2026年1月1日木曜日

本多勝一『中国の旅』朝日新聞社1981

 

本多勝一『中国の旅』朝日新聞社1981

 

 

 

また耳の痛い話ですが、私たちのお父さんやお祖父さんの若かりし頃の話です。その頃、共産党員や横浜事件の出版社員に対して、言語を絶する拷問が行われました。それと同じことが、中国でも朝鮮でも、行われていたであろうことは想像に難くない所ですが、満州国での中国人に対する仕打ちもそれと同じです。

 

これは、本多勝一記者が、1971年、戦後26年にもなるのに、加害の事実を知らないでは済まされない、と思って中国へ旅をして被害者から実際に聞いた話です。以下は戦争準備の労働力として駆り出され強制連行された中国人の話です。

 

本多勝一『中国の旅』朝日新聞社1981p.20

 

これは瀋陽市郊外に住む呉希忠51さんの話である。呉は、19427月、日本人から指示された地主の村長から、労工として働くよう命じた。断ると村長は用心棒の手下を連れて来て、強制的に村役場から瀋陽市の労務係まで連行した。呉はここから貨物列車に乗せられた。兵隊が警備する貨物列車は、狩り集められた労工で満載され、真っ暗な車内は身動きできないほど詰め込まれ、大小便も車内でやらされた。

 

黒河省嫩紅県にある金水駅に着いて、貨物列車の労工たちは降ろされた。いつまで働かされるのか、何人いるのかなどは一切知らされなかった。一行はムシロのテントに収容され、戦備工事をさせられることになった。野生の草や、腐った粟、豆カスなどの、家畜のような食事がつづいた。力が出ないので活発に働くことができない。日本人の監督がしょっちゅうなぐりつけた。未明からテントを出て、夜は暗くなってから帰る強制労働の日々が続いた。

 

 あるとき、二人の労工が脱走したが、まもなくつかまって連れ戻された。二人は裸にされて後手に縛られ、木の枝にぶら下げられた。日本人監督がやるリンチを「見せしめ」として公開するために、労工たちが集められた。木の棒や天秤棒で二人をたたきのめす。気絶すると水をぶっかけた。再び乱打。気絶。また冷水。ふらふらになって、しかもまだ生きている二人は、飢えた軍用犬のたむろする中へ放り込まれた。中国人を「餌」として食うことに慣れている軍用犬の群は、たちまち二人にとびかかり、音をたてて食った。

 

「万人坑」とはそういう死者たちの山をいう。

 

 

 

048 矯正院という拷問部屋

 

瀋陽市大東区の「老瓜堡子小学校」は、日本による満洲統治時代には「思想補導矯正院」という拷問専門の監獄であった。その周辺の畑からは今でも人骨が出てくる。

「治安矯正法」と「思想矯正法」023の公布直後の1943年に着工され、同年末に完成した。二棟の牢屋と、事務室、取調室、刑具室などがあった。1年半で中国人2000人余が入れられ、次々に殺された。

051 三人以上集まることを禁止され、三人集まって話をすれば思想犯とされた。

孫助金は米を食ったとして経済犯とされた。

052 矯正院から生きて出るためには強制労働か金による賄賂以外になかった。

053 スパイ犯とされた楊六は、鞭や棍棒で拷問されて皮膚が破れ、頭を割られ、脳みそまで出して死んだ。ある脱走者とされた男は、熱湯をかけられ、短刀で頭のてっぺんから皮膚を切られて下に剝がされた。

 

055 付近の住民は次のような歌を歌った。

 

矯正院は閻魔殿。

入る時には生きていて

出てくる時には死んでいる。

消された者は数知らず

白骨るいるい山をなす。

 

 

 

057 人間の細菌実験と生体解剖

 

感想 こんなことは二度としてはいけない。しかしなぜそんなことが起きたのか。私は差別、蔑視だと思う。(不平等条約、ホロコースト)いじめられた子(日本、イスラエル)は、今度はいじめる側に回る。

 

058 満洲医科大学は満洲に34年間居座った。1911年、日本が「南満医学堂」を設立し、1922年、それが「満洲医科大学」に昇格した。現在はそれが「瀋陽医学院」になっている。

059 731部隊は敗戦時に証拠を隠滅したが、残っていたものがあった。

 

086 731部隊(石井部隊)の石井四郎部・隊長は、

 

戦後米軍は731部隊(石井部隊)の資料を独占するために、その資料の提供を条件に、元中将石井四郎部隊長ら同隊関係者を東京裁判で起訴しないという取引を行った。この事実はアメリカの月刊誌『ブルティン・オブ・アトミック・サイエンティスト』に載った米人ジャーナリスト・ジョン=パウエルの「歴史の隠された一章」という論文で明らかにされた。

 

083 参考文献 森村誠一『悪魔の飽食・三部作』角川書店、1981年~83

 

083 北野政次は、敗戦直後、上海にいたが、19461月、東京のGHQから呼び出され、米軍機で帰国し、中国人の法廷で裁かれることはなかった。(『週刊新潮』19721815日合併号)

 

059 北野政次は1936年から42年まで満洲医科大学で微生物の主任教授として勤務したが、その後陸軍少将となり、731部隊の隊長となった。

 

060 医学博士・北野政次の論文「発疹「チフス」及び満洲「チフス」の予防並びに治療に関する研究(二)」(『日新治療』第295号(昭和17910日発行)所収)

 

「我々は臨江地方で10人の志願者と3人の死刑囚を使って人体実験を行った。かかる実験は、我々が最初でもなければ、我々の発明でもない。欧米各国は早期より死刑囚を利用して医学実験を試みてきた。我々が実験に使った人体は、発疹チフスにかかったことがなく、かつその他の急性的熱性病にもかかったことのない、32歳から74歳までの健康な男性であった。」

 

065 第13例「曹〇光」男66歳(死刑犯人)接種19日目発汗、37Cに下がる。本人も「楽なった」という。この日すぐ生体解剖」

 

