牧瀬菊枝編『田中ウタ 無名戦士の墓標』未来社1975
要旨
はじめに 牧瀬菊枝
007 「思想の科学研究会」で鶴見和子・俊輔から教えられ、庶民列伝の形で名もない庶民の歴史を聞き書きによってつくり始めてから20年以上になる。名もない人々の記録をつくることは、今日までの歴史に洩れた部分を浮かび上らせ、本当の人民の歴史に近づくのだと思う。私は聞き書きで鶴見和子の「生活記録」の手法を採用した。私は1930年代の解放運動に参加した私の友人たちの聞き書きを少しずつ始めた。
「生活記録」を通して山代巴との交流が始まり、山代から助言を受けた。山代からは先駆者の中でももっとも厳しく権力と対決した人たちの聞き書きが必要だと言われた。山代は日本の解放運動では数少ない非転向を貫いた丹野セツや田中ウタを紹介してくれた。吉祥寺の山代宅で田中ウタを紹介してもらった。1964年8月20日のことである。
008 田中ウタは背丈も高く、かっぷくのいい、たっぷりした人である。目立たず、地味で、やさしい感じで町のおばさん風で謙虚な人に見えた。その後大塚の女子アパートに3回お邪魔した。
その年(1964年)の10月、田中が丹野セツを紹介してくれた。丹野の病室(勤務先か)に訪ねた。丹野は当初「書かれるようなことはしていないから」と拒否したが、田中、山代と私が説得し、それから4、5回、敗戦までの聞き書きをした。それから5年間『丹野セツ』が出るまで、丹野、田中、山代と私(牧瀬)の4人で丹野の記録を討論し、丹野の周辺の人々の聞き書きもした。
009 『丹野セツ』の次に久津見房子の記録を始めた。ただ聞き書くだけでなく討論もした。昭和7、8年、1932年、1933年前後に共産党内で行われたハウスキーパーについて、そのあるべきあり方も討論しなければならない。その間秋山長三郎(田中の実兄)の聞き書きもした。
感想 ハウスキーパー職は党による女の一利用法か。セックスも提供したらしい。女は党中央が何をやっているのかも知らずに黙々と伝令やハウスキーパーなどの家事を担当していたらしいが、そういうのでいいのかどうかということなのだろう。ただし、女性党員も本部の方針決定には関与できなくても、「赤旗」が発行されているならばという条件付きだが、それを通じて本部の方針を把握していただろうが。
田中が急逝した。本書は(今から)11年前の田中の聞き書きと、「市民連合の会」で田中が語ったことと、山代巴が田中について書いたものなどで構成されている。田中の聞き書きは十分討論できなかった。
010 田中は誠実で会う時は時間に正確であった。
私たち4人の合宿研究会は山代宅で行った。山代は故郷の水炊き料理を振舞ってくれた。丹野と山代は日本酒を飲み、田中と私は広島産の賀茂鶴の味を少し覚えた。田中は人生の終わり近くになって初めて「世の常の男たちのたしなむ味」をほんの少しだが知り得た。
日立に丹野、田中と三人で出かけた。日立は田中が四・一六で捕まるまでの古戦場で、当時田中は黒襟のはんてんを着て店で働いていた。
011 私は当初は重い録音機を持参していたが、今は軽いカセット式のに代えた。四人の中で数年若い山代と私は病気がちだった。
田中は丹野と連れ立って私の家に来た。毎月初めの水曜日に「旧友会」の集まりが大久保である。その会場が私の家から歩いてすぐのところにあるので、二人は会の始まる前に決まって私の家に立ち寄った。それが二、三年続いた。田中さんには虫歯が一本もない。田中が入院する直前の6月の初め、丹野は会合に行き、田中が一人私の家に留まった。その時田中は自らの癌について語った。田中は夫(豊原五郎のことか)に先立たれ子供もいなかった。女は相手の男次第で評価される。その夜田中は寂しそうだった。
013 男の革命家にはこの田中の気持は分からないだろう。
田中は1930年代後半のあの暗い時期にひたすらハウスキーパーとして誠実に生きた。
井上愾(原稿は忄偏ではなく火偏)・里雨夫妻や渡辺義通、秋山長三郎から話を聞き、山代巴、丹野セツ、正田ちゑからは原稿を戴いた。感謝する。
1975年7月 牧瀬菊枝
メモ
Ⅰ 田中ウタ聞き書(1964年8月)
1 社会主義への目ざめ
015 8人兄妹の末っ子で、1907年明治40年10月11日、群馬県群馬郡滝川村八幡原若宮(現・高崎市)に生まれた。
016 当時小学校の高等科に行く女の子はほんの二、三人で、女学校、それもミッション・スクールへ進むというのは、本家は特別にハイカラな家だったのです。
感想 文化は金持ちから生まれ、貧乏人からは生まれない。皮肉なことだが、同様に社会主義思想も金持ちから生まれる。
田中ウタの本家は小地主で、村で唯一新聞を購読していた。028田中ウタの父親は分家だったが本家と交流があった。本家のお嬢さんは前橋のキリスト教系の女学校(共愛)に通った。田中ウタの三番目のお兄さん(秋山長三郎)は優秀で、中学から桐生の高等工業(桐生高専029)に進み、ウタに先進的な情報を提供した。
019 大正12年1923年1月、高津渡(東大新人会)や川村恒一(慶応学生)、岩鼻火薬所の技師・藤田悟らが企画した高崎公会堂での文芸講演会に兄と参加。最初は入れてくれず、小競り合いになったが、講師も「そんなバカなことはない!」と言って、引っ張り込んで入れてもらった。講師は秋田雨雀、佐野袈裟美(早大の学生)、麻生久であった。020
赤瀾会検挙(大正10年1921年11月)や、第一次共産党検挙(大正12年1923年6月5日)などの新聞記事をスクラップし、関係者に憧れた。(赤瀾会の)堺真柄(当時19歳)、久津見房子、仲宗根貞代、橋浦はる子、高津多代子などや、第一次共産党検挙では荒井邦之助、佐野学などである。赤瀾会検挙では「角袖(刑事)が張り込んで、ついにつかまえた」と新聞は報道した。
021 前述の高崎での講演会の後の座談会で、赤城山麓の足尾に近い勢多郡の青年文化サークルの尾池真弓が出席していて同会の松本英子(27、28歳独身)を紹介してもらった。松本はその後回覧雑誌「ポプラ」を送ってくれた。
(大正12年1923年)7月、高崎の常仙寺で高津渡らが夏期農民大学を開催した。講師は蝋山政道、末広源太郎、川口多一郎、北沢新次郎、赤松克麿らで、二番目の百姓の兄のあとについて、村の処女会の人を誘って参加した。講演会の後に茶話会があり、赤松克麿が「赤旗の歌」の歌詞を書いてくれ、早稲田の学生で建設者同盟の伊藤隆一(現・成蹊大学教授)や大学の偉い先生が私に話しかけてくれ、その後文通が続いた。
2 群馬共産党事件
関東大震災後は群馬でも「社会主義者や朝鮮人が何かやる」というデマが飛び、私のうちを社会主義者だと思って「社会主義者はぶっ殺したほうがいい!」と聞こえよがしに言った。父は木刀で警戒した。
敵は群馬に共産主義サークルがあることを知っていたと思う。高津渡、川村恒一、藤田悟らは「燎原」という回覧雑誌を発行していた。原稿用紙に書いたものを綴じたもので表紙を黒く塗り、その中に赤く「燎原」と抜き出してあった。
024 大正12年1923年9月13日から検挙が始まり、38人が投獄された。兄は大間々会議に出席していなかったので起訴にならずに済んだ。9月17日、県の特高と検事局の五、六人がハイヤー二台でやって来て「ウタさんいるか?」誰も応対しなかったので「はい、わたしです」と出て行った。「なんだ、子どもじゃないか!」母と私が家宅捜査に立ち会った。私は群馬共産党事件後すぐに手紙や「社会」の字のある本をすべてミカン箱につめて物置の裏に埋めた。「こんなこどもじゃしょうがない」と一物も得ずに引き上げた。駐在所が手紙はどこから来るのかと調べに来たが。
025 群馬共産党事件では「ポプラ」同人の尾池真弓が、続いて松本英子が検挙され、その時私の手紙が発見された。
1929年4月16日の弾圧事件の(私の)予審廷で知ったのだが、この時父は前橋の裁判所に呼ばれ、私の成績や何やらを調べられたらしい。
不起訴になった兄は群馬に帰り、獄中の人々の救援活動を行った。弁護士は布施といった。私は兄の手伝いをした。
026 その後兄は東京に出て、建設者同盟で寝泊まりして救援活動をした。後に徳田球一の下で組合活動をした。
上の二人の兄は篤農家で、藤岡の高山社の養蚕学校で技術を学び、冬は学理を学び、養蚕教師の免状を取った。自転車で巡回教師をして村々をまわって歩いた。
兄と本家の中学の同級の東大出がよく議論していた。本家の従姉の旦那は婿だが米エール大学出で、分家にも広島高師から東北大に行った人もいる。
兄は長谷川如是閑の「我等」「解放」を取っていて、私にいろいろ教えてくれた。
秋山長三郎1900--さん聞き書き(秋山長三郎、田中ウタ、丹野セツ、牧瀬菊枝の懇談が044まで続く)
027 牧瀬 群馬共産党事件の指導的人物である高津渡の父は群馬の自由民権運動を担った。
秋山 私の家は中農で自作農だが、周囲の小作農は家と屋敷があるだけで、肥桶を始めとする農具や風呂桶もなく、収穫物のほとんどを地主に持って行かれる極貧状態にあった。
本家だけが新聞を取っていて、父は本家に行って新聞を読んだが、近所の農家は文盲だった。中学生の多くはカバンや自転車を買ってもらったが、私にはそれができなかった。中学5年になってやっと自転車を買ってもらった。受験参考書は友人から借りた。
029 大正8年1919年に粕壁中学を卒業後、桐生高専(高等工業)の入試に一度失敗したが、翌大正9年1920年4月に入学し、寮に置かれた「改造」「解放」などに掲載された山川均の社会主義関連の論説やロシア事情、労働争議、批評などを読んだ。賀川豊彦の『死線を越えて』の献身的な論調には強く打たれた。労働運動の盛んな頃だった。家からの仕送りで「改造」「解放」を買った。貧乏人の味方になろうと思い、会社に勤める気はなかった。
030 高津渡と川村恒一は中学の1年先輩で、藤田悟は富山の薬専を出て岩鼻の火薬庫の技師をしていた。藤田悟は私(秋山長三郎)同様クリスチャン的な社会主義者であった。私は当時はまだマルクスやレーニンは知らなかったが、金持ちや権力者に対する貧乏人の憎しみや恨みが爆発するのは当然であり、それが社会を変えると思っていた。高津渡、川村恒一、藤田悟の三人が中心になって農村青年を組織し、私もそれに参加した。
031 回覧雑誌「燎原」を二回発行し、これによって農村サークルが拡大した。また(桐生の)みすずや書店に山川均の「社会主義研究」『タンクに水』『社会主義大意』『進化論と社会主義』や(各種)パンフレット、堺利彦の水曜会のものなどを取り寄せてもらったが、この本屋の客仲間として黒保根の尾池真弓や桐生の神谷と知り合いになり、この人たちが私を通して高津と結びつき、他の郡の青年も呼び込んで、群馬の農村サークルが拡大した。
真っ黒になって働く兄弟の中で自分だけが特別扱い(中学進学)をうけている中で、自分だけがホワイトカラーになってはいけないと思い、そのころ入って来た社会主義思想こそ自分の進むべき道だと考えた。
桐生高専卒業後の大正12年1923年5月に粕壁中学の恩師のあとをついで、粕壁中学の物理の教師になった。
群馬共産党事件 群馬共産党検挙事件が起こったことを知らない1923年9月17日、越ケ谷区裁判所の判事が下宿に来て家宅捜索され、学校に案内させられた。翌日校長が「教職にある身がそういう嫌疑をかけられ、学校までガサを受けたということは、このまま教員として使っておくことはできない。あなたの将来に汚点を残さぬためにも懲戒免職という形はとりたくないから、退職願いを出してほしい、出さなければクビだ」と言うので辞職し、郷里に帰った。
群馬共産党事件の14人の被告の救援活動をした。布施弁護士や黒田寿男が指示してくれた。
群馬共産党事件の14人の被告は、翌1924年2月に一斉に保釈になった。
033 私は上京して池袋の建設者同盟に入った。
丹野 群馬共産党事件はその年の6月に検挙された第一次共産党事件と関係があったのか。
秋山 高津渡個人は関係あったのだろうが、群馬共産党事件と第一次共産党事件との関係はない。私の想像だが、高津渡は川合義虎らの共産青年同盟と関係があったと思う。1923年は日本の国際青年デーの最初の公然たるデビューの年であった。1923年初に高津渡らが池袋で発行した雑誌「建設者」は、表紙にカールとローザを掲載し、反軍国主義運動と銘打って国際青年デーの宣伝をした。1923年1月15日号は「カールとローザの日」と題する特別号であった。この年の初めにおそらく(共産)党や共産青年同盟もできたのだろう。
田中 お正月に高崎で文芸講演会をやっている。
秋山 文芸講演会もブックデーもやったが、その時東京の亀戸を中心に国際青年デーを労働青年を中心にやった。9月1日に大間々の電気館で無産青年デーを公然とやり演説会を開催したが、それは東京の運動に呼応したものだろう。
034 丹野 荒井邦之助が指導していたんでしょう。
牧瀬 菊池邦作『群馬社会運動史覚書』(上毛経済新報、昭和30年)に、荒井邦之助による群馬の藤田悟らへの国際青年デーの「指導」が紹介されているが、1923年1月15日に長野県下伊那郡にも荒井が赴き、当地のLYL(Liberal Young League)の発会式に参加・指導している。その日(下伊那では)「カール記念日」準備会が持たれ、下伊那LYLは荒井邦之助の提案によって「社会革命の遂行を期する」と銘打って結成された。(下伊那LYLは)大正13年1924年3月に検挙され、19人が起訴されたが、その中心人物は現社会党の代議士羽生三七である。(『下伊那青年運動史』国土社)
秋山 群馬で当時活躍した人は、高津渡や農民の吉田義作、落合、そして小林邦作(現・菊池、西ヶ原高等蚕糸(現・農工大))、藤田悟(富山薬専、岡山出身)、国鉄の田村栄太郎、吉田鋼十郎らであった。
感想 2023年7月29日(土) ここ034で丹野セツは東京の荒井邦之助が群馬の藤田悟らを国際青年デーに関して「指導」したと何気なく言っているが、私はハッとした。「指導」、確かにマルクス主義は、特に無学の農民や工場労働者にとって、指導されなければ分からない難解な「教義」である。そして指導と命令には親和性があり、異端・破門(除名)もつきものとなる。戦前の非合法時代の共産党では特に協議の場が少ないから命令服従の関係で通っていたかもしれないが、戦後の合法時代、民主主義の時代ではそれは通用しない。だから党の正統性を維持するために除名の乱発が行われてきたのではないか。以下丹野セツの発言部分を引用する。丹野の言葉遣いの中に、「私は昔から中枢に入りびたりだったのだ」と自慢しているように聞こえないか。
034 秋山 信州と群馬県は青年運動が盛んだった。
丹野 荒井邦之助が指導していたんでしょう。荒井さんはわたしが行ったころ、戸塚源兵衛にあった暁民会の事務所に寝泊まりしていたんですよ。下が高津正道さんの住居で、その二階に浦田武雄さん、荒井さん、川崎悦行さんなどいろんな人がいました。わたしもしばらくそこに寝泊まりしていたんです。
牧瀬 荒井邦之助は群馬に来て、藤田悟らと会い、これを指導し、また藤田は上京して、佐野学、荒井、荒畑寒村などと会い、教示を受けています。(菊池邦作『群馬社会運動史覚書』(上毛経済新報、昭和30年))なお、長野県下伊那郡のLYL(リベラル・ヤング・リーグの略です)の発会式に荒井邦之助が参加し、指導しています。大正十二年一月十五日、「カール記念日」の準備のために集まり、荒井邦之助の提案により「社会革命の遂行を期する」こととしてLYLを結成しますが、十三年三月、群馬共産党と同じく大検挙にあい、十九人の起訴者を出しています。その中心になったのが、現社会党代議士の羽生三七氏です。(『下伊那青年運動史』国土社刊にくわしい)
035 田中 新町の鐘紡には新潟から女工が集まった。鐘紡以外にも仐(やまじゅう)や茂(まるも、実際は茂を〇で囲んだデザイン)という蚕糸会社もあり、日曜日は女工でにぎわった。
尾池真弓は美術学校を中退して黒保根で組織活動をし、松本英子、新井光子らと雑誌「ポプラ」を出した。
秋山 松本英子は当時28歳だった。
牧瀬 事件は大正12年1923年9月だが、新聞発表は大正13年1924年3月20日である。「火薬庫技師を中心に共産党を組織、一味徒党の虚無的思想、秘密出版を行い、宣伝す」(『上毛経済新報』昭和30年第14、15号)「群馬共産党の歌」(高津渡作詞)の歌詞は当時の青年の気持をよく現わしている。
群馬共産党の歌 高津渡 作
一 三山今や紅葉して
利根の流れの清きとき
未来を告ぐる青年の
胸の血潮の赤色旗
上毛の地にひるがえす
同志とらわる十四人
二 されど同志はすこやかに
獄舎の窓は暗けれど
こんぺきの空仰ぎては
革命の意気いや高く
