アンゲラ・メルケル『自由』上 KADOKAWA 2025
感想 2026年7月10日(金)
米の傍若無人はトランプに始まったことではない。気候変動対策をめぐる、仏サルコジとブッシュ(子)との緊張関係 2007年6月のドイツで開催されたG8 ブッシュ(子)2001.1-2009.1は、2001年3月、気候変動枠組条約の下で採択された京都議定書1997から脱退していた。
ニコラ・サルコジ「京都議定書失効後の気候保護で前進が得られなければ、私はこの部屋を出て国へ帰る」
それに対して、ブッシュは立ち上がってシラクの背後に回り、
「私もみんなと同じで、自分の国家の立場を代表している。自分に許される範囲での妥協には前向きだが、私もまた、ヨーロッパが私に付きつけてくる立場を理由に、ここを去ることができる。そうするつもりはないが、誰にもここを出てい行く自由がある」388
388 結局G8では、気候変動対策の声明は米抜きで、米の責務については触れなかった。つまり、シェルパ(裏方の側近)が作成したG8の声明文は、
「気候変動対策は人類にとって最大の困難の一つである。G8は気候変動に関する政府間パネルが発表した最新のレポートを読んで懸念を覚えた。今後は世界的な気候保護政策の交渉を、国連の枠内で行うべきである。G8は、欧州連合とカナダと日本による、全世界における排出ガスを2050年までに半減するという決断を、真剣に検証する」
メルケルが仲介したとも言える、プーチンとブッシュとの軍事的懸念
プーチンは米に対する軍事的懸念をメルケルに吐露し、メルケルはプーチンにブッシュ(子)との対談を促した。(2007.1ソチのプーチン邸)
2007年6月のG8で、プーチンはブッシュと対面し、「米は、ロシアと協力しながらアゼルバイジャンのレーダー基地を利用し、トルコ、イラク、海上に防衛ミサイルを配備できるはずだ」と提案した。それに対してブッシュは「検討する」と宣言し、2年後の2009年、オバマがミサイル計画を修正し、ポーランドに予定していた防衛システムを海上に配備し、チェコに予定していたレーダー基地建設を撤回した。プーチンの懸念は取り除かれた。
プーチン大統領は内心をメルケルに打ち明けている。つまり、
ソ連崩壊は大失敗(惨事)だと考えている。(2005年の年次教書。2007.1ソチのプーチン邸で。)
ロシア憲法では、大統領は一時休めば、その後再び大統領になれる。それが米憲法と違う点だ。(2006.4トムスク、空港へ見送る車中で。メドベージェフ大統領時代2008.5-2012.5が想起される。)
2004年のウクライナのオレンジ革命は、アメリカ資本の投入が原因だ。(2006.4トムスク、車中で。)
392 メルケルはプーチンにロシアの内政に関する懸念を表明した。つまり、ロシアでは、プーチンの大統領就任の頃から個人の自由が制限され始め、非政府組織の活動が制限されたと。しかしプーチンはそれを否定した。(2006.4、トムスク)
ドイツは冷戦時代から燃料をソ連に相当依存していた。つまり、2005年現在でも、天然ガスの41%、原油の32%をロシアに依存していた。393 独ロは親密な関係だったことが分かる。
感想 2026年7月5日(日)
メルケルさんの気候環境問題に関する国際交渉能力は素晴らしい。英語力、忍耐力そして体力も。メルケルさんは1995年3月28日から4月7日までベルリンで開催されたCOP1第一回気候変動枠組条約締約国会議の開催国の議長として活躍した。その困難な交渉をまとめ上げたメルケルさんは、環境問題が得意分野となった。
1992年ジョージ・ブッシュ(父)は気候変動枠組条約に署名した。
1997年12月の京都会議(第3回締約国会議、COP3)に出席した、ビル・クリントンの副大統領だったアル・ゴアは積極的で、アメリカは2008年から2012までに1990年比7%減らす目標を引き受けたが、結局アメリカは京都議定書を批准せず、クリントンの次の大統領のジョージ・W・ブッシュ(子)は、議定書からの離脱を宣言した。つまりトランプの先輩である。
