五 日本精神発展の段階1928.3.5 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収
感想 2021年5月6日(木)
本論文では皇国史観が現れていない。むしろこの人からまさかと思われる歴史の変化・発展を問題としている。惜しむらくは、その変化がなぜ、どのように起こったのかに関する記述がないことだ。ただ彼の直感なのだろう。
これまで第一章、第三章など皇国史観丸出しの論文を書いた直後に、このような純学問的な論文を書いたということは、自身が世の流れに押し流されたくない、という本来の今までの自身の学問を継続したいという気持ちの現れか。
各時代の価値観によって日本の歴史を5つに分ける。それは古代、上代、中世、近世、現代であり、それぞれの主導的な価値観は、混沌、美的、宗教的、儒教的道徳観、真実・事実重視の科学的立場である。これは自分のオリジナルな考えだというが、だとすると、素晴らしい独創的な着眼だ。またその根拠を文献で裏付けていて、説得力もある。
しかし、皇国史観は表立って現れていないものの、日本の自然や文化を他の諸国のそれと比較して素晴らしいと述べ086, 087たり、他人が自分のこの説にどうのこうのと言っても眼中にない116と、他人の意見を取り入れる姿勢がまったくなく、公然と言い張ったりするなど、自己中で傲慢である。
本論文を読んでみて、「国史」とは外来文化の輸入の歴史のようだ。美的時代は隋・唐の仏教美術の模倣であり、中世の比叡山の仏教は中国の天台宗の影響であるし、江戸時代の儒教は宋学の影響で、明治の科学の時代は、西洋の影響である。
本文要旨
086 大日本帝国の自然や文化のすばらしさを、外国のそれで貶めたくない。
ヴォルテールは自然はどこでも同じで、世界は我が家のように作られていると言う。漫然とこれに対する時、洋の東西を論ぜず、国の相違を問わず、この世は同一の世界であり、人の心は皆相似ているとみられる。自然科学の考え方が一律の解釈を推し広めてきてから、人心の秘奥に存在する特性を深刻に検討せず、彼我一様に論じるようになった。今や世界は思想的に一つの色に塗られ、厭うべき単調に陥ろうとしている。しかしもし表皮を破って中核に迫り、外面に捉われずに本質を把握しようとするならば、各国民それぞれの特色があり、混同することを許さない。
ボアローは次のような詩を書いた。
誰か今パリの最中にローマを見、
フランスにイタリアを見て、嘆かない者があるだろうか。
…私は恐れないわけにかない、悲しまないわけにいかない。
見よ、(ローマを流れる)テベレ川の水が滔々としてセーヌに迫り、
パリの町中にその小童、そのおどけ役者、
その言葉、その毒、その罪、その習いをもたらした。
(関根秀雄訳ブリュンチェールフランス文学史序説)
087 嘗てフランスの特質がイタリアの浸潤によって失われようとするのを見て、ボアローはこのように慨嘆した。(試しにこの詩中の数個の固有名詞を、東京、日本、江戸川ないしこれに対すべき欧米のそれに置き換えて見よ。そこには現代日本に対する意味深い風刺が現れるだろう。)すずろなる(漫然とした)観察によって平等観に陥った者は別として、個性を見、特性を捉えようとする者の前には、世界は決して一律単調ではなく、種々の色彩、様々な音調が、彼とこれとで立場を異にし、方向を同じくしない。
山桜匂わぬ国のあればこそ
大和心と、ことわりもすれ
東西、道は一つであるという考えを駁し、橘曙蘭はこう歌ったではないか。
088 国史の時代区分
同一の国家、同一の民族の中でも時代を異にすると、その色を異にし、匂いを異にするという歴史的変化、推移の著しさは、上述の国家間の相違よりも驚嘆に値する。時代を異にするとは単に時間の上でのことではなく、世界も異なる。日月に古今の変わりはない。日月に対する知識・情の上から言えば、今の日月は古の日月ではない。年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。自然の悠久は変わることがないが、人事の変転、文化の進展はめまぐるしいまでに急激だ。
