一 「国史学の骨髄」 平泉澄 至文堂 昭和2年、1927年 『国史学の骨髄』 平泉澄 至文堂 昭和7年、1932年 定価1円80銭 所収
感想 2021年4月12日(月)
歴史がまるで信仰の世界だ。神を信じろと言う。神を信じなければ日本人ではないとでも言おうとしているかのようだ。橘署覧の神の存在を称える歌005や道元の宗教観などはそれを導くための道具である。古代の人々なら宗教を信じようとすると理解できるが、20世紀の人間が宗教的世界観にとりつかれた歴史観を他人に向かって主張するとは、非理性的な強引さを感じる。日本は神国、万歳だ。
感想 2021年4月11日(日)
論理というより、修辞が目立つ。例えば、「歴史の最高最深最幽最玄の意味においては」001など。また、孔子を引用しても、その内容と、自らの論旨との整合性が薄く、ただ孔子の言葉を知っていることを示すだけに終わっている。001
筆者ははしがきで自らは凡庸であると謙遜しておきながら、本文はえらい居丈高な文体だ。
本論文の眼目は、日本が神国であること、つまり、天皇が日本を統治することを日本書紀とそれを再確認した北畠親房の「神皇正統記」008が保証するということなのだろう。
そしてその行き着く結論は、「日本の歴史は日本人にしか書けない」、「日本史の精神は日本人にしか分からない」、「歴史の研究方法も、日本独特のものでなければならない」ということになる。
「歴史は精神の一貫性で貫かれている」というのもその文脈の中で理解され、この「歴史の精神」とは、天皇の統治をいうのだろう。
平泉澄(きよし1895.2.15--1984.2.18)の専門は日本中世史で、生涯にわたって国体護持、皇国史観を唱えた東京帝大教授。平泉寺白山神社宮司。皇学館大学学事顧問。日本を守る国民会議発起人。
要旨
はしがき
既刊の『我が歴史観』以後の論文12篇を集めた。この12篇は長短新旧相互に直接の脈絡はないが、精神は貫かれている。私は自らが平凡で愚かであることを恥じるが、国史を闡明し発揮することを願い、少しでも同志に寄与するところがあれば本懐である。
皇紀2592年*、昭和7年、1932年3月9日 *2592-660=1932
一 国史学の骨髄
001 歴史(学)が存在するのは、単に時間的経過のためではない。歴史が単に時間的経過を意味するとすれば、歴史はあらゆる人にあり、あらゆる動物にあり、宇宙のすべてのものにあるはずだ。実際このような意味で歴史が用いられることもあるが、歴史の最高で最深で最も幽玄な意味においては、歴史は高い精神作用の所産であり、人格があって初めて歴史は存在し、自覚があって初めて歴史は生ずる。
昔、孔子は「吾、十有五にして学を志す」と言ったが、志を立てることは、その人の歴史の始まりである。志が未だ立たない間の経歴は、ただ背景として見るべきであり、立志以前と以後とにある重大な変化を歴史家は刮目して観察しなければならない。未だ自覚することがなく、志が未だ立たない者においては、歴史は未だ存在しない。無自覚的な輩は歴史とは無縁である。ここに歴史はその最高の意味で、動物と異なり、未開の蛮人と異なり、無自覚な生理的存在と縁を絶ったのである。
002 歴史は変化発展を必要とする。人格者でもその思想や行動に発展がなければ、歴史的意義に欠けるだろう。表面的行動がなくても精神的内面で進歩発展すれば、歴史は成立する。カントは居住する町から出なかったが、その精神は進展した。(表面的・外面的行動変化について位置づけがあいまいだ。)
003 時代区分 孔子は外面的な変化もあったが、精神も進展した。「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えない」という言葉がそれを物語っている。
歴史家は個人の精神的・表面的な変化・発展に気をつけるべきだ。
左大臣藤原頼長は久安三年を境にして精神的変化を遂げた。この点は頼長を理解するうえで、また保元大乱の真相を理解する上で大切な点であるが、従来この点が気づかれてこなかった。
004 日蓮の一生は三期に分かれる。
(一)建長五年以前、日蓮は諸山諸寺を遊歴し、諸宗の経典を学ぶ修行者だった。
(二)建長五年以後、「念仏無間禅天魔眞言亡国律国賊」という四箇格言を高唱し、熱弁して諸宗を罵倒し、幕府に対してすぐにも他宗の絶滅を迫った、花々しい改革運動者だった。
