2026年1月8日木曜日

中国帰還者連絡会(中帰連)編『新編三光』第1集 光文社1982

 

中国帰還者連絡会(中帰連)編『新編三光』第1集 光文社1982

 

 

 

これは1955年ころ撫順戦犯管理所に収容されていた日本人戦犯が書いた手記である。

 

 

004 まえがき 本多勝一

 

007 本多勝一が言うように、確かに中国人に対して非人道的なことをしたのは、戦中に幼少だった私ではなく、壮年だった日本人である。しかし、だから私は中国人に対して謝らなくてもいいのだろうか。本多が言うように、戦争を起こさないように政治活動をやることの方が重要だ、というのはその通りなのだが、何かちょっと腑に落ちないところがある。本多は1971年、戦中の日本軍人の残虐行為を取材する旅に中国に出かけた時、例えば南京で、被害者家族の中国人を前にして謝らず、上述のような内容の感想を述べるだけだった。

 

 

015 1 日本鬼子――軍医の野天解剖 小美野義利 19409月、新京(現・長春)

 

026 小美野義利伍長「私は自分の犯した罪を心から反省するとともに、再び戦争を引き起こすことだけは制止せねばならないと思っております。私自身が苦しみを与えた多くの人々のためにも、平和のために余生を捧げるつもりでおります。」

小美野さんは本書の出版に際して、実名で公表することに同意し、また手記の書かれた1955年ころから本書が出版される1982年まで30年弱経過していても、以上のような反戦の心境を明確に語っている。

 

019 小美野は日本刀で中国人の首をはねた。015 拷問してもはかない三人の国民党地下組織容疑者の中国人を殺すのだが、そのうちの一人は小笠原軍医大尉によって毒を注射され、その後に遊びのような解剖=内臓剔出までされている。

 

 

2 細菌戦――七三一(石井四郎)部隊の蛮行―― 田村良雄(防疫診療助手、兵長)

 

生体実験・生物・化学兵器工場・飛行場 ハルビン市平房、19424

 

田村良雄の戦後1982年、昭和577月、36歳の時の反省文(犯行時1942年は21歳)

 

「日本でも最近、緊縮財政の中で軍事費だけが大きく突出し、平和の象徴である福祉が切り捨てられつつある。戦争準備を止めて、その金を福祉に、世界の飢えた人々に、アジア各国との友好に、世界の恒久平和のために使ってくれというのは、多くの日本国民の願望ではないだろうか。」

 

 

感想 生体実験はある地域の数か村を5か所に集め、それを外部から封鎖して行われた。そこには飛行場があり、そこから中国の各地に散布して効果を実験した。実験の過程で病気に感染した日本人(須藤良雄)も実験台にされたようだ。病原菌を強くするために、何度も実験を繰り返したようだ。038 凍傷の実験をするために指を切られた人もいた。

 

 戦中の哈爾浜(ハルビン)では日本人も生体実験に供されたようです。日本人を実験台にする時の口実は何だと思います。「天皇」です。「天皇のために死んでください」というものです。戦前は何でも不都合なことは、天皇を口実に実行されたようです。

 

043 「オイ準備だ」と言いながら入ってきた課長・大木啓吾少佐(ボス)は、いつになく顔に笑いを浮かべながら、「今度やるのは須藤良雄だ、いいな極秘だ」。私はもう少しで手に持っていた指頭消毒器を取り落とすところでした。大木はジーと鋭い眼で(私を)見つめておりました。テストをしていることを感じ取った私は、内心の動揺を抑えて平静を装い、「そうでありますか」と大木の顔を見ました。

「よし、お前も一人前になった。須藤良雄をここに入れておいたのも、みんな天皇陛下の御為だなあ」大木は珍しく私の肩を抱き、自分で防菌衣をつけ始めました。

 

 須藤良雄は第四部第一課の雇員として、最近のペスト菌の大量生産でペスト菌に感染し、細菌実験を行う特別班に入れられているのでした。私は何が何だか分からず、自分の頭を叩きさえして解剖室に入りました。

 

 

3 胎児――妊婦の腹を裂く―― 種村一男(仮名、指揮班長、曹長)