そしてアメリカ議会は中国をライバルとしてひどく意識していた。つまり、その年1997年、米国上院は「中国の削減目標が取り決められない限りあらゆる気候関連協定に反対する」という立場を95対0で採決していた。
この間のメルケルさんの業績をまとめたメルケルさんの著書『生き残りの代償――環境政策の将来の課題に関する思いと会話』 “Der Preis des Überlebens - Gedanken und Gespäche über zukünfige Aufgaben
der Umweltpolitik”
感想 2026年7月5日(日)
「メルケルさんは福島原発事故について一言も触れていない」と前回述べたが、気になったので下巻の該当箇所を読んでみた。するとドイツの脱原発政策を決めたのがメルケルさんだと分かった。福島の事故はドイツ人にとって衝撃的だったことが分かる。
ドイツ国民の間には以前から脱原発の願いがあったが、その担い手はCDU/CSUやFDPではなく、緑の党やSPDだったようだ。それをメルケルさんは無視し、強引に原発依存政策を続け、シュレーダーの脱原発政策を逆戻しした。その矢先に福島の事故が起こった。国民の反対運動は広がり、人々は45キロの距離を手でつないで反対の意を示したという。下251
メルケルさんが脱原発に舵を切ったのは、国民の分断を避けるということ、福島原発事故の意味が分からないことだった。今の自民党に教えてやりたい。国論を二分するような政策を強引に進めてはならない。それは誰が考えても常識ではないか。それに原子力は人智を越えたものであるという謙虚さである。
メルケルさんは「日本のような高度に発達した国」251とか、「日本のようにきわめて高い安全要件と安全基準を有する国」252などとおだてるが、それは誤解ですよ、メルケルさん。
感想 2026年7月4日(土) 妊娠中絶、原発可否
メルケルさんは保守的。キリスト教牧師の家庭に生まれ育ったということが関係しているのか。所属政党も保守的なキリスト教民主同盟CDU。
妊娠中絶問題では生命を育てるということを重視しているようだ。確かにそれは国民皆が裕福ならそれでいいが、経済的に苦しい人もいるということに思いをはせないのか。ちなみに、東独では日本と同じ、妊娠後一定の期間までなら中絶できた。
原発問題でも自らが物理化学者で、物理化学の発展を学び、信じているせいか、チェルノブイリの事故はソ連のやり方が悪いとし、「ハイテク国家」ドイツでは事故は起らないという。243 そしてスリーマイルや福島の事故のことは触れない。核ゴミの最終処分で、半減期2万年という事実をどうするのか。それについても触れない。メルケルさんは原発反対者は感情論者だという。242
1998年5月、放射性物質輸送用の容器から基準値超の放射線が漏れていたことをドイツ当局が数年間隠していたことが暴露されたというが、日本でもそういうことがあってもおかしくない。247 そしてメルケルさんは、それはケーキを焼く時にメリケン粉が飛び散るくらいのものだと豪語。後にその失言を反省しているが。243
ドイツでは、2000年6月、SPD社会民主党と緑の党と連立政権になって原発廃止に転換する。246
感想 2026年7月3日(金)
メルケルさんは企業の「競争力」を疑わない。ドイツ統一後のことだが、「信託公社」というのがあり、企業に融資する機関らしいが、そこのボス(デトレフ・ローヴェッダー)が「競争力」のない企業には金を貸さないらしい。そのためつぶれる企業が続出し、それに伴って失業者が吐き出されるらしいが、メルケルさんは理系の人のせいか、淡々と語る。そして悲劇的なことに、とどのつまり、その信託会社のボスがドイツ赤軍派RAFに銃殺される。187
そこまでして東独は西独の資本主義社会に同化する必要があったのだろうか。経済成長は絶対の価値基準か。東独の強権的支配を改善すれば、結構暮らしやすいところだったのではないか。東独では物足りないと考える人は、西独に「流出」するに任せておいたらどうだったのか。そんなに目くじらをたてることもなく。のんびりと皆が仕事ができ、そこそこ収入が得られて暮らせていけば、それでよかったのではないか、と私は思うのだが、あなたは成長神話を信じますか。低成長は罪悪なのでしょうか。
