十 飛鳥時代の文化 昭和4年、1929年2月1日 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収
感想 2021年6月4日(金)
論拠が事実でなく自己中的・希望的推量に基づき189、また出典は「日本書紀」が多いが、出典を示さないことも多い。
疑問 2021年6月4日(金)
当時でも聖徳太子に関する史料の信頼性に疑義があったのに、筆者はどうしてそういう説を無視してまでもして聖徳太子の聖人化に一役買うような発言をするのだろうか。
感想 2021年5月30日(日)
右翼を分類してみた。チンピラ・街宣右翼、行動・腹切り右翼、思想右翼。筆者は、前二者ではなく、最後の思想右翼である。
筆者は前論文で「明治維新」と共に聖徳太子、中大兄皇子の「革新」を日本史における二つの大きな偉業として推奨していたが、本論はその繰り返しである。本論文は全体的に平板な印象を受け、筆者独特の気合が入っていない。
感想 2021年5月29日(土)
飛鳥時代の聖徳太子や中大兄皇子が高い中国文化から真剣に学ぶ精神と日本建国の精神の両方に基づき、革新を成し遂げたことを讃える。こそばゆい。
筆者は飛鳥時代を、推古天皇(554—628、在位593.1.15(崇峻天皇5年12月8日)—628.4.15(推古天皇36年3月7日))の元年593から、元明天皇の和銅3年710平城遷都までの120年間とする。
本文の内容とは直接関係のない明治時代の建築の評を引用しているが、それは自らが沢山の漢字を知っていることを見せびらかすかのようだ。それとも昭和の当時の人々はこのくらいの漢字を知っていることは常識だったのだろうか。185
要旨
172 一 飛鳥時代が何時を指すのかについては諸説ある。建築史家や美術史家の間では、例えば、欽明天皇の時代(539?—571?)の百済からの仏教渡来(538、日本書紀では552)から、孝徳天皇(ウイキペディアでは皇極天皇)の時代の大化の改新645までを飛鳥時代といい、大化の改新から光仁天皇の天応元年781までを奈良時代という。そしてさらにその奈良時代を二分し、大化の改新645から文武天皇の慶雲4年707までを白鳳時代といい、それ以後を天平時代という。
しかし私は文化全般の性質、色彩、傾向に基づいた時代精神の基調から判断して、前記の異説を統一して、国史全体を古代、上代、中世、近世、現代の五期に分け、その上代は推古天皇の時代593に始まり、保元の乱1156に終わり、その上代を更に飛鳥、奈良、平安の三時代に分け、その飛鳥時代は、推古天皇の元年593から元明天皇の和銅3年710の平城遷都までの120年間を指すものとする。つまり、ここで私が言う飛鳥時代は、美術史家がいう飛鳥時代の後半と白鳳時代の全部を併せたものだ。
173 二 大化の改新は社会問題を一挙に解決し、経済界の行詰まりを打破し、新たな制度を立てて、新しい政治を取り、遂に国民生活の全般にわたって大改新を来たした。その理想は高遠で、その改革は徹底していて、その方向転換は鮮やかで史上稀であり、ただ明治維新の大業だけがこれと比肩できるだけだ。
だがこの大事が成功するのは、一朝一夕のことではなく、大化の改新が成立する四五十年前の推古天皇の時代にその大方針が決定されていた。
174 推古天皇は横暴な蘇我を誅し、蘇我が尽く天宗(天皇)を滅し、将(まさ)に皇位を傾けようとする罪を鳴らし、その蘇我氏を守るために集まった軍兵に対して、天地開闢以来君臣の別があることを説いて、これを解散させた。つまり、大槻の樹の下に群臣を集め、推古天皇は親ら、天神地祇(じぎ、地の神)に告げてこう誓った。
「天は覆い、地は載せるものである。帝道は唯一である。ところが末代に澆薄(人情が薄い、澆(ぎょう)も薄いの意)となり、君臣の序を失ったが、皇天が私に手を貸してくれ、暴逆を誅殄(てん、つくす)してくれた。今共に心血を流し、今後、君に二の政治はなく、臣は朝廷に背くこともない。もしこの盟約に背けば、天が災いし、地は妖(あや)しくなり、鬼が誅して人を討つことが清きこと(明らかなこと)は日月のようだ。」
