衆議院議員となり、当選8回。厚生大臣などを歴任した。

 

佐藤観次郎「纐纈さんは思想的にどうしても受け入れられない考え方をしている。小川さんは建国祭についてどう思われているのか。最初の時(制定時)の紀元節は決してそういう(ファッショ的な)動機はなかったけれども、戦争に敗れる前の数年間、ずっと建国祭というものが行われた。今もその当時の残滓が残っており、この間の2月11日にもそういうこと(建国祭行事)が行われた。今の憲法は平和憲法で、戦争をしないという憲法ができている以上、そういうような(好戦的なファシズム)思想をもう一度植え付けることについて、我々は反対し、心配しなければならないが、この点についてどう考えるのか、小川さん、纐纈さんの考えを問う。」

 

*小川さんとは小川半次である。小川半次1909.9.9—1994.12.26は、京都市議会議員、京都府議会議員を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本進歩党から出馬し、初当選。以後、衆議院10回、参議院1回当選。改進党、日本民主党を経て、保守合同で自由民主党に参加。所属派閥は、岸派から福田派に所属した。

 小川半次は、衆議院の文化委員長として祝日法の制定に大きな役割を果たした。その後、1969年5月、岸信介を会長とする自主憲法制定国民会議第一回開催時に、国民運動本部長をした。

 

315 纐纈弥三「近頃のいわゆる進歩的文化人というものは、戦争中には非常に戦争を謳歌した著書なんがちゃんとあるんです。ところが今はいわゆる進歩的文化人として、相当思想的に変わっている。私どもは当時はお役目で警視庁におった(お役目だから拷問死に対する責任はない)のであり、それは1927年から1929年までのことだ。

 佐藤(観次郎)先生は私の人柄をご存じのはずだ。私は筋金を通している。国の時世の進歩と、国民の動向とを十分に察知しながら、自分の行動を取っていこうと考えている/いた。昔、戦争中、紀元節の時に、そういうこと(建国祭というファシズム的戦争扇動)があったということをしきりに(佐藤は)言うが、「一部の人」が「利用された」ことは「あるいは」あるかもしれないが、今小川先生がおっしゃったように、紀元節それ自体は、平和主義と民主主義につながる神武天皇の即位の御詔勅の趣旨にのっとり、日本の古い歴史を称えるために行ったものであるから、今佐藤先生がおっしゃたような軍国主義や侵略主義に絶対に繋がらないと私は確信している。」

 

316 弥三は戦前の歴史事実を正面から見ようとしない。それどころか、紀元節自体あるいは神武天皇即位時の詔勅に平和主義が貫かれているとする見解を披露し、神話を歴史事実と認定する恣意的な歴史解釈の上で答弁をする。

 また、纐纈の言う、「国民の動向」を「十分に察知」しつつ行動し、紀元節を祝日日とする提案をしていこうとする答弁は、旧内務官僚としての矜持を披瀝するものであり、強面で威嚇的でもある

 

弥三の歴史観や国家観は、戦後の保守政治家の多くと共通であり、戦前の頭で戦後を思考しようとする呪縛から解放されていない。

 

 弥三は後に自民党内の治安対策特別委員会に籍を置き、さらに文教部会長にも就任した。

 柳河瀬精(やながせただし276)は『告発 戦後の特高官僚――反動潮流の源泉』の中で、「纐纈は自民党内の治安対策特別委員会に籍を置き、また文教部会長にもなり、田中義男*や緒方信一*が文部省の中枢にいた当時、特高官僚の先輩顔をしていたのではないか。」と言う。

 

*田中義男(文部事務次官在任1953(S28).8.28—1956(S31).11.22)と緒方信一(文部事務次官1960(S35).1.22—1962(S37).1.23)は共に特高官僚の出身で、戦後文部事務次官を務め、国会議員になった。

 

