2021年6月18日金曜日

十二 日本精神 昭和5年、1930年3月下澣(旬)、於香取丸 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収 要旨・感想

十二 日本精神 昭和5年、1930年3月下澣(旬)、於香取丸 『国史学の骨髄』平泉澄 至文堂 1932 所収

 

 

感想 2021617()

 

 橋本佐内の能力重視の人材登用の提言、後進国にとっての国際的同盟関係の必要性、国際連盟の展望などの考え方には納得できる。後進国のナショナリズム(尚武)は認めるべきだと私も思う。

 しかし国是に関して、いきなりまた先験的に、日本独特の神武天皇以来の万世一系の国体、天皇に対する忠義が出てくる。この宗教的依存、差別的な世襲身分制の肯定、旧弊を変革するという良い面を持つはずの革命の否定など理解できない。

 それに国是に関してこれ以上議論する必要はないと視野を狭めているのも問題だ。「今さら論ずるまでもないこと」258

 

 吉田松陰は父親、将軍、天皇への尊敬の念から忠孝二徳の一致へと進み、日本人は日本が万世一系の神国だということを認識せよと言う。さらに吉田松陰の言う尚武とは、死を手段化することだ。それは暴力的でさえある。そして筆者平泉澄はそれこそ「日本精神」だという。しかしそういう武力観は当時の国際社会でも失敗しただろうし、実際日本は諸外国に対する武力的対応を軌道修正した。またそういう日本精神に基づく昭和の戦争も結局失敗に終わったではないか。平泉澄は危険で自滅的な武力的対外政策を提唱している。

 

感想 2021614()

 

 橋本佐内は格式・伝統ではなく、能力に応じて任官するよう提言したとのことで、これは従来の慣例重視のやり方を打ち破る新たな考え方かなと感心したが、(神武)天皇だけは例外とし、その差別・服従構造は認めるという不徹底なものであったようだ。

 一方吉田松陰には橋本のような先進的な提言はなく、橋本の否定的側面、つまり天皇制差別構造に依拠した論理構成であるようだ。

 筆者の言う日本精神とは、その天皇制差別構造そのものを言うようだ。

 

 

要旨

 

242 日本精神は、日本国家が依って立ち、日本歴史が依って成るものである。すなわちそれは日本国家を支え、日本歴史を貫くものであるから、幕末維新の時など国難の時に最もよくそれが現れる。幕末維新の当時だけでなく、国史を通じた偉大な英俊として、私は橋本景岳(左内)と吉田松陰(寅二郎)を挙げる。

 吉田は世間に衆知しているが、橋本のことはよく知られていない。

243 安政の大獄1859は今から70余年前のことであり、橋本、吉田の両人はこの時殺され、もはや過去の人物のように思われがちだが、実は橋本は私たちと同時代の人間である。

この大獄で倒れた時の年齢は、安島帯刀が48歳、梅田雲濱が44歳、頼三樹三郎が35歳であったが、吉田松陰は30歳、橋本佐内は26歳であった。西郷南洲(隆盛)は橋本佐内より7歳年長で、文学博士の重野安沢は西郷隆盛と同年同郷の生まれである。橋本佐内は現在でも生きているとすれば、今96、7歳である。

 

244 橋本佐内は26歳で殺されたが、その前年の秋から禁錮されていたので、実際の活動は25歳の秋までであった。橋本は若くして亡くなったので偉業の事実がないが、当事の一流の人物は橋本を高く評価している。

橋本は藤田東湖に心服していたが、「鈴木主税)も小拙(私)も、心服する人は水府(水戸藩)の藤田である」と言っている。一方、藤田の方は橋本が偉器であることを看破し、橋本を抜擢するように越前藩の鈴木主税に勧めた。

245 西郷隆盛は「私は先輩として藤田東吾に服し、同僚において橋本佐内を推す。この二人の才知、学問、器量や見識(才能と卓見)を私はまねができない」と言っている。

安政5年1858正月14日、橋本佐内は、幕府の有司(官吏)で豪邁卓識の川路左衛門尉聖謨(ぼ)を初めて訪ねたが、橋本の手記に、川路は「傲然として『何用でお出で候や』と申した」とある。しかし、対談の結果、川路は「橋本の言論は剴到(がいとう、適切で行き届くこと。「剴」は切るの意)であり、私の半身は殆ど彼のために切り取られた気がした。今まであのような人に会ったことがない」とある人に語ったとのことである。