 

妊婦の乳房を突き刺す。次には妊婦に、30分間、二回に渡って水を多量に飲ませ、その腹の上に足で乗っかった。水が噴き出た。次には乳房の上に乗っかった。死にかけたときに刀で腹を切り裂き、出てきた胎児を蹴って殺す。さすがに腹を切れと言われてもやりますと名乗り出る兵隊はおらず、主人公が「野戦仕込みの腕」を披露した。

 

集団狂気、ボスもその一員。止まらない。それでいて戦後は反省。「もう戦争はしない」という言葉のなかに、「戦争だったから止むを得なかった」という気持ちが隠れていないか。

 

八路軍狩りのための、山東省萊蕪(らいぶ)県・章邱県県境の大王義付近の某村での出来事。19435月。ボスは村越支隊長。

 

 

4 焼け火箸――拷問の挙句に斬首 佐藤五郎(仮名、分隊員、上等兵)

 

感想 山東省南部の沂州(ぎしゅう、江蘇省徐州の北)。八路軍狩り。捕まえたある男を拷問し、殺害する。いつものパターン。狂気の集団。

狂行はある一人の命令だとやりやすい。天皇制はその意味でとても便利なツール。人は上だけを見て横を見ない。自分一人で考えなくてもいい。簡単なことだ。主人公も最初は拷問することに逡巡していたが、襟章の星(昇進)欲しさに、また男に唾を吐かれたことをきっかけに、拷問作業に献身する。069

主人公の名前は佐藤五郎。これは仮名である。

 

066 山東省南部の沂州(ぎしゅう)の憲兵隊の話。時は19456月中頃。

083 佐藤五郎の戦後の反省の辞「侵略する軍隊は人間を狂わせてしまいます」19827

076, 077 ボスは青山隊長、班長は拷問好きの梅田班長。

 

 

5 糧穀の略奪――冷酷非情な取り立て 引地章(警察署長・警正) 江戸時代の悪代官による年貢米の取り立てや女による接待を思わせる。

 

19413月、引地章が(黒竜江省北東部、満洲の)三江省依蘭県公署警務科科附警正として着任。

19427月、佳木斯(チャムス)市の食糧が輸送の都合で間に合わないから、依蘭県の備荒用の糧穀200トンを出すことになった。

一方、双河警察署管内の三道崗村の村長以下農民450名が、県公署に食糧事情で陳情。(一旦供出した)粟(義倉)を開放し、それを食わせてくれと陳情。

 

095 194212月、三道崗村での引地章・警察署長・警正*の演説「お前たちがいま生きているのは誰のおかげだ。みな日満軍警があるからではないか。命を誰が守ってくれているのか。貴様たちは犬や獣ではないだろう、それくらいは考えがつくはずだ。日満一徳一心と言うが、日本と協力して日本の戦争の勝利に感謝する考えが少しでもあったら、三度の飯を二度にし、粥をすすっても辛抱できるし、日本軍に出す乾草も、半値でも光栄ではないか。文句を吐く奴は抗日反満分子だ。そういう奴は徹底してやっつけるぞッ」*(黒竜江省北東部、旧満洲の)三江省依蘭県公署警務科科附警正

 

095 三道崗村の村長宅で接待。

 

双河鎮大街の十字路でバス二台を検索(臨検)し、12名を逮捕・拘束。

 

曹警察署長による接待。

 

099 19431月、依蘭県公署で三味線入りの接待。

 

出荷量が予定量の70%にしか達していないとして、120日から、村の略奪を開始。依蘭県永発村永発屯に100余名の検索隊を動員。

100 林警尉は中国人だが情容赦がない。

103 隠されていた穀類を発見し、逮捕。

 

104 倭背河の草原で糧穀10数袋を発見し、留置・拷問。

大平鎮の1000人の警察自衛団、学校生徒、地方民が引地章を堵列(とれつ)して出迎え、その晩歓迎会。

違反者の拷問。聶(しょう)署長は中国人で、農民の苦境を知っていた。詫びて拷問を緩めた。

その晩また宴会で接待。

108 引地章はこう考えた。「無理だろうがなんだろうが戦争に勝つためだ。俺の立身出世だ、首に関わるんだ。若い娘が裸でいようと、子どもたちが飢えと寒さに震えていようが、貧乏人が泣いていようが、かまうもんか」

