戦争の論理 加藤陽子 勁草書房2005
はじめに
1 歴史家の役割とは
コリングウッド(R. G.
Collingwood, 1889-1943, オクスフォード大、哲学)は “The Idea of History”1946の中で、歴史家の仕事を「歴史の闇に埋没した作者の問いを発掘することである」とした。ここで「歴史の闇に埋没する」とはパラダイム変化を指すが、それは戦争によってもたらされることが多い。
2 日露戦争を例として
司馬遼太郎は「日露戦争前の日本軍は合理的であったが、昭和になると駄目になった」とし、その理由は、「日本の軍部が日露戦争の勝利に奢り、成功体験に慢心したからだ」という。
しかしそれは通俗的な歴史観である。秋山真之は東郷平八郎の指揮を支えた作戦参謀で、艦艇に機密日誌の作成を義務付けていた。1982年、野間實は海軍が『明治三十七八年海戦史』の普及版と極秘版の二種類を作っていたことを明らかにし、田中宏巳がその二つを比較し、日露戦勝利の理由とされる「敵前大回頭後30分だけの砲撃でバルチック艦隊を壊滅した」という大艦巨砲主義は極秘版からは導き出せないとした。
極秘版によれば、主力艦と巡洋艦隊とが丁字と乙字の戦法で攻撃し、その後水雷艦隊と駆逐艦とで勝利を収めたとし、それは当時の常識だった。しかし、1916年以降極秘版は極秘になり、ここでパラダイム変化*が起こった。(加藤はパラダイム変化の年を1910年とするivが、その根拠は何か。)
*有馬学「戦争のパラダイム――斎藤隆夫のいわゆる『反軍』演説の意味」1995
3 戦争のパラダイム変化
このパラダイム変化の一つ目の理由は、海軍の秘密主義である。連合艦隊司令部の秋山真之は、乃木希典指揮の陸軍第三軍の岩村団次郎中佐に連日書簡を送り、「旅順の二〇三高地の占領は是非必要であり、それによって四、五万の勇士を失っても大して大きな犠牲ではない」と言った。(1904年11月30日、12月2日付)そして陸軍第三軍が旅順港内のロシア艦隊に対する砲撃に成功したとき、「バルチック艦隊は旅順艦隊と合同できないと、優勢にはなれない」(12月4日付)と喜んだ。このことは普及版『海戦史』には載っていない。陸軍への対抗心がその理由だろう。当初参謀本部は旅順攻略を計画していなかった。
パラダイム変化の二つ目の理由は、陸海共同作戦の意義に当事者以外の人々が気づいていなかったことである。ロシア参謀本部アカデミーの出身で戦略家のスヴェーチンは日露戦争に志願したのだが、横手慎二によれば、スヴェーチンは『最初の段階にある二十世紀の戦略――1904年から1905年の陸海における戦争計画と作戦』1937の中で、「日本側が1870年の普仏戦争時代のモルトケ的大陸型軍事戦略とは異なる独自の戦略(陸海軍の協調)を創造し、軍の力の利用が同時的ではなく階梯的であった」としている。
4 本書が対象とするもの
本書が対象とする時期は、日露戦争から太平洋戦争期までである。
日露戦争前の為政者や国民のかなりの部分は対ロ融和的であったが、開戦直前と直後では消極的ではなかった。開戦前の朝鮮問題解決法は日露交渉であったが、朝鮮問題だけでは外国の好意的援助と外債引き受けを期待できなかった。小川平吉と朝河貫一は国論を積極論へと転換し、戦争を正当化した。(第三章)
田中義一は二大政党制時代の政友会を率いた総裁であった。横田千之助は政友会を二大政党制時代に「適合的な」政党になるように「改革」した。横田は田中を総裁に擁立した。田中は軍人政治家であった。田中は日露戦争後、陸軍長老の寺内正毅の反対を押し切って、在郷軍人会を大衆化した。(第二章)
北一輝はパリ講和会議後の対外的危機意識の中で国内改造を要求した。北一輝は日本が中国とアメリカとに挟撃されるとして国内改造を迫ったが、その理由はパリ講和会議の席上で沈黙する日本外交への失望以上に、対外的危機意識であり、その温床は大戦中の5年間にあった。(第四章)
昭和戦前期の政治集団の「革新派化」は、浜口雄幸内閣期のロンドン海軍軍縮条約をめぐって起こった。不戦条約を基礎として海軍軍縮会議を開催した英米の考え方と完全に一致していた宮中グループや内閣に対して、加藤寛治・海軍軍令部長は内閣に対抗した。明治憲法第十二条の「編制と常備兵額」に基づき兵力量を考えていた内閣に対して、加藤はワシントン会議後の1923年に改訂されていた帝国国防方針の「所要兵力量」から兵力量を考えていた。(第五章)
太平洋戦争に敗れた時、当初日本政府は全ての軍人や民間人の日本帰還は困難であり、現地自活方針を考えていたが、実際は1946年5月までに中国から166万人の軍人と民間人(海外残留日本人の8割超)が帰還できた。アメリカや中国が冷戦開始期に日本人の引き揚げを急いだ理由は何か、また迅速な引き揚げはなぜ可能だったのか。(第九章)
第一章 軍の論理を考える
1 陸軍の政治力の源泉
001 戦前昭和の陸軍の政治力の源泉は、第一に徴兵制度である。1872年明治5年11月28日付「全国徴兵の詔」は「本邦古昔の制に基き、海外各国の式を斟酌し」て兵制を建てると謳い、同日付の太政官告諭「世襲坐食の士はその禄を滅し、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめ」に基き、翌年1873年明治6年1月10日の徴兵令となった。
002 その後(徴兵令は)数回改正され、代人料、免役制、猶予制の各条項が消え、1889年明治22年2月11日発布された大日本帝国憲法第20条は「日本臣民は法律の定むるところに従い、兵役の義務を有す」と定め、戸籍法の適用を受ける成年男子に兵役の義務があるとした。*
*伊藤博文『憲法義解』は、「全国男児二十歳に至る者は、陸軍海軍の役に充たしめ、平時毎年の徴用は常備軍の編成に従い、而して17歳より40歳までの人員は尽く国民軍とし、戦時に当たり、臨時招集するの制としたり」としている。
第一に、大正期から昭和初年にかけての陸軍は、毎年10万程度の現役兵を徴集して入営させていた。また入営させなくても、壮丁への徴兵検査や在郷軍人への点呼・召集を通じて、陸軍は海軍に比べて国民と接触する機会が広く持続的であった。宇垣一成はその点をよく自覚しており、陸軍大臣時代の1925年大正14年5月13日に次の見解を記している。
「対地方*の国防、軍事の宣伝はもちろん必要である。しかし年々手許で教養する十数万の士卒に対する宣伝即ち彼らに真意義を理解せしめて郷党に帰すことが先決であり、また効果の多い方法である。外だけを見て内を顧みないという通弊に陥らないことが肝要なり」
と言っている。
003 ここで一行目の「地方」とは軍隊から見た一般社会のことであり、「社会への宣伝も大切だが、毎年入営して来る10万の現役兵に国防の意義を入営中に教育して社会に戻す方を真剣に考えるべきだ」と宇垣は主張した。徴兵検査、入営、簡閲点呼など、徴兵制をめぐる時々の手続きを国民生活の中に織り込むことで、徴兵制は村々の生活に深く根を下ろした*から、陸軍の(国民に対する)影響力は大きかった。
*喜多村理子は『徴兵・戦争と民衆』1999の中で、「都市住民よりも農村住民の方が戦争に協力的であったとイメージされるが、その源泉を農村での徴兵や戦争に対する祈願だ」としている。また原田敬一は『国民軍の神話』の中で、「入営→兵営での生活・訓練・退営もしくは死亡→平時の生活への復帰や追悼という生活暦の中で、国民軍概念が成立した」とする。
第二に、徴兵制軍隊では市民社会での階級・身分・出自が無関係になることから生じる平等性である。丸山眞男は飯塚浩二『日本の軍隊』2003の中で、
「警察組織は官僚制だが、軍隊は誰もが平等に入隊できるから国民の間に親近感が生まれた。第一次大戦後軍隊に対する評判が悪くなったとき、軍隊は民主的だ、国民的基礎に基いている、と宣伝した。天皇の軍隊という概念は最近のものであるが、その前は国民の軍隊であった。外国の軍隊は貴族の軍隊だが、日本の軍隊は国民の軍隊であると強調した。」
004 陸軍が公平で平等だと宣伝できれば、それは軍の力になり、国民の支持が得られる。
加藤陽子は『徴兵制と近代日本 1868—1945』の中で、徴兵令や兵役法の改正の過程における国民の支持獲得を見た。
また一ノ瀬俊也は『近代日本の徴兵制と社会』の中で、軍隊教育と軍事救援が、徴兵制を正当化したとする。
第三は海軍との比較である。黒野耐2000は陸軍の「国土人民一体論」を紹介している。日清戦争後の軍拡過程にあった1899年明治32年1月、山本権兵衛・海軍大臣は以下の建議をした。それは「参謀総長を全軍の幕僚長とし、海軍軍令部長がそれを補佐するという戦時大本営条例を、陸海軍対等の新条例に改正しよう」というものだったが、これに対して、時の陸軍大臣桂太郎が反対した。
「人民はその土地を守らないわけにはいかないから、壮丁がいれば国土は失われない。そのことは陸軍が得意とするところであるから、それを海軍が望むべきものではない。」
これに対して山本権兵衛は「白兵戦(白兵とは刀剣槍などの総称)は現在では通用しない」と反論した。そして戦時大本営条例は1903年明治36年12月28日に改正され、参謀総長と海軍軍令部長が天皇に対して対等に補佐するようになった。
006 しかし米では「日本軍=国土人民一体論」が続いていた。オレンジ・プランはアメリカ海軍の対日作戦計画であり、1924年から正式に大統領の承認を得ていたのだが、それは太平洋戦争勃発直前まで、日本侵攻の最終段階である第三段階として、「中国大陸によって生存しようとする日本陸軍の力を、空と海からの米海軍の力で封鎖・包囲して降伏させる」としていた。オレンジ計画の著者エドワード・ミラーは、
「日本の目標はアジア大陸であり、その頼みの綱は強大な陸軍だった。対するアメリカは海から戦いを挑むしかなかったから、米軍の使命は敵の陸軍力をこちらの海軍力で打ち破ることにあった。」
としていて、日本陸軍を、朝鮮半島、中国、東南アジアの占領地に根を張る陸軍としてとらえており、大東亜共栄圏地域を(日本の)国土とみなし、そこを守る日本軍と考えていた。
2 陸軍の政治力の内実
行政機構としての陸軍は、大蔵、外務、文部などの各省とともに内閣を組織する一官衙にすぎなかったし、法律と予算の面で帝国議会のチェックを受ける点では他の省と変わりはなかった。ただし陸海軍大臣次官現役武官制という特例があり、これは他の省には見られなかった。また陸海軍を構成していた、省以外の機構としての参謀本部、海軍軍令部、軍隊、(陸軍士官・海軍兵)学校、特務機関などの行動原理は、統帥権独立によって保護されていた。
現役武官制は1937年昭和12年1月の宇垣一成内閣流産の直接的要因であり、陸軍にとって望ましくない首相候補の就任を阻止する手段として実際に使われた。
しかし、この方法は何度も使うことはできなかった。大命降下した首相に対して陸相候補者を拒否し続けることは、大権の干犯であった。その当時首相候補として最も有力な一人とされていた近衛文麿はこの点を自覚していて、「大命が既に降りた後で、大命を受けた人を排斥することは、任免大権の発動そのものを拒否することであり、甚だ穏やかならずと存じ候」と寺内寿一陸相に手紙を書き、大命降下した宇垣一成に対して陸相推薦をサボタージュした陸軍上層部を牽制した。
008 さらに陸軍省や参謀本部の課長クラスを構成していた陸軍の中堅層は、第一次大戦の与えた衝撃に驚いていた。つまり、相手国に対していかに効率的に経済封鎖をして戦争に臨むか、あるいは相手国が仕掛けた経済封鎖をいかに生き延びるか、という総力戦の要諦を知るにしたがって、陸軍中堅層は政治と軍事との境界について再考を迫られた。
統帥権独立は、軍事が政治に影響されず、政治から独立し、軍事を政治から隔離するはずのものだったが、果たして軍事は本当に政治から独立していていいものか、と彼らは考え始めたのである。これまでの陸軍は合議制・「弱体主義」に堕しているという認識の下に、彼らは統帥権独立の意味を再考し始めたのである。
元老によって奏薦された首相候補に対して、陸相候補推薦を拒絶するという切り札で政治的主張を通して来た三長官会議(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)方式を見直すために、その前段階として、これまでは参謀総長と教育総監との合議制で決定されていた部内の人事権を、二・二六事件後の粛軍に際して、陸軍大臣に完全に一元化するために、1936年昭和11年5月、軍部大臣現役武官制復活が図られた。つまり現役武官制が復活したのは、陸相候補者の資格をより限定するためであって、成立すべき内閣に要求をつきつけるためではなかったのである。
3 満州事変勃発時のケーススタディ
009 統帥権独立問題
昭和戦前期の外交の失敗を戦後になって外務省が総括し、「日本外交の過誤」*を著した。昭和期に陸軍の政治支配の深化に最も批判的であったと考えられる外務省関係者で、第一次近衛文麿内閣のときにイタリア大使だった堀田正昭は、
「外務省としては手が出なかった。一体その後外務省が軍を抑えきれなかった根本原因は、軍が満洲や北支にいたからである。(軍が)出先で事を起こすことができたからである。」
*「『日本外交の過誤』について」、『外交史料館報』第17号、2003年
ここで堀田は軍が、外国である中国大陸で事件を起こして国内政治を引きずっていたと述べている。また広田弘毅内閣と平沼騏一郎内閣の時に外相だった有田八郎は、
「軍部があそこまでやれたのは、結局、外国に兵をおいていたからである。一体「奉勅命令」というのは、内閣が先にこれに同意して上奏していなければ、参謀総長が上奏しても出兵の命令は下されないことになっていた。」
010 有田はこの文の前半で、関東軍や支那駐屯軍など「外国に兵を」置いている軍隊の存在故に陸軍の力は強かったと述べているが、後半の文で述べていることの意味は次の通りである。
「奉勅命令」とは、天皇が直接率いる建前の軍隊、則ち天皇に直隷する軍隊に向けて、天皇自らが下す命令であって、天皇が天皇の幕僚長である参謀総長にその命令を直接下すという形式をとる。そしてこれを参謀総長は(天皇に)直隷する軍の司令官、例えば朝鮮軍司令官や関東軍司令官などに、「奉勅伝宣」として命令を下して伝えるが、この命令を「奉勅命令」と呼ぶ。有田の後半の文は、参謀総長が出兵のための上奏をしたとしても、それだけでは派兵されず、内閣の決定つまり閣議決定が派兵の意思決定の際に必ず必要とされていたことを思い出させる。
つまり本来は閣議決定の上で首相から上奏され、これと並行して参謀総長からの上奏が必要とされ、派兵が決定された。しかし外国や外地に駐屯していた軍隊があったために、この手続きがゆるがせになったと有田は主張したかったのだろう。
有田の胸中にあったのは、満州事変時に起った林銑十郎朝鮮軍司令官による独断専行による越境問題だった。1931年昭和6年9月19日、朝鮮軍司令官は関東軍司令官の要求によって、独断で朝鮮軍の混成旅団を汽車で満洲に派遣しようとした。しかし同日、参謀総長は朝鮮軍司令官に待機命令を出し、それによって一時、朝鮮軍混成旅団は、中国と朝鮮との国境線で停止した。にもかかわらず関東軍からの再度の増兵要求に接した林朝鮮軍司令官は、21日、国境の新義州に停止していた歩兵第三十九旅団を独断で(満洲に)越境させた。
011 朝鮮軍や関東軍は、朝鮮軍司令部条例や関東軍司令部条例があらかじめ指示している任務の範囲内の行動については独断専行が認められていた。しかしこの場合の朝鮮軍の行動は、司令部条例の認める範囲を逸脱していることは明らかだった。
奈良武次・侍従武官長はその日記の9月19日の条に、「任務の範囲内行動は軍部が専断し得べきも、それ以上のことは閣議の決定を待つべく」と記した。奈良侍従武官長は、金谷範三参謀総長に対して、「南次郎陸相によく話して、南を通して閣議において関東軍への増派についての承認を求めるべきだ」と説得していた。そしてその後の南陸相の行動は、奈良の説明に従うものだった。
出兵のための閣議決定に関する政府と出先との攻防について、政府側の資料『西園寺公と政局』と出先側の史料『林銑十郎 満州事件日誌』を次に挙げる。
原田熊雄『西園寺公と政局』1950年によれば、(1931年9月)19日の閣議で、若槻礼次郎首相は、南陸相に向かって、次のように述べた。
012 「正当防衛なのか。もしそうではなく、日本軍の陰謀的行為だとすれば、わが国の世界における立場をどうするのか。かくの如き不幸なる出来事に対しては、衷心遺憾の意を表する次第であるが、偶然に起った事実ならば止むを得ない。この上は、どうかこれを拡大しないよう努力したい。即刻関東軍司令官に対して、この事件を拡大しないように訓令しようと思う。」
こうして事件の不拡大と早期収拾の旨が閣議決定*され、若槻首相は(その旨を)同日午後に拝謁し奏上した。
*23 「(若槻)首相は、事件を拡大しないよう軍に訓令したことと、事件の真相と帝国の態度を外相から各国使臣に発表することも天皇に上奏したが、軍隊の出動範囲と地域拡大について、閣議を経て、御裁可を乞うべき(予定)旨も上奏したようだ。」(河井弥八『昭和初期の天皇と宮中』1993年)
関東軍の「出動地域の拡大」とは意味深長だ。
当時関東軍参謀であった片倉衷『満州事変機密政略日誌』によれば、「(1931年9月)19日午後6時頃、(陸軍)大臣(陸204電)と(参謀)総長(15電)より(から)相前後して(電報が)来たり、帝国政府は事態を拡大させないことに努力する旨の方針を決定し(たから)、軍の行動は之を含んで善処されたい旨訓令された」とあるから、関東軍司令官へ訓令が迅速に出されたことは事実であった。また関東軍司令官へ訓令が出されたことは、林朝鮮軍司令官の同日(19日)の日誌にも出ている。
「2時5分、参謀総長から意外な命令あり。――増援は派兵の勅令があるまで動かすなとの意味である。…この増援の請求に応ぜしめざる意図がどの辺にあるのかは、将来大いに「研究」を要す問題である。(この日午前、閣議で事件をこれ以上拡大しないことに決議し、関東軍司令官に訓令せる折柄なれば、軍の行動をも掣肘せるものなり)」
013 (これから)金谷参謀総長から林朝鮮軍司令官に宛てて、増援のための派兵は勅命があるまで許さないと訓令していること、そしてその訓令に対して林が意外な命令だと捉えていたことが分かる。
20日、21日と連日閣議が開かれ、その席上行われた、朝鮮軍の一旅団を出動させる必要があるという南陸相の説明は、依然として閣議の了承が得られなかった。林朝鮮軍司令官はそれを「21日の閣議において、南陸相の積極論に対する、幣原(喜重郎・外相)、井上(準之助・蔵相)両相の消極論が対立し」て、決定に至らなかったとみていた。
このような状況下で21日、林朝鮮軍司令官は独断専行で新義州に待命させてあった歩兵第三十九旅団を渡河させ、関東軍も吉林への派兵を午前3時、独断で決し、中央への通報をわざと遅らせ、午前6時に陸相と総長に報告を行った。前に有田が述べていた独断専行009が起きたのである。
同日午後5時、金谷参謀総長は、朝鮮軍司令官の独断専行によって混成旅団が越境した事実を奏上(しようと)する*が、その時点ではいまだ関東軍への増派問題を許可する閣議決定はされていなかったので、金谷総長は、自己の責任で増援の裁可を帷幄上奏*で仰ぐ決心をしていた。
*上奏できたのか、それとも上奏しようとしたが二人の侍従に止められて、朝鮮軍増派等の允許はおろかその事実も上奏できなかったのか。以下を読むと、上奏自体ができなかったようだ。(金井)
*帷幄上奏とは統帥事項について、統帥機関の長あるいは陸海軍大臣が、国務大臣の輔弼を経ずに、大元帥たる天皇に直接上奏すること。
それに対して奈良侍従武官長と鈴木貫太郎侍従長は、「聖上は首相の承認なく允許せらるることなかるべきを以て、このような無法の挙を避けるべきである」と述べて、総長の上奏を止めていた。宮中側近は、天皇が閣議決定のない案件について帷幄上奏を裁可しないだろうとの判断に立っていた。第一次世界大戦後のパリ講和会議に陸軍側随員として参加した奈良と、ロンドン海軍軍縮条約問題で海軍側を穏健な方向にリードした鈴木によって、参謀総長の帷幄上奏が阻止されたのである。
014 その翌日22日の閣議の様子は次のようであった。
危険防止以外の行為、即ち軍政を布くこと、税関や銀行を抑えることなどは断然差し止めることにしたこと、それから朝鮮軍を満洲に出す件については、満洲の兵が手薄であるからという理由の下に陸軍大臣から発議し、関東軍司令官の参謀総長に対する要求を参謀総長からまた陸軍大臣に通告し、かつそういう希望を述べたが、国際連盟の問題にもなり、また満洲軍引き揚げの場合にも面倒を起こすだろうからというので、閣議はこれを容れなかったこと。…結局兵は出してしまったのだから、政府は経費はこれを支弁する――大蔵大臣も、正式に閣議決定事項として出兵を認めたわけではないけれども、既にできてしまったことだから、この際何ら異議を述べず、経費は政府が支弁する――と決した。
これから分かることは、独断専行による朝鮮軍の越境と関東軍の吉林派兵が、22日の閣議でも承認されていない、しかし出してしまった軍隊であるからとして、経費支弁については閣議決定されてしまったということである。
015 22日午後4時になされた若槻首相の上奏内容は、侍従次長の記録によれば、「朝鮮軍の一部移動の事実承認をなしたること、其の手続きの当否は別にこれを論ずること」というものであり、侍従武官長の記録によれば、「朝鮮の増兵は賛成せざるも、その増兵の事実はこれを認め、経費も支出すること」としていた。この両義的な閣議決定によって朝鮮軍の越境は財政的な裏付けの面で追認されることになった。
これを承けて、陸相と参謀総長とが天皇の前に出て、朝鮮軍から関東軍への混成旅団派遣の追認についての允許を内奏する。結局経費支弁の閣議決定がなされたことで、関東軍への増派問題についての奉勅命令も出されることになった。
独断専行が問題化すれば、朝鮮軍司令官や参謀総長の進退が問題とならざるを得なかった。そのような場合に軍が救われる道は、閣議決定によって朝鮮軍の増派を決定する形式を整えるしか方法はなかった。帷幄上奏は宮中側近によって阻止されていた。だから内閣がこの時点で断固増派を認めなかったとすれば、現地軍の独断専行もこの時点で挫折した可能性がある。
紛争が勃発し、あるいは謀略が作為され、戦争に拡大する折に、必ず増兵が要求される。その要求には奉勅命令が必要であり、奉勅命令を出すためには閣議決定が必要であったとすれば、統帥権独立に裏打ちされた出先軍の暴走は、内閣の決意如何によって一時的なもので終わる仕組になっていた。統帥権独立が軍の政治力深化に絶大な影響力を持ったと断ずることにはなお議論の余地がある。
4 軍隊を国外に置くことの意味
016 国外*に軍隊を置いておくとなぜ軍部は強くなるのか。その理由は統帥権の濫用や現地軍の暴走以外にもある。
*国外には植民地として獲得した土地、租借地、鉄道附属地、併合後の土地、条約によって認められた駐屯地、占領地などを含む。
日清戦争後の1896年明治29年4月、台湾総督府と守備隊(後に台湾軍)を置いた。日露戦争後の1906年明治39年9月、関東州と満鉄付属地に、関東都督府(後に関東庁)と守備兵(後に関東軍)を置いた。1910年明治43年8月、大韓帝国を併合し、朝鮮総督府と朝鮮駐箚(さつ)軍(後に朝鮮軍)を置いた。
森山茂徳氏は、草創期の植民地統治機構とその下の軍隊の役割について、例えば、朝鮮の武断統治時代1910年~1919年の朝鮮統治政策についてこう述べている。「この時期の朝鮮統治政策は、陸軍による政治的独立領域の形成であった。その「独立」とは、日本国内の政治動向に左右されない、あるいは日本国内の政治勢力からの如何なる干渉も受けないということであった。」
017 植民地の獲得が何ら憚られることもなかった「公式帝国時代」に創設された機構や軍隊の特質は、対外(世界)的には、第一次大戦が世界に与えた影響によって、また国内的には、原敬内閣の出現によって変化する。三谷太一郎はそれについてこう述べている。「第一次世界大戦後、これまでの戦争の結果としての民主化に伴っていた植民地化や軍事化に変化が生じ、…日本の民主化を含む近代化と進展してきた植民地化に対する抵抗力が働き始め、脱植民地化の兆候が、現実とイデオロギーとの両面で顕れ、これと同様に、日本の近代化の最も重要な部分であり植民地化と密接に結びついて進行してきた軍事化にも、それに対応する抑制が加わり始める。」1919年大正8年8月20日、朝鮮総督府官制改正と台湾総督府官制改正がなされ、文官総督を認め、総督の陸海軍統率権を削除した。
第一次世界大戦を契機とした「非公式帝国の時代」以降の国外に置かれた日本の軍隊の行動
第一次世界大戦中にドイツに宣戦布告した日本は、山東半島のドイツ権益を奪って青島に守備隊を置いた。青島守備隊は1914年大正3年11月から1922年12月17日の撤退完了まで青島に派遣されていたが、ワシントン会議中の1922年2月4日、日中間の話し合いによって、山東のドイツ権益のうち経済的権益だけを日本が継承するように決定された。この間の8年間に渡って占領地支配に任じていた青島守備軍は日本国内に対してどんな意味を持っていたのか。
018 第一次大戦中に日本はシベリアに干渉して派兵した。浦塩(ウラジオ)派遣軍が派遣され、1918年8月から1922年10月25日の撤退完了までシベリアにいた。(ただし北樺太を除く)この4年間ロシアの内政に干渉した浦塩派遣軍は、どう動き、その存在は日本国内にどんな意味を持ったのか。
満州事変が引き起こされ、1932年3月の満州国建国後、関東軍は満州国から国防・軍事について委任された。それによってそれまでの駐箚一個師団と独立守備隊六個大隊という兵数制限がなくなり、全満洲に渡る活動が可能になった。関東軍は如何なる動きを見せ、その存在は満州事変期から日中戦争期にかけて日本国内に対していかなる意味を持ったのか。
義和団事件1900年の結果、連合国*と清国との間に締結された議定書と協定によって、連合国は北京公使館区域と渤海湾から北京に至る鉄道の沿線要地への駐屯権を得た。日本が派遣した軍は清国駐屯軍と呼ばれ、その後、支那駐屯軍と改称された。30年以上中国の首都近くに駐屯していた支那駐屯軍は1937年の盧溝橋事件前に増強されていた。支那駐屯軍はどんな動きを見せ、その存在は日本国内にどんな意味を持ったのか。
*連合国の構成は、独英ロ仏伊米日オーストリアの8か国
019 国外に派遣されていた軍隊あるいは駐屯していた軍隊が行っていた政治的活動*と日本国内における陸軍の政治的支配とが、国際関係の変容の中でどう相互規程しあっていたのか。
加藤陽子は「蒋介石と近代日中関係」というシンポジウムで、「1938年 興亜院設置問題の再検討」と題して(「3 満州事変勃発時のケーススタディ」を)報告した。
青島守備軍、浦塩派遣軍、関東軍、支那駐屯軍などの軍隊を取り上げるが、これは対象時機が第一次世界大戦から日中戦争に至る時期で、植民地を公然と持つのが憚られるようになった「非公式帝国」の時代である。また戦争自体も二国間の短期決戦・殲滅戦争ではなく、多国間の持久戦・総力戦である。植民地を持ってはならない、革命に干渉したとの非難を受けてはならない、九か国条約違反と名指しされてはならない、宣戦布告してはならない、総力戦に敗北しないために経済封鎖を生き延びなければならない、――このようの狭き門を潜り抜けるための軍隊の行動と活動は、これまでの時代にはなかった特異な様相を帯びるようになるが、それは国内政治にどんな変化を及ぼすのか。
*34 国外に派遣されていた軍隊あるいは駐屯していた軍隊が行っていた政治的活動019
この政治活動は狭義の特務部・特務機関によってなされた。永井和もこう述べている。「陸軍の外政機関としての植民地駐屯軍司令部、大公使館付武官、その他の外国駐在員、いわゆる「特務機関」の研究は遅れている。いわゆる軍部外交、二重外交の推進部隊としての外政機関の研究は必要だ。」(「人員統計を通じてみた明治期日本陸軍(一)」1985年)
戦前の日本陸軍は平時において①軍司令部・師団などの軍隊、②陸軍省・参謀本部などの官衙、③陸軍幼年学校・陸軍士官学校などの学校、④特務機関など、おおよそ四つの区分から成り立っていた。この「特務機関」は軍隊、官衙、学校などに属さない陸軍の機関と定義され、その内訳は具体的には、①元帥府、②軍事参議院、③侍従武官府、④皇族附(王公族附)陸軍武官、⑤陸軍将校生徒試験委員、⑥外国駐在員の六機関である。また「特務機関」ではないが、これに準ずるものとして、⑦陸軍衛生部及び獣医部士官、経理部及び獣医部委託学生、⑧外国留学生、⑨大公使館付武官、同補佐官、外国駐在官、印度駐在武官、国際連盟軍事委員などがあった。官制上の特務機関は以上九つの概念からなるが、いわゆる「狭義の特務機関」は、軍の中で政治経済活動を行い、諜報や謀略を扱う部署、例えば北支那方面軍特務部などがそれである。
第二章 政友会における「変化の制度化」――田中義一の方法――
感想
・田中義一が当時の社会主義者による民主化要求や労働運動などに対抗して、自らの党運営を「民主化」したというのは面白い。田中は軍人時代に地方の軍隊組織を行政組織に結びつける才能があり、その流れの中で、政友会の総裁になってからも、地方遊説に熱心に取り組み、地方を中央に結び付け、党組織の「民主化」を図った。
・当時政党運動、政党間の対立がかなり活発に行われていたらしい雰囲気をつかむことが出来る。
・原敬は政界に大きな力を持っていたので、地方遊説などの政治活動を熱心にする必要がなかったとのこと。
メモ
本章で現れる政党
立憲政友会、憲政会、立憲国民党、政友本党1924(1927年、憲政会とともに立憲民政党へ合同した)
本章で現れる歴代首相(司法大臣)*印は本章で話題となった年、それ以外は首相に就任した年。
伊藤博文1900, 1898, 1892, 1885
西園寺公望1903年7月*, 1901, 1906, 1911
原敬1914年6月*, 1918
大隈重信1915年, 1914, 1898
(横田千之助 司法大臣1924)
寺内正毅1916
高橋是清1932,
1921
田中義一1927
犬養毅1931
鈴木貫太郎1945
加藤高明1924
要旨
1 伊藤隆氏の学説とその特徴(批判)
1・1 戦間期1919--1939を説明する二つの理論
026 第一の筋道 政党制の確立、定着、崩壊に焦点を当てて説明する。この理論は三谷太一郎、有泉貞夫、板野潤治らが開拓した。
三谷太一郎は、権力分立的な明治憲法体制の中で、政党制は、日露戦争後の地方利益要求を調整する制度として適応したとする。
有泉貞夫は、対外危機や不況の1930年代に、政治機構を政党によって調整する必要がなくなったことが、政党制崩壊の原因だとし、「わが党知事」による党略的な地方利益の誘導よりも、挙国内閣下での地方官僚による予算均霑(きんてん、等しく潤す)を地方が選択したとする。
坂野潤治は、政党政治を保障するはずの美濃部の憲法解釈の中に、脆弱性が内包されていたとし、政治目標を強い連帯力で執行する力のある内閣は非政党内閣であると美濃部は考えていた。国防と外交が争点となる時、政党の調整力は機能不全となるとした。
第二の筋道 伊藤隆は、戦間期が革新派の誕生と成長の過程であるとし、政党制の確立期は同時に、1920年代に確立した官僚と既成政党による権力に敵対する在野の諸政治集団=革新派を誕生させ、この革新派が1930年代、40年代に、在野から権力の中枢に結集したとする。
伊藤隆は有馬学・三谷博編『近代日本の政治構造』に影響を与えた。025
027 伊藤隆は、革新派の自己イメージ(自己像)の政治への浸透度合によって革新化の程度を見る事が出来るとする。
第一の筋道「政党調整論」には、宮崎隆次、伊藤之雄、酒井哲哉、小関素明などがいるが、第二の筋道「革新派論」では後継の論者が見つからない。
第一に、両者は歴史叙述の方法が異なる。前者の論者は、政党制が明治国家の分立的な機構の統合に尽力したとし、鉄道、水利、教育などに対する、政党による国家予算配分の優先順位によって、調整機能の制度化を述べる。
後者は個人や政治集団の自己像の変化を述べ、集団を代表する人物の政治意識を伝記的に記述する。これは「政界天気図」と揶揄されるが、政治意識を、復古(反動)対進歩(欧化)と、革新(破壊)対漸進(現状維持)によって説明する。
028 原敬の唯一最高の趣味は人間を扱うこと、人をなぶることだったそうだが、研究者、特に若手研究者にとってそれは苦手だろう。人物史は制度史にくらべて扱いにくい。
第二に、後者はその論理展開のスタンスの変容に無自覚である。伊藤隆は『昭和初期政治史研究』1969の中で、革新派が現状維持派を圧倒する様を描いたが、その10年後の『大正期「革新」派の成立』1978では、革新派が既成エリートのために権力につけないとする。つまり、