246 ただし、橋本佐内の「身長は五尺しかなく、色白で繊細あでやかで、婦女子の様であり、性質も穏やかで控えめで、人と争わなかったが、中心になって事を行うときは強く正しく屈服せず、人もその誠意に感じ、心腹を許した」と重野安沢博士243は碑文の中で語っている。

 

 橋本佐内の学問は、国学、漢学、洋学の三方面にわたっている。まず国学では本居宣長の学風を受け、その「敷島の大和心を人問はば」に基づき、自らを「桜花春暉(き、輝く)樓(楼、ろう)」と号した。

 漢学は吉田東篁(こう)に従った。吉田東篁は山崎闇斎の門流(崎門)に属し、大義名分を主とし、その学風は慷慨(意気盛ん)激越だった。橋本佐内は山崎闇斎の門人浅見綗(けい)齋の著した靖獻(せいけん)遺言を愛読した。

247 洋学は大阪で緒方洪菴に学び、後に江戸で杉田成卿(せいけい、玄白の孫)に学んだ。橋本佐内が当時学んだ「メカニカ」の手訳本は今も残っており、橋本の手になる「器学原始」という訳題がついている。杉田成卿が「濟生三方」を訳したとき、杉田は橋本に訂正を依頼したという。

 

 橋本は世界の大勢を洞察し、開国の必要を主張した。その詩の中で

 

「洋学禁止が寛解することは、遠い将来でないことを知っている。

要挂(けい、掛ける)春帆颿(はん、帆、走る)太平」

 

と言い、また、

 

「疇向羅巴(ヨーロッパに向かい)、大義を宣べる。

高く大旆(はい、旗)を揚げ、皇威が耀(輝)く。」

 

248 など、開国進取の説をうかがうことができる。しかも橋本は洋学を究めても洋学の弊害に陥らず、安政4年1857藩に洋学を興すことについて布令を発する時、その原案を作ったが、

 

「洋学の義、筋合正しく相開き候時は、その利夥(おびただし)くあるが、万一杜撰になるときは、その害言うべからず。この天地の間有力優偉の者についても皆そうだ。…凡そ大いに人を利するものは、また必ず大に人を害する弊害がないわけにいかない。(折衷論的)だからこの学の開闡(せん、開く)始めにおいて丁重用心致すべし。

 

と戒め、洋学を開くのは西洋の科学、工学等を学び取って、わが精神を補助するためであり、決して従来の和漢学の外に洋学という一派を開くのではないと注意した。

 

橋本佐内の経歴

 

 橋本佐内は安政2年1855、22歳の時までは医学研究生であったが、水戸の藤田東吾が(福井藩の)鈴木主税に勧め、その鈴木の推薦で同年10月、医員を免ぜられ、御書院番となった。これは抜躍の準備であった。鈴木は翌年安政3年18562月に死亡したが、中根雪江がその志を継ぎ、4月に橋本を福井藩の学校明道館の幹事とした。

橋本佐内の明道館幹事としての業績は、第一に、洋学を開いたこと、第二に、学問に実用を尊んだことである。従来の学風は、いたずらに空想を談じ、世道に益がなかったが、橋本佐内は実際実地の活用を心掛けさせた。第三に、教育に人材を登用することを主張した。当時は家格を重んじ、先例を主としていたが、橋本はこれに反対し、人物本位に改めようとした。橋本は世間の迂論(うろん、実用にならない世間知らずの説)を嘲り、

 

「このように(前)例だけを言えば、今日から屁一つも放つことができなくなる。」

 

250 と警句を吐いた。

 

 橋本佐内は福井藩(越前藩)一藩だけのことを考えてはいなかった。安政3年18564月、家老中根雪江に次のような手紙を送った。

 

「私は生まれつき病気がちで、昼夜間断なく(憂鬱)病が起きる。困ったものだ。最近も閑に任せ、よく診察してみたところ、これはよほど難しい病であることが分かった。憂国〇(忄と念)君という病である。四百余病は薬石を以て治せるが、ただこの病は薬石が及ばないものであり、扁鵲(へんじゃく、戦国時代の鄭の名医)も匙を投げるということだ。執事も同じ病にかかり、最近はおそらく陽気によって(病気が)発動しているのだろうと思う。呵々(笑い)」

 