 

引地章は戦後、宮城県の耕地40アールで農業に従事。「日中国交回復署名」を社会党国会議員西宮弘に依頼し請願し、革新系各級の選挙等で協力したと語る。

 

 

 

6 釘うち拷問――残忍極まりない取調べ 原田左中(憲兵軍曹)

 

1941年、八路軍の討伐のために、河北省密雲県曹家路村に、関東軍第二独立守備第七大隊第三中隊(中隊長大尉中山照治以下130名)が派遣された。

19421月下旬、中山中隊長が、二週間、五竜山地区の八路軍を討伐すると激を飛ばした。「よし、星を一つ増やすために頑張ってやろう。この機会に俺が一番手柄を立ててやろう」と兵隊たちは心に誓い、私も「一人でも多く殺してやる、憲兵の威厳を示すのはこの時だ。部隊の兵隊や下士官の鼻っぱしをへし折ってやるぞ」と心に誓った。

 

12時過ぎに、大樹峪村を通過したあたりで三十歳前後の一人の男を捕まえた。棍棒で殴ったり、足でけったり、後手に縛ったりした。

 

夜も更けたころ、ある村にたどり着き、家の中にいた70歳を越えていると思われる祖母さんを外に出し、男を中に入れた。

 

朝になった。八路軍の情報を言わせるために、男の腿に五寸釘二本を打ち込んだ。

 

昼近くに、中山大尉が来て「なあに中国人の一人や二人殺したところでかまうもんか。もっと叩きあげろ、ハハハ」私は「よし、中隊長の前で俺の腕前を見せてやろう」と心の中でつぶやき、男を後手に縛って天井につるし上げた。大尉も軍刀を鞘ぐるみ、男の肩先に唸り飛ばした。中隊長は「原田伍長もっと叩きのめせ。打ち殺してもかまわん」と言って外に出て行った。

 

それから3時間。男に水をかけた。男は「鬼子快殺死我(鬼め、早くさっさと俺を殺せ)」と吐き出すように叫んだ。

 

日は暮れていた。部隊指揮班の勝俣軍曹が中隊長の命令として、「取り調べの後で男を殺害するように。部隊は今晩10時にここを出発する」と言った。

 

126 私と部下の憲補博士元は、男を山中に連れて行って銃殺した。男は倒れる前に叫んだ「八路軍万歳」と。それから30分後、部隊は出発した。私は深い谷底に自分が落ち込んで行くような恐ろしさに襲われた。

 

 

7 毒ガス実験――8名の農民を生体実験に―― 三上忠夫(仮名、軍曹)

 

感想 村人8人を銃剣で取り囲み、自分らは防毒マスクをつけて、毒ガスを5分間放出。村人が倒れたとはあるが、村人が死んだのかどうか、何も書いていない。場所は山東省泰安の岩流店。何年とも書いていない。富山少尉がボスで教官。大隊長は中村。「独立混成10旅団45大隊」の初年兵ガス教育隊。ガスの名称は赤筒。くしゃみ性の一時ガス。目的は八路軍についての情報収集。

 

 

8 犬 嫌がる少女を銃剣で脅して――富島健司(伍長、分隊長)

 

感想 「犬」とは婦女暴行の意味。男は殺す。娘は辱めるが殺さない。翌日278歳の母親を強姦。場所は河北省の渤海湾沿岸。時は今1956年から13年前の1943128日。中隊長は白井中尉、小隊長は青木四郎少尉。二個小隊。朝鮮出身の権藤通訳。

 

8人の女性と3人の赤ん坊を発見。目をつけた一人のきれいな女を苛め、次に178歳のきれいな少女を苛めて銃剣で突く。殺しはしなかった。男は殺したが。翌日私は278歳の母親を強姦した。

 

 

9 軍需工場――強制労働の実体―― 大沢剛(特高班員、軍曹)

 