こうして推古天皇は、豪族の跋扈を制し、中央集権の実を上げ、国体の本義を明らかにし、組織の中心を確立した。このことはその後の大改新の基礎となったが、この原理は推古天皇の12年604、聖徳太子が既に明確に決定して宣揚されたものであった。その年の4月に作られた憲法17条の第3条は以下のように言う。
175 「詔を受けたらそれを必ず謹(つつし)め。君を天とし、臣を地とする。天は覆い、地は載せる。そうすれば四の時が過ぎゆき、万の気が通うことができる。地が天を覆おうとすれば、壊れるだけだ。だから、君が宣うときは、臣はそれを承り、上が行けば、下は靡(なび)くべきだ。だから詔を受けたら必ず謹め。慎まなければ、自ずから敗れるだろう。」
大化元年645の秋、推古天皇は諸国の人口を調査させ、臣蓮、伴造(とものみやつこ、諸部の長として部民を率い、朝廷に仕えた世襲の役人)、国造(くにのみやつこ、世襲の地方官)それぞれが人民を私的に従えてそれを駆使し、また国県の田野を割いてそれを私有財産とし、また調賦進貢の時に、彼らが先ず自らの分を収め、その後に幾分かを政府に進貢するなど、豪族が兼併し貧民がますます窮する時弊を指摘され、翌春、直に改新の詔を下し、私有の人民を解放し、私有の荘園を廃止した。
以上がこの改革の骨子であった。その社会的・経済的大改革の具体案ははっきり分からないが、その精神は既に聖徳太子の憲法に現れている。即ち十七条憲法の第十二条は次のように述べている。
「国司や国造は百姓から収め取ってはならない。国に二君なく、民に両主(二人の主人)なし。率土(そっと、そつど、天子の治下全体)の兆民(多くの人民)は、王を以て主となす。よさせる官司は、皆王の臣なり。何ぞ敢えて公(天皇)とともに百姓に(から)治め取らん。」
176 また大化2年、646年3月の詔で、「天地の間に君として万民を治める際は、ただ治めるだけではいけない。必ず臣の助けを待つものだ。これによって代々の我が皇祖や卿が祖考(遠い祖先)とともに治めることができた。朕はまた神護を蒙り、つとめて卿らとともに治めようと思う。」
これは明治元年3月の五か条の御誓文の最初に、「広く会議を興し万機公論に決すべし。」を連想させる。またこれは聖徳太子の憲法第17条で「大事は単独で定めるべきでない。必ず衆と共に論ずべし。」とあるのに発する。
177 以上の通り、大化の改新は推古天皇の時代に発する。推古天皇の時代の摂政聖徳太子は、このころ既に大改新の必要を感じていたが、当時は蘇我氏が跋扈していて、その遂行が不可能であった。そこで聖徳太子は先ず冠位十二階の制を設け、ついで憲法十七条を定め、向かうべき方向を示したが、その徹底的実現は将来を待たねばならなかった。聖徳太子は存命中にこれを実行できなかったが、その死後の24年後に、中大兄皇子によってその遺志が成された。
聖徳太子と中大兄皇子とは「分離すべからざる一体同心」であり、このように一つの理想に導かれ、一つの方向に向かって進み、一つの「色彩」を帯びた時代を、建築史家や美術史家の言うように、みだりに二つに区分して前半を欽明天皇以降と合することは、国史上最も重要な大化の改新の大事実に、未だ徹底しないことを示し、その徹底的理解を妨げる。
この空前の大改革である大化の改新を重視するなら、必然的に、聖徳太子が摂政の時、つまり推古天皇の時代を以て新しい時代の出発点としなければならない。
178 孝徳天皇645--654、齊明天皇655—661*1の時代に中大兄皇子が皇太子として政治を摂っていた。その後中大兄皇子は天智天皇661—671*2として即位したが、この三代が改新が継続された期間である。ついで、天武672--686、持統686--697両天皇の時代に、実施の成績に照らして改正が加えられ、文武天皇697--707の時代に大宝の律令701が成って、帰着するところに落ち着いた。この間を通じて改進の時期と言うことができる。
*1 ウイキペディアでは、齊明天皇642—645 これでは話の筋(時代の前後関係)が合わない。
*2 ウイキペディアでは、天智天皇668—672