*緒方信一は戦時中、シンガポール(昭南特別市)の警務部長で、1958年当時は文部省大学学術局長であったが、シンガポール訪問時に、シンガポール華僑粛清事件の遺体の埋葬場所を荘恵泉詰問され、翌日シンガポールを離れるときに、荘恵泉と同事件の遺族ら鳴冤委員会のメンバーに糾弾された。

 

317 田中義男は、1954年(昭和29年)の吉田茂内閣の時の文部次官時代に、教員の政治的活動を禁止した「教育公務員特例法一部改正」と「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」(教育二法)の制定に携わった。

 

 柳河瀬はまた、「弥三が1934年4月に、日本共産党弾圧に功ありとして、特別に勲五等に叙せられ、旭日双光章という勲章をもらい、1965年11月には、勲二等瑞宝章(ずいほうしょう)をもらった」と記す。

 3・15事件当時の内務大臣・鈴木喜三郎は、旭日桐花(とうか)大綬章を、内務省警保局長であった山岡萬之助は勲一等瑞宝章を叙勲されている。

 叙勲は国体の護持・発展にどれだけ貢献・寄与したかを計量する制度として設定されたとすれば、弥三や鈴木、山岡ら、日本共産党弾圧を指揮した官僚や政治家たちの位置を示す一つの指標である。

 

318 弥三は国会で、国体思想を根底に据えた国家観や歴史観を、意図的・挑発的に語るが、当時の戦前期官僚出身や旧陸海軍出身の国会議員の多くがそう語った。

 彼らは、新しい戦後の出発を牽制し、戦後日本社会の展望に消極的であり、むしろ戦後日本を否定する言辞をくりかえし、戦前日本国家と戦前権力の再構築を目論んでいるように見受けられる。

 

 

3 新たな戦前の開始

 

 弥三の国会答弁から分かることは、弥三が、復古主義・国粋主義に偏していることであるが、このことは戦前期の官僚に共通することだ。

319 この種の頑迷な旧官僚は、政治のリーダーにはなれなかったが、日本の保守政治の中枢に食い込み、日本の保守政治を背後から支え、リベラルな動きを牽制することもあった。

 

弥三は紀元節の復活を説く評論を書いたり講演を行ったりしているが、『経済時代』の「特集 日本人と紀元節」に「民族再建の一礎石に」1958.9を寄稿している。それによれば、

 

「日本の歴史を軽んじたあまり、もう一つ飛躍して、神武天皇が橿原宮で即位されたことが事実でない、作り事だと言い出し、神武天皇を架空の人物にしてしまった。文字のないときのことだから正確なことは言えないかもしれないが、神話や伝説には本当の国民感情が秘められている。(感情と史実とは違うのではないか。)だから今日先進国でも神話や伝説が尊重されている。」

 

320 神武天皇実在論である。神武天皇実在論の否定は、日本の歴史を軽んじることである、とする強引な自己肯定論である。弥三は、神話や伝説の尊重が、欧米の普遍的現象だと言い切る。

 

 神話や伝説が文化として、芸術などの素材として、人間の自由な解釈の上で、人間の感情表現の一つとして、創作の対象になり、表現されることはあるだろうが、それを政治解釈として、固定化・強制化し、さらには法整備の根拠にまですることは許されない。

 政治と文化とは明確な線引きがなされねばならない。弥三の論理では政治も文化も、同一次元で躊躇なく語られる。

 戦前の日本の政治では、文化や宗教が政治行為を実現するための手段として恣意的に動員され、平和主義や自由主義を駆逐した。弥三はそのことを考慮に入れない。

 

 また弥三は『経済時代』に「復活運動の将来と問題点」1960.2を寄稿した。

 

321 「私は政治生命をかけて建国記念日の実現に努力する覚悟だ。建国記念日、紀元節は、それを祝おうという国家の自覚が一番大事だ。そういうムードが国民の中から盛り上がることが肝要だ。」

 

 弥三の目的は何か。戦後国家の在り様への否定や非難か、弥三の理想国家は、天皇が一元的に国民を束ねる上意下達の天皇独裁国家か。

 

