2021年10月7日木曜日

「神道は祭天の古俗」文科大学教授 久米邦武 『史海』第八巻 明治25年1892年1月25日発兌 要旨・感想

「神道は祭天の古俗」文科大学教授 久米邦武 『史海』第八巻 明治251892125日発兌

 

 

感想 2021921()

 

中国や日本(や韓国)の古文書を元にして神嘗祭や新嘗祭(大嘗祭はその特別な一形式)が、中国でも韓国でも昔から行われていたと論証する。それは日中韓三国が昔から交流していたことからも推測できることである。日本だけの特別な祭りではない。また何れの祭りも天を祭るものであって、天照大神を祭るものではない。46, 48

三(種の神)器で神座を飾ることは安河の会議で決まったことではなく、はるか以前からの祭天の古俗であった。また三種の神器の風習は日本固有のものではなく、物は異なるが同じ機能をするものが韓国にもあった。51

 

 神道では古来、穢れを嫌い、特に死の穢れを嫌った。特に神道関係者は死者の面倒を見るよりも、神事を行うことの方を優先させたらしい。だから穢多という身分ができた。今日神道が葬式を行うことはそのことからすると信じられないことだ。また、このように死者の面倒を見ない風習は韓国にもあったようだ。58--60

 

 昔は政治と宗教(神道)とが一体となっていた。政教一致である。

 神道には祓除に関する教文がない。これは神道に宗教としての力がないことを示している。

神道での刑罰は手や足の爪を剥がすなど、吉と凶の二つの刑罰を科したが、過酷だからとして後には一つだけを科した。

素戔嗚命に対する刑罰が、神道刑罰の基本的枠組となった。また貴人を死刑にすることはなかった。

 

 神道では探湯(くりたち)という極刑が行われ、韓国での評判も良くなかった。嘘をついていないかどうかを調べるために、熱湯の中の小石を拾わせるというものだ。また、黥(ケイ、入れ墨)の刑も行われた。

 また神道では「お」祓いが頻繁に行われ、旅行にも支障を来たした。お祓いが煩わしく道中で死んだ兄弟の面倒もみなくなったという。神道も文化の進展に伴ってその弊害を取りやめたが、それに対して仏教徒は、道路や橋の修理をして人々の役に立った。62--64

 

感想 2021104()

 

 筆者は漢籍に現れる古い時代の神道を基準にして現在の神道を批判するのだが、それは正当な基準と言えるだろうか。また著者は時代の進展も判断基準としているようだが、その中身が明確に示されているとは言えない。従って、神道がかつて地祇を祀ったことがないからといって、地祇を祀ってはいけないという論理はおかしいのではないか。神道も歴史と共に進展して結構ではないか。同様に、神道がかつては天を祭っただけだからとして、天照大神を祭るのはおかしいという論理もまたおかしいのではないか。

 確かに筆者の言われるように、神道は救済宗教ではないとしても、それでは神道が救済宗教を真似て変化進展することを否定しなくてもいいのではないか。筆者は神道がそういう進展をせず、ただお祓いのままでいることが、神道と仏教が併存できて結構だというのだが。

 

要旨

 

 

 

考証

 

41 久米邦武君の史学における古人未発の意見は実に多い。私は此の篇において最も敬服している。故に既に史学会雑誌に掲載したものだが、久米君に請いこれを掲載し、読者に一読してもらいたい。

 私は此の篇を読んだが、ひそかに日本の現今の神道の熱心家が決して黙ってはいないだろうと思う。もし彼らが黙っていれば、私は彼らが全く閉口したものとみなさないわけにいかない。

鼎軒(田口卯吉1855--1905の号)

 

 

 

「神道は祭天の古俗」文科大学教授 久米邦武

 

 

 日本は敬神・崇仏の国である。国史はその中で発達したのに、これまでの歴史家はその沿革を考えなかった。そのため事の淵底を究めることができなかった。ここにその概略を論ずる。

 

 敬神は日本固有の風俗である。そのうちに仏教を外国から伝えられ、敬神と合わせて政道の基本となった。それは聖徳太子の憲法に始り、大化の令で定まった。その大旨は、格*の孝謙帝の詔に、

 

*格(かく、きゃく) 奈良・平安時代、律令を執行するため、時に応じて発せられた修正・補足の命令。律・令・格・式の一つ。詔勅。太政官符の形式で発令された。

 

「災いを攘(はら)い福を招くには、必ず幽冥(冥土)に憑(よ)り、神を敬い仏を尊び、清浄を先ず為す。」

 

また桓武帝の詔(延暦25年正月)に、

 

「災いを攘い福を殖やすには仏教が尤も勝る。善を誘い生を利するにはこの道の如きものなし。」

 

ここに神仏の違いを見ることができる。蓋し、神道は宗教ではない。だから神道は善を誘い生を利することはない。神道はただ天を祭り、災いを攘い福を招くためにお祓いを行うだけであるから、仏教とともに並行して行われても少しも道理に背くことはない。だから敬神・崇仏を王政の基本として今日に至っている習俗は、臣民に結びつき、堅固な国体となっている。

 しかし神に関して迷溺した謬説が多いので、神道・仏教・儒学に関する偏信的意念を去り、公正に考えることが史学の責任である。だからここに現在の国民の敬神の習慣から遡って東洋祭天の古俗を研究し、朝廷の大典である新嘗祭、神嘗祭、大嘗祭の起こりや伊勢内外宮や賢所*がみな祭天の宮であること、各神社で鏡玉剣を神体に象(かたど)る由来、神道には地祇・人鬼(じんき、死人の魂)を崇拝する習俗はなく、死穢・諸穢を忌み嫌い潔癖を生じ、祓除を科する法から弊風を生じ、利害がこもごもあり、人智が発達するに従い、儒学・仏教・陰陽道などが伝わって、そ(神道)の欠乏を補完・矯正する必要などに論究し、千余百年来の敬神・崇仏の国となり、今に至るまで敬神の道が崇仏と共に行われても隆替なきこと(変化のないこと)の考えを述べよう。

 

*賢所 皇居の中で天照大神を御霊代(みたましろ)として、模造の神鏡をまつってあるところ。内侍所。

 

 

国民敬神の結習(習慣化)

 

42 外面から見れば日本は崇仏国と化したようだが、そうではない。今でも存続する都鄙人民の結習を察するべきだ。例えば、東京の貴賤は某区に山王祭を行い、某区では神田祭を行い、某は天神、某は稲荷と、おのおの氏神に祭礼を行い、これを毎年の大典としている。某区は今の行政区ではなく、昔農村だった時の村区に因る。今は都会となり田地がないから祭礼の本旨を証することができないが、どこの田舎の村々にも皆氏神があり、祭礼を行う。このことは全国に通じた風俗である。その氏神の区域は今の村区と異なるところが多く、祭壇の習例も各地で少し異なるが、たいていは新穀が収穫できた時に濁酒を醸造し、飯を蒸し、神酒供饌とし、その地の古俗によって祭る。だから供日(くにち)と言う。濁酒・蒸飯は古時の生活の様であり、祭壇は報本(祖先の恩に報いる)の意を表し、神に福を禱(いの)る。これを衆民が毎年天に仕える務めとし、水旱風雨疾病などの折には攘災の禱祭(とうさい)を行った。またその日々勤めることを見てみよ。早朝に旅行すれば、野村も裏店(うらだな)も男女となく、朝起きれば、河流井水で浣嗽(カンソウ、身体を洗って口をすすぐ)し、それが終われば祷拝を行い、柏手の声が聞こえぬ里はない。これは神代からの景象である。さらに細かくその祷拝の様子を見れば、合掌する者もあり、南無の声が聞こえる場合もある。或は上下四方を拝し、或は出口の方に向かう。立つ者もあり、跪く者もある。これは崇仏にも似ているし、或は回教徒の拝日の民かとも誤られるが、祷拝を教えるものの流儀であったことによる。(仏教の正式を教えられた者は仏壇に向かう)ここに却って真率(真摯)の誠を表する。

43 これは実は皆天に祷(いの)り福を求めているのであり、往古の祓禊(フッケイ。禊は、みそぎ)祭天の遺俗である。日本人の日本人たる真面目である。だから国俗一般に清潔を喜び、穢れを嫌うことが甚だしい。この点で支那・朝鮮の諸国とは大に習俗を異にする。泰西人(ヨーロッパ人)も日本のことを東洋潔癖の国と言った。その潔癖は敬神から来ているから、彼(ヨーロッパ人)の衛生の清潔とは異なるが、ともかく美風である。支那・朝鮮も最初は祓除祭天の俗から発達したが、早く時勢の推遷につれ、本を失い、よって国体も変化し、動揺不定の国域となった。しかし、日本だけが建国の初めに天神の裔を日嗣*の君として仰いだ時から、固く古俗を失わず、その下に国をなしたので、今でも天子は常日(平生)に高御座(たかみくら)の礼拝を怠り給わず。新穀が登れば、神嘗祭や新嘗祭が行われ、毎年大祭日として全国にこれを祝い、御一代に一度の大嘗会を行われる。これは神道の最も重要で最古の典である。雲上の至尊から野村裏店の愚民までが毎日毎年天に仕え、本を報いる勤めは、一規であり、勧めなくても存し、命令しなくても行われ、君臣上下が一体となって結合した。このことは国体の堅固であるところであり、思えば涙の出る程である。衆人が皆称する「万代一系の皇統を奉じ、万国に卓越した国なり」とは、このような美俗が全国に感染し、廃らないからではないか。実に国史において緊要な節々である。

 

*日嗣 皇位継承。皇位。

 

 

東洋祭天の起こり

 

 万国の発達(の過程)を概見してみると、祭天は人類が地上に生まれたころの単純な思想から起こったものだろう。蓋し人類の初めは柳宗元(773—819、唐代の文人)が言うように、草木が榛々(シンシン)とし、鹿やイノシシがいる山野に人々が群居し、天然の産物を取って生活すれば、その恩恵はありがたく、寒暑風雨の変化を怖れ、必ずかの蒼々たる天にこの世を主宰する方がいらっしゃって我々に禍福を降ろし給うのだろうと信じた観念の中から神というものを想像し始めてそれを崇拝し、攘災招福を祷(いの)り、年々無事に需要のものを収穫すれば、報本の祭りを行い初めたのであろう。どの国でも神というものを推し究めれば天であり、天神である

44 日本でかみという語は、神、上、頭、髪に通用する。これは皆上に戴くものである。その神を指定して、日本では天御中主といい、支那では皇天上帝、インドでは天堂とか真如といい、欧米ではゴッドというが、みな同義であり、祭天報本の風俗が異なるだけだ。