029 革新派が天皇制や君側の奸として敵視した対象である官僚エリート集団は、左翼を弾圧し、次に右翼を統制する。左も右も昭和15年の大政翼賛会に吸収されたが、主役にはなれない。
この伊藤隆の変遷に気づかないと、革新派が翼賛体制統合の主体であったとする研究は、陸軍や企画院の官僚が統合の主体であったことに気づかない。
1・2 革新派論補完のための選択肢
革新派の人々の量・質の増減によって革新派のイメージ(像)は強くも弱くもなる。革新派が1920年代の既成エリート層にどう食い込むのかが、革新派論でははっきりしない。
革新派が影響した時期は以下の二例しかないが、その影響力はいずれも(政権)内部での影響力ではなく、外からの影響力である。つまり、
・大正期、革新派が在野の政治集団だった時の言論活動
・近衛新体制の専門顧問として計画立案
革新派論は変化をもたらす「要因」ではあったが、変化の「過程」がはっきりしない。伊藤隆は『昭和初期政治史研究』1969の中で次のように言う。
政友会総裁のリーダーシップが欠如していて、政友会の自己像が分裂し、右翼の言う(ところの)現状維持勢力からは軍部に結びつくものと非難され、またそれと同時に既成政党=現状維持勢力として革新派軍部や左翼から攻撃された。これ以後政友会はこの分裂した自己像の下でいっそう混乱し、復古=革新化した。
031 革新派論は変化が制度化される筋道を明らかにすべきである。以下政党内閣期つまり護憲三派内閣から犬養内閣までの政友会についてみる。
感想 2023年5月8日(月)
・「革新派が影響した時期は以下の二例しかない」とのことだが、他にもありそうに思えるのだが。暴力事件が政治に与えた影響や、時期が「戦間期」から外れるかもしれないが、師範学校教員による皇民教育の主導などはこの部類に入らないのか。
・「戦間期」を敢えて設定する意味は何か。
2 田中義一と在郷軍人会
1925年大正14年4月、田中義一は高橋是清から政友会の総裁を引き継いだが、この時期は政党内閣制の確立期であった。
憲政会は地方の青年党団体を吸収し、名望家秩序再編の点で政友会に先んじていた。また政友会の半数以上の党員が政友本党に移り、それに応じて地方支部も分裂した。
032 横田千之助が田中義一を総裁に擁立した。横田千之助は原敬の知謀(シンクタンク)であり、普選状況を正確に把握し、政友会を政治改革路線に誘導したが、1925年2月に急死した。
田中義一は軍人時代に在郷軍人会に精力的に取り組み、地方を掌握していた。
2・1 帝国在郷軍人会(1910年成立)と地方制度
在郷軍人会は、将校下士卒で現役でない者と、郷里で現役に服している者とで構成され、陸軍が組織した。欧州の退役軍人とは異なり、かつて職業軍人だった者の親睦団体ではない。
陸軍在郷軍人会の構成員は次の者である。彼らは町村内の平均的な青壮年層であった。
・当人の本籍地が所属する管区内の軍隊で教育を受けている現役兵(在営期間は当初3年、後に、2年、1年半に短縮)
・町村内で通常は生業に従事しているが、戦時には召集される補充兵(現役兵の補欠。服務期間は12年4か月)
・町村内で生業に従事している予備役(現役終了後4年4か月)と後備役(予備役終了後10年)
・一年志願兵を終了した者
033 日露戦争後、陸軍は藩閥から政治的に独立したが、その陸軍を田中が率いた。田中は1911年に軍務局長を、1912年に歩兵第二旅団長を、1915年に参謀次長を、1918年に陸軍大臣を務めた。田中は緊縮財政・軍縮の状況では軍の大衆化が軍の組織的基盤を安定化できると考えた。
034 陸軍と在郷軍人会との関係は中央と地方との関係でもある。内務・文部・農商務の各省は地方経営に定評があったが、田中はそれら各省の町村内連絡網と軍組織とを一体化した。つまり在郷軍人を内務系統の地方支配に同一化した。1911年、入営時の身上証明書を、町村長・小学校長から連隊長へ、1912年、在営中の成績を連隊長から町村長・小学校長へ、1913年、在営状態を在郷軍人会分会長から父母へ通知した。
また田中は、中央報徳会と縁の深い内務・文部・農商務省の局長クラスや実業家、自治専門家らとの会同をもち、内務省が育成してきた青年団と在郷軍人会との組織的連絡を計った。ちなみにその会合の参加者は、田所美治・文部省普通学務局長、渡辺勝三郎・内務省地方局長、中川望・内務省衛生局長、小松原英太郎・枢密顧問官、岡田良平・(寺内内閣時の)文相、早川千吉郎(三井財閥)、一本喜徳郎(自治専門家)、道家斎・農商務省農務局長らであった。
田中は、青年団の年齢上限を20歳とし、それより年長者を軍人会に組織しようとした。内務省推進の地方政策は、1920年代に活発化した政党型地方支配と共存していたが、高齢の寺内正毅は田中を批判した。
「帝国在来の青年会を母体として、青年団・幼年団を組織して、青年会長を団長にするとの(田中君の)意見は一応ご尤もだが、在来の青年会の目的は地方郷党(同郷の人々)の親和輯睦(しゅうぼく)や地方の殖産興業にあり、老壮ともにその会員になる。従って、(貴君が)将来組織(しようと)する青年団や幼年団とは、性質上全く異なると私は思う。」
035 しかし田中は在郷軍人会組織の発展は地方の現状と密接であるべきだと考えていて、市町村会員で組織する分会から、郡内の分会で組織する連合分会へ、そしてそこから連隊区内の連合分会で組織する支部へ、またそこから師団区内の支部で組織する連合支部への系列を整備した。田中はこう言った。
「在郷軍人会も、地方制度としての町村制郡制のように、町村分会と郡連合分会が必要である。…(地方)自治の意義は軍紀の意味である。…地方制度と軍人制度とは常に並行して発達すべきである。」
「(在郷軍人会)分会長は、郡町村長の意図の実行を容易にすることを分会指導の方針とすべきである。」
リチャード・スメサーストは日本社会を社会学的に研究し、A Social Basis For Prewar Japanese Militarism の中で次のように述べている。
「日本の在郷軍人会は見事に既存の共同体機能に吸収されていたので、軍人会員は往々にして自分たちが在郷軍人であると自覚しないことがあった。某村の在郷軍人会はその活動の一環として地域の消防団を組織していたが、その会員は、消防活動をしていても在郷軍人としてやっているかどうか「よく考えたことがない」「私達は皆消防団と在郷軍人会の両方に所属していた」と述べた。」
036 田中のこの措置は合理的であった。軍人会の構成員は農村の平均的中下層民であり、既存の農村支配構造を激変させるのは困難だったから、また郡町村からの補助金や寄付金は軍人会にとって重要な財源であったからである。
2・2 デモクラシー状況と軍人会規約の改正(1924年)
1914年大正3年、田中義一の「宮中工作」によって、軍人会は勅語と内帑(ど)金(君主のお手元金)10万円を得た。会員数130万人、機関紙『戦友』発行部数8万部、軍人会の本部会計は4000円の黒字、機関紙の特別積立金は3万円であった。
田中が原敬内閣の陸相に就任したとき、政治は民主化していたが、在郷軍人会は当時の二大政党の政争に巻き込まれ、米騒動や小作争議、普選運動に軍人会員の多数が参加した。それを見た田中は軍の大衆化の必要性を感じた。
037 1923年5月、田中は軍人会副会長に就任したとき、参謀長会同の席で軍人会規約の改正方針を明らかにした。
・軍人会に代議制を導入する
・陸海軍大臣の他に内務大臣の監督も受ける。
翌年1924年11月に軍人会の規約改正が行われたが、田中は『戦友』紙上でこう述べた。
「会員の意思を遺憾なく発表させ、所謂万機公論により決するとともに、中央部と地方との意思疎通を図る」
軍人会規約の改正点は次の3点である。
・本部と連合支部以下に評議会を置く。評議会は全会員の代表機関かつ決議機関である。本部の評議員は連合支部以下の各評議会から一名ずつ選出される。1925年の本部評議員数は67名であった。
・会長の最高諮問機関として審議会を置く。審議員は学識のあるものから推薦する。
・未教育補充兵と青少年団員の軍事訓練を軍人会で行う。
評議会の権限を留保する規定が数多あるが、評議会が一年に一回東京で開催され、年度計画を立案し、予算を協議することは、軍の大衆化の第二の側面(第一の側面は2・1で述べられた在郷軍人会の組織化「帝国在郷軍人会(1910年成立)」か)として画期的であった。評議会と審議会の制度は帝国議会と枢密院の制度を模したものであったが、二・二六事件の粛軍過程で廃止された。
田中の意図は構成員の自律・自覚の喚起による組織強化と言える。1925年1月29日、第一回評議会で田中は講演し、「更始(更新)一新をなすべき時…在郷軍人の一大自覚を促すことである。…その自律的精神を発揮させる」と述べた。田中は再び内帑金30万円を獲得し、各分会に均等に分配した。
038 軍の大衆化の第三の側面は、前述の規約改正の三点目の青少年の軍事訓練であった。これは青少年に苦痛を伴う義務を増やしたのではなく、中流階級以上の青年だけに認められていた在営年限短縮の特典を、普通の青少年までに拡充均霑するものであった。かねて中等学校以上の在学者には「一年志願兵制」があり、師範学校生徒には「六週間現役制」という特例があった。一方通常の在営期間は二年であった。1925年11月19日、田中は和歌山市での講演「軍事より政治へ」の中でこう言った。
「子供を中学校以上の学校にやるは、地方において相当の資産ある家庭であると認めなければならぬ。その人員は全国青年の二割に達しない。八割強の青年は中学校に行かずして郷里にいる」
徴兵制における階級や学歴での差別が軍の大衆化に害毒であると田中は知っていた。吉野作造は国民に軍事思想を注入することと、軍隊に国民良識を注入することを同時進行させ、国法上の真空地帯である軍を変えようとしていたが、この点で吉野は田中と共通する。1919年、吉野は以下の三点を指摘していた。
・学校教育の中で軍事訓練を実施する。
・上流の徒がとかく兵役を逃れて、下層の者が漏れなく兵役の義務を課せられるような猶予規程の削除を求める。例えば、満32歳まで外国に滞在した者は実質的に(兵役が)免役となる。外国留学できる階級は当然少ない。
・検査官が教育の有無によって(兵隊の)採否を決めることのないように、徴兵制度を改革すべきである。
039 このような状況の中で、田中は(軍人会での)「所定の軍事訓練」を修了した青年には、在営期間の短縮を認めることにした。1927年昭和2年4月、徴兵制は廃止され、「兵役法」が公布され、一般青年訓練所での所定の訓練を終えた者の在営期間は1年6か月に(6か月分だけ)短縮された。
感想 それでも比較的には長いのでは。また(軍人会での)「所定の軍事訓練」が余計にあるのだから、大して軽減とは言えないのでは。むしろ異なった組織になるから、それだけ入所者にとっては気遣いが増えるのでは。
2・3 まとめ
田中は軍の大衆化を推進した。軍と国民とを結ぶものとして在郷軍人会を育て、軍人会を地方に一体化させた。そして旧来の地方制度と一体となった軍人会の支部組織を完成する。民主化状況に伴って代議制を導入した。それは支持基盤を拡大することによって組織を正当化するという民主的方法でもあった。
田中は決議機関や選挙制を伴った(軍人会の)支部組織を全国に張り巡らせ、中央と地方支部とを結びつける制度を整えた。田中の伝記には地方分会視察や地方講演旅行などの膨大な地方遊説記録が残されている。
040 田中は軍人会の制度をつくった半年後に政友会の総裁になった。横田は田中の地方経営の手腕を買ったのである。これは原敬が床次(とこなみ)竹二郎の内務省地方局長時代の地方改良運動での手腕を買って1914年大正3年の総選挙に鹿児島で政友会から出馬させたのと似ている。
3 田中と政友会
護憲三派内閣*が形成・維持されるためには、政友会と憲政会の政策間に共通の基盤が必要であった。
*護憲三派内閣 (第二次護憲運動) 大正13年1924年6月7日、貴族院と官僚とで構成されていた清浦圭吾内閣は、憲政会、立憲政友会(総裁・高橋是清)、革新倶楽部の護憲三派に超然内閣と批判されて倒閣・総辞職した。そして第一党の憲政会(総裁・加藤高明)による内閣ができたが、この政党内閣は原内閣以来の悲願だった。この一月前の1924年5月の衆院選で、普選実現を掲げた護憲三派が大勝していた。第二党は立憲政友会から分離した清浦圭吾内閣の与党・政友本党で、第三党は高橋是清の立憲政友会だった。
憲政会 →┐
┌→政友本党1924.1.29 →┘立憲民政党1927.6.1
立憲政友会1900 └→立憲政友会 →立憲政友会
憲政会の加藤高明と立憲政友会の横田千之助ら両党幹部は協調したが、その背景には将来予想される労働・農民運動の本格的高揚に対抗できる大衆的基盤をもった体制構築の必要があった。横田は政治制度の民主化や社会政索的減税を掲げたが、田中は党の組織改革と地方支部の活性化を唱えた。
有泉貞夫は大正末から昭和初期の総選挙・地方選挙での対立を「独立財源の強化による地方自治の確立か、それとも国庫補助金による地域格差の是正か」とし、地域間格差の是正を保証しない独立財源の確保よりも、国庫補助を国民が渇望したとする。
041 一方田中時代の政友会は地方自治の確立を謳った側であった。田中は国防の大衆化のために地方組織を重視した。
3・1 地方の掌握
田中は政友会総裁就任後の1925年大正14年10月7日、8日、全国支部長会議を東京で開いた。これまでの支部長には当該県出身の代議士が選出されていたが、この会議には実際に各支部の党務に関わる支部幹事長クラスが招集された。田中は西園寺公望に「7日、支部長を寄せ、将来執るべき政策を協議し、何ら策杯(手配)を用いず、正々堂々と地方遊説をなす」と言った。支部長会議で島田俊雄・党務委員会長は次の党勢拡張計画を支部長に諮った。
・党勢調査
・党情通信(中央と地方の党情通信)
・遊説(常設遊説隊の設置、臨時遊説)
・視察(同志関係、敵情関係)
・政務・党務連絡
・院外団
・別動隊
・支部長会議
大分支部の三浦覚一「支部長会議の開催は極めて適切だから、毎年議会前ころに開いていただきたい」とあるように、政友会は原敬・高橋是清時代には全国支部長会議を開いていない。田中以前は支部代議員が党大会に上京し、総裁によって余興と御馳走で慰労された。また地方へは党務委員会で協議された内容が通告・通牒されていた。
田中時代には少なくとも年1回支部長会議が招集され、党の基本方針について諮問され、決定した。田中は政友会の凡てが自分に帰服していると自信満々だった。田中は数多の地方遊説をこなした。
043 このように下部組織から上部への意思疎通が制度化され、党改革運動が活発化した。1926年3月の(田中による)新幹部役員決定は、長老の意向を無視するものだった。松本剛吉によれば、「(新幹部役員の)人選につき、(田中)総裁の指名は、予の進言及び野田氏の考えと全然一致を欠きたるため、非常なる紛擾を醸す。」としている。一方武藤金吉・吉植庄一郎・小久保喜七らの長老は、党費徴集・幹部公選の改革運動を起こしたが、田中はこの運動を先取りし、改革内容を支部長会議で決定しようとした。田中による会議への諮問事項は、次の通りである。
・普選準備への方針。各支部の事情は如何。
・今後はさらに各支部の自発的活動を希望したい。各支部の意向は如何。
・党員による党費負担は主義として望ましいが、どのような方法をとるか。
・各支部から適材を抜擢して本部に招集して党の政策・主義の遊説方針を打ち合わせ、徹底を図っては如何。
これに対して支部長会議は以下のように決議した。
・普選対策では各支部と協力して新有権者の吸収を図る。
・党費は一般党員の負担とし、徴収方法は各支部に一任。
・各支部から三~五名を選抜して本部に特派し、遊説員の養成を行う。
田中は支部長会議直前の幹部会でその開催の意図について次のように述べている。
「地方自治の確立を期することが我が党の主張であるように、政党自体もあまりに中央集権の弊に流れず、各支部の自治的発展に力を注ぎ、支部の発展とその努力に俟つべきであるから、今後支部の能率発揮に意を用い、新たに力を注ぎたい。これはやがて民衆的政党として進む第一歩でなければならぬ。」
また同じころの長崎支部復活大会の祝辞の中で田中は次のように述べた。
「今日は何事によらず地方は中央に依頼してその指揮命令を仰ぐだけで、まったく自主独往の精神がなく、官民を問わず地方にある者は、ただ中央の風のまにまに活動するが如き観がある。」
この7年後ころの1933年10月、政友会は地方民情党情視察を全国一斉に行ったが、少なからぬ支部が、中央政界の事情を知らせるための遊説や、地方事情を中央に伝えるための支部長会議の開催を求めた。
044 某支部「新聞紙が悉く五・一五事件1932年の内容を暴露して政党を攻撃する時代に、政党が沈黙していることは自滅に導く。憲政を常道に復する与論を地方に起こすように、本部の決意を要求する。支部長会議を開けば、我々は進んで意見を堂々と本部に進言したいと考えている。」
3・2 会則改正
045 田中義一は1900年制定の政友会会則を改正した。主な改正点は以下の通りである。
・総裁公選 任期7年
・重要事項を議決する常議員を置く。公選で30名、総裁指名が20人。
・総務は常議員の中から総裁が選任。
・各役員の任期は1年。
・院内総務・役員は代議士会で互選する
1900年9月に立憲政友会を創立した伊藤博文総裁が1901年5月に辞任し、1903年7月、西園寺公望総裁が就任したが、その当時党内は混乱した。この混乱時に臨時措置が取られ、それを明文化したものがこの田中の会則改正の中にある。常議員の設置と総務の選任はその傾向が強い。
1926年9月、青年を掌握するために、支部長が選考した支部青年党員に対して政治講習が(田中によって)始められた。1年で150人。1927年1月13日、講習会修了者を中心に大阪で政友会大阪青年部大会が開かれた。
田中は支部長会議を組織化し、支部を活性化し、総裁は地方を遊説した。他方原敬は1914年大正3年6月に総裁に就任したが、原はすでに実質的な党のリーダーであり、強靭な党内統率力をもっていた。原は総裁就任の年に盛岡にしか遊説に行っていない。また地方遊説の内容も、少数幹部によって無造作に決定された。原敬日記1914年7月5日によれば、
046 「大岡育造や高橋光威等が地方遊説に出かけるというので、打ち合わせ会を三縁亭で開き、大体の方針を決めた。廃減税に関しては、財源が許しまた他の諸税権衡を得る場合は賛成するに躊躇しないということとした。」
(他の政友会総裁で第六代の)犬養毅は支部長会議を開かず、(第七代の)鈴木喜三郎は総裁就任の3年後に開催したが、地方遊説の頻度を含めて田中方式を踏襲した。
3・3 まとめ
1915年大正4年の総選挙で大隈重信は都市と農村の自発的組織を自己の傘下に吸収して非政友(会)勢力結集のシンボルとなったが、それより先に田中は軍を大衆化していた。1911年明治44年6月、田中義一第二旅団長は、大隈重信を歩兵第三連隊の視察に招いた。この縁で大隈は軍人会機関紙『戦友』に「国民皆兵の精神」や「世界の大勢を論じて軍人後援事業に及ぶ」などを寄稿した。その要旨はそれぞれ、軍人教育と国民教育とは結びつくべきであるというものと、どんな活動を行うときでも、兵営にいる時の覚悟を以て臨むべきであるというものであった。大隈と田中は、先に述べた吉野の論理、国民に軍事思想を注入すること及び軍隊に国民良識を注入することと一致する。大隈は政党を大衆化し、田中は軍を大衆化した。
047 1951年老政治家古島一雄は『一老政治家の回想』の中でこう言った。
「(古島が田中に選挙に勝つ見込みがあるかと尋ねたところ、)田中は「おお!それはある。俺は在郷軍人300万を持っているでのう!」と平然と答えたので、これはとんでもないと、爾来田中は政党総裁としては落第と決めていたのである。」
田中が導入した地方掌握の方法は、犬養毅でなく鈴木喜三郎によって継承された。全国支部長会議は1927年11月以降開催されていなかったが、鈴木総裁時代の1934年7月に再開された。その会議で党費規定案、青年政治講習会、青年部組織について諮問され、原案が承認され、翌月1934年8月、政友会青年部の組織規則が決定された。田中義一・鈴木喜三郎は政友会を右旋回させた。田中・鈴木は地方と青年を掌握しようとした。
048 政友会は既存の地方制度を自治的に改変した。地租(の国から地方への)移譲は実現しなかったが、1929年4月法律第55~57号として公布された府県制・市制・町村制改正案が第56議会を通過し、(地方)団体と(地方)議会の権限が拡張された。団体自治権については、府県に新たに条例・規則制定権を認め、市町村による条例制定・起債に対する国の監督権が狭められた。地方議会の権限については、府県会・市町村会とも議員の発案権が与えられ、府県知事の府県会停止権は削除された。ただし1930年代初期の不況と軍事費拡大は、財政的裏付けのない地方自治の発展を許さなかった。
感想 2023年7月3日(月) 田中義一が当時の政治の民主化や米騒動や小作争議などの社会運動の流れに押されて(実際は利用して)軍や政党の大衆化・民主化に貢献したとのことだが、当時の共産党員に対する数多の残酷な拷問死を鑑みれば、田中の大衆化・民主化は形ばかりであり、本質的には非民主的そのものであったと言わざるを得ない。加藤はそのことを知っているのか知らないのか。
第三章 日露戦争開戦と門戸開放論――戦争正当化の論理――
感想 2023年5月14日(日)
一部の政治家や学者や新聞が積極的に対ロ批判を繰り広げていたが、政府も主要政党も開戦には消極的で対ロ融和論が大勢を占めていたため、国民は開戦と聞き、寝耳に水のびっくり仰天したとのことだが、それでは一体誰が極秘に開戦を決定したのか。
感想 2023年5月16日(火)
日露戦争の場合も、戦争を始める主体はやはり軍人だった。理屈はどうにでもなる。七賢人の戦争正当化論は一見もっともらしいが。だから軍人に戦争を始めさせないためには、軍人に大きな武器を持たせて大きな気持にさせないことだ。
1 はじめに
054 日清戦争後の三国干渉への恨みを晴らすために10年間臥薪嘗胆を誓った国民と政府とが一致して着々と戦争準備を進め、ロシアに宣戦布告したという説は、昭和戦前期までの初等教育で教えられてきたために、日露戦争前の国民や政府の戦争への見方は冷めていたと私が説明すると、意外なことを初めて聞くという顔をする聞き手が多い。
1・1 最近の研究動向
055 坂野潤治は「日本国民のかなりの部分と支配層の一部は、日露戦争の直前まで厭戦的であった」と述べている。(『体系日本の歴史13近代日本の出発』小学館1993)1902年末の第17帝国議会で、衆議院の過半数を占める政友会は、海軍拡張財源のための地租増徴継続案を否決した。その結果桂太郎内閣は1902年12月28日衆議院を解散したが、その後の総選挙でも政友会は党勢を維持した。政友会は同年1902年1月に締結された日英同盟のお蔭で、軍拡の必要は少ない、もし軍拡が必要なら、増税ではなく行財政改革をやれと論じた。
伊藤之雄は「元老伊藤博文の財政整理論が説得力を持ち続けた。1903年7月に伊藤が政友会総裁を辞任して枢密院議長にならなかったならば、元老の伊藤博文と井上馨(かおる)に支持された政友会の日露宥和論が継続しただろう」という。(『立憲国家と日露戦争』木鐸社2000)
千葉功は開戦直前までの日露交渉(1903年7月~1904年2月)や日本の元老会議を研究し、「これまで開戦積極派とされてきた山県有朋・桂太郎・小村寿太郎らと、消極論の伊藤博文との間で、日露交渉を必要とする点で一致していた」とする。(千葉功「日露交渉――日露開戦原因の再検討」山川出版社1996、千葉功「満韓不可分論=満韓交換論の形成と多角的同盟・協商網の模索」1996)
056 日露戦争の準備を進めていた参謀本部総務部長・井口省吾はその日記の中で、政府首脳の戦争準備消極論を嘆いている。1903年10月8日付の同日記では「桂総理大臣の(開戦の)決意は確かでない。優柔不断で、国家の大事を誤まらんとす」(『日露戦争と井口省吾』原書房1994)
1・2 本章の分析視角
056 開戦直前・直後の政府・国民は戦争支持だった。1901年8月、桂内閣は外債をニューヨークで募集しようとしたが失敗した。日露戦争の戦費17億円のうち外債は8億円だった。
057 日英同盟は、日露戦争が起こった場合、独仏がロシアに加担すれば、イギリスも日本側に加担することを約束するという牽制の意味しかなかった。(つまり独仏が参戦しなければ、英も参戦しないという程度のもの。)イギリスは日露同志の戦争では中立を守る義務があった。イギリスは外国の戦艦を日本が購入しやすいように裏面で援助し、技術を提供し、外債募集に応じるくらいだろうと日本側も予測していた。
アメリカも中国での経済的機会均等がロシアによって妨害されることに反対し、満洲問題で日本に好意的であったが、武力を行使して加担するまではしないだろうと(日本には)思われた。
058 列強は朝鮮問題だけでは日本を支援しない。米英にとって朝鮮問題は日露問題にすぎなかった。1902年9月から1904年4月までドイツに駐在していた宇垣一成は「我が外交は常に守勢的で、満洲問題を朝鮮半島問題に転嫁しているようだ。欧州列国はそう受け止めている。これは外交上の失敗である」(『宇垣一成日記』みすず書房1968)宇垣の考えでは、朝鮮問題は1902年の日英同盟協約締結で解決済みであるとする。
外交交渉や国民の言論には積極的開戦論はなかった。それを戦争推進確信に変化させる論理があった。
幸徳秋水は1904年4月3日付の週刊『平民新聞』の中で次のように述べている。
「わが国民の多数は『文明の外交』『王者の師』『仁義の戦』『帝国の光栄』などと言うが、それは無邪気で可愛らしい。(日本国民の)個人と国家が、金太郎や桃太郎に学ぶことは、真に美しいことだ」
2 戦争の論じられ方
2・1 帝国議会(衆議院)と政府の衝突
060 1902年12月6日、第十七議会が召集され、地租増徴継続案が政友会と憲政本党などにより否決され、同12月28日に議会は解散された。1903年5月8日、第十八回特別議会が召集され、衆議院委員会が地租増徴継続案を否決し、3日間「停会を命ぜられ、」6月4日に特別議会が閉会された。「無事に閉会できた」のは、明治天皇の支持の下に桂内閣と政友会首脳部とが妥協したからである。しかしこの妥協の過程で、政友会187名のうち61名が脱党したり、除名されたりした。政府にとって地租は海軍拡張の財源であった。政党は軍拡に反対していたが、妥協した。
しかし政府と政党との対立はその後も続き、同年1903年12月10日に召集された第十九議会では、政友会と憲政本党とが提携し、内閣を弾劾する奉答文*を提出して衆議院がそれを可決し、翌12月11日に議会が解散された。(*奉答文とは議会の開院式で天皇が下す勅語に対して議会が答える本来なら形式的な文章である。)
061 第十八議会後に政友会を脱党した政友会員たちは、政友会本部が政府と妥協する際に党員に諮らなかったことや、本部が「対ロ融和的」であったことに不満だった。第十八議会後に政友会を脱党した政友会員の一人である小川平吉は、1904年2月の開戦の8か月前(1903年6月ころ)に対ロ強硬論を述べ、開戦前後の(国論の)「飛躍」に関与したようだ。
2・2 小川平吉の(ロシアによる)満洲撤兵論と当時の満洲状況
小川平吉は1900年の義和団事件後の東亜保全と対ロ国論統一の必要を掲げたが、小川は同年1900年9月に貴族院議長・近衛篤麿の下に結成された国民同盟会に参加していた。(岡義武ほか編『小川平吉関係文書』みすず書房1973)国民同盟会は中国の保全と満洲をめぐるロシアへの強硬論を唱えたが、1902年4月に解散した。
一方政友会は1901年12月ころ機関紙『政友』で日露親交を唱えていたが、小川は『政友』紙上で「対ロ方針非満韓交換論」を唱え、政友会の対ロ宥和方針を批判した。
062 小川は1903年6月4日の第十八議会で一時間演説を行い、「ロシアは1903年4月8日に本来実施していなければならない満洲からの第二期撤兵を、2か月後の今日でも行っていない。ロシア清国間で1902年4月8日に調印された満洲還付協約*は、ロシアが満洲つまり清国東北部三省(盛京、吉林、黒竜江の三省)に、義和団暴徒から自国権益を守るために置いたロシア駐屯軍を、調印日以降6か月ごとに3回に分けて撤退させるという内容で、ロシアは1902年10月8日には第一期撤兵を実行したが、1903年4月8日の第二期撤兵は行っていない。」と述べた。1903年6月4日付の小川平吉日記には「演劇的議会この日をもって終局す」とある。
*この条約(満洲還付協約)の内容は、条約調印の日から6か月以内に奉天以南の遼河に至る地方から露軍を撤退させ、その地域の鉄道(山海関・営口間鉄道)を清国に引き渡し、次の6か月間で、奉天省の残部と吉林省から露軍を撤退させる、そして最後の6か月間に、黒竜江地方から残余の露軍を引き上げるという内容であった。
小川によれば、「ロシアによる第二期撤兵不履行問題だけでなく、ロシアが東清鉄道*守備のために露軍を残す権利があると認めることは間違いであり、ロシアが撤兵後も東清鉄道沿線に守備兵を置く権利があると一般の(日本人は)認めているようだが、満洲還付協約第二条によれば、その権利は書かれていない。また1896年8月27日に清国と露清銀行との間で締結された、東清(鉄道)に関する契約である『鉄道契約』によれば、『警察官吏を置く』とはあるが、兵隊を置くとは書かれていない。」
*東清鉄道はロシアによって建設されたハルピン・旅順間の鉄道。
2・3 小川平吉の満洲開放論
小川平吉「自分は満洲が欲しいとか、ロシアが満洲を取ることを羨ましいとかの空漠とした考えで満洲の開放を論ずるのではない。日本の人民が通商上発達して行くのに誠に適切な場所である満洲がロシアによって閉鎖される点が問題である。(ちっとも相違がないのでは)満洲開放に向かって米英等各国がこれに賛成している。速やかに満洲開放の策を講じなければならない。この論には正当な名義がある。満洲開放の要求は我が国民の生存条件であり、発達条件であり、名が正しく、事は順であり、結構な請求である」
小川のこの満洲開放論は1899年9月6日に米国務長官ジョン・ヘイが英独露三国に向かって行った清国の経済上の機会均等提言である「門戸開放宣言」を前提にしていた。同趣旨の提言は11月13日に日本へ、11月17日にイタリアへ、11月21日にフランスにもなされ、全ての国から原則的同意を取り付けたが、主な対象はロシアであった。その内容は以下の通りである。
064 ・各国の(清国内での)「勢力範囲内」spheresに陸揚げあるいは船載される商品に対する関税は、国籍に関わらず、清国の税制に従って課税され、その税課は清国政府によって徴集されること。
・その「勢力範囲内」の全ての港に寄港する船舶に対する港税は自国と他国で区別しないこと、またその「勢力範囲内」に敷設された鉄道の運賃は、自国と他国を区別しないこと。
これは関税、港税、鉄道運賃について均等を求めたものである。
しかし1年前の1898年、ロシアが清と締結した条約には、東清鉄道南満州支線の経営に関して、ロシアの鉄道運賃と関税を他国に比べて有利にするようにと書かれていた。アメリカは満州を綿織物の輸出市場と目論んでいた。
ロシアは米の門戸開放宣言への回答の中で「租借地外の港での関税では自国民だけの特権を要求しない」としたが、港税や鉄道運賃に関しては触れなかった。
ここで1903年4月8日までの第二期撤兵が行われなかったことと門戸開放問題とが絡み合った。1903年4月18日にロシアは撤兵と引き換えに排他的な七か条要求を清国につきつけていたことが判明し、その第三条は「満洲に新たに開港・開市場を設けない、外国領事の駐在を許さない」などの要求をしていた。
065 これは清国の主権を侵害し、門戸開放主義に反し、開港場制限の要求は最恵国主義に反していた。*
当時日本とアメリカは清国と通商条約の改訂交渉をしていて、日本は新たに奉天と大東溝の、アメリカはハルピンと大狐山の開市を求めていた。日米は共同歩調をとって1903年10月8日に調印されたが、ロシアの七か条要求が成立すれば、日米の権利の侵害となっていた。
*1903年4月20日付「露国代理公使より提出の対清七か条要求に関する件」、1903年5月1日付「露国要求に対する反対意見慶親王に提出方訓令の件」(外務省『日本外交文書』)
2・4 七博士意見書