れいろうの月眺めては 玲瓏(れいろう、玉などが透き通るように美しい)
若き心のきよきかな
三 ああバクーニンとらわれて
ロシアの獄にありしとき
三寸の舌欧州の
三帝国を倒さんと
彼獄窓に叫びしが
三帝国や今いずこ
四 われら青年もだすとき もだす(黙す)
石や叫ばんこの叫び
よし大利根の激流は
暴力をもて止むべきも
歴史(とき)の流れの強うして
権者の剣光りなし
五 いま牢獄に倒るとも
未来をつぐる赤色旗
高くかかげて解放の
光りに映えて燃えぬべし
いざ聖戦の陣頭を
熱血をもて彩らん
038 群馬のキリスト教
038 秋山 僕は群馬の内村鑑三(的な雰囲気)に影響を受けた。本家の娘は前橋のミッション・スクール共愛女学校を出た。その娘婿は婿に来てから米エール大学に留学し、帰国後仙台の東北学院の教師になった。その娘のやえちゃんと静枝の二人は東北学院の女子部を出た。(本家は)地主で番頭につくらせていた。村の有力者で十町歩もある。あの辺では大きい方だ。やえちゃんの婿はのちに東京外国語学校教授になったロシア文学者の除村吉太郎である。
私が川村030や高津030を知るのも、学校が同じであるということだけでなく、クリスチャンであるということもある。藤田悟が岡山県から来て知り合うのもクリスチャンということだろう。
群馬は内村や新島襄が生まれたところで、教会も早くできた。家に一番近いところは藤岡である。住谷天楽など当時のキリスト教徒には尾行がついた。群馬は公娼廃止を全国で最初にやった。これもキリスト教の先覚者の影響である。本家の伯母はクリスチャンだから、久布白落実を知っていた。
群馬は関東の中でも、ことに上毛で、水平社運動が盛んである。農民運動は東毛が盛んで、館林、強戸村、毛里田村は水平社運動の中心である。竹槍で国粋会と戦争して血の雨を降らした世羅田事件もある。
本家では僕が子どものころオルガンを弾いていた。
田中 あのころ「少女の友」「譚海」などの読みふるしを本家からもらってきて読んだ。
秋山 わたしのところは篤農家で、養蚕が上手だった。
039 「種蒔く人」
秋山 (雑誌)「種蒔く人」は私に大きな転機を与えた。「種蒔く人」は血のしたたるような赤い帯封で送られてくる。その影響でエスぺランチストになった。高津正道034、小川未明、秋田雨雀020などの社会主義者は皆エスぺランチストである。エロシェンコ、秋田雨雀、アナーキー的な辻潤、加藤一夫の『救いのない人生』などを読んだ。
「種蒔く人」に載ったロシア革命に関する論争で、ロマン・ロランは、初めのゴリキーの立場のように、教養のない労働者が独裁をやると文化を破壊するという不安を持っていたから、プロレタリア独裁を認めないが、バルビュスは労農政権の立場を支持する。その読後の感動を回覧雑誌「燎原」に書いた。「燎原」は原稿を綴じて黒い表紙をつけ、蚕の種紙か何かで「燎原」と字だけ赤くしたので目立った。
040 「ポー父ちゃん」は藤田020の作品で、「ポー」とサイレンが鳴ると父ちゃんが出て行くという意味である。藤田は自分の子に革也と名付けたが、戦死した。奥さんはその事件で小学校の先生を首になった。「馬の叛逆」も藤田の文で、日光廟へお参りする使いが「下に下に」といって通る例幣使街道がわたしの田舎にあるが、そこを鞭打たれて行く馬車の馬が叛逆する、つまり労働者が資本家に反逆することをたとえた。「すすめ」「潮流」なども、読んだ後は妹(ウタ)に送った。当時はちょうど社会主義の勃興時代で、ロシア革命の影響で盛り上がって来ていた。
田中 私も兄(秋山長三郎)から送られてくる本の影響を受けた。関東大震災の影響も強い。全く根も葉もないでっち上げで朝鮮人が殺された。毎日飴をカッチカッチと売りに来る善良な朝鮮人が殺された。神保原はひどかった。山川さん夫妻の文章に魂を揺さぶられた。殺された同志川合義虎を悼む相馬一郎さんの文章に引き付けられた。
秋山 私は建設者同盟にいたり徳田球一のうちにいたりしたが、そうすることが妹(ウタ)の励ましとなったと思う。直接会うことはないし、扇動や教え込むことはなかった。分家の兄が守ってくれた。
田中 私は兄と一緒に演説会に行ったりしなかった。私が出かけるときは(兄は)知らんふりしていた。
秋山 父は僕の顔を見ても口をきかなかった。
田中 母は佐倉宗五郎みたいなことかと思っていたようです。(意味不明)
秋山 父は昭和十年1935年に死んだ。(私を)国賊だと思っていたようだ。
042 カールとローザの日、社会主義の勉強会
田中 群馬でも大正14年1925年ころには農民組合ができていた。私は農業が暇になる1月から4月いっぱい裁縫に通ったが、その間に家の者をごまかしていろいろな会合に出席した。
大正14年1925年の正月、「評議会に丹野セツという婦人闘士がいる」と兄から聞いていたので、丹野さんのお話を聞こうと、カールとローザの日を記念して、1月15日、16日に前橋の農民組合の県本部を借りた。ここに群馬県共産党事件の被告として検挙された尾池真弓の奥さんが子ども一人を連れて留守番をしていたので、(そこを)借りることができた。女だけ7、8人が集まった。田口さんの三人姉妹のうち上の二人、ツギさん、マチさんも誘った。丹野さんはこのころ二十二、三でした。私たちは袂(たもと)の(長い)着物を着て帯を締めているのに、丹野さんは元禄袖*に事務服を着てコウモリ傘を持ってやってきた。*元禄袖は袖丈が短い。
大正15年1926年の正月、また丹野さんをお呼びしましたが、忙しくて来られず、古川としさんと高橋キヨさんが来られた。古川さんは星製薬の女工さんで、この製薬会社のストの時から組合の活動家になった。高橋さんはもと桐生のハタ織女工だったが、桐生の紡績女工のストライキを指導して首になり、上京して東京市バスの車掌になった。当時市営バスの車掌が赤エリをつけていたので、「赤エリ嬢」と言われた。新町の川村恒一は群馬共産党事件の被告だが、その家を借りて女ばかり十人くらい集まった。この時は埼玉からも女の人が来た。
043 (大正15年1926年、年表では大正13年1924年)お盆に多野郡森新田のお寺で三日間講習会があり、そのうちの二日間出席した。分家の兄も来た。村の小作人の家の友達を誘い、小遣いを出してやり、汽車賃も払ってやった。パンフレットも見せてやった。
兄が東京から本を送ってくれた。『無産者新聞』の創刊号、大正14年1925年9月30日号から取り始めた。兄の勧めで共同印刷の大争議や浜松の日本楽器の争議に十銭カンパした。木崎村の小作争議にも十銭の切手カンパを送った。
東京の政治研究会の支部のようなものが隣の岩鼻にできた。兄は東京へ行く前に岩鼻村の矢中に農民組合をつくったが、私は組合ではなく、政治研究会に入った。矢中の蚕室を借りて演説会場にして、青野季吉、宮井進一(建設者組合)、三宅正一(農民運動家)、浅沼稲次郎、稲村隆一などが演説した。兄もこれに参加した。
矢中村農民組合
秋山 群馬共産党事件の14人の被告の中の最年長吉田鋼十郎は、水沼駅という小さな駅の駅長だった。被告の中に2人の国鉄職員がいた。まだ国鉄労組のない時代である。この吉田鋼十郎の妻吉田フサの実家が矢中村にあり、事件後そこに引っ込んでいたので、この家で研究会を開催していた。後に秋山覚太郎と秋山吉重が1929年4月16日に捕まり、群馬、茨城、千葉、神奈川、静岡の五地方の統一公判が行われた。
044 こういう人たちを中心に何回も研究会を開催していた。まだ機が熟さないうちに僕は上京したが、村では努力を重ね、倉賀野駅前の繭の乾燥場で、東京から庄原達、三宅正一043らを迎えて谷中農民組合の発会式を行い、日本農民組合に加盟した。人数では強戸村とは比較にならない程少なかったが、思想的にははっきり左翼であった。
群馬共産党の影響は大きく、僕が救援活動をやっているうちでも広がった。
田中 なぜ弾圧されたのかと、弾圧に同情的で、五銭でも十銭でも寄付したり、野菜を上げたりする人が出て来る。母もそうだったので私は大威張りで藤田(岩鼻火薬所の技師・藤田悟020)さんの奥さんを訪ねた。教会の牧師が藤田さんと同郷の岡山県の人で、奥さんはそこに身を寄せていたので、私はよくそこへ行った。
私は群馬共産党事件のときにガサをくい、かえって度胸がすわった。やらなくてはならないという気持ちだった。会議に私が出られないので、分家の兄が行って内容を教えてくれた。
045 いつも田圃へ兄と二人で行った。農民歌を歌いながら田圃の仕事をし、行き帰りにも歌った。兄嫁もつりこまれて歌うようになった。近所の人は「にぎやかですね」と言った。この兄は私の理解者だったが、戦後亡くなった。雇った人にまで農民歌を教えて一緒に歌うようになった。
農民歌
一 農に生まれて農に生き
土に親しみ土に死す
土の香りに抱かれつ
汗と涙に生くるなる
我が生命の悲壮なれ
我が生命は腕と足
二 我が故郷は秀麗の
春を告げなん時なるに
高き理想も胸に秘め
暫し眺むる桃の丘
陽(ひ)は早やおちて畑暗く
可憐や迎うる子の笑顔
三 南海はるかに焦(こが)したる
陽かまた余波か知らねども
苦しき真夏のその中に
雄図は尚も火と燃えて 雄図(ゆうと)とは雄大な計画。
努力をつくし草をとる
夢むさぼるは誰(た)か子ぞや
四 曙白く星清く
鍬を片手に畔づたい
今日より寒き秋(とき)なるに
ひびしもやけは血走りて
皮相の風は地に狂う
さはあれ休むもままならぬ
五 努力によりて作りたる
血涙こもる収穫は
努力の二字に幻滅の
悲哀のそれも何かある
遊び疲るるそれよりも
辛苦を知らぬは誰が子ぞや
六 正義の道に血は煙り
自由の矛に勇みたつ
賎(しず)か伏屋の軒場には
泣ける子供を背に負いて
けなげに妻は稼げとも
あわれや糧もままならぬ
七 かくも働きかく努め
日一日と衰退す
我が生活を如何にせん
破れズボンに破れ足袋
ああ今我等たたずんば
混沌の世を如何にせん
八 ああ今我等たたずんば
混沌の世を如何にせん
我等理想の大国家
理想の国をこいねがう
正義をとなえ邪を廃し
紅き血汐を何かせん
田中 私がバクーニンやレーニン、トロツキーなどに言及しても、父や長兄は何も言わず、本家のクリスチャンが私をからかうぐらいだった。私は本家のオルガンで賛美歌を覚えた。
私の最初のころの思想的出発はむしろ明るく楽しい空気だった。
高崎にも後に『無産者新聞』の支局ができ、届けてもらった。若い男の人たちの出入りが多くても悪いうわさも立たなかった。みな真面目で大ぴらで、家でお茶を一緒に飲み、母は「佐倉宗五郎みたいな人か」と言っていた。「女がそんなことをしなくても」と(母は)言うが、悪いことではないと思っていたようだ。(以上で秋山氏聞き書き終わり)
048 処女会(以下は田中ウタからの聞き書き)
田中 当時農村の娘たちには処女会という集まりがあり、私はそこで働きかけた。私は奥むめおの雑誌「婦人と労働」を購読していたので、その中に出ていることを処女会で話した。人前で話すのはこれが初めてだった。これからは女も独立して仕事を持たなくてはならないとか、婦人参政権のことなどを話した。
049 (これがきっかけとなり)私より三級上の田口ツギさんやその妹が私のところに来るようになった。この姉妹の親戚は矢中村に農民組合を作っていた。田口さんの家はコクヤといって半分百姓半分商人で肥料屋をしていた。田口ツギさんは本家のやえちゃんと同級の仲良しで、やえちゃんが女学校の夏休みで帰ってくると、やえちゃんのところに遊びに来た。(田口さんは)下田歌子の実践女学校の講義録をとって読んでいた。
また松本ひささんも高崎の常仙寺の講演会にやって来た。松本さんも家出して東京に出たが、中途半端で終わった。
私がこの処女会で話すようになってから、私が社会主義者だという人も出てきた。
麻生久が「十年たてば革命が来る。そうすればソビエトのようになる!」というと、私たちはワッと興奮した。「飢えたるロシアを救え!」というビラが東京から来た。
村のお諏訪さまのお祭りにブックデーといって、社の近くの家の雨戸を借りて、東京から取り寄せた社会主義の本やパンフレットを並べて即席の本屋をやった。一人が「社会主義とは、どういうものか」と題して演説をする間に、私たちは本を売った。埼玉県からも応援が来た。私の家は群馬と埼玉が接しているところにあった。岸次郎という、精米屋で水車をしている家の息子である。岸次郎の弟は藤岡中学を出て鬼石の教師をしていた。妹のまさ子さんも含めて一家そろってやってきた。私はまさ子さんと文通を始めた。
050 原田源次郎は百姓をしながら晴耕雨読で書斎を持っていて、トルストイというあだ名があった。
新町の鐘紡は盆踊りを三日間派手にやるのだが、そこでもブックデーをやった。クララ・ツェトキンの写真が出ているリーフレットで、長く広げられるものを、女工さんの寄宿舎にまいた。
050 高崎の最初のメーデーは1925年大正14年、醸造工場の人達が中心となり、農民組合や政治研究会の人も参加して行われた。私は高崎に買い物に行くと嘘をついて、田口さん姉妹のうち上の二人を誘って行った。会場にはスパイ(特高)が来ていて、私たちはすでにブラックリストに載っているので、「労働者以外は駄目だ!」という。私たちは行進のはるか後ろから離れてついていき、解散地の公園のちょっと前から行進に参加した。それが翌日の新聞に載り、女の参加は珍しいので、騒がれた。家の者は「嫁入り前なのに、なんてことをしてくれた」と𠮟り、「これからはしません」と平謝りに謝った。
051 同じく大正14年1925年の9月に、無産者新聞が発行されたころ、10月8日、9日ころ、東京で政治研究会の臨時大会が開催された。(高崎の)私たちのところでは誰を出すかということで矢中で会議があった。次兄がそれに出席し「お前が行くことに決まったぞ」という。大会参加者は私の他に男の人が三人であった。家では許さないだろうから、兄と相談した。「汽車賃の片道分の1円50銭は会でもつというから、足りない分は俺が出す」と兄は言う。母に「選ばれたから行かなければならない」と言うと「自分は知らないふりをするから、こっそり出かけて行きなさい。後の責任は自分で負うように」と言った。東京に嫁に行っている「姉のところに行く」と言って家を出た。ちょうど8日、9日は秋祭りのために仕事が休みで都合がよかった。田口姉妹の末の妹さんを誘って一緒に行った。この人の弟さんが朝早く迎えに来て、(その妹さんと)新町の駅で落ち合って東京に出た。
052 当時長三郎兄は浅草須賀町の徳田球一さんの家で書生をしていたので、群馬の代表はここに泊まることになった。フラクション会議をもち、群馬代表は本部支持を決めた。大会は芝の協調会館で行われた。これ(政治研究会の臨時大会)は労働農民党をつくるための準備だったと思う。ここで初めて堺真柄さんに会った。真柄さんは「赤瀾会」の新聞記事以来憧れていた人だ。
群馬の家に帰ると(私が)大会に出席したことが「無産党に咲く一輪の花」と大きく出ている。そのころ父は大酒のみのために実権がなくなっていて、長兄が家のことをやっていた。長兄は大変怒りました。お祭りで嫁に行った姉たちも帰っている時なので、「嫁入り先で姉たちも迷惑する」と言って怒った。
「これからは気をつけます」とその時は済ませたが、私はこのころは運動をしようと決心していた。こんな風に中断されてばかりいては仕事にならないので、東京へ出て打ち込んでやりたいと考え、母に打ち明けた。母は中風で倒れて以来体が不自由で「自分が生きている間は家にいて欲しい」というので、こそこそ運動を続けていた。
この間1925年4月12日に総同盟の分裂があったが、文書を見るだけだった。
「Ⅰ 田中ウタ聞き書(1964年8月) 2 群馬共産党事件」を読んでの感想 2023年7月29日(土)
034 丹野セツは東京の荒井邦之助が群馬の藤田悟らを国際青年デーに関して「指導」したと何気なく言っているが、私はハッとした。「指導」、確かにマルクス主義は、特に無学の農民や工場労働者にとって、指導されなければ分からない難解な「教義」である。そして指導と命令には親和性があり、異端・破門(除名)もつきものとなる。戦前の非合法時代の共産党では特に協議の場が少ないから命令服従の関係で通っていたかもしれないが、戦後の合法時代、民主主義の時代ではそれは通用しない。だから党の正統性を維持するために除名の乱発が行われてきたのではないか。
3 東京合同・評議会のころ
053 大正14年1925年の9月に無産者新聞が発行され、兄が毎号送ってくれた。何か威勢のいいことを書いて投稿した。『無産者新聞』の影響は強かった。藤田農場争議や木崎争議などの農民運動にカンパした。労働者争議では共同印刷、日本楽器、川崎造船などの争議のビラを兄が送ってくるので、10銭カンパをしたり、3銭切手を4、5枚送ったりした。
