『思想非常時と現代教育の革新』二荒芳徳 東学社 1933年昭和8年
感想 幕末・明治以降の日本の支配層が、文化的にあまり高尚とは思われない肇国神話や天皇制になぜ敢えて執着し続けたのか不思議であるが、その理由を二つ思いつく。
一つは当時、いや今でも、君主制が世界的に普遍的・標準的だったから、日本が君主制を維持していても国際的に何ら違和感がなかったこと。
もう一つは、天皇制が基づく差別が民衆を支配するのに都合がよかったこと。マルクス主義が基づく理念は資本家の搾取を認めない平等であるから、差別に基づく天皇制にとってそれは都合の悪い思想であった。また本書で頻繁に槍玉に上げられる実証主義は事実を重視するから、空想的な物語に基づく宗教(天皇制)を維持する上でそれは都合の悪い枠組であった。
Wikipediaによれば
二荒 芳徳(ふたら よしのり)
出身校 東京帝国大学法科大学政治学科卒業
前職 少年団日本連盟初代理事長
貴族院伯爵議員 在任期間1925年7月10日 - 1947年5月2日
称号 帝都復興記念章
親族
兄・伊達宗陳(貴族院議員)
兄・丹羽長徳(貴族院議員)
義兄・保科正昭(貴族院議員)
義兄・有馬頼寧(農林大臣)
義兄・小松輝久(貴族院議員)
二荒 芳徳(ふたら よしのり、1886年(明治19年)10月26日 - 1967年(昭和42年)4月21日[1])は、愛媛県生まれの政治家、官僚。伯爵。日本体育専門学校(現日本体育大学)校長。
伊予宇和島藩9代藩主伊達宗徳の九男、伊達九郎として生まれ、二荒芳之伯爵の養子となり改名した。
歴任した役職は、静岡県理事官、宮内庁書記官、式部官、東宮御所御用掛、厚生省顧問など。
妻は北白川宮能久親王の娘、拡子。長男の二荒芳忠は東芝EMI勤務を経てハワイアン評論家となる。芳忠の妻はハワイアン歌手のエセル中田。
略歴
東京帝国大学法科大学政治学科卒業。
1921年、皇太子裕仁親王の欧州訪問に随行。
1922年、少年団(ボーイスカウト)日本連盟の初代理事長に就任(総長は後藤新平、副理事長は三島通陽*)。
1925年7月10日、貴族院議員[2](1947年5月2日まで在任[1])。
1931年 世界スカウト機構の委員会メンバーに就任(~1938年)。
1937年 ボーイスカウト世界大会出席のためオランダへ。帰途、ドイツ視察。[3]
1938年、体操学校校長就任。
1941年、大日本少年団連盟の副団長に就任。
1946年、日本体育専門学校(旧体操学校)退職。
1949年、ボーイスカウト日本連盟顧問、総コミッショナーに就任。
*三島通陽1897.1.1—1965.4.20は三島通庸の孫。貴族院議員1929.12.21—1947.5.2、参議院議員1947.5.3—1950.5.2
ちなみにしどろもどろのワクチン大臣・東京五輪大臣の堀内詔子は、三島通庸の来孫(5代目の孫)なるほど支配者ファミリーなのだ。
メモ
自序002 国粋主義への傾斜としての満州事変 「満州事変を契機として、西洋追従の思想はその方向を転じた。」
011国民道徳論 明治10年代から高揚してくる自由民権運動に対して、天皇の侍補(元田永孚や西村茂樹)が徳育の欠如を指摘し、1879年、元田永孚は天皇の意を受けて仁義忠孝を徳育の基本とする『教学大旨』を示して明治政府の教育政策の変更を迫った。
これに対して伊藤博文は井上毅に『教育議』を起草させ、「旧時の弊習に戻らないで開化政策の実を挙げることが急務だ」として元田を斥けた。
この論争は開明官僚派の勝利に終わったが、民権運動への対策の一環として修身が強化され、元田らの主張も採用された。http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ko_kokuminndotoku.htmlより