感想 工場内に労働者に見せかけたスパイ*を置き、労働者の動静を監視していた。*新京憲兵隊本部の伊藤曹長は除隊兵として本工場に就職していた。

私は、機械を運搬する時に躓いて機械を壊した中国人の劉を殴る蹴る、終業時にも残してリンチを延々と加えた。それが私の仕事だった。

 

194538日、戦況が不利になる頃、集会で中国人は、君が代は歌わない、訓示も聞かない、号令をかけても最敬礼もしない。

長春の南公主嶺の某工場での話。「満洲飛行機株式会社公主嶺製作所」

殴る蹴るの毎日。

 

私は憲兵伍長で「軍需監察班員」として勤務課の職員になりすまして工場内を監視していた。

 

夜中に逃げる中国人もいた。中国人は奉天で失業した者や、警官が引っ張って来た者らであった。

旅行証明書がないと駅で切符を売らない。

 

154 工員の構成は、日本人職工、中学生200名(佳木斯チャムス中学の勤労報国学徒動員隊)と中国人300名。

 

集会を取り仕切る者は、

航空参謀本部から派遣された軍需監察官の江口中尉は、桐箱の中から取り出した巻物「聖戦の詔勅」を読み上げ、

「満洲飛行機株式会社公主嶺製作所」所長は西村 

満洲国副県長から同所総務課長になった宮本は「東洋平和のために聖戦を起こしてから四年、赫々たる戦果を挙げた皇軍は…」これはお決まりの文句。

その子分で同じく副県長で、中国人を騙して荒く使う手腕を買われてきた同所勤労課長の恒成

 

156 中国人は奉天で失業した人や、憲兵や警察に人狩りのように労務動員された人であった。

昨年194412月、奉天にあったこの飛行機工場は、米軍の爆撃を受け、公主嶺に移転した。

日本人の職工も、貧乏で出稼ぎに出た百姓出の人が多く、農村の次三男で開拓団に行くはずが途中でこの工場に入れられた156歳の少年が200人いた。

 

159 結局この工場では、発動機が一個もできず、飛行機は飛び立たなかった。

 

「満洲飛行機株式会社公主嶺製作所」でのリンチ

 

私が劉にリンチを加えている傍らで、鈴木軍曹も日本人青年にリンチを加えた。

 

母が病気で工場を辞めて日本に帰りたいという青年も殴られた。鈴木軍曹「貴様はそれでも日本人か。戦争が嫌いなのか。嫌いなら嫌いなようにしてやる。来い。」と言って横面を殴る。「今頃南方では、貴様がつまらぬことを言っている間に、皇軍の兵士が死んでいってるんだぞ」

 

いつ果てるともなく鞭の音と人のうめきが冷たい夜空にひびいていた。

 

 

10 群鬼――捕らえた農民の生き胆をとる―― 藤岡順一(股長(係長or課長)、警佐(中尉相当))

 

感想 小隊長藤沢警部補168が農民を殺した目的は、自身の花柳病を治療するために、農民の腹を切り開いて生き胆を取ることだった。

 

169 「恨みの血がしたたっている人間の胆を眺めて、にんまりと笑った小隊長は、農民の被服を引き裂いてそれを包み、さらにそれを白地のタオルで包んで無造作にポケットにしまい込み、血刀を拭いて鞘に納めると、初めて気が付いたように皆の顔をぐるっと睨めまわし、…」

 

場所は遼寧省奉天近郊。本渓湖の東南約10キロの山岳地帯。東辺道から三角地帯の岫巌(ちゅうがん)に通ずる交通の要地。時は19362月上旬。

 

安奉線(安東(現・丹東)と奉天(現・瀋陽))各駅に、警察隊と関東庁奉天警察署伊藤警察隊とが活動していた。

 

「私は二日酔いだった」とか「分隊長久松巡査部長は達磨のような体を…」とかあるように、上層部はうまい食事を食べられたようだ。

 

今朝の10時、赤い春聯(しゅんれん、正月のめでたい対句)を飾った村落に侵入し、一人の農民を捕まえた。分隊長久松巡査部長は、険しい山の中腹で休憩し、荷物の運搬に使い、密偵と疑った農民の首を日本刀ではねた。その後小隊長がその男の腹を裂いて生き胆を取り出した。