感想 2026年6月30日(火)
メルケルさんの政界進出のきっかけが、東独の情報機関(国家保安省)に情報を提供していた民間人IM(非公式協力者147)の男ヴォルフガング・シュヌル141から報道官に抜擢された142ことであったという皮肉。
メルケルさんは、1989年の東独の混乱期に、DA「民主主義の出発」135という市民運動政党に加入することにした。その政党DAの党首・ヴォルフガング・シュヌル137が、東独の情報機関(国家保安省)に情報を提供していた民間人IM(非公式協力者147)だという噂があったが、DAに選挙共闘をもちかけた西独のCDUキリスト教民主同盟は、「本人が否定しているならそれでよい」という態度だった。しかし後にシュヌルはその事実を西独のCDU関係者に認め、神経衰弱になり、選挙期間中なのに、病院に入院した。
選挙結果はDAは得票率0.9%という惨めな結果(CDUは40.8%で第一位)になり、メルケルさんは夫のロンドンでの講演に付き添って旅行に出かけることにしていて、実際、旅行に出かけたのだが、新政権(ロタール・デメジエールDDR首相155、前東CDU党首)の組閣に際して、副報道官のポストの受け手がなく、メルケルさんに回って来た。メルケルさんは、就任式はロンドン旅行のため欠席してもいいという条件で、引き受けることになった。それがメルケルさんの政界入りの最初のステップだった。情報機関のボスに抜擢されたことが、政界入りするきっかけになったとは皮肉な話である。
*情報機関の名簿(シュタージュ・ファイル、国家保安省機密文書)にヴォルフガング・シュヌルの名前があることが確認された。
*1990年1月28日、東独で最初の自由選挙である人民議会選挙が、1990年3月18日に行われることが決まった。141
感想 2026年6月30日(火)
メルケルさんはなぜ科学者をやめて政治の世界に入ったのか。彼女自身は「科学者としての意志の欠如」*と言っている。1989年の騒乱が起ったとき、彼女は科学者の身分を捨て、政治の世界に入った。
*110 「プロモーションB(大学教授資格109)を目指すつもりにもなれなかった。自分では、私は優れた学者だったとは思うが、基礎研究で最大の成果を残すには必須の条件であるはずの科学への傾倒が足りていなかったと思う。」
東独の「消滅」は必然だったのか。彼女はそう言うのだが、私はそうは思わない。実際、「東独はその現体制を廃して西独に合流すべきだ」という人ばかりでなく、「東独はそのまま残り、独自の道を進むべきだ」128という人もいた。
東独「消滅」の原因はいくつか考えられる。ミハイル・ゴルバチョフ、西独首相ヘルムート・コール132、ドイツ民衆の気性の激しさなどである。ゴルバチョフというのは、ゴルバチョフの発言「人生は遅れて来る者を罰する」(1989.10.7、117)に見られるように、ゴルバチョフのペレストリカやグラスノスチの方針の勧誘と、民衆弾圧は支援しないという態度である。コールの要求というのは、「東独には資金援助するが、その代わりに現体制を廃止せよ(経済システムを変えろ)」というものである。
東独の当時の指導者の中には、中国の天安門事件の弾圧1989.6.4を支持する人*もいたようだが、実際そのような手段に訴えることはなかった。やはりソ連のバックがなくなったというのが大きいのではないか。
*132 国家評議会議長エーリッヒ・ホーネッカーの副官だったころのエゴン・クレンツの発言。クレンツは10月1日、中華人民共和国建国40周年を祝うために中国を訪れた時、1989年6月の天安門虐殺事件を公然と支持した。エゴン・クレンツは1989年10月18日、エーリッヒ・ホーネッカーに代わり、SED(ドイツ社会主義統一党)の書記長になり、10月24日、国家評議会とDDR(東独)国防会議の議長に就任した。
メルケルさん35歳の時の話である。
