2021年5月28日金曜日

九 栗山潜鋒と谷秦山 昭和4年、1929年1月16日夕 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収 要旨・感想

九 栗山潜鋒と谷秦山 昭和4年、1929年1月16日夕 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収

 

 

感想 2021525()

 

三点

 

・歴史叙述において、史実の羅列ではなく、歴史に流れる精神・文化を重視する。

・外国にかぶれず、日本の神道や天皇に対する忠誠を重視する。

・谷秦山は年少の栗山潜鋒から学んだ。年長は学問的に優れていることを保証するものではない。

 

要旨

 

栗山潜鋒1671—1706 儒学者、史学者。

谷秦山1663—1718 儒学者、神道家。

 

157 栗山潜鋒の名は愿(すなほ)、字は伯立(はくりゅう)または成信、通称は源助(源介)である。父は長澤良節といい、山城の淀の城主石川主殿頭に仕えていた。潜鋒は長澤良節の長男で、生来虚弱だったが、俊敏で気力が旺盛で、年少にして京都に出て、桑名松雲を師とし、18歳で八条宮弾正尹尚仁親王の侍読となり、友臣として待遇された。ところが親王が元禄2年、1689年8月6日、19歳で薨ぜられると、彼は退いて京都で塾を開き、生徒に教授した。間もなく元禄5年、1692年、22歳の時、水戸義公に招かれ、水戸藩に仕え、禄は300石を賜った。そして彰考館に入って大日本史の編纂に従い、元禄10年、1697年、27歳の時、その総裁になった。宝永3年、1706年4月7日、江戸で病没した。享年36歳であった。

 

158 彼は「保建大記」を著した。これは八条宮に奉った書である。そこには彼の元禄2年、1689年6月7日の序がついている。(6月7日は親王葬去の2カ月前である。)元禄2年、彼は19歳(親王と同年)であった。今日見る「保建大記」はその後彼が加筆訂正したものだろう。

 

159 そもそも「保建大記」は保元1156--58から建久1190--98に至る38年間の記録である。彼は王政が次第に衰微してゆく様を見て、その隆盛から衰微への転換点を求め、保元建久の間に注目した。

 従来武家興隆の歴史を説く者の多くは、源頼朝の鎌倉幕府を以て出発点としているが、世の変遷は文治1185--89建久のころよりも、保元(ほうげん)の乱1156にある。神皇正統記1341や愚管抄1220が説いたように、保元の乱は公家の勢力が衰えて武家の世になっていく新陳代謝の時期であった。

神皇正統記は保元の乱は前例のない兵革とし、「是から乱れ始めたが、時勢が下ってゆくあり様と考える。」と言い、「保元平治1159から今まで天下が乱れて武が盛んになり、王位が軽くなってしまった。今でも太平の世に帰らないのは、孝行が破れ始めたことによるものと思われる。」と説いている。

160 また愚管抄では「保元以後のことはみな乱世であるから、悪いことばかりだろうと、憚って人も申を置かない(話したくない)のではないかと愚かに考え、一途に世の移り変わりやその衰えた理由を一下り話してみたいと思い、…」など述べているが、これは保元の乱を以て、王政が衰微し、天下が乱逆する発端と見ていることを示す。私は国史の時代区分で、保元の乱を上代と中世の分界線としている。

 

 中世は保元の乱から始まるのだが、(新勢力が)新しい理想を掲げ新しい主義を唱えて古いものを征服したのではなかった。つまり、保元の乱は革新運動ではなかった。上代の頽廃がその勢いに任せて遂に爆発してこの大乱となった。新しい勢力がその使命を自覚し、その理想を掲げて古いものに挑んだ挑戦ではなかった。古いものの爆発のうちに、おのずから新しい勢力が出現して、新しい時勢を馴致(馴れさせる)していったのである。

161 このようにして出現した新勢力が明確に自己の力とその使命を自覚して意識的に行動したのは源頼朝の時であった。頼朝は武士の本領を把持していた。彼は己の力を恃んで、己の道を進んだ。彼はその改革に際して、屡々「天下草創の秋である」と唱えているが、これは彼が歴史上の自らの位置を認識し、その重大な変転期に直面していることを知っていたことを示す。保元の乱は未だ盲目的な進出であったが、頼朝に至って初めて目を開け、自覚的意識的行動に移った。

