2023年4月30日日曜日

朝鮮学校「歴史教科書」を読む 萩原遼・井沢元彦 祥伝社新書 2011年

朝鮮学校「歴史教科書」を読む 萩原遼・井沢元彦 祥伝社新書 2011

 

(在日)朝鮮学校の歴史(朝鮮史)教科書

 

 

目次

 

069 

 

中級2

1章 わが国の歴史の始まり

2章 三国の成立と発展

3章 渤海と後期朝鮮

4章 統一国家高麗

5章 朝鮮王朝の成立と発展

6章 朝鮮封建社会の変化

7章 近代最初の時期の反侵略・反封建闘争

8章 反日義兵闘争と愛国文化運動

9章 日帝の「武断統治」と3・1人民蜂起

 

中級3

10章 1920年代の民族解放運動

11章 1930年代の民族解放闘争の発展

12章 祖国解放

13章 1920年代―1940年代前半期の文化

 

高級1

1編 自主独立国家建設のための朝鮮人民の闘争1945.8—1950.6

①解放後、新しい朝鮮が進む道

②新しい朝鮮の建設

③全朝鮮的な統一政府樹立のための闘争

④解放後の在日同胞の立場と愛国愛族運動

2編 祖国解放闘争1950.6—1953.7

①戦争前夜の情勢

②朝鮮戦争の開始と拡大

③戦時期の在日同胞の状況と闘争

④朝鮮人民の偉大な勝利

071

 

高級2

3編 新たな戦争の危機を除去し、共和国での社会主義の基礎建設と南朝鮮での民主化のための闘争1953.8—1960

①朝鮮で続く戦争の危機

②社会主義基礎建設のための共和国人民の闘争

③民主と統一のための南朝鮮人民の闘争

④朝鮮戦争後の在日同胞の愛国愛族運動

4編 外国勢力の圧力と再侵略策動を避けて、共和国で社会主義工業化を実現し、南朝鮮での軍事独裁に反対する闘争1961—1969.1

①国際舞台における新しい変化と朝鮮半島

②社会主義工業化を実現するための共和国人民の闘争

③軍事独裁と「韓日会談」に反対する南朝鮮人民の闘争

1960年代の在日同胞の愛国愛族運動

5編 「二つの朝鮮」でっちあげ策動に反対し、共和国で全社会の主体思想化を実現し、南朝鮮で「維新」独裁に反対する闘争1970—1980

①国際的な「緊張緩和」と朝鮮半島

②全社会の主体思想化を実現するための共和国人民の闘争

③「維新」独裁に反対する南朝鮮人民の闘争

1970年代の日本の状況と在日同胞の愛国愛族運動

 

高級3 

6編 政治・軍事的な緊張状態を解消し、共和国での朝鮮式社会主義の強化と、南朝鮮での自主、民主、統一のための闘争1980—1989

①「新冷戦政策」と朝鮮半島につくり出された情勢

②朝鮮式社会主義を強化するための共和国人民の闘争

③自主、民主、統一のための南朝鮮人民の闘争

1980年代、在日同胞の愛国愛族運動

⑤連邦制統一を実現させるための闘争

7編 民族の尊厳と自主権を守り、共和国での強盛大国の建設と南朝鮮での反米自主、民主化のための闘争1990—

①「冷戦」の終息と鋭い対決の場となった朝鮮半島

②強盛大国建設のための共和国人民の闘争

③反米自主、民主化のための南朝鮮人民の闘争

1990年以後、在日同胞の愛国愛族運動

⑤我が民族どうし、祖国統一を成しとげるための闘争

 


 

081 19世紀中葉、わが国に対する武力侵攻の先頭を切ったのは米国侵略者たちであった。

 米国侵略者たちは18667(陽暦8月)「シャーマン」号を朝鮮に侵入させた。「シャーマン」号は大同江を遡って侵入した。平壌監営の役人が、わが国では外国との貿易は禁止されているから帰れと言ったが、奴らは万景台付近まで入り込み、あらゆる蛮行を強行した。米国侵略者たちは平壌監営代表との会談において、コメ千石と多くの金・銀・ニンジンを差し出せと脅迫した。そして、羊角島付近まで侵入し、略奪と殺人・蛮行を強行した。

 憤激した平壌城の軍人たちや人民たちはこぞって立ち上がり、724(陽暦92日)、木を積んだ多くの船に火をつけて「シャーマン」号の方に向かわせた。「シャーマン」号は麻束のような火柱に包まれ、大同江に沈んだ。(中級2―5P

 

 

100 金玉均をはじめとする開化派は、国王を動かして改革運動を繰り広げた。彼らは国家機構を近代的にするための活動を繰り広げる一方、新式軍隊を組織し、人材を養成するための措置もとった。(略)

 開化派は金玉均の指導の下に18841017日(陽暦124日)、近代的な通信機関である「郵政局」の竣工宴会を契機に政変を引き起こした。金玉均は別宮放火計画が失敗すると、直ちに郵政局の隣の家に火を放ち、政変を引き続き推し進めた。