 このように神は上古人の想像から生まれたものであるから、人智がやや発達して、風俗が厖雑(ボウザツ)になるに従って、その種類は多くなり、遂には際限もなくなり、牛鬼蛇神やミミズ(這う虫)まで敬拝するようになった国もある。これは次第に枝葉末節に渡ることだが、推し究めれば、天神から地祇を出し、神祇から人鬼を出し、遂に物の怪を信ずるようになっただけだ。これも人智が発達した初期において多少(の違いはあるが)一度は免れないことだ。

インドの人智は早くから発達し、六仏が出て三生因果の説を始め、二千五百年前に釈迦が出て、その意を推しはかって民衆に説教し、信徒から天に代わる世の救主として仰がれた。釈迦とは能仁の意味であり、徳に満ち、道が備わり、万物を済度*するという意味だそうだ。これは宗教の起こりである。その後六百余年を経て、猶太(ユダヤ)にキリストが出て、天降の救主と仰がれた。思うにモーゼもキリストも、インドの釈迦が西に流伝して別の宗教となったのだろう。釈教が東に流伝したのも、キリストが生まれた前後であった。

 

*済度 仏語。衆生を生死の苦海から救い、悟りの境地即ち彼岸に導くこと。

 

日本の神道は元来それ以前に早くからあり、救主もなく、三生因果の教えもなかった。ただ祭天報本から起こってとなり、天神の子を国帝に奉じ、中臣忌部等の貴族がこれを助け、太占仰神などの法を伝え、神慮を受けて事を裁制し、祭政一致の治をなした。これは国体が定まり皇統が因って起こった起源である。その時までは単純な祭天であり、地祇というものもなかった。書紀推古帝の時に、

 

「新羅・任那(みまな)の二国王が使いを遣り、表し奉りて曰く。天上神あり、地に天皇あり。この二神を除けば、何をまた恐れるものがあろうか。」

 

とある。これから我が国体や神道を知ることができる。

 

 釈迦も孔子もキリストも、祭天の俗から生まれたのだから、日本の国体に反しないし、神道にも反しない。ここに東洋で一般に行われていた上古の祭天の俗について略述しよう。

 

 

45 支那の人智は最も早くから発達した。易伝(孔子の著)に、

 

「庖犠氏は仰ぎを天に見る。俯してを地に察する。鳥獣の文を、地(之)が宜(よろしい)と(與)見る。始めて八卦(け)を画す。」

 

漢文法 

 

助詞「于」 時間・場所・対象・目的(に)、比較(よりも)、語調(ここに)

助詞「與」 「ともに、と」(and)、文末で疑問・反語・詠嘆(か)、「の為に、に代わって」、比較(よりは)

 

これは彼の国(中国)の哲理の始まりであり、今から五千年前のことである。思うにその時日本も韓土も既(巳)に人民は群居し、また祭天の俗を行っていたことだろう。その後五六百年を経た時、彼(中国)では少昊(コウ)氏の衰世となり、祭天の俗が紊乱した。呂刑に、

 

「民が興り胥(みな)漸くすると、泯々(ビンビン、亡び)棼々(フンフン、乱れ)信に中なし。以て詛(のろう)盟を覆し(盟約を守らず)、威圧して庶戮を虐げ(惨酷の刑を行い)、方(正)に上帝に無辜を告げても、上帝は民を監督する際に香り(品格)がない。徳刑の発聞は、惟腥(ただなまぐさい)。皇帝は庶戮の不辜を哀矜(キョウ)し(哀れみ)、虐に報い、威を以て(レイ)に命じるが、地天の通が途絶え、降格なし。云々」(重や黎は以下にあるように国名)

 

国語に楚の観射父がこれを解釈し、(原文が長いため、漢書の郊祀志に引用されたものを挙げる)

 

「これは少昊氏の衰退である。九(国の名)では徳が乱れ、民神は雑糅(ジュウ)し(混ざる)、方物(識別)することができない。家は巫史(フシ、神に仕えて祭事や神事を司る者。かんなぎ。はふり。)をなし、蒸亨(コウ、煮る)は度がない(何度も行われる)。齊(正しい)盟を冒瀆し、神は蠲(潔)くない。嘉生は降らず、禍災が薦臻し(至り)、顓頊(センギョク、中国の伝説上の帝王の名。)はこれを受け、南正に命じて天を司り、以て天に属し(至り)、火正に命じて、地を司り、以て地に属す(至る)。云々。これを地天の通が絶えるという。」

 

これは厥の初め、純粋に天を畏敬した人民も、経済に慣れるに従って次第に神を侮(あなど)る有様を示しており、それまでは惟一(唯一)の天神を崇拝していたことが証明される。ところがやがては天を郊し(祀り)、は地を祀ると言いなし、天神地祇を郊祀し、皇天后土と言って、天を父とし地を母とすることが始まった。三四百年を経て、虞書に、

 

「上帝に類して六宗を禋(まつる)。望んで山川を秩序立て、群神を徧(あまねく)する。」(舜典)

 

このように既に地を祀っている。だから日月星辰風伯(風の神)雨師(雨の神)も祀ることになった。山川を祀るから丘陵墳衍(エン)も祀ることになり、多神崇拝の俗(習慣)となった。だから人鬼の崇拝もまた起こった。虞書に、「帰(ゆ)きて芸に格す(至る)」と。また夏書に「命を用いてで賞し、命を用いずで戮(リク、殺)す。」(甘誓)とは帝宮の中に明堂を建て、国祖を天に配して祀ることである。だから祖と言う。これは実は祭天の堂である。は地祇である。漢郊祀志に、

 

共工氏が九州(日本ではない)を覇した時、その子が勾龍に言った。よく水土を平らげ、死んでをなし、祀られる。烈山氏あり。天下の王となる。その子、に曰く、よく百穀を殖し、死んで(しょく)となり祠られる。だから郊祀社稷は従来所(同様に)高尚である、云々。を征伐し、(の)を遷(うつ)そうとしたができなかったので夏社を作った。(書名)烈山子のを遷し、周のを以て代え、それを稷として祀る」(意味不明)

 

46 従って後人に社稷が人鬼を祭るのかという疑問が起こった。孝経援神契に「とは土地の主なり。とは五穀の長なり」とある。後漢の大儒鄭玄が言うに「古者官大功あり。即ち食をその神に配置する。故に勾龍は食をに配置し、棄(てるの)は(五穀の神、その祠)に配置する。」と説いた。これがおよその一定の説となった。だからは祭天の堂であり、は土地の主であるが、頓(とみ、急)に習例が変わり、宗廟社稷といい、鬼神という語も起こり、宗廟には国帝の祖先を祭り、禘祫(テイコウ)という重要な祭典があった。これは人鬼である。社稷では春秋二度の祭りを行い、郡県にも社稷を置く。村々に春秋の社祭をする。日本の供日(くにち)のようである。即ち社日はその日である。唐詩に「桑柘(つげ)の影が斜めになり、秋のに散る。家々得粋人を扶(たす)けて帰る」とある。その風俗を想像して欲しい。その主とする神が(日本と)異なる。このように日本と支那の俗(風習)は似ているが、実は異なっている。神祇のことは殊に根元を澄まし、紛れぬように考える必要がある。

 

感想 意味不明の箇所が多いのだが、要は、人類未開の時代はどこでも天を祭ることから始め、次第に地祇・人鬼など祀る対象が増えたことを漢籍に基づいて立証したものと思われる。

 

 

新嘗祭神嘗祭大嘗祭

 

 日本の上古は彼(中国)禹の冀(き)州に島夷皮服と、楊州に島夷卉(き)服と見える。冀州の島夷は韓人の皮を以て交通したが、楊州の島夷は倭人の麻殻(から)の木棉(ゆふ)を以て交通した。このように四千年前から三土(中韓日)が互いに交通したので、風俗も交互に輸入したことだろう。しかしこの頃の倭韓はまだ神祇を分つことなく、純に天を祭っていた。

また千年を経て初に至り、黒龍江の山野に住む最も獷獰(こうどう、荒々しく質が悪い)で文盲と言われた粛慎でさえ、石砮(ど、やじり)や楛矢(楛〈こ〉は矢を作るのに用いた赤い木)を以て交通したほどだったので、そのころの倭韓の発達は彼(中国)の少昊氏の衰世のような時代を経過していたことだろう。

 

天皇継統の世数を人世の通率で推算すれば、天祖の降跡は二千四五百年前と思われる。これは周の中葉である。この時既に天皃屋命(あまつこやねのみこと)(神産靈=霊=の裔)と太玉命(高産霊の裔)の二氏が中臣部(なかとみぶ)と忌部を分掌し、中臣は太占(ふとたま)・秡除(はつじょ)の法を伝えて神事に仕え、忌部齋物(食物)を調べて民を率いたことは、彼(中国)の(既述45)が天地を分掌したこととよく似ている。

その祭天の大典は新嘗祭である。新嘗祭は天照大神を祭るものではなく、天を祭る古典である

47 それは神代巻に、

 

「素戔嗚尊は天照大神を新嘗の時に見て(会って)、則ち、陰で〇(尸、しかばねに矢)を新宮で放ち、また天照大神方が神衣(かむみそ)を織り、齋服殿に居るのを見て、則ち、天の斑(まだらの)駒を剥ぎ、殿の甍(いらか)を穿(うが)ち、投げ納めた。云々。」

 

これは(天照)大神の窟戸籠りの原因であり、天照大神が親(みずか)ら新嘗祭や神衣祭を行わせられたことはこれから明らかだろう。また觸(しょく)穢不浄を忌む風俗も、みなこの時代以前から早くあったことである。

 

かつ、新嘗祭は支那にもあり、爾雅(釈天)に、

 

「春祭をと曰い、夏祭を礿(やく)と曰い、秋祭をと曰い、冬祭をと曰う。」(王制もほぼ同じである。周礼は異なるので取らない)

 

また董仲舒(前漢の儒学者)は、

 

とは正月に初めて韮(にら)を食べることであり、礿(やく)とは四月に麥(むぎ)を食べることであり、は七月に黍(きび)や稷(たかきび)を嘗(な)めることであり、は十月に初稲を進めることである。」

 

これについて郭璞(はく)はは新穀を嘗めることだとし、は品物を進めることだと注をつけている。そうだとすれば嘗・蒸は同じく新穀を進める祭りのことであり、我が日本の神嘗・新嘗両祭と似ている。我が九月に神嘗、十一月に新嘗と分けるのは何代の(天皇の)比(ころ)から慣習化したのだろうか。日本書紀の天武五年九月に、「神官が奏上して新嘗を為し、国郡を卜すと言う」、またその十月に「幣帛(ハク、きぬ。幣帛とは供物)を相新嘗諸神祇に発する」とあるのは、神嘗例幣(幣帛)のことであり、「十一月乙丑(うし)、新嘗事を以て、朔(陰暦で月の第一日)を告げず」とある。これを歴史上に見えた始めとする。