家出 (1926年)7月5日(年表では20日)、母が突然亡くなった。上京する決心を固めた。農閑期を待った。ところが二番目の兄が母の死のショックや過労で急性肺炎となり寝込み、こうして夏も秋も終わった。
054 (1926年の)暮に東京の姉がお産をするので忙しいから手伝ってくれというので、良い機会だと思って上京したが、その時は手伝いが済むといったん帰郷した。
二番目の兄の嫁が出た(兄嫁の実家の)高崎にある仕立屋に行くことになり、兄嫁の実家に預けられた。そこから裁縫に通ったが、その間に『無産者新聞』の支局の人と連絡して、少しずつ荷物を運んでおき、裁縫道具も引き払い、座布団や針箱も竹藪の垣根に突っ込んでおいた。月曜の朝東京に出ることにして、(その前の晩に)長い書置きの手紙を書いた。兄嫁との折り合いが悪くて家出したと思われてはつらいので、その事については委しくそうではないと書いた。
高崎の駅で『無産者新聞』の支局の人が見送ってくれた。夕べ書いた書置きの手紙を投函した。新聞の切り抜きを貼り付けたものと着替えの下着二、三枚を入れたバスケットを持って、1927年2月20日午後の汽車で東京に出た。
前年1926年の冬、田口ツギさん、マチさん姉妹は、結婚問題が持ち上がって、どうにもならないので、丹野さんを頼って上京し、今は工場で働いていた。ツギさんはそのころ田端の帽子工場で働いていて、田端の駅まで迎えに出てくれるはずになっていたのだが、姿が見えない。三番目の兄が評議会に移って関東金属の書記になっていた。三田四国町に関東金属があった。須田町で乗り換え、兄のところにたどり着いた。
兄もいきなりだったので驚いた。田端の田口ツギさんの家まで、(関東)金属田端支部の人が連れて来てくれた。ツギさんはこの寒さに炭もなく、新聞紙をねじって火にくべてあたっていた。失業時代のため私は王子電車の近くの工場では仕事を見つけられず、パイロット万年筆の並びの大塚ゴムに就職した。
055 初めての検束――婦人同盟準備会
ツギさんと一緒に住み、大塚ゴムに10日ばかり働いたとき、1927年3月3、4日ころ、牛込余丁町の関東婦人同盟の準備会のような集まりに参加した。そこには田島ひでさんや山内みなさんがいた。全部で14、5人で部屋が一杯になった。座ると間もなく淀橋署員に包囲されて総検束、田島さんはその家の主人だというので一人残され、その他はみんな数珠繋ぎになって一人一人に刑事がついて歩く。みんなは口々に「イモを買え!」「そばをおごれ!」とかワアワア言って騒ぐ。留置場は一杯になった。「革命歌」を歌って「出せ、出せ!」と大騒ぎです。(すでにマークされていたかチクリがあったから検束されたのではないのか)
この日初めて捕まった新しい二人と古い経験者二人が残され、他の人は夜中までに出された。私は婦人同盟の柳つるさんと一緒に入れられた。「臭い飯の四、五回も食わないと一人前の闘志になれない」と兄が口癖のように言っていたのを思い出した。この淀橋の警察署長は、もと高崎市で「鬼清水」と言われた人が栄転して来ていた。私は「鬼清水さんですか」とさんづけしたのはいいが、鬼と言ったのが失敗し、懲らしめのために残されて、みぞれの降る寒い日を三晩も留め置かれて脅かされた。これが初めての検束だった。
056 釈放されて田端のうちに戻ると、ツギさんがいない。ツギさんは私が帰らないのを心配して巣鴨署に行った。(呑気ではないか)「そういう君は誰だ?」ツギさんが嘘を言ってペンネームを使っていたのを向こうは知っていた。ツギさんは工場に入るために小島というペンネームを使っていたのがばれ、「氏名詐称」で29日間の拘留となった。そのころは1日1円、29日の拘留は29円積めば出されるが、その金がない。ツギさんは市ヶ谷刑務所に回され、赤い着物を着て半分くらい勤めて、あと半分はみんなで集めて納めて出てきた。
私はこの件でおじけづかなかった。工場の日給は45銭か50銭で、レインコートの釦(ぼたん)つけの仕事である。夜いろんな会合に出歩いていたので、昼は仕事中に居眠りが出る。『無産者新聞』のタスキをかけて街頭で『無産者新聞』の辻売りもした。大塚駅前に動員され、「京都学連事件(1926年1月15日検挙)のことも出ています!」と大声で叫んで売った。立っている場所は地面に白墨で囲んであり、そこから動いてはいけないと言われているのに、そこを動いて出て行って通りがかりの人に売りつけた。ところがそれが自分が働いている工場の主任とは知らず、翌日はさっそくクビとなった。ここでは二週間働いただけだった。
057 婦人同盟の会合事件で一緒に検挙された柿本さんが面倒みてくれると言ってくれたので、柿本さんに居候して婦人同盟の会合に出た。
家との別れ
(1927年に私が)工場へ入ったとき、長兄が田舎から上京し、(東京の)姉の家で長兄に会った。(長兄は田舎に帰れと言うが、)私はどうしても帰らないと頑張った。長兄が兄嫁(長兄の嫁のことか)の手前もあるから一度だけ帰ってくれと言うので、仕方なく帰った。
田舎では親族会議が開かれ、皆が私を責めた。私は決心したことだから断じて曲げなかった。皆は「それなら好き勝手にしろ!嫁入り保険の二百円が満期になっているが渡さない。着物類も何一つやらない。それでよければ好きにしろ」と言う。私は「はい」と言って立ち上がった。一歩外へ出たら涙が止まらなかった。
私はこの決意を母の墓前に報告した。二番目の姉が追いかけて来て「今何の用意もないから」と50銭くれた。私は後ろを見ずに一目散にかけて東京へ来た。
次の年(「その年」1927年の間違い*)のお盆にツギさんが田舎に帰ると言う。私は簡単に帰って来ようという気になった。家ではお盆で兄嫁たちがうどんを作っていた。夕方長兄が来て私の顔をみるなり「何しに来た!」と怒鳴った。私はびっくりして飛び出した。向かいの家のおばさんが気の毒がって30銭くれた。雷の鳴る中を東京に帰った。*1928年7月末から9月上旬までの間は島根から上京する途次だった。
058 「家出した以上は人に頼ってはいけない。人に甘えてはいけない」と三番目の兄(秋山長三郎か)に言われたことを忘れずに今日まで生きてきた。
そのころ1927年は福本イズムが盛んな頃で、福本の本を買って読んだが、何も分からなかった。学生のチューターによる『賃労働と資本』を読み、それが一番身についた。
失業してあちこち手伝いをしている時、兄の関係で評議会のレフトが一軒家をもつので、その留守番になった。後で聞いたことだが、レフトとは評議会の中の党フラクションのことで、(レフトは)合法的な事務所と非合法の事務所と二軒持っていた。私は非合法の事務所番となった。これが私の非合法活動の最初である。
兄に杉浦啓一を紹介された。(杉浦に)「普段は誰もいない。そこにいるように」と言われた。「どこへも出てはいけない、戸籍調べが来たらこう言うように」と一切を杉浦さんに教わった。そこへはいろんな人が出入りして、二階で会議をしたり、時には御飯を食べたりした。
(ある日)スパイ(刑事)が来て戸籍調べをし、「お宅は随分夜遅いですね。この間は徹夜をしましたね」などと色々聞く。私がぎこちない返事をしたので向こうもおかしいと思っただろろう。
(私はここが)秘密の何かだということは感じていたが、困った。出ちゃいけないと言われたから、評議会はすぐ近くにあるが、飛び出してはいけない。困った。
そこへ藤原久(1928年3月15日検挙された藤原久雄のペンネーム)が来た。「ごめんください」と言い、眼鏡をかけ、中折帽をかぶり、マスクをしていた。向こうもかねて顔を知った私が出て来たので「やあ」と言って帽子を取り、なつかしそうに「とうとう脱走しましたか?」と言った。それが最初の言葉だった。(刑事の件はどうなったのか――後述。即引っ越しとなった。)
059 その(1927年の)前年1926年の暮れ、東京の姉の家へ手伝いに来て正月に暇ができたとき、「兄(秋山)のところへ行く」と嘘をついて東京合同へ行ったことがある。そのとき丹野セツを訪ねたのだが丹野はいなかった。竹谷の幸ちゃん(佐野学の甥)が風邪をひいてのどへガーゼを巻いて二階から降りて来て、「誰ですか、丹野さんはいないが、せっかく見えたのだから女の人のいるところを紹介しましょう」と地図を書き、裏のほうにあった二階家を紹介してくれた。そこに藤原久058さん夫婦がいて、二階にはガソリンみっちゃんがいた。(藤原久夫妻は)みっちゃんも呼び、蕎麦を取ってくれて雑談した。その時(藤原久は)東京へ出ることを勧めてくれた。私の気持はまだ動揺していたが、約束はしなかったが、このとき(東京に残ろうと)決心した。藤原久さんや渡部義通205 さんのことは以前兄からよく聞かされていた。それで(そういういきさつがあったので)藤原久さんがこのとき「とうとう脱出しましたか」と言ったのである。
私はそれより何よりさっきスパイが来たと言った。藤原久は「や、いかん」と言って小さい紙片を(私に)渡して「これを誰かに渡してくれ。もし来なかったら焼き捨てるよう」と言ってすぐ出て行った。いくらも経たないうちに評議会の児玉さんや西氏さんなどが「引っ越しだ!引っ越しだ!」と言って入って来た。私も荷物をまとめた。菊田(goo blog菊田善五郎173か)さんのうちへ行けと言われたのでそこへ行った。どこへ荷物を持って行ったかは知らない。
久さんに会ったのはそれが最後だった。久さんが引っ越しの緊急手配をしたのだろう。そこの家には神道久三さん、島上善五郎さん、秋和さんなども来ていた。後で分かったことだが、スパイが入っていたので分かったのである(この隠れ家が警察にばれたということか)。
次に評議会の幹部が他の家を借りてそこの留守番になったのだが、大家さんに告げる名前を私が間違えたので、その仕事も解任となった。
060 兄がお前は工場へ行って働けというので、(1927年)5月ごろ業平橋の三田土ゴムに入った。ここは以前丹野さんや堺真柄さんも働いた工場で、南喜一さんもここでストライキをやって失敗した。組織のなかなかできないところだった。それで慎重にやろうということでまず調査活動から始めた。会社へは本所緑町の叔父の家に住んでいることにして、名前は村の人の名前、田口というのを借りた。往復9銭の早朝割引電車で通った。普通は14銭である。その同じ電車に会社の専務の親戚で工場の事務をやっている人が乗っていて、「田口さんは緑町のほうでしょう?」と言われて慌ててしまった。(実際はどこに住んでいたのか)
東京合同
それで東京合同の本部事務所に引っ越した。渡政のおっかさんと田口ツギさんと三人で六畳の部屋で暮らした。おっかさんはドロップ工場で働いていて、毎日前掛けの中へドロップを入れて持って来てくれた。渡辺さんがもぐってからは「政はどうしているか」と独り言を言った。特高が(事務所の周辺に)うろうろしていると、おっかさんが原っぱまで出て来て私達に「帰って来ちゃいけないよ」と言ってくれた。メーデー前の予防検束がある時は「帰ってくると川島(大平署の特高)が張っているから来ちゃいけない」と言ってくれる。(そういう時は)私は南喜一060さんや三沢さんの家に逃げた。給料日になるとおっかさんは「ちらしを食べにいこうよ」と誘ってくれ、二人で出かけた。
夜は柳島の帝大セツルメントに通った。工場で若い友達が一人でき、セツルの労働学校講座に一緒に参加した。この後も二人ぐらいの労働者をつかんで、演説会に誘った。
その年1927年の12月まで三田土ゴムにいたが、ビラまきやストライキの応援で工場は休んでばかりだった。今思うとそれでは工場に組織はできないと思う。
そのころ紡績委員会というのがあり、紡績(工場)間の横の連絡をして組合をつくった。真夜中に日清紡績にビラまきに行った。
検束ばかりされた。一晩ぐらいで帰されるが、(三田土ゴム)工場では私の休みが多いので、秋ごろ吾嬬工場に回されて労働がきつくなった。それまでは押すとピーピー泣くゴム人形を造る楽な仕事だったが、今度は手回しの機械でゴムまりをつくる。難しくていびつになり、不良品ばかり出すので、運搬の仕事に回された。
062 そのころ(1927年9月)目黒の三田にある松岡メリヤスが工場閉鎖でストライキになり、応援に行くように言われた。(三田土ゴムは)職場放棄みたいにして出かけて行った。ろくなものも食べず毎晩のように応援に行った。
スト中の労働者は日用品を首にかけて行商隊をつくって売る。女工さんたちは慣れていないから尻込みをする。そういうとき私は先頭を切って、わざとおまわりのところへ行って「買え!買え!」と言ってみせた。女工さんたちは元気づいた。町内にビラを撒き、社長の娘の通っている学校へ行って、××さんの親父さんはこういうひどい人だという嫌がらせのビラを撒いた。
田口ツギさんはそのうちに結核になり田舎の家へ帰った。
このころの労働争議の応援では研究会が必ず持たれた。ストライキ中の労働者を何人か誘い、オルグの私達と一緒に研究会をもつ。ストライキの対策や労働者としての基礎的な勉強、搾取の問題などを労働者に教える。この研究会は渡政の指導ではないか。
行田の足袋工場争議
063 その年1927年昭和2年の11月から12月にかけて行田の足袋工場でストライキがあった。東京合同は行田の各部落で集会を持った。私はオルグとして派遣され、あちこちの家にかくまわれながら行動した。
ストライキの応援は演説ではなく、今考えると幼稚だが、座談の中で資本主義の仕組みや賃金と労働の関係などをチューターが話をする。私は組合の書記たち――その多くは学生だが――と一緒になって女工さん達に話をする。
女工さん達は22、3歳だった。争議が始まり、警官が横暴に振舞うのを見て、警官との結婚が決まっていたが解消した人もいて、「絶対おまわりにはいきません」と皆の前で宣言し、それが効果的なアジになった。その人はサクちゃんといった。私はこの家にずっと泊めてもらい、警官が来ると押し入れに隠してもらった。
行田の工場の従業員はほとんどが農家である。東京からオルグに幾人かが入っているらしいと警察が目をつけていると伝令が来る。どうもオルグの中に女が一人入っているらしい。或る部落で会議をしていると、警官がかぎつけて来た。「お腹が痛い痛い」と苦しい様子をして女工さんたちが大勢で(私を)担ぎ出した。それはとっさの知恵だった。私は行田に半月いたが、一度も検挙されなかった。泊まる家を部落から部落へと変えた。男の人はかなり検挙された。
長い間工場を休んで、工場は緑町の叔父の家に聞いたのか、首になっていた。徳田球一さんの弟の正次さんが工場と掛け合ってくれて20日分の手当を取って来てくれた。金一封として二円か三円も出させ、これは行田の争議の費用に回した。
064 1927年昭和2年12月に協調会館で婦人同盟の集会があり、ここで行田争議の訴えと、野田醤油争議の訴えをした。そこにいたスパイ(特高)の帽子を借りてカンパを集めた。これは1927年昭和2年の最後の派手な時期で、何もかも派手にやった。
この年昭和2年1927年11月7日にロシア革命記念日の演説会が神田の仏教青年館であった。どうせこれも解散になるだろうから、解散になったらデモに移ることになっていた。私も若い松岡メリヤス062の青年一人を受け持たされてデモに行った。争議に加わって初めてデモに参加する慣れない労働者を一人ずつ連れて行ったのである。警官が抜剣して追い払うので大騒ぎになり、検束された者を取り戻そうと叫んだ。駆け出すときにドブにはまり、下駄の片一方ドブに落とし、デモから取り残され、検挙を逃れ、かたちんばで事務所に戻った。この青年がその後どうなったのか夢中だったので分からなくなったが、翌日この青年は「田中さんはすごい、すごい」と言う。私が女でひどくあばれたので驚いたのだろう。これで私はすっかり評判になり、争議団も固まって労働者の中から素晴らしい(闘士が)二、三人が生まれたが、小さい工場なので二カ月で閉鎖となった。
065 このとき婦人同盟の人で、竹のササラで紫色になるほど顔を叩かれた人もいた。また中央郵便局に勤めていた立見はるさんは群馬県出身の人だったが、制服を着たままデモに手を振っただけで首になった。後にこの人は婦人同盟の仕事をしていた。また朝鮮の人は生爪を剝がされたという。このとき初めて共産党のビラが撒かれた。