次の奈良時代はもはや改新の時代ではない。都が奈良に安定し、政治も安定し、文化全般が落ち着いた。飛鳥時代を革新の嶮難に渦巻き落ちる激流とすれば、奈良時代は安定の平原を行く江流である。奈良時代を春日が光る白昼とすれば、飛鳥時代は紫雲たなびく黎明である。
推古天皇593—628*の時代から、元明天皇707--715が都を平城京に定められる710までの凡そ120年の間は、革新の時代で黎明の時代であった。
*吉川弘文館『標準日本史年表』では孝徳天皇645から始まり、それ以前の記述がない。推古天皇は実在せず、神話上の天皇だったようだ。
*ノジュール「河合敦の日本史の新常識」によれば、推古天皇は実在したが、聖徳太子は実在せず、厩戸王(うまやどのおう)という推古天皇の甥が存在した。また当時摂政・皇太子という制度はなかった。
高校日本史教科書『詳説日本史B』山川出版社では「冠位十二階603、十七条の憲法604が定められた」とし、誰(聖徳太子)が定めたとは書かれておらず、「国際的緊張の下で推古天皇を蘇我馬子や厩戸王(聖徳太子)らが協力した」とある。
後の政治権力者・藤原不比等(ふじわらのふひと)らが『日本書記』のなかで聖徳太子を聖人として書いた。
1999年、大山誠一は『聖徳太子の誕生』の中で、聖徳太子は存在せず、厩戸王は政治の中心人物ではなかったとした。
戦前でも久米邦武や津田左右吉は聖徳太子に関する史実の信憑性に異議を唱え、聖徳太子の業績に疑問を持っていたが、滝川政次郎や坂本太郎らが聖徳太子の存在を主張し、また坂本が教科書編纂に深く関与していたので、聖徳太子実在説が確立した。
2017年、中学校の学習指導要領で「厩戸王子(聖徳太子)」、小学校の学習指導要領では「聖徳太子(厩戸王)」としたら右翼から攻撃を受け、文科省は小中学校では「聖徳太子」を復活させたが、高校ではそれが否定される。
三 飛鳥時代の官僚の日常
飛鳥時代が黎明の時代であったことは、日々の生活に現れている。聖徳太子の憲法第八条604は官吏の出勤時間を次のように定めている。
「群卿百寮は早く出勤し、遅く退勤せよ。公事は忙しい。終日仕事をしても仕事をやり尽くすことは難しい。それなのに遅く出勤すれば、急に及ばず、早く退勤すれば、必ず仕事が完了しない。」
179 ここでは時間が明確に規定されていない。おそらく明確に規定しても実行が容易でなく、他の改革と共に勤務体制を変えなければ効果がないとして大方針だけを示し、他日に期したのだろう。
舒明天皇629--641の八年636に大派王が豊浦大臣に向かって、
「群卿及び百寮は朝参して既に懈(おこた)れり、今後、卯の始め5amに出勤し、巳の後11amに退勤せよ。よって鐘を以て節とせよ。」
と申されたが、大臣はそれに従わなかったとある。
孝徳天皇の大化3年647に定められた礼法は中大兄皇子が起草したものだが、それには
「凡そ位のある者は、必ず寅の時4amに於いて南の門の外に左右に連なり、日の初めて出るのをうかがい、朝庭に就いて拝み、乃ち(その後)庁に侍れ(勤務につけ)。もし遅く参らば、入って侍る(勤務につく)ことができない。午の時12amになり、鐘をきいてから退勤せよ。」
180 大派王では卯の始め、つまり、朝の5時ころに出勤し、巳の後、つまり午前11時過ぎの退出であったが、それさえ実行できなかった。大化の改新645に至り、寅の時つまり早朝4時ころに出勤し、門外に整列し、日が出てから入庁し、午の時つまり12時ころ退出することになった。
次いで制定された大宝(律)令701は、京官は開門以前に参内して閉門時に退勤し、外官は日の出時刻に参内して午後に退勤するとし、その開門・閉門の時は太鼓で示し、その時間の詳細は別式に規定するとあるが、それは見当たらない。おそらくそれは外官と大差なく、大化3年時の礼法とほぼ同じであり、日の出に出勤し、正午過ぎに退庁したのだろう。
*京官は内官。在京の役所。
181 制度上のこの出勤時間の規定はそのまま存続し後代に及んだようだが、実際は、次第に遅く出勤し遅く退出するようになったようだ。
平安時代の初めの延暦23年804には、すでに高官の遅刻が許されていた。平安時代の半ばを過ぎると、出勤時刻は午後の未(ひつじ)の刻(午後2時、1~3時)又は申の刻(午後4時、3時~5時)となり、その時代の末には、日暮れ又は夜に入って参内することになった。