 

 新嘗祭は東洋の古俗であり、韓土でも皆同じである。後漢書魏志も同じ)に、高句麗は「十月に天を祭る。国中の大勢が集まる。これを名づけて東盟という。」とある。「東盟」とは「東明」であり、豊明節会*のことだろう。

 

*豊明節会(とよあかりのせちえ) 豊明は宴会の意味で、豊明節会とは大嘗祭や新嘗祭の後に行われる饗宴をいう。コトバンク

 

〇(氵に歳)には「常に十月に天を祭る。酒を飲み、歌い舞う。これを名づけて舞王という。」とあり、馬韓(三世紀の朝鮮半島中西部の種族)は「常に五月田竟(魏志は下種訖(キツ、終える)に作る)が鬼神を祭る。昼夜群衆が歌い舞う。輙(チョウ、すなわち)数十人相従い、地を踏んで、節(リズム)をなす。十月の農功も畢(みな)またこのように行われる。」とあるように、夏冬二度の大祭を行い、皆、節会を行う。その餘(余、他)は「臘(ロウ)月(陰暦12)に天を祭る。大会が連日行われ、飲食歌舞する。これを名づけて迎鼓という。」とあり、この国だけは十二月であるが、その趣は同じである。

 

 我が国の嘗祭も決まって二度行われるのではない。式に、九月の嘗祭は伊勢神宮の条に記されている。十月の新嘗は四時祭の条に記されている。神祇令の義解に「神嘗祭、所謂神衣の祭日に、便即これを祭る」とあり、伊勢神宮でも挙行される。天皇は神祇官に行幸され、奉幣使を発される(までである)。(前の天武紀の文を見よ)江家次第に「天皇宣う。常も奉る。長月(九月)の神嘗の御幣ぞ。汝中臣よく申して奉れ。中臣は微音に唯を称え(ハイと言って)退く」とある。(意味不明)

48 これを例幣という。十一月の新嘗こそ、令に下卯大嘗祭とあり、天皇や神祇官(正式は中和院)が親祭する。職員令義解に「言う、新穀を嘗めるを以て神祇を祭る。朝は諸神の相嘗祭、夕は新穀を至尊に供す」とあり、祭りが畢(おわ)って豊明節会が行われる。の宇多天皇の詔に(寛平五年三月)「二月新年、六月十二月月次、十一月新嘗祭など、これらは国家の大事である。〇(歳でなく、奯の大のないもの。一年中)災が起きず、時令が度に順ずるを欲す。この祭りに預かる神は、京畿九国大小通計五百五十八社」とあるから、その大要を知ることができる。

 

古くは新嘗祭を大嘗とも言ったが、に「凡そ天皇が即位し、惣(全)て天神地祇を祭る」また「凡そ大嘗は毎世一年、国司行事」とある。天子一代一度の大祭と混同するので、毎年の嘗を新嘗というようになった。大嘗会は神祇官に(が)悠紀(ゆき)・主基(すも)の両神殿を新造し、天子は天の羽衣を召して親祭する。それについては二条良基公の仮名文の文和大嘗会記がある。(そのことに)就(つい)てその概略を見ることができる。

今上(の場合)は明治411月に挙行された。これは世に記憶している人が多いだろう。(その日は)私が岩倉全権大使に随って米国に渡航する船中にいたときであり、その日、米国公使デロンク氏が天皇陛下一代一度の大祭日だとして、祝辞を述べ、祝杯を挙げた。このように新嘗大嘗祭は(伊勢)大神宮も親察し給える古典であり、皇統と共に継続し、神道で最重要の祭りであるので、臣民は皆知らないではすまされない。

 

感想 古来日中韓の三国に交流があり、新嘗祭は中国にも韓国にもあった。新嘗祭は天照大神を祭るものではなく、天を祭る古典である。

 

 

(伊勢)太神宮も天を祭る

 

 伊勢大神宮が三神器のうちの鏡と劔(後に劔は尾張の熱田大神宮)を齋(いつき)奉るということは世の人があまねく知るところであろう。この鏡は古事記に、大神宮の詔を記して、「専ら我御魂とあるがの誤植)となし、我が前で拝むが如く伊都岐(いつき=齋)奉る(れ)」とあるので、俗に(天照)大神を祀るものと思うのも無理のないことだが、これも実は天を祭っているのである。我御の字に注意して欲しい。

ここに適例がある。大三輪社について、書紀一書に、「大己貴(おおなむち)神曰く、『唯然り、迺*(はじ)めて知る、汝、これ(大三輪社)は私の幸魂奇魂である。今どこに住みたいか。』の問いに(某が)答えて曰く、『日本国の三諸山(みむろやま)に住もうと思う。』故に即ち(大己貴神は)彼の所に栄宮し、就いて(某を)居住させた。これが大三輪神の神である。」と見える。大己貴神が自ら幸魂奇魂を祀った所である。(意味不明)

 

*「迺」の読みは、「はじめて、すなわち、なんじ、の」と様々である。

 

 とは天の霊顕を言う。そうでなければ己が己の魂を崇拝すると言うのはおかしい。大神が「我が御」と詔されることもこれと同じである。

49 また垂仁紀に「故に大神の教えに従い、その祠を伊勢の国に建て、因って齋宮を五十鈴川上に興す。これを磯宮と言う。乃ち天照大神が初めて天から降る所である。」とあるのを熟視して欲しい。「初めて天から降る」という所とは、天孫瓊瓊杵尊が西降の時、猿田彦大神が「我即ち応(正)に伊勢の狭長田五十鈴川に至ろうとする」(紀一書)と言ったことと考え合わせれば、その時天照大神は高天原(大倭)から伊勢に遷都し、東国を経営し給えるものと思われる。磯宮はその宮の址であるから、大神が存在した時も、必ず新嘗殿齋服殿を造って天を祭りその大殿で政事を裁せられたことは、崇神以前のと同様であっただろう。外宮はその離宮である。

 

古事記伝に、

 

外宮(とつみや)は、師の祝詞考に、万葉集の中の登都美夜(とつみや)の例を引いて、

 

『それは常の大宮の外に建て置かれ、行幸のある宮を言うから、則ち天皇の宮であり、別に主があるわけではない。そうすればこの伊勢の外宮五十鈴宮の外宮(とつみや)であり、天照大御神の宮である』

 

と云ったのは、昔から比なき考えであり、信に然ることである。だから元来あった天照大御神の外宮に豊受大神をば鎮祭したるなり。」

 

とあるのは、本居氏の諸説の中でも最も価値のある金言である。本居氏は続けて

 

「故に外宮は豊受姫を祀るのではない。磯宮の外宮である。また磯宮は天照大神を祀るのではなく、その大宮の跡に神鏡を齋奉ったのである。大三輪社では今も宝殿を造らず、ただ拝殿だけがある。」

 

と。これは三諸山を幸魂奇魂の鎮まる所として崇拝し、それとは別に神体を齋(いつ)かされたからなのだろう。

 

伊勢・三輪両神宮の起こりは以上の通りである。皆天を祭るのである。しかし伊勢は天照大神の御魂であり、三輪大国魂の御魂と言えば、直にその人を祭るように聞こえる。だから早い時代から伊勢を大神、三輪を地祇と分け、これを推し究めれば、また人鬼崇拝の堂のようにも聞こえる。だから後世に伊勢を大廟などと誤称するものもある。そのことについては後で弁明する。

 

また天照大神の徳を日に比べて天照と言い、大日孁貴(おおひるめむち)と申し奉るから、五瀬命は我が日神の子孫であり、日に向かって虜を征伐したが、聖武帝は、これは天道に逆らうことだと言い給い、東大寺に大仏を鋳造した。

50 またこれは聖武帝が、毘廬遮那(ひろしゃな)大日如来だから、(天照)大神をそ(大日如来)の権化だと信じ給う故(理由)である。(意味不明)天に在って最も人に効用の顕著なもので日輪に過ぎるものはないから、それに因って大神の徳を称賛したのであり、大神は日輪のことではない。また日を天と思ったのでもない大神が天の代表者だと信じ、日に比べたのである。大神宮は、その詔に「我が前で拝むようにせよ」との旨に従って、その御魂を拝む所である。これは漢土の宗廟国祖に配亨(はいきょう、他の神を合わせ祀る)することとは大いに異なる。(意味不明)

 

感想 伊勢大神宮は天照大神を祀った神宮ではない。天照大神が天を祭り、政治を行ったところである。同様に三輪神宮も大国魂(大国主命か。大己貴〈おおなむち〉神ともいうのか)を祀った神宮ではない。

 

 

賢所及び三種神器

 

 賢所*は伊勢神宮の宝鏡の写しを斎(いつき)まつる。内侍所もこれ(賢所)である。昔三神器を大殿*に奉し、天皇はそれと同牀(床、寝台)して政事を行っていたが、崇神帝の時に、鏡と劔の写しを造り、真器を大和の笠縫邑に祀った。これが伊勢神宮の起こりである。その時から写しの鏡や劔が大殿に置かれ、これが賢所の起こりである。

 

*賢所 皇居の中の、天照大神の御霊代(みたましろ、御霊〈みたま〉の代わり)として(この説明は本文の論旨と異なる)、模造の神鏡を祀ってあるところ。内侍所。

*大殿(おおとの) 宮殿の美称。特に正殿、寝殿をさす。

 

 古語拾遺(神武帝の条)に「皇天二祖の詔に従い、神籬(り、まがき、垣根)を建(樹)て、所謂(いわゆる)高皇産・神皇産云々」とあるが、これは格別である。それは八神殿と称し、後に神祇官に建てられ、南北朝のころまで存在した。世にはこのような故事を知らない人がいて、近年春秋の二季に皇祭が行われることから、賢所が歴代の皇を祭る所であり、俗の位牌所のようなものと誤解して拝する人もいるとのことだ。従ってここに簡単に述べておく。

 

 皇宮の中に祭天の祠堂を建てることは、高麗の古代にも似たことがある。魏志に「高句麗好(よ)く宮室を治め、居るところの左右に大屋を建て、鬼を祭る」と見える。前にも言ったが、唐虞(ぐ)*の文祖も後世に宗に変わり、人鬼崇拝の霊屋となった。高麗も数回の革命の後に、古式が廃れたのだろう。ただ日本だけが一系の皇統を奉して古式を継続することは、誠に目出度い国だというべきである。

 

*唐虞(とうぐ) 唐は陶唐氏の略で、堯。虞は有虞氏の略で舜のこと。

 

