日本共産党の七十年
062 小林多喜二は、小説『一九二八年三月十五日』の中で、北海道での拷問を暴露、告発した。
一九二八年、田中義一首相は、三・一五共産党員検挙の報道を、四月十日の、労働農民党(労農党)、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の解散命令の当日午後三時まで差し止めておいて、その解禁の翌日こう述べたという。
「国体に関し国民の口にするだに憚るべき暴虐なる主張を印刷して各所に宣伝頒布(はんぷ)したるに至っては、不逞狼藉(ふていろうぜき)言語道断の次第で、天人とも許さざる悪虐の所業である」「私は内閣の主班として事件の顛末(てんまつ)を奏上し奉るに臨み、宸襟(しんきん)を悩ませ給ふことの畏(おそ)れ多きに、身も心も打ち戦(おのの)きて、九腸寸断の思ひに堪へなかった」(「東京朝日」四月十二日)
四月十日の夕刊各紙は、「秘密結社日本共産党に突如一斉大検挙」とか、「大阪朝日」は、党の第三回大会を、「五色温泉の集合に人目を欺く無礼講の宴」などとセンセーショナルに報じた。
075 日本では、各政党、財界(日本商工会議所、日本工業倶楽部、日本経済連盟)、全国百三十二の新聞社(自発的に)など、満州事変をほとんど全てが支持した。全国労農大衆党は、初めのうちだけは戦争反対を唱えた。
「国際正義と人類共存共栄の外交方針と満蒙権益の擁護とは何等背馳するものでない」(民政党、第二次若槻内閣与党)
「軍事行動開始は当然の処置」「満蒙は帝国の生命線なり」「満州事変は在満同胞の保護と既得権益の擁護とを基調とする自衛権の発動であり、断じて撤兵を許さず」(政友会)
「支那軍閥の不当なる計画的排日行為」「国際社会主義へ向かう道程として」「日本国民大衆の生存権確保のため、満蒙に於ける我が条約上の権益が侵略されるは不当なりと認む」「ブルジョア的満蒙管理を排して、これを社会主義的国家管理に移し、…」(社会民衆党)
「日本の国体を尊重する精神を一層明確にすること」「マルクス主義の搾取的国家観を排し…」日本共産党などの反戦平和の主張を「空想的誤謬」とした。(社会民衆党)
「すべての民衆は平等に生存権を主張する権利がある。故に我日本民族のみが島国にとじこもり『世界平和』の犠牲になる義務を課せられているとはかんがえられない。支那大陸にでもアメリカ大陸にでも自由に発展してさしつかえない。これを妨害するものは『正義』の名において膺徴するに何の不思議もない筈だ。」(西尾末広らが指導する総同盟「日本民衆新聞」)
感想 『五十年』と比較した『七十年』の特徴 p75までの感想 2016年5月26日(木)
女性運動、文化活動が充実
やや平板な記述、過酷な闘いから生じる苦悩の叫びが感じられない。
コミンテルン第六回大会の「社会ファシズム論」に対する批判的な態度が弱まった。
補足事項が充実
徳田球一らが予審尋問に応じたことを批判的に述べている。
満州事変当時の国内の状況の説明。政党、新聞、労働界などの対応はほとんど、侵略=防衛戦争支持であった。
081 徳田は戦後、予審で陳述したことの誤りを認めた。徳田・志賀共著『獄中十八年』(一九四七年)
097 拷問された関係者(補足)
西田信春が一九三三年二月逮捕され、虐殺されたことが、三十数年後(一九六八年?)に確認された。
女性党員の伊藤千代子(土屋文明は彼女の女学校時代の師)、田中サガヨ、飯島喜美(獄死)、高島満兎(まと、特高に襲われ、二階から飛び降り、脊髄骨折で下半身不随)
098 治安維持法関連の検挙者数
一九三〇年 一九三一年 一九三二年 一九三三年
六千八百七十七名 一万千二百五十 一万六千七十五 一万八千三百九十七
105 小島春雄、岩倉靖子(岩倉具視のひ孫)らは、一九三三年、保釈直後に自殺した。
106 一九九三年、元特高官僚宅から、一九二九年四月に逮捕された市川正一の「警察聴取書」が流出し、市川が、佐野学の上海の住所と暗号解読法をばらしたから、佐野が逮捕された、というデマが流された。これは、警察の作り話で、事実は、警察が佐野学の連絡先の暗号電報を入手して解読し、佐野を逮捕した。また志賀義雄も、佐野が自らの暗号電報を警察に入手されて逮捕されたことや、佐野が特高のデマに煽られたことなどを、証言している。(『日本革命運動史の人々』)また、「陳述」の日付と「署名拇印」の日付とが九日も違っている。
108 一九三三年八月、大泉兼蔵は、スパイ今井藤一郎の手引きで、警視庁の宮下に「検挙」され、スパイになることを約束し、情報を提供し、金をもらっていたことを自白した。また新潟でも、同県特高課長刀祢(ね)有秋と連絡を取ってスパイをしていたことも自白した。
宮本顕治「私の五十年史」によれば、特高課長毛利、特高警部の山県、中川らが宮本を拷問した。
警察の専決で二十九日の拘禁を十回以上、なかには三十回以上も更新する場合もあった。拘留期間中は、運動、入浴、歯ブラシの使用もできなかった。
起訴後は、正座を強要。府中署は、宮本に足錠を二ヶ月もかけた。
予審が数年にわたって行われた。弁護行為自体が治安維持法目的遂行罪違反とされ、逮捕された。一九四一年三月、治安維持法が改悪され、弁護士が司法大臣の指定したものに制限された。
警察は治安維持法が絶対神聖であると宣伝した。商業ジャーナリズムは、日本共産党を、国賊、強盗、殺人鬼として描いた。
111 「敵の拷問、尋問、なだめすかし、紳士的な話しかけ――それらの一切について完全に一言も言ふな!一言言うことは、一歩敵の術中に近寄ることだ!敵への屈服だ!」(宮本顕治)
警察、予審では黙秘をつらぬき、公判では党の方針を堂々と述べる。しかし「党の秘密、党活動の事実については一言も述べるな!」
123 「唯物論研究会」などがコミンテルンや日本共産党の目的遂行の結社とされ弾圧された。戸坂潤、永田広志、岡邦雄、小倉金之助、古在由重、三枝博音、長谷川万次郎(如是閑)、森宏一、新島繁、伊豆公夫、服部之総、羽仁五郎。
123 「反共主義の立場に於いて我国労働運動をコミンテルンの魔手から防衛し、…」(「皇軍将士に対する感謝決議」社会大衆党傘下の労働総同盟の一九三七年十月の全国大会)
124 各政党はみずからすすんで解散(解消)し、「新体制」(新政治体制)へ移行した。つまり、絶対主義的天皇制への帰一(分かれていたものが一つになること)と、「大政翼賛会」(「大政」とは、天皇が行う政治、「翼賛」とは、天皇を補佐して政治を行うこと―――一九四〇年十月発足)に合流した。
124 近衛文麿首相は、「大政翼賛会」発足の日、これは「世界に比類なき理念」の一致の上に立った運動だとし、この翼賛体制と「大東亜共栄圏」構想とが表裏一体であることを認めた。
三木武夫は「翼賛政治会」の一員になり、一九四二年の翼賛選挙での公約として、「大東亜戦争の完遂、八紘為宇的世界経綸(けいりん)の断行」をかかげた。また鳩山一郎は「戦争完遂の目標には一致」と述べた。
「日本共産党は国をとるのだから、火つけ泥棒よりも怖い」と特高警察は宣伝した。
126 昭和天皇は、一九三一年、中国東北地方への侵略開始を追認し、侵略部隊を激励した。
個々の軍事作戦に指導と命令を与えた。
一九四五年、敗戦が予測されても戦争継続に固執した。天皇と軍部は、国民の生命と財産よりも、「国体の護持」を最優先させ、戦争の終結を遅らせた。
天皇制と戦争への批判を犯罪視した。
アジア諸国民二千万人以上、日本国民三百十万人以上の命を奪った。これらは第二次世界大戦の死者の四割を占める。
127 「東亜解放戦の完遂へ」(「東京日日」=現在の「毎日」)。「朝日」、「読売」も似たり寄ったり。
「朝日」主筆の緒方竹虎ら報道機関幹部が、内閣情報部参与となる。
当局は、人々が戦争の不満を語り合うことさえ、監視・処罰した。一方、天皇制軍部や高級官僚と結びついた独占資本は、巨利を得ていた。
129 袴田は、変節はしなかったが、警察、予審を通じてすすんで応じ、膨大な調書、手記類を作った。
131 国領五一郎の墓碑が、京都市黒谷、阿弥陀堂の東方の池から、日本三文殊随一文殊塔に向かって階段をあがり、その階段の途中左側にある。一九六四年九月に建立された。
131 市川の体重は31.6キロしかなく、死因は老衰とされ、解剖後、東北大学医学部のホルマリンの池に三年間放置されていたのを、戦後になって党員が発見した。一九七二年三月、山口県光市に記念碑を建てた。
132 スターリンがロシア以外の五つの独立共和国を自治共和国にし、ロシア連邦に加盟させようとしたが、レーニンが反対し、一九二二年十二月、対等、平等な共和国の連邦=ソビエト連邦が形成された。しかし実際はそのとおりにならず、一九九一年のソ連崩壊につながった。
スターリンは一九二九年、ネップを中断し、農業の強制集団化を行った。
キーロフ政治局員の暗殺を契機に、ジノビエフ、ブハーリンら反対派に属した経歴のある人々や、第十七回党大会(一九三四年)で選ばれた、党中央委員と同候補の七十パーセントが粛清された。幹部、活動家だけでなく、膨大な人民が生命を奪われた。
133 一九三七年二月から三月にかけて、スターリンは粛清の方針をうちだし、社会主義の前進に伴って階級闘争が激化するとした。そしてトロツキズムは、テロを行い、とくに、日本とドイツのファシストのためにスパイをするとした。
134 一九五九年一月から二月にかけて宮本顕治らはソ連を訪問し、山本、国崎、杉本の消息を訪ねたが、これが最初の照会であった。
134 山本懸蔵は一九五六年、国崎定洞と杉本良吉は一九五九年に、ソ連によって名誉回復された。
135 粛清された外国人の大半が、自分の属する党が自国で非合法化されていた国の人々(日本やドイツの人々)だった。
135 一九九二年九月、党は一九三九年二月の野坂参三(岡野)の書簡のコピーをモスクワで入手した。
それまで野坂は著書で、逮捕された山本の救出のために努力したと書いていた。
一九九二年九月の第七回中央委員会総会(第十九回党大会)は、野坂の名誉議長(一九八二年以降)解任を決めた。
136 第一に、野坂は二回、一九三八年二月と一九三九年二月、山本懸蔵に関する書簡を書いていただけでなく、一九三八年十一月のコミンテルン国際統制委員会などで、山本と、山本の妻、関マツを、敵に通じた人物として告発(一九三九年)していた。
岡野書簡は一九三七年のスターリン報告に答えるためのものであったと野坂自身が述べた。
野坂は自分も安全ではないと感じていた。
野坂の妻が野坂竜である。(一九三八年二月四日、野坂竜はソ連に逮捕されたが、五十二日後釈放された。)
第二に、野坂は、ソ連と口を合わせて(一九四〇年に野坂が中国へ出発するまでの間、一九四五年十月から十一月まで、延安から日本へ帰国する直前のモスクワ訪問時、一九六一年の訪ソ時)、山本の死亡時期と死因を捏造した。
野坂は山本の死について、「党を築いた人々」(一九六二年の「アカハタ」)の中ではじめて書いた。
野坂は関マツの日本への帰国を妨害した。関マツは一九五六年、ソ連で名誉回復され、一九六〇年代のはじめ、日本への帰国を希望した。関マツは一九六八年、モスクワで死去した。
138 第三に、日本共産党がソ連共産党と対立していた一九六〇年代に(一九六二年七月、一九六五年十二月)、野坂は秘密裏にソ連と内通し、自分は党中央とは意見を異にしていると言っていた。
野坂は党中央委員会議長、党の国会議員をつとめてきた。
党常任幹部会は、野坂を除名処分にした。統制委員会もこれに同意した。一九九二年十二月、第八回中央委員会総会(第十九回党大会)は、全員一致で野坂の除名処分を決定した。
140 一九四〇年九月、ソ連はそれまでの反ファシズムの国際政策を変更し、英仏がドイツと戦争をすることを罪悪視し、各国共産党にドイツと協力するように押し付けた。
142 一九四三年五月十五日のコミンテルン執行委員会幹部会によるコミンテルン解散の決定を、六月、三十一の共産党が支持した。コミンテルンの解散には、米英軍のヨーロッパ大陸上陸を促すスターリンの意図があった。
ソ連の犠牲者数は、二千万人。ソ連の参戦によって米英も、戦争の目的が民主主義の回復であることを認めた。
143 一九四五年四月から六月にかけての中国共産党第七回全国大会で、毛沢東は、戦後の中国の、民主主義的な連合政府樹立の方針をうちだした。また岡野(野坂)もこのとき、日本の戦後の、民主勢力による人民政府の樹立を明らかにした。しかし天皇制の問題を正しくとらえていなかった。
145 毛利特高課長はスパイの大泉に、「今後党の政策を弱めるように努力せよ」とか「入露できるように計画をしておけぬか」と指示した。
宮本は、党活動の自由や、権力による反社会的犯罪行為による党員の基本的人権の侵害を防ぐ点でも、スパイ・挑発者の査問が、正当防衛あるいは緊急避難の措置であることを主張した。天皇制法廷は、宮本の証人喚問要求をすべて却下した。そして解剖検査記録にもない「暴行」「傷害」などの虚構を事実と認定し、一九四四年十二月、治安維持法違反の他に「不法監禁」「傷害致死」その他の罪名をつけ、無期懲役の判決を下した。
宮本は一九四四年十二月十九日付けの宮本百合子宛の手紙で、「恐らく来年中にはいろんな愛誦詩の再販が出るだろう」と語った。
146 丸山真男は一九五六年、党の戦争責任論を主張した。それには三つの欠陥がある。
第一に、丸山は、負けたから日本共産党にも責任があるとしている。丸山は歴史の現実を見ず、情勢のいかんに係わらず、方法が正しければ成功すると考えている。
第二に、戦争で負けたのは絶対主義的天皇制であり、日本共産党ではない。(この論理は他力本願ではないか?)党の路線は、世界の民主勢力の声と一致していた。
第三に、成功の見込みがなければ、はじめからたたかわない方がいい、傍観者が利口だと、丸山は言っているようなものだ。それは近視眼的実利主義だ。
木口小兵の「『シンデモラッパヲハナシマセンデシタ』式に、(党が)抵抗を自賛している」などと丸山は言うが、それは丸山の民主主義的感覚の喪失と、学者的良心の頽廃をしめしている。(丸山の真意を曲解しているのではないか?)
丸山は、学者の「真理価値」と政治家の「宣伝価値」とを対立的にとらえている。科学的社会主義はこのような二元論をとらない。つまり宣伝価値は考えない。しかし一挙に絶対的真理に到達はできないという意味で、独断論でもない。党は無謬論の立場をとらない。
149 戦死者数
日本人軍人軍属 二百三十万人
日本人民間人(国外) 三十万人
日本人民間人(国内) 五十万人
アジア・太平洋各国 二千万人
内訳
中国 一千万人以上(二千万人説も)
ベトナム 二百万人
インドネシア 四百万人
フィリピン 百十一万千九百三十八人
インド 百五十万人
ニュージーランド 一万千六百二十五人
オーストラリア 二万三千三百六十五人
泰面鉄道(各国) 七万四千二十五人
小計(ミャンマー、シンガポール、朝鮮を除く) 千八百七十二万人から二千八百七十二万人
朝鮮人(軍人・軍属) 十五万人
同強制連行による死者 五万人
広島 十四万人
長崎 七万人
原爆投下は、非戦闘員の殺傷を禁じた当時の国際法違反だった。
治安維持法による送検者 七万五千六百八十一人
逮捕者を含めると 数十万人
「行政執行法」による予防検束や警察犯処罰令による拘留者 数百万人
戦後、歴代自民党政府は一貫して、十五年戦争が侵略戦争だと認めることを拒否してきた。
154 第二次世界大戦は、反ファッショ連合=世界の民主勢力と日独伊侵略ブロックとの戦争であった。(米英などの中国や東南アジアの侵略は問題視しないのか、単純化しすぎていないか?)
ロシアが対日戦参加の条件として千島を求めたことは、カイロ宣言の「領土不拡大の原則」を引き継いだポツダム宣言に違反しているし、これはヤルタ会談での密約であった。また、歯舞・色丹は、北海道の一部であったし、ヤルタ会談での「引渡し」の対象でもなかった。
スターリンは一九四五年九月二日、「国民に対する呼びかけ」の中で、日露戦争の雪辱が果たせたとし、「我が国民は日本が粉砕され、(ロシアの)汚点が一掃される日が来ることを信じ、そして待っていた」と宣言した。
155 スターリンは一九四六年二月、歯舞・色丹を含めて千島列島をロシア共和国領に編入し、一九四八年三月にはソ連領とした。
またスターリンは、ハーグ陸戦規則やポツダム宣言に違反し、捕虜をシベリアで強制労働させたが、これを日本の関東軍総司令官山田乙三がロシアに申し出ていた報告書が、一九九三年七月、ロシアで見つかった。抑留者数は、六十三万九千七百七十六人(うち日本人が、六十万九千四百四十八人)、死者は、日本人が、六万千八百五十五人、中国人、朝鮮人が二百十三人だった。
スターリンは北海道の北半分を占領する計画も持っていた。
156 東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣は、治安維持法を維持し、全国に三千人の政治犯がいて、特高は尾行、内偵、取締りを続けた。治安維持法違反などで、死刑の求刑、無期の判決を受けた例もあった。
157 ほとんどの新聞社は、戦時中の軍部追従を一応反省をしたが、天皇賛美の責任は避けた。NHKラジオの反省は、新聞よりも弱かった。
157 日本政府は、連合軍から、釈放された全政治犯の公民権回復を一九四五年十二月に指令された後も、「刑法上の罪名」などの理由で、宮本、袴田の公民権を一九四七年五月まで認めなかった。
158 これは単なる恩赦法令ではなく、ポツダム勅令七三〇号(一九四五年十二月二十九日公布)によるもので、「将来に向てその刑の言渡を受けざりしものと看做す」と判決され、東京地検は復権証明書を交付した。
獄中で徳田、志賀らは「赤旗」再刊の準備をした。しかし、一号、二号は、党の集団的方針ではなかった。
159 当時の政治局、書記局は、ソ連共産党の書記長専決を導入していた。一九七〇年には分業的・重層的な組織となった。徳田は、行動力はあったが、理論を軽視し、彼に批判的な意見が出ると、怒鳴りつけた。野坂参三は徳田に追従した。
159 野坂はソ連のスパイとなっていたが、それはソ連の方が働きかけていた。
野坂は、一九四五年十月から十一月、延安からモスクワを極秘に訪問した。野坂が日本に帰国前にソ連に呼ぶことをスターリンらに提案したのは、コミンテルン書記長ディミトロフとソ連共産党員ポノマリョフだった。
160 まず野坂は、クズネツォフ陸軍大将に、ソ連の野坂に対する指示と資金援助を要請した。クズネツォフの報告を受けたディミトロフは、指導部に以下のような提案をした。つまり、野坂との連絡は、ソ連共産党中央委員会ではなく、国家保安人民委員部(のちのKGB)あるいは赤軍情報総局を通じること、また日本共産党が綱領の作成を急がないようにということであった。
また野坂は、ソ連側から伝えられた、徳田、志賀らの天皇制打倒案(「人民に訴う」1945.10.10)に対して、昭和天皇の退位と皇太子による天皇制の存続案を対置し、天皇の「宗教的機能は存続しうる」ことをソ連に伝えた。この野坂の見解は、野坂の中国での、日本人捕虜軍人との接触によるものだった。
161 野坂は、ソ連訪問について、一九八九年の野坂の自伝『風雪の歩み』にも書かなかった。
野坂は、一九四六年一月十四日の「同志野坂と党中央委員会の共同声明」の中で、天皇制の制度としての廃止と皇室存続とを別問題とし、皇室は民衆の意志によって存続しうるとした。
野坂はこの直後、スパイとしてモスクワに手紙を書き、天皇制打倒にかんして日本共産党が態度を変更したと事実を偽り、徳田、志賀をセクト主義だと批判している。
163 向坂逸郎は、一九四七年再版の『日本資本主義の諸問題』の中で、戦後の民主主義化の現実を見て、共産党の主張していた二段階革命論を認めた。つまり、まず、ブルジョア民主主義革命で、次に社会主義革命という道筋である。
164 第五回党大会で、連合軍が「民主主義革命の解放軍としての役割をすすめてきた」としたことには、連合軍による治安維持法の撤廃、政治犯の釈放などの理由で、一定の根拠があった。また、アメリカは、ポツダム宣言や極東委員会の対日基本政策と対日理事会の拘束を受けた。しかし、天皇制を温存するなど、不徹底であった。
165 沖縄が米軍直轄の特別地域とされたことを、第五回大会の「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」の中で、沖縄民族の独立への第一歩としてとらえて喜んだことは、明治以来の天皇制の支配からの沖縄の解放とアメリカの帝国主義的意図への無警戒からくるものであった。
各党は、戦争協力への反省をしなかった。日本自由党の結党・運営資金を右翼・児玉誉士夫が援助した。児玉誉士夫は、A級戦犯容疑者であった。
議員の戦争責任についての議論では、進歩党案が採用されたが、政治責任を認め内外の人民に謝罪するものではなかった。自由党、進歩党は、「国体を護持」し、民主主義は、天皇主権の下での議会の権限拡大にとどめるべきだとした。社会党も「光輝ある国体護持の下新日本建設に挺身する」とし、「天皇陛下万歳」で閉会した。また社会党の一九四六年二月の「新憲法要綱」では、「主権は天皇を含む国民共同体、つまり国家にある」とされた。
一方フランスやイタリアでは戦後、共産党を含む政権を樹立したし、ドイツではナチス戦犯に時効を設けない態度をとった。
第五回党大会で、「現天皇の戦争責任を追及する」とした。
171 幣原内閣は、天皇の戦争責任を閣議決定で免責し、主権在君の原則で憲法改正の作業に当たった。また巨額の軍需保証金を資本家に払い、労働者の生産管理闘争を弾圧した。
172 党は、一九四五年十一月の「人民戦線綱領の提示に際して」のなかで、「(ある団体が)綱領全項目を採択しないからと云って統一戦線結成の意図を直ちに抛棄(ほうき)するべきではない」とし、一九四六年二月には、天皇制打倒のスローガンをその一例とした。しかし西尾末広らの社会党は共闘を拒否した。
173 山川均が一九四六年一月十五日、民主人民戦線を提唱し、一月二十六日の「野坂歓迎国民大会」には山川、荒畑など社会党指導部や自由主義者も参加したが、その直後社会党は、日本共産党や山川の人民戦線不参加を決めた。日本共産党は山川の人民戦線を支持したが、社会党からは若干の幹部が参加したにとどまった。
174 一九四六年四月十九日、社会、共産、自由、協同の四党間で、「幣原内閣打倒共同委員会」が結成され、幣原内閣はその三日後に総辞職した。その後は、共社中心か、自由と社会の連立かで動揺した。一九四六年五月の東京メーデーに五十万人が参加し、その後社会党は自由党との連立を拒否した。五月十九日の食糧メーデーでは、自由党の吉田茂は組閣を断念しかけたが、五月十五日、対日理事会でのアチソンの反共声明が発せられた。さらに翌二十日、マッカーサーがデモを禁止し、五月二十二日、自由・進歩の保守連立政権として第一次吉田内閣が成立した。その後反共勢力の発言権が強まった。
労働戦線でもメーデーを機会に総同盟と産別会議準備会との間に、労働戦線統一世話人会がつくられたが、食糧メーデーの弾圧後、総同盟は世話人会から離脱した。
175 一九四六年五月のアチソンの反共声明とマッカーサーのデモ禁止命令は、極東委員会や対日理事会での論争をもたらした。極東委員会はワシントンにあり、十一各国、後に十三カ国で構成され、対日理事会は、東京にあり、アメリカ、英連邦から一国、ソ連、中華民国で構成された。
176 憲法改正について、当初、松本委員会試案があったが、占領軍はそれを替え、一九四六年二月、占領軍草案を起草し、幣原内閣に手交し、幣原内閣がそれをもとに、一九四六年三月、政府草案を起草したが、各党もそれぞれ憲法草案を発表し、一九四六年六月、国会で政府草案を審議した。
松本委員会とは憲法問題調査会のことで、その試案は、天皇主権など明治憲法の原理で作成され、ポツダム宣言を無視していた。
占領軍草案は、天皇を温存していたが、主権在民と平和主義であった。
アメリカは、極東委員会の発足以前に、日本の憲法の改正作業に着手して、それを既成事実とし、また日本の反動勢力を支配勢力としてとどめたかった。
各党の草案は、天皇主権論で、平和の原則に触れなかった。
「天皇は統治権の総覧者なり」(自由党「憲法改正要綱」1946.1.21)
「天皇は臣民の輔翼(ほよく)に依り憲法の条規に従ひ統治権を行ふ」(進歩党「憲法改正要綱」1946.2.14)
「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」(社会党「新憲法要綱」1946.2.23)
政府草案は、「国民の総意が至高なもの」とし、主権在民を明記せず、天皇を象徴として君主制を温存し、民族の独立と主権擁護の保障を欠いていた。
各党は政府草案に反対しなかったが、日本共産党は批判した。
日本共産党は、天皇制存置と主権在民との矛盾、侵略戦争の禁止、基本的人権を具体的に明記することなどを指摘した。
日本共産党は、一九四六年三月七日の声明や宮本顕治の論文「新民主主義憲法のために」のなかで、その立場を明らかにした。そして一九四六年六月二八日、「日本共産党憲法草案」(人民共和国憲法草案))を発表した。この草案の原案は、岡正芳、豊田四郎らが協力し、宮本顕治がつくった。
「日本の独立を完成させ、われらの国は国際社会に名誉ある位置を占めるであろう」(前文)と日本の独立と国家主権の立場を強調した。
「いかなる侵略戦争をも支持せず、またこれに参加しない」と侵略戦争反対と恒久平和の原則を明確にした。
178 言論・出版・集会・結社の自由に対しては、「印刷所・用紙・公共建築物・通信手段その他これを行使するために必要な物質的条件を提供」すると明記した。
「婚姻は両性の合意によってのみ成立し」と女性の権利の確立をしめした。
比例代表制による代議員(国会議員)の選出を明記した。
「死刑はこれを廃止する」とした。
179 「封建的寄生的土地所有制の廃止、財閥的独占資本の解体、重要企業ならびに金融機関の人民共和政府による民主主義的規制」を明らかにした。
「地方制度」を設けた。これはどの党も提起しなかったことだ。またこれは、一九二八年からの党の要求でもあった。つまり、任命制の知事の「一般投票による公選」、「府県別の完全な自治制」などである。
党は、主権在民の原則を憲法に明記することを求め、それを実現させた。また、天皇条項の削除、「他国征服戦争に反対する」、「他国間の戦争に参加しない」、国民の権利を具体的に保障することなどを求める修正案を提出した。
180 議会は当初日本共産党の修正要求を無視したが、主権在民の明記に関しては、主権在民の保証を求める極東委員会の意向やGHQの指示もあり、前文と第一条に主権在民の原則が追加して書き込まれることになった。
党は憲法改正案採択で反対した。それは改正案に天皇条項を含んでいたからであった。
新憲法は、平和の立場と憲法五原則(国民主権と国家主権、恒久平和、基本的人権、議会制民主主義、地方自治)など、平和・民主の諸条項をもつことになった。
181 一九四七年一月、社会党指導部は、倒閣実行委員会に参加し民主戦線を結成するという、全闘の要望を拒否し、また、二・一ゼネストにも反対した。
占領軍は、全官公庁共闘議長伊井弥四郎にゼネスト中止のラジオ放送を強制した。
182 第二次大戦において、ユーゴスラビアでは、自国の解放勢力が自国の解放を成し遂げたが、それ以外の東欧諸国はソ連の力に頼った。
フランスはベトナム南部で傀儡政権をつくりはじめ、北部ではベトナム軍に攻勢を強めたので、ベトナム人民は抗仏戦争に立ち上がった。
カイロ宣言は、朝鮮を「自由かつ独立たらしむる」と明記したのに、米軍は、南朝鮮に軍政を敷き、南朝鮮だけで選挙を行い、一九四八年八月、李承晩による大韓民国を成立させた。
183 フランスやイタリアでは第二次大戦中、共産党が抵抗運動で活躍したので、戦後、共産党を含む連合政府が成立した。
イギリスは、イギリスが援助していたギリシャの専制的王制とギリシャ人民との内戦に苦慮していた。
チャーチルは一九四六年三月、アメリカのフルトンで演説し、アメリカが共産主義の脅威に対して立ち向かうよう求めた。
184 米国務省の要職にあったジョージ・F・ケナンが、一九四八年二月に訪日し、民主化は共産主義を利するとし、追放を緩和し、これからは経済復興を重視すべきだと米政府に報告し*、それをもとにして、国務省は一九四八年五月、「アメリカの対日政策にかんする勧告」としてまとめ、国家安全保障会議もその方針を採るようになった。
*『ジョージ・F・ケナン回顧録』
アメリカは一九四七年の二・一スト禁止以来、ポツダム宣言を公然と踏みにじった。
労働組合運動でも、占領軍に指導された反共「民主化」運動が展開された。
マッカーサーは、一九四七年の二・一スト禁止の直後に議会解散を命令し、四月総選挙では、日本共産党が「民主主義の破壊者」だとし、共産党に投票するなと公然と選挙に介入した。
この選挙と前後して、参議院選挙、都道府県首長選挙、市区町村長選挙、都道府県、市区町村議会議員選挙も行われた。参議院、知事、市区町村長選挙は初めての選挙であった。
片山社会党内閣は、「傾斜生産方式」と称し、石炭、鉄鋼、肥料などの大企業を優遇した。
次の民主党の芦田均内閣も三党連立内閣*で、社会党左派も入閣した。
*民主、国協、社会の三党
187 占領軍の出版への検閲・介入は、著者に直接指示するもので、戦前の伏字とは違って、検閲の実態が目に見えない巧妙なものだった。
187 一九四七年十二月の第六回党大会の決定文書で、公然と占領政策への批判や反対をうたうことはできなかったが、「ポツダム宣言の厳正実施」「人民による経済復興と日本の完全な独立」というスローガンをかかげた。
188 占領初期の党の方針は、天皇制の廃止、共和制、土地改革の徹底的な遂行、独占資本への徹底的な制限と統制などの民主主義革命と、ポツダム宣言の完全実施との結合であったが、一九四七年から一九四八年以後、アメリカが、ポツダム宣言を踏みにじり、単独占領の方向を強め、日本をアメリカの属国とし、また日本の独占資本が国内の支配的勢力となった段階では、封建的な残滓の一掃だけでなく、反帝反独占の民主主義革命に向かわねばならなかった。
第六回大会は、この基本方針を個々の具体的問題に至るまでまとめるために、方針書の起草委員会を選出したのだが、徳田が個人的にイニシアチブをとろうとしたことや、野坂がソ連共産党から綱領の採択を急ぐなと指示されていて不熱心であったため、党は、民族独立の課題の戦略を定式化できなかった。
しかし第六回大会の行動綱領の決定は、後の選挙で役に立った。
189 党は第六回大会で、民主民族戦線の結成の方針を決めたが、社会党は拒否し続けたので、労働組合に働きかけ、一九四八年六月九日、総同盟を除く全労働組合、農民団体、日本共産党、社会党左派議員などが結集して、「労農連絡会」が組織された。そして八月十七日、労農連絡会が「民主主義防衛委員会」のような組織の結成を提唱し、一九四八年八月二十七日、「民主主義擁護同盟」準備会が作られた。
191 民擁同準備会は、官公労働者の争議権を奪う政令201号に反対した。一九四九年七月二日に結成された民主主義擁護同盟は、構成員が千百万で、多くの県に地方組織をつくった。
一九四八年八月の中央委員会総会は、「講和に対する基本方針」を決定した。講和の諸原則の五番目には日本の自衛権も明記した。
192 片山、芦田内閣の下での民主勢力と労働戦線の分裂の深まりは、闘争を困難にした。
一九四八年七月、マッカーサーは書簡と政令201号で、全官公労働者から団体交渉権とストライキ権を剥奪したが、その時の芦田内閣の労働大臣は、社会党の加藤勘十であった。総同盟は、「マッカ-サー書簡の趣旨の尊重」を唱えた。
日本共産党、産別会議、全労連は、このスト権剥奪を、ポツダム宣言への違背として糾弾した。しかしこのときの職場放棄戦術は、労働組合を弱め、間違っていた。
195 党がポツダム宣言に違反するシベリア抑留をしたソ連を批判しなかったことは間違っていた。また千島返還要求に反対したことも間違っていた。
スターリンの著書『レーニン主義の基礎』や、スターリンが監修した『ソ連共産党小史』を学習文献に指定したことは間違いであった。
感想 ここでスターリンの『レーニン主義の基礎』が批判されているが、その理由がただ項目的に羅列されているだけで、一体それが何を意味しているのか、わかりにくい。また学習文献に指定すること自体は間違っておらず、それを批判的に読めばいいのではないかと思うのだが。
私の『レーニン主義の基礎』の読後感想は、ここでスターリンはレーニンの考えを要約しており、レーニンからかけ離れているとは思わなかったが。ただし語調は、あまり精彩がなかった印象がある。また党についての考え方は、それまで私がわずかばかりのレーニンを読んだ範囲では、レーニンではあまりお目見えしなかったことだという印象がある。
196 極東国際軍事裁判(東京裁判)は、一九四六年五月から一九四八年十一月まで行われ、二十五人に有罪判決を下した。
アメリカ国内や連合国では、天皇を戦犯として訴追すべきだという意見が強かった。しかし、アメリカ当局は世論の反対を押し切って、マッカーサーの方針を認めた。マッカーサーは天皇を利用しようとした。そして中華民国の蔣介石やソ連も、当初の態度を変えてアメリカに同調し、天皇を訴追しなかった。オーストラリアはキーナン主席検事が反対したので天皇訴追を取り下げた。
大資本や高級官僚もその罪を問われなかった。関東軍七三一部隊やアメリカの原爆投下も審議の対象外とされた。
東京裁判は、一九二八年の不戦条約で禁止された「国際紛争解決ノ為」の戦争を、国際犯罪と位置づけた。
198 一九四九年一月の総選挙のとき、党は社会党員に対して、「社共合同」つまり社会党員の日本共産党への入党を勧めた。しかしこのときの入党条件が無原則的だったことは問題だった。これは伊藤律が主導した。
199 一九四九年四月、米は吉田内閣の協力の下に「団体等規正令」を公布した。それはこう述べる。「秘密的、軍国主義的、極端な国家主義的、暴力主義的及び反民主主義的な団体の結成及び指導並びに団体及び個人のそのような行為を禁止することを目的とする」
一九五〇年一月のコミンフォルムの「論評」は、武装闘争を勧めてはいなかった。
一九五〇年、京都の反動勢力は「反共府民戦線統一会議」をつくった。
徳田派 ―― 徳田球一、野坂参三、伊藤律、椎野悦朗、志田重雄、紺野与次郎、西沢隆二、長谷川浩、袴田里見、志賀義雄、松本惣一郎、神山茂夫、河田賢治、宮本太郎
中央委員会派 ―― 宮本顕治、蔵原惟人ら七人
分派活動をやっていたもの ―― 野田弥三郎・宇田川分派、その後身の国際主義社団、複数前衛党論の「別党コース」
全く党から離脱したもの
213 徳田は、第六回党大会で確認された起草委員会を無視し、まず「『当来する革命における日本共産党の基本的任務について』を提出するに当たって」を十九中総に個人的に提出し、十九中総は「当来する革命における日本共産党の基本的任務について」(徳田草案)を討議した。徳田草案は十九中総の原案に手を入れたものだった。
214 一九五〇年六月六日、マッカーサーは共産党の全中央委員二十四名を公職追放した。マッカーサーの吉田首相宛書簡によれば、「彼らの強圧的な方法は、過去における軍国主義的指導者が日本国民を欺き過誤を起こさせたところの方法と非常によく似ている」とした。追放令の発動によって当局の規制を受けた。
216 徳田派の中央委員は地下に潜行し、国内の実権は志田重雄が握った。
217 ソ連は原子力兵器の禁止の提案を国連に最初に行った。
徳田は、批判者の除名カンパニアを行い、「分派活動の全貌について」を発表し、そのなかで、宮本、志賀ら五人を「分派主義者」とした。
218 徳田は一方的に連絡を絶った。
現行党規約で「意見の違うことによって組織的な排除をおこなってはならない」とされているのは、このときの教訓による。
党員の多くは、徳田のやっていることの真相を知らなかった。
国内でも一九五〇年四月の十九中総以前に、徳田、野坂、伊藤律、志田重雄らによって非公然体制が計画された。ソ連の駐日代表部が、徳田、野坂を脱出させた。
220 北京機関の資金源は、一九五〇年七月ルーマニアにスターリンが設けた「左翼労働者組織援助国際労働組合基金」などであった。北京機関での中国側の窓口は、王稼祥、李初梨、趙安博らであった。ソ連とは駐中ソ連大使館であった。
北京機関は「自由日本放送」、「党学校」などを運営したが、資金はすべて中ソが持った。
222 伊藤律(1913.6.27—1989.8.7)は一九四六年の第五回党大会後中央委員、政治局員となった。一九五一年秋から中国に渡り、北京機関で「自由日本放送」を担当した。一九四七年三月、米陸軍諜報部隊(CIC)に逮捕された。伊藤は一九三三年五月に検挙され、共産青年同盟中央の組織を売り渡した。一九三九年十一月再逮捕され、岡部隆司を売り渡した。北林トモについての彼の自供は、ゾルゲ事件発覚につながった。一九四〇年八月、起訴留保で釈放され、一九四一年九月末に未決で再収用されるまでの間に、ゾルゲ事件に関わった朝日の記者尾崎秀美や、横浜事件関係者である満鉄調査部の人々や学者細川嘉六などの情報を特高に提供した。一九四三年暮れに伊藤は下獄し、一九四四年「豊多摩鵬翼隊の歌」をつくり、一九四五年八月二十四日に釈放され、特高宮下弘、伊藤猛虎に手紙を出した。
北京機関は伊藤の自供に基づいて除名処分にした。伊藤の身柄は中国に渡された。
ウィキペディアによると、伊藤はその後中国で監獄に入れられ、文革後の一九七九年に釈放され、一九八〇年九月三日に二十九年ぶりに六十七歳で帰国した。(ウィキペディア)
226 一九五一年二月の四全協では、周恩来の意見として、武装闘争の準備についてのソ連、中国両党の指示が伝えられ、「軍事方針について」が採択され、「労働者階級のゼネスト――武装蜂起を主力とする民族解放闘争」などと称した。これは劉少奇テーゼの適用であった。そして宮本らを「スパイ分派の粉砕」の対象とした。
全国統一会議は、『理論戦線』『建設者』などを創刊した。
228 五全協の軍事方針は、スターリンが朝鮮戦争の勝利の展望と結びつけて提起し、それにもとづいてつくられた。また「五一年文書」*(p.230)も、スターリンが筆を入れたもので、スターリンはそれを日本側に押し付けた。
*十月の五全協が採択した文書、「日本共産党の当面の要求――新しい綱領」のことである。
230 「五一年文書」は、民族解放民主統一戦線の結成を提起したが、アメリカ帝国主義が日本の独占資本を抑止しているとし、日本の革命を植民地、従属国型の革命と看做した。また反封建的な土地革命を唱え、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成できない」とした。
231 しかし直接武装闘争を提起したものではない。(?)しかし徳田派は極左冒険主義だと理解した。(?)
一九五一年八月のコミンフォルムの論評の後、宮本らが、徳田派に復帰するように、そして自己批判するように求められたが、復帰は円滑ではなかった。
231 一九五〇年六月二六日、金日成は「南半分に人民委員会を復活しなければならない」と国民に放送した。
この内戦は、スターリンが承認し、北朝鮮の計画的な軍事行動によって始められ、八月には釜山、大邱、浦項を除き朝鮮半島全域を占領した。スターリンは国連安全保障理事会をボイコットした。
233 一九五〇年十月から講和発効までに二十万人の政治家、官僚、独占資本家、言論関係の公職追放者が各界に復帰した。そのなかには、鳩山一郎、緒方竹虎、木村篤太郎、河上丈太郎、藤山愛一郎、松前重義、伊藤忠兵衛、五島慶太、小林一三、藤原銀次郎、正力松太郎らがいた。
234 総評は結成大会で、「日本共産党の組合支配と暴力革命方針を排除し、…」と宣言し、日本社会党を中心とする社会民主主義政党支持を決定した。
236 米軍の日本配備の条件を定めた日米行政協定の内容は、一九五一年のサンフランシスコ会議のときも、国会での両条約の批准のときも、公表されず、一九五二年の調印後初めて公表された。この協定は、政府の権限に属する「行政協定」だとして、国会での審議にもかけられなかった。
この協定により、アメリカは日本のどこにでも基地をつくることができ、全面占領下の米軍基地は、日本政府の合意がなくても継続して使用されることになった。その面積は、一九五二年四月、十三億五千二百六十三万六千平方メートル、二千八百二十四ヶ所にのぼった。
238 新聞論調は当初は単独講和反対だったが、次第に容認に転じた。
240 徳田らは、一九五〇年秋ごろから、とくに一九五一年末から一九五二年七月にかけて、軍事力以外には国民を解放できないとし、中核自衛隊、山村工作隊などの結成を目指した。この活動は、多くの弾圧犠牲者を出した。
党支持票の変化
一九四九年一月 一九五二年十月 一九五三年四月 一九五六年七月
二百九十八万票 八十九万票 六十五万票 百十四万票
242 「六全協」決議原案にそって、一九五五年一月一日付けの「アカハタ」は、「党の統一とすべての民主勢力との団結」「一切の極左冒険主義とは、きっぱり、手を切ること」「党内の団結と集団主義を一層つよめる」とし、徳田派の機構の整理も始まった。
243 六全協は、五一年文書は正しいとした。五一年文書は、アメリカ占領下での平和的移行の可能性を否定していたが、武装闘争やテロリズムを指示することはなかった。スターリンによって押し付けられた五一年文書は、当時まだスターリンが死後とは言え権威を持っていたから、その欠陥を指摘することができなかった。
244 ソ連共産党の意向で、野坂が第一書記になった。また六全協では、四全協以来の極左冒険主義の方針と実態、それについての五十一年文書の関係が討議されなかった。
245 鳩山一郎内閣は、米軍基地を拡張し、自衛隊を増強し、憲法改正に乗り出し、小選挙区制を実施しようとした(一九五六年三月)。一方で、国連に加盟し、中国と貿易をし、ソ連と国交を回復した。
社会党は綱領に「共産主義は民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、あいいれない存在となった」「我々は共産主義を克服して、民主的に平和のうちに社会主義革命を遂行する」とした。
感想 これは、今のまた当時の共産党であっても、その方針とほとんど同じではないか。ただここでは「共産主義」が、日本共産党を意味するだけである。誰も「民主主義を蹂躙され、人間の個性、自由、尊厳を否定」されるのがいいと言う人はいない。自民党も、社会党も、共産党も、全ての人々が。
五十五年体制は、二大政党制を強調し、社会党を健全化し、共産党を孤立化し、民主勢力を分断するものであった。
246 党は日ソ、日中国交回復の国民運動を提唱した。鳩山内閣によって一九五六年三月に上程された小選挙区制の成立を、共産党、社会党、労農党の統一行動などで阻止した。また砂川基地拡張反対闘争や、沖縄の核基地永久化をねらったプライス勧告に反対した。
247 カイロ宣言の「領土不拡大の原則」によれば、千島列島は日本に帰属されるべきだったが、ソ連はその覇権主義を反省せず、また日本は千島列島を放棄したサンフランシスコ条約第二条C項に縛られた。
248 五十年問題が明らかになるにつれ、党内には、自由主義、分散主義、個人主義、敗北主義、清算主義の傾向や潮流があらわれた。会議が混乱し、不当な非難や処分を受けて傷ついたものや、絶望して離党するものもおり、また壊滅した支部もあった。
志田重雄や椎野悦朗らが堕落行為をしていたことが判明した。志田は査問を受ける前に逃亡し、反党分派を組織し、除名されたた。椎野は調査を拒否したので除名にした。
249 第六回党大会選出の中央委員と統制委員の会議に、「六全協」選出の中央委員が参加した会議が一九五七年七月までに二回開かれた。第七回党大会の準備も、第六回党大会選出の中央委員と「六全協」選出の中央委員とが協力することになった。
251 一九五七年十月の第十五回拡大中央委員会総会の総括文書「五十年問題について」は、一九五〇年六月六日のマッカーサーによる弾圧のとき、徳田が中央委員会を解体したことは、レーニンが、「党中央委員会を破壊し、この機関の機能を停止させようとした事例」を、「解党主義のとくにはっきりとした例」(レーニン「解党主義の清算」1909)としてあげたもののひとつであるとした。
252 この文書には、北京機関を批判できなかったという歴史的な制約があった。また徳田の歴史的評価も、正確でなく美化された。そして野坂の役割も解明できなかった。
五十年問題の総括において、徳田らの解党主義的誤りの指摘を除いて、党幹部各個人の行動をいちいち規律違反として追及しなかった。実際、徳田派の指導下にあった党員の大部分は、党分裂の真相を知らず、徳田派が日本共産党だと思っていた。
野坂は自らの否定的役割について語らなかった。
野坂は、一九五八年六月三十日の「五十年問題について」の中で、「どっちもどっち」と書いた。
野坂はこの件で一九九二年に「赤旗」のインタビューを受け、「党を分裂させ間違っていた」とし、一九九二年三月三十日の野坂の百歳を祝う会では、自己批判を避けたが、その後常任幹部会宛に手紙を書き、「徳田の粗暴な性格をおさえるため」とか、「党を大きく残すため」とかしながら、「党規律違反で間違っていた」とした。
野坂の誤りは、むしろ徳田の誤りを助長することだった。野坂は、一九四九年十月ごろ、非公然体制への移行の中心人物としてソ連の情報機関から評価されていた。徳田死後も党の団結を遅らせた。野坂は一九九二年十二月に除名された。
255 劉少奇は、モスクワで「六全協」決議案を準備してから中国にもどった西沢隆二や袴田里見らに、「六全協」決議案は「後ろ向きだ」とした。西沢はそれにもとづいて五十年問題総括に反対した。
一九五七年十一月、フルシチョフも「いまさら」と総括に反対し、「党が割れる」と志賀義雄や蔵原惟人に述べた。志賀はこのとき以来ソ連と連絡を取るようになった。
二人は帰路北京に立ち寄ったが、そのとき劉少奇は、「党の分裂を招く」と総括に反対した。志賀は大会での総括に反対した。西沢も反対した。しかし第七回党大会は大胆に総括した。
258 感想 レーニンの『解党論』を持ち出して至極もっともらしい論述なのだが、ちょっと気になることがある。
1)徳田球一の死の真相 2)野坂とソ連との親密な関係 3)野坂の保身とそうせざるを得ない過酷な状況
1)徳田はひょっとしたら殺されたのではないかと思った。徳田の死は二年間伏せられていた。一九五三年になくなっていたが、公表されたのが、一九五五年の六全協のときだった。六全協はソ連で決定された。それは方針転換であった。徳田はその方針転換に反対した。そして野坂やソ連、中国は、がんこな徳田を殺した。
しかしウィキペディアによると、毛沢東が徳田の死を悼んで一句(永垂不朽)を贈っていたり、墓碑銘を周恩来が書いたりしている。また北京で三万人が参列した葬儀(追悼大会、1955.9.13)が行われていたりして、徳田暗殺説は、私の勘繰りかもしれない。
2)野坂は戦前の弾圧で拘留されていたが、病気で仮出獄して、一九三一年、ソ連へ逃げ、一九四六年に帰国した。ソ連にはお世話になったし、思想的にも影響を受けたであろう。
3)野坂はソ連で過酷な体験をした。野坂はソ連で山本懸蔵をデマでチクリ、実質的には野坂が山本を殺した。それは保身のためだった。野坂の妻までも疑われてソ連で拘留されたことがあった。野坂はもうそこで精神的には死んでいたのかもしれない。百歳まで生きながらえ、日本共産党から百歳のお祝いをされた後に、除名処分とは、死んでも死に切れなかったかもしれない。野坂参三(1892.3.30—1993.11.14)は、百一歳で死んだ。
この発覚は、『週刊文春』(1992.9-11)がもとになっていて、共産党も真相を究明せざるを得なかったのだろう。
260 フルシチョフによるスターリン批判は不十分で、その覇権主義は温存された。訂正されたのは、ユーゴスラビア非難とソ連内の異民族懲罰政策だけだった。
当初ワルシャワ条約機構は、NATOとの同時解体をかかげたが、ソ連が加盟国に直接軍事干渉するための道具であった。
262 一九五六年二月のソ連共産党第二十回大会期間中、ソ連など五党が、戦前のポーランド共産党の解散決議(一九三八年)を取り消したが、この措置の真の責任者や動機には触れなかった。
一九五六年四月、コミンフォルムを解散したとき、コミンフォルムが「ばらばらな状態を一掃した」とか、「諸友党を思想的、組織的、政治的に強化した」と自賛し、覇権主義を自己批判しなかった。
263 ポーランドで、一九五六年十月、ポーランド独自の社会主義を主張して三年余投獄されていたゴムルカが党第一書記に復帰したが、間もなくソ連に追随した。
一九五六年十月、ハンガリーで、ソ連に追随してきたラーコシ、ゲレーらに国民が反対した。
戦後ハンガリーの党第一書記や首相などの首脳人事はソ連が行ってきた。また一九五〇年から一九五四年までの農業集団化の強制、重工業偏重政策は不評であった。
一九五六年十月二十三日、ブダペストの民衆は、ソ連軍の撤退、ナジ・イムレの首相復帰、複数政党制を求め、一部の群集がラジオ局での放送を要求したが、拒否され、衝突が起こった。
一九五六年十月二十四日の未明、ソ連軍が介入した。
十月二十五日、ゲレー第一書記を解任し、カーダールが第一書記になり、ナジ・イムレ内閣が成立した。
ソ連は十月三十日、ルーマニア、ポーランド、ハンガリーでのソ連軍の駐留について協議する用意があると表明した直後に、ハンガリーに軍隊を投入した。
十一月一日、ナジは抗議し、ワルシャワ条約機構からの脱退と中立を閣議決定し、ラジオで中立を宣言した。
十一月三日、ソ連軍は、交渉中のマレーテル国防相らハンガリー政府代表団を逮捕、拉致した。ナジ政権は崩壊した。
十一月一日、カーダール第一書記はソ連に連行された。
十一月四日、カーダールはソ連に屈服し、カーダールを首班とする「革命労農政府」の樹立を地方放送局から放送した。
十一月四日、ナジ・イムレはユーゴスラビア大使館に避難したが、身の安全を保障するとの、カーダールとユーゴとの約束にもかかわらず、ソ連軍に捕らえられ、一九五八年六月、ナジとマレーテルは処刑された。
当時日本共産党は、「反革命」という見解を受け入れたが、一九八二年、ソ連の大国覇権主義に対する民衆の爆発とした。
当時日本では、アメリカ国務省によって発表されたフルシチョフのスターリン批判やハンガリー事件に関連する反共キャンペーンの中で、学生党員の一部(香山健一、森田実ら、1958.6.1)がトロツキズムに走った。
266 第七回党大会第十八回中央委員会総会、第八回党大会(除名確認)で、春日庄次郎、内藤知周らの考えが、アメリカ帝国主義が抜け落ちていて、日本の独占資本しか考慮していなかったし、平和革命が必然的であると考えたので、除名処分にした。
267 日本共産党は日米によって国際会議への参加が妨げられていたが、一九五七年十一月には、モスクワでの十月革命四十周年記念祝典に、初めて公然と参加した。
268 六全協後第七回大会までの期間に、ソ連の社会民主主義美化論の影響を受けた世界労連が、自由労連と無原則的に統一しようとし、また産別会議が、社会民主主義政党支持の義務づけなどの欠陥を軽視して安易に総評に依存しようとした。それらのことが原因で産別会議が一九五八年二月解散した。
269 第七回党大会(1958.7.23—8.1)で、五全協を「ともかくも一本化された党の会議であった」としたのは間違っていた。第十八回党大会四中総(1989.2)は、この部分について、「削除されるべき」ものとした。
また第七回党大会が、五一年文書について「多くの人々に深い感銘を与えた」としたのも正しくなかった。
大会にはソ連からミーチン、サチューコフらが参加し、当初、五十年問題の総括に反対した。それは志賀義雄が、総括をやれば党が分裂するなどと吹き込んでいたからだ。しかしソ連側は態度を変え、志賀も変えた。しかし西沢隆二は最後まで総括に反対した。
大会は当面の革命は「人民民主主義革命」「人民の民主主義国家体制を確立する革命」とした。人民民主主義国家はソヴィエト型とは違い、「労働者階級と共産党が指導権を握る民族民主統一戦線」を基礎にする、普通選挙権による代議制度を人民の機関とする国家である。
ソ連は当時東欧の人民民主主義革命を、遅れていると評価した。
大会は、ソ連を社会主義陣営の指導者と看做し、世界の基本矛盾を、社会主義陣営と資本主義陣営との両陣営の対立と評価したが、それは間違っていた。また帝国主義勢力の力を過小評価した。?