それにもう一言、西欧はキリスト教の組織力が強い。保守的。政治との結合。キリスト教民主同盟とか。これは中世以来の西欧の伝統の力なのだろう。メルケルさんのお父さん(神父)の影響。
感想 2026年6月28日(日)
098 1981年、27歳の時、事情はよく分からないが、ともかく「自由に生きたい、東ドイツの殻にはまらないで自由に生きたい」という理由で、夫と別居する決断をするというのには、びっくり。そして1年後の1982年には離婚する。彼女が28歳の時である。ただし「メルケル」の名は捨てなかったというから、メルケルは夫の名らしい。ちなみに夫の名は、ウルリヒ・メルケルという。彼女は語る「国なんかどうでもいい。わがままかもしれないけれど、本当に大切なのは自分の人生では?」
感想 2026年6月28日(日)
メルケルさんは成績優秀だった。当局もそこに眼をつけていたようだが、当局に迎合して当局のスパイになることを拒否した彼女の思想的態度が問題となり躓くこともあった。つまりイルメナウ工科大学博士課程への進学希望は不合格という結果になった。083
メルケルさんの優秀さを示す卒業論文のテーマは「高密度媒体内部における二分子素反応の反応速度に対する空間相関の影響について」だが、私など皆目その意味が分からない。それについて「私は化学的な問題に統計物理学を応用しようとしていた」と説明している。077
メルケルさんのように優秀な人には、社会主義的大衆平等主義は合わないのだろうと推測できる。イルメナウ工科大学博士課程への進学で挫折した後、「研究職ではなく、どこかの火力発電所で働かなければならないとしたら、私には悪夢だっただろう」と本音を吐露している083が、これは底辺労働者に対する差別ではないか。
東独では個性的な詩人や作家などが、追放されたり亡命したりしている。詩人のヴォルフ・ビーアマン073や作家のライナー・クンツェ072である。
科学者らも亡命した。ラルフ・デルという人は、DDR科学アカデミー同位体・放射線ライプツィヒ中央研究所の研究員で、メルケルさんの大学卒業論文を指導したが、そのラルフ・デルを含め、この研究所で会った研究者らは「一人残らず西ドイツへと去って行った」と言っている。077
感想 2026年6月27日(土)
053 メルケルさんはマルクス主義を断罪する。バッサリと。しかしそれを自分が生きている体制に対する批判だと考えれば、その断罪の謎が解けるのでは。メルケルさんはマルクス主義社会で生まれた。だから現状の体制批判は、マルクス主義批判となる。
一方日本人にとっての体制批判は天皇制・国体批判であった。戦前の若い人々にとってマルクス主義は希望の星だった。だから、体制批判という意味ではメルケルさんも、日本人のマルクス主義的国体批判とは共通する。
053 「9年生の時の公民の課題『マルクスとエンゲルスの科学的認識が今でも正しかったことを証明しなさい』 この問いは見解の問題であって科学的な証明など不可能であった」とメルケルさんは述べている。日本の私はここまではっきり言えない。私はマルクスの指摘は今でも生きていると考えているからだ。それで生産がうまく行くかどうかは別として。それが気がかりなのだが。逡巡しているのだ。しかし、利益が労働者に還元されるべきだとは考えている。
055 メルケルさんが大学で物理を専攻したというのも、体制批判と関係している。メルケルさんは正解が場合によって異なり、気を使うことの多い社会科学は嫌だったのである。
プロローグ
第1部 首相として生まれて来たのではない 1954年7月17日から1989年11月9日
幸せな子ども時代
クヴィッツォウ ベルリンから北西150kmのところにある村。
ヴァルトホーフ(知恵遅れの人のための訓練生活施設)、牧師研修所、テンプリン湖、レッデリン湖
純然たる恐怖
メルケルさんは早熟です。三歳の頃の記憶があるとのこと。母親が弟を出産するとき、3か月間祖母の家にあずけられたあとに帰って来て、母親に対して「あなた」Sieという敬語を使ったという。