084 現在ミドリ十字の北野医師は、本多勝一記者の取材に、生体実験に関してあいまいな言葉で対応し、強くは否定しなかった。

 

 

 

087 撫順

 

撫順炭鉱は1903年、ロシア帝国主義が清国から奪い、1905年、日露戦争後のポーツマス条約によって、今度は日本が奪った。撫順炭鉱は長春・旅順間の南満州鉄道の付属工場ではなかったはずなのに、日本軍国主義者は、これが鉄道と関係があるとして奪った。*その後日本軍部の管轄から、1907年、南満州鉄道株式会社の管理下に置かれた。撫順炭鉱は40年間日本の支配下に置かれた。

 

*ポーツマス条約第6条には「ロシア帝国政府は、南満州鉄道に属し又はその利益のために経営される一切の炭鉱を、清国政府の承諾を以て、日本帝国政府に移転譲渡すると約束し、そのことに関して、両国は、清国政府の承諾を受けるべきであることを約束する」とある。

 

089 大山坑では、1916年、炭鉱火災で200人が死に、翌年の1917年、917人がガス爆発で死んだ。1928年には480人が水害で死んだ。事故が起きると坑道の中に労働者がいてもすぐに出口をふさいだ。

091 劉振山4319422月にこの炭鉱に連れて来られたが、村から一緒にやって来た40人中の半分は「防疫惨殺事件」で死に、最後まで生き残ったのは6人だけだった。年間25000人の労働者を募集の名のもとに騙して連れてきた。

日本軍による「討伐」の結果、強制連行された人もいた。例えば山東省の済南からは8万人が集めた。

 

092 1924年、8つの炭鉱で賃上げの連合ストライキがあった。

193810月、老虎台鉱と竜鳳鉱で、労働者が日本人の侮辱に抗議して労務係の部屋を破壊した。憲兵100人と対峙し、憲兵隊は追い払われ、今後侮辱しないと約束させた。また集団脱走したり、頭目を殺して埋めたりもした。

 

 

 

095 平頂山

 

感想 南京事件については東京裁判によって虐殺事件があったことが日本人に知られるようになったが、その具体的内容については一部の関係者を除いてはほとんどの日本人は知らなかった。平頂山事件についても一般の日本人は知らなかった。095

 

平頂山事件の首謀者について本稿では未解明な部分があるが、それを明らかにした井上久士さんの功績は大きい。

 

 

096 夏延沢(66、当時27歳)、韓樹林51、趙樹林50さんの語る惨殺実話はものすごい。本多勝一さんの語りも素晴らしく迫力がある。

114 これは余談だが、韓さんの撫順炭鉱落盤事故での奇蹟的生還談も圧巻。

 

112 満州国では踏み絵があった。親日的か反日的かを判別する質問「お前は誰だ」に対して「満人です」と答えると親日的と判断されるが、「中国人」と答えると反日的な危険分子と判断された。ある時夏さんは怒りを抑えきれずに、その問いに対して敢えて「中国人だ!」と答えた。夏さんは逃げる時右の耳元を切られた。

 

115 日本軍は平頂山の隣村の千金堡で逃げ遅れた40人を殺害し、家を焼き尽くし、楊柏堡も襲い、匪賊容疑者として20人を逮捕・虐殺した。さらに日本軍は撫順から50キロ離れた東の新賓鎮へ行き、周囲の10数か村の家々を全て焼き尽くし、住民を見つけ次第殺した。二つの万人坑が残っている。

 

さらに日本軍は撫順の周囲10キロ以内の全村を焼き尽くす計画を立てていたが、炭鉱の経営者が軍に対して、経営面で人手がなくなると主張して助かった。

 

116 虐殺を指揮した人間は1948年秋の解放当時は(中国に)いなかったが、次の4名の名が上がっている。しかしK炭鉱長は冤罪との説もある。

 

K陸軍大尉 川上精一撫順守備隊長 (実名は井上久士『平頂山事件を考える』044

O准尉(憲兵隊分隊長) 小川一郎憲兵隊撫順分遣隊長

M警察署長 前田信二警察署長

K炭鉱長 久保孚(とおる)炭鉱次長

 

117 夏延沢さんに抱かれて救出され、当時乳飲み子で、現在は42歳の夏維栄「かつての日本の犯罪行為は軍国主義とその一部の指導者に問題があり、一般の日本人民には責任がない、ということを毛主席の教えによって私もよく理解しています。」(やはりこれは毛沢東の考え方だったようだ。よく聞く言葉である。)

 

118 文献

 

『満洲戦犯獄中書簡集――国民政府下に於ける』奉天極友会(愛知県愛知郡豊明町千人塚、宇都宮仁方)

平野一城(浜松市和田町8313)『最後の引揚牧師の手記――終戦後の奉天三年』平野一生発行

満鉄東京撫順会『撫順炭鉱終戦の記』石崎書店

愛新覚羅溥儀『わが半生』小野忍他監訳・大安094

久野健太郎『朔風挑戦三十年』謙光社1985

班忠義『曾おばさんの海』朝日ジャーナル臨時増刊号1992

澤地久枝『昭和史のおんな』(文藝春秋1980)の中の「井上中尉夫人『死の餞別』

田辺敏雄『追跡・平頂山事件』図書出版社1988(田辺敏雄は守備隊長K大尉の娘婿であり、侵略とか無差別虐殺などについて一切反省がなく、虐殺者数を400800と過小評価している。)

石上正夫『平頂山事件』青木書店1991

撫順問題調査班、文責小林実『リポート「撫順」1932』都立書房1982

 

 

 

133 鞍山と旧「久保田鋳造」

 

133 日本は日露戦争後、鞍山鉄鋼場の建設を密かに計画し、1908年、南満洲鉄道株式会社が密かに鞍山の探鉱をし、1919年には銑鉄の生産を開始した。134

 