今、一つの国家においてその特性を把握し、各時代の特質を感得するとき、人は歴史認識においてその堂奥に上り、その時代の推移にも関わらず、始終を貫く精神を継承することができ、真に歴史を生きる者となる。(何を言っているのか、意味不明。皇国史観を示唆しているのか。)
089 我が国の歴史が古代、上代、中世、近世、現代の五期に分かれていることについて、私はこれまでしばしば世人に注意を促してきた。(偉そう)しかしその時代の前後相異なる本源、その色彩の移り変わる基調についての私の説明は不十分であったので、本論文で時代区分の原理、基調を簡明に叙述する。
人物におけるどんな相違、変化も、その理想を異にすることほど本質的なものはない。理想を異にするとは価値の世界を異にすることである。人が今までの非を突然悟るとき、従来の一切の価値は一大変動を生じ、遂に消滅して空虚となる。山に入って10年、静かに精神を養って孤独を楽しんだツアラツーストラが、ある朝東の空に輝く朝日に向かって呼び掛けた時、彼の精神は既に動揺を来たし、彼の流離が始まった。また多年にわたり徹底的に研究した哲学、法学、医学、および神学の権威を疑い、それらの価値を見失った時、ファウストの悲劇が始まった。実に一切の悲劇は、価値観念の相違から起こる。
090 一人の内でこの相違が起これば、彼の魂は革命の危機に投ぜられる。一歩誤れば、喪身失命し、よくこの難関を乗り越えられれば、頓悟して(即座に悟って)乾坤を独歩できる。
甲乙の間にこの相違が存する時、彼らはその住んでいる世界を異にし、永久に交わることのない二つの平行線上を相互連絡なく無限に走り去る。頼朝は西行に銀製の猫を与えた。しかし西行はその贈り物を門前で遊ぶ嬰児に与え、飄然(ひょうぜん、ふらふらと)として遠方に去った。何事も変わりゆく夢の世の中に、一つの同じ影に澄む月を羨む西行法師にとって、銀製の猫はそもそも何に価したであろうか。もし時代にこの相違が生じるとき、前後で価値の矛盾を来たすため、悲劇は拡大し、その程度も深刻になる。その変化に気づかないで漫然と前後の跡を追う者は、ドン・キホーテの恥を免れない。
歴史における時代の区画は文化の秘奥に徹底すれば、理想の相違、価値の変転を伴い、時代を異にすると、理想を異にし、価値を異にするはずだ。
091 国史における古代 古代の文化は素朴・単純で、原始的である。文化の要素は分化せず渾然融和し一体となっている。祭政一致である。混沌未分の揺籃時代、黎明期である。
上代 古代の素朴単純な文化は、隋唐文明の輸入によって急激に分化した。上代はこの時始まった。上代の特色は美の追求であった。美が一切の価値を主宰し、美は最高絶対の価値であった。飛鳥、奈良、平安の都の宮殿、堂塔など、芸術世界が開け、唯美的人生観が栄えた。人々は美と芸術に最高の喜悦、無限の感動を覚えた。
092 青丹(青黒色、丹は土)よし奈良の京師は咲く花の
薫うがごとく今盛りなり
藤浪の花は盛りになりにけり
平城の京を思ほすや君
これらの歌を、当時の都市の壮麗さが前代に比して世界を異にするほどの観があり、当時の人々が専ら美を追求し驚嘆すべき芸術を創造したことを考慮して読み直すとき、我々は新たな感激を覚える。法隆寺の五重塔ですら、当時の建築革命と芸術精神の高調を物語る。
酒の名を聖と負せし古の
大き聖の言のよろしさ
この代にし楽しくあらば、来む生には
蟲に鳥にも吾はなりなむ
生まるれば遂に死ぬるものにあれば
この世なる間は楽しくをあらな
093 道徳も宗教も現世の愉楽の前に問題でない。大学や国学では儒教の典籍が講ぜられたかもしれない、また寺々には頻りに仏像が造立され、経文が読誦されたかもしれないが、一世を支配し指導するものは、道徳でも宗教でもなかった。
