『特高の回想』ある時代の証言 宮下弘 田畑書店 1978
感想 2021年4月4日(日)
本書のタイトル『特高の回想』に対して、『特高の嘘八百』を献上しよう。特高の任務や信条は、嘘をつくことである。拷問などしていない、スパイなど使っていない、伊藤律はスパイではない、飯塚盈延なんて知らないと言ってそれをなんとしてでも通そうとするのが、特高の務めである。それに対して黙秘が共産党員の務めであった。
ウイキペディア「伊藤律」1913.6.27—1989.8.7を読むと、伊藤律が相当な拷問を受けたとあるが、宮下弘はそのことについて全く語らない。
宮下弘は「戦後を含めて昭和15年以来伊藤律に一度も会っていない、連絡していたなどバカげたことだ」と読売の記者に言っているが、文通はしていた。これは朝ご飯を食べなかったがパンは食べたの類である。270
ウイキペディアによれば、伊藤律は1981年から中国時代の回想録を執筆し、死後の1993年、『文芸春秋』に「日本のユダと呼ばれた男」として掲載された後、『伊藤律回想録』として刊行された。またゾルゲ事件と自らの関わりについては「ゾルゲ事件について」1988を書き、没後『偽りの烙印』に掲載された。
追記 2021年4月5日(月)
宮下弘は社会民主主義に対する理解はあったようで、取り調べ前に大内兵衛の本を読み、戦後も大内の本を読んでその書評を送り、それに対する返信をもらうなどしていた。しかし、コミンテルンの人民戦線戦術を認めたということではないのだろう。
感想 2021年4月1日(木)
特高は真実を語っていない。また真実を語らないことに何ら後ろめたさを感じていないようだ。中村絹次郎の口調からもそのことが分かる。米軍も立ち去り、訴追される心配も全くなくなり、権力をバックに身の安泰を確認した者のような口ぶりだ。
「こんなこと(伊藤律が特高のスパイだったこと)をしゃべると、わしゃ宮下さんに、あんたは口が軽い、とたしなめられるわな。324」「特高の大事なことは口のかたさ(嘘をつき通すこと)です。」325
特高の中には追放された人はいたが、戦犯のようにその拷問やスパイ行為などを尋問されることはなかった。
また、松下の共産党批判は、批判のための批判、つまり、共産党を貶めるための批判であり、建設的批判ではない。078
感想 2021年3月19日(金)
この時代は、宮下の上司中村絹次郎特高課長や陸軍当局が、尾崎秀実を含めて大学教授、ジャーナリスト、評論家などの論文の執筆傾向が、おそらく、戦争遂行に不都合で気に入らないからという理由で、警察にしょっ引いてやれと言い、またそういう恣意的な警察行政がまかり通りそうな時代だった。200, 201
感想 2021年2月25日(木)
この特高の本(宮下弘のインタビュー)を読んでいると、憂鬱になる。
特高には見栄っ張りの人が多いのかも。自慢話が多い。ハッタリも多い。しかしそれは無駄だ。
犬という言葉がぴったり。表彰され、安定した給料をもらうことで国家権力という鎖に繋がれている犬だ。権力を否定したり、批判したりする立場にはアプリオリに立てない職業である。その意味で一種の片輪だ。どんなに一生懸命に仕事ができる人でも、どんなに右翼より左翼の方が好きだと言う人でも、どんなに拷問はあまりしないと言う人でも。
宮下は拷問を肯定する。その理屈は、取り調べる相手と立場が入れ代わった政権になれば、相手が自分を殺すかもしれないからというのだが、それは屁理屈だ。その前に国家権力の正当性そのものの根拠を問う立場を確保しておくべきではないのか。
宮下弘の立場ははっきりしている。現政権擁護、つまり、国家主義である。
宮下の言うことはすべてが真実だとは言えない。本人もそう言っている。(取り調べでのハッタリや…失念した。本文参照されたい。)真実を語らず黙っていることもあるし、敢えて嘘をつくこともある。伊藤律がスパイでないなどというのがその典型だ。
そういう嘘か真実か分からないようなことも含む本書だが、警官の現実を知る意味でまとめてみることにした。当初はそんな無駄なことはやめておこうかと思っていたのだが。またすべてが嘘とも言えないから。
解説者伊藤隆について一言。伊藤は、立花隆の共産党論を推奨しているが、それは「客観的な」共産党論らしい。悪く言えば、魂がない。宮下の言葉にも、『日本共産党の50年』にも魂があるが、伊藤の学問的共産党論には魂がない印象を受けた。極論をすれば、何を生きがいに論文を書いているのか。
「客観的」とは結果的に、現体制側につくことにならないか。だが、とても緻密に資料探しをしていて、その意味ではとても参考になる。
メモ
一 生い立ち・職工時代
一 高等小学校卒業まで
006 私は1900年10月8日、宇治山田の遊廓、古市に生まれた。*
*没年をウイキペディアで調べようとしたが、宮下弘という項目は見当たらなかった。本書の元になったインタビューを受けたのが1977年だから、77歳まで生きていたことは確かだ。
父は16歳の時東京に出て、米屋の小僧をしていたが、八百屋の娘えんと駆け落ちし、伊勢に戻った。えんは養女で、小学校は2年までしか上げてもらえなかった。父は話し上手で、読み書きそろばんが達者で、力も強く、体重は20貫もあった。*
*宮下は優秀な成績で警官採用試験に合格した。本書自体が語るように、インタビュー時に77歳だというのに、昔の人名・組織名をよく覚えている。人民戦線事件を調べていた時には、学者の書いた書物も読んで取り調べに臨んだ。また子供は東大文学部に合格した。
007 二人は伊勢に戻り、一人の兄や二人の姉の世話になった。私は父の長姉の家で生まれた。その後、父は橿原に行き、私塾を開いたが、日露戦争が始まると大阪に出て、砲兵工廠の職工になり、母はそこで飯炊きをやり、職工を泊めた。戦争が終わって東京に戻り、芝区、現在の港区三田で、母はタバコ屋を商い、父は日本通運で力仕事をした。
母から生まれた子供は私一人だが、大阪在住の時、ある職工が赤ん坊を置き去りにして逃げ、父母はその子を育てた。私と3つ違いの義弟である。父は義弟を小学校にもやらなかった。
008 戸籍も徴兵検査前まで入れなかった。父は女道楽で、私には異母弟が6、7人いる。
009 1年生の時だけ芝の桜田尋常小学校に通い、2年生になって芝白金の私立飯田尋常小学校に転校した。父は芝白金志田町で米屋を商っていたが、そこから麻布新綱町に移り、麻布三連隊御用になった。
010 当時は米価は相場だった。
3年生の時は、麻布の笄(こうがい)尋常小学校に通ったが、それから静岡に移住した。父は土木工事の西田組の小頭になり、静岡市内の紺屋町、桶谷町、和田町と引っ越した。小学校は静岡市立第四小学校だけだった。(転校はしなかった。)
5年生の時東京に戻り、笄小学校を卒業した。そこでは教育勅語だけでなく戊申詔書*も暗誦させられた。
*戊申詔書 1908年10月14日に発布された明治天皇の詔書の通称。これは道徳を国民に示し、その後これに基づき地方改良運動が進められた。
「…上下心を一にし忠実業に服し勤倹産を治め惟れ信惟れ義醇厚俗を成し華を去り、実に就き荒怠相誡め自彊息まさるべし…」
麻布麻仲高等小学校と牛込高等小学校に通った。
――学校での成績はどうだったか。
011 飯田小学校では副級長、笄小学校では中くらい、静岡でまた副級長、東京に戻って中くらいだった。
画家になりたかったが、父に止められた。父も画家になりたかったらしいが、祖父(農家)に止められたとのことだ。
高等小学校では作文が得意だった。
――当時は尋常小学校しか行けない子供が多かったのではないか。
012 私は一人っ子だったからか、父母は職工だったが、月謝1円の高等科に進学させてくれた。
東京に戻ってから母は麻布の凸版印刷の女工をしていた。間借りで、貧乏だった。当時の職工の賃金は低かった。父は米屋を営業したがった。
高等小学校2年の時、神田錦町の一つ橋高等小学校に転校し、『錦舟』という回覧雑誌を始め、表紙や口絵を描き、歴史小説、冒険小説を書いた。
父は錦町で氷屋をやっていて、私はそれを手伝って貰ったお金で、立川文庫、笹川臨風、塚本渋柿園、村井弦斎などを買って読んだ。また米倉の中の変体仮名で書かれた絵草子の『双蝶廊日記』『源氏物語』『八犬伝』などを読んだ。
013 高等小学校では4人の級幹(級長)の一人になった。歴史小説家や小学校の先生になりたかった。公費で行ける師範学校に行きたかったが、父に許されなかった。
級幹の一人で保護家庭の秋山は、高等小学校でも公費をもらっていたが、師範学校に進学した。
父は錦町での仕事に失敗して三河島に転居した。高等小学校2年の3学期は月謝が払えなくて通学しなかったが、卒業証書だけは貰った。
二 給仕志願、職工時代
014 ――高等小学校を出てからすぐ働いたのか。
『西国立志伝』*に給仕から出世した人が大勢いたこともあり、新聞広告で見つけた給仕の仕事をしようと思って京橋の某会社に行ったが、自転車に乗れないので不採用となった。
*スコットランドの作家・医者であるサミュエル・スマイルズSamuel Smiles, 1812.12.23—1904.4.16の “Self Help” 1859 を、明治時代の啓蒙思想家・教育者の中村敬宇(正直)が訳したもので、明治の初期から向学心に富む少年がこれを愛読した。自助・自立の精神、国家有用の人物として立身することを説く。日本では一般には『自助論』として知られている。「天は自らを助くる者を助く」Heaven helps those who help themselves. は “Self Help” 序文中の格言である。
江戸橋の中央電信局で信使になった。信使とは、受信電文を室内の中継窓口に配達する仕事である。日給17銭で安かった。1915年大正4年ころの米価は1升12、3銭だった。早朝の割引市電で行き、帰りは1時間歩いた。12時間労働だった。
015 大正デモクラシーにはまだ早かったが、いくらか自由主義的雰囲気があり、私は『白い鷗』という回覧雑誌をつくった。
匙を作る工場へ行った。匙を玄能で叩いて艶を出すのだが、手が豆だらけになるきつい仕事だった。2週間で辞めた。
母は日暮里の東京帽体という帽子の生地を作る工場で働いていた。私はそこでプレスの職工になった。日給25銭だった。10時間労働だったが、実際は14、5時間働いた。徹夜の残業もあった。今のような25%割り増しはなかった。
016 左手の甲にけがをした。工場の事務員は私の過失だと言った。機械のせいだと会社が責任を持たねばならないからだ。治療費は出してくれたが、休めば日給が出ないので、片手を繃帯を巻きながら働いた。
――労働争議の経験はあるのか。
ストライキを2、3回経験した。組合はなかった。自然発生的ストだった。
石川島造船の出身で友愛会の組織を作ろうとした山本などボイラー部門が中心となった。組合運動を説得されたが、私はむしろ『西国立志伝』に影響されていた。
017 私は彼を尊敬していたが、他人にストライキをやらせようという気にはなれなかった。私は労働は神聖だと考えていた。ストでぶらぶらしているのは嫌いだった。河合栄次郎の『学生』を読んだが、社会主義者らしい河合も、ストライキは推奨していないように思えた。
それより私は短歌に夢中になっていた。雑誌『日本少年』に短歌を投稿して当選した。『桜草』という少年短歌雑誌の会員になり、その後、『水甕』に参加した。八幡製鉄の職工の前川芳草も短歌を作っていた。
上野の花山亭での短歌会に参加し、一等を受賞した。
肋膜炎になったときにつくった短歌は、
病み臥(こ)やり 立木の梢見えねども 風さわぐ音 間もなし聞こゆ
――帽体工場は長く勤めたのか。
018 5年間19歳の時まで勤めた。2年して伍長になり、部下が20人いた。伍長の上が組長、その上が工場長である。200人の工場で、伍長が9人いて、伍長会(親睦会)の会長は丹下登だった。丹下昇は後に共産党員になった。私が警視庁の特高だった時、逮捕した者から押収した書類の中に、彼の闘争記録があった。闘争記録は共産党へ入党するときに提出する書類であり、治安維持法の「結社に加入したる者」の条項を適用するための重要証拠であった。
私は二代目の伍長会会長になったが、みんながあまり乗り気がないので解散した。
私は組合を作る気はなかったし、ストライキを扇動もしなかったが、工場の欠陥は指摘した。
019 大正9年、1920年、東京帽体が向島の大日本製帽に合併されたとき、私は首になった。会社は働きのない奴やうるさい奴を30名くらい辞めさせた。
私は理屈ぽかった。みんなに担がれて、解雇反対、解雇手当を出せと要求した。解雇手当はわずか日給14日分で、それは少なすぎると抗議したのだが、その14日分というのは民法に規定されていた。それを知らずに警視庁の保安部工場課に訴えたところ、警視庁は王子の労働運動家を紹介してくれた。
020 その労働運動家でもらちがあかず、支配人の家に石を投げつけたところ、その労働運動家と私は南千住の警察署に呼ばれた。投石は全員の意思ではない、今後はしませんと謝って帰された。
新聞社が争議の実情を聞きにきたが、結局みんなが金をもらって、争議はくずれた。
法律を知らないことを恥じ、ただで法律を学べるところを探していたところ、巡査募集の広告が新聞に載っていた。
その間、父が勤めていた会社の臨時雇いになった。碍子(がいし)を叩いて壊す仕事や、土工のような仕事をした。肋膜を患った病み上がりの体には仕事がきつく、巡査募集に応じ、採用試験に合格した。
ところが巡査応募資格は20歳以上40歳以下だった。身元調査があり、20歳になっていなかったことが判明し、合格取り消しとなり、翌年大正9年、1920年10月、20歳になり、受験しなおして合格した。
二 関東大震災前後
一 警察練習所
――巡査採用試験の応募者は多かったのか。
024 多くはなかった。
試験で大臣の名前を聞かれるらしく、私は新聞を読んでいたから、原敬内閣で、内務大臣は床次竹次郎ということを知っていたが、周囲の受験者は知らない人が多く、パニックになっていた。私は警察官になろうというんなら、内務大臣の名前ぐらい知らなきゃいけないんだと、みんなに大臣の名前を教えてやりましてね。(自慢話)
身元調査でも、争議の先頭に立たされたことも知られなかったと見えて、無事に大正9年、1920年12月1日、御成門の警察練習所の第141期生になった。この中で海保と私の二人だけが後に警視に昇進し警察署長になった。
巡査の志願者の中には、食いつめ者や、他にいいところがないので巡査にでもなろうという人や、兵隊逃れもいた。当時アメリカで排日運動が強まり、押川春浪などが、日米戦争が始まると書き立てていて、戦争になって兵隊にとられたら大変だと考える人もかなりいた。
025 警察練習所の卒業試験でカンニングを頼まれたこともあったが断った。炭屋をやっていて食っていけるが、兵隊にとられると困るので、知り合いの巡査部長に練習所に入れてもらったが、難しくて講義内容が分からないというのだ。
警察練習所での講義内容は、常識的教養としての地理、歴史、訓育などと、初歩的な法律(警察法、行政法、憲法、刑法、刑事訴訟法)であった。(警官は)現行犯と非現行犯の取り扱いの違いを知っていなければならない。
高小卒業者は定期募集で、教習期間は3カ月だったが、中卒以上や軍隊で曹長以上の階級の者は、不定期募集で、教習期間は1カ月だった。
練習所主事の田村係長は、個性の尊重を説き、藤田東湖の「正気の歌」を教えた。
026 私立大学の夜間部に通っている者もいる中で、私は割合良い成績で卒業できたが、それは私が柔道が得意で、それがプラスになったせいだろう。(自慢話)
私は静岡の小学校時代に、義正館という講道館の分場に泊まっていたことがあったが、そこで内弟子になった。私は警察練習所では柔道の先生の助手になった。
練習所では「宣告文」を暗誦させられた。
一 巡査たる者は官吏服務規律を恪守すべきは言を俟たず、常に上官の命令を遵守し、勤務中は勿論勤務に服せざるときと雖も、猥らに政治の是非得失を論評するが如きこと決してあるまじき事
一 巡査たる者は常に人民の保護者たることを記憶し、之に対し丁寧親切を旨とし、しかもこれと相狎昵(こうじつ)するが如きことなく、職務上において負担する百般の責務は、最も厳正忠実に之を践行すべき事
一 巡査たる者は一端奉職の上は、他念なく職務に従事し、五箇年未満にして一身の故を以て辞職するが如きこと決してあるまじき事
一 巡査たる者は自身は勿論家族に至るまでもっぱら品行を正しくし、警察官吏たりまたその家族たる体面を汚損するがごとき所業決してあるまじき事
政治については特高警察も軍人同様無関心でなければならない。5年未満で辞職してはならないというのは巡査の志願者が少なかったせいだろうが、強制ではなかった。
027 夜間、僧侶が来て聖徳太子の十七条憲法の講和をした。「和を以て尊しとす」である。キリスト教の牧師が来て説教したこともある。これは精神訓話か常識涵養ということだろう。
警察練習所では月給30円もらい、警察練習所での生活費は無料だった。
二 交番勤務
028 警察練習所終了後の配属先希望は認められなかった。勤務地の合宿所に住むか、家族と勤務地付近に移転しなければならない。(宮下は合宿所を利用した。031)
最初の任地は久松警察署だった。
久松警察署の署長は多賀谷岩次郎といった。
私の最初の交番勤務は浜町河岸巡査派出所だった。周囲に待合が多かった。
ある日自動車の運転手が幅員の狭い横丁に自動車を入れたいと言って来た。当時は三間以内の幅員の道路に車を入れるには巡査派出所の承認が必要だった。私は、歩行者が困るし、病人でもないから認めなかった。すると運転手は引き返してから戻ってきて、日本橋の酒屋の問屋で東京府会議員の神崎五郎兵衛の名刺を持ってきた。それでも私は認めなかった。
029 府会議員は警視庁の予算を決める権限を持っていた。
神崎は署長を呼びつけて私のことを非常識だという。多賀谷署長は次期日本橋区長を狙っていた。また巡査合宿所の新築を計画し、警察後援会を作り募金を始めていた。その会長が神崎だった。
署長は翌朝訓授で一般的な話として「非常識な警官がいるが困る。そういうことはしないように」と言ったが、私は「病人なら通すが、行き先は待合だった」と言った。
030 居合わせた複数の巡査部長も狭い道路だと指摘し、署長も納得し、その後この件での訓授をやめた。
031 神崎が行こうとしていた待合は妾にやらせているところだった。
私はその後訓授のたびに署長からいじめられた。
私はそのころ『自警』という雑誌の懸賞小説募集に応募して、二等の首席になったが、そのことで署長に通知があり、「宮下巡査は何しに警察に来ているのだ」と(署長に)言われた。
032 当時警官は勤務地から遠いところからは通えないという規則があった。ところが南千住署の某警官が日本橋久松署に転勤したがっていて、私もその話に乗って転勤希望を出したら、翌日辞令が出て、南千住署勤務になった。
私は久松署に1年いた。多賀谷署長は後に日本橋区長になった。
――南千住署での居心地はどうだったか。
南千住署は三河島の父母の家に近かったが、また署長とうまが合わなかった。
署長は千住に遊廓ができる前に、ここに伝染病の病院ができると宣伝して地価を下げてから土地を買い占めて儲けたとのことだ。
巡査は町の裁判官のようなもので、刑事事件だけでなく、衛生、営業、工場、建築、交通なども管轄し、町の人から相談も受けつけ、説教をしたこともある。
033 戦前は警察と民衆との結びつきが強かった。交番の巡査は戸籍簿を持って各戸を回り、内情を偵察した。これは警察の強力な武器となった。
自転車や荷馬車の無灯火、はだかや立小便などを注意し、その件数を事故表に記録し、派出所日誌を書く。
また事故報告書や告発書を書く。告発とは違警罪即決例*に基づいて拘留や科料にあたる刑の言い渡しを警察署長に求める手続きであり、今の簡易裁判所の役割である。
交番は9人勤務で、管轄区域を9分割して受け持つ。久松署では1人で200戸、南千住では1000戸を担当した。南千住では新しい貸家がどんどん建って人口が増えていた。
当時は住民登録がなく、寄留届を出さない人も多かったので、警察がそれをチェックした。戦時統制経済になった時は、食料品や衣料品などすべてが配給制度になったが、それまでは戸口査察制度であり、それを警察が掌握していた。
034 要注意人物を報告する「注意報告」制度があり、その報告をうけて私服が調査をする。
――要視察人についてはどうか。
要視察人は戸籍簿の名前の上に印がつけてあり、裏面には参考事項が書かれている。また特別要視察人は思想関係で、特高警察が担当したが、巡査も注意していた。
久松署ではそういう対象者はおらず、刑事事件もほとんどなかったが、南千住署では賭博、泥棒、強盗、喧嘩などいろいろあった。
三河島の峡田(はけだ)の派出所の前に貧民街があった。千軒長屋ではムシロ一枚が隣との境になっていたが、よく喧嘩があり、交番に連絡が入った。
久松署の巡査の服装はきれいだったが、南千住署の巡査は労働者のような恰好をしていた。
035 当時の南千住署の管轄は、北豊島郡南千住町、三河島町、日暮里町だった。
南千住署では最初道灌山下の渡辺町巡査派出所を担当し、その後、日暮里の山下の線路際の派出所、東京市下水処理場前の三河島町峡田派出所、三ノ輪の大関横町、千住間道の5カ所を2年間で担当した。
三 関東大震災前後
036 ――1923年、大正12年の関東大震災の時はどこにいたのか。
三ノ輪の大関横町派出所勤務だった。非番だったが、揺れが収まると出勤した。非常のときはすぐ出勤せよという決まりだった。火事はまだおきていなかった。つぶれた家の下敷きになっていた近所の質屋の4人を救助し、後で表彰された。
三ノ輪署での私の仕事は炊き出しだった。米やパンは他府県から、ミルクはアメリカから送られてきた。
037 本所の被服廠跡へ避難した人達は(火事で)大惨事に会った。
――警察機能も麻痺したのではないか。
朝鮮人や社会主義者が放火している、井戸に毒を投げ込んだ、という噂が広まった。新聞は出ないし、ラジオはまだなかったので、*情報がなくて不安な状態だった。
*日本では1925年、大正14年に東京でラジオ放送が始まり、1928年、北海道から九州までの全国放送が始まった。1951年に、民間放送が始まった。
しかし、警察電話が通じていて、9月2日、警視庁から総監指令が来た。その内容は、
1.流言防止と厳重な取締
2.不逞行動の取締(どんな不逞行動か。)
3.朝鮮人を迅速に保護収容し、内鮮融和を図る。
4.自警団の凶器携帯を禁じ、断乎取り締まること。
(本当か。嘘っぽい。外国の批判を受けた後で作文したのではないか。軍隊まで出したのだから、どうして自警団を取り締まらなかったのか。)
朝鮮人を収容して食料を供給した。
038 私の家の近所でも朝鮮人に関する流言蜚語は大変で、それは嘘だと上から来ていると私が説明しても聞かない。朝鮮人が巡査を殺して制服を着て巡査に化けているから、巡査も信用できないと言う。
自警団はすごく権威を持っていた。地方から応援に来た巡査は朝鮮人と間違えられた。警邏している警官も疑われた。警官より自警団の方が数が多い。自警団は威張っていた。夜になると酒を飲んで騒いだ。
吉原の土手の上を朝鮮人がむざんに殴られて大勢に引きずって行かれるのを見た。巡査の中にも、朝鮮人をぶった切ってやる、と言うのもいた。
自警団は自発的に出来た。
039 朝鮮人を殺した自警団は後に検挙され、殺人罪で起訴された。『警視庁史』によると、自警団の犯罪は、9月4日未明から捜査開始して、殺人45件、161名、傷害16件、85名、強盗1件、1名、計62件、247名が一斉検挙された。
大杉栄と伊藤野枝が殺されたことは知らなかった。後で新聞が出てから知った。
当時、社会主義者や朝鮮人は普段から警戒されていた。社会主義者の評価は、家賃踏み倒し屋、無法な者、会社へ行って金をせびる、と思われていた。当時の社会主義者の主流はアナーキスト、ニヒリストで、辻潤は人気があった。家主は金持ちで、会社は労働者を搾取しているのだから、家賃を踏み倒して、恐喝することは「正義の悪」と彼らは考えていた。
南千住管内に朝鮮人は多く、いい人もいたが、悪い人もいて、悪い方が朝鮮人の代表のように見られていた。生活の流儀の違い、ニンニク臭い、朝鮮人だけで徒党を組む、言葉が分からない、大声でがなり立てるなどと、非常に下等な人種だと一般に思われていたのではないか。
4年前の3・1大暴動という朝鮮人独立運動があり、朝鮮人の一部に物騒な計画があるのではないかと、政界や軍が警戒心を強めていた。*朴烈・金子文子事件など、朝鮮人は危険だと思われていた。*朝鮮人は安い賃金で日本人の労働市場を奪う好ましくない人種だと反感を買っていた。これはアメリカでの日本人労働者排斥運動と同じことだ。
*3・1独立運動が起こった原因については考えないのか。そしてなぜ「大暴動」ととらえるのか。
*二人の件が事件化(大逆罪)したのは、震災2日後に捕まってからではないのか。
040 部落問題(部落差別の現実(差別的事実)を並べ立てるだけで、その問題の本質については語らない。知らないのか。)
峡田管内の千軒長屋の貧民や、博善社(火葬場)に集まる乞食はみじめで、いったんそこへ落ちると抜け出しがたいようだった。
041 自警団は権力好みで、威張っていた。第二次世界大戦の時も警防団があり、これは自警団と違って上からつくらせたものだが、やはり権力的だった。
四 警部・警部補試験
――結婚したのは震災前か。
042 震災後に結婚した。南千住警察署勤務のころ、池田都楽という遠い親戚の娘との話があったが、母は母方の親戚を望んだ。当時父は女道楽をやめ、鬼怒川水力電気の倉庫係をしており、生活にも余裕ができ、母は働かなくても済むようになっていた。
震災後焼け出された都楽家が私の家に居候しに来た。都楽家は資産家だった。私の義弟は大工で、都楽家の再建を担当した。私の家はこれまで借家住まいだったが、この際新築することにした。
043 居候していた従兄弟の一人も大工だったので弟と二人で家を建てた。土地は鬼怒川電気の土地の一部を借りた。
目黒に石橋万次郎という母の弟がいたが、その叔父の家の近くの酒屋にもんという娘がいて、その娘と見合いをして、結婚した。25歳だった。私はその直後に巡査部長に昇進した。
私はほとんど酒を飲まないので、給料で十分だった。
044 ――巡査部長になるための試験を受けたのか。
警察練習所の仲間で神田錦町警察署に配属された人は日大や中央大などの夜学に通っていて、勉強熱心だった。日本橋久松署や南千住署時代は勉強しなかった。大震災の時、監督者から勧められて特別講習を受けて巡査部長の資格を取ったが、震災で記録が焼失し、ご破算になった。(そんなことあるのか。)
千住間道の派出所勤務当時、刑事訴訟法が改正されて、司法警察官(警視、警部、警部補)が尋問調書や聴取書などを作成するときに、立会人の司法警察吏(巡査)を必要とした。
それで私は司法係内勤にされた。司法主任の長浜亀一警部は高文受験のための勉強をして、司法警察吏制度ができたので、調書を私に書かせ、調べ(取り調べか)もやらせた。
045 長浜の下に司法副主任の佐藤警部補がいた。陸軍中尉出身である。佐藤は遊び好きで、賭博常習犯を検挙しても軽罪にしてしまった。それで私は彼らのやるべき実質的な仕事をしたのだが、それは法律の勉強になった。
それが1年続いた。その後人事相談係になり、法律の勉強をするゆとりができた。上司(千速竹一警部補)から警部・警部補試験を勧められ、常識問題の予備試験を受けて合格した。
予備試験の受験者は700人で、合格者は300人だった。私は3番だった。本試験は、判任官試験の受験有資格者が加わり、受験者は400人、70人が合格した。私は法律の筆記試験で4番だった。
長浜主任は高文受験を諦め、警察を辞め、三島の役場の助役になった。佐藤副主任は悪事がばれて罷めさせられた。千速警部補は佐藤の後任である。千速はのちに宮崎県警察部長になった。高文を受けない巡査だった。
私は『警察全書』一冊しか勉強しなかった。
046 次は口述試験で、試験管の前に行って、直立不動の姿勢を取り、帽子を脱いで脇に挟み、深く頭を下げて敬礼する。厳格な礼式を重視する。それで人物を見る。最終的に6番になった。(いい成績じゃん。)
これは警部・警部補試験であるから、巡査部長も受験している。南千住署の大塚巡査部長は不合格だった。歳末の特別警戒では内勤の者も動員される。これを「密行」というが、この時私が持ち場にいなかったため、大塚巡査部長から訓告処分を受けた。
――巡査部長昇任前の人事相談係とはどんな仕事か。
管内住民の生活相談受付係である。警察は民事を扱わないという原則だったが、実際は夫婦喧嘩まで持ち込まれることもあった。
047 民事の条文は知らなかったが、なんとか解決した。従業員から争議の相談を受けたことがあった。争議は警察署の高等係が、大きな問題は本庁(警視庁)の特高課労働係が扱うことになっていた。
家主から追い立てられた問題を調停したことがあるが、当時は一般的に借家人の方が威張っていて、家賃を払わない人もいた。
五 千住遊廓の「ドン・キホーテ」
――巡査部長に昇進したが、巡査と違うか。
048 大いに変わる。巡査には絶えず監督がついているが、巡査部長は監督者の立場になり、制服の袖に銀筋が入る。
巡査の仕事は警邏、立番、見張りなどでそれぞれ1時間である。見張りは腰を掛けていられるが、立番は腰を下ろせない。眠気に耐えられないこともあった。日勤は8時間だが、当番は25時間勤務で、夜は3時間につき1時間仮眠をする。当番は3日に1回まわってくる。
049 1926年、大正15年2月、私は巡査部長になり、最初は千住警察署で外勤係巡査部長になった。警部補が外勤主任で、甲乙丙の三部に分かれ、その下に二人ずつ巡査部長がつく。管内の派出所、駐在所それぞれ7、8か所ずつ監督して回る。派出所は徒歩で、駐在所は自転車で向かう。派出所は交代勤務だが、駐在所は家族と常駐する。
外勤の監督を半年してから保安係を命じられた。
保安係はバクチと私娼の取締りと遊廓の監督で、私服である。前任者の品川はバクチ打ちの親分の親戚の娘とその親分の仲人で結婚し、世間の非難が集まり、保安係から高等係に転勤した。(他人の悪口)
千住警察署の三宅署長は山口県出身で、品川と同郷だった。高等係は区や町内の顔役である町の政治家と署長との連絡係であるが、思想警察を担当していた。
050 私は賭博稼業が存在していること自体がまずいと考えていた。(以下ほら話)
バクチ打ちたちが興業の入場券を貸座敷に押し付けていることを聞き込んだ。博徒の親分は鈴木といい、その下に、神田こと八木某、洋食屋こと鈴木某、以下十数名のバクチ打ちがいた。また、西新井には西新井一家、梅島には梅島一家がいた。私は逮捕して全員に拘留20日を言い渡した。(恐喝か。裁判はしないのか。)
暫くして鈴木市五郎という親分のところへ行った。鈴木はこれまでの保安係の部長の話をした。仲良くしていたことを言いたいらしい。
その後何度かバクチ打ちを検挙したが、効果がなかった。私は防犯係などと相談して、賭博開場時間に張り込んで、商売の妨害をしようと、お客に不審尋問することにして、うまくいった。
051 すると彼らは正業に就く擬装をした。浅草の暴力組織・高橋組が土建業の看板を持っていて、鈴木の乾分は、土建業高橋組出張所の看板を出した。
そして署長に政治家が圧力をかけてきた。鈴木大親分は自分の息子の慶応大学生を八並という司法参与官のところへ書生にやらせた。八並の秘書を名乗る男が署長室へやってきた。
署長はその男のいる前に私を呼び出し、「一年たてば、足を洗うと言っているから、面倒を見てやったらどうか」という。私は「署長が命令するならそれに従うが、意見を聞かれるなら、認められない。犯罪を大目に見ることはできない。」と言った。(宮下の主張が通ったということか。)
遊廓の取締りは保安係が担当だが、従来娼妓だけを取り締まっていた。娼妓の客引きは格子内にいて、貸座敷の外に出て客を中に引っ張り込んではいけないのだが、それに違反した場合、娼妓を科料にする。それはおかしい。娼妓は貸座敷業者に強いられている。私はそう考えて業者の方も共犯として取り締まることにした。貸座敷業者とは法律上の名称で、実は娼妓を前借でかかえて売春させる楼主である。
そのころ娼妓の心中事件があった。それをきっかけにして、貸座敷業者が娼妓に対して苛酷に振舞っているのを摘発しようとしたが、それ自体では犯罪にならなかった。客を取る順番を楼主が干渉して変更する「玉送り」は、娼妓に対する営業妨害と言えるが、それだけでは弱い。
052 そこで貸座敷業者と娼妓との関係を業者の帳簿で調べた。呉服屋が収めた着物を娼妓にいくらで売りつけているか。衣裳代は娼妓の業者に対する借金になる。いくら上乗せしているかを暴いた。
私は三軒でそれをやり、三軒を詐欺または横領罪として20日間の営業停止処分にした。営業停止の行政処分権は本庁(警視庁)にあったが、警視庁の風紀係長の松山警部は、「詐欺、横領というのは珍しい」と感心したが、私の上申を抑えることもできなかった。
警察が娼妓に味方してくれるという評判が立ち、自由廃業の駆け込みがあった。警察に逃げ込んだ娼妓をやり手ばあさんが追っかけてきた。営業係の窓口でごたごたしていたので、私が、「娼妓が廃業を申し出るときには直ちに受け付けねばならないと規定にあるではないか。すぐに受け付けたらよい」と言った。
保安係と営業係の主任警部補もそこに居合わせたが、普段司法警察官である警部補のやるべき仕事つまり訊問調書の作成を私にやらせていたので、わたしに対して強いことが言えなかった。私はばあさんを廃業しようとする娼妓を妨害したからとして留置を申し渡した。(そんなことくらいで人を拘束できたのか。)
053 公娼制度は人身売買を許していたわけではない。自由廃業は本人の意志で届け出ればできた。ただし、借金は別である。だから貸座敷業者は前借を減らさないようにしていた。
――遊廓の業者は政治力があるのでしょう。彼らは営業停止処分を大人しく受けたのか。
昭和3年、1928年、第一回普通選挙の時に私は転勤させられた。木島という本庁(警視庁)の警務部長が署長室に来て、私を呼び出したが、私が外出中だったため、他の者が呼ばれて、政友会に忠勤を励めという。これまで(警察が)選挙干渉を地方ではやっていたかもしれないが、東京ではやっていなかった。ところが、今回は東京でも露骨に選挙干渉をやった。
木島は私の転勤命令を書いた。それは異例のことだった。
翌日(警視庁の)警務部から千住署に辞令が届けられ、私は代々幡警察署(今の代々木警察署)勤務を命じられたが、行ってみると欠員はないとのこと。警視庁に問い合わせると、白井警務課長はこの辞令のことを知らなかった。
054 千住を含む選挙区で政友会から立候補していたのは、政友会の大物の前田米蔵と中島守利だった。政友会が私を転勤させられれば、政友会に投票すると千住の貸座敷業者が画策したのだろう。博徒もそれに加担したかもしれない。
私は博徒稼業の集団を解散させようとし、娼妓の自由廃業を助けた。転勤は覚悟の上だった。
政友会は余りにも露骨に選挙を汚した。私は政党政治の悪を痛烈に思い知った。
――代々幡署で断られてから、空きのある署に回されたのか。
本所原庭署に回された。ここの署長は有田といい、東京帝大七生社*の出身だった。
*上杉慎吉教授や検事総長平沼騏一郎らが、新人会*に対抗してつくった興国同志会の流れをくむ国粋主義的な学生団体。1925年、大正14年に結成された。
*新人会は、吉野作造の民本主義の呼びかけに応えて東大に生まれた学生思想運動団体である。のち、労働運動、社会運動の中心的役割を果たし、1929年、昭和4年、共産青年同盟に発展した。
私が久松署に配属された当時は「民衆警察」と言われていたのに、有田署長が初めて「陛下の警察官」と言い始めた。
055 私が本所原庭署に転勤した当時は選挙運動の最中で、本所では、労働農民党から唐沢清八が立候補していた。唐沢は本当は共産党員で、過激なものを内に込めていた。署長は唐沢と街頭で渡り合い、「唐沢やめろ」などと叫んだ。
集会の取り締まりや演説会への立ち合いは警察の仕事だったが、有田署長の本所では、普通以上に強硬で、検束や殴り合いが行われた。取り締まり後署長は、「本日の陛下の警察官諸君はじつによくやった」と士気を鼓舞した。
本所公会堂事件 無産政党が合同で田中義一内閣打倒の演説会・民衆大会を開催した時、有田署長は部下の警察官に命令して暴行させ、新聞記者が怪我をし、新聞記者は警察批判記事を書いた。
綿貫巡査部長が行動隊長に指名されたのだが、やりすぎを咎められて、罰俸(懲戒処分としての減俸)・転勤処分を受け、有田署長は宮崎県の警務課長に更迭された。しかしこれは栄転ともいえる。私はこの時非番だった。
第一回普通選挙で無産政党は全国で8名が当選した。私は社会民衆党*の為藤に投票した。以来ずっと民衆党に投じた。
*社会民衆党 労働農民党から脱退した日本労働総同盟を中心とする右派が、1926年、大正15年12月に結成した政党。委員長は安部磯雄、書記長は片山哲。
――選挙直後の3・15に巡査は動員されなかったのか。
056 3・15は、各署の高等係や私服が担当した。制服の巡査が動員されることはなかった。当時私は原庭署で外勤や営業係で、関係なかった。3・15については検挙からだいぶ経ってから新聞記事を読んで知った。私は普通の人と同じ程度にしか知らない。3・15は一般の警察官にとっては寝耳に水だった。第一回普通選挙で労働農民党から立候補した者が共産党のビラを撒いて、それで一般民衆は共産党の存在を知った。当時共産党は民衆の意識に登らなかった。
それからしばらくした昭和4年、1929年2月、警部補に任官し、尾久警察署に転勤となった。本庁(警視庁)の白井警務課長が、私のことを気の毒に思ったのかもしれない。(本所原庭署での選挙の過剰警備を担当しても、私の)履歴書にキズはつかなかった。
私は本所原庭署には1年しかいなかった。また尾久署も3カ月だけで、その年1929年の5月、本庁(警視庁)の特高課に転勤した。
――尾久署にわずか3カ月で、本庁の特高課へ転勤するというのは、特別に何か評価されたのか。
抜擢人事だったことは確かだ。3・15、4・16で特高警察が拡充され、調書の取れる警官が求められた。南千住警察署勤務の時、私に警部・警部補試験を受けるように勧めてくれた千速警部補が昇進して、このころ本庁特高課の警部になっていて、私を引っ張ってくれた。
057 3・15の時は、何も知らない警察官が取り調べに当たった。本庁の警部や警部補では調書の取れる者が少なく、臨時に警官が動員された。知識のない警官が調べるから、不十分な取り調べだった。共産党に加入したかどうか(はっきりせず、ちょっと接触があったらしい)、その程度で検事局送りになるというのが相当あった。無理なこと(拷問)をして白状させることもあった。3・15で懲りて調書の取れる警察官が求められた。
三 日本共産党の壊滅まで
一 警視庁特高課へ
060 ――警視庁特高課に転勤した時の最初の印象はどうか。普通の警察とはだいぶ違ったのではないか。
明るかった。天下国家の仕事をしているのですから。バクチ打ちや泥棒を捕まえるのとは違うのだから。(共産党員を捕まえることが、そんなに明るいことなのか。この辺の神経が分からない。)
当時の警視庁は震災に会って桜田門内に仮庁舎があった。ウナギの寝床みたいな建物の廊下を真っすぐ入って行った左側に特高課の部屋があった。全員が私服勤務で、平常は普通の官吏同様日勤である。
交番勤務や各警察署の内勤とは感じが違った。外勤は実績主義である。勤務内容に関する指示がない。(こう言っているが後では指示されている。)昭和4年、1929年5月に特高課に入った私が最後で、新しく入ったのは2、3名で、何も教えてくれない。
061 1カ月前の4・16で検挙された者の顔写真やそれ以前のアルバム、調書の写しの綴じ込みなどを毎日眺めたり、読んだりしていた。
――特高というと選りすぐりの精鋭グループ、陰険で非常に怖い政治的警察という感じを持つが、かなりの知識を持って特高係になったのか。
私は小学校もろくに学べなかった人間ですし、私を推薦してくれた千速警部も中学三年を修了しただけだ。特高課員の大部分は中学さえ卒業していなかった。
当時私は29歳で、新米の警部補で、何も分からずに入った。他の人もそれぞれの署で特高係をやっていたわけでもなく、警部補級の場合でも、私は調書を取るのに慣れている程度で引っ張られたにすぎない。巡査、巡査部長でも同様だっただろう。推薦で集められた。
062 ――特高係に配属されてから初めて『赤旗』とか『第二無産者新聞』*などを見たのか。
*『第二無産者新聞』 1929年、昭和4年1月に発行禁止になった『無産者新聞』の後を受け、同年1929年9月、非合法下に発行された。日本共産党の準機関紙として党の支持と拡大強化のために宣伝活動を行った。1932年、昭和7年3月、96号まで続き、『赤旗』に統合された。
それまで『改造』や『中央公論』などを読んでいたが、『赤旗』を「あかはた」と言ったら「『せっき』と言うんだ。そんなこっちゃダメだ」と怒鳴られた。実物を見るのは初めてだった。過激だった。『第二無産者新聞』は『赤旗』と全く同じだ。檄文の後に必ず、「プロレタリアートの祖国・ソビエト同盟を擁護せよ!」「労働者農民の政府を樹立せよ!」などの共産党のスローガンが列挙されていた。
『日本共産党の五十年』に「ソビエト同盟の防衛」とだけ掲げてあったのは奇異な感じがした。今の日本共産党がソ連と仲たがいしているので、「祖国」を外したくなったのでしょうか。
――マルクス主義の文献を読みましたか。
あまり読まなかった。『無産者政治教程』や『共産主義のABC』などのパンフレット類を読んだくらいだ。取り調べの中で被疑者の供述のなかから教えられた。
063 初仕事は何だったか。
代々幡署に名前が分からないのを留置してあるのを、行って調べてこいと言われて行った。浴衣がけで所持品は手拭一本、銭湯に行ってきたような恰好のまま捕まっている。名前を黙秘しているとのこと。
私は特高課のベテラン巡査部長と行った。見覚えのある顔だった。帰ってアルバムを見たらあった。茨城の木佐森吉太郎という共産党員だった。
暫くして共青担当になったが、しばらくの間は、古参の巡査部長や巡査に連れられて取り調べにあちこちの署へ出歩いた。
――3・15時と比較して、4・16以後、特高は規模が大きくなったのでしょう。
064, 065
・戦前の内務省組織略図
・昭和4年(1929年)当時の特高課組織系統図
・昭和7年(1932年)6月に総監官房から分離して特高部に昇格したときの組織図
・昭和11年(1936年)7月に特高部が機構拡充された時の組織図
066 4・16後の(特高)機構の拡充で、私は総監官房特別高等課特別高等係勤務を命ぜられた。元警視庁詰記者小林五郎『特高警察秘録』によれば、「3・15の頃、警視庁特高課の総勢は、特高係、労働係、内鮮係、検閲係を加えて総勢70人くらいで、その年の8月に大増員があり、380名になった」とある。
私が特高係になったころは、係長石井警部の下に、6人くらいの警部がおり、およそその倍の(12人の)警部補と、30名くらいの巡査部長と巡査が配属されていた。各警部は主任と呼ばれ、警部補は副主任と呼ばれ、6人の警部のうち2人の主任(警部)が、合法無産政党、水平社、無政府主義者などを担当し、他が(4人の主任=警部が)治安維持法違反事件を担当した。
この人数の三分の一が内勤で、筆耕、印刷、会計、写真・指紋の整理・保管や庶務に従事した。その他に運転手1人と、タイピスト1人、給仕1人がいたと記憶している。
歴史を遡ると、「特別高等」という名称のセクションが設けられたのは、大逆事件の後の、明治44年、1911年で、それ以前の政治的・社会的過激運動の取締りは、高等課または保安課が担当した。その時は(特別高等があったのは)警視庁だけだったが、ロシア革命が起こってから急に共産主義者が台頭し、大正10年、1921年の暁民共産党事件、大正12年、1923年6月検挙の第一次日本共産党事件などが発生したため、北海道、神奈川、大阪、京都、兵庫、愛知、山口、福岡、長崎、長野にも(特別高等が)設置された。