134 病気の労働者のために妻が米を届けると経済犯とされて投獄された。また妻が精白されたコーリャンを届けると、日本人門番はそのコーリャンの弁当に泥を入れ、鼻汁をつけた。

 

135 ストライキが頻繁に起り、機械を破壊した。

 

日本人監督はささいなことで暴力を振るった。その暴力は度を越えていて、脚のふくらはぎにドライバーを突き刺し(1942年、李鉄庫48さん、当時13歳の場合142)、ある時は蹴って棒で殴り、気を失わせ、翌日には死亡させるような場合もあった。(胡殿録(39、当時数え年10)少年の父親35の場合。145,146

 

141 中国人労働者が工場で労働災害に会うと、まぬけだと叩かれて首にされ、その後は乞食になるしかなかった。

143 李芳普4916歳の時に久保田鋳造という鉄管鋳造工場で仕事を始めたが、ある時左手が機械にからまり、指4本が砕けた。泣いている李少年を「倉持」という日本人監督は蹴飛ばして、「大したこともない怪我で何だ。中国人なんかいっぱいおるんだ。死んだってどうってことないさ」と言った。仲間に工場の事務室に担ぎ込まれ、中国人看護婦に赤い薬を塗って包帯してもらい、宿舎で休んでいると、工場からクビの通告が来た。

 

137 三紅旗とは総路線、大躍進、人民公社を意味し、1958年、毛主席が提唱した。

136 中国の工業は周辺諸国の不親切や妨害を乗り越えて発展した。日本や蒋介石は敗戦時に工場を破壊し、ソ連のフルシチョフはソ連技術指導者を引き上げた。しかしソ連の技術者の中には良心的な人もいて、設計図を残したり、ソ連に引き揚げたあとでも手紙で指導してくれたりする人もいた。138

 

 

 

万人坑

 

感想

 

・会社経営上の問題点

 

満洲国での日本の会社は、中国人労働者の生活や生命を軽視し、生産性を上げることを至上目的とし、非人道的な経営方針に徹していた。許されないことだ。

172 「南満州鉱業株式会社」の万人坑とは、事故や暴行で死んだ労働者や、まだ生きているのに使い物にならないとして殺された労働者を積み重ねたもので、今その骨が層状になった状態で展示されている。南満州鉱業株式会社には三つの万人坑(161 虎石溝、馬蹄坑、高荘屯)があり、その死体数は万単位である。南満州鉱業株式会社は現在、「鞍山鉄鉱公司大石橋マグネサイト鉱山」となっている。

 

170 許殿波43の兄が事故で死んだとき、日本人監督は「満人なんかいっぱいいる。一人や二人死んだって、どうってことねえだろ」と言った。

 

・中国人労働者が、労働者の人権を尊重する毛沢東になびいたことは、過去の惨状を考えれば当然のことであろう。

 

・矯正院166という弾圧・拷問機関があり、多数の中国人を日常的に殺していた。

 

・満洲国では「病院」の中で、生体実験という鬼畜のような恐るべき非人道的なことを医者がやっていた。しかもそれを「諸外国もやっている」として正当化していた。恐るべきことだ。

 

 

153 南満州鉱業株式会社沿革

 

1913年 試掘開始

1918年 大連から大石橋に本社が移転

1931918日以降、労働者に対する態度が暴力的になった。

 

155 高木六郎社長は「中国の苦力がわが社にいれば、その肉も骨もわしのもの」と豪語した。

 

労働者の種類

 

・少年工と女工は賃金が成人男性の半分から1/3だったので、全体の34%~35%くらいと数が多かった。

・「華工」は30%くらいで、これは山東や河北や、場合によったら四川から、失業者や貧農を騙して連れてきた労働者。

・臨時工 25% 比較的近隣の破産した農民。

・理工 10% 大工や左官。比較的待遇がいい。

 

以下は無賃労働者

 

・犯罪人 米の飯を食った「経済犯」、三人で話した「政治犯」。169 「どういう人?」「中国人」と答えたら、政治犯とされて懲役1年。

・労工 強制連行、地主の割り当て命令。寄付。

・勤労奉仕隊 満洲国兵隊検査での不合格者。

 

157 星の消える夜明けに出勤し、星が出始める頃仕事を終える。労働時間は冬は12時間、夏は15時間。日本が大東亜戦争で大勝利すると「大増産報国」として労働が強化された。

 

176 「不忘階級苦」

 

 

 

178 盧溝橋の周辺

 

179 「日本の広範な人民は、一部の親米派と軍国主義者を除いて、中国人の真の友である」という毛沢東の言葉が、太子務生産大隊の集会所の黒板に歓迎の印として書かれていた。

 

193779日、盧溝橋事件の2日後、日本軍がこの村にやって来た。一般の農民は他村に逃げたり、畑の中に隠れたりしたが、地主の李生香は日の丸を掲げて日本軍を迎えた

 

180 23日後に大勢の男たちが日本軍に捕まったが、その中の「馬大力」と呼ばれていた力持ちの貧農が、生き埋めにされた。

兵隊は食料と女をさがした。氷定河の対岸の村民は皆殺しにされ、家も焼き尽くされた。

やがて地主は傀儡組織の「治安維持会」をつくり、日本軍に食事を提供した。

1938年の夏、日本の飛行機が爆弾を7個落とし、李興太と李喫(口へんでなくさんずい)祖母さんが即死した。

 

181 砲台間を結ぶ壕を掘るのに徴用された。そのために潰される家もあった。日本兵は仕事を始める前に全員をぶん殴った。貢物を持って行ったら、なおさら殴られた。根性をすえさせようとする日本的発想だったようだ。意味もなく殴られるのは不可解だった。