さらに源氏物語を始め、上代の末に数多く現れた物語がこの事情を明らかにする。源氏の主人公は当時の理想的紳士であった。読者はこの物語に興味を感じたばかりでなく、理想の幻影をこの主人公に見た。しかし儒教の見地からこれを見て、道徳の上からこれを論ずれば、彼は背徳乱倫の好色漢にすぎず、この物語はみだりな恋語りとして忌み嫌われるべきものとなる。またこれらの書に現れる僧侶は敬虔な感情でその前に跪くべき神聖崇高な指導者ではなく、貴族が現世生活の富貴や人間的欲望の満足を求める上で、その代言人となり、媒介として役立つもの、そしてそれ自身は望ましくない「木の端」にすぎなかった。本居宣長が論じたとおり、源氏物語は、勧善懲悪のために作られたものでも、宗教的情操を養うために考えられたものでもなく、ただ「物のあはれを見せたるふみ」に他ならなかった。
枕草子でも、そこに現れる清少納言の心の動きは、瞑想沈思、深刻に内に省みてゆくものではなく、また理性を以て判断し、道徳法を以て規律してゆくものでもなく、要は繊細巧緻の感覚を以て観照的にこの世を眺めただけである。哲学的思弁、宗教的熱情、道徳的厳粛はここには見られない。ただ限りなく広がる美しい感覚世界の中に、人々は酔いつつ歌った。
この麗しい感覚世界に人々は天国を招来した。寺塔の壮麗、仏像の典雅、法会(ほうえ、経典を読誦する)の玄妙(神秘)の目指すものは、極楽浄土の模写であった。藤原道長にとって創建された法成寺は「極楽浄土この世に顕れにける」と見え、その煩労に召される人夫も、「極楽浄土が新たに顕れ出で給うべきために召すなり」と思って、勇躍歓喜して働くことができた。日野の法界寺や宇治の鳳凰堂に、いま我々はこのような浄土の片影を見ることができる。
寺塔は目も輝くばかりめでたく磨き立てられ、仏像はなまめかしく装われた。「仏」と「なまめかしい」という言葉には、後世に於いては全く連鎖が絶たれているが、上代ではこの二つの言葉が緊密に結合した。言葉としてのその証明は栄花物語鳥のまひの巻であり、見た感じでの証明は、薬師寺の吉祥天の絵像、または浄瑠璃寺の吉祥天の木像である。美を最高の価値とし理想とするから、一切の価値あるものは美と関係しなければならない。否、美の下に隷属しなければならない。物のあはれを尊ぶ情趣生活も、畢竟この唯美主義の現れであった。
096 中世 中世に入るとこれまでの上代の理想は重大な打撃を受けて衰退・消滅した。唯美主義の崩壊後に新たに価値の王座を占めたものは宗教であった。中世は聖なるものによって支配され、指導された。源氏物語の運命が明瞭にこれを語る。上代では源氏物語は唯美の陶酔を写し、恋愛の耽溺を描き、自らその中に高い価値を持った。しかし、中世に入ると、それは厭うべき堕獄の業と考えられた。これを救済するために源氏供養が行われなければならない。謡曲源氏供養に現れる紫式部の霊は、死後浮かぶ期のないのを歎き、安居院の法印に救済を乞う。しかしそれだけでは源氏物語は死滅から救われたに過ぎず、従前の高い地位を回復することはできない。ここで一歩進めて源氏物語の作意を宗教的に立て直し、その作者を仏の仮現と観ずることによって、源氏物語は中世でも最高の尊敬を受け、闊歩することができる。三条西実隆の源氏物語聞書、九条植通の源氏竟宴記、慈元抄(作者未詳)などが言うところによれば、源氏物語の一部の構想は、好色優艶の情事に巧みに人々の興味を引き付け、遂に中道実相(真実の姿)の妙理にまで人々を導き、菩提の媒介を勤めるにあるという。源氏物語はこうしてもはや徒に男女相思の情味を描写し、妄りに恋愛の葛藤を叙述するものではなく、綺筵(きえん、美しい敷物)の歓楽や花影の幽恨を通じて、人々の道念(求道の心)を促し、煩悩の塵情を浄めるもの、つまり恋愛小説ではなく一個の宗教小説に化したのである。謡曲源氏供養から抜粋すると、
「よくよく物を案ずるに、紫式部と申すは、かの石山の観世音であり、仮にこの世に顕れて、このような源氏の物語も、思えば夢の世だと人に知らせようとする御方便であり、実にありがたき誓いかな。」