 

 

11 強姦――赤ん坊を殺し母親を犯す―― 石田幹雄(兵長)

 

感想 戦前は女を「買う」ということが合法だったせいか、筆者は兵隊になる以前にそれにはまっていたようだ。そして兵隊になると、強姦が楽しみになり、この例では、赤ん坊の泣くのが邪魔だとして、煮えたぎった窯の湯の中に打ち込み、その後母親を犯した。

 

メモ・抜粋

 

178 「私は隣国の中国の領土に侵入し、何の恨みもなく平和を愛する勤勉な沢山の人たちを殺し、多くの婦人を姦(おか)してきたことを振り返るとき、あまりにも獣に似た自分の行為を責めずにはいられない。」

 

173 「私は入隊以前に満洲や上海からの兵隊の帰還者から戦地の話を聞き、その猟奇的なものに心を惹かれ、俺も戦地に行きたいものだと思っていたのだが、それが30歳の補充兵として実現されたのであった。二回、三回と「村落掃討」が重ねられる中で、村から逃げ遅れた女を見つければ、決まって古参兵たちは、私たち初年兵を門番にして、その婦人を手籠めにした。都会で育ち16才にして銭で女一人を一晩弄ぶことができる世の中を知って以来、多くの女を弄んできた私は、それ(古参兵の例)を見せつけられて官能を刺激され、早く自分もあの真似をやりたいと考えるようになっていた。」

 

173 古参兵「討伐に行けば酒も女もついてまわるし、賭博のもとでも転がっているもんだ。員数(命)さえ飛ばぬように気をつけりゃ、討伐様々だ」

 

194211月下旬、午後3時ごろ、私たち59師団直轄自転車中隊は、魯東*作戦中の大熊兵団に配属され、福山県城から67キロ隔てたこの村に着いた。田島少尉が命令し、仲間は山口上等兵だった。

 

*魯東は山東省東部、地図では福山とある。

 

174 「日本のためにならない匪賊を退治するのが戦争だと、学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。…銃剣を持っているがゆえに、何も持たぬ中国の人たちを思いのままにできることで有頂天になっていた。なんの抵抗の意志もなく、野良仕事をしている百姓を射ち殺し、百姓の家を焼き払い、婦人を凌辱して喜んでいた。」しかし、「私が匪賊だと教えられたのは、他でもないこの野良仕事に精出していたお百姓さんであり、悪者だと信じていたのが、平和で幸福な生活を侵略者どもにぶち壊されるのを防ごうとして闘った人たちだった。」

 

176 「戦争に勝っている者が負けた者を好き勝手にするのは当たり前だと思っていた」

 

石田幹雄 1913年、山梨県の中農の家にうまれる。1928年、小学校卒業後、東京で印刷労働者になり、19411020日、補充兵として東部63部隊に入隊。19425月末、中国に侵略。1945822日、59師団54旅団110大隊一中隊分隊長、兵長として、朝鮮でソ連により武装解除を受けた。

 

 

12 良民証――問答無用の虐殺―― 吉本明(内務班長、伍長)

 

感想 断崖の狭い道での壮絶な試し切り。まさに問答無用。その行為に意味はない。良民証とは中国人に発行し、所持者の身の安全を保証する証書。184

 

195 良民証の一例

 

日本軍九江憲兵隊発行 江西省徳安県城外

陳竜建 四十二歳 農民

 

 

メモ

 

180 中隊長 「中太」はあだ名。

西原曹長 坊主出身。

 

瑞昌県城(長江の南)に大隊本部がある。大老家を包囲した。

分隊長 伍長

182 田中曹長

 

捕らえた43名中5名を残し、(初年兵に)刺突訓練。残る5名は後に首切り練習用。

清水軍曹

小水連大隊

吉本上等兵(筆者)

183 若杉一等兵

186 徳安県城

 

 

13 謀殺――予防注射を口実に毒殺―― 中島宗一(属官)

 