本文では明治期の国民道徳論のような議論では今の思想悪化(共産主義を奉ずる訓導や思想犯罪の犠牲となる学生)を克服することはできないとする例証として出て来る。「浅慮なる国体論の如きは、既に国民道徳論の唱えられ来った明治後年以来、その効果は試験済である。」
一言要旨
第一篇 教育批判論
緒言「我れ現代教育に抗議す」 危険思想者の続出を防止するためには、社会教育としての健児教育法を通して青年の品性を陶冶することが重要である。
第一章「現代教育に対する展望」 明治以来の主知実証主義教育の弊害から脱して、我が国の天皇を中心とする没我奉公・忠君愛国の情を育てるべきである。
第二章「皇国精神より観たる忠君愛国の高調」 現天皇自身を尊重するだけでなく、現天皇の元となった天祖を尊重せよ。それを「神ながらの道」という。これまでの日本精神復活運動ではそれが欠けていた。
第三章「財物観念に関する教育上の欠陥」 財を個人主義的所有物と考えず、天皇が公有するものとみなせば、財産を巡る階級闘争はなくなるだろう。
第四章「生命に対する教育上の欠陥」 霊的生命の源は寺院や国家にではなく宇宙に存在する。
第五章「『神』とは如何なるものか」 古典を通して日本神祇の汎神論的性格を知る。
第六章「対立的君主論と絶対的君主論と」 日本の君主はスメラ・ミコトといい、その意味は西洋の独裁的君主とは異なり、真理そのものを意味し、人々はそれに絶対的に帰依する。
第七章「我が建国理想より観たる国際進展」 日本は国際連盟を離脱したが、孤立を誇りとしてはならない。国際連盟離脱時の詔書や建国の理想にもあるように国際協調主義を捨ててはならない。
感想 筆者は世界スカウト機構の委員会メンバー1931-1938だったためか、神話の建国精神を云々する古めかしさもあるが、他民族を軽蔑せず国際主義を貫くべきだと主張している。内向きに走るこの時代にしては稀有な人ではないか。
一言要旨
第二篇 社会教育論
第八章「社会教育の特質」 社会教育は人間集団の発生とともに自然に発生する。社会教育は学校教育や軍隊教育と違って、官庁や自治体は強制するのではなく哺育する立場をとるべきである。社会教育は愛国的社会奉仕人によって成り立つ。社会奉仕人の献身や情熱によって危険思想団体を転向・解消させることができる。
第九章「『社会教育』に対する通説を評す」 通説では社会教育を義務教育修了者に対する補習的教育と位置づけているが、私は陶冶的な社会教育の独自圏を考えている。その具体例が少年団健児運動であり、今回の文部大臣の校外生活指導に関する訓令も少年団育成に触れている。その健児教育法は敬神崇祖の念を深める。
第十章「社会教育圏と社会教育団体」 社会教育圏とは社会教育の対象となる大小様々な人々の集団であり、教育方法の精密度はその規模に応じて異なる。社会教育は国民教化のために尽くさなければならない。官憲は社会教育に対して命令すべきでなく、援助と哺育を与えるべきである。
第十一章「社会教育団体の事業内容及びその監督」 社会教育事業もその成果を配当とする一つの企業であると言える。社会教育団体は自由であるべきだから、主務官庁の監督は、よき相談役、忠言者、同情者であるべきであり、一つのイズムを注入するものではいけない。
第十二章「社会教育団体の法的保護」 刑法や民放は社会教育団体の主義・綱領・規約・徽章・制服などが誹謗・中傷・模倣・濫用されることから守らなければならない。
第十三章「少年社会教育の重要性」 今日家庭教育が弱体化してきたので社会教育の重要性が高まっている。今日学校騒動や思想危険者が続出し、生活信条や国家観念の欠如した中等学校生徒や専門学校生徒が増えている。国士や紳士など気品や気魄のある生徒を育てなければならない。社会教育の指導者が上から訓令的に指導することは不可であり、子供になりきることが求められる。
第十四章「校外生活指導と社会生活の意義」 ここで突如としてこれまでの論調と打って変わって神道神話の上に立つ日常生活を強調する。1932年昭和7年12月の文部省訓令第22号「児童生徒に対する校外生活指導に関する件」をその観点から解釈する。