こうしてこの宗教小説の作者(紫式部)もまた、観音薩埵(さつた、菩薩。仏の次の階級の人)の仮現として渇迎されるようになり、ここに源氏物語の宗教化が完成したのである。
伊勢物語でも同様の変化が起こった。かつてその和歌の絶調が喜ばれ、その文章の簡勁(短くて力強い)がもてはやされた伊勢物語は、中世に入り、人々の美を貴び芸術を重んずる心が失せてからは、価値を宗教において初めてその権威を持続することができた。謡曲業平や知顕集がいうところはそれであり、伊勢物語一編の大意は、一生の栄華が夢のようであると人に諭すことにあるとし、業平は馬頭観音(密教で悪人や敵を降伏させる修法の本尊)の化身と考えられた。
098 このようにすべての上代の文学は宗教との関係を付会(こじつけ)して、かろうじて中世でもその価値が認められた。否、上代の文学だけでなく、中世では何物も同様だった。雑筆往来の著者は、「麁言(そげん、荒い言葉)軟語が皆第一義に帰し、狂言綺言(美しい言葉)も悉く讃仏乗(成仏の教えをたたえる)の縁となるから、己の著作も宗教と関係があり、したがって無価値ではない」と自らを慰めた。また、無住法師は「麁言軟語はみな第一義に帰し、治生産業は実相に背かない。そうすれば、狂言綺言のあだな戯れを縁として、仏乗(成仏するための教え)の妙道に入り、世間浅近の賤しさを譬えとして、勝義(最勝真実の道理)の深い理を知らせたい」ために沙石集に世間の雑談を集め、涅槃(悟りの境地)の都に到達できる道しるべとした。
こうして世間の一切の価値はその独立性を失い、「聖なるもの」に依付した。和歌は単に文学としては価値を認められず、その価値があるのは、中に深遠の哲理を含み、仏の三十二相がここに備わり、五輪、五仏、五智がここにかたどられ、六波羅密、六道悉くこれに当てられ、つまり、一首の和歌が一体の仏像に等しいが故であった。
099 中世の小説も宗教的であった。あを葉の笛物語、富士の人穴草子、宝満長者、田村の草子、秋月物語などは、いずれも発菩薩心を勧め、神仏の信仰を鼓吹する。
宗教は一切のものの上に聖なる価値を立てた。中世では壮麗な寺塔や盛大な法会を見ることができず、一見仏教の勢力は上代の方が隆昌期のように感じられるが、法隆寺や四天王寺、東大寺や薬師寺、法界寺や平等院を見て感じられることは、上代の寺塔や仏像が、宗教的建築や彫刻というよりは、芸術としての香気が高く、それどころか純然たる芸術品としてみてもいいということだ。
100 このような壮麗な寺塔の前に立ち、典雅な仏像を礼拝するとき、我々の情緒は高揚し、恍惚として崇高森厳の気に打たれる。それは解脱の心境に相通じるが、高い芸術が生む一時的な解脱であり、真に宗教的なものではない。
確かに上代の寺塔は宗教的であるよりも芸術的であった。日本霊異記に、某(それがし)の業者が血淳(血の厚い)山寺の吉祥天に恋をした話が載っている。当時の宗教は人々の心を打ち、罪障の恐怖におびえさせ、運命の不安におののかせるものではなく、また、深い内省をたどって瞑想にふけり、思索を専らにさせるものでもなく、むしろ恍惚として一切の塵情を空しくし、人の世の愁いと疲れを忘れさせ、新たな希望憧憬に力を与えた。これは懺悔浄化の祭壇ではなく、歓喜陶酔の美の殿堂であった。
101 一方中世の宗教は堂塔伽藍を持たなかった。宗教家は破れた黒衣を着て、わずかに数個の経巻を持って、民家や路傍で出離(迷いの境地を離れること)の要道を説き、それを聞いた人々は耐えがたい悲哀に捉われ、逃れがたい恐怖に襲われた。以下一遍より。