橋本佐内は重大な時局を憂い、憂国病にかかった。

しかし、蟄龍(ちつりゅう、隠れている龍)は遂に池を脱した。安政4年18577月、橋本佐内は藩主春嶽に召され、江戸に出て、その侍読となり、また枢務にも関わった。つまり秘書官として、いやむしろ参謀長として、軍師として越前藩を指揮し、国家の大事に当たった。否、日本国の指導者としてその大識見を以て大計画を立て、大改革を断行しようとした。

251 第一に橋本佐内は西力東漸の恐るべき形成を洞察した。

 

「我が神州が世界の第一等国にならなければ、インドのようになるだろう。」

 

と言い、彼(西洋)を制して世界の一等国になるか、そうでなければ、彼に制せられて、その属国になるか、国家の運命は今や極めて重大であることを橋本は察知した。そしてそのいずれの道を辿るかは一に我が覚悟によって決定される。凡そ先んずれば人を制し、後れれば、人に制せられる。従って、当時の急務は、彼がやってくるのを待っているのではなく、我から国を開き、世界の競争場に乗り出し、力を尽くして彼を凌ぐ他にない。安政4年18579月、松本佐内が村田氏壽に宛てた書状に、

 

252 「万国形勢の沿革に従い、我朝においても御趣向を換えるべきである。万国に普通(開国交際)し海外へ出かけること、交易すること、兵制を改めること、彼の(開国を迫る)国書を待たずに我から発露すべきことなどを、最近の為政の大綱領とすべきだと思う。」

 

 橋本佐内の開国論は井伊大老等幕府当局のそれと異なる。幕府の開国論は、外国の強迫によって、やむを得ずその要求に従うというものであるが、橋本佐内の開国論は我から進んで世界各国と交際しようとするものである。この点について橋本佐内は幕府の姑息卑屈の態度を罵った。

 

「強いて(開国を)辞退すれば、兵端にもなるから、やむを得ずこれを開いた、彼(あれ)も許したということになれば、これは尽く一世を愚弄される手段だと私は思う。」

 

 日本は我から進んで世界の真っただ中に乗り出してゆかねばならないが、世界の形成や将来の趨勢はどうか。この点に関して橋本佐内は国際連盟の成立を予言しているようである。

 

253 「最近の勢いはゆくゆく五大州が一図に同盟国になり、盟主を立て、四方の干戈は休むだろう。その盟主は先ず英魯のいずれかになるだろう。」

 

将来必ず国際連盟が成立し、戦争を止めるようになり、英露両国のいずれかがその国際連盟の盟主になるという。その間に処する日本の方策に関して、

 

「偖(さて)日本はとても独立が難しい。独立するには、山丹(シベリア、沿海州)、満洲の辺り、朝鮮国を併せ(併合し)、かつアメリカ州、あるいはインド地内に領地を持たないでは、とても望みのごとくならないが、これは最近ではとても難しい。その訳は、インドは西洋に領せられ、山丹辺はロシアが手をつけかけている。それに今は力不足である。」

 

 ここで言う独立とは孤立の意味である。世界各国が連盟する時、日本だけが孤立することができようか。もし孤立してそれでも他を制するためには日本は朝鮮半島や満洲、シベリアを併合し、かつアメリカまたはインドに植民地を持たねばならない。もしこれを領有すれば、独力で他を制することができるだろうが、これは今日では不可能である。インドは既に英国に取られ、シベリアはロシアが占領し、日本の現勢は余りにも無力である。

254 ここで日本が取るべき方策は他のなんらかの強国と提携同盟するしかない。その強国は英国かロシアであるが、国民性の類似や地理の近さから言えば、英国よりもロシアと結ぶのがよい。(日露同盟論)

 

 このように世界に雄飛するためには国内の政府当局を改革しなければならない。幕府の大改革である。幕府をすべて人材本位とし、天下の英俊を網羅し、挙国一致内閣を設ける。その第一は将軍に賢明の人を立てることである。将軍は朝廷の御委任を受けて天下の政務を総理する。責任内閣の首班である。第二に、将軍の下に国内事務宰相と外国事務宰相を置く。