第三篇 健児教育提唱論
第十五章「既設少年団体及び青少年健児運動」 1922年大正11年、少年団日本連盟が結成されたが、その際英国など欧州のボーイ・スカウト教育法を採用するとともに、江戸時代の家塾や藩学の精神も盛り込んだ。これを健児教育法という。狙いは大戦時における少年活動の有用性であった。
第十六章「スカウト教育法の出現」 日本の健児教育運動は英軍人ベーデン・パウエル卿の南ア戦争における少年を活用した体験をもとに書かれた『ボーイ・スカウト教育法』に基づく。これに日本精神を付け加えることが日本人の課題である。ここで「品性陶冶」とは実戦でも動じないたくましい軍人の養成という意味である。
第十七章「スカウト教育法の伝来及び発達史」 不発に終わったが、1911年、牧野伸顕文相がスカウト教育法の日本導入に尽力した。1911年に訪英した乃木大将がボーイ・スカウトに関心を示した。昭和天皇が皇太子だったころイギリスのボーイ・スカウトを見学したが、その翌年の1922年、少年団日本連盟が結成され、1924年、国際事務局に登録した。1923年、後藤新平が少年団日本連盟の総裁になった。1925年、議会で少年団指導者養成の議案が可決された。1928年、昭和天皇が全国少年団日本連盟加盟者の集会に来訪し、1930年には少年団の練習船に乗るなどして少年団活動を奨励した。1930年、シャム国王が総裁を務める少年団大会に健児21名を派遣した。
第十八章「少年団日本連盟の指導精神」 「宣誓」「おきて」並びに三種の神器を象徴する三宝章という徽章の三つが少年団の指導精神を表示する。例えば、宣誓「一、神明を尊び、皇室を敬います」おきて「一、健児は忠孝を励む。」など、建国神話に基づいている。この「宣誓」や「おきて」は後藤新平を中心にして作られた。
第十九章「三宝章その他」 武士としての自覚を持たせる元服のような意味を込めて、少年団は健児相互の礼として三指礼(三指の記号)を用いている。昭和六年の聖上御親閲の際に後藤総長が三指礼で天皇を送迎した時以来これが用いられるようになった。また少年団の歓呼に「弥栄」を用い、少年団の守護神として神武天皇の重臣道臣神を用いている。
第二十章「健児教育法の特長」 健児教育法の意義を各方面から説いている。一、自らの全ての行為が天皇のためになり、それを品性陶冶とか健児道という。二、国家社会に奉仕すべきである。三、武士道精神を国民道徳とせよ。その他、年代別教育、班別教育、勘の教育、技能教育、進級制度などを挙げている。
第二十一章「指導者養成の機関」 指導者実修所には中央実修所(児童心理や思想・宗教・経済などの理論的研究)と地方実修所の別がある。実習は山野・沼湖・海洋を利用し、天幕や練習船で行い、子供の服装をして子供になりきる。この教育法は現代社会の対立的・階級闘争的教育に対峙する。開始以来数年で修了者2000名となった。一天幕8人以下とし、これを一班とする。また子供の訓育は週に一二度野外訓練を行い、また集会所で講習をする。指導者は無報酬で、逆に児童に対して物質的に奉仕をすることもある。
第二十二章「健児教育法の国内的及び国外的重要性」 健児教育は国内では階級闘争を矯正して兄弟愛を体得させ、国外では国際理解に役立つ。新国域(台湾や朝鮮)では内地人と現地人とで学校は別だが、少年団では共同生活する。また満州国、シャム、英米、ハワイなどの少年団と相互招待して互いを尊重するようになった。満州事変の時には長春少年団が満洲の知識を吸収するのに役立った。
第二十三章「如何に学校教育に健児教育を採り入れるべきか」 健児教育の採用方法を四つに分ける。一、一地方の希望者で構成される従来から行われてきた「一般自由型」。この型が最も多く、全体の7割を占める。小学校教員と連携すると効果的である。二、一学校全体の希望者で構成される「全校自由型」。三、一学校の或る学年の希望者で構成される「学年自由形」。四、ある学年全員で構成される「学年固定型」である。