昭和3年、1928年3月15日の大検挙は、端緒も検挙の主導権も特高課の労働係で、治安維持法を担当する特高係ではなかった。それは労働係次席に優秀な毛利基警部がいたからだ。
067 (特高係は、)3・15検挙を免れた幹部・三田村四郎の浅草六区に近い金竜山瓦町のアジトを突き止めたが、高木巡査部長は三田村の拳銃で右こめかみを撃たれて重傷を負い、銃弾を抜いたが、廃人同様になってしまった。三田村と同じところにいた、当時渡辺政之輔の妻丹野セツは屋根伝いに逃亡し、三田村のハウスキーパー森田京子だけをやっと捕まえるという不手際で、(特高係の)石井係長は批判された。
私が赴任した当時、石井係長の意気は上がらず、警部のまま三河島警察署長に転じ、毛利警部が労働係からその後任に乗り込んできた。
警視庁の特高係を警察署では本庁特高と呼び、各警察署の特高は高等係(一般の政治情報)を兼ね、本庁特高の補助的な仕事しかしていなかった。つまり、治安維持法違反事件関連では、本庁の特高から自分の署に留置を委託されている被疑者に対して、本庁特高の委託にもとづいて手記を書かせたり、面会に立ち合ったり、本庁特高の指揮に従って管内の被疑者を検挙したりした。
だから、各警察署の特高が自主的に治安維持法違反の被疑者を内偵・検挙して取り調べをするなどということはなく、非合法組織の要員をスパイに使うなどということもなかった。
だから、これから少し後のことだが、昭和8年、1933年末の共産党リンチ査問事件で、宮本顕治らに「殺された*1」小畑達夫が、万世橋署の特高主任高橋警部に使われていた――また高橋警部など存在しない*2――という共産党の発表はあり得ない。各警察署の特高主任は大きな署でも警部補で、小さな署では巡査部長だった。
*2 これは小畑が嘘をついたのだろう。
*1-1「殺された」と宮下は断定的に言うが、宮下は現場を見たわけではないだろう。その断定の根拠は信仰ではなかろうか。また特高警察が500人もの共産党関係者を殺した事実を棚に上げておいてもらっては困る。
『日本共産党の70年』上144, 145では、以下の通りである。
「法廷の中で宮本は、実際の状況を明らかにしつつ、鑑定書や再鑑定書の欠陥や矛盾を指摘し、小畑達夫の死因を急性心臓死あるいは特異体質によるショック死という内因性のものとみるのが妥当だと指摘した。現在では、法医学専門家による関係記録の検討によっても、宮本の当時の主張が正しかったことが明らかになっている。
当初当局は小畑の死を「党内派閥の指導権争いによる殺人事件」にでっち上げようとしたが、スパイ(大泉兼蔵)自身が秘密警察のスパイであることを自供することによって、当局のその策動は崩壊した。
宮本は、査問を「計画的な暴行」「私刑」だとする特高警察のデマに反論し、スパイや挑発者に対する最高の処分は除名が当時の党中央委員会の基本方針であること、近隣住民の証言にもあるように、査問が全体として平穏に行われたこと、小畑の急変に気づいてからは蘇生の努力が払われたことなどを明らかにした。
しかし、裁判所医務嘱託の鑑定書はいい加減であり、またそのために裁判所が認めた再鑑定も、当初の鑑定結果を否定はしたが、当初の鑑定と特高警察の状況説明を基礎にしたもので、特高警察の主張に妥協した表現になっている。
法廷は、宮本の主張に反論せず、宮本が要求した証人喚問を全部却下し、1944年12月、スパイ・挑発者の摘発闘争とその中で生じたすべての事態を日本共産党指導者としての活動によるものとし、解剖検査記録にもない「暴行」「傷害」などの虚構を事実と認定し、治安維持法違反の他に「不法監禁」「傷害致死」その他の罪名もつけ、宮本に無期懲役の判決を下した。
大泉は予審や公判でスパイ・挑発行動を陳述し、特高警察官自身の予審証言もそれを裏付けた。大泉は、陳述の中で、「細大漏らさず毛利に報告したから、党員の検挙に役立った」と言い、「他のスパイが検挙されたことを毛利に話して、釈放させた」と述べた。また「金銭拐帯(持ち逃げ)などをさせ、金で下部をつかんだ」とも述べた。
大泉は、党の大衆運動関係の、小畑は組織・財政関係の責任者だった。大泉は(陳述の中で)「私に(特高から)課せられた重大な使命を果たす前に党から摘発された」と述べた。この「使命」とは、後に公判で暴露された、「入露ができるよう計画をしておけぬか」「今後党の政策を弱めるように努力せよ」との毛利特高課長の指示や、大泉が宮本や袴田を中央委員に推すことに反対してきたことからも、スパイ・挑発者で党中央を占拠し、天皇制反対や侵略戦争反対の旗を降ろさせようとすることである。
宮本は、スパイ・挑発者の査問が、日本共産党の活動の自由を擁護する点でも、権力による反社会的犯罪行為による党員の基本的人権の侵害を防ぐ点でも、正当防衛あるいは緊急避難の措置であることを主張した。」
*1-2 増補版『日本共産党の五十年』085では以下の通りである。
「警察当局は査問の途中で起こった小畑の急死という予期しない偶発事をとらえて、党非難の世論を作り上げようとした。しかし、その後の公判で、特高警察のスパイ・挑発政策の実態が暴露され、査問の実際の状況などに基づいて、小畑の死亡がなんら「殺人」などではないことが明らかにされ、反動裁判も、「殺人」「殺人未遂」の罪名をきせることができなかった。」
068 ――特高課の特高係と他の係との関係、それと特高係の中で宮下さんは何の担当だったのか。
特高課には特高、労働、内鮮、検閲などの係があり、治安維持法違反の検挙は制度上は特高係であるが、労働係は争議取締りなどの関係で過激な労働者に接触し、内鮮係は朝鮮人社会主義者や独立運動などの警戒に当たり、それぞれが、内偵し、検挙した。
私は特高係に配属されて数カ月して治安維持法違反の青年運動担当の任務を与えられた。このチームの構成は、主任が庵谷警部、その下が私で警部補、その下が、巡査部長1名(猪狩)、巡査2名(拓殖)の計5名だった。無産青年社、共産青年同盟などを担当した。
庵谷警部は京都府立一中出身で、その同級に富田という男がいた。富田はのちに近衛内閣で書記官長を勤めたが、当時すでに官僚中でも出色であった。
069 猪狩巡査部長と拓殖巡査が視察を担当し、後に猪狩が辞職し、拓殖が巡査部長に昇格し、萱場(かやば)、伊藤猛虎が(巡査として)補充された。(1人抜けて2人入ったのか。)
猪狩は私より10歳くらい年長で、中学中退程度だったと思う。拓殖は高小卒で、岐阜県青年団が明治神宮に植樹する時に県から選ばれた。萱場は私のカメラの師匠だった。萱場は「被疑者からも慕われる」人柄だった。
伊藤は後年ゾルゲ事件で拓殖とともに功労記章を得た。二人ともゾルゲ事件の時は警部補で、伊藤は岩手県立中学を首席で卒業した。戦後共産党の中央委員で書記局員になった伊藤律は、自分を取り調べた伊藤猛虎を、共産党のオルグに欲しいと激賞した。(口のうまい伊藤律のことだから、本当かどうかは分からない。)
拓殖はゾルゲ事件で宮城与徳を取り調べ、最初に事件の大体を明らかにするのに功績があった。私は部下が内定して得た結果から検挙し取り調べた。
本庁特高は一般警察官と同じ待遇なのに、私服経費が余計にかかったが、仕事さえしていれば認められ、尊敬されるという喜びがあった。暴力革命でソ連に日本を従属させようという共産党を消滅させるという国家的な仕事に打ち込む喜びを持っていた。(「暴力革命」「従属」など、イデオロギーに固まった捉え方だ。)
070 ――少ない人員ですね。
4・16のころまでは、共産党が合法・非合法のいろんな団体や運動の陰に隠れて内面指導をしていたので、共産党は一般の目に触れなかった。共産党はごく少数の人々に強烈な印象と英雄的な幻想を与えたのだろう。
ところが4・16以後、プロレタリアートの党は唯一日本共産党だけだと表明し、『赤旗』や『第二無産者新聞』などを通じて、共産党の名で広く公然と一般大衆に呼び掛け始めた。武装した宣伝扇動隊、ビラ撒き・ビラ配り行動隊などを組織し、多くは払暁に大工場、大経営に出動した。
これはほとんどが共青の活動だった。各署の特高係や非番巡査も動員し、警戒・検挙した。共産党が武装して取締りの警官に対する殺傷事件を相次いで引き起こしたため、共産党や共産青年同盟は少数の特高の担当部門だけでなく、全警察官の取り締まり対象になった。新聞も検挙を大きく報道した。
071 当時の共産党や共青は、自分たちが公然と姿を現したことを誇りにしていたが、それは同時に国民の間に反共意識を盛り上げたとも言え、特高の仕事がやりやすくなった。
――共産党や共青の情報をどのようにして得たのか。
初歩的なのは、交番から注意報告が上がってくる。人の出入りが激しい、得体の分からない人間が多い、住人の職業が不定であるなどの報告を交番が出すと、私服が内偵探索する。
昭和15年、1940年ごろのことだが、共産党再建運動を検挙するきっかけになったのが、交番からの注意報告によるものだった。
しかし多くは被疑者の自白によってアジトをつかむとか、そういう線をたどってつかんだ被疑者を尾行してその立ち寄り先をチェックしておいて張り込むとかだ。
――特高係の巡査はほとんど外に出て張り込みや尾行をしているのか。
尾行には大ざっぱに言って二種類あり、一つは目標人物の所在や行動を四六時中見失わないようにする尾行で、相手に気づかれてもあくまで蹤いてゆく。これは犯罪の発生を予防するのが目的で、危険人物が地下に潜入して有害な行動を起こさないように警戒する。
072 この種の尾行は社会主義者の少なかったころ、過激な無政府主義者などを対象に行われた。また、病気や近親の死亡などで一時的に釈放されている者が、裁判所が命じた条件を守らず、所在をくらますことを防止した。
大杉栄は尾行する井上巡査部長(当時)に喧嘩を売ったが、格闘して電車の線路上で押さえ込まれて許しを乞うて以来、井上巡査部長には従順になったという話だ。
もう一つは、被尾行者に気づかれぬようにする尾行である。尾行に使う自動車の運転手は運転技師と呼び、これは巡査でないことが多かった。特高係には庶務を兼ねた巡査と、もう一人、金子君という運転技師が専属でいた。
歩行による尾行は数人で行い、時には相手を追い越したり、後続の尾行者と入れ替わったり、帽子、眼鏡、持ち物などで適当に変装した。東京の外に出て、歩行者の少ないところでは、土地の人に頼んで、尾行してもらうこともあった。戦前の民間人は警察官の頼みを快く引き受けた。(恐れをなしていたのでは。)
アジトを突き止めた場合、そこに出入りする者の動向をつかむために張り込むが、現場近くの家屋が借りられたり、自動車を駐車させてその中で張り込んだりして目立たない場合は少ない。
073 林の中の藪の中であることもあった。アジトのある近所の人たちの協力、場所や目や耳を借りることが重要だ。その反対だと怪しまれて失敗する。
すぐ尾行に移るとか、張り込みを続けながら本庁や署に連絡を取るためにそこを離れる場合もあるので、張り込み要員は2、3人ではすまない。張り込み担当は巡査部長以下が多かった。
――取り調べはどうだったか。
私たちは高小卒やせいぜい中学校卒程度なのに、対する被疑者は大学生が大部分で、しかも頭がいい者が多いから、取り調べは困難だった。彼らは確信犯で、悪いことをしたという意識がない。警察官の訊問は、相手に悪いことをしたという意識があり、良心が咎めるということがあって、そこに証拠物件と合わせて追及していって自白させることができるのだが、特高の調べる相手は逆に警察官を犬扱いにし、自らは「革命的なヒロイズムに酔っている」から、その取り調べはなかなかだった。
取り調べが成功するためには、相手より優位に立たねばならない。そのために威圧とか、長い留置とか、相手の気力を衰弱させる方法が取られる。理論で相手を説得できればそれに越したことはないのだが、頭脳も学歴も当方が劣勢だからそうはいかない。
074 そこで私は当初、彼らが「真理は具体的だ」というのをとらえて、共産党創立以来の具体的な資金の問題とか、幹部の行状とかを問題にして説得しようとしたのだが、こちらの知識が伝聞の付け焼刃である間は、具体的事実を提示しても、私自身が考えても、迫力がなかったみたいだ。
検挙した者はなかなか簡単には供述しない。しかし、被疑者たちが厳重に警戒していて絶対に当局が分っているはずがないと思っていたことが、当局に知られていることもある。自分たちは相互の連絡が限定されていて、街頭レポで本名も知らない相手と接触しているのに、警察の方は、自分たちのごく一部が知っているにすぎない人間の私生活から何でもみんな知っている(と動揺するものだ)。
最初は徹頭徹尾黙っているつもりなのだろうが、ある時点でしゃべると、あとは簡単にしゃべってしまうことがある。しゃべりやすい係官にはいろんな話をする。雑談でついよけいなことも口を滑らせる。大した組織の秘密でもないし、影響を与えることもないと、しゃべっている方は思う小さなことでも、そういう断片を集めて照らし合わせてみると、分からなかったことが分かってくる場合がある。
しゃべらない者がいても、その周りの者からやって行けば、だいたい全部分かるものだ。
075 こっちが全部わかっているんだと追及すれば、どうせこれもあれもわかっているのだから今さら隠してもしかたがないと思って、しゃべってしまうものだ。
街頭連絡の場合などで逮捕すると、たいてい記号だの数字だのを書きつけたメモを持っている。いくつものレポがあるから、メモがなければ全部記憶しておくのは難しい。そういうメモから連絡場所を割り出して張っていると、わざと日や時間をずらしてあったりして、目的の人物は現れないのだが、たまたま同じ場所を使っていた全然別のグループのレポを捕らえた場合もある。(つまらぬヒントを警察に知られないように完全黙秘が一番だ。)
――街頭連絡の一方を捕まえた時、時間や場所を早く自白させないと、もう一方は危険を感じて連絡を切ってしまうが、そのために急いで自白させるために拷問するとか、自白させて分かってからも、連絡の線を切らずにおくために何か工夫をしたのか。
076 そういうの(拷問など)がぜんぜんなかったとは言えない(常習しているくせに)が、まとまった検挙の場合は、尾行や張り込みなどをかなり頻繁に続けた上でのことで、こちらでおよそ掴んでから逮捕する。
取り調べからたぐっていって、私が初めて街頭連絡を検挙したのは、本郷の駒込付近でのレポで、3、4名で行った。予定地点を歩いていくと向こうから来る。目が合うと直感的に閃く。
アジトでの捕り物の最初は、荏原(えばら)の『第二無産者新聞』の支局長ら4、5人の寝こみを襲って踏み込んだ時で、二階から飛び降りて逃げたのが、戦後共産党中央委員になった長谷川浩である。彼は一高の頃ラグビー部の選手だった。彼は逃げたのだが、大井警察署の特高係が出勤してくるのとぶつかり、逮捕された。私が特高に行って本格的な取り調べを担当したのは、この長谷川とか、永森、江草だった。
私は当時ほとんど(取り調べに関する)知識がなかった。黒岩涙香翻案の、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』――『噫(ああ)、無情』を読み、ジャン・バルジャンを追及するジャベル警部のようになろうと考えた。長谷川浩を取り調べるときそういうことを言った。後に私が係長になった直後の昭和15年、1940年、長谷川浩を党再建準備委員会で逮捕したが、その時の押収品の中に、荏原当時の日記があり、「宮下がそう言った」と書いてあった。
077 当時の『第二無産者新聞』は共産党の大衆的機関紙で、非合法に印刷されていたが、共産党以外の無産政党系の運動を裏切りと攻撃し、党内の分派(日本共産党労働者派(解党派)や、赤色戦士同盟、全協刷新同盟(日本労働組合全国協議会刷新同盟)などを激しく攻撃した。一枚岩の団結を誇る共産党がこれではボロボロではないか、と私は思った。労働者を名乗る集団が、インテリ的中央に敵対しているようだった。
荏原支局(『第二無産者新聞』の荏原支局067)の検挙は、私がまだ部署の決まらないときであった。私は長谷川浩にそのような内部での攻撃について尋ねた。彼らの支局は全協刷新同盟の下にあったらしく、刷同(全協刷新同盟)の隠れた中心人物を匿っていることが分かった。(『第二無産者新聞』も支部毎に割れていたのか。)彼らはその人物を素晴らしい労働者だと尊敬していた。上司に聞いたら、その男は南巌というモスクワ帰りと分かったが、なぜかその上司は南の検挙に乗り気でなかった。
その後南の妻小沢みちが、昭和10年、1935年、党の最後の中央委員の袴田の周辺で働いていたのを検挙して取り調べたが、南の検挙はなくて終わった。彼がプロフィンテルン(国際赤色労働組合)の大会へ刷同側の代表として乗り込み、党から派遣された紺野与次郎代表と渡り合い、壇上から蹴落とされたなどという記事を『赤旗』か『第二(無産者)新聞』で読んだことがあった。
078 3・15以後の党には水野成夫や南喜一らの労働者派とか刷同とかのかたまりがあり、これらと党中央とが熾烈な党内闘争をやっていることを『第二(無産者)新聞』などで知った。
「プロレタリアートの党は唯一」なのだから、党内の正統派争いが熾烈で、党に最も近い思想傾向にあるものほど強くこれ(党に最も近い思想傾向の反対派)を(党中央が)敵視し排撃した。(やり玉に挙げられるのは)党内の反中央分子が最悪で、その次は、労農派の山川均や猪俣津南雄、荒畑寒村などで、そのほか労働組合の幹部にはダラ幹のレッテルを張り付ける。全協も、(全協)刷新同盟と激しく対立した。(日本共産党は)支配階級やブルジョアと闘うより、党内闘争や、無産大衆政党などとの闘争に全力を尽くしていた。(宮下は批判しているのだね。私もこの点では同感。しかし、宮下の批判は、批判のための批判にすぎない。)
(共産党は)労働農民党内にフラクションを置き、自分たちが労農党を動かしていたときは、共産党は大山郁夫を「輝ける委員長」などと称えたが、治安警察法でこれが解散させられた後に方針を変えて新労農党を再建しようとした大山郁夫や河上肇を、今度は裏切り者呼ばわりした。そのため河上の『貧乏物語』の売れ行きがとまったが、その後河上博士が新労農党を出て、共産党の地下活動に加わると、再びそれがよく読まれるようになったとのことだ。共産党に対する忠誠の度合いによって、同じ著書の評価が変わる、これはおかしいと思った。(確かにこれは共産党の弱点だね。)
二 共産党と共産青年同盟
――青年運動担当ということは、共産青年同盟(共青)が主な対象だったのか。
そうだ。治安維持法違反が検挙の対象だから、当時は治安維持法の対象は共産党と共青だけだった。その他に左翼団体があって、それらに党や共青がフラクションをつくって活動していれば検挙の対象になるが、そのフラクションがなければ、治安維持法の対象にはならなかった。
共産青年同盟は、大震災の時に殺された南葛労働会の河合義虎が創始者とのことだ。この組織を最初に摘発したのが千速警部045で、宮ノ下文雄という学生出身の共産党員を逮捕して取り調べていたところ、共青について自白し、共青という組織があることが分かった。それは4・16の頃である。それ以前は、全日本無産青年同盟としてやっていた。共青の活動がはっきりしてきたのは、私が青年運動担当になってからである。
全日本無産青年同盟は、評議会(日本労働組合評議会)加盟の組合や、水平社、日本農民組合、大学や高等学校などの社研(社会科学研究会)などの活動家で結成された。これを指導したのが共産党のフラクションで、3・15事件直後の昭和3年、1928年4月に、全日本無産青年同盟は、労働農民党、(日本労働組合)評議会とともに解散させられた。
080 また(全日本無産青年)同盟とともに無産青年社があり、全日本無産青年同盟の中央機関紙である活版刷りの『無産青年』を発行していたが、全日本無産青年同盟の解散後は、国際共産青年同盟日本支部――我々はYとかキームと呼んでいた――の名で宣伝扇動活動をやることにして、これ(『無産青年』か)を共青の機関紙にした。従って、無産青年社も非合法組織になった。(このとき)共青はそれまでガリ版刷りで出していた非合法機関紙『レーニン青年』を、『無産青年』に一本化したが、これをめぐって内部で意見の対立があったとのことだ。
私が青年運動担当になったのは、この解散させられた全日本無産青年同盟の共青化や、非合法活動への転換が進んでいる最中だった。
共青は共産党と同様、コミンテルンに従うもので、党の綱領に青年の要求を付け加えたものを綱領とし、党から全面的な指導を受けて活動し、党と一体となって行動した。
プロフィンテルン日本支部である全協(日本労働組合全国協議会077)は、「共産主義の学校」として位置づけられ、党のフラクションの指導に従っていたが、このころはまだ合法的な組織で、直接治安維持法の対象にならなかった。(どうして)しかし、共青は、綱領、政策、スローガンとも共産党と全く同じで、検挙の対象になった。共青内のフラクションはケルンと呼び、他の大衆団体内の党員とは区別されていた。
共青の中央、地方、地区の役員のほとんどは党にも加盟していたので、私は、共青加盟を認めれば、それで治安維持法違反を認めたことになるとし、さらに共産党員であるかどうかは強く追及せず検事局に送った。(拡大解釈ではないのか。)
伊藤律は昭和8年、1933年に初めて検挙された時、すでに党ケルンだったが、その時は自白せず、昭和15年、1940年の取り調べの時に、党再建の資格を問われて、初めてその事実を認めた。今私が住んでいる家を戦後の昭和31年に建ててくれた加藤貞も、昭和6年、1931年に共青中央組織部員として検挙され、その後転向して刑務所を出てから私を訪ねて来たとき、昭和4年、1929年ごろ、横浜ドックで働いていた当時すでに入党していたと言った。
共青について 4・16後、党幹部がほとんど検挙され、検挙を逃れた京浜の地区委員クラスの田中清玄が残党を集めて中央ビューローをつくり、また、中央部でアジ・プロ*と機関紙を担当していた佐野博が共青担当になった。二人とも23、4歳だった。*アジテーション・プロパガンダ
共青委員長に元東大新人会の堅山利忠がなり、紺野与次郎らが組織化を担当した。共青の構成員は、都内の高等学校や大学の学生が多かった。党も共青も労働者の比率を増やす課題を抱えていた。インテリに反発する労働者的な反対派があり、水野成夫らの一派は労働者派を名乗り、混とんとしていた。
082 ――共青組織の80%が学生で占められているのはまずいから、学生を共青から分離して、資金や技術面を担当させ、共青は工場労働青年で組織する方針が出ている。1930年、昭和5年の初めころだった。
ボルシェビキ化をはかれということだ。しかし、結局それは成功しなかった。工場労働青年を増やすどころか、だんだん街頭化し、文化サークル化した。風間丈吉が委員長だった昭和6年、1931年ごろは、文書共産党と言われたくらい、印刷物がたくさん出て、プロレタリア文学・演劇運動など、文化活動が活況を呈したが、労働者の組織化は進まなかった。
しかし、昭和6年、1931年ごろ共青委員長になった岸勝は国鉄の三鷹車庫の労働者であり、国鉄教習所(堀江星治)、東洋モスリン(飯島喜美)、芝浦製作所(加藤菊枝)などで経営細胞ができた。
――共青はもっぱら行動隊として動員されたのか。
そうだ。田中清玄時代だから、竹槍メーデーとか、東京市電の渋谷焼き討ち事件とか、共産党3・15被告奪還闘争とか、特高警官に対するテロ行動隊計画などがあり、その武装行動隊員に共青メンバーが動員された。
083 私が特高係になって半年後の1930年2月に総選挙があったが、共産党は「議会の破壊」をうたい、議会制を認めなず、選挙は当選が目的でなく、アジテーション・プロパガンダの場所であるとして候補者を立てた。そして工場や経営などに党のビラを入れるための行動隊を組織し、このビラ撒きの行動隊員の多くが共青のメンバーだった。
このビラ撒き行動隊は、短刀などの兇器を携行しているのに、私たちは丸腰だからずいぶんけが人を出した。しかしこの武装共産党時代の党や共青の過激な計画は、事前に探知し、ほとんど事前に検挙した。被告奪還計画でも成功した例はほとんどない。ビラ撒き行動隊でも、早朝の集合する場所が分かっていて、その前から張り込んでいて、集まってきたところを検挙した。
――どうして動静を事前に察知できたのか。
内部からの情報があった。
――スパイか。
そうだ。
084 ――スパイは組織の上の方にもいたのか。
上から下までスパイがいた。そしてスパイの人数は次第に増えていった。
――武装共産党時代以後、スパイはさらに増えたのか。
共産党も、共青も、非合法の組織だから、(つかまった時に秘密がばれないように)自己防衛する(ために党員相互間で私生活まで秘密にする)。それが逆に活動家の私生活を乱れさせるのだが、お互いは相手の生活について問いただせない。
党の金を生活費に使い込むとか、ハウスキーパーを家政婦や妾にするとかについて互いに究明できない。おかしいと感じたごく近い人間が疑うくらいだ。(そういう時に党員間で疑心暗鬼が生じるが、それがスパイが生ずる原因だ。)(スパイを自ら仕組んだことを棚に上げて、共産党の方に原因があるとするずるい考え方だ。)
――田中清玄の逮捕に動員されたのか。
085 昭和5年、1930年の夏だった。かなりの大部隊で党の最高幹部を逮捕に行くという経験はそれが最初だった。豪徳寺の近くの神社に集まり、田中のアジトに向かった。最初に岩尾家定が捕まり、その調べの過程で田中のアジトを知った。田中はピストルを肌身離さない、家にいるときは台尻のついた短銃と拳銃を持っていると言われていたが、田中逮捕のときもこちらは何も持って行かなかった。(本当か。)
――ずっと共青専門だったのか。
ずっと共青専門だった。しかし青年運動といっても青年だけでは済まない。党の他の部門をやっていた者が共青の担当になったり、共青関係者が党の他の部門に転じたり、大衆団体などに潜り込んだりするから、党の全般に関わることになる。
『特高月報』の昭和6年、1931年から昭和9年、1934年の共青組織の壊滅までの中央と東京の(共青に関する)部分は、ほとんど私が執筆した。
――『特高月報』はどのようにしてつくられ、どの辺まで配布されたのか。
『特高月報』は、警視庁特高課と地方の特高警察が提出したものを、内務省警保局で取捨選択してまとめて印刷し、課に一部くらい配布された。部外秘だ。
086 ――共青の組織人員は、宮下さんが担当した当時、東京では何人くらいいたのか。
影響下にあった者を含めて、1000人くらいか。1000人を超えることはないのではないか。全国で2、3000人くらいだろう。
――東京で1000人足らずの共青組織を、3・15のように一度に壊滅させるような一斉検挙の方針は立てなかったのか。
やりきれない。手が足りない。(本当か。)下の細胞組織まで根こそぎにはできない。(これが本音か。)
3・15、4・16では(一斉検挙を)やったが、昭和6、7年、1931年、1932年ごろは、そのときより数(共青の構成員)が増えている。田中清玄の後の風間丈吉委員長時代に(共産党が)非常に大衆化したためだ。
共青中央部の検挙 田中清玄時代の、佐野博、片山利忠、町田敬一郎(早大)等の(共青)中央部の逮捕(1930年7月)の後は、宮川寅雄、鈴木麟三(早大)らが、共産党青年部の紺野与次郎の指導を受けて(共青を)再建した。夜間学生出身の源五郎丸義晴が、昭和6年、1931年1月に(共青の)委員長になったが、これは共青代表としてすぐソ連に行ってしまい、つぎは田島治夫(早大)が共青の委員長になった。
しかし田島は3カ月で逮捕され、その後は、宮川寅雄、岸勝、三船某(三船留吉091はスパイ)が(共青の)中央委員会を構成した。岸勝が委員長で、岸も三船も労働者だった。この中央委員は(1931年の)秋に辞任した。それは組織部の加藤亮尚が全国組織のアドレスを持ったまま検挙され、その責任を取ったものと思われる。
087 そのあと、広島から合同労組の岨(そわ)常次郎が上京して委員長になり、前沢雅男と共に指導部をつくった。この岨を私が取り調べた。
岨は組織部長の加藤貞が逮捕された後の留守宅を訪ねて行ったところ、張り込んでいた特高係員に逮捕されたが、黙秘していた。私は彼が中国地方から上京した「グロさん」ではないかと思った。他の人間の取り調べの中で、このグロさんは『エコノミスト』一冊で日本経済の分析ができるという話を聞いていた。
それで地方からの手配書や連絡書類を調べたら、広島から岨が行方不明だと報告して来ていて、それが岨が共青の委員長になった時期と一致した。私が岨の名前を当てたら、岨は口を割った。
岨の逮捕後、モスクワでの共青の大会に出席していた源五郎丸義晴086が帰ってきた。源五郎丸はソ連でやっていた社会主義競争をまねて、共青の組織を拡大した。
この源五郎丸を助けて共青の組織部長と婦人部長を兼ねていたのが、長谷川寿子である。彼女は東京市バスの女性従業員だった。
088 長谷川寿子は高女卒で、27、8歳だった。「おばさん」と言われていた。私が彼女を取り調べた。
長谷川寿子曰く「実は私の亭主の柏原実(党の神奈川地区委員)も今逮捕されているが、彼は以前からおそらく転向したがっていると思う。私が頑張っているから(転向を)言い出せないでいると思う。私は逮捕されたのを機会に転向する。そうすれば亭主も転向するだろう。」と言った。(どうぞご自由に。宮下は共産党のスキャンダルしか語らない。)「組織の中にいると組織のいやらしいことがたくさん分かってきた。」(それはどんな組織にもあるでしょう。)源五郎丸と関係があったらしい。(どういう意味か。肉体関係があったと言いたいのか。)前沢雅男087との対立もあったのだろう。
そのあと委員長は全農全会派*の石井照夫、それから前沢雅男へと、いずれも短期間に交代した。その理由は検挙である。
*全農全会派 全国農民組合内の左翼反対派。1931年、昭和6年3月の全農第4回大会で、合法政党支持派が路線を確定し、これに反対する部分が、全会派を結成した。『農民新聞』を発行した。共産党指導下で農民委員会戦術を採用し、小作争議を闘ったが、1934年、昭和9年10月以後は、組織的活動が消滅した。
石井照夫の逮捕 石井が幹部だということは尾行などで分かっていた。捕まえようとすればいつでも捕まえられたが、それぞれの線に支障が生じるとまずいので、おいそれと逮捕できない。
ある日私が部下と浅草で骨休めに行こうとバスに乗ったら、偶然石井が乗ってきたので、調べたら、生命保険会社社員の名刺を持っていた。その名刺の氏名を各署に電報して調べたところ、その人名を二署が報告して来て、その夜のうちにアジトを突き止めた。アジトには女子大出身のハウスキーパーがいて、全資料を入手した。(自慢話。)
この少し前、共青の中央財政部長兼学生対策部長の大内田太郎、財政部員の佐々木正守、近藤藤の三人が浅草六区で会合しているところを、(近藤藤を)尾行していて偶然に検挙した。
089 このころは交番の巡査が街頭連絡を見つけて検挙することが多くなっていたが、取り調べは本庁特高が行う。街頭連絡中という事実しかないので、偶然の検挙は「厄介」だったが、その日は係長の命令で街頭連絡検挙をやった。(「厄介」でも何でも検挙。)
私は猪狩、拓殖と3人で、共青の中央がよく街頭連絡をやる銀座、日本橋の通りを歩くことにしたところ、近藤藤が同じ電車に乗り込んできた。近藤はかつて無産青年社080の関係で検挙したことがあったが、起訴留保にしていた。近藤は女子大中退だった。近藤がまた潜ったと聞いていたので尾行したところ、六区内の食堂で、大内田、佐々木と会合した。近藤は逃げなかった。あとでスパイ嫌疑をかけられるのが怖かったのか、検挙の状況から自分がつけられていたと悟り、その悔恨で逃げられなかったのかもしれない。(近藤藤はもともとスパイで、検挙されてもまた保釈されるからと計算して逃げなかったのではないか。)
大内田が留置場から出したレポには「党の財政部の男が怪しい」とあったので、その場に党財政部の人物も来るはずだったようだ。(どういうことか。党の財政部の男がスパイということか。次の項でそれについて触れている。)
090 昭和8年、1933年の秋、前沢087と共に共青財政部長をしていた鶴丸昭彦を検挙した。鶴丸は弟1人、妹2人と共に共青に入り、財政部長として全財産を組織に投じ、そのため両親は自殺したが、逮捕された直後にスパイとして除名された。
このころの共産党は疑心暗鬼の状態で、スパイ容疑で大量の除名処分を発表したが、その中には、共青労働組合部長の平野宗や慶応出身で東京市委員会の木田進などがいた。木田は学生対策部の小松雄一郎やアジプロ部キャップの藤本正平とともに慶応出身だった。小松は戦後、コミンフォルム批判後の日共臨時中央委員会議長をやった。名前は忘れたが、この慶応出身の三人のうちの一人は、「蓑田胸喜*の狂信的反マルクス主義の講義を聞かされて左翼になった」と(私に)言った。
*蓑田胸喜(むねき、1894.1.26—1946.1.30)東大文学部卒。1920 慶応義塾大学予科教授。1922 『原理日本』刊行。1925 国士館専門学校教授。1932—1941 首吊自殺。1946.1.30 美濃部達吉、滝川幸辰、大内兵衛、津田左右吉、末広巌太郎らを貶めた理論的指導者。
共青のメンバーは熱海会議では逮捕されなかったが、それ以前の検挙やスパイ容疑での除名で、すでに壊滅状態だった。根こそぎ一斉検挙するまでもなく、組織的な機能がほぼ麻痺するまで我々が追い詰めたのだ。
最後は大泉兼蔵(スパイ)が党の共青担当になり、塚田大願を委員長にして、中央部でただ一人残っていた今井藤一郎と共に共青を再建しようとしたが、塚田も年末に逮捕され、今井は逃避し、共青は完全に壊滅した。
091 ――大泉兼蔵はもちろん、今井藤一郎、三船留吉086なども、いずれもスパイだったのだね。
スパイと疑われる状況にあった。(スパイではないというのか。)(今井と三船の)二人とも、熱海会議でもその後でも検挙されなかった。ずっと潜っていて、戦後も表面に出て来ない。
――共青関係で優れた指導者だと感じた人物はいるか。
いなかった。労働者出身者は理論的に低く、学生は頭脳明晰の勉強家は多かったが、概して上流家庭の子弟が多く、労働者気質を理解していなかった。現実を直視せず、観念的な認識で、宣伝・扇動的な強調用語を絶対の真理と思い込む独善的な者が多かった。それからヒロイズムも問題だ。
――どのくらいの人が転向したのか。
8割だ。滔々たる転向の流れだった。我々の側に流れ込む人間もいた。
092 佐野・鍋山の転向は特に大きな影響を与えた。佐野学はインテリ出身党員の、鍋山貞親は労働者出身の党員の神様みたいなもので、あの二人の右に出る指導者はいないと言われていた。
そしてその転向理由が、当時神聖視されていたコミンテルンの指導の間違いを批判し、独自の共産党の建党が中心課題だと言うのだから、大問題だったし、説得力もあった。刑務所に入ってから検事主導で転向したとなると、卑怯者とか裏切り者だとかされるの(が普通なの)だろうが、そこ(佐野や鍋山の転向声明書「共同被告同志に告ぐる書」)に書かれているものを読むと、頷けることが多い内容だった。だから雪崩現象的な転向が起こった。
佐野・鍋山の転向のきっかけは、コミンテルンが日本のテーゼを朝令暮改したということだろう。ブハーリン・テーゼはコミンテルンが指示したテーゼだし、27年テーゼ以後は風間丈吉が直接命令を受けて日本共産党政治テーゼ草案をつくった。それをみんなに読ませて決定しようとしたら、今度は河上肇が訳した32年テーゼが出てきて、これでやるんだということになった。
それと党創立の当初から議論のあった天皇制の問題がある。君主制廃止を掲げることは戦術上不利ではないか。それが労働者派の結成にからみ、全協刷新問題も絡み、(どういうことか。)それが32年テーゼで天皇制廃止がはっきり打ち出され、佐野・鍋山はまずいと思って、あの転向声明になったのではないか。
――日本共産党は32年テーゼで天皇制廃止をはっきり打ち出した。取り調べる側から見て、党員や共青同盟員のそれに対する反応はどうだったか。
093 労働者は、天皇制の廃止などどうでもいい、それを掲げて弾圧されるのなら、それは邪魔だと考えていた。全協(日本労働組合全国協議会)でも反対が強かった。しかし共産党はそれを強引に押し付けた。
インテリ出身の党員たちは天皇制廃止に反発や反対はしなかった。むしろそれあってこそ共産党であると考えていた。
私は特高になって共青行動隊を検挙したが、その中に、黒川信雄と信夫満二郎がいた。黒川は日本郵船か何かの社長の息子で、信夫は、外交官・信夫淳平の息子である。
おそらく黒川は学習院出身だ。学習院高等科から東京帝大に進学し、共青の技術部長をしていた。(私は黒川に)手記「思想変遷の経緯」を書かせたが、その中で、黒川は、「学習院で皇族に接し、皇族は不要だと感じ、天皇制廃止を掲げる共産党が正しいと確信した。」と(私に)言っている。
――8割方は転向したと言われたが、残りの2割は非転向か。
8割方というのは表現で、パーセンテージではない。(いい加減。)また転向とはどういうことを指すのかという定義の問題もあるが。
094 昭和16年、1941年12月、戦争が始まる前に、非転向者を検束しておかねばならないということで、検察局からリストを出せと言って来た。「こういう連中は戦争が始まると地下に潜って活動する恐れがあるから」というのだ。それに対して私は「出せない。転向したとかしないとか言っても、人の頭の中は分からない。警察官に対して反抗的な人間かどうかは分かるが」と言った。しかし、出さないわけにいかなくなり、「最小限に」いくらかの人名を挙げた。
転向したとはっきり言えるのは、党や共青など自分たちの組織に被害を与えることをやった人間だ。口先の陳述はあてにならない。
――それが8割方いたのか。
いや、それははっきりしたもんじゃない。(いい加減。)組織に被害は与えないが、政治運動はやらない、本だけ読んでいる、学者生活にこもるというのも、転向のうちに加えている。(さっきの定義を早くも修正か。)実践しない共産主義者は、共産主義者とは言えない。それは転向だ。
あとの2割は非転向かというと、これもまたそうでもない。(いい加減。)行動するのでも、行動を放棄するのでもない、なんらかつながっていたいという、というのも活動のうちに入る。(では非転向ではないか。)
095 ――「起訴留保」とは何だったのか。起訴留保は転向を認めてそうなるのか。
起訴留保は治安維持法対象者以外には適用されない特別に寛大な措置である。非合法時代の共産主義者はよく勉強して頭がよく純粋な青年が多かった。こういう有為な青年を社会に生かすという考えがあった。これは改悛の情を示せば(転向ではないか)よいという日本的な考え方かもしれない。
良家の子女が多く、親や縁故者から寛大な措置を嘆願する。刑務所を満員にして税金を使うのもどうかという考えがあった。
起訴留保の最初の例は、日本郵船の社長093の息子である黒川信雄だった。共青の東大細胞のキャップで、ビラ撒き行動隊をしていたのを逮捕した。検事局は黒川に「起訴留保処分」という措置をとった。それまでは起訴留保はなかった。大人しくしていればよし、そうでなければ起訴するというのだ。黒川以後起訴留保が沢山出るようになった。
起訴留保が多くなりすぎて、基準を設けることになり、検事局の思想部長の名前で、当時特高係長だった毛利に(基準をつくるようにという)指示が来た。その結果できた基準が、「学生で改悛の情がある」ということだった。共産党員や共青同盟員であってもだ。これは労働者の排除だ。文書は残っていないかもしれない。
検事が捜査の担当者であり、司法警察官(特高)はその補助者に過ぎない。世間はそれを誤解して、特高にすべての責任を擦り付けるが、元は検事局が握っている。
(大卒などいない)特高である私たちは面白くなかった。司法は階級的ではないかと。特高係の巡査はみんな無産階級だ。
佐野学や佐野博の甥である、佐野武彦は、共青早大細胞の指導者だった。(私は彼を)送検したが、起訴留保になった。父親は東京商大の校長だった。
私は毛利係長にこれはおかしいと言った。すると毛利は、改悛の情の顕著な労働者は検事局に送らないで我々の所で釈放してしまおうと言った。(冗談ではないのか。)
097 検事局は、労働者なら意識が低くて党や共青に入っていなくても起訴するという。彼ら労働者は現実の生活からその窮状を訴えたいものを多く持っている。一方学生の方は頭の中の知識でマルクス主義や共産党に入り、観念的に労働者を扇動しても、親兄弟が嘆願して、本人も改悛の情を示せば釈放される。
私たちが労働者をどんどん釈放したことが、大量スパイ発生の原因かもしれない。
三 熱海事件の周辺
098 ――1932年、昭和7年10月30日に熱海で開かれた共産党全国代表者会議の検挙(熱海事件)で、4・16以後、再建を図って活動してきた党は大きな打撃をこうむった。宮下さんはこの熱海事件で内務大臣功労記章を受けたとのことだが。
私たちには共産党の全国大会が行われそうだという「空気」は分かっていたが、いつどこでかは分からなかった。ところが毛利特高課長に、私と福田の二人が(熱海の某所に)行き、人が集まってくるか、集まってきたらこちらはどのくらいの人員でどういう態勢をとれば検挙できるかを準備するように言われた。
当時の共産党には家屋資金局という部署が中央委員会に設置されていて、その資金部が銀行強盗や、店や家の金の持ち逃げ、美人局(つつもたせ)*など、手段を選ばぬ運動資金の調達に励み、家屋部が秘密会合の場所や事務所の設定に当たっていた。毛利課長はその少し前に検挙したアジト係の捜査から、熱海の全国会議の場所を入手したと思われる。
それは熱海の奥、十国峠に近い伊藤別邸であった。
099 私は10月25日の夜が更けてから熱海駅に降り、駅前のタクシー会社に行き、「一番高いところにある閑静な宿屋に泊まりたいが」と申し入れた。伊藤別邸を見張るには小西旅館がよいと分かっていたが、万一を慮って小西旅館の名をあげるのを避けた。予想通り先方は「それなら小西旅館です」と言った。私は先方任せを装った。私は母と三歳の長男を伴い、しばらく逗留する湯治客を装った。
旅館の帳場には、私が神経衰弱で夜はあまりよく眠れないので、夜中にも出歩くかもしれない、表の戸の鍵はかけないでくれと頼んでおき、旅館の建物の配置や周辺の地図など(を書き)、どう包囲して、どっちからどう入ったら取り逃がさないかなど、図面を引いたり、人の動きを探ったりした。
人の集まり具合は、昼間は便所の窓から伊藤邸を覗き、夜は外を歩いた。人の集まりは良くなかった。二晩泊まってから福田警部補と交代し、私は警視庁特高が出張している伊豆山の某別荘で合流した。
私が母と息子を連れて伊豆山の我々のアジトへ行くと、検挙隊長の山県警部、副隊長の中川警部以下40名ほどの警視庁職員のほかに、内務省警保局保安課の首席事務官の中村敬之進氏がいた。保安課は建前上は全国の特高警察官を指揮する任務を持っていたから、その出張指揮は当然なのだが、ふつうは現場に出てきたりはしない。しかし中村事務官には別の目的があった。これまで無防備だった私服警官にこの時初めてヘルメットと防弾チョッキを着装させることになったが、それを建言したのが中村事務官で、中村はその実際を直接目で見たかったのだろう。
100 私が検挙に際しては先導することになっていたので、この中村事務官に対してもいろいろ説明した。
その後の伊藤別邸への集まり具合はいま一つだった。
毛利課長の方は状況を知る方法が別にあったんでしょう。(これはスパイ松村のことなのだが、最初はこういうごまかしの表現を用いる。)
「伊藤別邸は党のシンパの会社関係者が借りたようだ。別邸からその会社に問い合わせがあったため、党中央は会議開催に不安を感じ、会議中止を決定し、中央は出席を急遽取りやめ、地方にも連絡のつく限り中止を伝達したという情報が(スパイ松村から)入った」と毛利課長は私に話した。
そこで(毛利課長は)「検挙を止め、帰ってこい」と言った。後で中央委員会の松村(スパイ)が中止を言い出したことが分った。
それで熱海から深夜小田原まで引き上げてきたのだが、小田原でもう一回本庁(の毛利課長)へ電話することになった。各地方で組織に当たっている県委員長クラス十数名が集まって来ているのだからやったらどうだという意見が強く出たからだ。それで(山県)隊長から毛利課長に電話して、やることになった。