(三)文久八年、佐渡に流され、「死人を送る三昧原に垣根もない草堂に落ち着き、」心機一転して「どうやっても今はどうにもならない世の中だ」と観念して静かに書物を著し、弟子を養成し、時期を待った。身延山での隠棲はその現れだった。
日蓮の第一期は30年、第二期は20年、第三期は10年続いたが、第一期は過去に向かい、第二期は現在に対し、第三期は将来を望んだといえよう。日蓮は「己今当」というが、これは過去・現在・未来を意味する。
005 この三期の変遷を理解することは日蓮の一生を知るうえで必要だが、国家の歴史でも時代の変遷をその本質で理解することは、歴史を理解する上で大事だ。クローチェはこう言った。To think history is certainly to divide it into periods. 今まで時代区画が浅薄無雑作に考えられてきたのではないか。
次に歴史を考える上で重要なことは、歴史が復活だということだ。(ここ以降が天皇教を扱う本題)
崇高な人格者でも、偉大な功業でも、現在の人に忘れられていたら歴史ではなくなる。歴史が成立するためには現代人が認識し、理解し、共鳴し、同感する必要がある。現代人が認識することによって、死の黄泉の世界から魂を呼び起こし、それに生命を与える。
吹く風の目にこそ見えね
神々は
この天地にかむつまります
006 これは橘曙覧の歌である。神を信じない者には神の存在を感知できない。信じる者には、たとえ目には見えなくても、神々はあちこちに充ち満ちている。神は人が神を信じることによってその威力を増すと昔から言われている。神を生かすものは、神を信じる人の魂である。
この曙覧の霊魂を地下から呼び起こしたのが正岡子規であった。子規は曙覧の歌を見て大いに感嘆し、「曙覧は貫之以下今日に至る幾百の歌人を圧倒し尽くした。新言語を用い、新趣向を求めた曙覧の卓見は歌学史上特筆すべきであり、後世に伝えられるべきだ。曙覧は歌人として実朝以後のただの一人と言うべきだ。真淵、景樹など諸平文雄輩に比べれば、曙覧は多数の鶏の中の一羽の鶴である。」と評した。これは明治32年3月、曙覧が亡くなってから約30年後のことである。
007 本居宣長の門下500人の中で、宣長の真の後継者は、考証の方面では伴信友であり、神道では平田篤胤であるが、二人とも宣長没後の門人であった。
同じ偉大さ同じ高遠さを持つ者でなければ、偉人の精神に触れることは難しいが、同じ偉大さ同じ高遠さを持つ者は、百里を隔て、千年を中にしても、東西古今相感応することができる。
我が国家創造の昔、天照大神が、これから降臨しようとする皇孫の天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に言った。
008 「芦原の千五百秋(ちいおあき)の瑞穂の国は、わが子孫が王であるべき地である。よろしくいまし、皇孫就いて治せ。行矣(い)、寶(ほう、たから宝)祚(そ、さいわい)の隆まさんこと、まさに天壌と窮なかるべし。」
天照大神はこう宣言すると同時に八坂瓊(やさかに)曲玉、八咫(やた)鏡と草薙(なぎ)剣を賜ったが、このことは今では三尺の童子でも知っている。しかし、ここに至るまでには、閑却から復活への変遷があった。(日本書紀)
奈良時代に日本書紀を編纂した当時、この神勅の意義は十分に認識されず、日本書紀の本文にこの記述はなく、参考とされた一書に見えただけだった。また古事記や古語拾遺は神勅と記したが詳しくなく、神器を挙げ尽くしていなかった。扶桑略記愚管抄等は末世末法思想に惑溺し、天壌無窮の確信がなかった。
ところがこの神勅と神器は北畠親房によって燦然と光彩を放った。北畠は神皇正統記でこの神勅を大書し、神器を重視し、これを天皇御位の印証とし、またこれで百王説を打ち破った。(天皇の治世は無限だということか。)
009 「百王が存在するはずだというが、その百は10×10の100ではないはずだ。無限のことを百というのだ。百官百姓と言うではないか。昔、皇祖天照大神が天孫尊に授けた詔に、「寶祚之隆当与天壌無窮」と書いてあった。天地も昔と変わらず、月日も光を変えていないが、それと同様に、三種の神器もこの世に変わらず現存している。我が国を伝える寶祚(三種の神器)は永遠であるはずであり、日の神の詔命で大業を次々にしろしめす皇(天皇)は、仰ぎ尊び奉るべき存在である。」