272 大会期間中でも大会以前も以後も、大会会場、事務所、幹部宅で盗聴器が発見され、法務大臣、公安調査庁長官、警視総監に抗議した。
273 「アカハタ」日曜版を出すことに反対するものもいたが、発行することにした。(1958.11)
277 一九六〇年一月調印の日米安保条約では、内乱条項を廃止し、固定期間を十年としたが、米軍基地を残し、日本の軍事力増強を求め、日米共同作戦への自衛隊の参加を義務づけ、経済的に米国に協力させられた。
284 総評、社会党は当初、アイゼンハワー訪日反対運動に積極的でなかったが、態度を変えて反対するようになった。
285 ニセ左翼暴力学生集団は、樺の死を利用して、反共攻撃を強めた。社会党や一部文化人も彼らに同調した。
TBSラジオ「ゆがんだ青春――全学連闘志その後」(1963.2.26)や、東原吉伸の手記などによれば、国会突入は、職業的反共主義者田中清玄が、唐牛健太郎や東原吉伸などの学生を指導し、田中や小倉警視総監、三井脩公安一課長などが資金提供や戦術指導をしたとのことだ。
285 党は新安保条約不承認の行動を行った。U2型機を日本から撤去させた。アイゼンハワーは沖縄まで来たが日本には来られなかった。彼は回顧録でこう言った。「私は失望せずにおれなかった。これは共産主義者の勝利だった」
極左冒険主義者は「岸内閣打倒即社会主義革命の突破口」と言った。彼らは民主運動の挑発的攪乱者である。
287 安保闘争と同時期の三池闘争では、数万の武装警官隊、右翼暴力集団、海上保安庁が弾圧し、中央労働委員会がごまかした。首切りを阻止できなかった。
288 民族民主統一戦線の全目標での一致はなくとも、安保反対の目標では一致できるという意味で、「安保条約に反対する民主連合政府」を提唱した。
289 八十一カ国共産党・労働者党代表者会議の声明は「すべてのマルクス・レーニン主義党が、独立した平等の党」であることを確認した。(モスクワ、1960.10--12)
声明は、ソ連共産党を「世界共産主義運動の一般に認められた前衛」と呼び、中国共産党(鄧小平)もこれに賛成した。中国は次は中国が本家になるのだと思っていた。最初に「頭」必要論を唱えたのは毛沢東だった。イタリア共産党代表は、欧州共産党の総意だとして、日本共産党にソ連前衛論への賛同を求めた。
党は、戦後の日本のように、高度に発達した資本主義国の反帝反独占の民主主義革命という科学的社会主義理論が必要であると主張した。それは全体として賛同を得たが、その理論の適用を、ヨーロッパでは除外するという地域的限定をうけた。高度に発達した資本主義国においては社会主義革命しかない、とヨーロッパ資本主義諸国の共産党は考えていた。
声明は、次のような点で誤っていた。ソ連の共産主義建設、社会主義世界体制の役割の過大評価、資本主義の全般的危機論、ユーゴスラビア共産主義者同盟への不当な非難などである。
世界的規模での共産党・労働者党の国際会議は、その後の中ソ対立で、この会議が最後となった。
293 一九五八年八月から一九六一年三月まで、春日庄次郎、内藤知周らは、分派的結束をかため、アメリカ帝国主義の対日支配との闘争を回避し、日本独占資本の平和的譲歩に期待し、反独占社会主義革命の見地にたち、独占資本主義国での革命は社会主義革命しかないとし、党の綱領草案に反対した。彼らはその論拠にイタリア共産党の構造改革論を持ち出した。そして日本の独立は、革命なしに統一戦線政府の段階で改良として達成されるとし、経済上の改良の積み重ねによって社会主義への自然成長的移行がなされるとした。イタリアを国際的権威と看做した。
294 春日庄次郎らは社会党内の反共右翼分子と結びついた。
295 春日庄次郎らは複数前衛論を唱えた。
志賀義雄は、一九五七年宮本訪ソのとき、ソ連に宮本を非難する内通をしたが、表面的には日本共産党の綱領草案に賛成するそぶりをしていた。
一九六〇年九月、ソ連のコヴィジエンコが日本共産党のニセ左翼暴力集団の評価を批判すると、志賀もそれになびき、ソ連への書簡の中で、党の民主主義革命路線を非難し、また五十年問題で統一委員会をつくったことは正しくなかったとも述べた。
295 一九六一年七月二十五日から三十一日にかけて第八回党大会が開かれたが、第七回党大会(1958)からの三年間でのいくつかの闘争の中に、政治的暴力行為防止法案(政暴法)反対闘争*があった。
*これについては本文中で一度も説明が出てこなかった。
大会での綱領報告は、当面の革命の民主主義的性格について、「…アメリカ帝国主義の支配の一掃と結びついて行われる独占資本の支配の打倒は、売国的反動的な独占資本の政府と権力を打倒する民主主義的革命であり、それ自体、資本主義制度一般、資本主義的私有制度全般の廃止を目的とする社会主義革命とは区別される。」
「社会変革には段階がある。」
「民族民主統一戦線は、…さしせまった共同の任務(おそらく当面の民主主義革命)にもとづくすべての民主党派、民主的な人々との共同と団結を、世界観などの相違をこえて固めることによってつくりあげられる。」
「民族民主統一戦線は、人民の民主主義権力の基礎である。あたらしい人民の政府は、共産党の単独政権ではなく、民主的党派を含む。」
そして社会主義段階では、「社会主義建設の方向を支持するすべての党派や人々」との協力を重視する。(社会主義段階では、社会主義を支持しなければいれられないらしい)
民族民主統一戦線政府をつくり、さらにこの政府を革命権力につよめるための土台は、民主勢力の広範な統一と大衆闘争の前進にある。
「勤労農民、都市勤労市民、中小企業家に対しては、その利益を尊重しつつ、納得をつうじて彼らを社会主義に導く」
共産主義社会とは、国家権力を含むどんな暴力もどんな強制も不必要になる社会、真に平等で自由な人間の協同社会である。
299 「アメリカ帝国主義は、世界における侵略と反動の支柱、最大の国際的搾取者、国際的憲兵、世界各国の人民の共通の敵となっている」
帝国主義に反対する民族解放と平和のための国際統一戦線をつくることが、当面の任務である。
党勢拡大のための党員の義務として、目標の数値化をし、革命的諸勢力の地域的分布と状態を明らかにすることにした。
300 感想・疑問
ユートピアについて。究極の理想社会=共産主義社会においては、あらゆる権力・暴力・強制がないと、一九六一年の第八回党大会は綱領で決定し、そのことは、本書を刊行した一九九四年においても、引き続き当てはまるという。(p. 299) それ自体とてもいいことなのだが、もっとリアルで融通が利き多極的な政治感覚がないと、破綻してしまうのではないか、という不安がつきまとう。
「民族民主統一戦線政府」という発想は理解できる。多少の意見の違いはあっても「共通点」を共有する多くの人々と協力して統一戦線をつくり、議会で安定過半数を占めるようになり、その統一戦線が政治権力をもつという。これは、共産主義=ユートピア論とならんで、たしかにそうなって欲しいと思う。
しかし、春日庄次郎が主張していたイタリア的「構造改革」論をまったく否定するのではなく、共通点もあるのだから、そこで一致して並行してやっていくことはできなかったものか。やりづらいだろうが。自らの「民族民主統一戦線政府」という考え方も決して完全無欠のものではないだろうに。それなのに多数のものを除名処分にしたという。(p. 294)
そしてそういう排他的なやり方では、当の統一戦線も議会で安定過半数を占めるどころか、先細りしはしないか。
唐牛(かろうじ)健太郎*、東原(とうはら)吉伸ら学生が、戦前に転向した「職業的反共主義者」田中清玄(きよはる)にそそのかされて、一九五九年十一月二十七日に国会に突入した(p. 280, 285)というのはびっくりした。しかも唐牛、東原らは、田中清玄や小倉警視総監、三井脩公安一課長などと接触して、資金提供や戦術指導まで受けていたという。(TBSラジオ「ゆがんだ青春――全学連闘志その後」(1963.2.26)や東方吉伸の手記)
だからといって、ブントはエセ左翼暴力集団なのだろうか。もともと唐牛は共産党員だった。(ウィキペディア)
*唐牛健太郎は一九五九年、ブント書記長の島成郎の説得を受けて、全学連委員長になった。(ウィキペディア)
*田中清玄はCIA協力者。一九二九年四・一六後の川崎武装メーデーなど武装共産党時代の党中央委員長で、一九三〇年七月十四日逮捕され、一九三四年獄中で転向した。(ウィキペディア)
労働者、農民などを中心とした人民による政治権力というが、そこに兵士を含めなくても大丈夫か。権力奪取後に警察や自衛隊によるクーデターの心配はないのか。
資本主義制度を維持し、私有財産制を維持しつつ、腐敗した現政権を打倒するというやり方は、根本=資本主義制度が変わらないのだから、また同じように倒されるべき政府ができてくる心配はないのか。
統一戦線政府は、共産党による独裁ではないというが、(p. 298) 他党派を排斥してきているのだから、権力を握れる集団は、共産党しか残っていないのではないか。
感想追加 一九六一年当時の「侵略、反動、世界の憲兵…」というアメリカの規定の仕方(p. 299)は、今でも通用するのだろうか。搾取、格差ならわかる。冷戦が終わってからは、憲兵ではなく、もっと適当な表現はないものか。「近代的兵器で武装し、自己の利益を追求するおせっかいや」…
社会主義社会についての詳細なビジョンが示されていない。私有財産制を否定しない民族民主統一戦線政府を強調するあまり、社会主義へは移行したくないかのように受け止められるのだが、それが本心なのか。それとも社会主義社会についてのビジョンがまだないのだろうか。
302 一九六二年十一月、フルシチョフはアメリカの要求にたいして何も言葉で答えず、またキューバの意向も聞かずに、キューバからミサイルを撤去した。
303 フルシチョフはケネディを「平和の政治家」「理性派の代表」と賞賛した。
304 志賀義雄は、一九六一年九月、(宮本の意に反して)ソ連共産党綱領草案の日本部分に賛成したが、帰国後批判された。志賀は一九五七年、五十年問題で、さらに六十年以来、M・Dの名でソ連と内通していた。
ソ連は、日本共産党の路線を中国寄りととらえ、引き続き志賀に反党活動をさせた。
306 『平和と社会主義の諸問題』誌はソ連に追従した。
308 公明党(公明政治連盟)
池田内閣の所得倍増計画の結果
GNP予定 GNP結果 設備投資の伸び(結果) 十年後の物価(結果)
七.八% 十一.一% 十五.二% 一.九倍
社会保障の国民所得に対する割合 勤労者世帯一人当たりの消費支出
現状 予測 結果 計画 結果
五.八% 七.四% 五.八% 二.一倍 一.六四倍
池田内閣はアメリカ帝国主義の要望にこたえて、貿易・為替の自由化をすすめ、(一九六二年の自由化率は八十パーセント)アメリカの農産物やアメリカ系石油大企業支配下の中東の石油を輸入した。
309
穀物自給率 エネルギー自給率
一九六〇年 一九七〇年 一九六〇年 一九七〇年
八二% 四五% 五五.八% 一六.一%
党は石炭産業保護育成の立場を通し、自由化に反対した。
309 社会党の江田三郎は安保闘争後、社会党の指導を独占的に制度化しようとした。この潮流は、アメリカ帝国主義の侵略性を免罪する「積極的中立主義」や、政府や独占資本の善意の譲歩に期待をかける「構造改革」論などを唱えた。
311 一九六三年八月五日、ソ連は、米英の地下核実験に反対する従来の方針を転換し、地下核実験を容認する部分的核実験停止条約を米英と結んだ。日本共産党は、条約への支持を原水爆禁止運動におしつけないことをもとめた。
六十年代から八十年代前半にかけて核兵器が一万発から五万発に増加した。
314 一九六二年七月の参議院選挙で、日韓会談の中止は、党の選挙戦のスローガンの一つであった。
創価学会は一九六一年十一月から公明政治連盟と改称した。
318 一九六二年十月、四中総(第八回党大会)は正しい党風のための七つの課題を決定した。
①大衆に対して官僚的態度や礼を失した態度を取ってはならない。③プロレタリア道徳をつよめ、小ブル的個人主義を克服する。④中央の方針を正しく理解し、第七回党大会三中総の党生活三原則を守る。
319 一九六〇年代のはじめ、社会党右派が日本的労働組合主義を提唱し、労働組合の政治的任務を軽視した。
320 一九六二年十月の四中総(第八回党大会)は、社会党支持の枠を持つ総評を、労働戦線統一の母体として評価できず、同盟会議、中立労連、未組織労働者などを含めた視野が必要だとした。
320 毛沢東の影響を受けていた聴濤幹部会員は、一九六四年一月、毛沢東が「反米愛国の(国際)統一戦線」声明を発表すると、反米闘争だけを強調するようになった。
322 一九六四年、宮本顕治は中国から党幹部会へ手紙を書き、民主運動の中では、「修正主義との闘争」ではなく「分裂策動との闘争」とすべきであるとした。
(一九六四年四月ごろ)岡正芳は「反米愛国の統一戦線」が、党の反帝・反独占の民族民主統一戦線から逸脱すると批判したが、受け入れられなかった。
324 農民組合だけでなく、農村労働組合も重視し、一九六四年三月以降、農村活動月間を設定した。
325 民商が国税通則法粉砕の統一行動をやった。
広津和郎らとともに弾圧反対、裁判闘争を行った。松川事件、菅生、青梅、芦別の諸事件を支援した。
326 一九六二年三月から四月にかけて、ジューコフは対外文化連絡国家委員会議長として来日し、日ソ文化協定を結ぶとして日本政府と合意案をまとめながら、署名の直前覆し帰国したが、その間、志賀や神山らと会って日本共産党の情報を収集し、四月十八日報告書をまとめ、その中で、日本共産党がソ連共産党第二十二回大会の決定を無視しているとした。
327 ジューコフらは、独占資本主義の段階では社会主義革命以外にはないとし、日本共産党の反帝反独占民主主義革命を、中国からの輸入だとした。さらに日本共産党が、ソ連共産党を批判した、(日本)共産党の文書を含む『世界政治資料』(アルバニア問題特集号)を発行したことも、そう判断した理由の一つであった。
328 一九六三年二月の五中総における、野坂、袴田らの提案には、党の自主独立の方針に反する次の誤りがあった。
・他党からの批判に反論することを『モスクワ声明』(六〇年声明)に反することだとしたこと。
・ソ連共産党を「国際共産主義運動の一般に認められた前衛である」(六〇年の国際会議の声明)としたこと。
・ソ連共産党が民族独立闘争を「一貫して支持している」としたこと。
・世界の共産主義運動の団結を、ソ連共産党と中国共産党に依存する(中核とする)としたこと。
330 一九六三年八月、党の部分核停条約締結批判に対して、シューコフが「広島の声」で党を攻撃した。
ソ連は部分核停条約支持を第九回原水爆禁止世界大会に押し付けようとし、一方、中国は部分核停条約反対を大会表明に求めたが、両者とも、一致点でのみ共同するという日本共産党の態度を聞いて、共同行動のアピールに賛成した。
ところがジューコフは、党を除名されていた前野良、勝部元らと会談し、ソ連に帰ってから「広島の声」で日本共産党と第九回原水爆禁止世界大会を攻撃し、社会党、総評などの分裂集会を評価した。
一九六三年九月、吉田嘉清(原水協)と吉川勇一(日本平和委員会)は、ソ連のセナトロフと会談し、ソ連の部分核停条約を擁護した。吉川の除名後、吉田は長く党にとどまり、(一九六三年の)二十一年後の一九八四年、総評に同調して原水禁運動を変質させ、除名された。
イズベスチヤの東京特派員は、日本共産党の党員に、部分核停条約を支持して党中央委員会と闘うように扇動した。また一九六三年八~九月に訪ソした日ソ協会代表団に対して、部分核停条約支持の共同コミュニケに署名するように強要した。
志賀、神山らは頻繁にソ連と連絡を取り合うようになった。
一九六三年八月、中国の趙安博は宮本にフルシチョフ批判を要求したが、宮本は拒否した。
331 一九六三年十月、第七回中央委員会総会(第八回党大会)に宮本が療養をへて出席した。
アメリカ帝国主義の二面政策を、一方ではソ連などとの一定の『やわらぎ』に一応応ずる態度を取りながら、『中国封じ込め政策』を中心にして、各個撃破的にアジア、ラテンアメリカなどの民族解放運動の圧殺や、中国、朝鮮、ベトナムなどアジアの社会主義国への侵略戦争の陰謀」をすすめる各個撃破政策と規定した。
「国際共産主義運動にかんする諸問題についての決定」*に反対・保留したのは、志賀義雄、鈴木市蔵、神山茂夫、中野重治の四人だった。*一年後の一九六四年十一月六日の「アカハタ」に発表された。
神山は、七中総の会議資料をソ連大使館に渡し、KGBにも詳報を伝えていた。志賀も、七中総の経過をソ連大使館に通報していた。
333 1964.3 日ソ両党会談は失敗に終わった。
一九六四年三月、党は、袴田里見、松島治重、西沢富夫、米原昶(とおる、ちょう)らをソ連に送り、ブレジネフ、スースロフ、クーシネン、ポノマリョフらと会見し、覇権主義的干渉の中止を求めた。ソ連側は、日本共産党の発言中に、机をたたいて怒りはじめ、「最後通牒のようだ」「ソ連共産党に要求するとは何事だ」と言って威嚇し、スースロフは席を立って、日本側の席に来て、代表団の頭上に手を振り上げ、大声で怒鳴った。
ソ連側は、「国際共産主義運動の総路線だ」と言って、高飛車に押し付けようとした。彼らは事前に準備した共同コミュニケ案に同意するように強要した。このとき袴田も本音を隠して党の方針に従った。
一九六四年四月十八日、ソ連は書簡をよこし、その中で、日本共産党の路線を、「マルクス・レーニン主義からの離反」、「国際共産主義運動の合意の路線からの逸脱」とした。
334 志賀義雄は党の決定には従うと述べた。しかし志賀はソ連と内通を続け、資金提供も受け、一九六四年五月十五日国会で部分核停条約批准投票で賛成投票を行った。志賀はミコヤンから激励され、この直後に記者会見をおこなった。党は翌十六日、志賀の国会議員としての活動を一時停止すると決定した。
鈴木市蔵も部分核停条約批准投票で賛成投票をした。
党は五月二十一日二人を除名し、国会議員の辞職を要求した。
二人は六月三十日記者会見し、「日本のこえ同志会」をつくり、「日本のこえ」を七月十五日に発刊すると発表した。
神山茂夫は中野重治に中野の作品のソ連での出版を持ちかけ、プラウダ出版は八月、ロシア語訳の中野の詩集を出版した。
ソ連は「プラウダ」その他で、七月十五日の彼ら反党活動を支持、激励した。ソ連は七月十八日、日本共産党宛の四月十八日付の書簡を公表した。
志賀らは、一九六四年七月『インタナショナル』を、同年十一月『新世界』(一九六六年二月号から『新世界ノート』と改題)を発行した。『新世界』は、ソ連の対日工作用の偽装機関誌だった。各国共産党はソ連から、志賀らの「日本共産党(日本のこえ)」を支持するように要請された。
ソ連は日本共産党の国際活動を妨害した。一九六四年の原水爆禁止世界大会、『平和と社会主義の諸問題』誌編集局会議、一九六八年のチェコスロバキア侵略問題、一九七二年の日本共産党五十周年記念国際会議などで、ソ連は日本共産党を孤立化させようとした。
1964.8 日本共産党はソ連共産党に返書を送り、四月十八日付の書簡に反論した。
党は、ソ連が「世界で最大の威力を持つ核兵器」を作った結果、「帝国主義者は力の立場に立つ政策を実施する物質的地盤を失った」とする帝国主義変質論を批判した。
党は、この返書や、論文「ケネディとアメリカ帝国主義」(1964.3)、「原水禁運動と分裂主義者の理論と実践」(1964.7)、「現代修正主義者の社会民主主義政党論」(1964.8)、「テ・チモフェーエフとアメリカ帝国主義」(1965.2)などで、世界の共産主義運動論における間違った見解を批判した。
337 「志賀氏は『共産主義の良心に従った』と述べている。…国民の多くは、志賀氏の勇気を買うであろう」(「朝日」1964.5.16)
志賀の除名で日本共産党は「武力による革命の達成」という「中共路線をえらんだ」(「読売」1964.5.23)
「日本共産党の動揺は大きく、…党の自主性の欠如を余すところなく暴露した」(「毎日」1964.9.3)
商業新聞は、日本共産党を中国派と見る虚偽の公安情報に追随した。
新日本文学会は、一九六一年以来、武井昭夫、大西巨人、針生一郎ら反共文学者によって私物化された。
江口渙は一九六四年十月、同会から除籍された。
338 一九六四年五月、ソ連は、世界平和評議会(世評p.339)、世界労連に対して、社会党・総評系の、原水爆禁止世界大会の分裂集会を支持させようとした。
339 一九六四年七~八月、ジーコフや世界平和評議会のエンディコットらは、日本原水協と社会党・総評の分裂主義者の組織とにともに出席したが、批判されると原水禁世界大会から退場し、分裂大会だけに出席した。イタリア共産党は、このときソ連に追随した。
1964.4 ソ連のE・V・イワノフが、総評に、日ソ協会に反対するようによびかけた。
ソ連訪問から帰った松本七郎前理事長は、分裂行動を開始した。
一九六四年十月、ソ日協会は、社会党の岡田利春を招待し、日ソ協会の分裂を促した。
340 一九六四年三月、党代表はソ連訪問の帰路、中国に立ち寄った。当時中国は、国際的な反帝民主運動の会議を、「修正主義暴露の演壇」とし、国際的な共同闘争を軽視していたので、党は、それを批判した。
一九六四年七月末、ソ連は国際会議とその起草委員会を勝手に決めた。日本共産党はこれを批判した。中国共産党はそのような国際会議は開かないほうがよいとした。
341 一九六四年十月、志賀らはブレジネフに対しても忠誠を誓った。
ブレジネフは覇権主義を引き継ぎ、十一月、志賀をソ連に招待し、ポノマリョフは、新党の創立を志賀に指示した。
342 一九六四年の北爆に至るジョンソンの挑発計画の存在は、一九七一年六月、米国防総省秘密報告で暴露された。また一九七〇年十二月、米上下両院が、(大統領の権限を拡大する)トンキン湾決議を失効とし、一九七一年一月、発効した。北ベトナムには、魚雷艇そのものがなかった。
343 日本の商業新聞はアメリカの挑発と侵略を容認した。
「読売」は、「(トンキン湾の)公海で米艦が(魚雷で)攻撃されたことに対するアメリカ国民の公憤もよくわかる」
「毎日」は、「米国が強行措置に転ぜざるを得なかった余儀ない事情も理解できる」
「朝日」は、「北ベトナム魚雷艇の『挑発』」とし、アメリカに自重を求めつつ、ベトナムを非難した。
344 1964.11 第九回党大会
大会は、大衆闘争の三つの観点を定式化した。①要求の獲得、②大衆の自覚の成長と組織の強化、③党勢の拡大。
大会は、米日反動の反共主義を明らかにした。「古典的マルクス主義」は時代遅れだとか、日本を「共産主義の侵略」から防衛するとして対米従属の軍国主義の復活をはかる反共主義を明らかにした。
山口県の党組織は、一九六四年、中国の教条主義を絶対化する誤りを犯した。
345 ベトナム戦争では、日米安保条約が拡大解釈され、日本の船舶も輸送に使用された。日米安保条約が日本を守るためのものではないことが明らかになった。
346 1965.6 佐藤内閣は、日韓基本条約を締結した。
これは、南朝鮮を唯一の合法政府と認めるものであり、米日韓の事実上の軍事同盟であった。また経済協力とは、日本の独占資本の韓国への経済侵略を意味した。
347 一九六五年七月の参議院選挙では、…③人民生活破壊の従属経済か、人民の生活向上と日本経済の自主的、平和的発展か、⑤安保条約、憲法改悪、人民生活破壊の自民党政府か、安保反対、憲法改悪反対、生活擁護の民主連合政府かなどの争点を明らかにしてたたかった。
この参院選に初参加した公明党は、その結党宣言(1964.11)で、「王仏冥合(おうぶつみょうごう、政教一致)・仏法民主主義」「大衆福祉」「地球民主主義」をかかげた。
自民得票率44%(全国区)、日本共産党6%(地方区)、4%(全国区)
志賀一派が、ソ連の指示で日本共産党名で東京地方区に神山茂夫を、野坂参三に対抗して、たてたが、落選した。
一九六五年、ソ連平和委員会のジューコフらは、原水禁を準備した安恒良一総評政治局長らと連絡しあった。
ソ連はモスクワ放送をつうじて、佐藤内閣の外交政策が「平和愛好」政策だと美化する論調を繰り広げたが、これに対して党は、一九六六年一月一日、二月一日に批判した。
一九八〇年代にも党は、中国、東ドイツの自民党政府美化論を批判した。
ソ連共産党の計画した「国際会議」(p.342, 1965.3)は立ち消えになり、原水禁や日ソ交流協会(1965.2)と日ソ親善協会(1965.4)は不振だった。(p.339)
ソ連共産党は、志賀一派を日本共産党にとってかえるというシナリオを変更して、日ソ両党の関係回復と反党分子の復党を目指す「併党」論方式にかえたが、反党諸派の分裂で挫折した。志賀らがつくった「組織統一のための準備委員会」は、貿易商社を設立し、ソ連から財政援助を受けた。
ソ連は、一九六四年十月以降志賀らと「党の線での」関係は持っていないとしながら、「日本のこえ」に援助を続けた。
一九六五年五月、社会党委員長になった佐々木更三は、中国との深い関係を保ちつつ、ソ連とは「日ソ友好貿易協会」(1967.6)や対ソ貿易をする商社などを資金ルートとした。
354 1964.11 第九回党大会ごろ、中国は、ソ連をアメリカ帝国主義と同一視し、国際統一戦線に反対する、「反米反ソ統一戦線」を主張した。
1966.2~3 宮本がベトナム、朝鮮、中国を訪問した。中国では、劉少奇、鄧小平が対応した。
355 中国はソ連のベトナム支援について誤った認識を持っていた。中国は毛沢東も含めて、米ソ両国が揚子江を境に南北を分割占領するのではないかと恐れていた。そして第三次世界大戦に備えて革命戦争を準備すべきだと主張したが、その裏には、ベトナム北爆の中国への拡大を避けるために、アメリカ帝国主義を刺激したくない、ミサイルなどのソ連の援助の役割を否定し、中国だけの援助によるゲリラ戦にとどめるべきだという本音が隠されていた。
一九六六年三月、毛沢東は「北京の連中は軟弱だ」とし、三月二八日、「資本主義復活の道を歩む実権派打倒」の名の下に、「紅衛兵」を動員し、社会主義権力と前衛党指導部を転覆し、毛一派の専制支配をはかる権力闘争を指示した。
毛沢東の四つの敵とは、アメリカ帝国主義、ソ連修正主義、日本反動派、日本共産党であった。(「中央の責任者への講話」1966.7)
一九八〇年、『世界政治――論評と資料』に、小島優編「共同コミュニケはどうして破棄されたか ―― 一九六六年の日中両党会談記」が発表された。*十四年後のことである。
356 毛沢東は、日本共産党を「修正主義」と規定し、覇権主義的干渉のカンパニアを展開した。日本の革命運動が中国流の「人民戦争」路線にたつことや、毛沢東の神格化、「毛沢東思想」絶対化を受け入れることを要求し、党中央委員会内の西沢隆二、安斎庫治、山口県の福田正義、原田長司らに党破壊活動をさせた。
357 福田らは山口県党組織の県、地区幹部だったが、一九六六年六月から、「長周新聞」に反中央的記事を掲載した。福田、原田らは「日本共産党山口県委員会革命的左派」を自称した。彼らは中国の青年文化代表団の歓迎集会で旗あげをした。
西沢は一九六六年八月、第六回中央委員会総会(第九回党大会)で、毛沢東思想の旗をかかげるべきだと発言し、中央委員会の報告案に反対した。西沢は「わかもの社」の党員をひきこんで分派を作り、雑誌『毛沢東思想研究』で日本共産党を批判した。
安斎は一九六七年一月、日本共産党中央委員会が修正主義に転落したという論文を送りつけ、連絡を絶った。
358 春日一派の反党分子との闘争、志賀、鈴木、神山、中野らフルシチョフ盲従の反党分子との闘争、西沢隆二、安斎らや、福田、原田一派らの毛沢東盲従分子との闘争を経て、党はたくましく成長した。
読売新聞は一九六六年八月九日、日本共産党を「自主孤立路線」と揶揄した。
一九六六年の第十二回原水爆禁止世界大会で、毛沢東一派に盲従する、マラヤ、スーダン、オーストラリアなどの参加者は、世界民青連を「帝国主義の手先」として大会からの排除を求め、同調しない日本原水協を「修正主義者」と呼んで非難した。
359 毛沢東一派は、様々な日本の民主的大衆団体に対して、毛沢東路線を支持し、日本共産党反対の立場に立つことを公然と求めた。日中友好協会がこれを受け入れないと、一九六六年十月、中国共産党は、社会党の黒田寿男らを脱退させて、日中友好協会正統本部をつくらせた。
360 1966.10 第十回党大会で、五十年問題と、ソ連、中国の覇権主義との関係を、大会としてははじめて明確にした。その後も党は「北京機関」問題やソ連秘密資金問題などを明らかにした。
大会は、自主独立の立場と「二つの戦線*での闘争」の意義を指摘した。
*「二つの戦線」とは、ソ連と中国の覇権主義のことをさしているのか。「左右の日和見主義との二つの戦線でのたたかい」(p.361) 「ソ連、中国の覇権主義的干渉と結びついた両翼の日和見主義」(p.371)
大会は、規約前文に日本革命の展望を明記した。
大会会場から二つの盗聴器が発見され、大会は、佐藤首相、新井警察庁長官、中原警視総監、塩見国家公安委員長にたいして、大会名で抗議した。
362 一九六七年二月の紅衛兵の壁新聞によると、「宮本顕治らばかどもよ。お前たちは犬の耳をよく立てて聞け。毛主席に反対する者は誰でも打倒する。我々は東京まで鉄拳を伸ばしてお前たちの犬の頭をなぐってやる」
中国は西沢隆二を招待し、日本共産党を中日両国人民の敵と看做した。
党は、毛沢東ら極左日和見主義分子に、一九六七年三月十五日の「赤旗」で、はじめて名指しの批判をした。
1967.8 党幹部会員候補の砂間一良と「赤旗」特派員紺野純一が、北京空港でリンチをうけた。中国はそれをデマだとし、日本共産党を、佐藤内閣と「同じ穴のムジナ」「ソ連修正主義の分家」「日本軍国主義の反中国の伝統を受け継いでいる」とした。
363 1967.8 党は公然と中国を批判した。「文化大革命の本質は、毛沢東一派が毛沢東神格化にもとづく、党と国家に対するその無制限な専制支配を打ち立て、強化しようとし、そのために計画的にひきおこした政治闘争である」
一九六七年四月、「赤旗」で、高度に発達した資本主義国日本での議会活動の役割を否定する彼らの反議会主義や、中国式人民戦争論を日本に機械的に導入しようとする極左冒険主義の挑発的企てを鋭く暴露した。革命の平和的合法的発展理論などを展開した。
社会党は中国に追従し、在日華僑の襲撃事件を、日本共産党・民青同盟による中国人留学生に対する襲撃事件だとした。
364 一九六五年十月、日本共産党は、市川正一の、同年夏の参院選と都議選での反党分派主義者との闘争を叙述した論文を『平和と社会主義の諸問題』誌に送った。同誌はソ連人が編集長をしていて、論文の掲載を妨害した。ソ連は、東欧五カ国に圧力をかけ同論文を掲載しないように圧力をかけたが、同調する党はなく、結局同論文は掲載された。
一九六六年六月、ソ連は日本共産党との関係正常化を希望し、会談を提案した。党は、ソ連が志賀との関係を絶つことを条件とし、合意した。
このとき袴田はソ連と内通し、ニセ交渉をしていた。
一九六八年七月、「日本のこえ」などが主催する「日ソ青年友好祭」に、ソ連の青年が参加した。
365 1968.8 ソ連、東ドイツ、ポーランド、ブルガリア、ハンガリーなどがチェコスロバキアを占領し、チェコスロバキア政府・党の指導部を逮捕した。
一九六八年一月、チェコスロバキアで、ソ連への従属に反対する運動が高まり、共産党第一書記兼大統領のノヴォトニーが解任され、ドプチェクが第一書記に、スヴォボダが大統領に選ばれた。
党は一九六八年八月二十四日、幹部会声明で、干渉の中止と軍隊の撤退を要求した。この幹部会声明はチェコスロバキアのラジオで国民に伝えられた。
党は民族自決権を擁護した。
一九六八年十月、ソ連は暫定駐留条約をチェコスロバキアに押し付けた。それを不破哲三が批判すると、ソ連は対ソ批判の中止を求めた。この件について袴田はソ連と内通していた。
ソ連は、ソ連軍の出動を要請したという人物の名前を最後まで公表しなかったが、ソ連崩壊後、ビリャクら五人であることをソ連が明らかにした。
フランス、イタリアなど西欧の多くの共産党は、軍事介入に批判的でありながら、ソ連共産党との連帯を確認した。これらの党はソ連から資金援助を受けていた。
367 1968.11 ブレジネフが「制限主権論」でチェコスロバキア介入を正当化した。
「社会主義的共同体の安全が脅威にさらされるときには、これはもはやその国の国民だけの問題ではなく、全社会主義諸国の共通の問題である」「社会主義制度に対する脅威を阻止するため兄弟党を軍事援助する」
ソ連は、連行したチェコスロバキアの指導部に対して、チェコスロバキアの国境はソ連の国境であるとか、前もってジョンソン大統領から、「チェコスロバキアとルーマニアについて、(ヤルタとポツダムの会談の結果を)無条件に承認する」という回答を得ていると語った。
368 1969.1 ソ連が日本共産党対策を決定した。その中に社会党・総評との関係強化があった。
社会党はチェコスロバキア問題で批判的な声明を出したが、その後(1969.3)ソ連擁護に転じた。
369 1968.8~9 宮本らが朝鮮労働党と会談し、朝鮮労働党の武力南進論を批判し、金日成は、当面は南進政策をとらないと表明した。金日成はチェコスロバキア問題に関して、「社会主義共同体の擁護だ」と繰り返すだけだった。
370 党は、一九六五年三月のモスクワの「相談会」や、一九六九年六月の「モスクワ会議」は、団結に役立たない会議として批判的態度を取った。
371 一九六〇年代、党は『平和と社会主義の諸問題』誌に代表を送り、その編集局や国際理論会議に参加した。
372 1967.1 総選挙で、党は、社会主義、共産主義の理念などを重視した。
一九六六年の夏から秋にかけて、田中章治事件、信濃川河川敷買占め事件、共和製糖事件など佐藤内閣、自民党の汚職・腐敗事件が続いた。
373 労働災害が多発し、年間百万件に及び、六、七千人の労働者がなくなった。
総選挙の結果(得票率)
自民党 社会党 共産党 民社党 公明党 一票の価値の不平等
48% 4% 一対三・五
自民党は一九六七年二月、党内資料「第三十一回総選挙結果分析のための資料」(公表は「自由新報」一九七六年三月二十三日)で、「比較的革新色の強いといわれる都市有権者の一票の重みが、農村有権者より軽いといわれる現行選挙制度の仕組みが幸いした」とした。
志賀義雄は大阪六区で日本共産党の名で立候補したが、党は神崎敏雄を立候補させた。志賀は前回当選したが、今回は落選した。神崎も落選した。*
*こういうやり方は対自民党という大局から見てどうなのだろうか、疑問だ。
375 自民党や反共野党は、日中友好協会本部襲撃事件(1967.2--3)や紅衛兵問題などが報道される中で、「都庁に赤旗を立てさせるな」「暴力革命の共産党」とし、一九六七年三~四月の地方選挙で反共デマ攻撃をした。
376 長野県での選挙政策では、「地域開発」反対(中央高速道反対)が強調された。
376 東京都知事選では、社会党と政策協定、組織協定を結んだ。米原昶の立候補を取りやめた。
美濃部亮吉は、一時期解放同盟浅田派の圧力に屈した。
378 党は労働者に、ベトナム侵略のための武器、軍需物資の、生産と輸送の拒否を呼びかけた。
様々なベトナム戦争解釈が現れた。
民社党、公明党では、
けんか両成敗論…侵略者を免罪する。
社会党や一部知識人の間では、
ベトナム例外論…ベトナム戦争は、米ソ協調、平和共存の例外にすぎないとする。
米中対決論…ベトナム侵略戦争は、米中対決の予備段階にすぎないとする。
ポスト・ベトナム論…一九六八年三月のジョンソンの北爆部分停止で、ベトナム問題が解決したとし、これからは中国問題であると考える。
無条件停戦論…侵略者と被侵略者を同列におく。
などのベトナム戦争論がみられた。
379 日米安保条約は、一九七〇年にその固定期間が終了するので、その継続か廃棄かが問題であった。
380 一九六九年一月に成立したニクソン政権は、同盟・従属諸国の軍事力、経済力の効果的動員と、対中・対ソ外交の柔軟化によって、従来の各個撃破政策を補強するという、ニクソン・ドクトリンを採用した。
一九六七年十一月、党は、自民党、民社党の、沖縄の基地つき返還論を批判し、沖縄の即時、無条件、全面返還を要求した。
社会党は安保条約廃棄にもとづく共闘に反対した。
民社党、公明党は、安保改定論や、安保の段階的解消論を唱え、日米軍事同盟の存続を容認した。また沖縄問題でも、基地つき返還論に傾いた。
佐藤内閣は「安保条約のおかげで平和が保たれた」とした。
党は、外国に独立と主権を奪われていては、安全保障はないとし、つぎの安全保障政策を提起した。①サンフランシスコ平和条約第三条*、第六条*の破棄、②…当面、核兵器使用禁止協定締結を求める、④…憲法違反と対米従属の軍隊、自衛隊を解散させる。
*第三条は、日本が、沖縄などを米国の施政権下に置くことに同意することを規定し、
*第六条は、占領軍の撤退を規定するが、日米条約などは例外とするという規定である。
党は、日本の平和・中立化をまもる力は日本人にあること、日本の中立化の国際的保障をかちとることを強調した。安保条約第十条で終了通告し、安保条約を廃棄するとし、日米安保条約とこれに関連する諸協定(米軍地位協定、MSA協定(相互防衛援助協定1954.3.8 東京)など)も廃棄するとした。
自民党は「安保条約の下でこそ繁栄する」、「安保条約をなくしたらアメリカとの経済関係が絶たれる」としたが、党は、一九六八年六月、「日本経済の対米従属が経済の自主的発展を妨げており、アメリカの商品、資本の野放しの侵入を許している自由化や、石油偏重の従属的エネルギー政策をやめて、また、アメリカに押し付けられたココム(対共産圏輸出統制委員会、Coordinating Committee for Multilateral Export Controls; COCOM)による貿易制限をなくして、自主的経済政策を行う」とした。
感想 自由貿易は、もし理想的な世界が実現し、つまり、民族間の経済的交渉上の一切の不平等がなくなったとするならば、理念的には可なのではないか。
TPPが問題なのは、それが本当の自由貿易ではなく、依然として各国間の利己主義、とくに強国の弱国に対する主張が押し付けられているのが問題であって、それが解消されたとするならば、自由貿易は可なのではないか。
EUを見よ。これは完全な自由貿易ではないか。経済的に非効率な国の産業は淘汰され、効率のよい産業だけが生き残れるのだ。だからEUは人の移動の自由を完全に保証しなければならない。貧しい国=田舎から、豊かな国=都会へ人々は移住し、貧しい国の過疎化は避けられない。もしそれがいやで自国の産業を保護育成し、将来的に世界にたちうちしたいのなら、EUに加入せず、貧しいながらも孤高を保てばよい。
保護関税をかけ、自国だけに孤立し、貧しくつましく孤高を保つやり方は、今のようなグローバル化の時代では、考えられないのではないか。
たしかに、もし日本がTPPなど自由貿易を徹底的に推し進めるならば、工業関連産業には有利であっても、農業には不利であろう。農家、特に米作農家、酪農農家、肉牛農家などは、アメリカやオーストラリア、ニュージーランドなどの大規模経営に太刀打ちできず、経済的にやっていけなくなって廃業し、農民は都会に出てきて、日雇い労働者になるか、生活保護を受け、農村は幽霊部落になるだろう。
次は安保条約=軍事同盟について。自民・公明が自慢げに言うところの、安保条約の抑止力は、理解できる、つまりその一定の効果を私も認める。中国や北朝鮮は、日米安保条約があるから、いくらか自制しているのかもしれない。しかしそれで恒久平和が得られるかとなると、そんなことはないだろう。
軍隊は必要か。必要なときもある。たとえば、ヒトラーの好きなままにさせておいたら、世界はどうなっていただろうか。その理屈はわかる。だが、その軍事力は特効薬なのだろうか。今の日本における、まさに戦前に復帰しているかのような反動好みの盛り返しや、ドイツのネオナチの復活は、軍事力が特効薬でなかったことを示している。ああ、馬鹿どもよ!一人ひとりが自覚して、他者を思いやり、日々の政治に関心を持ちつづけ、自分の頭で判断できる能力、行動力に頼るしかないのだろうか?