小川は法学博士で弁護士資格を持っていた。小川「伊藤公は、露国を撃攘せよなどというのは頑固一徹で融通の利かない浪人の意見だとして斥ける。それで西洋通の学者を通して鼻をあかしてやれということになり、七博士*の意見を徴した。」*この七博士は、正確には以下の六人である。つまり、戸水寛人、寺尾亨、金井延、富井政章、中村進午、松崎蔵之助の六人である。
これは国民同盟会061が1900年9月、帝国大学教授らに対ロ強硬論意見書を起草させ、山縣有朋・総理大臣に建議させたことに基く。小川は第十八議会(1903年5月8日~6月4日)後の1903年7月の京都遊説で「感情を以て満洲問題を論ずるの愚を論じた」としている。
066 1903年6月10日、東京帝国大学の小野塚喜平治、金井延、高橋作衛、寺尾亨、戸水寛人、富井政章と学習院大学の中村進午の七博士は、「満洲問題に関する七博士の意見書」を、桂首相、小村寿太郎外相、山本権兵衛海相、寺内正毅陸相、元老の山県有朋、松方正義に手渡し、あるいは郵送した。同年1903年5月31日から作成を開始した「七博士の意見書」*に小川も関与しており、これは第十八議会での小川の演説と時期が重なる。*蔵原惟昶編『日露開戦諭纂』旭商会1903
七博士意見書によれば、
「満洲問題は解決されなければならないが、その理由は法理上の問題である。露軍の満洲地域からの撤兵は義務だが、ロシアが東清鉄道沿線に置いている守備兵も同時に撤退しなければならない。1902年4月8日に締結された満洲還付協約第二条は、
『清国政府は満洲における統治及び行政権を収復するにあたり、1896年8月27日に露清銀行と締結した契約の期限とその他の条款の堅守を確認し、また該契約第五条に従い、鉄道及びその職員を極力保護するの義務を負担し、また均しく満洲在留の一般露国臣民及びその創設に関わる事業の安固を擁護するの責務を承認する』
としているが、
067 清国がロシア側の露清銀行と締結した鉄道契約第五条によれば、『鉄道及び鉄道に使用する人員は、清国政府より法を設けてこれを保護し』とある。そこで清国政府がこのような法律を設けたかどうかを確認すると、清国は未だかつて法律を定めておらず、ロシア兵が鉄道を保護することを認めていない。ということはロシアの鉄道守備兵はこの条約に基づいたものではなく、また清国の法律によるものでもない。」
これは小川が6月4日、第十八議会で論じた第一の論点と同じ問題である。七博士のうちでこの部分を起草したのは高橋作衛であった。(戸水寛人『回顧録』清水書店1904)このことは1903年8月、高橋が「私がかつて提出した意見書の中で論じたので、ここにそれを引用する」と言って当該部分を引用していることから分かる。
ロシアが東清鉄道に守備兵を置く条約上の権利がないという認識は、日本の外務省も共有していた。同年1903年5月5日、小村外相は在漢口の矢田領事館事務代理に、「鉄道護衛兵なるものについて、清露両国間に何らの条約があるわけではない」と訓令していた。
高橋作衛らこの意見書の作成に関わった教授たちの少なくとも一部は、日本の政治主体のなかで、ロシアとの開戦準備に最も熱心に取り組んでいた外務省・陸軍省・海軍省の中堅グループと密接な関係を持っていた。*(七博士は)外務省政務局長・山座円次郎、同通商局長・坂田重次郎、陸海軍部内の強硬分子と連絡があった。
068 七博士意見書によれば、「刻下我が軍力は彼と比較してなお些少の勝算あるが、この好望を継続できるのは僅僅一年内外を出ないだろう。その軍機の詳細は多年研究の結果これを熟知するが、機密であるからここでは省略する。」としている。(先生方はやる気満々だね)
3 開戦論を引き継ぐ者 ――おわりにかえて――
英米とも日本がロシアと対立を深めることに「消極的」であった。以下にアメリカが消極的だった背景を述べよう。
1903年4月にロシアが第二期撤兵を行わず、さらに七か条の新要求064を清国に突き付けたとき、日英は静観していたが、アメリカは単独でロシア政府に抗議を申し込んだ。その単独行動に対する反省が、アメリカの消極論の背景にあった。その後ロシアはこの新要求の存在を否定し、アメリカにその門戸開放要求を尊重すると約束した。アメリカだけがロシアの矢面に立たされ、アメリカは振り上げた拳の置き所に困り、日英に裏切られたと同年1903年の後半には思っていた。
1903年6月23日に御前会議が開催された時、日本は満洲問題と朝鮮問題についてロシアと直接交渉するほかないと決断したが、その交渉内容は極秘にされた。その結果英米は、日本が最終的にロシアと妥協し、朝鮮を日本の勢力範囲とし、満州をロシアの勢力範囲とすることを日本が認めるのではないかと観察していた。当事者の日本が妥協しそうなら、英米がロシアに強硬な姿勢をとる必要はないとの思惑から、両国の新聞は、ロシアが条約違反をしている点を糾弾する以上の挙には出なかった。
日本の新聞も同様の態度をとり、ロシアに対する明示的な開戦論はほとんど見られず、ただ政府の不明確な外交姿勢と条約違反のロシアを批判するだけだった。新聞の社説は、小川平吉や七博士の意見書のうち、主として満洲撤兵を行わないロシアへの批判部分を受け継ぐものが多かった。『東京日日新聞』は七博士の対ロ強硬論を批判し、日露親善を説いたが、『万朗報』や『読売新聞』は小川や七博士の議論と通底する記事を掲げた。
『読売新聞』1903年7月24日付朝刊は「露国の通牒」と題し、次のような論説を掲載した。
「近日来の報道によれば、ロシアは米日英に向かって満洲の開放を誓う通牒を送ったという。しかし考えてみれば、このロシアの言はおかしい。満洲は清国の領土であり、ロシアの領土であったことは未だかつてなかったのだから、ロシアが満洲の開放を誓う権限などない。ロシアがこのような通牒を発したのは、撤兵問題をうやむやにして満洲占領を事実上永久に行おうとしいているからである。問題はロシアが公約を列国に対して行いながら、これを実行していない点、すなわち満洲撤兵がなされていない点が今日の満洲問題のすべての根本にあるのだ。ロシアの満洲占領は条約違反の占領にして、これを法律的に解釈すれば、即ち不法の占領なり」「露国の行動、今日のごときを黙過し、事実的に満洲を占領せしむるは、明らかに東洋の平和を害する。我が国は国際法上の権利として断じてこの横暴を排斥せざるべからず」
*加藤はここで読売新聞が論理的で戦争を煽っていないというが、私にはそうは思えない。
この読売新聞の論法が開戦直後の戦争正当化に受け継がれる。吉野作造は以下のようにロシアを文明の敵と名指しした。
*加藤はここで吉野作造が大正デモクラシーの旗手で知識人だと褒め称えるが、ついていけない。
「私は露国の領土拡張それ自身には反対する理由がない。(これは嘘では。)ただその領土拡張の政策が、常に、必ず、最も、非文明的な、外国貿易排斥を伴っているから、猛然と自衛の権利で以て対抗しないわけにいかない。…露の膨張は日本の危険であるばかりでなく、世界の平和的膨張の敵である。露国の膨張を打撃しないわけにいかないのは、それが平和的膨張の敵であるからだ。」
吉野作造は小川平吉の議論を引き継いだといえる。
071 朝河貫一はアメリカのイェール大学で博士号を取得し、歴史家としてダートマス大学で講義していたが、日露戦争開戦後の1904年の秋に The Russo-Japanese Conflict, its causes
and issues(争点)という400頁の大著を著した。本書はニューヨークタイムズの社説その他で取り上げられ、絶賛を博したという。遼東半島、朝鮮、満洲における列強間の外交的・政治的争覇の歴史を、外交文書や統計書に基いて叙述し、序章ではアメリカの世論を動かす(日本による)戦争正当化の論理を展開した。
朝河は日露戦争が、「新文明を代表する日本と旧文明を代表するロシアとの、二つの文明間の劇的な戦いであり、この戦争の目標は、資源が豊富だがいまだ発展途上にある中国北部である」とし、「満洲はその一部であり、韓国はそれに付随する」とする。そして「この地域をめぐって日露の利益は明確に鋭く衝突してきた。ロシアは地球上の巨大な部分をしめるこの地域の従属と閉鎖を要求し、日本はその独立と発展を求めている」とした。
朝河のこの日露戦争正当化の論理は、アメリカ人の間に日本への支持を拡大したと思われる。朝河は後に日露講和会議にも関与する。
072 小川平吉や七博士の開戦論は、政府や国民の大部分が対ロ融和論に傾斜している中では少数派であったため、日露交渉の行方が判然としない状況を経て、国民は突然開戦の報に接したが、小川平吉や七博士の論理を引き継いだ、吉野作造や朝河貫一など「一級の知識人」の論理は、開戦後の戦争正当化の論理として広く流布するようになった。
感想 2023年5月16日(火) 国民が戦争開始後吉野や朝河の論理に導かれ、政府と同じ歩調で政治に関与していくかのような感じを受ける文章だが、実際は国民は戦争開始にも、戦争終結にも関与できず、戦争が始まったらただああそうですかと兵隊にとられて死ぬしか能がないのではないのか。
以上
第四章 中国とアメリカを同時に捉える視角 ――1914年~1919年
感想 2023年5月18日(木)
昭和初年ころの、研究だけでなく一次資料も、最近になって発表されたり、地方史で発掘されたりしているようだ。
アジアにおける日本中心主義(アジア主義、大東亜共栄圏)は、第一次大戦のころから生まれたとのことだが、力(日清・日露戦争勝利)がつくと自尊心が生まれ、対外的に危険になる。
山東省(青島)関連の利権問題は、第一次大戦のころから生まれ、中国制圧の思想へつながる。
第一次大戦後の国際会議での日本の国際法的解釈には正当性があるように見えるが、法解釈にも国際社会における力関係(米英の親密な関係)が中国の立場を擁護したと言えるかもしれない。
1 はじめに
076 平石直昭は日本のアジア主義を次のように定義した。「日本近代史上に隠顕する一つの思想的傾向であり、西洋列強の抑圧に対抗して、日本を盟主とした結集を訴える思想である」1994 平石のこの定義は竹内好の定義を踏まえている。
竹内好は自由民権論者のアジア連帯論をアジア主義とし、それと玄洋社系統の国権主義的日本盟主論の大アジア主義とを区別し、大アジア主義をアジア主義の逸脱形態とするのは誤りだとした。1963さらに竹内は、アジア主義はある実質内容をもつ客観的に限定できる思想ではなく、傾向性であるとする。
077 西洋列強の抑圧に対抗し日本を盟主とした結集を訴えるアジア主義は、対外的危機意識が急速に増大する時に現れるだろう。明治国家にとっての対外的危機意識は、国家にとって死活的に重要な利益=国益が脅かされると思われる時に現れる。その国益は、民族の独立確保、不平等条約体制からの脱出、すなわち国家的独立の真の達成であった。その結果、朝鮮半島は利益線と見なされて日清・日露戦争が戦われた。
日清戦争前の1893年明治26年、樽井藤吉は『大東合邦論』の中で、日本と大朝鮮国との合邦を唱えた。日露戦争前の1903年、岡倉天心は『東洋の理想』の中で、インドの理想、中国の倫理、日本の運命を語り、アジアは一つだと論じた。
さらに昭和戦前期に国家にとって死活的に重要な利害は、日本による中国支配だとされ、それを阻止しようとする英米に矛先が向けられ、日本を盟主とした結集をアジアに呼びかける発想が、対外的危機意識を通して生まれた。第二次大戦前の1939年昭和14年、尾崎秀美は「『東亜協同体』の理念とその成立の客観的基礎」などの一連の論稿の中で、中国の民族主義に対抗できる論理、つまり日本と中国と満洲とが運命を同じくする超国家体として協同した上で、アジアの農業問題の同時的解決を図らなければアジアは半植民地状態を抜け出せないという論理を唱えた。
078 しかしアジア主義は(日本の)外に向かって結集を呼び掛ける以外に、(日本)国内に向かっても、国家や制度を根本的に改造しようとする欲求も生まれてくるのではないか。坂本多加雄の征韓論解釈や、国民国家論で注目された牧原憲夫の大阪事件解釈はこの考え方を裏付ける。
坂本多加雄は「征韓論の政治哲学」1998の中で、西郷隆盛の征韓論をこう解釈する。西郷は国家の元気を取り戻し、因循姑息を避け、国家の覆滅を回避するためには征韓が必要だとしたが、西郷の中では、明治初年の専制政治から脱して立憲をめざす国内改革の必要性と対外進出とがセットになっていた。
牧原憲夫は「大井憲太郎の思想構造と大阪事件の論理」1982の中で、大阪事件で中心的役割を果たした大井憲太郎は、朝鮮独立運動援護のための義勇兵を日本で集めようとしたが、一方でその義勇兵を使ったクーデターを日本で起こし、日本政府が国内改革に取り組まざるを得ないようにすると考えた。
079 第一次大戦期に対外危機意識に基づく国内改革要求が広く論じられた。貴族院改革、兵役制度改革、労働組合の公認化、税制改革、普選実現などである。
丸山眞男は「日本ファシズムの思想と行動」1964の中で、第一次大戦期を、新しい運動あるいは政治集団の発生して来る画期としてとらえた。丸山は、北一輝が大川周明や滝川亀太郎とともに猶存社を作った1919年大正8年前後に集中して、国内改造と国際的主張とを一本に結ぶイデオロギーが誕生して来る様に注目した。
伊藤隆はこれを受けて、『大正期「革新」派の成立』1978の中で、この時期に華々しく政治の世界に登場して来る集団の特徴を、既成勢力の打倒を目指した改革運動であると見た。
有馬学は「『改造運動』の対外観」1976の中で、この時期に誕生した多くの集団を支えた政治思想を国家社会主義と見なし、このような集団がなぜこの時期の政界に大きな影響力を持ったのかを探った。有馬は集団の組織実態と政治思想を分析した結果、これらの集団が農村問題への対処法と対外的危機意識への処方箋を共に持っていた点に、影響力を持てた理由を求めた。
080 丸山も伊藤も有馬も、昭和期に力を持った政治集団、それを丸山はファシストとし、伊藤は革新派とし、有馬は国家社会主義者とするが、その政治集団の淵源を第一次大戦期に遡って分析したのだが、第一次大戦期における対外的危機意識と国内改革要求との関係は十分に解明しなかったようだ。この時期の対外的危機意識は、日本を盟主としたアジア諸国の結集を明示的に掲げることはなかったが、この危機意識は日本国内の政治改造への深く強い要求を伴ったから、この時期の思想をアジア主義の問題としてとらえる必要がある。
第一次世界大戦期に日本が米中に挟撃されるというイメージが急速に形成されたが、その理由と背景は何か。またその対外的危機意識(イメージ)そのものとは何か。それを以下に述べる。
2 第一次世界大戦勃発と米中の中立
第一次大戦1914.7.28—1918.11.11が始まって間もない1914年9月5日、日本の内務省は全国の町村長に向けて、以下の注意を民衆に与えるように指示した。
「このたび日本はドイツと戦争することになったが、その目的は東洋の平和保全であり、ドイツ皇帝やその国民に対して、汚い言葉で罵倒したりしてはならない。また日本と中立国との関係について、とかく興奮のあまり猜疑の念や間違った憶測などを述べる者があるが、そのようなことは言ってはならない。…」
そして冷静に付き合わなければならない中立国として想定されていた中国とアメリカは「吾が隣邦たる米支両国」と表現されていた。
081 対中問題 1914年8月6日、欧州戦争に対して局外中立を宣言した中国が、「中国にある外国居留地を戦闘区域にしないように交戦国に折衝して欲しいとアメリカに依頼したのではないか」という駐米日本大使が日本の外務省に伝えると、加藤高明外相は、8月8日、「日本と中国の国交上、地理上、またこれまでの日中関係の特殊の関係上、先ずは日本にこのような依頼をして来るべきであり、もしアメリカへの中国の申し出が事実ならば、『容易ならざる次第』であると中国に述べよ」と中国駐在日本公使に報告するよう命じた。
これに対して中国側は「この対米提議は駐米中国公使からの意見具申よって行ったが、日本をはずすというのではなく、アメリカと日本と双方に同事に提案するはずだったが、日本側との折衝の機会を失した」と弁明し、さらに「日英同盟の関係から、日本が戦争に参加するのは避けられないから、日本に依頼するのを躊躇した」と述べている。
082 日本の対独戦争は8月8日の元老・大臣会議で決定されており、8月15日、対独最後通牒が発せられたので、中国側が領土保全と中立維持の保障を、日本とイギリスにではなく、アメリカに求めようとしたことには根拠がある。
一方同じころドイツは戦域を限定するために、日本に対しては「日独が極東で戦争する必要はない」とし、中国に対しては「膠州湾のドイツ租借地を中国に還付する」と提示して膠州湾の保全について中国側の好意を得ようとしていた。
8月14日の時点で日本側が得ていた(ドイツの対中国)情報は、「(ドイツは)膠州湾租借地を中国に還付し、同地を通商港として開放し、同地の防備を撤廃し、同地所属の軍艦の武装を解除し、戦争終了まで中国政府で(その軍艦を)保管し、同地軍隊の武装解除と賠償問題は後日ドイツと中国とで協定する」という内容が中国側に提案されていて、結局、中国は日独戦争8/15において、8月17日に中立を宣言した。
以上をまとめると、英日が独と戦争状態になったことで、中国は自国の中立を確保するためにアメリカの好意を得ようとしたことである。日英同盟は1902年に締結され、その時まで2回改定され、「東亜及びインドの地域における全局の平和の確保」と、「中国の独立と領土の保全の確保」を目的としていたが、今回の戦争(が始まり)で、中国は日英同盟の枠組での安全保障には頼れないと考えざるをえなかった。ロシアとドイツは8月1日に、フランスとドイツは8月3日に、すでに戦争に突入していたので、東アジアに発言力を持つ大国のうちアメリカだけが中立の立場にいた。
ところが中立中国に対する加藤高明外相の不満は、中国がアメリカに保障を求めたことと、中国が膠州湾還付についてのドイツからの交渉に応じたことであった。
083 対米問題 第二次大隈内閣は対独戦役に対する臨時軍事費増額審議のために臨時議会(第34議会)を9月3日に召集し、その会期は9月4日から9月9日までだった。そして9月5日の衆議院本会議を秘密会とし、日独開戦をめぐる外交問題を質疑した。
小川平吉061は野党政友会から質問し「ニューヨークからの特電によれば、アメリカ政府は日本政府に対して次の通牒を送ってきた」とアメリカの(日本に対する)干渉を問いただした。小川は米のその通牒に関して「『アメリカ政府は日本の参戦目的が中国における領土拡張にないことを了解する。アメリカ政府は、日本が膠州湾を中国に還付する目的の下に、日英同盟と一致する範囲内で、行動することを了解する。中国国内の擾乱あるいは極東において重大な事件が発生した場合、日本が膠州湾地域以外で行動する場合は米国に協議すること』という通牒をアメリカが日本政府に送ったというのは本当なのか」と質問した。(『帝国議会衆議院 秘密会議事録集』1997年)
宣戦布告という日本の自主的な主権の行使にあたって、アメリカが制約を加えたのではないか、対独最後通牒の中に日本政府が「支那国に還付するの目的を以て」*と入れたのは、その文句を入れなければ、英米が納得しなかったからではないか、と小川は追及した。
*対独最後通牒の第一項は、日本と中国海域におけるドイツ艦艇の即時退去と武装解除を求め、第二項は「ドイツ帝国政府は膠州湾租借地全部を支那国に還付するの目的を以て」1914年9月15日までに無償無条件で日本側に交付することを要求するとある。
084 これに対して加藤高明外相は、「日本政府は(対独)最後通牒にあたり、アメリカにもその趣旨を伝えるために8月19日に声明書を出した。それに対して8月21日にアメリカ側が厳正中立を遵守すべき(遵守するとの)旨を伝えてきた。その覚書には、『日本が中国で領土拡張を図る意図がなく、その行動が日英同盟によるものであることは、米国の満足するところである』と述べられ、また『もし中国内地に擾乱が発生した場合、日本あるいは他の諸国が措置をとる必要がありと日本政府が考えた場合には、事前にアメリカ政府と協議するようアメリカ政府は希望する、それは高平ルート協定*に基づくものである』と述べられていた」と明らかにした。
*高平ルート協定 1908年11月30日に発表された太平洋に関する日米交換公文。その第五項に、中国の現状維持または機会均等主義を侵迫する事件が発生した場合は、日米両国政府はその措置に関して協商を遂げるために意見交換するとある。
加藤外相は基本的に小川の指摘に反駁しないが、小川に重大な誤解があるとし、その誤解は、日本があたかも膠州湾以外の地域における中国の擾乱に対してアメリカの同意なしに対応してはならないというような要請は絶対になされていないとした。
中立アメリカに対する日本側の不満は、日本の対独最後通牒に関して、アメリカが厳正中立の表明以上の覚書を日本政府に交付したのではないかという疑念から来ていた。中国内地の擾乱にあたって、日本とアメリカがどう対応するかという問題が、膠州湾以外の中国問題に日本は対応してはならないとする米の要請だと誤解された。(自意識過剰か)
085 大隈内閣で二度目の帝国議会(第35議会)が1914年12月5日に召集されたが、同じ問題が蒸し返された。政友会の松田源治は加藤高明外相にこう質問した。
「日本がドイツに宣戦布告するに当たりイギリスと日本とが協議したことはよく知られているが、戦域についてイギリス側が日本に制限を加えたのではないかと前議会で質問したところ、それに対して加藤外相はそのようなイギリス側からの制限は断じてなかったと答弁したのだが、8月18日付の外電は別の事態を伝えている。ロイター通信がイギリス政府の官報に当たる公報として発表したものによれば、戦域制限を日本政府とイギリス政府が協議した結果、一つの協定がつくられ、その協定の内容は、日本の軍事行動はシナ海を越えて太平洋に及んではならない、日本の軍事行動は東部アジア大陸におけるドイツ占領地以外の外国領土に及んではならない、つまり膠州湾以外に軍事行動を及ぼすことはできない、というものであった。これは日本の自主権、独立権、宣戦行動に対する大制限ではないのか」
松田源治は日露戦争によって日本がアジアからそして欧米列強から独立したと信じていたので、上述のイギリスのやり方は日本の主権に対する干渉であると考えた。松田は戦域制限問題以外に、膠州湾を中国に還付することについてもイギリス側に言質を取られているのではないかと質した。
5年後のパリ講和会議で日本全権団が期待される働きをしなかったと国民は不満をならしたが、問題はそれより早く(この1914年の時点)から起こっていたのである。
086 加藤外相はこの質問に対して、イギリスからこのような制限を受けたことはないと言明した。曰く「ロイター電が出された後で驚いてイギリスに照会し、日本側はこのような約束をしたことはもちろんないのだということを述べた。するとイギリス側は、公報で述べた文章には、「右の如く日本の趣旨を(イギリス側が主観的に)了解する」という言葉が書いてあるので、これは日本が実際に確約したかどうかということではなく、イギリス側がそう考えたということである、と弁解した。日本側は断じてイギリス側に確約を与えていない。」
加藤の答弁はイギリス外交の手口を述べたものであったが、実際にイギリス側の戦域限定の意思は世界に公表されてしまっている。
087 少し時間を遡る。開戦当初、イギリスは戦争をヨーロッパ大陸に限定できると考え、短期決戦を予想していたために、日本の対独参戦には積極的ではなかった。8月7日、イギリスは日本に対して、シナ海で活動するドイツの仮装巡洋艦の日本海軍による捜索、撃退を依頼した。
一方8月8日、加藤外相は元老・大臣会議の中で、参戦の目的を限定しない決定を行い、「東亜における日本及び英国の利益に損害を被らしむべきドイツ国の勢力を破滅させる」と、広い参戦目的を決定した。
このような加藤の積極性と電光石火の早業にイギリスは困惑した。イギリスには自治領の動向や、アメリカの意向への配慮があった。その他に東アジアの戦争は、中国内部の擾乱を引き起こし、ひいては東アジア全体の騒動となり、イギリス貿易に大打撃を及ぼすとイギリスは考えていた。(日本外交文書大正3年1914年)
イギリスは一旦は日本に対するドイツの仮装巡洋艦撃破の依頼を撤回したが、日本の海軍力を必要としたイギリス海軍省(チャーチル海軍大臣)の積極性もあって、8月10日、日英同盟の下での参戦という日本側の解釈に同意した。しかし同時にイギリス外務省は日本に対して、軍事行動の範囲をシナ海の西と南、ドイツの租借地である膠州湾以外には広げない、太平洋には軍事行動の範囲を広げないと声明するよう要求した。一方8月13日イギリス政府は、日本がドイツに対して行う宣戦布告文には、戦域についての制限を記載しないことで同意した。
このようにイギリスは日本に対して二回譲歩*した。その背景には、8月11日、当時海軍大臣だったチャーチルがグレー外相に書簡を出し、日本に対して戦域制限要求を行うことは支持できない、ただ何らかの形で日本がイギリスに対して形式に関わらず、戦域の制限に関して日本政府の保証を得られれば十分であると主張した。(加藤外相宛井上駐英大使電報)
088 こうしてイギリス側は8月13日、日英同盟を理由とした日本側の参戦に同意し、また宣戦布告文に戦域の制限をつけなくてもよいとの了解を日本側に与えた(*前述の二回譲歩)のだが、依然として戦域制限の保証についての日本側の何らかの言明を求めていた。
このような中で加藤外相は8月15日、ドイツに対して最後通牒を行うことを閣議決定した。8月15日の最後通牒でその参戦目的は「英国政府の提議に基き、日英同盟協約に予期せる全般の利益を防護するため」とし、ドイツに対する最後通牒の具体的目的は、「日本海・シナ海洋方面からドイツ国艦艇を武装解除の上、即時撤退させること、ドイツは膠州湾租借地全域を中国に還付する目的で、9月15日までに、無償・無条件で日本側に引き渡すこと」とされた。
膠州湾租借地が将来的に中国に還付される予定であるという文面によって、対外的には日本の行動に対する安心感を獲得できると考えられた。しかしドイツがこの最後通牒で要求された事項を認める可能性はなかったから、「中国に還付する目的を以て」と書かれたことは、日本とドイツとの開戦によって破棄されたと見なせるという考えが日本側にあった。事実加藤は開戦後、議会に対して、「実際にドイツとの間に戦闘が行われた後に獲得した膠州湾租借地であるから、中国に還付する必要はない」と述べている。あの条件は開戦に至る前に膠州湾租借地が日本側に引き渡された場合であるという論理である。加藤はイギリスひいきなどと言われていたが、この最後通牒つきの開戦については、イギリスに事前に知らせていなかった。それは8月16日、ロンドンの井上駐英大使が驚いて、最後通牒という形式をとった理由について加藤に説明を求めていることから分かる。
089 8月17日、(駐日)イギリス大使が加藤外相を訪れ、日本側が何らかの形で戦域制限を言明しないつもりならば、イギリスは以下のような覚書を公表すると加藤に述べた。それは「日本の軍事行動地域局限声明に関する英国政府の意向」「日本の軍事行動地域局限に関する日本政府声明予報」であった。その結果、8月18日、ロイターにイギリス政府の見解が出ることになった。
以上の経緯を考えると、8月13日の、日英同盟を理由とした(日本の)参戦を容認し、(後に)戦域制限の(日本の)言明を要求するというイギリス政府の方針に対する加藤の強引な回答は、15日の最後通牒文であり、それに対するイギリス政府の強引な対応は、18日のロイターへのイギリス政府見解の公表であった。
政友会の松田源治の質問は、加藤にとって、参戦理由と戦域制限をめぐる日英交渉への対応としての最後通牒の意味を質してくれるものだった。戦域制限を最後まで言明しなかった加藤の立場は、国家の主権侵害だとする松田の立場と同じであった。
090 開戦直後の日本での日英同盟についての初めての疑念や、中立中国と中立アメリカの連携に対して初めて生じた脅威などの根本には、宣戦布告する権利という国家主権の一つが干渉されたという強い不満があった。これが国家改造要求へと国民を導く経路になった。
3 「戦後世界」と中国
第一次大戦の最終段階まで、ドイツの急速な敗退と戦後の講和会議の内容は予測できていなかった。日本は1914年中に早くも青島やドイツ領南洋諸島を占領した。*
*感想 これは列強が日本にやってもらいたくなかった展開だったかもしれない。イギリスはしきりに日本の戦闘地域の制限を言い、アメリカは膠州湾を含めた中国の領土への日本の拡張を懸念していたようだから。
同年1914年12月、戦線は膠着した。(講和会議の)日本全権団の一人、松井慶四郎は自叙伝の中で、
「講和会議本会議第一回を1919年1月25日フランス外務省の時計の間で開いた。議題は戦争発起人の責任、戦争中の犯罪に対する制裁、労働問題であった。そして次に予定されている議題は、国際連盟の問題であり、直接戦争と重大な関係があり戦争の始末に関する問題は後回しになった。先に述べた三つの問題を第一回の本会議に出すのは、随分変なものであり、世間でも大分非難があった。」
091 ドイツへの要求項目ではなく、上述の三つの議題が大方の予想に反して優先的に論じられたのは、米英の国内事情に起因するところが大きかった。日本だけでなく他の国も、上述の三つの議題に準備していなかった。イギリスでさえも戦争の終わり方を、ドイツに対する決定的な勝利を獲得できないままに終結すると予想していた。
イギリスは妥協による戦争終結の可能性が高いとみて、戦後にはドイツが大規模な輸出振興策とダンピング政策によって経済の再浮上を図るだろうと予測していた。そのためイギリスは主要連合国間で1916年にパリ協定を締結し、戦後に予想されるドイツによるダンピングへの対抗措置を連合国間で約束し、ドイツとオーストリアに最恵国待遇を与えないようにし、連合国同士あるいは英帝国内で特恵関税によって経済的勝利を確保しようとした。(P・J・ケイン、A・G・ホプキンズ『ジェントルマン資本主義の帝国』1997)
日本でもイギリスのような考え方が支配的で、元老山県有朋は1915年2月21日の「日露同盟論」の中で、
「ロシア・イギリス・フランスの連合がドイツ・オーストリアを打破し、再起不能にさせることはできないし、その逆もない。五分五分か四分六分で終わる。平和が戻ったヨーロッパでは国力の回復が図られるのは当然で、軍備の整備も行われるだろう。また商工業を発展させることで富を吸収しようとする競争に拍車がかけられるだろう。そうした時にその競争の舞台は東アジア、特に中国大陸となるに違いない」
092 戦争開始1年後においてこの戦争が総力戦になるとは予想されていなかったので、勝敗の決着が明確につかない状態で終わることからくる戦後の経済戦を想定し、中国が論じられた。当時中華民国の大総統であった袁世凱も山県と同様な考え方をしていて、1915年1月10日、袁世凱は、
「両方の勢力は相手側の首府を陥落させることはできないのだから、結局五分五分の戦争で終わる。そして戦後は、ロシアとドイツが提携して東アジアに進んでくるに違いない。」
日本側は1918年6月29日に「帝国国防方針」1907を改定したが、その背景に山県の予想があった。同年1918年6月に書かれた「国防方針改訂意見書」には、
「平和回復後の日本の地位は困難になる。ドイツが勝てばドイツはロシアを先駆として使って東亜の富源に殺到するに違いなく、イギリスが勝てば南方から利益の拡張を図るだろう。アメリカはどっちが勝っても巨大な財力と無限の資源を背景に太平洋経営に従事し、ベーリング海峡を渡り、沿海州を下り、シベリアの経済的利益を独占し、南北から中国本土に向かって勢力を伸ばすはずである。結局戦後のアジアの地域は、ドイツとアメリカによる東西からの進出に会うか、イギリスとアメリカによる南北からの圧力に会うか、どちらかに必ずなる。」
093 山県は日本の国防はただ単に帝国の領土を守備するだけでなく、さらに進んで中国全土を「防衛」するものでなければならないと述べたが、その含意は、イギリスがパリ協定で構築しようとしていたものと同様に、戦後の経済戦が展開される舞台としての中国であった。この段階では総力戦準備のための国防に必要な資源の収奪の場としての中国という考えはまだ成立しておらず、戦後の経済戦が行われる場としての中国であった。
山県は次第に力を失っていく途上にあったが、当時参謀次長として重きをなしていた田中義一は1917年5月から6月にかけて中国を視察した後に「対支経営私見」を執筆し、長江航路をどの国が支配しているかを論じ、ドイツの長足の進歩に言及し、戦後のイギリスやドイツが、戦中にいったん縮小した船舶を東アジアの海面に復帰させたとき、日本の航運業は衰退するのではないかと述べている。特にアメリカに対しては、「将来大に刮目(かつもく)して俟(ま)つべき一強敵」であるとみて、戦後の中国に殺到するはずの列強競争の圧力は、特に航運業界に非常な変調を来すはずだと予想した。さらに欧米列強は戦争によって鉄を欠乏させているはずだから、