255 つまり大臣である。その国内宰相には水戸の烈公、越前の春嶽公、薩摩の島津齊彬公を推し、外国宰相には肥前の鍋島齊正公を推す。そして外国宰相の下にいわば外務省の局長として、川路左衛門尉、永井玄蕃頭、岩瀬肥後守を置く。その他天下有名達識の士は、その身分の如何を問わず、自由に挙げ用いる。京都の守護は尾州家と鳥取の松平家に命じ、その指添として井伊掃部頭と戸田妥(た)女正等を挙げる。また蝦夷には宇和島の伊達遠江守、土佐の山内容堂等を総督とする。その他小名でも力のある者はそれぞれの向きによって登用する。

 このように天下の人材を活用すれば、国家の現状が振るわないとはいえ、活路を切り開けるだろう。そのうえ、ロシアやアメリカから学者、技師を50人ばかり招聘し、学校を起こし、産業の振興を計る。教育によって人材を作り、天下の人物を活用する。乞食雲助の類でも組にして、頭を立て、相応の賄いを与えて、北海道に派遣し、これを開墾させる。こうして全日本人をすべて活用し、最高最大の能力を発揮させることができる。

256 人間自ずから適用の士あり、天下何か為すべきの時なからん。(人間は何か役に立つものを必ず持っているものだ。)

 橋本佐内は鎖国攘夷の時代における不出世の英雄であった。

 橋本佐内はこの趣意を以て春嶽を説き、越前の藩論を一定し、天下の有力者を遊説した。朝廷の三条実萬(万、さねつむ)公(三条実美の父)はこれを聞いて膝の進むのを覚えなかったといい、幕府の川路左衛門尉はこれを聞いて半身を切り取られたように感じたという。

 

 ところが橋本佐内は忽ち禁獄され、斬首され、その大計画はすべて失われた。

257 橋本佐内は人材本位の立場から将軍家茂の後継として賢明の誉高き慶喜を推した。家茂将軍は病身で子がなかったからである。ところがこれに大奥が反対し、別に紀伊家から推すことになり、井伊掃部頭がその派閥の中心となり、頭目として画策した。井伊が大老に挙げられると、反対の諸侯諸士を排して幕府を乗っ取り、政治を独裁し、天下の賢才英俊の士はすべて処分し、殺したり、斥けたりした。その最も有力な反対者として橋本佐内は安政6年185910月7日、傳馬町の獄で斬られた。

 

 橋本佐内を幕末維新の最大最高の人物と評することは不公平とは言えない。

258 橋本佐内の日本精神 橋本佐内は安政3年18564月、藩から抜擢(ばってき)の内命を受けた時、家老中根雪江に答えて意見を述べたが、その中で日本精神の特質を説いている。

「藩に於いて国是の論があるとのことだが、それは論ずるまでもない。国是は国体を本とする。諸外国のように革命が頻繁に行われ、国体が絶えず変化する所では、その時々の相談によって国是を決定する必要がある。ところが我が国はそうではない。(私はこの固定的な考え方には反対だ。意見を戦わせて国是を決めるべきだ。)

 

「元来皇国は異邦と違い、革命と申す「乱習、悪風」がないため、今でもすぐにでも、神武天皇の御孫謀(子孫のためにする計画)や御遺烈(先人の功績)を御恪守(謹んで守る)御維持遊ばされ候て然るべき義と存じ奉り候」

 

258 我が国には革命という「悪習」がないから建国以来「一つの精神」(架空の空論!)が貫いている。だから国是は神武天皇以来既に決定しており、今さらとやかく議論する必要はない。ただし、これは保守頑固の説ではない。(ふむふむ)

 

「時代の沿革がある場合、これが神皇の御意に法(のっと)ることが肝要であるが、その作為制度における些少の換改や潤色がなければいけない。」(曖昧で不統一な論理)

 

 従来の制度をそのまま踏襲することは、擔(担たん、かつぐ)板漢の迂愚である。時代の進運に伴い多少の改革を加えることは「固より」必要である。建国以来国是が決定しているとはいえ、その表面的な末を見ないで、その「根本の精神」を考えて継承しなければならない。(曖昧)そして神武天皇以来の御精神とは、

 

「神皇の御孫謀・御遺烈とは、人が忠義を重んじ、武士が武道を尊ぶことである。これが我が皇国の国是である。(単純、曖昧)これが皇国の皇国たるところであり、支那の華靡(び)浮大、西洋の固滞暗鈍と比べたら雲泥の差である」(狭小な自己中)

 