感想 三型での説明の中で、「少年少女は健児服を着て登校し、頗る軽快なる登校姿を途上で見る」とか「一種の心地よき父兄会を形作る」など、群大付属小の男の子が半ズボン姿で登校し、地域のエリートであることをそれとなく見せつけているように思えるのはこの名残か。
第二十四章「校外生活指導と健児教育採用の手段」 栃木県での健児教育組織化の例が参考になる。同県では申し込み単位を毎学校指導者一名と児童二名以上四名以内を一単位とし、指導者の資格は満20歳以上で、小中学校教員や青少年団指導者また団員の中で指導者となろうとする男子とし、児童の参加資格は中等学校低学年か小学校尋常六年以上の男子とする。師団(軍隊)と連携を取って行っている。
感想 当時の文部省訓令が少年団の組織化に大きな影響力をもっていたことが分かる。また日光精銅所の従業員子弟に健児教育法を施したところ、上下和気藹々として好成績を挙げているとのことだが、労働争議を気にしているのか。師団との連携とあるから軍隊的な活動だったことが分かる。
第二十五章「健児教育法に関する二三の実験談」
「『学年自由形』少年団の設立及び経過」 神奈川県横須賀市汐入小学校長 島徳治
一、横須賀少年少女団の創設者とその動機 本団は1921年大正10年4月21日に創設されたが、元々は、某先生の徳性教育のための少年団に対する個人的な関心が始まりだった。
二、連盟加入と記念日 大正13年1924年1月連盟に加入し、1925年、少年団日本連盟本部から二人と、本校出身者で当時横須賀鎮守府司令長官加藤寛治が来団して講演した。
三、後藤総長が大正15年1926年11月14日に来団した。
四、シャム国王からの日本の少年団の健児20名招待に際して、本校の故佐野明徳が選抜された。
「学校教育と少年団」 徳育は教えることではなく、体験を通して悟らせることである。
「学校に少年団を付設した場合の利点と困難点」 優秀な子供が団員として選抜され、全校の模範となる。
「名称及び組織」
「横須賀少年少女団後援会」 当初は指導者が手弁当で指導をしていたのを、保護者負担(一か月二十銭)に改めた。
「経営」
「指導法」
「団員選抜の方法」 指名方式から応募方式に変えたが、一部には前者もある。
「本校を卒業の団員訓練の状況」 小学校を卒業すると参加者が少なくなるが、終生健児行進をすべく、打開の道を講じている。
「全校自由型」少年団の設立経過 東京市○○小学校訓導 ××
一 設立の準備
感想 「少年団日本連盟が、明治天皇の下し給える五か条の御誓の大御心を仰ぎまつり、日本精神に立脚し、…皇基を振起すべく研究されてきた健児教育法が、我が校の教育の物足りなさを補充する方法として最適なものと信じ…」217 天皇と日本精神が常につきまとう。
「○○少年団設立趣意書」
感想 「…国民的訓練と国際的共同博愛の精神を涵養せん…」219 国民的訓練の一方で国際的共同博愛を掲げている点が信じられない。
「○○少年団団則」
二 後援会設立と寄付募集
感想 「少年団は全体の児童を教育するのではないのに、全員から寄付を集めるは不公平ではないか」という(奨学会保護者の)役員の意見に対して「中学校入学志願も財産がなければできない、また剣道も有志の児童であるが奨学会(保護者後援会)として援助している」という反論も出て、採決したところ、(奨学会の)幹事会は満場一致で(募金をすることに決し、)(幹事会)全員が(少年団関係保護者会で後援会設置と寄付行為推進を委嘱された225)6名の委員とともに、寄付募集の発起人となったとのことだが、これは差別を当然とする結論であり、最初に問題提起した保護者の真意はどうだったのだろうか。