383 1969.10.21 安保条約反対、沖縄全面返還を共同要求とする統一実行委員会方式による共闘ができた。そのときトロツキスト各派や反戦青年委員会を参加させないことを確認した。
383 統一実行委員会の確認事項で、ニセ左翼暴力集団各派など統一行動の発展を阻害する団体およびニセ左翼暴力集団の強い影響下にある反戦青年委員会の参加を認めないことを取り決めた。
383 一九六八年三月、党は、労働組合運動の統一のための四つの任務を指摘した。このころ、同盟、IMF・JC(国際金属労連日本協議会)などで、労働戦線の右翼的再編が強まっていた。
1.特定政党の支持をやめること。2.反共を前提としないこと。3.労使協調主義に反対する。4.未組織労働者の階級的・民主的組織化。
384 一九六九年十一月、三十八単産が「全民主勢力統一のためのアピール」を採択し、統一戦線支持の潮流の影響力が大きくなった。しかし労働組合運動は全体としてはなお社会民主主義勢力の指導下にあった。
党は、すべての農村に、農民組合、農村労働組合を組織しようとしたが、農村労働組合全国連合会(一九九一年、全日自労建設一般労働組合と組織統合した)などに参加した農民は、全農家の一パーセントにすぎなかった。
384 日本経営者団体連盟(日経連)は、一九六〇年代前半から、民青同盟の発展に警戒し、調査、研究をすすめ、社員教育、職制の締め付けで、民青同盟の組織破壊と人権侵害を行った。一九六九年十一月現在の民青同盟員は二十万人だった。
385 ニセ左翼暴力集団など反共集団は、六十年安保闘争後、一時混乱状態に陥ったが、一九六七年六月十八日、毛沢東が、六十年安保闘争時にまでさかのぼって、ニセ左翼暴力集団など反共集団の反革命的挑発活動を、「真の革命派」と褒め称えたことによって勢いづいた。
一九六七年秋、自民党総務会で有力幹部は、「いわゆる民青対策からみて、むしろ三派を泳がせた方がいいんだ。これを破壊させてしまっては、民青系の学生が力を得て、それで運動が統一されると損だ」とした。
また、坂田道太自民党文教制度調査会長は『教育新聞』で、「三派系全学連よりも、一層警戒すべきは日共系『民青』の動きだ」とした。
自民党や政府が、ニセ左翼暴力集団を適当に泳がせて、民青同盟や真の全学連に対抗するものとして利用し、治安対策強化や、かれらと日本共産党とを故意に同一視する反共攻撃の材料にもしていることを、党は追及した。
社会党は、一九六五年、社会党青少年局、総評青対部、社青同の呼びかけでつくった、反戦青年委員会に、三派全学連、核マル系全学連などニセ左翼暴力集団各派を加盟させた。
社会党は一九六八年、ニセ左翼暴力集団を同盟軍とし、日本共産党を「権力の補完物」とした。
386 1968~69 「大学の運営に関する臨時措置法案」反対闘争をたたかった。
党は一九六八年、学生を含む、すべての大学の構成員が参加する全学協議会による管理、運営を提起した。
東大の民主化をめざす学生、教職員は、七学部代表団と大学当局による予備折衝をおこない、自主解決しようとした。一九六九年一月、学生の大学自治への参加を認めるという確認書を取り交わした。
東大の学生、教職員は、暴力集団の襲撃を阻止し、その封鎖を解消しようとした。
政府は確認書を攻撃し、入試を中止させた。
感想 安田砦落城の記述がない。これについては別記。
388 民主商工会(民商)の全国組織である全国商工団体連合会(全商連)が六十年代末に十数万の組織になった。
文化・芸術分野で、党は、一九六七年、党創立四十五周年記念文学作品を募集し、吉開那津子、勝山俊介、碓田のぼるが入選した。また一九六九年、松田解子、伊東信が、第一回目の「多喜二・百合子賞」を受賞した。
389 1968.7 参議院選挙結果。全国区得票率5%、地方区8%。地方区得票数は、三百五十七万票。一九四九年衆議院選挙での獲得投票記録二百九十八万票を更新した。*
*いずれのときにも、社会党が大敗している。社会党は中国寄りの政策によるニセ左翼暴力集団擁護のためにたたかれたのだろうか。
390 1968.11~12 琉球政府主席に屋良朝苗(当選)、那覇市長に平良良松(当選)、立法院議員にそれぞれ統一候補を立てた。統一綱領と統一選挙態勢を確立した。立法院議員選挙は小選挙区制で、反動勢力が買収や弾圧を行った。*
*「自民党を議席数で後退させた。沖縄人民党が二人当選し、一議席増の三議席、社会党、社大党は、改選前の議席を確保した」とあるから、数の上では自民党が多かったようだ。
391 1969.7 東京都議選挙で党は、…④都民を抑圧する警官増員に反対する、⑤民主連合都政を実現するなどの政策をかかげた。公明党は低劣な反共デマと謀略的、暴力的な手段で党の選挙活動と政治活動を妨害した。議席の変化は、日本共産党9→18(得票数では前回比+70%)、社会党45—24(得票数では前回比+2%)、自民党38--54、公明党23--25、民社党4—4であった。*
*有権者総数や投票率が変化するから、得票数の前回比では、勢力関係を正確に表現しない。得票率の前回比でなければならない。
302 党は、都議選などで反共諸党派から「一党独裁」と攻撃されたことを受けて、ロシア革命後も複数政党制が存在していたことや、将来の展望を明らかにし、将来のそのとき、独立・民主の日本では、統一戦線に参加して政府を構成する政党だけでなく、政府に反対する政党も、クーデターなどの反革命の手段に訴えないかぎり、その政党の存在と活動の合法性は認められるとし、またその政党が選挙で勝てば、政権を担当するだろうこと、そしてこのことは社会主義日本の段階でもその基本が引き継がれるだろうことなどを、明らかにした。この見地は、「毎日新聞」で宮本顕治が(1969.3.15--30)紙上討論で、『前衛』で不破哲三が(1969.10)論文で発表し、一九七〇年の第十一回党大会で決定された。
392 1969.11 佐藤・ニクソン会談。
党は、「佐藤首相が、『韓国』、台湾、サイゴンなどの反共傀儡政権の『安全』を日本の安全と同一視し、日米共同で『三国』の『安全』を守ることを公然と約束したこと」を強く批判した。
1978.3 党の調査は、佐藤首相がニクソンと、緊急時の核再持込の密約を交わしていたことを暴露した。
また繊維製品輸出規制の密約も取り交わされていた。
393 1969.3 党は、ヤルタ協定がカイロ宣言の領土不拡大の原則に反し、北千島を含めた千島列島が日本の固有の領土であり、返還されるべきであることを明らかにした。
日ソ平和条約の締結による歯舞・色丹の返還、日米安保条約の廃棄通告とサンフランシスコ条約の千島放棄条項の廃棄、ソ連との交渉による全千島の返還を提起した。
自民党をはじめ他の諸党の多くは、サンフランシスコ条約第二条C項での千島放棄をそのままにして、「南千島は千島ではない」という国際的に通用しない議論に固執していた。党の千島政策は、一九七七年、一九七九年に発展させられた。
394 1969.12 総選挙得票率
自民 共産 社会 公明 民社
47% 6% 21% 10% 7%
自民党は財界から百億超の献金を受け、買収に利用した。
395 この総選挙中に公明党の竹入委員長は、藤原弘達著『創価学会を斬る』の出版妨害をした。田中角栄自民党幹事長もこれに関与した。毎日記者の内藤国夫の『公明党の素顔』、植村佐内編著『これが創価学会だ』などの著書が、三菱銀行、右翼などによって出版妨害された。
党はこれを追求し、高橋磌一(てんいち)らや、マスコミ共闘などが糾明を求めたが、竹入はデマだとし、公明党・学会は批判を拒否した。
学会の池田大作会長は、「陰険な意図は全くなかった」が、「結果として」「言論妨害と受け取られ」「迷惑」をかけたと、曖昧ながら事実を認め、「国立戒壇」*を否定し、「政教分離」を打ち出した。
マスコミは「鶴タブー」*といって、創価学会に触れることを恐れていたが、党がそのタブーを打ち破った。
*「国立戒壇」とは、日本が国家として建立する本門の戒壇(僧侶に戒を授ける儀式のための壇)と言う意味。日蓮正宗の信徒団体である妙信講は、国立戒壇を使い続けて破門され、顕正会として独立し、今でも国立戒壇を主張している。
*「鶴タブー」とは、創価学会がかつて講として属していた日蓮正宗の紋が鶴であることに由来する。
396 一九六〇年代後半、党は地方政治新聞・地域新聞や掲示板も重視し、パンフレットの大量販売を強調した。
党は、党勢(=支持者数)の拡大、党建設(=党員数、「数十万の大衆的前衛党」)にとりくんだ。
397 一九六七年、党費を財政確立の基本とし、大衆的募金活動を恒常化し、党員への、募金の一律割当てをしないことにした。
397 こうして党は、第七回党大会六中総(一九五九年夏)の目標である、日本の現実政治に影響を与える党という党建設の最小限の目標に到達して、一九七〇年代をむかえた。
397 感想
1) 393 千島列島の南半分は千島ではないという論理は国際的には通用しないが、自民党などはそう主張している。領土不拡大というカイロ宣言の精神によって、千島列島全体が日本に返還されるべきであって、そのためには、千島列島の放棄を認めたサンフランシスコ条約の第二条C項を廃止しなければならない。
2) 383 一九六九年十月二十一日を期して、社会党はなぜ「エセ左翼暴力集団」と手を切ったのだろうか。
3) 387 安田砦への機動隊出動については一切触れていない。そして自らの手で「エセ左翼暴力集団」の封鎖を解除したかのように言っている。「一九六九年一月九日、東大の学生、教職員は、教育学部、経済学部を正当防衛権によってバリケード封鎖し、各地から動員された二千名の『エセ左翼暴力集団』の襲撃を阻止し、校舎封鎖を解消するたたかいをすすめた。」
4) 392 社会主義日本でも政権交代がありうるという。これは一九七〇年第十一回大会で決定された。こういうのを社会主義というのだろうか。
5) 379, 392 七〇年安保の名称について、英和辞典では「自動延長」と訳されているが、これは正確ではない。本来は六〇年安保の固定期限が一九七〇年で終了するのであって、「自動延長」は天から降ってきたのではなく、一九六七年十一月の佐藤・ジョンソン会談で自動延長の構想が示され、一九六九年十一月の佐藤・ニクソン会談による共同声明で具体化されたことによる。つまり安保の継続か廃棄かが問題であったのである。
400 1970.4 京都府知事選
自民党は共産党を「七十年代の主敵」と看做し、公明、民社とともに反共・反動の三党連合を結成した。反共・反動連合は、自民党の三十五億円の選挙資金と創価学会の「足」を結合した。公明の竹入委員長は、「共産党を潰す」と叫んだ。反動陣営は赤軍派を名のるニセ左翼暴力集団の日航機乗っ取り事件を反共攻撃の材料にし、自民党田中角栄幹事長は、「『赤軍派』は共産党内の過激派」とデマ宣伝をおこなった。
党は、反共連合の「くるまがかりの戦法」(川中島の戦い、物量戦)に対して、民主勢力の「鶴翼の陣」(敵を大きく包囲する)で対抗し、さらに、敵の中に味方をつくる戦術を取った。
402 1970.7 第十一回党大会は、
日本軍国主義が、すでに一定の本質的復活をとげているが、まだ全面的復活を完了していないとした。また、
403 七十年代が自共対決の時代となること、民主連合政府の実現可能性があることを指摘した。
大会は、社会党の「階級政党か国民政党か」に回答し、日本共産党が、労働者階級の前衛政党であるとともに、民族独立などをなしとげうる、民族・国民の党であるとした。
大会は、民主連合政府の内外政策を明らかにした。日本の民主勢力は、日本の独立や対米従属の評価では見解の相違があるが、平和・中立の課題では一致しているから、その点での統一戦線による民主連合政府を提起した。
大会は、議会制度に関して、封建社会から資本主義社会に移行する過程の中でつくられた代議制度を、より質的に高いものに改造することは、合法則的発展・科学的社会主義の理念であるとし、社会主義日本でも、社会主義を批判する政党を含む複数政党制と選挙による政権交代など、民主的・進歩的議会制度を重視するとした。
この見解は、第十三回臨時党大会の「自由と民主主義の宣言」で発展された。
404 また、あたらしい日本の政治制度は、ロシア革命のくりかえしではなく、すすんだ資本主義国の革命は、まだ模索と実践の過程であり、できるだけ犠牲の少ない、社会主義化を考えなければならないとした。
次に、六十年代から激しくなった公害について、公害は決して公の害ではなく、犯人は日米の独占資本であり*、人為的な生活環境と自然環境の破壊であるとした。
*ソ連の公害の犯人は誰なの?
貧困については、貧困化論を発展させ、現代的貧困を明らかにした。
405 大学民主化については、大学の民主的改良とともに、憲法や教育基本法に示される、教育・研究がときの政府の不当な支配に服しないという立場を擁護するとし、東大確認書の意義を強調した。
文化人・知識人党員については、創造・研究と党生活という二つの任務があるとした。
党建設の四つの目標を提起した。①隅々に党組織を建設すること、②国会や地方議会で議員団が活躍すること、③各党員が学習を深めること、④党員が道義的にも人々から信頼されること。
一九六四年十一月の第九回党大会での、大衆闘争の三つの観点に、「社会的階級的道義の尊重」を加え、四つの観点とした。
406 大会は、党の質的強化を重視し、正しい党風にもとづき党生活を確立する問題、「正しい指導とは、命令ではなく、道理に立ち、実情にあい、納得できるもの」であるとする、積極的指導と自覚的規律の問題、党員の条件を考慮した適切な任務分担や、戦闘的であるとともに謙虚で合理的な党生活の確立の問題など、教訓と指針を明らかにした。
党を「暴力政党」とする反共宣伝に対して、綱領で人間に対するあらゆる暴力の廃絶を目指していることを示した。
また革命の移行形態、いわゆる「敵の出方」論については、次のように明らかにした。
社会変革を目指すさい、最も犠牲の少ない形態を望むのが原則であり、平和的、合法的に人民の政府をつくる。その際、内外の反動的勢力が、クーデターなどをおこした場合に、秩序維持のための必要な措置を取ることは当然である。また人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、「運動の発展に非平和的な障害」を作り出す場合に、このようなファッショ的攻撃を封殺することは当然である。このように警戒するのは、反動的勢力を政治的に包囲して、その暴力的策動を未然に防止するためである。
大会は、一九六六年三月の日中両党会談の経過を明らかにした。また文革の押し付けに対して反撃するのは、「我国の革命運動に責任を負っている党」としての責任であることを明らかにした。
407 大衆的前衛党になることをめざし、規約を改正した。「細胞」を「基礎組織」「支部」と改めた。中央委員会議長(野坂参三)が兼ねていた幹部会の責任者を別において、それを幹部会委員長(宮本顕治)と呼び、常任幹部会を常設し、従来中央委員会によって選出されていた書記局員を、幹部会の任命とした。書記局の責任者を書記局長(不破哲三)と呼び、幹部会が幹部会委員の中から書記局長を選び、従来書記長の行っていた任務を「より明確に」日常党務の処理にあてた。このように分業制にして、集団指導を強化した。*
*つまり従来の書記長を格下げして、日常の業務に当たらせ、幹部会が最高の権力をもつようになった、ということなのだろう。カッコ内は規約変更後の担当者。
また、中央機関紙編集委員を、中央委員会任命から、幹部会任命とした。
処分問題の上訴を除き、党生活に係わる質問、意見を取り扱う機関として、あらたに訴願委員会を設置した。
大会では代議員宿舎で盗聴器が発見され、抗議団を、首相官邸、国家公安委員会、公安調査庁などに派遣した。
408 この直後、宮本委員長宅に盗聴器が仕掛けられていた。公安調査庁、警視庁、警察庁、国家公安委員会に対して、真相を調査するように申し入れた。これは創価学会が仕掛けたものだった。十年後に犯人が内部告発した。
409 党は、一九七〇年八月の大気汚染防止対策の提言をはじめ、瀬戸内海、琵琶湖などの汚染防止対策を提言した。政府は、公害対策基本法の「経済発展との調和」条項を削除したが、財界の要望で事前に骨抜きにされた法案だった。しかし、水質汚濁防止法などでは、一定の修正がはかられた。
第二回中央委員会総会(第十一回党大会)は、学習、教育、党建設計画、読者拡大と減紙克服などの課題の運動案を決定した。また空白議会克服の三カ年計画を示した。*
*「読者拡大と減紙克服」の課題とは、オイルショックで紙が不足して『赤旗』のページ数を減少せざるを得なかった時期のことを言っているらしい。また「空白議会」とは、共産党員がいない都道府県や市町村の議会のことを言っているらしい。
410 人民大学夏期講座を開いた。
一九七一年一月、宮本は、統一戦線のための三つの条件(革新三目標)を示した。①安保条約廃棄、②大資本中心の政治を打破する、③軍国主義の全面復活に反対し、議会の民主的運営をめざす、の三点である。
社公民路線が進行した。1970.8 民社党佐々木良作の提案で、社会江田三郎、公明矢野絢也(けんや)との三党書記長会談がひらかれた。これには財界の入れ知恵と資金援助があった。彼らがそのことを証言している。
労働戦線の右翼的再編がすすんだ。日本独占資本は、国民総生産倍増、海外進出を目指した。それにあわせて、同盟やIMF・JC(国際金属労連日本協議会)は、一九七〇年二月、反共、親米、労使協調にもとづき、「国民政党的な革新政党」の大衆的基盤づくりを目指した。
411 1970.6 ニセ左翼暴力学生を支援する佐多稲子らが婦人民主クラブから反対者を排除した。
排除された人々は、婦人民主クラブ再建連絡会を結成した。
412 一九七一年四月の地方選挙と六月の参議院選挙で、革新統一戦線と日本共産党が躍進した。
自民党からは「反対のための反対」「産業否定」などと批判された。
都府県議会選挙で野党第二党になった。社共両党を含む革新統一戦線は、知事選(東京、大阪=黒田了一など五都道府県)、市町村長選(三十四市=川崎、吹田、高松、小金井、恵那、立川、十七町)で成立した。
*下線部で勝利した。
革新自治体は、老人医療費の無料化、無担保・無保証人融資制度、公害規制、大企業への超過課税などを創設した。政府も、老人医療費の無料化、児童手当、公害規制を実施した。
しかし、塩尻市では敗退した。社会党は、元特高を公認し、自民、民社とともに、革新共同の高砂市長を攻撃した。
413 1971.6 参議院選挙結果(全国区--地方区得票率)
自民 共産 社会 公明 民社
44—44% 8%--12%
党は一九七一年一月、革新三目標(p.410)による革新統一戦線の結成、そのうえにたつ民主連合政府を提唱した。
民社党は選挙期間中、非共産、安保肯定の社公民連合を提唱した。
社会党は全野党共闘を提唱したが、日米同盟を容認し、日本共産党絶滅を唱える民社党の参加を条件とした。
415 1971.6 「プロレタリア独裁(ディクタツーラ)」を「プロレタリア執政=執権」と訳語を改めた。
「ディクタツーラは、一つの階級あるいは複数の階級・階層の政治支配、あるいは、国家権力の階級的本質を示すものであり、特定の個人や組織の独裁を意味しない」
「プロレタリア独裁」は、「労働者階級の権力」「労働者階級の政治支配」と訳されるべきである。ディクタツーラは、「執権」「執政」と訳されるべきである。これは、反共主義者の不当な攻撃の口実を奪った。
416 1970.7 第十一回党大会。ソ連共産党の路線に全面的に追従することを「プロレタリア国際主義」とする指導党思想に反対した。
1970.6 ソ連共産党が雑誌『党生活』で、日本共産党が、日本を自立した帝国主義国家とみなさないことや千島問題などを「排外主義」などとし、日本共産党を批判した。そしてこの論文を党国会議員団に送りつけた。
対ソ追従派のチェコスロバキア共産党も、同党の雑誌『トリブーナ』九月二日号に『党生活』論文を載せ、これに同調した。
417 1971.3 日ソ両党会談で、ソ連側は今後志賀らを激励しないと約束した。しかし、七十年代をつうじてソ連は志賀らに資金援助をしていた。
418 1971.8~9 宮本らがルーマニア、イタリア、ベトナム民主共和国、ソ連を訪問し、スペイン共産党とも会談した。
ルーマニアとは、「いかなる指導的中心も必要でないこと」「他党の分派の存在と闘争を、支持、育成しないこと」「核兵器全面禁止」「外国軍事基地一掃」「軍事ブロックの解消」などを含む共同コミュニケを発表した。ルーマニアはチェコスロバキアへの五カ国軍隊の侵入に反対していた。しかし、一九八九年、ルーマニア共産党は変節し、崩壊した。
419 中国共産党は、日本の中国盲従反党分子を援助し、反共社会民主主義者や反共中間政党、自民党の一部を利用し、日本共産党に反対し、ジャーナリズムにも圧力を加えて、中国批判を封じた。
一九六六年八月、廖承志は訪中団に「日本人民にとって武装蜂起の戦術が唯一の正しい戦術である」と述べた。
1970.4 周恩来は、「よど号」乗っ取り事件を、「すばらしいことです」と賞賛した。
北朝鮮はかれらに日本向けの雑誌の発行を認めた。
1972.2 連合赤軍は、毛沢東思想で武装された軍隊を自称したが、浅間山荘で官憲に敗れた。これは、中国の覇権主義者のこうした干渉が日本に何をもたらすかを劇的に実証した。*
*何をもたらしたのか、言葉で表現してもらいたい。
社会党は文革以来中国に追随した。1970.10 社会党の成田委員長が訪中し、日本共産党を敵視する四つの敵論を含む共同声明を発表した。中国は日本共産党を日中国交回復運動から排除し、社会党はそれに協力した。社会党は「文革に深い敬意を表明」した。
420 1971.6 公明党の竹入委員長が訪中し、毛沢東におもねた。
「偉大なる毛沢東主席の指導のもとに、偉大なる国家の建設を目の当たりに見、… 誠に深くいたく感銘を受けました。」
民社党の向井長年は、一九七一年十一月号の『民社党』で、「毛沢東思想にもとづいて、新しい国の建設をめざし、国民挙げての生産に従事している」とした。
公明、民社両党は、国内では反共でありながら、中国にはおもね、国内の中国盲従分子と友好関係をもった。
党は、中国の社会植民地主義を批判した。
自民党政府は、自由党吉田内閣以来、日中国交回復を妨害した。1952.4 日華条約(日台条約)を結び、台湾=蔣介石政権を中国の唯一の政権と認めた。それが破綻すると、二つの中国論に立ち、1971.10 国連総会が、中国の国連復帰と蔣介石一派の追放を可決したときも、佐藤内閣は、アメリカとともに蔣介石の追放は三分の二の賛成を必要とする「逆重要事項指定決議案」を提出した。
421 党は一九七一年四月、日米沖縄協定に関する秘密交渉の全貌を明らかにした。自民党や日米支配層は、日本共産党を「返還反対」勢力として孤立化させようとした。
党は、核基地・核部隊、謀略部隊の存在を暴露した。自民党は十一月十七日、衆院特別委員会で強行採決した。二日後、二十七万人が大衆行動に参加し、二百万人がストライキした。
423 1972.2 ニクソンが訪中した。1972.5 ニクソンが訪ソした。
ほとんどの商業マスコミはニクソンの勇気と決断をたたえ、朝日は「はかり知れない歴史的意義をもつ」とした。他の野党は「緊張緩和」への歩みとして歓迎した。
『キッシンジャー秘録』によれば、キッシンジャーは「モスクワが首脳会談を予定通りすすめてくれたために、わが国の反対派の矛先を鈍らせることができ、おかげで、我々は行動の自由を得て、北ベトナムの攻勢を挫くことができた」と回顧している。
424 1972.7 党は、「南北共同声明」を、米軍が南朝鮮に存続している状況では、支持しなかった。
「南北共同声明」の背景には、北朝鮮が、一九七一年七月発表のニクソン訪中計画を、「北京に白旗を掲げた」として歓迎したことがあった。
朝鮮総連は「南北共同声明」支持をおしつけた。社会党と総評は声明を支持し、強要した。
425 社会党は訪朝し、「南北共同声明」を賛美し、金日成を個人崇拝する共同声明を出し、日本共産党を批判した。北朝鮮対外文化連絡協会は、「南北共同声明」に同調しなかった日朝協会との交流を断絶した。
金日成の指示文書では「今後は日本共産党との関係を清算して、日本社会党との提携に転換しなければならない」と述べていたことが、一九九二年五月、元北朝鮮外交官の高英煥の証言で明らかになった。
「南北共同声明」は、従来の一つの朝鮮論をやめ、二つの朝鮮論になったが、一九七三年、北側が対話を拒否し、「声明」は破棄された。
一九七二年五月十七日、日本共産党は北朝鮮に、朝鮮総連の起こしている問題を指摘した。
一九七二年十二月六日、北朝鮮は返書で、朝鮮総連の誤りを認めたが、金日成の個人崇拝は変わらなかった。
一九七四年九月、金日成は在日朝鮮青年同盟に、東京で「チュチェ思想」を外国人に普及させた。
425 1972.7.15 党創立五十周年記念講演で宮本委員長は、党創立の原点を三つにまとめ、党が、①科学的社会主義と労働者階級の利益を擁護したこと、②進歩と革命を継承したこと、③世界の進歩、民族の解放、労働者の連帯などの国際的視野をひらいたことなどを述べた。
七月に発表された「日本共産党の五十年」では、党の歴史の無謬主義を否定した。
国際理論会議には、資本主義国八カ国の党代表、オブザーバーが参加した。社会主義国の政権党は招待しなかった。招待された一連の党がソ連に問い合わせ、ソ連は、一九七二年四月、対策を各国共産党に通知し、ソ連共産党の出席しない会議は、国際共産主義運動の利益に反する、日本共産党は自らの独自の立場を宣伝するために利用しようとしているとした。
427 1972.9 ニクソン・田中会談で、安保堅持、国際的な通貨、貿易の再編成、米からの緊急輸入、ロッキード利得などを話した。
商業マスコミは、「庶民宰相」「昭和太閤」と持ち上げた。
「列島改造論」は、土地投機と地価暴騰をもたらし、一九七三年十月の石油危機で、大企業は便乗値上げし、一九七四年春、石油製品が大幅に値上げされた。これは、アメリカを中心とするメジャー(国際石油大企業)の供給する中東石油に依存していたためである。
428 1972.9 田中角栄が中国と国交を回復した。自民党政府が、これまでの「二つの中国」論を捨てたのは、中ソ対立*を利用しようとするアメリカの中国接近に追随し、中ソの離間を策するためであった。
*一九五六年の、ソ連の平和共存路線の採用から始まった。
中国はかつては日米安保条約に反対していたが、周恩来は「日本にとって日米安保条約は非常に大事です。堅持するのが当然」と田中に述べた。これは無原則で、実利主義である。
田中はこのとき周恩来に「日本共産党とは手を握らないで欲しい」と申し入れた。
公明、民社は、これまでは「二つの中国論」をとっていた。社会党は、中国成立時には中国を侵略勢力と看做し、一九五七年までは、いずれの政府も承認しないとし、一貫していなかった。
429 1972.11 総選挙結果(得票率)
自民 共産 社会 公明 民社
46% 10% 8% 7%
*共産党は躍進したとあるが、社会党は不振だったようだ。
党が推薦した沖縄人民党候補・瀬長亀次郎と革新共同候補・田中美智子(愛知一区)も当選した。
開票日に開かれていた経団連の正副会長会議は、共産党の躍進に驚き、流会になってしまった。
十九選挙区で公民協力をした。
党は国会運営の民主化を求めた。議案提出権を獲得した。衆議院での会派を「日本共産党・革新共同」(三十九議席)とした。院内交渉団体となり、懲罰委員会を除く、常任委員会、特別委員会、審議会のすべてに委員を送り、すべての委員会に理事をもった。
国会開会式の民主化、議運理事会の公開、委員長招待会の簡素化を要求した。
433 1973.1 「ベトナムにおける戦争終結と平和の回復にかんする協定」(パリ協定)が成立した。
党は、協定が、①ベトナム人民の民族的権利を確認したこと、②アメリカの軍事介入の停止、③アメリカとサイゴン政権が、南ベトナム共和臨時革命政府を、「南ベトナムの両当事者」の一方として承認し、民族和合、総選挙の実施などのために「三つの平等な部分からなる民族和解和合評議会」の設立に合意したことを明らかにした。
434 パリ協定後の一年間に、アメリカ軍は撤退したが、サイゴン政権は、アメリカの支持のもとに、三万件の協定違反を行い、解放区への砲撃、地上進攻をくりかえし、数十万の政治犯の釈放を拒否した。
アメリカも協定に違反して、米軍の軍備、資材を傀儡軍に渡し、新兵器を持ち込み、民間人と称して二万四千人の軍事要員を残し、解放区への攻撃や両勢力競合地域への平定作戦を行わせた。
ラオスでは、一九七三年二月の協定後も、右派勢力がアメリカに激励されていたが、一九七四年四月、ラオス臨時民族連合政府と政治諮問評議会が発足した。しかしなおアメリカの策動は続いた。
434 一九七二年末の総選挙後、民社党は反共主義をつよめ、公明党は革新ポーズをとった。
公明党は院内外で共産党を含む共闘に参加し、メーデー、「原水禁」主催の分裂原水禁世界大会、総評大会などに、いずれも初参加した。
1973.9 公明党が日米安保条約の即時廃棄を決定した。自民党政権打倒までの期間、日本共産党と共闘するが、日本共産党には憲法問題で疑惑があるから、政権共闘は組まないとし、日本共産党を含む統一戦線を結成する意思がないことを示した。しかし、政策的には、革新三目標の方向へ接近し、共産、社会、公明三党の政策上の一致点が生じた。
社会党は、日米軍事同盟賛成、日本共産党排撃を明確にしている民社党を含む全野党共闘論に固執し、石橋書記長は、「共産党が今のような思い上がり、独善的な態度でいる限り、一日共闘はやっても、持続的な共闘はありえない」とし、成田委員長は、選挙期間中に唱えていた、反自民の「国民共同委員会」を棚上げした。
436 一九七三年三月、二党(社会・共産)および四党(社会・共産・公明・民社)の書記局長・書記長会談が開かれ、国会内の四党共闘、国会内外での共社両党の共闘という、並行共闘の合意が成立した。
宮本委員長が記者会見し、「統一戦線論を展開し、共同政府綱領=民主連合政府綱領を国民に提起したい」と述べた。
436 一九七三年三月、田中内閣が財界の要望にこたえて、小選挙区比例代表並立制法案を提出しようとした。これは四割台の得票率で議席の八割を獲得できるものであった。
一九七三年五月、共産党、社会党、総評、中立労連、公明党などで「中央連絡会議」を結成し、五月十五日、全国統一行動をおこない、明治公園に十二万人が集まった。十八日、十九日にも行われ、マスコミも反対を表明し、政府は断念した。
438 1973.4.5 日本民主青年同盟は、その前身である日本共産青年同盟、日本青年共産同盟の創立五十周年を迎えた。
一九七〇年代初頭、党と民青同盟の一部に現れた新日和見主義・分派主義者が、党の方針を妨害した。一九七二年五月、広谷俊二らの新日和見主義分派が摘発された。彼らは、民青同盟を党に対抗する反党分派活動の拠点に変質させようとし、アメリカ帝国主義を美化し、日本軍国主義を主敵と看做した。
440 1973.7.8 東京都議会選挙で与党第一党になった。得票率20%。
自民党は右翼団体や国際勝共連合を動員し、「自由社会を守れ」と唱え、「共産党は中国の核実験に賛成した」というデマを流した。党は、中国の核実験を支持せず、米ソ英仏中の核保有五カ国に、核兵器全面禁止を訴える書簡を送った。
442 1973.5 宮本委員長が熊本空港で反共右翼暴力団・青年愛国党の有働一文に襲われそうになったが、党員や警官によって取り押さえられた。前日、勝共連合が「決起するときは今をおいてない」とそそのかしていた。
党は、この件で、内閣総理大臣、国家公安委員長、警察庁長官にたいして、抗議文を提示し、責任を追及した。
党は、党防衛を、党建設、大衆運動、選挙戦などの任務とならべて、党活動の四本柱の一つとした。
443 部落解放同盟朝田派は、部落以外の人はみな本来的に差別者だとする、部落排外主義、反共、暴力主義であった。東京、大阪、京都その他で革新自治体打倒に手を貸した。
矢田事件*を契機に、部落排外主義、暴力、利権あさりを広め、「窓口一本化」で地方自治体の同和行政・事業を解同の一元管理化におき、行政を私物化し、地方財政を破綻に追い込んだ。
*一九六九年の矢田事件では、教職員組合役員選挙に関する木下浄の挨拶状と後援者の推薦状が差別文書だとして、教師や関係者を監禁・糾弾した。一審は無罪、高裁、最高裁は有罪。(矢田事件、ウィキペディア)
一九七〇年六月、部落解放同盟正常化全国連絡会議が生まれた。「赤旗」はマスコミの解同タブーを破った。
一九七三年四月、羽曳野市長選挙では、社公民反共連合は浅田派に支援され、一方、党の津田一朗は、革新共同に推され、勝利した。
一九七四年十月、松原市でも革新市政が(解同に抗して)実現した。
444 1973.6.27 中国の核実験につづいて、米ソの地下核実験*、フランスの南太平洋での核実験が行われた。
*アーロン・フリードバーグは、中国の核実験には触れながら、その翌日のアメリカの地下核実験については全く触れていない!
党は七月五日、米ソ英仏中の核保有五カ国に、核兵器の全面禁止協定を結ぶことをあらためて提起した。
宮本委員長は、七月五日の記者会見で次のように述べた。「米ソの核開発後、ソ連が核兵器全廃の提案をしたときもあったが、アメリカは受け入れなかった。アメリカは、第一にソ連に、第二に中国に、核兵器を背景に封じ込め政策をやった。このとき党は、社会主義国の核実験には賛成しないが、よぎなくされたもの、防衛的なものと看做した。なぜならば、アメリカは朝鮮やベトナムで侵略戦争を行い、核兵器を使うと脅迫していたからだ。…この十年来中ソの核実験に対してとくに賛成という態度を取ってこなかった。そして今日は、核開発競争、核兵器の全面禁止を求める」*
*あまり歯切れがよくないね。
445 一九七二年十二月~一九七三年九月、衆議院は、アメリカの核実験は不問に付し、中国の核実験には抗議する決議をしたが、参議院は、アメリカの核実験への抗議や、「すべての国の核兵器の製造、実験、貯蔵、使用に反対し、全面的な禁止協定が締結されるように務めるべきである」と決議した。
この件で、他党は、「共産党は中国の核実験に賛成だ」とか、「衆参での態度が違うのはおかしい」と攻撃した。
445 1973.8 金大中事件。
党は、金大中の原状回復、KCIA員の国外退去を要求した。
一九七三年十一月、田中首相は、南朝鮮の金鍾泌首相と会談し、KCIAの犯行を不問にし、主権侵害を免罪するという政治決着をした。
446 1973.9 アメリカの指揮と援助の下に、チリの軍部がクーデターをおこし、アジェンデ大統領を自殺に追い込み、チリ共産党と社会党など人民連合勢力に暴力的弾圧を行った。
民社党は十二月、チリに調査団を送ったが、軍事独裁政権を容認・美化する報告を行った。
チリ人民連合政府は、大統領直接選挙制と大統領内閣制に基づき、得票率三十六%の比較多数で、脆弱だった。また、国会でも多数が占められず、司法権も反動派の手中にあった。アメリカの支配下にある独占資本や大地主の支配を打破する前に、いきなり社会主義建設を始め、中小企業を国家管理に置いた。左翼革命運動(MIR)という極左勢力が、中小農地、中小工場を占拠し、CIAの手先として行った挑発に対して、人民連合が反対できなかった。
イタリア共産党は、チリの教訓から、キリスト教民主党と妥協し、NATOを容認した。
447 感想 こんなにあっさりとチリの失敗やイタリアの共産党の政策を断罪できるのだろうか。『共産党の五十年』と比べて、一九七二年以後の部分の書きぶりは、宮本顕治から、不破哲三に変化したのではないかと思われる。
448 1973.11 第十二回党大会で、「『民主連合政府の綱領についての日本共産党の提案』について」が報告された。
450 大会は、中間政党の反共主義が国政段階の革新統一戦線未結成の主要な原因と指摘した。
大会は議員の活動の四つの指針を示し、その一つは、ブルジョア的悪習に染まらないよう絶えず修業することであった。
民主連合政府とは、「現行憲法の下で、革新三目標、すなわち、日本の主権と安全、平和・中立、政治的民主主義と経済民主主義という、現段階の目標の実現を目指す、国民生活の防衛と民主的改革の政府」とされた。つまり、社会主義建設を行う社会主義政権ではない。
当時、社会党は、社会主義日本への道筋を切り開く政権構想を掲げていたが、それは性急であることを党は指摘した。日本共産党は、同じ民主主義的変革の範囲内での接近として、民主連合政府と、民族民主統一戦線政府、さらに革命政府との関係をとらえていた。*
*ちょっとわかりにくい文章だ。
大会は、社会主義日本では、農業や中小企業などの社会主義化について、自発性と納得ずくでの協同組合化の方針を示した。
451 大会は、大衆運動、党建設、選挙、党防衛の四本柱と、それらの土台としての宣伝を、党活動のスタイルとした。
「民主連合政府の綱領についての日本共産党の提案」は反響を呼び、公明党、民社党、社会党が連合政権構想を公表した。
日本共産党は、十三年前(一九六〇年)に安保条約反対の民主連合政府構想を提唱していた。
452 1973.10 第四次中東戦争による石油危機、つまり、原油供給削減と価格の高騰によって、日本の鉱工業生産は二十パーセント超の減少となった。便乗値上げと投機、物価上昇、不況とインフレの同時進行(スタグフレーション)、物不足などが起こった。
453 1974.2 商社、業界団体代表などを衆・参予算委員会に参考人として呼び、買占め、投機、売り惜しみ、価格吊り上げなどを追求した。
ゼネラル石油の、価格つり上げの内部通達を暴露した。
454 党は、イスラエル軍の占領地域からの撤退を求めた。
1947.11 国連総会がパレスチナをアラブ、ユダヤ両国家樹立と、エルサレム国際管理都市の三分割案を示したが、双方とも拒否した。
1948.5 イスラエルは建国を強行し、第一次中東戦争が始まった。
1967.6 第三次中東戦争。国連安保理の決議は、最近の占領地域からのイスラエル軍の撤退、関係するすべての国の主権、領土保全、政治的独立を求めた。
パレスチナ解放機構(PLO)側は、イスラエル抹殺論をパレスチナ国民憲章に明記していた。PLOの一部グループは、一九七二年九月、ミュンヘン・オリンピックのとき、イスラエルの選手村を襲った。日本赤軍とも関係を持った。
1973.12 宮本委員長がイスラエル国家建設の権利を認めた。またアラブ諸国の石油資源への要求は正義の要求だとし、日本政府は、アメリカ追従ではなく、イスラエルに対して非軍事的制裁を加えるべきだとした。
455 1973.12.2 サンケイ新聞、日本経済新聞が、自民党の、民主連合政府綱領提案を批判する意見広告を載せた。また、『文芸春秋』が「グループ一九八四年」の論文「日本共産党『民主連合政府綱領』批判」を載せた。
党はサンケイ新聞に対して、反対意見の無料掲載を拒否したことをめぐって訴訟を起こした。最高裁判決は、一九八七年四月、日本共産党への中傷であることを認めたが、サンケイが反論にも金を取ることを認め、党の反論掲載要求を認めなかった。
456 1974.6 宮本委員長が「三つの自由」論を提起し、自民党の「自由社会を守れ」に反論した。
①生存の自由、②市民的政治的自由、③民族の自由の三つである。
①人間らしい生き方をする自由。
②自民党の言う『自由社会』とは、議会制民主主義を破壊し、刑罰や思想統制の強化によって、自民党の悪政の永続化を図る『自由』であり、主権在民の原則と国民の権利を侵すことである。
③日本は戦争か平和かの選択の自由を失い、アメリカの起こす侵略戦争への自動的な協力、加担を義務付けられている。
457 宮本は、資本主義的自由が、市民的政治的自由だけを問題にし、しかもその市民的政治的自由も、利潤本位の「搾取の自由」に従属されるのに対して、市民的政治的自由だけでなく、生存の自由と民族の自由をも提起した。
457 1974.2 ソ連がソルジェニツィンを国外追放し、自民党は「社会主義になると自由がなくなる」と大キャンペーンを張った。
党はすでに第十一回党大会(1970.7)で、社会主義日本においても、社会主義を批判する政党が、一般には禁止されないことを明確にしていた。
また、蔵原惟人が、談話や論文を発表して、「出版禁止や国外追放などが社会主義に不可避であるという見解を退ける」とした。
458 1974.4 京都府知事選挙。
四年前は、自公民だったが、今回は自紅公民で社会党を取り込もうとし、社会党京都府本部委員長大橋和孝を推したが、社会党中央は蜷川を支持し、大橋を除名した。激戦の末、選挙戦に勝利した。
1974.6 参議院選挙。
社公民路線の影響で、高知、沖縄の地方選では、社共共闘がなったが、全国的な社共共闘に社会党が応じなかった。
選挙結果(得票率・地方区--全国区)
自民 共産 社会 公明 民社
40% 12%--8% 減 減
商業マスコミは「与野党伯仲時代」と呼んだ。
自民党は企業ぐるみの金権選挙をやった。財界は自民党の政治資金団体の「国民協会」を改組し、自民党に献金しなくなる企業も出てきた。
460 1974.8 香川県で革新知事が誕生した。1974.11 滋賀県で革新知事が誕生した。
移住するなどして、空白議会の克服に取り組んだ。
460 日経連の桜田会長は、「自民党と一部野党との連立政権の時代に入った」と言い、一連の財界人が「保革連合政権」を待望した。
民社党の春日委員長は、今後、共産党を含む野党共闘に参加せず、自民党を助ける準与党になると宣言した。そして民社党は「共産党阻止の旗手」を公言し、春日委員長は、宮本の治安維持法等被告事件を持ち出し、国際勝共連合もこの問題を取上げた。
461 1973.6.15 公明党が日本共産党に「憲法改正案を示せ」と要求し、これを理由に政権共闘を否定した。政策の一致ではなく、政権共闘の条件としての将来の憲法問題をもちだしたのである。
一九七四年十一月、公明党は、「憲法三原則を将来においても改悪、変質させようとする政党、勢力とは、たとえそれが選挙管理内閣でも、共同で政権はつくらない」とした。
462 党は一九七三年十二月、公明党に公開質問状を発表し、公明党は一九七四年二月、それに対して漫罵と非難の文書を寄せた。
党は一九七四年六月の宮本の「三つの自由」論(p.456)と、一九七四年七月の「憲法五原則」(国民主権と国家主権*、恒久平和、基本的人権、議会制民主主義、地方自治)を明らかにした。
*どういうこと?安保廃棄ということか。
一九七三年十一月、公明党は、参院選共闘をしたくないために、憲法三原理を持ち出していた。「参院選共闘の条件として、憲法三原点を主張し、共産党は三原点を満たさないとして、全く共産党と(共闘を)やらない」と述べている。
一九七四年七月、公明党は憲法改悪阻止に限った共闘への参加を拒否した。
一九七四年四月十六日、党は、一切の武器の使用に反対する公明党の「絶対平和主義」が、必要な場合の武器使用を認める、公明党の「国土警備隊」保持の主張と矛盾すること、急迫不正の侵略にたいする一定の実力抵抗まで否定していない憲法の平和主義とも同じでないことなどを指摘し、公明党を批判した。
一九七四年六月、公明党は党に公開質問状(その1)をよこし、送り状の中で、反論は近いうちに行うとした。また七月に公開質問状(その2)をよこした。しかし、四月十六日付の党の批判と疑問に答えなかった。
一九七五年七月、党は『前衛』の論文でこれまでの経緯をまとめた。そこで、科学的社会主義の国家・革命論が民主的であることや、科学的社会主義が三権分立なども含めて近代民主主義の価値あるものを継承・発展させるとした。
党はさらに、公明党の憲法論が、保守的で、反革新的であり、科学的社会主義に対する非科学的な偏見と憎悪に満ちた、古典的反共主義に根ざしているとした。*
*ここまできつく言わなくてもいいのではないか。相手を遠ざけてしまうのではないか。
一九九二年六月、公明党は、自民、民社とともに、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律案」(PKO法案)に賛成し、強行採決した。
464 一九七四年八月、第四回中央委員会総会(第十二回党大会)で、党建設のための学習の基本は、日本における科学的社会主義の創造的発展である日本共産党の路線、理論、政策、方針を学習することにある*とし、独習指定文献を改定した。
*すごく独善的!たとえそのとおりだとしても。
一九七四年九月、宮本が、革新統一戦線と革新連合政権に関する懇談会の開催を提唱し、十一月に懇談会が開かれた。一九七六年九月の懇談会は、原水爆禁止世界大会の統一にも役立った。
465 1974 田中内閣が「教師憲章」を制定。1974.4 「赤旗」が「教師=聖職論をめぐって」を発表した。
日教組や社会党は、機械的な、教師=労働者論の立場から、党の主張、教師は「労働者であるとともに、教育の専門家である」を批判した。
466 ニセ「左翼」暴力集団は、七十年代初頭、法政大学、同志社大学などを暴力支配し、日本共産党員や民青同盟員の学生が自由に登校できなかった。党は、一九七二年と一九七四年に、国会議員による全国の大学の実態調査を行い、ニセ左翼暴力集団を打破しようとした。その結果、早稲田では暴力一掃に一定の成果があった。
一九七四年二月、党は、論文「文化分野での五十年問題の総括」を発表し、徳田と西沢隆二が、党と大衆団体を混同し、知識人、文化人とその研究・創造活動を否定的に評価するなどの間違いを生じさせたとした。
また論文は、これに影響された党員文化活動家の一部が、資本主義文化に代わる社会主義文化の建設を当面の任務としたり、文化の民族的伝統や遺産を封建時代以前の庶民文化に限定したりする間違いを今でも犯していると指摘した。
467 多喜二・百合子賞は、一九七〇年は、江口渙の歌集『わけしいのちの歌』と中里喜昭の『仮のねむり』に、一九七一年は、霜多正次の『明けもどろ』に、一九七三年は、手塚英孝の『落葉をまく庭』に与えられた。
467 日米安保条約空洞化論が、アメリカの平和共存政策=アメリカ帝国主義美化論に伴って現れた。
アメリカは、中ソ対立を利用し、緊張緩和=各個撃破戦術を用いた。
ソ連は、ニクソンやキッシンジャーを現実主義者・理性主義者と看做し、敬意の対象とし、一方、中国は、ソ連のような権力の座に就いた修正主義者よりはニクソンの方が好ましいとした。
468 1973.11 ソ連と東ドイツが、日本共産党第十二回党大会における不和書記局長の国際情勢分析を、「日本共産党の特殊な立場」として、批判した。
また、日本共産党が千島問題を取上げることを、「排外主義、報復主義」と批判した。
1974.3 アルゼンチン共産党代表アトス・ファバが、日本共産党の国際問題に関する立場を批判した。この論文を、ソ連、インド共産党、オーストリア共産党、アメリカ共産党、カナダ共産党が転載した。この論文は、各国の党の自主独立を不必要とした。
以上のどの党も、この論文に対する日本共産党の反論を掲載するようにもとめる日本共産党の要望に応じなかった。一九七五年三月、アルゼンチンは、何等再反論もせず、論争の中止を求めてきた。
ソ連は一九七四年四月、ノーボスチ通信社から世界各国にファバ論文を普及させることを決定していた。ファバ論文はソ連共産党が作ったものだった。
469 ソ連は『平和と社会主義の諸問題』誌を、ソ連の宣伝機関として用い、その覇権主義をあらわにした。
ソ連は同誌の編集長を独占した。
1974.1 六十七カ国共産党・労働者党が参加し、『平和と社会主義の諸問題』誌の各党代表者会議が開かれた。同誌の編集方針として、「反ソ主義との闘争」が提出され、これに日本共産党は反対してが、押し切られた。
1976 夏 日本共産党は『平和と社会主義の諸問題』誌日本版の発行を停止した。しかし一部必要なものは、『世界政治資料』に掲載した。
470 中国は、六十年代後半から七十年代初めまで「反米反ソ統一戦線」論を主張し、日本へ「武力闘争」路線をおしつけ、それに同調しない日本共産党を「修正主義」とし、日本共産党を、米帝や日本反動勢力と同列視する「四つの敵」論を強調した。
しかし、一九七二年のニクソン訪中によって、米帝や日本独占資本と協調しはじめた。
一九七四年四月、鄧小平は国連で、世界を超大国、大国、発展途上国の三つに分け、超大国の中でも後発のソ連がより危険だとし、米帝を免罪した。
一九七三年一月、周恩来は自民党代表木村武雄に、「日米安保条約は、日本としては必要と認めざるを得ないだろう。アメリカの核の傘は、ソ連に対して必要である」と言った。
つまり中国は、一九七二年の日米安保条約容認にとどまらず、核軍事同盟も、自衛隊増強も、公然と支持した。
471 1974.8.8 ニクソンが大統領を辞任した。(ウォーターゲート事件)
一九七四年七月、米下院司法委員会が、ニクソン大統領弾劾決議案の司法妨害、権限乱用、議会侮辱に関する条項を可決した。八月、弾劾決議案の審議を開始することになって、ニクソンは辞任した。
ウォーターゲート事件とは、ニクソンが、一九七二年十一月の大統領選挙で再選をはかるため、民主党本部に盗聴器を仕掛け、これが露見すると、権力を乱用して真相究明を妨害したことである。
日本の商業マスコミはこの事件を大々的に報道したが、共産党に対する盗聴事件は取上げなかった。
472 1974.8.8 ニクソンが大統領を辞任し、フォード副大統領が大統領に就任した。
フォード大統領は「力の政策」に依拠し、日本、西ヨーロッパとの反共同盟関係の維持・強化をした。
一九七四年十一月、フォード大統領が来日した。
473 一九七三年四月、小林政子議員が上越新幹線予定駅近くの土地の買占め問題を追及したところ、自民党は、小林に対して懲罰動議を強行した。
商業新聞は角タブーで沈黙していたが、党は十余年間田中の金権体質を追及し続けた
1974.10.30 不破書記局長が田中退陣後の選挙管理内閣を提唱した。社会党、公明党はこの提唱を受け入れなかった。椎名悦三郎自民党副総裁の指名で、三木武夫が次期首相になった。反共・社公民路線は三木に近づき、連立をねらった。
以上 『日本共産党の七十年』上巻終了
『日本共産党の七十年』下巻
026 1973.7 ベトナム労働党は革命戦争の継続を決定した。一九七五年春総攻撃し、四月三十日、サイゴンの大統領官邸を占拠し、大統領ズオン・バン・ミンが降伏を宣言した。四月十七日、カンボジアのロン・ノル政権が崩壊した。
アメリカは一九六四年、六五年、七〇年~七三年に核兵器の使用を画策した。アメリカ支配層の中にも対立が生じた。
028 一九七五年五月、フォード大統領はヨーロッパや朝鮮での核の先制攻撃を公言し、また日本の防衛分担の増大を要求し、三木はそれに応じた。
一九七五年八月、三木とフォードは、「韓国の安全」を「日本を含む東アジアの平和と安全」に変更し、アメリカの核抑止力を高く評価した。
一九七五年八月末、坂田防衛庁長官とシュレジンジャー米国防長官は、有事における防衛分担を協議する機関を設置することで合意し、一九七六年七月、日米防衛協力小委員会を設置した。日米防衛協力小委員会は、事実上の安保改定に等しい「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)を作成した。
1975.7 三木内閣は、公職選挙法を改悪し、政党機関紙の号外発行を禁止した。また同時に労働組合の献金と抱き合わせで、企業献金を合法化した。(政治資金規正法改悪案)
選挙を報道、論評した政党機関紙の号外発行を全面的に禁止し、選挙期間中は、選挙に関する報道・評論を掲載した、確認団体や労働組合の機関紙を含む一般誌は、有領配布に限るとした。
このとき三木内閣は、民社党のみならず社会党までも巻き込んで「保革提携」をすすめた。自民党の過半数割れの恐れから、民社党、公明党の右傾化がすすんだ。
一九七五年二月、民社党は、三木「政変」時の保革連合構想として、外交、安全保障の踏襲など自民党との連合路線を採用した。
一九七五年九月、公明党も保守、革新を超えた現実政策を強調し、一九七五年十月、一九七三年の安保条約即時廃棄を、アメリカの合意を条件とする安保条約廃棄に変更した。
029 解同朝田派は、社公民反共路線に貢献した。
一九七五年四月、社会党は「明るい革新大阪府政をつくる会」から離脱した。社会党府本部は、解同朝田・上田一派の「窓口一本化」を受け入れない黒田知事の推薦を拒否し、一九七五年二月、公明、民社と親自民の連合を結成した。
解同朝田・丸尾派は、人々を長時間監禁し、正座や直立不動の姿勢をとらせ、耳元で罵声を浴びせ、屈服するまで攻め立てた。中学生や、屈服した者もこれに加担した。
一九七四年十月、橋本哲朗兵教組朝来支部長宅を一週間、数百人で包囲し、昼夜分かたず騒ぎ立て、監禁した。また十一月、八鹿高校の教職員を白昼襲撃し、教育委員会、県当局の協力、加担の下にテロを加え、五十八人に重軽傷を負わせ、うち数人を危篤状態に陥らせた。
031 東京都でも一九七四年八月、解同朝田派は、応急生活資金貸付に浅田派の研修を条件とするなどを迫り、美濃部知事が追認した。また、都民生局は、「橋のない川」を差別映画とする解同に屈して貸し出しを中止した。そして年末には、教員やPTAに対する研修義務付けを迫った。
社会党は一九七四年十二月、解同を支持した。
しかし、中野好夫、市川房江らが不公正是正を申し入れなどにより、一九七五年三月、日本共産党、社会党、総評、日本民主法律家協会、学者・文化人の五者協定が成立し、意見をまとめた。
その結果、社共統一戦線を強化すること、(美濃部知事の)三選後、『同和問題懇談会』(仮称)を設置することなどを決定した。
032 一九七五年四月の地方選挙で、自民党は、特に革新自治体の公務員の給与が高いことが、地方財政危機の原因だとした。
社会党は福井県知事選や、吹田市長選で、自民と連合した。
自民は、東京、大阪、神奈川での知事選で敗北した。
日本共産党単独で勝利したところは、大阪府知事選、吹田、八尾、田川の市長選や、この地方選挙と前後して行われた、亀岡、八鹿、養父、出石(いずし)の革新市・町政の誕生であった。
一九七五年末から七六年春にかけて、解同によってもたらされた不公正が解消されようとした。不公正通達の改定(東京都)、特権的固定資産税減免措置の再検討(大阪府下衛星都市市長会)、窓口一本化是正通達(兵庫県)などである。
034 四本柱の活動(大衆活動、選挙活動、党建設、党防衛)、特に機関紙中心の党活動を重視し、読者と党員の拡大に努めた。
一九七一年十一月の「組織活動改善の手引き」を改善して、一九七七年二月、「支部活動の手引き」を発表した。
034 1974.4 ポルトガルでカエターノ・ファッショ政権が崩壊した。ギニア・ビサウ、モザンビーク、カポベルデ、サントーメ・プリンシペ、アンゴラの五カ国がポルトガルから独立した。
六十年代にアメリカのベトナム侵略を非難しなかった非同盟運動は、一九七二年八月、南ベトナム共和臨時革命政府とカンボジア王国民族連合政府をメンバーに加えた。また天然資源に対する恒久主権、多国籍企業の規制を打ち出した。
036 一九七五年、日本共産党は、チャウシェスク・ルーマニア共産党書記長(1975.4)と、ポペスク・ルーマニア共産党執行委員(1975.9)と、イタリア共産党のライクリン(1975.9)と、フランス共産党のロラン(1975.10)と、ドランツ・ユーゴスラビア共産主義者同盟執行委員会書記(1975.10--11)と懇談し、イタリア(二回、一回はスペインとの交流を含む)、キューバ(二回)、ラオス、パレスチナ解放機構、ベトナム民主共和国に代表を派遣し、自主独立の立場が世界標準であることを確認し、アメリカが力の政策を放棄していないことでも合意した。
しかし、フランスやイタリア両共産党は、ソ連から資金援助を受けており、フランスはソ連のアフガニスタン介入に同調し、イタリアは一九八七年秋以降のゴルバチョフの「新しい思考」を支持した。
037 1975.7 「日本共産党と創価学会との合意についての協定」が発表されたが、これは死文化した。
これは松本清張が仲介し、創価学会の申し入れで始まった。党は、公明党の反共主義と宗教団体が特定政党を支持することの誤りとを指摘し、学会は政教分離を確立すると約束した。
ところが、自民党、財界はこれに水をさし、中国共産党の孫平化が工作し、アメリカ大使館が圧力を加え、学会は、一九七五年七月二十二日、協定を公表しないと言い出した。
日本共産党による公表の翌日、秋谷創価学会副会長と矢野公明党書記長が協議し、矢野が「秋谷見解」を発表した。その見解は、公明党の反共「中道」路線を支持し、「左右の激突を止揚して中道勢力を拡大することは、協定の反ファシズムの精神だ」とした。
創価学会は八月末、公明党の方針案を「聖教新聞」紙上で紹介した。その中で、日本共産党は、「マルクス・レーニン主義という極端な党派的な一元的価値観のみが君臨する」社会を目指し、批判の自由が封殺されるとする部分を紹介したが、これは協定の合意に反して、共産主義を敵視するものだった。
党は話し合いを提案したが、学会=池田会長は拒否した。
039 以後、学会と公明党との政教一体化が強まった。公明党は、一九七五年十月以降、反共攻撃と親自民路線を強めた。安保廃棄にアメリカの合意を必要とすることや、寛容と包含の精神の名の下に、自民党との連合に向かった。
039 1975.7.30 宮本委員長が「救国・革新の国民的合意への道を寛容と相互理解に立って」を発表し、各界と懇談した。
040 宮本は一九七五年十月号の『文芸春秋』に、「歴史の転換点に立って――科学的社会主義と宗教の接点」を発表し、共・創協定のいきさつを明らかにした。
一九七五年十月、宮本は記者会見し、「マルクス・レーニン主義を、国家の公式の哲学、官許哲学としておしつけない」ことを明らかにした。そして党と国家を区別した。ソ連や中国のような、特定の世界観に特権的地位を与える立場を否定した。
一九七五年、党は、「宗教についての日本共産党の見解と態度」を決議した。
041 1975.11.26~八日間、公共企業体等労働組合協議会がスト権スト、三木内閣はスト権を否定し、ストによる損害賠償を組合に要求するように国鉄総裁に指示した。
党は、公労協が社会党に政府との交渉を一任したことや、動労の一部が、ストライキを乱発したことなどを批判した。
042 一九七九年九月、理論・政策問題についての会議を開いた。
042 一九七五年十二月、立花隆が「日本共産党の研究」を『文芸春秋』に発表し、宮本顕治の治安維持法等被告事件の判決を正当視し、治安維持法、特高警察、暗黒裁判を肯定する特高史観に立ち、暴力革命、プロレタリア独裁、民主集中制は、三位一体であるとした。
043 党は、宮本顕治の「スパイ挑発との闘争」(1945)を再録し、「宮本顕治公判記録」をはじめて公表し、反撃した。
一九七六年一月、民社党の春日一幸委員長が国会で、宮本顕治の治安維持法等被告事件をとりあげ、稲葉法相はこの問題が未決着であるかのような答弁をした。公明党も民社党の態度に同調した。
党は、これは三権分立を犯すものであり、春日質問は違憲であるとした。
社会党の成田委員長は、春日質問を政治反動に利用されると批判し、「多くの先輩の犠牲によってかちえた平和、民主の憲法のもとではぐくまれ定着した民主主義を、この問題は一歩後退させ、逆戻りさせる恐れなしとはいえない」と指摘した。
044 稲葉は宮本の復権問題が法的に決着済みと認めた。
党は一九七五年十二月、愛知県の民青同盟と党の地区幹部による、スパイ分派事件を摘発した。分派活動は道徳的頽廃と結びついていた。*どういうこと?