 金玉均は昌徳宮に駆け込み、「清国軍隊が反乱を引き起こした」と言って、王を景祐宮に移させた。そして王の名で守旧派の頭目たちを呼び出して処断した。こうして守旧派政権は打倒された。

 翌日金玉均は新政府を組織し、それを全国に公布した。新政府は我が国最初のブルジョワ政権であった。

 こうした時期、明成王后は王を昌徳宮に移しておいて、清国に救いを求めた。

 19日、1500余名の清国軍隊が王宮を攻撃した。開化派の兵力は、日本軍隊が「約束」を覆して逃亡したが、最後まで勇敢に戦った。しかし開化派は数的に優勢な清国軍隊の攻勢を食い止めることはできなかった。

 開化派政府は「三日天下」として崩壊してしまった。

102 「甲申政変」は失敗したが、封建政府と外来侵略者たちに大きな打撃を与え、わが国のブルジョア改革運動の発展に多くの影響を与えた。(中級21011P

 

 

084 反日義兵闘争とともに愛国的知識人によって民権運動が活発に繰り広げられた。

 愛国的知識人たちは近代的な政治団体を組織し、人民たちを見ざめさせ、愛国心を呼び起こすための活動を積極的に繰り広げた。18967月、李商在、南宮権をはじめ愛国的知識人たちによって、ソウルで最初の近代的な政治団体である「独立協会」が組織された。

085 「独立協会」は「迎恩門」を打ち壊し、その場所に独立門を建て、「慕華館」を独立会館と名前を変えた。これが人民の民族自主精神を呼び起こす上で助けになった。「独立協会」はまた、国文で書かれた「独立新聞」を発刊し、日帝の侵略を防ぎ、国の独立を守るための精神で人民を啓蒙し目覚めさせた。(中級2―21P

 

 

138 わが民族が日帝の植民地統治に抑えつけられていた1912415日、平壌市万景台にて敬愛する金日成主席様が誕生された。106

 お父様であられる金亨稷(キムヒョンジク)先生におかれては、(息子に)国の柱になってくれることを望む気持ちで、ご子息の名を金成柱(キムソンジュ)とつけられた。107

 敬愛する主席様の家族は代々貧しい生活をされたが、皆が国と人民とを愛する心を強く持っておられた。

 金亨稷先生におかれては、「志遠」の愛国思想を持ち、国内の各地と中国の東北地方にまで出かけられ、反日独立運動を指導され、国と民族の運命を救う道に自らの一生を捧げられた。(略)

139 この時期、お父様におかれては、重患のお身体だったが、闘争を中断されなかったばかりか、ご子息に自身の闘争過程で得た貴重な経験と教訓についてよく話された。これとともに「志遠」の思想と三大覚悟、二丁のピストルを遺産としてお渡しなされた。(中級357P

 

 

144 幼いころからご両親から愛国主義教育を受けて成長された主席様におかれては、8歳から12歳まで両親に従って中国の臨江、八道溝で過ごされながら、亡国民族の悲しみと苦痛を感じとられた。19233月、12歳の幼い齢で、朝鮮をよく知るために、中国の八道溝から故郷の万景台まで、学びの千里の道を歩き、昌徳学校で学ばれた。19251月、国を取り戻すとの決意を胸に抱き、万景台を後にして、中国までの光復の千里の道をお歩きなされた。(中級358P

 

 

 主席様におかれてはこのような準備に基き、19261017日、わが国ではじめてとなる真の革命組織である「打倒帝国主義同盟」(略称「トゥ・ドゥ」)を結成された。(中級361P

 

 

 19278月には、より広範な青年学生を結束させるために、打倒帝国主義同盟を反帝青年同盟へと改編された。

 いろいろな革命組織が出現し、その活動が活発になるにつれ、すべての組織を主導する組織が必要になった。こうして1927828日、朝鮮共産主義青年同盟共青)を組織された。(中級36364P

 

 

 主席様におかれては、会議後の193073日、最初の党組織である建設同志社を組織され、6日には朝鮮革命軍を結成された。

108 この隊伍には金亨権先生をはじめとして車光洙、金赫、崔昌傑、崔孝一など優秀な新世代の共産主義者たちが入っていた。朝鮮革命軍は創建後、多くの小組に編成され、満洲や朝鮮国内各地に派遣された。(中級367P

 

 

 主席様におかれては、反日人民遊撃隊を創建できるすべての条件が整うと、1932425日、安図県・小沙河うさぎ谷にて、100余名の隊員たちによる反日人民遊撃隊を創建された。そして優秀な隊員たちを満洲の各地に送り、反日人民遊撃隊を組織するようになされた。(中級380P

 

 

 敬愛する主席様におかれては、各地の部隊に対する統一的な指揮体系を強化するため、19343月、反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍へと編成された。

 朝鮮人民革命軍は自らの力量をいっそう強化しながら、中国の人民とともに共同の敵・日帝に反対して戦った。1936年には、中国人民武装部隊たちと東北抗日連軍を組織し、中国人民とともに肩を組んで戦った。(中級382P