この遅延は紀綱が次第に乱れてゆき、大化の改新の力が次第に衰え、法令が実行力を失ってゆくことを物語ると同時に、朝の生活が夜の生活に変わっていくことを示す。朝は男を示し、夜は女を示すから、この出勤時刻の遅延は、万葉集が古今集になり、日本書記が源氏物語になり、法隆寺が法界寺*に変わることに相応する。平安時代は黄昏であり、奈良時代は白昼であり、飛鳥時代は黎明であった。
*法界寺は最澄が開山した伏見区にある寺。
四
青丹(緑青色)よし寧楽(奈良)の京師(都)は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
八隅しし(四方八方に)吾が王の敷きませる(統治される)国の中なる京師し念(思)ほゆ
藤浪の花は盛りになりにけり平城の京を思ほすや君
吾が盛りまたをち(落ち)めやもほとほとに(ほとんど、全く)寧楽の京師を見ずかなりなむ
これらの歌から、奈良時代の人々がどんなにか奈良の都の壮麗華美に驚き、それを讃え、誇り、愛惜したかが分かる。
183 建築界における革新はこれより先に成された。
飛鳥時代に寺院が沢山建立されるようになったが、寺院は新しい建築様式であった。仏法は欽明天皇の13年552、(欽明天皇の時代(539?—571?)に百済から仏教が渡来した(538、日本書紀では552))あるいはそれ以前に入っていた。その仏法伝来からの40年間は、これ(仏法)に反対する勢力が強く、寺や仏像はしばしば厄難に会い、壮大な寺院の建築は不可能だった。
その形勢が一変したのが、用明天皇585--587の崩御後に物部守屋*が没落した後であり、その最初に法興寺が現れた。
*物部守屋(不詳—用明天皇2年7月(587年8月)もののべのもりや)古墳時代の大連(有力豪族)
物部守屋の没後の翌年588、百済が、仏舎利(仏骨)や大勢の僧侶や寺工、鑪(ろ)盤*博士、瓦博士、画工等を献じた。次いで法興寺の建立に着手したと日本書紀にあるが、恐らく法興寺建立の計画を立て、これに必要な仏舎利や僧侶、技術家を百済に徴したのだろう。そしてその立柱式を行ったと思われる崇峻天皇*4年辛亥591を法興元年とし、僧侶の間でこの時から法興の年号が用いられたことから考えると、法興寺の建立は、我が国における仏法興隆の紀元と考えられ、非常に重大視されたことが推察できる。法興寺はそれ591から5年を経て、推古天皇*の4年596に完成し、寺司と住僧の任命が行われた。
*崇峻天皇553?(欽明天皇14年)—592.12.12?(崇峻天皇5年11月3日)(在位587.9.9?(用明天皇2年8月2日)--592.12.12?(崇峻天皇5年11月3日)
*推古天皇554—628、在位593.1.15(崇峻天皇5年12月8日)—628.4.15(推古天皇36年3月7日)
*鑪盤は塔の上、相輪の基部にある方形の盤。
184 法興寺の造立を以て仏法興隆の紀元と考え、その造立のために特に百済から技士を招き、前後9年588--596を費やして成った法興寺の建築が、当時未曽有の偉観であっただろうと想像できる。そしてこれを先駆として寺院が盛んに建立された。日本書紀によれば、推古天皇の2年594、皇太子や大臣に詔して、三宝を興隆させたが、このとき諸々の臣連等が、君親の恩のために、競って仏舎利を作り、これを寺といったとある。今その壮観を偲ぶことができるものが、法隆寺、法起寺、法輪寺、四天王寺、薬師寺などである。推古天皇32年624の統計によれば、当時の寺院数は46であった。
185 明治初年の西洋建築である国立銀行でさえ、次のような驚歎賛美の辞が捧げられた。(これは文脈と全く関係なく、ただ自分が難しい漢字を読みこなすことができるのを誇示したいのだろうか。)