熱海に戻り、静岡県警がトラックを集め、40人くらいずつ2台に分乗した。山下の神社の境内に車を駐めて、用意したハダシタビに履き替えて、這うようにして旅館に向かった。
旅館を包囲した。私は鉄兜も防弾チョッキも人に譲って着けなかった。山県隊長と私が先頭だ。階段を駆け上がり布団の上から押さえ込んだ。その時見張りだった男は、共青の委員長もやった岸勝だったが、岸はピストルを発射し、先頭グループの次の次に階段を駆け上がった静岡県警の榑松(くれまつ)警部補と警視庁特高課の竹内巡査に当たった。あと鉄兜に当たりけがを免れた者もいた。全員を検挙した。
――本庁ではなぜ中止命令を出したのか。
正確のことは分からない。
そのころ共産党を根こそぎつぶすという考えが出始めていた。共産党はすでに政治的には問題でなくなっていた。むしろ満州事変後の国家主義運動の側からの政党・財界人へのテロの方が問題だった。毛利課長は右翼担当の第二課も指揮していた。このころは右翼の監視・警戒のほうに重点がかかっていた。
上からも要人暗殺を恐れて警戒を強めるように再々言ってくる。左翼対策に対する御下問は余りない。上でもあまり重視していない。日本の国は準戦時体制に入りつつあり、共産党を温存しておかず、この辺で全部なくしてしまえ、という考えが起こっていたのではないかと私は思う。そういう話を聞いた記憶がある。
だから熱海に集まった時には根こそぎやるという決意が出始めたのではないか。しかし中央が残るからこの次の機会を待とうということになったのではないか。
102 ――中央が残るというのは、松村、つまりスパイMが、熱海で一斉に逮捕されてしまわないために、「中央は熱海へ行くのをやめよう」と直前になってやめさせたが、松村のその変更は、毛利課長にとって予期しない行動だったのか。
毛利さんはこのへんで共産党をなくしてしまおうと考えたのだろうが、毛利さんの情報役の相手(スパイ松村)の方は同じ考えではなかったかもしれない。
松村にとっては、根こそぎやられたら自分の価値がもうなくなってしまう。実際、党が壊滅したとき、松村は用なしになってしまった。だから党と警察を両天秤にかけることができるなら、そういう状態で少しでも長く続いた方がよい、と考えたのではないか。
――党の動静はほとんどすべて分かっていたということですね。つぶそうと思えばいつでも潰せた。しかし、潰さなかったのは、潰してしまえば特高の仕事がなくなるからか。
103 それはない。ある段階でこちらがつかんでいる共産党の中央委員会や党組織は、そこでつぶせるし、なくなるだろうが、再建の動きは必ずあるだろうから、特高は必要です。
またこういうことも言える。日本共産党はコミンテルンの日本支部だから、つぶれればコミンテルンの方で、また新しい工作者を派遣してきて連絡をつけようとするだろう。そういう時、全部根こそぎにしてしまえば、こちらのほうも全く新しく捕まえなければならない。だから温存しておけば、そういうものが来た時に、温存しているところに入ってくるんだから、容易に見つけられる。
――その後、というより同時的に、熱海で逮捕できなかった幹部の検挙がありましたね。
委員長の風間丈吉を街頭連絡などで逮捕した。紺野与次郎はアジトで逮捕されたはずだ。
――風間丈吉と一緒に松村が街頭で逮捕されていますね。それが『特高月報』に「飯塚」という本名で書かれている。そのあと、飯塚に関する記述が消えるが、『特高月報』に飯塚盈延の名前が記されたのはミスだったということか。
104 ……(答えない。)
――熱海での代表者会議と同じ日に、幹部を逮捕しているのは、劇的な一網打尽の計画に多少狂いが生じたが、捕まえようと思えば、いつでも捕まえられたということだったのですね。
そうでしょう。街頭で捕まえることは、誰(松村)の線で捕まったとか、誰それ(松村)はスパイじゃないか、という疑いを抱かせて、手際は良くないが。(スパイのために)なるべくそういう方法は取りたくなかった。
――野呂栄太郎委員長が1933年、昭和8年11月に捕まったのも、スパイに売られたからだ(と言われている)。
宮本顕治や袴田里見による大泉・小畑への査問も、野呂の逮捕が直接の引き金になったということか。
野呂栄太郎は病身でめったに(街頭)連絡に出てこない。ところが、山県為三警部は江戸川に住んでいて、野呂のアジトも江戸川にあった。(山県が)出勤途中に押上で(野呂に)ばったり出会った。(嘘っぽい。ばったり出会うはずがない。)
山県さんは野呂の学生時代に、当時は学連と言ったが、その担当で、慶応にも行って顔を知っていた。しかし野呂の方は山県さんを知らない。
105 しかし党の方ではこれは重大問題で、野呂が捕まったのはスパイの線からだと考えたのではないか。(スパイによる野呂逮捕を否定し、これと大泉・小畑の査問問題とを無関係にしようとする。)
――野呂は逮捕されて二か月後に獄死した。熱海事件直後に逮捕された中央委員の岩田義道は、4日間に及ぶ拷問で殺されたと言われている。岩田に対して特に猛烈に拷問する理由があったのですか。
私には分かりません。(しらばくれるな。)
――スパイM(松村)は、クートペ帰りで、ヒヨドロフとも言われた。この当時、或いはこれ以後のクートペ組について、特高の側でどの程度つかんでいたのか。
クートペ(東方勤労者共産主義大学、俗称スターリン大学)派遣留学生のことについて、特高一課で永く写真・指紋係に専従していた藤野一平巡査部長が今も健在なので、話を聞き、メモを拝借した。
日本共産党はコミンテルンから指令され、大正11年、1922年以降、クートペに留学生を派遣した。派遣留学生は60名を超えている。クートペの在学生は、ロシア部と外国人部とに分かれていて、1500人から2000人で、在学期間は2年から3年で、科目は、ロシア語、世界労働運動史、共産主義の基本理論研究、軍事訓練などである。日本人のグループは教科終了後、コミンテルン日本代表の片山潜、山本懸蔵、野坂参三などから個別に帰国方法、帰国後の任務、日本の党との連絡方法、日本における生活態度などについて指示を受けた。
106 帰国したものを列挙すると、北浦千太郎、真庭末吉(獄死)、春日庄次郎、堀留為郎、吉村英、服部麦生、相馬一郎(自殺)、世古重郎、酒井定吉、与田徳太郎、佐藤広治、袴田里見、南巌、風間丈吉、中川為助、虎田万吉、伊藤学道、田中松次郎、山本作問、高谷覚蔵、飯塚盈延、岩尾家定、神達八郎、岸本茂雄、小林勇、小林陽之介(獄死)、山神種一、山本正美、小川真、沢田一郎などである。
伊藤政之助は、再入ソ後、消息不明である。関マツは在ソ中、粛清されたという。
アメリカ共産党から入ソした宮城与徳069の兄の宮城某も、クートペに入ったらしいが、行方不明である。レーニン大学を出た佐野博、ドイツ共産党から入ソした国崎定洞という学者も、これに関連している。
クートペ帰りが有効だったかどうかは疑わしい。
例えば、真庭は、日本の党と連絡がついて間もなく逮捕されて、党員名簿を押収され、4・16大検挙のもとをつくった。袴田は長く活動したが、リンチで党を完全に潰した。(どういうことか。小畑査問のことか。)南は全協刷新同盟で党に対立し、風間は委員長になったが、銀行ギャング事件などを起こし、大量転向の引き金になった。飯塚はスパイM(松村)である。山本正美はクートペ卒業後、32テーゼの作成に参加し、「アキ」の名でソ連から日本の党に指令的論文を送り、帰国後党再建に貢献したが、数カ月で検挙された。小林陽之介は昭和10年代になってコミンテルンから派遣された最後の指導者だが、党再建を果たさぬまま帰国1年余で検挙された。戦後の党に加わったクートペ出身者もかなりいるということだが、あまり活動しなかったのではないか。
――宮下さんが熱海事件で受けた功労記章というのはどんなものか。
功労記章は内務大臣からもらうもので、警察官最高の栄誉賞である。毛利課長が上申してくれた。毎月10円の功労加俸がついた。表彰は熱海の検挙1年後で、加俸がついたのもその後だ。功労加俸は警部補の間だけで、昭和11年、1936年7月、警部に任命されたら支給停止になった。
武装共産党時代や昭和7年、1932年春頃からの党や共青内のスパイ事件の「リンチ騒ぎ」の中で、単身または数名で、凶器を持っていると推定される被疑者に立ち向かったが、これに比べれば、熱海事件では多数の同僚と共に検挙に当たり、苦心や危険度もむしろ低かった。
四 スパイについて
108 ――熱海会議のところで毛利課長とスパイ松村の話が出たが、情報をとるのは特高として絶対に必要な仕事だったということか。
そうだ。しかし「協力者」(スパイ)はなかったという建前だ。
私たちはS(スパイの頭文字)と言っていた。Sを養成して組織に送り込むことはしていない。しかし、(党員や共青構成員などが)活動していて一定の部署を持っていた者が「没落」あるいは転向するが、そういう者がSになる。
――金銭がからむか。
からむ場合が多い。
――「没落」というのはどういう意味か。
109 「思想的に貧困になって」、転向というほど積極的ではないが、運動から脱落することだ。党内抗争に敗れる場合もある。
共産党や共産青年同盟が前衛党としてがっちりした共産主義者ばかりを組織していればスパイという問題は起こらないか非常に少ないだろう。ところが党員や(共青)同盟員は、学生か学生上がりのインテリが大部分で、労働者をなるべく多く獲得したい、その労働者を主要な部署に配置しなければならないとなると、思想的にも経験的にも未熟で、私生活もよく分からないが、とにかく入党する労働者は、労働者だからとしてルーズに加入させてしまう。
死刑・無期という重罪の治安維持法だから、入党するだけで革命的労働者だと(インテリは)思ってしまう。しかしその中には命がけで共産主義運動をやる心構えのない者もいる。検挙されて取り調べを受けると、誘われていやと断れずに入っちゃった、本当はやる気はなかった、などと言う。また運動に入って失業してしまい、ずるずると入党する者もいる。
多くの場合、取り調べの過程で、或いは出てから、彼らの側から我々に接触を求めてくる。(本当か。)性格的な弱さで活動をやめたいとか、金に困っているとか、捕まって初めて目が覚めたとか、党内抗争で非常に不利・不遇なところに追い落とされたとか、非合法態勢下の組織で、上に這い上がっていく気力がないとか、財政的な補助が欲しいとか、没落・転向する理由は様々である。
110 学生や学生出身の者から見ると、平凡な労働者がすばらしい資質を持った労働者に見えるようだ。
田中清玄は弘前高校から東大へ進んだインテリだが、京浜地帯の工場に入って製罐工をやり、言葉遣いや態度が労働者的だったため、すばらしい労働者だと皆から思われていた。
学生の場合、下層の貧しい人間に対する同情が運動に入って行くきっかけになっていることもあり、それが下層階級や労働者階級を理想化するのだろう。
共青の中央委員をやった労働者出身の男で、病気で亡くなった者がいたが、この男の葬式に(私が)顔を出したら、もとの職場の組合では相手にされなかったような男であることが分かった。
111 ――労働者出身者の方が、情報提供者になり易かったということか。
そうだ。知識階級はマルクス主義の勉強をしてから入党する。自分たちが転向するには、自分たちが得た思想を打ち破る思想を必要とする。
君たちはプロレタリアートの祖国ソビエト・ロシアと言っているが、革命を戦ったボリシェビキの多くが、日本やドイツのスパイだとして粛清されているソ連の現実をどう見るのだ、とこちらが言っても、当時のインテリにとってスターリンは絶対であり、コミンテルンは無謬だから、こちらの言うことが耳に入らない。
ところが労働者の方は、例えば、三田村四郎や鍋山貞親など共産党中央委員の誰かは待合で捕まったではないかと言うと、そりゃそうだなとくる。俺たちが足を引き摺って一文無しで歩き回っているのに、幹部の連中は大金を持って待合なんかにいる、どういうことなんだとなる。
理論や思想より、実際の共産党の幹部の働き方、現実の共産主義国家の姿でもって説くと、労働者の方が知識分子よりも素直に分かる。
112 ――そういうようにしてSになった人間と以後連絡を取るにはかなり神経を使うのでしょう。スパイと分かってしまえば使えなくなるのだから。
私の家に訪ねて来た者もいたし、私の家で寝泊まりしていた者もいた。定期的な日付、場所、時間を決めておいて会う。
相手がSをやめてからも、こちらはそういうこと(Sだったということ)を明らかにしない。(ばらさない。)それは暗黙の了解である。特高課内でも、自分と関係のあるSの氏名はお互いに洩らさない。課長は金を出すから、課内の各人のSの氏名を知っているが。
毛利特高課長は裁判所で宣誓を求められて証言させられたが、大泉兼蔵本人が明白にスパイであったと申し立てているのに、私は大泉を使っていませんとしている。
また、スパイの手引きとはっきりわかる線で検挙することはない。それをするとその人間をつぶすことになる。また警察の名誉にもならない。
組織内部で信頼されている人間や将来を囑望されている人間でなければ、一回、二回の小さな使い方で終わってしまうから、有望な人間は大事にするし、つぶせない。
――そういう情報提供者だった人間で、捕まえられたり、実刑判決を受けたりした人物はいますか。
113 刑に服した人間は大泉兼蔵以外に知らない。党が壊滅して行く過程で、それぞれ運動から離れて正業に就いている。
――すると、党や共青の方は全く知らないのか。
向こうは全く知らないとは言わないだろう。共産党も共青も多くの人間をスパイ・挑発者として除名した。ところがそれはこちらから見ると何でもない人間を処分しているのだが。(これは言い過ぎ、嘘だろう。大泉兼蔵はどうなの。)
――戦後になって共産党が活動を始めた時、戦前にSだった人間が再び党に加わることがあっても、党の方は分からないのか。
分からない場合が多いだろう。
――伊藤律の場合はそうだったのか。
伊藤律はスパイでも何でもない。共産党が査問して伊藤律にそう自白させた。共産党によれば、彼は戦後も私に使われていたと自白しているとのことだが、(共産党がそのことを発表した)あの時、新聞記者が私の所に来て、事実かどうか尋ねに来た。私はとんでもないと答えた。『読売新聞』はその一問一答を載せた。(資料四)
114 ――「あのとき」というのは、1953年、昭和28年9月21日付の『アカハタ』で伊藤律の処分が発表されたとき(資料三)ですね。
特高課内でもお互いにどんなSを使っているか分からないということだが、宮下さんが使っている人間を別の特高が追跡しているということだってあり得るのか。
あります。それが分かった時には「わたり」をつけて返してもらう。(どういうことか。)私が飯田橋の共青のアジトを張り込んでいると報告したら、毛利課長があわてたのだが、そこに張り込まれたら毛利課長にとって都合の悪い人物(スパイ)が捕まる恐れがあったらしかった。
検挙したらそれが別の方で使っているSだったということはあった。
――すると同じ人間を二人または三人がSとして使っているという場合もあるのではないか。
それはない。左翼にはなかった。右翼のほうで情報を持ってくる者はインチキなものが多く、そういう場合はよくあったが。
――共産党のスパイは信頼できたのか。
完全に信頼していた。彼らは命がけでこちらに協力してくれているのだから。信頼できる情報を持ってくるから信頼する。
金だけ持って行って情報を持ってこなかったという例は、一つだけあった。外へ出て党の組織と連絡がついたら、こちらに知らせてくることになっているのに、知らせて来ない。党との連絡がついたことは、別のSの線でこちらに分かっている。ようやく一週間もたってから連絡してきたから、留置場に入れてしまった。(罪名はなんというのか。特高裏切り罪とでもいうのか。そんなあやふやな根拠で人を簡単に拘束できるのか。)
――そういうスパイの情報によって、共産党内の動向はほとんど分かっていたのか。
誰を捕まえようと思えば、いつでも捕まえられた。昭和7、8年、1932、33年ごろにはそうだった。どこそこの連絡線へ行けば誰と誰ということは、共青でも共産党でも大体みんな分かっていた。全部尾行はできないから、アジトまでは突き止められなくても、連絡線がどこにあるということは分かっている。
『赤旗』を配布ルートのどこかで入手できたし、後には印刷直後に入手できるようになった。
だから印刷局員の大串雅美が西沢隆二らにリンチを受けた。あれは宮本や袴田の(リンチ・査問)事件のちょっと前だった。それは、大串が、監禁されていた赤坂の印刷所から這い出して、警察に自首してきて分かった。しかし、大串はスパイではない。(どうしてそう言えるのか。)我々が簡単に『赤旗』を入手するし、次々に印刷所を手入れするので、彼らがスパイ摘発をあせったということだ。(スパイがいたからそれができたのではないのか。)
――スパイにはどのくらい金をやるのか。
Sと言っても色々なレベルがあるし、時期によっても違う。情報を持ってきて、それに対していくらというのも、連絡のための交通費として渡すのもある。そういう場合の相場は10円か20円だった。
117 毛利課長が使っていた当時は、党組織があり、Sはその中で非合法の共産党員として活動しているのだから、彼らに対しては生活を全部みてやらなければならない。月に100円以上はやっていた。
――宮本・袴田に査問された大泉兼蔵は、毛利課長に使われていたといっているが、宮下さんの名前を上げていたでしょう。
私は大泉を使っていない。
当時の新聞はよく私の名前を出した。熱海事件の後の全国の模範警察官ということで、内務大臣表彰第一位と新聞に書きたてられた。しかしこれ(内務大臣表彰第一位)は土壇場で、血盟団の井上日召を捕まえた刑事部の巡査部長にひっくり返ったが。
共産党や共青の内情に詳しいことから、スパイと言えば宮下と結びつけられた。私は庵谷警部の命令で大泉を捕まえて、毛利課長の所へ連れて行っただけだ。共産党は、大泉が、宮下に使われていたと自白したと『赤旗』に発表した。大泉は裁判所では、宮下ではなく毛利(に使われていた)と言っている。
大泉は新潟から上京した。新潟県特高課長の刀禰さんから毛利さんのところへ手紙で大泉のことを伝えてきていたのに、大泉は(毛利のところに)連絡してこない。それで毛利さんが大泉を探して引っ張ってこいと私に命じた。
118 大泉は党中央で共青担当を兼ねていて、共青の組織部長・今井藤一郎と街頭連絡をしていた。今井が日本橋近くで大泉と連絡をとることになっているというので、私たちは日本橋馬喰(ばくろう)町近くの街頭を歩いていた大泉を見つけ、「今井はこないよ」というと、すべてを了解したようだった。堀留署へ連れて行って「どうだ、(スパイとして)働く気はあるか」と聞くと「はい、(毛利)特高課長さんのところへ連れて行ってください」という。それで堀留署には、別の署に移して調べるからといって、毛利課長のところへ連れて行った。
――大泉は以前から毛利課長を知っていたのか。
名前は知っていた。「上京したらすぐ毛利さんのところへ行く気だったんだが、ついつい党内の生活が楽しいので」と。
――大泉が新潟にいる頃から警察に使われていたことは分かっていたのか。
私は知らなかった。毛利さんは知っていたかもしれないが。
――1939年から1942年まで、昭和14年から17年まで特高課長だった中村絹次郎さんは、課長はスパイを持たないと言っていたが。
119 中村氏の頃になるとそうだが、毛利課長時代(1932年から1936年ころまで、昭和7年から11年ころまで)は、課長自身がスパイを使っていた。毛利さんは特高課の労働係として、大正15年、1926年の暮の共産党の五色温泉会議を探り、3・15の検挙や取り調べにあたり、それから特高係長から課長になったが、その期間中ずっとスパイを持っていた。スパイはその性質上、誰かに引き継いだりしない。
――大泉兼蔵はスパイとして優秀だったのか。
無能だ。寿命も短かった。役に立たなかったのでは。
――大泉が有能でなかったとすると、宮下さんはもっと有能な人物を使っていたわけですね。
使っていました。
――中村課長は、宮下係長は優秀なスパイを5、6人持っていたと。
…(笑)
――スパイの名前はやはり言えませんか。
120 明治の人間ですからね。特高の誰も言わないでしょう。時代とか、法とかに関係なく、人間の情として。こっちに尽くしてくれた者を、あれはスパイだったということはできない。本人がある事情のもとで言っても、こちらは言わない。
もう亡くなった人もいるだろうし、また社会的地位や職業を得てちゃんと生活している人もあるだろう。親兄弟もいるだろう。やっぱり、いやでしょう。警察のスパイだったということは。
――自分が使っているスパイが党内で昇進していけば、それだけ多くの情報をつかむことができる。そうすると、スパイに出世してもらいたい、出世してもらわねばならない。
他力本願だね。
――自分のスパイを党内で出世させるために、その上を検挙することもあったかもしれない。松村100は、自分が毛利を出世させてやったようなものだと言っていたそうだ。
毛利さんはスパイのせいで出世したのではない。3・15以前から労働係の仕事をしていて、高い評価を得ていた。
――毛利基は初代特高課長として有名だが、どんな人だったのか。
121 毛利さんは日大の出身*で、3・15当時は労働係の主任警部だった。
*ウイキペディアでは日大出身と書いてない。夜間部だったのか。
労働係は労働争議の取締りにあたる。治安問題になるほど激化しなければ、労働争議に警察権力は立ち入らない建前になっていた。ところが、日本労働総同盟から脱退した日本労働組合評議会の指導部には、共産党のフラクションがあり、争議を激化させて革命的情勢を醸成しようと策動していた。毛利さんはその評議会系の担当で、俊敏で情誼につよい人だったから、組合幹部との交際が広く深くなっていったのだろう。
3・15の前年中は、ストライキの波が特に高まった年で、それが暴力的な事件に発展することもよくあった。その渦中に毛利さんの耳に東北地方の「子供ができる温泉」で共産党の大会があったという情報が(スパイから)入った。たまたま毛利さんは福島の出身なので、福島県寄りの山形県の五色温泉がすぐ頭にひらめき、要視察人のうちから目ぼしい写真を選んで五色温泉に持参し、宿屋の女中などにそれを見せて、大会出席者の大部分を明らかにすることができた。
そういうなかで、共産党の内情を知るのに都合の良い情報のツル(スパイ)ができたのだろう。それをやっていくうちに、労働係が大きくなって、情報の量も増える。
やがて毛利さんは特高係長になり、特高課に昇格するとそのまま初代の(警視庁特別高等警察課から特別高等警察部に昇格したときの)特高課長1932*になった。
*纐纈弥三は、警視庁の特高課長兼外事課長1927.5—1929.5になった。
左翼が壊滅して右翼の動きが盛んになると、二課がつくられ、毛利さんが初代二課長になり、二課を大きくした。
将棋が強く、個人教授も雇っていた。
122 思想部検事と特高課とで野球の試合をしたことがあったが、毛利さんはホームランを打った。勝ち気で、人より優れなければ気が済まない人で、仕事熱心で、下手なことなら初めからやらないというタイプだった。
寡黙で、気に入った部下はあくまで面倒をみて守ってやった。私を日本一の警察官に推挽(すいばん)してくれた。取り調べた人間に対しても人情を尽くし、後の面倒を見てやった。
二課長から警察講習所(現在の警察大学校)の教授になり、保護観察法ができ、全国で保護司が二人つくられた時、内務省の管轄に移って司法保護司になった。もう一人は判事出身者だった。共産党員を全部逮捕してしまったので、あとは保護観察が最も重要な仕事になってきた。私も後にそれに任命されが、私の場合は兼任で名目的な保護司だったが、毛利さんは制度ができて最初の専任保護司だった。それから内務理事官になった。
佐賀県警察署長をやり、最後は埼玉県警察部長だった。それで終戦となったとたんに辞職し、退職金をもらって郷里に引っ込んだ。それは目端のきいた判断だった。私はもたもたしていて10月4日の一斉罷免に引っかかった。
戦後は一切の役職につかず、百姓をやって、7、8年前に亡くなった。(資料8)
五 拷問について
123 ――特高の取り調べというと拷問を連想するが。
特高警察を特殊視して、暴力・拷問といった固定観念がつくられてしまっている。(うそ)
特高警察と一般の警察が違ったものと考えるのは誤解である。司法警察官として検事の命を受けることは、普通の刑事犯を扱う司法警察官と変わりはない。刑事訴訟法の建前では、検事が捜査し、司法警察官がそれを補助するのだから、検事が中心なのである。実際は検事が捜査を指揮するわけではないが、法のたてまえはそうだ。警視庁特高である私たちは、東京地検の思想部検事を補助する。
思想部の検事には、部長級で平田薫や戸沢重雄など、3・15以来のベテランがいた。4・16以後に7、8人の検事が常置されたが、地方からの応援や見習いで増減した。
取り調べの時の暴力だが、ぶんなぐることはずいぶんあったかもしれない。いろんなものが重なり合って、警察にはそういう習慣がある。刑事部屋*はずっと続いている。当時は親でも学校の教師でも簡単に体罰を加えた。私も巡査時代、同僚に殴られたことがあった。軍隊経験者も多かった。暴力は警察の中で日常化していた。
映画やテレビを見ても分かるように、世界各国どこの刑事でもみんな似たり寄ったりのことをやっている。誇張はされているが。(映画の話であって、実際はどうか分からないのに、よそもやっていると正当化。)
また、戦前の警察には警察犯処罰令があり、警察署長が即座に拘留や科料を決定できる制度があった。無職で住所不定で徘徊していれば、直ちに拘留できる。これも今の目で見れば暴力的かもしれない。
――しかし、そういう一般社会の風潮や警察の刑事部屋的な伝統と、特高の取り調べとは異なるところがあるのではないか。竹刀で気を失うまでぶっ叩くとか、太腿が腫れ上がって立てないほど叩くとか。
(一般の)刑事の対象は、罪のおそれで比較的おとなしく卑屈になるが、特高は、これを敵と見て反抗する相手に立ち向かうのだから、一般の警察的な暴力にまた(さらに暴力が)加わるのだ。(特高は違うということを認めたではないか。最初から言え。)これは彼ら共産主義者が非合法運動をやっているのだから。(共産主義者や非合法運動をまるで鬼のように見ている。一般犯罪でも非合法ではないのか。)
たとえば彼らを逮捕して29日間の拘留期間が切れれば、たらい回ししてまた拘留を延期する。これは超法規的措置だが、これに抗議する者はほとんどいなかった。(だから違法なことをやってもよいのか。)
125 私は最初に特高になった時、先輩に訊いた。「一体こんなに乱暴に扱っていいのか」と。そうしたら、「何を言ってるんだ、なんなら向こうに訊いてみろ」と。共産主義者の側から言えば、「俺たちは革命をやるんだ、お前たちと戦争をしているんだ、立場が逆になれば、俺たちがお前たちを取り締まる」ということだろう。「まかり間違えば、あなたたちを殺しますよ」というわけだ。(だから暴力を受けるのは)「当たり前の話で、不法だなんだというようなことは言わないのだ」と。今の人たちが考えるように、そうおかしくはない。(自分勝手な暴力の合理化)
――1932年、昭和7年の3、4月ころ、コップ(プロレタリア文化連盟)の一斉検挙があったが、プロレタリア作家が書いたものを読むと、特高に必ず拷問されている。そういう拷問をやった暴力的特高の代表が中川成夫だ。
文化団体の人は私は調べなかった。あれは中川警部や野中警部補たちが担当だったのだろう。野中警部補が駒込署で宮本百合子を取り調べているとき、私は同じ署に留置していた共青の岨(そわ)委員長087を取り調べていた。
その時文化団体を担当していた中川警部が特殊に暴力的だったとは思えない。書ける人が捕まってくるのだから、それで書かれたのではないのか。労働者は書けない。
126 また知識人や作家が書くものには誇張もあるだろうし、自分を美化するところもあるだろうし。戦後、自分は軍に協力したという人は一人もなかったように、書かれるのは、特高にひどい目にあわされたという話ばかりだ。(嘘っぽい。仲間弁護)
――小林多喜二は1933年、昭和8年2月20日、逮捕されたその日のうちに築地署で拷問で殺された。これは特高部内でも、まずいことだという声はなかったのか。
拷問で殺したとは思っていない。(この言葉に宮下弘の本質が現れている。)殺したのではない、死なせたわけですわね。むろんそれはまずいことですよ。大失敗です。しかし、部内で責任問題は起こらなかった。
――『特高警察黒書』(米原昶(ちょう)、塩田庄兵衛、風見八十二編)によれば、1934年、昭和9年2月、久松警察署で、中川、山県、鈴木、宮下、須田の5人の特高が、谷川巌に、袴田と連絡するのを自白させるために、はじめて電気椅子を用いたと書いてある。
その5人がいっしょに行動するなんてことがまずありえないことだ。谷川は反帝同盟のキャップだったから、これは反帝と赤色救援会を担当していた鈴木匡警部が取り調べたでしょう。中川警部は党の、山県警部は学生の担当だ。電気椅子なんて聞いたこともない。(白々しい)また私は谷川の顔を見たこともない。ずいぶんでたらめなことを平気で書くものだ。
――取り調べた相手から個人的なテロルの対象としてつけねらわれるという不安はなかったか。
ない。(本心はあっても、あるとは言えないだろう。)私は暴力の問題を含めて、そんなに憎まれるような調べをやったことがない。
――特高で他の人たちはどうだったのか。
田中清玄時代に、闘争目標として警視庁の特高警部の自宅を襲撃する計画が立てられたことがあったが、その後は報復は全くなかった。
――黙秘の相手はどうしたのか。宮本顕治の完全黙秘は徹底していたが。
そうかな。私は宮本顕治は直接知らない。党の農民部長だった赤津益蔵も何もしゃべらなかった。戦後党で活躍したということは聞かないが。(話をそらすな。)南巌の細君の小沢みちは私が取り調べたが、完全黙秘だった。彼女は、宮本顕治をリンチ(査問)事件で逮捕した後に残った袴田里見と連絡があるというので取り調べたが、黙秘だった。
128 ――そういう場合にじれてつい痛めるということにならないか。
私はない。暴力は私の主義ではない。(本当か)とくに婦人に対しては絶対に手をあげない。
小沢みちは「頭が光っている」などと私をからかった。私は組織の内情について自分の必要な範囲でかなり知っている。取り調べる相手が誰と連絡を取り合い、どうつながっているかも分かっている。顔写真を机の上に広げて、(取り調べ中の人間の)連絡相手を私が指摘すると、「そんなに分かっているなら黙っていても仕方がない」としゃべり始める。(完全黙秘の人への対応の話だったのではないか。話をずらすな。)
3・15、4・16のころは、取り調べるほうが何も分からないから、ひっぱたいた。特高に引っ張られたら拷問だというのは、そのころの話がいつまでも伝わっているんじゃないか。その後でもそういうやり方の人間がいたことは否定しないが。
取り調べは意志と意志との戦いだ。ぶんなぐるというのは、相手の意志を挫き、弱くする方法であるが、調べる方が十分な知識をもって臨めば、拷問という手段は必要ない。
129 取り調べられて、ばらせばダメな人間だ、ばらさなかったら思想堅固な共産主義者だというが、それは捕まった時の状況や、誰が取り調べたかで変わってくる。
取り調べる主任の能力が問題だ。調べられる側にとって話しやすい人間、(取り調べられる人間が)話してくることを、受け止める態度をもつことが重要だ。ツボをつかなければ、聞き出せない。自分でもスリができなければ、有能なスリ係の刑事にはなれないと警察でよく言われた。
留置場に長い間放り込まれていると、しゃべりたくなるのが人情で、そのあたりを見計らって取り調べに呼び出し、ツボを外さなければ、たいていはしゃべる。(宮下自身の暴力はどうだったのか、全く返答がない。全く暴力を振るわなかったのか。)
六 リンチ査問事件のことなど
感想 警察は共産党(当事者)ではないのに、当事者であるかのように、共産党の内部を批判することはできないのではないか。不誠実ではないか。それよりも、警察内部のことを批判したらどうなのか。
130 ――『週刊文春』(1978年2月26日号)は、スパイ査問事件の当事者の一人、木島隆明(当時、日共東京市委員、江東地区責任者)の、小畑達夫が絶命したときの状況や、その後の死体の始末についての(警察の)調書の一部を載せた。また、宮下さんのコメントとして、「木島が捕まった時(昭和9年、1934年2月17日)、(木島は)すでに党にいや気がさしているところでね、捕まるとすぐに転向した。だからリンチ事件の情況なんかについても、スラスラとしゃべりましたよ」という談話を載せているが、宮下さんが木島を取り調べたのか。
直接は調べていない。『週刊文春』での私の談話には、「木島を調べた者から聞いた」というのが落ちている。宮本・袴田のリンチ共産党事件には、私は全くタッチしていない。
私が直接調べたリンチ事件は、小畑達夫のもとで党中央財政部員だった全協出身の大沢武男がリンチされた事件である。
昭和8年、1933年暮の宮本・袴田達によるリンチ査問の後、翌年1934年1月から2月にかけて、大沢は査問されたが、頑強にスパイであることを否認したので、査問する側は、最後に党中央に伺いを立てたところ、スパイであるという印をつけて釈放しろと言われた。それで大沢の額に焼きごてを当て、硫酸を流し込んで、スパイの烙印をつけて釈放した。(本当か)
同じころ査問された江東地区委員だった波多然の場合も、同じように烙印をつけられている。この大沢や波多然に対するリンチを木島らがやっている。
大沢がスパイ容疑で査問されているらしいという情報があって、内偵しているうちに、大沢のハウスキーパーをしていた女性の実家で女中をしていた女の口から、大沢の居場所を訊いた。そこは引っ越して空き家だったが、運送屋を調べたりして隠れ家を突き止めた。真夏だというのに昼でも雨戸を閉め切っている。(大沢は)額に烙印をおされて、戸外に出られないので、部屋の中に閉じこもって、新聞の碁の欄を見て一日中碁盤に石を並べていたが、そこを逮捕した。(査問の被害者を逮捕したのか。)
――小畑達夫が「殺された」後、大泉兼蔵が六本木の隠れ家に監禁されているところを警官に救出されたというのはどういうことなのか。
六本木署の巡査が通りかかったら、家の中でわめいているのが聞こえ、入ったら、ピストルを持った木俣鈴子を突き飛ばすようにして、大泉が転がり出て来た。大泉がどこかに監禁されていることは分かっていたが、どこかは分からなかった。
――このころの共青や共産党の中で、朝鮮人はかなりの比重を占めていたと思うが…
132 特にリンチ事件の時には朝鮮人が目立った。昭和7年、1932年の夏に、東京市委員長の村上多喜男が江東地区キャップの尹基協を上野で射殺したとき、江東地区の朝鮮人を見張りに使っていた。小畑・大泉に対するリンチ査問の時も、木島の指揮下で、朝鮮人がピケをやらされている。波多然や大沢武男の額に焼きごてで烙印を押して硫酸を流し込んだのも朝鮮人だった。
全協の雑産業部門の中に、関東自由労働組合や東京自由労働組合があったが、これは日雇い労務者、いわゆる土方人夫であり、ここでは朝鮮人が非常に多かった。この雑産業部門を握っていたのが、田中清玄時代は神山茂雄で、その後は、党からスパイ扱いされた溝上弥久馬などである。そうした部門の労働者は動員しやすかったのだろう。
――リンチ共産党事件当時の共産党や共青の中心的活動は何だったのか。
何もない。無力であった。
――街頭で連絡を取り合っているだけだったということか。
街頭のレポも、ロシア革命記念日とか、反戦デーとかのカンパニア闘争みたいなことで、大衆的動員力はなかった。(それははたから見ていただけの意見ではないのか。)
133 あのころは警察と共産党とが向き合っていただけだった。全協と党とが争っているとか、共産党内での抗争はあったが、外に向かっての闘争はなかった。
大森の銀行ギャング事件*からそうなった。
*「大森の銀行ギャング事件」とまるで共産党が独自に組織的にやったかのように言っているが、これはスパイが画策したのではなかったのか。『日本共産党の七十年』上によれば、これは、「スパイ松村こと飯塚盈延の画策であること、党は無関係であると「赤旗」号外1932.10.11で表明し、この事件に関係した党員を除名処分にした。」とある。098
しかしそれまでは、労働者を組織して大工場に根を下ろすことはできなかったが、映画・演劇・文学方面では、無産芸術運動の勢いは盛んだったし、プロレタリア文化連盟傘下の文化団体には、党フラクションの数も沢山あっただろう。雑誌で見る限り、党の影響力は大きい。モップル(赤色救援会)とか、帝国主義戦争反対反植民地闘争支援同盟とかもあった。
新聞の社会面でも、良家の子女が共産党に投じて革命を目指すとかの話題をまき、その意味では大衆とのつながりはあった。
ところが銀行ギャング事件以後は、大量転向、スパイ除名処分など、壊滅状態の中で、一握りの共産党と警察だけが対抗していた。
我々の側の対策が効果を上げていくのにしたがって、共産党の方ではこれはおかしいとして、スパイ容疑で組織から活動家を処分して排除した。何も動けない状態になってから、リンチ事件が起きた。
スパイ容疑で除名される者のほとんどがスパイではなかった。(それは宮下のスパイ基準によるのではないか。)当時の『赤旗』に発表されたスパイの氏名や部署などを今日の冷静な目で見れば、そんなにスパイがいるはずがないと誰しも思うでしょうが、当時の党の疑心暗鬼は狂気じみていた。(宮氏はこれ=共産党のスキャンダルを強調したいのだろう。)
134 ――小畑達夫もスパイではなかったということか。
スパイじゃないでしょう。(これは嘘ではないか。)小畑は全協の党のフラクションから党中央の財政部と組合部の責任者になった。全協は14の産業別労働組合で構成されていたが、小畑はその一つの日本通信労働組合の委員長だった。
(特高の)労働係が全協を担当していた。32年テーゼが出て、全協は行動綱領に「天皇制の廃止」を掲げたから、治安維持法違反の結社として、特高の対象になってもよかったが、32年秋以降も特高の労働係が担当していた。労働係では、失業者から幹部クラスまで何人ものスパイを使っていた。
リンチ事件があったあと、私は労働係に訊ねたが、小畑はスパイではないと言っていた。
労働係が小畑を協力者として利用した形跡はなく、私たちも小畑をスパイにしたことはない。
一昨年1975年あたりから共産党のリンチ事件が話題になり、私は袴田里見の調書を読み返した。
135 袴田の小畑に対するスパイ容疑の根拠は、小畑が昭和6年、1931年の夏、万世橋警察署に検挙された際、党員なのに40日の拘束で帰されたということだ。しかし、昭和5年、1930年以後、党員でも党役員でも、転向を誓えば、起訴留保の意見を付して検事局に書類送致し、警察限りで釈放していた。袴田は「党員というだけで1年以上も留置するのが普通だった」と言っているが、特高警察官の温情的な措置は、自分たちの弱さの隠蔽とあわせて、皆無とした。
また袴田は、その時小畑を調べたのが高橋警部だと言っているが、そういう人物はいない。各警察署の特高は主任が警部補で、その下が巡査部長と巡査だが、本庁特高で高橋姓の警部が勤務したのは、昭和16年、1941年10月以降で、それ以前にはいなかった。
現在共産党の宮本委員長らは、党の処分は除名が最高で、それ以外の措置はないと言っているが、昭和7年1932年の夏から秋にかけて、村上多喜雄は尹基協をスパイとして射殺し、城南地区委員の平安名常孝はスパイ容疑で刺されたりした。この二人も無実だったことを共産党は否定できないのではないか。
またリンチ共産党事件の後、たった一人袴田が中央委員として残ったが、全農全会派にいた宮内勇が、「中央委員会が壊滅したのに袴田だけが残っているのはスパイだからだ」とし、袴田が党内で使っている名前まで発表する(暴露する)と、袴田も、宮内の本名をばらして攻撃した。結局宮内は昭和9年、1934年10月に、袴田は翌年3月に逮捕された。
136 ――1930年代前半、昭和6~9年ごろ、上海の韓国独立政府を名乗っていた金九が派遣した朝鮮人(李奉昌)が、天皇の馬車に手榴弾を投げた事件(虎の門事件1932.1)について何か記憶していないか。
朝鮮人関係は内鮮課の取り扱いだから、あまり記憶していない。
――警視総監が懲戒免職になっている。
御警衛関係にはいつも無数の情報がある。(金九に関する)上海情報を、当時の警視庁の警察官すべてがたえず聞かされたが、(金九の件を)脅威と感じた。「凶器を携えて日本へ潜入した」という金九一派への警戒を、御警衛前日と当日に繰り返し聞かされた。
上司が嘘の情報でも部下に警戒するように要求すると、下級の者は半ば疑いながらも、実際以上に不逞鮮人が存在し徘徊しているように思い込んでしまう。
朝鮮人の一部に過ぎないが、実際爆弾を投げる者がいたし、共産党に入る者もいて、またそれが目立つから、過大に危険視された。
――同じ年1932年秋の尾崎陞(のぼる)東京地裁判事が共産党に入党した事件はどうか。これは熱海事件の直後に逮捕された風間丈吉を取り調べる過程で分かった。アジトの提供、資金カンパなどの程度だったのだろうが。
当時は熱海会議とか、白山や大森の銀行ギャング事件などがあり、立て込んでいた。それに(共産)党の軍事部*という組織のことがあったりしたので、判事や地裁の書記に共産党員がいたということは、裁判所関係者にはショックだっただろうが、私たち特高はそれほど驚かなかった。そんなこともあろうと思っていた。
――大森の銀行ギャング事件について何かあるか。
共産党の家屋資金局で武器部のキャップをしていた今泉善一のグループに属して銀行襲撃を計画し、襲撃先を川崎第百銀行大森支店に決めて手引きした石井正義を、私が直接取り調べた。石井は大森の土建屋の息子で、川崎第百銀行は、家の取引先の銀行だったから、内部をよく知っていた。ここに押し入ることにしたのは、「その前に計画していた白山の不動銀行で失敗し、急に予定を変更せざるを得なくなり、事前の調べをする余裕もなく、勝手の分かっているところに決めた」と言っていた。
138 石井は高等工学校出身で、不良グループを組織して使うのに向いていた。強盗、恐喝、美人局、持ち逃げなど、手段を選ばず党の運動資金をつくるのだが、戦闘的技術団と自称し、カポネを見本にすると言っていた。本人たちは暴力団や不良グループと付き合って、真剣なつもりだったのだろう。
(事件発覚の)端緒は今泉善一を逮捕したことだ。今泉を捕まえたのは、暴力団の武器の売買を追及していた神楽坂署だった。石井の学校友達で今泉のグループに入った伊藤浅雄らが、暴力団の捜査から浮かび、その自供で、今泉を逮捕した。(警察の謀略などどこ吹く風だ。)
この仕事をした神楽坂署の司法主任は、わたしと警察練習所時代の同期生で、神田錦町警察署勤務になった勉強組の一人だった。
四 日中戦争拡大のなかで
一 宗教警察の新設
140 昭和11年、1936年7月、警部に昇進し、第二課第一係に異動した。特高課が第一課と第二課に分かれ、毛利課長が右翼担当の第二課長になり、私を特高に引っ張った千速警部も第二課の係長になった。私はこの二人に呼ばれて行った。第一課長には永岡文男警部が任命され、係長には中川警部が昇任した。
警部の給料は国家から出る。警部補までは東京府の予算から出るから、府会議員を大事にしなければならぬ。こういう連中は警察に対して威張っていた。手取り額は大して変わらなかった。
警部補時代には、功労記章による加俸が月10円あったが、警部になったらこれがなくなった。しかし、二課の警部になると、今までもらわなかった毎月10円の機密費が出るようになった。昭和11年頃には一課担当の共産党組織はもう壊滅していて、右翼の方が重点になっていた。
141 二課は人員も一課の倍以上いた。八班に分かれていて、私は第八班の班長になった。一班から六班迄は右翼つまり国家主義運動が担当で、団体別、あるいは、5・15事件*、神兵隊事件*というように、事件グループ別に、要視察人などを担当する。一つの班は、警部が班長で、警部補が二人、巡査部長と巡査が6、7人で構成されている。