「健児の指導観と音楽」 東京市○○小学校訓導
230 健児教育の狙いは子供が持っているその子独自のものを自主的につまり泉が湧き出るように伸ばしてやることである。
苟も人である以上、精神に余裕があれば、大自然の中にあれば必ずや唱歌を歌いたくなるものである。そのような場で神人合一ができる。
事実上少年団歌となっている「花は薫るよ」は団歌として最善なものとは言えないから、もっとよいものに変えるべきだ。
感想 「野営生活の際、朝日に輝く日章旗がしずしずと掲揚される。それさえ既に荘厳、厳粛の気分になるのに、国歌を歌うことによって一層精神の緊張と魂の精錬とができる。」237日の丸と君が代が愛されてきた様子が分かる。
「健児教育伝来当時のスカウトの想出」 雑誌○○編輯主任○○
243 私がボーイ・スカウト体験から習得したことで最も役立ったことは日常生活の常識と精神鍛錬である。横浜の少年団のイギリス人のグリフィン先生に大変恩義を感じている。グリフィン先生は日本のボーイ・スカウトの創始者である。
「細民街児童に歓喜と希望とを与える○○健児団」 東京市○○小学校訓導 ○○健児団隊長××
貧困地域(細民街)の子供は活動的な子が多く、遊戯や作業を好む。253放課後の暇な時間に竹細工など物品の生産活動をさせ、小遣い銭を無駄遣いしないように貯金させてそれを団活動に遣わせたら、喜んで貯金をするようになった。夕食後の暇な時間を学校で予習復習や読書、野外劇の創作をさせた。
メモ 一世帯平均五人五分八厘(意味不明)、世帯主収入が月平均16円65、その他の者の収入を合わせて22円93、家賃が月12円余、その家賃を払える世帯が全体の2割8分に過ぎない。一戸平均五畳の小屋。給食を学校から受けた。無気力な子が多い。
感想 少年団服を着て校庭で国旗を上げ、それから国旗を先頭に明治神宮へ参拝した251, 252とのこと、国旗や明治神宮(国家や皇室)の持つ意味は大きい。
第二十六章「ソコール運動の精神的考案」 ソコールは「鷹」を意味するが、旧オーストリア支配下のスラブ民族チェコ人の民族独立運動の母胎となった体操団体である。19世紀中ごろから末にかけての話。
運動の最初はメリー・ベター氏の私立体操学校である。ソコール運動の中心人物はフユグナーとチルスTyrs.
J博士である。チルス博士は古代ギリシャ国民の雄大な生活を参考にし、「ソコール」という雑誌を発行したが、政府が圧迫した。1882年2月26日首府プラーグでチェッコ体操協会が第一回の集会を開いた。
政府の弾圧を受けたが、1888年政府の許可を勝ち取り、その後運動が盛んになり、セスカ、オベック(連盟の意)、ソコールスカ(ソコールチェッコ連盟)などの団体が設立され、今日の団体数は3000、団員数は60万人にまで成長した。
ソコールでは民族精神を実修している。その天幕生活の特長は、国民として祖国に尽くす精神運動にある。
体操は民族の理想に基づく哲学的根拠によって精神的結合の目的に用いられなければならない。今の日本の体操界は西洋式体操を模倣し民族精神に無関心である。
メモ 弱小民族が体操を民族的精神運動に転化させ、民族独立運動に役立てるという話。
第二十七章「皇国運動(やまとばたらき271)の実行提唱」 体操教育(皇国運動体育法279)は、明治前半期の西洋教科書の翻訳279(欠陥的な唯物・理智・実証の教育281)ではなく、生命の本質を反省し、古事記や日本書紀に基いて肇国の理想を体現270, 271し、日本人としての自覚を喚起し、天皇と臣民との根本的関係を自覚させる体操教育でなければならない。281
「皇国精神体得の運動法としての皇国運動(やまとばたらき)」
主として古事記の記述を追いながら体操を16に分類して図解する。第13動は宇治拾遺に基づく。
図解は筧克彦編「神あそびやまとばたらきに在る」を引用。