 天照大神が鏡劔玉を天孫瓊瓊杵尊に授け給ったが、その時から三種神器と称し、天皇の御璽*として伝授された。その鏡は八咫鏡(やたのかがみ)であり、玉は八尺勾璁(やさかまかたま)の御統(みすまる)であり、並びに(並んで)天石窟の前に賢木(さかき)に掛けて飾ったものである。

51 は素戔嗚命が出霊の簸(ひの)川上で、八岐(やまた)大蛇(おろち)を征服して献上した天叢雲劔であり、後に草薙(なぎ)劔と称し、尾張の熱田神宮にあることは世に知られているが、この三器はもともと何の用に用いられたものなのか、これまで説く人がいなかった。

 

*璽 天子のしるしとしての三種の神器。天皇の印鑑。玉に刻んだ印形(いんぎょう)。

 

按ずるに、これは祭天の神座を飾るものなのだろう紀景行帝の条に、豊国(今の豊前)の神夏磯城(かみなつしき)は「磯津(しず)山の賢木を抜き、上枝に八握の劔に掛け、中枝に八咫鏡を掛け、下枝に八尺瓊(やさかたま)を掛け、亦素幡(ハン、のぼり)を船舳(とも、へさき)に立て、参り向かう。」と見え、仲哀帝の条に、筑紫の岡の県主の迎え船には「上枝に白銅鏡を掛け、中枝に十握劔を掛け、下枝に八咫瓊(やたたま)を掛け」とあり、伊覩(ド)県主も「百枝の賢木を抜き取り、船の舳艫(とも)に立て、上枝に八尺瓊(やさかたま)を掛け、中枝に白銅鏡を掛け、下枝に十握劔を掛け、参り迎える。(中略)天皇は八尺瓊の勾(まが)の如く、曲妙を以て宇(天地)を御す。且つ、白銅鏡の如く分ち、明らかに山川海を看行する。乃ち是れ、十握劔を提げ、天下を平らぐ。」とあり、神皇正統記が、三神器を智・仁・勇に喩えたのはこの言に基づく。故に三器は天神の霊徳を象(かたど)ったものであり、普通は鏡を神体として用いる。日本武尊が日高見国へ討ち入った船には「大鏡が王の船に掛かり」と、鏡だけである。今も神殿に鏡を安置するのはこの縁である。

また玉も神体として用いる。筑前風土記に「宗像大神が天から降り、峙門山にいるとき、青蕤(ズイ、垂れ下がる)玉を奥(おき)津の表に置き、八尺紫蕤玉を中(なかつ)の表に置き、八咫鏡を邊(へつ)の表に置く。この三表を神体の形とし、三宮を(に)納め置いた。」とあることから知ることができる。(宗像三社が三女命の玉鏡を納れて天を祭った社であることも明らかである。)

劔は戦時の式であり、所謂(いわゆる)荒魂(あらみたま)を表す。故に天石窟前の賢木には劔を掛けず、後世も劔を神体として用いることは普通はない。彼是を考え合わせれば、三器で神座を飾ることは天の安河の会議に始ったことではなく、はるか以前からの祭天の古俗であったはずだ。

 

 韓土にも似た風俗がある。魏志に、「馬韓は鬼神を信じ、国邑各一人を立て、天神を祭り主(とうと)ぶ。これ天君と名づける。また諸国各別邑があり、これを名づけて蘇塗とする。大本(木)を立て、鈴鼓を懸け、鬼神に事(つか)える。諸々の亡霊が逃げ、その中に至るが、皆これから還らない。それが蘇塗を立てる意味である。これは浮屠に似ている。」とある。日本では鏡や玉を懸け、彼(韓国)は鈴鼓を懸ける。その物は異なるが、大方は同じだ。

 

 国邑に天神の社がある。皆これを神座とし、社の境内地を定め、その境内では人を殺し、人を捕えることができないという法である。わが国の社寺の境内は幕府の時まで守護が入部することを禁じていた。これもその起こりの古いことを知るべきだ。

 

感想・まとめ 鏡、玉、剣の三種神器は天皇のしるし(璽)とされているが、本来は天神を祭るために用いられた飾りだったようだ。韓国でも同じ目的で飾りに鈴鼓を用いた。しかし中国や韓国では時代の変遷とともに、それは人鬼を祭るための飾りとされるようになった。

 

 

神道に地祇なし(難解)

 

52 神道に地祇(国土の神)がないというと、世の人の耳を驚かすだろうが、私は神道には地祇がないと信じている。支那の地祇という字は、后土(土地の神)を祀り、社稷(土地の神と五穀の神)を祀り、山川を祭ることなどを言うが、日本の古代にはこのような例がない。

ただし、諾冉(ぜん)二尊(伊弉尊と伊弉(冊、那美)尊)が八大洲国(おおやしまのくに)や山川・草木を生むことは書紀の正文に記され、山神大山津見神海神大綿津見神(また少童命)、土神埴安(はにやす)、野神野椎(のつち)、木神久々能智などと書紀の一書や古事記に載っている。これは山、川、野などを主(尊)ぶものであり、大山津見の子孫は吾田国(今の薩摩・日向・大隅)の君である。海神は古事記に「阿曇(あつみ)連等者(は)、其綿津見神之(の)子であり、宇都志日金拆(ひがねさく)命之子孫也」とある。また姓氏録にも見える。伊豆・伊予の三島社や隠岐で大山祇神を祀るのは、吾田君の兼領地であり、筑前志賀島の海神社は海神国なるべく、対馬、壱岐、隠岐、但馬、播磨などの海神社がその兼領地であるはずであり、そのことについては既に史学会雑誌で私は述べた。(意味不明)

そもそも天照大神や月讀(読)命は、日月を祭るのではない津守氏が住江津に祠る住吉社は、津神を祭るのではない。山神社、海神社もまたそうだ。また後世の地神祭北辰祭は、皆陰陽道から生まれたものであり、これをもって日本では日月星辰*を祭り、山海河津を祠ると思うのは、全く歴史を知らない者の妄説であり、述べるに値しない。*辰は日月星の総称。

ここで話さないわけにいかないことを述べる。神武帝以来の歴史で明らかに天神地祇を記し、後に神祇官を置き、神祇令を制し、続記の元明帝や聖武帝の宣命文にも、「天(に)坐(ます)神、地坐祇」とある。地祇とはどんな神を言うのかと考えれば、神祇令に「凡そ天神地祇は神祇官が皆常典によってこれを祭る」とある。また義解では「謂う、天神とは伊勢・山城の、住吉・出雲国造の齋神等類、これである」という。出雲国造の齋神とは、出雲の熊野社であり、出雲大汝神とは杵築*の大社である。熊野社は素戔嗚尊を祭るから天神とし、大社は大汝神を祀るから地祇としたのではないか。

 

*杵築(きつき)はWikiでは大分県の市とあるが、中村孝也『新体国史』上巻004では、「出雲国簸(ハ、ひ)川郡杵築町。ここに出雲大社がある。官幣大社」とある。

 

53 その区別はあまり明白でないが、支那の皇天后土と異なることは明らかだ。大神おほみ〇おおかみの間違いか、おおみかみなら大御神のはずだが)と訓する。大三輪社のことは前条で挙げたように、大汝命の幸魂奇魂を祀る社であるから、天神と言うのだろう。大倭葛木鴨は、書紀(一書)に「大己貴(なむち)神の子。即ち甘茂君」とあり、書紀に「大国主神胸形奥津宮に坐し、神多紀理毘賣(売、たきりひめ)を娶る。子阿遅鉏(すき)高日子根(ちすきたかひこね)神を生み、云々。今は迦毛(かも)大神というものである」とあり、姓氏録*に「大国主神の後に、大田田禰古(たたねこ)命の孫の大賀茂都美命賀茂神社を斎(いつき)奉る」とあるから、これは、景行天皇14BC--130や成務天皇84--190の朝(御代)に建てられた社であり、大三輪社と同体の神社と思われる。地祇とはただ大国主命だけを言うようだ

 

*大国主命は素戔嗚命の子ども。(中村孝也『新体国史』上巻003

 

姓氏録の神別に、天神・天孫・地祇を分ち、地祇には、大国主、胸形三神、海神、天の神、穂分、椎根津彦、井光、石押別などの後(跡)を彙集した。海神住吉神と共に諾尊(伊弉諾尊が)秡除(ふつじょ、祓い除く)の(した)時に現生し、筑前那珂郡並にその社がある。宗像社は天照大神の御女(妻)であるが、住吉と素戔嗚とともに天神に列し、海神と宗形とは地祇に列する。何ともその理が聞こえぬことである。

 

*新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は平安時代初期の815年(弘仁6年)に嵯峨天皇の命で編纂された古代氏族名鑑。

 

 地祇の起こりを繹(たず)ねてみると、書紀に、神武帝の宇陀から磯城磐余への打ち入りの前で、「天神はこれに訓して曰く、宜しく天香具山の社中の土を取り、以て天平瓮(もたい、甕かめ)を八十枚造り、並びに厳瓮を造り、敬して天神地祇を祭るべし」とあるが、これが始見(初め)である。その時、弟猾が奏するには「今当(まさ)に天香具山の埴(はに、粘土)を取り、以て天平瓮を造り、天社・国社の神を祭らんとする」に作(よ)れば、天神地祇天社国社とは互文であり、その実は同じである。時に椎根津彦・井光・石押別は皆軍に従ったので、所謂地祇大三輪社があるのみである。(神武天皇の)皇師に抗した登美彦(即長髄彦、中村孝也『新体国史』上巻008)は大三輪の一族であるから、この地祇が大三輪社を指さないことは明らかである。(賊軍だからか。)且つ大己貴命大三輪社を建てたのは瓊瓊杵尊が西降し、天照大神の伊勢降臨の後だろう。だとすれば日向の宮で大国魂神が地祇として祀られる理由はない。崇神紀に、「これに先立ち、天照大神・倭大国魂の二神は、並んで天皇大殿の中で祭る」とは、必ず神武帝大倭を平定し、大三輪君五十鈴姫を(神武天皇の)皇后として納め給うた後のことであるはずで、それ以前の国社は大己貴ではないことは明白である。(意味不明)

 

54 これを以て考えると天社・国社とは、天朝(天皇)から斎(いつ)きしたのを天社とし、国々に斎きしたのを国社とすべきである。今の官幣社・国幣社と同じことである。祭神で分けるのではない。故に筑紫の宗像社は国社であり、出雲の熊野社は天社とし、墨江の住吉社は天社であり、筑紫の海神社は国社として構わない。みな天に存在する神を祭るのである。地に顕れた神(を祭るの)ではない。また人鬼を崇拝する社でもない