260 建国以来決定して動かない国是であるところの日本精神の特質とは、人が忠義を重んじ、武士が武道を尊ぶこと、つまり忠義の精神と尚武の気象である。これが日本の日本たる所以であり、支那と明暗相異なり、西洋と雲泥相違する所以である。だから我らの期するところは、この日本精神の発揮でなければならない。

 

「決して唐様を慕うにも及ばず(不必要)、オランダのまねをするにも及ばないと私は思う。」

 

 他国の文明を採用するのは良いが、追随すべきではない。

 

「器械芸術は彼に取れ、忠義仁義は我に存す。」(話題の転換)

 

 物質文明は彼の長所を採用しなければならないが、それは自主的態度による採長補短であり、盲目的に模倣追随すべきではない。(敢えてそうしなくても実際そうなるのではないか。)我が特質、我国是である忠孝仁義(武道は?)の日本精神を厳然として保たねばならない。(強調にエスカレート)

 

「忠・実の二つは万世の亀鑑(模範)、百行の根本であり、これは寝ても覚めても忘却すべきでない。」

 

261 忠義、尚武は忠・実に帰着する。これは一切の根本原理であり、千歳万世にわたる指導原理となる。

 

国是の論はこの他に一言も言うべきことがない。」

 

 国是の根本、日本精神の特質はこの数言につきる。

 

 国史三千年を通じて稀に見る大天才橋本佐内の日本精神は以上の通りである。

 

 次は吉田松陰

 

 吉田松陰に関する伝記は早くから世に出回っている。吉田松陰の世界的知識、世界的経綸(国家統治策)、全国的計画、その全国的実行などは、橋本佐内に遠く及ばないが、日本精神についての深い理解、明確な表現、熱烈な鼓吹の点では、橋本佐内を凌駕する。橋本佐内は政治家であり、吉田松陰は教育者である。

262 吉田松陰の日本精神 松下村塾の規則 松下村塾は吉田松陰が罪を獲て実父杉氏宅に禁錮されていたとき、密かに門下を教導したところである。この塾で学んだ門人は後に長州の中心勢力として維新回天(時勢を一変すること)の大事を決行した。この塾の規則、吉田松陰の根本精神、指導原理は次の五条から成る。

 

 一 両親の命には必ず背いてはならない(必ずの一語に千鈞(鈞は目方の単位)の重みがあり、非常の力があることに注意せよ。(どういう点でか。))

 一 両親へ必ず出入りを告げるべきだ。

 263 一 晨(しん、あした、朝)起盥(かん、たらい、そそぐ)梳(そ、くしけずる)のとき、先祖を拝し、御城に向かって拝し、東に向かって天朝を拝すること。たとい病に臥すとも怠るべからず。

(先ず先祖を拝し、次に藩主を拝し、最後に朝廷を拝することは、近いところから始めて、根本的なものに遡ることである。たとえ病に臥すとも怠るべからずに、忠孝の精神の熱烈な発露を見る。)

 一 兄はもとより、年長又は位の高い人には必ず順い、敬い、無礼なことはせず、弟は勿論、品が卑しい年下の者を愛すべし。

(ヒ首(ひしゅ、短剣)を揮って老中を斬り、爆弾を投げて幕府を瓦解させようとする風雲児(事変を利用して才能を現す人)が、その実いかに恭順和敬の人かを見よ。)(暴力愛好家、こわ)

 一 塾中でのすべてのことで応対と進退とを(大)切に、礼儀を正しくすべし。

(豪宕(ごうとう、豪放)の士が実は礼節の人であることがここに明らかである。)(無関係では。)

 

 この五箇条は吉田松陰の赤心である。橋本佐内の忠実を吉田松陰はさらに痛烈に説いた。

 

264 士規七則 士規七則は乙卯(安政2年1855)正月5日の作である。これは前年18543月、吉田松陰が26歳の時、米国に渡ろうとして捕えられ、幕府によって藩の獄に幽囚されたが、その獄中での作である。

 第一条 「凡そ生まれて人となるかぎり、人が禽獣と異なる所以を知るべし。人に五倫(儒教での基本的な五つの対人関係。父子、君臣、夫婦、長幼、朋友。そこで守られるべき道は順に、親・義・別・序・信である。)があるが、その中でも君臣と父子を最大とするから、人の人たるゆえんは、忠孝を本とする。」

 人がもし動物と異なることがないというならやめよう。もし動物と異なるとすれば、その相違は倫理道徳の一点にある。倫理道徳は人の人たるゆえんである。しかもその道徳に於いて最も重いものが忠孝の二徳である。故に人の人たるゆえんは忠孝を本とする。