182 毎日二、三人が、うつぶせにさせられ、背中に大きな石を載せられた。あと暫くは歩けなくなって這った。

日本語の勉強と銃剣術をさせられた。全員が水をかけられたこともある。

183 「鉄砲を出せ」と言われ、ないので出さないと、十数人を選んで殴り、焚火の燃えさしを押し付けて拷問した。また三人の辮髪を結んで頭を互いにぶつけた。

十数人に56人が追加され、計20人が皇軍の拠点に(銃を出すまでの)人質として連行された。現金や卵などで人質を貰い下げた。

旱魃で十数人が餓死した。それを日本軍や傀儡軍は無視した。

王福奎らは地主の庭に集められて裸にされ、水をかけられた。王が「小銃はないが狩猟用の散弾銃ならある」と答え、「他にも持っている者がいるだろう」と言われ、王が別の村の地主の「李生之が持っている」と答えた。ところが行ってみると猟銃はみつからず、王は蹴飛ばされた。

 

186 王振東39の祖父は逃げる時に背中を撃たれた。王は77事変の時は4歳だった。祖父が治るのに4か月かかった。

 

(この村では)日本敗戦までに6人が殺され、19人が負傷し、改嫁が11人、餓死者は47人、爆撃による家の焼失が5軒、八路軍のゲリラが隠れるところがないようにと、10万本の木が切り倒された。

 

187 文献

 

秦徳純『七七事変紀要』

寺平忠輔『盧溝橋事件』読売新聞社

島村喬『聖戦』新人物往来社

 

 

 

188 強制連行による日本への旅

 

感想 

 

・強制連行 強制連行=人さらいを成立させるためには、中国人協力者を必要とした。そしてそれは中国人の地主だった。日本人だけで中国人を引っ張って来るというようなものではなかった。本多勝一の「旅」というタイトルには賛成しかねる。

・暴力 不必要で人間の尊厳を貶めるような暴力が日常的に行われていた。そしてそれは殺人へといとも簡単に移行した。暴力の自己目的化。それは支配の手段。

・非人道性 非人道的な要求を行った。「女を探してこい」などという非人道的な要求が堂々と行われていた。

・劣悪な日本の炭鉱 炭坑での生活はひどかった。習慣のように殴られ、食事も貧弱だった。

・低い生存率 主人公崔さんと同じ村から4人が日本へ連行されたが、生きて帰れた人は2人だけだった。

 

 

メモ

 

1937年、崔振英60の家に、日本兵10人が拠点に兵舎ができるまでの間宿泊していた。ある時日本兵が「女をさがしてこい」という。日本兵が鉄砲に弾を込め始めたので、崔は逃げ出し、父親もその後を逃げ出したが、撃たれて死んだ。

父親を亡くした崔振英60は、稼げる男が崔しかいなくなったので生活は厳しかった。家族は7人だった。翌1938年、義姉とその子供を北京市に連れて行って再婚させた。翌1939年、妻と下の子(当時3歳)を地主に頼んで雇ってもらったが、地主はこの二人を町の資本家に売り飛ばした。翌1940年、母親も地主の家で働き始めたが、翌1941年、母親が過労で死んだ。翌1942年、崔自身も地主の作男になった。

1943年、日本軍がこの地主に、日本へ連行する人夫を一人出すように命じた。作男の中から崔が指名された。地主は崔に日本行きを隠して、「北京の長幸店駅へ行って働く」と嘘をついた。

崔が隣村の楡房へ行ったところ、同じようにして集められた作男が70人いた。日本兵と二人の傀儡兵に監視され、長幸店に深夜に着いた。廟の庭で寝た。食物は見張りに頼むしかなく、高額を請求された

190 1週間後、日本兵と傀儡兵は、2人を縄で縛り、もう2人を縄のもう一方の端で縛り、4人で1組にした。貨物列車に乗せられ、そのとき初めて日本行きを知らされた。天津に向かった。

天津の収容所では10人一組にされ、日本語の勉強や整列点呼の教練をやらされた。何か言うとむやみに殴られた。便所に行くときも、「寝たままで頭を上げずに『報告』と言え」と言われて殴られた。

豆かすとトウモロコシをまぜたおにぎり「窩々頭」(ウオウオトウー)二個が1日分の食事だった。死者が出た。死者をムシロに包んで海から捨てる仕事をさせられた

その翌日、19431月中旬、旧暦の1223日、収容所の700人は小型の石炭運搬船にぎっしり詰め込まれた。足を伸ばして横になれない。日本へ着くまでに70人が死んだ。天津から大連へ、大連で石炭を積んで、門司へ。天津から門司まで1か月と3日かかった。

192 石炭運搬船では、死んだか死にそうなものは海に捨てられた。任という中国人傀儡通訳と二人の華工係の傀儡中国人がその作業をした。その作業は3日に1回あり、34人が海に投げ込まれた。小便や大便は、海が荒れている時は、停泊して甲板からやらされた。

 

193 門司からトラックで万田炭鉱*へ着いたが、1か月間の栄養不足で、歩く力もない。7日間休養した。米と豆かすを混ぜた食事を12回。8日目から入坑。*福岡県大牟田市原山町。

入坑時、日本人監督が「早く」と言って意味もなく殴る。午前中4時間、午後4時間の労働。

194 1週間に1回体重測定し、増えると減食された。崔さんは少ない時で当初の55キロから敗戦時の35キロになっていた。この炭鉱では、当初の1500人の中国人は700人になっていた。

 

815日、米や牛肉が食べられるようになり、3か月で元の体に回復し、体重が135斤(きん)68キロになった。

11月、トラックで長崎へ。貨物船で港外に出て、米艦に乗り換えて天津へ。天津はまだ国民党の支配下にあったが、故郷は人民解放軍による第一次解放下にあった。売られた妻は解放とともに帰り、6歳だった上の子(長女)は8歳になっていた。その後国民党の支配が一時あったが、北京陥落と同時に最終的に解放された。

 この村から4人が日本へ強制連行され、そのうちの王は日本で行方不明となり、劉連弁は日本で死亡し、帰って来たのは崔さんと李慶和の二人だけだった。李慶和は北海道へ送られていた。*

 

*北海道に強制連行されて脱走し、13年間隠れていた中国人・劉連仁がいた。このことに関して、欧陽文彬『穴にかくれて十四年』三好一訳、三省堂がある。

 