 

 

127 抗日武装闘争を武力だけでは潰せないと考えた日帝は、革命隊伍を内部から破壊するために19322月、民族反逆者と日帝の手先たちで「民生団」をいうスパイ団体をつくり出した。しかし警戒心の高い革命家たちと人民の闘争によって「民生団」の正体が暴かれ、「民生団」は実質的な活動ができないまま、その年の4月に解散した。(略)

 

 敬愛する金日成主席様におかれては、濡れ衣を着せられて「民生団」にされた人々をお救いくださり、さらにはご自身を謀略で陥れようとしていると疑われていた韓ボンソンという隊員までも固く信じ、正しくお導きなされた。(略)

 

 このようなときの19352月、汪清県で大荒崴会議が開かれた。会議に参加した人々は、そのほとんどが反「民生団」事件を誤まった方向に持って行った排他主義者たちであった。

128 排他主義者たちは会議で、「東満にいる朝鮮人の70%、朝鮮人民革命家の8090%は『民生団』だ」と言いながら、「自分たちが『民生団』をたくさん捕まえることは革命のためになることだ」と正当化しようとした。そして「朝鮮人は少数民族であるから幹部になれないし、中国の地で活動する朝鮮の革命家たちが、民族解放のスローガンを掲げるのは間違ったことだ」と主張した。

 

 主席様におかれては会議で彼らに、「もしあなたたちの話が事実だとしたら、『民生団』と疑われた人たちが何のために3、4年もの間、遊撃根拠地で、寒い冬の間、食べることも着ることもできないのに戦ってきたのか」と反問された。

 そして「そんなに多くの人達が『民生団』であるならば、私たちはこの場で安心して休むことも会議をすることもできないはずだし、遊撃区はすでになくなっていたであろう」と話された。言葉を続けられて、「『民生団』とされて死にゆきながらも『朝鮮独立万歳!』と叫んで死んでいった彼らが、果たして『民生団』であろうか」と話され、彼らの間違った主張を退けられた。(中級38687P

 

 

109 敬愛する主席様におかれては、193655日、祖国光復会の創立を宣布なされた。

 このようにして、日帝に反対し国を愛するすべての朝鮮人を結集させ、反日闘争に総動員できる全国的規模の地下革命組織が出現するようになった。(中級396P

 

 

093 日帝は193911月から、朝鮮人の姓と名を日本式に換えさせるため「創氏改名」を強要した。創氏改名をしないと学校への入学を許可しなかったし、行政機関で扱うすべての事務を受け付けなかった。朝鮮式の名札がついた貨物は鉄道局とか郵便局では受け付けなかった。ひどい場合は物資の配給対象から除外されたし、「非国民」「不逞鮮人」とされ、日帝警察の監視対象になった。(略)

094 民族の言葉と姓名まで奪う日帝の例をみない民族抹殺策動によって、朝鮮は巨大な監獄に、息づまる暗黒地帯に変わった。(中級3―107P

 

 

130 困難な難局を乗り越え、革命を引き続き高揚へと導くため、敬愛する金日成主席様におかれては、19381125日から126日まで、濛江県・南牌子の樹林の中で、朝鮮人民革命軍指導幹部たちの会議を開かれた。

 (この)会議は1万余名の敵軍が包囲陣を敷いている極めて困難な環境で進められた。

 主席様におかれては、間違った熱河遠征路線を批判され、革命に於いて自主的な立場を守り、生み出された情勢に対応して、朝鮮人民革命軍部隊が至急に白頭山を中心とする国境一帯へと進出し、広い地域で軍事政治活動を繰り広げることについての方針を提示された。

131 これは敵の中心部に入り込むことだから、うまくいかないと包囲される危険千万で艱苦な道であった。

 しかし朝鮮人民革命軍の主力部隊が国境一帯に進出して積極的な軍事政治活動を展開してこそ、日帝に大きな打撃を与え、(朝鮮)国内に派遣された小部隊と小組らの活動を支援することができた。また敵の弾圧騒動でいっとき士気が落ち込んだ革命家たちや国内の人民に勝利に対する確信を抱かせ、反日闘争に積極的に立ち上がらせることもできた。(略)

 

 胸まで埋まる雪の中、氷点下40度を前後する厳しい寒さと、食糧迄なくなった朝鮮人民革命軍主力部隊の歩みは、最初から困難きわまるものであった。

 敵は朝鮮人民革命軍が出没しそうな場所に多くの武力を待機させ、7万もの大部隊で革命軍部隊のあとを追ってきた。そして(敵は)朝鮮人民革命軍が食べることも休むこともできないようにしたあと、決定的な攻撃をしかけ、一気に殲滅させようとした。

 このような状況下で敬愛する主席様は、敵が大兵力で向かってくるときは素早く部隊を分散させて敵共が手掛かりをつかめないように混乱させ、反対に敵が分散すると部隊を一つに集めてやっつける戦術をお取りになった。また敵をあっちこっちへと引きずり回しては討ち、夜も小部隊で敵の宿営地を襲撃し、一晩中自分たちで同士討ちさせるように仕向けた。(中級3108110P