七、八班が新設の宗教担当である。宗教はそれまでは高等課が担当していたが、前年1935年の大本教事件*の後に、特高二課の管轄にした。この年1935年の秋、大阪でひとのみち教団事件*があった。
一班から六班までの右翼担当でも、陸軍部内の三月事件*や十月事件*、5・15事件、血盟団事件*が起きて、それに伴って組織が拡大された。血盟団事件、5・15事件のころは、事件が起こってから刑事部が担当したが、それでは遅いとして、要注意人物を普段から気を付けてみていき、要視察人として警戒するために、特高部の右翼係を拡充した。
私が1936年7月に二課に異動したのも、2・26事件が起きた後二課をつくり、国家主義運動の担当をさらに強化したからだ。その拡大強化に合わせて、宗教方面を独立した部門として二班に分け、第七班を保坂警部が、第八班を私が担当した。
142 (この時代は)神がかり・仏がかり(になった人)が多かった。私はこれは日本国民の思想に影響しているのではないか、国民の意識の底から形作られているのではないか、という気がした。
私は宗教警察の定義をし、会議でそれを説明した。私の宗教取締りに関する考え方は、今から考えると、淫祠邪教退治に偏っていたようだ。私は宗教を治安維持法や不敬罪の対象にすることを好まなかったが、特高二課の宗教係としての任務は、政治的な用途に役立たねばならなかった。
私は、迷信打破を警察が始めれば、迷信を利用して不当な利益をはかる連中に打撃を加え、狂信を基本にする愛国運動の一部にも反省を与えられると思った。
当時、宇野某は、和気清麿を顕彰し、宮内省に出入りしていた。清麿の神託で道鏡*を押さえるという政治思想は国を誤らせると私は考えた。政治は合理的な計算の上で行うべきであり、警察は法治主義で取り締るべきだ、と私は考えた。
宗教担当になって間もなく手掛けたのは、第七班に命じられた事件だった。島津法座という薩州閥の一集団で、皇太后(先帝の皇后。天皇の生母。)付きの元女官長の周りを取り巻いていた、南無妙法蓮華経の宗教グループである。
143 唱名を何百遍も唱えるうちに自己睡眠状態になり、島津女官長などを中心にした大勢の信者が神がかりになり、不敬なことを口走る。それが皇族の中にまで入り込んで、なんとか宮家の誰それが入信しているという話で、放っておけないというのだ。ロシア革命はラスプーチンのような僧侶が帝室に入り込み攪乱したことによるところが多い、日本の皇室がその種の轍を踏んではならない、ということなのだろう。政治的に言えば、薩摩系の誰彼をそれで排除しようということだったかもしれない。
次に私の班が担当した事件は、小原竜海という、大僧正職を金で買い、観音力で卦(け)をたてるという宗教家の検挙である。
小原は京橋の明舟町を歩いているときに啓示があり、土の中から観音像を掘り起こし、この観音像から霊感を得て、占いをやった。これがまた宮家に取り入って、特に東久邇宮家の信任を得た。東久邇宮家や何々宮家拝領という品物を道場に飾って信者を集める。これも宮家が関係しているので放置できない、内偵してこれを不敬罪で取り締れということだった。
島津法座と小原観音の手入れは、新聞も取り上げたが、いずれも不起訴になった。要は、宮家との関係を断ち切ればよく、一般の信心まで止めさせるわけにいかない。
東久邇宮が敗戦後に内閣をつくった時、この小原竜海と児玉誉士夫が内閣嘱託になった。
144 また東久邇宮内閣のおかげで、戦後、特高警察制度の廃止で済むはずの占領政策が、特高警察官の一斉罷免という「暴挙」になった。
また島津事件を担当した保坂警部は、私が本所原庭署で巡査部長だった当時の主任警部補であったが、この事件後、日本橋久松警察署に飛ばされた。それで私は七班の班長も兼務することになった。
楽定主教事件 当時の湯浅憲兵司令官や東京市助役も、この宗教の信者だった。教祖は信者に自らを尊師と呼ばせ、「尊師絶対、絶対尊師、一切万事尊師に頼れ」と信者に唱和させ、尊師に仕える女人奉仕団をつくり、その十人くらいの女性に手を付けた。淫祠邪教である。教祖が神がかり状態になり、神武天皇以下歴代の天皇の霊を呼び出し、現皇室の霊に呼び掛け、信者を眩惑したため、不敬となった。神憑状態の教祖の言葉を奉仕女長である、某工学士の娘が明細に記録したことから証拠をおさえられ、教祖の不敬罪と強制猥褻の罪を併合して起訴した。
私は昭和12年、1937年いっぱい、宗教を担当した。
二 人民戦線事件
145 昭和12年、1937年の暮から労農派の検挙があり、翌昭和13年、1938年2月、大内兵衛など学者グループが逮捕された。人民戦線事件である。私はこの学者グループの取調べを半年間担当した。
私は当初宗教係を継続したかったので菊地盛人特高部長に断った。特高部長は警視庁書記官で、特高一課長や二課長の上にいた。
菊地は私に「大内兵衛と猪俣津南雄を訊問しろ、体調が悪いのなら一か月くらい温泉へでも行って休養をとり、それから取り調べてくれればいい」と言ったが、私は「人を留置場に放り込んでおいて一カ月も温泉で静養するなんて私にはできませんよ」(本心か)と思った(言った*)が、結局、引き受けざるを得なかった。*はっきりしないが、菊地に言ってはおらず、ただ自分が思っただけなのだろう。
146 宗教係を続けたかった理由 宗教は国家主義運動と関連がある。北一輝夫妻は熱烈な法華経信者で、二・二六事件の最中に霊告があったという。急進的な青年将校の一部は大本教に出入りしていた。大岸頼好*は宗教者になった。神兵隊事件の前田虎雄は、日本山妙法寺の熱烈な信者だった。
湯浅憲兵司令官は先述の淫祠邪教に凝っていた。秦憲兵司令官は天津教の信者だった。
*大岸頼好(おおぎしよりよし、1902.2.18—1952.12.23)陸軍士官学校卒。西田税の秘密結社「天剣党」に参加1930。皇道派青年将校運動のリーダー。「皇政維新法案大綱」という国家改造計画を起草1931.9した。1936年、2・26事件に関係して待命(職務を担当させない)となり、左翼から転向した中村義明と「あけぼの社」を設立。同年1936年12月、大尉で予備役。1940年9月、近衛新体制に即応、革新青年団結のために結成された皇道翼賛青年連盟委員となった。
右翼の運動や思想・行動は、国家主義だけでなく、信仰から見ることもできる。
神仏がかり的な宗教とその信者の人脈から、政治のある部分を動かそうとする、また実際動いたりすることはおかしいと私は考えていた。
また労農派の検挙そのものに疑問を感じていた。
天皇制打倒を掲げる共産党の運動は無理である。社会改革を共同戦線でやっていくというのが労農派であり、合法的に治安維持法にかからない範囲でやろうということだ。
147 共産党はすでに壊滅し、講座派の学者・評論家はほとんど姿を消し、当時の総合雑誌などで活躍していた学者・評論家は、労農派だった。
1937年、昭和12年末に、山川均や加藤勘十など労農派の検挙が行われ、日本無産党と全評(日本労働組合全国評議会)に、結社禁止命令が出された。コミンテルンは昭和10年、1935年の夏、モスクワで第七回大会を開き、反ファッショ人民戦線戦術への転換を決議したが、日本無産党と全評は労農派の影響下で反ファッショ人民戦線に連なる運動として結成されたとして、結社禁止処分を受けたのだろう。
日本共産党が従来罵り排撃していた社会民主主義者にコミンテルンが掌を返して提携を呼びかけ、これに鈴木茂三郎、加藤勘十らが呼応したが、それは、この年1937年の夏から始まっていた支那との戦時態勢強化を考えていた政府や軍部に格好な口実を与えた。内務省では保安課の猪俣敬次郎が労農派の検挙に大変熱心だったと後になって聞いた。
我々警察官の側からすれば、治安維持法に抵触しない合法グループを一回の警告もなしに検挙するというのは、政治的判断としてはあるかもしれないが、法治国家としてはいかがなものか、勝手すぎやしないかと私は考えた。そういう意見を述べる機会はなかったが。
148 昭和13年、1938年2月1日、大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎などを検挙した。南一世警部が大内さんの所へ行った。「勅任官である私を令状なしに検挙するのか、令状を見せろ」と言われたが、「いや検束だ、公安を害する恐れがあるから検束だ」と言って連れてきた。南一世は取り調べを嫌がり、他の者もやらなかったので、私が呼ばれた。
労農派を治安維持法違反にするためには、労農派が究極において国体を変革し、私有財産を否認する共産主義者の団体であることを示さなければならない。マルクス主義の信奉者として、それは間違いないかもしれない。しかしそれを現実に綱領として示さなければ、問題にするのは無理だ。労農派は一定の綱領や政策を持った政党ではない。大内兵衛が労農派の代表者かというとそうでもない。菊池部長は大内を起訴してもらいたいという。
私は早稲田署で大内さんを取り調べ始めた。立ち合いに宗教係の根本巡査を連れて行った。この根本は茨木県人で、叔父さんが国粋主義者の代議士で、本人も国粋主義的な考え方が強い。私の大内兵衛を取り調べる態度が生ぬるいと思ったのか、「班長、もういっぺんガサ(任意捜索)をやりましょう。だいたいが不徹底です。材料が少ない」と言う。それを抑えるのに苦労した。
猪俣津南雄に関しても根本は、「猪俣津南雄は長野県に預けた文書類がある。それを押収しましょう。」と言う。私はそれも、「いいから、いいから」と抑えた。
大内さんも私が調べる段階になると、留置が不当だとあまり言わなくなった。根本以外にもう一人一課から連れてきた巡査が大内さんに「宮下警部は無茶な取り調べをするような人ではない」と言ってくれた。
私は大内さんの財政学や、イギリス労農党の理論的基礎をつくった学者や学説についての論文を読んだ。
大内さんは自分がマルクス主義者であるとも、マルクス主義学者であるとも認めなかった。大内さんは言った。「マルクス主義者やマルクス主義学者とは、確乎として一貫不変、マルクス主義を真理として信奉して揺るがず、立場を移さず、理論研究と実践とを一身に体現する人物であり、その観点から、河上肇博士もマルクス主義者とは言えない。故人となった櫛田民蔵博士などはマルクス主義学者と言える。」
150 そして「自分はマルクスの経済学研究の大部分は真理ではないかと考える経済学徒に過ぎない。唯物弁証法とか、マルクス主義政治学とかは知らない、人類の歴史は階級闘争の歴史だとマルクスは言っているが、そもそもそれは違っている。宮下さん、理論闘争をやりましょうか。」と言う。
他の者の目には私と大内さんとが意気投合しているように見えたかもしれない。
何回も取り調べを重ね、大内さんも調書がいつまでもできないと出してもらえないと思ったのか、こう言った。
「私の思想的立場を申し上げましょう。自分は実証的学問研究の立場と方法で一貫してやって来た。その限りで、山川均らとも、またいわゆる学者グループとも、日労党その他の人たちとも、会合や交流、交友はあった。自分はマルクスの言う、資本主義の社会は必然的に社会主義の社会に発展するという主張を真理だと思う。教壇を含むあらゆる場面で、知識階級はこの真理を基本にして仕事を推し進めなければならない、そして労働者階級には、理論を修めて行動させるのではなく、まず自己の経済的要求を達成するための団体をつくって闘争することを教えるべきである、そのような知識層の意識と労働者層の行動があれば、労働者はおのずから社会主義を学び取り、支配階級はその必然性を認めて、社会は比較的に摩擦少なく社会主義に変革できる、と啓蒙し続けてきた」と陳述し、それを調書にした。
戦後、昭和29年、1954年ごろ、大内さんの『風物・人物・書物』という本が出た時、それを読んだ感想を書いて手紙を出したが、丁寧な長文の返事をいただきました。
151 猪俣さんは検挙に前後してユダヤ人の奥さんと離婚し、帰国する細君に手紙を出すのを私が便宜を図り、また手紙を書くように勧めた。(拘束しているのだから、当然ではないか。)
労農派の検挙の時、日本の共産党は実体のない状態だったので、おそらく検事局の知恵だと思うが、「コミンテルンの目的遂行」を治安維持法違反だとして起訴した。合法的な改良主義の労働運動も、文化運動も、大学教授や評論家の著述活動も、ぜんぶ「結社(日本共産党)の目的遂行のためにする行為」に該当するとした。
その後はこれが前例となって全て「コミンテルンの目的遂行」ということで送検した。私はこれはおかしいと思っていたので、私が係長になった時、それをひっくり返した。(後述)
三 私が見た右翼
152 労農派の取調べを終えて、宗教係に戻ろうと思ったら、二課の第五班長(右翼担当)に回された。
担当した団体では、大日本生産党が大きかった。個人では、三月事件1931や十月事件1931の大川周明や、五・一五事件と二・二六事件の被告全てである。五・一五事件関係者の属する、橘孝三郎の愛郷塾などの背景も対象であるが、愛郷塾の構成員は茨城だったから、在京の関係者だけを監視した。
五・一五事件の三上卓は、私が訪ねていくと、真新しい見事な神檀をしつらえた前に座って話をする。維新の道は神ながらの道であるというように、王政復古・昭和維新の精神を話す。大川周明を訪ねると、向かい合って向こうの方が一段高い椅子に座るようになっており、こちらは仰ぎ見て話をしなければならない。愛想よく話してくれるのだが、位置が気にくわない。
二・二六事件の真崎大将は、事件後一年間憲兵隊に抑留されていて、そのあと蟄居していたが、落ちぶれた感じだった。冬の寒い日でも炭がないという。
153 真崎は「世間は知らないが、二・二六事件の青年将校たちを含めて、みんなアカなんだ。統制派も皇道派もない。アカが何もかも仕組んでやっている。軍もアカに攪乱されている」と言った。
こういう考え方は国体明徴運動もそうだったし、敗戦後の近衛さんもそうだった。すべてアカによってこの事態に立ち至らしめられたというのだ。共産党がもう実態がないのにもかかわらず、共産主義の妖怪は上から下まで徘徊していた。(意味不明)
当時の二課の視察(担当者)は、右翼のゴロツキも先生扱いしていた。私はそういう連中には先生とは言わなかったが、真崎大将や大川周明からは、その御高説を拝聴した。
ゴロツキは、例えば田村町組という、芝の田村町界隈の喫茶店にたむろして、いい加減な情報を持って歩いて交換し、その情報をネタにして、官庁や会社に半分強制的に銭をもらっている。今の二、三流の総会屋みたいなもので、そういうのがごろごろしていた。
こういうのを二課の連中は先生扱いしていたが、私はゴロツキだと思っていた。
内務省や警視庁はこういう田村町組のいいお得意さんだった。この当時もとの高等課は情報課に名称変更していたが、情報課の視察員はこういう連中と情報交換し、ひどい場合は情報を作り上げる。待合に出入りして、きわどい情報をお互いに作り上げる。
154 そして官房主事は、そういう情報を持ってきた人間に内賞を与えてしまう。それはまったくでたらめの情報である。私はそういう嘘の情報を流したやつを捕まえて20日間留めたことがあった。ところが情報課では、官房主事が(ゴロツキに)賞を授けていた。
当時は排英運動*が右翼団体の共通した動向で、排米や反ソは少なかった。この排英運動を軍や警察が右翼団体を使ってやらせた、あるいは黙認していたが、その原因は、二課の係員が要視察人のゴロツキまでを先生とおだてたこともあるし、革新官僚との関係もあった。視察係が材料(情報)を取るために向こう(ゴロツキ)に迎合的になる。それで警察が右翼に便宜を図っていたと思われる。
革新官僚 内務省の吉川は革新官僚を自称していたが、二課の係長になった中川警部はそれに反論した。
155 警視庁の巡査上がりの警察官はそういう政治的な警察の仕事(革新的な仕事)を嫌っていた。
右翼団体・運動は雑多で、近代的な政党、集団以前のような集団、一人一党、ゴロツキのような徒党など、整理が難しい。
ムッソリーニのイタリア・ファシスト党をまねた下位春吉や、今の日本船舶振興会の笹川良一など、黒シャツを着た連中がいた。ヒトラーが政権を執ると国家社会主義(ナチズム)に心酔する者が軍の統制派の一部に出てきて、日独伊防共協定を締結させようと動いていた。また青年将校たちは天皇親政による維新を幻想して決起したが、皇道派は軍部内の一派閥で、青年将校は(興道派の中の)少数の異端だったのかもしれない。蓑田胸喜など、国体明徴を先導した狂信的な国学系統の学者がいる。
黒竜会の流れをくむ大日本生産党が一番大きな集団を形成しているようだったが、神がかり的な系列から、軍の対ソ強硬戦略と結びつく反共グループまで、雑居的だった。
少し後になるが、近衛体制を中心に構想された共同体運動がある。国民運動協会、日本建設協会などは国民共同体論のグループである。中野正剛の東方会や、橋本欣五郎らの大日本青年党グループもこの流れだ。
排英運動、日独伊三国同盟締結推進国民運動など、右翼団体の多くは軍や革新官僚と結んで、そのお先棒を担いでいたが、中にはそういう風潮を潔しとしないグループもあった。天野辰夫や影山正治などだが、これは神兵隊事件の系列に入る。この方が要注意だった。
156 しかし、こういう連中は政治結社というよりは一人一党的であり、本質的にアナーキストやニヒリストではないか。
右翼担当は、要視察人のところへこちらから出かけて行って話を伺うだけで取り締りはしない。(右翼には甘い。)治安維持法に抵触するような右翼の結社や運動がなかったからだ。
常時注意し、監視しなければならないような右翼の動きはなかった。
二課の人員や予算は多すぎた。
多くの右翼団体の資金源は、軍や官庁の機密費であったり、テロを恐れる財界からの寄付であったり、かなり潤沢だったようだ。それを沢山の予算をつけて監視していた。
157 右翼で問題なのはテロだけである。五・一五事件、血盟団事件、二・二六事件など、個人的であれ、集団的であれ、政府要人や財界の代表的人物が狙われ、殺された。上層部はそれを一番恐怖した。だから特高二課の組織も人員も拡充された。
二・二六以後、大きな事件はなく、一人一殺のテロもなかったが、殺人には至らなかった傷害事件はいくつか起こった。右翼はこういう事件を時々起こしておかないと商売にならない。(脅しの効果か。)やらせ効果である。二課は年々規模が大きくなった。
国家主義運動は軍との関係が深く、憲兵隊が乗り出してきた。憲兵隊が特高課をつくり、警察の特高課と対抗した。憲兵隊特高課の言う共産党再建運動とは、怪しげなビラを(自ら)刷って撒かせ、共産党がいると騒ぎ立てる。共産党は、街頭レポ程度の活動しかできない時期になっても、ビラを撒く限り、組織結成をするはずだが、憲兵隊特高課がつくったらしいビラは、撒きっぱなしで終わりである。
158 左翼と右翼を比べれば、私は共産党が好きだ。(嘘言え。)純真だ。理屈を言い合って張り合いがあった。私は労働者上がりだから、労働者の心情には共感するし、学生やインテリが労働者や下層階級の窮乏を救いたいとする人道的なものの考え方はありがたいと思ったから、人間的に彼らを好もしく思うことが多かった。
それに比べて国家主義の運動家の多くはガラが悪く、金ばかりせびる。右翼は大嫌いだ。右翼係で視察対象を引っ張る(検挙する)など、私しかしなかった。
昭和15年、1940年に係長になり、再度第一課に戻った時、水を得た魚のような気持だった。
私が右翼担当でいたとき、左翼方面では人民戦線事件後の大きな事件として、企画院事件があった。私が一課に戻った時、この企画院事件関連の検挙があった。
企画院事件*(判任官グループ事件1939と高等官グループ事件1940)が起こったのは昭和13年、1938年である。中村絹次郎課長は私に、内務省警保局の村田五郎保安課長から、「企画院事件は政治的価値のある素晴らしい事件だった、いいの(仕事)をやってくれた」と褒められた、と話した。(どういうことか。次の、検挙が出世に好都合という話と関係するのかも。)
判任官グループと言われた芝寛らは、玉川の東京時計製作所のストライキを指導しコミュニスト・グループをつくっていたのは事実のようだが、戦後社会党の農林大臣になった和田博雄などは、全然アカに関係ないと私は思った。
159 下の方には左翼的な動きがあり、人民戦線戦術に従って、社会改良的な上司を巻き込もうとしたが、それを上の方が「コミンテルンの目的遂行」としてとらえる動きには、政治的なものがありすぎた。それには軍部や官僚の上層部の勢力争いも影響していた。しかし、それは治安維持法という我々の本来の任務には関係ない。私はあのような事件は好ましくないと考えていた。
*京浜工業地帯の労働者が研究会をしていたら、警察に検挙1938.10され(京浜グループ事件)、その講師で企画院属の芝寛が逮捕され、その自供から出てきた企画院の中の認可研究会が警察に咎められ4人が検挙された。(判任官グループ事件)
企画院が発表した1940.10調査報告書「経済新体制確立要綱」の内容を財界が「赤化思想」と咎め、17名が検挙された。(高等官グループ事件1941)
判任官グループ事件では、芝は京浜グループと企画院内研究会の両方に関与したとして、実刑判決1940。それ以外は執行猶予付き有罪判決。
高等官グループ事件では3年間拘禁後保釈され、戦後1945.9、佐多忠隆を除き無罪判決となった。
さらに、高等官グループ(元職員)として満鉄調査部員の川崎巳三郎が検挙され、満鉄調査部事件*に発展した。
*満鉄調査部事件 ただ共産主義の前歴がある「前歴者」(転向者)という理由で憲兵隊に嫌疑をかけられた。(合作社事件1941.11、組織・運動は憲兵隊のでっち上げだったと判明2008.10。合作社とは農業協同組合。)
合作社事件の被検挙者で協力者の鈴木小兵衛や満鉄からの情報でリストアップされ、二次にわたり検挙された。(第一次満鉄調査部事件1942.9、第二次満鉄調査部事件1943.7)
44人中40人が起訴、4人が保釈。大上末広、佐藤春生ら5人が獄中死している。15名が保釈。残り20名中、2名が徒刑(懲役)5年、それ以外は執行猶予。
石堂清倫はスパイ(協力者)を断り、懲罰召集された。
取調べ中に作成された被検挙者の手記・意見書の一部が中国で発見され、公開されている。
中村課長は内務省のエリートだが、エリートの中には功名手柄を早く立てて出世したいという人が少なくない。大きな検挙をすれば、出世が早い。企画院事件後、警保局の保安課長から褒められたと中村課長が大喜びしたのは、出世できると考えたからかもしれない。
企画院事件や日本建設協会内左翼集団事件など、元共産党員やシンパによる合法擬装活動とされて検挙された者の中で、どれだけが実体のあるものだったのか、不確かである。
転向や疑似転向が問題になるが、私は人民戦線が転向の問題を特に分かりにくくしたと思う。(コミンテルンは、)社会民主主義的な政党や労働組合はもちろん、在郷軍人会や青年団にまで入って、党のためではなく人民戦線のために、会の一員として働けという従来のコミンテルン=共産党と全く異なった方針・指令を出した。
(共産党を)転向して働いているのか、人民戦線方針の実践として働いているのか、これは区別がつかない。
160 コミンテルンの人民戦線戦術の決定、それの指令である、岡野こと野坂参三と田中こと山本懸蔵による「日本の共産主義者への手紙」に従って活動しているコミュニスト・グループであると解するのかどうか、転向・偽装転向もそこに引っかかって分かりにくい。
私が係長になってからは、党再建というはっきりした目的をもち、その一環として活動しているコミュニスト・グループなら検挙しなければならないが、そうではなく、いろんな団体や組織に元党員やシンパが入っているだけでは検挙する必要はない、と言った。
日本建設協会や国民運動研究会のような、近衛体制周辺の東亜共同体運動の中に、元左翼の転向者が相当いるのを、共産主義者が明確な目的をもち連絡し合って潜入しているのではないか、と見れば見られないことはないが、私はそれは党再建とは見なかった。転向者が従来何らかの関係があった交友や人脈の上で職を求め、職を得たというに過ぎない場合が大半だったと思う。軍を中心とする戦時態勢への一枚岩的な編制という非常に強い要求があったが、民間に様々な団体があるのは当然なので、そこには自由主義者もいれば、共産主義からの転向者もいるだろう。それらを全て軍や新官僚の言う線にそろえて一色に釣り潰してしまうということは、実際にはできないだろうし、私は反対だった。それに、軍や革新官僚自体も単一ではない。ナチズムに影響された部分もあるし、狂信的に国粋的・神がかり的なものもあって、雑多なのだから。
感想 これは理解があるではないか。
五 ゾルゲ事件と伊藤律
一 日本共産党再建運動の動向
164 ――1940年、昭和15年5月、係長に昇進し、一課に戻り、右翼担当から左翼担当になったのか。
正確には、特高第一課第二係長だ。第一係長は課長が兼任した。おそらく機密費をもらう関係から名前だけ一係、二係とつけたのだろう。ただし、後に私が日本堤署長に転出した(昭和18年、1943年)後は、係長は二人になった。
私が係長になった日に、全農全会派出身のコミュニスト・グループの一人で、目黒署に留置されていた加藤四海が、取り調べ中に飛び降り自殺した。私は翌日の係長就任挨拶で以下のように訓示した。
*全農全会派は革命的反対派で、共産党の影響下にあり、小作人組合的運動から前進した。全農とは全国農民組合。
「現在の時局(日中戦争)を認識すれば、日本共産党の再建運動とスパイ活動の取締りを最重要にすべきだ。」
「加藤四海は取り調べ中に飛び降り自殺したが、これはただ共産主義者が集まって研究会をしているということではなく、共産党再建運動と理解すべきだ。我々は今支那と戦争をしている。帝国主義戦争反対や反植民地闘争の支援というスローガンを訴えるビラが撒かれていないからと言って、共産党はもう再起できないと考えるのは間違いだ。帝国主義戦争を内乱に転化するという彼らの戦術には、核になる党が必要であるはずだ。戦時下の共産主義者の任務の第一は、必ず党再建にあるはずだ。この時局下における共産主義者の活動は、すべて党再建運動としてとらえなければならない。」と強調した。
165 「それからもう一つ、我々が戦争をしている中国では、共産党が国民党と合作し、八・一救国宣言*を明らかにして、抗日戦争貫徹を推し進めている。この中国共産党の背後にはソ連共産党がいる。そこでこの中国とソ連の共産党に協力するスパイ組織として日本の共産主義者の活動が必ずあるに違いない。スパイは直接には外事課の管轄で、我々が逮捕したり取り調べたりしないが、共産主義者のグループを取り調べていれば、必ずこのスパイが出てくるはずだ。」と訓示した。思想警察も戦争という時局に添わなければならない、と私は考えていた。
*八・一救国宣言 為抗日救国告全体同胞書。1935年8月1日、モスクワにいた王明等、駐コミンテルン中国共産党代表団が、中国共産党と中華ソビエト共和国中央政府名義で発表した。中国共産党と中華ソビエト共和国中央政府が共同で日本の中国進出に対抗するよう(中国人全体に)要求した宣言。
二課にいる間も、「コミンテルンの目的遂行」など、あいまいで微温的なことではいけないと考えていた。
加藤四海は昭和14年、1939年11月に結成された共産党再建グループの一人だった。そしてそこから手繰って、クートペ出身の酒井定吉や、四・一六の被告だった山代吉宗、その妻の山代巴など、京浜地帯で活動していた46名を検挙し、壊滅させた。
166 これとは別に、1940年6月以降に、国鉄共産党を名乗るグループの検挙をきっかけに、党の再建をはかっていた岡部隆司、長谷川浩、伊藤律らを中心とする再建準備委員会の存在を突き止め、検挙した。そしてその準備委員会の中心人物の一人だった伊藤律が(警察のスパイとして)「洩らした」一言をきっかけに、昭和16年、1941年10月、ゾルゲ・尾崎秀実など、ソ連のスパイ団を検挙できた。
――そういう訓示の根拠に、企画院事件*158, 159などに注意していたことがあるのか。
多少の関心はあったが、具体的に事件の話を聞いたことはなかった。
昭和10年、1935年のコミンテルン第七回大会で決定された人民戦線戦術については注意していた。合法的な労農派、大学教授のグループ、文化人の集団などの動きにも、人民戦線戦術の一翼を担う「コミンテルンの目的遂行」という理屈で治安維持法が適用されたのだが、私は、人民戦線の核になる共産党再建の動きが共産主義者の間から必ず出てくるに違いない、と考えていた。
私は10人くらいのアンテナ(スパイ)を張った。警部補時代に取り調べを通して仲良くなっていた元の左翼に、何か情報をつかんだら教えてくれと小遣いをやった。
警視庁がまだ桜田門の中のバラック建てだったころ、私が特高課に配属された前後に、毛利さんの所に、「共産主義者の組織は共産党だけではない、その共産党でない別の組織の情報を持っている、それを200円から300円でお売りしましょうか」と連絡してきた人間がいて、日時と場所を決めて行ったが、相手は現れなかった、と毛利さんが話してくれた。
――アンテナについて 伊藤律や長谷川浩の党再建準備などがそのアンテナに引っかかって来たのか。
168 別のルートから入ってきた。伊藤律や長谷川浩、岡部隆司らを中心とする再建グループの検挙は「偶然」だった。
――検挙の端緒は国鉄共産党グループの活動からと言われたが、その前に、党再建準備の動きについて話していただきたい。
岡部隆司166らの党再建は、コミンテルンの人民戦線戦術と直接関係がある。コミンテルン第七回大会の後、コミンテルンは、クートペ出身の小林陽之介を帰国させ、この小林陽之介が、雑誌『インターナショナル』発行署名人だった叔父の小林輝次を通じて岡部隆司に連絡し、一方、(小林は)袴田以後の全滅状態の中での唯一の残留者長谷川博*に連絡する。岡部隆司らの再建準備委員会は、国際的・国内的にいくつかあった再建グループの中の正統派だったのだろう。
*長谷川浩076は第二無産者新聞の関係者だから、時代が違う。長谷川博と長谷川浩とは別人なのだろう。しかし、はっきりしない。「博」は3カ所にしか現れず、その後は「浩」になっているから、同一人物なのかもしれない。
無産者新聞 1925.9.26—1929.8
第二無産者新聞 1929—1932
赤旗 1932--
岡部隆司は少年時代から野坂参三の産労(産業労働調査所)の給仕をしていて、『無産者新聞』の編集に従事した。
小林陽之介から長谷川博への指示は、社会大衆党を中心とする反ファッショ人民戦線の結成、労農派との提携、大衆的雑誌の発行による啓蒙などが中心だった。当時長谷川博は、京橋の日本和洋酒罐詰新聞社に勤務していて、会社の謄写版を使って「新運動方針」を印刷し、日本旅行社という名称で、全国の無産団体に広く郵送した。その内容は、幅広い反ファッショ闘争の戦線に加盟しようというものだった。
169 そして軍部独裁反対、軍部の特権廃止、ファシスト将校の駆逐、言論出版集会結社の自由、軍事費削減、中国に対する軍事行動の即時停止、ソ連との不可侵条約の締結、労働組合・農民組合組織(結社)の自由などの闘争目標を掲げ、そのうちの一つでも賛成するすべての個人・団体と協同するというものだった。そして社会大衆党に門戸を開放しろと言い、こうした人民戦線戦術を貫徹してゆくための核として、党を確立しなければならないとした。
この準備会は、昭和11年、1936年末、岡部隆司、風早八十二、宮崎巌、平賀貞夫などが中心となって(結成され)、翌年1937年、これとは別に党再建をはかっていた長谷川浩、伊藤律らのグループを吸収した。
党再建運動には(他にも)いくつかのグループがあり、春日庄次郎らの日本共産主義団や、京浜の春日正一のグループは、人民戦線戦術以前の共産党に近い、中央集権的で硬直した組織を目指した。
この関西の(日本)共産主義団に属する京大ケルンの小野義彦らが連絡を取ってきたところ、岡部隆司らの再建準備会は、日本共産主義団の旧態依然とした再建方針を批判しながらも、一本化を図ったが、昭和13年、1936年、日本共産主義団が一斉検挙され、小林陽之介も大阪で検挙され、危険を感じた宮崎巌、平賀貞夫らはグループを解散して分散した。
その後、平賀貞夫ら何人かが満州に逃げていることが分かったので、満州へ手配して逮捕した。(満州共産党事件)満洲で逮捕され連行されてきた者の中に、横山楳(うめ)太郎という全協の党フラク出身の男がいたが、この男は転向して満州へ行くとき、私が餞別をくれてやった。
170 分散後、岡部隆司166は、長谷川浩や伊藤律らのグループに投じ、以後、党再建の準備にあたり、経営・工場・大学・高校などにコミュニスト・グループを組織し、その指導にあたった。
共青の活動家だった石村海三を責任者として、東大の学生を中心に印刷局を組織した。石村の上部機関に、戦後の党で中央委員候補になった保坂浩明こと金浩明がいた。石村は西園寺公望の主宰する国際問題調査会に勤めていて、ここで入手した文書、「独ソ不可侵条約(1939年8月)後共産主義者はどんな任務に従事すべきか」というコミンテルンの指示文書などを翻訳・印刷・配布した。
このコミンテルンの文書は、反ファッショ人民戦線戦術論文を書いたディミトロフが起草したが、独ソ不可侵条約後のコミンテルンの混乱ぶりが分かる。(いらんおせっかい)
この文書はおそらくコミンテルンが各国支部に与えた最後の指示文書だったのではないか。
――岡部、長谷川らの党再建準備運動グループが検挙されるのは1940年、昭和15年だが、伊藤律はその前に逮捕されていたのですね。
伊藤律は昭和14年、1939年の秋に東京商大の学生の取調べから、社研の読書会にこういう人が来ているという自白があり、11月に引っ張ってきた。しかし、伊藤律は学生グループが自白した以上のことは言わなかった。
171 ――伊藤律の自白から党再建グループの検挙になったのではないのか。
そうではない。伊藤律は黙秘で頑張ったため、私が一課の係長になった昭和15年1940年の5月でも目黒署に留置されていた。そのときはまだ岡部隆司のことは発覚していなかった。
――そうすると検挙のきっかけは何だったのか。
党再建準備委員会の発覚と検挙のきっかけは、杉並警察署管内の喫茶店の女給である。国鉄の労働者グループが会合などにその喫茶店を使っていたのだろう。その店の女給と彼らの一人が恋仲になり、男が「赤い本」を女に読ませようとしたが、女には難しくて理解できなかった。そのことが管内の受け持ち巡査の耳に入った。それがきっかけである。
交番からの注意報告を読んだ杉並署の特高係の藤井巡査部長が一課に連絡し、一課が内偵した。国鉄本社の工務部庶務課勤務の野本正治と分かり、野本を逮捕して調べると、東京、神奈川にわたり、国鉄内にグループをつくり、『赤い国鉄』という機関紙を発行していることが分かった。これが昭和15年、1940年6月である。
172 野本宅の家宅捜索から池田勇作が浮かんだ。この池田は、党再建準備委員会の東京地区の責任者で、その上に長谷川浩がいることが分かり、1940年6月から7月にかけて、池田や長谷川や60数名の一斉検挙となった。
伊藤律が長谷川浩らとともに池田勇作の上部機関であったことは、この池田や長谷川浩らの取調べから発覚し、伊藤はその段階になって初めてそれを認めた。
国鉄の連中は、労働組合運動について指導を受けるため、全協再建グループをつくっていた有賀勝の組織とも連絡していたので、その組織もつづいて検挙した。
――東京商大などの社研に顔を出した程度で、伊藤律の留置期間は長すぎるのではないか。
長すぎるが、それは本人が頑張っているからだ。(それは理屈にならない。)特高の側が握っている材料でも、伊藤は容易に出さなかった。それならばもっと他にも必ず何かあるというので留置したのではないか。(それは勝手すぎる)
それととくに労農派の検挙以後、長期留置を何とも思わなくなっていた(これは問題)という風潮があった。労農派を「コミンテルンの目的遂行」に該当させるために、特高の方が勉強会を開き、そのため長期間留置したのだろう。(泥縄。いい迷惑。)
173 私は自分が取り調べる人間は、29日間という拘留期間内に限ると決めて、そう努力した。私の調書は簡潔で、検事局から公訴維持のためもっと多くの材料を入れて、詳しく書いてくれ、と指示されたこともあった。
拘留期間が切れると別の署へ回す、あるいはいったん釈放の形式を踏んでからまた留置する、これは違警罪即決例で、署長の措置なのだが、不法行為を警察署長に要請するようなものだから、いけないことだと思った。法を守るべき警察官の職務が、そういう姑息なことで暗くなるのはやりきれない、と思った。昭和16年、1941年になって、治安維持法が改正され、検事の令状がなければ逮捕できなくなり、非常に良かったと思った。
伊藤の取調べは、私が係長になってからは、岩崎警部補から、伊藤をよく知っている同姓の伊藤警部補に代えて、ついに供述させた。
――有賀勝172の全協再建というと、神山茂夫の線でしょうか。神山茂夫の党再建運動は、伊藤律や長谷川浩の再建グループとどういう関係があるとみていたのか。
174 具体的な関係はつかんでいない。多分、それぞれがお互い警戒し合って別個に動いていたのではないか。
神山茂夫は、田中清玄の武装共産党当時、労働組合に対する党の指導方針に反対して、佐藤秀一や南巌077らと共に全協刷新同盟をつくって結束した。神山は自由労働組合を、佐藤は出版を、南は金属を握っていた。(全協)刷新同盟は、昭和5年、1930年のプロフィンテルン大会に南巌を代表として送り、全協側の紺野与次郎とやり合い、自分たちの主張をほとんど認めさせたが、分派活動を批判され、刷同を解消して全協に戻った。その後全協は32年テーゼの天皇制打倒をスローガンにして治安維持法の対象団体になり、共産党の壊滅と同じころに全滅した。神山は全協に戻った後も、天皇制打倒の党綱領の押し付けなど、党の全協指導に異議を唱えた。
私が一課に戻ったころ、神山らが全協再建・党再建で動いているらしいというので、片岡警部が担当して注意していた。神山や旧刷同系の連中を一斉検挙したのは、昭和16年、1941年末頃だったかな。
私はそのころゾルゲ事件の処理という大問題を抱えていたので、神山グループの活動内容など、あまりはっきりした記憶がない。
神山の所在を突き止めるのに片岡警部が神山の情婦の小河内芳子を尾行させ、江ノ島桟橋付近で神山茂夫と連絡するところを逮捕して、一斉検挙になったのだと思う。
(神山)グループの中心は、世話人会議の名で、神山のほか、佐藤秀一174、寺田貢などのメンバーで構成され、神山の弟の(神山)利夫、佐藤秀一と同じく刷同以来の同志である内野壮児や秋田実らが主たる活動分子になっているのを見ると、疑心暗鬼の状態に陥って壊滅した後の再建運動らしく、身内や旧友など心を許す者だけが寄り集っていたという印象だ。検挙したのは2、30名程度だったか。
二 伊藤律はスパイだったか
176 ――伊藤律は、『アカハタ』編集局が1953年9月19日に郵送で受け取った、日本共産党中央委員会の声明「伊藤律処分に関する声明」(9月15日付、資料三)で、スパイ・裏切者として除名された人物だ。今日まで消息も生死も不明で、戦後の共産党史の分からない部分の一つである。
敗戦の翌年1946年の春ごろ、自由法曹団が警視庁から取り出した文書の中に、伊藤律が北林トモの名前を告げて(ばらして)いることを示す書類が発見されたが、そのときそれは表面化しなかった。それが最初に問題になるのは、1949年2月に、アメリカ陸軍省が、ゾルゲ事件の経過と内容を説明した「ウイロビー報告」を発表した時であり、同報告は、ゾルゲ事件発覚の端緒をつくったのが、現日本共産党中央委員の伊藤律であると指摘したのだ。(陰謀臭い)
その「ウイロビー報告」を、アグネス・スメドレー*が、自分はソ連のスパイではないと名誉棄損で告訴したが、それに占領軍が対抗して、我々事件を取り調べた関係者に資料・証言の協力を求めてきた。
*アグネス・スメドレー1892.2.23—1950.5.6は米の女性ジャーナリスト。
日本でのゾルゲ事件判決では、彼女がゾルゲに尾崎秀実を紹介したとされたが、実際は、アメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局に派遣されていた鬼頭銀一が、ゾルゲに尾崎秀実を紹介した。
1933年5月、イギリスの警察はスメドレーをソ連のスパイのリストに入れていた。
1949年2月10日、米陸軍省は「ウイロビー報告」を発表し、その中でスメドレーをゾルゲの協力者・ソ連のスパイとした。
これに対してスメドレーは抗議し、その1週間後に陸軍長官は「ウイロビー報告書」を撤回した。
1950年、スメドレーは下院非米活動委員会から召喚されたが、その日にロンドンに飛び、その晩急死した。
その41年後のソ連崩壊後、スメドレーがコミンテルンから資金援助を受けていたことが判明した。
177 ――この「ウイロビー報告」に対して、当時の共産党は、米による反共攻撃だと全面的に否定した。(資料一、二)
しかしそれから4年半後の1953年9月に、「伊藤律は戦前・戦後を通じて一貫して警視庁のスパイだった」として共産党から除名された。
読売新聞の記者がその時私の所へ訪ねてきた。「共産党は戦後も伊藤律が警視庁の宮下弘と連絡してスパイとしての役割をつとめた」というがどうかと。私はそれは伊藤の自白以上に脚色されたものだろうと答えた。(資料四)
――この(伊藤律処分に関する)声明では、「彼は前後二度の検挙を通じて、多くの組織と同志を敵に売り渡した」と抽象的にあるだけである。ゾルゲ事件のことなどがはっきりと罪状として指摘されたのは、それから2年後の1955年9月14日の、党常任幹部会の「伊藤律について」(資料五)である。これはコミンフォルム批判1950.1以後の党内分裂や火炎瓶闘争路線から方向転換した六全協の2カ月後である。
ここで初めて具体的なことが取り上げられている。「伊藤律は共青当時の1933年に逮捕され、宮下の取調べを受け、その時完全に屈服して共青の組織を売った。また、1940年に党再建運動の十数名の同志を売り渡した。それから北林トモのこと。」
私たちは伊藤律のことを、戦前では、共青や党の組織を、それから尾崎秀実などゾルゲ事件の人々を、更に横浜事件関係者などを敵に売り渡してきたスパイ・裏切者であり、戦後には、党内で幹部として非常に大きな力を振るった男として考えてきた。現在でもそれが定説であり、一般でも、また共産党を除名されたり離れたりして、党と対立的な人たちも、伊藤律スパイ説については党の見解を認めていると思う。
178 宮下さんと伊藤律との初対面は、1933年、伊藤律が一高中退で共産青年同盟の活動をしていて最初に捕まった時ですね。宮下さんが取り調べたのですか。
それが初対面です。佐々川定次郎という、伊藤律と同じ一高中退の男が、共青中央の事務局員で、伊藤律は事務局長だった。先に佐々川が捕まり、翌日あたりに佐々川の住所かなにかで伊藤も逮捕された。
大崎警察署の留置場だったが、特高の部屋に連れてきて手記を書かせるのだが、伊藤律は「手伝いましょうか」なんて言って、管内居住者名簿の整理などを手伝う。如才ない。留置場の外にいる時間を稼いで、少しでも健康を保とうとしたんでしょう。
留置場でもすぐ牢名主になってしまう。与太者もじきに手名付けてしまう。支那そばを看守に要求して取らせる。不良連中は伊藤を兄貴分扱いしていた。
取り調べの時も、こっちに分っていると思うことは、全部しゃべる。分かっていないことは言わない。ちょっとした(こちらの)ヒントの示し方、におわせ方で、(こちらが)分かっているなと感じたら、しゃべる。しかし、自分からはしゃべらない。こちらでは分かっているが、わざと触れないでいることは、自分から絶対にしゃべらない。
――共産党の発表では、「伊藤律はこの時宮下に屈服して以来スパイだ」とされているが。
共青の事務局長は(党の中で)大した地位ではない。(警察によって伊藤の)転向が認められれば起訴留保にする程度の地位だ。共産党が除名理由で言うように同志を売ったのなら、当然起訴留保にするところだ。伊藤律も転向を表明したが、私にはそれが転向とは認められなかったので、起訴して拘置所へ送った。