神皇正統記が一旦世に出ると、建国の精神が生き生きと復活した。大日本史がこれを再び継承して、幕末にこの精神が全国民に普及し、明治維新の大業が成った。神皇正統記は国家を支えて来たのであり、昔の建国創業に基づき、後世の明治維新を呼び出す国家の中軸と言うべき書物である。
神皇正統記を介して、明治維新の時にあの(天照大神の)神勅と神器が輝いてきた。その理由は維新の精神が建国の精神と相照応したからだ。維新の精神があったので建国の精神を国民に普及できた。
010 道元禅師はこの道理を次のように説いた。
「仏仏(仏たち)は必ず仏仏の法を受け継(嗣)ぎ、祖祖は祖祖の法を受け継ぐ。これは契約であり、ただ伝えることだ。だからもし無上菩提が仏でなければ、それが仏であると証明することはできない。仏であるという証明が得られなければ、仏となることはできない。仏でなければ、誰がこれを最尊とか無上とか認めることがあろうか。仏の証明が得られれば、師がいなくても自分で悟ることができ、ひとりでに悟ることができる。だから「仏仏證嗣し、祖祖證契する」という。その道理の意味は、仏仏でなければ明らかにすることができない、いわんや十地等覚の所量ならんや。(凡人には考え付くことができない。)いわんや経師論師が測度するところならんや。(議論では思いつけない。)たとえ説教をしても、民衆は耳を傾けないだろう。仏仏が相嗣ぐが故に、仏道はただ仏仏の究尽であり、仏仏でない時期はない。(仏の道理が歴史を貫通する。)例えば、石は石に相嗣ぎ、玉は玉に相嗣ぎ、菊も(菊に)相嗣ぎ、松も同様に証明すれば、皆、前の菊も後の菊も同じで、前の松も、後の松も同じであるようなものだ。」(仏の精神や法が、仏が仏たることを明らかにするということらしい。)
古人を黄泉の世界から蘇らせ、これと意思を通じ合うには、古人と同じ高さや深さを必要とする。
011 私どもは紛れもない日本人である。桜が咲く日本の国土に幾千年の歴史の中から生まれ育った。我々が存在するのは、日本が存在するからだ。(それは当然の事実を言ったまでに過ぎない。)日本の歴史は、幾千年我々を養ってきたその力で、今我々を打ち出した。私たちの人格は日本の歴史の中で初めて可能となる。同様に日本の歴史は我が日本の歴史から生まれ出て、日本の歴史を引き嗣ぐ日本人によって初めて成立する。(自己中、外国人は日本史を研究できないのか。)仏を相嗣ぐものは仏でなければならないように、宣長を復活できるのは平田篤胤007でなければならないし、曙覧を復活できるのは子規でなければならない。建国の神勅は北畠親房によって初めてその光を発した。(神を)信じれば姿を現し、疑えば消滅する。日本の歴史を求め、信じ、復活させるものは、われら日本人でなければならない。(自己中愛国主義者)
こういう人もいるだろう。「歴史学は科学であり、純粋な客観を必要とし、自己に直接関与しない、主観に捉われない外国の歴史においてこそ、公平な歴史を見い出すことができる」と。これは歴史は事実をそのままに描写すべきものとする僻見である。歴史は事実の模写ではない。自己の判断を避け、無関心の傍観者として事実に対するなら、世相は複雑混沌となり、その変化を把握しにくい。それを把握できるためには人の心が組織することを要する。それは自らの意志や信仰による。歴史は単なる知的所産ではない。知的活動以外に情意の活動を必要とし、自らの行動を通して初めて得られる。(行動とは何か。愛国主義的軍事行動か。)
012 自国の歴史、自らがその歴史の中から生まれた祖国の歴史において初めて、歴史は真の歴史となり得る。そのことは今や明らかだろう。自分の意志で(歴史を)組織し、自分の全人格がこれを(歴史を)認識し、自分の行為を通して(歴史を)理解することは、祖国の歴史以外ではできない。祖国の歴史の中で、初めて古人と現代人との連鎖統一が完全になり、こうして古人は完全に復活する。(厳かな科学的歴史の仮面を被り、復活しない屍骸を羅列し、精神的(古今の)連鎖を全く欠いている書物がいかに多いことか。)
013 古人がこうして完全に復活するとき、歴史は永生(永遠)となる。歴史を認識するとは、永生の確信を得ることだ。目には見えないが、古人の魂は永遠に現在する。
こうしておよそ世界の中で我が日本の歴史こそが最も典型的なものだという確信が得られる。