 

 

 敬愛する金日成主席様におかれては、19394月、長白県・北大頂子の密林で、苦難の行軍を総括された後、敵に息つく間も与えず、連続して打撃を加え、祖国へと進軍することについての方針を出された。当面は鴨緑江沿岸国境一帯の敵に打撃を与えるための春季攻勢を展開し、敵たちを大きな混乱に陥れなければならないと教えられた。そして敵の国境警備陣に隙間をつくり、国内進攻作戦準備を完璧なものにしなければならないと強調された。(中級3112P

 

 

110 こうして19427国際連合軍が創設され、朝鮮人民革命軍は(その)朝鮮支隊となった。

 国際連合軍が創設された後、敬愛する主席様におかれては、小部隊活動を組織・指導される一方で、朝鮮人民革命軍の部隊を極東基地に集結させ、以前から進めていた軍政訓練を大々的に展開された。(中級3130P

 

 

141 (金正日の誕生) 日帝との最後の決戦のための準備が着々と推進されていた時期の1942216日、敬愛する金正日将軍様におかれては、白頭山密営で誕生された。

 朝鮮人民革命の軍隊員たちは、木や岩などに、「ああ、朝鮮よ!同胞たちよ!白頭光明星の誕生をここに知らせる!」、「二千万同胞よ!白頭山に白頭光明星が独立天出竜馬に乗って出現した!」などの文字を彫り込み、(金正日)将軍様の誕生を知らせた。

142 日帝によって全家族を失い、早くから革命の道を歩まれ、敬愛する金日成主席様を忠誠で崇め、決死擁衛なされた金正淑お母さまにおかれては、ご子息を白頭山の息子として育てることを固く心に誓われた。(すごい精神主義)

 当時密営には何もかもが足りなかった。お母様におかれては、(金日成)主席様とご自身の軍服を切り縮めて、ご子息に着せられた。女性隊員たちは自分たちの軍服から引き出した綿とハギレをつぎ合わせた布団をお母様に贈った。

 19426月、白頭山密営を訪ねられた主席様におかれては、女性隊員たちが抱かしてくれたご子息を胸に抱き、次の世代を立派に育て、革命の代を継がせて、彼らが白頭山で掲げた赤旗を、代を継いで揚げていこうと熱く語られた。(中級3132133P)(世襲制の讃美。まずい)

 

感想 極端な精神主義や世襲制讃美など、違和感を抱く点もあるが、他人や他国に迷惑をかけないのなら、精神主義のために客観性や実証性に欠けていても、また世襲制讃美のために、政権が多くの人に開かれた選挙制でなくとも、それでいいのではないか。周りからあれこれ批判されたとしても、北は北でマイペースに進むことしかできないのだから。もちろん批判を避けるということではないが。

 

日本の教科書で、「徴用工」が強制連行ではなかったとか、慰安婦制度に軍の関与がなかったとか、強制性がなかったとか、慰安婦それ自体に触れないとか、関東大震災時に朝鮮人や中国人の虐殺はなかったとか、南京虐殺はなかったとか、沖縄の集団自決で軍の強制性がなかったとか、事実と異なる記述をさせる方が問題ではないか。

 

 

 敬愛する金日成主席様におかれては、すでに推進してきた全民抗戦によって祖国解放を成し遂げるための作戦準備をいっそうお深めになられた。

 19432には、咸鏡南道薪興郡西谷里の兜鏊峰会議で、朝鮮人民革命軍の総攻撃と、それに合わせた全人民的な蜂起の背後連合作戦で、祖国解放の歴史的偉業を達成するための3大路線が提示された。(中級3134P

111 敬愛する主席様におかれては、194589日、朝鮮人民革命軍の全部隊に祖国解放のための総攻撃命令を出された。

 朝鮮人民革命軍の部隊はソ連軍との緊密な連携のもと、日帝が誰も破ることができないとうそぶいていた国境の要塞に強烈な攻撃を仕掛け、それを一瞬のうちに打ち破り豆満江を渡った。そして89日に慶源(セビョル)、慶興(ウンドク)を解放し、雄基(先鋒)方面に進撃し、国内の広い地域を相次ぎ解放した。(中級3146P)(日本軍が負けそうなときは勝てて当然。)

 

 これ以上持ちこたえられなくなった日帝は、連合国の「ポツダム宣言」を受け入れ、最終攻撃作戦が始まって1週間もたたない1945815日に無条件降伏した。

 朝鮮人民革命軍の部隊と人民武装隊は、日帝の無条件降伏の後もあちらこちらであがく日帝侵略軍を討ったし、人民は各地で日帝の植民地統治機関を叩き潰し、人民的な地方自治機関を立てていった。

112 こうして朝鮮人民は、41年間(1905年~1945年)にわたる日帝の植民地統治から解放された。20余年にわたる朝鮮人民の抗日革命闘争は、輝かしい勝利をおさめ、祖国は解放された。(中級3147P

 