044 一九七六年二月、米上院外交委員会多国籍企業小委員会での証言で、ロッキード事件が明るみになった。
アメリカの産・軍・政が一体となり、飛行機を売り込むときに、判明している分だけでも一千二百万ドル=三十六億円の賄賂を用い、歴代首相、政界、財界、児玉誉士夫や小佐野賢治などの黒幕、政商、戦犯が絡んでいた。
045 自民党は全会派一致の真相究明国会決議を無視し、中曽根自民党幹事長の発言でも明らかなように、民社党と共謀して四月九日に予算案を強行採決した。
一九七六年四月八日、宮本委員長と社会党・成田委員長とが、統一戦線問題を協議することで合意した。
四月二十一日、調査特別委員会の設置が決まり、五月、衆参両院にロッキード問題調査特別委員会が設置された。六月から逮捕者が出て、七月二十七日、田中角栄前首相が逮捕され、つづいて佐藤孝行元運輸政務次官、橋本登美三郎元運輸相も逮捕された。
自民党は八月、ロッキードかくし、三木おろしのための「挙党体制確立協議会」(船田中代表世話人)を設け、福田、大平は三木の退陣を迫った。
一九七六年六月、河野洋平ら六人が自民党を離脱し、新自由クラブをつくった。
一九七六年二月、紅公民は自民党の苦境を見て、自民党と結ぼうとした。民社、公明、社会党の江田派は、「新しい日本を考える会」準備会をつくり、七月、設立総会を開いた。会長の松前重義は、戦前の大政翼賛会の初代総務部長であった。
社会党の成田委員長は、このように自民党に追随する民社党を批判し、民社党を待たずに共闘を発進するとし、これまでの全野党共闘論を修正した。
047 1976.6 プエルトリコで第二回西側主要国首脳会議を開催。前回の六カ国に、カナダが初参加。
このとき、米、西独、仏、英の四カ国は、イタリアで共産党が政府に参加するならば経済援助を停止すると干渉した。
047 *金権、戦犯、売国の三つを「三悪」(p.46, 48)と言っているようだ。
048 一九七六年七月の第十三回臨時党大会は、綱領から「執権」という用語を削除し、また科学的社会主義の学説と運動にたいして「マルクス・レーニン主義」という呼称をやめた。
「執権」は権力と同義であるのに難解である。また執権はソヴィエト型の国家権力と結び付けて用いられていた経緯があり、今日の日本のように民主的手段による革命の可能性が追求され、将来の人民権力の国家形態も議会制の民主主義国家が目標とされる国の革命には適用できない。
「マルクス・レーニン主義」という呼称は、スターリンによるレーニン主義の定義と不可分であり、レーニンによる理論的発展が反映しているが、今の日本はレーニンとは異なる歴史的条件の下にある。
これらの改定は、多くの国民に共産党の綱領を理解してもらうためであった。(多数者革命の道)
049 大会は「自由と民主主義の宣言」を採択した。それは、人民的議会主義(第十一回党大会)、農業・中小企業の強制集団化反対(第十二回党大会)、「三つの自由」(1974.6)、憲法五原則(1974.7)、国定哲学の否定(1975.10)などにもとづいていた。
050 「宣言」は、①「生存の自由」について、独立・民主日本や社会主義日本では、勤労者の私有財産は保障され、社会主義日本では国有化は大企業に限定されるとした。また農業・中小企業での協同組合化は、急がず、自発性を尊重し、無理に押し付けないとした。
社会主義的計画経済は、効率化のためであり、統制経済ではないとした。*
*これは果たしてそのとおりになるだろうか。
これは、経済体制の必然的・法則的発展である。
②「市民的政治的自由」とは、普通選挙にもとづく国会を最高機関とする、反対党を含む複数政党制と選挙による政権交代制とするなど。
③「民族の自由」とは、非同盟・中立、千島問題の解決、ブレジネフの「制限主権論」に反対などである。*
*①~③を三つの自由というらしい。一九七四年六月、宮本委員長が「三つの自由」論を提起し、自民党の「自由社会を守れ」に反論した。(p.456)
051 1977.10 ブレジネフ憲法を公布。ソ連共産党の特権的地位を強化し、対内的には官僚主義・命令主義であった。
ソ連・東欧など社会主義国では、「国定の哲学」や事実上の一党制を強制した。
052 1976.9 三木改造内閣。
自、公、民三党は、治安維持法等被告事件を国会内で継続して問題視し、「リンチ殺人事件」と呼称し、ロッキード事件から目をそらさせた。
戦前の裁判でもリンチではなかったし、殺人でもなかったことを安原刑事局長から引き出した。また「確定判決に関して国会がその当否を論議することは司法権の独立を侵す」と真田法制局長官が述べた。
052 1976.10 鬼頭史郎判事補が、宮本の網走刑務所内での記録(身分張)の一部の写しを、一九七四年七月に、裁判官の職務と偽って入手したこと、さらに一九七六年八月、布施検事総長の名をかたって、三木首相に電話し、ロッキード事件への指揮権発動の言質を得ようとしたことが発覚した。
053 一九七六年十一月、法務省は、民社党の春日一幸や立花隆らが、鬼頭史郎の資料を利用していたことを明らかにした。鬼頭らのグループは、網走以外でも資料を入手していた。
053 1976.12 総選挙で党は後退した。このころは経済恐慌で、倒産・失業が戦後最高となった。
党員の不祥事、ミグ25の亡命、紅青ら四人組の追放、国際勝共連合、『週刊新潮』『週刊文春』「サンケイ」などの反共宣伝など、選挙に不利な点もあったが、力量や反撃不足であった。
054 1976.9 党は、「日本共産党の政権構想」を発表し、選挙管理内閣や持続的共闘組織を提唱した。
公明、民社はこの提案を拒否した。*このあたりは甘い情勢分析をしていたことがわかる。
選挙結果 党の敗退(後退)
自民 共産 社会 公明 民社 新自由クラブ
249+11(過半数)19(-21, 10%) 停滞 伸張 伸張 19
*自民の11は追加公認。共産は革新共同を含む。パーセントは得票率。
055 警察は党の選挙に干渉した。
055 一九七六年十二月、第十三回中央委員会総会で、選挙を総括し、選挙で大きく後退した大都市対策などを課題とした。
056 1977.1 「明るい革新日本をめざす中央青年学生連絡会議」(中央青学連)を結成し、二月に活動者会義を開き、民青同盟や党支部の周りに「生きがいサークル」を、大学では社会科学系サークルの結成・強化を提起した。
一九七六年七月の「職場に自由と民主主義を」の訴えいらい、日立製作所武蔵工場の、党員あるいは支持者の女性労働者が、ガラス張りの隔離部屋に閉じ込められたのをやめさせたり、同盟系企業での職場ぐるみ選挙に反対したりした。
一九七六年十月、「職場の自由と民主主義をまもる全国連絡会」を結成した。
一九七七年三月、経営活動者会義の開催後、不当解雇の撤回、賃金差別是正、未組織労働者組織化のための宣伝・組織者の配置(1975.3)などに取り組んだ。
一九七七年五月、全国農村宣伝・組織者会議を開催した。このころ農民は賃労働者化しつつあった。農民協議会、農業・農民団体連絡会議などを組織した。
社会党員幹部による、全日農の私物化に反対した。
057 大団地専従活動家の配置、中小団地・マンション宣伝組織者の配置(1984.4)、生活相談所の新設などに取り組んだ。
中小企業への官公需発注拡大のための「官公需改正案」を国会に提出した。(1975.3) 全国商工団体連合会・民主商工会は、全国四百万の中小業者の八パーセントを組織した。(1977.6) 「生活と健康を守る会」、全日本民主医療機関連合会(民医連)などの組織を発展させた。
057 1977.1 カーターが大統領になった。
ベトナム戦争敗北後のカーターは、「人権外交」を唱えつつ、軍事面で同盟国に依拠した。
選挙後、反三木陣営の「挙党体制確立協議会」による、ロッキードかくし、三木おろしのもと、三木は退陣し、一九七六年十二月、福田武夫内閣が発足した。
福田は露骨にロッキード疑惑の幕引きをし、大型プロジェクトによる公共投資を行った。福田は「減税か公共投資か」と言い、一兆円減税を拒否した。党は、減税と生活密着型公共投資を求め、三千億円の減税上積みなど、予算修正を勝ち取った。
058 1977.5 日ソ漁業交渉調印。
党は四月、ソ連共産党との会談を申し入れたが、ソ連は受け入れなかったので、公開書簡を送り、領土問題解決の第一歩として、歯舞・色丹の返還を提起した。ソ連は、プラウダの無署名論文で、領土問題は解決済みとしたが、党は、赤旗でそれに反論し、領土併合に反対する科学的社会主義の大義にそむくものだとした。
「新しい日本を考える会」の結成で勢いをえた(1976.7)江田三郎は、一九七六年の総選挙後、社会党を社公民路線にしようとしたが失敗し、江田は社会党を離党(1977.3)し、「社会市民連合」の結成を目指したが、社会市民連合の結成は、江田の死後、一九七七年十月に結成された。
一九七〇年代後半(1974)の経済不況には、拡大再生産方式、独占資本の民主的規制、日本経済の対米従属・依存からの脱却などが求められた。
党は「日本経済への提言」を発表した。①資本主義の枠内での独占資本の規制、誘導による、経済民主主義の原則に立つ「民主的計画化」の提示、②経済成長率、個人消費、物価、財政などの計量的検討などをおこなった。
060 一九七七年六月七日、宮本・成田会談を行い、参院選地方区(宮城県)で共闘することにした。
宮本が参議院全国区に初立候補した。
福田内閣はソウルの地下鉄建設で疑惑があった。自民党は官庁ぐるみ、企業ぐるみの選挙をした。多数の警察官が党員を尾行したり、党支持者宅や赤旗読者宅を戸別訪問したりした。
061 公明・民社の「保革逆転」とは、自民党の補完勢力を意味した。
『週刊文春』は、内閣調査室の資料を用い、党の財政活動を中傷した。自民党は、領土問題や漁業問題でのソ連の強引な主張を「神風」と称して、ソ連=日本共産党というイメージを国民に植え付けた。大阪・豊中市では、公明党・創価学会員が、共産党の演説会場が火事だという通報し、妨害した。公明党は社会党に対して共産党との絶縁を迫った。
党は、政治勢力を、新旧保守勢力(自民、新自ク)、反共中道勢力(民社、公明、社市連)、革新勢力という三分割ではなく、現体制維持勢力と革新勢力の二分割であることを指摘した。
参院選選挙結果(1977.7)
自民 共産 社会 公明 民社 新自ク 社市連 革自連
63+α(過半数) 9→5 ― 5 増加 増加 3 1 1
*+αは無所属・諸派を引き込んだことを示す。
党は、得票数、得票率、議席数何れでも後退した。
参院選と同時に行われた東京都議選でも、党は、議席数を二十一から十一に後退した。
赤旗読者数も、後援会も後退した。
全国区を優先することにした。
063 一九七七年八月、初の全国都道府県・地区委員長会議。一九七七年十月、第十四回党大会。
大会は国政選挙を総括し、票が自民から公明、民社、新自由クラブに流れたとした。農民や都市勤労市民のあいだにも組織、金脈、人脈を張り巡らせているところに保守勢力の地盤の強さがある。
大量宣伝、演説会、党員の大衆との接触による口頭宣伝を重視した。
①大衆の要求に答える、大衆宣伝、党勢拡大(選挙の三つの前提)、②政策活動、政治宣伝、③後援会活動などを重視した。
大会は、①労働者階級の前衛部隊、②大衆との結びつき、③有機体としての民主集中制など、多数者革命を目指す大衆的前衛党の特徴を明らかにした。
民主集中制の規律を不必要としたりその弱化を求めたりする論壇を解党主義的と批判した。
大会は、二つの体制の対立だけに世界の矛盾を一面化することを批判し、両体制の経済競争が世界を決めるという、社会発展の原動力を社会の外部に求める誤った議論を批判した。また社会は合法則的に発展するとした。
*どういうこと?経済競争は発展の原動力ではないの?労働活動が原動力だと言いたいの?
066 大会は、資本主義から社会主義への転化の過程は、世界史的には、まだ生成期を経過しつつあるにすぎないとした。
すでに社会主義への道を踏み出した国々、発達した資本主義下で社会主義化を目指している国々、新旧植民地主義の支配から逃れようとしてたたかっている国々は、いずれ合流するとした。
第一回中央委員会総会では、幹部会委員長代理に、不破哲三が選ばれた。また幹部会では、書記局長に不破が選ばれた。
067 一九七五年の南ベトナム解放後、アセアン支配層は、インドシナとの平和共存に向かった。福田は、アジア太平洋地域で反共同盟を育成しようとするカーターの要請にこたえて、アセアンに経済協力をした。
福田内閣は、臨時国会(1977.9.29 — 11.25)で、大企業本位の公共投資、国債増発、国鉄運賃値上げ自由化、健保改悪、防衛二法改悪などの法案を提出した。そして有事立法準備、君が代の国歌化などを行った。
公明党がはじめて政府提出補正予算案に賛成した。
国鉄、健保、防衛の三法案は廃案となった。ところが、直後に臨時国会(1977.12.7 -- 10)を開いて、自社公民の事前の約束をもって、また共産党を除いた会議を開いたりして、国鉄、健保改悪両法案を可決してしまった。さらには、次の通常国会(1977.12.19 – 1978.6.16)の冒頭で、防衛二法案も可決してしまった。
一九七七年九月以来円高となった。一月は一ドル290円だったが、十二月には240円となった。
アメリカは日本の市場開放と来年度(一九七八年度)の八パーセント実質成長率を求めた。福田は、七パーセント、関税引き下げのくり上げ、牛肉、オレンジ、果汁などの輸入量拡大で応じた。
国際依存率は30%(実質依存率37%)となり、八十年代の財政破綻と反動的行政改革に結びついた。社公民各党は国債増発に賛成した。
069 1977.3 社共が、核兵器全面禁止、被爆者援護などで合意。これをもとに、原水爆禁止日本協議会と原水禁との五・一九合意。
しかし、統一世界大会の開催、第一回国連軍縮総会への統一代表団の派遣は実現したが、年内をめどとした組織統一は実現されなかった。
原水禁は合意にそむいて、別の大会を各地で開き、「いかなる国の核実験にも反対」「平和利用にも反対」を主張した。
その後、世界大会は、実行委員会方式で実現したが、統一組織結成は、総評や原水禁の反対で実現しなかった。そして一九八四年総評は、原水禁世界大会で分裂策動を行った。
070 社会党の成田委員長と石橋書記長は、一九七七年の参院選の敗北の責任を取って辞意を表明したが、背後には全野党共闘路線と、社公民路線との対立があった。
一九七七年九月の社会党大会で、(社会党内の)反協会派、とくに最右翼の「新しい流れの会」や江田派の残留組が、反共のイギリス労働党型、西独社民党型をめざし、安保政策を変えようとした。
「新しい流れの会」の田英夫、楢崎弥之助、秦豊らが大会途中で離党し、一九七八年三月、社会市民連合と合流し、社会民主連合(社民連)を結成した。
一九七七年十二月の社会党続開大会は、飛鳥田一雄を委員長に決めた。飛鳥田は、「保革連合」や民社などの排除の論理を批判しつつ、「社公中軸」路線を肯定し、折衷的な態度を取った。
一九七七年十一月、民社党大会で、春日が委員長を辞任し、佐々木良作が委員長となった。佐々木は、反共・親米・親自民の継続を表明した。
一九七八年一月の公明党大会で竹入委員長は、自衛隊や日米安保条約を容認し、企業献金や原子力発電所を肯定し、自民党を含む連合政権構想をよびかけた。自民党の大平幹事長は公明党を友党と呼んだ。
071 一九七八年の教育活動では、初級教育で十四万人が受講、四万人が修了した。中級講座や幹部学校も開かれ、講師は二万人だった。
一九七七年十二月、袴田里見は規律違反で調査中に『週刊新潮』に手記を公表した。調査過程で、以前から分派活動をやっていたこと、一九七七年一月、両党間でソ連の覇権主義中止について交渉していたころ、ソ連共産党中央委員会に個人的使者を送っていたことが判明した。
党は袴田を除名した。
袴田は戦中でも、黙秘をつらぬかず、特高のでっちあげに乗ぜられ、不正確な供述をし、また彼は理論水準が低く、個人中心主義が強かった。袴田は幹部としての地位を身分のように心得て、慢心をつのらせた。
袴田は立花論文など治安維持法等被告事件が話題となる中で、戦前の袴田の調書が反共勢力に利用され、獄中闘争の弱点が明らかになると、自己批判せず、宮本に怨恨を抱くようになった。袴田は、一般紙やテレビにも出演し、マスコミも党について不正確な記事を報道した。
『週刊新潮』や「サンケイ」は宮本を殺人者とした。党は『週刊新潮』、サンケイ新聞社、袴田を名誉毀損で告訴した。
袴田の妻も袴田に同調した。
党は大量のクリーンパンフで反撃した。
073 一九七八年三月の京都府知事選や、四月の横浜市長選で敗退した。
京都府知事選は、自民、新自由クラブの林田悠紀夫、社会、公明推薦、民社支持の山田芳治との三つ巴戦だった。*
*つまり、統一戦線が組めなかったということだ。
横浜でも社会党と統一戦線が組めず、自公民、新自由クラブ、社民連、社会の細郷道一に破れた。
一九七八年四月、公明、社会両党委員長と美濃部都知事との三者会談が開かれ、公明党は共産を除くことを主張した。
074 一九七八年三月、米下院フレーザー委員会は、国際勝共連合が、KCIAの組織であることを報告した。
その公聴会で、文鮮明の側近だった朴普熙の証言で、KCIAから日本の政治家に金が流れている疑惑がつよまった。
不破は、統一協会=勝共連合に協力していた政治家の氏名、勝共連合がKCIAの対日工作機関であることを指摘した。
また、党は、勝共連合の『原理講論』で、「日本と中国はサタン側の国家であり、韓国はイエスが再臨される国である」こと、「すべての民族は韓国語を使用せざるを得なくなるだろう」ことなど、日本語に翻訳されていない部分を明らかにした。
党は、勝共連合が、朴政権と結びつく極端な韓国中心主義であることを暴露した。
国際勝共連合は、一九七八年六月の立川市議選で、治安維持法等被告事件についての袴田の言葉を用いたビラを配り、街頭宣伝し、党の名誉を傷つけ、選挙妨害した。裁判所も彼らの違法文書の配付を禁じた。
一九七八年四月、解同朝田派に三年前に監禁された橋本哲朗*が、朝来町長に当選した。八鹿、養父、山東、朝来の四町に革新自治体が誕生した。
* 一九七四年十月、橋本哲朗兵教組朝来支部長宅を一週間、数百人で包囲し、昼夜分かたず騒ぎ立て、監禁した。(p.30)
075 一九七八年五月、学生党員の学習目標を引き上げ、『日本革命の展望』*1『唯物論と経験批判論』*2『資本論』を学生党員、民青同盟の幹部党員の必読文献に指定した。
*1 宮本顕治著、一九六七年、『日本革命の展望――綱領問題報告論集』これは昭和四十九年の警察白書は、第八章公安の維持で問題視している。(ネット)
*2 レーニン著、本書は科学的社会主義の認識論である。
一九七八年六月、「革新統一戦線についての懇談会」を開き、社会党に革新統一を呼びかけた。
一九七八年六月の宮本・飛鳥田会談で、一九七六年四月、一九七七年六月の社共合意に基づく合意をした。
一九七八年六月~七月の、ユーゴスラビアとの共同声明やルーマニアとの共同宣言で、古い国際通貨金融制度に代わる新しい国際経済秩序の創設の必要が定式化された。当時、すでにベトナムと中国間やベトナムとカンボジア(ポル・ポト)間で紛争があり、その後一九七九年、カンボジアや中国は、ベトナムを侵略した。
当時ユーゴスラビアは生成期の矛盾を抱えており、党は、スターリン・ブレジネフ型とは異なる、ユーゴスラビア独特の「自主管理」方式であっても、同調はしなかった。またルーマニアにおけるチャウシェスク個人崇拝も、内政問題として非難しなかった。
077 一九七八年一月、不破は国会で、トヨタなどの大企業による、労働者の搾取と中小企業収奪が、国際競争力を強め、円高の一因になっていると指摘した。また、不破は、米軍の嘉手納基地での核訓練、ロランC*の危険性、朝鮮有事を想定した在沖海兵隊の出動訓練(チームスピリット78)の実施などを追及した。
*地上系電波航法システム。今ではGPSに収束している。
上田は、沖縄返還交渉のとき、佐藤首相が私的密使をワシントンに送り、核通過、再持込の密約をしていたことを暴露した。これは一年後のキッシンジャー回顧録で裏付けられた。
078 一九七八年五月、福田首相はカーター大統領と会談し、米のアジアの安定策に協力し、十一月の日米安全保障協議委員会で、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を決定した。
また六月、「思いやり」の名の下に、米軍駐留費分担の増額を約束した。
一九七八年七月、栗栖広臣統幕議長が「第一線指揮官の判断で超法規的な行動をとることもありうる」と発言し、辞任したが、福田は有事立法と統合防衛作戦研究、民間防衛体制の研究を指示した。
党は、有事立法が、自衛のためのものではなく、朝鮮半島有事において、日米安保第五条*による自衛隊の米軍への協力であること、そのとき国民の言論・報道の自由を奪い、表現、集会、結社の自由や個人的財産権を奪うものであること、有事立法の始まりが、一九七六年の三木内閣による「日米防衛協力小委員会」であったことなどを指摘した。
*第五条:日本の施政権下における、米軍に対する攻撃に、自衛隊が協力する。
079 民社党は有事立法の検討に関して、「むしろ遅きに失したぐらいだ」とした。公明党も基本的見解で有事立法に賛成したが、後に「自民党的、自衛隊的有事立法には反対」などと修正したが、基本的見解は撤回しなかった。
党は、自衛隊の内訓が、自衛隊の判断で戦闘を開始できるとしていること、(政府が)国民の処罰を規定する機密保護法を企てていることなどを明らかにした。
1978.8 日中平和友好条約に調印。
政府はその批准に際して、尖閣列島を日本の領土とするとした。
中国による日本共産党員の入国拒否はその後も続いたが、一九七九年一月からなくなった。
080 一九七八年十月、福田内閣は、元号法制化法案を国会に提出することを決定し、十一月、ガイドラインを閣議決定した。
ガイドラインは、日本の領域外の「周辺海空域の防衛」のための日米共同作戦や極東有事を口実に、自衛隊が米の侵略戦争に自動的に参加することを決めた。また、武力攻撃の発生(日米安保第五条)に至らない「恐れのあるとき」も日米共同作戦を開始するとした。
一九七八年十一月、自民党がはじめて総裁予備選挙を実施し、大平正芳(田中角栄が支援)が第一位となり、新総裁となった。福田派が党内人事で反発して、首班指名臨時国会が空転した。
一九七八年十月、一ドル180円台を割った。福田内閣は大企業の、労働者や下請けを犠牲にする「減量経営」を援助、推進した。九月、税制調査会が、一般消費税導入を提起した。それは国民一人当たり、四万六千円~四万九千円の負担となった。党は、サラ金被害や下請け不払いを救済した。
081 党は、社会党が京都などで持ち出した、首長選挙では「多様な住民のニーズに応じて、様々な連合形態を取りうる」とすることを批判した。
1978.11 「国際児童年にかんする申し入れ」を政府におこなった。母性保護切捨ての労働基準法改悪に反対した。
082 民主集中制にかんする一部論壇の否定的役割を、不破、関原利一郎などが批判した。
一部論壇は、民主集中制が近代政党なら当然の組織的特質であり、前衛党として不可欠のものであることを理解していなかった。また分派や派閥を容認し、規律を緩めることを主張し、また、行動では少数が多数に従うとしても、その党の方針にたいする批判の自由を保障するのが民主的政党として当然である*と主張した。
*これではいけないの?批判も許されないの?
一部の論壇は、党の五十年問題を見ていなかった。
083 また、レーニンの「批判の自由と行動の統一」論は、ボリシェビキとメンシェビキが一つの党の中に連合していた時期のものであり、一九一二年のプラハ協議会で、単一のボリシェビキ党を形成して以来使用されなくなった、一時期だけのものであった。それは党を、小ブルジョア的潮流を含む共同戦線的な党に引き戻すものであり。党内の民主主義と日本国内の民主主義とは異なる。それは、「我々は国家のない未来社会を望んでいるのだから、われわれの運動の組織も未来社会と同じ原則でつくられなければならない」とするバクーニン流の議論である。*
*わかりかねます。
083 一九七九年一月、カーター政権は、国防報告で、朝鮮半島、中東などでの緊急事態に、米本国の軍事力も使用するとした。カーターは、米日欧三極同盟でソ連を包囲し、また中国との同盟関係も利用し、各個撃破政策を強化しようとした。
1975.4 カンボジアで、毛沢東盲従のポル・ポト政権が樹立された。ポル・ポト政権は、プノンペン市民を農村へ強制移住させた。
1978.4 中国はベトナム在住の華僑の大量出国をそそのかし、ベトナムとの国境を侵犯した。
1977.8 文化大革命終了宣言。依然として三つの世界論にもとづき、米ソ二つの超大国に反対するとしつつ、実際は、ソ連を主敵とし、米国に接近した。覇権主義的干渉路線を推し進めた。
1979.1 カンボジア人民共和国が成立した。ポル・ポト政権は、三百万人を虐殺した。
この際、ベトナム軍が、カンボジア国内に入ったが、党は、侵略とは看做さなかった。
085 1979.2 中国軍五十万がベトナム領に侵入した。
国連安全保障理事会では、米英が、中国軍のベトナムからの撤退と、ベトナム軍のカンボジアからの撤退を主張し、中国の覇権・侵略を擁護した。党は、日米安保条約を支持し、自らも侵略する中国を、社会帝国主義とした。
086 1979.3 中国がベトナムから撤兵を声明。しかし、ランソン、カオバンに残留した。撤兵の実態をランソンで取材中の赤旗特派員高野功が、中国軍に射殺された。
一九七九年五月、中国は和平交渉を打ち切り、ベトナムへの再懲罰を公言した。米中には、それぞれの覇権主義、侵略主義の相互支援を通じて、一種の同盟関係が存在した。
一九七九年二月、イランでパーレビ王制がイラン革命で倒れ、ホメイニ師らのイスラム的政治・社会秩序が樹立されたが、主権在民ではなかった。
一九七九年七月、ニカラグアでソモサ独裁政権が倒れ、四月、ウガンダのアミン、八月、赤道ギニアのマシアス、九月、中央アフリカのボカサ、十月、エルサルバドルのロメロなどの独裁政権が倒れた。十月、南朝鮮の朴大統領が暗殺された。アメリカを中心とする帝国主義、新植民地主義がゆらいだ。
一九七九年九月、キューバで非同盟諸国首脳会議が開かれた。当時、国境・領土問題などで、非同盟諸国間で紛争が生じていた。
087 一九七九年一月、大平首相は、有事立法策定の継承、元号法制化*1の促進、一般消費税*2の八十年度導入、グラマン疑獄追及の妨害などをした。医療費、消費者米価、国鉄運賃などの値上げをし、国債依存率40%、発行残高58兆円であった。
*1 元号法成立。(1979.6.6)
*2 一般消費税の推移。3%…一九八九年(1988.12.30)、5%…一九九七年。
党は、海部八郎日商岩井副社長らの証人喚問で、グラマン疑惑を追及した。政府のポル・ポト擁護や、中国のベトナム侵略擁護を追及した。
地方選挙で、「地方政治に保革なし」、「地方の時代」などと、政治的内容を抜きにする掛け声が叫ばれた。
地方選挙で、大平流「部分連合」は、公明、民社、新自ク、社民連を抱き込んだ。
自民党政治は自治体へ干渉し、統制をつよめた。
東京都知事選で自公民は、戦時中は軍の特務機関員で、首長公選に反対した、鈴木俊一を推薦した。
一方、太田薫は社会党を離脱し、日本共産党は推薦した。
社会党は一九七八年春の、公明党、美濃部都知事との三者会談に拘束されていたが、一九七九年一月、太田を擁立した。
一九七九年二月、大阪府知事選で、社会党中央は、自民、公明、民社、新自ク、社民連の、現憲法否定論者岸昌候補を推薦した。しかし、社会党元府本部委員長亀田得治は黒田を支持した。日本共産党と革自連が黒田を推薦した。結果は敗れた。
一九七九年三月、宮本が、東京の明治公園での演説会で右翼、徳田某に襲われた。東京でも敗れた。
京都、沖縄の知事選、横浜市長選、東京、大阪知事選で敗れたことになる。
(引退する)美濃部は「中立」を宣言し、「誰が知事になっても都政に変わりはない」とし、投票も棄権した。また、飛鳥田社会党委員長は、(共産党が推薦する)太田薫を非難した。
地方議員数を伸ばした。3555人。公明党を抜いて第三党になった。
自民は復元し、民社も増、公明は後退、社会は大幅減だった。
090 一九七九年三月、自民党「青嵐会」の玉置和郎は、憲法五十五条が認める資格争訟提起の権限を乱用し、宮本が戦前の治安維持法等被告事件のために、議員として資格がないとする訴状を安井参院議長に提出した。玉置は失敗した。
一九七九年五月、党は選挙対策として、地方選挙の結果と機関紙の陣地との関連を分析した。また、前回比130%以上の党勢で闘った、一九六九年、一九七二年の総選挙での躍進にならい、国政選挙で前回比130%以上を目標に掲げた。
ソ連は一九六八年の日ソ両党合意を破ってきたが、一九七五年から一九七六年にかけて、ソ連が党に、関係正常化のための会談を求めてきた。しかし、その予備会談の方針は、志賀グループとの関係を指摘されても反撃するというものだった。
092 一九七九年六月から七月にかけて、党は、ベトナム共産党(レ・ズアン書記長)、カンボジア救国民族統一戦線(ヘン・サムリン議長)、ラオス人民革命党(カイソン・フォムビハン書記長)と会談し、共同コミュニケを発表した。
093 一九七九年六月の東京サミットは、西側主要七カ国首脳に欧州共同体委員長も参加して開かれ、イラン革命による第二次石油危機打開のため、賃金抑制=所得政策の導入、開放貿易促進、東京ラウンド*の早期実施を取り決めた。大平は、米メジャーのOPEC敵視と石油高価格政策に合意し、民生用石油製品の消費抑制を行った。
* 東京ラウンドとは、一九七三年から一九七九年にかけて行われたGATT(関税及び貿易に関する一般協定)の第七回目の多角的貿易交渉である。非関税措置*の軽減に取り組んだ。(東京ラウンド、ウィキペディア)
* 非関税措置(非関税障壁)とは関税以外の方法で貿易を制限すること。
政府自民党は、一九八十年度中に一般消費税を導入することを決定した。公明党は「次の段階で」と、条件つき賛成、民社党は、大規模売上税を提起、新自由クラブは、「社会福祉関係の目的税として創設すべき」とした。
094 鉄建公団不正経理事件が明るみに出た。
一九七九年七月、山下元利防衛庁長官が南朝鮮を初訪問した。
自民党、大平内閣は、安定多数確保のために国会を解散した。
一九七九年八月二十日、宮本は「どのようにして一九八〇年代を革新連合勝利への道にするか――すべての革新勢力に建設的対話と討議をよびかける」を発表した。
その中で宮本は、飛鳥田社会党委員長の構想を批判し、政党の連合を国民不在として排除すること、社会党ヘゲモニー主義、特定政党支持義務付けなどを批判した。
党は、社会党に公開シンポジウム(九月開催)の開催を申し入れたが、社会党は拒否した。
095 選挙になると、自民党は、党大会と閣議決定である一般消費税が未定であるかのようにいい、公明、民社、新自クは「反自民」「一般消費税反対」などと言った。
096 自民党や反共諸党は、ベトナム「難民」、ソ連の色丹基地、ソ連芸術家・スポーツ選手の亡命などで攻撃し、また勝共連合、中国盲従の日本労働党*が攻撃した。
* 日本労働党 一九七四年一月成立。大隈鉄二中央委員会議長。一九六六年十月の日本共産党の自主独立路線に反対し、日本共産党から除名された。当初の暴力革命は、現在では規約にない。議会に参加する。革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)も議会に参加している。緑の党(三橋派)は、日本労働党から分かれた党派であり、日本ボランティア会を組織する。(ウィキペディア)
重点区必勝主義をとり、支持者台帳を作った。前回の総選挙では得票を増やしながら議席を大幅に減らしたことを反省した。
衆議院選挙結果
自民 共産・革新共同 社会 民社 公明 新自ク 社民連
-1+5=250 41 -16=107 +7=36 +2=58 4 -1=2
過半数割れ 倍増 退潮傾向 公民協力 転落
得票数は△26万票 西岡ら四人が離党
得票率は横這い10.67%
097 党は、「教育立党」活動などによって、強大な大衆的前衛党建設を目指すこと、大衆的組織の強化を強めることなどに務めた。また、日常活動と陣地戦の強化、大衆的後援会活動、支持者台帳による支持拡大、力の集中に務めた。
一斉地方選挙での前進につづいて総選挙で躍進したことは、こうした努力による。
098 一九六九年末から一九七九年まで四回総選挙があった。七十年代をつうじて得票率、議席とも伸ばしたのは、日本共産党だけであった。一般消費税の導入を阻止した。
自民 共産 社会 公明 民社 新自ク 社民連
1969得票率 47.63 6.81% 21.44 10.91 7.74
1979得票率 44.59 10.67% 19.71 9.78 6.78
*新自由クラブはどうなっているの?それと自民とを合わせないと正確ではない。
選挙後、自民党では、大平・田中の主流派と福田・三木・中曽根の非主流派との間で抗争があった。一九七九年十一月六日の首班指名選挙で、自民党は、大平と福田の二人が立候補した。決選投票で大平が指名された。(第二次大平内閣)倉石法相の「ロッキード被告晴天白日待望」論が飛び出し、第二次大平内閣は、「角影内閣」の色彩を強めた。*どういう意味?