 1948年、戦前の祝日日を制定した「休日に関する件」1927が廃止され、戦前の紀元節も廃止されたが、その直後から紀元節復活の動きが開始され、1951年ころから顕在化した。

 民主化の動きにブレーキがかかる歴史の流れの中で、自由民主党の衆議院議員等が議員立法として「建国記念の日」制定に関する法案を提出したが、日本社会党や日本共産党の反対で審議未了が相次ぎ、九回にわたって提出と廃案が繰り返された。

322 最終的には、「建国」が歴史的事実として2月11日に行われたのではなく、「国が建てられた」(建国)という事象を記念する意味を込めて、「の」を敢えて入れ、「建国記念の日」とすることで妥協が図られたが、神武天皇の即位という虚構は曖昧にされたまま、「2月11日」が選定された

 この結果、「建国記念の日となる日を定める政令」1966を定めて公布し、即日施行し、結果的に1966年に制定され、1967年2月11日から適用された。

 2月11日を祝日日にしたことは、神話の世界を真実化することであり、各界から批判がなされた。

 

 三笠宮崇人(たかひと)編『日本のあけぼの――建国と紀元をめぐって』光文社1959に、山本達郎、関晃、家永三郎、南博、辻清明、和歌森太郎らが寄稿し、纐纈弥三の歴史認識を批判した。

 

*三笠宮崇人は、大正天皇の第四皇男子、昭和天皇の実弟である。

 

 政治・行政学者の辻清明「紀元節問題の政治的視覚」は、「K(纐纈弥三)議員(自民党)」の発言「紀元節は、軍国主義につながるとか、天皇制につながる、関係があるという話が出るが、紀元節それ自体の意味は軍国主義につながっていない。」を引用し、「この箇所が、提案者の意図を最も明快に表現している」とし、次の批判を加えた。

 

324 「紀元節復活に潜んでいる政治的意味は、過去の天皇制や軍国主義が同じ形で再現されるという直接権力の面にではなく、必要に応じて自在に民衆の心理を特定の方向に操作できる象徴として、政治的機能の効果が多い祝祭だという面にあることを理解して警戒すべきだ。」

 

 辻は、天皇制と天皇の行為は、国民がそれを無条件に認め、社会矛盾への不満や反発を慰める政治行為であること、それ(天皇制)に抗う人々を暗黙の裡に抑圧すること、同意を強制することなどを指摘した。

 

 東洋史学者の三島一は、同書に寄稿した論考「紀元節が復活したら」の中で、当時放送されていた文化放送の「マイクの広場 紀元節論議をめぐって」を聞いた一視聴者の声を紹介する。

 

「『中野重治氏は<復活賛成者の身元を洗ってみることだ。皆、昔国民を不幸にした人たちですよ。>と言うが、本当に私たちは騙されてはならないと思いました。』と(一視聴者は)驚いている。」

 「ここで中野重治さんは善意の復活賛成者を指していない。中野さんが指しているのは、「紀元節復活案説明の、うってつけの材」として、一昨年来、衆議院における「紀元節案」の提出者の代表的存在であるK代議士などである。K氏は元特高課長、神官出身の肩書を持っている。」

 

325 三島は国会審議での弥三の発言を紹介・批判し、「紀元節復活案説明の、うってつけの材」とされる弥三の歴史観を次のように指摘する。

 

「万世一系、八紘一宇、つまり明治帝国憲法の第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」であり、このような歴史を説き、教えさせることで、「愛国人」を打ち立てようというわけである。これこそ現行憲法の改正、教育勅語への道を開こうとするものだ。

 この行き方が紀元節復活の真の意図であり、これに反対し、日本の歴史を科学的に研究し、また、それに基づいて正しく教えようとする者は、いっさいアカと決めつけて、今日に至っている。これで復活論者が、日本をどう引っ張っていこうとしているか、明らかだろう。」

 