196 参考文献

 

中国人強制連行事件資料編纂委員会編『草の墓標』新日本出版社

平岡正明『中国人は日本で何をされたか』潮出版社

中国帰還者連絡会(正統)編『中連――日本軍国主義の告発は日中友好の原点である』

金巻鎮雄『中国人強制連行事件』みやま書房

石飛仁『中国人強制連行の記録』大平出版社

赤津益造『花岡暴動』三省堂新書

野添憲治『花岡事件の人たち』評論社

 

 

 

上海

 

金月妹の場合 「いい女はいないか」に対して「いません」と答えたら、一家皆殺し。赤ん坊を刀で突き刺して肩にかけたという。193711月、上海西方の某村(虹橋)での話。金月妹は事件当時不在だった。

 

 馬林英の場合 母親は街に米を買いに行って殺された。その事情は分からない。死体を発見しただけだった。

 

 張鴻舟の場合 米を農村から都会に運ぶことは日本軍によって禁じられていた。父は農村から米を運んで帰る途中、有刺鉄線をくぐろうとした時に日本兵に見つかった。父は熱い鉄板の上を歩かされ、熱いのでそこから降りると、日本刀で斬り殺された。以上は日本軍司令部で働いていた中国人から聞いた話。

 

 

 

214 港 上海埠頭 宗継泉の話 

 

恐らく労働の厳しさに耐えかねて一人の労働者が昼休みにいなくなると、残った労働者が叩かれ、太陽で熱せられた鉄板の上を歩かされたり座らされたりした。

拷問で死ぬ者も珍しくなかった。

 

1944年、落ちていた銅貨を拾ってポケットに入れたトラックの運転手は石の重りをつけて海に沈められた。

 

219 戦後日帝に代わって米帝が蒋介石を助けるために上海にやって来て、「狼が去って虎が来た」と言われた。

 

 

 

220 「討伐」と「爆撃」の実態

 

220 呉燿舗43 日中戦争当時、上海近郊の馬路湖村に在住。日本軍による討伐が三回あった。

 1939年、日本軍は目の悪い父を銃剣で刺し、目標もなく発砲し、山砲を撃ち、3人死亡した。

221 1940年、隣家が焼かれた。

1941年、ロバを奪われて殴られた。伯父(母の兄)は爆弾でけがをし、不具者に。「卵を出せ」「ない」 銃身で祖父を殴り、祖父は死亡した。

222 砲台の周りの壕を掘らされた。

 

 

阮成書76 現在は朝陽新村在だが、当時は上海西北の南通市在。日本軍は付近の狼山を絨毯爆撃し、そこに避難していた500人中300人が死亡した。妻と子ども2人もその時死んだ。

 

谷招娣59 当時上海市閘北区に住んでいた。住民の誰かが日本兵を殴った。日本軍が同区を閉鎖し、餓死者がトラック23台分出た。

 

 

 

南京

 

 

感想 避難していた難民区の中から若い男性が集められて大量処刑された事例が詳細に報告されている。揚子江沿岸での処刑である。ドイツのガス室同様、合理的な処刑法である。2000人を揚子江脇の倉庫にぎっしり詰め込み、10人一組にして、揚子江までの通路の両脇を、銃剣装備の兵隊の間をくぐらせて揚子江に到着。そこで川に飛び込ませて、銃撃隊が銃殺。滞留した死体は、揚子江に停泊している戦艦のスクリューで流れをつくって揚子江の本流に押し流すというもの。

それにしてもよくこの惨状から脱出したものだ。平頂山事件でもそうだが、必ず奇蹟的な生存者がいるもの。彼の場合、水泳が上手で、しばらく水中にもぐり、水中に突っ込んでいた貨車の陰に隠れて首だけ出していたり、死体の下に身を隠したり、生きていると発見されて発砲されても腿のあたりで急所をはずれ、日本人と「維持会」(傀儡中国人)が、死体処分のために連れてきた労工にも「良人」と判断されて奇跡的に生き延びた。運の強い人だ。陳徳貴さん53歳である。243

 

 

メモ

 

231 「永利亜化学工場」の労働者が日本軍による強制連行に反対すると、その場で腹を断ち切り、心臓と肝臓を抜き取った。日本兵はそれを後で煮て食ったという。日本兵は工業用硝酸をぶっかける場合もあった。

234 日本兵は婦女子を片っぱしから強姦した。強姦された相手が裸で泣いている横で、自分も並んで記念写真を撮った例が多い。強姦のあと、腹を切り開いた写真、そのあと局部に棒を突き立てた写真、…

 

 

235 19歳の李秀英は「獣兵」と格闘した。「獣兵」は李を銃剣で刺し殺したが、まだ生きていた。

 

 

238 姜根福さん一家は長江際の下関に住んでいた。貧乏でサンパン(小舟)生活していた。父母と弟3人、姉3人の7人兄弟、9人家族だった。姜さんは当時9歳で長男だった。一番上の姉は他人に贈られた。(売られた。)

 

農村へ避難しようと長江を漕ぐと浸水してしまった。石梁柱地区を通りかかった。そこで土手に上がった。住民は皆逃げていた。空き家は危ないので、長江本流と運河との間の芦の湿原に隠れた。父と姉二人のグループと、母と男兄弟のグループとに分かれた。満一歳の末っ子の弟が泣き出し、日本兵に見つかった。日本兵は母を強姦しようとした。母は抵抗した。日本兵は赤ん坊を地面に力いっぱいに叩きつけた。赤ん坊は即死した。日本兵は母を後ろから撃った。母は死んだ。

二、三日後、父のグループも日本兵に見つかり、日本兵は父に背嚢を担がせて連行し、それっきりになった。

 

241 子ども五人が残された。2日後、日本兵に気づかれ、一番上の13歳の姉が日本兵に連行された。日本兵は抵抗する姉を軍刀で斬った。

 