また少し大きくなったころ、大人から「遊びに行ってもいいよ」と言われた後でも、大人の政治に関する話をワクワクして聞いていたとのこと。それはシュタージュ(諜報機関の秘密警察、日本の特高警察)に関するものを含めた、国家との対立に関する話題だったらしい。029
西洋はキリスト教が生活の中に溶け込んでいる。キリスト教がその音楽と共に娯楽の一部となって集団の一体感を醸成しているようです。
ドイツ人は休暇が好きなようです。夏は3週間くらい車であちこち移動しながら旅を楽しみます。031
本書のタイトルが『自由』であるように、メルケルさんは子どもの頃から東独の政治や文化を毛嫌いしていたようです。そして西独に対するあこがれを、石鹼やコーヒーのにおいで表現しています。「石鹸の心地よい匂いやコーヒーのかぐわしい香り」を「西の匂い」と表現しています。025
1961年8月13日の日曜日に、東西ドイツを隔てる壁が建設されました。メルケルさんは、この日は忘れることができないと腹を立てています。「人々は泣き崩れ、母は絶望した」と言っています。
1949年に東西ドイツが建国されてからの12年間は、ドイツ人の東西往来は可能だったようです。朝鮮はどうだったのでしょうか。AIによりますと、1945年の米ソの分割支配のころから検問所ができて自由に往来できなくなったとあります。朝鮮は気の毒ですね。一方ドイツにとって、東西交流ができた12年間の重みは、壁を破壊する源にもなったのではないでしょうか。
メルケルさんが政治家として成功する素地は、父親が牧師で、絶えず周囲の人々を自宅に呼んで接待していたことが大きいのではないか。クリスマス・イブは。身寄りがなく寂しい思いをしている人のために尽くすべき日だとして、自宅にそういう人を招待して遅くまで接待していたようです。社交的になったのではないでしょうか。
ゲーテ学校
メルケルさんは理系かと思っていたら、ロシア語が得意で、8年生*のとき、東ドイツの全国コンテストで銅メダルを獲得し、モスクワ旅行のご褒美をいただいた。そしてその2年後の1971年には金メダルを獲得した。
彼女はこの8年生の時、本来なら「拡大上級学校」の9年生と10年生向けの「準備クラス」に飛び級で入っていたようだ。その上に11年生と12年生があり、大学進学の資格が得られるらしいが、いつその資格が得られるのか、訳文ではその点がはっきりしない。040
*8年生だから、14歳1968年のはずだが、本文では1969年とある。1969年なら15歳となる。
ロシア語は5年生の時から教えられた。039
牧師の子どもということで、当局からマークされていた。そのことでご本人は不愉快な思いもしたというが、それなりに東ドイツの水に慣れていたようにも思える。
東独でも西独のテレビ娯楽番組が見られたとのこと。朝鮮ではどうだったのだろうか。1960年代と思われる。日本でもそのころようやくテレビが一般家庭にも普及し出したころだが、朝鮮ではどうだったのだろうか。
メルケルさんは1961年9月、7歳の時に、第4小学校(の1年生)に入学した。東独では通しで〇年生というようだ。
「ゲーテ学校」というのは5年生になって進学した総合技術学校。
神父の子どもは学校給食を食べられなかったので、午後は学校から帰宅し、自宅で昼食を食べた。授業は午前中で終わったようだ。023, 033
国が組織する青少年団体に加入しないで大学に進学することはできなかった。034
東独の青少年団体は7年生までの「ピオニール団」と、8年生以上の「自由ドイツ青年団FDJ」とがある。さらに「ピオニール団」は、3年生までの「ユンクピオニール」と、4年生からの「テールマン・ピオニール」に分けられていた。
ソ連では(高学年は)コムソモール、低学年はレーニン・ピオニールという。
彼女は2年生の1962年から1968年までピオニールに所属し、その後はFDJに所属した。
西ドイツの人は、1日ビザで東ベルリンだけは訪問できた。これも朝鮮にはないこと。044
045 夏休み
SED ドイツ社会主義統一党
FDGB 自由ドイツ労働組合同盟
046 EOS 拡張高等学校 大学進学を保証された、9、10、11、12学年。erweitertes