「列強の鉄を求むるや、あたかも飢えたるものの食を求め、渇したるものの水に就くが如く、手段を選ばず方法を論ぜざるに至るべきは、知者を俟たずして知るべきのみ。而してその競争の焦点は実に支那を措いて他に求むるべからず」
としているが、田中も基本的には山県と同様の見解をしている。
094 しかし現実にはドイツは予想に反して急速に崩壊し、ドイツが極東に再び経済勢力を伸ばしてくるのは1920年代半ば以降であった。
日本の戦中の国防方針は、戦後の経済戦を戦う場としての中国と、経済戦の主たる担い手としてのアメリカを同時に捉えていた。
4 パリ講和会議における山東問題――中国問題とアメリカ問題の合流――
ワシントン会議(1921.11.12—1922.2.6)開催の数か月前の1921年8月に完成した北一輝『支那革命外史』の序文で、北はパリ講和会議での日本外交の失敗を論じ、「ヴェルサイユにおいて支那と米国とから一斉に排日の泥を投げつけられる」と痛烈に批判した。北は山東問題をめぐって中国では五・四運動が起こり、アメリカでは上院を中心として共和党議員らによる対日批判が噴出したことを批判した。北は東のアメリカと西の中国に挟撃される日本をイメージした。
山東問題に関して、講和会議の結果、最終的に日本側の主張がすべて認められ、1919年6月、対独講和条約の第156条~158条として成立した。ドイツは山東省に関して、取得していたすべての権利、特権、膠州湾地域、鉄道、鉱山、海底電線などを日本のために拠棄し、膠済鉄道とその支線に関して、ドイツの持つ一切の権利、並びに各種の財産、停車場、工場などは日本国により取得保持されるべきものとする内容だった。
096 パリ講和会議全権団で中心的な役割を果たした牧野伸顕の回顧録によれば、山東問題がもめた理由について、
「青島問題でのかの二十一か条が「意外にも」(中国における人権意識の高揚を見くびっているのか)大問題となり、その効力、内容を廻って盛んに議論が繰り返され、数日間会議の議事を独占し、外部では新聞で全面的に取り上げられ、講和会議全体の話題となって、日本の全権団はその矢面に立たされた。…この問題が起った原因は、支那の全権団を構成する一部の不平分子が優勢を占めて中国首席・陸徴祥を排除し、米国の全権の一部に同情者を得て、二十一か条の条約を無効にする運動に必死の努力を払った。」
牧野の回顧録から判断すると、牧野は中国全権団の中でヤング・チャイナと呼ばれた、顧維鈞などのアメリカで教育を受けた若い外交官が、北京政府の方針と関係なく活発な「情報戦」を展開し、またそれに対して、アメリカの全権団の一部が、支持を与えたことによって山東問題が「複雑化」したと判断していたようだ。
山東省旧ドイツ権益問題について、日中間で戦わされた論戦の中心点は、日本が(ドイツの)膠州湾租借地を中国に還付するのはもちろんだが、それはドイツから日本へ一旦引き渡された後に中国に返還されるべきものであると日本側が主張し、それに対して中国側が、中国はドイツに対して宣戦布告をした*のだから、中独間に締結されていた条約は失効したとみなせる。従って膠州湾租借地などドイツの権益はすでに消滅したと見なせ、日本の手を経て中国に返還される筋合いはないという点であった。
*中立だったはずの中国は、いつの間にかドイツに宣戦布告していた。
097 日本側の主張の根拠は三つあり、それはまさに帝国主義的外交の成果であった。
・1915年5月25日、(日本政府と)中国政府との間で調印された「山東省に関する条約」の中に、日本とドイツとの間で将来的に締結される山東省に関する協定を、中国側は認めなければならないという条項があった。
・1917年2月、英仏ロ伊と日本との間で交わされた覚書の中で、将来的な講和会議の際に、英仏ロ伊の四国は、日本が山東省の旧ドイツ権益と赤道以北の南洋諸島の権益を継承することに同意を与えるとした。
・1918年9月24日、(日本政府と)中国政府との間で調印された「山東省に於ける諸問題処理に関する交換公文」は、山東鉄道に対する日本側の支配を認めた。
中国側の主張は二点あり、
・中国とドイツとが開戦した結果、中独間の条約は無効となり、中国国民は膠州湾租借地だけでなく、鉄道その他の利権も併せて還付を希望する。
・1915年の(日本との)協定「山東省に関する条約」は、中国が苦境に陥っていたときに締結されたもので、中国側から見れば仮協定にすぎない。
098 日本側の当初の外交戦略は、
・三つの協約や公文があり、膠済鉄道の合弁と支線の延長について中国政府との間で合意済みであり、鉄道敷設資金の前渡し2000万円も済んでいて、
・(中独間の)開戦による条約の失効も、租借地のような領土に関するものについては無効にならない、
と判断し、山東問題は紛糾しないと考えていたようだ。
しかし1919年4月17日、西園寺公望と牧野はクレマンソーから、「日本は山東問題について法理上困難になる立場にあり、中国側が展開している、宣戦によって条約が消滅するという法理が成立すると思うと」言われた。
この状況の中で日本側全権団の陸海軍随員は、山東問題を法理上の争いにしないで、政治問題として扱った方が有利だと思うようになっていた。陸軍側随員の奈良武次は、
「中国側の覚書に述べられている論理も全然理由がないわけでもない。内外の学者の研究を徴するに、一部学者は中国とドイツとの開戦によって条約が消滅するが、領土に関する条約、例えば租借条約は消滅しないとの学説を主張しているが、それは一部であり、大部分の学者は開戦によってすべての条約は効力を失うとの説に同意しているようだ。よって中国側の主張は有利であり、法理論によって中国側の主張を弁駁するのはますます問題を紛糾させるだけで、政治上の見地から主張すべきである」
099 とした。このような経緯を経て日本は、対独最後通牒の言葉通りに、
「日本は中国側に完全な主権と共に山東省の旧ドイツ権益を還付しようとしているのに、日本の主張が信じられないならば、(日本)国の威信を失い、国論も治まらないから、講和条約には調印できない」
という政治的圧力を、ウイルソンやロイド・ジョージ、クレマンソーらにかけてゆくという戦術を取った。(駄々っ子戦術)
その結果1919年4月30日の首脳会議で、日本側の主張を完全に入れた講和条約文が決定された。しかしその過程で、ウイルソンは、日本側が自ら、日本は山東半島を中国の完全な主権の下に還付することと、日本が継承するものはドイツの持っていた経済上の特権であると声明するように求め、日本側はそれに応じた。
奈良は中国全権委員の愁訴哀願によってアメリカ全権団が動かされたとみていたが、米の同情論は感傷論に過ぎない。アメリカにはむしろ上院問題があった。
アメリカ上院では共和党の勢力が強く、民主党大統領のウイルソンに強く当たった。アメリカの主権が制限される項目が含まれている対独講和条約の第一篇「国際連盟規約」を上院は修正しようとし、
・米国は他国の安全と政治的独立に何らの義務を負わない。また連盟国であると否とに関わらず、他国国民の紛議に関与せず、
・(連盟規約)第10条による武力の使用は、憲法上の宣戦・用兵の権利がある両院が議決しなければ行使しないという項目が挙げられる。
これは連盟規約第10条の戦争の防遏(ぼうあつ、防止)条項に対する上院の修正であった。
100 それと共に山東問題は「敵本主義」の最たるものであるとして、某上院議員はこう論じた。
「山東は日本に講和条約を調印させるために払われた賄賂である。日本は大帝国建設者として、独国の政策に追従するだろう。このような条約案に米国は断じて賛同できない。」
また別の議員は、
「中国から領土を掠め取り、山東の自由を拘束し、数百万を奴隷にしようとしている日本に対して、アメリカとしては、日本の味方であるよりは、むしろ戦争をすべきである。米国は断じて山東問題に同意できない。もし戦争が止むを得なければ、将来よりも今戦争すべきである。」
英仏は中国の法理論を支持した。アメリカは全く国内の政治上の理由からウイルソン攻撃の手段として(山東問題を)使った。こうして日本側に講和会議を失敗と捉える理解が広がり、日本側は中国とアメリカが日本を挟撃していると判断したが、それはうなずける。少なくとも北一輝にとっては由々しき問題であった。
5 おわりに
101 第一次大戦期における日本側の対外的危機意識は、大戦後のパリ講和会議で展開された各国の活発な外交に適応できなかった日本外交に対する国民の絶望として捉えられてきたが、その捉え方は表層的である。その危機意識は単に新外交や宣伝情報戦に適応できなかった日本全権団の「間抜けな」行動に憤慨するという表層的怒りから出て来たのではない。日本側の不満は開戦以来5年間に蓄積されてきたものであり、国家の主権や人種の尊厳に係るものであった。国家主権という根本的な部分で日本が未だに西欧列強から圧迫を受けているかもしれないと考えることは、日本のアジアにおける安定的な支配を脅かすものと捉えられた。その対外的危機意識を醸成したものとして以下の諸点が考えられる。
・開戦当初の中立中国と中立アメリカとの良好な協調への困惑、
・同盟国イギリスと太平洋の対岸に位置するアメリカが、日本の対独参戦時に加えた戦域制限などに対する「原理的」怒り、
・勝敗が決することなく世界戦争が終わり、その後に中国を舞台として経済戦が始まるという暗い予想、
・パリ講和会議における山東問題で、日本の法理上の解釈が通用しなかったこと、
・アメリカ上院でウイルソン攻撃の材料として山東問題が使われたことに対する失望と困惑。
こうした日本側に生まれた根の深い対外的危機意識が、日本における広い国家改造要求を生み出したと私は考える。この対外的危機意識はアジア諸国での日本を盟主とした結集を訴えるものではなかったが、英米と平和的関係が維持されていたと見える第一次世界大戦前後において、国家改造要求を伴う対外危機意識が醸成されていたと考えられる。アジア主義の潮流がこの時期に生まれていたのである。
感想 2023年7月4日(火) 本章は圧巻である。よく調べた。
以上
第五章 ロンドン海軍軍縮問題の論理――常備兵額と所要兵力量の間――
1 はじめに
106 1930年昭和5年4月22日、五大海軍国(英米日仏伊)間で、補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など)の保有量制限に関する「1930年ロンドン海軍条約」(ロンドン海軍軍縮条約)が締結された。
*注1 ワシントン海軍軍縮条約に調印した仏伊は、ロンドン海軍条約には部分的に参加した。つまり、主力艦・航空母艦に関する協定と、潜水艦の艦型制限、補助艦の代換建造に関する協定、潜水艦の使用制限に関する協定だけに参加した。従って、補助艦の保有量については、英米日三国間の協定となった。
以下の参考文献がある。
・小林龍夫「海軍軍縮条約(1921~1936年)」(『太平洋戦争への道』朝日新聞1963)は、本問題を概説している。
・伊藤隆『昭和初期政治史研究』1969は、本問題を昭和初期の政治構造の再編を促した導因と見なしている。
・麻田貞雄『両大戦間の日米関係』は、ワシントン会議後の良好な日米関係から太平洋戦争勃発に至る対立へと進む20年間の転換点として本問題を位置づけ、特に海軍部内の変質をもたらした要因として重視する。
107 アメリカはワシントン会議で決められた主力艦の比率(米5、英5、日3)と同じ比率で補助艦(特に8インチ砲1万トン級大型巡洋艦)の保有量も規定しようとしたが、日本の海軍特に海軍軍令部が、対米7割を強硬に主張し、交渉妥結に邁進する浜口内閣を揺さぶったというストーリーがあるが、本章はそれを前提として繰り返さない。回訓の決定1930.4.1、海軍条約の調印4/22、第58特別議会4/23—5/13での統帥権干犯に関する論議、海軍軍事参議官会議*7/23の奉答文問題、枢密院*7/24—10/1での審査(下審査と本審査)、条約批准10/2などの歴史上の諸テーマがある。
*軍事参議院 1903年に設置された軍事に関する天皇の諮問機関。前身は1887年の軍事参議官制。軍政側(陸海軍大臣)、軍令側(元帥、陸軍参謀総長、海軍軍令部長、親補された陸海軍将官)を参議官とする。
*枢密院 1888年、憲法草案審議のために天皇の諮詢機関として設置された。憲法、憲法付属の法令、緊急勅令、条約などで天皇の諮問に応ずる。枢密顧問で構成される。
ロンドン海軍軍縮会議は、1930年昭和5年1月21日から4月22日まで開かれたが、以下に、この間(1929年6月から開催されたロンドンでの英米準備交渉を含む)における全権と政府間との交信を記録した『日米外交文書 1930年ロンドン海軍会議』1983, 1984と、第58特別議会での論戦を収録した本会議議事録(速記録)1983及び委員会速記録(議事録)1991、帝国議会貴族院委員会速記録1991に関して述べよう。
2 対外問題に関する宮中グループの政治力
2・1 宮中グループの登場
108 御厨貴は「昭和戦前期の政治勢力として軍が台頭するが、それと同程度に宮中グループも形成された」と指摘する。宮中グループの構成は、若き昭和天皇、その最大の援護者であった元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕(のぶあき)、内大臣秘書官長岡部長景—1930.9.27と木戸幸一1930.9.28--、侍従長鈴木貫太郎、宮内大臣一木喜徳郎などである。
(西園寺公望)元老の秘書の原田熊雄の口述記録である、原田熊雄述『西園寺公と政局』1950は、満洲某重大事件(張作霖爆殺)から始まっているが、本書は政治的事件に翻弄される若き君主を輔導する(宮中グループの)奮闘ぶりを記録する。
109 伊藤隆『昭和初期政治史研究』1969の中で伊藤隆は、内閣、海軍、元老、宮中グループなど10の政治集団の提携・対立の様を、ロンドン海軍軍縮問題を通して描いた。
升味準之輔『日本政党史論』1980は、これ(ロンドン海軍軍縮会議)以降の政治を、国家総動員の確立を目指す「推進集団」としての陸軍、「反発集団」としての既成政党、「奏薦集団」としての宮中グループの三つの遠心的対抗関係として描いたが、そこでの宮中グループは、嵐の中で必死に防御に努めるという弱いイメージとして描かれた。
2・2 (西園寺公望)元老と天皇の対外観
宮中グループは英米との協調論を基調として形成された。原田熊雄は1930年3月の時点での(西園寺公望)元老の考え方を次のように記している。
110 (日本が)国際平和の促進に誠意を以て努力するということを列国に認めさせて、即ち日本がリードしてこの(ロンドン海軍軍縮)会議を成功に導かせるということが、将来の日本の国際的地位をますます高める所以であって、…現在日本は英米と共に采配の柄を持つ事が出来る立場にあるのではないか。…フランスやイタリーと同じような側につくということが、国家の将来のために果たして利益があるか不利益であるかということは判りきった話ではないか。
西園寺は大型巡洋艦保有量の対米七割をあくまで主張することの可否を論じ、五大海軍国の中で劣勢の仏伊とは与せず、英米との妥協による条約の成立を図るべきだとした。
昭和天皇も同様に「世界の平和の為」に条約を早期成立させるよう浜口を後押ししていた、と総理大臣浜口雄幸自身が書いている。(『浜口雄幸/日記・随感録』1991)
単独で拝謁仰せつけられ、軍縮問題の経過の大要を言上した。次に本問題解決に関する自己の所信を申し上げたところ、「世界の平和の為に早く纏めるよう努力せよ」との有難いお言葉を拝し、恐縮して「聖旨を体して努力すべき旨」を奉答して退下した。侍従長鈴木貫太郎と暫時懇談して退出した。ここにおいて自分の決心はますます鞏固となった。
111 国際連盟成立以降、理想主義は現実的な力を持つようになった。
2・3 現実的な力を持った理想主義
現実的な力を持った理想主義について、吉野作造は「国際連盟は可能なり」の中で次のように述べている。(『六合雑誌』1919年1月、『吉野作造選集』1996)
万国平和論や国際会議などは必ず真面目に討究されるべき問題であるが、遺憾なことにこの問題の提唱者がこれまで常に弱国の政治家であったために、その価値が低下されたのは誠に残念である。…ところがこの度の大戦争の結果、弱国の政治家がその独立安全を保たんがために利用してきた問題(国際平和論)が、強国の政治家によって真面目に論議されたのである。
これまでユートピアと思われてきた構想に、大国アメリカが率先して保証を与えたことの意味の大きさについて、イギリスの外交官・外交史家のH・ニコルソン(Peacemaking, 1919)も、吉野作造同様、こう判断していた。
ウイルソン主義が当時あれほどまでに世人の熱情的な関心事となったのは、これまで長い夢であったことが、突如として世界の最強国の圧倒的な資源によって裏付けられるようになったためである。
112 しかしロンドン会議が開催されたのは国際連盟発足の10年後であった。国際連盟発足時の国際協調的な熱意が、ロンドン会議開催時でも維持されたのだろうか。次にこの時期の英米側の外交姿勢を見る。
2・4 不戦条約を基礎とした海軍軍縮会議
イギリスでは1929年5月の総選挙で労働党が保守党を破り、6月5日に第二次マクドナルド内閣が成立したが、そのころ軍備縮小に関する保守党・労働党・自由党の三党の党首声明が発表された。松平恒雄駐英大使によれば、労働党党首マクドナルドはこう述べたという。
「直ちに満足な軍備縮小条約を締結するための理由として不戦条約を利用すべきであることは当然である。不戦条約調印や海軍力の発達に鑑みて、海洋自由の原則という問題は全く新しい事態であると思う。」
イギリスは1929年3月2日に不戦条約Pact of Peaceを批准した。不戦条約は1928年8月27日にパリで15か国間で調印され、国際紛争の解決のために戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄するとした。ただし、自衛戦争と制裁のための戦争は除外された。
113 不戦条約を海軍軍縮の基礎にするという方針について、1929年7月8日、マクドナルド首相はドーズ駐英米国大使宛書簡の中で、
「私は英米両国政府が不戦条約(ケロッグ条約)を、両国関係の緊要で支配的な事実vital and controlling factと考え、この条約を軍備縮小に関する交渉の出発点として用いることに(英米で)同意したと声明することは、非常に有益であると思う」とした。
7月11日、米のスティムソン国務長官はこれにこたえて、「フーヴァー大統領と自分はこの件に賛成だ」と訓令した。英国は不戦条約を海軍軍縮会議の基礎とすることを会議参加国への招請状にも書いた。
日本政府も海軍軍縮会議への招請に関する回答(10/15閣議決定)で、「パリでの戦争放棄に関する条約を海軍軍備縮小に関する討議の出発点とすることを支持する」と述べた。
114 各締約国の権益やその特定地域の自衛や自由行動をどう留保するかとか、締約国の行動を制限する(武)力的保障とかについて曖昧な不戦条約の問題点を棚上げして、英米日の三大海軍国が不戦条約を基礎にする軍縮会議に参集したことは意義深いことである。
2・5 海軍軍令部長の上奏「阻止」問題
原田熊雄述『西園寺公と政局』昭和5年1930年5月22日によれば、政友会の幹事長の森恪(かく)が、西園寺公望の秘書の原田熊雄に、「鈴木貫太郎侍従長が、加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏を阻止した*かどうか」を尋ねたところ、それに対して原田は「その件は全く知らない。第一に帷幄上奏は侍従武官長(奈良武次)を経て行われるものであり、内大臣(牧野伸顕)や侍従長(鈴木貫太郎)の関するところではない、また私は内大臣からそれを頼まれたこともない、それは全くの虚構である」と答えた。
*説得によって延期させたという説もある。
帷幄上奏を管掌する侍従武官長(奈良武次)は、その日記(『中央公論』1990年9月)の中で、鈴木貫太郎侍従長に対する不満を述べている。
1930年3月31日 加藤寛治軍令部長が軍縮問題の回訓に関して拝謁を願い出たが、侍従長(鈴木貫太郎)から申し込みがあって、暫時見合わせていた。侍従長は軍令部長を官舎に招き、拝謁上奏を思いとどまらせるために勧告したとのことだ。その時加藤軍令部長は拝謁上奏を思いとどまると答えたと、侍従長から話があった。
1930年4月1日 今日もまた加藤軍令部長が拝謁を願い出たが、また侍従長の申し込みによって延引し、同日午後陛下に伺ったところ、翌4月2日の午前10時半に拝謁を賜る旨の御沙汰があった。そしてその旨を軍令部長に通知した。侍従長の前日3/31来の取り計らいに私は大いに不同意であるが、侍従長は非常に熱心かつ強硬に希望されるので、その意見を容れたが、侍従長のこの処置は、大いに不穏当であると私は確信している。
鈴木侍従長が奈良侍従武官長を説得して軍令部長の上奏を遅らせたが、その措置に奈良は不穏当だと思ったという話である。
浜口(首相)は閣議決定済みの回訓を4月1日の午後3時45分から25分間上奏し、米国提案で妥結するという全権への最終的回訓への允裁(いんさい)を得た。そして加藤軍令部長の上奏は、浜口首相の上奏の翌日の4月2日に行われた。
116 加藤軍令部長はその日記1994の中で、
1930年1月23日 鈴木侍従長が来部(軍令部)した。米大使に(への)歓迎文に加えて(米大使が日本側に)反省を強要する件について、森山(軍令部の一員か)等の行動を(の)緩和方(を)頼み(に)来る。(意味不明)この日、彼は、最高官(西園寺公望)の憂慮を告げ、進んで(さらに)軍縮について現職にあるまじき意見を私に語る。作戦計画についてである。
1930年3月31日 この日に上奏の御都合を伺ったが、今村が来て、その(上奏の)前に(の)、午後2時(に)、(鈴木)侍従長が(私との)面会を求められたと告げた。従って(私は)(侍従長の)官邸に訪れたが、種々外務と(の)「アツレキ」のことを語り、軍規問題など(に)告げ進んで、作戦計画にまで言及し、本日の上奏は社会的に影響する所が大きいから差し控えるように勧められた。またさらに本日5時まで(天皇が)御多用にて、夜も却って目立って問題を大きくするから控えてという。従って明日4月1日を約束して帰る。
ところがその4月1日も前述の通り上奏できなかった。なお1月23日の記事で、加藤は西園寺を元老ではなく「最高官」と呼び、他でも「最高大官」と呼んでいるが、これは揶揄である。ここに加藤寛治を始め軍令部と宮中グループとの友敵界面がくっきり区切られ始めていることが分かる。
明治初年以来宮中を巻き込んだ政治的対立は幾度となく藩閥メンバー間で闘われてきた。大久保利通と木戸孝允、大隈重信と伊藤博文の対立項では、争われる対立軸が明確で、双方にリーダーが存在したが、宮中が一定の立場を担ってそれに対立する者が排除されるような対立の図式はこれまでになかった。
3 外交問題に関するリアリストの見方
3・1 潜水艦廃止をめぐる議論
117 E・H・カーは『危機の二十年』(岩波文庫1996, p.146)の中で、国際連盟の軍備縮小委員会の様子についてこう述べている。
「自国にとって不可欠な軍備は防御のためであるからとして善行であるとし、他国にとって不可欠な軍備は攻撃のためであるとして悪行であるとする考えが特に効果があった。その十年後に、軍縮会議の三つの委員会が、軍備を『攻撃的』と『防御的』とに分類しようとしたが、それは無駄な努力であった。そしてそのことに数週間も費やしたのだ。各国の代表は自国が依存する軍備は防御のためであるとし、潜在的敵対国が依存する軍備は本質的に攻撃のためであることを立証しようと、客観的理論に基づくという建前の下に、巧妙な議論を展開した。」
118 カーのこの言葉は直接ロンドン会議のことを描写したものではないが、ロンドン会議にもよくあてはまる。
英米は準備会議の段階から一貫して潜水艦全廃を主張していた。会議招請のための英国政府公文には「米英政府は共に潜水艦の全廃が望ましいとする、従来両政府が公然と採ってきた方針を固守する」とし、それを人道的見地から裏付けた。例えば第四回総会でイギリス側は「潜水艦の廃止は人道的見地や軍縮の本義からして望ましい」とし、アメリカ側はそれに応じて「その濫用が米大陸の(第一次)大戦参加の直接の原因であった兵器(潜水艦)の存続を許容することは、不戦条約の下に召集されたこの会議の目的に反する」とした。
日本やフランスなど主力艦比率で劣勢であった海軍国は、この説得に同意しなかったに違いない。フランスは「華府(ワシントン)会議で仏国が主力艦について比較的劣勢を受諾したのは、全く他の防御的艦種(潜水艦)については建造の自由を持つことを条件としたためであった」と述べている。日本の山梨海軍次官も同様であり、「潜水艦は、主力艦で劣勢比率の海軍国にとっての唯一の武器であるから、自主的保有量の保持に努めるよう」在英米大使館付海軍武官宛に申し送っている。そしてフランスの新聞は「潜水艦は防御的であるだけでなく、主力艦と補助艦が劣勢な国とっては、沿岸防備や海外植民地との連絡保全のために必要だから、廃止には絶対反対すべきだ」と論じていた。
119 英米は主力艦での優勢に加えて補助艦比率や潜水艦でも劣勢国を縛ろうとしていると日仏は考えた。結果は日仏の議論が認められ、潜水艦は廃止にならず、商船などに対する厳格な使用制限を基礎に協定が成立した。しかし日本が希望していた8万トン(噸)は認められず、英米日同量の5万2700トンとなった。
国際問題で理想主義を主張できるのは最優位の国である。カーは「国際的団結や世界連合など(を設立するという)の主張は、その結合した世界を統制することを望む支配的国家から出される」p.164 「国際的秩序や国際的結合は、つねにこれを他の国家に押し付けられるだけの強さを自慢している国家が唱えるスローガンだろう」p.165
3.2 対米七割要求を理想主義の言葉で語れるか
理想主義的な対外観を持っていたと言われる幣原喜重郎外相や若槻礼次郎全権は、相手国に率直に現実主義的観点から意見を表明していた。「軍事的・専門的見地から見て、なぜ日本が対米七割の大型巡洋艦を必要とするのかについての理由を、スティムソン国務長官やその他の米国全権が納得できるように説明したらどうか」と言うキャッスル駐日米大使に、幣原喜重郎外相は次のように答えた。(昭和5年1930年2月15日)
(日本の対米)七割要求の「専門的」理由を討議する時、当然日米戦争を想定するから、会議を戦場化する危険があると思う。…貴大使(キャッスル)との間柄であるから自由率直に申し上げる。日本軍人は、日本が七割以下の場合は、米国が日本を攻撃した場合、日本には絶対に勝算がなく、七割ならば、日本が米国を攻撃することは固より不可能だが、米国から攻撃された場合、日本に多少のチャンスがある(かもしれない)という印象を持っている。だから政府としては絶対に勝算がなくてもいいというようなことは提唱できない。
*ロンドン軍縮会議の全権は、前首相・若槻礼次郎、海相・財部彪、駐英大使・松平恒雄、駐白(ベルギー)大使・永井松三であった。
121 大型巡洋艦の対米七割という要求は、幣原個人の考えでは、不必要だったろうが、この時点ではまだ日本政府決定として獲得すべき第一の目標であった。つまり1929年11月26日、浜口内閣は以下三点を閣議決定していた。
・補助艦兵力量は総括的に対米七割
・20サンチ砲搭載大型巡洋艦は対米七割
・潜水艦は昭和6年1931年度末の現有量の7万8497トンを保持する
ここで幣原は理想主義的な説得の論理で米国に対して説明できないことが問題である。同様に(2日後の)2月17日に行われた英米日全権会議で、若槻礼次郎首相は次のようにのべたが、それも同様だった。2月5日に米全権の一人である上院議員リードが、米国全権試案を提示し、日本側も2月12日に日本試案を提出したが、双方の妥協は困難であった。そのとき若槻は次のように述べた。
122 この種の談合では虚心坦懐であるべきだから、我方からも最も率直に申し上げる。日本国民にとって七割の兵力では米国を攻撃することができないことは明らかであるが、本当に仮定の話だが、米国は理論上、日本を攻撃することができる。だから米が(日本の対米)七割(案)を拒否し、六割を主張するのは、その場合、(対日)攻撃のためだとみなす以外になく、この感想を覆すことはまったくできない。だから我々が七割以下の比率による条約にはとうてい調印できないという困難な立場にあることを十分了解してもらいたい。
表1
艦種 |
米国 |
英国 |
日本 |
8吋(インチ)砲巡洋艦 |
18隻18万トン |
15隻14万6800トン |
12隻10万8400トン |
6吋砲巡洋艦 |
14万3500トン |
19万2200トン |
10万450トン |
駆逐艦 |
15万トン |
15万トン |
10万5500トン |
潜水艦 |
5万2700トン |
5万2700トン |
5万2700トン |
合計 |
52万6200トン |
54万1700トン |
36万7050トン |
123 海軍軍令部長の加藤寛治を強烈に後押ししていた東郷平八郎元帥(1929年昭和4年11月13日加藤筆記)によれば、
将来支那は禍根となるだろう。日本の武力が畏敬すべきものでなくなったら、東洋の平和は忽ち乱れる。英米が口に不戦を唱え、国際連盟を言うなら、(アメリカやイギリスによる)ハワイやシンガポール*の防備や兵力の集中は何のためかと言え。…世界平和は結構で且つ万人の声であることは、幣原の「ラジオ」の如くなれど(ようだが)、表と裏がある。幣原はああ言わなければならないかもしれないが、我々はその裏を考えて用心堅固にしなければならない。
*シンガポール(新嘉波)が「韮(ママ)島」と言われたのもこの意味だろう。(意味不明)
若槻礼次郎首相とスティムソン米国務長官とが、また松平恒雄駐英大使とリード米上院議員・全権とが、それぞれ会談を積み重ねた末の3月12日に日米妥協案(表1)に達し、(日本の)全権は連名でこの妥協案での妥結を請訓した。日本の海軍力は対米6割9分7厘5毛となった。
367,050/526,200=0.697548461
4 条約上の兵力量
4・1 回訓手続き
124 「1930年ロンドン海軍条約」は4月22日に調印され、第58特別議会の本会議と予算委員会で審議されたが、回訓時の手続きに関して騒然となった。野党政友会は海軍軍令部内の異論を知っていて、倒閣の手段としてこの問題を追及した。政友会は、軍令部が反対していたのに政府は回訓決定を強行したのではないかと執拗に追求した。
4月1日午前8時半、浜口雄幸総理は総理官邸日本間応接室に、岡田啓介参議官、加藤寛治軍令部長、山梨勝之進海軍次官を招き、3月31日の夕方に幣原外相から受け取った政府回訓案を、この海軍側の3人に見せた。浜口政権は後に何度も「政府は軍事専門家の意見も十分に斟酌して回訓した」(衆議院本会議での幣原喜重郎外相の演説4/25)と述べた。
4月1日のこの会議で浜口雄幸総理は次のように海軍側の了承を求めた。
125 本件は軍事、外交、財政等の多方面から観察し、国家の大局から判断し、協定を成立させることが国家の利益になると判断し、全権の請訓案を骨子として、軍部の専門的意見もできるだけ取り入れて回訓案を作成した。これを本日の閣議で決定してもらい、上奏の後に訓電を発しようと思う。了承して欲しい。
この発言の意味は、回訓案の最終的作成は外務省に任せ、その回訓案への同意を、海軍省の代表者*と軍令部長、長老格の参議官から取り付け、閣議決定して最終決定するというものである。
*この時、財部彪海相は全権の一人としてロンドンに赴いていたので、浜口雄幸総理も海相事務管理の立場にあった。従って海軍軍政の実質的責任者は、山梨勝之進海軍次官だった。
原田熊雄は後に、(当時の)政府のとった措置をまとめたが、その『西園寺公と政局』1930年昭和5年5月16日口述分によれば、
条約の締結は純然たる国務であり、今回の問題は海軍の兵額決定に関する条約である。たとえ回訓案の決定当時に軍令部に多少の異論があっても、前後の決定権は政府に属するから、なんら統帥権の侵犯でないことは極めて明確である。
大日本帝国憲法第十二条「天皇は陸海軍の編成と常備兵額を定める」は編制大権に当たり、それは国務大臣輔弼の責任事項であるという政府判断の下に回訓手続きが行われた。政府が美濃部達吉の憲法学説を周到に研究していたことは、浜口雄幸の日記や原田熊雄の『西園寺公と政局』から明らかである。宮中でも岡部長景内大臣秘書官長は、美濃部達吉の話を聞きに行くとともに、行政裁判所評定官や枢密院書記官などを歴任した憲法学者清水澄にも確認した。『岡部長景日記』昭和5年4月22日の条で、