「ヨーロッパ式の荘厳で華々しい建築が高々と造営された。軒は空高くそびえ、雲錦の猛獣班駮(ばく)のようであり、奥深く、風にそよぐ花がうっそうと生い茂るかのようだ。白壁、皜(こう、白い)曜、金製の円柱、玉のような土台石などが、白間に緑の玉の粉のように四方に臨まれる。朱雀に向かう鉄製の門は左青龍であり、穿眼がある。倉琅根の〇〇(木偏の陛、木偏の牙)は、塵埃を遮り、翠(すい、かわせみ、みどり)甓(へき、しきがわら)は清く平らで、華靴を履かない者が、どうしてこれを踏むことができようか。周囲の垣根は背後に面し、右は白虎であり、玄武がこれを後にする。この建物の華麗整飾厳正であることに誰がすくんで敬礼しないことがあろうか。かの祖先の龍が天下を併御(征服)した後に、天に昇って娯楽三昧だったという越王が起こした(秦の始皇帝が築いた土の台である)瑯椰台(ろうやだい)もこんな風だったろうと思われる。その東海を望むがごときは、屑とすべきでない。辟地窮里の村翁や野奶(だい、母)が初めてこれを仰ぎ望めば、必ず跪いて座り、礼拝することだろう。」(東京開化繁昌誌)
この初めての西洋建築に接した明治初年の人々でも、初めて寺院建築に接した飛鳥時代の人々の感動を十分に想像かつ同感できないだろう。
五 飛鳥時代の独創性
185 飛鳥時代の文化は大陸文化の単なる模倣ではなかった。法隆寺、法起寺、法輪寺、その他の寺の伽藍の配置は百済式の直写ではなく、日本独特であると言われている。材料の点でも、我が国の建築が全く木造である点は、大陸に類例がない。建築の「品格」や「気風」は全く「我国」独特の性質を発揮しているではないか。(そこまで言うのか。)
政治や制度の点でも、我が国独特の精神が現れていることは「言うまでもない。」大宝の律令が支那のそれを参考とし、多くそれを採用しながら、しかも我が国の事情に照らして巧みに取捨していることを学者が屡々指摘してきた。
飛鳥時代の文化は決して大陸文化の模倣ばかりではなく、独創的な面を多分に持っていた。あれほど程度の違った高い文化に接触しながら、一気にこれに圧倒されないで、これを批判し、取捨し、彼我を巧みに融合して、否、彼を採るとき、既に一転して我のものとして生み出してきた力、この力は一体どこから得たか。(日本万歳!日本頑張れ!)
六 日本の独創力の源その一 中国文化の理解と取捨選択
187 第一に大陸文明の徹底的理解からそれ(独創力)を得た。大化の改新に参与して重要な働きをした人たちは、大陸で学びその文化を研究し理解した留学生や学問僧であった。
当初中大兄皇子は中臣鎌子*と共に南淵請安*について学んだ。蘇我氏が亡び、改新の事業がその緒についたとき、高向玄理*や僧旻*らが国博士に任じられた。大化元年6458月、僧旻、福亮、恵雲、霊雲、道登などが仏法興隆の為の十師に選任された。大化2年9月、高向玄理が新羅に使わされ、大化5年、高向玄理や僧旻が詔を承けて八省百官の官制を定めた。白雉(ち、きじ650--54)4年5月、道登や僧旻が白い雉(きじ)を捕獲したとき、これを目出度い前候(瑞祥、ずいしょう)と考えた。白雉4年5月、旻法師が病むと、孝徳天皇はその房に出向き「もし法師が今日死んだら、私も明日死のう」と言い、6月に法師が死ぬと、孝徳天皇、中大兄皇子等が使いを送り、厚く弔い、多くの仏菩薩の画像を作り、川原寺に安置せしめた。白雉5年に送られた遣唐使では、高向玄理を押使*に任命し、薬師恵日を副使に任命した。これらの人々は皆、大陸文明の理解者だった。
188 高向玄理、僧旻、南淵請安等は推古天皇の16年608に、聖徳太子に見出されて留学生として隋へ遣わされた。この時の留学生には他に福因恵隠等もいて、全てで8人だったが、いずれも多年かの国に留まり、その文化を研究した。福因は推古天皇の31年623に帰朝したから、16年間の留学であり、恵隠は舒明天皇の11年639に帰朝したから、32年間の留学であった。僧旻は舒明天皇の4年632に帰り、25年間の留学、高向玄理と南淵請安は共に舒明天皇の12年640に帰り、33年間の留学であった。
聖徳太子に見出されて発遣された留学生が、後年中大兄皇子に用いられ大化の改新の枢機に与ったことは、聖徳太子と中大兄皇子との緊密不可分の関係を思わせるのに十分だし、その留学期間が20年、30年に及び、時には30年を越えていることは、用意が周到であったことを示し、その知識が浅薄ではなく本質的理解であり、彼我の長所短所を批判する力を持っていただろうと推察できる。(その論拠を示さない。留学期間の長さがその論拠ということか。)