「罪障の山にはいつとなく煩悩の雲が厚く、仏日(仏の光)の光は見えない。生死の海には、とこしなえに無常の風が激しく吹き、真如(真実の姿)の月は宿らない。生を受けるに従って苦しみに苦しみを重ね、死に帰するに従ってますます暗い道に赴く。六道(六つの迷いの世界)の巷に迷わぬところはなく、四生(ししょう、四つの生まれ方。胎生、卵生、湿生、化生。)のとぼそ(戸)に宿らぬ住処もない。生死の転変を夢と言おうか、うつつと言おうか、…いたずらに歎き、いたずらに悲しみ、他人も迷い、我も迷っているが、早く三界(三つの迷いの世界)苦輪(苦から逃れられない。)の里を出て、程なくして九品(くほん、浄土)蓮台の都に詣でるべきだ。ここに苦悩の娑婆(苦しい現実社会)はたやすく離れがたく、無為の境界は、なおざりにして、到達することができない。たまたま本願の強い縁に会うことができるとき、急ぎ励まずしていずれの生を期待できようか。
これを聞いて、女は忽ち髪を切って尼となり、男は発心して五穀を断ち、共に念仏の行者となってひたすら往生(現世を去って浄土に生まれる)を願った。次も一遍より。
「釈迦如来隠れましまして
二千余年になり給う。
正像*の二期は終わった。
如来の遺弟よ、悲しみ泣け。
*正像末とは、釈迦入滅後の教法が行われなくなった三つの時期。正法(しょうぼう)、像法、末法。
熱烈で深刻な親鸞の和讃(仏教の歌謡)の感化力が思いやられるではないか。その他、法然、日蓮などは堂塔巍々(高く大きい)たる寺院で経疏(疏は箇条)を講説したのではなく、市井に交わり、路頭に立って、自らの信念を披瀝した。芸術の香りはここにはない。ここに溢れるものは宗教的情熱である。炎々として炎のように、触るものを悉く焼き尽くさねば止まらない信仰の情熱である。これを聞いて上古の恍惚や夢のような感情に打たれる人がいるだろうか。聴衆は今や運命に恐れおののき、深刻に反省し、懺悔の涙にかきくれながら、ひたすら仏の手にすがろうとする。仏教はかつて芸術として栄え、今や真に宗教としてその本分を発揮するようになった。
103 中世のこのような時代に、方丈記や平家物語が現れたのも不思議ではない。史観でも独特な神秘的調子をもち宿命的な考察を下した愚管抄が出たのも頷ける。中世は聖が一切の価値を主宰した時であった、宗教が一切の文化の最上層を占めた時代であった。
近世 近世になると大社大寺(中世の僧侶は大社大寺では活躍しなったのではなかったか。)はあわただしく没落し、社檀堂塔は空しく灰燼に帰し、黄巻*や赤軸は徒に遺棄された。
*黄巻(こうかん)昔、中国で書物の虫食いを防ぐために黄檗(おうばく)の葉で染めた黄色の紙で作ったことから、書物の異称。
104 室町時代末期の元亀(げんき1570—72)天正1573—91のころ、社寺が没落した。近畿では延暦寺、東大寺、興福寺、吉野山、本願寺、南海では高野山、熊野山、九州では彦山、北陸では平泉寺、豊原寺、石動山、関東や奥羽では日光山、羽黒山などが滅亡したり、屏息(へいそく、息をひそめる)したりしたが、それはただ宗教が壮麗な建築と強大な財力を失っただけでなく、(これも先ほどの理由で矛盾している。)精神的にもその価値を失って権威をなくした。信長が比叡山を焼いたとき、彼の眼中に宗教はなかったし、秀吉が日光山を潰した時、彼はもはや神仏に対する恐怖を失っていた。
以下、中世を代表する足利尊氏や熊谷次郎直実と、信長や秀吉など近世の人々の考え方を比較してみよう。以下は足利尊氏が清水の観音に祈った願文である。
「この世は夢のごとくに候。観音様は私尊氏に「たう心」を「たわせ給い」、後生を助けさせるべく私のそばについていてくださるはずだ。猶々(ゆうゆう)早く遁世したい。観音様よ、私に「たう」心を「たわせ給う」べく、今生の果報(前世の報い、幸運)にかえて後生を助けさせ給いたい。」
以下は熊谷次郎直実(なおざね1141.3.24—1207.9.27 or 1208.10.25、平安末期鎌倉初期の武将)の書状である。(『平家物語』)
「君(敦盛)の御素意を仰ぎ奉ると、早く御命を賜りて御菩提を訪い奉るべきと、頻りに仰せ下さる間、落涙を抑えながら、量らず御頸(くび)を賜った。怨哉悲哉、この君と私直実と、怨縁を多生に結ぶ、歎哉痛哉、宿縁を既に除き怨敵の害を成し奉る。かの逆縁にあらずんば、いかでか(何とかして)互いに生死の縛を切り、一蓮の身に還って順縁に至らんかな。しからばすなわち、閑居の地形を卜し、懇ろに御菩薩を訪い奉るべし。」
