「旧特高警察の第一線―共産党検挙の苦心―」毛利基 『文芸春秋』1950.9 (宮下弘『特高の回想』田畑書店 所収)
感想 2021年2月21日(日)
毛利基1891.2.11—1961.12.17が文芸春秋に寄稿した一文を読んでみた。「旧特高警察の第一線―共産党検挙の苦心―」(『文芸春秋』1950.9)である。毛利が59歳の時のものだ。毛利が小林多喜二を拷問・虐殺したとは言わず、心臓麻痺で死んだという(ウイキペディア)のは嘘だろうが、戦後、文藝春秋から寄稿を依頼されたとき、一度は断ろうと思ったが、何も言わずに一生を終えるのは気が引けると思って、いやいやながら引き受けたというのは本当なのだろう。それに毛利は敗戦直後、54歳で退官し、福島で農業を始めた。古巣に戻ったわけだ。おそらく毛利はこの特高という警察官の仕事が末永く続けたい仕事とは思っていなかったのだろう。この一文を読んでみても毛利の仕事は肉体労働だ。現場の特高には相手と渡り合う度胸と体力・技量・敏捷さが必要だと言っている。このことは嘘ではないだろう。
1928年、29年の共産党弾圧時に警視庁特高課長だった纐纈彌三のような思想性は、毛利にはなかったのではないか。組織の一員、日常的な人情、救済としての宗教(仏教)などが毛利の思想であり、纐纈彌三のような、国粋主義的な歴史観はなかったのではなかろうか。纐纈には社会主義や国粋主義などの本を読む暇があり、また国粋主義・総動員体制を宣伝する立場(文部省の社会教育・国民教育局長)にあった。毛利には纐纈彌三のように読書する暇はなかったのではなかろうか。毛利は纐纈彌三のように高文合格のエリート官僚ではなく、昇進試験を受けて一段一段と出世していくたたき上げの人だった。
毛利は「スパイ使いの名手」と言われたが、スパイM(飯塚盈延)を使って「非常時共産党」に当たった。(ウイキペディア)
「当時警察官は民衆処遇の懇切叮嚀に関する訓示を耳にタコのよる程聞かされたものだ。」288というのも嘘だろう。少なくとも共産党員に対しては。
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