189 大化の改新の後も留学生の発遣はますます盛んで、大化4年648、三韓に学問僧を遣わし、白雉4年653以降は、遣唐使の発遣毎に多数の留学生や学問僧を唐に遣わした。その留学期間で明らかなものは、奈良時代では十数年間、平安時代では数年の留学である。この留学期間の短縮は、我が国の文化が高まったことを示すが、一面では気魄が次第に弱まり、熱情が漸く冷却したことを物語る。(推量)
飛鳥時代に新たに大陸文化を吸収採用するにあたり、非常の情熱と稜々たる気魄を以て、数十年間かの地にとどまり、つまり、一生をこれに捧げて徹底的に研究し、その長所短所を子細に鑑別しようとしたところの用意や精神は驚くべきものである。
190 飛鳥時代の文化が飛躍したのは大陸文化の採用によるものだが、それは単なる直写模倣ではなく、十分に独創的精神を発揮したが、それは周到な用意、徹底的理解、熱烈な気魄を以てできた「征服」による。
七 日本の独創力の源その二 建国以来の歴史精神の継承
大化の改新が大改革であったので、浅薄な観察はそれを革命と思うほどだ。当時の詔は我が国の歴史から説き起こす。つまりこの大改革は日本建国以来の歴史精神の継承であり、建国以来の日本精神が蘇ったものである。
大化2年3月の詔に、
「天地の間で君(天皇)として万民を治めることは、自分一人ではできず、必ず臣下の助けを待つ。こうして、代々の我が皇祖等や卿等が、祖先と共に国を治められた。私もまた神の守護を受けながら、努めて卿等と共に治めようと思う。」
また大化3年4月の詔に、
「かみながらも(祖先の神と共に)我子しらさむことよさせき(国民を統治してきたが)、(日本は)これを以て天地の初めから君臨する国である。はつくにしらしし(最初の国を統治した)皇祖の時から、天下は変わらず、すべてかれこれ(自他のように異なる)ということはなかった。」(意味不明)
大化の改新は聖徳太子に発し、その聖徳太子は我が国の歴史を特に注意された。聖徳太子のこの精神は推古天皇15年の詔として現れた。つまり、
192 「私は以下のように聞いている。むかし我皇祖天皇等が世を治められたとき、天にせくくまり(背を低く曲げて)、地に抜き足して*、厚く神祇をいやまい(敬い)、あまねく山川を祭り、はるかに乾坤に通じ、これを以て陰陽開和、造化ともに調ったと。今私が世に当たり神祇を祝うことで、どうして怠けていられようか。だから群臣と共に心を竭(つ)くして宜しく神祇を拝すべきだ。」
*天は高いのに背をかがめて行き、地は固いのに抜き足で歩く。非常に慎み恐れるさま、また、肩身が狭く世を恐れ憚って行動するさま。跼天蹐地(きょくてんせきち)。「詩経」小雅・正月より。
聖徳太子は推古天皇の28年に、天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部幷(ならびに)公民等本記を編纂され、我が国の歴史に深甚の注意を払われた。
時代の先覚であり、一世の導師であった聖徳太子ならびに中大兄皇子は、大陸文化の採用を志し、頻繁に留学生を派遣し、その徹底的研究を企てるとともに、我が国の歴史に深甚の注意を払い、国体の本義を悟り、建国以来の日本精神を継承し、これによってこの大改新の根本方針を定めた。
八
193 飛鳥時代は聖徳太子と中大兄皇子つまり天智天皇の精神によって指導された革新の時代、黎明の時代であった。黎明の時代だから、厳正剛健の気魄に満ちていた。この剛健の気魄を以て大陸文化を研究し、十分に批判し、その長所を採用し、我が文化を飛躍的発展させることができた。しかし他面、深く国史に没頭し、歴史的精神を継承し、純日本的立場で文化を開展することができたから、あれほど高い大陸文化と接触しながら、圧倒されることなく自主的態度を持して独創的光彩を発揮することができた。
昭和4年、1929年2月1日
以上 2021年6月3日(木)
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