 

168 1945年の日本降伏後の朝鮮半島の米ソによる分割統治

 

 アメリカは軍事的便宜上38度線を境界線にし、ソ連が北朝鮮の、アメリカが南朝鮮の日本の軍隊の武装解除をするという38度線分割案を提示し、これをソ連に通知した。ソ連の同意を得たアメリカは、815日、一般命令第1号を米太平洋方面軍総司令官のマッカーサーに伝達し、92日、日本が公式に降伏の署名をすると同時に、世界に公表した。こうして朝鮮半島には日本の軍隊を武装解除するための臨時分界線である38度線が引かれ、ソ米両軍が駐屯することになった。アメリカによる南朝鮮の力ずくの占領と布告は、38度線が朝鮮半島と私たちの民族を永遠に分けるための分界線になることを予告した。(高級16P

 

 

158 敬愛する主席様の祖国凱旋を歓迎する平壌市群衆大会が19451014日にモランボンの麓にあった平壌公設運動場(現在の金日成競技場)で開かれた。大会場は、平壌市はもちろん、北と南の各地から集まって来た数多くの群集で埋め尽くされた。

159 百戦老将が出て来るとばかり思っていた群集は、30代の青年将校であられた敬愛する金日成主席様が演壇に現れると、驚嘆の歓呼を上げた。

 敬愛する金日成主席様におかれては、人民の熱烈な歓呼に答礼なさり、「あらゆる力を新しい民主朝鮮建設のために」という歴史的な凱旋演説をなさった。(高級113P

 

160 194892日から平壌で朝鮮最高人民会議1回会議が開かれ、99日、朝鮮民主主義人民共和国の創建が全世界に宣布された。会議では朝鮮民主主義人民共和国の憲法が採択され、敬愛する主席様を首班とする朝鮮民主主義人民共和国政府が組織された。

162 共和国政府は連立内閣として構成されたし、ここには北南朝鮮の基本的な政党、社会団体等が参加した。朝鮮民主主義人民共和国政府は朝鮮人民自身の手で建てられた自主的で合法的な人民の政府であり、北南朝鮮人民の総意によって建てられた真正な統一政府である。

 敬愛する金日成主席様におかれては、次のように教示された。

「朝鮮民主主義人民共和国の創建と中央政府の樹立は、祖国の統一と自由独立のための南北朝鮮人民の団結した闘争の結実であり、わが人民の偉大な歴史的勝利であります」

 共和国は創建の日から自主的な対外政策を実施し、ソ連に軍隊の撤収要請書を送った。そして194812月までに北朝鮮からソ連軍を完全に撤収させた。(高級15253P

 

 

171 朝鮮戦争前夜のアメリカの動き

 

 「戦争挑発をこれ以上先送りできない」と考えた米国大統領トルーマンは、617日、国務省顧問ダレスを朝鮮に急遽派遣し、国防長官ジョンソンと合同参謀本部議長ブラッドレーを日本に送り込み、「全面的な戦争」のための準備をさせた。(根拠は?)

 38度線を視察して「戦争を挑発の日と確定した」(意味不明)ダレスは、621日、東京でマッカーサー、ジョンソン、ブラッドレーと秘密会談を持った。この会議では対日単独講和条約問題を看板に掲げて、実際は朝鮮での「侵略戦争挑発」と、中華人民共和国の領土である「台湾の占領」に関連した問題を討議した。(高級176P)(根拠は?)

 

 

164 朝鮮全面戦争開始直前の記述 和平よりも戦争への決意が感じられる文章だ。

 

 米帝のそそのかしのもと、李承晩は1950623日から38度線の共和国地域に集中的な砲射撃を加え、625には「全面戦争」へと拡大した。

 共和国政府は直ちに李承晩「政府」へ戦争行為を中止することを要求し、「もしも侵攻をやめないときには決定的な対策をとる」(この文章には予定された全面戦争への決意が示唆されている)ことを警告した。しかし敵は「戦争の炎」(曖昧な表現。具体的には何か。)を引き続き拡大した。

 625、「共和国に作り出された厳重な事態」と関連して、朝鮮労働党中央委員会政治委員会が招集され、ついで共和国内閣非常会議が開かれた。

165 敬愛する金日成主席様におかれては、会議で「朝鮮人をみくびり刃向かう米国のやつらに朝鮮人の根性を見せてやらねばならない」(すでにやる気)とおっしゃりながら、共和国警備隊と人民軍部隊に、「敵の武力侵攻を阻止し、即時反攻撃にうつるよう」命令をお下しになった。(高級179P

 

 

173 朝鮮戦争終結の自分勝手な解釈

 

 「日毎に敗北のみを重ねて行き詰まり窮地に陥った米帝」は、1953727日、朝鮮人民の前に「膝を屈し」、板門店で停戦協定に調印した。

 朝鮮停戦協定は、「名誉の停戦」と言い立てながら、軍事的敗北を美化する目的で持ち出した「米帝のすべての強盗的な要求と不当な主張」を粉砕し、「共和国側が提示した基本原則」に従って締結された。