この年1927年昭和2年の暮れに失業者大会をアナーキストと一緒にやった。私は神楽坂の某会館に行った。弁士がみな中止!になり、話す人がいなくなった。私は聴衆として入ったのだが、山花秀雄さんがメモを回してよこして「一口しゃべるように」と書いてある。私が野田(醤油)争議064の際の警官の横暴についてしゃべり始めたら即中止!となった。女が中止になったのでみんなが野次馬気分でわあわあ騒ぎだし、たちまち解散となった。会場を出るところで私は捕まって神楽坂署に打ち込まれた。留置場から出されて東京合同の事務所に来ると、南喜一さんに「元気のいいのはいいが、検束ばかりされていては闘いにならない。やめなさい」と言われた。昭和2年1927年は華やかに暮れ、翌昭和3年1928年は総選挙の準備になります。
066 豊原五郎と結婚、非合法生活
昭和2年1927年11月、このとき丹野セツさんは非合法生活に入っていたが、丹野セツさんから豊原五郎と結婚してはどうかと勧められた。突然なことで、結婚のことは考えていなかったので、その時はそのままになった。すると渡政のおっかさんの家で南喜一さんも豊原との結婚を勧めた。「革命運動をやる者は自分の意志があっても、相手の女性がちゃんとしていないと(妻がいないと)続かないものだ」と南さんはこんこんと説いた。そして豊原自身も私に会いたいと言ってきた。
昭和3年1928年の赤旗びらきの時、雑誌「マルクス主義」に、渡政が公然と名前を出して論文を書いた。おっかさんは「政に会わしてくれ」と言って泣いた。
昭和2年1927年6月、私は初めて豊原五郎と知り合った。当時私は本所業平にあった三田土ゴムに働きながら東京合同労組の事務所に住み、組合活動をしていた。豊原は前年の病気が回復し、再び上京して東京合同の組織部で働くようになった。私たちは一緒に活動した。演説会の後必ず批判会を持ち、また紡績工場などで撒くビラについて、言葉づかいや仮名遣いで豊原は私にこまごまと注意してくれた。
067 昭和2年1927年9月ごろ豊原は仕事が変わり、労農党へ移り、組合(東京合同)へは時々姿を現わす程度になった。当時は工場閉鎖やストライキが相次いで起き、私も工場を休み、応援に出ていたのであまり会う機会はなかった。
1927年12月下旬、久ぶりに豊原が合同を訪れ、(渡政の)おっかさんの部屋で餅を食べながら雑談し、最後に私に「明日労農党の本部へ来てくれ」と言って帰った。当時私は闘争に明け暮れていた。豊原を尊敬し信頼していたが、恋愛や結婚の対象ではなかった。翌日労農党本部を訪れた。豊原は忙しそうに出て来て近くの喫茶店に私を誘い、「丹野さんから何か聞きましたか」「はい聞きました」「それで僕と結婚してくれますか」「まだそこまでは決心はついていません。次のことがはっきりしなければ当分誰とも結婚はしないつもりです。結婚によって活動ができなくならないこと、絶えず教育指導してくれる人、私は親兄弟から絶縁されているので、どんな場合も一本立ちで生活しなければならないこと、相談できるただ一人の兄が現在どこにいるのかわからないこと」などを話した。豊原は目を輝かせて今自分にはそういう人が必要だし、これ(先の条件のことか)はたたかいの中で生成させてゆかなければならない」と真剣に語った。甘い囁きなど一つもなかった。私は今まで覚えなかった心のぬくもりを感じ、ついに意を決した。
068 合同の赤旗びらきが終わった1928年昭和3年1月4日の夜、藤沼老人から荷物をまとめて皆に知れないように事務所を出るように連絡指示があった。1月6日、私は同志が準備してくれた小さな家に、お互いの僅かな荷物を持ち寄って最初の非合法生活に入った。(その後)私は突然事務所(合同)から姿を消す不自然さを隠すため、中旬頃までは合同の事務所や無産者新聞社に出かけた。
この生活が10日ほど経った1928年1月下旬、豊原は「突然しばらく旅行することになったから、荷物をまとめるように」と言った。1月29日の朝、私たちは荷物をそのままにして家を出て、豊原は駒込駅から一人行き先も言わず「元気でね」と言い残して旅立った。私はちょっと寂しい気持ちだった。(1928年3月1日)(誰に?)指示された通りに五反田の白木屋に向かった。時間きっちりに指定された場所に行くと、後ろから肩を叩かれた。昨年1927年の秋以来会っていない丹野さんが大きな束髪に結って立っていた。やがて当時東京合同の婦人部長であった古川としさんもやって来た。私たちは久しぶりに食事をともにした。その時私は初めて日本にも共産党があることも知り、今日から私も「党員として一層の自重心と献身を以て活動するよう」に指示された。1928年昭和3年1月のことである。入党するには候補期間があり、(そのことは)本人には知らせないので気が付かなかったが、私はその期間が過ぎたのだろう。その当時(の党)は(私のような)労働者を入党させる方針だったと思う。この時の感激と緊張は今でも身内によみがえってくる。これで豊原が黙って旅立った理由も理解された。
それから私は丹野さんの非合法の家に移り、ここで初めて渡辺さん(渡政のことらしい)にも紹介された。渡辺さんは古い知己が再会したときのような親しさを以て私を迎え、私たちの結婚を喜んでくれ、豊原が九州で活動していることも知らせてくれた。1928年昭和3年2月1日号の『赤旗』第一号を丹野さんから見せてもらったときの感動は今でも忘れない。それはガリ版刷りだった。
069 その時渡辺さんは29歳、丹野さんは26歳、私は21歳だった。渡辺さんは髭をちょっとはやし、髪は角刈り、下町のおじさんという感じの優しい人だった。本を読んでくれるのが大好きで『半七捕物帖』などを上手に読んでくれた。
この家は日本橋の高島屋裏の路地にあり、いろんな人が出入りした。佐野学、鍋山貞親、三田村四郎、市川正一、野坂参三、門屋博、中村義明などである。ここで初めて市川正一の顔を見た。「肺病のおじさん」と言っていたが、田舎の村長さんのようだった。このころは会議をしていて、食事時には皆はあれこれ注文するが、市川さんは「私はお弁当にしますから」と言っていつもジャムをつけたパンを用意して食べていた。これは共産党員としての模範を示しているようで立派だと思った。
私はそのころ波多野操さん(のち是枝恭二さんの奥さん)、古川としさんとの連絡を朝夕二回ずつ取っていた。佐野学は家に来ると下駄を裏へ隠してしまうという厳しい人で、私には口をきいたこともなかった。
鍋山は労働者出身で、さっぱりした人だった。私は鍋山夫妻の借りていた車坂の二階へ使いに行った。その時タイちりをすすめられ、食べ方を教わって御馳走になり、帰りの時間が遅くなり、渡辺さんに厳しく叱られた。「一刻一秒も大切なのだ。もう少し遅れたらここを引っ越ししなければならないところだった」と注意された。また帰り道はことに気を付けて、真直ぐに戻らないで、ぐるぐる回り道をして帰るようにと教えられた。
渡政とおっかさんのこと
070 私が九州へたつ前に、渡辺さんが私と古川とし042, 068, 069さん、丹野さんと途中で落ち合い、浅草に映画を見に連れて行ってくれ、その後中華料理を御馳走してくれた。そのとき渡辺さんは和服に二重回し*を着ていた。*ケープの部分が背中で二重になったのを「二重回しとんび」という。
渡辺さんのおっかさんは永峰セルロイド工場で働き、錦糸町の東京合同の下の六畳に住んでいた。非合法生活に入る前は私はおっかさんの部屋に寝かしてもらい、亀戸の三田土ゴムに通っていた。
071 東京合同の建物は関東大震災のとき(の後に)、ドイツが寄贈した金で建てられた二階家である。上が会議室で、毎日本所大平署の特高川島が来た。(警察は)東京合同の前の家を買収していたようだ。
おっかさんはメーデーの予備検束のとき、刑事が張っているのを知らせてくれ、特高をだまして帰した。
4 四・一六検挙
072 九州へ
約40日間渡辺さんの家に同居した。1928年3月初旬、豊原が選挙の報告のために帰京し、渡辺さんの家に来た。(豊原は私を連れて)4、5日して改めて九州へ腰を据えて働くことになり、渡辺さんは「九州は日本の心臓部で、共産党員として光栄だ。しっかりやってくれ」と激励し、丹野さんは新橋駅まで(豊原と私を)見送ってくれた。3月10日、みぞれの降る寒い夜だった。これが渡辺夫妻と豊原との最後の別れとなった。
九州へたつ前に渡辺さんは「あなたは兄さんとたいへん仲がいいそうだが、逢いたいか」と聞かれた。私は九州への途中大阪に下車した。そしてある家を訪れ、暫くして付近の停留所に行った。すると兄がひょっこり現れた。私たちはしばらく歩き、天王寺公園に行った。兄は私たちの結婚を知っていておめでとうと固く手を握ってくれた。(兄に)半年ぶりに会い、1か月余りお互いに緊張して困難な仕事を終えた後なので、喜びもひとしおだった。私ははしゃいで笑われた。
073 兄と別れて九州に行く汽車の中で豊原は「よい兄さんを持ってうらやましい」と言った。
九州の三・一五検挙
1928年3月12日、小倉についた。小倉は九州の本拠になっていて、選挙のときに使ったらしい間借りの家に入ると、3月15日に検挙が始まった。このときは合法面もやられるという報告が来たので、ガリ版二色刷りで「弾圧に屈せず、立ち上がれ!」というビラをつくって工場の塀などに貼って歩いた。ビラに使う紙やインクはまとめて買うと目立つので、方々を歩いて少しずつ買い集めた。
この家が危険になったので、小倉の田舎の百姓家へ移った。3月24日、福岡へ藤井哲夫さんが出かけ、夕方近くに福岡から連絡に来た伊豆公夫さんが帰ったあと、私は留守番をしていた。そこへどやどやと踏み込んで来て、有無を言わせず小倉署に連れて行かれた。
074 すごいテロだった。パンツ一つにして竹刀で叩く。当時髪を長くしていたので、髪を手に絡ませて三人で餅をつくように代わる代わる叩く。どこを叩かれているのか分からなくなった。気を失うと水をぶっかける。指の間に鉛筆を二本挟んでやられた。つらかった。煙草の火を顔に近づけて焼く。竹刀で叩かれた痕が石みたいに固くなり、紫色から黒色のあざになった。それはしばらく取れなかった。その他転がしたり、蹴とばしたりした。私はそのために今でも腰が冷えて12月から3月までは懐炉が欠かせない。
私が九州についたばかりで何も知らないということが分かったのか、起訴留保になった。
小倉の寺の坊さんが党のシンパサイザーで、この人も留置場に入っていた。この人が私よりも先に出て、私をもらい下げに来てくれたのだが、この人は独身なので(警察は)私を出さない。それで福岡の同志の奥さん方が引き取り人になって、5月1日、メーデーの日に出された。
豊原や男の同志たちは捕まって皆起訴となった。
面会させろと毎日のように警察に押し掛け、予審廷に出た時やっと一回だけ豊原と面会できた。この時豊原は郷里に行って欲しいと言った。
東京では丹野さんが検挙を逃れて無事であることが分かっていたので、早く東京へ行かなくてはと思ったが、一日中尾行がついていた。そこでスパイが帰ったらすぐ飛び出せば大丈夫だろうというので、切符を買って準備しておき、豊原の郷里へも連絡しておいた。
075 「九州のローザ」と呼ばれる勇敢な女性西田はるさんに駅まで送られて(6月初旬ころ)福岡を逃げた。この人は部落解放運動の活動家で、四・一六で逮捕され、その後亡くなった。(西田はる1905—1945、西田はるは四・一六の検挙後、獄中に子どもを連れて在獄したという111)
豊原五郎の郷里浜田へ
小倉のシンパの坊さんに相談した。漁船を用意してもらい、下関の先のハタブというところまで行くようにと言われた。そこまで船で行き、下関から山陰線で浜田へ着いた。駅には豊原の兄が出ているはずだったが、刑事も来ていた。私は最初刑事か兄か区別がつかなかった。兄は浜田の寺の坊さんで、学校の先生もしていて、スパイも信用し、私を兄に任せ、後で来ると言って引き上げた。兄嫁も同情してくれた。
次に浜田から山の方の豊原の生家に行った。この兄は医者だった。ここでしばらくして産婆の免状を取るように勧められたので、ここでしばらく手伝いながら世話になった。豊原がここの農民組合を組織したときの仲間が来てくれ、アユをとったから豊原さんの代わりに食べてくれ、モモを持って来ては豊原さんの代わりに食べてくれという。私は東京への脱出を考えた。兄は「わしの知らんように運んでくれ」と同情的だった。
中国山脈を越える
076 東京への脱出について農民組合の組合長夫妻とそのお爺さんに相談した。まず荷物を竹藪に運んでおいた。8月のひどい雷雨の夜半、お爺さんが迎えに来た。山の中でマムシにかまれないようにモンペをはいた。家の裏が店になっていて、そこにいつもおまわりが来ていたので、そこを避けて組合長の物置に連れて行かれ、そこから出発した。
提灯もつけず真っ暗な土砂降りの中を、お爺さんの孫の高等二年の少年とその友達の二人がピケになり、お爺さんが先導した。坂道を滑らないように少年たちが支えてくれた。山道はすごく険しかった。峠に上り詰めると東が白み始めた。ここで二人の少年は「さよなら、さよなら」と言って帰った。このうちの一人は後に戦死し、後の一人は昭和36年の豊原の記念碑除幕式で会ったが、りっぱになっていた。
これからはお爺さんのあとについて、二つ三つの山を越えた。
炭焼き小屋にかくまわれる
広島県の方にようやくたどり着き、山奥の炭焼小屋に連れて行かれた。組合長のお爺さんが以前から打ち合わせしておいてくれた家だろう。宮崎県から来て炭を焼いている人の家である。
077 ここに一か月ほどかくまわれている間に、東京へ逃げる準備をした。この私の脱出のために浜田警察の署長と部長が左遷されたとのことである。この家にいる間にここの赤ちゃんが生まれたので、私はお手伝いをし、豊原の妹の名前と同じ道子と名付けてやった。その間も組合長のお爺さんが様子を見に来てくれた。
(お爺さんは)私の出発のための変装の仕度に一里半も山を下って女学生用の袴を用意してくれたのだが、それはセーラー服だった。どうにも役に立ちません。素通しの眼鏡も届けてくれた。出発の日の前の晩からお爺さんが来て泊まってくれた。出発を祝って赤飯を炊き、そうめんをつくってくれた。お爺さんに付き添われてまた山道を下り、広島行きのバスの停留場まで送ってもらった。そこからは一人でバスに乗り、広島に着いた。
この時の組合長さんはじめ組合の皆さんのあついお力ぞえは一生忘れない。30何年ぶりの先年浜田の豊原の記念碑除幕式に行ったとき、豊原の兄から私が越えた山を示されたとき、その険しさに驚き、また感動した。
日立のオルグ生活
広島からは目立たないように敢えて鈍行列車に乗って東京へたどり着いた。神田駅に降りて野坂竜さんに連絡を取ったが、中間検挙でやられていた。仕方がないのでおそるおそる馬島僴先生の無産者診療所へ行った。馬島先生の紹介で某アジトへ行った。そのアジトには立見065、森田喜子次、安東義雄などがいた。そこへ常磐から山代吉宗さんがやって来た。まもなく山代さんは日立製作所を組織するために日立に行くことになったので、私はそのハウスキーパーとしていっしょに1928年9月日立に移った。早稲田大学の学生も一緒で、日立の中学校前で一銭あきないの店を三人で始めた。その学生の親元から送ってくれる学資で菓子箱を買い、子ども相手の店を始めた。
078 そのうちに7、8人くらい労働者が集まり、『無産者政治教程』をやったり、ピクニックに行ったりするようになった。すぐ隣が大家さんだが、私たちの世帯には茶道具一つなく、包丁の代わりに切り出しナイフを使っていたので、大家さんがお祭りの寄付のことで来た時、お茶も出せない。大家さんが胡散臭そうな顔をしているので困った。二、三カ月経った秋の運動会の時、運動会へ来る人たちを目当てに店を出した。せんべいや柿を並べ、私は黒襟のはんてんを着て、商店のおかみさんのふうをした。
1928年10月、「日立通信」というガリ版の工場新聞を出した。ガリは学生が切った。その後、町の中の家を借りて移った。水戸の労農党の人と連絡ができた。山代さんはシンガーミシンの外交員になり生活費を稼いだ。私たちは山寄りの農家の一軒屋に移った。福島との連絡もついた。
079 あくる年1929年3月の半ばころ『赤旗』が送られてきたのでむさぼるように読み、あとは台所のカメに埋めて、炭俵を載せて置いた。それまでは『無産者新聞』は合法的に読めるので、『赤旗』が来るまでは『無産者新聞』の社説通りに仕事を進めた。
四・一六検挙、水戸刑務所
1929年4月16日の早朝、寝込みを襲われ、助川署に入れられた。助川署は私たちの研究会に来ていた日立の工員さんでいっぱいになった。工員さんのうち一人だけが起訴になり、あとは釈放された。「日立通信」を「サイレン」という名に変えていよいよこれからというときに検挙になった。