自分の陣営に被害を与えない程度の陳述しかしない人間は、いくら転向しますと口で言っても起訴留保にしない。検事局や裁判所で転向を認めてもらうことはできるかもしれないが、私は認めない。刑務所で転向するように祈って送ると私は彼に言った。
――1935年4月、伊藤は懲役2年、執行猶予3年の判決を受けている。(ということは転向が認められたということか。)
伊藤律は(拘置所から)出てきてから、新井静子という日本女子大出身の共青同盟員と夫婦になったようで、二人の連名で私のところに挨拶状をよこした。私が二課(右翼係)にいたころである。
180 伊藤律は私に如才なくする一方で、長谷川や岡部らと党再建運動をやっていた。ずるい奴だ。
――1939年、昭和14年の暮、伊藤律は東京商大の社研の読書会かなにかの線で逮捕されたが、この時も宮下さんが取り調べたのか。
いや、伊藤が捕まったころ、私は二課(右翼係)にいて、全然知らなかった。
翌年1940年5月、私が一課に戻った二日目の5月9日、目黒署に留置されていた加藤四海が飛び降り自殺したというので、目黒署に行った。その時同じ目黒署に留置されて取り調べられていた伊藤律が私の姿を見かけた。この時伊藤を取り調べていた岩崎警部補から宮下が一課の係長になったと聞いたのだろう。
池田勇作172や岡部隆司166、長谷川浩らが7月に捕まって、その取り調べから、留置中の伊藤律も党再建準備運動の中心にいたことが分かり、その時点で、私の古くからの部下の伊藤猛虎警部補に伊藤律を取り調べさせた。前任の岩崎警部補は労働課出身で、インテリの取調べには適さない。伊藤猛虎警部補は一高・東大を所管する本富士署の特高係から本庁に来たベテランだった。
伊藤律が党再建についてほとんど供述した後の、7月か8月ころ、宮下さんに会わせてくれと伊藤猛虎警部補に言った。伊藤猛虎には伊藤律を外に出す権限がないことを知っていたからだろう。
(伊藤律にとって)加藤四海の自殺はショックだったに違いない。党再建の全貌が発覚すれば、戦時下だから一生外に出られないだろうと伊藤律は思ったのかもしれない。
それで私に頼んで保釈してもらおうとしたのだろう。伊藤律が「転向します」と言って(私に保釈を)頼んだことは事実だ。伊藤は「親に会いたいし、自分も体を悪くしている。宮下さんの顔をつぶさないから、出してくれないか」と言い、党再建準備委員会の活動をしたこともしゃべった。
私は伊藤律に言った。「長谷川浩、岡部隆司、池田勇作や、君(伊藤)が新井静子と別れた後に結婚していた東交の松本キミなどは、すでに逮捕されていて、みんなしゃべっている。それ(彼らがしゃべったこと)を今さら言っても、転向とは認めない。そんなことでは特別な計らいはできない。君が全部供述したと言っても、君がそういうだけで、我々は信用できない。戦争は熾烈になってくるし、刑務所に入れば出られないし、君の結核もひどくなって死ぬという心配は分かるが、出してやれない。」
伊藤律は「出たらきっと御奉公します。宮下さんのために働き(スパイ)ますよ。」
私は「君が労働者出身なら働いてもらうように仕掛けたかもしれないが、君がそんなこと(スパイ)のできる男だとは思っていない。『働く』とは党に被害を与えるようなことになっても働くという意味なのか。」と訊ねたら、伊藤は、「いや私は魂は売りませんが、宮下さんのために働きます。」
私は「私が君を外に出せるような話をしろ。こちらから聞かれないことで。よおく思い出してみたらどうだ。我々があっと驚くような話があるはずだ。」と言った。
伊藤律はじっと考えていたが、「じゃあ、こういうのはどうでしょうか」と言って話したのが、北林トモのことだった。
伊藤律「共産党ばかりあなた方は問題にしているが、アメリカのスパイについて注意していない。支那事変は米英の後ろ盾によって頑強な抵抗が行われている。アメリカのスパイがいますよ。調べてごらんなさい。」と北林トモのことをしゃべった。
伊藤の前の細君だった新井静子と同居している青柳喜久代の叔母で、昭和12年、1937年の暮にアメリカから帰国した北林トモという女がいる。伊藤律は青柳から北林を紹介されて、アメリカの共産党の話を聞かされた。北林は伊藤に言った。「日本の共産党は馬鹿だ。アメリカの共産党はアメリカ政府からも金をもらっている。」ただし、伊藤が言うには、「北林は自分がアメリカ共産党にいたとは言わなかった。またこの話はいろいろな話の中に混じっていたので、そのことだけを話したのではない。」
「そのおばさんが家を探してくれないかと言った。その家とは三方に道路があり、家の中から居ながらにして三方の道路が見えるような家だ。北林がもしアメリカ共産党員だったら、帰国後は日本共産党員として働かなければならない。しかし、北林は日本の党と連絡をつけ、日本の党に属しようとしている様子はなかった。だから北林トモはアメリカのスパイではないかと思う。」と伊藤は言った。
「北林トモを材料にして君を保釈する道を何とかつけよう」と私は言った。「ただ出てからは動静だけははっきりさせておいてくれ。また宮下に聞かせておきたいという情報があったら聞かせろ、魂を売る必要はない。」(すでに魂を売っているのではないか)と私は言った。
184 伊藤律が魂は売らないが、宮下に何らかの協力をするということは、将来こっち側に入るかもしれないという希望を持ってもよいと思った。それにこの男は惜しい男だから何とかものにしたいという気持ちもあった。
私は中村特高課長や検事局に(伊藤の保釈を)頼んだ。そして医師の診断書を出して、起訴留保になった。
――北林トモに関する伊藤律の情報は、結果的にはゾルゲ事件に繋がるのだが、当初は釈放に値する供述だったのか。
結果から見てびっくりしたのは事実だが、単独スパイなどあり得ない、必ずグループがあるに違いないと予感していた。
当時の反米・反英の風潮は非常なものだった。だから北林トモがアメリカのスパイだとしたら、大事件だし、私は、これはコミンテルンのアメリカ支部、つまりソ連のスパイだと直感した。アメリカ、ソ連の(スパイ)いずれにせよ、軍機保護法違反に該当するかもしれない重大犯人を告げたという評価になるので、十分一時釈放の理由になった。
185 また共産党再建運動関係者を捕まえたら絶対外に出せないというほど、その運動が大掛かりで脅威的なものとは考えていなかった。
また私は伊藤律が好きだから、出してやりたいと思っていた。敵に置いといても組織能力がある。味方につければ役に立つことがあるかもしれないと考えていた。
――青柳喜久代183は伊藤律たちの党再建運動に関係があったのか。
青柳喜久代は党再建で検挙した。昭和15年、1940年6月28日、新井静子183と同時期に検挙した。それは伊藤律が北林のことをしゃべる前だ。青柳喜久代は日本内燃機など、新井静子は石川島造船などのオルグとして働いていた。伊藤猛虎警部補が取調べた。
――青柳喜久代が北林トモの名を出したという説もあるが。
186 それはない。それだと伊藤は免罪となるが、伊藤律が話してから、北林トモを伊藤に紹介したかどうかなどのウラを青柳から取った。
――伊藤律は8月に釈放された後、満鉄調査部に復職したが、尾崎秀実の身辺を探らせたのか。
我々は尾崎秀実が共産主義者かもしれない疑わしい人物だと注目していたが、伊藤律を保釈するとき、彼を放せば尾崎の身辺が探れるとは考えていなかった。満鉄調査部には尾崎以外にもたくさん転向者ないし転向を偽装する人々が入っていたから、その中で「いろんな話」があることが聞ければそれは役に立つという考えはあった。それに伊藤律が(満鉄調査部に)復職できたのは、満鉄と伊藤律との問題であって、警察は関与していない。
こちら(警察)も伊藤律も、北林トモから、尾崎がゾルゲ事件の主役になって登場するとは全く分からなかったから、尾崎が焦点に当てられてはいなかった。
伊藤は恩になった先輩ということで尾崎を尊敬していただろう。戦後になって尾崎秀実の弟の秀樹が書いたもの(『生きているユダ』)などを読むと、伊藤が尾崎の私宅を頻繁に訪ねていたことが分かるが、当時は全くそのことを私に話さなかった。私が訊かなかったからかもしれないが。
187 ――伊藤律は保釈後、いろいろ情報を持ってきたのか。
彼に限らず、(保釈された者は)誰でも月一回は「視察」することになっていた。一カ月に一度は顔を出せということだ。伊藤は、私や伊藤猛虎などを警視庁に訪ねて来て、満鉄での仕事内容や自分の身辺のことを話した。
伊藤は私に、尾崎秀実の下で調査活動をやっていて、有馬頼寧や橋本欣五郎(大日本青年党155)などの国民再組織運動*のデータの検討をやっていると言ったが、私は興味なかった。伊藤からは左翼の情報はあまり聞けなかった。
*国民再組織運動 第一次近衛内閣1938の下で、全国民を地域・職域・性・年齢などに従って組織し、それを指導政党(前衛政党)につなげて、既成政党の基盤を掘り崩そうとした。第二次近衛内閣成立前後1940.7に、それが新体制運動として再燃したが、結局、大政翼賛会に取って代わられ、当初の企画は成功しなかった。
――左翼運動について敢えて聞かなかったのか。
私は、中村課長や思想部の検事には、伊藤の魂を買ったように思わせていた。伊藤は自分の知った情報を私にもたらすのだが、だからと言って左翼の言う裏切り的スパイではない。(それはおかしい。)
188 ――金を渡したのか。
一切なかった。
――私は、宮下さんの上司の元特高課長中村絹次郎氏から、宮下さんが伊藤律に毎月十の日に十円ずつ尾張町の交番で渡していたと聞いたが。
それは一般的な情報屋に対することだ。戦後伊藤律は共産党中央委員会書記局の実力者になったように、一高中退だが、頭脳は抜群であり、そういう人間は十円のはした金では使えない。
中村絹次郎さんが一度週刊誌の記者にそういう話(十円の話)をしたが、その時私は記者に応接しなかった。
特高課長は毛利さんの頃までは特高課員と一体であった。
189 しかし毛利さん以後は、大学出で高文をパスした課長が次々にやって来た。特高課長は内務省のエリート・コースの一つの椅子に過ぎない。私は、特高課員は体で、課長はその着物だ、着物はしょっちゅう脱ぎ変えると考えていたので、特高課長にすべてを報告してはいなかった。
「大丈夫です、役に立つから私が引き受けました」と課長に言って、伊藤を保釈した。真相を知っているのは私だけで、課長ではない。
――党再建や自分たちのグループについての情報はなかったのか。
当時は情報が一番大事だった。大本営発表はもっと後のことだが、日支事変などの報道は不十分で、本当の情報を皆が知りたがっていた。内閣の閣議に関することまで、流言蜚語が盛んに流れた。
190 伊藤律は満鉄調査部にいた。そこへは中枢部の情報が集まってくる。それを私に知らせた。(伊藤が私に話したことは)左翼運動の情報ではなかった。(伊藤がスパイではなかったことを言いたいのだろう。)
私は情報は嫌いだった。(前言と矛盾)飛びぬけて重要な情報なら別だが。(曖昧)
私は伊藤の釈放後まもなく1940年の夏ころ、信州の戸隠へ行き、伊藤律に会った。戸隠神社の近くの武田という寮であった。
近衛公が国民再組織運動を提唱し、大日本生産党の橋本欣五郎などから再組織案が出された。近衛さんはそれを尾崎秀実にやらせ、その尾崎秀実を伊藤律が手伝っていた。昭和13年、1938年に西園寺公望や牛場智彦に強く推されて、尾崎が近衛内閣の嘱託になった時、(尾崎が)「新体制」の機構づくりを立案していた。再組織運動も尾崎から出たものかもしれない。(ついさっきは、橋本欣五郎の発案と言っていたが。)
伊藤律がこの既成の政党に代わる政治団体や文化団体をつくって再組織する案の選択を戸隠でやっていて、それを私に見せた。私は宮田という名前で訪ねて行った。伊藤は一人で泊まっていた。
ゾルゲ事件で尾崎を調べた時、尾崎は「自分はあなた方が考えているようなスパイではない、自分は政治家である」と言い、共産主義を容認した日本と中国・ソ連との東亜共栄圏について話したが、その基盤となる日本の再組織化は尾崎が考えたのだろうか。私はそれは不可能だと考えていた。私は一晩泊まっただけで帰った。(何しに行ったのか。)
191 ――戸隠で伊藤律がやっていた仕事は、当時は重大なものではなかったのか。
そうだったかもしれないが、それは上層部による国民組織構想であり、私は興味なかった。伊藤は私が国民運動研究会に顔を出したことを知っていたので、知らせたのだろう。伊藤は「国民運動研究会は宮下さんがやらせているんじゃないですか」などと言って私をおだてた。
私は二課の時に国民運動研究会に行って、平井洋三とか平野宗と語り合ったことがあった。平野は共青の東京地方委員長で、平井は全協の党フラクションであり、二人ともスパイ容疑で除名されていた。平野は伊藤とも旧知で、伊藤は私が国民運動研究会に顔を出しているのを平野から聞いていたのだろう。
伊藤は私に、新体制下の農村組織の構想を書いたものを見せてくれた。伊藤は産業組合や農村問題に詳しく、農村調査に歩いたこともあった。その構想は橘孝三郎の愛郷塾のような感じがした。
192 伊藤律はそういう話を出せば私が乗ってくるのではないかと思ったのかもしれない。当時の特高の中にも、新体制や革新などの運動や構想や情報に飛びつく風潮があった。伊藤もその方面で(私の)役に立ち、ルートがあると言いたかったのかもしれない。しかし、私は関心を示さなかったが。
私が情報を好まないというのは、昭和11年、1936年から二課に移って、右翼の情報にうんざりしていたことがある。警察官がそんな政治的な情報を聞き込んでも仕方がない、我々の任務は治安確保であり、それに必要ならば情報も知らなければならないが、それ以外は興味がなかった。
そういう情報は上の方では喜ぶが、私はその種の情報は聞き流した。金と引き換えにその種の情報をしゃべる人間が嫌いだった。そういう情報を積極的に持ってこさせる人(警官)もいた。それを上にあげて喜ばれることを目標にして、そういう情報をたくさん仕入れて出世することもある。(伊藤律が満鉄に勤めてからは仲間を売ってなどいないということを言いたいのだろう。)
三 ゾルゲ事件――北林トモ・宮城与徳
193 ――伊藤律が北林トモの名前を出してから、宮下さんはどうしたのか。
米国共産党日本人部の名簿らしきものを思い出した。昭和11年、1936年以来、コミンテルンの指令的な印刷物が国際通信社などの名前でアメリカから日本に送られてきていたことと、在米の日本人共産党員との関連を注目すべきだと私は考えていた。
その名簿の中に北林トモの名前があった。私は、北林はコミンテルンの線に違いない、北林の上にはソ連と繋がる外人がいるに違いない、やっぱりソ連のスパイが巣食っているのだ、この一味を残らず検挙しなければ日本が危ない、と考えた。(民族主義者)
194 しかし残念なことに防諜の係は特高部外事課の所管である。中村課長は緒方外事課長(戦後、外務事務次官)に連絡した。
外事課は欧米係ソ連班の山浦警部と、その部下の宮崎警部補に調査を命じた。
北林トモは帰国後、渋谷区隠田のLAという洋装店に勤めていたが、間もなく夫の郷里の和歌山に引っ越した。宮崎警部補他一名が、北林が帰郷した和歌山県粉河町で張り込んだが、宮崎警部補は1年間何も報告してこない。手紙もよこさない、東京と往復したこともない。私は不満だった。
――外事課に渡すと特高一課では手が出せないのか。
縄張りを荒らすわけにいかない。特高から回したネタだから飛びつきたくなかったのかもしれない。こちらの期待するようには動かなかった。
195 慎重を期したのだろうか。一年経て「何も動きがなく、スパイの証拠を得られない」という報告で、外事課としては事件にできないということだった。私は心外だった。
もしゾルゲ事件の検挙が半年以前に行われていたら、支那の背後にいるのが米英ではなく、つまり、国共合作した蒋介石を援助して日本と戦争をさせているのが、米英ではなくソ連だということがはっきり分かったでしょうから、対米英宣戦布告などというバカげたことは、あるいは起こらなかったかもしれない。外事課の一年余の遅れは取り返しがつかない気がする。
我々(特高一課)は(容疑の罪名を)国防保安法ではなく、治安維持法でやろうということになった。
かりに北林トモの取調べで、軍機保護法違反などが発覚しなかったとしても、治安維持法違反の容疑はかけられる。検事局へは、国際共産党アメリカ支部日本人部員として北林を検挙すると報告し、拘引状を取った。アメリカの党員が日本に居住すれば、当然日本共産党に所属して活動するのが建前だから、治安維持法で逮捕できる。(強引な論理ではないか。)
ただし、北林の捜査が外事課で打ち切られた時、直ちに我々が北林を検挙する決定をしたのではない。
当時、特高一課では3・15被告だった田口右源太と、満鉄高級嘱託の尾崎秀実に、ソ連系スパイの容疑濃厚と目をつけていたが、どちらもスパイの証拠をつかめていかった。(この二人の、あるいは北林トモを含めて三人の)拘引後、取り調べが長引くと、他の被疑者が逃亡したり、証拠を湮滅(いんめつ)したりする恐れがあった。
それで第一の検挙者は、三人(北林トモ、田口右源太、尾崎秀実)のうち、最も共犯との連絡の機会の少ない者でなければならない、それには外事課が長期間張り込んでも動きのつかめなかった北林トモが良いだろうと協議し、それから彼女を拘引することに決定した。
196 ――田口右源太がソ連系のスパイではないかと疑う根拠は何か。
私が係長に就任してしばらくして片岡警部175が、自分の担当のところで一人おかしいのがいると報告してきたが、これが田口だった。田口は北海道の地主の息子で、共産党に入党した前歴がある。このころは海産物問屋をやっていた。
片岡警部の班の係員が視察先の泉盈(えい)之進という歯科医のところで聞き込んできた。そこに田口が政界の情勢や情報に詳しいと疑っている者(協力者・スパイか。)がいた。歯科医・泉盈之進は党のシンパで、本人も検挙されたことがある。田口右源太も、田口の素性を怪しんだ男も、この歯科医に出入りする左翼の前歴者である。
片岡警部の部下が尾行したところ、海産物を売り込むという口実で陸軍省や参謀本部にも出入りし、情報を交換する各種のクラブ、例えばジャーナリストのクラブなどへも出入りすることが分かった。コミュニスト・グループとしての動きはないようだから、党再建ではなさそうだが、とにかくおかしいと気をつけていた。
197 ――尾崎秀実に目を付けた理由は何か。
尾崎は近衛内閣の嘱託で、世間一般が支那事変の見通しについて、中国は国民党中心だから戦争も短期に終わるという観測をしていたのに、いやそうではない、中国は共産党が中心なので、日本との戦争は長期戦になると予想して、その通りになったから高い評価を受けていた。
私が二課にいるとき、外事課のアジア係にいたことがある六班長の段野警部とよく議論したが、段野は、中国のリーダーシップは蒋介石の国民党が中心だと言い、これに対して私は、西安事件後の情勢は中共が主導権を取っていると主張した。
特高一課に戻ってから聞いてみると、八・一抗日宣言*から後に中国に求められて訪中した人間(日本人)がかなりいるという。反帝同盟、文化団体、劇団関係…。それが昭和10年、1935年に集中している。私はこれは中共の対日戦争のための準備活動であろうと思った。支那との戦争下で、日本の共産主義者の中には、中国共産党と近く、それと連絡し合う線が必ずあるはずだと考えていたから、尾崎にも注意した。
*八・一抗日宣言 1935年8月1日、コミンテルンの方針で中国共産党が発した抗日統一戦線結成の呼びかけ。国共合作は翌年の西安事件を経て具体化し、37年の日中戦争勃発を受けて発足する。
198 ――尾崎の支那問題を中心とするジャーナリストとしての活動から、中国共産党あるいはソ連のスパイという疑いを抱いたのか。
総合雑誌や本での評論活動は目立ったが、それだけなら偽装した共産主義者という容疑であるが、私が尾崎を注意したのは、アグネス・スメドレーの『女一人大地を行く』を訳した白川次郎が尾崎秀実のペンネームであると聞いて、その本を読んでからだ。
スメドレーはアメリカでの白人社会主義者を信用しない、黒人の闘士だけを信じると言っている。中国へ渡り、朱徳の紅軍の中にずっといる。彼女は完全な国際共産主義者だ。尾崎がスメドレーの翻訳権を取ったということは、上海でスメドレーと接触したに違いない、と思った。尾崎は朝日新聞の上海特派員だった。
上海時代の尾崎にスメドレーを紹介したのは、鬼頭という共産青年同盟員だった男で、それからスメドレーがゾルゲを尾崎に会わせたと後になって知った。*(間違い)
評論活動よりもスパイとして尾崎を疑っていた。
尾崎の内偵を始めたのは昭和15年、1940年の暮頃である。
*日本でのゾルゲ事件判決では、彼女がゾルゲに尾崎秀実を紹介したとされたが、実際は、アメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局に派遣されていた鬼頭銀一が、ゾルゲに尾崎秀実を紹介した。176
199 ――白川次郎が尾崎秀実だというのは、伊藤律から聞いたのか。
伊藤律ではない、思い出せない。忘れた。警視庁に出入りする新聞記者の誰かだった。(思い出せないはずがない。)
――スメドレーの『女一人大地を行く』が出版されたのが1934年の秋だが、宮下さんが読まれたのは1940年ですね。
そうです。昭和9年、1934年ころにはもうゾルゲや尾崎のスパイ活動は相当出来上がっていたのだが、それに気づいていた人は誰もいなかった。
それに、これも後になって調べて分かったことだが、尾崎は朝日に入社してまもない昭和2年、1927年か昭和3年、1928年頃、評議会系の組合のメンバーになっていたらしいし、3・15で検挙された冬野という、東大を中退して非合法活動をしていた人物を匿っていたようだ。
尾崎が朝日新聞の入社試験を受けた時、支那は赤化するかという問題が出て、赤化すると書いたら落とされると考えてそう書かなかったと『現代支那論』か『支那問題講座』かの序文で書いているのを読んだことがあった。
200 ――特高課長だった中村絹次郎は『中央公論』の昭和14年、1939年1月号の尾崎論文(「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」)を読んで驚き、宮下係長に「尾崎はコミュニストであるからすぐ洗え」と言ったところ、「課長は鋭い」と宮下係長に褒められたとのことだがどうか。
中村さんは、大学教授やジャーナリスト、評論家などの論文を読んでチェックしていた。私はその手法は嫌いだった。それまで封じ込めたら日本の知識が貧弱になると思っていた。
しかし、昭和14年当時私は一課ではないし、係長でもなかった。中村さんの記憶違いではないか。
尾崎の東亜共同体論はいくつかあり、『中央公論』や『改造』にそのテーマの論文がいくつもあった。それは日独伊枢軸論だけではなかった。昭和16年、1941年3月の『改造』の巻頭論文(「東亜共栄圏の基底に横たはる重要問題」)に関して、「左翼臭い」という意見を私たちのところに持ってきた人間がいた。陸軍当局からも特高課長の方へ、「ああいう論文を書いている尾崎という男をやっちゃえ」と言って来た。
201 中村課長が「どうだ宮下君、やらんか」と私のところへ来たのだが、私は、「彼を引っ張れば、たちまちニュースになり、共犯者が逃亡する恐れがある。それに尾崎は大物だから、もし彼がスパイだとすれば、急速に最終の者に届く恐れがある。もっと遠くから例えば北林トモ辺りを端緒にして徐々にしぼっていくのがいいのではないか」と言った。(尾崎は)田口右源太195でも情報(源)の中に使っているような男だから、下手に検挙できない、近すぎる」と言った。(意味不明)
――1941年、昭和16年の春ごろ、軍が尾崎をやっちゃえと特高課に申し入れて来たとのことだが、それは雑誌論文とは別に軍が尾崎について何かをつかんでいたのか。
一つだけ話すと、同じころ(1941春)、海軍省が満鉄調査部に委嘱した軍機事項が外部に漏れているというので、海軍当局が問題にしていると私たちの耳に入ってきた。満鉄のごく少数の人間に配る調査部の資料を知っているのは尾崎や細川嘉六とか橘樸(はく)とか4人くらいの高級嘱託のグループだけである。
202 それで細川嘉六を(取り)調べた。細川は大原社会問題研究所の出身で、『改造』などにも尾崎と似たような論文を書いているし、マルクス主義者らしいと一応マークしていた。しかし、(取り調べてみたが、)具体的なものは出て来なかった。白川次郎こと尾崎秀実というような、合わせて一本というようなことは、細川についてはなかった。
あなた方が考えるほど、特高は(否私は)ただ関係があるというだけで、引っ張ってくることはない。私以外の人間が係長だったら、細川嘉六も、橘樸もあげられて(起訴されて)いたかもしれない。私は具体的な証拠がなければやらない。(北林トモの場合はどうか。米国共産党日本人部の名簿に北林トモの名前があったことが、治安維持法違反の証拠か。)
――海軍依嘱の機密調査漏洩の確証は上がらなかったか。
海軍省自体がこの秘密漏洩を隠していて、満鉄調査部内だけに叱言を言ったという情報だから、警視庁が調べるわけにもいかなかった。満鉄調査部には共産党前歴者が多数入っているから、突き止めるとすれば、本格的な捜査をしなければならなかっただろう。
――1940年、昭和15年の暮から尾崎を内偵し始めたとのことだが、それはこの海軍の機密漏洩(1941春)や陸軍の尾崎論文に基づく検挙督促(1941春)よりも早かった。
203 そうだ。おかしいぞと注目したのは早かったと思う。
――ゾルゲ事件が発覚したとき、水野成*は尾崎秀実逮捕の二日後に捕まったが、東亜同文書院以来尾崎と親しく交渉があった水野成を、この段階、つまり、1940年秋あるいは冬のころから、中国共産党につながるスパイ容疑者として内偵しなかったのか。
*水野成は水野成夫78, 80とは別人。234尾崎秀実が捕まった時、国策パルプ社長の水野成夫は宮下のところに出頭し、その時水野成夫に同伴した重役の南喜一が200円持参し、検挙を免れようとした。224)
それはなかった。水野は治安維持法違反で何度か検挙した前歴者として一般的な視察対象だったが、それを尾崎と結びつけてスパイ容疑をかけることはなかった。
またスパイは外事課の管轄だし、特高一課はそういう捜査に全力投球する暇がなかった。
――企画院事件では、最初、芝寛158や岡倉古志郎らが、1938年、昭和13年10月から11月にかけて検挙された。芝寛は東亜同文書院の出身で、企画院に尾崎秀実を講師に呼んで支那問題講演会を開催し、満鉄調査部にいた中西功の弟などと一緒に京浜地帯で活動した。
またこの企画院事件の続きで、1940年秋、小沢正元や玉城肇などが検挙されたが、小沢は元朝日新聞記者で尾崎と近く、尾崎の親友だった松本慎一の外事協会時代の同僚だった。
204 (小沢正元は)南巌の細君だった小沢みちの兄貴です。
――小沢正元は逮捕当時、中国大陸の中支振興会社に勤めていたが、これは軍の嘱託みたいなのでしょうか。一方玉城肇は、(逮捕当時)東亜研究所勤務で、中国と関係し、尾崎との関係もあった。1940年暮から尾崎を内偵したというのは、尾崎が企画院事件とつながりがあるのではないかと思ったのか。
企画院関係の残党狩りは片岡警部がやっていて、報告は受けていたが、あまりピンとこなくて、大して注意していなかった。私は党再建を追及していた。企画院→同文書院→中国グループ→尾崎と結び付けていけば手際よかったが、その時はそうは考えていなかった。
失敗談を申し上げると、外事課の欧米班は、鈴木という英語の良くできる女性を嘱託として使っていた。鈴木を紹介したのは元特高の山県警部だった。鈴木は元反帝同盟の一員だったが、逮捕されて転向した。ところが鈴木は宮城与徳106と接触を続けていた。宮城は危険と見て、連絡を絶ったようなのだが。
一方やはり宮城与徳と交渉があって、(宮城に)情報を運んでいたと疑える内閣情報局タイピストの明峰美恵子は取調べたが、鈴木の場合は、事実もはっきりせず、山県警部や外事課の顔を立てて、不問にした。
205 ゾルゲ事件で(成功したと言って)もあまり威張れない。昭和9年、1934年から活動していたのに、昭和16年、1941年になるまで気が付かなかった。
――1940年、昭和15年暮から(尾崎を)内偵していたといっても、具体的な事実をつかむまでにはいかなかった。
そうだ。尾崎についても、尾崎周辺についても、事件発覚以前にはほとんど何もつかんでいない。スパイは外事課の仕事だから、尾行もしていない。マークしていただけだ。
――尾崎は上海で中西功203に会った時、「近頃は身辺を警視庁にマークされているから、あまり会えない」と言ったそうだが、中西功には目をつけていたのか。
中西功などもすべてゾルゲ事件以後に分かった。水野成を取調べていて、それから中西功*(つとむ)や西里竜夫などの中国共産党員の検挙にいくので、それ以前はぜんぜん見ていない。(分からなかった。)(中西功が中国共産党と密通していたとはいえ、中西功を中国共産党員とするのは言い過ぎではないのか。)
*中西功1910.9.18—1973.8.18 日本共産党参議院議員。1929年、県費生として上海の東亜同文書院に入り、日支闘争同盟・中国共産主義青年同盟に参加した。1932年、帰国したがが、1934年に満鉄調査部に入り、大連に赴き、調査執筆活動を行う。非公然に、西里竜夫らとともに、中国共産党と通じていた。1942年、ゾルゲ事件関連で、中共謀報団として検挙され、死刑を求刑されたが、1945年9月、無期懲役の判決を受けた。占領軍の釈放命令により1945年10月釈放された。1947年第1回参議院議員通常選挙に日本共産党から立候補して当選した。1950年1月、所感派と対立して党を除名され、参議院議員を辞職したが、その後復党した。
206 ――中西功は満鉄調査部の「支那抗戦力調査」を仕上げてから東京に来て、1940年、昭和15年6月から7月にかけて、陸・海軍省や参謀本部をはじめ各省で報告講演をした。終わると警視庁が狙っているのを尻目に、軍の飛行機で中国にさっさと引き揚げた。それが警視庁を大いに口惜しがらせたと、中西自身が書いている。
警視庁のどこを指すのか分からないが、私らにはそういうことはなかった。
――北林トモの逮捕では、特高一課から誰が和歌山に派遣されたのか。
誰をやったかは覚えていない。和歌山県粉川町まで出かけて検挙し東京に連行し、麻布六本木警察署に留置した。
北林には高木という文化団体系の警部を担当にした。この高木警部は、三・一五の時、三田村四郎の検挙に浅草の六区に近い金竜山瓦町へ向かった特高係員中、先頭に立って三田村に撃たれて死亡した高木巡査部長の実弟だったが、この高木警部は警部補当時、赤坂表町警察署で特高主任を勤め、管内の「山下」という待合から情報を得て、兄を撃った三田村を鍋山貞親と共に検挙した。(復讐談)
北林は第一回の取調べでは黙秘していたが、一晩留置した次の日、取調べ室に連れてくると、すぐ自分から話し出した。
207 北林トモを麻布六本木署に留置したのは偶然だったが、北林は、宮城与徳が麻布に住んでいたから、宮城がすでに本署に検挙され、そのために自分が逮捕されたのだと思ったようだ。それで自分から先に宮城の名前を出せば、自分の方の疑いは軽くなると思ったのだろう。「宮城さんはスパイかもしれませんが、私はスパイじゃありませんよ」と先走ってしまった。
宮城などこちらは知らなかったが、高木警部が何食わぬ顔で「その宮城のことを訊きたいんだ」と言ったところ、北林は「和歌山にいるときに机の上に書いておいた動員関係の数字なんかを、宮城さんはいつの間にか持って行ってしまいました」としゃべった。
アメリカ共産党に(宮城与徳と)同時期に入党したこととか、亭主(北林芳三郎)は何も知らないのだが、宮城とは非常に親しい間柄になったとかも話した。(北林は)宮城が下宿している先の細君とおかしいと嫉妬していたらしい。また宮城が自分の名前を出したことを恨む気持ちになっていた。それで宮城のことを何でも話した。宮城がアメリカから持ってきた金は党の資金ではなく、絵を売った金だと思うとか、自分の方からどんどんしゃべった。(左翼なんて所詮その程度さ。)
米国共産党日本人名簿を調べたら、カリフォルニア在住の党員の中に宮城の名前があった。それで宮城の住んでいる家を十日間ほど張り込み、出入りする人間をつかんでから逮捕した。
家宅捜索したところ、官庁が調査機関に委嘱したような調査データがあった。宮城は押収された証拠品から、スパイであることを認めざるを得なくなった。
208 宮城は麻布竜土町の某未亡人の家に住んでいたが、画家という触れ込みで、その未亡人と懇ろになり、その未亡人の息子である大学生に書類の整理を手伝わせていた。検挙当時、その息子が、某調査機関が軍関係から委嘱された調査書類を整理していた、と報告された記憶がある。その学生は深く事情は知らなかったようだ。
書類を英文に翻訳する仕事のために出入りしていた秋山幸治は事情を知っていたので起訴された。秋山は北林トモの推薦で宮城に協力していた。
久津見房子は、宮城と同じ沖縄県人の真栄田(松本)三益あたりから宮城を紹介されたと思うが、久津見は山名正実、高倉テルなどを宮城に結び付けるなど、(宮城の)有力な協力者になっていた。
内閣情報局の嘱託タイピストの明峰美恵子も、久津見の紹介で、宮城のために情報を運んでいたと思う。久津見は明峰美恵子に宮城との結婚を勧めていたが、宮城は結婚したい女心を利用したようだ。
――牧瀬菊枝が久津見房子からの聞き書きをまとめた『久津見房子の暦』によれば、次の通りである。
宮城与徳に久津見房子を推薦したのは真益田三益で、共産党農民部で真益田三益と一緒だった高倉テルが、久津見房子を宮城与徳に引き合わせた。明峰美恵子と宮城与徳との結婚を提案したのは、柄沢(武田)とし子であり、それに対して久津見房子は、「普通のお嬢さんを危ないことに巻き込んではいけない」と反対した。
そうだったかもしれない。久津見房子は三田村四郎の細君で、三田村四郎は転向したが、久津見房子は非転向だと聞いていた。それでスパイ活動をしていたのだね。
昭和4年、1929年に殺された旧労働農民党代議士の山本宣治の従弟として知られている医学博士の安田徳太郎も、宮城与徳の「落ち穂拾い的な」情報網の一端を務めていた。安田徳太郎医師のもとに、陸海軍の将官・佐官級の将校も治療を受けるために出入りし、知らず知らずのうちに情報を取られていた。安田徳太郎医院は当時青山一丁目にあって、軍関係者の出入りに便利だった。
内偵していた田口右源太195は、三・一五事件で同じだった(同罪だった)北海道の山名正実の線から宮城与徳と繋がるようになったと記憶している。久津見房子・山名正実・田口右源太らは三・一五事件の前歴者であった。
宮城与徳は取り調べでスパイであることを認めざるを得なかったが、仲間については口を割らなかった。言わなければならないときは死のうと申し合わせていたと(宮城は)後になって言ったが、宮城与徳は築地警察署で取り調べの最中に二階から飛び降り自殺を試みた。拓殖警部補と酒井巡査が二人で取り調べていた時だった。宮城与徳は樹に引っかかってほとんど怪我をしなかったが、宮城を追って飛び降りた酒井巡査は大腿骨骨折の大けがをした。
「警察官は自分のように死のうとして飛び降りたのではない、自分を追って飛び降りた、日本の警察官は生命がけで職務にあたっている、自分は考え直した」と言って、宮城与徳は自白し始めた。(お人よし)(警官美談)
210 そして、尾崎秀実と分かる人物も、太ったドイツ人とか、大きなドイツ人とかも出てきた。外事課の外人リストで宮城の供述に出てくる外人を当たり、写真で宮城に確認させた。こうしてブーケリッチ、クラウゼン、ゾルゲなどが割り出された。宮城は尾崎の家に尾崎の娘の絵の先生として行っていたと言った。
――宮城与徳の供述以前にゾルゲ周辺に網が張られていて、それが(宮城の)供述を得て一斉検挙になったということはなかったのか。
本来はそうあるべきなのだろうが、実際はそうではなく、北林トモと宮城与徳の供述しか持ち合わせはなかった。
――なぜコミンテルンは北林トモとか、宮城与徳など、日本国内の事情や人脈をつかむのに不利な人物をアメリカから帰国させて、ゾルゲの組織に加えたのか、それに関して取り調べの中で何か分かることはなかったか。
211 昭和3年、1928年のコミンテルン大会の際、ゾルゲが建議して、コミンテルン情報部とソ連共産党中央に直属する情報機関とを分離した。*1しかしスパイ組織の成員はコミンテルンの指令によって、各国の共産党が人選して提供した。人選にあたっては、思想堅固で情報収集能力が優れた人物を選び、その際本人の希望は無視されたようだ。
宮城与徳は北林トモより先に帰国を命じられてゾルゲ機関に結びついたのだが、彼の供述によると、彼を入党させた矢野某が紹介した米人党員の指導者から、日本に帰国してスパイ活動に従事するように申し渡されたとのことだ。宮城は一旦これを拒絶したが、結局(米共産)党の決定に従わされたようだ。
宮城が選ばれた理由を憶測すれば、彼の実兄がそれ以前に入ソして、クートペに入っていたから、兄の推薦があったのかもしれない。また、彼の米国共産党内の同志小林勇も当時クートペに在学していたはずだから、その方からも保証されたのかもしれない。
これに反して北林トモは、米国共産党の人選によって帰国したのではなく、北林トモ本人の意志で宮城のあとを追うように帰国し、宮城の下で働くことを希望したと供述したように記憶している。
スパイの能力だけから選ぶなら、日本共産党員の中から人選すべきなのだろうが、日本の党はその時すでに壊滅していたし、残党も互いに信用できない状態になっていたし、党とスパイ機関とを分離するという1928年以来の組織方針*2とも矛盾するので、その方法がとられたのだと思う。
*1 1929年5月、ゾルゲはコミンテルンを離れ、軍事諜報部門である労農赤軍参謀本部第4局に所属を変更した。この所属変更理由として、ゾルゲ自身は、日本の検察の尋問調書において、コミンテルンでは諜報活動ができないこと、世界革命の見通しが裏切られたこと、ソ連における一国社会主義路線への転換などを挙げている。(ウィキペディア)
*2 この説明だとコミンテルンがスパイ組織になるが、それではウイキペディアと矛盾する。
四 ゾルゲ事件――尾崎秀実――
212 ――ゾルゲはオットー駐日ドイツ大使(陸軍武官補)と親交があり、またドイツは当時日本の盟邦であったため、神経を使わなければならなかったのではないか。また尾崎秀実は西園寺や近衛など政界の中心部や重臣に影響するところが大きかったのではないか。
検事局のゾルゲ事件係となった中村登音夫検事は、尾崎の一高・東大の学友で、中村特高課長は逮捕数日前に、尾崎の講演を聴いていた。また尾崎は内閣嘱託である。ゾルゲへの逮捕令状は、当時近衛内閣から東条内閣への交替時だったため、なかなか出て来なかった。検事総長のところでは、日独関係や政治状況をにらんでいたと思う。
――上の方でこの事件は特高の疑心暗鬼ではないかというような疑惑があったなどの問題は出て来なかったのか。
私は見当違いなことはしていないと思っていた。私の報告がそういう風に上層部で受け取られるとも心配していなかった。しかし危険だとは思っていた。尾崎はあちこち非常に大きな影響を及ぼす人間だろうし、ゾルゲはドイツ大使館に深く入り込んでいるから、ドイツとの友好関係にも響いて来る。これを一斉検挙でやってよいか、それは私の一存ではいかないと考えていた。
213 しかしぐずぐずしていたら、戦争の命運にもかかわる大事件をやりそこなうだろう。だからまず尾崎をやってみて、そこで確かめてから、ゾルゲをやるということにした。尾崎の方だけなら、以前論文で引っ張ってはどうかという話もあったのだから、警視庁が逮捕すると言えば、(検事総長は)すぐ令状を出しただろう。尾崎を逮捕することは近衛内閣だからと言ってそれほど苦労したとは思えない。
結局、外人を含む一斉検挙はだめになった。取り調べだけからでは証拠が出てこないだろうし、ゾルゲにドイツ大使館に逃げ込まれたら手が出せなくなる。ゾルゲはナチスの在日代表で、大使よりも実力者だった。結局尾崎を検挙することになった。
――宮下さんが尾崎秀実を目黒署で取り調べたのか。
逮捕に行ったのは、検事局から玉沢光三郎検事、警視庁から中村絹次郎特高課長ら、二十名くらいだった。私は行っていない。
連行してきて最初に検事の拘留訊問がある。これは、「治安維持法によって問いただすが、何か言うことがあるか」という形式的な訊問である。尾崎はそれに対して「私は治安維持法を犯した覚えはありません」と答え、それで書類に署名捺印して、検事と特高課長は帰る。宮下君、後は宜しく頼むということだ。
私は伊藤猛虎と二人で取調べた。
まず証拠調べをする。(尾崎が書いた)膨大な文書類はあるが、大した非合法の文書はない。
(尾崎秀実の)住所録の中から、共産主義運動の前歴者をピックアップした。伊藤律を始め、満州へ行った共青の佐藤晴生、右翼、政界人などはあるが、宮城与徳の名前はない。
取調べは型通りに人定尋問から始めて、そのうちに、「あなたの最も近い思想グループはこの(住所録の)中の誰か」と訊いた。「私は日独伊枢軸との関係を深くするのがいいと思う。国のあり方としては、古い政党政治を復活すべきでない。そういう思想で近衛さんに仕えている。だから私はあらゆる情報を集めている。特に支那問題については詳しく調べて、日本の政治に生かしたいと思っている。いろんな方面との交友はそういう必要からである。」
「あなたがしばしば会っているはずの人物の名前があなたのアドレスブックにないし、交友関係その他の供述の中にも出てこない。」それに対して尾崎は黙って下を向いて答えない。
そこで私は机を叩いて脅しつけた。「ソ連あるいはコミンテルンのスパイとして、いま君を調べているんだ。日本が戦争しているときに、スパイをやっている人間を容赦するわけにはいかんのです!」と私は言った。
そうしたら、彼はシューンとして椅子から崩れるようにずり落ちましてね。真っ青になった。そうして三十分くらい黙ってましたよ。
それから、「スパイ、スパイとそう決めつけないでください。」ようやくそう言って、椅子に這い上がってね。「私はただスパイをやった人間と言われたのでは浮かばれない。私は政治家です。政治家であることをまず認めてください。」
216 「君が治安維持法、国防保安法、あるいは軍機保護法に違反しているという、法の建前から取調べるのだ。君が政治家であるというのは君の主観的なことである。とにかく君は自分が検挙された本当の理由を知っているはずだ。」ここで私は初めて宮城与徳の名前を出した。「宮城とはどういう関係か」と。「ブーケリッチという人物も、背後にいるドイツ人もつかんでいる」と言った。
これは最初の日のことである。早朝に逮捕して、私は正午頃から取調べ始めて、夕方には落ちた。取り調べはその後も深夜まで伊藤猛虎と二人で続けた。やり取りは一々筆記しない。必要があればメモするくらい。調書は伊藤猛虎が後から取った。
――拷問は
私はそういうやり方は性格的にも反対で、(尾崎秀実は)いやしくも近衛さんの大事な人なんだから、拷問なんぞはやりませんよ。
検事局の方に、ゾルゲの逮捕を早く頼むと言い、外事課には、ゾルゲの検挙と取調べの準備をしてくれと連絡した。
217 宮城の供述でゾルゲが浮かんだとき、すぐ逮捕しようとしたが、検事局が宮城の供述だけでは危ない、もう一人というので尾崎を検挙して取調べを急いだ。
翌日になっても令状が出ない。私が中村登音夫思想部長検事に電話で怒っていたら、近衛内閣が総辞職した。10月16日だ。司法大臣が誰に代わるか分からないから令状を出せないということだった。私が日本の運命に関わる問題なんだと激しくやり合っていたら、司法大臣は留任ということで、令状をやっと出してくれ、16日にゾルゲを検挙した。東条内閣の発足は18日だった。
尾崎秀実の取調べは、伊藤猛虎から高木警部に、宮城与徳の担当は、拓殖警部補に変えた。また高木警部も間もなく他の課に転勤になり、その後に高橋与助警部が担当した。高橋与助警部は刑事部にいたが、中村課長が推挙して連れてきた。