11歳の姉から5歳の弟まで4人が残された。布団を1枚持っていたが、雨や雪が降ると寒いので、空き家に行った。白菜の漬物が甕二つに一杯あった。

 

早春、十数人の武装した維持会(裏切り)の一隊が4人を見つけた。彼らは小銃を持っていた。維持会は4人を三汊河へ連行し、そこで11歳の姉を売った。姉に縋り付く姜さんを維持会の連中は蹴飛ばした。5歳の弟も売られた。

 

9歳の姜さんと7歳の弟二人になった。乞食になった。

 

その後姜根福さんは、港湾労働者の姜書文に引き取られ、弟は楊国真に引き取られた。二人はそれまで徐という姓だった。1949423日、南京が解放され、売られた姉と弟の消息も分かった。

 

 

243 陳徳貴53は「宝塔橋難民区」に避難した。そこにはイギリス人が経営していた「和記洋行」という肉類加工工場があった。南京城の西北の城外にある。イギリスの租界地にある。

この難民区に維持会がやって来た。維持会は金持ち中心の漢好である。

12月下旬、維持会の20人が煤炭港の日本軍兵営に行った。日本騎兵78人がその日の午後難民区にやって来た。

244 翌朝200人の日本兵が現れ、成人男子を維持会の協力の下に駆り集めた。難民数千人中、二千人の青壮年男子が狩り出され、煤炭港まで歩かされ、倉庫に入れられた。10人一組にして、揚子江までの通路の両脇を、銃剣装備の兵隊の間をくぐらせ、揚子江に到着すると、そこで川に飛び込ませ、銃撃隊が銃殺した。滞留した死体は、揚子江に停泊している戦艦のスクリューで渦の流れをつくって揚子江の本流に押し流した。

 

私は水泳が上手で、しばらく水中にもぐり、水中に突っ込んでいた貨車の陰に隠れて首だけ出していた。それから隣の埠頭の桟橋まで移動し、死体の中に混じって横になった。

桟橋の上の日本兵が、川に浮いている死体に向けて手榴弾を放った。日本兵の一人が桟橋を降りてきて、橋脚のそばまで来て、私を撃った。弾丸は両太ももの内側と、そこで両手を合わせていた薬指を貫通した。

私は水際に移動して死体の下に身を隠した。

私は日本人と「維持会」(傀儡)の中国人が死体を処分するために連れてきた労工に見つかった。私は日本兵に「良民だ」と言い、労工も「良人」だと加勢してくれた。維持会の通訳が通行証を日本語で書いて渡した。私は難民区に戻った。その後、傷が治り、元の住所(洪門口の石牆外一号)に戻った。

 

 

252 小規模な集団虐殺 梅福康50の場合

 

家族7人を含めて計9人が惨殺された。

193712月、村には6世帯20人が住んでいた。皆親戚同士である。

200人の兵隊が来て、「家を提供せよ」と言われ、外に出された。

別室の女たちが夜中に逃げた。男12人と老女1人は女たちとは別室だった。

長兄は隣村で日本兵のために炊事をさせられた。

次兄は体温が高く、水を茶碗で飲もうとしたら、日本兵が茶碗を頭にたたきつけた。

日本兵は12人を集めて円陣を組ませ、布切れで互いに結びつけ、それに向けて手榴弾を投げた。12人中9人が死んだ。

梅さんの家族は、祖母、父、次兄、甥、従兄3人の計7人だった。

 

 

256 蔡周さん60の場合

 

193712月、南京郊外の蔡さん農村に十数人の日本兵がやって来て、放火した。

日本兵は夫を銃剣で突き刺し、発砲した。即死した。

日本兵は蔡さんを銃剣で7回突き刺した。腸が出ていた。

 

村は淵の中の島に婦女子を集めた。日本兵が「女を探してこい」と言ったが、黙っていた男は水を腹に一杯入れて拷問され、殺された。

身分証明書を持っておらず全裸にされた人が二人いた。その後殺されていたのを発見した。また日本兵は56人の農民を生き埋めにした。

日本軍司令部が「兵隊に今後婦女暴行を厳禁にしたから安心して家に帰るように」とお触れを流したが、その後も、蔡さんの近所の王さんの娘や、李さんの娘、温さんの娘が連れ去られ、その後の消息はない。

蔡さんも乞食をしていて売られた。

 

 

262 姜根福「幸せです。毛主席は私たちに第二の人生を開いてくれた。今の私たちがあるのも、全く毛主席と党のおかげです。この恩恵は、あの悲惨な旧社会に生きてきた私たちにとって、どんなに強調しても足りないくらいです。毛主席の恩は天と地よりも大きく、党の恵は河や海よりも深い。

また中国で犯した日本の罪悪は、軍国主義の罪悪であって、日本人民の罪ではありません。毛主席の教えに従って、私たちは現在も日本の人民と反動政府を見分けています。その反動政府の中でも、政策の決定者と従わされている人々とは区別しなければなりません。私たちがこうした過去の体験をあなたにお話ししたのは、日本人民に対する中国人民の友誼の現れでもあるのです」

 

262 文献

 

洞富雄『近代歴史の謎』新人物往来社、後に改訂して『南京事件』

エドガー・スノー『アジアの戦争』みすず書房

新島淳良「立体構成・南京大虐殺」(雑誌『潮』19717月号特集、雑誌『新評』19718月号所収)

平岡正明「日本の三光作戦」(雑誌『日本の将来』二号所収)

黒田秀俊『南京・広島・アウシュビッツ』大平出版社

ティン・バーリイ『外国人の見た日本軍の暴行』龍渓書舎

 

263 百人斬り競争について詳述。

 

昭和121213日付の東京日日新聞の記事。

月刊誌『丸』19711月号、当時の記者が取材状況を語る。

月刊誌『中国』徳間書店197112月号は、N少尉が故郷の小学校で語った自慢話を聞いた志々目彰の話を紹介している。

 