 保元の乱から頼朝の開府までの三十余年間は、一筋の道でつながっている。この二者は三十余年間を隔てて緊密に相結合している。

162 栗山潜鋒は王政の陵夷(りょうい、衰退)、天下の乱逆をその根源に遡って摘出しようとし、中世の発端に着目し、保元から建久に至る三十余年を捉えた。

 

 彼には著書「保建大記」の他に「倭史後篇」がある。これは残念ながら未定稿である。安積澹泊*によれば、「栗山は恐らく、帝紀は後奈良正親町天皇*の王朝に至り、将軍は足利義明*に至り、以て室町時代の盛衰を究め、その後、後陽成*の王朝に至り、信長、秀吉の興廃を述べようとした」と言う。それなら栗山の「倭史後篇」は、中世の終末を記述することを目的としたものであったと言える。後奈良正親町天皇の王朝時代つまり元亀1570--72天正1573--91のころは、中世が終末を告げ、近世が新たに興る時であった。私は天正元年1553を以て近世の発端とする。

 

*安積澹泊(あさかたんぱく)1656—1738 江戸中期の儒学者。水戸藩の歴史家。

*後奈良天皇1495—1557

*足利義明 不詳—1538 室町後期(戦国時代)の武将。

*後陽成天皇(ごようぜいてんのう)1571—1617 

 

163 足利義明はこの年1553京都を追われて足利幕府が覆り、信長はこの年に覇を称し、盛んに新政を布いた。栗山潜鋒は本書「倭史後篇」で以て中世終末の歴史を志したのではないか。栗山は保険大記と倭史後篇の二著でそれぞれ中世の発端と終末とを論述しようとしたのだろう。彼は世の変わり目を認識し、巧みにそれを把握し、世運の推移を短い文章の中で描き出そうとした。

 

栗山潜鋒の歴史観

 

 栗山は現代の史家とは立場を異にした。現代の史家の多くは事実を単に事実として見、ただ正確に、広範に、事実を記録・蒐集しようとするが、栗山は事実の底に流れる理念を認め、形骸の中に動く精神を発見し、それによって事実を取捨選択し、配列描写し、一読してその理念を見て、その精神に触れようとした。「保建大記」のこの特色について、三宅観瀾*(かんらん)はその序文の中で明らかにした。(元漢文だというが、読み下し文でも難解。)

 

*三宅観瀾1674—1718  江戸時代中期の儒学者。栗山潜鋒の推薦で水戸藩に仕えた。

 

六国*史には褒貶(褒めることとけなすこと)がない。その理由は、その時代が(人情が厚く素直)であり、事(いろいろな行い)が簡潔で、皇道が上下に行われ、(そのことを)自らは知らない(そのことに自ら気づかないほどだ)からだ。

しかし、世の季(すえ)から、政綱が漸く弛み、民心が日毎に詐(いつわ)り、強僣(おごる)反側の徒が纍々(るいるい、まとう)として跡に接する。(次から次へと続く。)そしてこのことを書く(歴史を記録する)者は、その著書に紀、記、録、抄、鑑、鏡、語などの語を表題をつけるが、おおむね皆、王廷の泛故を撮り、覇府の冗務を裒(あつ)め、詞理は俚(いやしく、ひなびてい)て浅く、敷衍は攙(ざん)雑で、真偽は倶(とも)に昩(暗)い。要するにこれは朝報吏案や伝奇小説だけで、事を表現してもその体をなしていない。

これではどうして勧善懲悪し、以て百代を袞鉞(こんえつ、鉞はまさかりで斬る)することがあろうか。しかしひとり衣纓(えい)家に、神皇正統記という編纂がある。成憲を掲げ、頽風を振る(振り払)い、系緒を弁して姦軌を警しめ、讜(とう、正しい)議は卓識で、君を思い時を憂うる誠に基づく。これは略書であり、その言は龐(ほう、乱雑)だが、現実から始め、春秋(年月)の遺意を述べるはずだ。