Oberschule
048 プラハの春 14歳
049 1968年8月21日、アレクサンデル・ドゥプチェク第一書記によるプラハの春は潰された。
RIAS 米占領地区放送局
086 東西ドイツの国連加盟は1973年。ちなみに南北朝鮮の国連加盟は1991年。
085, 086, 087 1973年、「基本条約」が発効した。これによって東西ドイツがお互いの存在を認め合い、国連に加盟することになった。
1973年、ヘルシンキでCSCE「欧州安全保障協力会議」が開催された。ワルシャワ条約機構の7か国、NATOの15か国、中立の13か国、合計35か国が参加し、ヘルシンキ宣言に署名し、1975年に閉会した。欧州における、安全と人権保護のために、文化、科学、経済、環境保護、軍縮に関する共同目標が採択された。
1977年1月1日、プラハで「憲章77」が発表された。反体制派が共産主義政権に反旗を翻したのである。劇作家のヴァーツラフ・ハヴェル、哲学者のヤン・パトチカ、元外務大臣のイジー・ハーイェクなどの反体制派である。
094 1981年、27歳の時、ポーランドで戒厳令が敷かれた。その時ML(マルクス・レーニン主義)の授業で、その戒厳令に反対する意見を述べた学生が、博士課程から停学処分になった。
098 1981年、27歳の時、事情はよく分からないが、ともかく「自由に生きたい、東ドイツの殻にはまらないで自由に生きたい」という理由で、夫と別居する決断をするというのには、びっくり。そして1年後の1982年には離婚する。彼女が28歳の時である。ただし「メルケル」の名は捨てなかったというから、メルケルは夫の名らしい。ちなみに夫の名は、ウルリヒ・メルケルという。彼女は語る「国なんかどうでもいい。わがままかもしれないけれど、本当に大切なのは自分の人生では?」
075, 076 1974年、大学2年、20歳の時、ウルリヒ・メルケルと初対面。1977年、23歳の時、学生結婚。
083 夫はフンボルト大学へ、メルケルさんはZIPC「科学アカデミー物理化学中央研究所」へ就職できた。いずれもベルリン市にある。ライプツィヒからの移住先である。
101, 103 東独でも英語が使われていた。日本では考えられないことである。研究雑誌や国際的研究集会で。
感想 2026年6月30日(火)
メルケルさんはなぜ科学者をやめて政治の世界に入ったのか。彼女自身は「科学者としての意志の欠如」*と言っている。1989年の騒乱が起ったとき、彼女は科学者の身分を捨て、政治の世界に入った。
*110 「プロモーションB(大学教授資格109)を目指すつもりにもなれなかった。自分では、私は優れた学者だったとは思うが、基礎研究で最大の成果を残すには必須の条件であるはずの科学への傾倒が足りていなかったと思う。」
東独の「消滅」は必然だったのか。彼女はそう言うのだが、私はそうは思わない。実際、「東独はその現体制を廃して西独に合流すべきだ」という人ばかりでなく、「東独はそのまま残り、独自の道を進むべきだ」128という人もいた。
東独「消滅」の原因はいくつか考えられる。ミハイル・ゴルバチョフ、西独首相ヘルムート・コール132、ドイツ民衆の気性の激しさなどである。ゴルバチョフというのは、ゴルバチョフの発言「人生は遅れて来る者を罰する」(1989.10.7、117)に見られるように、ゴルバチョフのペレストリカやグラスノスチの方針の勧誘と、民衆弾圧は支援しないという態度である。コールの要求というのは、「東独には資金援助するが、その代わりに現体制を廃止せよ(経済システムを変えろ)」というものである。
東独の当時の指導者の中には、中国の天安門事件の弾圧1989.6.4を支持する人*もいたようだが、実際そのような手段に訴えることはなかった。やはりソ連のバックがなくなったというのが大きいのではないか。