「ニーライライと呼びかけると、支那兵はバカだから、ぞろぞろ出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る。」

 

この二少尉は国民党蒋介石政権によって南京に呼ばれて死刑が執行された。

 

元陸軍将校の機関誌『偕行』は19707月号から711月号まで7回に渡ってN被告の遺言を掲載。

二少尉を弁護する鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』文藝春秋

それを応援するイザヤ・ベンダサンこと山本七平『日本教について』『私の中の日本軍』文藝春秋

それを批判する洞富雄『南京大虐殺』現代史出版会や

鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」(本多勝一篇『ペンの陰謀』潮出版社所収)

本多勝一『殺す側の論理』朝日文庫はベンダサンを批判している。

 

 

 

三光政策の村

 

 

267 三光作戦は1940年頃、八路軍が活躍し始めた頃、軍上層部が計画して行われるようになった。

 

268 河北省の天津の東に唐山があり、その65キロ東北に、途中豊潤を通過したところに藩家峪がある。豊潤県火石蛍人民公社藩家峪生産大隊がある。豊潤県革命委員会代表の沛が出迎えた。

 

藩広林48の証言

 

毛沢東が人々に呼びかけた。「全国の同胞よ、中華民族の危機を救うには、全民族の力を動員して抗戦しなければ活路は開けない」(1937.7.25「すべての力を動員して抗戦の勝利をかちとるためにたたかおう」)に呼応して藩家峪の住民も遊撃隊を組織した。道路を破壊し、通信線を切断し、地雷を使って待ち伏せ攻撃した。食糧の徴発に反抗し、身分証明書や戸別冊(世帯員名簿)を焼き捨てた。この村には傀儡政権ができなかった。

 

270 陳三奶々(だいだい、人名ではなく、三番目の陳さんの奥さん)はゲリラの隠れ場所を言えと拷問された。藩国生(民兵)は小銃一つで、敵に囲まれたゲリラを救出した。藩樹盛は銃一丁で掃討軍を撃退した。

 

1940125日、旧暦1228日に、日本軍がこの村の掃討に来た。

 

271 当時村には2411500人が住んでいた。出稼ぎや、村外の親戚に行っていた者が200人いて、実際には1300人だった。そのうち1230人が殺された。燼滅(じんめつ)作戦という。

 

124日の夜、3000人の日本軍と2000人の傀儡兵がこの村を包囲した。

125日の朝、藩広林の家族は7人だったが、父親は3日前に日本軍に連行されて拷問を受けていた。弟13歳はゲリラに参加するために前日に村を去っていた。17歳の長男の藩広林と祖母65、母36、妹二人(7歳と5歳)が残っていた。藩広林は逃げようとしたが、すでに包囲されて逃げられなかった。

 

村人は駆り出された。老衰や病気の者はその場で刺殺された。藩鳳柱の母78や、藩忠元の祖父80や隣家の藩樹弟の祖母らである。

 

村の西の氷結した池に民衆を追い込んだ。日本軍リーダーの佐々木が言った。「村長、武装班長、民兵、武器を持っている者、八路軍に協力した者は前に出ろ」「八路軍の兵器工場はどこだ」と言った。誰も出なかった。無作為に20人を引っ張り出し、銃剣で惨殺した。

 

274 佐々木は「大東亜共栄圏」「日中親善」などと言いながら訓話を始めた。

 

池から100メートル先に地主の家があった。高さ2メートルの壁に囲まれていて、42メートル×75メートルの台形をした敷地である。そこに1300人を入れた。庭には高粱の殻や松の枝が敷き詰めてある。石油のにおいもする。四方の壁に銃を構えた兵隊がいる。最後尾にいて入るのをためらった一人が刺殺された。

275 午前11時、放火。機関銃と小銃の一斉射撃開始。手榴弾も次々に飛んで来た。

 

一回目の点検直後、門に錠がかけられる直前に、藩国生(50270)が叫んだ。「このままではどうせ死ぬんだ。日本兵にとびかかれ。一対一で殺して逃げ出せ。」藩国生の後ろに20人が続いた。機関銃で10人が倒れた。藩国生は機関銃にとびかかり、奪い取って機関銃手を跳ね飛ばした。銃剣が彼を串刺しにした。その間に10余人が外に逃げた。山に向かった45人が撃たれたが、5、6人が逃げられた。

 

点検時に首を斬ってぶら下げ、腹と胸を切り開き、内臓を散乱させた。

 

277 範広林の家族は、彼以外は、全て殺された。

 

祖母は手榴弾を投げつけられ、五体がバラバラに飛び散った。二度目の機関銃掃射休止の時、日本兵は5歳の妹を母から引き離し、両足を掴んで振り子のようにして頭を石に叩きつけた。母がその子に覆いかぶさって抱くと、日本兵はその背中を突き刺した。上の7歳の妹が母の死体に抱き着くと、兵隊は妹の一方の足を踏みつけ、他方の足を引っ張って引き裂いた。腹まで裂かれた。

 

278 45歳の子が洗濯用の大きな石を頭に載せられて潰された。藩国文の妻は両足の付け根を切り落とされた。妊婦は銃剣で腹を裂かれ、腸とともに胎児も放り出され、動く胎児は突き殺された。20人から30人いた妊婦のほとんどが、機関銃で殺されなかった場合は、こういう殺され方をした。

 

内壁と家との間の狭い通路で、子ども200人が一度に殺された。

 

藩善緒さん67の証言 藩善緒さんは当時36歳だった。

 

三度目の機関銃掃射休止のとき、もう村人の半分は殺されていただろう。西側の壁の上にいた日本兵が熱さに耐えきれず、壁の外に降りた。その時私は犬小屋の屋根から豚小屋の屋根に上り、外へ飛び降りた。煙ですぐに見つからなかった。壁沿いに北へ20メートル走ったところで3人の兵隊にぶつかってつかまった。二人の兵隊に地面に押さえつけられ、三人目の兵隊が銃剣で顔を突き刺そうとしたが、身をかわして耳を切られただけで済んだ。私は二人の兵隊を跳ね返して起き上がった。三人目の兵隊の銃剣から身をかわし、こぶしでその兵隊の目をついた。片目が飛び出した。残る二人の兵隊の一人の頭を石でどやしつけるとひっくり返った。残った一人がまごまごしている隙に北の山に逃げた。