 停戦協定は停戦の確固さを保障すると同時に、朝鮮問題の完全な解決のための政治会議を召集し、「朝鮮から全ての外国軍隊の撤去と朝鮮問題の平和的解決等の問題を協議」することを規定した。

 3年間の祖国解放戦争は、全朝鮮を占領し、さらにアジアと世界を制覇しようという米帝の侵略計画を破壊させた。

174 また米帝の「強大性」の「神話」を打ち砕いてしまい、下り坂の始まりとなり、民族解放のための世界人民の闘争を大いに鼓舞した。

 全世界の進歩的人民は、世界史上初めて米帝に打ち勝ち、祖国解放戦争を勝利に導かれた敬愛する主席様を「偉大な軍事戦略家」「反帝闘争の象徴」として高く称賛し、わが人民を英雄的人民と称揚した。(高級1111P

 

 

184 北朝鮮に対するソ連の介入か

 

 この時期に国際共産主義運動の中に現代修正主義が台頭し、大国主義者たちは共和国にセブ*COMECONに入れと圧力をかけ、彼らの指揮棒に従って動くように強要した。

 そのため崔昌益朴昌玉などの宗派分子(分派分子)たちは、外部勢力のバックを得て、武装暴動まで試みた。

185 宗派分子たちは19568月に開かれた朝鮮労働党中央委員会全員会議(8月全員会議)で、党の路線と政策に反対し、党を正面から攻撃した。

 崔賢をはじめとする抗日闘志たちと会議に参加した人たちは、彼らにすぐに反撃を加えて、敬愛する主席様を首班とする党中央委員会を固く擁護した。

 全員会議の後、朝鮮労働党は外勢の執拗な干渉策動を断固として粉砕し、主体を徹底的に打ち立てるための闘争を力強く推進した。(高級21718P

 

*セブはロシア語らしい。

 

 

186 閉塞状況の中での自立路線の展開

 

 19564月に開催された朝鮮労働党第3次大会は、社会主義工業化の基礎を作るための5カ年人民経済計画1957年~1961年)の雄大な目標を示した。

 当時アメリカと李承晩は「北侵」騒動にいっそう狂奔し、現代修正主義者たちも共和国に対して内政干渉をするとともに、すでに約束していた援助をきちんと実行しなかった。

 共和国内部の状況も非常に苦しかった。

 5カ年計画の膨大な課業を遂行するための資材と資金、技術が依然として不足し、宗派分子の後遺症も残っていた。(中略)

 敬愛する主席様におかれては、最も不足していた鋼材の問題を解決するために、1228日、降仙製鋼所を訪問なさり、千里馬運動の最初の烽火をお上げになった。

 降仙の労働者、技術者たちは、人が一歩進む時に我々は十歩進み、人が十歩走ったら、我々は百歩走るという精神で、6万トンしか生産できなかった分塊圧延機で12万トンの鋼材を生産するという奇跡を創造した。(精神主義)

187 千里馬運動は工業と農業、教育、文化を始めとするあらゆる部門で力強く展開され、日毎に新しい奇跡と革新が創造された。(高級21820P

 

 

223 在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国」事業 実際は韓国系の人がほとんどだったようだが。

 

 帰国運動が活発に展開されるようになると、李承晩「政権」は、日本との「国交交渉をやめる」など、なんだかんだと言い、帰国協定の締結を妨害し、「民団」は「北送反対」のスローガンのもとに、「北送反対実力阻止闘争委員会」(19592月)を作り、「列車停止事件」(195912月)まで引き起こした。

 総連と在日同胞は、こうした妨害活動を退けて、日本の各地で大衆集会や署名活動、日本政府への帰国要請など、様々な形と方法で、帰国運動を活発に展開した。

 この運動は、日本人民をはじめ世界の進歩的人民の幅広い支持を得た。

 同胞の正当な要求を無視できなくなった日本当局は、帰国協定の締結によって得ることになる政治・経済的利害関係の打算に基き、1959213日、在日同胞を共和国に帰国させることに関する決定を下した。(韓国とは同様のことをしなかったのか)

 朝日赤十字代表団の間の会談の結果、1959813日、在日朝鮮公民の帰国に関する協定が締結された。

 そうして19591214日、975人の同胞を乗せた最初の帰国船が新潟港を出港し、16日、祖国の清津港に入港することになった。

 帰国の実現は、自主独立国家の海外公民として、在日同胞が民主主義的な民族の権利の擁護のための闘争で勝ち取った勝利となっただけでなく、同胞の力に依拠して繰り広げられる愛国愛族運動の礎となり、高揚の契機となった。(高級25051P

 

 

191 主体思想 敬愛する主席様におかれては、生み出された情勢と党内部の状況をご覧になり、19675月、朝鮮労働党中央委員会第4期第15回全員会議を招集なさった。

 会議ではブルジョワ、修正主義分子の策動が全面的に明らかになり、党の唯一思想体系を確立することに関する問題が討議された。

 主席様におかれては、全員会議でなさった結論で、党の唯一思想体系にもとづいた、党と人民の統一と団結を強化することは重要なものであると強調なさり、そのための課題を明らかになさった。