ところが早い時代からこの意味を誤解したのだろうか、天社国社を神祇と訳した。古事記には漢訳の誤りがないと言われるが、書紀は「崇神帝七年、天社国社及び神地神戸を定める」とあるのを、古事記は「天神地祇の社を定め奉る」と書いてある。もその時代に定めたので、既に神祇の別を誤っている。まして姓氏録はなお百年も後の書であるから、前に論じたように、混雑な分別をするようになった。令義解に山城の鴨を天神とし、大倭萬木鴨を神祇としたのも非常に疑わしい。

山城の鴨別雷神社(一に若電)と称すので天神としたのだろう。しかし、その創建に遡れば、大倭が京であった時は、山背は、吉野と同じく、青垣山の外の平野であり、ここに天社を建てられたとは不審である。思うに大倭の大三輪社のように、山城の国社なのだろう。平安奠(てん、祭る、定める)都の後は、その国の産土神であるから、別段に尊敬されたのである。

凡そ諸神社祭神の説は、神道が晦(くら)んだ後の付会(こじつけ)であるから、それは紛々として影を捉えるようなものだ。姓氏録に、素戔嗚は天神、天穂日は天孫、宗像三女は地祇とするように、不倫が甚だしい。このように言うから、神祇が人鬼を崇拝するもののようになり、ますます神道の本旨を失った。

 

感想・抜粋 天社・国社とは、天朝(天皇)から斎(いつ)きしたのを天社とし、国々(地方)で斎きしたのを国社とすべきであり、それは今の官幣社・国幣社と同じことである。祭神(祭る神)によって分けるのではない。

 

 

神道に人鬼を崇拝せず

 

 神道で人鬼を崇拝するなどとは古書に全く書かれていない。伊勢大神宮は固より大廟ではない。忍穂耳尊社豊前香春(かはら)にあることについては後で触れる。

 瓊瓊杵尊の日向可愛山陵、彦火火出見尊の日向高屋山陵、鸕(ロ)〇(茲と鳥、ジ、鵜、しまつどり)草葺不合尊の日向吾平山陵は、延喜式に無陵戸とあり、また、「神代三陵。山城国葛野郡田邑陵南原でこれを祭る。その兆域(墓の区域)は東西一町、南北一町」とある。これは何代に築かれたのだろうか。日向は遠隔の地にあるから、陵代(しろ)を作って祭られたから、日向山陵は守戸もなく、終にその場所も知られぬように移り(なり)果ててしまった。(可愛山陵は薩摩頴(エイ)娃(アイ)郡に、高屋山陵は同国阿多郡加世田郷鷹(ヨウ、たか)屋にあるはずだ。)また田邑陵は神社ではなく、墓祭りをする所である。これは神道の風習なのだろう。従って神武帝の畝傍山陵にも神社を建てていない綏(スイ、やすい)靖帝以後は歴代の天子を神社に祠ったことがない。八幡大菩薩を神功皇后、応神天皇というのは、仏説が入った後のことである。これには別の説がある。続日本後紀、承和七年五月藤原吉野の議に、「山陵なお宗廟の如し。たとい宗廟がなくても、臣下はどこを仰ぐべきか」と言った。

このように天子のために神社を建てた例はなく、臣下が神社を建て、朝廷から祭られることは断じてあるはずがない。事実は、後世の神社に祭神を付会したことから誤解されるようになり、終に神社が人鬼を崇拝する祠堂のように思っただけである。

 最近になって摂津住吉社がエジプトやペルシャの塚穴堂に類するという説があるが、それは古代史を知らない人の誤想である。住吉の三神は筑紫の博多を本社とし、神功皇后が征韓の帰りに務古水戸(むこみなと、今の神戸付近)に建て、仁徳帝のころ墨江に創建した。(史学会雑誌に詳しい)三神社を並べて祠った形の墓堂に似ているが、この地に表・中・底筒男の墓があるはずがない。

私は往年信濃の上諏訪社に詣り、寶(宝)殿の様を見たが、それはよく墓堂に似ていた。しかし、諏訪は健御名方(たけみなかた)命の領国であり、上諏訪社で湖東を治め、下諏訪社で湖西を治めた跡であり、その社を神名帳では南方富(みなかたとみ)神社とする。富は刀売(とめ)である。健南方命がその女に天神を斎かせしめたことからこのように称するのだろう。建築様式を見て墓穴の堂と思うことは僻見である。(後に奥津葉戸の風俗を述べるので、それと併せて考えてもらいたい。)

 神道に宗廟はない。大神宮を大廟と称することは大きな間違いであるが、世の中には軽々しくこのように唱える人もいる

 韓土にもこれに似たものがある。東国通鑑に「百済始祖十七年(漢元壽元年という。西暦紀元前二年)、国の母廟を建てる」とある。これは日本の大神宮のような宮と思われるが、高麗の末になってこのように誤解したのだろう。

56 日本の神社でもこれに似た誤解が非常に多い。大国魂社・大神社などは、大己貴その人を祭るのではない。それは大己貴命が国を造り、その地に建てた社殿である。すべての天社・国社も同様である。だから国造を国の宮つみと云う。これは歴史の考究に非常に重要であり、古代における国県の分割や造別受領の跡を徴すべきだ。

 例えば豊前(大分・福岡の一部)国の香春神社は、神名帳に、田川郡辛国息長大姫大目命神社、忍骨神社、豊比咩(ビ)命神社の三座であり、ここで辛国とは韓国のことであり、息長大姫大目命は以前の領主であり、忍穂耳命は新羅から渡ってきて、ここを行在(アンザイ、行宮(アングウ)、天子が行幸時に滞在する仮の御所)として西国を征定し、後に豊姫が受領した土地と思われる。(史学会雑誌第十一号星野氏の論説を参考にされたい。)社殿はその政事堂である。

土佐香美郡に天忍穂別神社がある。別は造別の別である。それは書紀の景行帝の条に、「今の時に当たり、諸国の別を言うとはその別王の苗裔である。」とあることから知ることができる。ここも忍穂耳尊が豊前から上洛の途中に暫く駐蹕(ヒツ、先払い。在)した所なのだろう。凡そ神社は昔国県の政事堂であった。

神名帳の大和に、添御県坐神社、葛木御県神社、志貴御県坐神社、高市御県神社などがある。これは後世の郡家のようだ。

また美濃に比奈守神社(厚見郡)がある。比奈守は、書紀の景行帝の条に、「筑紫国を巡って狩りをし、始めて夷守に至る。中略。乃ち兄の夷守と弟の夷守二人を遣って見させた。乃ち弟の夷守が帰ってきてこれを諮り、諸県君泉媛(エン、姫)と言う。」(日向諸県郡)とあるが、この夷守と同じである。

魏志に「対馬国に至る。その大官を卑狗という。副は卑奴母離という。云々。一支国に至る。(壱岐)官また卑狗という。副は卑奴母離という。」ここで卑狗とはであり、卑奴母離とは比奈守である。彦は後の荘司地頭のようであり、比奈守荘下司地頭代のようだ。某彦・某姫社もしくは夷守社は、領主が建てた祭政一致の政事堂である。某県社某県坐神社などとその意味は同じである。

また倭文・物部・服部・兵主・楯縫・玉造・鏡作などの神社は、それぞれ伴部の地に建てた社であり、久米郡・麻績郡・忌部村・鳥取村などというように、後世の荘衙(ガ、役所)と同じである。

前にも述べたように、宗像社は、筑前風土記によれば、天照大神の三女が筑紫に身形部を領有し、鏡玉を表として、韓土往返の津に建てた三社である。

57 大和石上坐布留御魂(いそのかみにふるのみたま)神社は、垂仁帝の時に建てられた武庫であり、中に韴霊(ふつぬしの)宝剣をも納めていたので、これを神体とし、石上社を建てた。

 前条に挙げた天香具山社は、神を祭る瓮(もたい、酒を入れる器。それとも甍(いらか)か。)を造る土を出す山なので、昔から祠られた社である。

 常陸風土記に、鹿島郡の鉄鉱を鹿島領だからとして採掘を止めたのも、同じ政略であったことを知るべきだ。

 すべて上古の神社は皆このような理由で、神魂・高魂社を始め、神代に国土を開いた人が創建した社と考えれば、神名帳諸社の起こりは氷釈するだろう尽く祭天の堂に外ならない。ところが、その社号のぬかるみに足を取られて、それを祭神の名と誤解することから、天神地祇の混雑を生じ、人鬼を祭る霊廟に紛れ、神道の主旨が乱れ、遂に謀反人の藤原広嗣松浦社に祭り、大臣の菅原道真を天満宮と崇め、天子も膝を屈める。歴代の天子を一人も神社に祭ることがなかったのに、却って補佐大臣から一郡一邑の長にいたるまで、神に化したとは、冠履倒装が甚だしいことである。末世の拘忌から狐を祠って稲荷とし、蛇を祠って市杵島姫とし、鼠を崇めて大己貴神というようなことは、凡そ下流俗人の迷いであり論ずるに足らないが、その弊端を開いたのは、天神から強いて地祇を分け、遂に人鬼を混淆したことであり、そのためこのように乱れたのである。仏法の入らぬ以前は、陵墓に厚葬する習慣はあったが、人鬼を崇拝することはなく、宗廟の祭りもなく、ただ大神を祭ることを神道とした。これが日本固有の風俗である。

 

感想・まとめ 神社は神話の登場人物をその墓として祭ったものではなく、彼らが作ったものだ。

 

 

神は不浄を悪(にく)む

 

 神に仕えるとき清浄を先とし穢悪(ワイオ)を忌み嫌うことは神道の大主旨である。書紀の一書に、伊弉諾尊が伊弉冉尊の殯殮(ヒンレン、埋葬)の場所から還り、「吾は前に於不順(いな)也凶目汚穢(しこめきたなき)所に行ったから、これからわが身の濁穢を滌去しよう。行って筑紫日向小戸(おと)橘の木原(あわきが)に至り、祓除くのだ。遂に身の汚れたところを洗滌しよう。云々。」とある。こうして海神住吉神が生まれ、また、天照大神月読尊素戔嗚尊の三貴子が生まれた。(古事記も同じである)

58 素戔嗚尊が大神の新嘗の際、祭殿に放侯(ホウコウ、弓を的に向けて放ち)し、馬を逆剥し、齋服殿に投げ入れたのは、神道の破滅、尚武や鎮圧の主義と思われる。そこで大神は位(居所)から逃れて、窟戸に入ってしまった。神道で触穢(汚いものに触れること)を忌むことが至厳であるとはこのようなことである。