218 ――ゾルゲ事件の関係で翌年の春捕まった海江田久孝は、目黒署の看守の話として、高橋与助警部が五日間にわたって尾崎にひどい拷問を加え、尾崎は取調室から留置場まで這って帰らねばならなかったと書いている。また安田徳太郎208も、『思い出す人びと』の中で、高橋与助という特高にいきなりひっぱたかれたと書いている。
ひっぱたく程度のことはあったかもしれませんね。(この感覚。一事が万事。)しかし、留置場まで這って帰るなんてことは考えられない。(嘘っぽい。)その日のうちにスパイであることを自白させたのだから、その後の取調べは拷問する必要はないし、するはずもない。
無電技師のクラウゼンは新橋烏森のビルでクラウゼン商会を経営していたが、日本に永住したがっていた。家宅捜索で打電内容を押収され、本人の自供も早かった。これのウラを取るために、相互の連関を細かく調書にしてゆくのは膨大な量で、かなりの時間がかかる。
――宮下さんは最初の日の尾崎以外は取り調べなかったのか。
219 係長は直接取調べない。総指揮である。取調べで弱いところがあれば指示し、たまりかねると担当者を交代させる。ただし、来てほしいという要請があれば、また取調べの内容や進行の状態から重要だと思った場合は出て行ったことはある。北林トモの顔を見ていない。宮城与徳は一度だけ直接取調べたことがある。
ゾルゲやブーケリッチなどは全部外事課で、ゾルゲの担当は大橋警部補だったが、ゾルゲに気を使って、我々が顔を出すのを嫌がり、(外事課にも恐れられていたことが分かる。)ゾルゲの機嫌を取りながら取調べていた。
――目黒署での取調べのあと、尾崎が東京拘置所に移されてからも、ずっと警察の取調べが続いている。ふつうは拘置所に移されると、検事の取調べだけになるのではないか。
昭和16年、1941年中にやれ(結論を出せ)という上からの意向もあって、大急ぎで進めた。厖大な調書なので取り残しもある。ゾルゲ事件の場合、尾崎やゾルゲの身柄をなるべく早く東拘(東京拘置所)へ移すことが急がれた。拘置所の方が警察、検事局双方の調べに便宜だということだけでなく、上層部には何かの意図があったと思う。
留置場にあまり長く置くことは、事件の秘密保持の点でまずかったが、それ以上に、政治的次元の問題、つまり、警察にだけ余りつかまれるのは困る、政治的情報に属するものが取調べの過程で漏れては困るということがあったのではないか。政治の上層部に被害や影響を拡大させることを恐れたのだろう。近衛公は検事局に極秘に調べられているし、西園寺公一*や犬養健*も警察に取調べられる事態になっていた。
*西園寺公一 ゾルゲ事件に連座して逮捕、有罪となり、公爵家廃嫡となった。参議院議員1947。
*犬養健 犬養毅の三男。法務大臣1952—1954。
220 検事捜査当局には、警察に広範囲に取り調べさせたくないという意思があったと思う。年内に終れという指導があった。警視庁は2月ごろまでとって、調べに万全を期したかったのだが。
――取調べられる側は近衛周辺にいて、日米交渉のいろんな状況や満鉄関係、中国・ソ連の情報などに詳しいのに、調べる側はそれほどの知識があるわけではない状況で、訊き出すのは大変だったか。
しかし、無電で打った内容はかなり詳細にこちらで押さえていたから、そういう材料で追及できた。
また一旦しゃべりだすと、彼らには単なる金銭的なスパイではないというヒロイズムがあり、自分たちが何をやろうとしたのか、やったのか、それを後世に明らかにしておきたいという心理も働いたのではないか。尾崎秀実は自分を政治家であると認めてもらいたがった。自分は中国共産党の毛沢東らにも信任されている政治家なのだと。
221 ――『特高月報』昭和17年、1942年8月分の120余ページにわたる長文のゾルゲ事件の報告書は宮下さんの文章だろうと思うが、「ソビエートロシア、及び中国共産党が覇権を握れる支那、並びにこれと提携しうる日本の新体制の実現のあかつきには、ソ連邦首脳及び中国共産党幹部の信頼厚き尾崎は、その首班たり得べしとの妄想を逞うし居たるものなり」と書かれているが、尾崎が首班になると言ったとは、ちょっと考えられないが。
独ソ戦は始まってしまったが、ゾルゲや尾崎は、ソ連は、日独伊と米英との戦いの圏外に立たねばならないと考えていた。
「帝国主義国が相互に戦って疲弊するのを待つ。日本も支那との長期の戦い、それから米英との戦争に疲れ、行き詰まり、やがて変革が起こらざるを得ない。しかし、日本国内の革命的勢力は弱いし、また米英との緊張関係の中での変革だから、独力では不可能である。ソ連と、中国で革命の主導権を握った中国共産党と、必ず力を合わせなければならない」と尾崎は考えていた。それで尾崎は「ソ連、中国と密接な関係を持つ自分が首班となる。それを考えてくれ、自分は単純なスパイではないのだ。」
222 「ゾルゲに従属してスパイの役割をつとめていたのではない、ゾルゲをキャップとするラムゼイ機関*の単なる一員としてのみ働いていたのではない。確たる政治的識見と将来への展望があっての活動なのだ」と尾崎は示したつもりだったのだろう。*ゾルゲのコードネーム。
――何をこの野郎と思いましたか。
複雑でした。彼が総合雑誌に執筆し、講演会で講演している東亜共同体論の裏の話という気もしたが、それよりも、政治家としては甘い共産主義者かなという印象だった。国民再組織運動などというものを通して日本に容共政権ができ、それが出来上がったあかつきには自分が首班になるという見通しは、簡単に考えられるのかどうか。そんな出来そうもないことをできると考えている。
昭和5、6年、1930年、31年ごろから私が取調べを通して接触してきたどんな共産主義者と比べても、尾崎は異質な印象だった。尾崎が川合貞吉*を身近において手放さなかったのは、自分が政権を取った時に彼を親衛隊の隊長として使うつもりだったとか、まるでナチスのような考え方だと思った。(国家の使われ者には尾崎の独創性が分からないのでは。)
川合貞吉(ていきち) 社会運動家。著述家。戦後GHQ参謀2部(G2)のエージェントとなっていたことが、21世紀に公開された資料によって判明した。
1941年10月22日、ゾルゲ事件で検挙され、懲役10年の判決が下された。1945年10月10日、GHQの政治犯釈放指令により釈放、出獄後著述活動に専念した。
――尾崎秀実が本当の共産主義者だったのか、彼の東亜共同体論がマルクス主義から見てどうだったのかは現在でも議論がある。
223 そういう(理論上の)議論より、我々から見て、彼ははっきりソ連共産党員であった。尾崎自身の供述によれば、彼はソ連共産党モスクワ地区の一細胞に属していると言っていた。コミンテルンでも、モスクワ地区コミンテルン細胞に属し、組織的にも財政的にも完全にソ連共産党の一部署に過ぎないと言っていた。
彼がソ連共産党に入党したのは、ゾルゲが日本へ来て、大阪にいた尾崎と連絡を回復して間もないころ、ゾルゲから、君のことはあちらに登録したよ、という言い方で、ソ連共産党に入党したことを知らされたと言った。
――尾崎が逮捕された時、周囲も最初は論文か何かが引っかかったのだろうという受け取り方だったのだろう。
尾崎の逮捕直後に近衛さんから東条内閣への交代はあるし、非常に大がかりなスパイ事件であることに疑いを入れる余地がないと分かると、一種のパニックのようなものが、支配層の一部にも、尾崎の友人、知人の間にもあっただろう。尾崎の交際範囲は広かったし、それぞれが相当の地位にあったわけだから、知らず知らずのうちに情報をとられていたと感じた人は、各界に多かったと思う。
だからそれらの人々は、特高が勢いに乗って捜査網を広げたら大変だという自己防禦が第一にあったと思う。年内に警視庁の調べを打ち切らせたのも、おそらくその現れだろう。
尾崎の身近な所では、朝日新聞の論説委員の佐々弘雄*なども、中村特高課長が、あなたは心配ないと太鼓判を押してやって、やっと安心したとのことだ。
*佐々(さっさ)弘雄 政治学者1922頃、ジャーナリスト、参議院議員1947。
1933年、近衛文麿のブレーントラスト昭和研究会に参加し、同じ朝日新聞論説委員の笠信太郎、記者の尾崎秀実らとともに中心メンバーの一人となり、また近衛を囲む「朝食会(朝飯会)」の主要メンバーとして近衛新体制運動の政治理論面を担当した。1934年3月、東京朝日新聞社に入社して編集局勤務、次いで大阪朝日新聞論説委員(東京在勤)となった。
224 ――佐々弘雄は慌てて沢山の資料や手紙を燃やしたとか。(ゴシップ調)
川合貞吉222を使っていた国策パルプ社長の水野成夫78, 80, 234と重役の南喜一78は、二人とも共産党から転向した前歴があるから、自分たちへの波及を心配したのか、二人で私のところに出頭してきた。
水野成夫は一高時代の尾崎の一年上で、尾崎は水野に頼んで川合貞吉を国策パルプに入社させたのだと思う。南は私に200円が入った紙包みを渡したが、私はすぐ返した。
――尾崎の一高時代の友人や朝日新聞の同僚をはじめ、ジャーナリズムで華やかに活動していた尾崎を知る人たちは、尾崎が共産主義者であったとは、今でも考えていないようだ。
それは尾崎がカモフラージュした面もあるし、また尾崎の性格や生活態度が、当時の共産主義者と違っていたこともあるのだろう。
――昭和史研究会や国民再組織運動などは擬装された共産主義であり、尾崎はその理論的指導者である、という疑惑が一部にあったのではないか。『矢部貞治*日記』にそういう記述がある。
矢部貞治1902.11.9—1967.5.7 政治学者、評論家。東京帝国大学法学部教授、拓殖大学総長などを歴任した。近衛文麿のブレーントラスト「昭和研究会」に参加し、外交部会長を務めた。
225 昭和研究会などは尾崎一人でやったわけではないから、尾崎の思う通りにならなかった。しかし、(尾崎が)内心では、容共日本をつくりだす機運を醸成していきたいということは事実だろう。それは既成政党を解散させ、解体した後、軍部をおさえれば、容共政権も可能だという擬装された共産主義といえる。
当時の愛国運動は革新運動といい、「英米撃つべし」という革新運動の反米・反英論は異常なほど強烈だった。その反面「反ソ」はほとんど言われない。血盟団事件以前は、愛国運動即赤化防止運動であり、ソ連は仮想敵国だったのだが。
ところが共産党が微力になり、転向者が東亜共同体運動に参加していったせいか、あるいは統制経済を推進する知能者として戦時態勢の中で重宝がられてきたせいか、「反ソ」の声は小さくなった。満州国建設、支那事変と時局が推移していくにつれて、転向者の能力が軍を中心として大きく買われていったようだ。当時の反英・反米機運をつくっていくのに、転向者はなにがしかの寄与をした。
一方国体明徴を唱える国粋主義的な人々を中心に、アカへの警戒があり、北一輝らの国家社会主義、ナチズムやファシズムをまねた運動、所謂革新官僚による国家総力戦的な体制づくりなどを、アカ呼ばわりした。つまり、自分たち以外の運動を無差別に「共産主義者の脅威」と言った。
226 革新運動の演説会の看板も「反米・反英」で、政府や将軍連中を「親英米派」と呼んで非難攻撃した。一方親英米派と言われた人たち(政府や将軍)は、国体明徴を唱えるグループとは違う意味で、擬装された共産主義を恐れていた。何がそれ(擬装された共産主義)なのかはっきりしていたわけではないのだが。(百花繚乱か)
――北林トモの名前を最初に宮下さんに告げた伊藤律は、自分の身近にいた尾崎秀実が検挙され、ゾルゲ事件に発展したことについて、どういう気持ちだったのか。
伊藤律は北林トモの名前を出せば尾崎につながると分かっていたら、北林のことを話さなかっただろう。伊藤は尾崎に世話になっている。満鉄への就職では、東大の土屋喬雄*の紹介で、尾崎に尽力してもらい、また岐阜の同郷で一高の後輩でもあり、可愛がられた。また、昭和14年、1939年の暮に伊藤が逮捕された時、伊藤はその生活を尾崎に依存した。起訴留保になって満鉄に戻ってからも、やがて起訴されて下獄しなければならないときには、家族の世話を尾崎に見てもらうつもりだった。だから伊藤は、尾崎の検挙後に私に会った時、えらいことになったと青くなっていた。
土屋喬夫(たかお)1896.12.21—1988.8.19 経済学者、東大名誉教授。1924年、東京帝国大学経済学部助教授。労農派。人民戦線事件に連座して大学を追われた。
227 ――伊藤律は北林トモが逮捕された日の翌日、つまり1941年9月29日、起訴留保を取り消されて久松署に留置されたが、それは北林トモと何か関連があるのか。つまり、北林トモの逮捕で伊藤律が尾崎に何か洩らすことがあってはいけないとして留置したのか。
伊藤を起訴・留置したのは偶然の一致である。(どうかな。)しかし、尾崎秀実の弟が書いた本は、その点(偶然の一致ではなく、伊藤逮捕が北林逮捕と関連すること)や、川合貞吉222が以前から特高に尾行されていて、それも伊藤律の線(伊藤が川合を特高にばらした)に違いないというが、それは違う。
――尾崎検挙後の伊藤律の感想は、久松署で聞いたのか。
久松署ではなかったはずだ。伊藤が警視庁に私を訪ねて来た時か、それとも、私が日本堤の署長になった時、栄転祝いの挨拶に、伊藤が署長官舎に私を訪ねて来て、一緒に飲んだことがあったが、その時だったか、はっきりしない。
伊藤は驚いていた。「尾崎がスパイ活動をやっていたとは思わなかった。自分は共産主義者だがスパイまでやろうとは思わない。(尾崎が)そんな(スパイをやるような)人とは思わなかった。尾崎さんには、『君たちは何かをやっては捕まっているが、捕まらないでもっとうまくやる方法はないのか』と言われたことがある。」と伊藤は言っていた。
228 そうして(伊藤のそういう態度から)みると、共産主義者がプロレタリアの祖国ソ連を擁護すると言っても、本音ではそうでもないともいえる。
――しかし伊藤律が青くなったのは、尾崎が単に身近な世話になった先輩だったという以上のショックを受けたからではないか。伊藤律が魂を売らないとしたら、ゾルゲや尾崎秀実はソビエト・ロシアのために働いたのに、自分はその連中を検挙させる役割をつとめたのだから。
なるほどね。祖国ソ連に被害を与えたと、後悔したか。(その気持ちは国家権力の犬特高には分かるまい。)
――ゾルゲ事件をやり終えた時のご感想は。
ゾルゲが落ちた時は、なかなか劇的だったという。着ていた上着を脱いで、椅子にたたきつけ、「負けた、日本の警察にはじめて負けた」と言って、それから全部供述した。やった、勝ったと、当時流行していた何とか節風の歌詞を私がつくり、振り付けを中村課長がやり、外事課と合同の席で歌って踊った。
229 やおらゾルゲは立ち上がり、ナチの上着を投げ捨てて、なかは真っ赤だ、敗北だ、日本警察、勝ちました…
このゾルゲ事件では、最初の糸口から全力で取り組み、これを勝利的に終結させることができたのは、神の加護であったと思った。特高冥利に尽きる。
東条首相がこれは金鵄勲章ものだと言ったと聞いたが、金鵄勲章も何ももらわなかった。私は内務大臣に呼ばれて話を聞かれて、百円もらった。
――スターリン批判後、ゾルゲは最高の国家勲章(最高ソ連英雄勲章)を贈られ、肖像入りの記念切手も発行された。ブーケリッチは第一級祖国戦争勲章を受けた。
内務大臣功労記章は生涯に一度しかもらえず、私は熱海事件の時に貰っていた。この事件では、特高一課からは北林トモを取調べた高木警部、宮城与徳を取調べた拓殖警部補、それとゾルゲ事件終了後、ゾルゲ事件から派生して発見した、中西功205らの中国諜報団事件の検挙で中国に行った小俣警部補らが功労記章を受けた。外事課の欧米係員でゾルゲを取調べた大橋警部補も表彰された。
230 ――伊藤猛虎警部補はどうか。『警視庁史』では「伊藤律は北林トモのことを伊藤猛虎警部補に洩らす」とあるが、宮下弘係長とは書いてない。作為があるのか。
作為はない。調書の担当者は伊藤猛虎警部補である。彼が、伊藤律が宮下さんに話したいことがあると言っているので来てください、と私を呼びに来て、私の介添えをするようにして(私は)伊藤律の話を聞いたが、係長(私)は普通は取調べをしない。
『警視庁史』にそう書いてあるとすれば、それはゾルゲ事件での功労記章の上申の報告を特高課から警務課に提出したものを元にしているのだろう。作為とか功を譲ったとかいうことではない。伊藤猛虎警部補も功労記章を受けている。
――戦後、ゾルゲ事件についてのウイロビー報告が出た後、当時の検事・特高関係者が呼ばれて協力を要請されたとのことだが、呼んだのはGHQの情報部GⅡだったのか。
占領軍のどの部門だったかは知らない。私は戦後、上野の某会社に勤めていたが、昭和24年、1949年4月ごろ、MPがジープでやって来た。中村課長にも来てもらっているからと、湯島の旧岩崎別邸に連れていかれた。そこは占領軍に接収され、本郷ハウスと言っていたところだ。ゾルゲ事件の資料を持っていないから協力を得たいという。
私は言った「私は特高警察官として長い間働いてきたために、あなた方の命令で罷免され、以後政治には絶対タッチしてはならぬことになっている。お尋ねのことに答えることは政治にタッチすることになると思うのでお断りする」と。
「まあそう意地を張らないで教えてくれ。ゾルゲや尾崎とスメドレー176との関係について証言できる人間が欲しいのだが、共産党員ではいけない、警察官でもいけない」と言うので、私は川合貞吉222を教えてやった。川合の本質は共産主義者ではなく、大陸浪人タイプで、ヒロイズムが強い。ウイロビーはおそらくスメドレーによる告訴を退ける証人が欲しかったのだろう。
ウイロビー報告は私が内務省に報告したものとほとんど同内容で、こちらが初めて知るような新しい事実はなかったと思う。ウイロビー報告の中に伊藤律の名前が出ているが、それはもともと私がゾルゲ事件の報告書の冒頭に、伊藤律が北林トモの名を告げたと書いたものからの引用だろう。伊藤が我々のスパイだったら、彼の名前など書かない。
232 ――その当時、ウイロビーたちは日共幹部である伊藤律に深い関心を持っていたと思うが、何か伊藤律について訊かれなかったか。
アメリカの関心は、米国内の防諜体制を固めることにあったと思う。伊藤律のことは付随的に起こった日本国内のショックであり、この時は全く訊かれなかった。
中村課長は本郷ハウスに一週間泊められて調べられたようだ。係長より課長の方が事件についてよく知っていると思われたのだろう。もし、(ウイロビーが)伊藤律について(スメドレーへの反論のためではなく)反共の目的で詳しく訊いたとしたら、もっと大々的に内容を公表していたのではないか。
本郷ハウスへ呼ばれて二カ月くらいしてから、ウイロビーが協力に感謝するということで、関係者20数名を招いてごちそうした。現職の警察庁長官や元特高課長から川合貞吉を取調べた警部補まで、大勢の人が集まった。
233 ――GHQからパージされたのに、特高の皆さんはGHQに協力したのだね。(特高関係者全員がパージされなかったのではなかったか。特に上層部は。)
ウイロビー少将が立ち上がって、「あなた方の協力のおかげでスメドレーの抗議は却下された。*スメドレーは今ではナイフで心臓をえぐられても声が出なくなりました」などとあいさつを述べた。
*これはウイキペディアの説明と矛盾する。ウイロビーの方こそその報告を取り下げたとある。176
五 中国共産党諜報団事件
234 ――中国共産党諜報団事件は、水野成*が糸口になったということだが、ゾルゲ事件を一段落させてから、水野だけを特別に引っ張り出して取り調べたのか。
*水野成(しげる)1910—1945 社会運動家。上海の東亜同文書院を反戦運動で停学となり、中退。帰国して大原社会問題研究所などに勤め、共産党再建運動に携わった。尾崎秀実(ほつみ)に協力し、昭和16年、ゾルゲ事件に連座。懲役13年の刑を受け、昭和20年3月22日、獄死。36歳。京都出身。
*水野成夫(しげお)1899.11.13—1972.5.4 実業家。フジテレビ初代社長。元日経連常任理事。元日本共産党員で赤旗(しんぶん赤旗)初代編集長。
1925年、日本共産党に入党。産業労働調査所所属。1927年、中国で武漢国民政府の樹立に参画。1928年、赤旗の初代編集長。三・一五で検挙され、獄中で転向を表明する。
出所後、1929年、コミンテルンからの離脱を宣言し、天皇制の下での共産主義運動を標榜する日本共産党労働者派(解党派)を浅野晃らとともに結成して、日本共産党批判に回るが、ほどなくして労働者派の組織・運動が消滅し、以後、政治活動から離れ、翻訳業に就く。
水野成夫と同じく転向者の南喜一と、国策パルプの出資による大日本再生製紙の経営を、陸軍軍事課長の岩畔豪雄から任される。
尾崎秀実の取調べの中で、尾崎の口から水野成のことが尾崎第一の側近として出てきた。そこで水野成に関係する中国在住の東亜同文書院出身者などを尾崎に追及したら、尾崎は、「水野からいろいろな人間の名前や動きが出てくるだろうが、中国関係と、自分とは関係ない」と言った。
尾崎は、「水野は中国になら多少関係があるかもしれないが、ゾルゲや自分たちの諜報活動にはタッチしていない」と言ったが、それが却って中共の線との関係をにおわせる結果になった。
私は中国共産党につながって日本の情報を向こうに手渡している諜報組織があるに違いない、と思っていたが、特高一課としてその究明に取り組めていなかった。ところがゾルゲや尾崎のスパイ活動を摘発することによって、やはり尾崎周辺の疑わしい人物を検挙して、この線を徹底的に洗い出さねばならないと思い、ゾルゲ事件と平行して、またそれを一段落させた後、この中共の線を追及した。
235 水野成は東亜同文書院の学生のころ、全学ストライキの活動分子の一人だった。この全学ストライキのときの自治会長だった安斉庫治や中西功203, 205らと、水野は中国共産主義青年団の東亜同文書院学内細胞をつくって活動し、昭和6年、1931年に退学処分になった。
尾崎が朝日の上海特派員だった時に、このグループが尾崎の話を聞きに行き、水野は尾崎に可愛がられた。水野は退学後日本に帰り、ゾルゲ事件が発覚するまでの10年間、大原社研や東亜協会、昭和研究会事務局などに就職したが、その面倒はすべて尾崎がみてやった。
尾崎の交友関係の中から中国共産党の線を洗い出すには、水野成をおいてないとして、水野を調べるように河野警部補に指示した。(証拠がなくても容疑だけで逮捕か。)
河野警部補は大人しくて使えないので、(鬼の218)高橋与助警部に代えた。「尾崎は水野が中国共産党との連絡を担当していたと自供している」と水野成にはったりをかけたら、水野は簡単に一日で落ちた。水野は中西功と連絡を取っていたと言った。
連絡は中西功だけだとしても、中西功につながるグループがあるはずだ、と追及したところ、西里竜夫や安斉庫治も(水野成の口から)出てきた。
中西功は満鉄調査部にいて、事務所を上海の憲兵隊の建物の中に持っているくらい信用があった。中国側の情報を教えてやると言っては、憲兵隊の動向をつかんで、それを向こうに教えていた。
西里竜夫も軍嘱託として派遣軍の中に入っていた。
――水野成はずっと日本にいて、上海にいる中西功や、南京にいる西里竜夫の活動内容が分かったのか。
中西功は内地・上海間をしばしば往復していて、その時に必ず水野成に会っていたから、東亜同文書院、満鉄、東亜協会などの中国情勢は分かっていたはずだ。
警視庁特高課は水野成の供述から、中国で中西功を検挙するに足る容疑事実を得た。
南京へは片岡警部を、上海には田中警部を責任者とし、それぞれ数名の班を組んで派遣した。現地の憲兵隊の協力を得て、上海で中西功を、南京で西里竜夫を逮捕して取調べたら、中国共産党の上級とのつながりも分かった。
西里竜夫は軍嘱託・同盟通信出向社員として、国民政府宣伝部直属の中央電訊(じん)社に入り、またそれと同時に中共党員として李徳生や汪錦元らの党細胞にも入っていた。汪錦元の母親は日本人で、日本名を大橋とかいった。西里らは南京政府主班の汪兆銘政権の動静をつかんでいた。
西里はこの他にも、陳という中共党員を中央電訊社の記者として採用させた。人材を採用するという名目で懸賞論文の企画を立て、それに同志陳を応募させ、お手盛りで当選させていた。傀儡政権に乗り込んだ軍嘱託という身分だから、そういうことができたのだろう。
237 西里は軍と共に行動し、軍が移動する場合はそれに先行して現地の中国側の情報を収集して軍に報告した。その軍功により勲章をもらうところだったが、その勲章が届く前に逮捕された。
中西功は満鉄調査部の「支那抗戦力調査」で軍から信頼されていた。
西里竜夫は東亜同文書院当時から社研をやっており、卒業して上海日報の記者になり、その時、尾崎と知り合っている。
安斉庫治も東亜同文書院の出身で、逮捕してみたところ、安斉庫治は中西功らのグループから離れて、蒙古での特殊任務に従事していたようだ。安斉の実兄が軍の要職についていて、大事に使っているのだから、あれは釈放してくれという要請があり釈放した。釈然としなかったが、軍と衝突してもつまらないから釈放した。
中西功らが連絡を取っていた上海機関の中共の人物の一人を取り逃がした。張り込みを外事警察官に頼んでいたのだが、勤務時間が終わったら帰ってしまった。こちらは張り込んでいてくれるとばかり考えていたのに。上海の憲兵隊はよく手伝ってくれたのだが。
――憲兵隊の二階に事務所を構えていた中西功を東京から特高が来て捕まえたので、憲兵隊は面目丸つぶれになり、その名誉回復のために、満鉄事件*をやったなどと言われているが。
238 それは分からないが、顔をつぶされたことは事実だ。
*満鉄事件 1940年7月に協和会の平賀貞夫が日本共産党再建グループの一員として逮捕されたのが契機となったと言われるが、憲兵隊による満鉄調査部への本格的な追究は、1941年、昭和16年秋の合作社・協和会関係者の別件逮捕過程に始まった。満鉄調査部でそれぞれの部署を得て調査活動に従事していた旧左翼関係者数十名が、1942年9月から翌年1943年7月にかけて逮捕された。
*満鉄調査部事件(ウイキペディア) 満鉄調査部は1939年に拡充されて人員が増強され、日本内地で活動の場を失っていた大学卒業以上の左翼からの転向者が、多数満鉄調査部に就職した。彼らはマルクス主義的方法で社会調査・分析に従事し、関東軍憲兵隊を中心とする満州国治安当局から監視されるようになった。合作社事件1941.11、第一次満鉄調査部事件1942.9、第二次満鉄調査部事件1943.7とある。
――要視察人が召集されて軍隊に入ったとき、特高は憲兵隊に通報して以後の監視を憲兵に委ねるのか。
それはなかった。軍隊は軍隊で身上調査をし、特高と憲兵隊との連絡はなかった。憲兵隊が訊きにくれば教えただろうが。軍と警視庁は冷たい関係で、当時は軍が威張っていたから、警察は圧迫される立場だった。
軍の方が何かにつけ介入してくる。「協同体理論はアカの理論なのになぜ取り締らないのか」とか、社会大衆党の新党準備とか、取り締れと言ってくる。特高の方は治安維持法に触れなければやる気がしない。また一つの事件にあたるには、内偵や準備など手続きが必要だ。しかし軍の方は自分たちの目障りになるものを取り締まれと言ってくる。
――中国共産党諜報団事件では、中国人を連行して取調べるのに、中国側と何らかの交渉をしたのか。
交渉の必要はほとんどなかった。上海でも南京でも軍の占領地だから。(この発想はおかしいのではないか。)汪錦元や陳一峯グループは汪兆銘政権の内部に食い込んでいたが、汪兆銘側から抗議がなかった。
239 汪兆銘は(我々日本の特高が)汪錦元を連行するときに姿を見せ、「全部正直に話してきなさい」と言ったという報告がある。軍と憲兵隊の協力を得て逮捕すれば、連行してくるのに苦情は出ない。(力の論理か。)連行してきた中国人の取調べは外事課に渡した。
――『特高月報』昭和17年、1942年十月分によれば、六月末時点で日本人8名、中国人16名(を逮捕)、うち現地で7名釈放、1名自殺とあるが、この自殺に関して何か記憶はあるか。
全く記憶にない。この事件の報告書は私が書いたのだが。(都合の悪いことは忘れたふりをする。)逮捕した中国人を外事課に任せたためかもしれない。
――中国諜報団事件はかなりの大事件だったのか。
相当な事件だった。南京の汪兆銘政権の内部に日本人の参加した中国共産党の組織が潜り込んでいて、南京政府を強化して中国の統一と日支和平を図ろうとした対支政策の根本が、延安の共産党に筒抜けになっていた。
重慶の蒋介石は、日本と戦争をしながらも、中共をつぶしたいと考えていたから、南京政府のことを「漢奸だ、傀儡だ」と言いながらも、(蒋介石・汪兆銘間の)反共連絡線はあっただろう。日支間の和平工作は複雑だった。それを全部失敗させて、抗日戦争を徹底的に続けるという延安の毛沢東の方針を、李徳生や陳一峯、西里竜夫などが実行していた。しかも現に戦争している軍の内部にいて、軍の嘱託として信頼を得ながら、(日本の)中国政策や(日本)軍の占領行政を妨害して、中共のために日本人が活動していた。昭和12年、1937年以来、日本の兵隊は何万も死んでいるのだから、これは重大なことですよ。(中国の兵隊も同様に死んでいた。)
240 しかしこの中国諜報団事件を、支那派遣軍はどうだったか知らないが、こちらの上の方はあまり注目しなかった。ゾルゲ事件で大ショックを受けた後であり、また太平洋戦争に突入していった時期だったこともあるかもしれないが…
その意味で私は不満だったが、活動舞台が中国内だから、取り調べの材料も不足で、十分にいかなかったからしかたない。(どういうことか。)
中国共産党が日本人を組織して諜報団をつくっているに違いないという確信は、昭和10年、1935年の八・一抗日宣言の時から持っていたが、結局この東亜同文書院出身のグループしか摘発できなかった。
しかし、特高二課くらいの人員がこちらにもあれば、もっと別の動きもキャッチできたと思う。一課の人員は二課の半分足らずだった。
――係長時代、そのほか何か記憶に残っている事件はあるか。
私は共産党の方だけを追及するのに熱心だったが、特高課長の中村さんは、もう少し世間の耳目を集めるような事件をやりたかったのだろう。主任連中を集めた会議で、「何か大きいところで漏れていないか」と言った。
241 昭和15年、1940年8月、村山知義や八田元夫など、新協劇団と新築地劇団の幹部40人を検挙し、両劇団を解散させた。プロレタリア演劇同盟は昭和9年、1934年に解散していたのだが、解散後も劇団の名前を変えて、左翼演劇運動をやって来た連中が、大劇場の中で堂々と芝居をしている。それを咎めた。
細川ちか子など人気のあった俳優がいたから、世間の耳目を集めたかもしれない。文化運動を担当した経験のある高木警部が担当したと思う。
――1942年、昭和17年9月に、細川嘉六が『改造』に発表した論文「世界史の動向と日本」を理由に警視庁に逮捕された。これがのちに横浜事件*に発展するのだが、細川嘉六の逮捕に記憶があるか。
*横浜事件 1942年、昭和17年9月、細川嘉六を『改造』に発表した論文で検挙した。
そして細川周辺の満鉄調査部員や『中央公論』と『改造』の編集者グループと、同時期に神奈川県特高課がスパイ容疑で逮捕した川田寿夫夫妻の世界経済調査会関係者とを、富山県泊町における細川の著書の出版記念会の写真を根拠に結びつけ、これ(出版記念会)を、共産党再建を謀議したものとして、50余名を検挙・取調べた。
拷問などにより、3名が獄死した。1944年、昭和19年7月、両誌は廃刊命令を受けた。
覚えていない。あれは中村課長のあとの秦課長だったかな…。ゾルゲ事件、中国共産党諜報団事件ときて、昭和17年、1942年の後半は、それらの残務整理が中心で、何もしていなかったという記憶だ。(加害者は忘れる。)
ただその翌年1943年、私が日本堤署長になってから、私の後任の片岡係長から、「神奈川県の特高課で細川嘉六を中心にした共産党再建運動という事件をやっているがどう思うか」と相談というか、感想を聞かれた。(覚えているじゃないか。)私は、「その件について神奈川県特高課長の松下さんから話を聞いているが、見当違いではないか、そんなこと(党再建)はありそうもない」と返事をした。事件内容の概略を聞いても、そんな顔ぶれでは党再建ということは考えられないという感じだった。
242 片岡係長も私の意見に同感だったと思う。警視庁はあの事件に否定的(立件できない)だったに違いない。
――治安維持法の大幅な改正が行われたが、特高警察の現場ではどうだったのか。
昭和16年、1941年3月の治安維持法の改正で、それまでの7条が60数条にふくれ、広い範囲の運動が対象にされたことから、大変な改悪だと言われるが、特高一課員としては、運動実体に対する取締りに何の変化もなかった。私たちは共産党再建運動取締り一本やりだった。
ただ、改正治安維持法では、刑事訴訟手続き、とくに治安維持法違反の検挙・留置・捜索に対して、必ず検事の令状を要することになり、これは私の考えと一致した。これで捜査のための不法拘留という不愉快なことをしなくて済むようになり、検事局としても、治安維持法違反の被疑者に対する警察の捜査を、警察犯処罰令や行政執行法のような行政警察法の故意の誤用でやらせていたことを、打ち切ったので、遵法上の前進だった。
243 ただし、改正は、大神宮*に対する不敬のような、類似宗教方面にとっては重大な影響を及ぼしたかもしれない。キリスト教系の灯台社や日蓮正宗系の創価教育学会が検挙されるという事態が起こったのは、この改正があったからだろう。
*伊勢神宮のこと。伊勢大神宮という。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。
私が宗教係をしていたときも、灯台社は英米に本部があり、すべての悪をカトリックに帰し、その福音の全世界への普及によって、ハルマゲドンの戦いが起き、やがて死者が蘇り、キリストの国ができるという主張が問題になっていた。私はこれはユダヤのシオニズム運動のようなものと考えたが、当時その一方で、四天王中将や犬塚大佐などは、すべての悪はユダヤにありとして、反ユダヤ運動を公然とやっていたのだから、相殺して面白いと思っていた。
狂信者はその反対者を全面的に許さないが、そのような非寛容は日本的でないから、どちらも大した政治的脅威にはならないだろうと多寡をくくっていた。灯台社のエホバの証言の信者が、最低生活に甘んじて布教する献身は尊敬した。それを検挙対象にすることなど全く考えたこともなかった。
創価教育学会について 私が宗教担当だったころ、日蓮宗系の類似宗教の視察に回っていた島巡査部長から、「静岡県下で日蓮正宗という日蓮系で一番小さな宗教の信者団体で非常に狂信的なのがあって、本体の正宗の制止を聞かず、神檀の廃棄などを信者に強要している」という報告を聞いたが、これも検挙対象とは私は考えなかった。
244 治安維持法が改正されて、私の後の宗教係警部がそれらを立件し、灯台社や創価教育学会の検挙があったようだ。その警部の姓が木下だったため、戦後私は創価学会の幹部数名の訪問を受け、追及的な質問を受けたが、氷解して帰った。
六 特高罷免の日
一 警察署長の記
248 ――警部から警視に昇進し、特高係長から今度は警察署長に転じられた。
私が初めて署長に行った日本堤署は、署員50名くらいのBクラスの署であった。吉原遊廓とドヤ街が管轄内にあり、犯罪発生率も高い方だった。よそで犯罪を犯してきた人間が、遊廓やドヤ街に来て検挙される。検挙率は300%超となった。
遊廓の業者は怪しい客が金を全部使い果たした場合、通報してくる。金を持っている間はお客だから通報しない。そうして(通報して)警察に点数を稼ぐ。
ドヤ街でも、ばくち打ちが情報を持ってくる。そうして彼らは警察に協力する。刑事も彼らを利用して犯罪捜査や検挙をやる。私が若いとき保安係でやくざの親分や貸座敷業者を徹底的に締め上げたやり方は、若気の至りであった。(スパイ活動の奨励)
私が日本堤に赴任したら、吉原遊廓を(私が以前勤めていた南)千住みたいに痛めつけられては困ると思ったのか、府会議員がさっそく会計の視察という名目でやって来て、いろいろ牽制していった。警察財政や警部補以下の給料は東京府から出ていたので、警察は府会の警務委員会に頭が上がらなかった。
249 当時の警察署長には広範囲の権限があった。衛生、営業、風俗、保安、司法、警防(警防団*など)、工場、建築…などが警察署長の所管行政で、一番恐れられたのは、警察罪即決例を持っていることだ。また外郭団体があって、署長はその頂点に位置した。区長よりも警察署長の方が偉い。営業・風俗では業者に、工場・建築では事業主ににらみをきかせておれる。
*警防団 1939年1月の「警防団令」を根拠に、主に空襲あるいは災害から市民を守るために作られた団体。警察や消防の補助組織。
また署長交際費がわずかだが出る。それは署員を褒めて50銭とか20銭とか出すときなどに使う。外出するときは署長専用車に乗って威張れる。当時は自動車と言えば、警察署に一台か二台くらいしかなかった。
――特高畑から一般警察への転出は珍しくはなかったのか。
特殊ではなく、ごく普通のケースである。日本の特高は通常の警察業務と異なる特別の研修や訓練を経た要員で構成した政治警察や秘密警察ではない。
私は巡査から始めて警視になり、警察署長になった。これは高文の有資格者を別にすれば、最高の出世である。戦後、警視庁史編纂委員会が出した『警視庁史』によれば、昭和17年、1942年の警察署数は91で、署長の多くは警視だが、月島、谷中、尾久と三多摩地方の各署と島嶼部など10数署が警部の署長だった。
250 私が昭和4年、1929年に特高係になったときの(特高係の)警部の場合、係長の石井警部が三河島署に(転勤後警部署長*)、南警部が京橋署に(転勤後警視、以下同じ)、山県警部が三田署に、千速警部が洲崎署に、庵谷警部が鳥居坂署に、いずれも警視に昇進して出ている(転勤している)。中川警部は警視になってから経済警察課長に栄進したと記憶している。
*警部で署長だったということか。
警察の階級と役職
警視総監
警視監(県警本部本部長)
警視長(県警本部本部長・部長)
警視正(県警本部部長・警察署署長)
警視 (県警本部課長・警察署署長)
警部 (県警本部課長補佐・警察署課長)
警部補(係長)
巡査部長(主任)
巡査 (新人・係員)
私の前任の志村特高係長は、麹町日比谷署に、私の後任の片岡係長は監察官付を経て、滝野川署に、いずれも警視となって赴任した。私が赴任した日本堤署の前任署長は、特高二課の係長だった関口警部だ。特高出身の署長は極めて普通のケースで、おそらく警務畑出身(の警察署長)と拮抗していただろう。
特高は、警務、保安、衛生、交通、刑事などの部門と同じような一つのセクションに過ぎず、戦後誤り伝えられているような特殊の組織ではない。特高になるのも、そこから転じるのも、警察内の人事異動の一つにすぎない。(ということは警察そのものが特高的性格を持っているということだ。)
私は警察署長になることがやり甲斐のある仕事だと思ったから、特高畑に執着しなかった。
私の署長在職時に、日本堤署の犯罪検挙率が300余%になったが、これは東京一であった。おそらく全国一だったのではないか。私は交通巡査の検挙一件に対する内賞をはずんで奨励した。もっとも遊廓の周辺から不審尋問による検挙者を多く出すことは、貸座敷業者が喜ばないことだったが、公娼制度は廃止すべきだという私の希望を、そういう形であらわした。そのことを口には出さなかったが、これは巡査部長当時に千住遊廓に対してしたのと同様の姿勢だった。
僅か11カ月で荏原(えばら)署に転じたのも、成績を上げたことよりも、貸座敷組合長の同業防衛のための政治力だったかもしれない。日本堤署の遥か前任の署長・吉永時次は、この当時(宮下が日本堤署長だった当時)の警視総監だった。
――荏原(警察署)と日本堤(警察署)とではずいぶん違いましたか。
荏原警察署管内には大きな軍需工場や中小工場などがたくさんあり、それらの工場の産業報国会が主催する「産業戦士を激励する会」などに出て行って、生産増強を一席ぶった。それも警察署長の務めだった。(権力の末端)また町内会の早朝ラジオ体操の会へ出て行ったり、小学校の講堂に学区の人たちを集めて戦意昂揚の講演会をしたりした。
まだ空襲のないとき、「東京の空にもいつ敵機が現れるかもしれない、警戒してもらいたい」と講演したら、地区の有力者に海軍の退役将官がいて、日本の海軍をなんと心得るかとねじこまれたこともあった。
このころ、東京全体を四つくらいに分けて、防空態勢を中心に治安・警備の確立を図る計画があり、警務部長を総隊長とする実践的訓練を開始した。その第一目標に選ばれたが、その時、突然、富山県の特高課長への転勤を命じられた。
二 富山県特高課長
――富山県特高課長への異動は警視庁人事ではないのだろう。
私は警察練習所以来警視庁に所属してきたが、ここで内務省の採用になった。全国的に歩く内務省人事に乗ったのだ。これは例のないことではないが、少なかった。千速さんは宮崎県警察部長に栄転し、毛利さんは佐賀県警察部長、終戦時は埼玉県警察部長だった。(この二人も遠方の勤務をしているから、内務省人事に組み入れられたということか。)
私が荏原警察署長を5カ月だけで地方警視に転じることになったのは、異例だった。
表日本の工業地帯が空襲で被害を受ければ、裏日本が重要になり、工場地帯として富山県が重要だから、治安も重視してもらいたい、と富山県の警察部長から要望があったという。
また当時の内務省警保局長が町村金吾*で、この人は警保局長になる前に富山県知事だった。私は町村金吾から直接に「富山県の警察官は、革新官僚に牛耳られていて、非常に右傾化している。健全な警察に戻してもらいたい」と指示を受けた。当時富山県出身の枢密顧問官に有力な人がいて、この人が内務省を動かしたとのことだ。(その結果宮下自らの富山県特高課長への人事があったということか。)
*町村金吾1900.8.16—1992.12.14 内務官僚、政治家。東京帝国大学卒。戦後は内務省復活論者。社会主義陣営に対して防衛力増強を求めた。
254 あの頃、「天皇の警察」とか、「革新の警察」とかをしきりに高唱した人がいたし、その共鳴者もいたが、あれは革新官僚と同時に時代便乗型だったのではないか。「バスに乗り遅れるな」という言葉はこのころ流行したようだ。
富山県での革新官僚問題は大したことはなかった。警察官が政治的にある方向に向かって教育されたり、動いたりするわけがない。上層部が革新官僚で占められ、その色合いがつよかったから、そうしていただけで、上が交代すれば元に戻る。
富山は私にとって生れて初めて東京を離れた勤務場所であった。警務課長も兼任した。特高課長は警察部長に次ぐナンバー2である。警察部長と特高課長を除く警察部の各課長や署長は皆地元の人である。私は短期滞在のよそ者であった。
『北日本新聞』の関係者が、新聞の編集保方針の是非をしょっちゅうお伺いにくる。私は新聞社内の人事にも口を出せる立場にいた。私が「あの記者はちょっとおかしい」と言えば、すぐ配置転換するのではないか。警察部長は(警察以外のことでも)かなり発言しているようだった。(私は警察課長)私はあれでいいのかなと思った。私は警察以外のことでは新聞社に口出ししなかった。(権力の思想・生活面への介入が行われていたことを示唆する。)
255 ――どんな仕事があったのか。
敗戦まで1年4カ月富山にいたが、ほとんど何もしなかった。それより食うのに困った。行列をして雑炊食堂で食べた。配給と警察署長が持っている外食券の割り当てを分けてもらった。県庁の食堂でうどんを食べた。警察官としてヤミはしなかった。
生まれて20日目の赤ん坊を死なせた。もう一人、終戦の半月前に栄養失調と疫痢で3歳7カ月の娘を亡くした。三男も寝込んだが助かった。三男は戦後東大文学部を卒業した。
一方、隣の官舎の県の会計課長は豪奢な生活をしているようだった。
中国人労働者が港湾人夫として働かされていて、それを監視した。作業中にもっこを放り出す者もいたようだ。何度もそういうことをした男を取調べたら、中国共産党の指令を受けている、富山駅の爆破計画もあると言っていた。その男は起訴になった。それ以外の労務者は問題視されたが、そのまま働かせた。
256 敗戦直後高岡で影山正治*直系の右翼が、終戦反対、聖戦継続のビラをまいたので、流言蜚語で捕まえた。