私は助川署に4、5日いて、すぐ水戸刑務所に回され、ここに(1930年3月14日までの)1年いて、3月15日に市ヶ谷刑務所に送られた。市ヶ谷の未決には四・一六の同志が沢山入っているので、互いに激励し合った。私は「入党していない」と頑張ったが、保釈にならない。昭和5年1930年(の暮)風邪をひいてそれがひどくなり、外からも保釈運動してくれ、父の判もやっともらえて、1930年12月13日に出された。
保釈
安田徳太郎先生に診てもらった。「田舎へ行って新鮮な野菜や卵を食べて寝ていれば直る」と言われ、分家の兄のところへ行って静養した。兄夫婦は長兄の手前もあり私の世話をするのは困ったようだったが、ヤギの乳や卵など沢山食べさせてくれ、1931年1月末にはすっかり治った。
病気が治ると上京した。四・一六の被告の西村桜東洋さんもやはり病気で静養していた。桜東洋さんの御主人関根悦郎さんは私と同郷で、関根さんのお母さんも一緒の家に住んでいた。私はこのおばさんの手伝いをして欲しいと頼まれ、ここにいた。桜東洋さんの病気も治り、私も一緒に非合法生活に入るようにと勧められたが、私の刑は懲役3年と短いので勤めることにした。私が下獄したら豊原にいつ会えるか分からないので一度面会に行ってくるようにという関根さんの発案で、服部之総(111豊原五郎の隣村の友人。東大新人会。歴史学者)さんや豊原の妹の夫の金井さん達が旅費として23円カンパしてくれ、着物、時計、持物などは豊原の妹から借り、保釈中だから尾行付きで出かけた。
鹿児島刑務所での面会
080 鹿児島に行く途中、豊原の姉の女の子が島根(浜田)に帰るので、その子を連れて島根に寄った。またここの農民の人達が大勢集まってくれ、村の駐在巡査も来て、例の山越の脱走について話せと言う。私は話さなかった。ここでもまたカンパを戴いて出発した。
県ごとに尾行が代わる。下関の水上署の連中が「おい、べっぴんだぞ」とからかった。小倉に着いた。小倉で豊原の姉の家に寄った。
突然行って驚かせてやろうと豊原には予告なしに来た。1931年4月24日(年表では26日)鹿児島着。日曜だったので面会はできないのだが、尾行との苦心の交渉の末、特別に30分の面会を許された。教誨師や看守長も立ち合った。私は外のことを知らせたいとあせるので、人の名を言うともうだめです。(意味不明。豊原の側の組織を守ろうとする自己規制かも)落ち着いた話もできなかった。その晩は、保釈中に鹿児島に帰った是枝操さん宅に泊めてもらう予定だったが、是枝さんはすでに上京していて、私と門司あたりですれちがったようだ。尾行に旅費がないので留置場に泊めてほしいと言った。尾行は博覧会を案内すると言ったが断った。城山公園だけ見た。尾行がついているので電車もバスもただだった。荷物やトランクも尾行が持って歩いてくれた。その晩は鹿児島署の保護室に泊めてもらい、弁当も出してくれた。翌日帰京することにした。
栃木刑務所
1931年昭和6年6月*に下獄した。まず市ヶ谷(刑務所)で1か月間雑巾さしをし、7月に、栃木の女囚刑務所へ移った。
*年表では7月とあるが、これは市ヶ谷刑務所から栃木刑務所に移ったときをいうのかもしれない。また年表では6月29日に懲役2年6か月の第二審判決があったとするが、これは市ヶ谷刑務所にいる間に裁判があったのかもしれない。
(栃木刑務所では)赤い着物を着せられ、手拭を胸につけられた。「一年生みたいだ、ふふん」と笑うと、看守がすごく腹を立てた。「こんな着物を着せられれば、どんな悪党だって親のことを思って涙を流すものなのに、笑っているなんて、何ということだ」と。
栃木では治安維持法犯は私一人で、未決から既決に移っても私にとっては特別の気持の変化はなかった。面会の自由のある未決の間も、私は勘当されているので家から面会にも来てくれないから、面会のないことには慣れていた。水戸で未決にいる間も水戸の救援組織は弱かったので、弁護士が二度面会に来てくれただけだった。ただ(栃木刑務所では)東京に友達がたくさんいたし、豊原の郷里の農民組合が、豊原が病気療養中に蒔いた種が育っていて、少年部の子どもたちの可愛らしい激励の手紙がしょっちゅう来た。水戸にいる間は差し入れも全然なく、殆ど同志だけに支えられた。
栃木刑務所に移るとさっそく運動の要求を出して運動時間を長く伸ばさせ、天気の日には独房の人も必ず運動に出すようにした。
刑務所の中の作業は下駄の鼻緒の芯を麻縄で左縄に編む仕事で、簡単な機械を使う。一日に何本という課程(ノルマ)がある。三畳の独房の窓もろくにないところでやるので、埃がすごい。汚いし麻を柔らかくするために霧を吹くので、冬は冷たい。手はカサカサに荒れる。埃の中に寝起きしなければならないので、仕事をかえろといつも騒いでいた。それでかえさせたのがもっと率の悪いノシオリの仕事で、お菓子の箱などにつけるノシオリである。ピンセットを持ってやるのだが、冬はピンセットを持っている手の感覚がなくなって落としてしまう。1日に千本折らないと課程にならない。ハトロン封筒はりも少しやったが、大体はノシオリで、(私を刑務所内の)工場には出さない。思想犯ということと非転向と言うことで独房から出さないから、栃木ではずっと独房で暮らした。
豊原五郎の死
083 豊原は未決も無事に終わり、既決後も元気に働いていたが、病魔がいつの間にか忍び寄っていた。昭和7年1932年5月中旬、妹の道子さんからの便りと豊原の道子さん宛ての手紙とが同封されて届き、続いて私の兄からも「外の我々がベストを尽くすから、心配せず、頑張れ」と激励の手紙が届いた。手紙で激励しようと「特別発信」を願い出たが、規則一点張りで許可されなかった。
1932年6月7日、夕食を終えて一休みしている時「執行停止、星野*へゆく」という電報が示された。それから1週間後の6月15日の午後、所長は電報を私に差し出しながら「お気の毒だが仕方がない。親子の場合だと一日免業になるのだが、これも規則だ、静かに考えなさい」と言った。
*豊原は瀕死の状態で執行停止となり、郷里(星野)に帰る道中の福岡で死亡したようだ。
084 翌日はいつまでも悲しんではいられないと反省し仕事を続けた。11月は私の出獄予定だったのに。
1932年11月24日満期出獄の日、秋山の兄(三番目の兄)が迎えに来た。群馬の父の家にも出獄の通知は行ったのだろうが、父や長兄は迎えに来る気はない。村のお寺の坊さんが迎えに来て、刑務所の待合室で兄といっしょになったそうだ。兄は私を東京に連れ戻すつもりだったが、坊さんは自分の役目上一度親元に帰ってもらわないと困るというので、兄も一緒に群馬に行った。
私は父の家は勘当が解かれていないから行くのは嫌だと言って、分家の二番目の兄の家に行った。そこへ父と長兄が来た。すると坊さんが余計なことを言いだした。「この人は転向したのだから、どうか勘弁してやってください。」驚いた私は「どこでも転向したなどと言ったことはない。」
二晩分家に泊まった。父も体が弱り、杖を突いて歩くようになっていた。獄中で豊原が死んだことも知っていたので、昔のように強いことは言わず、「体だけは大事だから丈夫でやってくれ、赤い着物を着せられても、亭主に死なれても、止めないというなら――」父は私が母のお墓の方へ行くのを見上げていた。父とはこれが最後だった。昭和10年1935年10月2日、二度目の未決の間に父は亡くなった。後で知ったことだが。
埋骨式
085 群馬から帰京するとすぐに渡辺のおっかさんに会った。おっかさんがセツちゃんにも会って行ってくださいと言うので、市ヶ谷の未決で丹野さんに面会し、豊原の死を伝えた。*丹野セツは1928年10月4日に逮捕され、その1年後の1929年11月に病気で執行停止となったが、その間に潜伏し1930年4月末ころ再逮捕されていた。
(浜田での豊原の埋骨式に参列するために)東京の豊原の妹が私の着物を準備し、切符も買ってくれ、お金も用意してくれた。妹は子どもがいるので一足先に出発した。私もすぐ(年表では12月9日)浜田へ向かった。
豊原の家は実家よりも暖かく迎えてくれた。1932年12月7日、近い身内だけで埋骨式をした。豊原の兄は半年ぐらい静養してゆくように勧めてくれたが、16日に妹たちと帰京した。
5 ふたたび地下生活
ハウスキーパーの生活
086 東京に帰り、1932年の暮れにまた丹野さんに面会に行った。そのとき袴田里見が誰かの面会に来ていて初めて袴田に会った。私は袴田の弟はすでに知っていたし、長三郎兄は袴田を以前から知っていた。
翌昭和8年1933年1月に清家としさんが訪ねて来て私に運動を再開するように勧めた。私は清家さんを前から知っていた。清家さんは4・16の被告で、市ヶ谷で一緒だった。私は今まで何をやって来たのか分からないし、勉強もしていないので、もう少し気持ちの整理をしたかったが、前年の1932年の10月6日に大森の銀行ギャング事件が起こり、10月30日の共産党大検挙では岩田義道さんもやられ、「人手が足りない、そんなことは言っていられない」と清家さんが勧める。*清家としは昭和6年1931年に保釈出獄していた。
(豊原の)妹の夫の知り合いからも連絡があり、妹の一番いい着物と錦紗のコートを借りて、新宿のモナミへ行くようにと言う。(誰が言ったのか。)行ってみると妹の夫の金井さんも来ていて、相手の人(妹の夫の知り合い)は初めて会う人だが、金井家のアルバムでよく見ていた石井氏だった。当時はペンネームを名乗るので私は(石井さん)とは言わずに黙っていた。
そのうちにまたある女の人を紹介された。川口千代枝という学生である。出獄してすぐに三か所から連絡が来るので、とまどっていた。兄はいちおう袴田を信用しているので、袴田に会うように勧められ、袴田に会った。
袴田から「今後、運動する気があるか」と聞かれた。外の様子が分からないので、はっきり返事をしないうちに結婚の話も出た。(袴田が)「運動に入る以上、そういう形も考えなければならない。」と言い、他の二つの線は連絡してやるから心配しなくていいと言う。袴田も出て来たばかりで非合法に入る時だった。私は袴田と結婚して非合法生活に入った。*袴田は1928年の「中間検挙」で検挙202され、堺刑務所で勤めてから1932年の秋199, 202に「釈放」されていた。
087 仕事は一日に12回連絡をやることだった。何をしているのか全然分からない。言われたことを口で伝えるだけで、全く落ち着かず、何もできない。結局は袴田のハウスキーパーとして転々と引っ越ししていた。
上野の風月堂で党の東京市委員長が私に会いたいというので行ってみると、相手はモダンな格好で、まるで口笛吹くみたいなふうで入って来て、「東京合同に君いたか?ぼくもいた」というので、変だなと思った。そのうちに少し離れた席にいる人にウインクして合図しているので、私は気持ちが悪くなり、大急ぎでそこを出ると、あとをくらますために、あちこちぐるぐる回って帰って来た。
それから変だと思いつつけていた。袴田がおかしいと言っていた男が、私が変だと思う男と同じ男であることが分かった。そのうち野呂栄太郎さんが検挙になった。野呂さんは病人で、ごく限られた人にしか会わないので、いよいよおかしいと思った。
088 その年の年末、昭和8年1933年12月からスパイ査問が始まった。
1年半後の昭和10年1935年3月4日に袴田が連絡に行くのを私が代わりに行った。連絡の相手の女の人と会っていると、向うから袴田がひょこひょこやって来た。相手の人もどうして袴田が来たのか不思議がっていた。私はそのあと別の所で清家さんに会うはずになっていたのでそちらに向かった。その時袴田は検挙された。清家さんに会った後私は小沢路子さんに会うことになっていて、そこへ行った。袴田もそこへ来るはずだったが来ない。翌日の新聞に袴田の検挙のことが大きく出た。私はすぐ引っ越した。
その男はクートペーから来た人(高谷覚蔵092)で、1935年昭和10年2月末ごろ(袴田に)連絡をつけてきた。慎重に会うことにして新宿のモナミで先に首実験したら、確かにそうだということで、(ここに時間差があるようだ)袴田が会うつもりでいたところをやられたのだから、袴田はその男に会っていない。そのあと私に会いたいというので私は会った。(不用心)そして(その男は)そのあと(私が)会う(べき)人を次々に紹介し、清家さんもその後5月にやられた。結局袴田も清家さんもこの人に売られたのだと思う。この人はもとは船乗りで、クートペ―に行った人で、日本では具体的な活動は何もしていないのに、日本へ帰ってくると、あんまりひどい状態なのですぐに変わってしまい、スパイになったのだろう。そのあと1935年5月7日にその人に会うために、私が家を出て電車に乗った時から変で、変だと思って下車したとたんにやられたのだから、家からつけて来たのだろう。
二度目の検挙では人に迷惑をかけるような組織のことをバラすことはしていません。(一回目はしていたらしい)ずっとがんばっていたから検事局でもサジを投げた形で、半年もほっておかれました。(意味不明)
警察ではひどい心臓脚気になった。警察から未決に移り、文通できるようになり、兄からの手紙で父の死を知った。未決の間は親が死んだときは保釈されるのだが、誰も外で運動してくれる人がいなかったので出られなかった。
偽装転向について(「市民運動の会」1970年3月13日での聞き書き)
089 この前1932年11月24日に栃木刑務所を出て、2日だけ群馬の家に帰らされたとき、父はもう匙を投げたみたいだったが、父の言葉は私を許すような言葉でもあった。084
転向を表明する気持ちはなかったのだが、翌(検挙された年1935年5月7日の翌年)昭和11年1936年4月にいきなり予審廷に呼び出され、予審判事は「お前はまだがんばってるのか!」と大きな声で怒鳴られたとき、私は父の死後だったので反発せずに「運動はやめます」と言った。
すると予審判事は目を輝かせた。私は父の死について判事に語った。判事はバカに優しくなり、それからは毎日予審廷に出された。それまでの1年間向こうは待っていたのだから調べは進んだ。
すったもんだの挙句、私はこの一線を画して、これ以上の譲歩はしまいと頑張るが、結局「天皇制の問題をどう考えるか」とずいぶん責められた。
私は「とにかく父の死でこんなにショックを受けるような人間ではとても困難な革命運動なんかできません。兄の言うことを信じて、兄にくっついて、兄の言うとおりにここまでやって来たけれど、(兄がいい迷惑)私は何の理論もないただの人間なんだ。」「社会主義の理論が間違っているものではないから、将来は必然的に社会主義の社会が来るものだという確信を今も持っていますが、自分はそういう能力もないし、そういう(能力のある)人間ではなかったことを発見したから、実際運動は止めます。」
そういうことを「手記」に書いたが、最後までそういう書き方では向こうは気に入らないらしい。「それなら相手を転向させる運動をやらなければ本当の転向の意思表示にはならない。自分だけやめますといったってだめだ。そんな甘いものではないぞ」と随分脅かされた。
私はこうして「偽装転向」した。それは今日でも私の一番大きな失敗だったと反省している。敵をごまかそうなんて甘い気持ちでやることは卑怯だし(誰に)、そういうことは後に続く人たちにはさせたくないと思って、出獄してから桜東洋さんにも話した。
こういう偽装転向は敵に侮辱される。これは一種の転向だから。もちろん私には罪を軽くしてもらおうという気持ちはなかった。累犯だから執行猶予になることはないと覚悟していたから。べつに監獄に行くのをつらいなんて考えてはいなかった。しかし一歩譲歩したことが最後まで私にくっついていて、後悔してきた。宮津刑務所に行っても所長にも教誨師にもバカにされた。侮辱した言葉を言うわけではないが、栃木の時は毅然として闘う姿勢だったから、私もおおらかだし、運動の時間を伸ばしてくれとか食事をよくしてくれとか要求しても一応は聞いてくれたが、宮津刑務所では「お前らは国家の害虫だ」と破廉恥罪の人に言うような態度で侮辱された。栃木刑務所では所長を始め(私に対して)一目おいた。この偽装転向は私の一大失敗だった。
第一回の三・一五の検挙の時は、九州について三日目のことでほとんど何もできなかった。それまでの約40日間は中央部つきのレポーターだった。
四・一六の検挙の時は、やっと組織(党)への連絡がついてこれからというときにやられた。それは(最初は)党をつくるなんていうのではなく、労働組合をどうしてつくるかということで日立に入ったので、正式に党細胞ではなかった。党への連絡がついて『赤旗』が一回くらい送られてきただけで検挙された。
最後の検挙の時(1935年5月7日)は一日に十何回ものむちゃくちゃな連絡があり、物を書いてはいけないというから、頭の中に暗記して整理した。一分違っても危ないから、神経を使った。どの細胞についているというのではなく、家を守っていた。つまりハウスキーパーである。引っ越しの準備、ガリ版切りの手伝いなどの雑務を一切引き受けた。