192 (この)全体会議を契機に、ブルジョワ思想、修正主義思想などあらゆる「不健全な」思想を根こそぎにし、主体思想で武装するための活動が力強く繰り広げられた。

 196764日に、ポチョンボ戦闘勝利30周年を迎え、両江道恵山市に「ポチョンボ戦闘勝利記念塔」が建てられたのをはじめ、主席様の労作と革命伝統を収録した図書が数多く出版されて、いたるところに「金日成同志革命思想研究室」が作られた。

 党の唯一思想体系を打ち立てるための活動を通じて、全人民は敬愛する主席様の周りにいっそう固く団結するようになり、自主、自立、自衛の路線を固守して進むことができる確固とした保障が得られることになった。(高級26567P

 

 

204 日韓条約

 

 「韓日会談」は互いの対立と、朝鮮人民、日本人、アジア人民の強い反対闘争によって何度も中断したが、「三角軍事同盟」の実現を追求するアメリカが積極的に介入したために、1965622日、「韓日条約」と「韓日協定」の締結によって終わった。「韓日協定」は、過去に日帝が朝鮮民族に対して犯した罪に対する謝罪とそれ相応の補償もなしに、南朝鮮当局者と締結した屈辱的で売国的な協定だった。

 「韓日協定」を契機に、「韓日定期閣僚会」(19673月)、「韓日民間合同経済委員会」(19691月)などの常設的機関がつくられ、南朝鮮に日本の企業が潮のように入り込み、「韓」日関係は再び支配と隷属の関係になった。

 

 この時期に「韓日会談」とともに、アメリカの戦略に沿って、南朝鮮ではベトナム派兵が推進された。

205 アメリカは「ブラウン覚書」を通じて、南朝鮮当局に「国軍」の大々的なベトナム派兵を求め、朴正煕はこれに積極的に応じた。

 19652月の「後方支援部隊」2000人の派兵で始まったベトナム派兵は、1975年までに延べ312000人に達し、南朝鮮はアメリカに次ぐ第2の派兵国となった。

 この過程で「猛虎部隊」、「白馬部隊」などが派兵されて、アメリカの指揮のもとで、ベトナム人民の殺戮の先頭に立ち、世界の非難と糾弾の対象となったが、数万人の(韓国人)青壮年が命を落とした。

 

 「韓日会談」とベトナム派兵を通じて、東北アジアでは米日「韓」の「三角軍事同盟」体制が形成、強化され、自主の道を進む共和国を圧殺するための態勢が整えられ、南朝鮮はアメリカと日本の二重の植民地に転落した。(高級27475P

 

 

207 大韓航空機事件

 

 「南朝鮮旅客機失踪事件」

 19871128日、イラクのバグダッドを出発し、ソウルに向かった南朝鮮旅客機が、タイ―ミャンマー国境付近の上空で失踪した事件。南朝鮮当局はこの事件を「北朝鮮工作員金賢姫」が引き起こしたとでっち上げ、大々的な「反共和国」騒動を繰り広げ、その女を第13代「大統領選挙」の前日に南朝鮮に移送することによって、盧泰愚「当選」に有利な環境を整えた。(高級334P

 

 

202 金日成死去 

 

 199478日の午前2時、夜深くまで職務をなさっておられた、敬愛する主席様におかれては、執務室で殉職なされた。

 この日、錦繍山議事堂では朝鮮労働党中央委員会政治局非常会議が招集された。

203 敬愛する将軍様(金正日)におかれては、大きな悲しみを強い意志で克復されながら、政治局のメンバーたちに、「悲しみを力に変え、弔意行事を滞りなく組織しなくてはならない」と告げられた。

 7912時、重大放送で、敬愛する主席様(金日成)の死去を知らせる「全ての党員と人民に告げる」が発表された。

 共和国人民は青天の霹靂のような悲報に接し、敬愛する主席様を、声を詰まらせながら泣き叫び、全国は血の涙の中に沈んだ。

 主席様の銅像を訪ねる人々の波は、昼となく夜となく絶えることがなかった。そして主席様を追慕して捧げる花輪と花束は森となった。

 南朝鮮の人民は、当局者たちの厳しい弾圧の中でも焼香所を設け、敬愛する主席様に対する哀悼の意を表明し、追悼文を送った。

 総連をはじめとする世界130余の海外同胞組織の代表団と団体、そして世界各国の朝鮮同胞が、連日弔電を送り、追悼行事を行った。また数多くの弔意訪問団を祖国に送った。(高級380P

 

 

220 最近の在日の状況

 

 在日同胞を取り巻く深刻な経済状況は、同胞の生活や企業活動を圧迫し、それは総連の活動と民族教育活動にも深刻な影響を及ぼすようになった。極度に険悪になった環境の中から抜け出すために、少なからぬ同胞が日本人に「同化」して生きることで、生活の安定と後の世代の将来のための道を求めようとし、日本の学校に通う学生の数や、「帰化」、「国際結婚」が急速に増加した。