これは日本第一の剛の者、熊谷次郎直実が、16歳の少年、無官の大夫敦盛を切った悲しさに、鎧の袖を絞りながら、経盛に書き送った書状である。
一方、信長や秀吉を始め近世の武人には、このような煩悩や菩提心(煩悩を断って得られる悟り)が見られない。否、武人だけでなく、宗教の否定はあらゆる階級を通じて近世の特色となった。
「五十に及び候まで後生ねがい候事は無用候。」
次は豪商島井宗室の遺誡である。
「この世に生きる鳥類、畜類までも眼前のことをなげき計るものだ。人間もしやべつないから(同様だから)、今生にては今生の外聞を失わぬ分別が第一である。来世のことは仏祖も知らないと言われる。いわんや凡人の知ることではない。相かまいて後生ざんまいに及ぶことは、五十歳になるまで無用なるべきこと。」
106 これは秀吉の愛顧を受けて博多を再興した豪商島井宗室の遺誡であるが、これこそ近世人の宗教に対する態度を代表している。
このような仏教否定の中で育ち、先駆的指導者となって思想界で仏教否定の根拠を確立した人が、藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎、谷時中等だった。彼らは一度寺に入ったが、還俗し、儒教(宋学)を唱道し、仏教を排斥した。
藤原惺窩はその著「千代もと草」の中で、「世の妨げとなるものは出家の道なり」と言い、山崎闇斎の門人浅見綗(けい)齋は、「白鹿洞書院掲示講義」の中で、「大抵、寺道場を建立することは国家に益なきのみならず、却って人倫に害があるから、それが廃れることほど珍重なことだ」と説き、同じく(山崎闇斎の門人)佐藤直方は、「排釈(僧侶)録」を編集し、「異端の(で)道を害するものは、釈氏(僧侶、仏教)がごときは(が)極まる」と極言した。西鶴の「好色五人女」にもたびたび出てくるように、「何事も知らぬが仏」とことわざに言われるようになり、神仏の威力も廃れてしまった。同じ西鶴の「好色一代女」の主人公は、五百羅漢(釈迦の500人の弟子)の容貌のそれぞれに昔の情夫の面影を連想している。社寺が崇高な芸術の殿堂であった上代や、熱烈な信仰の対象であった中世と異なり、この神聖な祭壇は近世では茶化され滑稽化されてしまった。
107 来世の苦患、宿世(前世)の業因も、近世では人々に恐怖をもたらさない。人々は現世の生活だけに満足し、霊魂の流転を思わない。「聖」はここに文化最高窮竟の価値でなくなり、それに代わって名誉ある文化指導の地位に就いたのが「善」であった。倫理道徳こそ近世の理想として絶対価値となった。藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎をはじめ、近世儒者の業績は、仏教を否定して儒学を唱道し、道徳の原理を明らかにすることであった。
源氏物語の運命を題材にこのことを考えてみよう。それはかつて(上代)花園に戯れる胡蝶のように麗しい恋愛を描写し、その芸術としての面目においてもてはやされた。
108 次(中世)は、火事が発生した家の中で戯れていて火が身に迫るのを知らない子供を救うべく、珍奇の玩具が門の外にあるからと偽って、諸子を誘い出した長者のように、恋愛を人々の興味を惹く方便としつつ、結局は誘惑を断じて悟りに導くものと見なし、その宗教上の功用として源氏物語は世に尊ばれた。ところが近世に入っては源氏物語は不倫、惑溺であって唾棄すべく、悖徳汚行、嫌悪すべき醜悪な小説に過ぎなくなった。そのため帆足万里はその著「東潜夫論」において、源氏物語、伊勢物語以下風俗を壊す書を悉く絶版にすべきだと叫び、井上金峨は「病間長話」の中で次のように語った。