11時、清水(澄)御用掛が御進講を済ませて控室に帰られたのを待って、目下問題となっている憲法第十一条の統帥権と第十二条の編制の大権との関係を聴取したところ、編制大権は大臣輔弼の責任事項であるとの説は美濃部博士の説と同様(とのこと)。
*第十一条「天皇は陸海軍を統帥する」
このような美濃部達吉や清水澄などの憲法学説であれば、想定の上では、最悪の場合つまり軍部の同意が全くなくても、国務大臣の政務の範囲内で(軍の編制を)処理できたのだが、政府の実際の議会答弁の方針は、美濃部説にそれほど忠実でなく、1925年3月22日の第50議会の貴族院での花井卓蔵の質問に対して加藤高明内閣の塚本清治法制局長官が行った答弁を踏襲した。その答弁は、
第十二条の大権は第十一条の大権と密接な関係があるから、その行使において、第十一条の大権の作用を受けるものがある。
このように政府は第十二条の範囲でも、統帥部との共同輔弼を必要とする場合があることを否定しなかった。そのために内閣は、4月1日に岡田啓介参議官や山梨勝之進海軍次官とともに加藤寛治軍令部長を総理官邸に招いたことをもって統帥部(海軍軍令部)との共同輔弼を行ったと言えると主張することができた。1930年4月30日の衆議院予算委員会で、政友会の前田米蔵の質問に対して浜口雄幸首相は、
軍部の専門家がこれでは国防が安全でない、責任が取れないと言っているということを私は認めない。その仮定の上に立ったご質問には答弁の必要はない。
と極めて強い調子で言った。また5月7日の貴族院本会議でも、公正会・池田長康の質問に対して、
政府は調印前に軍部の専門的意見を十分斟酌した上で調印したと答える以外にない。特に軍令部長の名を指摘されてその人の同意を得たかどうかという御質問に対しては、御答えを差し控えたい。
と政府はこの点では譲歩しなかった。
4・2 海軍軍令部長の上奏内容
1930年4月1日、回訓が決定された際に、浜口雄幸総理の説明に対して、岡田啓介参議官が海軍を代表して、この回訓案を閣議に諮ることに同意する旨の書き物を読み上げたが、その後、『浜口雄幸/日記・随感録』によれば、加藤寛治軍令部長が「請訓案には用兵作戦上から同意できない」と発言したという。ご本人の『加藤寛治日記』によれば、加藤は「国防用兵の責任者として、米提案を骨子とする数字には(戦争)計画上同意しがたき旨を明言した」とある。また「岡田啓介日記」には、加藤寛治が「米国案のようでは用兵作戦上軍令部長として責任は取れません」と言明した、と書かれている。
128 しかし、加藤寛治は全権が送って来た請訓案には用兵作戦上同意できないとしているが、政府が決定する回訓案に同意できないとは言明していない。
加藤寛治は4月2日に上奏した。奈良武次侍従武官長は「結論としては、米国提案に同意する時は、国防の遂行が不可能であるということではない。むしろ米国提案に同意する時は、大正十二年策定の国防に要する兵力と国防方針の変更を要すというにすぎない」と書き、政府回訓への反対上奏ではなかった」と安心している。(『奈良武次侍従武官長日記』4/2の条)
堀悌吉海軍省軍務局長が1930年末に作成した「ロンドン海軍条約締結経緯」でも、加藤寛治の上奏の結論部分は、「今回の米国提案はもちろん、その他帝国の主張する兵力量と比率を実質上低下させるような協定の成立は、大正12年御裁定された国防方針に基づく作戦計画に重大な変更を来すから、慎重審議を要すると信じる」となっていて、4月2日の加藤寛治の上奏を、「世上これを回訓反対の上奏とするものもあるが、それは甚だしい誤りである」としている。
政友会や枢密院によってこの問題が浜口内閣打倒問題に発展させられる前の、原初的な条約締結問題の発生の時点では、加藤寛治の反対表明の仕方は、条約上の兵力量では1923年大正12年2月28日に裁可された(第二次改定)帝国国防方針の「国防に要する兵力」や「用兵綱領」と齟齬をきたすという立場であった。この上奏を受けて奈良侍従武官長は、新条約体制に適合するように国防方針を改定する必要があるのかの検討を開始したのである。「奈良武次侍従武官長日記」5/21の条によれば、
昭和5年5月21日、陛下に、国防方針、国防方針に要する兵力、用兵綱領などを改定する際の手続きにつき、大正12年2月即ち華府(ワシントン)会議後の前例をご説明申し上げ、かつロンドン会議の結果、以上三者の改定を要するや否やは、今後の研究に俟ち、もし改定を要するとの結論に達すれば、前例のように元帥府に御諮詢し、総理大臣に御下問を要すべき旨を申し上げる。
政府がとった回訓手続きも、加藤寛治が述べた、国防方針と条約上の兵力量との齟齬問題についての軍令部の意見上奏も、当時の憲法や軍令機関の管掌事項上、問題なく成立する論理であった。
一方(政府)が憲法論を踏み外したり、他方(政友会や枢密院)が理念に走ったりしたために起った問題ではなかった。一方に政友会や平沼派や枢密院に踊らされた短慮の加藤寛治軍令部長というイメージがあり、他方に統帥権を制限的に解釈する美濃部の憲法解釈に走った浜口内閣というイメージがあるが、そういう理解では問題が見えにくくなる。
130 むしろ双方に別個の引証基準があったから、問題が大きくなったのである。倒閣論議の分析はさておき、ロンドン海軍軍縮問題が昭和期の政治構造を一変させる導因として働く負のエネルギーをため込んだのはなぜか。それを次節で論じる。
感想 2023年7月5日(水) 加藤寛治の上奏が、回訓に対する反対ではなく、大正十二年策定の国防に要する兵力と国防方針の変更を要すということであり、誤解するなとのことだが、回訓に反対しなくても、米軍案は日本海軍軍事力を弱体化することだから、決して積極的にいいことだと海軍側は考えていなかったのではないか。このことは次の4・3で触れられている。
4・3 条約上の兵力量――常備兵額なのか所要兵力量なのか
1930年5月7日の貴族院本会議で、公正会・池田長康は、条約上の「兵力量」は「常備兵額」か、それとも「所要兵力量」かと質問した。
この兵備に関する量は、常備兵額か、それとも保有兵額か。外務大臣は「保有量」と度々言われるが、この保有量は常備兵額ではなく、作戦計画の基礎に基いた兵額であると私は思う。
これに対して浜口総理は次のように答弁した。
ロンドン条約の中の帝国海軍の兵力量は常備兵額と認めるべきであるという質問であるが、大体その通りである。(応答がかみ合っていないのではないか、浜口の政治的応答らしい。著者の解釈を参照せよ。133)
131 加藤寛治軍令部長は池田長康のこの質問に注目し、その日記(5/7の条)の中で「池田長康(男爵・貴族院議員)の統帥権の質問は微に入る」と書いている。
常備兵額は憲法十二条「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定める」の中の常備兵額であり、伊藤博文『憲法義解』が説明する「毎年の徴員」に当たる。
ちなみに「編制」とは、同書によれば、「軍隊艦隊の編成や管区方面より兵器の備用、給与、軍人の教育、検閲、規律、礼式、服制、衛戍(えいじゅ、駐屯、国境守備)、城寨(サイ、砦)、海防、守港、出師準備の類」と定義されている。
『憲法義解』の英文版によれば、常備兵額はpeace
standing(継続、常備) of the Army and Navyと英訳され、「毎年の徴員」の内容は「毎年徴集される常備軍の兵員の数を定めること」と英文で書かれている。普仏戦争のころの欧州情勢を反映させた条文を参照してつくられた明治憲法の条文だから、海軍の保有噸数については念頭に置かれることは少なく、陸海軍兵員の数として常備兵額が語られる傾向があった。
憲法制定当時に憲法草案十二条「天皇は陸海軍の編成を定める」に、「常備兵額」という文言を加えた経緯について、憲法草案審議のための枢密院第三審会議で伊藤博文議員はこう述べた。
132 「常備兵額」は「編制」の中に包含し(され)ないから、これ(常備兵額)を明記して後日の争議を断つ意味である。現に英国ではその兵額を毎年議することが恒例になっている。本邦ではこれを天皇の大権に帰して、国会にその権を与えないという意味である。
*明治憲法十一条 天皇は陸海軍を統帥する。
*明治憲法十二条 天皇は陸海軍の編成と常備兵額を定める。
伊藤のこの説は、井上毅が、君主の軍隊編成権と議会の予算議決権との関係についてロエスレルに質疑したことが背景にある。ロエスレルは編成と常備兵額という二つの言葉を明記すべき理由を次のように説明した。
編制は例えば軍隊を30連隊に分かつことをいう。当初1連隊を3000人として30連隊なら9万人、1人について200円の経費がかかると決めたとする。ところが、「天皇は陸海軍編成を定める」という文句だけでは、例えば議会は次のようなことが可能になる。つまり世の中が泰平無事だから30連隊は変えないが、1連帯の人員を2000人に減らして総人数を6万人に、1人の経費も170円に減額してもよいではないかと。常備兵額という文言がないと、以上のような議会の修正を止めることができない。…
133 憲法制定時の常備兵額は陸軍兵員の人数と俸給などを含意していたことが分かる。ドイツ人顧問(ロエスレル)の話だから、海軍の保有噸数などは初めから想定されていなかったようだ。
先に公正会・池田長康は三つの国防方針に関する文書*のうち「国防に要する兵力」(池田の言う所要兵額あるいは所要兵力量)がロンドン条約での兵力量ではないかと質したが、それに対して浜口雄幸総理はそうではなく、常備兵額だと答えた。
*1907年明治40年に策定され、その後大正7年と大正12年の二回改定された「日本帝国の国防方針」「国防に要する兵力」「帝国軍の用兵綱領」の三つの文書。
「常備兵額」という言葉は、陸軍の徴集人員数、部隊の装備、補給資材の整備などと密接不可分に語られてきたし、「常備」という表現も「平時」に読み替えられやすく、条約上の兵力量に相当するとは考えられにくかった。(意味不明)例えば、
1930年5月8日、貴族院予算委員会で井上清純は次のように質した。
134 海軍の所要保有量は戦時の保有量であり、実勢艦隊そのものを指すから、当然これには国防用兵を掌る軍令部が主として参画しなければならない。
井上清純は条約上の保有量が戦時の保有量であれば、それは軍令部の管掌事項である、と浜口雄幸総理を追求した。
海軍省と海軍軍令部の史料は、軍事参議官会議や枢密院の審査をクリアするために、回訓時に取ったそれぞれの立場を有利にするために編纂された史料が多いので、これらを避ける。この問題に局外者であった陸軍省が作成した文書(「所謂兵力量の決定に関する研究」1930年昭和5年5月27日)の中で兵力量を考える。それによると、
「兵力量という単語は陸軍では通常用いない。海軍における兵力量は、保有総噸数、艦種と艦種別総噸数、艦種別単艦の最大噸数、備砲装備*を意味し、海軍戦闘威力の重要な要素を包括するもの」
*備砲 装備された大砲。
と兵力量を定義し、次に兵力量増減の決定手続きのいくつかの場合について触れている。例えば統帥機関が国防用兵上の見地から師団数の増加を必要と感じた場合はどうなるのか。その場合は、
統帥機関は国際的事情や国家の財政状況を考慮し、これを軍政機関(陸軍なら陸軍省)に移し、軍政機関はこれを国家の財政担当者と協議し、その協議結果をもって統帥機関と往復し、了解が成立し、軍部大臣が閣議に諮る。
135 逆の場合、つまり政府が政策的見地から兵力量の削減を希望する場合は、政府はこれを軍政機関に移し、軍政機関と統帥機関との間で協議了解し、政府と統帥機関との了解の下に兵力量が決定されるべきである
と述べている。本史料は軍政機関である陸軍省が作成しているので、兵力量増減の立案権を政府と統帥機関双方に認めている。そして結論は、
兵力量の決定は憲法の条項に照らし、その十二条即ち「天皇は陸海軍の編成と常備兵額を定める」という大権事項に属す
としているように、陸軍省は条約上の兵力量を憲法十二条の「編成と常備兵額」に相当すると判断していた。
しかし軍政担当者が「兵力量=常備兵額=憲法十二条」と当然考えることも、統帥機関の担当者は別に考える。軍令部にとっての兵力量は、1907年の「帝国国防方針」の中の「所要兵力量」である。前年1906年12月29日から参謀総長と海軍軍令部長とが商議(協議)を開始した。そして国防方針は政略に関わり、所要兵力は軍政と直接関係するからとして、陸海軍大臣とも協議することになった。1907年2月1日、参謀総長と海軍軍令部長は国防方針を上奏する。その後、国防方針は国家の政策と重大な関係を持つから総理大臣の審議を経るべきだとされ、所要兵力について総理大臣に内覧を許した。こうして決まった兵力量は以下の通りであった。
帝国国防に要する兵力は、陸軍は二十五個師団、海軍は最新式の戦艦八隻と同装甲巡洋艦八隻を主力とし、これに相応する補助艦を付属する。
136 加藤軍令部長が「兵力量」と聞いて想起したのは、この国防方針に規定された「所要兵力量」であった可能性が高い。それは内閣や軍政の担当者が「兵力量」と聞いて想起する「常備兵力」とは異なる。両者の相違の原因は、両者の出典が異なるからではないか。ロンドン軍縮問題とは、兵力量を決定する政治主体がどこなのかという問題*ではなく、兵力量に関して、憲法十二条の「常備兵額」と帝国国防方針の「所要兵力量」との違いが問題だったのではないか。
*統帥権干犯問題を指しているのか。
1930年のロンドン海軍軍縮条約の正文には、「常備兵力」という語彙も、「所要兵力量」という語彙も見当たらない。
第六章 統帥権再考――司馬遼太郎氏の一文に寄せて――
1 問題の所在
142 司馬遼太郎は『文芸春秋』の連載コラム「この国のかたち」1986の中で、昭和戦前期は日本の長い歴史上で「非連続」であったとし、ソ連の参戦がいま少し早ければ、満洲の東部国境で自分は死ぬはずだった、「あんな時代は日本ではないと、灰皿を叩きつけるように叫びたい」と情緒的に語り、昭和戦前期の分析で「統帥権の独立」を鍵として用いた。
134 そして日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの期間を「異胎の時代」と呼び、こう語る。(明治初期を含めて日本国の歴史は素晴らしかったという説と親和性のある発言ともとれる)
この魔法の岩にもさきの飾り職人のいう理(すじ)があるはずで、(私は)愚かなことだ(った)が、ごく最近になってその理が異常膨張した昭和期の統帥権の法解釈ではないかと思うようになった。
ここで「魔法の岩」とは昭和前期の日本国家を指し、「飾り職人のいう理」とは、その部位をつけば極めて小さな力でも大岩を破砕することができる部分、「統帥権の独立」を指す。司馬は、統帥権が次第に独立し始めて一種の万能性を帯びるという事態と、その番人である参謀本部=統帥機関の暴走によって、「明治人が苦労してつくった近代国家は扼(やく)殺された」とする。
しかし満州事変を突破口とする政治介入に始まる昭和戦前期における軍の政権掌握への道を、統帥権の独立で説明できるのか疑問である。統帥権の独立は、明治憲法の多元性容認の上に成立していた。明治憲法は統帥権の独立を成文上明らかにしていないので、(統帥権に関する)憲法制定以前の慣行の効力を認めようとした。さらに軍令第一号、参謀本部条例、軍令部条例などの統帥権の独立を保証する憲法以外の法との並立関係を認めていた。*
*憲法第32条は「本章に掲げた条規は、陸海軍の法令あるいは紀律に抵触しないものに限り、軍人に準行(他の物事を標準にして行う、当てはまる)する」とし、軍人が臣民の権利義務の規定に必ずしも拘束されない点を保証した。
また敗戦まで陸軍の高級指揮官だけに閲覧を許した要綱『統帥綱領・統帥参考』(偕行社、1962)では「統帥権の独立は、憲法の成文上明白でないから、さまざま問題となった。しかし憲法制定前後を通ずる慣行と事実や憲法以外の付属法は、叙上(上述)の憲法の精神を明徴し、統帥権独立の法的根拠は実にここにある。(伊藤博文の)憲法義解にも『兵馬の統一は至尊の大権であり、専ら帷幄の大令に属す』と述べ、(また)事実において、参謀本部、軍事参議院の軍令機関は、既に憲法制定以前において、政治機関と相対立して存在し、憲法第76条(法律、規律、命令又は他の名称のものも、この憲法に矛盾しない現行の法令は、全て遵由の効力を持つ)はそれを承認した」とし、軍部は既成の事実と憲法以外の付属法の存在に恃(たの)んでいた。(極秘の権威づけか)
144 「統帥権の独立」が昭和戦前期の<魔法の杖>として貫徹できたとは思われない。日本にとって第一次大戦の衝撃は、総力戦体制への焦燥を帯びた希求として現れた。総力戦となれば権力分立が解消の方向に向かわざるをえない。「全体主義国家」イメージの強い独ソはともかく、「民主主義国家」の英仏でさえ、強力な権力統合を意図した「戦時内閣」を大戦中に成立させたことは、日本の政党勢力と軍部とに、それぞれ異なった関心からではあるが、瞠目させた。
大戦期の「戦時内閣」の最大の特徴は、全軍の指揮権を内閣の首相が掌握するというものであった。山県有朋のつくった軍部大臣現役武官制によって、政党員を軍部大臣にする道を断たれていた政党にとって、首相が全軍の指揮権を握ることができるというのは、極めて魅力的だったに違いない。一方軍にとっても、その首相さえ押さえることができれば、戦争指導方針の徹底が格段に進捗するだろうから無視できない方式であっただろうと思われる。事実「軍務局に永田あり」と言われた永田鉄山は、臨時軍事調査委員の一人として参戦諸国の研究を始めていた。
145 また大戦中に仏国軍に従軍した経験を持つ酒井鎬次という参謀本部員は、国軍指導という「統帥」の上に、政治と統帥とを合わせた「戦争指導」という段階が達成されなければ総力戦はおぼつかないと考え、「戦時国家最高機関」の必要を説いていた。それは戦時にあって、参謀本部を中心として構成される大本営と、政治を司る内閣との、上部に存在するものとして構想されていた。
ここに見られるような考え方は、大正の半ばからゆっくりと浮上してくる。それは「政治が統帥を支配する」ようにならなければ、軍部の存在理由である戦争に勝利するという目的を達成できないという考え方である。このような考え方は「統帥権の独立」に守られた参謀本部のありかたも問い返す(直す)はずである。
2 参謀本部の成立及びその権限――明治時代――
146 1878年明治11年12月5日、参謀本部が陸軍省から独立した。これはドイツ留学期間にドイツ流の「軍政二元主義」について研究した桂太郎の上申の成果と言われている。幕末の日本はフランス流の「軍政一元主義」を採用していた。ドイツが「軍政二元主義」を採用した時期は日本のそれよりさほど遡らず、普墺戦争のころの1866年であり、大モルトケ参謀総長は、それまで軍事大臣が出していた作戦命令を出し、帷幄上奏権*を持つようになった。
*帷幄上奏権 統帥事項について統帥部が天皇に上奏することを保証した権利。
1878年のころ内閣制度はできておらず、太政官制であった。統帥機関=参謀本部のトップ参謀本部長と、軍政機関=陸軍省のトップ陸軍卿との上下関係は、参謀本部長が統帥権に関する最高の輔弼期間であるから、軍政の陸軍卿の地位よりも上の太政大臣に相当するものと考えられていた。陸軍卿は直接天皇輔弼ができず、それは太政官三職、中でも太政大臣にあった。従って参謀本部長の地位は陸軍卿に優越していた。
このように設立当初の参謀本部は太政官制では陸軍省の上位に位置した。内閣制度の成立以前であり、明治憲法制定以前のこの時期の参謀本部の地位は、このように高かったので、それはこれ以降軍部がこの慣行に恃む根拠となった。
147 1893年5月19日、海軍軍令部が成立した。軍令=統帥機関は、帷幄の大令を奉行するものとして、陸軍には参謀本部が、海軍には軍令部が置かれ、天皇統帥を輔弼することになった。各々の職務は、
参謀本部 国防と用兵を司り、参謀総長は天皇に直隷し、帷幄の軍務に参画し、国防と用兵に関する計画を司る。
軍令部 国防と用兵を司り、軍令部長は天皇に直隷し、帷幄の機務を行う。
参謀本部も軍令部も国防と用兵の計画を立てるが、その実行は国政の事情によって決定されるべきで、閣議がこれに当たるべきだとされていた。しかし実際は計画立案の範囲に収まるとは考えられない。
1907年4月19日、帝国国防方針、国防に要する兵力量、帝国軍の用兵綱領が決定された。これを案出したのは当時参謀本部員の田中義一であり、参謀総長と海軍軍令部長の協議の上で、山県有朋枢密院議長が実現した。
148 本来国防方針は国務上の大権である外交大権と密接に関係しているから内閣の輔弼が必要である。国防計画も経費の支出を要するから、帷幄の大権だけで決定することはできず、内閣の輔弼を必要とする。
ところが1907年の策定過程は変則的で、参謀総長と軍令部長とで合意し、その案が「元帥府会議」で決議されて最終決定された。元帥とは1898年に設置され、「軍事上の最高顧問」とされ、一人の皇族を除き、この時の元帥は、山県有朋、大山巌、西郷従道がいた。明治憲法を逸脱して国防方針が策定され、参謀本部は国防方針の計画という領域を逸脱したのである。
明治初期から日露戦争後までの期間の参謀本部の権限は強大であったようだ。
3 軍部大臣現役武官制の改正――大正時代――
149 軍部の政治的台頭と統帥機関の暴走とは同義ではない。軍部大臣現役武官制は、軍部の政治的台頭を可能にし、統帥権の独立は、統帥機関の暴走を可能にした。統帥機関の独立が、軍部の政治的介入を許したのではない。
軍政二元主義=兵政分離主義の例外として、軍部大臣が法的に位置づけられていた。軍部大臣は内閣の閣員であり国務大臣であるから、統帥機関とは別個であるはずであるが、軍部大臣は統帥機関の役割のごく一部を付与されていた。
統帥権に関する命令を軍令という。参謀本部と軍令部は軍令を準備し、天皇を輔翼するのだが、軍部大臣がその軍令に副署するのである。つまり軍令を奉行する。統帥機関だけが持っていた帷幄上奏権を、軍令への副署だけではあるが、持っていた点で、軍部大臣も統帥機関の一部であるといえる。しかし普通は陸軍省や海軍省は統帥機関には含まない。
150 大正時代の歴代内閣や議会は、軍部大臣現役武官制が統帥事項ではないことに関して大いに議論していた。
1875年の陸軍省条例から1887年の陸軍省職員定員表まで、(陸軍)大臣の資格は「将官」であったが、1890年3月、海軍大臣の任用資格を削り、1891年7月、陸軍大臣の任用資格も削った。
同年1891年9月15日、伊藤博文・枢密院議長が軍部大臣の資格に関して明治天皇から御下問を拝したが、その奉答によれば、「陸軍はともかく、海軍大臣の資格を将官に限ると、海軍では将官の数が少ないから人事が停滞するのではないか」ということが、改正の理由として推定される。ただし伊藤博文はそれに賛成していない。
1899年5月、第二次山県有朋内閣の時に、陸海軍の官制改正を行い、(陸海軍)大臣・次官の任用資格を現役将官に限った。これによって軍部が好まない内閣に軍部大臣を送ることを拒否することができるようになった。
さらに明治憲法第55条は国務大臣の単独輔弼を要請する。つまり内閣総理大臣とその他の国務大臣とは平等の位置に立つ。また内閣官制は、内閣総理大臣の閣僚任免権を規程していない。そのため軍部大臣が得られなければ、大命降下した人でも組閣を断念せざるを得なかった。
151 1913年大正2年6月、山本権兵衛内閣はこの制度を改正し、軍部大臣現役武官制から「現役」を削り、1913年10月に官制が改正された。さらに初の本格的政党内閣である原敬内閣の下で、「変則」が行われた。
1921年10月、ワシントン会議の全権として日本を離れた海軍大臣加藤友三郎の代理職である臨時海軍事務管理に、海軍次官などの軍人ではなく、原首相が就いた。そのとき陸軍側はその条件として「陸軍は将来も文官の事務処理を認めない」という一札を政府から取った。
政党勢力は「現役」を削除し、次に「武官」を削除しようとした。原内閣の次の高橋是清内閣の時の1922年3月の第45議会本会議で、国民党の西村丹治郎が提出した建議が上程され、以下のように満場一致で採択された。
152 陸海軍大臣の任用資格を陸海軍大将に制限する現行官制は時代の進運に適さないから、政府は速やかに官制を改正し、その制限を撤廃されることを望む。
翌1923年2月、加藤友三郎内閣での第46議会の貴族院予算総会で、江木翼の質問に対して加藤友三郎首相は「軍部大臣が文官で不都合であるとは考えていないが、誰が陸海軍の内部に来ても了解のできる組織にしておくことがまず大事である」と答弁した。
昭和戦前期の軍部の政治的台頭を保証した軍部大臣現役武官制は統帥事項ではなく、議会や内閣が自由に議論できることがらであり、政党勢力によるその改変を十分期待できる制度であった。軍部が内閣の生殺与奪賢を握るという横暴は、統帥権の独立が直接的原因ではなかった。内閣総理大臣が閣僚任免権を持たなかったことが問題であった。
4 大本営設置――昭和時代――
153 本節では、浜口内閣でのロンドン軍縮会議、広田内閣での二・二六事件後の粛軍、近衛内閣での大本営設置をめぐる統帥権を考察する。
1929年昭和4年11月、ロンドン軍縮会議の全権である財部海軍大臣の離日に伴い、浜口首相が臨時海軍大臣事務管理に就いた。これは原内閣時代に続く二度目の文官による事務管理であった。原内閣の時代に陸軍から「陸軍は将来も文官の事務処理を認めない」という一札を取られたが、浜口首相はその一札を否定する声明、つまり陸軍大臣でも文官による事務管理を原則的に承認するという声明を出した。
1930年5月2日、第58議会衆議院予算総会で、山崎達之輔は「陸海軍大臣武官制を廃止する意図はないか。将来陸軍大臣が故障した場合の事務管理設置についてはどうか」「内閣官制第九条*の規定は陸軍大臣にも適用されるべきか」と質問した。
*「各省大臣の故障があるときは、他の大臣が臨時に命を受け、その事務を代理すべし」
154 山崎は「陸軍大臣には文官の事務代理をおくことはない」との原内閣時代の一札を反故にするかどうかを、第九条を盾に質問した。これに対して政府は「内閣官制第九条の規定は陸軍大臣に対しても適用する場合があるだろう。ただしその適用は時の事情によって決めるべきだ」という宇垣陸軍大臣による書面回答を示した。当時宇垣は病気で療養中だった。さらに山崎は「首相は内閣官制第九条について、陸相が書面で答弁されたのと同様の解釈をしているのか」と質問し、それに浜口首相は「同様の考えを持っている」と答えた。
ロンドン軍縮会議を廻って浜口首相は海軍軍令部と軋轢を深め、枢密院・政友会連合が「統帥権干犯問題」を倒閣という政治課題にしていった。浜口首相は総理大臣であるだけでなく、臨時海軍大臣事務管理でもあるという強い立場で、海軍軍令部に臨んだ。
第二に二・二六事件後の粛軍時における統帥権問題について
人事権は従来、参謀本部、教育総監部、陸軍省に三分されていたが、事件後は、陸軍大臣の下に集中された。一方海軍の場合は一貫して人事権は海軍大臣の下にあった。陸軍におけるこの改革は表面的であり、実際は従来通りであったという軍人もいるが、昭和の大本営設置の際に参謀本部が人事権獲得に固執していたことからすれば、事件後、人事権が陸軍省に集中される傾向にあったと言える。
広田内閣の時に二・二六事件を口実にして軍部大臣現役武官制が復活したが、この制度は「統帥権の独立=参謀本部の暴走」とは別物である。
また広田内閣の時に「帝国外交方針」、「国策の基準」が策定された。これは東京裁判で大きく扱われた。その策定に当たったのは前者の場合、首相、外務相、陸軍相、海軍相の四相で、後者の場合は首相、外務相、陸軍相、海軍相、大蔵相の五相であったが、最終決定が国務大臣の集合体であったことは重要である。「国策の基準」と内容は異なるがほぼ同様な性格の1907年の「帝国国防方針」の策定は、参謀総長、海軍軍令部長という統帥部の人間によって行われた。明治と昭和とで統帥権の権限を比較するとき、この区別は重大である。広田内閣時の「国策の基準」の決定過程は、明治憲法に忠実であり、統帥部の関与の度合いを減少させているといえる。
第三に日中戦争に対応するために設置された大本営と統帥権について
日清・日露両戦争の場合をみればわかるように、大本営は戦時の統帥機関の最高形態である。1878年に成立した統帥機関は、昭和の1937年に設置された大本営と、その持つ力が大きく異なる。
156 日中戦争が勃発すると参謀本部や軍令部は戦時統帥の最高機関である大本営設置を企図した。作戦命令の現地軍への徹底を期するためとか、広域海上封鎖の必要のためとか、大本営設置の根拠としてもっともらしい理由が挙げられた。それに対して陸軍省や海軍省は、「宣戦布告をせずに大本営を設置することはできない」というこれまたもっともらしい理由で、統帥部による大本営設置論に反対した。
統帥部と軍政機関の陸海軍省との大本営設置を巡る応酬の根底には、大本営を設置すると統帥機関が決定的に優位に立つことになるのではないかという軍政機関側の懸念があった。
日露戦争時の戦時大本営条例第三条には「参謀総長と軍令部長はその幕僚に(の)長として、帷幄の義務に奉仕し、作戦に参画し、終局の目的を考えて、陸海両軍の策応協同を図ることを任務とする」とあるように、戦時では参謀総長と軍令部長が大本営の中心になる。それに対して陸海軍大臣に関する規定は、大本営編成上では、大本営陸海軍諸機関の一つであるにすぎない。また日露戦争時の「大本営設置覚書」によれば、陸海軍大臣は大本営会議に列しない。
日中戦争における軍部にとって、第一次大戦時に英仏が戦時内閣を樹立したように、軍時と政治とが緊密に協調する総力戦体制の確立は喫緊の課題であった。その意味で、統帥権の独立に守られて軍政機関の権限をできる限り排除する大本営設置案に対して異議が起こった。
157 陸軍省軍務局と近衛首相が異議を申し立てた。軍務局は軍事課と軍務課とからなり、軍事課は予算を管掌し、軍務課は国防政策を管掌していた。軍務局は陸軍省の中でも最も政治的な部門である。軍務局軍務課国内班長の佐藤賢了と軍事課高級課員の稲田正純が、参謀本部による大本営設置案に対する陸軍省対案をつくった。その意図は佐藤賢了の次の言葉に明示されている。
統帥権の独立は武力戦万能時代の遺物であり、第一次大戦以前のことである。政戦両略(政治と戦略との密接な協力)は完全に一致しなければならない。その完全な一致は、独立した統帥と政治との平行線的関係ではできない。政治が統帥を支配するか、統帥が政治を支配するかしなければ得られない。(佐藤賢了1895--1975『東条英機と太平洋戦争』文芸春秋1960)
佐藤・稲田案は大本営での陸軍大臣の権限を強化し、大本営と政府との間に政戦両略を随時に図れる協議体のような「会報」を行うことを想定し、また大本営設置とともに内閣制度を改革して五人ほどの大臣とその他の各省長官からなる内閣をつくろうとした。
参謀本部と陸軍省との大本営設置論を巡る対決は、軍務局案を持つ陸軍省の優勢に終わった。1937年11月に大本営が設置されたが、その実態は佐藤・稲田案の(前述の特別内閣組閣案を除いた)内容を相当に盛ったものであった。「大本営令」の字句は従来の「戦時大本営条例」とあまり変化はなかったが、大本営内の各機関の権限規定を定めたいくつかの内部規定に、佐藤・稲田案の趣旨が巧妙に盛り込まれた。例えば、「大本営陸軍部執務要領」「大本営動員下令伝達」「幕僚会議開催の件通牒」「大本営設置につき政戦連係に関する閣議申し合わせ」などである。
158 佐藤・稲田案の政府・大本営間の「会報」も、「政府大本営連絡会議」として結実した。連絡会議の幹事は、内閣書記官長、陸海軍省の両軍務局長であり、司会は内閣総理大臣であり、統帥部からは一人の幹事も司会も出していない。戦後、連絡会議に出席した政治家や軍人が統帥部の横暴ぶりを暴露したが、連絡会議の機構は、政府・軍政機関に不利ではなかった。
本節のまとめ 「統帥権干犯問題」は、憲法十二条の編制大権規程と、憲法以外の法規の規定とで、兵力量決定の主体についての解釈の違いから生じた問題であった。憲法十二条の編制大権は第十一条の統帥大権とは異なり、内閣の輔弼を必要とする。憲法以外の法規には、軍令部条例や参謀本部条例などがある。
政党内閣期の成果を踏まえて、浜口内閣は、軍部大臣武官制改正の最終段階にいて、浜口は臨時海軍大臣事務管理という留守居ではあるが、実質上の海軍大臣の地位にいた。結果的に軍令部は統帥権の独立を後ろ盾にしたやや強引な法解釈を行うが、それは統帥部の暴走というよりも、強い政府が行ったやや性急な法解釈に対抗するものではなかったか。