 

280 村中の家が放火され、その煙のために逃げやすかった。

 

藩広林の場合

 

北側の壁の入口の東側に、古い入り口が煉瓦で塞いであったが、小さな穴が開いていた。藩樹密の母の藩劉氏54、劉は婚前の姓)など何人かの女性がそこに走って来た。東の壁の上にいた日本兵が藩劉氏に手榴弾を投げつけた。藩劉氏はその手榴弾を拾って日本兵に投げ返した。爆発と同時に数人の日本兵が壁から落ちた。そのすきに藩劉氏は煉瓦の崩れた小さな穴に飛び込んで抜け出した。

藩広林は一気に多数が飛び出すために、三度目の休止のときに、藩広林ら10余人がその穴を広げた。藩広田が最初に走ったが射殺された。2番目の張鳳雨も射殺された。しかい穴はだんだん大きくなった。そこで藩広林ら56人が次々に飛び出した。

 穴の外に警備兵二人がいた。そこへ中国人が通りかかった。兵隊の一人がその中国人を追いかけた。もう一人の兵隊がよそ見をした時に、藩広林は飛び出した。反対側の(家の)壁の門が開いていた。飛び込んで扉を閉めた。兵隊が発砲した。藩広林らはその家の構内を北に走り、中庭の門を走り抜けた。火と煙が幸いして見つからなかった。北の山に逃げた。

 藩広林と共に脱出した56人はすべて射殺された。このあと10数人がこの穴から無事に脱出した。

 

282 地主の敷地内で隠れ通した人が29人いた。そのリーダー格が藩輔定60代である。藩輔定は当時31歳だった。10歳の息子と3歳の娘を両手に抱いていた。20人の青年が側にいた。食料倉庫に逃げた。逃げるとき上の子を落としてしまった。20人の青年も(食糧倉庫に)飛び込んだ。先客が78人いた。合計29人となった。斧、農機具、秤の分銅など、何でも手にして武器にした。

食糧倉庫の上にいた日本兵4人が、倉庫内に一斉射撃したが、部屋が暗く、煙もひどくて当たらなかった。倉庫に窓はなく、村人は入り口で抵抗した。抵抗は十数分続いた。反対側の家が燃えて熱い。食料倉庫の中のものに火が付き、煙が充満した。兵隊は攻撃を中止して引き揚げた。機関銃掃射が再開された。倉庫内で燃えているものを外に出した。29人は倉庫内で待った。

 

285 無意識に生き残った幼児もいた。藩樹藩の妻は4歳の男の子を抱いていた。西側の壁際に走り寄ったが射殺された。その4歳の男の子は生き残ったが、神経に異常をきたした。藩作明という。30歳になっても治らない。

 

日本軍がその日の夕方全戸の家宅捜索に来て、老人と子どもばかり32人を捕まえ、銃剣で突き刺され、川の崖から突き落とした。

 

29人の生存者は食糧倉庫から出た。藩広林や藩善緒なども山から戻ってきた。午後10時ころ八路軍第12連隊の700人が現れた。この時の八路軍は『白毛女』などに劇化された。元気な生存者60人、重傷者43人、計100人。殺された人が1230人。翌日八路軍の県政府から医療隊や食糧隊が派遣された。

 

288 死者の800体は識別不能だった。墓をつくった。

289 生存者100人と村外にいた者200人、計300人が村の再建に取り掛かった。大人の全員が民兵に加わり、そのうち22人は八路軍の正規軍になり、「復仇団」と称した。山に洞窟が掘られた。

8年間の抗日戦争中1937-1945に、日本軍はこの村に138回来た。この虐殺事件以後、日本軍とこの村との間で54回の戦闘が行われた。

藩樹盛270は虐殺の翌年1941318日、日本軍に捕まり、拷問の後銃殺された。

復仇団が参加する部隊は、1942年の旧暦7月、灤(らん)県の榛子鎮での戦闘で、前述の佐々木を含む日本軍150余人を撃滅した。

293 地主の家の中庭に「打倒日本帝国主義」と大書されている。

親指以外の指の先が欠けている男が近づいて私に指を示した。当時のやけどで失ったのだ。

展示館に当時の証拠写真が展示されている。

藩広林の父は拷問に耐えて生き残った。

記念撮影のとき藩広林の子どもたちは毛沢東語録を胸にかざして笑った。

 

296

 

「三光作戦」は中国の呼称であり、日本では「燼滅作戦」と呼ぶ。平岡正明『日本人の三光作戦』(季刊誌『日本の将来』第二号)

 

 

 

あとがき 本多勝一

 

 

解説 高史明

 

304 1931123日の衆院本会議で、松岡洋右は政友会を代表して「満蒙問題は、私はこれは我が国の存亡にかかわる問題である、我国の生命線であると考えている」

満州事変当時、軍部は戦争に踏み切るときに世論を考えて躊躇した。前関東軍司令官本庄繁中将「わが国民の輿論はどう動くだろうか、いささか懸念なきにあたわずであった――日露戦争当時ですら一部に非戦がおこなわれたのだから――しかるにこれは全くの杞憂であって挙国一致の後援だ」

 

307 日中戦争後の日本人死者は500万人、中国人死者は千数百万人であった。

 

以上

 

 

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本多勝一『中国の旅』朝日新聞社1981

  本多勝一『中国の旅』朝日新聞社 1981       また耳の痛い話ですが、私たちのお父さんやお祖父さんの若かりし頃の話です。その頃、共産党員や横浜事件の出版社員に対して、言語を絶する拷問が行われました。それと同じことが、中国でも朝鮮でも、行われていたであろう...