 またこの時期、在日同胞社会の主役として登場した3世、4世の同胞の中では、民族的誇りや自負心を持って生きるのではなく、苗字や名前だけを残して「朝鮮系(韓国系)日本人」として生きることが、あたかも国際化の流れに合っているかのごとく考える傾向が現れ始めた。(高級3108109P)(何を指しているのだろうか)

 

 

208 拉致被害者5人帰国以後

 

 20029月の朝日平壌宣言発表以後、日本当局は「拉致問題」を極大化し、反共和国、反総連、反朝鮮人騒動を大々的に繰り広げることによって、日本社会には極端な民族排他主義的な雰囲気がつくり出されていった。(高級3122P

 


 

083 朝鮮学校「歴史教科書」関連年表①1866—1945

 

1866 開国を迫った米艦「シャーマン」号を朝鮮が大同江で撃沈

1876 日本との間で「江華島条約」締結

1884 金玉均ら開化派による「甲申政変」起こるも失敗

1894 「甲午農民戦争」をきっかけに日清戦争勃発

1896 「独立協会」創立。「迎恩門」を破壊し、独立門を建設

1904 日露戦争勃発。日本が朝鮮からロシア勢力を放逐

1910 日本が韓国を併合。朝鮮側は李完用が協力

1911 日本が「朝鮮教育令」を公布

1912 415日 金日成誕生

1919 反日独立を目指した「3・1民族蜂起」勃発

1920 「朝鮮日報」「東亜日報」創刊

1923 金日成12歳、「学びの千里の道」を歩き、学校に通う

1925 金日成、万景台より「光復千里の道」を歩いて中国へ

1926 金日成、「打倒帝国主義同盟」結成

1927 金日成、朝鮮共産主義青年同盟を組織

1930 金日成、建設同志社を組織、朝鮮革命軍を結成

1932 金日成、反日人民遊撃隊を創建し、南満地方へ進出

1934 金日成、反日人民遊撃隊を、朝鮮人民革命軍へと編成

1936 金日成、師団を率いて白頭山一帯に進出

   5月、金日成、「祖国光復会10大綱領」宣言発表

1938 朝鮮教育令改正。ハングル教育禁止

1939 日本が「創氏改名」を公布

1942 ソ連が、中国、朝鮮で、国際連合軍を創設

   216日 白頭山の密営で、金正日誕生

1945 815日 日本の敗戦により、解放

 

161 朝鮮学校歴史教科書関連年表②(1945年~2002年)

 

1945    92日、米ソが「38度線分割案」を世界に公表

        1014日、金日成の祖国凱旋を歓迎する群衆大会開催

1946    28日、北朝鮮臨時人民委員会設立。金日成委員長選出

1948    43日、韓国・済州島における民衆蜂起と大弾圧

815日、大韓民国樹立、99日、朝鮮民主主義人民共和国樹立。ソ連軍に軍隊の撤収を要請、年内に完全撤収終了。

1950    625日、朝鮮戦争「勃発」。10月、中国参戦。

1953    727日、停戦協定調印

1955    525日、在日本朝鮮人総連合会の結成

1956    8月、現代修正主義者たちの党内抗争起こる。

        この年、千里馬運動が始まる

1957    第一次5カ年計画スタート

1959    12月、在日朝鮮人の帰国事業開始

1965    6月、日韓協定締結

1967    5月、労働党中央委員会第4期第15回会議で、金日成独裁体制を確立。主体思想を盛り込んだ十大綱領発表

1974    金正日、党中央員会委員に選任。(後継者として推戴)

1980    党大会で、金正日書記長が党ナンバー2に選任

1987    大韓航空機爆破事件

1994    78日、金日成主席死去

        10月、アメリカから軽水炉(原発)の供与合意

1997    金正日、朝鮮労働党総書記に選任

1998    強盛大国建設構想を発表。(金正日を)国防委員会委員長に推戴。

2000    平壌で南北首脳会談開催

2002    平壌で日朝首脳会談開催。金正日が日本人拉致を認める。

 

 

以上


 

感想 202344()

 

祥伝社の帯「こんな学校になぜ日本の税金を使うのか?!」の「こんな」に軽蔑的感情が込められ、「日本の」という表現には、在日朝鮮人学校が日本国と全く関係ない民族の学校であるかのように受け止められる。つまり、朝鮮と日本との過去の歴史の必然として今朝鮮人が日本にいるということを無視しているかのような表現に思える。

国を持たないクルド人が、トルコやシリア、イラク、イランの中で自民族の尊厳を持ち続けたいと考えており、それらの国々と軍事・文化面で軋轢を引き起こしているのだが、そのことは朝鮮人にも当てはめる事が出来るし、またもし日本人も逆の立場に立たされて、例えば中国の満洲に日本人部落が存在し、当地の日本人学校で子供を教えるようなことを考えてみるべきではないか。そうすれば、他者の置かれた立場がよく理解できるのではないか。

 

以上

 

 

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