感想 どんなに保守派に対する批判を並べてみても、力関係では保守派にやられてしまっているではないか。「建国記念の日」が制定されてしまったではないか。保守派には、明治以来今日まで150年余にわたり政権を担当してきたことによってもたらされる、権力や知力や富の強みがある。それが現在の自公政権の強みに繋がっている。一方民主派にはその伝統がない新参者だ。金も、知力も、もちろん権力もないなかで、これからそれを作り上げていかなければならない立場にある。とても楽観はできない。筆者はその点楽観論者のように見えるが、どうか。

 

 

おわりに 平和と民主主義を実現していくために

 

327 「建国記念の日」は、「国民の祝日に関する法律」1958に基づいて制定された。同法第二条に「建国記念の日」の趣旨を、「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定する。(おせっかい。)

 

 祝日日は祝日法に基づいて日付が決められるが、「建国記念の日」だけは、政令で定めるとされ、当時の佐藤栄作内閣は、「建国記念の日となる日を定める政令」1966を定め、「建国記念の日」を2月11日にした。

 

 「建国記念の日」制定には、反対論をかわすために、回りくどく、手の込んだ手法が用いられたが、それは「建国記念の日」を、1948年に廃止された「紀元節」と同じ日にすることに執着したがためであった。

 

328 弥三は「建国記念の日」が制定された時、次の評論を公表した。

 

「2月11日という日を紀元節としたことには科学的根拠がないという反対論があるが、それには承服できない。我々が、我が国の歴史として伝えられている日本書紀に「辛酉歳春正月庚申(辰)朔神武天皇橿原宮に即位、この年を天皇の始めとす。」と明記されている。(かのとのとりのとしのはるむつきのかのえたつのついたち)

 我が国の起源に(西暦と)600年のずれがあると説かれた那珂道世博士は、神武天皇の存在を否定されていない。

 物質科学の範ということこそ、科学的根拠による究明は必要であり、また、可能であるが、人文科学の上で科学的根拠を云々することは無意味であり、むしろ不可能である。」(纐纈彌三「祝日法案の成立に思う」(経済時代社編『経済時代』1966.7))

 

 弥三が引用しているのは、『日本書紀』の中の「神武天皇元年正月朔(ついたち)の条」における「辛酉歳春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是歳為天皇元年」の一節である。

 この年の春正月(立春)に一番近い庚辰日は、グレゴリオ暦換算で2月11日に当たるとされ、それが日本の建国記念の日の由来とされてきた。

329 那珂道世博士は東洋史の歴史概念を定義し、「辛酉(かのとのとり)革命説」に基づいて、日本の紀年問題を研究した。

 

 「建国記念の日」の制定は、新たな戦前を準備するものと言える。

 

 弥三が戦後紀元節復活に奔走したことと、戦前の3・15弾圧とは関連している。紀元節復活は戦後版3・15弾圧だ。平和と民主主義に対して、神話の世界を盾にとって国体思想を実体化しようとすることは、新たな戦前を準備するものだ。

330 弥三は戦後理念を真っ向から否定しようとし、「建国記念の日」を法制化した。

 

 戦後、戦前のような弾圧や拷問はなくなったかもしれないが、事実において、平和と民主主義を実現しようとする人々への規制と、精神的弾圧は不変である。それは精神的・思想的弾圧といえる。

 3・15事件と、「建国記念の日」制定は、国体思想の定着を図ったという点で、同質・同次元のものだ。

 

 

あとがき

 

331 戦後、弥三は自身の日記を公開するつもりで6年間分だけ提供したが、1927年から28年にかけての警視庁特高課長時代の日記は公開していない。

 弥三紀念館「大津屋記念館 さかぐち」が、中津川市蛭川中切区1073番地にあり、弥三の親族が運営しているとのことだ。

 

著者纐纈厚(弥三ではない!)は、『「聖断」虚構と昭和天皇』2006、『憲兵政治――監視と恫喝の時代』2008、『戦争と敗北――昭和軍拡史の真相』2019を新日本出版社から出版した。

 

以上 2021216()

 

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