民社党は自民党の分裂した一方の側との連合を主張し、公明党は、(民社党との)「あらゆる事態に同一歩調」を申し合わせた。
大平は一般消費税の一九八一年度以降の導入がありうるとし、小選挙区制についても導入を否定しなかった。
一九七九年十二月、一般消費税の導入は阻止された。
099 総選挙後、社会党は社公中軸路線=共産党廃除へすすんだ。一九七九年十月、社会党と総評は、社公総評ブロックを結成していく方向を決定した。十一月、社会党は、公明党と政権協議委員会を開いた。飛鳥田委員長は、日米安保廃棄は米の同意の下に行うと主張した。これは一九八〇年の社公合意への道を開くものであった。公明党は、一九七五年以来、事実上の安保存続論を主張し、一九七九年に安保条約を必要と認めた。
一方公明、民社は、十一月「中道政権構想協議会」をつくることで合意し、これに新自ク、社民連や自民党の一部も加えるとした。この中道連合政権構想は、日本共産党排除を鮮明にし、日米安保条約の「当面の存続」、自衛隊の存在の認知、原発建設承認、個人献金への移行の推進=企業献金の容認とした。
100 社会党は、一九七九年末、公明党との会談で、外交交渉による安保廃棄とし、公明党に歩み寄り、社会党中執は、日本共産党排除を確認した。
総評の槇枝議長は十一月、社公政権協議成功のためには、共産党を排除しても良いとした。そのことに対する共産党の批判に対して、「独裁にさえつうじる」とし、富塚事務局長は、「左右両極からの全体主義の台頭を防ぎ」「国際自由労連を通じて」などという総評発足当時の反共綱領を持ち出した。以後総評は、同盟ペースの労働戦線再編へ傾斜した。
一方、一九七九年十一月、統一労組懇は、学習交流大集会を開催し、「ナショナルセンターのあり方懇談会」(あり方懇)準備会の発足が報告された。
党は、この総選挙で、三十万近く得票を減らしたが、重点区では得票が十七万票、得票率で二パーセント増やした。
101 一九七九年二~三月と四月の予備会談後、一九七九年十二月、日ソ両党会談で、ソ連側が志賀問題などでの干渉の誤りを認めた。ソ連の干渉で分裂した原水爆禁止運動や日ソ友好運動に関して、再統一する必要性を確認した。
共同声明は、核兵器全面禁止と核兵器使用禁止国際協定の締結を目指すとした。
千島問題では、宮本は、さしあたって歯舞・色丹の返還の協議を求めた。そして平和条約がまだ締結されていないのだから、千島列島の帰属問題は解決済みではない、南千島については、一九五九年の両党間に合意があるとした。
ソ連側からは具体的な反論はなかった。ただ、ソ連の極東地方をめぐる軍事情勢の厳しさを協調した。
領土問題が未解決であり、協議していくことを認め合ったことを意味した。
103 日本共産党は、漁業、コンブ漁、墓参問題で提案し、それに対してソ連は肯定的態度で接し、拿捕されていた漁民も釈放された。
この会談でソ連側が、ソ連のことを「発達した社会主義」であることを共同声明に織り込むように求めたが、日本共産党は、社会主義生成期論に立ち、ソ連の国内体制についての批判的見地を明確にして、ソ連側の主張を拒否した。その後、ゴルバチョフは発達した社会主義論を放棄した。
会談は、日ソ両党が、自主、同権、内部問題不干渉、共通の問題での連帯という原則を確認したことを意味した。
しかし、ソ連が国際的に覇権主義をやめたことを意味しなかった。志賀への資金援助は続いていたようだし、アフガニスタンに軍事介入した。
104 感想 立花隆の「民主集中制」批判(p.52)、選挙における共産党の興隆と鬼頭史郎の陰謀(p.52)、春日一幸民社党委員長の違憲質問=治安維持法等被告事件=つまり、宮本は戦後も依然として有罪だとする主張、選挙での七十年代前半の興隆と、一旦は衰微しかけたが七十年代後半で復帰したこと、公職選挙法改悪により、言論の自由が抑圧されたことなどが、第九章で気になったことである。
民主集中制は批判することも許さないのだろうか。
自民党の恐ろしさ、右翼、暴力団を使い、宮本顕治を殺害しようとして何回となく襲いかからせた。
一方、中間政党=民社、公明、さらには社会党までも右傾化し、共産党は孤立化した。この点については、共産党にも原因がありそうだ。民社党ははじめから右翼的であったとしても、公明党や社会党を右傾化させた原因は、共産党にもあったようだ。共産党の批判は厳しすぎるのだ。自己だけを愛する、自己保存の本能ともいうべき組織防衛の気持ちが強すぎるのだ。容赦がないのだ。弁解はしているが。(p.94--95)自身は他とともに存在する。他者あっての自分である。そのことがわからない尊大さが「科学的社会主義」の中には含まれているのではないか。
このことは、「民主集中制」の問題にも関わるのではないか。それは五十年問題をはじめとして、ソ連や中国との関係の中で、「発達した資本主義社会の中の共産党」という自立した立場を維持しようとする、過去の党の歴史を反英しているとしても、今はもはやそういう時代ではないのだから、そこから脱皮しなければならない。また現に共産党自体がすでに様々な点で変身しているではないか。「共産党」といっても、議会制民主主義を容認し、社会主義社会における反対党派の存在と、政権交代を容認しているのだから、もはや社会民主主義と変わらないのではないか。
共産党は脱皮しなければならない。もっと人間関係の道徳をわきまえ、常識的で寛容でなければならない。「科学的社会主義」を言いふらしてばかりいてはいけない。名を捨てても実をとらなければならない。そうしないと人々の支持は、一定数以上は増えないのではないか。それが、私が共産党で引っかかる点で最大の問題だ。
選挙期間中のビラ配りを有料化するということは、禁止するに等しい。これは言論弾圧であり、表現の自由の憲法違反である。号外を禁止するというのもそうだ。三木がこれをやったという。丸山がお友達にしていた一見小心そうで、大人しく、人のよさそうな政治家である。一九七五年のことである。
一九七六年六月のプエルトリコでの第二回西側主要国首脳会議で、米、西独、仏、英の四カ国は、イタリアで共産党が政府に参加するならば経済援助を停止すると干渉した。これはこの会議の本質を暴露している。
ある所では大企業の国営化を言い、ある所では資本主義体制下での大企業の規制を語る。その整合性は、またその意図は、どうなっているのだろうか。
「自由と民主主義の宣言」(p.50, 1976.7, 第十三回臨時党大会)は、「生存の自由」について、独立・民主日本や社会主義日本では、勤労者の私有財産は保障され、社会主義日本では国有化は大企業に限定されるとした。
参議院選挙(1977.7)の直前、「日本経済への提言」を発表し、資本主義の枠内での独占資本の規制、誘導による、経済民主主義の原則に立つ「民主的計画化」を提示した。
一九七八年十月、福田内閣は、元号法制化法案を国会に提出することを決定し、十一月、ガイドラインを閣議決定した。
ガイドラインは、日本の領域外の「周辺海空域の防衛」のための日米共同作戦や極東有事を口実に、自衛隊が米の侵略戦争に自動的に参加することを決めた。また、武力攻撃の発生(日米安保第五条)に至らない「恐れのあるとき」も日米共同作戦を開始するとした。(p.80)
この話は今日に始まったわけではなかった。そして米の要望・世界戦略と深く係わっている。一般消費税も今日に始まったわけではなかった。小選挙区制も然り。表現の自由の制約も然り。機密法も然り。公共投資=バラマキ=人気取り・政権維持策=財政赤字も然り。
106 1978.4 アフガニスタンで人民民主党の政権が成立した。「四月革命」
一九七九年十二月、ソ連によって首班にすえられたカルマルは、一九七八年に「党、国家、革命への反逆者」として人民民主党から除名され、国外でソ連などの庇護下にあった。
一九七九年十二月二八日、ソ連大使館員は日本共産党に、ソ連は、カルマルを首班とする新しい国家・党の指導部が要請したから軍を派遣したと説明した。
107 カーターはイラン革命後、インド洋やペルシャ湾に第七艦隊を派遣し、十万の緊急展開部隊を創設した。カーターは米史上最大の軍事予算を組み、日欧など同盟国に責任を分担させた。また、沖縄の海兵隊を中東に振り分け(スイング)投入し、自衛隊の海峡封鎖能力を拡大させた。
大平首相は、米からの(一九八〇年一月米議会文書で発表)、自衛隊による三海峡(宗谷・津軽・対馬海峡)封鎖の要請を認めた。さらに一九八〇年二月、海上自衛隊を環太平洋合同演習(リムパック)に初参加させた。また、緊急展開部隊の沖縄駐留や第七艦隊の中東への派遣を認めた。
自民党政府は中国のベトナム侵略を免罪した。
1980 社公合意成立。社会党は、日本共産党との話し合いに応じなかった。共産党排除を政治原則とする「連合政権についての合意」を公明党と取り決めた。
「政策の大綱」では、「将来の安保条約の廃棄は、日米の外交交渉に基づいて行う」とし、十条*手続を留保した。
*十条とは、「条約を終了する意思を通告することができる」
公明の矢野書記長は、「八十年代の前半では安保体制は存続するというのが社公間で明らかになっている」とした。
「政策の大綱」は、現在の規模のままでの自衛隊の存続を認めた。将来は、自衛隊の「縮小・改組を検討する」とした。
公明党は、社公合意が、公民合意と「ほぼ同じという画期的な内容となった」と評価した。
社公合意は、八十年代前半を対象としたが、飛鳥田委員長以後も継続された。
109 中国の鄧小平副首相は、一九七八年十月、「日米安保条約をおかしいという人の方がおかしい」とし、また寥承志中日友好協会会長は、一九七八年十一月、「非武装・中立はありえない」とした。
それに対して、社会党は、反論せずに追従した。一九七九年一月、社会党の曽我祐次(ペンネーム西村真次)は、「安保を踏み絵とすることは時代錯誤」とした。また、一九七九年一月、飛鳥田委員長は、「非武装中立は意味がない」とした。
一九八〇年一月、同盟は、日米安保体制の維持をうたい、反共主義の労働戦線統一の方針をうちだした。
一九八〇年二月、総評は、社公合意を支持し、同盟の賃上げ自粛論に追随し、労働戦線の右翼的再編に同調した。
112 一九八〇年二月の第十五回党大会は、社公合意によって右転落した社会党の変化を待つのではなく、革新統一戦線の勝利に向かって、革新統一懇談会の結成を提唱し、労働戦線統一のためのあたらしい階級的民主的ナショナルセンターの確立が求められた。*これは一九八一年五月の「平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会」(略称「全国革新懇」)(p.133)へ発展する。
第一回中央委員会総会は、幹部会副委員長に、上田耕一郎、戎谷(じゅうや)春松、瀬長亀次郎、西沢富夫、村上弘を選んだ。
114 大平内閣は、米大使館人質事件に対する米の対イラン経済制裁に同調し、ソ連のアフガニスタン侵略に抗議するカーターのモスクワ・オリンピック不参加に同調し、一九八〇年五月、日本オリンピック委員会に圧力を加え、不参加にさせた。
一九八〇年四月、アメリカは、イランの米大使館人質奪還作戦に失敗した。
一九八〇年五月、カーター・大平会談。
115 社会党書記長多賀谷真稔は、安保廃棄を含む革新三目標は古臭いとし、当面安保存続を認めるとしつつ、将来の安保廃棄は捨てていないなど革新的ポーズをとった。
また多賀谷は、日本共産党が「よりまし政府論」*を放棄したとして、日本共産党を批判した。
*「よりまし政府論」とは、共産党が民主連合政府達成以前の、選挙管理内閣や暫定政権のことをこう呼んできた。(不破哲三「しんぶん赤旗」1998.8.25)
一九八〇年五月、社会党は、大平内閣不信任案を提出し、福田派、三木派ら反主流派が欠席し、可決された。
選挙戦で、反共野党は、政権をとっても自民党政治を大きく変えないとし、飛鳥田は非武装中立にこだわらないとした。
選挙戦の最中に大平が急死した。
117 選挙戦の最中の一九七〇年七月、創価学会による宮本宅電話盗聴や、創価学会・公明党による替え玉投票(1968)などが明るみにされた。
一九八〇年八月、党は北條弘創価学会会長ら五人に対して民事裁判を起こした。
一九八〇年六月、衆参同日選挙。
自民 共産(前回) 反共野党
衆院得票率 過半数割れ 10.1%(10.7) 大幅減
参院得票率(地・全)同上 11.7%(10.0), 7.3%(8.4)
衆議院 284 -12=29
参議院 135 - 4=12
衆参両院で安定過半数 第五党に後退
118 高原晋一宅と戎谷(じゅうや)春松宅の電話が盗聴されていることが判明した。
機関紙読者数で第十五回党大会時(1980.2)の水準を維持できなかった。
119 一九八〇年十月、兵庫県南光町で、解同に反対した日本共産党員の山田兼三が町長に当選した。
1980.7 大平・田中・福田派を中心として、鈴木善幸内閣が発足した。
鈴木内閣は憲法改悪の策動にのりだした。
一九八〇年八月発表の『防衛白書』は、「自由圏で第二位の経済大国日本に見合った国際的責任を防衛においても果たす」とした。八月十五日、鈴木は、靖国神社国営化の策動に呼応し、十八人の閣僚とともに靖国神社に参拝した。八月二十七日、奥野法相*は国会で「押し付け憲法」とし、九条改憲を表明した。
*奥野法相とは、奥野誠亮(せいすけ、せいりょう、1913--)「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」初代会長。一九三八年四月、内務省に入る。一九八〇年、鈴木善幸内閣で法務大臣。一九八八年、日中戦争について、「あの当時日本に侵略の意図はなかった」と国会で発言した。
120 国鉄ローカル線切捨て法案、郵便値上げ自由化法案、自衛隊増強防衛三法案などを可決した。
一九八〇年十月二十四日、民社党*は、自民党との党首会談で、「防衛計画大綱」強化、有事法制の整備、国家安全保障会議の設置などを鈴木につきつけ、防衛三法に賛成した。
*一九八〇年当時の民社党党首(中央執行委員長)は誰か?一九七七年十一月、民社党大会で、春日一幸が委員長を辞任し、佐々木良作が委員長となった。また塚本三郎は一九八五年四月に民社党委員長に昇格した。したがって、佐々木良作である。在任期間は一九七七年十一月から一九八五年四月まで。
一九八〇年十一月、臨時行政調査会(臨調)設置法が成立し、その後十年間、臨調行革路線のもとに、軍事費はアメリカの要求に答えて一・八倍になり、一方、自立・自助のもとに老人差別医療制度導入、健康保険法改悪、年金制度改悪などが遂行され、一九八九年四月には、消費税が導入された。
一九八〇年七月、総評は大会で日本共産党の挨拶を拒否し、統一労組懇を攻撃した。
121 一九八〇年七月、「国連婦人の十年」の中間年にあたり、世界会議がコペンハーゲンで開かれ、「婦人に対するあらゆる形態の差別撤廃条約」(婦人差別撤廃条約、一九七九年十二月の国連総会で採択)の署名式が行われた。一九八〇年七月、鈴木内閣も調印した。一九八五年六月、批准された。
一九八〇年八月、日本母親大会に、総評、日教組、自治労は参加しなかった。
一九八〇年八月、総評の槇枝議長、富塚事務局長は、10・21統一行動を「反徴兵、反海外派兵、反軍備、核禁止・軍縮の新平和四原則」を軸とし、安保容認路線を持ち込み、共産党を排除する方針を表明した。
これに対して、日本共産党、安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会、憲法会議、民医連、日本平和委員会の中央五団体は、10・21統一行動にむけ努力した。
一九八〇年十月十三日、不破書記局長と富塚総評事務局長とが合意し、10・21統一行動を、社会党も参加している、安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会と反安保全国実行委員会の主催で、安保条約破棄を掲げて、統一して行うことになった。
一九八〇年十一月、統一労組懇が「11・16中央集会」を開いた。
一九八〇年十二月、社会党大会は、綱領的文書「日本における社会主義への道」を見直し、米、日、中の連携などによる安保条約再検討の必要性を指摘し、現代資本主義が社会主義の目標を実現しつつあるとした。
一九八〇年十二月、公明党大会は、日米安保条約の存続と自衛隊の保持を公式方針としてはじめて明記した。
一九八〇年九月、伊藤律が帰国した。北京機関にいた野坂参三によって伊藤は中国に引き渡されていた。一九八〇年末、伊藤の手記を朝日新聞が掲載し、『週刊朝日』が連載した。一九八一年一月、党はそれに反論した。
伊藤は、北京機関を正規の機関とし、五一年文書はあの時点では正しかったとした。
123 一九八〇年五月、ヨシプ・ブロズ・チトーが死去した。
一九八〇年七月から八月にかけて、ポーランドでストライキが起き、八月末、ストライキ権の法制化、自主的労働組合の結成など「政労合意文書」が調印された。九月、ポーランド統一労働者党中央委員会総会は、ギエレク第一書記を解任し、カニア政治局員を選出した。
日本共産党は、社会主義国でもストライキの権利が認められることを明らかにした。
124 ソ連の「プラウダ」は、「政労合意」に対し否定的であった。
一九七九年十月、朴正煕(き)が暗殺された。
125 一九八〇年八月、読者から指摘されるまで、「赤旗」の遅配、未集金について把握されていなかった。また、後援会活動が私物化される傾向があった。
一九八〇年十一月、五中総(第十五回党大会)は、党中央に、選挙・自治体、統一戦線、大衆運動、宣伝、機関紙、政策、イデオロギー、国際、組織の九つの問題別委員会を設けた。
126 一九八〇年十二月、日ソ両党会談で、ソ連側は、アフガニスタンの政変前に、アミン政権によってソ連軍の出動が要請されていたとし、政変後にカルマルによって要請されたとしていた前言と食い違った説明をした。また、一九七九年の日ソ両党の共同声明にそむいて、領土問題は存在しないと主張したが、引っ込めた。
一九八〇年、党は、アルジェリア民族解放戦線、ドイツ社会主義統一党、ユーゴスラビアでの国際理論円卓会議、朝鮮労働党を訪問した。
128 一九八一年、レーガン政権下の、前NATO軍司令官のヘイグ国務長官は、「核兵器の使用も辞さず」と発言した。
レーガン政権は軍事費を増大させ、財政赤字と貿易赤字を深刻化させた。
1981.2 非同盟諸国外相会議がインドで開かれ、「政治・経済・社会体制を自由に選ぶすべての国家の権利」を強調した。また、軍事ブロック解消と外国基地撤去を打ち出し、「抑止力のバランス」論を批判し、核兵器全面禁止、核兵器使用禁止を打ち出した。
一九八一年二~三月、ソ連共産党大会は、アフガニスタン軍事介入を合理化し、軍事的均衡こそ平和の保障であるとした。
129 一九八一年度予算は、増税、福祉・教育の圧迫、国鉄運賃、米・麦価、健保料などの値上げ、軍事費七・六一パーセント増であった。
自民党の運動方針は、自主憲法制定に向けた世論の喚起を盛り込み、同党憲法調査会は、改憲草案作成をすすめた。それは、第九条を改悪し、安保条約の攻守同盟化や軍備増強の合法化、天皇の元首化、公共の福祉(今は「秩序」)の名による基本的人権の制限、国家緊急権確認による戦時体制など、アメリカの侵略戦争に日本が西側の一員として参戦する計画の、法制上の仕上げであった。
コマー米国防次官は、岩国の米軍基地に核兵器部隊(MWWU-1―― 米海兵航空団第一兵器部隊)が存在すると議会で証言した。米海兵隊の三つのMWWU-1の中で、前方配備されているのは、岩国だけであった。そして岩国に分解して核弾頭が持ち込まれていた。
130 自民党はまた公職選挙法を改悪し、公明、民社、親自ク(参院では新政クラブ)の賛成で可決した。その内容は、選挙時の政党の機関紙販売宣伝カーやハンドマイクの使用禁止、後援会ステッカーの禁止、街頭演説の時間制限などであった。
自民の玉置議員や民社の塚本書記長は、教科書を攻撃し、玉置は、「おおきなかぶ」「かさこ地ぞう」やいわさきちひろ*の表紙絵まで攻撃した。また、憲法原則の記述、侵略戦争への反省、原爆の悲惨さなどの記述を偏向として攻撃した。玉置は「共産党が教科書を作っている」とした。
*いわさきちひろの夫は、共産党元国会議員の松本善明。
七月、高校「現代社会」の八十一年度教科書検定では、憲法前文の削除や自衛隊の合憲・合法性の強調などの修正要求があった。
一九八一年三月、教科書検定訴訟を支援する全国連絡会、日教組、日高教などが反対集会を開いた。
一九八一年十一月、総評、日教組、マスコミ・文化共闘会議などが反対集会を開いた。
第二次臨調のメンバーが発表され、経団連の土光敏夫名誉会長、経団連常務理事の宮崎輝、伊藤忠商事会長で元大本営参謀の瀬島龍三、自衛隊初代統幕議長で三矢研究推進の林敬三などであった。
131 「赤旗」日刊紙は赤字続きだったので、値上げも含めて検討し、解決した。募金も行った。また常任の機関紙活動家の給料は中央が払い、運営は地区が行うという、「党有地区営」方式を提起した。
132 一九八一年五月、レーガン・鈴木会談。このときの共同声明で日米関係がはじめて「同盟」関係とされた。
共同声明では、日本の防衛対象は、従来の「領域」を超えて、「周辺海域数百海里、航路帯一千海里」とされた。鈴木は自ら署名した共同声明に不満を述べ、伊藤外相らが辞任した。
一九八一年五月、毎日新聞が、ライシャワーの証言を引用し、六十年安保改定の際、核積載艦船の日本への寄港、通過は、事前協議の対象ではないという了解が日米で交わされていたことが判明し、またジョンソン元国務次官は、岩国基地への核持込を証言し、従来の自民党政府の説明と食い違った。
ライシャワー証言は、日本の核基地化承認を公然と要求するものであり、自民、民社の中には、公然と通過・寄港を認めよとの主張もあらわれた。
133 一九七五年二月、嘉手納弾薬庫に核爆弾B61が運び込まれていた。
一九八一年六月、日米会談(大村防衛庁長官とロング米太平洋軍総司令官)で米側は、太平洋地域への戦域核配備を打ち出した。
一九八一年六月、社会党は非核三原則の法制化に反対する方針を決定した。
133 一九八一年五月、「平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会」(略称「全国革新懇」)が結成された。これは一九八〇年二月に提唱された「革新統一懇談会」がもとになっている。
一九八〇年五月、党中央は、「八十年代の国政革新をめざす懇談会」を開催した。
一九八〇年五月、「進歩と革新を目指す大阪懇話会」「日本の平和と民主主義を目指す京都懇談会」などが発足した。
一九八一年二月、各都道府県の「革新懇談会」の代表が集まり、「政治革新・統一戦線を語る全国交流会」を開いた。
*感想 これは「革新統一戦線」の構想が、社公合意によって消滅したことに対する、再編なのだろうが、明らかにこれは共産党の孤立を物語るものではないか。
一九八一年六月、各空母ミッドウエーが横須賀に入港した。
*感想 以下の経過は、今(2016.8.16)のバイデン米副大統領が、「日本国憲法はわれわれが作ったものだ」とする発言と、安倍政権とその取り巻きが言っている「押し付け憲法」「自主憲法制定」の動きと酷似していないか。
1981.5 毎日新聞が、ライシャワーの証言を引用し、六十年安保改定の際、核積載艦船の日本への寄港、通過は、事前協議の対象ではないという了解が日米で交わされていたことが判明し、またジョンソン元国務次官は、岩国基地への核持込を証言し、従来の自民党政府の説明と食い違った。
1981.6 日米会談(大村防衛庁長官とロング米太平洋軍総司令官)で米側は、太平洋地域への戦域核配備を打ち出した。
1981.6 核空母ミッドウエーが横須賀に入港した。
134 党は、サハラ・アラブ民主共和国のポリサリオ戦線中央委員会(1981.2)やインド共産党(マルクス主義)(1981.3)と交流し、またハンガリー社会主義労働者党中央委員会と『平和と社会主義の諸問題』誌編集局との共催の国際理論会議(1981.5)に参加し、ソ連のアフガニスタン侵略やポーランドへの覇権主義的干渉を批判した。
PLOがイスラエルのテルアビブで一般市民が乗ったバスを襲撃したことを日本共産党が批判したが、それに対して、一九七八年三月、PLOのアブドルハミードは、日本共産党に不当な攻撃を加える「公開書簡」を送りつけてきた。アブドルハミードは、日本共産党が、侵略者と犠牲者を同一視したとした。
一九八一年十月、アラファトが来日し、一九七五年の日本共産党とPLOとの共同コミュニケの方向で関係を修復した。
135 一九八一年五月、ソ連は日本共産党に「平和綱領」(ソ連共産党第二十六回大会決定)についての書簡を送り、その中で、アフガニスタンへの軍事介入を当然視し、軍事力均衡論を唱え、軍事同盟の解消や核兵器全面禁止などを欠落していた。
136 ソ連は、ソ連の対外政策と行動はすべて正しく、すべての共産党、平和民主勢力によって支持されるべきだとした。
137 党は、共産主義運動における「最大限綱領」「最小限綱領」*の規定を、平和運動に持ち込むソ連の誤りを指摘した。
*どういうこと?大衆運動に社会主義運動のルールを持ち込んではならないということなのか?
ソ連は「平和綱領」以来、一九七一年にはあった軍事機構解体、核兵器禁止条約締結などの課題を引っ込め、核兵器禁止国際条約に賛成から棄権にまわるようになった。わが党の指摘後、ソ連は核兵器禁止条約問題にかんする国連総会で賛成にかわった。
137 1981 ポーランドでストライキが全国的に広がった。
党は、「連帯」に関して、未熟な形での*ストライキ権の乱用は避けるべきだとした。
*感想 それでは成熟したストライキ権とはどういうものなのか?
一九八一年五月、「カトビツェ・フォーラム」と称する一部党員による親ソ分派組織ができた。
六月十二日、ソ連はポーランド統一労働者党のカニア書記を攻撃し、ポーランドの臨時党大会の代議員の構成にまで非難を浴びせた。
一九八〇年二月、劉少奇(一九六九年死亡)の名誉回復がなされ、一九八〇年から一九八一年一月まで、四人組の裁判が行われ、文革の誤りが是正された。
139 一九八一年六月、中国共産党第六回中央委員会総会(第十一期)は、文化大革命が毛沢東の独断専行と彼への個人崇拝によってひきおこされたとし、社会主義の原則に反する、大きな災害をもたらした内乱だったとした。
また文革時の対外政策上の誤りについては、他国の党に対して干渉、破壊行為があったことを認める、個人論文があらわれ、党指導者も他党に干渉しないと発言した。
またイタリア、フランスの共産党との関係を修復しつつ、中国盲従分子の党とも交流を継続した。
139 1981.7 東京都議会選挙。
社会党は公民と選挙協力をした。
140 「赤旗」読者数が減少しつつあった。
選挙結果
自民 共産 民社 公明 新自ク 社会
-4=52 +5=16 +1=5 +2=27 -2=8 -3=15
前々会は24 与党 与党 得票数・得票率で大きく後退
野党第一党
党の躍進は、保守化の時代論を打ち破る新しい一つの確証となった。*
*感想 この認識には賛成できない。右傾化しつつある社会党に不安を感じた社会党支持者の票が移動したにすぎないのではないか。自分のことしか考えない、楽観的すぎる評価である。まさに一九八一年は、保守化の時代の始まりである。
自民、民社、公明、新自ク、社会の合計=107(87%)
共産=16(13%)
140 一九八一年七月、七中総(第十五回党大会)は、基礎票・組織票(基礎的支持勢力、1984.4)構築計画を立てることを課題とした。
*感想 下部党員は度重なる中央の指令に従順に従ったのだろうか。また学習教材・赤旗・党大会決定・中央委員会総会決定を読めと言われて、それをそのまま鵜呑みにしていたのだろうか。
142 ヨーロッパで、ソ連がSS20型中距離ミサイルを配備したことに対抗し、一九七九年末、NATOは、アメリカの巡航ミサイルとパーシングⅡ型中距離ミサイルの配備計画を決定した。
一九八一年八月、フランスがムルロア環礁で、アメリカがネバダで地下核実験を行った。
レーガン政権は、一九八一年八月、中性子爆弾の生産再開を決定した。
これに対して、ノルウェー、デンマーク、オランダが反対した。九月、イギリス労働組合会議(TUC)が巡航ミサイル撤去、中性子爆弾配置反対を決議し、オランダ新内閣は、米製ミサイルの配備受け入れを延期した。イタリアのウニタ祭*ではベルリングエル共産党書記長が核兵器の全面禁止を強調した。
*ウニタ(l’Unità, 統一)とは、イタリア共産党(現左翼民主党)の機関紙の名称。
一九八一年の原水爆禁止世界大会には、加藤周一が初参加し、総評・社会党も参加した。ただし、総評・社会党は非核三原則法制化の要求を落とした。
世界平和評議会*などがソ連の外交政策を支持したのに対して、大会は、核軍拡競争を糾弾した。
*上巻参照 338 一九六四年五月、ソ連は、世界平和評議会(世評p.339)、世界労連に対して、社会党・総評系の、原水爆禁止世界大会の分裂集会を支持させようとした。
339 一九六四年七~八月、ジーコフや世界平和評議会のエンディコットらは、日本原水協と社会党・総評の分裂主義者の組織とにともに出席したが、批判されると原水禁世界大会から退場し、分裂大会だけに出席した。
一九四九年のパリ・プラハでの「平和擁護世界大会」がはじまり。一九五〇年のワルシャワ大会で「世界平和評議会」の設置を決定し、一九五一年に発足した。(世界平和評議会、ウィキペディア)
143 一九八一年八月~九月、党は、スイス労働党、スウェーデン左翼党、ベルギー共産党、オランダ共産党と会談した。
一九八一年九月、グロムイコ外相は、核兵器使用禁止宣言を提唱した。ソ連は、前年は核兵器禁止国際条約を促進する決議に棄権していた。しかし「平和綱領」の路線を出るものではなかった。
一方、レーガン政権は、十月、戦略核増強計画を発表し、ヨーロッパで限定的核戦争は起こりうるとした。
十月、ギリシャの総選挙で、NATOからの離脱を掲げる全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が勝利し、パパンドレウ政権が成立した。しかし、NATOからは離脱しなかった。
144 一九八一年十一月、ロストウ米軍備管理・軍縮局長は、巡航ミサイルなど戦略核の日本配備がありうるとした。
反核運動の中で、一九八一年十一月、レーガンは、「戦域核兵器」*については、米ソ双方がヨーロッパ配備を全廃するというゼロオプションをソ連に提案したと言った。
*射程が、戦略核、戦術核の中間のもの。中距離核兵器。(戦術核兵器、ウィキペディア)
ソ連はこれを拒否した。
レーガン提案は、西欧に新たに配備される予定の米の戦域核ミサイルの配備を、ソ連の(すでに配備されている)SS20撤去を条件として中止するというものであり、また、六千発の西欧配備中の米戦術核兵器や中性子爆弾の計画には言及しなかった。
ブレジネフは十一月、一般論としてヨーロッパのすべての核兵器の撤去にふれたが、具体的提案には含めなかった。
145 一九八一年六月、臨調は三つの部会報告を発表した。
鈴木内閣は、補助金カット、四十人学級計画凍結など行革関連一括処理法案、公務員定員削減と給与抑制など「行革大綱」を決定した。
社会党は飛鳥田委員長の独断で「一括処理法案」を審議するための行財政特別委員会の設置に賛成した。日本共産党、参議院の二院クラブ、一の会をのぞくすべての党が賛成した。
146 10・21集会に総評は前年同様に参加せず、中立労連、新産別とともに別個に集会を開いたが、ニセ左翼暴力集団*の攪乱で流会となった。
*このころもいたのか?名前さえ示されない。
自民、民社、公明、新自連(新自由クラブ・民主連合)は行革一括処理法案を成立させた。
老人保健法案(老人医療有料化法案)は会期内成立ができなかった。*
*ということはその後で成立したということか?
老人保健法は、老人福祉法による財政圧迫を打開するために、一九八二年八月十七日に公布、一九八三年に施行された。老人福祉法(一九六三年(昭和三十八年))は、一九七二年に一部改正され、七十歳以上の老人医療費無料化が行われた。(高齢者の医療の確保に関する法律、老人福祉法、ウィキペディア)
党は、一九六四年、老人医療無料化制度を提唱した。
民社党は軍備拡張論を展開し、公明党は国会の場ではじめて自衛隊合憲論を主張した。社会党は行革一括法案、老人保健法案に反対した。
147 一九八二年度予算案で、軍事費は、一般歳出増加分の三分の一を占めた。軍事費は七・七五パーセント増であった。老人医療費は有料化された。
一九八〇年度、一九五二年の最初の政府統計発表いらいはじめて、実質賃金がマイナスとなった。
一九八〇年九月、同盟などは、ゼンセン同盟、電機労連、鉄鋼労連、など六単産代表で構成する「統一推進会」をつくり、一九八一年五月には、反共主義、体制擁護路線、日米軍事同盟支持を明確にした「基本構想」を発表し、六月には「基本構想」にもとづく「統一準備会」への参加を呼びかけた。
党は、階級的ナショナルセンターとして統一労組懇を対置した。
148 総評内にも「統一準備会」参加に反対する声が高まり、「準備会」に参加しようとする指導部の方針を批判し、一九八一年七月の大会では執行部原案が通らず、十一月に持ち越されたが、そこでも執行部原案(統一準備会参加)と統一労組懇参加四単産の修正案とがともにたなあげされた。
しかし総評は十二月、拡大評議会で、規約を無視して、統一準備会への参加方針を採決した。
一九八一年十二月、統一準備会が発足した。
一九八一年十月、同盟は、軍事力増強路線を打ち出した。「西側の一員」として「防衛のための共同責任と分担」をしなければならないとした。
一九八一年十一月、鈴木内閣は、ロッキード事件の灰色高官、田中派の二階堂進を自民党幹事長にした。
一九八一年十二月、公明党は、「西側一員」論を明記し、安保条約の効用を認め、自衛隊合憲論を確認し、防衛構想を提起した。政権構想でも自民党政治の基本の継承・維持をうたい、自民党との政権連合への参加を認めた。
149 社会党は、一九八一年十二月、全党員投票方式で初めての委員長選挙を行い、飛鳥田が再選された。
社会党はその後、国会で無原則的に妥協し、首長選挙では自民党に追随し、一九八一年の社共革新統一候補は、16%の自治体だけとなった。
『平和と社会主義の諸問題』誌は、中ソ対立の中で、ソ連の対外路線の宣伝機関化した。一九八〇年四月号では、カルマルがインタビューに登場し、ソ連の軍事介入を礼賛した。一九八一年の論文掲載計画では中国共産党批判が予定されていた。
ザロードフ編集長(ソ連共産党代表)は、編集計画の是正と編集委員会の構成の民主化を要求する日本共産党の提案(1980.12.27)を拒否した。
「平和と社会主義」出版所の刊行物である『インフォメーション・ブレティン』誌(1981, no. 8)は、日本共産党を攻撃するアフガニスタン人民民主党の論文を掲載した。
一九八一年十一月、『平社』誌各党代表者会議がプラハで開かれ、日本共産党は、力の均衡論を批判し、核兵器完全禁止、両軍事ブロックの解消を掲げること、創刊以来編集長がソ連代表であるなど、編集委員会が恣意的に構成されているのを改めることなどを提案した。
ソ連はこの提案をうやむやにし、代表者会議で一致しなかったのに「国際集団書記局」を新設した。
一九八一年十二月、日本共産党は『平社』誌の廃刊と編集局の解体を求めた。
151 一九八一年七月、ポーランド統一労働者党は、ソ連が攻撃したカニアを第一書記に再選した。
ソ連が圧力をかけると、ポーランドはそれに従い、かつて分派組織と非難した「カトビツェ・フォーラム」を批判しなくなった。
ポーランドの党機関紙は、日本共産党を非難するソ連共産党の書簡を載せ、「赤旗」特派員のワルシャワ常駐申請を拒否した。
一九八一年十月、カニアが辞任させられ、ヤルゼルスキ将軍が、第一書記にえらばれた。
一九八一年十二月、戒厳令が布告され、「救国軍事評議会」が設置され、ソ連は「満足の意」を表明した。
152 日本共産党は、一九八一年十二月十四日、この事態の根源に、歴代政権の官僚主義、「連帯」内の過激分子による混乱の拡大、ソ連の干渉があるとのべた。
一九八二年一月、日米安保協議委員会で、一九八一年五月の日米首脳会談の公約に基づいて、在日米軍の自由出撃、自衛隊の日本の三海峡(宗谷・津軽・対馬)封鎖やグアム・フィリピンに至る極東海域防衛分担が決まった。
153 一九八二年の通常国会で、参議院全国区制が問題とされた。
同盟を除く、総評、中立労連、新産別が、日本共産党に協議を申し入れ、軍事費削減、減税で共同した。ところが社会党は、社公合意に縛られて、日本共産党との共闘を拒否し、軍事費を聖域とする民社党ペースの五野党修正案に同調した。
一九八二年三月、共産党を除く与野党の党首会談が開かれ、予算修正で合意した。
鈴木内閣は監獄法を改悪し、警察権限を強める立法を企て、一九八二年四月、刑事施設法案と留置施設法案を提出した。留置施設法案は、一九八二年二月に警察拘禁施設法案として用意されていたものである。党や法律家団体が反対し、成立を阻止した。*共産党にそんな力があるの?
154 一九八二年二月、社会党大会は、社公合意路線を継承し、同党の綱領的文書「日本における社会主義への道」を見直した一九八〇年の「中間報告」とほぼ同じ内容の「八〇年代の内外情勢の展望と社会党の路線」中執原案を決定した。
一九八二年三月、第八回中央委員会総会(第十五回党大会)は、初級教育を「基本課程」とあらためた。
155 八中総は、ワルシャワ条約にもとづく軍事ブロックと加盟諸国の安全保障の共同利益は、ソ連の干渉と軍事独裁の口実されていることを指摘した。また、ポーランドなど対ソ追従の諸党によって提唱された、各国共産党の世界会議開催に反対した。
一九八二年、ソ連共産党中央委員会理論政治誌『コムニスト』は、論評「共産主義者のプラハ会議*」で、日本共産党を攻撃した。
*プラハ会議とは『平社』誌各党代表者会議のこと。
アメリカ共産党のガス・ホールは、一九八二年二月、日本共産党に攻撃を加えた。チェコスロバキア共産党の機関誌『党生活』で、日本共産党を攻撃した。また『インフォメーション・ブレティン』は、インド共産党(ソ連追従派)とオーストリア共産党の、日本共産党を攻撃する論文を掲載した。
156 一九八二年四月、ソ連は日本共産党に書簡を送り、一九八一年九月四日付けの日本共産党の書簡への回答ではなく、ソ連への理解と協力を求めた。
157 一九八一年十二月、日本共産党は、ニカラグアを、一九八二年二月、フランス、イタリア、ノルウェー、デンマークを訪問した。一九八二年二月から三月にかけて、ユーゴスラビアが党の招待で来日し、一九八二年六月、党はユーゴスラビアを訪問した。
一九八二年七月、元KGB少佐のレフチェンコは、ソ連共産党が諸外国の党に資金援助をしていたことを米議会で暴露した。レフチェンコは、ソ連共産党国際部による志賀一派や社会党への資金援助を証言した。
157 一九八二年一月、文化団体連絡会議(文団連)が、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」を発表した。
158 党は、国民運動推進連絡会議を通して、「国連総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名」活動を行うとともに、三月二十一日に広島集会を開いた。159 署名数は二千九百万人を超えた。その他の団体の署名を合計すると、八千二百万に上った。
自民党は、一九八二年三月、各地方議会に核軍縮決議を行わないように通達を出し、鈴木首相は、「反米運動に結びつかないように十分注意」すべきだとした。
159 核軍縮、核廃絶を求める特別決議をした地方議会は、四十道府県、四百六十五市・特別区、六百六十五町村にのぼった。
158 一九八二年四月、京都府知事選で、自民、公明、民社、新自クが推す林田悠紀夫知事が、共産党が推す川口是を破った。公明、民社は、前回、表向き自民と連携しなかったが、今回は直接連合した。社会党は自主投票、京都総評は川口を支持した。
一九八二年四月、横浜市長選では、自民、社会、公明、民社、新自ク、社民連の推す細郷が「市民の市長をつくる会」の井之川平等を破った。
159 一九八二年五月、国会で「第二回国連軍縮特別総会に関する件」の決議が採択された。当初案は部分核停条約推進をうたい、不十分だった。党は、「究極的廃絶」の「究極的」を削除させた。しかし、その後は「究極的」が復活した。社会党・総評によって原水禁運動に持ち込まれ、国会でも決議されるようになった。
159 一九八二年六月、レーガン政権は、第二回国連軍縮特別総会に参加する日本原水協、日本平和委員会の二百余人の入国を拒否した。
鈴木首相は国連軍縮特別総会で、国会決議(p. 159)を踏みにじって、ヨーロッパへのアメリカのあたらしい核兵器配備や限定核戦争構想への米から日本への協力要請を容認した。国連総会は実質的な軍縮のための合意文書をつくれなかった。
国連総会でアメリカは核先制使用を公然と宣言したが、ソ連は、先制使用はしないと述べた。ただし、それは核兵器の相互凍結であり、また、核廃絶を「究極の」目標とした。ソ連は、以前は核兵器使用禁止決議に棄権していた。中国は、核兵器不使用を提案した。
核抑止論や軍事力均衡論は間違いであることを、この国連総会は教えた。
160 一九八二年五月、臨時行政調査会が、基本答申に向け、四つの部会の報告をした。
その中には、広域行政、市町村合併促進、国鉄、電電公社の解体・分割と内外独占資本への明け渡しなどが含まれていた。
161 一九八二年七月、第二臨調は「行政改革に関する基本答申」を提出したが、党は、市川正一*臨調対策委員会責任者の談話を発表し、財界指導下の軍拡強行・国民犠牲のファッショ的「行革」に反対した。
*市川正一の御子孫か?同姓同名読み方も同じ別人。政界を引退(1995)後、女性との不倫(1993)を週刊新潮で報道され、除名処分(2000.5)となった。(1923--2008)(市川正一(参議院議員)、ウィキペディア)
161 一九八二年六月、教科書検定で、「中国侵略」を削除させられたり、「進攻」、「進出」と書き換えさせられたりした。
一九八二年六月、ロッキード事件全日空ルートの東京地裁判決は、元運輸大臣・元自民党幹事長の橋本登美三郎と元政務次官で参院議員の佐藤孝行に有罪を言い渡し、自民党の現職幹事長(事件当時は内閣官房長官)二階堂進らにロッキード社から金員の授受があったことを認定した。自民党は、「証人喚問は証言法改定後に」とし、証人喚問を拒否し、共産党以外の野党はそれに同調した。党は、歳入欠陥*も追及した。
*歳入欠陥とは、実際の歳入が当初予算を下回ること。
公選法改悪法案を政府自民党は提出した。
社会党は総評の圧力の下に国会対策を右派に依存し、自民党は、社会党の協力を得て、全国区制自民党案を可決させた。
共産党は拘束比例代表制*を提案した。また、全国区制自民党案反対で、公明党と国会内で共同行動をとり、共同で鈴木内閣不信任案を上程したが、社会党は民社党とともに棄権した。
*拘束比例代表制とは、あらかじめ順位をつけた候補者名簿を公表し、政党に投票させるやり方。それに対して、非拘束名簿式があり、各候補者の個人名での得票数により決定される。
自民党は、公明、民社、新自連の賛成を得て、老人保健法案(老人医療有料化法案)を成立させた。
163 一九八〇年十一月、『宮本顕治文芸評論選集』が完結した。その中で宮本は、一九三〇年代初頭、「唯物弁証法的創作方法」という機械論が導入され、作品の政治的主題や作家の世界観の完成度を一面的に追及する欠陥があったことを指摘した。また文芸評価の基準を、社会での役割や発展的展望の有無においた。
一九八二年七月、党は、国際シンポジウムを開いた。
一九八二年七月、第十六回党大会を開いた。
164 大会は、帝国主義者の核戦争計画を阻止できる客観的諸条件は存在し成長しているとした。*
*楽観的すぎはしないか?
大会は、党の国際的任務を、日本民族*の死滅につながる核戦争の防止と核兵器の全面禁止などを明確にした。
*どうして特に日本民族なの?