影山正治(まさはる)1910.6.12—1979.5.25 右翼。思想家、歌人。父は国家主義者の影山庄平。国学院大学卒。1940年4月、米内光正首相らの暗殺を計画した皇民有志決起事件(七・五事件)を首謀し、禁錮5年の実刑判決を受けた。
父・庄平は1945年8月25日に代々木練兵場で大東塾生13名と共に割腹自殺を遂げた。
正治は1979年5月25日、元号法制化を訴え、大東農場で割腹の後、散弾銃で自決した。
大日本生産党富山市部は県に対して時々要求を言った。
一人の県会議員が、国や県が躍起になって推し進めていた食料増産政策を画一的だと批判し、適地適作を唱えて抵抗したが、警察はタッチしなかった。
三 敗戦・特高一斉罷免以後
257 8月15日正午の天皇の放送を特高課で聞いたが、茫然自失に近かった。情報に疎かったせいもある。
8月1日の夜、富山はひどい空襲を受けた。私は県庁の屋上で知事と空襲の情況を見ていた。焼夷弾が火のふすまのように夜空に広がって降ってきた。私の子供が死んだ翌日だった。富山市内で焼け残ったのは、県庁とほんの少しだった。
8月15日の朝、知事に頼まれて、郊外の連隊司令部に行き、司令官に、「今日の正午、重大放送があるので県庁までご足労願いたい」と言いに行った。司令官は黙って聞いていて、ただ一言、行きますと言っただけだった。
数日前から戦争に負けたという情報が、出入りする政治浪人みたいなものから入ってきていたが、そんなことはないはずだと私はそれを否定していた。確かな知らせを知事から聞いたのは、前日だった。
放送が終わった時、「戦争に負けても治安の維持に一層努めなければならない」と訓示したが、みんな虚脱したようになっていた。泣いている者もいた。
特高課の運命はどうなるのか、治安維持法の取り扱いはどうするのか、中央から何も言って来なかった。9月になり、東京での特高課長会議に出席した。
中央では地方と違って情報の過多だった。当時の内務省保安課長は、戦後自民党代議士になった岡崎英城で、右翼に偏っているような判断が多かった。希望的観測が混じるのは仕方がないが、偏った情勢分析だった。「占領軍の中心はアメリカ軍で、ソ連の利益になるような措置をとるはずがないから、治安維持法も特高警察もそのまま残る」と言う。
258 私は新米の部類だったが、発言した。「自分は富山県にいるから中央の方々に比べれば情報が十分でない。しかし外国の例から見ても、戦争に負けた国は、戦争責任を問われ、政治犯は全員釈放するのが普通だ。日本の場合も、政治犯・治安維持法違反者は釈放されるだろうし、今後治安維持法での検挙はなくなると考えるべきではないか。」と質問した。
それに対して岡崎英城保安課長は、「いや、治安維持法は厳として存在する、共産党員は検挙せねばならない」と答えた。「不敬罪もですか」と訊くと、「そうだ」と。錚々(そうそう)たる高文合格組の特高課長が居並んでいるのだが、誰もそういう肝心な質問をしない。
ところが富山県に帰って来たら10月4日に一斉罷免となった。保安課長にそのことが予測できなかったとは不思議だった。
内務省保安課が地方の特高課に指令するのだが、敗戦後はほとんど指令らしきものが来なかった。こういう無能な保安課だったから、10月4日、特高課に所属していた者たちがタイピストから運転手に至るまで一斉罷免されたときも、保安課は追放されなかったのかもしれない。
259 そのころの富山では、共産党や旧無産政党系の再建運動や農民運動再起の動きはなかったが、そういう連中の動きを見ないうちにこちらがパージされた。
戦争に負けて、私は治安維持法による検挙は見合わせなければならないと考え、特高課の廃止もあるだろうと思った。富山地検の古屋という検事正は私の考えに同意したが、正式の意思表示はなかった。
一斉罷免の前に、特高課全員の名簿を提出するように中央から言ってきた時、私は特高課の廃止があるだろうと予想していたので、三月に異動があった幹部級で兼務者であるとか、勤務年限の少ない人は名簿から省こうと警察署長に言ったが、「全部出せと言ってきているのだから、その通りにする」と言われた。
それで10月4日、特高課在籍者は全員罷免となった。直前まで特高課にいた者でもこの時点で他に転じていたら罷免に該当しなかった。中村特高課長は昭和17年にビルマの司令官になって出ていき、終戦当時は厚生省住宅局かどこかにいたので無事だった。もっとも中村課長は後にゾルゲ事件に関与した者としてパージされた。
その逆もあり、富山県農務課長だった人は、岡山県特高課長の辞令が出て転任して行ったが、その人は1カ月で首になった。私は形式上は休職処分となり、翌年春に依願免職になった。退職金、恩給、何らかの同情金もやってはいけないとされた。その他細かい禁止指令が一杯あった。
260 保安課には何のお咎めもなく、そこからの指示に従っていた特高課が、会計係に至るまで罷免されるなんておかしいではないか、と私は言ったが、内務省の方では大きな声を出してくれるなというのだ。
それでも私は占領軍に陳情書を書こうとした。県の特高課へ来た次席は、特高に入ったばかりで日が浅いのだから。しかし本人は「もういいです。私は土方にでもなりますから」と言う。
私も、もう国や警察のことを考えるより、自分のことを考えねばならないと思った。
警察生活25年、45歳だった。
――その後すぐ東京へ戻ったのか。
いや。官舎は空襲で焼かれ、仮住まいの間借りを出て、妻の郷里の静岡県磐田郡豊浜村に引き上げた。もう人間を相手にする仕事はいやだ。妻の実家なら漁師もできるし、農業もできる。
家族七人で天竜川の近くのそこに移った。着のみ着のまま転がり込んだので、妻の家族はあきれたようだった。
261 豊浜村には戦時中から疎開者が大勢入っていた。百姓をしている妻の兄貴の家の納屋のような小屋を借りた。私の家族はみな足が皮癬(ひぜん、疥癬。ヒゼンダニの寄生によっておこる)にかかっていた。若干の貯金があったので食いつなげたが、そのうち預金封鎖で、500円生活になった。
農地改革の(を受けない)ためによそ者には耕地を貸してくれなかった。漁師は漁業組合で鑑札を出していて、よそ者を締め出した。小さな村に入り込む余地はなかった。
東京の土地は借地だったから東京には何もないが、豊浜村にもいられない。私だけが東京に出ることにした。敗戦の翌年の春だった。(1946年春)家族は1949年まで豊浜村に残っていた。
――警察や旧特高関係で職探しはしなかったのか。
内務省や厚生省の外郭団体とか、縁故を頼って訪ねて行って頼めば、どこかに職を見つけられたかもしれないが、もう警察には関係したくないと決め、父がもと働いていた鬼怒川変電所の縁で、鉄道電気工事株式会社の技士をしている人に手紙を出して頼んだ。
262 なんでもいいというのなら来てみろ、ということで面接をうけた。給料は特高課長当時より一級下げた額を言って、採用された。1946年5月ごろだった。
私は敗戦後も絶対にヤミ物資を買わなかったため、栄養失調で痩せこけていた。
電車の中で偶然、昔共青同盟員だった小松雄一郎090に会った。小松は後に日共の臨時中央指導部議長になった。私は戦前腸結核で入院している小松を見舞いに行ったことがあった。小松と一緒にもう一人いて、その男は私を知っていたが、私は覚えがなかった。二人は「宮下さん、どこかで一杯やろう」と熱心に誘ったが、私は断った。「君たちの方は愉快だろうが、こちらはだめだ」と。
鉄道電気工事は、上野松坂屋の別館という焼け残りのビルの四階にあった。北海道から鹿児島まで全国に営業所や出張所があり、国鉄の電気工事を請け負っていた。国鉄の定年退職者が大半で、稀に外部の者を縁故採用していた。国鉄一家に属する会社だから活気はないが、つぶれる心配もない。
最初は調査室に回された。焼け残りのビルのバラックの事務所を改造するという名目で、国から復興事業資金の融資を受ける仕事だった。そのあと総務課とか厚生課とかを回って、昭和35年、1960年秋まで15年間勤めた。
途中で日本電設という名前に変わったが、国鉄の定年が55歳、それから5年そこで働けるようになっていて、定年は60歳だ。私は定年の時は本社の管財課長だった。日本電設はその後発展し、株式も一部に上場され、池ノ端に大きなビルが建っている。
――特高であったことで戦後困ったことはないか。
生活に困窮しただけで特にない。
――宮下さんの現在の家族は
母は昭和10年、1935年、53歳で亡くなり、父は昭和29年、1954年、75歳で亡くなり、妻は昭和30年、1955年、47歳で病没し、5年後に現在の妻を迎えた。子供は戦争末期に二人亡くしたが、いま息子が4人、娘が1人、皆世帯を持ち、孫は10人いる。
私は長男の家族と同居し、俳句をつくるのが余生の楽しみだ。『虎落笛』(もがりぶえ)という俳誌を主宰している。
遠き記憶を求められて
思い出ははるけく暗し冬の霧
以上 本文終わり
資料
一 ゾルゲ事件に関する志賀義雄談話(『アカハタ』1949.2.11)
266 ゾルゲ・尾崎事件の真相
共産党関係なし
特高憲兵警察の邪悪な謀略
さる8日、民自党議員総会で非日活動委員会の設置を決議したという8日付東京タイムスの報道と関連して、太平洋戦争のさなか、ドイツ・ファシズムと手を結んだ東条軍事ファシスト内閣が、侵略戦争に反対する国内の民主主義分子を弾圧するためにつくりあげた「ゾルゲ・尾崎事件」なるものについて、終戦以来鋭意調査を進め、すでに約3年前からその真相を明かしていた志賀義雄氏が、10日朝、これについて次の談話を発表した。
一、「ゾルゲ・尾崎事件」は、日本帝国主義の特高的憲兵警察制度がナチス・ドイツ政府と結び、いかに反共、反ソ宣伝にうきみをやつしていたかを物語る典型的な実例であった。
二、日本共産党はこの事件に何らの関係を持ったことがない。すでに1945年10月以来、党は事件の真相の究明にあたり、そのことがますますはっきりした。軍閥政府は虐殺した死人に口なきを利用し、彼ら(ゾルゲ・尾崎)の誹謗だけを作文して残した。(作り話だとする。)
三、党中央委員伊藤律がこの事件に関係があったといううわさも、すでに1946年3月、厳密に調査を進めた結果、当時の特高に固有の邪悪な謀略と妄想と、功賞を求めるための作文に基づくものであることが分かった。彼は北林トモという婦人とは何ら「組織上の」連絡は持たなかった。
四、参議院議員中西功204が党員として(このゾルゲ・尾崎事件に)関係していたというのも、全くの無根のことである。
五、いま日本の反動勢力を代表する吉田内閣がこうしたうわさを利用して、非日委員会のような反共カンパニアを組織し、党の信用と団結を破壊する謀略をはかるであろうことは、すでに昨年から識者の予想していたところである。日本共産党は、また目覚めつつある人民大衆は、こうした陰謀とあくまで戦って、これを粉砕する。
二 ゾルゲ事件に関する伊藤律談話(『アカハタ』1949.2.13)
267 私は関係なし
矛盾に満ちたデマ作文
ゾルゲ・尾崎事件 伊藤律氏談
ゾルゲ・尾崎事件について共産党の伊藤律氏は12日朝次のように語った。
近頃新聞に流布されているスパイ事件は、当時の秘密警察当局者が、またもや我が世顔にのさばり出てきつつあることを意味する。これは殺人犯人が死人に口のないのを利用し、党と我々を傷つけるための悪質なデマである。(デマと断定できるかはおいといて、こういう認識は正しいのではないのか。)けばけばしい見出しや勝手な推論にもかかわらず、書かれている事実は、誠に僅か数行の曖昧なものであり、かつ自己矛盾に満ちている。これはこのこと自身が、かつての軍閥の作文に過ぎぬことを立証している。
(一)新聞によれば、かつての投獄虐殺の下手人たちは、当時私が青柳*183という婦人をハウスキーパーとしていたと新聞に語ったが、私は(当時)妻君子と住んでいた。
*青柳とは青柳喜久代。青柳喜久代の叔母が北林トモ。青柳は伊藤律の前の妻新井静子と同居していた。青柳が北林を伊藤律に紹介した。183頁では「ハウスキーパー」とは書いていない。
(二)私が検挙されたのは、最初が1933年8月、次が1939年11月である。しかるに外電は、一方で「北林という婦人が私の告白によって1941年9月26日に検挙された」と書きながら、他方では、その翌月、1941年10月、「私の検挙が糸口になった」と言っている。これは私が無関係なことを、このデマ自身が証明している。(どうして。意味不明)
感想 この件に関して、伊藤律の党内での面子や、1949年当時の、共産党内に混乱を巻き起こそうとする反動勢力の策動・巻き返しなどの要素を考慮すべきだ。
三 伊藤律処分に関する日本共産党中央委員会の声明(『アカハタ』1953.9.21)
伊藤律処分に関する声明
268 アカハタ編集部は、9月19日、党中央委員会の「伊藤律処分に関する声明」を郵送で受け取った。その声明は次の通りである。
一、党中央委員会は全員一致で伊藤律を党の一切の地位から追放することを決定し、党規約に従って、彼の除名処分を党の全国会議に提案することを決議した。(厳しいな。)
二、党と国民に対する許すことのできない彼の犯罪行為は、党機関の査問に対する彼の自供と、党中央委員会及び統制委員会の調査した事実によって暴露された。
三、党機関の査問に対する彼の自供と(党による)調査によって明らかにされた彼の階級的犯罪行為は、(伊藤も牢屋から出たかった。伊藤以外にも口を割った人や転向した人も大勢いたのではないか。)1938年(ママ、実際は1933年)彼が最初に検挙されたときに敵に屈服して以来、戦前・戦後を通じて一貫して続けられてきた。(本当かな。戦後もか。おかしいな。)
彼は戦前二度の検挙を通じて、多くの組織と同志を敵に売り渡しただけでなく、その間、獄中では「鵬翼の歌」という軍歌をつくり、獄外では、『戦時下日本農業生産力の増強について』という論文を執筆し、帝国主義戦争の賛美者としての役割を果たし、戦後釈放された(伊藤は敗戦時服役中で、その直後1945.8.26仮出獄した。)後は、警視庁のスパイ宮下らと自ら進んで連絡を取っていた。(宮下が戦後警官をやめたのが、1945.10.4以降だから、伊藤が警官の宮下に会うことは可能である。)
四、戦後、彼が党内で果たした反階級的行為は、アメリカの占領という事情によってさらに政治的となり、単に個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割から、党の政策をブルジョワ的に堕落させ、党内において派閥を形成し、党の組織の統一を混乱に導き、党を内部から破壊し、米日反動勢力に奉仕することにあった。(これは言い過ぎではないか。厳しすぎる。今まで仲間だったのではないか。)
269 それは政策面では、彼の農業理論、社共合同論、二・一スト後における新しい労働運動の盛り上がりに際してとった、職場放棄の極左的な挑発行動の煽動、ストライキ運動に対する極端な日和見主義的抑制等に現れ、組織の面では、党中央や地方の諸組織内に彼の個人的派閥を形成することによって実行に移していた。(どういうことか。)
五、彼がこのような重大な犯罪行為を行うために、党の枢要な地位を占めるために取ったやり口は、党の集団主義を破壊することであった。
それは、党機関の組織的・集団的活動を形式化し、個人の権威をこれに優越するように導き、その権威をもってその野望を果たそうとした。
彼の党内における積極的な努力は、このための活動に集中されてきたと言っても過言ではない。そのために多くの善良な同志が毒された。(どういうことか。)
六、このような彼の犯罪行為は、党中央委員会の追放(レッドパージ)という困難な条件を機会に、益々露骨になり、積極的にスパイを党機関の指導的地位に入れようとし、(本当か。)国際連帯の正常な活動を意識的に混乱に陥れようとするまでに至った。(どういうことか。手厳しいな。)
これは、党の困難な条件を利用して、組織的に党を米日反動勢力に売り渡そうとする彼の策動が積極化したことを証明する。
七、党中央委員会は以上の事実と理由に基づき、伊藤律を最も悪質な反党的、反国民的裏切者と断定し、頭記の決定と決議を行った。我々はすでにベリヤ事件*を処断したソ同盟共産党中央委員会の決定によって、集団主義の原則に基づく、党の思想的、組織的統一の重大さを学んでいる。
裏切者伊藤律を党と国民の戦列から追放することは、党の純潔を守り、(純潔でいたいのだな。しかし、そんな純潔な政治があり得るのだろうか。)その統一を強化し、党に対する国民の信頼を一層高めるだろう。
すべての党組織と党員、大衆が、党中央の、この決定と決議に対して強い支持を与えることを我々は確信している。(思い上がりではないか。)
党中央委員会は、この決定と決議を発表するにあたって、益々党の思想的・組織的原則性を堅持し、集団主義的指導に徹し、革命的警戒心を旺盛にして、全党・全国民に対する責務遂行の決意を新たにする。
1953年9月15日 日本共産党中央委員会
*ベリヤ ベリヤはスターリンによる粛清の執行者だった。エジョフを失脚させ、エジョフの粛清を超す粛清を行った。
感想 今の私だったら、この共産党中央委員会の文章を読んで、それに賛成することはないだろう。この文章にはその根拠となるべき事実が書いてない。こんな雑な言い方で正義だけを押し付けられるのは御免だ。だから右翼になるというのではなく、マルクスの指摘は正しいのであり、それは今でも通用すると思うが。
四 宮下弘への新聞記者インタビュー(『読売新聞』1953.9.21)
〝日共のデッチ上げ″
伊藤氏除名で指摘された宮下氏と一問一答
270 日共は21日付アカハタ紙に、伊藤律除名理由の一つとして、「戦後釈放されてから“警視庁のスパイ宮下”らと自ら進んで連絡していた」と発表したが、宮下はかつて伊藤の取調べに当たった元警視庁特高一課係長宮下弘52といわれる。以下は20日夜、宮下氏を東京都目黒区の自宅に訪ねての一問一答である。
問 あなたはスパイと言われているようだが。
答 とんでもない。私は昭和21年夏以来、上野の某会社に勤めてその仕事一本だ。それに昭和15年以来伊藤律には会っていない。連絡していたなどバカ気たことだ。(戦後も特高として会うことはできた。)
問 それでは伊藤律との関係はどの程度か。
271 答 初めて伊藤律に会ったのは、昭和7年、1932年で、彼が一高中退で日共青年同盟の中央組織の事務局長だった時、大崎署に検挙されたが、その時私は特高一課の主任であり、彼の調べに当たった。
その後伊藤は入獄し、昭和10年ころ出たが、壊滅状態にあった日共の再建運動に、伊藤が長谷川浩らと活躍し、昭和15年5月、ちょうど私が特高一課長当時に、伊藤律が再び検挙され、国鉄共産党グループの検挙から、彼が党再建運動の中心人物と分かり、追及したところ、やむなく自供した。私が昭和7年頃伊藤を調べたことがあったことから、「昔話の雑談をしていた時」、伊藤律が『アメリカのおばさんと呼ばれる北林トモ(ゾルゲ事件で尾崎秀実(ママ)のレポをつとめたと言われる女)はアメリカのスパイではないですか』と漏らしたことがある。私は北林が米国共産党の日本人部にいたという秘密文書を見ていたので、北林をソ連のスパイと推定して捜査を始めたところ、関係者数名が浮かび、ゾルゲ事件となった。当時は反米的な時代なので、伊藤律は「何げなく」北林のことを言ったもので、『ソ連のスパイ』とは言わなかった。彼自身「裏切り行為と思って漏らしたのではない」と思う。
問 伊藤はGHQのスパイとも言われるが、あなたと米軍との関係はどうか。
答 戦後ゾルゲ事件を米陸軍省が調べ、ウイロビー少将らが発表したが、その際、米軍関係官から当時の模様を尋ねられ、「今さら言うことはないと断ったことがあるだけだ。(米軍)情報関係とのつながりは一切ない。」(共産党員でも警察官でもない川合貞吉222を教えてやったのでは。「川合の本質は共産主義者ではなく、大陸浪人タイプで、ヒロイズムが強い。」231)
問 アカハタに書かれた“警視庁のスパイ宮下”に対して日共に告訴するか。
答 相手が相手で気違いじみたこじつけだし、実害でも起こらない限りその意思はない。
問 あなたの見た伊藤律観は?
答 利口な男だ。若いわりに今までうまく行き過ぎたと思うし、今度の追放も、才子、才におぼれるの感が強い。それにしても日共もバカな処置に出たものだ。党指導部の重要ポストを占める人物をスパイとし、伊藤が積極的にスパイを党機関の指導部に入れようとしたなどと発表すれば、一般党員は、大事なことは全部(警察)当局に分かっていると思って、今までの頑固な黙秘権行使などバカらしく思うだろう。ありもしないでっち上げで“鉄の規律”を弱め、党自体を弱体化している。(おせっかい)
五 伊藤律についての常任幹部会発表と志田・野坂談話(『アカハタ』1955.9.15)
伊藤律について
党中央委員会常任幹部会発表 記者団と会見
272 日本共産党中央委員会常任幹部会は14日午前11時、党本部で記者会見を行い、志田書記局員から、スパイ挑発者伊藤律について次のような発表を行った。
1933年、伊藤律は大崎署に検挙された。当時伊藤律は第一高等学校の学生で、共産青年同盟の事務局長をしていた。伊藤律は警視庁特高課宮下弘の取調べを受けて完全に屈服し、共青中央の組織を売り渡して釈放された。
1939年、伊藤律は商大の進歩的グループの検挙に関連して再び検挙され、目黒署に留置された。その時特高伊藤猛虎の取調べに屈服し、党再建のために努力していた岡部隆司、池田忠作(ママ)、長谷川浩、保坂浩明、木村三郎、その他十数名の同志を敵に売り渡し、さらにゾルゲ事件の糸口となった北林トモを売り渡した。
伊藤律は特高宮下弘、岩崎五郎、伊藤猛虎に対し、北林トモを売り渡すこと、および毎月一回ずつ警視庁を訪れて、進歩的な人々の間の情報を提供することを条件として9月上旬に釈放された。
その後伊藤律は従前どおり満鉄東京支社に勤務し、支社内と本社内の進歩的な人々(その中にはゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実氏を含む)の言動まで詳しく定期的に警視庁に報告した。
そればかりでなく伊藤律は宮下、岩崎の私宅を訪問し、さらにこれらの特高と料理店で会食もしている。
1941年10月、ゾルゲ事件の直前、伊藤律は保釈を取り消され、久松署に留置されたまま、内部からゾルゲ事件及び満鉄事件の拡大と証拠固めのために(当局に)協力した。
273 1942年、伊藤律は三度釈放された。
その後も伊藤律は警視庁と連絡を保ち、細川嘉六同志、その他進歩的な人々の動静を探り、横浜事件のデッチ上げと拡大、及びその証拠固めに協力した。伊藤律は前後を通じて百五十数名の革命的進歩分子を直接敵の手に売り渡した。
1943年、伊藤律は豊多摩刑務所に収容され、特別待遇を受け、1945年8月、スパイ大泉兼蔵とともに釈放され、直ちに宮下弘、伊藤猛虎に手紙を出し、宮下からは返事をもらっている。(宮下はこの点について語らない。270, 271)
戦後、伊藤律は当時わが党の持っていた幾多の欠陥を巧みに利用し、党中央に潜入し、すでにこれまで党中央委員会で発表した反革命的行動の他、党を内部から攪乱し、破壊する工作を一貫して行った。
とくに1950年の党の分裂と混乱を計画的に激発するため、あらゆる奸策を弄した。
以上の諸事実を伊藤律はあらゆる方法で党に隠し、あるいはごまかし続けてきたが、党が彼の審査を始めてから以後、彼はこれらの事実を党に自ら告げるに至った。
1953年、党中央は伊藤律の除名を決定した。
伊藤律は目下国外にいるものと思われる。
感想 これは説得力がある。
なお、発表後、志田書記局員は記者団の質問に次のように答えた。
問 海外にいるというのはどんな根拠に基づいているのか。
答 それは彼が党内部にはもういない。党外部からも彼についての情報が一つも入ってこない。また一般大衆からも情報がない。死んだということも我々は聞いていないから、おそらく国外にいるものと思われる。
問 伊藤が最後に党から去ったのはいつか。
答 1953年9月12日、伊藤の除名決定を発表する前後である。
問 その時の健康状態はどうだったか。
答 健康だった。
274 野坂第一書記談
伊藤律の戦前と戦後における党破壊活動について党中央から発表があったが、これに関連して二つの点を強調したい。
第一は、党が彼を除名したのは、彼が警察と通謀するスパイであったからだ。二年前に党中央委員会が彼の除名決議を発表したとき、一部の商業新聞は、彼が政策や理論の誤りによって除名されたのだと鼓吹し、彼のスパイ行為に煙幕を張った。しかし、党は政策や理論の誤りによって何人も除名しない。明確な反党的行為、党破壊行為が、意識的・計画的に行われる場合、党と革命への裏切者として、党は最高の処罰を行う。(怖い。)
第二に、伊藤律のような前科者が、どうして戦後、党中央に潜り込んでいろいろの破壊活動を行うことができたのかという問題である。これは「六全協」の決議と規約をつくる過程で討議された。その結果が決議と規約の中での党中央の自己批判となった。
戦後の党中央では、党員を採用する場合、党員の品質(党性)よりも、才能を重視する傾向が著しく強かった。そのため伊藤律に対して大なり小なり疑いを持ちながら、彼の過去に対して厳密な審査が行われず、彼を入党させ、中央委員、政治局員にまで入り込ませ、破壊活動をさせた。
これは党中央に「正しい」幹部政策が欠けていたためである。私にも責任がある。
275 以上のことから、我々は大きな教訓を学んだ。我々は常に鋭い警戒心をもって、敵の回し者が党内に潜入することを防ぐとともに、すでに党内に潜んでいるスパイを発見し、これを党から駆逐しなければならない。また我々は幹部の採用、登用、活用に対して、常に原則を貫き、便利かどうかで決定してはならない。幹部としての資格の第一は、彼の品質(党性)であり、第二が能力であり、両方とも必要だが、品質の方が大事だ。
感想 野坂は教条主義というのか、堅いな。違和感を覚える。
六 ゾルゲ事件についての特高報告(『特高月報』昭和17年、1942年8月分)
捜査の端緒、検挙の経過
昭和15年、1940年6月以降、警視庁において検挙に着手した日本共産党再建準備委員会事件の首魁である治安維持法違反の被疑者伊藤律(当年29歳、満鉄東京支社調査部)は、俊敏で、共産主義に対する信念が堅固であり、検挙後数か月にわたり、犯行を自供せず、取調べが困難だったが、警視庁の峻烈でかつ温情のある取調に対して遂に翻然転向を決意し、(その経過はどうだったのか。)漸次その犯行を自供するようになった。
伊藤律の自供の中で、「米国共産党日本人部員の某女(北林トモ、56歳)が既に帰国していてスパイ活動の容疑があるかもしれない」という陳述が得られたので、すぐに北林の所在の調査を開始し、特高一課、外事課共同で、周到に内偵し、昭和16年、1941年9月28日、北林トモとその夫の芳三郎の二人を和歌山県粉河町で検挙し、追及した結果、更に米国共産党員で沖縄県人の宮城与徳がすでに日本に帰国しスパイ活動をしているかもしれないという事実が判明したので、10月10日、宮城与徳を検挙した。宮城宅を捜索した結果や、宮城が自殺を企図したことなどから、重大なスパイ組織の伏在を推定させた。一日中宮城を追及し、また宮城宅を張り込みしたところ、連累者の検挙が続いた。遂に検挙は組織の核心に至り、10月14日以降、尾崎秀実、リヒアルド・ゾルゲ等の検挙となり、その後、宮城や尾崎などの取調べの進捗に伴って、次の表(被検挙者一覧表)に記載の通りの結果となり、事情を知っている者、知らない者を合わせて、昭和17年、1942年6月8日までで、総計35人の被検挙者を出すことになった。ここに国際共産党系対日諜報機関の秘密組織を壊滅し、その全貌を明らかにすることが出来た。(後略)(めでたし、めでたし。万歳)
七 ゾルゲ事件に関する伊藤律証人訊問調書(昭和17年、1942年11月17日、東京刑事地方裁判所)
証人尋問調書
証人 伊藤律
被告人尾崎秀実に対する治安維持法違反、国防保安法違反、軍機保護法違反、並びに、軍用資源秘密保護法違反被告事件につき、昭和17年、1942年11月17日、東京刑事地方裁判所において、予審判事・中村光三は、裁判所書記・倉林寅二の立ち合いの上、右証人(伊藤律)に対し次の通りに訊問した。
一問 氏名、年齢、職業及び住所。
答 伊藤律、当30年(歳)、無職、東京市荏原区戸越町小山台2丁目71番地。
277 二問 証人は満鉄東京支社調査室調査員としていたことがあるか。
答 昭和14年、1939年8月1日から昭和16年、1941年10月までいた。
三問 そこへ雇われるようになった事情は
答 その調査室の主事・中島宗一が、私の在学時代の保証人であった現農林次官・石黒武重と友人で、昭和14年、1939年、その調査室ができた当時、私は勧誘された。またその調査室の主査・山本駿平が、東大教授・土屋喬夫と同窓で、私は土屋教授の助手をしていた。
四問 そこを辞めた事情は。
答 私は一高在学中、日本共産青年同盟に加入したことから、昭和7年、1932年12月、退校処分に処せられ、昭和10年、1935年4月16日、東京地方裁判所で懲役2年、執行猶予3年の判決を受けたが、昭和12年、1937年8月末から昭和14年、1939年11月までの間に日本共産党再建準備委員会活動をし、昭和14年、1939年11月検挙された。
その後、肺滲潤(しんじゅん、しみる)のため、昭和15年、1940年8月、執行停止になり、昭和16年、1941年9月29日、再び収容され、同年、昭和16年、1941年12月、予審請求を受け、昭和17年、1942年6月、公判に付せられた。そして昭和16年、1941年10月、満鉄を正式に退職した。
五問 尾崎秀実とはどんな関係か。
答 私が満鉄に入社したとき、尾崎は同社におり、高等学校の先輩で、また同じ岐阜県出身で、親切にしてもらった。
六問 証人は尾崎に情報や資料を与えたか。
答 情報は尾崎から聞く方だった。私は尾崎から頼まれて、しばしば統計の整理をした。それは新聞社の年鑑や官庁統計などから日本経済の生産動向を知る指数の調査等で、特に南方と日本との経済関係についての指数をまとめたものもあった。
278 七問 証人は昭和16年、1931年6月ころ、「戦時下の日本農業」と題する調査報告書を作成して尾崎に渡したか。
答 尾崎は満鉄東京支社調査室でそのころ出していた時事資料月報に書くものの割り当てをしていた。尾崎が私を盛り立てるために書くことを命じたと思うが、その時事資料月報に出すものや、満鉄調査月報等に出すものに、その当時の日本の農業問題に関する調査報告を私が書いたものが沢山ある。「戦時下の日本農業」はそのうちの一つだろうが、タイトルは覚えていない。
時事資料月報は海江田久孝が編輯主任だったので、私は原稿を海江田に渡した。(満鉄)調査月報は編輯係に渡した。
時事資料月報には最近の日本農村の現状や戦時下の日本農業問題などを題目として二、三度書いたことがある。調査月報には、第一期分の報告として最近の日本農業の動向の概説を執筆し、内部刷りにし、つまり外部に出さず仮綴じし、内部の調査員に配るようになった。尾崎にも渡したと記憶している。
八問 同年、昭和16年、1931年9月、満鉄本社で行われた「新情勢の日本政治経済に及ぼす影響調査報告会議」に報告するため、東京支社調査室でも各調査員が分担してその調査報告書をつくったことがあるか。
答 同年、昭和16年、1931年8月、そのような話があって作成した。私はそのうち日本農業を担任して執筆し、調査員の宮西義雄がそれを纏める役だったので、宮西にそれを提出した。
九問 証人は東京支社でのその準備報告会議に出席したか。
答 出席した。それは中間報告とその後の報告と、二度あり、私は二度とも出席した。
一〇問 尾崎秀実はその会議に出席したか。
答 一度出席したが、どちらかは記憶していない。
一一問 その席上で日本の石油貯蔵量について誰かから報告があったか。
答 排村正夫から報告があった。
279 一二問 その内容は。
答 覚えていない。
一三問 尾崎がその貯蔵量について詳細な数字を知りたいと言っていたようだが。
答 尾崎は排村の報告に対して、「その報告は商工省方面のものばかりで安心できない、軍部には支那事変後でも、相当なストックがあると他から情報を得ているので、その方をよく調査しなければ正確な見透しは立たない」と言っていた。(これは尾崎を陥れるための証言だ。)
一四問 証人が執筆した日本農業に関する論文、あるいは新情勢の日本政治経済に及ぼす影響調査報告は、我が国防上秘密を要するものではないか。
答 新情勢は戦争を前提にしているから、公表を憚るものだ。時事資料月報も同様だ。調査月報はその概要であるから公表をはばかるものではないが、日本農村の動向を察知する意見は、あまり公表しては困るものであった。
一五問 証人は尾崎がコミンテルンのために活動していたことは知らなかったのか。
答 全然知らなかった。
一六問 尾崎が外国に通報する目的で政治、経済、軍事その他の情報資料を探知蒐集していると知らなかったのか。
答 知らなかった。
証人 伊藤律
八 元特高課長・毛利基の回想
「旧特高警察の第一線―共産党検挙の苦心―」毛利基 『文芸春秋』1950.9 (宮下弘『特高の回想』田畑書店280--289 所収)
感想 2021年2月21日(日)
毛利基1891.2.11—1961.12.17が文芸春秋に寄稿した一文を読んでみた。「旧特高警察の第一線―共産党検挙の苦心―」(『文芸春秋』1950.9)である。毛利が59歳の時のものだ。毛利が小林多喜二を拷問・虐殺したとは言わず、心臓麻痺で死んだという(ウイキペディア)のは嘘だろうが、戦後、文藝春秋から寄稿を依頼されたとき、一度は断ろうと思ったが、何も言わずに一生を終えるのは気が引けると思って、いやいやながら引き受けたというのは本当なのだろう。それに毛利は敗戦直後、54歳で退官し、福島で農業を始めた。古巣に戻ったわけだ。おそらく毛利はこの特高という警察官の仕事が末永く続けたい仕事とは思っていなかったのだろう。この一文を読んでみても毛利の仕事は肉体労働だ。現場の特高には相手と渡り合う度胸と体力・技量・敏捷さが必要だと言っている。このことは嘘ではないだろう。
1928年、29年の共産党弾圧時に警視庁特高課長だった纐纈彌三のような思想性は、毛利にはなかったのではないか。組織の一員、日常的な人情、救済としての宗教(仏教)などが毛利の思想であり、纐纈彌三のような、国粋主義的な歴史観はなかったのではなかろうか。纐纈には社会主義や国粋主義などの本を読む暇があり、また国粋主義・総動員体制を宣伝する立場(文部省の社会教育・国民教育局長)にあった。毛利には纐纈彌三のように読書する暇はなかったのではなかろうか。毛利は纐纈彌三のように高文合格のエリート官僚ではなく、昇進試験を受けて一段一段と出世していくたたき上げの人だった。
毛利は「スパイ使いの名手」と言われたが、スパイM(飯塚盈延)を使って「非常時共産党」に当たった。(ウイキペディア)
「当時警察官は民衆処遇の懇切叮嚀に関する訓示を耳にタコのよる程聞かされたものだ。」288というのも嘘だろう。少なくとも共産党員に対しては。
解説 治安維持法・特高警察・日本共産党 伊藤隆
治安維持法
291 治安維持法は大正14年、1925年4月22日、公布された。コミンテルン日本支部日本共産党を組織として壊滅させることを目的とする法律で、昭和20年、1945年10月4日、GHQの覚書によって廃止されるまで、数回の改正を経て、足掛け22年にわたってその生命を保った。
当初の治安維持法は、「国体を変革しまたは私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、又は情を知ってこれに加入した者は10年以下の懲役または禁錮に処す。前項の未遂罪は、これを罰す。」(第一条)、前条の規定する目的のための「実行に関して協議し」、「実行を扇動し」、「犯罪を扇動」することを禁止し(第二~四条)、以上の目的のために「金品その他財産上の利益を供与し、又はその申し込み、もしくは約束をする」ことを禁止し(第六条)、その他全七条からなった。
大正10年、1921年5月、近藤栄蔵が逮捕され、コミンテルン日本支部準備会が存在し、コミンテルンが日本の運動に資金供与していたことが判明し、政府は治安立法の作業を具体化した。大正10年、1921年8月、司法省が緊急勅令案を作成し、政府はこれを修正して過激社会運動取締法案を翌年、大正11年、1922年2月の議会に提出したが、不備を指摘され審議未了、廃案となった。
292 大正11年、1922年6月、第一次日本共産党事件、7月、名古屋共産党事件、10月、群馬共産党事件、大正12年、1923年2月、長野共産党事件など、共産党員の検挙が行われ、治安警察法の秘密結社容疑で処分された。大正12年、1923年、朴烈事件、虎の門事件など、無政府主義の事件が相次いで起こり、日ソ基本条約が締結された。大正14年、1925年、第50議会に、加藤護憲三派内閣が治安維持法案を提出し、衆議院で可決、3月19日、貴族院が可決し、法律として公布された。
大正14年、1925年5月12日、治安維持法が施行された。この時は第一次日本共産党が解党した後だった。その残務処理に当たっていたビューローとコミンテルンの双方で党再建計画が進められ、翌大正15年、1926年12月、山形県五色温泉で日本共産党が再建大会を開いた。
大正15年、1926年1月、治安維持法が京都学聯事件に初適用され、次は、北海道集産党事件に適用された。
昭和3年、1928年3月15日の日本共産党員等の一斉検挙は、日本共産党にとって予想を超えた大きさであったばかりでなく、国民にも広く衝撃を与え、そのため政府はさらに罰則を強化しようとした。(当局が情報統制し、新聞が喧伝したからではないのか。)
田中義一内閣の鉄相・小川は、かねてから共産主義運動撲滅の強力な主張者であった。小川はその回想文の中で、「第一回普通選挙後、予は君主制廃止云々の檄文を見て、これについて協議した。幸い三・一五の共産党大検挙があったので、これを機に労農党の禁止、悪教授の免職、マルクス研究団体の解散などが実現した。…そもそも共産党の事情について世間では知る者が少なく、閣僚もそうだ。…大検挙後、その防止は不十分だった。だから予は教育改革、特に社会教育の振張等の根本問題は勿論、刑罰法規の改正、警察制度の改正、機関の拡大などを提議した。」
「刑罰法規即ち治安維持法の改正について、司法省官僚が逡巡するだろうから、内閣が断乎決定すべきだと予は主張し、それに原法相も熱心に賛成したのだが、予想通り、司法省の官僚が異論を唱えた。ところが原法相はもともと思想問題に熱心で、時勢をよく見ていたので、断乎として官僚を排して、幸いにして改正案を議会に提出できる運びとなった。」(『小川平吉関係文書』Ⅰ、621)
1928年4月27日第55特別議会に治安維持法改正案が提出された。
293 ところが、小川によれば、「再度の停会等のためにその機を失い、政府部内も政戦に没頭し、これを顧みなかった。予は…治安維持法改正案の通過について原法相とともに、該案特別委員長の横山金太郎氏と懇談し、また電話で床次・民政顧問を説いて、該案が通過の情勢となったが、尾崎行雄氏など中立派の審議未了の主張に動かされ、民政党はこれを握りつぶしてしまった。」
「ここで憲法8条の規定に基づいて、緊急勅令を以て罰則の改正を図らないではいられなくなった。」
政府は司法省部内の反対や、閣僚の躊躇も振り切り、6月12日、勅令案を閣議決定し、直ちに枢密院への諮詢手続きをとった。小川によれば、「初め閣議で勅令発布を決定し、枢密院議長、副議長の内賛を得て、委員会開会の手続きや期日を内定していたが、いったんあちこち見て「神断」を躊躇すると、反対の気勢が日ごとに旺盛になって」もめたが、6月28日、反対5で可決し、勅令は翌6月29日に公布、即日施行されることになった。(同上、622)
この勅令は改正案とほとんど同一であった。改正点は、第一条「国体を変革」と「私有財産制度を否認」とを分離し、さらに「組織し…たる者」と「情を知りてこれに加入したる者」とを区別し、「国体を変革することを目的として結社を組織したる者、または結社の役員その他指導者たるの任務に従事したる者は、死刑または無期もしくは5年以上の懲役もしくは禁錮に処す」と量刑を極刑に引き上げた。小川は「枢密院会議において死刑の罰則が如何に人をして犯罪行為を躊躇させるかを力説した。」
翌昭和4年、1929年の第56議会でこの緊急勅令は承認され、以後、昭和16年まで若干の改正の動きがあったが、実際改正されることはなかった。
294—295
治安維持法違反事件年度別処理人員数(昭和3年、1928年~20年、1945年)表(『現代史資料45 治安維持法』昭和48年、1973年、みすず書房)
296 この表によれば、昭和9年、1934年までは、左翼(日本共産党と明らかなその協力者)だけがこの法の対象者で、検挙者、起訴者のピークは、昭和8年、1933年であった。昭和6年、1931年の増加は、党が党員の採用方針を転換し、大衆化を図ったからである。日本共産党の壊滅後はごく小規模で散発的な再建運動が摘発、検挙されただけだった。
検挙人数と処理人数との差、つまり送検されなかった人数が次第に増加した。(やたらと捕まえたということだ。)また保留処分人員が増加したが、これは治安維持法の運用(方法、つまり)日本政府の共産主義運動対策の特徴である転向政策と関連する。
大審院検事池田克は「留保処分が昭和6年、1931年に始まったことは、思想犯に対する刑事政策史に輝ける足跡を印した。留保処分とは思想犯事件で、その捜査をやって犯罪の嫌疑が明らかにあるが、本人の主観(意志)や客観の事情(親や病気か)に照らして、常に一定の期間の行状を視察し、その結果によって公訴の起否を決定することが適当だと認められる場合に行われる処分の留保である。これは起訴猶予の一態様だが、本人に対しては起訴するとも、起訴猶予にするとも言わないで、訴訟上の本人の地位を一定期間不定の状態にして反省を促す点で、再犯防止の効果があることに検察実務家が気づいた。(これは法律違反ではないのか。)
この留保処分は東京、大阪を初めとして次第に全国各地に行われ、事実上制度化されたため、司法省は昭和7年、1932年12月、大臣訓令を以て思想犯人に対する留保処分取扱規定を制定し、公式にこれを認めた。」(「左翼犯罪の覚え書」『防犯科学全集第六巻思想犯篇』135—6, 昭和11年、1936年、中央公論社)
297 それ以前から共産党員の転向はあった。昭和8年、1933年、元共産党中央委員長で獄内公判闘争の指導者佐野学と、元同党中央委員の鍋嶋貞親を獄中転向させることに成功した司法当局は、この転向政策をこの法の運用の重要な側面と位置づけた。
池田克検事は前引の一文中で、在ベルリンの田中内務事務官の文章を引用している。(同前218)
ヒムラー「日本では共産党員に死刑を課すのか。」
田中「法律上死刑の規定はあるが、実際はまだ一度も適用されていない。」(拷問死は500人もいるのに。)日本の共産党員を刑務所という学校に入れて教育を与え、反省させると、大半が転向し、その非を悟るようになる。」
ヒムラー「それは私たちには考えられないことだ。どこにその原因があるのか。」
田中「日本の国体観念が彼らの内心に蘇ってくるからだ。」
(日本は神の国、よかったですね。このころの日本は、政権に反対することを考えて集まり、反対行動を起こしたら、犯罪になる。)
池田は昭和6年、1931年10月末の治安維持法違反受刑者256名中、広義の転向者63%、非転向者37%であったが、昭和11年、1936年5月現在の同受刑者438名中、転向者55%、準転向者19%、計74%、非転向者26%で、成績が上がってきているとしている。(同前223—4)
転向については同書の他に樋口勝「左翼前歴者の転向問題について」(『社会問題資料叢書第一輯思想研究資料(特輯)』昭和47年、1972年、東洋文化社より復刻)があるが、これは検察側の研究である。