「源氏物語や伊勢物語は何のためにもならない。淫を導くにはいいだろう。人生の無常は、このように言わなくても、他に言いようがあるはずだ。猥雑である。源氏物語を読まなければ、婦女子が村の婆やのようになることはあるまい。」
西山拙齋は大和物語や世継物語に関して読む詩の中で、それらの物語に満ち満ちている背徳乱倫を次のように痛罵した。(以下の漢詩は難解で意味不明)
当年学習事詞章 偏競錦心兼繡腸
経倣漢唐研訓詁(漢や唐に倣って字句の解釈を研究する) 心帰釈老(僧侶)薄綱常
騒人動犯青編誠 女史徒増彫管光
彼美寧知遺毒甚 謾(あざむく)将流臭倣博芳
109 それに対して近世の道徳的時代精神を讃えて、
一自国風帰雅正 宮闈(い)厳与九重深
あるいは
方今一洗先年弊 倫理休明大八洲
中世と近世との価値の相違は、袈裟御前の伝説にも鮮やかに現れている。長門本平家物語によれば、袈裟(女性)は、初め母が盛遠に脅迫された(袈裟の母親を殺し、自分も死ぬと盛遠に言われた)ことを聞き、
「母に憂き目を見せ奉るくらいなら、むしろ私が(盛遠を)殺すことになるだろう。そうすれば母子ともにないりの底に沈んでしまい、無量(計り知れないほど)長い間そこから脱出できなくなるだろう。」
と考え、遂に一夜だけ盛遠に従った。しかるに盛遠はますます袈裟に執着し、どうしても離れがたいと言い出したので、彼女(袈裟)は、身を捨てる以外にないと覚悟して、
110 「わが身が(私が)生きていれば、母から始めて多くの人の命を亡ぼすことになるだろうから、ただその罪は我が身独りに報いよう。どうしてしやする(避ける)ことを得ん。」
と思い定めて、(「夫を亡き者にすれば、あなたの心に沿えましょう」と盛遠に告げ、その晩)偽って夫に似せて臥し、心を一つにして弥陀の本願を念じながら盛遠に殺されたという。
この彼女の行為は宗教思想から出たことであり、倫理道徳の観念は少しも働いていない。中世人がそれにもかかわらずこれを喜んだのは、彼女の行為が宗教的に動き、かつこれを機縁として(袈裟の)夫の渡も出家し、盛遠もこれを善知識として入道し、両方の家人がこれを見て、尼となり法師となるもの三十余人であったというところにあった。すなわちこの道徳に外れしかも悲惨な出来事を、その出離の因縁となった点で、満足して言い伝えたのであった。
ところが近世に入ってからは、もし袈裟が従来の盛名を失わないためには、一度も貞操を失うことなしに、従容として死に就く道義心の発動を必要とする。林羅山が撰した鳥羽恋塚の碑はそれである。それによると彼女は最初に既にこう考えた。
「聞かない、即ち母殺しの不孝を。聞く、即ち夫を捨てることの不義を。思うにこれは不孝不義である。我が生は死に如かず。身を以てこれに当たろう。」
こう考えて直ちに死に就いた。彼女は遂に貞女を失わなかった。ただ行為の上で貞操を失わなかっただけでなく、その行為は道徳的判断によって導かれている。林羅山はこれを褒め称えて、
「嗚呼婦人は母に孝、夫に義、その身は節で、丈夫と雖もこれにすぎず。長安大畠里の節女と同日(同様)の談だ」
と言い、銘を作り、
「嗚呼節婦なり。 孝を思い、義を思う。 石も亡びるべし。 貞名はやまず。」
と感嘆した。
近世は倫理・道徳の時代、善が文化一般を指導する時代である。これは法制、文学、史籍、その他随所に現れた。近世の小説の特徴は勧善懲悪であり、馬琴はその代表である。当時文芸が道徳に服従したことは、太田錦城の梧窓漫筆に、
「天地の間に文字がある理由は、事実を記して後の世の勧戒となるためだけだ。詩歌の類までも人の淫志を止め、人の善心を導くことが、その用途とするところだ。」
112 と言っていることから察せられる。
現代 現代はこの近世の風潮に反対し、善に最高の価値を認めないばかりか、これを一蹴し去った。仮名垣魯文は西洋膝栗毛第十一編の序で、「我が輩は僥倖に学ばない。孔子曰くのような迂遠を去り、」と言い、「孔子の遺書はペケにして」と言い、更に