092 私たちがやっていた『赤旗』は1935年2月20日の発行が最後である。私は中央部ではなくて金がなく、追い詰められながら機関紙の編集会議からガリ切りまで何もかも家でやっていた。3月4日に袴田がやられ、5月7日に私がやられた。この2か月間は逃げるだけで何もやっていない。(この)二度目に潜ったときは一か所に一週間といられなかった。そのうえ貧乏に追い詰められて内職をやり、組織活動はほとんどやらなかった。昭和2年1927年のころにストライキの応援などをしていた時の方が活動らしい活動だった。
非合法の中で顔を知られていて、写真も廻っているときだから、逃げて家を守って生活することだけだった。知っているところは網を張られているから頼れない。そういう落ち着かない生活を過ごし、中央委員がやられた後は、自分の身一つで逃げて行くのが精いっぱいだった。
そのあと高谷覚蔵というのがソビエトから帰ってきて、それが会いたいと言っているという連絡が(どこから)あったから会った。それがスパイで、それに売られて5月7日に捕まって、それで終わりだった。
*高谷覚蔵1899.1.1—1971.3.20 党名は寺田。1922年アメリカに渡り、アメリカ共産党に入党。1923年10月片山潜の手引きでソ連に入り、1929年ソ連共産党員。KGB極東主要メンバー。1935年2月に帰国し、1935年5月に検挙されて転向し、陸軍参謀本部対ソ情報嘱託。戦後はソ連評論家、核兵器禁止平和建設国民会議の副議長。カメレオンのような身軽な男のようだ。
私はわりと長い間党の中にいながら、これといった部署を持っていなかったことも、弱い一面である。
牧瀬 部署を持てなかったとのことだが、ハウスキーパーは当時の党にあっては重要な任務だったのでしょう。(以上が「市民運動の会」での聞き書き。以下は(最初の)1964年の聞き書き)
093 田中 予審廷で「手記」089を書いているとき、更新会(左翼の転向者の世話をする会)の小林杜人さんが葉書を度々くれた。
東京合同で一緒に仕事をした森田喜子次さんがそのころ外に出ていて、或る日面会に来てくれた。前の日に花とお菓子を差し入れてくれていた。私は森田さんがまさか転向したとは知らないので、喜んで会うと、彼は転向して外へ出ていたのだった。森田さんは私にも転向を勧めた。「僕の女房も頑張り屋で、警察で二十日間もハンストをしたが、子供が大きくなっているので、子どもの絵を持って行って見せたりしてやっと転向させた。豊原君は死んだからいいが、生きていたらどう(転向)なっていたか分からない。」「死んだ人のことまでそんな余計なことを言うなら、面会になんか来ないでください。」「あなたは今はそんな強がり言っているが、今はもうそんな時期じゃない」と言って帰った。
運動はやめるとはいっても、私の家の兄たちが面倒見てくれるはずがないので、弁護士もいらないと思っていたが、門屋博069さんの弟さんの島野武さんが弁護を申し出てくれ、「弁護の金も要らない、誰も弁護につかないと官選弁護人がつく」という。私は官選でもいい、もはや外へ出たいとも思わなかったので、なるがままに任せておいたら、島野武さんの弁護があった。相被告もなくて私が単独だったので早くも9月に判決となり、求刑懲役3年、判決懲役2年、未決通算は100日くらいだった。累犯だから執行猶予にはならない。私は上告も控訴もせずに下獄することにした。
宮津刑務所
094 1936年10月に市ヶ谷刑務所に下獄して雑巾さしを1か月してから、宮津刑務所に移された。女囚刑務所は全国に4か所しかなく、栃木は四・一六で行っているので、宮津へ回された。
宮津は待遇が悪く、肉など2年間いるうちに一度も出なかった。刑務所の中で百姓をしているのに、収穫物のいいのはみんな看守が自宅へ持って行ってしまい、一年中大根の葉っぱの塩漬けばかりだった。宮津は夏は天気つづきで、風呂の水は寝なければ浸かれない程浅く、しかも赤い水である。11月から3月まではみぞれが降り続き、宮津では「弁当忘れても傘は忘れるな」という歌がある程である。私が行ったときは思想犯は一人もいなかったが、私が出るころに一人思想犯が入って来たと雑役が教えてくれた。安賀君子さんだと後から聞いた。私は独房で京都の舞妓さんが着る羽二重やちりめんに刺繍をしていた。私は仕事が丁寧で細かな仕事をこつこつやっていたが、冬は冷たくて針を落としても感覚がないほどだった。
市ヶ谷の未決のころ(1930年3月15日から12月12日まで)は既決囚の雑役が思想犯にはみな親切だった。食事の時にはおみおつけの実をわざと多くすくってくれたり、チリ紙も普通の時は何枚、生理の時は何枚と決まっているのを、時々余計に入れてくれたりした。また獄内のレポ用に鉛筆の芯の短く切ったのをキャラメルの小さいろう紙に包んで食事時にポンと投げ入れてくれたりもした。宮津では看守も雑役も冷酷だったが、一人だけ親切にしてくれる人がいた。この人は親族殺人・放火犯でしたが、とてもやさしい人で、どうしてこの人がそんなことをしたかと思うほどだった。
昭和12年1937年7月に盧溝橋事件が起ると残業が始まり、食事は悪くなった。しばらくすると刑務所内の運動の時に、軍歌をレコードにかけて歌わせるようになった。「乃木大将と会見の――」「ここはお国を何百里」をみんな歌えというのに、照れて誰も歌わない。私は元気よく歌いながら運動をした。自分の体のためだと思って駆け足も両手を振って元気いっぱいやった。みんなの並んだ後に看守がいて、一人私だけが離れてやる。看守は「21番のように元気よく」と怒鳴る。21番は私の番号。誰も私のようにできる人はいなかった。仕事の「賞与金」は一か月につき80銭である。また決められた課程を上げると「別菜」といってイモのふかしたのが一つつくが、半年くらいしないと課程は上がらない。出獄(1938年5月18日)の二か月前の3月の終わりごろ、外の世界に慣れさせる意味で刺繍工場へ出されて仕事をした。看守のいる一番前なので普通の女囚の誰とも話ができない。女囚には放火犯、窃盗、無理心中の片割れなどがいたが、放火犯が一番多い。窃盗の人は(刑務所の)中でも反則ばかりやっていた。
栃木では桃割れのつぶしたみたいな形に結ってその上を紐で掛ける印のようにしばっておく。これを「監獄マゲ」といった。
昭和13年1938年5月18日の宮津刑務所出獄のときには、大阪にいた袴田の弟夫婦が迎えに来てくれた。大阪に二晩いて、東京の四番目の兄(米屋)の所へ行き、8月半ばまでここで世話になり、その間、月一、二回巣鴨拘置所にいる袴田へ面会に行った。
公判や面会所で宮本百合子さんとよく一緒になり、お宅にも行き帰りに寄った。私が袴田に面会に行くのが兄は気に入らないので、出て行けよがしに言う。昔東京合同のころ一緒だった横井亀夫さんの馬込のお宅にお手伝いとしてお世話になり、就職口をさがして歩いた。
山代夫妻との交友
096 1938年8月下旬にやっと大森の宝石製作所、シグナルや時計に入れる小さい宝石をつくる工場に口があり、横井さんの家から一週間ばかり通ったが、間もなく工場近くに三畳の部屋を借りて移った。外食生活のためか一か月で(9月)赤痢になり、荏原病院に入院した。退院後は一週間ほど三番目の兄の家にいて、そのあとは京浜地区に住んでいた山代吉宗さん夫妻のところに行き、ここで留守番をしながら静養させてもらった。ここにいる二週間くらいの間に、春日正一さん、須藤末雄さん夫妻などとも知り合い、山代さんたちも一緒に綱島温泉にピクニックをした。
そのあとまた工場に戻った。その工場は女の人には機械を使わせないという封建的なところで、初めは石並べみたいな仕事をしていた。女は私の他に主婦の人と、若い人と三人で、暫くすると卓上旋盤を使って石を削る研磨工のような仕事に移った。(山代夫妻と私は)徒弟の小さい子供たちをうちに連れて来て世間話をしたりしながら長い時間をかけて何かしようとしていた。
1年3か月経ったころ(1939年暮から1940年初か)、大阪の袴田の弟の奥さんが体が弱いから手伝いに来てくれという。宮本百合子さんに相談したが、百合子さんはあまり感心しないというし、工場でも引き止められたが、大阪では是非というので、工場を止めて大阪に行った。夜だけ暇をもらい、YMCAの簿記科に三カ月通った。
前進座の就職が決まった(1940年7月)ので東京へ帰ろうとしたとき、袴田の弟が私の帯の間に無理やり50円を挟んでくれたが、私は東京に帰ってからこの金を返金した。袴田兄弟はうまくいっていなかったようだ。
097 前進座で働いたらいきなり月給50円をいただいた。これは私にとっては生まれて初めての高給だった。今までの工場の賃金は8円くらいの月給しかもらったことがなかったので、びっくりした。前進座の近くの蕎麦屋の二階を月15円で借りて住んだ。袴田へ面会に行くことは前進座の幹部は理解してくれた。面会に行ったり、公判にも時々行き、袴田の着物の縫い返しの世話もした。
昭和15年1940年5月11日に山代さん夫妻が検挙され、西村桜東洋さんから「弾圧があったから京浜地帯には行かないほうがいい」という知らせが来た。このころは丹野さんも出獄し、練馬の工場の留守番をしていて、時々会いに行った。*丹野セツは1938年9月30日満期出獄後小名浜の実家に強制連行され、保護観察下に置かれたようだ。1940年ころは派出看護婦として転々としていた。
6 刀折れ、矢尽きて
098 昭和16年1941年12月8日戦争が始まったが、その翌日9日の朝の寝込みを襲われ、田無署に持って行かれた。警視庁から調べに来て、山代さんたちについて聞かれた。「柿の実るころイチゴ取りのピクニックに行ったのは何の会議をしたのか」とか、交友関係を調べられた。「それはただのピクニックで会議なんかではありません。」その間に田無署で、中島飛行機の「産報」で働かないかと勧められたが、前進座で働くと言って断った。
翌1942年3月、風邪をひいて血痰が出た。(警察が)姉のところに連絡し、「姉の家に(私を)出す」というのだが、姉のところは「子どもがあるので病人は困る」というので、4月17日に群馬の(長)兄の家に連れて行かれた。その翌日の1942年4月18日に米軍が初めて東京を空襲した。
長兄は「そんなことを今頃言える筋合いではない」と言い、私が熱でふうふういっているのに座敷にも上げないで入り口に腰掛けさせ、本家や新宅の人達を呼んで来て相談するという。
099 本家のいとこ(婿取り)はクリスチャンで、そのころは村の顔役をしていたが、入ってくるなり「そんな恰好で来て、袴田さんとの間をどうする気だ。それがはっきりしない限り口は聞いてあげられない」と言う。袴田の関係したスパイ・リンチ事件が新聞に大きく伝えられていて、共産主義の思想よりも人殺しということがクリスチャンのいとこにはおそろしいのだ。袴田のリンチ事件で人殺しということをみんなから責められる。人殺しをした人はいつまで待っても帰るはずはない(誰の言葉か)し、この病気ではどこへ行くところもない。どうしようもないので「袴田とは別れる」と言うほかはなかった。刀折れ矢尽きた思いで家族に屈した。「別れます」とみんなの前で言って、兄の家においてもらうことになった。東京から一緒について来てくれた姉は後で「あの時はあなたを殺しに行くみたいでたまらない気持だった」と言った。
1942年5月から7月までの間(長)兄の家で寝ていた。兄たちはいかにも置いてやるというつっけんどんな態度で言葉もかけてくれない。御飯も子どもに運ばせる。子供が無邪気に「おばちゃんご飯だよ」と言うのが胸にしみた。分家の次兄は自分が引き取ってもいいが、長兄の手前それではカドがたつというが、卵やいろいろな食べ物を運んでくれる。兄の家に乳牛がいるので牛乳も一日に三合も飲めた。二か月も経つとそろそろ動けるようになった。兄のところにいる間は刑務所よりも精神的につらかった。東京へ出た。
100 1942年9月、前進座へ恐る恐る行ってみると「今日からでも働いてください」と言ってくれた。下宿していた蕎麦屋もいい人で、田無署にいる時はミカンを二度も差し入れしてくれたが、「しばらくならまたいてください」と言ってくれた。私は前進座で働き始めた。初め宣伝部で、のち会計の仕事だった。このころ前進座が焼けた。私は陰日向なく働くというので前進座の総会で表彰され、一円の褒美をもらった。
昭和19年1944年の暮、桜東洋さんの姉さんが中学生の子供を一人置いて亡くなり、子ども好きの私に子どもの面倒を見て欲しいから福岡に行って欲しいと再三頼みに来た。私はこの前東京へ出てからは警視庁へ何回も通って手記を書いていた。袴田に面会して別れるとはどうしても言えなかったので、検閲される手紙に別れると書いた。本人からも巣鴨拘置所にいる間に簡単に別れるという返事が来た。
感想 2023年7月17日(月) 戦後(1946年11月以降のことと思われる103)「統制委員会」と称して袴田里見一人だけが、田中ウタに向かって「裏切者!」「これからは党機関の仕事はするな!」と言った104というが、これはよろしくない。内ゲバのはしりだ。事情はよく分からないが、それぞれの立場で頑張って来たことを認めてやるべきだ。左翼の人間関係ではとかくこういう気まずいことを耳にするが、それでは発展しないし組織も大きくならないのではないか。(結局田中ウタはそれまで取り組んでいた党の地区の仕事(労働者のオルグ)をやめ、救援会活動106に転じた。)このことは今の共産党についても言える。トップの考えと異なることをちょっと言えば、すぐ除名処分だ。
このことは袴田の一本気な性格も関係するし、査問事件で「殺人者」という汚名を着せられていたことに対する複雑な防衛本能もあったのかもしれないが、知る由もない。
つまづき
一方では保護司の田村一郎が毎日のように前進座に来て再婚を勧める。「女は転向しても結婚しないと本物とは言えない」と言ってうるさく結婚を勧める。桜東洋さんの方へも初めは断り続けていたが、その子どもが「あのおばちゃんならいい」といったと言って、その手紙を持ってくる。あとからこれは桜東洋さんが仕組んだ芝居だったと分かったが。空襲は激しくなるし、こうしていてもいつ死ぬか分からない。姉も「落ち着けばいい」と勧める。私は一度も会ったこともない人の所へ行くことなどとても気が進まないが、かわいそうな子どもを見てやりたいとも思って、「行く」と桜東洋さんに返事をしてしまった。
101 (桜東洋さんは)「九州に行くにも空襲がひどくなると行けなくなるから大急ぎで出かけよう」という。前進座では一生の保証はすると言ってくれるが、結婚では引き止められないと、一か月かけて事務の引継ぎをした。
1945年2月に桜東洋さんと一緒に東京を立ち、小田原の内野竹千代さんの家に寄った。(桜東洋さんは)ここで食事の用意をしていくのだという。ところが私は疲れが出たのか、また熱を出して内野さんの家で寝込んでしまい、1か月もこの家で世話になった。桜東洋さんは内野さんの家でまるで自分の家のようにふるまってあれこれ働く。内野さんは奥さんも大きな子どももある人だから、その時は私は何の疑いも抱かなかった。3月末にやっと(病気が)直って出発しようとすると、あまりにのびのびになったので、福岡では断って来たらしく、桜東洋さんは大慌てで先に出発した。後から内野さんが私を福岡まで送って来た。
私の結婚の相手は空襲がひどくて八幡の旭化成まで通えないので、八幡に下宿している。私はまるで中学生のおもりに行ったみたいだった。食料がないので子どもと二人で辛い思いをしていて何のためにきたのか分からない。後で分かったことだが、桜東洋さんは内野さんとの恋愛関係をうまくごまかすために私を利用していたのである。
八月十五日
102 ここ(福岡)で八月十五日を迎えた。1945年11月になると『アカハタ』が出たので、私は気違いみたいに喜んで、渡辺という本屋から『アカハタ』再刊一号を買った。これでやっと息をついた。後援会がいち早く旗揚げしたのでカンパを少し送り、昔の人を求めた。
翌1946年、桜東洋さんがリュックサックをしょってやってきて、炭鉱オルグとして派遣されたという。徳田さんたちが出て来た話も聞いた。桜東洋さんの話にいろいろ矛盾があるので、その時は変だなと思った。後から内野氏との恋愛関係のために追放されて来たので、オルグというのもでまかせだったと分かった。
そのころ隠匿物資の摘発が盛んにおこなわれた。私が隣組の会合で、米の配給の不正について発言したところ、次の選挙で隣組長に選ばれた。若い青年で協力する人もできて、そのころは何をしてもとんとん拍子に運び、隣組の宮城遥拝をやめさせた。