165 大会は、社会主義大国が民族自決権の侵犯をするはずがないとする社会主義無謬論や、指導部の誤りによって、その国家や社会が社会主義でなくなったとする社会主義完全変質論を批判し、社会主義の大義と原則を擁護する努力があれば、社会主義を発展できるとした。ただし、大前提が失われれば、社会主義の変質の恐れもあることを予見した。
イタリア共産党は、「社会主義はその推進力を使い果たした」とする清算主義に立って、ソ連の覇権主義、命令主義の体制とロシア革命の道の破綻とを同一視し、社会主義を否定し、社会民主主義に接近した。
大会は、「日本の独占資本主義は、アメリカ帝国主義の核戦争計画に従属する中で、日本の帝国主義・軍国主義を強化しようとし、日本を軍国主義とファシズムへの時代に引き込もうとしている」とした。
166 大会は、学習などによる党風の確立と基礎票(基礎的支持勢力、第一回全国協議会1984.4)構築の二つの課題を提起した。
党風確立のために、さらに、真のヒューマニズムと同志愛に満ちた党生活を確立すること、革命的初心にかえり、革命的気概と大志ををもつ、民主集中制の規律と思想を全党の血肉とすることなどを強調した。*
*すごく倫理的!もろさを感じる。
さらに「保守主義、受動主義、小市民的な誘惑への屈服といった傾向」の克服を決めた。
167 党勢拡大について、有権者比で絶えず上昇するなどの基準を決定した。
野坂参三は、名誉議長に就任し、第一回中央委員会総会は、中央委員会議長に宮本顕治を、幹部会委員長に不破哲三を、幹部会副委員長に上田耕一郎*などを選んだ。また幹部会は書記局長に金子満広を選んだ。
*上田耕一郎は不破の実の兄である。不破の実名は、上田建二郎。(ウィキペディア)
167 一九八二年十一月、鈴木が退陣し、中曽根康弘内閣が発足した。
鈴木内閣は、九月、日米防衛首脳定期会議で、米空軍核攻撃機のF16を三沢に配備し、一千海里・シーレーン防衛を具体化した。アメリカは鈴木の態度が不徹底だと不満・不信を表明した。
168 一九八二年八月、鈴木内閣は、公明、民社と協力し、老人保健法を可決し、国鉄分割・民営化などを目玉とする「臨調」の基本答申実行の政府声明を発表した。
教科書では、中国侵略を美化し、それを日本軍国主義復活とする、中国・南朝鮮をはじめアジア各国からの非難が強まった。
一九八二年十月の国連軍縮週間にむけ、党は、一九八一年暮れに提起した平和運動を始めた。
全国革新懇代表世話人会は、米、英、仏、ソ、中に核兵器全面禁止をもとめる書簡を送った。
全国革新懇は、革新勢力結集のための共同目標をかかげた。つまり、軍事費削減、福祉・教育の充実、憲法改悪反対、自由と民主主義をまもる清潔・公正な政治の実現、非核・非同盟・中立などである。
一九八二年八月、二つの柱運動に取り組んだ。つまり、「学習・教育と党風」「基礎票構築」である。
169 一九八二年十二月、「日本共産党の六十年」を発表した。
一九八二年十一月、中曽根康弘内閣が発足した。中曽根は就任早々「戦後政治の総決算」を唱え、レーガンに追従する軍拡路線を推進した。米による核先制使用の容認、軍事費対GNP比一パーセント枠撤廃などを表明した。「行革断行」「たくましい文化と福祉」をかかげ、人事院勧告実施の凍結を強行し、一九八四年度に大型間接税の導入することを表明した。中曽根は改憲への強い意欲を持っていた。
一九八二年十二月、全日本民間労働組合協議会(全民労協)が結成された。臨調路線への全面協力をうたい、「全民労協の発足について」は、反共主義、体制擁護の「基本構想」路線を再確認した。
170 総評は全民労協の結成に協力した。
1983.1 中曽根は全斗煥を訪問し、南朝鮮の安全保障を日本の安全保障と結びつけた。また、四十億ドルの対南朝鮮援助を約束した。
中曽根は、憲法と武器輸出三原則に違反し、対米軍事技術供与を約束し、日米関係を「運命共同体」とした。日本を「不沈空母」とし、ソ連のバックファイア侵入を阻止し、日本周辺の四海峡を管理し、海上交通路=シーレーン防衛を表明した。
党はこれを日本型ファシズムとした。
一九八二年十一月、ブレジネフが死去し、新書記長にユーリー・アンドロポフを選出した。
171 一九八二年六月、レバノンからのPLOの攻撃を口実に、イスラエルがレバノンに侵攻した。PLOはレバノンから撤退したが、イスラエルはとどまった。
日本共産党は、イスラエルの侵略を糾弾し、イスラエルを支援するレーガン政権を批判した。またPLOに対してもイスラエルの国家としての存在を認める立場を明確にするように求めた。
党は、国連でのイスラエルに対する制裁をしりぞけたレーガン政権を批判した。またレバノンに駐留しているシリア軍の撤退も求めた。
同時にPLOに対しては、「イスラエル抹殺」論を克服し、一般市民への軍事行動を中止し、日本赤軍と手を切ることを要求した。
一九八二年九月、パレスチナ側は、アラブ首脳会議がイスラエルを間接的に認める中東和平案(フェズ憲章)を採択した。
一九八八年十一月、PLOの最高決定機関であるパレスチナ民族評議会は、国連安保理二四二号決議を受けいれ、一九四七年の国連総会の一八一号決議をパレスチナ国家独立の基礎とすると述べた独立宣言を採択し、イスラエルを承認した。
*国連安保理242号決議とは、一九六七年の第三次中東戦争後の処理で、戦争による領土取得を認めず、すべての当事国の生存の権利を認めるとするもの。
*国連総会181号決議とは、アラブ人、ユダヤ人の各国家をつくり、エルサレムは特別都市とするというもの。
172 一九八三年一月、第三回中央委員会総会(第十六回党大会)は、参議院選全国区が比例代表選挙(p.161)
に変わったことを反映して、比類のない誇るべき政策、歴史、組織をもつ日本共産党は必ず前進できるとし、「臨戦特別大運動」を提起した。
道府県議選挙では、画期的な全区立候補の方針で闘った。
立候補を決意し、奮闘する候補者が生まれ、彼らの活動を『あえて困難に望んだ開拓選挙の担い手たちの手記』にまとめた。
はじめての党名選挙でたたかわれた一九八三年六月の参議院選挙での比例代表区で躍進した。
172 感想 共産党は一九八〇年代以降、社会党から「社公合意」(1979.10, p.99, 1980)という明白な形でそっぽを向かれてから、ナルシスティックになっていく傾向が出てくる。それは、宮本から不破に幹部会委員長が移行する時期(一九八二年、p.167)でもあり、統一労組懇(1974.12, 1981.5, p.147)、革新懇(1981.5, p.133)とも重なる。そして勝利の見込みもなく、ただ社会党候補の票を奪うためだけに、全選挙区に候補者を擁立=乱立させるという戦術をとるようになった。
173 東京、福岡知事選で社共共闘が成立した。
一九八二年一月、社会党都本部大会は「明るい革新都政をつくる会」を解散した。
一九八三年三月九日、不破委員長と飛鳥田委員長が会談し、松岡英夫に出馬要請することで合意した。「平和と革新都民連合」を確認団体とした。
十三都道府県知事選挙のうち、公明、民社、新自クは、東京、大阪で自民党と連合し、社会党は、大阪、福井、鳥取、島根で自民党と連合し、北海道では、同党(社会党)候補横路孝弘を押し付けた。
一九八三年四月十日の地方選挙前半戦の結果は、福岡では革新が勝利した。
東京都知事選では得票率三十七・九パーセントだった。*
*ここで本書は勝敗について述べていないのだが、ウィキペディアによれば、鈴木俊一が六十・一六パーセントを獲得して勝利している。
大阪府知事には、太平洋戦争を聖戦とみなす候補(岸昌、きしさかえ)(63.02%)を、自、社、公、民、新自ク、社民連が支持した。元社会党大阪府本部委員長の亀田得治(36.26%)を、日本共産党が推した。
北海道では社会党(49.0%)と共産党(4.2%)との対決となった。*社会党が勝ったが、事実上社会党候補を一方的に推して、党が選挙戦で社会党の馬の脚の役割をはたすという従来の状態を改め、原則を堅持してたたかったことは、重要な意義を持った。
*そう受け取れる記述だが、ウィキペディアで調べてみると、実はカッコ内の数字が示すとおりで、共産党は社会党の足を引っ張ったのである。つまり、自民、公明、民社、新自ク、社民連が推す候補は、四十六・八パーセント取っていて、社会党候補と接戦だったのだ。
174 党は、道府県議選挙で三十七議席減、政令市議選挙で二十一議席減だった。後半戦では、三十八議席増だったが、全体では議席を後退させた。
一九八三年五月、四中総は、反共攻撃に屈して、共産党隠しをする傾向が見られたことを指摘した。
175 四中総は、ニセ「左翼」暴力集団や「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)の反共分裂主義を批判した。小田実*日市連代表は、四月の都知事選の街頭演説で、「社共はだめ」と公言した。
*小田実はKGBからお金をもらっていた。(ウィキペディア)
一九八三年四月、小田実は、野間宏とともに中国に招待されたことを肯定的に記述した一文を日本民主主義文学同盟の機関誌『民主文学』四月号に載せた。
野間宏は、志賀一派とともに反党活動に加わり、一九六四年十一月、除名された対ソ盲従の反党分子であるり、一九七九年から中国盲従の「日中文化交流協会」の常任理事となった。
民主主義文学同盟常任理事会は、四月号問題を反省し、この誤りを克服した。
日本民主主義文学同盟の霜多正次、中里喜昭らは、中国の覇権主義の誤りを理解できず、その後雑誌『葦牙』で反党、反民主文学活動を行った。
「小林多喜二没後五十周年の夕」(1983.2)「マルクス没後百周年記念日本共産党本部集会」(1983.3.14)を開いた。
176 一九八三年六月の参議院選挙では比例代表制が導入され、はじめて政党そのものに投票することになった。
選挙結果(第十三回参議院議員通常選挙、上段の政党名と数字はウィキペディアより)
自民 社会 公明 共産 民社 新自由クラブ・民主連合*
137 44 27 14 11 3
+3 -4 維持 維持 4→2
得票率 -7.2%=35.2%
比例代表 8 +2=5
サラリーマン新党 第二院クラブ 税金党 福祉党 無所属
2 2 1 1 10
*一九八一年九月、新自クと社民連は、衆院内統一会派「新自由クラブ・民主連合」を結成。
社会党は飛鳥田が辞任し、九月、石橋政嗣が委員長になった。飛鳥田は敗北の原因を「社公合意」としたが、石橋は「社公合意」を促進し、「ニュー社会党」の名の下に自民党を含む連立を示唆した。
公明党は野党第一党になった。*
*ウィキペディアと合わない。
ビラを全国のほとんどすべての世帯に配った。
自民党は、中曽根の日米運命共同体論やヨーロッパ核配備促進の発言などをごまかした。
公明、民社、新自クなどは「与野党伯仲」を唱えた。
社会党は、「反核・平和」「軍拡ストップ」をかかげたたが、日米安保条約や「革新」については触れなかった。
178
NHK世論調査で、日本共産党を「絶対支持しない」の率が、「こんにちは日本共産党です」の配付前は、四三・六パーセントだったが、配付後には三七・〇パーセントになった。
参院選直後の五中総は、地方選挙でないと本気で取り組まないという地域セクト主義による党派性の弱化を指摘した。また基礎的支持勢力の後退が都市部での敗退の原因であったと指摘した。
一九八三年八月、『無産者グラフ』の伝統を引き継いで、グラフ雑誌『こんにちは日本共産党です』が創刊された。
179 一九八三年五月、ヨーロッパ核軍縮運動大会(END大会)が「非核・非同盟の欧州を」をスローガンに開かれた。
一九八三年八月、原水禁世界大会が開かれたが、その宣言に、アメリカの主張で、「米ソ間の核凍結の合意を、核軍縮に向かう第一歩として支持する」という一説が、批判があったにもかかわらず、書き込まれた。
平和大行進では、総評が統一労組懇旗を排除しようとした。
一九八三年七~八月、世界教会評議会総会がカナダで開かれ、「核兵器の保有とその使用を人類に対する犯罪」とした。世界各地で反核デモが行われた。
一九八三年十一月、米巡航ミサイル、パーシングⅡがヨーロッパに配備され、ソ連も対抗措置実行を宣言し、二年間にわたる米ソの中距離核戦力(INF)交渉が中断し、ついで米ソ戦略兵器削減交渉(START)も中止された。
180 1983.3 非同盟諸国首脳会議がインドで開かれた。
同会議は、新国際経済秩序*をめぐる要求をし、カンボジア代表権問題*など参加国の意見の相違にもかかわらず、団結を維持した。
*新経済秩序とは、一九七四年四月、国連資源特別総会で、発展途上国グループG77が主張し、「新国際経済秩序樹立に関する宣言」として可決された。ニエオ(NIEO)宣言とも。
発展途上国に不利な国際通貨制度の改革や貿易条件の改善を目指したが、先進国の利害と対立し、あまり進展していない。(ニューワイド学習百科事典)
*カンボジア・ベトナム戦争(1975.5—1989.9)で、CGDK(民主カンボジア連合政府、民主カンボジア、クメール・ルージュ、カンプチア革命軍、カンボジア側、中国寄り)とPRK(カンプチア人民共和国、フン・セン首相、ベトナム側)との国連代表権のことらしい。(カンボジア・ベトナム戦争、ウィキペディアより)
レーガン政権による中米・カリブ海諸国への軍事干渉に抗し、エルサルバドルのファラブンド・マルチ民族解放戦線と民主革命戦線の闘いが前進した。
一九八三年七月、コンタドーラ首脳会議(コロンビア、メキシコ、パナマ、ベネズエラ)が開かれ、「カンクン宣言」を採択した。
一九八二年十月、ボリビア軍事独裁政権の打倒、共産党も参加する民主人民連合政府の樹立。
一九八三年十月、アルゼンチン大統領選挙で、急進市民連盟(急進党)が勝利し、七年九ヶ月の軍事独裁政権に終止符をうった。
181 1983.10.9 全斗煥大統領一行が、ラングーンで爆発事件にあった。二十一人が死亡。ビルマ政府は、北朝鮮による犯行とし、国交を断絶し、国家としての承認も取り消した。
十一月二十三日、ビルマ警察庁長官は、北朝鮮工作員カン・ミン・チョル大尉の供述調書を公表、犯行が、北朝鮮特別工作部隊タイ・チャンス司令官の命令であったことを明らかにした。
在日本朝鮮人総連合傘下の「朝鮮時報」は、十一月二八日、日本共産党が「テロや暗殺は共産主義と無縁である」としたことに対して、「マスコミに追随し、反動派の謀略に同調するもの」と非難した。
182 「日本金日成主義研究会」「チュチェ思想研究会」「自主の会」など対外追従主義者による党批判に反論した。
社会党は「朝鮮民主主義人民共和国と今回の犯行は無縁」、「今回の事件の責任はビルマ政府にある」として、北朝鮮を擁護した。
一九八三年十月二十五日、レーガン政権は東カリブ海六カ国を引き入れ、米海兵隊がグレナダを侵略し、傀儡政権を樹立した。中曽根首相はレーガンの行為を「理解できる」とした。
中曽根内閣は、コール西独首相、レーガン米大統領、胡耀邦中国共産党総書記を招待して、見せ場をつくった。
コール首相は十一月二日、国会で演説し、西側の核軍拡への同調を求めた。
レーガン大統領が十一月九日来日し、十一日、国会で演説し、「力を通して平和に貢献する」とし、「自由防衛のための共同負担」を求め、「私たちの夢は、核兵器が地上からなくなる日が来ることだ」と述べた。
183 十一月二十三日、胡耀邦中国共産党総書記が来日し、ソ連のSS20ミサイル削減のために共同歩調を取ることで合意し、日本の防衛政策に理解を表明し、「日中不戦の誓い」を発表した。
党は、平和共存と、資本主義・帝国主義国の政府との「相互信頼」とは別物であるとし、胡を批判した。
党は、七月、キューバ、ニカラグアを、八月、メキシコ社会主義統一党を訪問した。
一九八三年十月、東京地裁がロッキード事件丸紅ルートで、田中角栄に懲役四年、追徴金五億円の実刑判決を下した。
184 田中は議員を辞職しないと表明し、自民党は国会での田中辞職勧告決議案の審議を拒否した。
社会党の石橋委員長は、議員(総)辞職戦術を提唱したが、結局、社会党の総辞職戦術は実行されなかった。
全野党は田中決議棚上げに反対したが、社、公、民、新自クは、「馴れ合い的な印象を避けた話し合い解散」という自民党と田中の策略に同調し、田中決議を棚上げした。
国会は、公選法改悪案(立会演説会の廃止)、公選制から推薦制への学術会議改悪法案、自衛隊を二千人増やす防衛二法案を成立させ、解散した。
185 一九八三年十二月、衆議院選挙。
中曽根は、「野党はリンリ、リンリと鈴虫のように鳴いている」と田中問題を避けた。公約では「直間比率の見直し」をかかげながら、「増税なしの減税」を強調し、「行革」「教育改革」「ガン対策」「日本中を緑と花で」などととぼけた。
野党間の選挙協力は五十八選挙区に及んだ。警察当局による干渉、弾圧も強められた。
選挙結果
自民 共産 社会 公明 民社 新自ク 社民連
250 27 112 58 38 8 3
-36 -2 +12 +25 +8 -2 +-0
得票率 9.6%(一九七〇年代以来最低)
186 中曽根は新自クを国会内統一会派として取り込んだ。
社会党は一九八四年一月号の『月間社会党』で自衛隊を「違憲・合法」としたが、一九八四年二月には「違憲・法的存在」と改め、「全方位外交」を採用し、南朝鮮を認め、一九八四年四月、訪米した。
一九八四年四月、公明党は、自民党との連合への準備に取り掛かった。
一九八四年四月、民社党は、自民党との連合を第一に、社公との連合を第二に位置づけ、軍事費一パーセント枠突破を承認した。
商業マスコミは、社公民の方針を「現実路線」として評価した。
中曽根は、治安維持法の中曽根版である政党法制定を企てた。(つまり、共産党を非合法化する狙いがあるらしい。)
188 一九八四年一月、宮本議長はアンドロポフソ連共産党書記長に書簡を贈り、核兵器全面禁止のためのイニシアチブをもとめた。またレーガン大統領に書簡を贈り、日本国会での核兵器廃絶発言の裏づけを求めた。
二月九日、アンドロポフは死去し、チェルネンコ書記長が後任となった。
189 一九八四年、政府・自民党は、臨調行革第二段階として、健康保険本人一割負担導入、電電、専売両公社の分割・民営化法案などを提案した。
自民党は「政治倫理協議会」の設置や政治家の資産公開に田中問題をそらし、他の野党も田中辞職勧告決議案を出そうとしなかった。
一九八四年二月、自民党は衆院政治倫理協議会に政党法の制定を提案した。
四月、「政党法制定に反対する中央連絡会議」が発足し、青島幸男、美濃部亮吉、喜屋武真栄ら八人の参議院議員が激励電をよせた。
二月、「明るい革新日本を目指す中央青年学生連絡会議」(中央青学連)は核巡航ミサイル配備に反対した。(「反核アトム運動」)
一九八四年六月、米太平洋艦隊へトマホークが配備された。
190 一九八四年一月、スペイン共産党に敵対するソ連追従分子の反党分派主義者ガジェゴが新党を組織し、それをソ連などが支持した。
スペイン共産党の書記長だったカリリョも分裂策動を行い、一九八五年四月、解任された。一九八五年六月、カリリョは新党「スペイン共産党(革命的マルクス主義)」を政府に登録し、スペイン共産党は三つに分裂した。
191 中国は一九八二年九月、内部問題不干渉をうたったが、(日本国内の)政治グループと関係を持ち続け、覇権主義を温存した。
一九八四年三月、中曽根首相が中国を公式訪問した。鄧小平党顧問委員会主任は、中曽根の講演を「すばらしい」と賛美し、趙首相は、「日本が軍国主義なるとは決して思っていない」と中曽根を美化した。
一九八四年三月、機関紙拡大と定着・全国交流大会開催
一九八四年四月、第一回全国協議会開催。全国協議会は、第十四回党大会での規約改正で、「党大会から次の党大会までの間に、全国の党組織にはかって決定する必要があるとき」開くことにした。
192 一全協は、六原則に基づく機関紙活動を日常不断に行い、機関紙活動では、「日常的な英雄主義」が重要であるなどとした。
一全協は、地区委員会で常任委員が二人以下の地区を三人にするための財政援助を行うことを決定し、「基礎票」を「基礎的支持勢力」と改めた。
一全協の後に開かれた続開総会は、一全協の討論の全体を全員一致で承認した。
193 一九八四年、労働四団体(総評、同盟、新産別、中立労連)を中心とする中央メーデー常任実行委員会は、全民労協を常任実行委員団体として加盟させ、スローガン「生活と権利を守ろう」を削除し、メーデー集会から政党挨拶をなくし、祝賀式典に、自民党政府の労働大臣や与党新自ク代表を招待した。
一九八四年五月、「農民運動の全国センターを考える懇談会」(農民運動全国懇)結成大会。
全日農本部は、社会党や総評に追従し、農産物市場開放を要求し、農地への宅地なみ課税を認める総評との一体化を掲げ、社会党支持を決定し、社会党系の弱い県連に、別の県連を作った。
194 一九八四年五月、中野好夫、関屋綾子、沼田稲次郎ら三十七名が、声明「民主主義をまもるために『政党法制定』の動きを深く憂慮する」を発表した。
一九八四年五月、中曽根首相は、公開上なら自衛官が核トマホーク搭載米艦と共同作戦できるとし、六月には、核兵器の使用は、保有国の勝手とした。
一九八四年六月、米国防総省は米軍が核トマホークの全面配備計画に着手したと発表した。
195 一九八四年六月、沖縄県議選挙。沖縄西銘県政は中曽根内閣に追従していた。七月の埼玉知事選挙では、共産、社会、公明、民社、新自ク、社民連、市長会、町村長会推薦の現職畑和が、自民擁立の松永緑郎を破った。
中曽根は、日本育英会貸付金の有利子化を成立させた。
一九八四年六月、イタリア共産党のベルリングエル書記長が死去した。
195 一九八四年六月、西側主要国首脳会議(ロンドンサミット)で、抑止軍事力の保持をうたった。アメリカの高金利は、アメリカの財政赤字が原因である。アメリカの軍事予算は、一九八〇年~八三年に六割増加した。
一九八四年七月、ニュージーランドで米核艦船の寄港に反対する労働党が勝利した。
一九八四年の原水禁世界大会では、総評、原水禁、原水協内の吉田嘉清らが妨害した。
社会党は、核兵器の廃絶を「緊急課題」でなく「究極課題」にしようとした。社会党は、原水禁運動が、自民党との連合路線の妨害にならないように変質させようとした。
また、(社会党は、)原水協内の吉田嘉清、草野信夫を取り込み、原水協と原水禁との「持続的共闘体制」をつくり、真の統一が回復されていない現状(一九七七年の組織的統一の合意を総評・社会党は放棄した)を固定化し、運動を総評・原水禁の指導下におこうとした。
一九八四年五月、総評は、平和行進で、統一労組懇の旗を排除しようとした。
*些細な問題ではないか!
197 一九八四年六月、日本原水協は、吉田嘉清や佐藤行通を批判し、吉田・草野は代表理事に選出されなかったが、総評・原水禁などは、二人を原水協代表として、世界大会準備委員会のメンバーに残そうとした。
朝日新聞は、総評・原水禁や吉田を擁護した。原水禁運動の妨害者は共産党系とした。
吉田には、大衆団体を私物化する領地主義・官僚主義があった。
哲学者古在由重は吉田に同調し、党は除籍した。彼は党の上に個人を置いた。
198 一九八四年九月、日本原水協内の日本共産党グループは、吉田を除名した。一九九二年、吉田が一九六三年当時、ソ連と通じていたことが判明した。
一九八四年九月、吉田嘉清、佐藤行通らは「平和事務所」を結成した。
総評・原水禁は「東京宣言」を非難し、十二月、「反核1000人委員会」を発足させたが、失敗に終わった。
一九八四年九月、全斗煥が来日した。全斗煥はクーデターで生まれた軍事独裁政権であった。全斗煥は、一九八〇年五月の光州事件の責任者だった。昭和天皇は、全斗煥に対して、「敬意を表する」「国際社会の高い評価を受けている」とした。当時の首相は中曽根。
199 一九八四年七月、機関紙拡大は第十六回大会の水準に達しなかった。
200 一九八四年十月、九中総(第十六回党大会)は、党の拡大、強化なしに、日本社会の民主的発展はありえないとした。
九中総は、かつての共創協定調印に関して、十年前に創価学会と「再協定」を協議することになっていたが、死文として葬った。
一九八四年十一月、那覇市長選で、日本共産党、社会大衆党、社会党(親泊康晴)は、自民(比嘉幹郎)を破った。
一九八四年十一月、逗子市長選で、米軍用住宅を受け入れた前市長のリコール運動を進めた富野睴(こん)一郎が勝利した。
一九八四年十一月、三宅島村長選で、米軍空母艦載機夜間訓練基地化反対派の寺沢晴男が当選した。
一九八四年十月、公明、民社は、自民党総裁選における派閥抗争に加わって、中曽根再選反対とした。
一九八五年一月、社会党は「新宣言」を次期大会で決定するとした。石橋委員長は、「連合政権樹立に際しての譲歩した政策」や「前政権(自民党の)から引き継いだ現実、負の遺産」を重視した。
201 ソ連や中国から「併党」論が提起され、党はそれを、一全協や一九八四年七月の論文で、干渉主義の合理化論であるとして、批判した。併党論とは一つの国に複数の前衛党が存在してもかまわないとするものである。
202 一九八四年四月十五日、日本における金日成主義信奉者たちが、論文で党を攻撃した。
一九八四年七月、石川県のイカ釣り漁船「第三六八千代丸」が北朝鮮の軍事境界線内に侵入したとして、銃撃、拿捕され、船長が死亡した。この軍事境界線は、公海上に一方的にひかれたものだった。党は批判した。
「労働新聞」は、九月七日、日本共産党の立場を、日本当局の北朝鮮敵視の免罪論に通じるとした。「労働新聞」は日本金日成主義研究会などによる日本共産党に対する攻撃を支持していた。
203 一九八四年十二月、チェコスロバキアで、『平和と社会主義の諸問題』誌各党代表者会議が開かれ、日本共産党は、『平社』出版所刊行の『インフォメーション・ブレティン』が、日本共産党を批判する論文を載せながら、それに対する反論を載せさせないことを指摘し、かさねて雑誌の廃刊を要求した。
一九八四年八月、スウェーデン左翼党、ルーマニアを、九月、ベトナム、カンボジアを訪問した。
204 ベトナムとは、ベトナム軍のカンボジアからの早期撤退(一九七九年から駐留)の必要性について話し合った。
一九八四年十一月、サンディニスタ民族解放戦線が選挙で勝利し、一九八五年一月、オルテガが大統領になった。レーガン政権は、この選挙を偽りとし、ニカラグアにソ連のミグ戦闘機が運び込まれているとデマ宣伝をした。ニカラグアではCIAに指揮された反革命軍(コントラ)が進攻していた。
一九八四年十一月、メキシコ、キューバ、ニカラグアを訪問し、途中エルサルバドルの民主革命戦線指導部とも会談した。
一九八四年、アフリカの食糧危機が深刻化し、飢餓人口はアフリカ全人口の三分の一、一億五千万人に達した。アグリビジネス(農業関連多国籍企業)による搾取、収奪や旱魃などが原因であった。
205 一九八四年十二月、日ソ両党会談。宮本議長とチェルネンコ書記長が会談。
一九八四年四月、第一回予備会談。テーマは、核戦争阻止、核兵器廃絶のための共同闘争であった。意見の相違が浮き彫りにされた。両党が共同声明素案を交換。
一九八四年七月、第二回予備会談。ソ連素案には一致できない点が含まれていて、激論が交わされた。
一九八四年九月、第三回予備会談。
国際情勢の悪化や核軍拡競争の原因・責任論に関して一致できなかった。また、核兵器廃絶闘争・反核闘争は、反帝闘争と全く同じではないという点についても一致できなかった。
206 第二次世界大戦後、国連総会で原子兵器廃絶の第一号決議の採択、一九四六年の原子兵器廃棄協定と三ヶ月以内の廃絶を主張したグロムイコ提案などで、ソ連は核兵器廃絶を優先課題として掲げたが、一九五四年九月のヴィシンスキー提案以後は、核兵器廃絶を通常兵器削減の後段に引き下げ、とくにブレジネフ時代、「軍事力均衡」論の見地からアメリカの核軍拡に対抗しようとした、と日本共産党は述べた。それに対して、ソ連側は戦後一貫して正しいとした。
また、日本共産党は、核兵器廃絶の運動は、反帝運動だけではなく、もっとも広範な反核の勢力を結集すべきだとした。レーニンは、帝国主義の存在するところでも、大量殺戮の残虐兵器の全面禁止を主張した。
207 宮本・チェルネンコ会談で、日ソ共同声明がまとまり、「核兵器を不法なものとし、核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶の課題を、人類にとって死活的に重要な緊急の課題」として位置づけた。
208 この共同声明の趣旨は、ゴルバチョフの共同声明不履行にもかかわらず、その後の原水禁運動や平和の波運動として世界で引き継がれている。
一九八四年十二月、宮本議長はレーガン大統領に書簡を送り、核廃絶を要請した。
一九八五年一月、グロムイコ外相とシュルツ国務長官が会談し、共同声明で、米ソ交渉が、「核兵器の完全廃絶をもたらすべきである」としたが、アメリカはSDI(戦略防衛構想)にこだわり、ソ連もSDI阻止を優先した。
一九八五年一月、日米首脳会談。中曽根は「平和と軍縮」をうたい文句にしたが、西側の団結を強調し、日本の軍事力拡大の「自主的な努力」を約束し、宇宙戦争SDIに理解を示した。
一九八四年十二月、宮本議長は、非核政府は、選挙管理内閣などの「よりましな政府」ではなく、民族民主統一戦線政府の一つであるとした。非核の政府は、日米軍事同盟反対での一致を前提としないが、その中には本質的に日米軍事同盟反対が含まれているとした。また、革新三目標も並行して追及する。
一九八五年一月、福永健司衆院議長が天皇に背を向けないで後ずさりできなかったとして、坂田道太に交代させられた。自民党は、天皇に対する臣下の礼をとることが国会議長の資格であるかのように求めた。
210 中曽根首相は不破委員長に、日ソ両党会談では核廃絶の問題は棚上げになったとし、均衡と抑止にもとづく段階的縮小の立場から「不破さんのは空想的廃絶論」とした。
一九八五年二月十一日、中曽根は、「建国記念の日」式典に首相としてはじめて出席した。
一九八五年二月、広島、長崎で「広島・長崎からのアピール」協議会が、世界十二カ国を招待して開催されたが、ソ連は参加しなかった。
213 一九八五年四月、核廃絶を「究極的に」引き伸ばす「米ソ軍縮交渉に関する決議案」の採択が強行された。社公民は賛成した。三月には、自民党を含めて、議員連盟の役員会で「緊急」で一致していたのに。
一九八五年五月、「広島・長崎アピール」推進国内連絡会が結成された。尾崎陞(のぼる)、沼田稲次郎、羽仁節子、山口勇子らがよびかけた。
一九八五年一月、党は、世界平和評議会のウィーン対話集会に参加し、核凍結、段階論を克服し、「核廃絶」を盛り込ませた。
一九八五年一月、シュルツ国務長官は、米ソ交渉で、今後十年間に、核兵器の削減と、攻撃用核兵器と防衛兵器の関係を安定させ、その後、攻撃用核兵器に対する非核の防衛措置を強めた世界に移行する、最終的に核兵器完全廃絶に合意するとした。
212 一九八五年三月十一日、レーガン大統領は核廃絶を数十年後の未来に先送りするとした。
一九八五年三月、チェルネンコ書記長が死去し、ゴルバチョフ政治局員兼書記が書記長に選任された。
一九八五年三月、モスクワで世界平和評議会代表委員会が開かれ、金子満広が参加した。最終文書は、八月六日、九日を核兵器廃絶のための国際共同行動日とした。しかし、核兵器廃絶は最終文書の基本とはならず、諸課題の一つとされた。また「広島・長崎からのアピール」にソ連が反対した。また最終文書は、第二次大戦におけるソ連の役割だけの賛美、領土問題(戦後の領土的解決を改めようとする企ては拒否しなければならない)、不一致の問題(アフガニスタン、軍拡競争の原因・責任論)など、ソ連の外交路線を押し付けた。
214 一九八五年一月、『戦前日本共産党幹部著作集』として、『市川正一集』全三巻の刊行開始。『渡辺政之輔集』『国嶺五一郎集』『山本懸蔵集』『上田茂樹集』を刊行した。
一九八五年四月、一九七〇年五月から七月にかけて行われた宮本議長宅盗聴事件に対する東京地裁判決は、「通信の秘密、政治活動の自由、プライバシーの権利を侵害」した被告北條浩(創価学会前会長、故人)ら四人に総額百万円の損害賠償を命じた。北條らは責任を認めず控訴した。また判決は、宗門・他宗教団体などにしかけられた盗聴・スパイ策動など六件を認定した。学会は、言論出版妨害事件では、表向き猛省していた。
215 一九八五年四月六日、一九八四年十二月の『平和と社会主義の諸問題』誌各党代表者会議での日本共産党代表村上副委員長発言に対する各党からの非難に反論した。
一九八五年四月十七日、論文で中国を批判した。
文革時の毛沢東一派の干渉の誤りが明確に否定されず、文革時の中国盲従の雑多な政治グループや個人との関係を引き続き維持していることは、主張(中国共産党中央委員会対外連絡部スポークスマンが、「内部問題の相互不干渉」の原則を明らかにした)と実践が矛盾している、その一例として、「日本労働党」と中国共産党とは友好関係にある、と指摘した。
216 一九八五年五月、十中総は、住所不明の党員がいるなど官僚主義にメスが入れられたことなどを明らかにした。また、常任の給与を公務員並みにし、少数精鋭の機構をつくることにした。
一九八五年一月、全国革新懇参加中央団体の懇談会が開かれ、革新統一戦線結集運動の強化を目指した。
217 一九八五年五月、全国革新懇は世話人総会を開き、事務室担当団体を新設し、統一労組懇、全農協労連、民青同盟、新日本婦人の会、全商連が事務室を担当することになった。
日本の労働者階級は、ME(microelectonics)化をてこに搾取を強化されている。
統一労組懇の一九八五年一月から四月までの統一行動は、総評の三月のストを促した。
一九八三年十二月に結成された「国民春闘再構築東京懇談会」は、一九八五年三・三一集会を開いた。
一九八五年四月、米上院財政委員会、下院本会議は、電気通信機器などで対日報復法案を可決し、中曽根内閣は、四月、米の市場開放要求を受け入れた。原因は、米の大軍拡・財政赤字によるドル高や、日本の超過密労働による国際競争力であった。
一九八五年五月、自民党総務会は、国家機密法の国会提出を決定した。それは、防衛問題、防衛関係の外交問題のすべてを国家機密とし、政党や国会議員の国政調査、マスコミなどの言論活動、一般市民の言動を、政府が不都合とみなせば犯罪とし、死刑や無期懲役にし、戦時法制にしか見られない異常な重罰規定を持つものであった。
自民党は六月、国家機密法を国会に提出した。
これ以前に「スパイ防止法制定促進国民会議」による、地方議会での「スパイ防止法促進」決議の策動があり、それに反対してきたが、ここで憲法会議、安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会、自由法曹団、統一労組懇、日本共産党は、反対運動をよびかけた。
六月二十五日、中曽根首相は、新自由クラブを引き込み、三十六年ぶりの記名投票で法案の継続審議を強行した。この背景には、アメリカ国防総省などの圧力があった。
219 中曽根内閣は、地方自治体への補助・負担金の一律一割カット、年金一元化と称して、給付水準の引き下げ、掛け金の二~三倍化、男女平等を口実に、母性保護規定の撤廃、労働者派遣法(労基法、職業安定法違反の派遣事業の公認)、電電公社民営化法案、政治倫理審査会設置を盛り込んだ改定国会法(田中問題棚上げ)を通過させた。
衆議院の定数是正は行われなかった。一票の格差は、違憲と判決されていた。社公民、社民連も、自民党案と同様に、一対三の格差を認めた。
一九八五年六月、中曽根内閣が教育改革の名の下に設置した臨時教育審議会(一九八四年設置)の第一次答申が出された。臨教審は、学校教育を、西側の一員としての自覚や、国際化・情報化に対応する人材の養成をはかるためのものとし、民間活力の導入は、教育条件の整備など国の責任を放棄するものだった。
一九八五年六月、社会党は「日本社会党の新宣言」草案を発表し、安保条約廃棄、反独占を欠落させ、自民党を含めた連合政権への道を開いた。
220 一九八五年七月七日、都議選。党は、都庁新宿移転問題などで反動都政を追求した。
選挙結果
自民 共産 社会 公明 民社 新自ク
52→56 +3=19 15→11 27→29 5→2 8→6
鈴木都政の与党の数は変わらなかった。
公明党(与党)は、政教一致を強め、自民党との連合を追及しながら、選挙では自公対決を演出した。
社会党は公明党と選挙協力をした。
共産党は過去最高の二十四議席には及ばなかった。
221 一九八五年十月、釧路市議選。
選挙結果
自民 共産 社会 公明
増 3(前々回)→4(前回)→2 -1 増
党は、得票数、得票率ともに後退。
反共諸党は半年前から、公共事業の不正の疑惑を追及した党議員へ辞職勧告決議を強行した。また道義的退廃で除名された反党分子が立候補した。
日曜版読者数は前回比三割増だったが、政治宣伝、反共反撃、後援会活動などが不十分だった。
一九八五年十一月、第十七回党大会は、四つの原点(大衆的日常活動、宣伝、機関紙、組織)を強調した。
222 一九八九年の釧路市議選では、機関紙を前回比八十パーセントにするなど問題はあったが、政治戦を強め、後援会員を六割増やし、四人当選した。自民、社会、公明いずれも得票・率でへらし、社会党は議席も減らした。
一九八五年三月、米ソ軍縮交渉がジュネーブで始まった。党は、SDIが核兵器廃絶のための兵器だとするアメリカの欺瞞性を指摘した。またSDIこそ核戦争阻止のための第一義的焦点であるとするソ連を批判した。
一九八五年七月、党は核戦争阻止・核兵器全面禁止の国際シンポジウムを開いた。レーニンは一九二二年、ジェノバ会議で通常兵器と区別して残虐兵器の即時禁止を要求した。
223 一九八五年七月、モスクワで「コミンテルン第七回大会の歴史的意義」をテーマに学術会議が開かれ、党代表岡本博之は、反ファッショ国際統一戦線を提起したコミンテルン第七回大会の教訓は、今日、核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶のための反核統一戦線を結成することだと述べた。
223 感想 このころの共産党の目玉は、即時「核廃絶」だった感がある。宮本も核廃絶に基づく連合政府を民主連合政府と同等なものと発言している。
223 原水爆禁止運動は、総評、核禁会議*、吉田嘉清らの平和事務所などの妨害を撥ね退けて前進した。
*核禁会議は民社・同盟系。
一九八五年四月、「平和懇談会」が結成された。それは、槇枝前総評議長、核禁会議(核軍拡推進、p.224)議長磯村栄一、平和事務所代表行宗一らが結成した。核兵器廃絶を究極的課題とした。
平和懇談会の事務役は、日本労働党の外郭団体である「左翼連合」がつとめた。大隈鉄二が日本労働党の議長。
六月、原水爆禁止世界大会準備会が発足し、総評、原水禁は、国際会議を開かず、文書も採択しない、単なる意見交換の場にすぎないフォーラムにすることを主張したが、国際会議開催を認めた。
224 八月、総評、原水禁は、国際会議に欠席し、同時期に、「国際フォーラム」(これは「反核1000人委員会」代表世話人大石武一、核禁会議議長磯村栄一らが呼びかけたもの)を開き、そこに参加した海外代表を世界大会に参加させなかった。
総評、原水禁は、国際会議採択文書「世界の人々へのよびかけ」から、「核兵器廃絶を緊急課題とする」「核兵器廃絶国際協定」などの削除を要求したが、実現はせず、同調した。
「広島からの呼びかけ」は、「宇宙空間の兵器も含む核兵器の研究・開発・実験・生産・保有・貯蔵・配備・拡散・使用の一切を禁止する拘束力のある条約を締結する」ことを、米ソジュネーブ交渉や諸国政府に要求した。
また文書は、軍事同盟の解消を要求した。
225 日本労働党(1974.1成立)は、中国追従の団体であり、文革時の干渉主義の産物であり、様々な中国追従集団から結成された。日本労働党以前に大隈が作った「革命左派」の一部は、連合赤軍のメンバーだった。
七月、日教組は、総評大会で、全民労協の連合体化に反対した。
中曽根首相は、戦後政治の総決算、環太平洋協力圏構想を強調した。そして東京裁判を批判し、日本のアイデンティティを確立する日本学を提唱し、「どの国家にせよ国のために倒れた(=軍人として死んだ)人に対して国民が感謝を捧げる場所はある。さもなくば誰が国に命を捧げるか」と靖国神社を美化した。
226 八月十五日、中曽根首相と多数の閣僚は、靖国神社をはじめて公式参拝し、日本国内、中国、南朝鮮、シンガポール、ベトナムなど諸外国で危惧の念が広がった。
226 一九八五年八月十二日の日航機事故の原因は、一九八一年四月の、政府にも配当するという日航法改悪、臨調行革路線による安全無視、利潤追求にあった。
一九八五年九月、十一中総は、日本共産党に対する警備公安警察、公安調査庁などの違法なスパイ活動を糾弾し、その禁止を要求し、法務大臣に抗議した。
227 常任幹部会は、支部を二十人規模に縮小することを決定した。中央委員会書記局は、大会諸議案に関する意見・感想を寄せるように党員に求めたところ、四百二十四通集まり、赤旗臨時増刊号で紹介した。
一九八五年九月、中曽根内閣はアメリカの要求に答えて、五ヵ年で二十三兆円の「中期防衛力整備計画」を閣議決定し、一千海里シーレーンの海・空域を防衛することにし、同時に、軍事費のGNP比一パーセント以内という枠を取り払った。
中曽根首相は自民党総裁三選を実現しようとした。
228 また国家機密法制定の意図を明言した。
一九八五年、社会党・総評は一〇・二一行動を放棄した。
一九八五年十月、中曽根内閣は、国鉄分割・民営化を閣議決定した。
国鉄の財政破綻の原因は、田中内閣の日本列島改造論をはじめとする設備投資過剰であった。ローカル線が廃止され、九万三千人の国鉄労働者の首が切られ、国鉄用地は財界に略奪された。
一九六七年中南米が非核地帯とされたが、一九八五年八月、南太平洋が非核地帯とされた。(ラロトンガ会議)
229 ニュージーランドのロンギ労働党政権は、非核の証明がなければ米艦船の寄港を認めないという神戸方式に学んで、反核法を成立させた。
一九八五年十月、ギリシャでNATOの基地から核弾頭の撤去作業が始まった。
一九八五年九月、ニカラグアのオルテガ大統領は、国連総会で、レーガンに民族自決権干渉にたいする回答を求めた。同国連総会で、スウェーデン、メキシコ、ニュージーランドの代表は、核兵器廃絶を強調した。
一九八五年三月以来の米ソジュネーブ軍縮交渉は進展しなかった。
230 ニカラグアのサンディニスタ政権は、一九八四年の国政選挙で国民から圧倒的な支援を受けた。
(一九八五年九月?)アメリカに支援された反革命勢力(コントラ)とホンジュラス軍が、ニカラグアに軍事侵攻を開始した。*
*コントラ戦争(1981--1990)
一九八五年九月、ニューヨークのプラザホテルで、米、日、西独、英、仏の五カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が開かれ、アメリカの双子の赤字*拡大、債務国への転落により、変動相場制のもとでドルが不安定となったため、対円、ドイツ・マルクに対してドルの為替レートを切り下げること、アメリカの低金利政策に協調して、日・欧主要国も低金利政策をとることを決めた。そのため通貨供給量が増大し、不動産・証券価格が暴騰した。
*双子の赤字(Twin Deficit)とは、貿易赤字(経常赤字)と財政赤字。
一九八五年九月、日中両党会談が開かれた。一九八五年八月、中国側が四原則(独立自主、完全平等、相互尊重、内部問題の相互不干渉)に基づいて会談を申し入れてきた。
中国側は、文革時に他党との関係で「欠点と誤り」「不正常なやり方」があったとして「心痛と遺憾」を表明した。しかし、砂間一良、紺野純一への暴行事件に触れただけであり、反党集団との関係は継続する意図さえ示唆した。
日本共産党は次の点を指摘したが、中国側からは再反論がなかった。つまり、文革時の毛沢東の絶対化、武装闘争路線の日本共産党への押し付け、反党分子の支持と育成、日本共産党指導部転覆のための中国側の反党分派総結集の策動、日中友好運動や日中貿易などの分野での、日本共産党をを四つの敵の一つとして承認するかどうかを踏み絵とした中国盲従の強要などの点である。
結局、中国側は、文革時の日中両党関係の不正常な事態の本質が、中国側の干渉であったことを認めるかどうかや、干渉の所産である反党集団、反党分子との関係をなぜ断絶できないのか、関係継続がマルクス主義や史的唯物論と両立するのか、この二点について、中国側は、回答する意思も権限も持っていないと表明した。
日本共産党はさらなる会談の続行を提案したが、結局中国側からはなんの反応もなかった。
一九八五年十一月、西沢富夫副委員長が死去した。西沢は、六一年党綱領の策定で尽力した。
232 感想 日本共産党に直して欲しいと思う点
① 「ニセ左翼暴力集団」という表現。
② 「毛沢東盲従」という表現。連合赤軍を悪の代名詞のように取り扱うこと。
③ 野坂の立場に対する斟酌がなく、即除名とし、問題が解決したとすること。
④ 社会党の、「社会党がなくなれば、民主主義が危ない」という選挙キャンペーンを、「泣きの戦術」とする表現。社会党をこき下ろす宮本の論文。
⑤ 公明党をこき下ろすこと。
以上四点、これでは人々が集まらない。
⑥ 「平和的移行」を、今でも本気で考えているのだろうか。アメリカの出方を計算に入れているのか。反動派=お金持ちのクーデターが起こるのではないか。そうすれば血が流れるのではないか。私はいやだ。
日本共産党の評価されるべき点
① ソ連に反核で提案したこと。
② 党史を編纂し、日本の歴史に光を投げかけ、自民党政治にメスを入れたこと。
③ 組織力。なんとしてでも党の存続を念頭においていること。
日本共産党の特徴
① 宮本顕治が文学者であったことが影響しているせいか、政治が政治的でなく、文学的、観念的である印象を受ける。
② 執念深く、ひたすら党勢の拡大によって活路を見い出そうとする。
234 一九八五年十一月、第十七回党大会。吉岡吉則常任幹部会委員が報告をした。大会には、二十八カ国の共産党・労働者党、戦線の代表が参加した。ソ連代表団は歓迎集会で、自己の挨拶を特別扱いするように要求したが、拒否した。
235 反核国際統一戦線への結集を呼びかけた。
それぞれの国での進歩的変革は、その国の革命運動、統一戦線運動が、国民の支持のもとに政権を握るだけの主体的力量をかちとったときにのみ、日程に上ってくることを明らかにした。
236 中曽根内閣の三年間は、軍国主義と日本型ファシズムの暗黒時代を再現しようとするものであるとした。
日本共産党以外の野党がすべて、日米軍事同盟肯定を前提として自民党との連合の路線を推進しており、翼賛政治再現の危険をはらんでいるとした。
七十年代後半からの戦後第二の反動攻勢が、日米軍事同盟の侵略的再編および日本独占資本の帝国主義、軍国主義復活・強化の一定の段階と結びついた、戦略的性格をもっているとした。
この十年間で四回に及ぶ公選法の改悪、地方議会での議員定数の削減と党略的分区、反共諸党派の選挙協力、日本共産党の進出を阻止するための立候補や票の調整、警察権力の党への不当な弾圧・干渉などが強められたことを解明した。
革新三目標を充実させた。
非核の政府をよびかけた。
237 大会期間中、ジュネーブでゴルバチョフソ連共産党書記長とレーガン米大統領が共同声明を発表した。
党は、ソ連の側からの核兵器全面禁止を追及するイニシアチブの発揮を求めた。
国政選挙での一進一退を党の政治路線の誤りとする議論は、政治方針だけを重視する観念論史観であり、右傾化に圧倒された敗北主義だと批判した。
238 原水禁運動などで、社会党、総評、「日市連」*など反共分裂主義への分派主義的追従がみられたが、それは、反動攻勢と反共的逆流への降伏であることを明らかにした。
*小田誠の「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)(p.175)
*感想 そこまで言い切れるのかな?
東大大学院生支部の一部分派主義者が先進国型の前衛党論により、民主集中制を否定し、分派の自由を要求していることを批判した。*
*伊里一智(p.240)
覇権主義は国際緊張の要因になるとした。
239 帝国主義に反対する勢力などは、内部にそれぞれの問題をもちながらも、社会の歴史的発展にそう活動によって、世界史の発展の内容、方向、特徴を決定する原動力となりうるとした。
「資本主義の全般的危機」という規定を削除した。その理由は、以下三点である。革命勢力の力量いかんにかかわらず経済的危機が革命的危機に転化するというのは単純である。社会主義体制が資本主義体制の危機を深めることを一面的に強調し、主体的力を軽視する。覇権主義が強まる。
核兵器全面禁止・廃絶の国際協定実現を行動綱領におりこんだ。
日本独占資本主義の帝国主義的特徴は、経済面だけでなく、軍事、外交、経済の全面に渡っていることを明らかにした。
240 大会直後、中央委員会の地方代表機関として、六地方出張所が新設された。
一九八五年十二月、東京都常任委員会は、東大院生の伊里一智を除名した。伊里は、党の十年来の停滞、第三世界に対する日本人の加害者性、社会党との協力、日市連との共同などを指摘した。
241 伊里に対する批判は、『投降主義者の観念論史観』として一九八六年六月に刊行された。伊里の主張は、反共反動勢力に対する政治的投降主義、敗北主義、反共分裂主義への屈服であり、歴史観における観念論である。
241 自民党の「六増六減案」も社公民、社民連四党共同案も、一票の格差が一対三を容認したが、党の案は、一対二未満であった。
一九八六年一月、社会党大会で、石橋社会党執行部は、自民党との連合を目指す*「新宣言」を、反対を押し切って採択した。「新宣言」は、安保廃棄、反独占、核兵器全面禁止を放棄した。
*「自民党との連合を目指す」とあるが、社会党大会ではそんなことは言っていないと想像できる。額面どおりにうけとってはならない。共産党の思い込みから出てきた表現だと思う。要注意!