 魏志(東夷伝の倭国)に、「初めて死ぬ。十余日間喪に停(とど)まる。その時は肉を食わず、喪主は(哭涙)泣き叫び、他人は就いて(近くに来て)歌舞(歌舞を誅(罰)するのことだろう)や飲酒をしない。既に葬る。家を挙げて水中に詣で、澡(洗)浴し、練沐を加える。」とある。中国だけでなく西国まで、一般の風俗は皆このようであった。この風習に基づいて、清浄を以て神に仕えるやり方が定まった。所謂る、天清浄、地清浄、内外清浄、六根*清浄は、敬神の主要なものである。

 

*六根とは仏語で、感覚器官。目、耳、鼻、舌、身、意の六根。

 

 神祇令の散斎によると「喪を弔い病を問うときは、肉を食うことができない。また、刑殺を裁判しない。罰罪人を決めない。音楽をなさず、穢悪のことに預からない。」とある。

 義解に「穢悪とは不浄のものであり、鬼神が憎むところであると言う。」とある。

 三代格には、齋(物忌の)月齋日に、喪を弔い、病を問い、刑殺の文書に裁判・署名し、罰を決行し、宍(しし、肉)を食い、穢悪に預かることを六条の禁忌と言うが、日本人が肉食を嫌うのも、このような習慣から来るのだろう。

 後漢書(東夷伝の倭国、魏志も同じ)にも、「海を渡り行き来するときは、一人として、櫛(シツ、くしけずる)沐させず、肉を食わせず、婦人に近づかせない。これを名づけて持衰という。」と見え、格でも、神社の境内付近での屠割(殺)、狩猟、牧牛馬を禁忌するが、これらのことを考え合わせるべきである。

 足利時代までは忌のことを全て触穢といい、死葬・大祭・戦争等の時には、朝(政務、朝廷に参ること)を止め、音奏・雑訴・評定(ひょうじょう、清涼殿で大事を決定すること)を止め、行刑を止めることを法とした。徳川時代でも、喪中には鳴り物を止めたが、これを俗に御停止という。また産穢、血荒、踏合などもあり、その時は出仕を忌み避けたが、これらは皆神道の遺風である。

 色々な穢の中でも最も忌み嫌ったのは死穢であった。古代で人が死ぬと、その家を不浄で穢れたとして棄てた。書紀の一書に、素戔嗚命が新羅からの杉や檜櫲(くすのき)樟(くす)柀(まき、杉)などの種を日本に植えさせた条に「柀(まき)を以て、顕見(うつしき、この世)の蒼生(人民)の奥津棄戸(すたえ)に将に臥すの具となすべし。」とある。奥津の津は助詞で、奥とは死人が臥した奥の間であり、棄戸は柀(まき)で棺を作り、そこに死人を納め、遺骸を置いて捨て去った。

 陵墓については、家の貧富に応じて厚葬し、殯(ヒン、かりもがり、死体を棺に入れ、葬るまで安置し、賓客として待遇する意)斂(レン、納める)葬埋をする専業の人がいて、(葬儀を)執り行ったことだろう。後世の穢多の起こりもこのような風俗から生じたのだろう。

59 また歴代の天皇が必ず宮殿を遷するのも、奥津棄戸に由来するものだろう。格の弘仁五年六月の太政官符(上級官庁から下級官庁へ下す文書)に「天平十年(西暦738年)五月二十八日、格を撿(しら)べ、国司が意に任せて館舎を改造したところ、儻(トウ、偶然)一人病死した。(これを)諱(忌み)憎み、(今までの)居住を肯定しない(を捨てた)。」と見える。その時代までこの風俗は存在したのである。

 韓土でも同じ風俗があった。書紀の皇極天皇元年五月の条に「凡そ百済・新羅の風俗では、死者が出たとき、父母兄妹夫婦姉妹でも、長い間見ようとしない。これを以て観れば無慈悲が甚だしく、どうして禽獣と異なるところがあろうか。」とある。それに比べて日本では死を忌み嫌って親戚みなが(死者を)捨て去る風習はなくなったが、親しく神社に近づいて仕える家では、この風習がなお厳重に行われた。

 その証拠に北島氏の文書の、貞治四年(南朝正平二十年、西暦1365年)十月、出雲の国造貞孝(北島の祖先である)の目安に「曩祖(ノウソ、先祖)宮向宿禰(デイ、ネ、父親の霊廟)人体の始めから資孝に至る四十代の間、皆亡父の喪体の儀を止め、神魂社(隔たること十余里)に打越して神火神水を相続せしめるとき、国衙(ガ)案主(文書官)、税所、神子・神人等は(人々を)参集させ、舞楽を奏し、次第の神役を遂げ、一人に神職を相伝させる。彼の孝宗は五体不具で、親父孝宗が死去する時、入棺を荷(かつ)ぎ、遺骨を拾う。触穢不浄をする間は、神体に近づき奉ることができない。この条(一件)は明らかである。云々。」とある。(意味不明)

 国造、大宮司、祭主、神主などの家では、親の葬礼をも止め、国司立会いの下で祓除し、神火神水を相続する式礼を挙行した。この有様は彼の百済・新羅と異ならないということが分かる。神事では濁穢を忌み嫌うから、祓除の法が生じた。このことに就いては古来種々の歴史も多く、また弊害も多かった。

 ここにその一例を挙げよう。貞治から少し時代を降り、康暦元年(南朝天授五年、西暦1379年)は伊勢の外宮の改造工事が長引き、期限を過ぎていたのだが、十二月二十六日にいよいよ遷宮式を挙行しようとしたところ、「禁裏(皇居)の御衰日である」と、前関白准后二条吉基の(から)沙汰があり、また(遷宮式を)延引した。その時の迎陽記に、父参議東坊城長綱の物語を記して次のように言う。

 

「(前略)御身の慎みを憚らず、尊神の礼を遂げられることは、さらに(全く)その咎あるべからず。かえって、冥感(神仏の加護)があるべし。前賢の所為、かくの如きことあり。院禅閣正和興福寺供養に中(あた)り、車が出ようとしたところ、或る者が、生頭を車中に投げ入れ、告げてこれを見る。事は行われるべきか。延引されるべきの由を申す輩がいた。大義を少しも憚るべきでない。興福寺供養はこのことによって延引された。天下の口が遊(すさ)んで(ひどくなって)遁(のが)れることができないか。寄りて清祓する所、供養を遂げるべきの由を申せられ、今では美談となったものである。云々。」とある。

 

60 神事に穢を忌み避け、少しの出来事でも大儀を延引することなど数々あったと知るべきだ。神事に預かるときは、常人さえこのようだから、まして神に仕えることを常職とする人は、死穢を忌み嫌うことを甚だ厳しくするべきであるのだが、時世が移り、今は神職が葬儀を主(つかさど)るようにまでなったことは、神道の本義において甚だいかがなものか。

 

 

祓除は古の政刑(政治と刑罰)

 

 神道は穢悪を悪む点で極めて厳しく、祓除を行い、身を清浄にして神に仕えることを大主旨とした。上古では神宮と皇居を分けていなかった。この時代の朝廷の有様は後の伊勢神宮のようなものだったと想像すべきである。国造*や伴造*が分割する国県の府治も、悉くそのやり方に倣い、諸国に天社国社を設けた。

 

*国造(くのみやつこ)令制下、諸国に置かれた名誉職で、その国内の祭祀、神事を担当した。

*伴造(とものみやつこ)上代、都に住み、諸部の長として部民を率い、専門の職務・技芸で朝廷に仕えた世襲の職名。

 

その天社や国社は、毎年新嘗祭(則ち後の氏神祭礼)を行い、報本(祖先の恩に報いること)の意を表し、祓除を行い、攘災招福を行った。だから臣民はみな毎年農桑諸業から(その収穫物を)収め、粟米布帛(きぬ)などを選んで神に奉納した。これをみつぎという。後世では御初穂というが、これである。災害や罪過によって祓除の料を納めることをあがものと云う。これは後の贖罪金のようなものだ。朝廷や国県の経済はみなこれによって成り立ち、刑罰もこれに依った。これを祭政一致の治という。

 祓除の起こりはかなり古い。伊弉諾尊・伊弉冉尊の二尊も筑紫橘小戸の祓除があった。魏志に「水中に詣で、澡(ソウ、洗う)浴する」と記している。(並びに前出)考えてみると、神道とともに(祓除は)邈(バク、遠い、はるか)古から来たことに違いない。その方法は中臣家に伝わる書紀一書(天石窟の条)に「天児屋命は則ち神祝を以てこれを祝う」と、また「その解除の大諄辞(のりと)を掌る」とある。今の中臣祓はその諄辞(のりと)であり、原文は簡素で古風であったが、文武帝の時、柿本人麻呂が修潤(修正し立派に飾る)した文であるという。(衆人の前で再三反復して誦する言葉であり、また(原文が)非常に古く稚拙なところがあったので、人の誠意や敬意を損なうからなのだろう)

 神への供物は齋部家が掌った。古語拾遺に「太玉命に命じて諸部の神を率い、和幣(神に供える絹)を造る」と、また「太玉命に宣して(述べて)、諸部の神を率い、その職を供奉する。それは天上の儀のようだ。」(天上は天朝の義だろう)とある。また、神武の朝に「その裔孫の天富命は供作諸氏を率い、大幣を造作した。」とあり、また「宮内は蔵を立て、齋部氏に永くその職を任せた。」とある。

 神宮と皇居が分かれた後は、調貢の法が定まり、この蔵は齋蔵、内蔵、大蔵の三蔵に分かれ、大寶令には大蔵省や内蔵寮があり、また齋蔵は神祇官にあり、祓除の贖物を納めたのだろう。

 

61 祓除の主旨は、肢体を浄め、心を清め、清浄な天地に呼吸しなければ、霊顕な天神の加護を蒙ることができないという意味である。これは宗教の善根懺悔に近い。しかしこの旨について別に心身を清くするという教文もなく、従って誘善利生の方法を述べた経典もない。本居宣長は「神ながら言挙げせぬ国」と誇ったが、言挙げせぬ故に、神道に宗教をなす程の力がないことは明らかである。

 

 前に説いたように、昔は祓除を政治の本とし、刑罰もこれによって行った。素戔嗚尊が御田に重播(しきまき)、毀畔(あわなち)、埋溝(みぞうめ)、挿籤(くしさし)し、さらに大嘗殿を穢し、重々の罪を犯したが、これは、神道の破滅を主張した所為であり、天照大神も御位を逃れようとするまでになり、諸大臣等は、悉くこれに服せず、天安河の会議で大神の復位を勧め、素戔嗚尊に重罪を科した。これは国是を一定にして皇室が安固した根底である。これは国史で最も重要なこと(節)であり、神道の最も功力があるところである。