なお、昭和8年、1933年と昭和9年、1934年の起訴者数が多いのは、日本共産党が指導していた全協(日本労働組合全国協議会)が、昭和7年、1932年、「党の引き回しによって」その行動綱領に「天皇制打倒のための闘争」を掲げたことにより、昭和8年、1933年3月ころから全協自体が党と並んで治安維持法第一条第一項の結社として扱われるようになり、また昭和8年、1933年後半から党指導下のコップ(日本プロレタリア文化聯盟)とその加盟団体が、日本共産党の「目的遂行のためにする」結社とされたことによる。
昭和8年、1933年春頃治安維持法の改正作業がはじめられて、この年の終わりころに成案ができ、翌昭和9年、1934年始めの第65議会に提出されたが、この改正案の予防拘禁制度に異論が出て審議未了となった。
政府は予防拘禁の規定を削除して保護観察の部分を強化する法案を、翌昭和10年、1935年の第67議会に提出したが、この議会は国体明徴問題でもめ、改正案は棚上げとなり、また審議未了となった。
298 次に政府は(治安維持法改正案の)保護観察規定部分を「思想犯保護観察法」として独立させ、昭和11年、1936年の第69議会に提出し、可決させた。
この時の司法・内務当局の改正の狙いは、この法の対象を明確に党の外郭団体にまで広げること、つまりそれによって共産主義運動の根絶を図ろうとすることであり、また三・一五以来の受刑者が刑を終えて釈放されたり、仮釈放されたりする者に対して、予防拘禁制度によって、二度と活動する余地を与えないようにすること、転向者の生活の「保護と更生」のための保護観察制度をつくること、であった。予防拘禁をやめて保護観察制度に一本化され、全国22の保護観察所を通じて出獄者の「保護」と監視が行われた。
当時、コミンテルンの反ファシズム統一戦線戦術に呼応する団体は存在しなかったが、当局が「反戦反ファシズム運動」を究極的には共産革命を目指すものと見なして治安維持法の適用対象としたことは、「復古―革新」派化しなかった合法左翼を一掃することになった。
昭和12年、1937年の『世界文化』グループの検挙、この年1937年の暮の日本無産党・日本労働組合全国評議会・労農派グループの検挙などをはじめ、その後この系列の検挙が続けられた。
この時期以降、宗教団体にも治安維持法が適用された。昭和10年、1935年の大本教、昭和11年、1936年の新興仏教青年同盟、昭和13年、1938年の天理本道、昭和14年、1939年の日本灯台社などが検挙された。(芦苅直巳「最近に於ける類似宗教運動に就いて」社会問題資料叢書第一輯思想研究資料(特輯)昭和49年、1974年、東洋文化社復刻版)
299 圧迫された宗教団体が右翼団体と連携して行動化し、陸軍や宮中への工作を行っていたが、宗教への治安維持法適用は自然とは言えない。それは特高網、思想検事が厖大化し、自己保存したかったのだろう。
昭和16年、1941年、中断していた治安維持法改正案が第76議会に提出された。この改正案は、国体変革と私有財産制度否認とを目的別に独立の条文とし、前者の処分を重くした。また支援結社、準備結社、結社に至らない集団の処罰規定を新設し、国体変革を目的とする宗教団体の処罰規定を新設し、予防拘禁制度*を新設した。
*予防拘禁制度 非転向者や偽装転向者で刑の執行終了で出獄する者が多く、再犯の可能性を摘み取るため、予防拘禁所を設けて拘禁する制度。
議会は反対なく可決した。
朝鮮独立運動も治安維持法の対象とされた。
以後、治安維持法は多くの問題事件に適用され、昭和20年10月4日のマッカーサー最高司令官の覚え書によって、思想犯保護観察法と共に廃止された。
特高警察
明治33年、1900年、治安警察法が制定されたが、これは政府が社会主義運動に注目し始めたことを示す。明治43年、1910年の大逆事件以後、社会主義運動の取締りが、一般政治警察である高等警察から特別高等警察として分立された。
300 大逆事件の翌年、1911年、明治44年度から、内務省警保局保安課に専任の職員を置き、警視庁に従来の高等課から特別高等警察課を独立させ、翌明治45年、1912年、大阪府警察部でも同様の措置をとり、以後少しずつ主要府県に特高課が設置された。
この時期、特高の取締の対象となる運動は、大衆運動とはあまり関係のないごく少数者の運動だった。特高は無政府主義者、共産主義者、社会主義者、「土地復権を唱える者、その他の国家の存在を否認する者のすべて」をリストアップし、これを追跡した。彼らは当初、社会主義者のちに特別要視察人と呼ばれた。
*「社会主義者」の数は、
明治41年、1908年7月現在、460名
明治44年、1911年現在、 994名
準社会主義者 981名
計 1975名
であったが、これは大逆事件の結果その範囲を広げたためだった。
*「特別要視察人」の数は、
大正3年、1914年6月末現在、 甲735名、乙554名、 計1289名
大正8年、1919年11月1日現在、甲196名、乙219名、丙132名、計 547名
と漸減したが、これは社会主義の冬の時代を意味する。
文献 「社会主義者沿革」と「特別要視察人状勢一班」は、この時期に特高がまとめた社会主義運動の情況と取締を記録した極秘文書である。
前者は、明治44年、1911年6月までの分をまとめたもので、昭和31年、1956年、近代日本史料研究会編『社会主義者沿革』明治文献資料刊行会(復刻版)として復刻され、後者は昭和32年、1957年、近代日本史料研究会編『特別要視察人状勢一班』明治文献資料刊行会(復刻版)として復刻され、明治44年7月から大正8年10月刊行までの分と、大正3年と大正8年の「特別要視察人概況」を加えたものを記録している。
このうち一番最近のものが、「大正11年1月調 最近における特別要視察人の状況」である。これは伊藤隆『大正後期警保局刊行社会運動史料』(昭和43年、日本近代史料研究会)に収められている。
この他に、明治44年の「米国における日本人社会主義者無政府主義者沿革」(社会文庫編『在来社会主義・無政府主義沿革』昭和39年、柏書房 復刻版)がある。
301 内務省の「特別要視察人視察内規」のうち、昭和10年5月15日に定められた内規は『特高警察例規集』に収められているが、それ以外は「見られない。」(つまり、あるのに見せないのか。それともないから見られないのか。)
この昭和10年の内規の制定によって、それまでの「大正10年7月14日内務省訓第613号特別要視察人視察内規改正に関する件」が廃止されたとあるから、それ以前も規則があったのだろう。
大正5年7月、「要視察朝鮮人視察内規」が定められ、大正10年7月、「労働要視察人視察内規」が定められ、それらが昭和10年に新しい内規に統合された。
この(昭和10年の)内規は全35条からなる。
第一条は、特別要視察人を提議し、思想や行動が不穏・過激で治安を害する恐れがあり、特高警察が特に視察を要すると認めた者とし、共産主義思想を抱き治安維持法に違反する行為をする恐れがある者を共産主義特別要視察人とし、それと社会主義、無政府主義、他種の4種類と、朝鮮人・台湾人の2種類、計6種類の特別要視察人を分類し、すべての特別要視察人を、治安を害する恐れが特に著しい者を甲号とし、その他の者を乙号とする。
第二条から第十二条は、特別要視察人名簿に関する規定で、甲乙両号について本名簿を、乙号については略名簿を、所轄庁府県で作成して備え付け、本省にそれを送付し、各府県にも略名簿を送付することとしている。(文構造が非論理的)
本名簿の様式を定め、種別、氏名、別名、職業、生年月日、出生地、本籍、現住所、写真番号、筆跡番号、指紋、特技(以上第一項)、思想系統、宗教とその信仰程度、資産、収入、生活状態、境遇、家族、体質、性質、素行、特別要視察人であると発見した事由、編入年月日(以上第二項)、団体関係、と団体内における地位、交際者氏名住所(以上第三項)、言動(第四項)を詳細に記入することとした。
この名簿の実物は社会文庫編『社会主義者無政府主義者人物研究史料(1)』(昭和39年、柏書房)に復刻されている。
その解題によると、大正8年現在、547名の『名簿』の中から特に、外国在留者、外国に在留した経験者、外国人『主義者』と関係のあった者など118名を選んで収録し、別に、大正12年、1923年1月の、大杉栄の経歴と言動の調査報告書を追加したものである、としている。
第十三から第十八条は、視察取締に関する規定で、特別要視察人の各種団体に対する交渉脈絡関係に関しては特に注意すべきだとし(第十三条)、特別要視察人やその他の注意を要する人物の視察では、特にその来歴、通信、会合、著訳、出版、宣伝扇動、資金の授受、兇器の所持等に注意し、裏面の動静の探知に努めよ(第十四条)としている。
第十九条は渡来朝鮮人(台湾人)の名簿等の規定である。
第二十条から第二十九条は、尾行について、第三十条から第三十五条は爆発物、戎器その他の危険物の取締に関する規定である。
同じ『特高警察例規集』301の中に、昭和十年五月十五日内務省警秘第10号警保局長依命通牒「特別高等警察執務心得」が収められている。これは団体の視察に中心が置かれているが、その内容は以下の通りである。
第一章は総則であり、第十四条から第二十五条までは申通報(報告)について規定している。
第二章は視察取締に関する規定で、そのうちの
第一節各種社会運動は、機関紙その他印刷物(第二十八条、第三十一条、第四十五条)、過激な社会運動(第三十条から第三十三条)、検挙取締(第三十四条、第三十五条)、共産主義運動(第三十六条から第三十九条)、国家主義運動(第四十条から第五十一条)等の取締規定で、冒頭の二条は次の通りである。
第二十六条 各種の社会運動に関し、団体を組織する者があったときは、この組織の動機、経過、主な構成人物、団体の目的、主義、綱領、実勢力、他団体との関係その他各種の所要事項を調査し、十分その実態を審らかにするとともに、爾後の推移について不断の注意をせよ。
団体の日常行動、指導精神の推移、指導者の動静について特に注意をし、激しい主張や行動に移る場合は厳重に取り締れ。
303 思想問題、社会問題、その他の研究等に関して、団体を組織する者があった場合は、前二項に準じて視察取締をせよ。
第二十七条 団体に対する視察に関して、特に裏面の主張行動、背後の人物、資金の出所、団体内部で潜在的な勢力がある者を内々に調べるように気をつけよ。
第二節(第五十二条から第五十六条)は、各種争議(労働争議、小作争議、借家争議、電灯争議等)の取締、
第三節(第五十七条から第六十六条)は、メーデーなど集会、多衆運動の取締、
第四節(第六十七条から第八十二条)は、朝鮮人・台湾人の取締規定である。
第三章は各種報告についてで、
第一節(第八十三条から第八十六条)は、月報、半年報、年報の定期報告についての規定で、月報は8種、半年報、年報は26種、それぞれ定められた報告を義務付けている。
半年報で要求されている項目は次の通りである。
治安維持法違反検挙者数、思想団体調、特高関係政党本(支)部状況調、国家(農本)主義思想団体調、国家(農本)主義聯合団体調、日本労働組合全国協議会調、労働団体調、労働団体数調(その一、その二)、工場・鉱山等労働者調、当時使用労働者五百人以上の工場・鉱山等調、主要農民組合現勢調、農民団体数と加盟員数調、俸給生活者組合調、借地・借家人(地主・家主)団体調、朝鮮人(台湾人)世帯・人員調、朝鮮人(台湾人)職業調、朝鮮人(台湾人)出身道(州)別調、治安維持法違反朝鮮人(台湾人)検挙調(団体別)、朝鮮人失業調。
第二節(第八十七条から第百三条)は、臨時報告についての規定である。
このような報告に基づいて警保局で全国的な統計資料が作成され、それが各府県等に配布されたのだろう。このような体系化が行われるようになったのは昭和4年以降である。大正12年以後の特別要視察人に関する報告が見られなくなった代わりに、大正10年ころから思想団体の調査がまとめられている。*
304 *「思想団体調」(大正10年1月調)では、
「現在注意を要すると認められる団体は、その数が53あり、その分布は別表の通りである」とし、「要注意団体の中で、重大なもの」として、東京の暁民会、建設者同盟など全国25の団体の状況を述べている。
これは大正11年4月15日調の「思想団体表」、大正11年1月調の「要注意団体の状況」とともに、社会文庫編『大正期思想団体視察人報告書』(社会文庫叢書Ⅱ、昭和30年、柏書房)として復刻されている。
その他の資料
年報
『労働運動概況』大正11年以降刊行
『出版物の傾向及取締状況』警保局図書課、大正11年以降刊行
月報
『社会主義運動月報』(この月報の大正10年分の2冊が伊藤隆編『大正後期警保局刊行社会運動史料』昭和43年、日本近代史料研究会に収められている。)
『本邦労働運動月報』
3・15事件がきっかけとなって治安維持法が改正されたが、それと併行して、特高警察機構が大拡充された。すでに大正11年、1922年から大正15年、1926年にかけて、北海道、長野、神奈川、愛知、京都、兵庫、山口、福岡、長崎などの大都市と主要港所在の府県警察部に特高課が設置されていたが、昭和3年、1928年7月、残りの全府県に特高課が設置され、全府県の主な警察署に特高係が配置された。
この時期の治安対策や特高警察の拡充の推進者であった河村貞四郎の回想『官界の表裏』昭和8年は(特高関連)予算の獲得について触れている。
特高課長の人事は、知事と関係なく、内務省警保局保安課長が握っており、優秀な高文出の若手が任命され、その下にベテランが配置された。
警保局保安課を拡充し、司法警察権を持つ警務官若干名と数十人の警務官補を配置し、彼らが全国をブロック別に受け持ち、各ブロック内の特高警察を直接指揮、補導、協力した。
図書課、外事課も充実された。国際的な情報収集のため、北京、ハルピン、上海、ロンドン、ベルリンの五カ所に保安課事務官が一名ずつ派遣された。*
305 *年史刊行会編『昭和三年史』昭和4年、1929年によれば、以下の通りである。
共産党事件の副産物とも見るべきものに思想警察の充実がある。政府は思想警察費として195万円、思想犯罪捜査費として32万1千円の、昭和3年度追加予算を第55議会に提出し、通過させた。また(昭和4年、1929年)7月3日、特別高等警察充実に関する内務省勅令6件が公布され、思想警察網が張り巡らされた。その大要は次の通りである。
一、特別警察施設充実
(甲)情報機関の整備 (イ)本省職員の増加 (ロ)海外駐在員の増加 (ハ)国内警察電話その他の施設充実
(乙)執行機関の充実 (イ)本省内に執行権を持つ職員の配置 (ロ)地方庁職員の増加 (ハ)本省職員と地方職員と協力の執行制度新設
二、新聞紙出版物検閲施設充実
(甲)外国出版物検閲調査職員の新設 (乙)新聞出版物検閲職員の増加 (丙)新聞および出版物の受付並びに検査係の増員 (丁)庶務係の増員 (戊)検閲時報の発行制度の新設
特別高等及び外事警察に関するものを一括して保安課とし、保安課長は勅任事務官を以てこれに充てる。そしてこの保安課に警務官(奏任)5人、警務官補(判任)15人、雇15人を置き、全国を(一)関東、中部、(二)北海道、東北、(三)近畿、(四)中国、四国、(五)九州の五地方に分け、各々分担を定めて地方職員と協力、連絡をとる。
右のほか、事務官(奏任)8人、属18人、通訳1人、嘱託11人、雇15人を保安課に置き、各種の調査・連絡に当たらせ、左の5カ所に事務官と属を1人ずつ配置し、各種運動の状況を調査・報告させる。
ハルピン、長春、北京、ベルリン、ロンドン
保安課は右の人員を増加する以外に、図書の厳重な検閲のため、図書課に事務官2人、属26人、雇21人を増加する。
306 地方職員として、高等課がすでに設置されている10府県を除いた1道36県に、警視40名を増加し、警部は東京府の8名を筆頭に、全国に115名を新任し、その手足となるべき特高専門の警官500名を増員する。
警察電話を東京・青森間、神戸・長崎間に架設し、全国を特高網で完全に連絡する。
以上の思想警察網だけではまだ不十分であり、政府はさらに32万1千円の思想犯罪捜査費でもって、全国の控訴院をはじめ、主要都市の地方裁判所に、思想問題専属の検事部を設置した。
そして、北京、上海、ハルピン、浦塩(ウラジオストック)の各地に時々検事を派遣して、同問題の対策を研究させるとともに、東京、大阪、京都の控訴院または地方裁判所に、それぞれ3名の検事を置き、福岡、岡山、横浜、名古屋、札幌、仙台の各地方裁判所に2名、熊本、広島、長野、神戸等の各地方裁判所に1名の検事を置いたが、それによって思想専属の検事が26名できた。
このような特高警察の拡充によって増員された保安課の課員、各県の特高課長、各警察署の特高係のほとんどは特に特高警察としての訓練は受けず、一般の警察官からの異動によって補充された。
大橋秀雄『ある警察官の記録』(昭和42年、みすず書房)は特高関係者の回想であるが、それによれば、以下の通りである。
大橋は昭和7年、1932年8月、巡査部長になり、万世橋署勤務を命ぜられ、最初は外勤監督となったが、やがて突如特高係を命ぜられた。独学でマルクス主義経済学を一通り勉強し、さらに非合法の出版物を読み、検挙されている共産党員を相手に議論して研究した。以後も特別な教育を施されることもなく、衛生警察事務や交通警察と同様に、(特高が)特殊専門化されることはなかった。
各県特高課長は高文出の若手内務官僚の出世コースの一つであったが、長期にわたってその職にとどまることは少なく、その他の特高警察官も、特高という職は一般警察官の出世コースの一つであり、特に秘密警察として扱われることはなかった。
『社会主義者沿革』『特別要視察人状勢一班』『社会運動の状況』をもとに、「特別要視察人の年度別人数」(表308--309)を作成した。
『社会運動の状況』は特高が毎年まとめたものであるが、その目次の項目と、その項目に割り振られたページ数を調べると、特高警察の取り締まり対象となった社会運動とその比重が分かる。それを表「『社会運動の状況』の項目とページ数」として作成した。311
警保局の各課は『特高月報』『外事警察報』『外事月報』『出版警察報』などの月報をまとめ、その集大成として各年の『社会運動の状況』『外事警察概況』『出版警察概観』などの年報を刊行した。いずれも秘密出版物だった。
このうち保安課がまとめた『特高月報』(昭和5年3月から昭和19年11月。なお、昭和20年分の原稿は「旧陸海軍文書」の中にある。)は、昭和48年、全15巻が政経出版社から復刻された。
『社会運動の状況』(昭和4年から昭和17年)は、「昭和2年中(及び昭和3年中)における社会主義運動の状況」全14冊として三一書房から昭和46年から47年にかけて、復刻された。
3・15、4・16、昭和5年、1930年7月の田中清玄逮捕を経て、特高は「昭和3年、1928年3月の党の一斉検挙以来ここに初めて党と同盟を壊滅することができ、3・15事件以来の検挙に一段落をつけることができた。」としている。
その後相次ぐ再建運動が起こったが、昭和6年、1931年10月の一斉検挙*、昭和7年10月30日の大検挙(熱海事件)、その他相次ぐ小検挙を行い、昭和8年、1933年6月の佐野・鍋山の転向声明とそれに続く大量転向の結果、昭和10年、1935年、特高は「遂に党組織はほとんど壊滅に瀕し、全協その他の外郭団体の運動も極度に萎靡不振の状態に陥った。」と共産党と外郭団体の潰滅を確認し、以後は散発的な再建運動の検挙を行うにとどまった。
*これは錦旗革命事件10/17ではないだろう。錦旗革命事件とは、橋本欣五郎中佐(桜会)らによる軍部内閣樹立のためのクーデター未遂事件で、事前に発覚して拘禁された。
310 共産主義運動(思想犯)取締りのための法規は、朝鮮の場合、大正14年、1925年から昭和8年、1933年までについてだが、治安維持法違反の他にいくつもあった。大正8年制令第七号違反、保安法違反、皇室に対する罪、内乱に対する罪、騒擾、新聞紙法違反、暴力行為等処罰に関する法律違反、爆発物取締罰則違反などである。(社会文庫編『昭和期官憲思想調査報告』昭和40年、柏書房)
つまり、一般刑法の他に、出版法、新聞紙法、治安警察法、行政執行法、警察犯処罰令、違警罪即決例等が適用された。
共産主義運動の比重が減少すると、昭和7年、1932年から『(社会運動の)状況』に国家主義(農本主義)運動の項目が現れ、特別要視察人等にも彼らが登場する。5・15事件をきっかけに右翼が特高の視察対象になった。『内務省史』は「国家革新とか国体護持という旗印に対して、官僚も警察も内心共鳴していて、右翼は警察の取り締まりの対象というよりも、味方として考える傾向があった。ところが5・15事件という集団的な暴力事件となって、右翼が取締りの対象になり、警察は右翼の査察、内偵などに当たるようになった。」と記している。
この年、警保局保安課に専任の右翼係事務官を置き、警視庁でも課から部に昇格した特別高等警察部の中の特別高等課の中に第二係(右翼係)*を置き、全国各府県の特高課内にも右翼係を置いた。
*これは昭和11年、1936年7月、特高第二課として強化された。
『内務省史』によれば、「5・15事件以後の事件は、別表(56件の事件)のように、永田軍務局長刺殺事件や2・26事件のような現役軍人によって行われた事件を除き、民間右翼によって計画された事件のほとんどが未然に検挙された。」(2・26を起こしたことには警察は責任はとらないのか。)
しかし、特高は「革新官僚」の有力な一翼をなしており、右翼や日本主義的革新思想への親近感が強かった。菅太郎の回想*でもそのことが示されている。
*『現代史を創る人びとⅠ』中村隆英・伊藤隆・原朗編、昭和46年、毎日新聞社
312 昭和11年、1936年以降、宗教運動が登場した。芦苅直巳「最近に於ける類似宗教運動に就いて」298によれば、「昭和12年、1937年頃から内務省警保局や主要各府県警察部の保安課や特高課に宗教係が設けられ、宗教事犯の摘発と、類似宗教団体の全国的な活動に備えた。」
唐沢俊樹によれば「一番記憶に残っている事件は、出口王仁三郎という指導者が昭和神聖会を組織したことである。これは宗教団体ではなく、昭和維新の外郭団体のようなもので、自らを統監と自称して大将になり、副統監には自分の子どもと黒竜会の内田良平を置いた。この教団の勢力は伸長し、賽銭も多かった。ところがやっていることは、皇室誹謗で不敬罪に該当し、大きな陰謀を抱き、社会革命を狙っているように見えた。」(『大霞』)これは国体明徴運動と関係していたと思われる。
朝鮮人や台湾人に対する取り締まりは一貫していた。昭和14年、1939年以降は、朝鮮人や台湾人は特別要視察人に指定され、昭和13年、1938年以降の『(社会運動の)状況』に占めるページ数も2倍になった。
戦後も特高は活動を続けた。昭和20年9月22日、米国政府が発表した「降伏後における米国の初期対日方針」は、秘密警察組織の解消を要求していたが、政府は特高を廃止するつもりはなかった。
これの廃止は、治安維持法と同じく、10月4日の連合軍総司令官の日本政府への覚書による。その覚書は、秘密警察機関、検閲・監督・保護観察関係部局の廃止と、内務大臣その他中央・地方の警察最高幹部・特高関係警察職員の罷免等を要求した。
その結果、特高は廃止され、昭和20年10月13日付で、10月4日現在在職中の内務大臣、警保局長、警視総監、大阪府警察局長、各県警察部長47名、特高・外事課長54名、特高係警部168名、警部補1、000名、巡査部長1、587名、巡査2、127名、計4、984名の警察幹部と特高関係警察官が罷免された。
313 10月4日から特高になった者も罷免され、恩給・退職金の給与を禁止され、権力に関係する公務への就職を禁止され、元の官庁への出入りを禁止され、多くの者は公職追放を受けた。(当然ではないのか。)
拷問 戦後横浜事件の被害者は拷問について語っているが、戦前は暴力が日常的だったから、拷問も免罪される。(私はこの伊藤隆の考え方には納得できない。)
スパイ 第一次共産党事件はスパイによって検挙された。スパイについて大久保留次郎は、昭和31年2月『特集文芸春秋』の「思想警察の内幕」で語っている。また杉本守義は昭和27年8月1日『ジュリスト』15号の中の「特高警察の組織と運用」(二)の中で、次のように述べている。
…先輩から聞いた話だが、検挙したものの中のある者をスパイとして利用しようと思えば、この者を起訴しないでおく。スパイの条件は、しっかりとした人物で、党活動をした証拠が既に挙がっている者に限る。
取り調べ中に他の被検挙者についてこの者の人物、行動について積極的に追及しないでおき、仮にちょっと氏名が出て来ても、調書には載せないで聞き流す。このことによってこの者の氏名が他の被検挙者の自白供述には現れないことになる。
一方でこの者には証拠を挙げて追及して自白させ、起訴を覚悟させておきながら起訴せずに釈放する。この時この者にスパイになることを口説く。報償その他の取り扱いを十分考えてやることにしてスパイを引きうけさせる。帰党後彼は英雄視される。検挙漏れの党員が集まってきて再び党活動を開始する。スパイは正確な情報を入れてくれる。このように培養して(情報をつかめた党員が)相当な数になると、適当な時期に一網打尽に検挙する。このスパイ養成は常に検挙したときに行う。ただスパイの態度を常に注意しておく必要がある。入れた情報の裏付けとなる事象が現れるかどうか。寝返りを打ったかどうか。しかし一回スパイ行為をすれば大抵大丈夫のようであった。(寝返りは打たない。)
314 一方立花隆は次のように指摘している。第一次日共以来自供が多く、特に幹部級の自供が多い。党の秘密を当局に伝えたのはスパイだけとも限らない。情報量からしたらスパイの情報よりも自供者の情報量の方が多かっただろうと。(『日本共産党の研究・上』昭和53年、講談社。これは『文芸春秋』に連載されたものをまとめたもの。)(どんなものか。なんとでも言えるのでは。第一、立花隆は現場を確認したことがあるのか。)
日本共産党
立花隆の「日本共産党の研究」は、史料、聞き取り、関係者の回想、関係文献をもとにしている。
315 『日本共産党の五十年』(昭和52年、日本共産党中央委員会出版局)は、共産主義者やその党が如何にあるべきかという視点で書かれ、日本共産党の歴史的な正しさを顕彰しようとして*党自身がつくった歴史書である。*これは言い過ぎではないか。「顕彰」ばかりでなく反省もしている。
立花の同書は、『日本共産党の五十年』や、同じく共産主義の立場で日本共産党を批判する人々の日本共産党史、また反共イデオロギー的立場から日本共産党を批判する日本共産党史とも異なる。
立花の同書は日本共産党から反発を受け、論争したが、その過程で、関係者が過去の回想を公表し始め、新たな史料が発掘された。
以下の日本共産党に関する歴史は、立花の同書や、戦後、公安調査庁が作成した『日本共産党史(戦前)』(昭和37年)に基づく。
大正11年、1922年7月15日、東京渋谷の一民家で創立大会が開かれたことを以て日本共産党が成立したと日本共産党は言うが、『日本共産党の五十年』は、これ以前の近藤栄蔵らによるコミンテルン日本支部準備会の結成を全く無視している。
近藤栄蔵はアメリカで片山潜らと活動していたが、米騒動のニュースを聞き、日本で共産党を結成して革命を行おうと決意して帰国し、堺利彦、山川均、荒畑寒村らと連絡し、大正10年、1921年、コミンテルンの使者と接触*し、8月ころに暁民会メンバーを中心に共産党を称して活動したが、近藤は11月に検挙され、12月に一斉検挙され、暁民会共産党運動は中断した。
*これ以前に大杉栄がコミンテルンと接触していた。
これより先、1921年10月、コミンテルンから張太雷が来日して堺、山川、近藤らと連絡し、11月から開かれる極東民族大会への日本からの代表派遣を要請し、これに従って、暁民会の高瀬清、徳田球一らがこれに参加した。この会議への参加者は、スターリンらから、日本における共産主義運動についての「指示」を受けて帰国し、前述の(コミンテルン日本支部準備会のことか)日本共産党準備委員会に報告し、それが大正11年、1922年7月15日と言われる*「いわゆる」第一次共産党の結成につながった。
*疑問があるとされるが、その意味は、それ以前の過程を無視していると言いたいのか。
316 三・一五の徳田の予審調書によると、(『日本共産党の五十年』は信用できないのか。)中央委員は、堺、山川、荒畑、近藤、高津、橋浦、徳田*であった。
*徳田について高津は否定している。(高津正道「旗を守りて」『月刊社会党』55号~)
これは前述の準備会あるいは暁民会の運動と人的に関連性があるのに『日本共産党の五十年』では、党の創立とその直後の党員の主な者の中に高津・橋浦らの名前がないし、彼らとの関連が「抹殺」されている。(社会党員だからわざと落としたのか)
この「いわゆる」第一次日本共産党は、この年1922年11月に開かれたコミンテルン第四回大会で正式に承認され、コミンテルン日本支部・日本共産党となった。
この第一次共産党は、これまで散在していた60人前後のコミュニストの諸サークルの連合体であり、細胞を基礎にした中央集権的な共産党組織ではなかった。コミンテルンが作成した規約・綱領草案を審議するため千葉県市川で第二回党大会を開き、翌1923年3月、石神井で臨時党大会を開いたが、綱領は審議未了に終わった。その3か月後の1923年6月、一斉検挙となり、さらに9月に関東大震災が起こり、翌大正13年、1924年2月までに、党指導部のほとんど全員の意志で解党を決定した。
解党後ビューローと言われるもの(不詳)を通じて大正15年、1926年末に再組織された日本共産党は、人的にも、組織形態でもいわゆる第一次日本共産党と断絶している。大正15年、1926年12月の五色温泉での(いわゆる第二次共産党)再建大会(第三回大会)で選任された中央委員は、佐野学、徳田球一、市川正一、佐野文夫、福本和夫、渡辺政之輔、鍋山貞親らであり、後に労農派と言われる第一次共産党の中央部を結成していた社会主義者のグループはほとんど再組織の過程で去り、唯一統制委員長に選任された荒畑も、再組織の主導理念であった福本主義に反対してその任につかず、やがて党自体から離れた。
第一次共産党が諸共産主義グループの連合体的存在であったのに対して、第二次共産党は、日本労働組合評議会や学生社会科学聯合会、労働農民党、農民組合、水平社などの大衆組織の「左翼リーダー」の結集であった。その理論はレーニンの党組織論の影響を受けた福本イズムであった。(福本イズムはソ連によって否定されたのではなかったのか。)党員の多くは種々の運動団体の指導的な「常任活動家」であり、党フラクションを通じてそれらの団体を指導し、党自体の大きさに比してはるかに大きな影響力を持っていた。(どいうことか。意味不明。)
しかしコミンテルンは、この再建大会の決議を認めず、モスクワに召致された日本共産党代表に対して、綱領「二七テーゼ」を与えて中央委員を選定した。(福本否認か)また、工場細胞を基礎とすること、中央機関紙の発行、非合法組織の強化を強調する組織テーゼが与えられた。
代表が帰国した昭和2年、1927年から、コミンテルンの方針に従った党組織が進められ、翌昭和3年、1928年2月の第一回普選に向かってその存在を大衆の前に公然と表明する態度で活動を進めた。
その直後の3月15日の一斉検挙で約500名の党員の大半を失い、更に外郭団体の評議会、労働農民党、全日本無産青年同盟を解散させられ、活動の基盤を失った。
検挙漏れの幹部を中心に党組織の再建が進められ、外郭団体(全協、共青、政治的自由獲得労農同盟、ナップ等)も再組織されたが、昭和4年、1929年4月16日、再度一斉検挙され、200名の党員の大半を失った。以後、再建と検挙が繰り返された。
昭和4年、1929年7月、田中清玄を中央委員長とする中央部が再建され、これまで党の周辺にいたメンバーを入党させ、全国組織を確立したが、コミンテルンとの連絡が切れて資金を受けることができなくなったため、技術部資金係を発足させて資金活動を開始し、武装方針をとった。
昭和5年、1930年2月から3月にかけての全国的検挙で約100名の党員の大半を失い、検挙を逃れた田中は再組織を進めたが、7月、田中以下の首脳部が検挙されて、中央部は壊滅した。
この間、昭和4年、1929年中に、三・一五事件の被告である水野成夫や門屋博らが獄中で反幹部運動をはじめ、保釈出獄後、昭和6年、1931年、日本共産党労働者派を結成し、日本共産党を批判した。
318 次に昭和5年、1930年11月にクートペから党再建の使命を帯びて風間丈吉が帰国し、党中央部を再建した。昭和6年、1931年1月、風間が責任者(後に中央委員長)となって中央部を確立し、組織を拡大した。
この間満州事変が勃発し、コミンテルンは天皇制に対する闘争の強化を中心とする三二テーゼを与えた。党は一時期コミンテルンとの資金関係を回復したが、再び失い、昭和6年、1931年11月ころから資金局(のち家屋資金局)を設けて資金活動を行った。シンパ層からのカンパ、拐帯(持ち逃げ)や、昭和7年、1932年10月、川崎第百銀行大森支店を襲撃して3万円余を奪い(銀行ギャング事件*)、「世間を驚かせた。」
*「大森の銀行ギャング事件」とまるで共産党が独自に組織的にやったかのように言っているが、これはスパイが画策したのではなかったのか。『日本共産党の七十年』上によれば、これは、「スパイ松村こと飯塚盈延の画策であること、党は無関係であると「赤旗」号外1932.10.11で表明し、この事件に関係した党員を除名処分にした。」とある。098
この時期、党は周辺シンパの党員化を進め、組織人員がピークとなった。昭和7年、1932年から昭和8年、1933年までの起訴者中の党員と共青員の数は、昭和7年、1932年は552名、昭和8年、1933年は868名であった。全協、共青、コップ、全農全会派などの外郭団体も再組織されたが、これらの団体のほとんどが非合法化ないし半非合法化され、党員の活動は大衆運動というより非合法組織の維持・連絡に多くの精力がさかれた。そのことは多くの党員が回想している。
また大会の開催が決定されたが、延び延びにされ、三二テーゼの観点での意志統一を図るべく、昭和7年、1932年10月末、全国代表者会議を開催することになり、熱海に集まったところを一斉検挙され、次いで中央委員長風間丈吉以下が相次いで検挙され、組織はほぼ壊滅した。この時期の党中央の重要人物松村は警視庁のスパイだった。
その後も中央部の再建が企てられ、昭和8年、1933年1月、クートペ帰りの山本正美を中央委員長とする中央部が再建されたが、5月に山本正美が検挙された。その後は野呂栄太郎が委員長になったが、野呂も11月に検挙された。
この間昭和8年、1933年6月の佐野・鍋山の転向声明をきっかけに転向の雪崩現象が起こり、党や外郭団体は勢力を急速に低下させた。
野呂栄太郎の検挙後、宮本顕治らを常任委員とする中央部が組織されたが、野呂の検挙をきっかけに党員の再登録とスパイの摘発に当たり、いくつかのスパイ査問事件を起こした。
中央委員の小畑達夫や大泉兼蔵*に対する査問で、小畑が死に、そのことがきっかけで特高の激しい追及検挙を被った。(仕返しか。)
*当初当局は小畑の死を「党内派閥の指導権争いによる殺人事件」にでっち上げようとしたが、スパイ(大泉兼蔵)自身が秘密警察のスパイであることを自供することによって、当局のその策動は崩壊した。(『日本共産党の70年』上144, 145)
昭和9年、1934年3月以降、中央委員としてただ一人残った袴田里見が中心となって中央部が構成されたが、党活動はほとんどできず、地方組織も次々と検挙され、外郭団体の活動も低下した。
中央部に不信を抱いた全農全会派フラクなどを中心に、昭和9年、1934年5月に日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会(多数派)が結成されたが、昭和9年、1934年9月、コミンテルンの批判で解体した。
昭和10年、1935年3月4日、袴田が検挙され、その周辺の党員も検挙され、日本共産党は組織として全く壊滅した。
以後、残存者や刑期満了出所者によって小規模な再建運動が繰り返された。神山茂夫らの旧全協刷新同盟系の再建運動(昭和10年、1935年5月検挙)、和田四三四らの中央再建準備委員会(昭和11年、1936年12月検挙)、春日庄次郎らの日本共産主義者団(昭和13年、1938年9月検挙)、岡部隆司・長谷川浩・伊藤律らの日本共産党再建準備委員会(昭和15年、1940年6~7月検挙)、神山茂夫らの旧全協刷新同盟系の第二次再建運動(昭和16年、1941年2~5月検挙)などである。
この後も特高は、横浜事件などを再建運動と見なして検挙を行ったが、これは特高の側のでっち上げで、本格的な再建運動ではなかったようだ。以後、散発的な共産主義者の動きがあった。
日本共産党研究の課題
その時代の政治状況や思想状況の中で、コミンテルンとの関係を含めて、日本共産党の組織・政策・意識・行動様式や外郭団体を位置づける必要がある。
日本共産党は少なくとも戦前では政治集団として国家的な政策に影響を与える勢力とはならなかった(本当か。)が、共産主義が日本の知識層に与えた影響は大きかった。彼ら知識層の共産主義や共産党に対するコンプレックスは強かった。文学や演劇、社会科学、芸術、学問の分野への共産主義や共産党の影響は戦後にまで及んだ。少数の共産党が大きなイメージを残したが、その背景は何だったのか。
320 統制経済論、新体制論、東亜共同体論、大東亜共栄圏論など昭和10年代1935--1945の革新派の理論の中にマルクス主義的なものの考え方が影響を与えている。藤田省三はこう語っている。「我が国ではマルクス主義は共産主義運動を起こしただけの意味を担っているのではない。マルクス主義はそれに付随して巨大な思想史的役割を果たした。戦中・戦後の時期に、マルクス主義は形を変え、姿を異にして思想の中に入り込み、大きな影響を与えた。」(「天皇制のファシズム化とその論理構造」『近代日本思想史講座1』筑摩書房、昭和34年、1959年)
革新派の理論家の中に日本共産党の転向者や日本共産党に影響を受けた人々がいる。また昭和8年、1933年前後の日本共産党の大量転向によって引き起こされた全運動で、転向後の共産党員やシンパ層はどうのように生きたのか。彼らの多くは軍の機関、(軍の)外郭団体、満鉄調査部、東亜研究所などの一員として、少なくとも表面的には革新的言動で以て活躍した。尾崎秀実もその一人ではないか。尾崎の中で、ソ連や共産主義に対する忠誠と東亜協同体論・新体制論とが共存している。同じ事件の関係者の一人である久津見房子もそうだ。(『久津見房子の暦』牧瀬菊枝、昭和50年、思想の科学社)
戦前の転向者は戦後再転向して入党したが、彼らの(転向)経験は党にどんな影響を与えたのであろうか。
「特高の自分史」ができるまで 中村智子
321 1977年3月、中村絹次郎・元特高課長は奈良に住んでいた。
322 私はそのころ横浜事件関係者の聞き取りを始めていた。本の記述と当事者の発言とが食い違うことがある。当事者の証言には記憶違いや自己合理化もあるが、当人にしか語れない重みがある。
1977年6月、私は中村に会うことができたが、中村はその5カ月後に亡くなった。
中村絹次郎は1932年東大法学部を卒業して、内務省に入り、1935年特高一課(左翼係)の課長になった。1941年のゾルゲ事件で功績を上げ、太平洋戦争下のビルマの司政官に転じ、敗戦となり、公職追放となった。
戦後、建築関係の法律を勉強してその方面の権威となり、建設省中央建設業審議会専門委員や、全国建設業協会顧問などの役職についた。
山村八郎というペンネームで『ソ連はすべてを知っていた――ゾルゲ事件赤裸の全貌記録』(紅林社、1949年)を出版した。
323 中村は語る。
「私は企画院事件、ゾルゲ事件、新協劇団の解散を手掛けた。ゾルゲ事件のとき、私が尾崎秀実や西園寺公一219を逮捕に行った。伊藤律をスパイとして使っていた。戦後キャノン*に呼ばれてゾルゲ事件のことを聞かれた。」
*キャノン the Canon Unit キャノン機関 GHQ参謀第二部(G2)直轄の秘密諜報機関。名称は司令官ジャック・Y・キャノン(Jack Y. Canon)陸軍少佐の名前から来ているが、GHQ内の正式名ではなく、後に日本のマスコミがつけた名称と言われる。Z機関(Z-Unit)、本郷機関などとも呼ばれる。旧岩崎邸に置かれた。
中村は宮下弘との共著形式での単行本の出版を提案した。中村は語る。
「宮下は私より10歳年上で、伊藤律を協力者(スパイ)として使っていた。課長(私)はスパイを持たないことになっていた。」
324 「我々は巡査千人よりいいスパイ5人欲しい。だから欲しいのは機密費だ。」
「伊藤律には宮下さんが尾張町の交番の前で毎月十のつく日に十円ずつ渡していた。向こう(伊藤)は小出しにする。心理戦争だと宮下から聞いた。」
325 それから一週間後、宮下弘に対面した。宮下は1900年生まれで、今年1977年、喜寿(77歳)を迎えたが、頑健な老人だった。眼光が鋭く、いかにもベテラン特高という感じだが、笑顔は思いがけないほど明るく、話しぶりも穏やかだった。功を誇る口吻もなく、むしろ控えめすぎるくらいで、話し手として信頼できそうな印象だった。(すでに取り込まれている。)
「歴史に証言を残すつもりで回想を語っていただきたい」と懇請したところ、宮下は「中村絹次郎さんがそう言うのなら一緒にやりましょうか」と承諾した。宮下は「一度脳血栓で倒れたことがあるが、今は健康だから、週一回くらいのペースで話してもよい。以前から某大出版社から、資料をそろえるから書いてくれ、と言われているが、書くのはおっくうで断っている。あなたの方で話を纏めてくれるのならやってもよい」と言った。
326 中村は「今建築関係の著書を執筆中で、それが済んだら加わるから、先に宮下と始めてくれ」とのことだったが、宮下との最初の聞き取りを8月初旬に準備できた時、中央公論社社内から横槍が入った。旧特高関係者の証言を雑誌や本にすることへの、進歩的出版社の特高アレルギーからではなく、私が中央公論社の現状を批判した『「風流無憚」事件以後』(田畑書店、1976)を発表したことに対する報復と思われる。それでこの企画は流れた。
私は宮下に「私の方ではできないが、以前から宮下さんが頼まれている某出版社や、私の友人の出版社から是非証言を残してほしい」と言ったが、宮下は「自分からやりたいことではない。この話はやめにしましょう」と断られた。
それから3か月後の11月2日、中村絹次郎が心不全で亡くなった。68歳だった。
327 数日後、私は宮下に電話し、「宮下さん一人で語っていただきたい。特高時代以外の自分史にも興味がある。出版は友人がやっている田畑書店でやらせて欲しい」と懇請すると、宮下は承諾した。
昨年1977年末、伊藤隆(東大助教授・現代史)、田畑書店の石田明、私の三人で宮下の聞き書きを始めた。
宮下は77歳だったが、十日に一回くらいの割合で、一回3時間余にわたる聞き取りにほとんど疲れを見せなかった。事件の日付、人名、前後関係などの記憶力は抜群だった。最終回の聞き取りを終えたのが1978年3月初旬だった。
石田と私がテープから起こした原稿を宮下が目を通して加筆した。
宮下は中村の、宮下が伊藤律に十円ずつ渡していたという話を出した私の質問に、「安直なスパイ説だ、伊藤律はスパイじゃない」と言った。
328 宮下の、スパイとして使った人間の名を明かさないと明治人気質と職業の倫理は見事だった。私たちが執拗に繰り返し質問すると、宮下は律について言いましょうと聞き取りの最終回に言った。
宮下は高等小学校を終えて職工となり、母子ともども首になり、解雇反対闘争をする、その際法律を知らない哀しさから、ただで法律の勉強をしたいと考えて巡査採用試験を受ける。正義感の強い、職務に忠実な青年巡査はやがて昭和初年の特高部門拡充に伴って本庁特高に引き上げられる。
329 本書は1929年の4・16事件直後から(敗戦後の特高)一斉罷免までを扱う。
1978年5月
以上 2021年4月1日(木)
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