242 党は、非核の政府への賛同、連帯を呼びかけた。
242 一九八六年一月、ゴルバチョフが、核兵器廃絶案を発表し、十五年以内に核兵器を廃絶しようというものだった。不破委員長はこれを歓迎し、核兵器廃絶の政治的合意、国際協定の実現を強調した。
しかしレーガン大統領は、地域紛争の解決の公約の必要などの条件を出して、結局核兵器廃絶を引き伸ばした。
243 一九八六年四月、世界平和評議会総会は、段階的な核兵器廃絶宣言をした。
一九八六年二月、マルコス独裁政権が倒され、ベニグノ・アキノの夫人コラソン・アキノが大統領になった。
一九八三年八月、ベニグノ・アキノがマニラ空港で暗殺された。
一九八七年二月、フィリピンではコラソン・アキノ大統領の下で、非核兵器政策を採用・追及する憲法案が国民投票で信任された。
一九八六年、党は、アルジェリア、サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ、ポリサリオ戦線)、ソ連を訪問した。
244 一九八六年二月~三月、ソ連は、一九六一年のフルシチョフ綱領を改め、「綱領新稿」を決定したが、これは一九九〇年に失効した。
244 中曽根首相は一九八六年を天皇在位六十年だとして、天皇と天皇制を美化し、天皇の戦争責任を免罪し、皇国史観をおしつけた。
一九八六年三月の二中総は、中曽根首相が、治安維持法流の皇国史観を展開したことを批判し、象徴天皇制が、主権在民に反することを強調した。また、皇太子明仁の南朝鮮訪問計画は、天皇の政治利用であり、天皇一家の国政関与であり、違憲であるとし、宮内庁に反対を申し入れた。八月、皇太子妃の健康問題を理由にして、南朝鮮訪問は延期された。
中曽根内閣は一九八六年四月二十九日、「天皇在位六十周年記念式典」を強行した。
245 一九八六年、神奈川県逗子市で米軍住宅建設に反対する富野市長が当選し、市民は市議会リコール闘争をおこなった。
米軍は、沖縄で反戦地主の土地使用権をさらに二十年間奪おうとした。一九八六年二月、軍用地二十年強制使用反対集会が開かれた。
一九八六年四月の日米首脳会談で、中曽根首相は、首相の私的諮問機関である経済構造調整研究所の報告書(前川リポート)を対米公約としてレーガンに約束した。前川レポートは、アメリカとの貿易不均衡打開のため、国際分業、産業構造の転換と称し、中小企業、農業、石炭産業つぶしをするものであった。
一九八六年五月、西側主要国首脳会議(東京サミット)は西側同盟を強化し、蔵相首脳会議(G7)を設置し、各国の経済政策を監視し、対米公約を日本に実行させた。中曽根首相は、レーガン政権の必要から政策的に推進された円高促進を受け入れた。
246 一九八六年、「労働戦線統一問題パネルディスカッション」が開かれ、統一労組懇、総評が参加した。
247 一九八六年三月、二中総開催。選挙目標を「過去最高」にするという表現を改めて、対有権者比にした。つまり、対有権者比、一〇~二〇パーセント、一五~二〇パーセント、二〇パーセント以上の三つのランクに分けた。
一九八五年十二月、福島市長選挙で、自公を破って、党推薦の吉田修一が当選した。
一九八六年四月、京都府知事選で、自社など六党が推す荒巻禎一に敗れた。社会党ははじめて自民党と連合した。
248 一九八六年四月、三中総開催。
249 一九八六年一月、不破が国会で、安全保障会議設置などで政府を追及した。
一九八六年五月、中曽根内閣・自民党は、安全保障会議設置法を成立させた。この法律は、重大緊急事態を口実に、国会や閣議にはかることもなく、首相を中心とした数名が超法規的措置をとり、国政上の重大問題を決めてしまうというものであった。
党は、当面、現行中選挙区制(定数三~五人)を維持し、格差を一対二未満におさえられる、三十二増三十二減案を提起した。
自社公民連各党は、日本共産党案を審議せず、日本共産党を除いた密室協議を重ね、その結果を五月、坂田衆院議長の「調停」(=越権行為)として、八増七減案(一対三の格差を認め、二人区をつくりだすもの)を国会に押し付け、審議ぬきで可決した。
250 五月二十一日、自社公民諸党は、衆議院議長の越権行為と無責任さを指摘した党議員瀬崎博義の発言を議事録から削除した。
一九八六年三月、中曽根首相は、デマを飛ばし、宮本顕治が、「一九四九年、五〇年ごろ、群馬県で電源爆破など暴力革命的なことを教え込んだ」とした。
党は、発言の取り消しと謝罪を求め、訴訟を起こし、一九九〇年三月、東京地裁は、党の請求を却下したが、中曽根発言が宮本のこれまでの政治的立場に反し、中曽根発言の具体的根拠がないことを認めた。
一九八六年六月、中曽根首相は、ヒトラー信奉者にふさわしく、臨時国会の冒頭に衆議院を突如解散し、衆参同日選挙を行った。
中曽根は、「首相はうちひしがれている」などと藤波孝生国対委員長に言わせ、「死んだふり」のポーズをとっていたが、「円高対策」のためなどと「真っ赤な嘘」(金丸信幹事長)をつき、臨時国会を召集し、冒頭解散した。
251 中曽根首相は、売上税は導入しない、マル優は廃止しないと宣伝し、平和と軍縮を訴え、日本共産党の議席が増えたら日本の国の安泰が脅かされる、共産党候補を落とせと叫び、破防法までもちだした。
社公民三党は、日本共産党に狙いを定めた選挙協力を行い、警察当局の選挙活動への介入、干渉、勝共連合、反共謀略集団「MPD・平和と民主運動」(一九九〇年九月から「大衆党」)*、ニセ「左翼」暴力集団・社労党*などの謀略・妨害があった。
*MPD・平和と民主運動は、新左翼系学生運動団体「日本学生戦線」「立志社」を母胎として一九八三年に結成された。田英夫、横路孝弘、八代英太、斎藤まさし。下元孝子代表。
*社労党。社会主義労働者党。ブント系。一九八〇年、一九八六年、一九八九年、一九九〇年の国政選挙に立候補者を立てた。林紘義委員長。
選挙結果(衆議院)
自民 共産 社会 公明 民社
250→304 ±0 -26=86
選挙結果(参議院)
自民 共産 社会 公明 民社
比例区 +2=5
比例区 543万票
選挙区 ±0=4
選挙区 661万票
252 一九八六年七月、四中総(第十七回党大会)開催。選挙結果を国民の生活保守主義のあらわれとみる議論を批判した。
253 一九八六年八月、新自由クラブが解党し、十年間の歴史に幕を閉じ、ほとんどの議員が古巣にもどった。
民社党は参議院で十四議席から十二議席となり、日本共産党を下回った。衆議院でも十一議席を減らし、二十七議席を得た日本共産党・革新共同より一議席下回った。
四議席の社民連は、二人ずつ、社会、民社と院内会派を結成し、民社党が日本共産党を一議席上回り、院内の理事等の役職を失わずにすむようにした。
一九八六年九月、社会党の石橋執行部が総辞職し、土井たか子が委員長となった。
一九八六年十二月、公明の竹入委員長が辞任し、矢野委員長となった。
一九八六年八月、中曽根内閣は、核ミサイル・トマホークを積んだ戦艦ニュージャージーの日本寄港を受け入れ、九月には、核軍拡を宇宙に広げるアメリカのSDI(戦略防衛構想)計画への参加を決定した。
中曽根首相は野党の協力による「八六年体制」論を打ち出し、野党の右傾化を煽った。
254 中曽根内閣は、一九八二年の発足以来、軍国主義的、好戦的な愛国心教育を企図し、日の丸、君が代を学校教育に強要し、教科書には、安保・自衛隊は憲法に違反しない、核軍拡は平和に役立つとする見解を強調するように検定で書き換えさせた。
一九八六年五月、憲法改悪をかかげた「日本を守る国民会議」が編集した、太平洋戦争肯定の歴史教科書が合格となった。この教科書は、天皇と天皇制を美化し、太平洋戦争についての東条英機、軍部の主張を正当化し、中曽根首相の新国家主義を内容とするものだった。
藤尾文相は、一九八六年七月、朝鮮植民地化と侵略戦争を美化し、極東裁判を批判した。中国、南朝鮮が批判し、中曽根は九月、藤尾を罷免し、一九八六年九月、謝罪のため南朝鮮(全斗煥大統領)を訪れた。
255 一九八六年八月、奥野文相が中国を誹謗し、源太実は「自由新報」論文で、真珠湾奇襲攻撃を得意気に語った。
九月、中曽根は「アメリカは多民族国家で知的水準が低い」と発言し、女性をネクタイや洋服にしか関心のない政治的低水準の人間だとした。中曽根はアメリカむけに「おわび」のメッセージを発表した。
一九八六年八月、原水禁世界大会(国際会議、広島、長崎)で、総評・原水禁は(アピールの)内容を変質させることができず、世界大会を前にして脱落した。*
*これもおそらく他の会場で開催したのだろう。
256 一九八六年八月、日ソ両党首脳定期協議(ゴルバチョフ・不破会談)がモスクワで行われ、不破が、世界平和評議会が、ソ連の外交的重点を中心課題とする傾向を改めるように指摘すると、ゴルバチョフも、賛成したが、ソ連が日本との共同行動に応じたのはこれ以降の一時期にすぎなかった。
自民党が大会で決めた「昭和六十一(一九八六)年度党活動方針」は、「『非核都市宣言』運動の根絶を図っていく」とし、そのために「昨年『「非核都市宣言」は日本の平和に有害です』、『反核平和運動の欺瞞と危険性』という二冊の資料を作成した」とした。
一九八六年九月、非同盟諸国首脳会議が開かれ、新国際経済秩序*を目指すなどとした。
*p.180
257 一九八六年四月、八王子の上川霊園内に「日本共産党中央委員会活動家の墓」が建立された。一九九一年九月、全国の常任活動家、党議員を含む合葬となり、名称も「日本共産党常任活動家の墓」となった。
一九八六年十月、五中総が開催され、宮本議長は、中国がA級戦犯さえ合祀の対象から除けば、靖国参拝は問題ないとするのに反対した。
258 五中総は、新幹線、高速道路、空港などの近代化は、社会進歩の方向に属するとした。
一九八六年三月、中曽根内閣は、日本国有鉄道改革法案など分割・民営化五法案を提出した。
259 一九八六年十一月、市川正一議員は、国鉄分割・民営化法案は、国鉄労働者を全員解雇するものであり、これに対して団体交渉もできないことを指摘し、「人活センター」の廃止を要求した。
一九八六年十月、国鉄労働組合臨時大会が開かれ、労使共同宣言の締結をはかろうとする中央闘争委員会多数派を退け、分割・民営化に反対した。
十二月十八日、自公民の賛成で、国鉄分割・民営化法案の採決が強行された。社会党は、政府案に反対したが、民営化には賛成で、国鉄労組に対し、総評指導部とともに圧力をかけた。
260 一九八七年四月、中曽根内閣は、国鉄の分割・民営化を強行した。
清算事業団の長期債務は、一九八七年の二十五兆円から、一九九二年には二十六兆円になった。
一九九一年五月、信楽高原鉄道(旧国鉄信楽線)で列車の正面衝突事故が起こった。死傷者十人以上の事故件数は、年平均二・一件(1980--87)が、六・三件(1988--90)になった。
国鉄職員の定員は、四十一万人(1980年度)から二十一万人(1987年度)になり、七千六百人が清算事業団に送られ、一九九〇年三月末、千四十七人が解雇された。中曽根首相は、「一人も路頭に迷わせない」としていた。分割・民営化法付帯決議で、北海道・九州の清算事業団の労働者をJRが優先採用するとしたことを無視した。
国労・全動労は、採用差別、出向差別、配転差別をやめさせるために、労働委員会に申し立て、一九九〇年十二月までに国鉄労働者の主張を認める九十六本の命令が地労委から出されたが、一九九二年五月、中央労働委員会は、地労委の救済命令を無視して、解雇された労働者を地元JRに一ヶ月だけ雇用する案を提示した。
261 一九八六年十二月十九日、中曽根内閣は、一九八二年の老人保健法をさらに改悪し、外来老人患者の自己負担額を倍増し、年間入院費を八倍化した。
一九八六年十二月、中曽根内閣は、一九八七年度予算で軍事費を三兆五千億円とし、GNP一パーセント枠を突破させた。
このことは、中曽根首相が、「大型間接税導入はしない」「マル優廃止もやらない」「私の顔がうそつきに見えますか」などと言った公約にそむくものであった。*
*261 感想 この記述は、中曽根内閣のときに消費税が導入され、マル優が廃止されたかのように受け取れるが、正確ではないようだ。消費税が導入されたのは、竹下登内閣のとき(1989)であり、マル優は一九八七年まではすべての個人がマル優の対象だったが、それ以後は段階的に縮小され、二〇〇七年九月三十日にすべてが廃止になったようだ。(小額貯蓄非課税制度、ウィキペディア)
日本共産党は、軍事費の増加と税金とをセットで考えており、その観点からすれば、このようにも言えるのだろう。そしてそれはもっともかもしれない。
261 一九八六年十一月、党中央は幹部会決議を発表した。決議は、党内に情勢負けからくる消極主義、敗北主義の傾向が存在しており、今日の日和見主義、敗北主義は、反動攻勢の影響の党内への反映であるとした。
262 幹部会の決議は、大量宣伝活動を多数者革命のために欠くことのできない重要な革命的課題として位置づけた。決議は電話での数字追及をもって指導にかえる傾向を克服し、支部への生きた個別指導を前進させるために、「日報」を原則廃止したが、それは、中間機関の活性化と指導水準の向上にとって重要だった。
一九八六年十月、レイキャビクでレーガン、ゴルバチョフ会談が行われたが、レーガンがSDIに固執したために決裂した。
263 ソ連は会談後、レイキャビク会談で提起した段階的、部分的措置に固執する外交を行った。
レーガン政権は、一九八七年二月、核実験を強行した。ソ連も一年半にわたって続けてきた一方的停止措置を打ち切り、核実験を再開した。
一九八六年六月、国際司法裁判所はニカラグアの主張を認め、米国に干渉中止を求める裁定を下し、裁定を遵守することを求める決議案が国連総会で採択されたが、安保理では、米の拒否権で葬られた。
レーガン政権は、一九八六年十月、反革命勢力コントラへの一億ドル援助法案を成立させた。
コンタドーラ・グループなど中南米八カ国は、一九八六年十二月、米国の干渉に反対し、OSA(米州機構)に対抗して、米国を除いた常設機関作りを提唱した。
一九八六年十一月、レーガン政権が秘密裏にイランに武器を売却し、その売却金をコントラやアフガニスタン反政府ゲリラに渡していたことが暴露された。
南アフリカの人種差別政策への非難も、米国や西欧、日本の抵抗を撥ね退けて拡大し、ボタ政権の危機が深まった。
264 一九八五年十月、「人民日報」は、「中日友好関係を大切にしよう」という論文を発表した。
一九八六年三月、宮本議長はこの論文を、文革期の対日干渉に関して全く無反省であり、干渉者に都合のよい日中関係史であると批判し、党も赤旗で批判論文を掲載した。
265 中国共産党は、一九八五年九月の日中共産党会談後の会談の継続に関して希望を表明しながら消極的な態度を取った。
一九八六年九月、中国共産党は日本共産党へ手紙を送り、その中で、会談や協議を継続する意思のないことを表明した。
一九八六年十月、日本共産党は、中国共産党に手紙を送り、中国が日本共産党に敵対する反党集団、反党分子との関係を継続させることを明言している以上、中国との交渉の内容や経過を公表すると通告した。
一九八六年、不破委員長は日中両党関係の協議の経過について発表し、一九八五年九月の日中両党会談の内容などを明らかにした。
266 一九八七年三月、立木洋常任幹部会委員は論文で、中国が文革時の日本共産党に対する乱暴極まりない覇権主義的干渉を、干渉であったと言明することすら回避し続け、反党分子との関係の保持に固執していることを明らかにした。
一九八七年七月、佐々木陸海中央委員が論文で、中国が、ソ連を主敵として三つの世界論を展開し、侵略的な日米軍事同盟さえ積極的に評価し、反動権力に接近し、公明党、社会党の日米軍事同盟肯定路線への転落を助長したことを明らかにした。
一九八六年三月、朝鮮労働党の国際政治時事雑誌『国際生活』創刊号は、論文「風車に向かって突進する『反覇権主義』の騎士たち」を掲載し、日本共産党指導部のことを「お山の大将」と悪罵し、公然と党を攪乱し、党指導部の打倒をよびかけた。
267 朝鮮労働党は、日本共産党の敵対分子である尾上健一*ら日本の金日成主義信奉者たちを支持、激励、援助するのは当然という態度を公然化させた。
*尾上健一は、群馬大学医学部中核派を離脱し、群馬ハンセン病訴訟からチュチェ思想に関心を持ち、「群馬朝鮮問題研究会」を創設し、それを母体として「日本金日成主義研究会」*を結成した。(ウィキペディア)
*事務局長は、東京都公立学校教職員組合渋谷区教職員組合委員長の植木正治である。(ウィキペディア)
党は、金日成主義、チュチェ思想を世界革命の最高の思想などと美化して世界に押し付けるのは、覇権主義そのものであると指摘した。
267 一九八六年十月、フィリピン国防省は、密輸入の大量の武器、弾薬を積んだ貨物船がフィリピン国内で発見され、これらの武器弾薬が日本共産党の財政援助によって外国で購入されたものとし、日本共産党が、武装闘争を勧めているフィリピン共産党(CPP)、新人民軍に武器援助、財政援助を行っているとした。フィリピン共産党は毛沢東主義の立場に立ち、武装闘争唯一論を推進してきた。
268 フィリピン政府は訂正発表文を出すと約束しながら、その後、発表文を取り消さないとした。
一九八七年四月、党は、アキノ大統領に書簡を送り、抗議した。
チェコスロバキア共産党との関係は、一九八二年、同党機関誌に、日本共産党批判の論文が掲載されて以来断絶していたが、一九八六年三月、同党が反省の態度を表明し、九月、会談が成立した。
モンゴル人民革命党との関係は、一九六四年、モンゴルが志賀を支援したために断絶していたが、同党から関係正常化の依頼があり、一九八六年十月、会談したが、同党に解決の為の十分な用意がなく、一九八七年三月に再度会談したが、その後何の連絡もなかった。
一九八六年二月~三月のソ連共産党第二十七回大会で始まったペレストロイカ(立て直し)による改革の中で、一九八六年十二月、サハロフが強制移住措置(一九八〇年一月モスクワ市からゴーリキー市へ強制移住)を解かれ、一九八九年三月、人民代議員に選出された。
一九八六年四月のチェルノブイリ原発事故は、官僚主義・命令主義の下で監視の機能が発揮されないことや、人民の生活環境に関心を持たない官僚主義、スターリン・ブレジネフ体制の、ほんらいの社会主義からの逸脱などを示した。*
*これはソ連崩壊に対する日本共産党の対応を準備するかのような表現だ。
269 宮本議長は、ソ連の核戦争阻止の積極的なイニシアチブ、ペレストロイカの運動、自分たちを真理の独占者とは考えないという宣言など、ソ連の政治外交に新しい積極的変化をもたらすものと指摘した。
269 党は論文で、日本の経済力が発展すれば、日本が日米軍事同盟から離れていくと見る経済主義的観点を批判した。これは、ソ連などに生まれている、日本を「自立帝国主義」論の立場からとらえる、「日米欧三極」論(ソ連共産党第二十七回大会)を念頭に置いた指摘であった。
270 また、党の論文は、日ソ両国間の平和・友好関係は、日米軍事同盟の廃棄に基づくとした。
一九八七年一月、胡耀邦総書記が自己批判し辞任した。その理由に、胡総書記の「崇洋媚外」が目に余ったと指摘された。
党は、中国指導部が、近年では中曽根首相との相互信頼をもてはやし、「崇洋媚外」は胡に限らないことを指摘した。文革以来の中国の対日外交政策は、日米軍事同盟の肯定・支持、無原則な実利主義を特色とした。経済開放政策推進のなかで、反動政権への媚びは一層際立ち、一九八六年十月、鄧小平は日本の皇族の訪中を歓迎した。
一九八七年一月、東独のホネッカー政権は、中曽根首相の訪問時に、非核三原則、核廃絶などを賞賛したが、党は、社会主義国は、帝国主義国の反動路線と政策との国際的闘争をすすめる必要があり、(東独が)国益を追求するあまり、無原則的対応をしていると批判した。
一九八七年四月、宮本議長はルーマニアのチャウシェスク書記長との共同宣言を発表した。共同宣言は新国際経済秩序、反核国際統一戦線の構築などをあつかった。
272 一九八七年三月、モスクワで「資本主義の全般的危機の今日の特徴」をテーマとした国際学術会議に参加し、日本共産党が「資本主義の全般的危機」という規定を党綱領から削除したと発言した。
一九八七年一月、宮本議長は、アメリカの多国籍企業の原料や製品を含めた日米の相互浸透を計算し、日本人は一人当たり年間に米国製品を五百八十三ドル買っており、これに対してアメリカ人は日本製品を二百九十八ドルしか買っていないことを明らかにした。
党は一月、論文で、「構造調整」政策*の中止などを求めた。
*構造調整政策とは、途上国がIMFや世界銀行から金融支援を受ける前提として要求される政策勧告。マクロ経済を安定させ、民営化、金融自由化、規制緩和などにより、市場機能を整備すること。一九八〇年代に中南米の債務危機をきっかけに広く採用された。(コトバンク)
273 同盟、全民労協などは、中曽根内閣に労働運動内部から呼応する形で反共・体制擁護の労働戦線の再編を推進してきた。
総評は一九八七年二月、首切り、人減らし、合理化攻撃との対決を回避した「政策転換」論を主張した。
一九八七年一月、中曽根内閣は、在日米軍駐留費の日本側負担(思いやり予算)を増額するための日米特別協定を閣議決定し、アメリカ政府と調印した。特別協定は、日米地位協定にはない日本側負担を含み、日米安保条約の事実上の改定であった。一九七八年に六十二億円で始まった日本側負担は、金丸信防衛庁長官が「思いやり」予算として定着させ、一九八七年度予算では千九十六億円に達した。
自民党政府は、一九八七年度から、「水田農業確立対策」というあたらしい減反政策で、転作補助金を少数の大規模経営に厚く与え、生産者米価を切り下げた。これは中曽根首相がレーガンに約束した前川レポート*に基づいて、日米の大企業の利益のために農業や中小企業を潰していく経済構造調整政策の一環であり、食管制度の解体と、米輸入自由化へつながるものであった。
*前川レポートとは、一九八六年四月、中曽根康弘内閣総理大臣の私的諮問機関である、国際協調のための経済構造調整研究会がまとめた報告書であり、アメリカの双子の赤字の是正を求められる中、日本の内需拡大、市場開放、金融自由化などが柱となっている。アメリカの要求に答えて、十年で四百三十兆円の公共投資を中心とした財政支出の拡大や、民間投資を拡大させるための規制緩和の推進などを約束・実施した。
274 一九八七年、公約違反の大型間接税・マル優廃止に反対する運動を展開した。
(一九八六年十二月、)中曽根首相は施政方針演説で売上税導入問題に一言も触れなかったが、野党の要求により、ようやく、一九八七年二月、間接税制度の改正には売上税の創設が含まれるとした。そして、「売上税は公約違反の大型間接税ではない。撤回する考えはない」、「軍事費GNP一パーセント枠をわずかに超えたが、きびしいカギをかけている」などと開き直った。
275 一九八七年二月、六中総は、売上税導入、マル優廃止の動機は、軍事費拡大の財源づくり、貯蓄優遇税制の廃止をうたった前川レポート、税制改革を約束した宮沢・ベーカー会談、財界・大企業への大減税などであると解明した。
社公民諸党は、日本共産党との売上税導入・マル優廃止反対の共同を拒否した。
政府自民党は、主要部分を省政令にゆだねた法案を提出、売上税の全容も明らかにしないまま、三月五日、予算委員会を単独開会し、各党の総括質問も一巡していないのに、公聴会の日程を決めた。
社公民各党は、自民党との密室協議で公聴会開催に応じ、衆議院予算委員会での共産党の総括質問を妨害し、それが通らなくなると、「質問を売上税関係に絞り、軍事費問題はやるな」とした。この不一致点を理由に、自民党の砂田予算委員長は、予算委員会を開かず、日本共産党の総括質問(金子書記局長)が実現していない状態で、公聴会を強行した。
276 自社公民各党は、四月十二日の一斉地方選挙投票日までを政治休戦とした。
社公民各党は、国政では売上税反対、マル優廃止反対としながら、地方選挙では自民党と連合した。
一九八六年十月、社会党は、東京都知事選での共産党との共闘の拒否を決定しており、共社を含む革新統一候補擁立の努力を無にして、和田静夫都本部委員長を立候補させた。
神奈川県知事選では長洲一二知事(自社公民)は逗子市の池子米軍住宅建設問題で日米軍事同盟肯定の側に変質した。
政党間の共闘を含む革新統一は、福岡県と川崎市などの首長選挙だけで、例外的になった。いずれも勝利した。
277 中曽根首相は、選挙応援に出かけられなかった。売上税反対の意見書や決議を採択した地方議会は、三月末、千四百八十七自治体であった。
自民党は、選挙公約で売上税の創設を明記しながら、候補者は売上税反対を唱えた。
公明、民社は、九つの知事選で、社会党は六府県で自民党と連合した。
党は、日米安保条約のもとでの核兵器持込に関する日米密約の存在を証明した米政府解禁秘密文書を発表した。この文書は、一九六六年二月、ラスク国務長官が東京の米大使館宛に打電した訓令電報で、一九八七年一月、党調査団がワシントンの議会図書館で発見したものであった。
278 それは、一九六〇年の日米安保条約締結時に、日米両政府間で核兵器持込に関して秘密取り決め・秘密合意が交わされていることを明記していた。
道府県議 1983 1987 政令都市九市議 1983 1987
88 121 74 80
都道府県議会では、東京、茨城、沖縄を加え、百四十五人になった。
自民党は都道府県議戦で百五議席減らした。政令市議選でも二十八議席減らした。社会党は道府県議選で八十五議席増やし、公明党は、十議席増、民社党は六議席増であった。
道府県議 自民 共産 社会 公明 民社
-105 +33 +85 +10 +6
279 一斉地方選挙前半戦が終わって国会が再開し、金子書記局長の衆院予算委員会での質問が行われた。
一九八七年四月、不破委員長が入院し、村上副委員長が委員長を代行した。
原衆議院議長が売上税に関する斡旋案を提示した。斡旋案の意味は、売上税が事実上廃案となったということだった。斡旋案では、「今後各党が(税制の変更で)協調する」とされ、協議機関がもうけられた。
社公民各党は、議長斡旋案を受け入れ、新型の大型間接税導入、マル優廃止の火種を残し、中曽根内閣の窮地を救った。
一斉地方選挙後半戦結果
自民 共産 社会 公明 民社
-59-37-65=-161 +148=3824 -98 +43 -32
280 党は、二十市百二十五町村で空白議会を克服した。
自民党は十九市で現職市長を落選させた。
党は、道府県議、政令市議、一般市議では、自民、社会、公明につぐ第四党であり、政令市議では最高時より十六議席減となった。
*p.285 「一斉地方選挙での躍進で史上最高の地方議員を擁した。」(党創立六十五周年記念招待会での宮本議長の挨拶)
一九八七年五月、自社公民四党は、日本共産党を排除した「税制協議機関」(税制協)設置に合意し、初会合を行った。税制協から日本共産党を排除したのは、自民党や衆院議長ではなく、社公民諸党であった。
第百八通常国会(一九八六年十二月二十九日~一九八七年五月二十七日)では、売上税、マル優廃止の関連法案は廃案となった。
日本共産党排除を前提としての自社公民密室協議が定着化した。
リゾート法(総合保養地域整備法)が成立したが、それは環境破壊、共和汚職事件につながった。
大学審議会の設置法案は継続審議となったが、政府は、大企業のための大学院重点大学構想や寄附講座*を具体化し、東大で改革構想が浮上した。
*寄附講座とは、企業などからの寄付金を財源に期限付きの客員教員を招いて開かれる講座。冠講座。(コトバンク)
一九八七年五月~六月の七中総は、選挙戦の支持拡大活動について、今後はその集約数を選挙情勢の判断の基準にしないこと、選挙情勢の判断は、あたらしく定められた四つの基準でおこなうことなどを決定した。また議員の日常活動指導のための専門部を中央、地方の党機関に確立することを決めた。
283 七中総は、町村議員に対して財政援助を行うこと、従来の農村宣伝組織者の任務を町村議員が行うことを決めた。
一九八七年五月、東京地検特捜部は、緒方国際部長宅電話盗聴事件について、盗聴の実行行為者を特定し、神奈川県警警備公安一課の四人の現職警察官の取調べをした。もう一人の警察官は、取り調べの直前に怪死し、その直属の上司の死去が、一九九〇年七月に、自殺として報道された。
党幹部宅の電話盗聴が警察庁の警備警察官の指示のもとに、「四係」によってなされたことを具体的示す、信用性の高い内部告発の投書が寄せられた。
事件が発覚した直後から、警察と縁の深い政府首脳や警察当局の各級幹部は、検察・法務方面にたいして、事件のもみ消しを執拗に工作し続けた。検察首脳の中には、事件の全面的解明がわが国の警察の中心を占める警備警察のなかに反憲法的犯罪行為を常套手段とする機構が存在する事実を暴露する結果になることを恐れて、捜査を進めず、あれこれの口実で犯人を不起訴にしようとする傾向も生まれた。
一九八七年六月、反核国際シンポジウムを開き、三十の共産党、労働者党、民族解放戦線組織、平和団体が参加した。
宮本議長、吉岡吉典常任幹部会委員、新原昭治幹部会委員が出席した。
日本共産党は、東独・ホーネッカー政権による中曽根美化や、安保条約反対の旗を降ろし、アメリカの核戦略に追随し、反核運動への妨害勢力となっている社公民など反共野党へのソ連の美化が、日本の反核運動発展の妨害になっていると指摘した。
一九八七年七月~九月の臨時国会で、松本善明衆院議員団長、佐藤昭夫参院議員が、ベネチア・サミットで、レーガン大統領にアラスカへの中距離核ミサイル百発配備を提案した中曽根首相発言と、自民党のパンフレット『「非核都市宣言」は日本の平和に有害です』を追求した。
285 社公民諸党は、日本共産党を排除し、自社公民の国対委員長会談で法案処理日程について合意した。
一九八七年七月、総評は、全民労協を母胎に一九九〇年を目標に労働戦線の全的統一を達成するとして、官公労の右翼的再編、総評解体方針を決定した。
一九八七年、統一労組懇は「階級的ナショナルセンター確立の展望と骨格(案)」を採択した。
一九八七年七月、日本ではじめて世界平和評議会軍縮委員会が開催された。これは日ソ両党共同声明に基づく一九八六年八月の第一回(日ソ)定期協議での合意や、一九八七年一月の世界平和評議会ビューロー会議で「広島・長崎からのアピール」支持と普及が確認されたことなどによる。
286 一九八七年八月の原水禁世界大会は、「広島・長崎からのアピール」署名を国際的な共同行動とする「平和の波」運動を十月に全世界で取り組むことなど、行動計画を提起した。
「平和の波」運動は、世界平和評議会、国連NGO軍縮特別委員会、国際平和ビューローなどが参加した。日本でも千三百以上の市区町村・地域で行動が取り組まれた。
一九八七年八月、社公民各党は、国会の審議前から自民党のマル優廃止と減税抱き合わせの所得税法改正案の審議入りに合意した。
一九八七年九月、自民党と税金党などの賛成で、マル優廃止法案など税制四法案が可決された。
287 一九八七年八月、東京地検は、緒方靖夫国際部長宅電話盗聴事件で、不起訴処分とした。
政府、警察庁は、責任者の処分を行わず、警察の内部機構や警察官の氏名を隠した。
党と緒方は、東京地裁に付審判請求*を、東京第一検察審査会に審査申し立てを行った。
*付審判制度とは、公務員職権濫用罪などについて告訴または告発した者が、検察官による不起訴等の処分に不服がある場合、裁判所に対して、審判に付することを請求すること。
東京第一検察審査会は、一九八八年四月、不起訴決定は不当の決定をしたが、東京地検は、形だけの再審査で、(一九八八年)十二月、犯人の警察官を再び不起訴にした。
一九八八年九月、緒方は東京地裁に対して、国(警察庁)、神奈川県警、四人の盗聴警察官を相手に、通信の秘密、政治活動の自由の侵害として民事訴訟を開始した。
一九八八年二月、神奈川県在住の住民が、横浜地裁に、県警本部長、警備部長、公安一課長、犯行警察官ら十名を相手に、電話盗聴のための費用千三百万円を違法な公金支出として県に返還するように提訴した。
二つの裁判のどちらに対しても、裁判所の繰り返しの呼び出しにもかかわらず、犯人の警察官は法廷への出廷を拒否した。
東京地裁の訴訟では、一九九二年七月以降、盗聴警官や警察庁の警備局長などの証人尋問が行われたが、彼らは盗聴関与を否認した。
288 「玉川学園盗聴事件を考える住民の会」が一九八七年九月に結成され、また「警察による電話盗聴事件を糾明する会」が一九八七年四月に結成され、二つの会は、一九九一年二月、日本政府の国際人権宣言、国際人権規約に違反する人権無視について、国連人権委員会に提訴した。
一九八七年八月、八中総開催。
一九八七年九月、九中総開催。宮本議長は、マル優廃止のための税制改革協議会の廃止や、中曽根首相の、八月の自民党セミナー、九月の自民党全国研修会での次期政権への注文が、今後も元老として君臨し、日本の政治に害悪与える危険性などを指摘した。また全民労連(連合)(p.290)が、反共野党の一本化や国際自由労連への参加を重点課題としていることの、反動的なねらいを周知させることの必要性を指摘した。
一九八七年九月、長野市議選で六人立候補させ、三議席から二議席になった。
一九八七年十月、全国活動者会議を開催。決定に基づく政治的、思想的自覚の強化を要求した。
一九八七年十月、中曽根首相が、次期自民党総裁に竹下登を指名した。中曽根政権は五年間つづいた。
党は、国会の開会式に皇太子が天皇の名代として出席したことにたいし、天皇の出席さえ憲法の主権在民の原則違反なのに、名代の出席には二重の問題があり、中止すべきだと申し入れた。
290 東京を中心とした地価暴騰の原因は、東京の都市再開発・高層化を促進した政府の民活政策や、一九八五年九月のプラザ合意以降の超低金利政策による土地買占めであった。
社公民三党は、土地・住宅問題の原因が供給不足であるとする自民党の論理(これは都市農業の破壊につながる)に同調した。
一九八七年十一月、全日本労働総同盟(同盟)が解散し、同盟を中核として全日本民間労働組合連合会(連合)が発足した。連合は、西側一員論の立場から日米安保条約を容認し、軍備増強を求め、産業調整*の推進、農畜産物輸入の完全自由化、間接税導入を主張した。商業マスコミは連合発足を肯定的に報道した。
*産業調整とは、行政が産業のバランスを誘導すること。(コトバンク)
統一労組懇は、階級的ナショナルセンターの確立をめざした。
291 一九八七年九月、党代表団がベルリンを訪問し、一九八七年一月、中曽根首相が東独を訪問した際、東独側が、中曽根が非核三原則を実行し反核平和の政策を進めていると、中曽根を美化した誤りの是正を求めたが、東独側は拒否した。ただし、反党分子、前野良*を団長とする原水禁代表団を東独に招いたことの誤りは認めた。
*前野良は応召し、広島の軍艦上で被爆。戦後は、長野大学、法政大学、東京経済大学の教師。一九五五年から原水禁運動に参加。原水禁常任執行委員、代表委員。反原発、韓国民主化運動にも参加。政治学者で、グラムシや労働者自主管理運動を研究。(野崎哲談、元原水禁国民会議事務局)
ホーネッカーは、問題は日本共産党側の理解の不十分さにあるとのべ、後日再会談を約束して一方的に退場したが、その再会の約束さえ反故にした。
党は十月、赤旗まつりで、東独の中曽根内閣美化や、ソ連の日本社会党美化を批判した。
292 一九八七年十月、党は論文で、一九六四年から一九八四年までを、ソ連側からの干渉による関係の断絶、論争の二十年とし、この時期にソ連が日本社会党との関係を強化したことを指摘した。そして一九八〇年の社公合意で右転落した社会党を、「進歩・革新の党」とソ連は美化したが、それは覇権主義的干渉であると批判した。
それに対して社会党の社会主義協会内の一グループによって発行されている「旬刊 社会通信」十二月号は、社会党内に左右があるから、右転落していないとし、左派による派閥レベルのソ連との共闘を主張した。
それに対して党は、社会主義協会も社公合意に賛成したこと、協会は戦前の労農派の系譜に属し、その根深い反共主義と統一戦線否定論が、社会党の右転落に妥協する原因となっているとした。また社会主義協会がチェコスロバキア侵略事件やアフガニスタン問題でソ連を弁護したことを強調した。
293 社会主義協会のソ連・東ドイツ追従路線の破綻は、協会のメンバーであった高沢寅男衆議院議員が、一九九〇年四月、ソ連や東独を社会主義のモデルとしてきた見方の間違いを認めざるを得ないと述べたことでも明らかである。
党は論文で一九七〇年代からの朝鮮労働党の覇権主義的干渉とその盲従分子の策動を批判した。
293 ゴルバチョフ指導部に帝国主義、独占資本主義の変質論、美化論が生まれた。
一九八七年十一月、ワシントンでの米ソ首脳会談を前にゴルバチョフは、核兵器廃絶を柱の一つとする包括的な安全保障体制を強調し、そのために帝国主義に対する見方に係わる新しい問題を四つ提起した。
(1) 全人類的な価値が主要な優先的地位を占める統一的な世界の法則性が働いている。この法則性によって、資本主義の法則の破壊的な作用を制限することができないだろうか。
(2) 軍国主義抜きの資本主義は可能だろうか。
(3) 資本主義体制は新植民地主義なしにやってゆけるか。
(4) 資本主義は非核・非武装の世界、新しい経済秩序に適応できるか。
294 日本共産党の以上四点に対する回答。
(1) 一九八四年十二月の日ソ両党共同声明が、核廃絶のためのイニシアチブを発揮する。「統一的な世界の法則性」論は、資本主義・帝国主義の本質とその力の政策を過小評価している。また核抑止力論に固執している国の人民の運動と世論を動員することの意義を過小評価している。
(2) 人民の闘争の役割を抜きにして、たとえば主にソ連の外交交渉に依存することによって、軍国主義勢力が後退するとするのは間違いだ。
(3) 新植民地主義的な収奪は、独占資本主義、帝国主義体制の本質であり、どんなに深刻な矛盾も、その終焉へ導くものではない。(感想 にべもない返答だ。)
(4) 本来、階級社会が廃絶されることによって軍備撤廃が可能であり、帝国主義が存在する条件下で可能とするのは空想だ。核兵器廃絶や新国際経済秩序の可能性は、帝国主義・独占資本主義をおいつめて人類的課題の受け入れを余儀なくさせる人民の闘争の発展にかかっている。(感想 それでは永遠に軍備撤廃は不可能とならないか?)
295 一九八七年十一月、ゴルバチョフは、米ソ首脳会談を前にして、新しい思考のアメリカむけ説明である『ペレストロイカ』を最初に英語版で出版した。
ゴルバチョフは、国際舞台における階級的対決にとって客観的な限界が出現したとし、帝国主義勢力との協調、階級闘争の抑止、利益のバランスに基づく対話、国家関係の脱イデオロギー化を主張した。
この著作は、ハンガリー事件、チェコスロバキア事件、ポーランド問題などが、適切に措置されたとし、アフガニスタン問題では、軍事援助要請にこたえたとした。
295 一九八七年十一月、党史上最大の党勢を築くことができた。
不破は論文で、ブハーリンによって提起され、ブハーリンとスターリンによってコミンテルン第六回大会の綱領に持ち込まれ、戦後もスターリンによって世界の共産主義運動に広げられた、「資本主義の全般的危機」論の系譜とその誤りを解明した。
296 一九八七年十一月、第十八回党大会開催。宮本顕治議長、村上弘幹部会委員長代行、桑原信夫常任幹部会委員が発言した。三十カ国の共産党・労働者党・戦線の代表が参加した。
宮本の冒頭発言は、ソ連共産党の第二十七回大会(一九八六年)で、ゴルバチョフ書記長が真理の独占を否定したことに関連して、どの党も真理の独占者ではないとした。
297 第十六回大会の社会主義の復元論は、労働者階級が存在し、科学的社会主義の理論を深化する党が存在するかぎりのことであるとし、中国共産党の路線と活動が、国際分野で重大な変質を遂げていると指摘した。
さらに、人民の批判と闘争抜きに、帝国主義者が反省して平和主義者になり、侵略主義者でなくなるとすることは、帝国主義の本質に対する過小評価であるとした。
中央委員会報告は、一九八七年十月、アメリカに始まり資本主義国を襲った株価暴落、ドルの全面的下降、急激な円高などは、資本主義の矛盾の表現ではあるが、だからといって資本主義が衰退していくのではないとし、
根源に核軍拡競争と経済発展の矛盾、多国籍企業と一国経済との矛盾があると指摘した。
298 大会は、INF(中距離核戦力)条約の調印などを評価しつつ、世論の力、反核・平和勢力がまだ核兵器固執勢力を包囲していない状況では、反核国際統一戦線結成が大事であるとした。そしてこの統一戦線結成のために、反帝、反資本主義の統一戦線の範囲を広げ、核兵器廃絶を緊急・中心課題とするというものであった。
大会は、日米軍事同盟を安全保障の領域だけでなく政治・経済に係わる問題と位置づけ、日米安保条約廃棄の重要性を強調した。
決議は、大企業に対する規制(海外投資に対する事前協議、内部留保の国民への還元)を提起した。
299 大会は、欧米諸国から導入された、科学的社会主義の理論が古くなったとする「ネオ・マルクス主義」理論や、資本主義の新しい変化とむすびついてうまれる誤った理論の研究・批判をよびかけた。
中央委員会報告は、党幹部の電話盗聴問題とスパイ問題について、警察が首謀者であり、党はこれに抗議すること、特に中央委員会の中に警察のスパイ沢重徳*(元宮崎県委員長)を長期にわたって潜入させていたことについて、今後の戒めとするとした。
*沢重徳は、宮崎県警備当局から報酬を受け取ってスパイ行為を働いていたことを認め、(一九八七年?)一月二十四日除名された。(日本労働年鑑、一九八八年版、一九八八年六月二十五日発行、法政大学大原社会問題研究所)
大会は中央委員会議長を補佐する副議長一名を選出できるとし、また都道府県協議会の開催を新設した。
300 中央委員会議長に宮本顕治、中央委員会副議長に不破哲三、幹部会委員長に村上弘、書記局長に金子満広、幹部会副委員長に上田耕一郎、戎(えびす)谷春松、小笠原貞子、瀬長亀次郎、高原晋一を選出した。
一九八七年十二月、米ソがINF条約調印。戦後はじめての核兵器の削減であった。しかし、海洋・空中発射の巡航ミサイルなどは除外された。
一九八七年、ソ連、ルーマニア、ユーゴスラビア(国際理論円卓会議)、フランス、モスクワ(国際学術会議)などを訪問・参加した。
一九八八年、インド共産党(マルクス主義)、デンマーク社会主義人民党と会談した。デンマークとの共同コミュニケでは、核兵器固執勢力がINF条約調印後かえって核抑止論を公然と主張していることを指摘した。
一九八七年十一月、大韓航空機の爆破が北朝鮮によって行われた。金賢姫は金正日の指示を受けたことを認めた。
302 一九八八年三月、党は、一九七二年十一月の金賢姫の少女時代の写真を掲載したが、朝鮮中央通信は三月、それを捏造とし、帝国主義者に丸め込まれているなどとした。
日本共産党が北朝鮮のテロを批判したのに対して、社会党は、「事件の真相と全容は、いまだに解明されたとは言えず」(1988.1.26)とし、五月二十四日、「米・日・バーレーン・韓国政府が事前に共謀した、盧泰愚政権を生み出すための国際詐欺であった」と報道したが、後に全文を削除し、謝罪文を掲載した。
一九八八年一月、日米首脳会談。竹下首相は、レーガン大統領が満足するほどの軍事費分担と軍拡努力、ODA拡充を約束した。また農産物十二品目の自由化、米企業の公共事業への参入を認めた。
303 一九八八年二月、浜田幸一衆議院予算委員長が、党の正森成二議員の質問をさえぎり、宮本議長に対する反共攻撃を行った。党は、浜田委員長の罷免と発言の取り消しを求めた。浜田は辞任したが、自民党首脳は暴力団のお世話になって、ようやく辞任させた。また国会の構成にまで暴力団を介入させた疑惑が一九九二年に判明した。
竹下首相は新大型間接税を導入すべく、地方公聴会を開き、各業界の反対運動の足並みを乱させ、減税を取引材料に、社公民を論議に引き込んだ。
一九八八年二月一日、「赤旗」創刊六十周年記念集会を開き、三月、「『赤旗』の六十年」を掲載した。
304 一九八八年一月、公明党は社会党に対して、「連合政権下での政策は、玉虫色ではだめだ」と一層の右寄りを要求した。
一九八八年二月、土井委員長は、安保条約は憲法にてらして矛盾の存在だと述べる一方、運動方針では、社公合意の一層の発展と、安保条約・自衛隊存続容認(の路線の具体化をはかる方向)が明記された。*
*感想 おそらく「容認」と、はっきりとは明記していないのだと推測される。自己中の不正確な表現!
一九八八年一月、公明党の田代富士男参院議員*が砂利運搬船の船腹調整事業*で、受託収賄容疑で大阪地検の取調べを受け、議員を辞職した。公明党の矢野委員長は、田代議員の弁明も信じたいとし、処分をしなかった。
*公明党の田代富士男参院議員は、一九八八年一月十八日、砂利船の転用に関する質問で、業界に有利な答弁を引き出し、全国砂利石材転用船組合連合会から、謝礼として七千万円を受け取った。一九八八年に発覚した砂利船汚職事件。
*船腹調整事業(スクラップ・アンド・ビルド)とは、船腹需給の適正化を図るため、船腹の建造に際し、一定の率(引当比率)の既存船の解撤を求めるというスクラップ・アンド・ビルド方式による船舶建造方式で、日本内航海運組合連合会により昭和四十一年(一九六六年)から実施されてきた。(milt.go.jp)
感想:回りくどい表現をしているが、要するにこれは空家の解体を行政代執行でやれるとする、業界の要求から出てきた政策である。
二月の参院大阪補選では、党候補が自社候補を破った。二月、三宅村議選で、党の寺本恒夫候補がトップ当選した。
305 一九八八年三月、自社公民国対委員長会議は、日本共産党を除く与野党の政策協議の場をつくることで合意した。
政府・自民党は、高齢化社会の到来を大型間接税導入の口実として利用した。党は、大型間接税と高齢化社会の間には何の関係もないことを明らかにした。
党は、一九八八年一月、育児休業制度の早期法制化を迫った。
通常国会は、国庫負担を削減し、地方自治体に負担を押し付ける国民健康保険法改悪、日米原子力協定改悪、大企業本位の四全総*の推進する法案を成立させた。
*四全総とは、第四次全国総合開発計画。一九八七年制定。
306 一九八八年五月、奥野誠亮(りょう)国土庁長官は、日中戦争は侵略戦争ではないと発言し、辞任した。
一九八八年四月、各界連(大型間接税・マル優廃止反対各界連絡会)主催の四・一七集会が開かれた。
一九八八年四月、党は、階級的ナショナルセンターの確立を展望して、全国労働組合部長会議を開催した。
一九八八年六月、大阪過労死問題連絡会とストレス疾患労災研究会が過労死一一○番全国ネットを設置した。一九九二年六月までの四年間で、千四百十六件の死亡事案の相談が寄せられた。
一九八〇年十月から八年の間、民事訴訟として争われてきた宮本議長宅電話盗聴事件について、一九八八年四月、東京高裁は、北條浩前創価学会会長も関与した組織ぐるみの犯行であったことを、一九八五年四月の一審判決につづき断罪した。最高裁に上告した創価学会は、十二月、突然上告を取り下げた。このやり口は、世論と内部むけの策謀であった。創価学会は宮本にも、国民にも謝罪せず、反省の言葉さえ述べなかった。事件発覚当初は、事実無根と言い張って創価学会を弁護してきた公明党も、沈黙を続けた。池田名誉会長は、盗聴関与の直接証拠が乏しかったので被告とされなかったが、彼が名実ともにその責任者であることは明白であった。
307 一九八八年五月、公明党大橋敏雄代議士が池田名誉会長を告発する手記を『文芸春秋』に掲載し、政教一体や池田による学会の私物化を暴露した。公明党は大橋を除名し、除名理由は、医療機器メーカーからの政治献金問題とされ、『文芸春秋』寄稿問題にはふれなかった。
一九八八年三月、NATOは核戦力と通常戦力の組み合わせが引き続き必要であると宣言した。
世界平和評議会代表委員会では、ゴルバチョフの新思考外交が押しつけられ、INF条約後の情勢がばら色に描かれ、核兵器固執勢力との闘争が無視された。
ソ連共産党中央委員会は、一九八八年二月、日本社会党を美化するメッセージを送った。
308 一九八八年三月、日ソ両党定期会談。ソ連側はアファナシェフ中央委員・「プラウダ」編集長。一九八四年の日ソ両党共同声明に基づく第二回目の協議。ソ連側は、社会党を安保反対の党として美化した記事を「プラウダ」に載せたことの誤りと認めた。
一九八八年四月、日ソ両党継続協議。日本共産党が、社会党を美化することは、反核国際統一戦線の結成を妨げると指摘したが、この点で決着がつかなかった。
一九八八年五月、日ソ両党首脳ゴルバチョフ・不破会談。ソ連側は、三月のアファナシェフの自己批判を無視した。日本側が、日本社会党美化は干渉だとすると、ゴルバチョフは興奮して「荷物をまとめて帰国してもらいたい」とまで言い放った。
309 一九八八年、ソ連は、石橋前委員長、土井委員長をそれぞれ四月、五月にソ連に招いた。土井委員長らは、社会党が日米軍事同盟と自衛隊の容認を基本政策にしていることを隠し、反核、軍事同盟反対、自衛隊反対をかかげているかのような発言を行い、ソ連側はその発言を肯定的に報道し、美化し続けた。
コワレンコ著『日本共産党(概史)』(一九八七年)は、ソ連の覇権主義をあらわしている。コワレンコは一九六〇年代以降の日本通で、志賀一派の裏切りに自ら肩入れしてきた。コワレンコは同書で、志賀一派の問題を欠落させ、日本共産党がソ連共産党に従わなかったことが、日ソ両党関係の断絶の原因であるとした。
一九八八年五月、ソ連軍がアフガニスタンから撤退を開始した。四月、アフガニスタン、パキスタン、米、ソの四カ国外相が、ジュネーブで、アフガニスタンからのソ連軍の全面撤退を定めた合意文書に調印した。
310 一九八九年二月、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退完了をタス通信が報じたが、軍事顧問を残留させ、総額八十六億円の軍事施設をナジブラ政権軍に引き渡し、民族自決権侵害の自己批判はしなかった。
一九八八年五月、第三回国連軍縮特別総会(SSDⅢ)が開催された。核抑止力論批判が多数を占めたが、NATO加盟諸国は核兵器固執論を展開した。竹下首相は、抑止と均衡の立場から核軍拡を容認した。アメリカは核兵器削減問題を総会で取り上げることを拒否した。
一九八八年六月、西側主要国首脳会議(トロント・サミット)では、核抑止力と十分な通常戦力を維持するとし、経済宣言には、税制改革の名の下に、大型間接税導入が、日本の国会での決定に先立って国際公約とされた。
感想 このやり方はよくないね!議会制民主主義に反する。
310 一九八八年六月、ソ連共産党中央委員会から日本共産党宛に書簡が届いた。その内容は、社会民主主義の政党の多くが自国の共産党と激しい政治的・思想的闘争を続けていても、国際的な舞台でその党が良い態度を取るならば、その党と接近・協力するというものであった。ソ連の日本に対する行動が、日本の革新・平和の運動の妨害になろうと、ソ連とは関係のない「日本の政治情勢の特徴」だというものであった。
感想 下線部はおそらく日本共産党の補足説明であろう。
311 宮本議長は、政党を評価する基準は、政治的広告ではなく、実態であるとしたレーニンの指摘をあげた。
一九八八年六月、党は、『国際生活』誌*の「四つの質問」に対する立木回答の掲載(がまだなされていないこと)について同誌編集部にただした。
党は、シェワルナゼ外相あてに、未掲載の理由を問う書簡を送った。
同誌は八月、「すでに一方的に日本で発表されているものを『国際生活』誌に掲載することは、その合目的性を失っている」との口実で、不当な掲載拒否を通告してきた。ソ連側が回答を依頼しながら、その掲載を拒否するというものだった。
*p.266?これは北朝鮮のものであり、関係ないようだ。ソ連にも同名の『国際生活』誌があったようだ。
一九八八年六~七月、ソ連共産党全国協議会が開かれ、ゴルバチョフは、全人類的普遍的価値が優先するとし、労働者階級の利益と全人類の利益とを対立させる、ゴルバチョフの「新しい思考」論を党の正式決定とした。
一九八八年、スペイン、チェコスロバキア(『平和と社会主義の諸問題』誌各党代表者会議。党は、ソ連無謬論にたつ同誌の廃刊、抜本的改善を主張した。)、アイルランドを訪問した。
一九八八年五月、二中総開催。宮本議長(冒頭発言)は、社会主義について論じ、ただ生産手段の社会化の効率的実現だけではすまされない重大事態*や社会主義的民主主義の逆行現象が見られることから、社会主義的民主主義の実現を展望すべきだとした。
*具体的にどんなこと?
宮本議長は、世界の共産主義運動が、脱皮のための激動期に入っているとした。
313 冒頭発言は、(ゴルバチョフの)「統一的な世界の法則性」論の根拠とされている、レーニンの「我が党の綱領草案」の命題、つまり、「マルクス主義の基本思想の観点からすれば、社会発展の利益はプロレタリアートの利益に優越する」という命題が、「ロシア革命の発展においては社会主義革命を実現する前に、社会発展全体を妨げる基本的障害となっている絶対主義打倒の民主主義革命の必要を強調した」ものであり、史的唯物論の社会発展の見地に立って探求したものだと解明した。
そしてロシア一国での社会発展に係わるこの命題を根拠にして、人類を破局に導く核戦争になれば、すべての階級もなくなるのだから、今は階級闘争などではなく、直接、人類的課題である核兵器廃絶を優先させるアプローチが重要であると主張し、「各国人民の社会発展のための政治闘争を、実際は、決定的に軽視する議論は、資本主義国の人民の目覚めと立ち上がりのメカニズムを知らない、「史的唯物論の見地を放棄する観念的な空論」であると批判した。
314 二中総は、宣伝物に党名を入れないなどの「党隠し」の誤りを指摘した。また大量政治宣伝におけるパンフレットの滞留問題などで、パンフレット担当者会議をひらくことを決定した。
一九八八年六月、埼玉県知事選で、現職革新の畑和候補が当選し、沖縄県議選で、四名から六名に躍進し、自民党は六議席を減らした。
314 感想 一九八〇年の社公合意あたりから、日本共産党は孤立を深め、ますます意固地になり、自らの殻の中に閉じこもり、自分につごうのいい解釈ばかりする傾向が強くなっていくように思われるのだが、どうだろうか。たとえば、レーニンも話題に取り込みながら、ゴルバチョフの「人類的危機」を反核勢力無視と解釈してしまうような点にそのことが現れているように思えるのだが、どうだろうか。
314 一九八八年七月、竹下内閣は消費税導入のための臨時国会開会を強行した。大多数の自民党衆議院議員は大型間接税反対を掲げて当選していた。社公民三党は、自民党と密室協議を重ね、所得税減税を口実に国会開会に応じた。消費税法案は、一九七九年十二月の一般消費税放棄を全会一致で決めた国会決議違反であった。
315 一九八八年六月、川崎市の助役に対するリクルートコスモス社未公開株の譲渡疑惑事件は、七月には中央政界をまき込んだ。リクルート社は、労働省、文部省幹部や与野党の政治家、経済界、マスコミに総額七十億円の未公開株を譲渡し、買収した。江副浩正会長は、中曽根政権下で各種審議会のメンバーを勤め、民営化したばかりのNTTに食い込んでいた。
一九八八年七月、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」が、釣り船「第一富士丸」に衝突した。自衛隊は人命を軽視した。
一九八八年八月、自民党は、公民を抱きこみ、衆議院予算委員会開会を強行した。特定政党だけによる予算委員会開会強行は史上初めてだった。自社公民四党は密室協議を続け、九月、幹事長・書記長会談で、消費税
法案の受け皿となる税制問題特別委員会の設置に合意した。
316 一九八八年十月、党は、リクルートコスモス株取得リストを公表した。一九八六年九月に、宮沢蔵相、加藤孝労働省事務次官、安倍(晋太郎)自民党幹事長秘書、竹下首相秘書、中曽根前首相秘書ら九人が、合わせて八万株受け取っていたことが暴露された。中曽根政権の官房長官だった藤波孝生、官房副長官だった渡辺秀央も関与していた。
一九八八年十月、逗子市長選で富野暉(き)一郎が三選された。
一九八八年十一月、三宅島村長選で、寺沢晴男が無投票当選した。那覇市長選では、親泊康晴が勝利した。
SDI(戦略防衛構想)推進、海洋配備の中距離核戦力強化
一九八八年、社会党・総評ブロックは、原水禁運動分裂の要因となった部分的核実験停止条約二十五周年の分裂集会を開き、それにソ連代表が参加した。
317 原水爆禁止世界大会の国際会議の「八八年広島宣言」は、反核・平和勢力の統一を妨害するものとたたかってこそ運動を発展させることができると指摘し、外部(ソ連)からの介入に反対した。
また広島シティホテルが警察の依頼で、三日夜の起草委員会の議事を盗聴し、また大会事務局の依頼したコピーを盗み取りした。日本原水協は同ホテルの副社長ら六人と氏名不詳の警察官を告訴・告発した。
317 一九八八年九月、天皇裕仁が重体になり、政府は行事の自粛や見舞いを強制した。商業マスコミは天皇の回復を願う社説を発表した。
東京都議会での天皇問題についての発言で、日本共産党の栗原茂都議にたいする問責決議を自民、公明、民社クラブの三会派が強行し、地方議会でも天皇礼賛を批判する日本共産党議員の発言封殺が各地で行われた。
党は、天皇美化と自粛の強制に反対し、議会での懲罰や右翼の暴力に屈することなく、侵略戦争と国民弾圧の最大の責任者である天皇の美化に抗議した。
一九八八年十二月、本島等長崎市長が、日本共産党柴田朴市議団長の質問に対して、「天皇に戦争責任はある」と答弁した。右翼は全国から連日いやがらせをつづけ、家族も脅迫された。本島市長は、自民党の発言撤回要求を拒否し、「言論の自由は、時や場所によって制限されるべきでない」とのべた。
一九八八年十一月、公安調査庁職員が、日本共産党本部の正面玄関の出入りを、道路を隔てたマンション二階から長時間にわたりビデオカメラで盗み撮りしていたことが判明した。
318 公安調査庁は、盗み撮りを一九八三年七月からはじめ、関東公安調査局所属の二人が行い、費用は関東公安調査局が負担し、破壊活動防止法に基づく正当な調査と言明した。東京地検は一九九一年十月、この事件を、一九八七年二月に発覚した上田副委員長宅盗聴事件とともに不起訴とした。
一九八八年十二月、最高裁は、党が袴田里見に党所有の家屋明け渡しを求めていた民事訴訟で、袴田に立ち退きを命じる一、二審判決を支持した。裁判所が政党内部の(除名)処分について、自治的措置*とするという判断を示したのははじめてのことであった。
*自治的措置とは、袴田の除名処分が、党の自治に基づくものであるということか?