「帰農(昨日)の扶持(ふち、武士の給料)は、飛鳥(明日)河、水に流して商法開業、父母がいても遠くに遊び(東京などに出て商売をする)、艦砲一発三千里、「朝に道を聞くとも夕べに死するを可なり」とせず、牛肉を食べ、ビールを飲み、体を壮健にして命を保ち、利を得て、国を富ますを以て今日の報恩とする。」
113 と言い、坪内逍遥は、当世書生気質のうちで、
「寡欲を一個の美徳とし、知足(足ることを知る)を修身の規矩(規則)としたのは封建時代の方便の教えであり、我のみよかれの身勝手主義に基づいて、時の政府がそれに賛成し、卑屈な儒者にそれを唱わせた一時的な便宜のための道徳論である。これはこの文明の世の中ではとても適当でない教えであるが、ややもすると、寡欲寡欲と仙人主義を再興して、今の人間の大望を抑えようとする輩がいるが、それは間違った話ではないか。」
と嘲った。道徳がこれほどまでに軽蔑され、罵倒されるとは、以前何人が予想できたか。政治上の幕府の倒壊は駭(おどろく)心瞠目に価する大事変であったが、それと共に倫理道徳が権威を失ったことはそれに劣らず、否それ以上に驚くべき変化を国民生活にもたらした。
近世において文化の目標となり、最高の理想、究竟の価値と考えられた善は、このようにして没落した。これに取って代わり現代文化の目標となったものは、「眞」であった。事実をありのままに知ろうとする科学的精神が一世を指導し支配している。一切の存在はその存在するという事実のゆえに、厳然として存在の理由を主張する。美醜は敢えて問題としない、善悪は論じない、信不信は少しも意に介しない。この精神の働くところに科学の全盛を見る。人々の観察は純客観的であり、又はそうあろうとし、その方法は実験的であり、その論理は帰納的であることが喜ばれる。この態度は文学にも現れ、写実主義、自然主義の主張となり、あらゆる人間的弱点の醜悪な暴露を敢えてする告白文学が流行する。そして、醜穢(わい)、乱雑、残酷、無礼、卑怯、愚劣のうちに、ただそれが真実の告白であり、または模写であるという理由で、人々は一種の満足を見い出している。(筆者は現代社会を批判しているようだ。)
115 まとめ 以上のように価値は時代と共に変遷し、理想は世と共に推移した。古代の単純素朴な精神が、上代に至って分裂して偏頗的に発達し、まず「美」を最高の目標とし、芸術を主宰的文化と仰ぎ、次いで中世に入っては「聖」を究竟の価値とし、宗教に無上の権威を認め、更に近世に下っては「善」を第一のものと考え、道徳が一世を支配し、遂に現代に至っては「眞」を絶対のものとして、科学の万能を信じることとなった。かつて直感的、観照的であった心の働き(上代)は、次に瞑想となり沈思となり(中世)、転じて反省となり、自律となり(近世)、そしてついに客観的となり、批判的となった(現代)。我ら日本人の精神は、このような段階を踏んで発展し拡大して来た。もとよりこれらを一貫し、統一する方面を認識しなければならないことは言うまでもないが、(何かを含んでいるようだ。)今は先ずこの五つの段階を認めることが、国史の理解に極めて必要であると指摘する。
日本精神発展の跡をたどり、我らは今や五つの段階を確認した。それらの段階はそれぞれその理想を異にし、価値を異にした。理想を異にし、価値を異にしたがゆえに、それらの時代はそれぞれの色彩を異にし、音調を異にした。ここに国史時代区画の根底がある。私が提唱した五期の分割は、ここに本質的説明がなされた。但し、もしことさらに二三の史料を挙示してこの価値変転の説を反駁し、時代による理想の相違を否認する人がいるならば、私はただ沈黙するしかない。私がここに説いたことは、目に見えないものをその原色において見、耳に聞こえないものをその基調に於いて聞き、表面の現象において動揺し続ける時代精神を、その本質においてつなぎとめようとしたのである。
(昭和3年、1928年3月5日夕)
以上 2021年5月10日(月)
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