そして輓(ばん、引く)近(最近)、学士が庶に(庶民の中に)降り(広まり)、撰著も非常に多い。その間(一つ)に、栗山潜鋒が「保建大記」を著した。体を范(はん)氏の鑑に擬し、旨を朱子の綱に取り、敬畏を君に致し、礼分を臣道に謹み、忠邪遁(のが)れ(さ)ず終始繹(たずね)ようとし、以て政治の得失や事の是非を述べ、一に皆、断ずるに、古義を以てする。そして本(大本)を推量し、正を尊び、明教を愛説するが、それは固より源准后の著作と(に)相亜(つ)ぐべくもので、楚辞は厳しく、行文は雅であり、逈(けい、はるか)に已(すで)に、昔人の度を越している。事を往籍に従う者(歴史家)をして、皆よく子が用心にこれに倣い、引いて(引用して)これを述べ、磨いてこれを精にし、以てその深切著明の至りを広記備言の上で究めさせれば、史の散庶は漸く収まるだろう。」

 

*六国(りっこく)中国戦国時代の魏、趙、韓、斉、楚、燕の六か国。

 

感想 歴史観が天皇に対する忠誠という情念で貫かれている。国が乱れるとは忠臣の念が廃れることだと考えているようだ。その歴史観は理性ではなく、情念に基づく。

 

165 以上のことは栗山潜鋒においてよく知られていることである。栗山の修史の本意は、もともと勧善懲悪し、以て百代を袞鉞(こんえつ)することであった。彼は事物を見るとき、必ず裏面に動くを訪ね、その理をたどって歴史的記事を配列し、世運の推移をその根本基底において鮮明に描写しようとした。そこに近世の時代的特色を見るが、我々も歴史の本質についての深遠な原理を考えるべきだ。彼の史観は深遠で洞徹している。

 

谷秦山の講義録「保建大記打聞」

 

166 「保建大記打聞」は土佐の谷秦山が保建大記を講義した際に門人が筆記した講義録である。講義が何年に行われたか未詳だが、出版は享保5年1720で、谷秦山が死亡1718した2年後である。谷秦山は享保3年6月、56歳で没した。谷秦山は栗山潜鋒より8歳年長である。この「保建大記打聞」には正徳壬辰(正徳2年、1712)の秋に成った三宅観瀾と、正徳甲午(正徳4年、1714)仲冬(ちゅうとう、冬三カ月の真ん中の月、陰暦11月)に成った安積澹泊が載せられていて、それらも谷秦山が講じている。このことから三宅観瀾の序が成った翌年の正徳5年から谷秦山が亡くなる享保3年までの間に谷秦山が「保建大記」に関して講義したと推定される。その開講の辞は驚嘆に値する。

 

「我も人も日本人であり道に志があるから、日本の神道を(学問の)主にすべきだ。その上に器量と気根があれば、西土(せいど、西洋、インド、中国)の聖賢の書を読み、それを羽翼(補佐)にすれば、この上なくよい学問となるだろう。これは舎人親王*の御本意であり、恐れながら我ら内々の志でもある。

ところが今の神道者は西土の書に疎く、文盲である。儒者は人の国を贔屓(ひいき)し、我が国の道を異端のように心得てそしり、各々が異を立てて、湊合根著せず。学風が薄く、猥(みだ)りにして見るに足らない。私はこれを憂え、内々同志と講習して天下の学風の助けになるようにしたいと思ったのだが、山崎闇斎先生は過ぎ去って久しく、浅見安正は晩年神道への志はできたが、一両年の内に卒去めされため、後ろ盾にすべき先輩がなく、その他の名のある学者の多くは齊の国や魯の国*の詮索を第一にして、我が国への懇切な志がなく、又は、神道を尊敬するが、未だ伝授しない。その他は、詩文の浮華を愛で、どれもこれも取るに足らない。

平生このことを気の毒に思っていたところ、この頃不慮に(思いがけず)この書(保建大記)が出た。これほど珍重なものはなく、古今に珍しい書だ。これこそ神道を大根にして、孔孟の書を羽翼(補佐)にしたと言うべきだ。こうして私はこれをことのほか信仰する。栗山潜鋒は過ぎ去った人だが、はなはだ味方だと思って、この講義を開く。別して(格別に)本望千万だ。栗山氏の師授淵源は知らないが、両巻とも論に間然すること(非難すべき欠点)はないと見える。これは先賢にも恥じない見識であり、後学のよい矜式(誇り)である。日本の学者はただこのように学問すべきだと千万祈祝するところだ。」