感想 筆者は明治前半期の日本の教育を西洋の教科書の翻訳として西洋の模倣を批判するが、古学や神話を重視する宗教的・民族主義的体操という筆者の発想は西洋の模倣である。
「ドイツの体操家ヤーンは古学愛好者であり、グーツ・ムーツは神学を学び、シュピースは神学を研究した。デンマークの国民高等学校創始者グルンドウイヒは北欧神話の研究者であり、チェコのソコール体操の創始者チルスは哲学者・美学者だった。」276, 278
第二十八章「生理学上より観たる皇国運動の価値に就きて」
これは筆者の論文ではなく、侍医で生理学者の西川義方の論文を転載したものである。皇国運動の各部の生理学的効用を解説する。生理学的説明自体に神がかり的雰囲気はないが、冒頭と結びはそうでない。
冒頭では皇国運動の定義の一つを「神国日本に対する正しき国体観念の養成」とし、「精神的訓練に留意して惟神(かんながら)の精神を反省することを目的とし、之によって至純至潔の人格を表現し、随神の明(さや)けき気分そのものになる」などと言い、この皇国運動の哲学的・宗教的方面に関するさらに詳しい説明は筧博士を参照されたいとしている。310
そして結びではツエーライヒの「国民精神に関する考察」1879を紹介し、ツエーライヒが「公共的教育や団体・国家及び宗教の健康を伴う体育法を高級体育法と命名し、その体育法は国民精神の繁栄であり、生活の全方面に対して円光を放射する」としているが、その言葉は神の道を表現する皇国運動の目的について注釈するものだとしている。
感想 生理学的説明、特に呼吸や血液循環についての説明はそれ自体として参考になるが、皇国運動の各部と生理学との関係については無理やり関連付けた感がする。
第二十九章「天皇に直隷する国家教令部設置の進言」 従来文部大臣が頻繁に更迭され、また政党出身を常としてきたから、日本のように歴史の長い国の教育を掌る機関として、軍隊の参謀本部や海軍軍令部と同様に、天皇に直属する国家教令部の設置を進言する。
第三十章「新学習院論」 以前のように学習院を大学まで拡充し、学生が受験競争に惑わされないようにすべきである。皇室は天皇の最高の翼賛者であるからだ。
・新学習院は分析的・倫理主義を捨て、国民的理想信念343に基く研究ができるようにすべきである。理智実証主義の教育は学生を唯物史観に馳せさせ、過激な国運転向法である西洋革命の傾向によろうとする危険がある。349
・乃木(大将)院長は、日本の独自性を主張した山鹿素行の「中朝事実」を学習院で講じた。344
・新学習院は国家防衛のために一死を辞さぬ愛国的熱情を涵養すべきである。
・学習院に学ぶ富豪の子弟は財を誇らず、勤労的・奉仕的でなければならない。347(もともと学習院は明治天皇が華族教育のために作り、海外遊学者を多数輩出した。341)
結語「教育者、教化者に訴ふ」 民族思想をしっかり固めなければならない。国を興すものは教育者である。我が国の教育的効果に一大革新を招来せしめねばならない。
「満州事変、上海事変で君国のため命を鴻毛の軽きに比して、天皇陛下万歳を唱えて戦死した幾多の勇士は皆小学校教育によって得た魂の持ち主なのだ」353
我が昭和興国の非常時代には憂国の思想家は出ないのか。国基たるべき民族の理想信念の探求未だ足らず。
付録 第一 昭和七年文部省訓令二十二号及文部次官通牒児童生徒に対する校外生活指導に関する件並要旨概説 昭和七年十二月 文部省社会教育局 文部省訓令第二十二号 北海道庁府県
児童生徒に対する校外生活指導に関する件 文部大臣 鳩山一郎
付録第二 昭和七年十二月十七日 文部次官 粟屋謙 各地方長官宛
児童生徒に対する校外生活指導に関する件
児童生徒に対する校外生活指導に関する訓令並通牒要旨概説
全国社会教育主事会議に於ける 文部大臣訓示要領
付録三 少年団栃木県連盟第一回役員総会議案
以上
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