*132 国家評議会議長エーリッヒ・ホーネッカーの副官だったころのエゴン・クレンツの発言。クレンツは10月1日、中華人民共和国建国40周年を祝うために中国を訪れた時、1989年6月の天安門虐殺事件を公然と支持した。エゴン・クレンツは1989年10月18日、エーリッヒ・ホーネッカーに代わり、SED(ドイツ社会主義統一党)の書記長になり、10月24日、国家評議会とDDR(東独)国防会議の議長に就任した。
メルケルさん35歳の時の話である。
それにもう一言、西欧はキリスト教の組織力が強い。保守的。政治との結合。キリスト教民主同盟とか。これは中世以来の西欧の伝統の力なのだろう。メルケルさんのお父さん(神父)の影響。
メモ
109 メルケルさんの博士論文の題名「単結合切断を伴う崩壊反応メカニズムの調査および量子化学的統計学的手法を用いた速度定数の計算」
133 中央円卓会議
135 DA
感想 2026年6月30日(火)
メルケルさんの政界進出のきっかけが、東独の情報機関(国家保安省)に情報を提供していた民間人IM(非公式協力者147)の男ヴォルフガング・シュヌル141から報道官に抜擢された142ことであったという皮肉。
メルケルさんは、1989年の東独の混乱期に、DA「民主主義の出発」135という市民運動政党に加入することにした。その政党DAの党首・ヴォルフガング・シュヌル137が、東独の情報機関(国家保安省)に情報を提供していた民間人IM(非公式協力者147)だという噂があったが、DAに選挙共闘をもちかけた西独のCDUキリスト教民主同盟は、「本人が否定しているならそれでよい」という態度だった。しかし後にシュヌルはその事実を西独のCDU関係者に認め、神経衰弱になり、選挙期間中なのに、病院に入院した。
選挙結果はDAは得票率0.9%という惨めな結果(CDUは40.8%で第一位)になり、メルケルさんは夫のロンドンでの講演に付き添って旅行に出かけることにしていて、実際、旅行に出かけたのだが、新政権(ロタール・デメジエールDDR首相155、前東CDU党首)の組閣に際して、副報道官のポストの受け手がなく、メルケルさんに回って来た。メルケルさんは、就任式はロンドン旅行のため欠席してもいいという条件で、引き受けることになった。それがメルケルさんの政界入りの最初のステップだった。情報機関のボスに抜擢されたことが、政界入りするきっかけになったとは皮肉な話である。
*情報機関の名簿(シュタージュ・ファイル、国家保安省機密文書)にヴォルフガング・シュヌルの名前があることが確認された。
*1990年1月28日、東独で最初の自由選挙である人民議会選挙が、1990年3月18日に行われることが決まった。141
162 東独の主張に西独の人は耳を貸さない場合もあった。旧土地所有者に有利になるように土地の私有化が行われた。
164 西独の外相ハンス=ディートリヒ・ゲンシャーはソ連に訪れたとき、細かいことには触れず大局的な観点から東西ドイツの合併と世界におけるその役割について述べたが、それは大いに参考になった。
感想 2026年7月3日(金)
メルケルさんは企業の「競争力」を疑わない。ドイツ統一後のことだが、「信託公社」というのがあり、企業に融資する機関らしいが、そこのボス(デトレフ・ローヴェッダー)が「競争力」のない企業には金を貸さないらしい。そのためつぶれる企業が続出し、それに伴って失業者が吐き出されるらしいが、メルケルさんは理系の人のせいか、淡々と語る。そして悲劇的なことに、とどのつまり、その信託会社のボスがドイツ赤軍派RAFに銃殺される。187
そこまでして東独は西独の資本主義社会に同化する必要があったのだろうか。経済成長は絶対の価値基準か。東独の強権的支配を改善すれば、結構暮らしやすいところだったのではないか。東独では物足りないと考える人は、西独に「流出」するに任せておいたらどうだったのか。そんなに目くじらをたてることもなく。のんびりと皆が仕事ができ、そこそこ収入が得られて暮らせていけば、それでよかったのではないか、と私は思うのだが、あなたは成長神話を信じますか。低成長は罪悪なのでしょうか。
以上
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