歴史の変化は発展でなければならない。個人において、発狂のように人格がまったくなくなることは歴史とは言えない。人格の発展向上がなければならない。同様に国家においても、革命や滅亡によって国家の歴史は消滅するが、中興や維新によって国家の歴史は復活する。今まで一度も革命や滅亡を知らない、建国の精神の発展という点で、日本の歴史は唯一無二である。世界の誇りである歴史の典型をここ日東帝国に見ることができる。
かつて北畠親房はこう断じた。
「天祖が初めて基を開き、日神が長く統治を継続してきた。我が国だけにこのことがある。外国にはこのような例がない。」と。
014 かつて宣長は我が国を称えてこう言った。
「天津日嗣高御座(神)が、あめつちのむた(この日本で)、ときはにかきはに(いたずらに)動く世なきぞ(ことこそ)、この道の霊く奇く(希少であり)、異国の(よりも)全ての道で優れ正しく高い徴候である。」
かつて大外記中原師緒が革命や革令に関する緯書の説を斥け、辛酉改元の廃止を高唱し、後醍醐天皇の綸旨(りんし、綸言、天子の言葉)に、この説に関して、「本朝の術数、革命の厄運に当たらず」と大書した。
また昔から「この国に孟子はいない。その書を携えて行く者がいれば、舟は転覆する」という伝承もある。
歴史の典型はこの日本で初めて見られる。これは一つの精神の発展である。古と今との統一的関連は、ここ日本で完結した。
道元禅師は「仏仏の相嗣することは、深遠で不退不転であり、不断不絶である」と言ったが、我が国の歴史も同様に、相嗣深遠で、不退不転不断不絶である。(言葉遊び)
014 また、国史学、東洋史学、西洋史学などは存在せず、あるのは世界共通の学としての歴史学だけだという人がいる。確かに、哲学、文学、数学、医学などに対して歴史学はある。しかし、歴史学は歴史を抽象化して法則を立てようとする学問では決してない。*歴史学の原理や歴史の研究方法は、その抽象的な点で世界共通かもしれないが、具体化した歴史学では、日本には日本独特の歴史があり、東洋や西洋についても同様に、それぞれ独特の東洋史、西洋史がある。つまり、国史学、東洋史学、西洋史学である。(*歴史の中に神の存在を見るのは、歴史の抽象化ではないのか。抽象化や共通性の考え方で混乱していないか。)
歴史学の原理や研究方法について、日本には日本独特の原理や研究方法がある。(前言と矛盾)東洋、西洋についても同様である。近代西洋史学の発達が、日本や東洋の学会を刺激し、それ(近代西洋史学の成果)を採用させ、それに追随させたが、これは長所を取り、短所を補う方法であって、これまで日本や東洋に存在していた歴史学が消滅するものではなく、他の長所を取った後に、自らの特異性を発揮するだろう。日本精神や東洋精神が亡びない限り、国史学、東洋史学は西洋史学に対してその対象が異なるだけでなく、原理や研究方法でも独特であろう。
016 一時世界を圧倒した西洋医学に対して最近東洋医学(漢方医)の研究が漸く起ころうとしている。また西洋画が流行しているが、日本画や東洋画は別個の趣を持ち、独自の世界を保っている。
国境は地理的のものばかりでなく、地図上にも国境はあり、微妙な精神界にも国境がある。学問に国境がないということを、学者間の提携と見るならいいが、これを自然科学以外に拡充し各国の精神にその特異性を失わせ、各国の学問を一つの色彩に塗ろうとするのは誤りだ。だからと言って世界的知識を拒否するものではないが。(論理が混乱していないか。)
以上の通り、日本の歴史は日本精神の深遠な相嗣、無窮の発展であり、その不退、不転、不断、不絶(言葉遊び)である点において、歴史の典型である。我ら日本人はこの歴史の中から生まれ、この歴史の中で初めて人格者となれ、またこの歴史はわれらによって初めて担われるのだが、そういう日本人でこそ初めてその歴史を理解できる。(外人には日本史が理解できない。)そして日本歴史の研究は先哲の努力によって我国独特の発展をしてきたからこそ、世界的知識が増え西洋史学の長所を取り入れたとはいえ、国史学は独特の旗幟を翻すのだ。日本精神が亡びない限り、この旗も断じて倒されるはずがない。
昭和2年、1927年、6月23日朝
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