夫は私の歓心を買うために英語の『マニフェスト』(共産党宣言)を手に入れてきたり、『アカハタ』の分局をしよう、そして中学生の息子に配達させようなどといい話を出すのだが、実行はしない。八幡の社宅に住んで活動しようと言い、引っ越しの準備もしたのに、それも実現しない。一方東京の姉の家で兄が病気で会いたがっていると言ってくる。私はこんな家庭にいても仕方がないと思っていたので、別れて東京に帰ることにした。長三郎兄も「お前の決心一つだ」と言ってくれた。私もここで40歳を過ぎているので、自分の決意を実行することにした。
103 獄中にいた人たちが解放された時、袴田も出てきた。「袴田が帰ってきたから(私が)上京する」と言われるのも嫌だと思っていたところ、もう今は袴田は結婚したと聞いたので、それならいいと思った。「いままでさんざん苦労してきた人が考えたすえに別れるというなら、仕方あるまい」と昔の友人も言ってくれた。一緒に苦労してきた福岡の人達には何だか悪いような後ろ髪を引かれるような気がした。みんなは食料のないころなので豆腐のおからの寿司をつくって博多の駅まで見送りにきてくれた。
帰京
103 私は昭和21年1946年11月半ばに帰京した。桜東洋さんは四・一六事件の被告の時、すごいテロ(拷問)にも屈しなかった人なので、英雄視されていた。私もこの人を信用していたので、桜東洋さんと内野さんとの恋愛の道具に使われていたなどとは夢にも考えずに、10年も貫いてきた自分の生き方をこんな結婚で躓くなどとは、まったく魔がさしたような気がする。
この年1946年の暮れに服部之総111さんが「ウタちゃんが来るなら、金庫をそのまま預けてもいい」と言って商事会社へ雇ってくれた。80円という当時としては大変な高給だった。ここで2か月働いた。(年表では昭和22年1947年3月まで玄海商事勤務)
(1947年4月、)平井にいる昔の友人井上187さん夫妻の勧めで、党の東部地区委員会(年表では江東地区委員会)へ行った。その時までは私は今までの自分に落ち度があるから、これからは下からの活動を積み重ねていかなくてはと思い、入党のことなど考えていなかった。しかし転向した人も戦後はみな入党していると言われ、また私は昔流の考え方で、機関の要請があればやらなくてはならないと考えた。それからはライオン油脂、石川島精機などを受け持たされ、地区オルグの人達と一緒にやっていた。
104 ある日地区委員会に袴田夫妻がそろってやって来た。その時は二人ともさっと二階へ上がってしまい、(私に)ものも言わなかったが、数日後、統制委員会に出頭するようにという呼び出しで、松本惣一郎さんが呼びに来た。私は何かあるなと思ったが、行かなくてはならないと思って出かけて行った。松本さんと一緒に入って行くと、袴田一人で他に誰もいない。この時袴田は統制委員の一人だったのだろう。袴田はいきなり「裏切者!」と怒鳴った。松本さんはすぐ部屋を出て行った。私は黙っていた。袴田は私のことをいろいろ言った挙句、長三郎兄のことまで言い、「大体兄が悪いからだ」という。それまで自分のことだから黙っていたが、兄のことまで言われると、私も我慢できなくなって「兄には関係のないことです。兄のことまで言わないでください」と言った。袴田は最後に「これからは機関の仕事はするな」と言った。
私はかっとなり、地区に帰ると、「もう地区の仕事はやめます」と言った。地区の人達はあまりの突然でびっくりして党へ上申書を出してみるからそれまで待つようにと止めてくれた。私はその時は口惜しいので、もう絶対機関の仕事はしないと決心してやめた。
後で分かったことだが兄にも似たようなことがあった。1945年12月の戦後初めての党大会の時、兄は群馬に疎開していて、敗戦と同時に群馬の党再建に働いていたので、党大会に上京した。正式の参加か、傍聴のつもりかは知らないが、その時、大会会場の入り口に袴田がいて、入ろうとする兄に、「絶対に入れない」と頑張ったという。兄が傍聴でもいいからと言っても、頑張って入れようとしない。押し問答をしているところに、内野竹千代101さんが来て、間をとりなしてくれてやっと傍聴の形で入ったとのことである。
「機関で働くな」ということを統制委員会の人々がみんなで話し合った結果決めたことなら私も納得するが、袴田一人しかいない席で袴田から言われたことに私は納得できない。
105 昭和10年1935年の検挙の時、お互いに非合法の中でやったことで誤りがあったにせよ、戦後の今日になれば、お互いに話し合って問題をはっきりさせるべきだと思う。ことにあの時に入っていたスパイのことは、お互いに話し合い、どういう風に売られたのかをはっきりさせる必要がある。そうでないと、あの当時の袴田の性格的なものへの疑惑から「あれは中央委員ではないのではないか」という不信が生じ、それが多数派のできる原因にもなっているから、ことにこのスパイ問題は、はっきりさせなくてはならないと思う。ことに党から出て行った人たちが当時の袴田のやり方に対して個人的な感情で批判したものを発表していることもあるから、当時のことを歴史として正しく残すためには、個人的な感情的なものをいっさいのけて、当時のことを冷静に話し合い、あの当時の状況をはっきりさせておく義務が、私と袴田にはあると思う。それが「機関の仕事をするな」の一喝でできなくなったことを残念に思う。
その時袴田はこんなことも言った。「方々で君は袴田の妻だと言いふらしているそうだが、女房が大へん迷惑するから、そんなことは言わないでくれ。」私は腹が立った。袴田とのことは私の恥であるし、自分の恥をよそへ言いふらす者がどこにいるか。昔のことを知っている人が「あれはもと袴田の妻君だった」などと言った人もあるかもしれないが、私が自分の恥を自分でどうして言いふらすわけがあるか。兄も言った。「袴田とは合同のころから知っているが、あの男は一方を向いたらそっちを向いていることしかできない男だ。」それは強い性格としてある時はプラスするかもしれないが、政治家としては弱いと言えるだろう。
106 その後私は昔の友人に会い、救援会の仕事を勧められたが、そのとき「救援会は党機関ではないでしょうか」と尋ね、「救援会は救援会ですよ」と言われ、安心してここに入った。それからのちに三鷹、松川事件が次々に起り、その家族の人達とも話し合わなければならない仕事が沢山出来てこの仕事に打ち込んだ。年表によれば国民救援会での活動期間は、昭和22年1947年9月から昭和30年1955年5月までだった。
これ以後年表によれば、
昭和30年1955年6月から昭和39年1964年12月まで日ソ協会勤務。
昭和41年1966年12月から昭和45年1970年5月まで前進座。
昭和45年1970年6月、浦和へ。
昭和46年1971年7月から11月まで、よその家で留守番。
昭和47年1972年12月から長十郎事務所へ勤務。
昭和48年1973年6月、下谷病院へ入院。
昭和49年1974年2月20日、同病院で死亡。
また1933年、1934年当時、袴田里見・ウタ夫妻が追い詰められながら居所を転々と変えていた様子が年表から読み取れる。
1933年
2月初旬 神田神保町
3月下旬 本郷金助町
6月末 小石川駕籠町
9月 芝、清正公前
11月下旬 麻布笄町
12月初め 池袋
1934年
1月下旬 東長崎
3月初め 京都に移り、東京に帰ってから転々とし、
5月ごろ 千葉県保田
7月 江戸川区逆井
8月から10月上旬まで 世田谷区大原町
9月ごろ 多数派が発生した。
11月ごろから連絡が回復し、赤旗も出せるようになった。
1935年
3月4日 袴田が検挙される。
5月7日 ウタも検挙された。
メモ・感想
Ⅱ 獄中書簡
田中ウタから豊原五郎へ
111 服部之総 豊原五郎の隣村の友人、1922年東大入学、新人会、柳島の東大セツルメントなどで活躍。歴史学者。1956年死亡。
愛甲勝矢 豊原五郎と同じく三・一五の被告。
西田はる 1905年生まれ、1945年死亡。福岡水平社で活躍。のち福岡合同の常任となり、四・一六で検挙され、子どもを連れて在獄した。
121 党派闘争 合同の事務所は総同盟の連中に壊されてしまって、只今は本所区横川町37関東化学の事務所と一緒になっております。
感想 2023年7月21日(金)
田中ウタは1928年の3・15で逮捕・拘留されている同志である夫に対して手紙の中で獄外での共産党の活動状況を克明に知らせているのだが、それは共産党を非合法と見なす警察に身内の情報をばらすようなものであり、警察がこれを見てただではおかないだろうくらいのことは警戒しなかったのだろうか。党の最初の組織方針としてその点を党員に注意させられなかったのだろうか。威勢はいいのだが、余りにも無防備な感じを受ける。そして現に田中ウタ自身が翌年の一斉検挙1929年の4・16でやられている。以下その手紙の該当部分を抜粋する。
114 「東京で(3・15で)やられている(逮捕)人の名はあまり沢山ではっきり解りませんが、貴方の知っている人はほとんどやられています。でも矢張り次から次へと新しい闘士は生まれて到るところに日常闘争は活発に進められています。殊に我が光輝ある東京合同の同志諸兄はいつも闘争の先頭に勇敢に闘っています。
暴圧によって解散された労農党の再建も近く発会式を挙げることでしょう。基金募集に新党名募集に、又評議会再建運動として左翼組合協議会は生まれ、労働新聞の発刊のため矢張り千円募集をしています。機関紙(無産青年)も発行されています。又無産者新聞社でも輪転機購入のために金五万円募集に社員、支局員大奮闘を続けています。
また我々の要望している合同問題も大衆の日常闘争を通じて着々と進められています。すでに農民組合の方では日農と全日と合同して、全国農民組合が生まれました。労働組合の合同はいまだ実現されていませんが、各地方支部等では大衆の間に完全に合同は結ばれています。」
以下の懸念材料から導き出せる私の邪推
・田中ウタは刑期が3年と短かった。西村桜東洋に非合法活動を勧められたが断り、1931年6月下獄した。080—081
・「二度目の検挙では人に迷惑をかけるような組織のことをバラすことはしていません。」089
・昭和21年ころ、袴田里見に「裏切者!」「今後党活動(機関の仕事)をするな!」と怒られた。
・西村桜東洋さんが口を割らなかったと戦後大評判だったと羨んでいる。「英雄視されていました」103
これらのことから何が邪推できるか。私もその場に置かれたらどうなるか分からないが、人それぞれだったと思う。責めるつもりはない。
感想 2023年7月22日(土)
114 「暴圧後例の労農一派のあらゆる妨害にも拘わらず、左翼大衆は勇敢に進出しています。如何に彼らが筆先や口先で立派な理論を並べても、大衆の間に根のない彼らには何もやれません。」
党末端の田中ウタ自身が「労農一派」は口先ばかりで民衆活動をしていないと批判するのだから、1928年10月のころからすでに左翼は分裂していたようだ。
137 川合義虎、北島吉蔵、相馬一郎、丹野セツは共に日立の出身。川合義虎と北島吉蔵は1923年9月2日亀戸事件で虐殺された。相馬一郎は後にソ連に留学し、帰国して4・16で検挙され、転向して、後に自殺した。
139 「ここ(水戸刑務所)では野菜が十分食べられる。貴方のところ(長崎刑務所岡町支所)では三度共汁ばかりだが、(長三郎)兄の所(市ヶ谷刑務所114)もそうだと思う。ここでは朝夕は味噌汁だが、昼は野菜の料理が出る。毎金曜日の夜には魚もくれる」とあるように、刑務所によって随分待遇の差があったことが分かる。
149 豊原五郎の上告が却下となり下獄するとの電報(1930年1月9日)に接して「同志がなくなった」と思うとはどういう意味なのだろうか。手紙のやり取りも禁止されるのだろうか。2年後の1932年6月7日に豊原から「執行停止、星野へ行く」との電報が届き、6月15日の午後、刑務所長から電報を差し出され、豊原の死亡を知った。083
豊原五郎のウタ宛て手紙を読んでの感想 2023年7月23日(日)
豊原はすごく律儀な男だ。冷水摩擦は体にいいと言って妻のウタにも勧めていたが、そのご本人が獄中で斃れてしまった。上告を取り下げて1930年1月21日に下獄した2年後の1932年6月15日だった。ちなみに控訴却下となるとそれまでの拘留日数は通算されないとのこと。164
未決と既決とでは文通に関する規制が異なり、既決の場合は発信が月1回しか認められていないとのこと。このことをウタが嘆いていた149のかもしれない。それまでは1日おきくらいに頻繁に文通をやることができた。当局は法を改正した。つまり、
1931年昭和6年4月30日に監獄法施行規則の一部(接見と信書の発受)が改正され、(既決の場合)
・接見は2か月に1回が1か月に1回になり、
・信書の発信は1か月1回となった。受信は全ての制限がなくなり、(受信は)未決と同じになった。
・(信書発受診の)「原則として親族」という制限は継続されるが、典獄(監獄の長)の意見によって他人のも許される。167
共産党員は肉体実力派という印象を受ける。私なら「労農」のように口先だけと批判されるのだろう。
豊原五郎に関する資料としては「和田公民館」報2017.8がある。これは岡本博の「防六をあおぎて」や「ふるさとの50人」に基づくが、公民館報によれば、
豊原五郎は明治36年4月に豊原観一郎、スエの三男として那賀郡和田村に生まれた。大正11年浜田中学卒。同12年服部之総を頼って上京。同14年東京合同労組に加入し、日清紡争議を指導。同15年療養のために帰郷し、日本農民組合島根県連合会を結成。昭和2年日本共産党に入党し田中歌子と結婚したが、その直後の同2年3月15日に検挙された。同7年6月15日、鹿児島刑務所から帰郷の途中、小倉で死亡。30歳だった。父は地域の医者で果樹園の栽培もしていた。
斉藤久雄の田中ウタへの手紙を読んでの感想 2023年7月24日(月)
173 消印が「昭和5年1930年3月13日」となっているが、田中ウタは1929年4月16日に逮捕され、出獄したのが1930年12月だから、「1930年3月13日」の時点ではまだ獄中にいたはずなのに、「先日は重い掛けぬ処へ面会に来てくれ」という表現は時間的整合性がない。おかしい。何かの間違いではないのか。宛先も「高円寺の金井様方」となっている。これは翌昭和6年1931年3月31日の間違いではないか。
goo blog「しんぶん赤旗」日刊紙2018.2.6付によると、斉藤久雄(党名は藤原久、1903—1935)は赤旗創刊号1928.2.1から4号までの印刷責任者。1928年3月15日に検挙され、9年の刑。
斉藤久雄に関する資料は、今村英雄『嵐の中の烈士伝』や『青森県労働運動史』第1巻があるが、後者には彼の写真が掲載されている。
弘前中学、東洋大学、東京合同労組書記、1926年入党。1928年3月15日の検挙後、結核が悪化して保釈されたが、再逮捕され、1935年3月末、危篤となり、執行停止。3日後千葉刑務所前の旅館で死亡した。33歳だったとある。
田中ウタの「長三郎兄」秋山長三郎に関しては、二村一夫「日本労働組合評議会史関係文献目録および解説」がある。それによれば、秋山(田中)長三郎は徳田球一の秘書であったが、評議会の主力組合石川島造船所の造機船工労組合の機関紙『工労』を編集したとあり、秋山の著作として、
秋山長三郎「評議会運動史の問題点」『労働運動史研究』第38号1965
を挙げ、さらに2回の座談会記録を紹介している。
「総同盟第一次分裂をめぐって」秋山長三郎、市村光雄、斎藤忠利、田中うた、丹野セツ、戸沢仁三郎、湊七良ほか。『労働運動史研究』第34号1963
「続・総同盟第一次分裂」秋山長三郎、市村光雄、泉盈之進、菊田善五郎、湊七良、斎藤忠利ほか 『労働運動史研究』第35号1963
秋山長三郎も戦前は1928年3月15日に逮捕されて獄中で苦しんだが、何とか苦々しい戦前を生き延び、戦後は労働運動を回想・研究していたようだ。
秋山長三郎は1928年10月12日時点で市ヶ谷刑務所にいることが分かる。114
秋山長三郎は1932年11月24日のウタの栃木刑務所満期出獄を出迎えた084というのだから、刑期は比較的短く3、4年くらいだったのか。それを袴田里見が難癖つまり「だいたい兄が悪いからだ」と言う104のかもしれない。組織の内情をばらしたりしたのかもしれない。最初のウタのように。
Ⅲ 田中ウタの周辺 牧瀬菊枝 を読んでの感想 2023年7月25日(火) 要旨・感想
187 非合法時代の田中さんのこと――井上さかり*・里雨(りう)さん(夫妻)からの聞き書き――