159 「帝国外交方針」や「国策の基準」の最終決定に統帥部は関与していない。
戦時統帥の最高形態である大本営は、陸軍省側の軍務局の主導で、政治が統帥を支配するという意図のもとで設置された。
5 おわりに
私はここで司馬氏の提言に対する反例を提示しただけであり、「理」を提示できたとは思わない。
戦争の時代を治めるものが、戦争指導を直接的に行う統帥機関になりがちであり、個々の作戦の遂行に当たって現地統帥機関の暴走が起こりがちであることも真理である。
160 しかし20世紀の戦争は作戦の集積にとどまらない。昭和戦前期は軍事部門だけでなく、政治部門でも、権力の統合強化が図られる。例えばこの時期にしばしば官僚批判が政治的課題となり、文官身分保障令の撤廃が盛んに主張されたが、その根本にあった理由は、国務大臣や高級官僚の任免権を首相が実質的に握れるようにすることであった。憲法55条が要請する「国務大臣単独輔弼」制のために、首相は閣僚の任免権を握ることが困難であったから、官僚の首を切りやすくすることで首相の権限強化に役立てていた。
このような時代に統帥権の法解釈を大きくすることは、同じ軍部の中でも陸海軍省の反対を受ける。
日本の陸軍の制度面での本家であるドイツで、「国家の中の国家」と言われた参謀本部も、総統兼首相であるヒトラーに統帥権を移譲せざるを得なかった。(1935年5月21日、国防軍法第三条)
第七章 反戦思想と徴兵忌避思想の系譜
1 はじめに
163 丸谷才一『笹まくら』は徴兵忌避者・浜田庄吉を通して国家と個人との関係――英雄でもあり、卑怯者でもある兵役忌避者の叛逆と自由と遁走――を描いた。(山村基毅『戦争拒否――11人の日本人』晶文社1987)
戦争は国家が自己の正義を主張するためにやむを得ずとる非常手段である。(本当か)そのために国家は兵士として国民を徴兵し続けなければならない。しかしカントは、「人を殺したり人に殺されたりするために一個の人間が国家に雇われることは、個人の人格における人間性の権利と調和しない」とする。(カント『永遠平和のために』岩波文庫)
*注3 1873年明治6年、徴兵令が初めて制定されたが、それは徴兵忌避を定義し、「受検・抽選の上で満20歳の壮丁が果たすべき3か月間の常備兵役義務を、不当な理由によって免れる行為」とする。
吉田裕「日本の軍隊」(『岩波講座 日本通史』第17巻)は徴集率の変遷を扱う。
菊池邦作『徴兵忌避の研究』立風書房1977は、徴兵忌避に関する豊富な統計、事例、資料を載せている。
2 非戦と反戦
164 教科書的には、内村鑑三のようなキリスト教徒がその人道主義的立場から戦争を否認する場合を非戦といい、社会主義者がその階級闘争的立場から戦争に反対する場合を反戦と言うようだ。徳富蘆花は「爾の武力を恃まずして、爾の神を恃め」と演説「勝利の悲哀」1906の中で言っているが、これは非戦論と言われ、幸徳秋水がトルストイの「日露戦争論」を読みそれに反対して書いた「トルストイ翁の非戦論を評す」1904は反戦論と言われる。幸徳秋水は戦争勃発の要因を資本主義制度に求め、資本主義社会を転覆して社会主義制度に変えることによって戦争を絶滅しようとする。
165 私(加藤陽子)は非戦も反戦もいずれも反戦思想とする。人道的・宗教的非戦も、体制変革を含めた戦争反対も反戦思想とする。両者の間に価値の差をつけたくない。
内村鑑三だけは、かつて同志であった社会主義者たちの思想を「外側から過激な手段で達成する反戦思想」とし、自己の「非戦」思想と区別した。一方幸徳秋水はいずれも非戦論としている。
3 良心的兵役拒否と徴兵忌避
良心的兵役拒否と徴兵忌避との関係は、非戦と反戦との関係に似ている。良心的兵役拒否の原語はconscientious objector である。クエーカー教徒は絶対に人を殺さないことを良心に基く信条としているが、そのクエーカー教徒などが戦争への参加を拒否することだけを良心的兵役拒否と言っていた。阿部知二は『良心的兵役拒否の思想』1969の中で、「良心的(兵役拒否)とは戦争を前にして身をかばったり徒に生命を惜しんだりする卑怯な態度は許されず、時には戦闘員に優る程勇敢でなければならない。そういうことが原則的にあるいは潜在的に約束されているある種殉教的な精神が内在している参戦拒否の形態である」とする。
166 それに対して徴兵忌避は消極的で退嬰的である。それは日中戦争から太平洋戦争期の忌避のイメージが大きいからだろう。日清戦争前に一般的であった忌避のやり方は、戸籍の抜け道という合法的忌避であったが、1940年には20歳の徴兵適齢男子10人につき7人が徴集されていた。小田切秀雄1972は減量して体を衰弱させ召集解除になった。
体重40キロになり、衰弱し、第二乙種合格となった。それでも召集されて入営したが、10日ほどの猛烈な訓練で痔が急に悪くなり、いやがられるのに耐えて病気申し立てを続けたら、牛込の陸軍病院で手術を受けられた。しかし二週間でよくなるのではまずいと思い、部隊が戦地に行ってしまうまで戻らぬように、二つの危険な方法をとることにした。
ここで私は良心的兵役拒否と徴兵忌避との区別はせず、いずれも徴兵忌避とする。それは平和思想や反戦思想の流れの全体をつかむためである。
4 本章の視角
168 鶴見俊輔は「兵役拒否と日本人」(『潮』1972年9月号)の中で、日本人の反戦思想は昔からあったのではないかとする。これまで欧米には良心的兵役拒否の伝統があったが、日本では少数の先覚者を除いてなかったとしている。ちなみにその先覚者とは田中正造、木下尚江、石川三四郎、北村透谷、内村鑑三、柏木義円らである。
鶴見俊輔は国家や政府を疑う権利を持つという発想が昔から日本固有の文化の中にあったとし、嘘をついてでも徴兵を忌避する苦闘を徴兵忌避の最も強い態度の一つと見なす。これが第一の視角である。
もう一つの視角は、総力戦の特質を分析し、日本には戦争をする資格がないとする合理的・説得的反戦思想が第一次大戦を契機に生まれたことである。日本近代史の中で合理的説得手法は妨げられてきたようだが、1944年1月、大政翼賛会の国民運動局戦時生活部長は以下の「二月の常会徹底事項説明資料」を配布し、常会で世話役に説明させていた。
戦争は莫大な消耗戦 大東亜戦争の戦線は1万5千キロ(日露戦争は2300キロ)もある。千キロの戦線で1年間攻撃するのに、機銃20万挺、歩兵砲1万6千門、…。飛行機は、偵察機1万6千機、観測機3万機、戦闘機3万6千機、爆撃機6万5千機を要すると言われている。…
外米の輸入をやめれば 仮に外米を1200万石輸入するとすれば、これに要する船は5千トンの船で約400隻ですから、この輸入をやめてその代わりにアルミニュームの原料であるボーキサイトを運べば、飛行機約8万台分の原料が運ばれることになります。
これは国民の食糧への渇望や不満を戦意発揚に転化させようとするものである。それと同様に第一次大戦後の平和思想も、日本の場合、論理的・合理的様相を呈していたのではないか。水野広徳や吉野作造は、平和や反戦の展望を語るよりもむしろ合理的で、戦争は経済的にも社会的にもまた犠牲からしても不合理であるとし、平和思想は長期的で激しい総力戦の後に必然的に生じるとしている。
5 はじまりの段階
170 1873年1月10日の日本最初の徴兵令は当時の米価騰貴と相まって、この年の半ばに福井、三重、岡山、鳥取などで、新政府反対の血税一揆をもたらした。前年の1872年11月28日に発布された徴兵告諭の中の「血税」という語彙が「誤解」されたのだが、それだけではなかった。牧原憲夫は『客分と国民のあいだ――近代民衆の政治意識』1998の中で、これまでは兵士に取られず、君主も仁政に心がけてくれていたのにという民衆の「後ろ向き」の怒り、客分意識から説明している。
『山梨県史 資料14 近現代1・政治行政1』1996によれば、
「徴兵に関して訛言(かげん、たわごと)がある。(1873年3月11日の)喩達が『処女を選んで兵隊に組み入れ、女の膏(こう、心臓の下、あぶら)を取って外国に遣わされる』などと言っていると流言し、そのためにわかに婚姻を結び、あるいは他方に身を隠すなど狼狽の所業があるようだ」
権令藤村紫朗は「人民保護のための政府が膏を絞るというような苛酷なことをするはずがない」と説明した。民衆にとって、命をかけて国を衛るという発想は唐突だったようだ。(民衆のどこが悪いんだ)
171 徴兵令導入後の一、二年は、明治政府にとって危険な年だった。佐賀の乱の鎮定に当たり徴兵による兵士では間に合わず、士族召集兵によって鎮台兵の不足を補った。また日清間に戦争の緊張が走った台湾出兵の1874年、民衆は一層徴集されることを怖がり、忌避熱が強まった(*注15)。苦労して徴兵制による軍隊をつくるのではなく、「士族を兵隊に」活用すべきだという議論が説得力を持っていた。忌避熱が徴兵忌避思想にまで発展しなかったのは、当時の民権家が民衆の忌避熱に冷淡であったからである。民権家にとって兵役は国民の義務であり、国家と憂楽を共にする気象の発現である、と考えられていた。(牧原憲夫『明治七年の大論争』1990)
この時期の徴兵忌避は戦争反対とは無縁であり、伝統的観念つまり社会構成員が職能によって国家社会の役に立つべきであるとの士農工商観からくるものであった。年貢と百姓役を納めていれば済んだ百姓がどうして国家の安寧を維持するために軍役つまり武士の役割まで負担しなければならないのかという考えから、徴兵令の免役条項を利用して盛んに忌避が行われた。
*注15 加藤陽子『徴兵制と近代日本 1868--1945』1996によれば、このころの徴兵令免役条項は、
・身長五尺一寸未満者、不具廃疾者
・官吏、医科学生、陸海軍生徒、官公立学校生徒、外国留学者
・一家の主人たる者、嗣子(しし、後継ぎ)、承祖(しょうそ、後継ぎの孫が父を越えて直接に祖父から家督を相続すること)の孫、独子・独孫、養子
・「徒」以上の罪科者
・代人料270円を上納した者は常備・後備を免役
徴兵忌避者への罰則規定の変遷
1879年明治12年改正徴兵令
・忌避への処罰は常律で裁かれる。
・徴集を忌避する者や届け出を怠った者は、翌年廻の者に先立って入営させる。
1883年明治16年改正
・懲罰的な徴集
・必要な届け出を出さない者や一定の時期に参集しない者について罰金(3円以上30円以下)
・詐偽によって徴兵を忌避した者には重禁錮と罰金(1月以上1年以下の重禁錮と3円以上30円以下の罰金)
太平洋戦争前の兵役法(1927年昭和2年制定)
・逃亡や詐偽による忌避は3年以下の懲役
・入営期日に遅れ10日を過ぎた場合は6月以下の禁錮(戦時では5日を過ぎた時に1年以下の禁錮)
・徴兵検査を受けなかった者は100円以下の罰金
6 日清・日露戦争による変化
172 国防つまり国家の安寧維持に対する民衆のこの冷淡な感情も、帝国主義列強の脅威の前に変化した。福沢諭吉は『文明論の概略』の中で「(国家の)独立を保つ方法は文明以外にない。今の日本国人を文明に進めること(目的)は、この国の独立を保つためだけである。国の独立が目的である」と述べた。政党や有識者の対外認識も「(日本)民族の独立の確保は、清・韓国に対する我が国の覇権的地位の確保と同義である」とし、日清戦争は、韓国の独立を擁護するための義戦、わが国の独立を守るための自衛戦争、開化と保守との戦争であるとし、こういう認識が自然に(民衆にも)受け止められていった。(岡義武「日清戦争と当時における対外意識」『岡義武著作集』第六巻1993)
反戦論は日清戦争後の日露戦争前から本格的に論じられ始めた。幸徳秋水は国民がいかに痛苦を忘れやすいかに関して演説した。(幸徳秋水「非開戦論」『幸徳秋水全集』第四巻1982、1903年6月18日の社会主義協会の演説会で、)
「日本人は日清戦争で苦しい経験をしたことをもう忘れてしまったようだが、あの戦争は朝鮮の独立を助け、支那の暴を懲らしめるというのが目的で、仁義の戦争であり、世の人が嘆美したものであった。しかし理屈の上からはこのように立派な戦争であったとしても、幾多の兵士はその犠牲となり、若い労働者の子、百姓の子は殺され、前途有望な身を以て国家のためにその楽しい生涯を捨ててしまった。…日本の国家は重大な損害を蒙ったのである。」
173 日清戦争の損害は、軍人軍属戦死戦病死者数が1万3488人、臨時軍事費が2億円超であった。1903年10月に、開戦論の立場を取った『萬朝報』から、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦が「朝報退社に際し涙香兄に贈りし覚書」をしたためて退社した。
幸徳秋水は社会主義者の立場から反戦を唱えた。幸徳秋水はトルストイの「日露戦争論」に対する反論として「トルストイ翁の非戦論を評す」を書き、トルストイが、「人々が宗教心を喪失したために戦争は起こる」としたことに失望し、「列国の経済的競争の激甚なるがために戦争は起こる、戦争を根絶するためには資本家制度を転覆して社会主義制度に変えるしかない」という展望を示した。幸徳秋水はトルストイが述べた「民衆は兵役を拒否し、租税を払う勿れ」という立場を認めず、「吾人は兵役の罪悪を認め、租税の苦痛を感ずるも、しかも是れは、吾人は、国民が組織せる制度の不良なるがために来るものなり」といい、だからこそ「国家組織・社会制度の改革によらなければならない」とする。幸徳秋水は官憲から弾圧され、思想界からも挑戦を受けた。
174 一方、吉野作造は「征露の目的」の中で、「吾人は露国の領土拡張それ自身には反対すべき理由はない。(膨張主義者)ただその領土拡張の政策が、常に必ず最も非文明的な、外国貿易の排斥を伴うから、猛然と自衛の権利を対抗しないわけにいかない」とする。(屁理屈)「ロシアが負けて日本が勝てば、ロシア国内の自由民権の勢力が増すから、ロシア人民の安福のために露国の敗北を祈る」(屁理屈)とし、戦争の必然を文明と通商自由の立場から支持した。
このころの徴兵忌避について 徴兵令の免役条項の抜け穴は、1889年明治22年1月22日の改正で法文上はなくなり、不具廃疾以外の免役は認められなくなった。しかしその(兵役忌避の)変種としての六週間現役兵制があった。菊池邦作は『徴兵忌避の研究』の中で、17歳から26歳以下で、官立府県立師範学校の卒業生で、官公立の小学校の教職にある者は、官費で6週間の入営訓練を受ければ、その後は実質上召集されることはない制度を指摘している。
日露戦争前のころの通常の兵役義務は、陸軍では、現役三年、予備役4年4カ月、後備役5年の合計12年4か月であった。この制度は1918年大正7年3月30日の改正で、6週間から1年に延長され、1か年現役兵制となった。
7 総力戦の後で
175 日露戦争の損害額は戦費総額18億2629万円で、うち内国債6億7200万円、外債8億円であった。その額は1903年の一般会計歳出2億5000万円の7倍超である。日清戦争前10年間の国家予算(一般会計)に占める軍事費の割合は平均27%、日露戦争前10年間のそれは39%であった。
1917年にフランスとの国境に面したベルギーの都市イープルは第一次大戦時の激戦地であったが、その3回目の戦闘では準備砲撃に18日間を要し、その間の砲弾数は428万3000発、その総重量は10万7000トンであった。これによって連合軍は115平方キロの土地を奪い返したが、1平方キロ当たりの死傷者数は8222人であった。
176 水野広徳や吉野作造はこの時期(第一次大戦)に積極的に反戦思想を展開した。水野広徳は『無産階級と国防問題』1929の中でこう述べる。「現代における国家の安全とは何か。領土的安全がめったな理由で脅かされることがもはやないとすれば、国家の不安材料は経済的不安だけである。外国との通商関係の維持が国家の生命となる。それは他国に対して国際的な非理不法を行わなければ保障される。現代の戦争は持久的経済戦である。物資の貧弱、技術の低劣、主要輸出品目が生活必需品でない点で日本は致命的弱点を負っている。武力戦に勝てても持久的経済戦には勝てない。日本は戦争する資格がない」とする。
「戦争が機械化し、工業化し、経済力化した現代で、軍需原料の大部分を外国に仰ぐ他力本願の国防は、外国の傭兵に依って国を守ることと同様であり、戦争国家としては致命的な弱点である。このような国は独力戦争を行う資格に欠けていて、平時にどんなに海陸の軍備を張っても、畢竟砂上の楼閣にすぎない。」
つまり、英米に対する軍備は無意味であるという結論となる。
177 一方吉野作造は平和の大事さを語るというよりは、第一次大戦の性格に内在する原因から、国家間の協同状態、つまり平和が来るという発想であった。
「帝国主義的文明の波状であった今度の戦争は、軍事行動を共にすること自体において共働の精神を発揮し、これが戦前における世界人類の良心の煩悶に適応し、戦いの結果、国際主義が現れざるをえなかった。」
つまり長期的に多数の国が連合して戦うことは、戦争目的を単一の抽象と化する、そこで連合精神が得られ、平時には平和に向けた国際主義精神となるというものである。
総力戦になるほど国家が国民に強いる犠牲も大きくなる。国家は国民の自発的協力を喚起し、国民の政治参加を認めざるを得なくなる。国民の意思が反映されやすい政治形態は、平和を求めるようになる。吉野作造はこう語る。
178「戦争も軍人と金持ちの力に拠る間は楽なものだが、それだけでは間に合わなくなり、国民総動員が仮借なくやってくる。そうなると戦争は一般国民の仕事になり、国家当局者は労働者の前に膝を屈しなければならなくなる。
吉野作造は総力戦が国際主義と国民の政治参加をもたらすという。
一方吉野作造は日本社会に根強く見られる、徴兵忌避を容認する気風を排除すべきだとする。西洋では兵役は国民の義務だとする意識が強く、国家も兵役終了者に精神上・物質上便宜を図る。フランスでは兵役の義務を終了した者でなければ国会議員になれない。日本の軍部も、国民が兵士なって失業し、生業や学業に支障を来す制度を改善すべきであると提言した。
179 吉野作造は日本の兵役制度が貴族や富豪の子弟の事実上の兵役拒否を黙認していることを批判した。その批判の対象は「32歳まで海外にいる者は服役を命じない」という制度である。吉野は「上流階級は国民の先達であるべきではないか」とした。
1918年3月30日の改正で、外国にある者の(兵役)猶予は、「20歳前から外国にあるものに限る」ことにし、それまで28歳まで徴兵検査さえ猶予されていた中等学校やそれ以上の学校に在籍する学生の猶予制も廃止し、検査は全員が満20歳になったら受け、合格者には(中等学校などの)卒業まで入営を延期(猶予)することにした。
陸軍当局が徴兵令(1927年から兵役法)改正によって、外国留学の者や在学中の者に対する規制を次第に強めた結果、徴兵忌避者数は1912年に4047人だったが、1932年には459人に減少し、逃亡か詐病に限られるようになった。
感想 2023年7月8日(土) 加藤陽子「戦争は国家が自己の正義を主張するためにやむを得ずとる非常手段である」163や、「民衆にとって、命をかけて国を衛るという発想は唐突だったようだ」170に関して私は違和感を覚える。加藤陽子は国家主義者だ。私は国家など認めたくない。
第八章 徴兵制と大学
感想 この章を読んで親父が生前いかに学歴にこだわっていたかが分かった。今の警察のキャリアとノンキャリアとの差別待遇が想起される。ノンキャリアはいくら努力しても頭打ち、一方キャリアは最初からノンキャリアよりはるかに(戦前の軍隊の場合7等級)上の位から出発する。それを決めるのが中等学校以上の学歴である。軍隊ではお金持ちで頭がいい者が支配する制度が敗戦まで続いていた。命も育ちと金次第。
また前章で師範学校卒の小学校教員は6週間(1918年以降は1年)の入営訓練で兵役免除になるということも、親父の頭の中にあったのかもしれない、それについては聞いたことがないが。
お金持ちのお偉い方々(経済力・学力)は、戦前では国家組織の中で厚遇されていたが、それはそのまま戦後に引き継がれているはずだ。これは日本社会の保守性を維持する上での重大な要因となっているのではないか。
1 学徒出陣組のなかでの不協和音
184 某東大教授がこう言った。「1968年から69年にかけて東大の各学部の教授グループが『紛争を受け止めきれなかった』(学生の闘争を拒否した)理由の一つは、教授たちの若いころの軍隊経験の差(優遇)から来る『しこり』があったのではないか。同じ学徒出陣組でも、陸軍少尉として敗戦を迎えた人と、一等兵で迎えた人とでは、その経験した内容に決定的な差があり、同世代という同輩意識は希少なのではなかろうか。」
185 徴集兵、召集兵、飛行予科練習生などの志願兵と、学徒出陣組との差異や対立ばかりでなく、学徒組の中でも、対立や亀裂が深かった。学徒組だけに与えられていた特権を行使した人間と、それをあえて拒絶した人間との間に大きな溝があったはずだ。
軍隊の中で少しでも苦痛を減ずるための方法は、上の階級になることである。陸軍の幹部候補生制度(幹候)は中等学校以上の卒業生に開かれていたし、海軍の予備学生制度は専門学校、高等学校、大学予科、大学以上の学生たちに開かれ、すぐさま予備少尉に任官できた。
このような資格のない大部分の青年は、徴兵検査を経て、例えば歩兵になって年功を積み二等兵、一等兵、上等兵、兵長で止まり、その上に、伍長、軍曹、曹長という下士官の階級があり、その上は特務曹長という準士官がある。将校である少尉は準士官の上であるから、一等兵から見れば七つ上の階級である。海軍でも二等水兵、一等水兵、上等水兵、水兵長、そして下士官である二等兵曹、一等兵曹、上等兵曹、そして準士官である兵曹長と続き、この上が少尉である。
大学生という学歴の特権を持つ人間はごく少数の青年であった。大学生と一般の青年との軍隊での階級差は七、八階級であった。学歴を欠いた青年は、(選択時の)本人の意志は問われなかったが、陸軍の幹候や海軍の予備学生になる資格がありながら、あえて幹候や予備学生の試験を受けなかった人もいるし、一方では何の疑問も持たずに筆記試験を突破して幹候や予備学生になった人もいた。おなじ友人である。また多く見られた場合として不合格になった人もいた。試験には軍人勅諭や操典類の暗記が必要だった。「勅語、忠節の項を謹記せよ」「軍紀とは何ぞや」「マーシャル群島の島の名を三つ書け」などの難問が出された。
陸軍の場合中等学校以上の学校に在学し、教練の合格証があれば、入学後に幹候を志願することができた。1943年12月の学徒出陣組の場合、候補生に志願し、筆記試験に合格すれば、三か月後の1944年3月に幹候(甲種)となり、同年末に教育を完了して見習士官に任官し、後に予備役少尉になった。
東大は大学としての教練合格証をすぐ与えた。一等兵のまま終戦を迎えた人は幹候を志願しなかったか、あるいは志願したが、筆記試験で不合格になったかである。ただし、林健太郎は1944年12月1日に横須賀の海兵団に31歳で召集された。年齢的に幹候や予備学生制度の埒外で、予備将校になる資格がなかったのである。
幹候試験の合格は難しかった。福中五郎は早稲田大学政経学部在学中の1941年1月に入営し、1945年2月に戦死したが、その書翰によれば、
「僕の隊には初年兵53名中、幹候の有資格者が21名いる。…21名の有資格者中、約10名が入隊前にすでに勉強している。…幹候生だけを集めて度々素養試験をやるが、いつも僕は惨敗だ。」
福中の属する中隊の1940年度の幹候の試験結果は、有資格者12名中2名だけが合格だった。
海軍では1934年に予備学校制度が設けられ、大学、大学予科、高等学校、専門学校の学生や生徒に予備将校への道を開いた。徴兵検査の時に海軍を希望*し、入隊後の試験に合格して採用されれば、1年間の教育後、兵や下士官の階級を経ずに予備役海軍少尉として任官された。在学中の教練の合格証が不要で、兵の階級を経ないことなどが、学生の間では幹候よりも人気だった。*黙っていれば陸軍へ配属された。
2 学徒兵に期待されたもの
・隼(はやぶさ)、疾風、零戦、彗星などの特攻機搭乗員や、回天などの水中特攻兵器の操縦者
・軍の速成教育体系の中での普通学教官
・下級指揮官
・経理部将校
2・1 操縦者
188 学生は陸海軍の飛行機搭乗員として、また特攻兵器の操縦員として戦死した。『きけ わだつみのこえ』に75名の戦没学生の遺書や手記が収録されているが、そのうち明らかに飛行機による特攻で戦死した人が14名、人間魚雷回天に搭乗して戦死した人が2名いる。
他に、明治大学政治経済学部から1943年12月9日に佐世保海兵団に入団した藤野正之は、航空隊日誌を遺して戦没した。その日誌によれば、同年12月12日、航空隊志願者の適性検査、同月15日、学科試験、翌年1944年1月26日、予備学生合格。2月5日、「士官服を着て短剣を吊ると、今更の如く身の変化に驚き」とあるが、3か月間の適性検査や学科試験を経て見習士官が速成される様を記述している。
189 陸軍での操縦関係予備役将校の補充 陸軍は海軍に志望者が片寄るのに対抗して、1943年7月、特別操縦見習士官制度を創設した。本制度は操縦要員予備役将校の確保のために創設され、師範学校、専門学校、高等学校、大学に在学した者を対象に、入隊の初めから曹長の階級を与えた。兵を経なくてもよかった。
土田直鎮は後に日本古代史研究者となるが、1943年10月、東大文学部国史学科に入学し、翌1944年5月、熊谷陸軍飛行学校に入隊した。土田はこの陸軍特別操縦見習士官(特操)の三期生として訓練を受けた。そしてガソリン不足による飛行停止のために、台湾の第九師団歩兵第七連隊小隊長として敗戦を迎えた。特操の訓練は海軍同様淘汰の連続だった。その手記によると、
「最初は離着陸の練習。一人一日の搭乗時間は合計30分くらい。早い者で1週間以内に、遅くとも2週間以内にほとんどの者が単独飛行に移る。3週間経っても単独に出られないと、文句なしに失格。そのほか頻繁に教官が同乗し、技量の進歩が思わしくない者、自動車で言えばアクセルとブレーキを踏み間違えるような失策をした者は、容赦なく操縦停止が命じられて失格となる。失格者はケッチンと称され、最大の恥辱であった。ケッチンにひっかかった者は、第九連隊と称する区隊にプールされ、地上勤務に回される。
190 この有資格者が操縦要員の養成を行った。
高木惣吉は1944年3月から海軍省教育局長を務めたが、その史料によれば、高木は砲術、水雷、航海などの学校当局者の予備学生に対する評判を記録している。3月7日の日記に「予備学生の学力が劣等で素行が修らない者が意外に多く、砲術学校では500名中、普通学力の劣等な者が150名、航海学校では336名中100名、健康、人物、学力のいずれかで予備学生を免ずる必要のある者が、砲術学校で8%としている。
2・2 軍の速成教育体系の中での普通学教官
前述の高木惣吉は1944年8月10日の日記に「学生400名に対して教官1名の割合では不十分であり、最小限、学生250名に対して教官1名の割合にまで充実する必要がある」としているが、これは 予備学生の教育の成果が思わしくない理由の一つであった。これを解消するために予備学生の出身者で見習士官や予備少尉になった者の中から優秀な者を教官として採用したと思われる。
191 『戦中戦後に青春を生きて』は、1941年4月に東大文学部東洋史学科に入学した20人の動静について同期生が編集したものであるが、この20人のうち、護雅夫、鈴木壽、中村達、布目潮渢、谷川精之助、山田信夫の6人は、海軍予備学生として江田島の海軍兵学校に入った。彼らは本来1944年3月卒業のはずだったが、1941年10月16日に「大学学部等の在学年限又は修業年限の臨時短縮に関する勅令」の公布によって6か月短縮され、1943年9月に繰り上げ卒業させられた。
6人は卒業直後の1943年10月に海兵に入り、翌年1944年の初めから予備学生の身分のまま普通学の教官になった。鈴木は三重航空隊で数学を、護は兵学校で平泉澄の『皇国護持の道』を使わされて国史の講義を行い、布目は美保海軍航空隊で数学を教えた。未だに実質的な徴集猶予の特典のあった理系の学生は求められなかったのである。
尾藤正英は後に日本近世史の研究者となったが、東大文学部国史学科から1943年12月に学徒出陣し、1945年1月、見習士官のまま(普通学の教官ではなく)教育隊の教官として赴任した。曰く、
192「この部隊(吉林省西部の公主嶺にあった第二航空軍第一航空教育隊)は、全満洲の航空地上部隊の教育を司り、通信、整備、写真、気象などの部門を持ち、専門教育以外に飛行場防備のための戦闘訓練もある。通信技術はともかく、野外の戦闘訓練などはろくに身についていないのに、にわかに教官になったので弱った。軍隊の成績も案外に筆記試験で決まるらしく、そのため柄になくこういうところに配置されたのだろう。」
2・3 下級指揮官としての役割
東大十八史会は文学部国史学科に昭和18年に入学した者でつくる会であるが、本会幹事の蜷川壽惠が著した「学徒出陣の検証」は、太平洋戦争開戦二年後に学徒出陣が命じられた背景として、中国大陸から南太平洋まで広がった戦線で第一線に立つ下級指揮官(小隊長クラスの下級将校)の激しい消耗に対する措置を講じる必要性を指摘している。この部分を士官学校卒の将校によらないで補充する必要があったのである。
(保守系評論家のWiki)山本七平1921—1991は、青山学院高等専門学校を繰り上げ卒業1942.9し、1942年6月(Wikiでは10月)に徴兵検査を受け、その後幹部候補生となり(合格)、陸軍砲兵予備少尉としてフィリピンで敗戦を迎えたが、自らの体験を『一下級将校の見た帝国陸軍』の中で詳述した。山本は1943年2月に豊橋第一陸軍予備士官学校に入校し、同年12月に卒業し、翌年1944年5月30日に門司を出港し、6月15日にマニラに上陸した。ルソン島北部のアパリからサンホセ間の五号道路周辺で砲兵少尉として一年以上米軍の猛爆に耐えた。山本が属した部隊は、戦死者のほとんどが餓死によるものといわれた比島派遣第十四方面軍であった。
193 陸軍は海軍に対抗するために特操(陸軍特別操縦見習士官制度)を創設した189が、航空以外の分野でも1943年12月に特別甲種幹部候補生制度を創設した。これは師範学校卒業者、専門学校・高等学校・大学の一年以上の在学者だけを有資格者として、採用と同時に伍長とし、予備士官学校で一年間教育し、見習士官を半年勤め、予備役少尉とした。一般の幹候は二等兵から始めたので、有資格者にとっては海軍並みに有利な制度と映った。
2・4 経理部将校、主計科士官
陸軍の場合、経理部は主計・監査・衣糧・建築を管掌していた。1926年に経理部見習主計制度が創設されたことにより経理部と大学生との関係が深まった。この制度は大学令による大学の法学部、経済学部、商学部の学課を修めて学士となった者、または在学中の者で陸軍経理部依託学生になった者、を見習主計として採用し、8か月間陸軍経理学校で教育を受けさせ、経理部士官にした。
この制度に加えて、日中戦争開始後は、多数の初級経理官を養成するために、1939年9月、陸軍経理学校で、幹部候補生出身者の一部に集合教育を開始した。
学徒兵に関係するものは、1934年12月の経理部将校補充臨時特例によって、大学に1年以上在籍した者を、経理部見習士官に採用する制度が設けられた。
194 海軍の場合は、予備役の将校相当官の一つとして、1938年に、主計科の短期現役士官制(短現)を設けた。専門学校・大学卒業の志願者から採用し、海軍経理学校入校とともに直ちに海軍主計中尉に任じ、二年間現役に服させた後に予備役に編入した。
小泉信吉(小泉信三の子息)は1941年8月に海軍経理学校に入校し、第七期補修学生として4か月間教育を受けた。(『海軍主計大尉小泉信吉』)
経理将校は学徒出陣した学生の中でも多い。「東京大学における学徒動員・学徒出陣調査報告書」(東京大学史史料室)によれば、1943年12月に入営した学生数の在籍数に対する割合は、法学部と経済学部で64%、文学部で32%であった。この学部間の差は、法経学部学生は陸軍経理部や海軍主計科の予備将校として補充されたことによるのだろう。
*法経学部だけでなく文学部でも、特権を利用して軍事的貢献(入営)をした学生が多かったことに驚く。
曾村保信(政治学者・岡義武の教え子)の回想によれば、昭和22年、23年度に東大法学部を卒業した卒業生は毎年一回同窓会を行ったというが、その理由はこの年度の卒業生のうち200名が在学中に一度に海軍経理学校12期補修学生として採用されたからである。また、海軍短期現役主計科や陸軍経理学校の同期会による回想が相当数ある。
3 近代兵制の中での学生の位置づけ