感想 この一文にはちょっと信じられないところがある。経歴を見ると彼は農民だというのだ。それに非常に口がうまい。農民の第一印象は朴訥という印象を受けるが、彼は非常に口がうまい。また医学に関心があり、医学に関係している人のようにも見える。本文の末尾で「私は日本の医学に誇りを感じていた」というし、冒頭では医学の手術教室の様子を語っている。百姓だというのは変だ。まさに謀略の年季が入った人だと感じる。また謀略に長けた人は、所詮国家主義者でしかないように思われる。最後の筆者からの一言の中で彼は米軍の日本駐留に反対している。そして最後では為政者の言葉を信じるなと警告している。彼は謀略の年季を積んでいるように思える。

 

時は19456月半ば、日本が本土決戦を準備し、ソ連の参戦が予測され、中国人民の抗日活動が日増しに公然と活発になってきたころの話である。

彼の最後の所属は旧竜江省警務庁特務科で、被捕日時・場所は、1945108日、旧斉斉哈爾市チチハル市白済工廠。これは真実らしい。

 

特務科の成績を上げるために事件をでっち上げる工作を考え、「ソ同盟在満諜報工作員」として1944年初ころ、斉斉哈爾(チチハル)市で30歳くらいの一朝鮮人を検挙した。

ところがいくら拷問を加えても「白状」しないし、死にもしない。ずっと保安局に置いておくわけにもいかず、斉斉哈爾市警察局の留置場に移して、すでに一年が経過していた。そこで逃がすのではなく、科長が交代したところで、毒殺してしまえということになった。

毒薬は、1941年に中央保安局に特別室を加えて第八科とし、東大医学部出身の元吉某を科長にし、毒薬の研究と試作を行って完成した。200

これは国家的・組織的犯罪ではないか。証拠もなく一朝鮮人を引っ張って来て、拷問で「自白証拠」を得ようとする。

 なぜ釈放しないのか。「重要容疑者」198として上に報告済みであるというのは口実に過ぎない。どうして自分の責に甘んじないのか。

 

211 関東軍はソ連の侵攻を阻止するために、松花ダムの決壊も企画したという。となれば、開拓団だけでなく、吉林・長春両市民を含め、幾万人の生命・財産を一気に奪う結果になっただろう。

 

 

14 窒息――倉庫に押し込め窒息死させる―― 加藤周二(分隊付、伍長)

 

感想 ストーリーの展開が複雑で、状況がつかみにくい。おそらく筆者自身が、書く時にまた実際の過去の状況でも、混乱していたのではないかと思われる。「窒息」の場面は最後に出てくる。中国人を煉瓦で囲まれた部屋(倉庫)の中に入れて、目張りして窒息させるというものだ。

 どういう展開なのかよく分からないのだが、日本軍下にいたはずの中国兵が、八路軍に寝返りを打ったらしい。そして「やはり私は中国人だ」と日本兵に向かって堂々と歯向かった。

 

 

メモ

 

212 1941、山東省済南市西北100キロの武城県城内。この町の西北に「独混10旅吉野大隊混成坂田中隊」が駐屯していた。私は9月上旬、教官の樫本少尉と警備分遣としてこの中隊に到着した。

私たちは初年兵だった。古年兵を古年次という。

 

夕方、八路軍が襲ってきたので、私たちは衛兵所前に集まり、中隊長坂田中尉の後をついてゆく。八路軍は城の東門から入り、県警備隊がそれに応戦した。私たちは中隊駐屯地の望楼の中に逃げ込んだ。坂田中尉は「討て」という。八路軍は勝利のラッパを鳴らして退散した。

 

敗戦の報が望楼にいる中尉の所に届いた。八路軍が東門から衛河を渡って移動したこと、県警の指導官の山中軍曹が言うには、300名の県警が、日軍から貸与された装備をつけたまま八路軍に合流し、残った400名の県警は、副大隊長が統制していること。また衛兵が「劉官屯宮地分遣隊は、苦戦中で、救援を求める電話をかけてきたが、切断された」と伝えた。

 