265 第二条 「凡そ皇国に生まれたからには、宜しく我が宇内(天下)の尊い所以を知るべし。けだし、皇朝は万葉(万世)一統であり、邦国の士夫は禄位を世襲し、人君は民を養い、以て祖業を継ぎ、臣民は君に忠にして以て父の志を継ぐ、君臣一体、忠孝一致、唯我国だけが然りとなす。」

 人と生まれ忠孝を重んずべきことは、前条で説いたが、次に日本人として生まれたものは、日本国の本質、その特殊の国体を知らなければならない。日本の特質は、朝廷の万世一系であり、臣民が百代これに仕え、祖業を継ぐ点にある。この故に日本では革命がない。(吉田松陰は革命がないとは言っていない。)

 革命がないために忠孝の二徳は常に一致する。人として心得るべきことは忠孝の二徳であるが、日本人として更に心得るべき点は、日本においては忠孝の二徳が常に一致することである。

266 尚武の気象 第三条「士道が義(天皇に対する忠義)より大きいことはない。義は勇に基づいて行い、勇は義によって長い。」(吉田松陰の論理構成は弱い。吉田は論理の人ではなく情念の人だ。)

 第七条「死して後に已めるというが、この言葉は簡略で、その義(意義)は該(ひろ)い。堅忍果決、確乎として抜くべからざるもの、これを捨てて術はない。」(命知らずで命を粗末にする。暴力的。)

 これは「最も壮烈」な表現である。

 吉田松陰は一死を分(本分)として少しも恐れず、命を惜しむ者を罵る。

 

「十七八の死が惜しければ、三十の死も惜しい。八九十百になってもこれで足りたということはない。草虫水虫のように半年の命のものもあるが、虫はこれで短いとは言わない。松柏(かしわ)のように数百年の命のものもあるが、これで長いとはしない。…何年生きたら気が済むのか。先の目途でもあるのか。浦島武内も今は死人である。人間は僅か50年で、人生70は古来稀である。何か腹のいえるようなことをやって死なねば成仏できないぞ。」

 

 吉田松陰はこう「喝破」したが、死を恐れぬ日本男児の尚武の気象を歌って痛快を極めているではないか。(恐ろしく暴力的。)

 吉田松陰が最も憂えたことは日本人が太平に慣れ、臆病になったことである。吉田松陰はこの臆病を打ち破るために、自ら死んで民衆を励まそうとした。(バカ。三島由紀夫)

 

「人は私が乱を好むと言うだろうが、草奔(ほん、走る)崛(くつ、そばだつ)起の豪傑がいて、神州が墨夷の支配を受けぬようでありたい。…私が死を求めるのは、生きて事をなすことができる目途もなく、死んで人に感じさせることに一理があるのではないかいうことだ。この度の大事で一人も死ぬものがいないということは、余りにも余りにも日本人が臆病になりきったか、むこいから一人であっても死んでみせたら、朋友や故旧(旧知)、生き残った者どもも、少しは力を致してくれようかというまでだ。」

 

268 吉田松陰の理解した日本精神はこういうものだった。それは橋本佐内の日本精神と一致する。(違うのではないか。)両者とも忠孝の精神、尚武の気象を中核とするからだ。この二つがあって初めて日本は日本である。日本の国家はこの精神によって立ち、日本の歴史はこの精神で貫かれている。この精神が存する限り日本は永久に栄える。(見事に失敗したではないか。)我らが務めるべきことは、この精神の継承であり、その発揮、その鼓吹でなければならない。

 吉田松陰曰く。

 

「私は聞く。近世海外の諸蛮、各その賢人智者を推挙し、その政治を革新し、駸々然(すみやかに)として上国を凌(りょう、しのぐ)侮する勢いであると。我は何を以てこれを制することができようか。他にはない。私が先に論じた我が国体の外国とは異なる所以の大義を明らかにし、闔(こう、閉じる)国の人は闔国のために死に、闔藩の人は闔藩のために死に、臣は君のために死に、子は父のために死ぬ。そういう志が確乎としていれば、諸蛮を恐れることはない。願わくは諸君とともに従事したい。」

 

昭和5年19303月下澣(旬)、香取丸にありて之を稿す。

 

以上 2021617()

 

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