 

*舎人親王676--735 天武天皇の第三皇子。養老4年720太安万侶とともに日本書紀を完成した。

*齊の国や魯の国 いずれも中国の国名。

 

168 栗山潜鋒は谷秦山より八歳年少であり、僅か36歳で10年ばかり前に亡くなった人である。谷秦山はこの時すでに五十四五歳であったが、この見知らぬ年下の学者の、僅か19歳の時の著述を読み、それを古今を通じて珍しい書物だとし、これを信仰し、その講義を開き、とりわけ本望千万と喜び、これこそ日本の学者の規範だと歎称した。道を求める志が懇切であり、賢に仕える念が至誠でなければこのように講義を開き、このような発言をしただろうか。私は今ここで道元禅師の「礼拝得髄」の語を想起する。

 

「仏法の愚癡(ち、愚か)の類を皆さんは聞いていないだろうか。私が思うにそれは、「我は大比丘であるから、年少の得法を拝すことはできない。我は久修練行であるから、得法の晩学を拝すことはできない。我は師号に署名しているから、師号のない人を拝すべきでない。我は法務司であるから、得法の余僧を拝すべきでない、我は僧正司であるから、得法の俗男俗女を拝してはならない、我は三賢十聖であるから、得法しているからと言って比丘尼*などを礼拝すべきでない、我は帝胤*であるから、得法だと言っても臣家相門*を拝してはならない」などと言う。

 このような愚者は徒に父国を離れて佗(他)国の道路に趻(ちん、歩き方がしっかりしない)跰(ほう、走って逃げる)するから、仏道を見聞しない。むかし、唐の時代の趙州眞際大師は、心を起こして発足行脚したとき、こう言った。「たとい七歳でも、私より勝っていれば、私は彼に尋ねるべきだ。またたとい百歳であっても、私より劣っていれば、私は彼をしうべし。(強制すべきだ。)七歳に問法する時(法を問うとき)、老漢礼拝すべきである。」これは奇夷の志気であり、古仏の心術である。」

 

*比丘尼 出家した女性。尼。

*帝胤 帝王の血統。

*相聞 相手の様子を尋ねること。

 

169 谷秦山は19歳の少年を礼拝し、虔(つつし)んでこれに問法した。その志気は奇異だと言わなけばならない、心術が古仏に等しいと言わなければならない。もともとこのようなことは古来聖賢の規矩(規則)であるとはいえ、実際稀なことだ。現在にこれを求めてみよ。七歳の小児を礼拝して問法する学者がどこにいる。僅かの知識に満足し、聊(いささ)かの悟得に慢心し、傲然として他に対する増長我慢(高慢)の風は、教育界にあっても上下に瀰漫(びまん)し、学生は教師を軽んじ、教師は先賢を重んぜず、軽佻浮華が滔々たるあり様ではないか。

170 さらに谷秦山の偉い点は当時一般の学風に背いて日本精神を究明し、これを発揚しようとする覚悟があったことだ。

 

「我も人も日本の人にて道に志あるからは、日本の精神を主にすべし、其上に器量気根もあらば、西土の聖賢の書を読んで、羽翼にするぞならば、上もないよき学なるべし」

 

こう言うのも一代の卓見、千古の指針ではないか。彼がこの序の中で説くところは、ちょっとだけ文字を改めれば今日の学会を諷するに足る。学者は「他人の国を贔屓(ひいき)し、我が国の道を異端のように心得てそしり、それぞれが異を立てて、湊合(集まり)根著しない。学風は薄く、一人も見るに足る人がいない」ではないか。「名のある学者たちの多くは」ロシア(レーニン)やアメリカの「詮索を第一にして、我が国に懇切な志がなく、どれもこれも取るに足らぬ」ではないか。日本人としての自覚、日本の学者としての覚悟、私たちが谷秦山に学ぶべき点は甚だ深重である。

 

昭和4年、1929年1月16日夕

 

以上 2021528()

 

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