214 坂田中尉が「楊副大隊長を呼べ」と言う。衛河の対岸の劉官屯から火の手が見えた。

翌朝、宮地少尉以下27名の全滅が正式に報告された。旅団命令を受けて43大隊の山田中佐(大隊長)が現れ、「閣下に(は)何とお詫びするのか。腹を切れ」と坂田中尉に言ってから、劉官屯分遣隊の整理に向かった。

 

215 夕方、中国人が鞭で叩かれる音が聞こえた。私加藤と大山上等兵は物置の煉瓦倉庫の扉を開けた。後手に縛られて来た男は、県警の楊副大隊長だった。坂本上等兵が銃剣を楊に突きつけている。大山上等兵は楊の胸倉をつかんで、倉庫の中に入れた。

 

 この日の昼頃、県副大隊長と坂田中尉とが話をしていた。坂田中尉は楊を隊長室に招き入れて楊に言った。「この一年来協同して県警の編成や教育に努力してきた。昨夜の事件は意外だった。」

217 坂田中尉は楊に言った。「僕は君たちを援助したい。八路軍への投降を扇動したのは誰だ。」

楊は言った「坂田、私はたった今から日本語と日本軍とは永遠にサヨナラをしようと決心したのです。私は中国人です。」「この裏切り者め。」

 

218 30人近い中国人の商人、農民、労働者、婦人が後手に縄をくくられてやってきた。倉庫に抛り込んだ。

219 副官のは倉庫の中で、「八路軍は俺たちを見殺しにはしない。俺たちは息のある限り生きるんだ。そして日本鬼子の最後の息の根を止めるまで闘うんだ」と言っていた。「你(にい)公(中国人のことらしい)なんか一人だって信用できるもんか」と、私は心の中で、谷崎兵長の李スパイ説に頷いた。

221 倉庫の中に捕まっている女性教員は、昼間、衛兵所前で、坂田中尉に抗議していた。「私は中国の教師です。私が中国の児童に愛国教育をやることは当然です。このことは外国人から干渉を受ける必要も、報告する義務なんかもありません…」また労働者風の男は、額から流れる血を拭いもせず、「八路軍のことなんか仮に知っていたって、お前なんかに言えるか!」と言った。

明け方、ある男が望楼の階段目がけて走っている。歩哨が銃剣で叩く。男は倒れる。男の綿鞋(くつ)が震えた。男は煉瓦を叩いていたのだ。

私は濱口兵長の後を倉庫に向かった。直径30センチの穴が開いていた。

坂田中尉が煉瓦の目張りをさせた。黒土で入り口を踏み固めさせた。

朝食後倉庫を開けてみると、死臭とガス、大小便と血の匂いが吐き出た。三日前までは元気に生きていた人たちだった。

 

 

15 汚された泉――井戸へ放り込み惨殺―― 杉本千代吉(大尉)

 

感想 八路ではないかと疑い、いじめを楽しむかのようにして惨殺する。この場合は井戸に突き落として、上から石を落として殺してしまう。石を落として殺したのが、筆者杉本であった。

 

メモ

 

194110月上旬、山東省。村人は日本軍を接待した。これこそ恩威ならび行われる無敵皇軍の姿であると私は感じた。

私たちは泰安県城から西南に20キロあまりの夏張という田舎町に分屯していた。ボスは中隊長山野中尉。宣撫行軍の帰り道で、逃げる奴は怪しい奴だとして40歳前後の農民を捕らえた。私は山東に来てから半月あまりだった。

山野は昨日は泰安からの帰りに、六郎坂の村落で、農民親子二人を斬殺してケロリとしていた。

230 山野は農民を井戸の中に突き落とした。

私は石を落とした。農民は死んだ。山野は満足そうだった。私は一人前の将校になったとうきうきした。

 

以上

 

0 件のコメント:

コメントを投稿

中国帰還者連絡会(中帰連)編『新編三光』第1集 光文社1982

  中国帰還者連絡会(中帰連)編『新編三光』第1集 光文社 1982       これは 1955 年ころ撫順戦犯管理所に収容されていた日本人戦犯が書いた手記である。     004  まえがき 本多勝一   007  本多勝一が言うように、確...