この時(素戔嗚)尊に「これに科すに、千座置戸(ちくらおきど)を以てする」とは、釈日本記に私(ひそかに)記して曰く置物の名である。秡物を積み置くというのは、まさに千処である。置戸とはこの千処の物を積み置くこと、便(すなわち)、その戸を為し、罪人をその中に出させる。だから置戸と言う。」と解釈した。(私は千処の齋蔵を科したのであり、戸は煙戸のことだろうと思う)また「髪を抜いて以てその罪を贖うに至る。また曰く、その手足の爪を抜いてこれを贖う」とあるが、「また曰く」の方の文を是とすべきだと私は思う。それは一書に「既に罪を素戔嗚尊に科し、その秡いを責める。これを以て手端吉棄物(たなすえのよしきらい)、足端凶棄物が有る。」とも、また「即ち、素戔嗚尊に千座置戸の解除を科し、手の爪を以て吉爪棄物(きらい)と為し、足の爪を以て、凶爪棄物と為す。乃ち天兒(児)屋命にその解除の大諄辞(のりと)を掌らせ、これを述べる。(これは中臣氏の記録によるものだと記憶している。齋部氏の記録と合わせて考えれば、その贖物彼氏(齋部氏か)の齋蔵に納めるべきだ。)世人が慎んで己の(自分の)爪を収めるということは、その縁である。」とあるのに合うからである。

昔から貴人には死刑を行った例がない。蓋し(罪を)解除する際の科(刑罰)に軽重の差があるまでのことなのだろう。その解除には必ず吉凶の二つを重科した。

62 書紀の履仲帝の五年に「則ち、悪解除・善解除を負う。長渚崎に出て、祓禊(ケイ、みそぎ)せしむ。」と見え、三代格の延暦二十年五月十四日に至り、大中小の祓の物(刑罰)が定められた。その詔に「承前(続きものの文章の初めに書く語)、神事で犯あり。祓を科し、罪を贖う。善悪の二祓を一人に重科(二つ科)するが、条例は既に繁雑となった。物を輸(いた、差し出す)すこともまた多くなった。事が苛細に(人を)傷つければ、深く黎元(レイゲン、民衆)を損なう。因って、今(これを)弛張し、例(法例)を立てる」とある。平安京の初めになって初めて両科(二つの刑罰)を一重(一つの刑罰)に改めた。

 

 

神道の弊

 

 天地は生きた世界であり、循環してやまず、常に新陳代謝をしながら進む。だからその中で棲息する万物・万事はみな栄枯盛衰し、ちょっと活動を失った停滞物は頓て(すぐに)廃滅に帰する。このことは皆人が眼前に観察するところである。故に久しくして(長期間が経過して)倒れないものはない。(神道もしかり)

 日本の創世は神道から成った。皇基はこれによって奠(テン、定まる)定した。その主要な節目は、前に述べた条々で略(ほぼ)尽くした。

それも数千年間に渡って漸々と修正・改進した結果であるはずであり、神武帝が橿原に神人一致の政治を建てた時も、多少改革があったことだろう。またそれから九世を経て時運が進み、崇神の時に、神宮と皇居とを分けたので、神物官物も分かれ、従って齋蔵官蔵も分かれ、調貢の法も定まり、政治や兵刑などもみな改まらざるを得なかった。

 しかし古来沿習の余勢があるので、なお祭政一致の制によって漸々と変化したことは考えられる情実であり、そのことは歴史上でも概見するところである。

 

 三韓が服属し、応神・仁徳の時代を経て、履仲・反正・允恭の三朝に移るころ、既に刑罰が変革したことが知られる。武内宿禰(ネ)と甘内宿禰の兄弟が権力を争った時、くか(orり)たち(探湯)の刑を行った。允恭帝が、群卿国造の氏姓(則ち、譜第)や詐冒(詐欺を冒す)を改正したときも、「諸氏姓人等は沐浴し斎戒する。各人は神に盟(誓)って探湯(くりたち)を行う。則ち、和橿丘の辞禍(カ、災い)戸〇(砷のつくりが申でなく甲)において、探湯の瓮(もたい、酒を入れる器)に坐し、諸人を引き、赴かせて曰く。実を得れば即ち全。偽者は必ず害す。或る泥は金を納めて煮沸する。手を攘(払)って、探湯する。云々。詐者はこれに愕然とし、予(あらかじ)め退いて進まない。」

 探湯は神に要(誓って)して、詐欺者を発覚するための菊訊法だったにちがいない。これは当時盛んに行われていたと見えて、北史(東夷倭伝)には「冤獄(冤罪で牢屋に入れられた人)を訊ねるごとに、承引しない者は、木で膝を圧迫する。或は、強い弓を張って弦でその項(首筋)を鋸で引く。或は小石を沸騰した湯の中に置いて、競う者にこれを探させる。或は、蛇を瓮の中に置いて、これを取らせる。曲者はすぐに螫(刺)す」とある。これは西国筋(中国人)が(日本の)事実を観察したままに記したものであろう。

63 諸国の国造や伴造などの支配下では、頗(すこぶ)る惨酷な法も行われていたのだろう。継体帝の二十四年に「ここに日本人は任那(みまな)人との間での児息や諍(そう)訟が頻繁に決しがたく、元(はじめ)から判ずることができないからとして、毛野臣(けののおみ)は誓湯を置くことを楽しんで曰く。実者は爛(ただ)れないが、虚者は必ずただれるとし、これを以て、湯に投げ入れたため、爛死者(ただれて死んだ人)が衆(おおか)った。」とある。我が国が任那諸国で人心を失ったのは、暴政によるものであった。

 

この時代に人智が漸く開け、すでに神道では治めることができなくなった。そこで儒学を講じ、また仏教も流入しようとしていた。

履中帝の時に、安曇連濱子仲皇子と徒党した巨魁(親分)だったので、事が平らいだ後に帝が詔し、「将に国家が傾こうとした。罪は死に当たる。しかし大恩を垂れ、死を免じて墨を科すとし、即日これに入れ墨(黥、ケイ、いれずみ)をした。」と見える。また允恭の忍阪姫皇后も、「鬭(闘)鶏国造の死刑を赦し、その姓を貶めた。これを稲置という」と見える。その年に皇后のために刑部を定めたとあるので、既に死刑その他の刑名も生じた。但し入れ墨(黥)は貶等であり、甘内宿禰(ネ62)が紀の直に賜い、闘鶏国造を稲置に貶める類であり、黥の刑はなかったことなるべし。

履中五年に「伊弉諾神は祝いを託して曰く。血の臭いは堪えられないと。因って以てこれを卜し、兆(占って)して言う。飼部などでの黥(いれずみ)の気性は気に入らにないと。故に、これから後は(黥を)頓(やめる)絶し、以て飼部を黥せず。こうしてこれ(黥)を止めた。」とある。

古事記の安康の条に「面(顔)が黥の老人がやって来(て言っ)た。我は山代の猪甘なりと。」とある。このことから、廝養(しよう、廝役、召使。養は牛馬などの世話をする)の諸部では黥をする習慣があったことが分かる。

支那の歴史が記録するところによれば、日本の古代は文身(入れ墨)が俗(世の習わし)であった。そのため、今でも東国の賤民に文身俗(入れ墨の習慣)が存在するまでであるが、西国では却って(逆に)その俗(習慣)がないのはこのような由縁であり、自然に黥を廃止したのだろう。崇神のころ神と人とが分かれてから履中帝までの七世を経て、時運が進み、神道の弊害が生じたのが分かる。

 

人智が開進し、学芸が鬱興し、上下の生活がますます満足な時代となった。祭政一致の政治に依頼し、大占を以て神慮を迎えて事を決定し、諄辞(くどい言葉)で以てそれを解除しながら刑罰を行うことでは、国の治安を保つことができなかった。この時になって、旧来これに浸染した風俗に弊習が残存し、それを洗除するのに困ったことは必然の理であった。

 

64 書紀の孝徳帝の大化二年三月甲申の詔に、「辺畔(ハン、あぜ)を役せられた民がいた。仕事が畢(終)わって故郷に帰る日に、忽然として病気になり、路頭で臥死した。ここにおいて路頭の家は乃ち之について言いて曰く。何故に人に余路(これから家に帰ろうとする道中)において死なせるのか。因って死者の友伴を留め、強いて祓除させた。これによって兄が路で臥死すると雖も、その弟は〇〈状のへんと又〉(収)めない(面倒を見ない)者が多くなった。(その弊害の一である。)

またある百姓がいたが、河で溺死した。逢う者が乃ち之について言いて曰く。何故に我に溺死者を遇させるのか。因って溺死者の友伴を留め、強いて祓除させた。これによって兄は河で溺死したと雖も、その弟は救わない者が多くなった。(その弊害の二である。)

また役をさせられた民衆がいて、路頭で飯を炊いた。ここにおいて路頭の家の者がこれについて乃ち言いて曰く。何故に情に任せて余路(道中)で炊飯するのかと。そして強いて祓除させた。(その弊害の三である。)

また百姓がいた。他人に就いて甑(ソウ、こしき。蒸籠(せいろう))を借り、飯を炊く。その甑が物に触れてひっくり返った。ここにおいて甑の持ち主が乃ち祓除させた。(その弊害の四である)

これらの例のような愚俗(愚かな風習)で染まったところを、今では悉く断ち切った。」

これは今の警察が違詿(カイ、誤る)罪に科する贖銭を、人民相互に科徴したようなものだ。神道が死穢や不浄を忌み嫌い、事に触れ端(些細な事)について祓除を強索(求める)する陋習は、千二百年前まで存在した。その時の旅行の困難さが思いやられる。公役で已(止)むを得ない場合の他は、郡郷の往来交通が絶え、なお歳月を経るならば、国の繁盛する道は頓(とみ)に塞がり果ててしまうだろう。

この時に当たり、仏教の僧徒らが宣教の方便によって郡郷を巡り、道路や橋梁を修架させ、池溝を開いて往来を通し、生産工芸を教えた功績は歴史上に歴々と記載されている。文武や元明の時代に至って、初めて貨幣を鋳造し、諸国に命令して米を旅人に売らせ、終に奈良の盛治を見るに至った。その大恩を永く忘却してはいけない。

 

 

儒学仏教陰陽道の伝播

 

 神道が日本を幼いころから育成して国体を定め、皇統を始めたころは、そ(神道)の最も功力があった時代である。しかし、成長の後に時運が進み、大陸地に万般の学芸が鬱興すれば、我が国にもそれが輸入され、益々開進しないわけにはいかなかった。