195 陸軍が学生たちを予備将校要員として育成する必要に気づき始めた第一次大戦後から学徒出陣までの徴兵関連法規における学生の位置づけについて以下述べる。
3・1 1918年大正7年3月30日の徴兵令
第一次大戦の教訓は長期的総力戦では下級指揮官の損耗補充が死活問題となるということであった。陸軍臨時軍事調査委員『欧州交戦諸国の陸軍について』は、戦時の召集総員数が平時兵員数の21倍(イギリス)や14倍半(ドイツ)となったと指摘している。(欧州での)高等教育を受けた者の軍隊への積極的吸収や、徴兵適齢に達する前での青年教育の実態などは、(日本の)1918年3月30日の徴兵令改正では、特権の廃止つまり均質化の方向となって現れた。
第一次大戦期に陸軍は、高等教育を受けた者を戦時に召集できるような予備将校として育成して行くことの必要性に気づき始めた。この時期の改正によって中等学校以上の在学生の猶予制が全廃された。それまでは徴兵検査さえ猶予されていたのである。とにかく適齢に達した者には全員検査を受けさせ、合格者に対しては学校のレベルに応じた年限だけ入営を延期する入営延期制に変更した。
196 彼ら(中等学校以上の在学生)には一年志願兵制に志願する資格があったので、徴兵検査を受けて一年志願兵として入営するまでの期間、陸軍は彼らを在郷軍人として把握できた。学生は入営するまで、身分異動届などの提出が義務付けられた。志願した学生は納付金108円を納め、一年間現役に服して在営し、勤務演習召集に服して見習士官を命ぜられ、在郷期間二年後に予備役少尉になることができた。
3・2 1927年4月1日の兵役法
前述の(身分)異動届は滞りがちだったが、陸軍は違反者を処罰できなかった。今回の改正は1918年以前の猶予制と1918年の入営延期制とを折衷し、学校の修業年限に応じた徴集延期制に変更した。
この制度では、予備役将校の養成を、補充制度と見なして、兵役法から削除し、勅令である陸軍補充令の中に入れた。徴兵令や兵役法は勅令ではなく、法律である。1933年の陸軍補充令の改正によって、一年志願制度の名残ともいうべき納金制が廃止され、(高学歴の)有資格者も、一般兵と同様の教育期間を一定期間経るようになった。
3・3 1939年昭和14年3月9日の兵役法
この改正兵役法に第44条「戦時又は事変に際し、特に必要ある場合においては、勅令の定めるところにより、徴募を延期しないことができる」が加えられたが、これは学生の本格的徴集の予兆であった。また徴集延期の最高年齢がこれまで満27歳だったのを1年下げて26歳にした。26歳は医学部学生の場合で、他の学部学生は25歳とした。
陸軍省兵務局長の中村明人は、帝国議会貴族院委員会でその改正理由を説明した。「中・少尉級の最も重要な下級幹部の大部は、幹部候補生出身の将校に俟たざるを得ない状態であり、なるべく幹部候補生の程度を、年齢を低下して若い年齢の者を採りたい」「一年でも一人でも若い者を幹部候補生に包容するということが理論上適当である」
前年の1938年、幹部候補生の教育期間を一年から二年に延期していたので、学生を一年早く取りたかったのである。
しかしそれぞれの学校の段階によって猶予の最高年齢を一、二年下げること(の実際的意味)は、中学校では22歳から21歳に、高等学校では25歳から23歳に下げたことを意味し、これは、病気や入学試験の激烈さによってやむを得ず在学期間を延長せざるを得なかった者にとっては苛酷ではないかという意見も出された。
198 例えば、「東京帝国大学制度臨時審査委員会」に「改正兵役法に関する件 昭和14年11月27日可決」が収録されているが、そこでは、「今回の改正によって就学途上に入営しなければならなくなる学生が700名に達する」現状を訴え、「制度の修正又は実施上の手心により、かかる学生になるべく就学完了の機会を与えるよう、関係当局において適宜工夫されんことを希望す」と決議された。
この時期は高等学校の入学資格に中学校卒業の要件を入れた、制度の移行期に当たっていたこともあり、完全に停滞なく進んでも、卒業予定年齢と徴集延期年齢との間に一年の余裕しかなかったことが、この決議の理由として挙げられている。
3・4 1941年昭和16年10月16日の兵役法(勅令)
これはこの年1941年の11月に開会するはずだった議会を待たずに緊急勅令で改正された。改正内容は兵役法付則の第四項を削除することだった。その第四項とは「1939年12月1日の時点で中等学校以上の学校に在籍していた者には兵役法第41条を適用しない」というもので、この削除によって徴集延期期間の短縮や停止が勅令によってなされた学生が生じることになった。
199 緊急勅令は枢密院の審議を経なければならなかった。顧問官の清水澄は東条英機首相に改正意図を質した。これに答えて東条は「作戦並びに士官学校における生徒養成の関係上、軍幹部要員の不足が最も顕著なるは、昭和17年1942年下半期から同18年1943年上半期である」とし、「その年1941年の12月の徴兵検査を新しい方針で実施するためには、徴集手続きを遅くとも10月に始める必要がある」ことを議会の審議を待てない理由に上げた。
この改正によって大学・専門学校在学者で1942年3月卒業予定の者を対象に、1941年12月に第一回全国臨時徴兵検査が行われ、同じく1943年3月卒業予定の者を対象に1942年4月に第二回の臨時徴兵検査が実施された。第二回の受検者4万9939人のうち、陸軍現役2万9705人、第一補充兵8857人、計3万8562人が徴集された。ちなみに第一回は3万3413人であった。この時どれだけの兵員をとるかという徴集率の計算は、この時期の一般の徴兵検査の徴集率76%で計算された。この二回に渡る臨時徴兵検査で入営した者は、狭義の意味では学徒出陣とは呼ばれないが、軍の中で期待された役割は同じだった。
注1 徴兵とは志願ではなく国家権力によって現役又は補充兵役につかせる行政処分。召集とはすでに兵籍のある帰休兵・予備兵・補充兵などを、戦時・事変・平時教育などの折に軍隊に編入する措置を言う。
学徒出陣は狭義には1943年昭和18年10月2日に公布された「在学徴集延期臨時特例」によって、高等教育機関に在学する学生・生徒の徴集延期が停止され、文科系の学生を中心に、徴兵適齢に達した者が、徴兵検査の後、同年1943年12月に一斉に入営・入団したことを指す。
第九章 敗者の帰還――中国からの復員・引揚問題の展開――
感想 2023年6月18日(日)
日本人はこの当時も中国国民党に与し、共産党はのけ者にしていたようだ。イデオロギーか。
米国の東アジア政策 終戦直後米国民は米軍の中国からの速やかな撤退を望んでいた218ようだ。また米国は中国の国民党と共産党との対立関係で当初は中立方針だった217ようだが、軍部あるいは国務省の判断か、国民党の要請を受けいれ、米海兵隊を中国本土に残し、日本軍不在後の北部空白地帯への国民党軍隊輸送依頼を受け、それを手助けする方針に変更する。221そしてこのころから「民主化」222とか「太平洋の平和」222など、今日でもおなじみの表現を使っている。
加藤陽子は日中米が関連する船舶手配でのアメリカの采配に拍手しているが、お人よしではないか。本来は日本側が要求したように婦女子や病人を先に帰還させるべきだったと思うが、アメリカは自国の軍隊を早く帰還させろという国内の要望が強く、それを優先するために日本の軍人を先に帰還させた。
1 はじめに
203 海外在住の日本人の数は戦後のバブル経済絶頂期でも戦前の数に及ばない。
204 敗戦時に海外にいた日本軍人は367万人(陸軍330万人、海軍37万人)、民間邦人・居留民は321万人、合計688万人であった。当時撃沈を免れた日本船は42万総トン。十分な燃料もない。日本政府は1945年8月末(8/31)の段階では外地民間人の帰還をあきらめ、現地定住を方針としていた。
しかし実際は1945年11月ころから軍人の復員と民間人の引揚が軌道に乗り、4年後の1949年12月31日までの帰還者数は624万人で、90%が帰還した。ソ連管轄下(満洲、北緯38度線以北の朝鮮、樺太、千島)での(非人道的)抑留は例外としても、中国管轄下(満州を除く中国、台湾、北緯16度線以北の仏印)からの帰還者の一定地点への集結から帰国までの死亡率はわずか5%であり、これは戦時中の日本軍の残虐な行為を考慮すれば驚きである。
太平洋での武装解除は、食料と医薬品を手当する救助活動であったろう。
205 中国には120万人の日本軍が無傷で温存されていた。終戦時の中国は、奥地を中心とする国民党の支配地域と、華北全体と長江の中下流域の日本軍占領地域とに二分され、日本軍占領地の内部に共産党の抗日根拠地が建設されていた。
この時点での中国の正統政府である国民政府が日本軍の降伏を受け入れて武器を接収するにしても、奥地からの進駐に時間がかかり、共産軍側に先を越される場合も出てきた。アメリカは国共内紛に立ち入らずに日本軍の大陸での影響力をできるだけなくすことを望んでいたと推察される。
次の疑問に基づいて論稿を進める。
・日本側に復員・引揚の方針はあったのか、あったとすればそれはどんなものか。
・連合国特にアメリカの方針はどんなものか。
・帰還業務の執行は米中でどのように分担されたか。
・GHQ・SCAP(連合国最高司令部)と日本側の連絡はどのように行われ、方針はどのように執行されたか。
・現地で中国側(中国戦区中国総司令部)と日本側(中国戦区日本官兵善後連絡総部)とはどのように連絡を行い、方針はどのように執行されたか。
(論稿の)対象を中国からの帰還に限定した。中国からの復員・引揚数は全体の三割を占め、単独の地域的まとまりでは一番数が多い。日米中の折衝過程に関する史料は少ないが存在する。
2 日本側の決定機構と引揚方針
206 1945年8月16日午後4時、「停戦の大命」が東京から発せられた。この「大命」は太平洋や大陸各地の日本軍に伝えられ、支那派遣軍の場合、末端部隊に届くまでに6日間を要した。
陸軍では8月18日の「帝国陸軍復員要領・同細則」によって陸軍総復員の方針が示され、海軍では8月21日「第一段解員指令」が発せられた。「陸海軍復員に関する勅諭」の下賜は8月25日であった。これらの措置は在マニラ連合国最高司令部が日本側に手渡した降伏文書の内容*を実行に移したものである。*帝国軍隊の無条件降伏、武装解除を命じ、降伏相手の地域分担を明らかにした。
最高戦争指導会議は小磯内閣の時につくられ、鈴木内閣下の時にポツダム宣言受諾を決定したが、東久邇宮内閣のときの8月22日に廃止され、同日、最高戦争指導会議とほぼ同じ構成員の「終戦処理会議」(以下「処理会議」)が設置された。その構成員は、首相、重光外相、下村陸相、米内海相、近衛国務相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長であり、今回、副総理格の近衛が新しく参入した。
「処理会議」は終戦に関する重要事項を審議し、その決定を閣議で確認し、最終的な決定としたようだ。「処理会議」の下に実働部隊として「終戦事務連絡委員会」(以下「連絡会」)が置かれた。
207 「連絡会」のメンバーは委員長に内閣書記官長・緒方竹虎、副委員長に参謀次長・川辺虎四郎、委員に内閣総合計画局の毛利英於莵などをはじめ、各省から局長級を集めた。陸海軍からは軍務局長を集めた。「処理会議」と同様に国務と統帥を連携した。
「連絡会」の下に「終戦事務連絡委員会幹事会」(以下「幹事会」)が、各省の課長を集めて頻繁に開かれた。
処理会議――連絡会――幹事会
8月30日、マッカーサーが厚木に到着し、9月17日、第一生命ビルに総司令部が移駐し、10月に日本政府の外交機能が停止された。権力の空白期間を以上の三機構が担った。
9月5日、「処理会議」は「軍事機密 外征部隊及居留民帰還輸送に関する件」の中で以下の通り復員・引揚の方針を決定した。
・現有稼働船腹の大部分を帰還輸送に充てる。
・居留民の還送順序として満鮮支那を優先する。
・連合国から船舶を借用する
そして参考書類として9月3日付「外征部隊及居留民帰還輸送処理要領(案)」が添付されている。
・帰国輸送の重点を先ず大陸、特に支那及満洲に指向す。
・遠洋航海可能船舶は28万総トン、近海航海可能船は14万総トン、合計42万総トン。
・輸送すべき軍人と居留民はそれぞれ363万人、461万人、合計824万人
8月31日の「処理会議」では居留民の現地定着方針がささやかれていたが、これはそれからの転換である。この変化の要因は、9月3日に重光外相とマッカーサーとが会談し、引き揚げのためなら日本船の封鎖状態を解いて、修理を加えて使用してよろしいとされたことがある。
もう一つの要因は、中国にいた谷正之公使が、8月25日、重光外相に「支那の出方に拘わらず、在留邦人の大多数は今次停戦の結果、その居住家屋及職業を失う結果、引き揚げが止むを得ない」と電信を送っていたことである。これ以前重光は谷に「在留邦人は原地在留を本則とする」と知らせていた。
209 9月5日の決定は9月7日の閣議で了承された。
9月18日に「幹事会」が出した「海外部隊並びに居留民帰還に関する件」の方針は、
・海外部隊と海外居留民は極力海外に残留させる。そのために生命・財産の保障に努める。
・帰還すべき者に対しては速やかに配船し、帰還に必要な措置をとる。
これは9月24日の「次官会議」で承認された。これは9月5日の決定よりも後退しているように見えるが、その後の日本側と総司令部との折衝をみると、一時的な残留を覚悟しても、将来的な帰還を目指す方針に変わりがなかったことが分かる。
9月18日の「幹事会」の報告・決定は、
・帰還輸送用燃料月当たり6千トンをアメリカに要求。(翌日アメリカが了解)
・引揚の順序は以下の通り 医療設備のない地方→南方自給不可能地→南方・ニューギニア→中国。ソ連管轄下の北鮮・満洲・千島の引き揚げは許可があり次第配給。
・アメリカ側は配船の4割をフィリピンに向けるよう命令。
最後の項目は、敗戦の日本軍をフィリピンから早く帰還させないと在フィリピン米軍の動員解除が遅れるからのようだ。
9月15日の「幹事会」での報告・決定事項は以下の通りである。
・経済科学部長のレイモンド・C・クレーマー大佐などは「民生の確保が先決、満洲での1万人の餓死と日本での1万人の餓死ではどちらが重要か」と言って、運航可能な42万総トン中、26万総トンを帰還輸送に使うという日本側の計画に反対した。(意味不明。帰還用の総トン数が多すぎるということか。満洲在留者よりも日本国内の民生を重視せよということか。)
・海軍省軍務局一課に運航班(正式には「海軍省軍務局艦艇運航班」)を設置し、引揚用日本船舶の管理に当たることになった。
210 アメリカ側には「燃料を供給するから早く運航せよ」という、クレーマーの意見とは対立する意向もかなりあった。
米総司令部の組織が整っていない間は、日本側の「連絡会」や「幹事会」がほとんどの方針を決定し、それをアメリカ側の代表者と折衝したのだろう。しかし引揚順位は満鮮支那の居留民を第一にするという日本側の提案は受け付けられなくなった。(209頁の医療設備のない地方→南方自給不可能地→南方・ニューギニアを第一順位とする9月18日の幹事会の報告・決定はアメリカの意向の反映らしい)また米総司令部は日本国内の民生を重視したのに対し、日本側は引き揚げに固執した。
「処理会議」、「連絡会」、「幹事会」は日本国内の意思決定機関であり、米総司令部との連絡機関は外務省の「終戦連絡中央事務局」(8/26設置)であった。
その後それは「外務省の独占だ」とする不都合が指摘され、各省事務の連絡を緊密にすると謳って重光外相に反発する動きもあったが、結局1945年10月1日、外務省管轄下に、「終戦連絡事務局」が置かれ、その在東京組織の「終戦連絡中央事務局」(8/26設置の同名の事務局と同じらしい)が総司令部との連絡に当たることになった。「終戦連絡事務局」は、総務部、第一部~第五部からなる。そして「連絡会」や「幹事会」は9月いっぱいで開催されなくなり、同様の機能を持つ「終戦連絡各省委員会」が10月から開催された。
211 「処理会議」期の日本側の方針決定で注目すべきことは、帰還方針を比較的早く決定し、損傷船の修理・建造中の船舶の工事続行を最重要課題とし、関係各省が運輸省をバックアップしたことである。それは次官会議書類「九月十七日 船舶造修能力の回復に関する件」や、内閣官房総務課資料「終戦時における運輸関係実施事項報告」などの史料から裏付けられる。例えば、9月1日から10日のあいだに、45隻、9万総トンの修復が完了した。
感想 2023年7月10日(月)
この論稿で扱われている日本政府決定の時系列に注意してみると意外なことが分かる。1945年8月18日に陸軍軍人の復員が決定され、8月21日には海軍軍人の復員が決定されたが、民間人の帰還については、8月25日に谷正之・駐中国公使に「戦争の結果、民間人の現地在留は家も仕事もないから無理だ」と指摘されながら、その指摘を無視して8月31日「在留邦人の現地定住」の方針が決定されたことだ。日本政府は民間人には冷たい。在外民間人は当時321万人(or 461万人)いたというから、全て見殺しだ。筆者はこの決定を「日本政府が民衆に遠慮して、ささやかれていた」と言うが、遠慮どころか公言していたのではないのか。このことは8月18日段階の岡村寧次・支那派遣軍総司令官の方針だった。225
その後どういう経緯で9月5日の民間人帰還方針に変更されたのか詳細は分からない。さらにその民間人帰還への方針変更も、9月18日には再び「できる限りの残留方針」が残され、4年後の1949年末でも、軍人を含めた数字だが、90%、624万人が帰還できたとのことだが、うち軍人が367万人だから、民間人で帰還できた人は257万人であり、その帰還率は257/321=80%(or 257/461=55.7%)となる。55.7%だとすると、1949年時点で、204万人の日本人がまだ帰還できなかったことになる。
3 日本側と連合国最高司令部との折衝
1945年10月2日、米総司令部が発足した。主に参謀第三部G3が復員・引揚を担当したが*1、その他に参謀第二部の日本連絡課や米太平洋艦隊の日本船舶管理部も関わった。*2
*1荒敬『日本占領史研究序説』柏書房1994
*2引揚援護庁長官官房総務課『引揚援護の記録』1950
日本側の窓口は先述の「終戦連絡中央事務局」CLOであった。その中の第三部第二課が帰還に関する海運を、第五部第二課が在外邦人の引揚を担当したが、実際は海軍省軍務局の艦艇運航班などが配船計画を実行した。終戦連絡中央事務局の担当各部が受け取った覚書は、終戦連絡各省委員会(以下、「各省委員会」)210を通じて各省庁に渡された。
212 以下の論稿は、外務省外交史料館所蔵のマイクロフィルム「太平洋戦争終結による在外邦人保護引揚関係」K’0001所収の「二一、二、一 在外邦人保護並びに引揚問題に関する連合国最高司令部との交渉経過概要」や、終戦連絡各省委員会の議事録による。(民衆の「保護」などともったいぶっている)
米国務・陸軍・海軍三省委員会SWNCCでの対中国政策の見直し(1945年末)以前の引揚状況
1945年9月29日、日本政府がこの(帰還)問題に関して初めての覚書を連合国軍(実質米軍)最高司令官総司令部GHQ/SCAP=General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied
Powersに宛てて送付した。在外部隊と一般居留民の引揚に関する日本側の要望は、
・総司令部の要求に合致し、かつ緊急性のある地域から引き揚げを行い、地域ごとに病者・老若婦女子を優先する。
・配船の順序は
1フィリピン・南方諸島
2生活困難の地
3北鮮・満洲・樺太・千島(ソ連の承認があるまではさしあたり南鮮・支那)
4病院船・医療施設のない地域
5仏印、タイ、マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、ラバウル、台湾
の順としたい。
それに対して総司令部は10月2日付で、「日本人の引揚については総司令部の指示に従って行うべきであり、日本側は引揚が軍事的必要に基づくものであることを再認識すべきだ」とし、さらに10月4日には、中国で日本側と中国側だけで引揚交渉を行った事例を取り上げ、「日本人の引揚行為は日中の直接交渉ではなく、総司令部を通じて行わなければならない」と指示した。
213 そして10月16日、総司令部は、最初のまとまった指令「被征服地域における日本人引揚に関する基本指令」を発した。
・引揚に使われる日本船は最大限うまく運航される。
・国内の旅客輸送に用いない日本海軍艦艇・商船は引揚に使える。
・日本政府は日本船の運航、配員、食糧、補給を最大限能率よく行う。
・軍人の引揚を第一に、民間人を第二にする。
・太平洋陸軍総司令官・太平洋戦域米陸軍司令官の管轄地域の日本人の引揚については、本司令部において引揚用船舶の割り当てを決定する。
・中国陸軍総司令官(中国)、東南アジア連合国最高司令官(英国)、豪州陸軍総司令官(豪)、極東ソ連軍総司令官(ソ連)の管轄地域からの日本人の引揚については、本司令部が所要の取り計らいをする。
このことについて日本政府は、軍人第一、民間人第二の帰還順序を問題とし、10月25日、病者・老若婦女子・新聞通信員の帰還を優先するように総司令部に申し入れたが、総司令部は「引揚は軍事的要求で行われるので、10月16日決定の変更を必要としない」と回答した。当時アメリカの陸海軍人の迅速な動員解除・復員に対する米国内の世論が高まり、日本軍の迅速な武装解除と本国への帰還が米兵の早期復員を可能にすると米軍内で理解されていた。
この「軍事的必要」とは中国の完全な解放という意味だけでなく、このような米側の動員解除の事情も意味していた。
214 また米軍管轄地域での配船割当は総司令部が行うことになったが、中国の蒋介石の権限と、米軍や総司令部の権限について幾分曖昧である。先述の「取り計らい」とは、外交権を停止された(10月)日本政府と各国との間を総司令部が連絡するという意味だろう。この時点では総司令部あるいはアメリカが、極東の他国の領域での日本人の引揚を独占的に管理する権限を持つ意思のないことが分かる。1946年5月7日の基本指令の内容と最も異なっている点が、この他国とアメリカとの関係であった。
この覚書には書かれていないが、引き揚げには日本船だけでなく米軍の船も用いられた。1945年10月、アメリカのLST船(大型揚陸艦艇Landing Ship Tank)が帰還に使用された。10月6日「各省委員会」に、総司令部が10月3日付の書面で、「仁川から2万人をLST船で佐世保に運ぶ」と連絡してきたと報告されている。そしてこの2万人は実際に10月12日と16日に佐世保に入港した。また10月24日の「各省委員会」にも、「ダバオからリバティー船(米が第二次大戦中の緊急造船計画に基づいて建造した規格型輸送船(戦時標準船)。簡素で安価に建造できた。)約10隻で1万5千人が2週間後に(どこに東京か)入港する」旨の総司令部からの連絡があった。
215 「終戦連絡中央事務局」第五部第二課作成の「昭和20年12月末現在 在東亜地域法人調」によると、1945年12月までに軍人48万1500人、一般邦人48万4000人、合計96万5500人が帰還した。第二課は終戦時の在外邦人全体を725万人としているが、帰還率は13%となる。帰還者の引揚地の大部分は南部朝鮮・沖縄・小笠原・南洋諸島・フィリピン・華北からである。華北を除けば、米軍の管轄地域からの帰還である。
日本側が米側の要望と合致させ、フィリピンや南洋諸島からの引揚を第一にしたことが分かる。日本側の最初の9月29日案212が実行されたといえる。(10月25日の日本側の要望は蹴られている213のにそう言えるか。)フィリピンと太平洋地域からの引揚は日本海軍艦艇が主として当たり、南部朝鮮や近海の島々からの帰還は日本商船(運輸省所属船)が当たった。またアメリカ第七艦隊のLST船も、アメリカ海兵隊の移動用に空きがある時に適宜使われたようだ。
内地部隊の復員は1945年10月15日(書類上は11月30日)に概ね完了し、それに伴って12月1日から陸海軍省はそれぞれ第一・第二復員省に改組された。
4 アメリカの対中国政策見直しと新たな引き揚げ方針
4・1 ワシントンの三省調整委員会
216 1945年9月5日、国務・陸・海三省調整委員会SWNCC(212頁)は、日本軍の武装解除方針に関して合意し、その合意事項を「武装解除・復員と、敵の兵器・軍需品・軍用器材の処分について」(マーシャルペーパー)としてまとめた。その内容は以下の通りである。
・すべての日本軍の人員は船舶事情の優先順位が許す限り、できるだけ迅速に日本に帰還させる。
・内地の軍隊は降伏後できるだけ早く復員(動員解除)させる。
・外地からの日本軍は日本到着後できるだけ早く復員させる。しかし船舶の事情によって日本への帰還・引揚を完了させるまでにはかなりの時間を要するだろう。
・日本の統帥機関はできるだけ早く廃止する。しかし日本軍と、日本が支配していた傀儡軍の武器解除と廃止を可能とするため、この機構を通じて指示することもできる。武装解除・復員に有利と判断される時は、一時的にこの機構を維持することもある。
9月段階では、詳細な引揚方針に関して、日本側の引揚方針(9月29日)の方が早かった。212
10月16日の総司令部の一般指令(基本指令)「被征服地域における日本人引揚に関する基本指令」213は、この9月5日の三省調整委員会に基く。
217 ところが、9月12日付国務次官の大統領宛メモランダムは、中国東北部での緊迫した情勢に関する蒋介石からの緊急要請を明らかにした。蒋介石は「広東から大連まで中国軍を輸送するための船舶が大至急必要である」とし、「東北部のソ連軍が約束の期限で撤退する前に、国民政府側が東北部の拠点を掌握するため、1945年9月中に船舶が必要だ」というものであった。
(米国)統合参謀長会議ICSは9月15日、このメモランダムに対する回答案を書く際に、こう判断した。
「日本の降伏に伴って、日本を占領するため、あるいは中国の戦略的拠点を占領するための、米軍の移動が必要とされるようになった。さらに今現在、アメリカ本土に米軍人を帰還・復員させるために、部隊の移動の需要は大変大きい。しかし予定のプランを邪魔しない程度に中国の要求を飲むことができるだろう」
統合参謀長会議は「最終的な結論を出す前に、中国戦域米軍司令官ウディマイヤーと太平洋米陸軍司令官マッカーサーの意見を聞く必要がある」とした。
米軍の艦艇で国民政府軍を東北部に運ぶことは、国共対立に極力立ち入らない方針を取りたいアメリカにとって決断を要することだった。この問題によってアメリカは戦後の対中国政策を再検討することになった。
1944年5月19日にノックスの後任として海軍長官に就任したフォレスタルによれば、1945年11月20日、バーンズ国務長官とパターソン陸軍長官とフォレスタル海軍長官は、将来の中国と満洲問題について話し合った。その中身は以下の通りである。
・ウディマイヤー(中国戦域米軍司令官)が指示を求めてきている。彼の現在の任務は、国民政府軍が独力で日本軍の送還業務を行えるようになるまで、在中国米軍の力で日本軍の武装解除を達成し、送還業務を準備することである。ワシントン(自分達三人)は、国民政府の軍隊が独力で満洲の日本軍を武装解除し邦人を日本に帰還させる実力があるかどうかをウディマイヤーにむしろ聞きたい。
・パターソン(陸軍長官)は、「この問題は我々の他のアジア政策、つまり日本人を速やかに日本に帰還させる政策とも関連してくる」と言い、「満洲の日本人問題を放置することは我々の政策に一貫性を欠くことになる」と言う。(一方で)中国にいる米軍を撤退させるべきだという米国内の強い圧力がある、とくに海兵隊については撤退させるべきだという議論が激しい。しかしもし米軍が中国から撤退すれば、満洲に権力の空白が生じ、その空白に入ってくるのは現在のところソ連であろう。
フォレスタルは米軍が国民政府軍を東北部に移駐させることはやむを得ないと考えていた。
一方で米国世論は中国にいる6万の海兵隊の撤退を要求している。国務省は、「蒋介石の率いる国民政府が中国から日本人を帰還させるのを助けたいが、国民政府が共産党に対抗するのを援助したくない」と考えていた。しかし結局は蒋介石が日本軍を帰還させるのを援助することは、共産党に対抗する国民政府に便宜や見返りを与えていることになるのではないか。一方、米軍を即時中国から撤退させることは、「国民政府の下で中国と満洲の統合の実現という我々の長らく掲げて来た政策が実現できなくなる」と国務省は考えていた。
219 このような議論を経てパターソン陸軍長官とフォレスタル海軍長官は、11月26日付国務長官宛てのメモランダムを完成した。「極東でアメリカにとって最も好ましく重要な軍事力は、統一された中国であり、これに満洲が含まれる。統一された中国がアメリカに友好的であることが、極東での戦争の勃発と混乱に対する最高の保障である。華北に海兵隊を置いたままにしておくことを特に強く進言したい。」
感想 2023年7月10日(月)
(軍事力を持った)「友好国」の存在は、米国の軍事力であり、「平和」の保証でもある、そのために米軍は駐留すべきであるという論理。これは今も昔も変わらない。
12月9日付統合参謀長会議が大統領に宛てたメモランダム「中国からの日本軍官民の輸送と中国軍への援助」は、蒋介石への援助の度合を明らかにした。これはこれまでの米側の引揚方針の変更である。その内容は以下の通りである。
11月30日、統合参謀長会議は、中国と日本に関係する主要な司令官に、国務省が中国政策の改訂を今考慮中であると伝えてある。その政策が出された時に迅速に実行できるように、各司令官に以下の計画案の概要が与えられ、その実行に関する意見を具申するように指示した。
220 中国戦域米軍司令官ウディマイヤーは、太平洋米陸軍司令官マッカーサーとともに、中国戦区から日本人の引揚を行うに当たって、中国官憲とともに、必要な措置をとる責任を持つ。アメリカ側は中国官憲に軍事物資を供給する形で援助を与え、助言を行う。(ウクライナと同じ)海兵隊はしばらく華北にとどまり、日本軍官民の引揚を援助する。(これは口実か)また海兵隊は中国中央政府が華北と満洲地域の解放と行政権の統合を行うのを援助するために、中国軍のさらなる移送に従事する。
・中国軍六個軍(20万人、補給品3万トン)を、華北と満洲に海上輸送し、それ以降当該地域の中国軍に1か月あたり5万トンの補給物資を運ぶ。
・満洲・台湾・北緯16度以北の仏印を含む中国の港から毎月50万人の日本人を帰還させる。
・中国軍を運ぶのに60日間、アメリカ海軍によって運航されるLST船75隻を使う。
・中国人船員によって運航される25隻のリバティー船は、中国軍への補給物資を運ぶために(中国人船員の)訓練を行う。そのうち6隻は30日間だけ運航し、残りの19隻は6か月間運航させる。
・日本人の引揚のために、日本人の乗組員によって運航され日本の日本商船運航管理機関の監督下に置かれる100隻のリバティー船を用意する。このうち25隻は、中国人乗組員が(訓練後に)運航を引き継ぐことができるようになるまで、(華北・満洲の)中国軍への補給物資の輸送に使われる。船の第一陣は21日で用意され、残りは60日で用意される。
・日本人の引揚のために、日本人の乗組員によって運航され、日本の日本商船運航管理機関の監督下に置かれる100隻のLST船を引き渡す。第一陣は18日で準備され、残りは60日で準備される。
221 前述の期日は指令が受領されてからの期日を意味する。迅速な行動が要求される。なぜならば、85隻のリバティー船が12月には使用可能となっているからであり、またマリアナから米海軍を本国に帰還させる海軍の復員計画のために、日本人船員によって使えるLST船がどんどん減らされねばならないからである。
三省調整委員会の最終的判断「中国に対するアメリカの政策」は、3日(12日)後の12月12日になされた。
「米国は現在の国民政府を唯一の合法的な中国政府と認める。(共産党は認めない)中国において日本の影響力が残る可能性を除去するために、アメリカは日本軍の帰還と非武装について明確な責任を引き受けるつもりである。よって解放された地域における日本軍隊の帰還と非武装化を効果的にする点で、今後とも今までと同様に国民政府を援助して行くつもりである。中国における日本の影響力が完全に取り除かれ、中国が統一され、民主化され、平和的な国家として中国大陸に位置することがなければ、太平洋の平和は達成されないだろう。(共産党の無視)これが中国にアメリカの陸海軍がしばらくの間駐留する理由である。…」(戦争・軍事に基く平和・民主主義論。米的!)