*漢字は「燦」に似ているがそうではなく「火偏に氣」。
タイトルはこうなっているが実際は田中ウタのことではなく、井上里雨1900--の紹介である。
一 自由民権家の娘
井上さかり・里雨夫妻は戦前・戦後一貫して私生活を投げうって救援活動に献身した。現在江戸川区の商店街の化粧品店の二階二間に暮らしている。
井上(大和田)さかり1899--の父は旧仙台藩士・大和田敬時で、神田ニコライ堂の牧師であった。井上さかりは礼服を作る洋服屋である。井上里雨と結婚して井上姓となった。
井上里雨は救援会の神様みたいな人で、彼女の偉い点は党の方針とはかかわりなく、自身の判断で困っている人を助けるということである、つまり党から見捨てられた人も助けたのである。1950年問題のとき、党が宮本百合子の葬式に参加しないと決めたことについて、「あんなに戦争中に頑張った人をあんなふうに扱うのはいけない」と怒った。195
井上里雨の父・井上桃之助(兵役逃れに「三浦桃之助」とも名乗った)は、茨城県真壁郡黒子村の生まれであったが、群馬に来て、負債に苦しむ農民3000人を指導して蜂起した反乱的自由民権運動である群馬事件の活動家であったため、裁判記録では明治17年に捕らえられ、26年出獄し、計9年間獄中にいた。『東陲民権史』では明治20年7月29日に軽懲役7年の判決とあるが、これは未決期間が入っていないのだろう。その間に妻は焦がれ死んだ。
桃之助は16歳から小学校の教師。自由党に参加。出獄後は村の貧しい子を教えていた。
里雨は二度めの妻の子である。里雨は小学校のころ友達から「強盗よりもひどいことをしたのは何かわかる?」とか「国を盗もうとした国賊の子‼」と言われ、戦争中も「国賊」と言われた。(後述)里雨は言う「父は困っているのを見ると、敵(政敵)でも内緒で米や味噌を届けてやった。自分の利益は考えないから、何もかも失くして一生を終わりました。私はそういう父の性質を受け継いでいます。困っている人、かわいそうな人を見るとだまっていられないんですよ。だからクリスチャンみたいだと言われます」
里雨夫妻は言う「新婚のころ近くの貧しい子たちの託児所へ何かあげたくて、表から持って行くのは恥ずかしいから、こっそり垣根のところに置いて来たりしました。」
二 非合法時代の救援
さかりさんは昭和4年に左翼系の借家人組合の大島支部長となった。
昭和9年1934年ころの共産党は壊滅状態であったが、わずかに残っていた中央部とともに田中ウタは働いていた。救援活動も追い詰められ、多くの人が立ち去る中、さかりさんは特高に追われた。
東大セツルメントの講師・古川苞(しげる)は逮捕されても自分の名前さえ言わず、喉頭結核で保釈後、『資本論』を労働者に講義する中に亡くなった。夫婦はその人の写真を壁に掲げ、「自己犠牲とはこの人のことです」と言った。192
里雨は自身の子どもが兵隊にとられる時、神社にもやらなかった。それを見た隣組の人から「国賊だ‼警察に言ってやれ‼」などと言われることもあったが、長男には「共産軍へ逃げろ」と言って無事に帰り、次男は病気でもないのに病気を押し通して無事に帰って来た。
里雨の父は板垣退助の裏切り196(武装闘争の取りやめか)に怒り、鶴見の総持寺で板垣の演説会があったとき猛烈に板垣を攻撃した。また関東大震災の時に天皇がのうのうとしているのに怒り、孫をおぶって二重橋に行き「庶民が塗炭の苦しみをなめているとき天皇はぜいたくをしている。こんな世の中に生きるのが嫌になった」という文章を書いていってそれを読み上げ、孫を地べたに降ろして自らは濠に飛び込もうとしたところ、警官に捕まり、狂人扱いにされ精神病院に入れられた。そして男の子のいない父は里雨さんの長男を我が子として入籍させて愛していたが、この孫が兵隊にとられることに絶望し、昭和16年81歳で鉄道自殺した。
田中さんの亡くなったあとの話――井上里雨さんからの聞き書き――
199 袴田は大阪で刑を終えて出て来た(1932年の秋)あと、(1933年)田中さんと一緒になった。
感想 2023年7月27日(木)
共産主義運動でも他の政治運動でも必ず人間関係の泥沼がある。評価されもするし、馬鹿にされもする。それはAグループからかもしれないし、Bグループからかもしれない。そのような党派間闘争をよそに、自らの独自の価値観を貫く人がいる。それは例えば本書に出て来る井上さかり・里雨夫妻(写真)である。井上夫妻はただ困っている人を助けることを自らの使命とし、党中央の価値観にとらわれず、共産党に見捨てられた人も助けたという。そしていつも文無しであり、文無しで亡くなった。旦那のさかりは神田ニコライ堂の牧師の息子で、生涯洋服の仕立屋であった。里雨は自由民権運動の群馬事件で9年間牢屋に入れられた井上桃之助の子で、1933年から1935年、共産党が包囲されて壊滅寸前のころ、袴田里見を助ける田中ウタの帯に1円札を黙って差し込んだという。
二度目の地下生活――秋山長三郎さんからの聞き書き―― 要旨・感想
202 袴田里見は1928年3月15日と1929年4月16日との間の中間検挙でやられた。その前から私(秋山長三郎)は袴田を知っていた。私は評議会に行く前は袴田の秘書をしていた。袴田はソ連のクートペに行き、1928年3月15日以後日本に帰って大阪で活動し、間もなく検挙され、刑(4年か)を終え(満期)て昭和7年1932年の秋に出獄した。非転向だったので大阪から尾行がついたまま上京した。そのころ上村進弁護士のところが情報センターになっていた。品川署の特高が尾行についたまま私のところへ来た。僕はそのころ家内と二階借りの生活をしていた。袴田は「親戚か友人かが僕を世話してくれれば尾行は解ける」という。僕は袴田に近くの三畳の部屋を紹介した。尾行は品川署から荏原署(えばら)の特高へと交代した。僕はそのころ保釈中だったので、僕のところから袴田が非合法に入ると、僕が再びやられる。僕は袴田と相談した。「僕の近くから地下入りしては困る、もっと先の方、僕の手の及ばないところからやってくれ」と袴田に言った。(このあたりのことを袴田は戦後気に入らないのかもしれない。)
203 そのころ目黒の不動様の近くに救援ハウスがあり、そこで田口ツギさんが寝たきりで胸を病んでいた。私は袴田にそこを案内した。そのころ(1932年11月24日)ウタは栃木の刑務所から出て(満期出獄)きた。ウタとツギちゃんは群馬の同じ村である。ウタはそこで袴田と知り合った。
僕は清家としを通して袴田と関係し、毎月30円の資金援助をした。直接清家齢とは連絡をとらず、神藤久三の奥さんを介在させた。袴田とは下北沢で会うことが多かった。ウタの亡夫・豊原五郎の妹が嫁いでいる金井満に資金を頼んだ。金井は有楽町の農林中央金庫に勤めていた。
204 当時警察は袴田とウタが一緒にいることを知っていたらしい。刑事は袴田らがリンチ事件を起こしたからやっきになって袴田を探していた。刑事は「あなたから洩れたとは決して言わない。どこへ袴田が現れるかを教えてくれとは言わない。せめて何かヒントにでもなるようなことを与えてくれ。本人たちも追い詰められ、金に困っているから、捕らえられたほうが、むしろ本人たちにとっては仕合せなんだ」と言う。僕は決して言わなかった。すると袴田とウタが捕まる前の年1934年の12月18日に警視庁が僕のところに来て逮捕し、家宅捜索した。僕は夜中に警察の道場に引っ張り出され、「あなたに聞いても言うはずはないから、からだにききます。その点は心得てくれ」と言って、ドロ刑(腕っぷしの強い泥棒をとらえる刑事)を連れて来て毎日ひどい拷問が続いた。腿が腫れ上がり動けなくなった。1月18日までやられ、その日に釈放された。
ウタちゃんのこと――渡部義通さんからの聞き書き―― 1974年12月20日 要旨・感想
205 僕は1923年の震災直後にひどいカリエスにかかり、東北大で切開手術を受けた。もう生きられないと言われたので、生きている間に何かしておこうと考えて、レーニンの組織論の翻訳を始めた。そのころレーニンの翻訳はなく、訳語が定まっておらず、どの辞書を引いても出て来ない。そこで東京の山川均の門下生を中心に討論して言葉を決めてもらった。それが本になった。
予後生活の中で福島高商の組織を始めた。また組合はそのころ一つもなかったので、洋服、靴、印刷工などの丁稚連中を集めて組織をつくった。また当時は「政治研究会」(無産政党の母体)ができるころで、その印刷物が僕のところに送られてくる。政治研究会を作り始めた。
3年半地方運動から抜けられなかった。その間に山代吉宗に会った。私は山代とは会ったことがなかったが、山代が僕らの建設者同盟の機関紙に投書したことがあった。私は山代の家に向かい、二晩泊まった。そこで常磐に評議会系の組合を作り始めた。そしてあの大ストライキ(常磐炭鉱大ストライキ)になった。
206 3年半くらい土着して東北の運動をやり、労農党もでき、評議会系の組合もぼつぼつでき始めた。そこへ共産党の組合の責任者が東京へ出てこいと言ってきたので行った。出て来るや否や岡谷の山一争議(1927年8月末から9月)が起り、工場代表者会議をやっていた。僕はそこへやられた。(派遣された)
昭和2年1927年夏前に僕は東京に出て来た。出て来てしばらくして福島高商の学生の柿本の妹(雪子)がウタちゃんと知り合いになった。そこで私はウタちゃんに初めて会った。昭和2年のことである。
ウタちゃんは派手ではない。表面に出て華々しい様子をするというタイプではない。いつも非常に誠実に、どんな失敗をしても知らん顔してやるというタイプで、とにかく下の方でどこか歩き回っていて、婦人同盟の段階になると、どこかで顔を合わすという程度で、僕はウタちゃんをあまりよく知らない。
僕は豊原五郎とは評議会で親しかったから、ウタちゃんの話も聞いた。
207 僕は1928年3月15日(の検挙)で体が悪くなり、2年目くらいで出てきた。
――1933年、田中ウタさんは袴田里見と非合法活動に入った。
袴田が僕のところに来た。
そのころ僕は労農党を支持して除名になった。そのことは『学問と思想の自伝』1974に書いてある。それまで共産党は大山郁夫、細迫兼光などを中心に労農党を育ててきたが、1928年3月15日に労農党がつぶれた時、労農党再建を最重要課題として取り上げていた。しかしコミンテルン第六回大会に行っていた指導者たちが帰って来て「労農党はつくるべきでない、共産党一本で行くんだ、むしろ労農党は邪魔なんだ」と言いだした。
僕が刑務所から執行停止で出て来る一か月前に労農党ができる。細迫君が悩んで手紙をよこした。僕は千葉の海岸で静養していた。細迫君がやってきて「いま労農党は苦しんでいる」と言った。僕は「労農党を作るべきだ」と言った。「それは大山先生やあんたたちだけでなく、大衆が共産党に入るまでに至らないが、日本社会党というふうなものではなくて、闘う組織、もとの労農党のようなものをつくりたいという気持ちは大衆の中にもあるから、共産党がそれを否定したり邪魔したりすることこそ道理にかなわない、作るべきだ」と言った。
208 その間に大山さん達に対する攻撃がひどくなり、大山さんが全くの裏切り者であるかのように、コミンテルンの文章にも出て来るようになり、日本の党の機関紙『赤旗』には大山さんがブルジョワからパンをもらっている絵が出て来る。大山さんの顔が犬の形で尻尾を振りながら、パンをもらっているという絵さえ出てくる。それに僕は非常に反対した。大山さんがブルジョワジーの犬であったり、反革命、反共であるはずがない。僕は憤慨して労農党をますます支持して党から除名になった。僕は獄中で始めた歴史研究を没頭していた。昭和7年1932年に除名になった。
僕は市川正一に手紙を書いた。除名になったが市川とは親しかった。唯研(唯物論研究会)に関係しているころ袴田が訪ねてきた。昭和8年1933年のころである。袴田は僕の家で『赤旗』の原稿を書いた。「僕は除名になったとはいえ、憲兵も来るし、特高も来るから大丈夫かい」と言ったが、袴田は「かえって大丈夫だ」と言った。
209 僕は18歳のころ東京合同で袴田を知った。袴田は建設者同盟にもよく来ていた。あのころ党内に反対派が成長し、いわゆる「多数派」なるものができて、袴田が多数派から除名された。
袴田は組織の事は言わないが党の方針については話してくれた。あのころシンパの組織はみな崩壊して(袴田は)ほとんど食うに困っていた。僕は田端の高台に住んでいて、兄が滝野川に住んでいた。兄の名前で米屋から米を取り、木炭や味噌も取り、袴田に仕送りした。(袴田は)食えないので本当に憔悴して痩せていた。これは昭和9年1934年のころである。(袴田は)時々やって来ては米など持って行った。袴田はウタちゃんと結婚していること、「あれは信用できる奴だ」と言っていた。そのころ清家としの問題があり、彼も誤解していたんだ。(意味不明*)
――そのことは戦後、清家さんが書いていますね。寺尾とし著『伝説の時代――愛と革命の二十年――』(未来社刊)に。
210 ウタちゃんはあまり派手なことはしないで、本当に誠実に雑草みたいに、どんなに押しつぶされても弾圧されても、とにかく苦にしない、誠実にコツコツとあまり駆け足ではなくて、むしろのろのろした形で根づよくやっていくというタイプの人だというので、僕は好感を持ってきていた。それで袴田の時も「あれなら大丈夫だ」と僕も言ったし、彼も「あらなら信用できる」と言ってました。
「歴史科学」に書いた原稿料をウタちゃんに渡したことがある。
*寺尾(若松、清家、田岡)とし 明治34年1901年11月13日‐昭和47年1972年1月30日 宇和島市出身 20世紀日本人名辞典
郷里で小学校代用教員を勤め、大正12年1923年、清家敏住と結婚、早大入学の清家を追って日本女子大に入学、昭和2年1927年、日本女子大卒業後、労農党書記、昭和3年1928年日本共産党に入党。昭和4年1929年4月16日に検挙。夫の清家敏住が転向したので、保釈出獄の昭和6年1931年に離婚し、旧姓若松に戻る。昭和8年1933年に共産党東京市委員として、袴田里見の下で昭和10年1935年2月まで赤旗を発行した。その前年の昭和9年1934年に新聞記者の田岡好と結婚したが、昭和10年1935年に(自身が)検挙され、「非党員の田岡を守るために」「転向」した。(どのように)昭和15年1940年出獄した。田岡は昭和18年1943年に戦死した。戦後復党し、昭和23年1948年寺尾五郎と結婚した。昭和25年1950年の党の分裂の時に国際派に属して除名され、六全協で復党したが、今度は中共派として寺尾と共に昭和41年1966年に除名された。
*「そのころ清家としの問題があり、彼も誤解していたんだ。」とあるが、「清家としの問題」もあったので袴田がウタを信頼したのは間違いだったという意味か。ウタが会う人が立て続けに検挙されたことを指しているのだろうか。088
山代巴「Ⅳ 黎明を歩んだ人」
256 秋山長三郎は戦前転向を装っていたが何度も逮捕拘禁されていた。
・昭和9年1934年の12月18日警察に引っ張られ、夜中に道場で拷問。1935年1月18日まで。袴田里見の居場所を「体に聞かれた。」「秋山長三郎聞き書き」204
・昭和15年1940年夏検挙、「敵性行為」で起訴、懲役3年。昭和19年1944年秋まで。287
・昭和20年1945年5月~8月22日、警察に留置。理由は「友人とどこかへ出かけた」というもの。287
268 1932年1933年昭和7・8年、山代巴は文化活動で逮捕された。
272 戦後の袴田里見のウタに対する「裏切者」発言は、離婚を意味するらしい。
276 ウタは昭和16年1941年12月9日、田無署に連行され、昭和13年1938年秋の「綱島ピクニックは何かの会議ではなかったか」と訊問された。ウタは昭和17年1942年4月病気で出された。
301 田中ウタは文革によって下層民衆が上層部を批判する自由を得たと考えていた。
「8 戦中体験を総括して」を読んでの感想 2023年7月28日(金)
山代巴が丹野セツを中心に田中ウタや牧瀬菊枝なども加わって戦前の共産党の検証本『丹野セツ=革命運動に生きる』勁草書房1969年12月を出したらしいのだが、共著者の牧瀬も山代も田中ウタも党内の人から見れば「党の人ではないよね」で話はおしまいである。確かに運動を担っている人から見ればそうなるだろう、何を部外者があれこれ言っているのかと。組織の正義とはその担当者の正義である。正義を振りかざす集団には必ず正統性がつきまとい、その正統性はその組織のボスそのものである。
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