が朝鮮を滅ぼし、平城帯方郡を置くc.204にあたり、我が西国から交通する者は三十余国に及び、筑紫伊都津を開き、彼の郡(帯方郡)も使節館を建てたので、通訳の人もいなければならない。漢字も講じなければならない。崇神帝の末には、加羅*が国地を献じて内属し、任那府を韓土に置いた。この時既に祭政一致では治めることができなくなっており、必ず漢の儒学を輸入していたことだろう。(中村孝也『新体国史』上巻025

 

*加(伽)羅 日本書紀では任那という。3~6世紀ごろ、朝鮮半島南部、洛東江流域一帯にあった小国家群の総称。

 

65 さらに遡って考えれば、人が馬韓*に移住して、辰韓*を成し、少名彦命が海を航海して(日本に)来て、大已貴神とともに国を造り、医療・禁厭(キンエン、キンヨウ)*の法を教えた時から漢学は早くも入っていたことだろう。(時代は書紀の紀年を捨(すて、おい)て考えよ。)(中村孝也『新体国史』上巻023

 

*馬韓が現れたのは南朝鮮の三韓時代(AD3世紀)か。三韓とは馬韓、弁韓(弁辰)、辰韓。

*辰韓 紀元前2世紀―356 朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域。その境は南の弁韓と接しており、入り組んでいた。

*禁厭 まじないで病気や災害を防ぐこと。

 

応神帝201--310百済から博士を招き、皇子に論語千字文を授けた*が、このことは儒学が宮中まで上って来た証拠である。その時の儒学は固より朱子学ではない。また唐の注疏でもない。この時代は大抵末に当たるから、何晏*(アン)の集解であり、修身よりはむしろ政治学に近い。

 

*論語千字文を王仁 (わに)が伝えたとされるが、王仁の時代には千字文が完成していなかったという説もある。

*可晏(カアン)?—240 中国の後漢末から三国時代の魏の政治家、学者。

 

 その後、継体帝のころ、五経博士を召され、天智帝以後は随唐の学を主用したが、それらはみな政治学であり、神道とはその用を異にする。儒学が最も主張する天地の郊祀*や宗廟の禘祫*等を神道は全く用いず、依然として古来の神道祭天の俗(風習)を行ったが、それは深甚な考え方であった。このことは神道を説く者が特に着眼すべき要点である。

 

*郊祀(コウシ) 天子が郊外で天地を祭る祭り。天子が冬至には南郊で天を祭り、夏至には北郊で地を祭った。

*禘祫(テイコウ) 天子や諸侯が五年ごとに祖先の霊廟を祭った祭り。

 

しかし神道には誘善利生の経典がないばかりでなく、攘災招福に関する典拠もないことに感づいたのか、また漢学の伝播に伴って陰陽道も入って来たのだろう。この陰陽道は漢代に盛んに行われた(シン、未来の吉凶・禍福の前兆)(シンイ、未来を予言してそれを書き記したもの。)に基づくものである。北史に「百済が医薬・蓍亀(シキ、占いに用いるめどぎ〔めどはぎ、マメ科の低木多年草〕と亀の甲)・相術・陰陽五行法を与え知らせた。」とあるので、必ずこの国を経て輸入したのだと思われる。書紀の推古帝十年に、「百済の僧勧勒が来之仍(来たことに因って)、暦本、及び天文・地理書幷に遁甲(トンコウ、人目をくらまし、わが身を隠して、凶事から逃れる術)・方術(陰陽、天文、療治、亀卜など、方士が行う占術、験術。神仙の術。法術。)などの書を貢いだが、この時、書生三四人を選んで、勧勒のもとで学習させた。云々。大友村主高聡は天文と遁甲を学び、業を成した。」とある。

三代格に、陰陽道は、周易新撰陰陽書黄帝金匱(ヒツ、大きな箱)・五行大義等を主に用いたとある。は五経の一つで、継体帝の時代に既に学問として扱われていた。緯書が伝わったのはきっと早かっただろう。古事記や日本書紀の一書を熟読すると、神代巻では、陰陽説や周の時代の風俗に付会(こじつける)した痕跡を時々見つける。それはおそらく、漢学が既に日本に入って来たがまだ仏教が伝わっていないときに、緯書やその他の方術でもって未来を予知し、災害を避けることを講じた結果であろう。しかしこれも一時的な気運であり、長い間の後には廃れた。今も民衆の風習の中に存続する陋習は、神道や仏教よりも陰陽説から出て来た拘忌が実に多い。

 

66 儒学はただ現在を諭すだけであり、陰陽道は未来を知るが、善を誘い生を利する旨が乏しい。それに対して仏教は三生を説く。仏教は、神道が襁褓(キョウホウ、揺籃時代)を卒業して、心理を開闡(カイセン、開く)するための倔強(クッキョウ)な教えであった。

仏教が支那に伝播したのは日本の倭奴国の使いが洛陽を訪れたころが最初であった。神功皇后が征韓した時、当地では仏教が盛んに行われていた。そして応神帝の時には、高麗や百済で仏教が流布していた。その後三韓との往来が頻繁になり、筑紫の中国筋に仏教が流入したのは、きっと早かったことだろう。史乗に見えることだが、継体帝の時代に仏教が始まったとある。そして欽明帝の戊午歳(法王帝説による。書紀の紀年では宣化帝である)になり、遂に断然と百済から仏典と仏像を受け入れた。これは彼の国に遅れること百五十年であり、文明の競進の観点から論ずれば、遅鈍であるけれども、国の旧習を守るのに厚く、急に外国の教えに移らないのは、日本人の気象であり、国体が堅固である由縁である。仏教者は因って実相真如の体が、我が(日本人が)熱信する天神であることを示し、本地(仏)垂跡(スイジャク)(仏や菩薩が垂迹すること)の理を説き、衆人は靡然(ビゼン、なびく)として之に帰依し、敬の心を移して併せて崇に注ぎ、二百年を経て日本は敬神崇仏の国となり、仏教の研闡(セン、開く)は、他国に超越するまでに至ったが、これは歴史上における国の光輝と言ってよい。

仏教が入ってから神社と仏寺が相並んで崇敬され、勝劣がなかったことは、歴史に明白である。仏に偏して神に疎であったと思うのは僻んだ説である。但し仏教も長い間を経過するうちに悪化した。その詳細は他日に論じよう。またもし神道だけに偏して今日まで神道だけでやって来たら、日本の不幸は実に甚だしかったことだろう。前条に挙げた大化二年の詔を顧みて欲しい。崇神帝以後数百年間に、神道が国民を教化した結果はどうだっただろうか。続記神亀二年七月の詔に「今諸国の神祇を聞く。社内に穢臭があるに及んで雑畜を放ち、敬神の礼を行う。どうしてこのようなのか。宜しく国司長官自ら幣帛(ハク)を取り、慎んで清浄を致し、常に歳事を為すべし。」と。また天平二年九月の詔に「安芸国や周芳国の人々が妄(みだ)りに禍福を説き、多く人を集め、死魂を妖祠し、言って祈るところあり。京都の近くの左側の山原に大勢を集め、妖言し衆を惑わす。多則ち万人。少則ち数千」とある。このように人民を啓蒙するために、唐韓諸国が皆広める仏教の方便に依らないで、経典さえない神道の古俗に任せたら、全国は今でも蒙昧の野民に止まり、台湾の生蛮と異なるところがないだろう。

 

67 神道が日本を育成したのは、慈母の恩であるが、成人した後までも永く母の左右にだけにいてはいけない。全て地球の諸国は皆神道から出て種々に変化したが、国本を維持して順序良く進化したのは、日本だけである。(ガラパゴス的発想)それは神道が時に定まった国帝を奉じて敢えてそれを変改せず、神道の古俗を維持して敢えてそれを廃棄せず、かの新陳代謝の活世界を通過し、時運にも遅れなかったからである。

凡そ国に主宰者を立て、政務の本を統べないわけにいかない。この至尊の位を人事を以て定めることはとても難しい。智愚賢不肖(愚)を選ばず、ただその創世に当たり、純に天神を信じた時に於いて神意として定めた君主を、国の存続する限り永遠に奉ずべきだ。この他に万古不易の国基を定める方法はない。日本人民は天神の子孫を天(つ)日嗣(皇位の継承、皇位)に奉じ、少しも心を変えなかった。その日嗣の天子に悪徳の君は一代もなく、また系統の絶える不幸にも逢わず、九世親が尽きた疎遠の系統にこの位を伝える不幸にも逢わずに今日に至ったのは誠に人力ではない、天神の加護を忘れてはいけない。他国を見よ、尽く人事が麤忽(ソコツ、麤は荒い)であり、一度国祚(ソ、天子の位)を変更すると、帝位は国民の競争物となり、常に国基を安定するのに辛苦しつつ経過しているではないか。わが国が万代一系の君を奉ずるのは、この地球上にまた得られぬ歴史である。この誇るべき国体を保存するためには、時運に応じ順序良く進化してこそ、皇室も益々尊栄し、国家も益々強盛となるはずだ。

世には一生神代巻だけを講じ、言甲斐(いいがい)なくも国体が神道で創られたとし、いつまでもその襁褓(キョウホウ)の裏にあり、祭政一致の国に棲息しようと希望する者もいる。この活動世界に千余百年間長進しない物は、新陳代謝の機能に催されて、秋の木の葉と共に揺り落されるだろう。或は神道を学理で以て論ずれば国体を損ずると憐れはかなく謂う者もいる。国体も皇室もこのような薄弱な朽策(朽ちた縄)で維持されてきたと思うのか。歴朝は烈を積み、その神道の中から出て来た国を養成した。百二十余代の功徳は人心に染み込んでいる。その間に他の諸国は一度国本を変動し、再び復すことができず、革命の禍を痛嘆した歴史を経過したので、もはや皇綱は安固である。

68 これを観察して益々盛大富強を図るべきだ。徒に大神宮の余烈(先人の威光)にだけ頼むのは、またこれ秋の木の葉の類であろう。私は既に神道の大本について、その国体と共に永遠に保存すべき綱領と国民に浸潤した美風とを論述した。その他の廃朽に属する枝葉と中世以来の謬説とは、本を振るって葉を落とし、本幹を傷害しないようにすべきだ。これもまた国家に対する緊要の務めである。

 

神道を以て「只天を祭り攘災招福の祓を為すまでならば、仏教と並んで行われて相戻(悖)らず」というのは、卓見というべきだ。もし仏法が渡来しなかったならば、神道が或は宗教にまで発達したかどうかは知るよすがもないが、実際は中途で仏法が渡来し、これと共に文学も移入したので、我が神道は半夜(夜半)に攪破された夢のように、宗教の体を備えることができなかった。後世になってこれを宗教にしようとした者がいたが、これは遅まきの唐辛であり、国史はこれを許さない。その事実を証明するもので著者に匹敵する者はいない。

 

鼎軒妄批

 

以上 2021103()

 

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