222 この判断はアメリカが大物大使のマーシャルを中国に派遣して国共間の調停を行おうとしていたときであったから、(この判断が)太平洋戦争の原因の一つである、中国における日本軍の影響力を何としてでも払拭しなければならい点に言及したことは、理解できるにしても、華北における海兵隊の存在意義を、日本軍民の帰還業務推進から説明している点は興味深い。(興味深いではなく、ずるがしこい口実と言うべきではないか。そこまで踏み込めないのは学者としての地位の保身のためか。)
先の統合参謀長会議の路線がこの三省調整委員会の方針で踏襲されている。
感想 「平和、自由、民主化、太平洋、友好」などの言葉は、今同様当時も、米の常套句だったことがわかる。
4・2 新たな引揚方針
日本側に正式に示された1946年1月19日付総司令部文書は、中国政策を変更した米統合参謀長会議11/30のメモランダム219にある計画案を反映している。それは以下の通りである。
・米乗組員によって運航されているLST船は1946年2月1日から4月1日までの間に漸次減らす。
・日本人乗組員によるLST船85隻とリバティー船100隻は、1946年1月29日から同年1946年3月30日の間に完全に日本側に貸与される予定である。例えば、1月29日に4隻、2月7日に7隻というように引き渡し、3月30日に合計がそれぞれ85隻と100隻になるはずだ。
223 ・3月30日の時点で、1日あたりの中国からの引揚総合人数が約2万8千人になるようにし、(その後は)この率が維持できるようにする。
・日本政府は中国からの引揚港や日本の受入港においてワクチンを準備する。不足分については日本政府は総司令部と協議する。
このリバティー船85隻とLST船100隻が中国からの引揚に大きな役割を果たしたことは関係者が一致して認めている。
1946年5月7日、総司令部は正式に(二度目の「正式に」222か)日本政府宛に覚書「日本人及び非日本人の引揚に関する基本指令」を発した。これは中国からのこれまでの引揚方針やその事実を文書で追認したものであるが、13の付属文書がついていて、その付属文書は1945年10月以降の個々の覚書の集大成である。
基本原則については10月16日付の日本政府宛覚書213の最初の4点を踏襲しているが、最も変化した部分は引揚について最高司令官の権限を規定したことである。つまり米マッカーサーは、中国陸軍総司令官(中国)、東南アジア連合国最高司令官(英)、豪州陸軍総司令官(豪)の管轄する諸地域から引揚げる日本人の日本への輸送と受け入れについても、管理する権限を持ち、必要な措置を取ることが明記された。
224 アメリカは中国に対して一歩踏み込んでいたが、それと同様に、マッカーサーも他の連合国司令官に対して、日本の引揚に関して一歩踏み込んだと言える。
5 中国での米中日の具体的折衝と帰還
戦争終結時に中国にいた日本人の正確な数を確定するのは困難である。岡村寧次(支那派遣軍総司令官)は引揚業務全体を見渡す立場にいたが、陸軍軍人が105万人、民間人が100万人、計205万人としている。1945年11月28日の「各省委員会」210は、満州を除く中国にいる軍人を115万人、民間人を48万人、計163万人としているが、これは台湾(40万人)と北緯16度以北の仏印を含めていないのだろう。
中国側は軍人(日俘)が125.5万人、民間人(日僑)が78.4974万人、計203.9974万人としている。
国民政府軍は1945年8月23日、先遣将校を(日本側がいる揚子江下流方面に)派遣し、同1945年8月27日、参謀副長冷欣を南京に派遣した。9月5日、新編第6軍が南京進駐を開始し、総司令何応欽も同9月8日に到着した。同9月9日、岡村寧次が降伏文書に調印し、9月10日から岡村は中国戦区日本官兵善後総連絡部(「連絡部」)の長官として、現地日本側の引揚責任者となった。
225 8月21日、中国陸軍総司令部参謀長蕭毅粛と、中国戦域米軍司令部参謀長バトラーと、支那派遣軍総参謀副長今村武夫の間で会談が行われ、そこで中国側が第一号メモランダムを提示したが、それは岡村寧次を中国戦区・台湾及び北部仏印の日本陸海軍軍人とその他の民間人の還送・善後処理の責任者とするというものだった。
225 日本軍統帥機構の武装解除・復員への利用は、米軍(9月5日の三省調整委員会216)も認めていた。また日本の外交権の剥奪により日本総領事館のネットワークが使えなくなることも予想された。そして中国側も一本化を理由に、日本の統帥部を日本人の復員に利用することを望んでいた。それは9月10日発の重光葵(まもる)外相電「目下のところ、中国側の総軍一本建てに希望ある趣につき、日本軍渉外委員会を設置し、在支各公館がこれに協力し、事務の処理に当たることは適当でかつ必要であると認められる」にも現れている。そして実際、治安警備、俘虜と被抑留者の措置、通貨・金融などの渉外事項の処理を任務とする日本軍渉外委員会が南京と上海につくられた。
支那派遣軍と、後には「連絡部」224による引揚計画 8月18日、岡村寧次(支那派遣軍総司令官)は支那派遣軍「和平直後における対支処理要綱案」を執筆し、東京に伝えた。
・居留民は中国側の了解の下に努めて大陸において活動することを原則とする。
・撤兵にあたっては中国側と連絡を密にして、最後まで自力で完全に撤収できるように、軍の自活態度を強化する。
226 前者の方針は8月31日の処理会議決定に影響したと考えられる。後者の方針も集結の終了までは最低限自衛に必要な武器を保持する自由を中国側に認めさせてゆく方針の端緒となった。
支那派遣軍は9月1日付「停戦協定に関する事前稟議事項」によって中国側に要望した。
・乗船地まで自衛兵器を携行する。
・50万トンくらいの船腹を連合国から借用する。
・帰国在留邦人は日本軍と同行保護し、優先的に輸送する。
・最後まで統帥組織を活用し、これに基いて中国側の要求を処理する。
これも9月5日の処理会議の決定207と相通じる。
日本側のこの要望に対して中国側は米国側代表の臨席の下に、9月10日、何応欽が口頭で答えた。
・安全が確保されれば自衛兵器の携行は必要ないだろう。地域と状況に基いて段階的に武装解除を行う。
・中国には船腹がないので将来米国から借用するつもりである。しかし現在は具体案はない。
この後日本側と中国側とで満洲・華北の境界地域や山西省での武装解除問題でもめた。中国戦区では蒋介石の下で日本軍は武装解除すると定められていたが、この地域ではソ連・モンゴル人民共和国軍や中国共産軍から武器引き渡しの要求を受けていた。抵抗せずに武器を引き渡せば国民政府側の不興を買うので(本当に理由はこれか)、一部では日本軍と該軍との小衝突が頻発した。
227 そこで中国側は一律に日本軍の武装解除を要求できなくなり、また現実に国民政府軍の該地域への進駐も進んでいなかった。そこで蒋介石は米軍に中国軍の該地への輸送を依頼した。ワシントンでは9月中旬から対中国政策が変更されつつあった。
支那派遣軍参謀・宮崎舜市の記録によれば、「11月5日、米軍側からLST80隻、日本船7隻によって半年で帰還を完了することを求めて来たので、連絡部は4種類計画を作り、中国側を通じて米軍に提出した」という。
岡村寧次の11月17日の日記は「帰還輸送の船腹を心配していたが、米軍から上陸用舟艇母艦であるLST多数を提供せられ、塘沽(タンクー、天津の東)、青島、連雲港(江蘇省、青島の南)、上海、広州等から帰還することになり、本日第一船が塘沽から出発したとの報」とある。さらに12月4日、岡村寧次は米軍の要求により、中国戦域米軍司令部の将官と会見し、日本将兵・居留民の内地帰還促進について意見交換し、日本人を迅速に帰還させるための資料提出を求められた。
1946年1月5日、中国とアメリカは上海で合同会議を開いているが、おそらくこれはワシントンでの12月9日付統合参謀長会議のメモランダムを、中国側とすり合わせるためだろう。この合同会議で合意された内容は、中国の港の1日の搬出人員の見積もりなどであり、例えば、上海6千人、青島3千人などと具体的に決められたようだ。
228 1946年1月15日、東京で米中会談が行われ、12月9日(統合参謀長会議)の決定に基づき、日本人の帰還輸送に関する中国政府、第七艦隊、連合国最高司令官の責任分担が明確になった。つまり、
・中国政府は日本軍の武装解除後、港湾地域に日本の軍人・民間人を集中し(させ)、乗船させるまでの責任を持つ。中国政府は十分準備をし、集中や乗船を遅らせたりしないこと。
・アメリカは中国陸軍総司令部、中国政府、第七艦隊、最高司令官、日本政府の船舶管理処間の責任を持つ。
・第七艦隊はアメリカ海軍船舶の運航責任を負う。
・日本政府の船舶管理処は日本人船員の乗船と船舶運航の責任を負う。
・アメリカは中国の港からの遣送につき優先順位を決定する。
支那派遣軍総参謀長の小林浅三郎は上奏書類の中で「何総司令は1月7日に突如中国戦区内にある武装解除未了の日本軍は1月14日以前に全部武装解除を終了すべきと命じる」と述べた。この中国側の変化は以上の会議の決定を反映したものだろう。
奥地から港湾地域までの輸送の責任を持つ中国側の努力は大変だったようだ。米中間で還送完了時期を1946年6月末と決定し、3月末に長江の船舶と鄭州・徐州廻りの鉄道を利用した内陸部からの輸送を開始し、それを中国側は超驚異的圧縮搭載をやってのけ、実際に6月20日までに日本への帰還民を上海に集中することができた。
6 おわりに
229 終戦終結時から10月16日の基本指令(一般指令)213までの間は、アメリカ側は米管轄地域の武装解除・復員・引揚について、主に日本海軍艦艇・商船を用いて、日本側の計画に基づいて行わせたが、引揚を軍事的必要に基づくとして、軍人を第一に民間人を第二の順序で帰還させる方針を取った。(これは10月16日の基本指令の内容ではないのか)
この間日本政府側は最高戦争指導会議と同様の構成員からなる終戦処理会議を設置し、引揚用の海軍艦艇の修理・新船建造に着手した。
ところが華北・中国東北部の拠点を共産軍に先立って確保しなければならなかった蒋介石の要請があり、また「統一された平和的な中国」を生み出すことがアメリカの戦争目的の一つであったと米が再確認(自問自答)し、米は国民政府軍の華北・東北移駐のために米軍の艦船を提供した。
230 一方アメリカ海軍は議会や世論による極東からの米兵の迅速な動員解除に迫られていた。米艦隊が保有するLST船やリバティー船は、本来ならマリアナなどからの米兵を本国に帰還させるためのものであったはずだが、それを中国兵の輸送や日本人の帰還に流用し、華北駐留の海兵隊の存在意義を説明した。米中合同会議227が示すように、米は中国兵の移送によって中国に好意を提供しつつ、日本軍の奥地から港までの輸送を担当する中国政府の業務のペースを監督した。
1946年5月までに中国から帰還した軍人と民間人は、166万3860人(帰還予定者の8割超)となった。
第10章 政治史を多角的に見る
感想・要旨 2023年6月26日(月) 戦争に備えるべきかor平和に徹するべきか、なぜ時代によって考え方(政策)が異なるのか。
「敵地での調達」という戦法は石原莞爾によるものらしく、日本のような資源の乏しい国が戦いに勝つためには、資源を準備してから戦う(永山鉄山の考え251)のでは海上封鎖されれば不可能となるから、中国に行ってそこで資源や兵器を調達すべきであるという考えである。石原は中国東北部の軍閥は中国の民衆に嫌われているから、近代的な(精鋭にして廉潔なる)日本軍は中国の民衆に受け入れられるだろうと考えていた。252
1 研究史の必要性
236 史学史は今不在ではないか。
238 ミシェル・フーコー「1750年の医学書は滑稽な民俗学的対象であるが、1820年の医学書は現代の医学書に通じる。そのギャップを私は断層という。このような知の型の移行を導く変換作用は何だったのか、どんな経験が作用しているのか。」
239 このような考察は、研究者が自らの独創性をどこに見つけたらいいのか、その発見の契機はどこにあるのかを示唆するはずだ。
2 明治維新史研究における変化
240 佐藤誠三郎・伊藤隆・高村直助・島海靖「日本近代史研究の二、三の問題」1963が提起する問題は、明治維新以後の資本主義的発展と封建的絶対主義政権としての国家権力の併存という説明はマルクス主義的発展段階説と齟齬を生じていないかということであったが、他方で
241 佐藤誠三郎は「山田盛太郎は、日本は古い制度を利用しながら資本主義を発展させてきた」とも言っている。
当時佐藤誠三郎や伊藤隆は「近代化論」(遠山茂樹1967)だと批判された。
242 佐藤誠三郎「幕藩体制の政治的特質」1967や、伊藤隆「明治十年代前半における府県会と立憲改進党」1964には、アメリカ学会の影響がある。
アメリカの政治学は社会学を利用した。アメリカの歴史学は中国と日本を比較しながら捉えようとする。
佐藤誠三郎は「幕藩体制こそ日本の近代化(日本の例外的成功)の基礎にある」と言っているが、それは先述の山田盛太郎が経済史で行ったことの政治史への応用であるし、T・C・スミスの「日本の士族的革命」1960ともつながる。スミスは「封建的貴族制の武士身分がどうして自分からその特権を廃止する改革を行ったのか」と問い、「それは武士身分が土地を所有しておらず、既に官僚的であったからだ」と指摘する。
243 ライシャワーは「日本のマルクス主義者は封建制を論ずるとき日本を西欧とばかり比較し、中国と比較しない」と批判する。(ライシャワー・フェアバンク共著「東アジア 大いなる伝統」1960や「東アジア 近代化」1965)
244 伊藤隆は先の論文「明治十年代前半における府県会と立憲改進党」1964の中で、府県会の党派化とそれに対する政党(立憲改進党)中央リーダーの対応(政治指導)を考えたが、それは当時の日本史学会の中で、府県会と府知事県令との対立抗争のなかに革命性や限界をみる研究が多い中で、斬新的だった。伊藤隆はアメリカ社会学を吸収したアメリカ政治学を応用した。
米政治学者ベントリイの「政治過程」1908を、1950年代に田口富久治が日本に紹介した。
245 田口富久治は「合衆国における現代政治学の形成」1957の中でベントリイを紹介した。
従来米政治学は統治機構を法的制度とみなし、法律用語で説明してきたが、ベントリイは政策決定過程における世論や政党の影響力に気づき、権力が、三部門(三権)のうちで議会特に種々の委員会に集中しつつあるとし、政治学の研究対象を狭義の統治構造から、準統治機構としての政党や官僚機構の執行過程に拡大した。
ベントリイの「集団」と「インタレスト」 ベントリイの言う「集団」とは統治機構内の政治主体や政党ばかりでなく、政治機構や政治機構の活動に圧力と影響力を与える圧力団体や選挙人団体を含む。またベントリイは、「集団」は「インタレスト」を持ち、その「インタレスト」は集団相互の関係(ターム)で規定され、運動エネルギーを持つとする。
伊藤隆の前掲論文「明治十年代前半における府県会と立憲改進党」1964や「ロンドン海軍軍縮条約をめぐる諸政治集団の対抗と提携」1969に、ベントリイの影響が現れている。
246 伊藤隆は浜口内閣と民政党、海軍、元老と宮中勢力、政友会、貴族院、陸軍、枢密院、平沼系、右翼、新聞と世論という10の政治集団を取り上げたが、その分析の枠組みは次の二点である。
一つ目の枠組みは、各政治集団は、政治的争点に対応する際の根拠として、自己集団と他の集団の歴史的位置づけをし、政治課題についての対立イメージを整理して自己集団に有利なイメージづくりをするために、二つの軸を設定する。その第一の軸は「進歩対反動」対「復古対欧化」の軸であり、第二の軸は「革新対現状維持」対「斬新対破壊」である。(アンダーライン部分をプラスイメージとして宣伝し自己主張する)
二つ目の枠組みは、(政党政治における多数派工作の中での)政治集団の利害的対立や連携(提携)である。相手のどの利害につけ込むかということが重要になってくる。
以上が伊藤隆の論点である。
3 戦争への動機づけの変化
247 民衆がある事柄に関する態度を変えるのはなぜか。ある時代の民衆は戦争は国家が行う正当な国権の発動手段であると考え、ある時代の民衆は非武装中立が文化的国家の態度であると考えた。
日本の近代において、国家が国民に戦争を決断させる、戦争を止むを得ないものと考えさせる、その説得の仕方が変化した。
248 西欧列強に対して独立を維持するという大目標が達せられるまでは、政府にとって軍拡はすべての勢力から同意を得てきたが、民衆に油断せず準備すべきだという意識を不断に喚起するのはおそらく容易ではなかっただろう。そこでプロイセンの例が引証された。1874年2月16日のドイツ議会でのモルトケ元帥の演説が『内外兵事新聞』に引用された。
「独逸大元帥モルトケ氏兵制の議」1876年3月20日付『内外兵事新聞』
「1808年より1812年までの戦いの如き、我国の不幸にしてその費すところ幾多ぞや。彼の時に当たり、常備兵少なく、兵役の期限もまた短く、軍費もまた僅少なり。而してナポレオン(拿破侖)帝この機に乗じ、小かつ貧なるプロイセン(普魯斯)より一億万の償金を奪いたり。これ即ち自国の兵備を節約し、その十倍を他国の兵備に資するものと謂うべし。」
普仏戦争(1870年)に勝利したプロイセン側が、1874年の時点でも、1808年から1812年までの対仏戦争の敗北を論じ、
「諸君よく内外の形勢を深察し、常徴兵40万1千人より減少すべきや否や、且つ年々その入費を与えるべきや否やを速やかに決定せらるべし」
と議会人に徴兵員数と予算の減額をしないように善処を求めた。
さらに1879年明治12年5月18日と5月25日の『内外兵事新聞』の社説に「陸軍費用論」が掲載され、普仏戦争に敗北したフランスを教訓にして、日本も軍事予算を増やすべきだとしたが、これは1874年のドイツが1812年の自らの敗北を語ったのと同様である。
249 「最初より守勢を以て防御し、遂に敗北に帰せしが故に、兵器等の損亡殊に甚だしく、また焼失せし民家、あるいは荒暴窮民の扶助その他ドイツ兵隊を給養せし費用、及びドイツに清償せし金額を合算すれば、実に一百零四億フランクにして、即ち我(日本の)二十億零八千万円に当たる。…これによってこれを見れば、平時において連年陸軍の費額を減額して以て経済上の便益を与えるも、一度戦時に会すれば忽ちこれを消尽する、啻(ただ)にこれを消尽するのみならず、或いは土地を割き、或いは国債を増加するに至るは、欧州各国その例鮮なしとせず。商鑒(かん、鑑みる)遠きにあらず、また近くこれを支那・朝鮮の両国に徴すべし。」
中国は列強から莫大な賠償金の支払いを要求されて弱体化した。経済・産業の発展のためとして軍事費を惜しむのは国家の百年の計としては不可というものだ。
しかし第一次大戦によってこのような論理は大きく変化した。第一次大戦の犠牲者が多かっただけでなく、戦費調達財源が青天井であるということに人々は驚いた。1914年8月の開戦時には専門家たちは財源の枯渇によって戦争は2か月で終わると考えていたが、交戦国は公債を発行し、それによってアメリカなどの中立国から軍需を買い付け、戦争はいつまでも可能のように見えた。
250 戦後になりこう喧伝された。「独墺の敗北の原因は財源の薄弱ではなく、連合軍の包囲、殊に海上封鎖のために原料を消耗しつくし食料品が欠乏して壊滅した」(1934年2月にロンドンで出版されたThe
Economics of Rearmamentの翻訳書である資源局『再軍備経済観』1934年10月)と。
そこで経済封鎖に対抗できる資源の獲得、自給自足体制の構築が始まった。他方、戦争防止のために、ルールを破った国に対して複数の国が経済封鎖を行うという考え方も現れた。そして軍事費と経済との関係では、「産業力も軍備であり、特に戦争力を維持培養増大するための直接要具である」という考えが日本軍の中にも生まれた。
251 永山鉄山は1926年大正15年4月、「欧州の総動員は人間本位であり、日本のは工業本位である」としたが、それは、人的動員よりも工業動員が不可欠であるという意味であり、第一次大戦でのタンネンベルグのような殲滅戦争を準備するためには、長期的で大規模な工業動員が不可欠であるという考え方である。永山が暗殺1935.8.12されていなかったら、東三省や中国北部から重化学工業に必要な原料をなるべく平和裏に獲得しつつ、開発に必要な資金はアメリカ市場から調達することになっただろう。
一方石原莞爾は永山とは異なり、日本は殲滅戦争に準備するのではなく、持久戦争を提唱した。それは経済封鎖を意識したものだった。石原が1926年暮から翌年にかけて陸軍大学で行った「欧州古戦史講義」によれば、
252 「もし貧弱なる我が国が百万の新式軍隊を出征せしめ、莫大の軍需品を補給するものとせば、年に費やすところ幾何ぞ。忽ち破産の運命を免れる能わざるべし」
石原は、日本の行うべき戦争は、「戦争によって戦争を養う持久戦争」であり、「占領地の徴発物や兵器によって出征軍が自活できる」とする。石原は中国東北部の軍閥支配を匪賊並みの住民収奪と判断していたようで、日本軍がこれらの軍閥・匪賊を掃討して住民を守れば、「我精鋭にして廉潔なる軍隊は忽ち土民の信服を得て優に以上の目的を達する」としている。単純である。
石原論は永田論を根本から突き崩す。堅実で合理的かもしれないが、長くて先の見えない戦争準備ではなく、「善意」に満ちた日本軍であれば、持久戦争も可能である、アメリカが優勢な海軍力で海上封鎖を行っても、日本が大陸で持久すれば敗北しない。これは国民の意識の中に入って行きやすい考えではなかったか。
あとがき
254 キューバ危機の時にケネディ大統領は、第一次大戦勃発の最初の一か月を描いたバーバラ・タックマンの『八月の砲声』に基いて、戦争回避の必要性を閣僚たちに訴えた。
1941年昭和16年9月6日に開かれた、「帝国国策遂行要領」に関する御前会議の席上、永野修身軍令部総長は以下のように発言した。この御前会議は、アメリカとの外交交渉の期限を10月上旬に、対米(英蘭)戦争準備の完整を10月下旬とし、(対米)交渉に具体的な期限を設定した。杉山元参謀総長の記録によれば、対米開戦に舵を切ることに躊躇する天皇や原嘉道・枢密院議長などを意識して、永野は以下のように結んだ。
「避け得る戦いをも是非戦わなければならぬという次第ではございませぬ。同様にまた大阪冬の陣の如き、平和を得て翌年の夏には手も足も出ぬような不利なる情勢の下に再び戦わねばならぬ事態に立ち至らしめることは、皇国百年の大計のため執るべきにあらずと存ぜられる次第でございます。」
256 この御前会議の前日9月5日、天皇は陸海統帥部長を召致して「外交と戦争準備は平行せしめずに外交を先行せしめよ」としたが、その時も永野は大阪冬の陣1614年12月20日に触れた。傍らにいた杉山はそれを聞く天皇について「御上は興味深く御聴取遊ばされたる如し」としている。
大阪冬の陣の故事は講談や歴史小説として広く世上に流布されていた。
9月6日の御前会議の問題点はこの故事だけでなかった。原枢密院議長が外交工作と戦争準備との関係について、「外交工作を主とするつもりなのか」と軍部に質したのに対して、海軍大臣は答弁したが、統帥部は答えなかった。会議の終わりに天皇はそれを遺憾とし、明治天皇の「四方の海」の和歌を引用し、外交工作による目的達成を暗に軍部に求めた。
257 (歴史書ではなく)講談や和歌、歴史小説、大河ドラマしか参照しないとは不幸なことだ。
2005年4月25日 加藤陽子
感想 2023年6月30日(金)
加藤陽子の論理展開は聡明で理知的な印象を受けるが、著者は1923年の関東大震災時の朝鮮人虐殺や、1928年以降の日本共産党弾圧などについては全く触れない(米騒動や小作争議036については為政者(田中義一)の側から触れ、幸徳秋水についても触れているが)。私はそれらの問題は歴史を学ぶ者にとって一大問題と考えるのだが、著者はそれらは自らが「専門」とする(上層部による)政治史253ではないから「管轄外」ということなのだろうか。民衆は上層部による政治の蚊帳の外という政治史ではちょっと寂しい気持ちがする。著者はそういうことにあまり関心がないのだろうか、あるいは「政治史」という枠組みから出られないのだろうか。
以上 2023年6月30日(金)
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