一九八七年十二月、南朝鮮で、国民の直接投票による大統領選挙が行われ、一九八八年二月、盧泰愚政権が発足した。軍事独裁政権が終わり、議会制民主主義の実質を一定程度そなえた体制が実現した。
一九八八年九月、党は、日本政府が南北両政権のいずれをも承認することを主張し、日韓条約第三条の、「韓国=唯一・合法政府」規定の廃棄を提案した。
319 一九八八年九月、ビルマで軍部がクーデターを起こし、軍事独裁政権が、国民の反政府運動を弾圧した。竹下首相は、「推移を見守る」と事実上容認した。
一九九〇年五月、ビルマで総選挙があり、アウン・サン・スー・チーを書記長とする全国民主連盟が圧勝し、政権党の国民統一党(旧社会主義計画党)が惨敗したが、ソウ・マウン政権は、国会を招集せず、全国民主連盟幹部を逮捕した。
一九八八年八月、一九八〇年九月以来のイラン・イラク戦争が停戦した。国連安保理常任理事国五カ国を含む五十数カ国が、両国に兵器を供給していた。
一九八八年十月、チリで国民投票が行われ、ピノチェット軍事独裁政権反対が、五四・六八パーセントをしめ、内閣は総辞職した。
一九八八年九月、不破副議長はゴルバチョフの「新しい思考」を批判した。不破は、スターリン以後のソ連の指導者は、レーニンに背く覇権主義を自己点検すべきだが、ゴルバチョフはこの問題を回避していると指摘した。さらに社会主義国が自国の利益のために、資本主義国における階級闘争を妨害することは許されないとした。
320 ゴルバチョフの(レーニン)解釈は、レーニンとは逆に、全人類的価値の名の下に、核兵器廃絶などに対する、世界の人民の闘争の抑制を説くものだとした。
一九八八年九月、党は、『平和と社会主義の諸問題』誌の編集委員会が、同誌の要請で村上委員長が寄稿した論文の掲載を拒否したことを非難した。
村上委員長は、論文で、アフガニスタンへの民族自決権侵害を自己批判しないゴルバチョフ政権を批判した。
一九八八年十月、ユーゴスラビアで国際円卓会議に参加した。また宮本議長のユーゴスラビア版著作集が出版された。
一九八八年十月、平壌で世界平和評議会主催の朝鮮半島非核化に関する国際会議が開かれたが、北朝鮮は日本平和委員会代表に招待状を送らなかった。
321 一九八八年十月、党は訪ソし、ゴルバチョフの「新しい思考」が、協調主義、日和見主義、無原則的誤りだと批判した。また資本主義の全般的危機論がもつ、社会主義無謬論、覇権主義の破綻・有害性を論じた。
ソ連側(ベ・ペ・クズミン)は、資本主義の全般的危機論を放棄する必要はないと答えた。
一九八八年十一月、世界平和評議会ビューロー会議は、「新しい思考」を盛り込まず、核兵器廃絶を死活・緊急の課題と位置づけ、「広島・長崎からのアピール」国際署名などを内容とする諸文書を採択した。
十月の世界労連総評議会や、十一月の世界民青連主催国際会議などで「新しい思考」を批判した。
一九八八年十一月、ブッシュが米大統領選で勝利した。しかし有権者に対する支持率は三〇パーセント未満だった。ソ連は、「米国民の選択に敬意を表する」とした。
322 一九八八年十二月、党は、東ドイツ代表団と会談し、中曽根・竹下首相を平和的な政治家と扱ったこと、六月のベルリン非核地帯国際会議に、前年九月の約束にそむいて、(日本の)反党分子や分裂組織の代表を招いたこと、八月の原水禁分裂集会に代表を派遣したことなどの誤りの是正を求めた。東独側は党指導部に報告・検討することを約束したが、その後なしのつぶてであった。
一九八八年、ポルトガル、ウルグアイ、インド共産党(マルクス主義)を訪問した。
322 一九八八年十月、宮本議長は、「新しい思考」が、核兵器廃絶の課題で人民の運動を否定する見地を「史的唯物論の社会発展の法則から完全に離れるもの」と批判した。
323 一九八八年十月、「宮本議長の八十歳を祝う会」を開催。
一九八八年十一月、三中総開催。宮本議長は冒頭発言で、天皇裕仁が戦前の暗黒支配、侵略戦争、植民地統治、軍国主義の責任者であり、戦後は、象徴天皇制が、日米支配層のあたらしい反動支配の道具としての役割を果たし、広島への原爆投下を容認する*など、愛国精神を欠いた象徴的存在となったとした。
*昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと私は思っております」(一九七五年十月三十一日、訪米からの帰国時の記者会見で、ウィキペディア)
三中総では、上田耕一郎副委員長、小林栄三常任幹部委員、浜野忠夫党建設委員会責任者、白石芳明選挙・自治体局長、桑原信夫機関紙誌局長が報告を行った。
324 不破副議長は、カンボジア問題について、カンボジア人民が一九七九年一月*行使した民族自決の権利とその後の建設の成果をまもる、ベトナム軍の完全撤退を早期に実現することなどを提案した。
*1979.1 カンボジア人民共和国が成立した。
324 一九八八年七月、民社党の塚本三郎委員長がリクルートコスモス株五千株を取得していたことが明らかになった。十月から十一月にかけて、真藤恒NTT会長、民社党の田中慶秋代議士、公明党の池田克也代議士、社会党の上田卓三代議士が秘書や弟などの名義でリクルートコスモス株を取得していたことが判明した。自民党の浜田卓二郎、伊吹文明両代議士、高石邦男前文部事務次官への株譲渡も明らかになった。上田代議士は議員を辞職したが、社公民各党は関係者を処分しなかった。自民党は、関係者の証人喚問を棚上げし、一九八八年十一月、衆議院税制問題等特別委員会で消費税法案を単独強行可決した。
自民党は証人喚問の骨抜きをねらい、「証人の人権」を口実に、偽証などの告発要件の改悪(出席議員の過半数から三分の二以上へ)、証人喚問中の撮影禁止という議院証言法改悪案を、社公民の賛成で成立させた。
325 そして同法が施行されていないのに、江副リクルート前会長、高石前文部次官、加藤前労働次官への証人喚問を、テレビ放映のないまま行った。
この時期、株投機・仕手戦にからんで、十八億九千万円の脱税をした名電工の中瀬古元相談役が、公明党の矢野委員長と接触したことが明るみにされた。
江副の証人喚問で、株を自己資金で購入したという宮沢蔵相の弁明が虚偽であることが明らかになり、十二月、宮沢蔵相は辞任した。十二月二十一日、自民党は参議院で税制六法案の単独強行採決を行った。
一九八八年十二月十一日、中央と東京の各界連、東京春闘懇、首都労組連主催の集会を開いた。
一九八八年十二月二十一日の集会には、日本共産党だけでなく社会党、公明党、サラリーマン新党も挨拶した。自民党と裏取引をすすめていた公明党は参加者に厳しく抗議された。
十二月二十三日参議院本会議で日本共産党、社会党、二院クラブは、牛歩戦術をとった。二十五時間をこえる完全徹夜であったが、二十四日、自民党の賛成多数で消費税関連六法案が可決された。
金子書記局長は、消費税の成立に手を貸した公明、民社両党を批判した。
感想 消費税は中曽根が竹下にやらせたのかもしれない。自分は手を汚さないで。
宮本の意思が党を貫いている。執念深い。理論でかっこをつける。
326 一九八九年、宮本議長は、チリ、南朝鮮、ビルマでの専制政治に反対する人民の闘争の高揚を指摘し、日本でも展望が開かれるとした。
一九八八年十二月、ゴルバチョフは、国連演説で、今日の世界は人民の闘争ではなく、帝国主義勢力も含めて、全人類が対話し、合意し、協力し合うことで進歩が可能だという無原則な協調主義を表明した。
レーガンはゴルバチョフを「世界革命を優先課題にしない初めてのソ連指導者」とたたえた。
不破は、若きマルクスに全人類的価値優先の根拠を求めたゴルバチョフを批判した。
一九八九年一月ブッシュが米大統領に就任し、「平和を守るために力を維持」することを強調した。ゴルバチョフは祝電や報道で、米ソ協調を求めた。
327 一九八八年十二月、中国共産党は「対外交流の基準」を発表し、「イデオロギーの異同が党関係を発展させる条件ではなく」、反動政治を推し進める政権党とも重点的に関係を持つと宣言した。
一九八九年一月、天皇裕仁が死亡した。金子書記局長は、「平成」の元号の使用を強制すべきではないと発表した。
戦前、天皇の支配権の継承を象徴する儀式である「剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀」が「剣璽等継承の儀」と言い換えられて国事行為として強行され、三権の長らが列席した。竹下首相は前天皇を美化する「謹話」を発表した。衆参両院本会議は、自社公民の賛成で天皇への弔詞議決を強行した。
政府は、政府・地方公共団体には六日間の弔旗掲揚、「歌舞音曲」の停止、国民には二日間の服喪を求めた。これに呼応して、テレビ各局は、「天皇陛下崩御」などと戦前と同じ用語を使って異常なキャンペーンを開始した。新聞も号外を出し、夕刊は広告をはずして天皇美化の紙面で埋め尽くした。
328 各紙の社説は、天皇を平和の人として描き出した。これは自らの、戦前の絶対主義天皇制下での暗黒政治と侵略戦争への加担を、今だに反省しない商業ジャーナリズムの誤りを露呈した。
各政党は天皇の死去に弔意を表した。一九八九年一月、社会党は、戦争責任は当時の大臣にあるとし、前天皇の責任を否定した。
BBCテレビは天皇の戦争責任を厳しく追及するドキュメンタリー番組を放映した。イギリス、オランダなどでは、国の代表の天皇葬儀への参列に反対する世論が高まった。ニューヨーク・タイムズ紙は、日本共産党の中央委員会声明を報道した。フランスの「リベラシオン」紙や「フィガロ」紙が小林栄三常任幹部会委員と松本善明衆議員団長の記者会見を紹介した。
感想 批判する場合は、批判される側の人格を、批判する自らと同等なものとして批判すべきであり、相手の人格を否定するかのような言葉遣いは受け入れられない。その意味で、志位委員長のツイッターに対する「批判」的コメント、いわゆるネツウヨの「批判」は、「批判」に値しない。2016年9月10日(土)
一九八九年二月二十四日、政府は、昭和天皇の葬儀を戦前のままの神道形式で強行した。政府は、皇室行事の「葬場殿の儀」と国の行事の「大喪の礼」を区別するとしながら、実際は一体のものとして行い、「葬場殿の儀」には三権の長が出席し、外国代表までも出席させた。「大喪の礼」では、竹下首相が臣下まがいの弔辞を述べた。一連の儀式に百億円の国費が使われ、宗教への国の関与を禁じた憲法が踏みにじられた。「葬場殿の儀」のための警備には、各所で尋問、持ち物検査、交通規制、郵便部との開封などの人権侵害が横行した。
329 一九八九年二月二十四日、テレビ各局は、朝から夕方まで特別番組を編成して葬儀の模様を生中継したが、視聴者から強い抗議を受けた。日本政府は、できるだけ多くの外国代表を参列させようと経済援助を利用し、アパルトヘイトの南アフリカ代表を正式参列国として認知した。
一九八九年二月、四中総開催。
宮本議長は冒頭発言で、竹下首相が「政治改革」と称して、小選挙区制を目論んでいることを明らかにした。またブッシュ大統領を「核戦争での勝ち残り論者」と指摘した。そして天皇を元首扱いする自民党に対して、天皇は元首ではなく、憲法は元首を規定していないが、対外関係上あえて国の代表者は誰かということが必要な場合には、国会で選出された内閣の長がそれにあたる」とする常任幹部会の見解を明らかにした。
宮本議長は、公安調査庁などが、本部正面玄関の盗み撮りなどを破壊活動防止法によって正当化し、党が暴力革命に出る可能性があるとしたことに反論し、党規約に反して開かれた五全協(1951)や、五一年文書とその六全協での追認の意味を明確にした。
330 また「敵の出方論」の歪曲にも反撃を加えた。
一九八八年九月、宮本議長は、六全協や五一文書の評価をより正確にした。これは、一九八六年の中曽根首相の、一九四九年、五〇年に宮本政治局員がテロ活動のために群馬に入った、というデマ攻撃を提訴した民事訴訟の中で答えたものだった。
四中総で白石芳朗常任幹部会委員は、比例代表選挙での前進のための支持拡大運動を強調した。
四中総は、自民党政治に協力した社公民に審判を下すことなどを強調した。
一九八九年二月、村上委員長が入院し、金子書記局長が、委員長代行を兼務した。
一九八九年三月、勝共連合の新聞「世界日報」が(村上について)事実無根の記事を掲載した。宮本議長、村上委員長は一九八九年四月、名誉毀損で東京地検に告訴したが、東京地検は、公訴時効の一ヶ月前になってようやく事情聴取をもとめ、形の上で最終処理をした。
一九八九年一月、党は、ニセ「左翼」暴力集団のマル青同(マルクス主義青年同盟*)が、一九八七年秋に「民主統一同盟」と名称を変更し、かつては打倒の対象としていた日本共産党との同盟を標榜したことを批判した。
*マル青同は、一九七三年結成されたブント系党派の一つ。一九八八年、民主統一同盟に改称。迷彩柄の戦闘服に竹槍という街宣右翼のようなスタイルで出現した。
331 第十八回党大会の決定を受けて、原発の危険に反対する住民運動に取り組み、一九八七年十二月、原発問題住民運動全国連絡センターを結成した。党は、この運動が、共同の行動、統一戦線的な運動であるとした。
一九八九年二月、党は、竹下事務所がリクルートコスモス一万二千株を譲渡されたことを調べ、国会で指摘した。
また竹下首相は、天皇の戦争責任を認めない問題に関連して、ヒトラーの戦争を侵略と認めるかと問われると、「侵略戦争というのは難しい」と答えた。
不破は、日本共産党を、破壊活動防止法にも明文規定のない「調査対象団体」として監視することの不当性を追及した。石山陽公安調査庁長官は、三十六年間の調査の結果、団体規制を決定する公安審査委員会に審査を求めるほどの結果を得ていないと認めた。
332 一九八九年二月、東京地検特捜部が、江副浩正リクルート前会長、式場英および長谷川寿彦NTT元取締役等を逮捕した。
リクルート社が土井委員長の就任祝賀などのパーティー券を七十一万円購入していたことが明らかになった。
民社党の塚本三郎委員長は、リクルート疑惑に関与し退陣し、一九八九年二月、末長栄一が委員長に就任した。
一九八九年三月、真藤恒NTT前会長が収賄容疑で、村田幸蔵元秘書が収賄共犯で逮捕され、米クレイ社のスーパーコンピューターをNTTが購入した際の中曽根前首相の役割に疑惑が集中した。中曽根前首相は、党が、リクルート事件を「総理大臣の犯罪としてでっち上げようとしている」とした。これに対し、党は抗議し、陳謝を求める公開質問状を送ったが、中曽根は返答しなかった。
一九八九年一月、農民運動全国連合会(農民連)が発足した。農民連は、一九八八年十二月の全日農大会で中央を握る社会党幹部が、社会党の参議院候補者の勝利を目指す特別決議を強行したため、十八の道府県役員が、全日農と決別し、組織された。
一九八八年十一月、党は、全国農民部長会議を開いた。
一九八九年、牛肉、オレンジなどの輸入が自由化され、生産者米価が引き下げられた。四月、アメリカ通商代表部は、米の市場開放を要求した。
333 一九八九年一月、北九州市議選挙で、一議席増の九議席となった。社会党は一議席増。自公民は得票を減らし、自民は四議席後退し、民社は二議席後退し、公明は現状維持だった。
二月、東京都千代田区議補選で、党の木村正明が当選した。参議院福岡補欠選挙で社会党候補が当選し、自民党候補は敗北した。
二月の鹿児島県知事選挙や徳島市長選挙、三月の千葉県知事選挙では善戦した。
消費税は一九八九年四月一日から強行された。竹下内閣の支持率は三・九パーセントであった。
四月の名古屋市長選挙では、自社公民を相手に健闘した。社会党愛知県本部は、(共産党が推す)竹内平候補を支持した成瀬昇前愛労評議長を除名した。
334 四月の大阪府羽曳野市長選挙では、現職で党員の津田一朗が、自社公民の候補に敗れた。
六月の新潟県知事選挙では、自民党推薦の金子清が当選したが、得票は前回より減った。
社会党は千葉、名古屋などの首長選で候補者を立てず、自民党を助けた*1が、(新潟県では)党の革新統一の呼びかけを拒否し、自党の参議院議員を立て、党の推す長崎候補への投票は「死票」だという卑劣な攻撃を行った。*2
*1社会党が候補者を擁立しなかったことは、自民党を助けたのではなく、共産党を助けたのではないか。
*2共産党に投票することは「死票」であり、日本共産党こそ取り下げるべきではなかったのか。おそらく共産党のほうが「基礎票」は少なかったのだろうから。
長崎候補と社会党候補の合計は、自民党候補を上回った。自民党推薦の金子知事は、一九九二年八月、佐川急便からのヤミ献金疑惑が暴露され、辞任した。
一九八九年四月、社公民連(社民連)四党首(土井たか子、矢野絢(けん)也、末永英一、江田五月)が会談し、自民党政権にかわる連合政権樹立への展望をつくることで協議を進めることで合意した。
メーデー実行委員会*1は、満場一致から多数決制に、また政党を、特別加盟団体からオブザーバーにする変更を行った。
連合に対抗し三月末、「メーデー実行委員会」*2を発足させた。
*1*2の両者は、後の記述を見ると、同一名だが異なった構成のようだ。*2は「」をしているのに対し、*1には「」がない。ウィキペディアでも、一九八九年から分裂集会となったとある。
東京都は四月、先着順の規則を無視して、代々木公園のメーデー会場使用を連合側に許可した。
335 五月一日、統一労組懇など(党側)のメーデー実行委員会、マスコミ、金融・商業の三つの実行委員会によるメーデーが、江東区の辰巳の森で、連合、総評系のメーデーが代々木公園で行われた。
一九八九年四月、竹下首相は、一九八九年度予算成立を条件に退陣を決断した。
自民党は、四月下旬、予算を単独裁決した。
社公民連は、五月、共同政策案を発表したが、企業・団体献金を認め、消費税廃止や軍事費削減は掲げない、自民党政治の枠内の政策であった。*
*こういうとらえ方が意固地なのだ。
自民党政治改革委員会は、五月、企業献金枠の上限引き上げ、小選挙区制の導入、政党法制定を含む政治改革大綱を竹下首相に答申した。
五月、中曽根前首相は、衆議院予算委員会に証人喚問され、脱法行為によるリクルートからの献金は四千五百七十五万円にのぼり、宇野宗佑を後継総裁にする環境づくりのため、自民党を離党した。
336 公明党の矢野委員長は、中瀬古功名電工相談役が、矢野と二億円の株の授受をしたと証言したため、辞意を表明した。公明党は、五月、石田幸四郎を委員長に、市川雄一を書記長に選出した。
東京地検特捜部は五月、全容を解明しないまま、リクルート事件捜査の終結を宣言した。
一九八九年六月、自民党は、竹下から事実上の指名を受けていた宇野宗佑を総裁に選出し、宇野は首相に選出された。宇野内閣は、組閣は竹下派が取り仕切り、中曽根、竹下亜流政権であった。
自民党は、参議院本会議での内藤功議員の、「中曽根内閣が大型間接税はやらないといって、(三百議席を)かすめとった」の発言を問題視し、「かすめ」を議長職権で議事から削除させた。
一九八九年五月、『ニューズ・ウィーク』誌が、一九六五年十二月、米空母タイコンデロガが、ベトナムから横須賀に向けて、沖縄本島から二百二十キロを航行中に、水爆を搭載した航空機が水没したと報道した。この報道は、非核三原則の空洞化を物語るものであった。
一九八九年、ルーマニア、スペイン、ブラジル、ユーゴスラビアを訪問した。
一九八九年三月、イタリア共産党は大会を開き、人類生き残りの問題に焦点を当て、共産主義運動という概念は、今日では意味を失っているとして、社会民主主義政党との共同を目指した。そして民主主義的中央集権制を削除し、分派禁止条項を撤廃した。大会は、ゴルバチョフ書記長や西独社会民主党幹部らの挨拶をビデオで映した。
一九八九年三月、ブッシュ大統領は五万ドルのニカラグア反革命軍援助計画を発表し、ソ連に、ニカラグアへの支援中止を迫った。ゴルバチョフは、四月、不干渉に基づく中米紛争の解決を支持するとし、アメリカの意向に沿う発言をした。
338 一九八九年四月、ソ連の週刊誌『アガニョーク』は、杉本良吉が獄死ではなく、銃殺されたことを報道した。
一九八九年四月、胡耀邦政治局員が死んだ。胡耀邦は一九八七年一月総書記を解任された。胡耀邦は一九八三年来日したとき中曽根内閣との相互信頼を強調した。
北京大学、清華大学などの学生代表は、胡耀邦の公正な評価、反自由化運動の否定、指導者の資産公開、報道の自由と検閲の中止、デモ禁止条例の廃止、教育予算の増額を求めて座り込んだ。市民も学生を支援した。「人民日報」は、学生の追悼活動の中に、計画的な陰謀、動乱があったとして、これに立ち向かうよう全国民に呼びかけた。
339 一九八九年五月、ゴルバチョフが訪中し、ソ中間の関係正常化を宣言した。ゴルバチョフは、中国の市民、学生から、民主化の促進者のように受け取られていた。学生、市民の運動は上海など全国に拡大した。
一九八九年五月二十日、中国政府は北京市に戒厳令をしいた。五月二十三日、李鵬首相の退陣を求めて北京で百万人のデモが行われた。
一九八九年六月三日深夜から未明にかけて、北京市当局と軍の戒厳部隊司令部は、天安門広場周辺に装甲車を突入させ、十万人の市民、学生に対して無差別に発砲した。
六月五日、中国共産党中央と国務院は、六月三日早朝から動乱が反革命動乱に発展したと発表し武力弾圧を正当化し、党員と国民に暴乱との闘争を要求した。
340 鄧小平は戒厳部隊を「党と国家の鋼鉄の長城に恥じない」と称賛した。鄧小平は、一九八一年六月、党中央軍事委員会主席に就任して以来、一九八七年に中央委員から退いて一党員となった後も、軍隊を握り、党と国家に君臨する軍事専制支配体制をしいていた。
趙紫陽は、中国共産党第十三期中央委員会第一回全体会議(一九八七年十一月)は、「最も重要な問題については、なお鄧小平同志のかじとりがひつようである」と決定していたと語った。
宇野首相は、「憂慮にたえない」と答えるにとどめ、社会党は、「現代化、民主化と改革が後退することのないよう願わざるをえない」と述べるだけで、公明党は、「経済制裁などを直ちに言うべきでない」とし、その後、「人道上許せるものではない」とし、民社党は、「中国政府にたいして抗議すべきである」とした。
341 一九八九年六月、五中総を開催した。
宮本議長は冒頭発言で、イタリア共産党が一九七五年以来の軍事同盟容認によって社民政党化が必然となったことを指摘した。また社会主義のもつべき基準として、二中総の三つの基準に一つを追加して、①生産手段の社会化とともに、農業、中小企業などでの個人のイニシアティブの尊重、②社会主義的民主主義、③民族自決権の尊重、④緊急課題としての核兵器廃絶という四つの基準を定式化した。
宮本議長は、参議院比例代表選挙での九百万票獲得は十分可能であるとした。
村上委員長が病気のため委員長を辞任し、不破副議長が委員長となった。
宮本議長は、六月、参議院比例代表選挙の立候補を辞退した。
不破委員長は、六月、憲法の保障する「結社の自由」を侵害する政党法制定に反対することを提案した。
一九八九年六月、中央委員会・都委員会主催の演説会で、不破委員長は、反共攻撃に対して、中国当局を正面から批判できない自社公民各党こそ糾弾されるべきであるとした。
342 中国共産党は、一九八九年六月、趙紫陽を動乱を支持したとしてすべての役職から解任し、後任の総書記に江沢民を選出した。
一九八九年七月、西側主要国首脳会議は、中国における人権無視を非難し、これまでの制裁措置を確認し、核抑止力と軍事同盟強化を押し出した。宇野首相は、中国への制裁に反対した。
一九八九年七月、世界青年学生祭典が平城で開かれ、日本準備委員会から脱落した総評・社青同のメンバーも参加し、デモ行進出発前の日本代表団に殴る蹴るの暴行を働いた。北朝鮮は、総評・社青同を正式代表のように扱った。日本代表団は天安門事件を糾弾し、各国代表もこの問題を取り上げた。
343 一九八九年七月、東京都議選挙で自民党は、現有勢力六十三議席を二十下回った。党は、得票数では1万7千票伸ばしたが、五議席減の十四議席に後退し、社会党は現有議席の三倍の三十六議席と前進し、公明党は、三議席減の二十六議席、民社党は、二議席増の五議席となった。
東京都議選結果
自民 共産 社会 公明 民社
63-20=43 -5=14 36 -3=26 +2=5
自民党は選挙戦で、「自由主義か社会主義か」とか、消費税の見直しを叫んだ。社公民各党は、選挙目当てに消費税廃止を訴えた。*都政与党の自公民各党は、大企業本位の鈴木都政を絶賛した。公明党は、「共産党の車を見たら天安門の戦車を思い出せ」と演説した。
*社会党は牛歩戦術をして消費税に反対したのではなかったか。公明党も消費税反対の集会に参加したのではなかったか。(p.325, 326)
宮本議長は、中国共産党が、初期の毛沢東時代の正確な路線から転化して、覇権主義をおしつけ、各国共産党の打倒をかかげ、その後、プラグマティズムの外交政策を続け、その間一貫して、武力革命論=鉄砲政権論を保持しているとした。
344 一九八九年七月、那覇市議選では、得票、得票率ともに増やして、七人全員が当選した。
一九八九年七月、参議院選挙。
一九八九年六月、社公民連四党が、政治資金規正法改正共同要綱で、三年をめどに企業献金の廃止を掲げ、消費税廃止を提起した。党は共同行動を提起した。
自民党は天安門事件を反共攻撃に利用し、天安門事件を社会主義の実態とし、「社会主義や共産主義を標榜する野党が権力を取るようになれば、果たして今日国民が享受している自由や民主主義が守られるでしょうか」という選挙宣伝車用演説資料を作った。
345 社民連の田英夫参議院候補は、東京選挙区で社会党が推薦し、ポル・ポト派を支援し、同様の立場に立つ反共暴力集団MPD*(元立志社)と関わりがあり、一九八〇年、立志社の支援でポル・ポト派の支援組織「カンボジア救援センター」が設立されると、田は、事務総長に就任した。カンボジア救援センターの発起人は、園田直、土井たか子、黒柳明、渡辺朗、河野洋平など、自社公民、新自クの議員が名を連ねていた。
*MPD・平和と民主運動は、新左翼系学生運動団体「日本学生戦線」「立志社」を母胎として一九八三年に結成された日本のミニ政党。結成時のよびかけ人は、田英夫、横路孝弘、八代英太、斎藤まさし(本名:酒井剛)らであった。参院選出馬時には、宇都宮徳馬が推薦人になった。一九九〇年に、大衆党に改名した。(p. 251)
346
参議院選挙結果(一九八九年七月)
自民 共産 社会 公明 民社 連合
69→36 22→46 -2=10 -3=3 11
比例代表区 -1=4
選挙区 8→5
比例区得票数 395万票で前回を150万票下回った。
自民党は、非改選とあわせても過半数割れ、一人区で大半を失う。比例区では、得票率を10%減らし、はじめて二割台に落ち込んだ。女性スキャンダルもある宇野首相は、七月二十四日、辞意を表明した。
社会党は比例代表区で自民党を上回った。
*社会党の躍進の要因として、土井マドンナについて触れていない。
346 一九八九年八月、六中総を開いた。
参院選の総括を行い、自民党が参議院で過半数を大きく割って、一九五五年の保守合同いらい最大の敗北を喫したことは、戦後政治史のうえで画期的意義を持つ政治的事件であり、日本政治に新しい局面をつくり出したこと、党は、選挙での進退がどうあれ、この国民的流れの形成に大きく貢献したことを解明した。*
*楽観的な評価だ。土井マドンナ旋風、宇野の女性スキャンダル、消費税導入などを考慮していない。
347 六中総は、参院選で党の議席と得票の後退の要因を分析し、天安門事件による情勢の激変の突風的な影響、それを利用した自民党や反共野党による集中的な反共キャンペーンなどをあげた。*
*それではなぜ自民党が後退し、社会民主主義政党である社会党が躍進したのか、説明がつかない。社会主義を標榜する政党に投票して、天安門のような事件を起こされることのないように、そして自由と民主主義を守るためには、自民党に投票すべきではではないか。
347 六中総は、国際問題を中心に毎日一時間以上、週に一回半日近くの機関学習の作風を作ることを決定した。
六中総は、選挙活動の発展方向として、第十七回党大会七中総の支持拡大方針を、「支持拡大をやらない」と受け止める誤解を正し、*この方針をあらためて徹底することを確認した。
*どういうこと? (p. 282) 一九八七年五月~六月の七中総は、選挙戦の支持拡大活動について、今後はその集約数を選挙情勢の判断の基準にしないこと、選挙情勢の判断は、あたらしく定められた四つの基準でおこなうことなどを決定した。
六中総は、第十三回臨時党大会(p.50, 1976.7, 第十三回臨時党大会)が採択した「自由と民主主義の宣言」を再確認するとともに、さらに、党がこの間成し遂げた、覇権主義の克服、社会主義の優位性を発揮すべき四基準など、綱領上、政策上の発展を同宣言に取り入れるという補正を行った。
自民党は新総裁に自主憲法期成議員同盟(改憲タカ派集団)メンバーの海部俊樹を、竹下、安倍、中曽根各派の支持を得て選出した。
不破委員長は、首相指名についての野党間での候補者一本化に関して、排除の論理ではなくとしたが、社会党から決選投票となった場合、土井委員長への投票依頼があり、社公合意を容認はしないが、反自民の立場から、同意した。
348 八月九日、衆議院では海部俊樹が、参議院では決選投票で土井たか子がそれぞれ首相に指名された。参議院の決選投票では、民社党は、社会党が共産党に投票を要請したことに反撥して、白票にした。衆参両院で異なる首相が指名されたのは、四十一年ぶりのことであった。
一九八九年八月、原水禁大会が開かれた。「広島宣言」は、各国人民の運動を妨害物と看做すソ連の「新しい思考」を批判した。
一九八九年九月、海部首相がアメリカを訪問し、ブッシュ大統領と会談し、「グローバル・パートナーシップ(世界に貢献する日米関係)」の確立と、そのもとでの「アジア・太平洋地域における安定」に緊要な日米安保の重要性を強調し、政治、軍事、経済の全面での役割分担を確認した。これは、日米安保の範囲をアジア・太平洋地域、さらに地球規模に拡大する転機となった。
党は、九月二日、軍拡、戦略援助を柱とするODAの突出、日米構造協議*調整のための「政策協議と共同作業」を対米従属強化であると批判した。
*日米構造協議とは、日米貿易不均衡の是正を目的として、一九八九年から一九九〇年まで行われた。一九九三年、日米包括経済協議と名前を変え、一九九四年から始まる、年次改革要望書や日米経済調和対話へとつづく。
九月の日米首脳会談後、米軍は、同盟国軍を動員して、太平洋演習を実施した。(PACEX89)
349 一九八九年八月から、共産党と省略せず、日本共産党という正式名称を使うことにした。
一九八九年九月、常任幹部会は、東欧とバルト三国の問題も、日本共産党の権威を高めうる素材として選挙で活用できるとした。
一九八九年八月、バルト三国で民族主権確立の運動が燃え上がった。この時期、ソ連の週刊誌『論拠と真実』が、一九三九年の独ソ不可侵条約の秘密追加文書のコピーを掲載し、一九四〇年、スターリンがこの議定書に基づき、軍事力でバルト三国を併合したことを暴露した。
350 ソ連は、バルト三国のソ連邦への加盟は合法的であったとし、八月、バルト三国の民族独立運動を「反社会主義的・反ソ的」とし、武力行使を示唆した。
東欧諸国では自主的な道を探求する勢力は弾圧され、コメコン(経済相互援助会議)も、ソ連中心の国際分業体制をおしつけた。
一九八九年八月、ポーランドでソ連に追随してきた統一労働者党政権に代わって在野勢力「連帯」派のマゾビエツキを首班とする政権に代わることが確実となった。これは政治的複数主義、政見表明の自由、代議機関の民主化の合意の下に行われた六月の国政選挙で、統一労働党が大敗し、「連帯」を中心とする「市民委員会」が圧勝したからである。
一九八九年七月、ソ連を含むワルシャワ条約機構首脳会議は、チェコスロバキア侵略(1968)を正当化した「制限主権論」を否定した。また東ドイツでは、五月にハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去したことから、ここを経由して西ドイツへ出国する東ドイツ国民が急増した。
351 一九八九年九月、中国は日本共産党を排除した「日中友好議員連盟」の訪中代表団を招待した。鄧小平、江沢民、李鵬らは、天安門事件を西側のデマあつかいし、日本を含む西側諸国からの援助の再開を求めるという無原則的な実利主義の立場を主張した。日本代表団は中国当局に迎合した。
東欧諸国での展開(出国の自由も含む)は、日本共産党の「自由と民主主義の宣言」の先駆的意義を鮮明にした。
国際問題講師養成講座を開いた。
352 政府・自民党は、(消費税の)「廃止を言うなら財源を示せ」とし、反共野党の取り込みを策した。
一九八九年八月、京都市長選挙。自公民候補が勝った。社会党、共産党は共同できず、それぞれが候補を擁立した。京都総評は共産党候補を推薦した。
一九八九年九月、参議院茨城選挙区補選で、共同を社会党茨城県本部に申し入れたが、社会党は拒否し、自民党候補が当選した。選挙戦で、海部首相は、東欧では「社会主義・共産主義の教科書が間違っていた」「自由と民主主義の陣営に軍配が上がった」とした。
この時期、公民両党は自民党との連合指向を強めた。公明党は、自民、社会、中道勢力という三極体制をうたい、政権協議への基本的な見解で、「議会内諸政党間に、国のあり方に関する理念の共有」つまり「根本の政治観ないし世界観についてのコンセンサス(全会一致)」「外交・安全保障政策での共通性」「同質性」が、議会制民主主義に不可欠とした。
353 海部首相は、(消費税の)「見直し・定着」を強調し、廃止を拒否した。社公民連四党は、消費税廃止法案とともに、代替財源法案、税制再改革法案を提出した。
政府・自民党が、消費税の導入は高齢化社会のためということに対して、党は、生産人口と老人や少年など非生産人口との関係が、二〇二五年まではほぼ一定であることを示した。
上田副委員長は、「消費税廃止をいうなら財源を示せ」というのは、居直り強盗の論理だと糾弾した。
354 大型間接税・マル優廃止反対各界連絡会(各界連)主催の集会が開かれた。また舞台芸術関係の芸術家・芸能人・鑑賞組織などが参加した舞台入場税対策連絡会(入対連)は、九月、「文化に消費税やめて」の署名活動を行った。
海部内閣と自民党は、小選挙区制と政党法導入をねらった。党は、中選挙区制での定数是正を求めた。
アメリカ政府は、一九八九年十月、ガットのウルグアイ・ラウンドに提出する農産物貿易に関する包括的提案を発表し、コメを含めた農産物の輸入自由化を求めた。
355 一九八九年十月の神戸市長選挙では、日本共産党、社会党、民社党などが推薦する候補が、自民党候補を破った。十一月の川崎市長選挙では、日本共産党、社会党、社民連などが推薦する候補が、自民党候補を破った。*1しかし当選した高橋清は、二期目の一九九三年の選挙直前に自民党に屈服した。*2
*1 この時期でも社共が共同できるケースもあるということだ。それを大事にしなければならない。
*2 *どういうこと?
神戸の笹山市長は、一九九三年の選挙の際、共産党と結んだ政策協定に矛盾する政策協定を自民党と結んだ。
一九八九年十一月、全国労働組合総連合(全労連)が結成された。
一九五〇年占領軍によって全国労働組合連絡会が解散させられた。
新「連合」(全日本労働組合総連合会)も発足した。それは、総評系官公労の一部を吸収し、反共主義と労使協調だった。
一九八九年十月、国政選挙総合対策委員会を強化、改組し、上田副委員長が責任者となった。
356 一九八九年十一月、青年学生問題全国活動者会議を開いた。
一九八九年十一月、日本共産党後援会全国連絡会を結成した。
356 一九八九年十月、ハンガリーでは、社会主義労働者党が社会党に改称し、国会は政権党の指導的役割を規定する憲法条項を削除した。
天安門事件を支持したホーネッカー書記長の下の東ドイツ国民は、ハンガリーを経由して西ドイツに脱出した。一九八九年十月から十一月、ホーネッカーは辞任し、党政治局員も総退陣し、内閣も総辞職し、十一月九日、ベルリンの壁が崩れた。十二月には、憲法の、党の指導性規定が削除された。
357 チェコスロバキアでは、共産党と政府を批判し、複数政党を要求する運動が発展し、ヤケシュ書記長が辞任し、連邦議会は「共産党の指導的役割」規定が削除された新憲法を制定した。十二月、チェコスロバキア共産党は、一九六八年の軍事介入の誤りを認め、政府はソ連軍の撤退を要求して交渉を開始した。チャルファ首班(共産党)の国民和解政府が樹立され、フサク大統領に代わってハベルが選出された。
ポーランド、ハンガリーに続き、十一月末から十二月初めにかけて、東ドイツの政府と人民議会、ブルガリア共産党も、チェコスロバキアへの侵略の誤りを認めた。
一九八九年十二月四日、ソ連、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアの五カ国の指導者は、一九六八年の軍事介入は「主権国家チェコスロバキアの内部問題への干渉であり、非難されるべきである」と声明した。
ソ連政府も軍事介入の誤りを渋々認める声明を出したが、ソ連共産党中央委員会は、一九九一年の党解体まで誤りを認めなかった。
358 一九八九年十一月、ブルガリアでは、三十五年間その地位にあったジフコフ書記長が辞任し、十二月、自由選挙と党の指導性条項の憲法からの削除の方向が確認された。
一九八九年十二月、参議院本会議で消費税廃止法案が野党による賛成多数で可決されたが、衆議院では審議されないまま廃案とされた。
359 参議院での与野党逆転のもとで、日本共産党も加わった野党六会派が、被爆者年金支給、死没者保障などをもりこんだ原爆被爆者等援護法案が、四年ぶりに共同提出され、可決されたが、自民党はこれを葬った。
感想 社会党が多数を取ればこういう状況が生まれるということを共産党も認識すべきだ。
ルーマニア共産党はかつてチェコスロバキア侵略に反対していたが、チャウシェスク政権は天安門事件弾圧を支持した。
チャウシェスク政権は、一九八九年八月、ポーランドでの「連帯」主導政権の成立を阻止するため、ワルシャワ条約機構が「統一した行動をとらなければならない」との声明をワルシャワ条約機構各国に伝えた。この事実は、一九八九年九月から十月はじめにかけて明るみになった。
一九八九年十一月下旬、自民、公明は、ルーマニア共産党大会に際して、チャウシェスク礼賛のメッセージを送った。ルーマニアは日本共産党の批判メッセージの一部を削除して公表した。ルーマニア共産党大会は、共産党・労働者党の国際会議を提唱したが、その内容を日本共産党には伝えず、他の党には、天安門弾圧支持とポーランドへの干渉の提起であった。
360 一九八九年十二月、ルーマニアは、ティミショアラで民主化を求める住民を武力で弾圧した。
一九八九年十二月二十二日、チャウシェスク政権は人民の怒りによって崩壊し、マネスク元外相を首班とする救国戦線による新政権が成立した。
一九九〇年一月、ルーマニア救国戦線評議会は、ルーマニア共産党の非合法化、及びその是非を問う国民投票の実施を決定したが、日本共産党はそうした措置は、民主主義に反すると表明し、最終的にこの決定は撤回された。
361 一九八九年二月、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了したが、シュワルナゼ外相は、「当時の法制度と党内規範、市民的規範の違反」としただけで、民族自決権の侵害には触れなかった。
一九八九年十月、ソ連は、一九七九年の日ソ共同声明に反して、志賀多恵子を招待した。
ゴルバチョフは論文「社会主義思想と革命的ペレストロイカ」を発表したが、これは、マルタ島での米ソ首脳会談に先立って、協調路線のシグナルであった。
不破はこれを批判し、「新しい思考」がスターリン以来の覇権主義に無反省であること、現代の帝国主義・資本主義を美化し、資本主義と社会主義の社会構造の共通性を強調し、全文明的メカニズムの名の元に、搾取関係と帝国主義の概念も消滅させていること、社会民主主義の経験をたたえて、それをソ連社会主義刷新の手本の一つとすることを提唱していることなどを批判した。
一九八九年十二月、ブッシュ・ゴルバチョフ会談。
362 会談は、「世界は冷戦という一つの時代を脱出しつつある」ことを確認したが、NATOやワルシャワ条約機構の解体の方向を提起せず、アメリカ主導であった。
会談後、ブッシュはパナマへの軍事侵略を開始した。
一九八九年、党は、キューバ、アイルランド、オランダ、ニカラグア、コンゴ、モザンビーク、ニカラグア(訪日)、PLO(アラファト議長、訪日)、ユーゴスラビアを訪問した。
364 一九九〇年一月、自民党の小沢幹事長が「決戦の年」と号令し、海部首相も体制選択論攻撃の材料探しに東欧を歴訪した。財界は自民党に二百億円から三百億円の選挙資金を拠出した。
党は党名の意義とこれを変更する理由が全くないことを解明した。
一九九〇年一月、本島等長崎市長が右翼によって銃撃された。
再開された国会はいきなり解散された。一九七二年以来十八年ぶりに党首公開討論会が開かれた。海部首相は「社会主義か自由主義かの体制選択は世界的にも勝負があった」としたが、不破委員長は「自由と民主主義の問題と、資本主義か社会主義かの問題を混同させるもの」と反論した。
365 一九九〇年二月、総選挙が行われた。総選挙は、社会主義、共産主義崩壊論、体制選択論などの攻撃の中で闘われた。民社党、公明党、一部の社会党の候補者も、共産主義は時代遅れと叫んだ。
選挙結果
自民 共産 社会 公明 民社
-25= 27→16 +51= -11 -12
安定多数 土井ブーム
得票率 -1.02%
得票数 522万票
366 支持者の中には、日本共産党支持から社会党支持に回る傾向も生まれた。
一九九〇年三月、海部・ブッシュ会談。国会開催中だったが、前年の対米誓約について大きな進展がなかったことから、電話でブッシュに呼び出されて訪米した。「ブッシュホン」(週刊誌)
不破委員長は衆院で、自民党の先輩たちが、戦前、自由と民主主義を弾圧する側に立った歴史的事実をどう反省するのかとただした。
367 一九九〇年三月、八中総開催。
八中総は、社会主義を、学説、運動、体制の三つの見地から見ることの必要性を明らかにした。この見地は、ソ連などの体制崩壊を科学的社会主義の学説や運動と直結した攻撃する「共産主義崩壊」論への攻勢的な反撃の力となった。
八中総は、消費税廃止という一点での党派間の共闘を要望する大衆的政治組織の結成を呼びかけた。
368 感想 このページの冒頭部分からは、具体的内容が見えてこない。
一九九〇年二月、ソ連共産党拡大中央委員会総会は、政治綱領草案で、スターリン、ブレジネフ型のソ連憲法における共産党の指導的役割条項廃棄し、複数政党制への移行を容認した。不破委員長はこれを「当然」とした。
一九九〇年三月、人民代議員大会は、大統領制を導入する憲法改正案を採択し、ゴルバチョフが初代大統領になった。しかし覇権主義克服は棚上げにされた。
一九九〇年三月、リトアニア最高会議が、ソ連邦からの独立を宣言すると、ゴルバチョフ政権は、ソ連軍戦車をリトアニアの首都に進駐させ、独立派のリトアニア共産党中央委員会を占拠した。
「新しい思考」路線は、社会党だけでなく、創価学会・公明党も美化した。ゴルバチョフ政権は、文鮮明をモスクワに招待して、「世界言論人大会」の開催に協力し、国際勝共連合を美化した。
369 一九九〇年二月、世界平和評議会(世評)は、規約を改定し、米ソ協調をすすめる「和解」プロジェクトが提案され、ソ連平和委員会は、「平和と和解のための連合」と改称した。
一九九〇年二月、ニカラグアの大統領選でサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)のダニエル・オルテガが敗れ、野党連合(UNO)のビオレッタ・チャモロが当選した。ブッシュはゴルバチョフがオルテガ
への援助を中止してきたことに感謝した。
一九九〇年四月、『平和と社会主義の諸問題』誌編集評議会は、経済的理由で、一九九〇年六月号を最後に、『平社』誌の廃刊を決定した。同誌一九九〇年二月号に、日本共産党による「新しい思考」批判の論文がはじめて載せられたところだった。
一九九〇年三月、イタリア共産党は、社会民主党化を決定した。朝日新聞は、日本共産党もこれに見習えとした。イタリア共産党は軍事同盟を容認する社会民主主義への屈服であり、世界の進歩の流れに合致しなかった。
一九八九年から一九九〇年にかけて、ルーマニア問題を利用して、日本共産党はルーマニアの国内問題に無批判であったという攻撃が行われた。
370 共産主義崩壊論が連日マスコミで展開され、一九九〇年四月、NHKスペシャル「社会主義の二十世紀」は、一九一七年のロシア革命や社会主義の全歴史は、失敗に終わった実験だとし、失敗の源流はレーニンにあったとした。
党は、ロシア革命とレーニンの個々の事例や命題を絶対化しないことを明らかにした。
不破委員長は、主権在民と普通選挙権など民主主義の点でも科学的社会主義の創始者たちが先駆的に闘ってきたことを解明した。
371 科学的社会主義館の展示をした。
来日したウルグアイ、キューバ、インド(マルクス主義)代表と会談した。
一九九〇年六月、参議院本会議で、日本共産党、社公民各党、連合参議院、参院クラブなどの反対多数で、消費税を織り込んだ一九九〇年度予算案を否決したが、両院協議会を経て、原案通り成立した。
予算成立後の衆議院税制特別委員会で、消費税廃止関連法案(社公民連提出)、消費税「見直し」法案(政府・自民党提出)の審議が始まり、政府・自社公民連の水面下の折衝を経て、衆議院で、消費税廃止法案を否決、廃案とし、「見直し」法案を可決した。党は、社公民連の消費税廃止法案に賛成、税制再改革法案に反対し、自民党の「見直し」法案に反対した。
372 「見直し」法案は参議院で廃案となった。日本共産党を含む「税制問題等に関する両院合同協議会」が設置された。
一九九〇年五月、米ヤイター農務長官から「コメ市場を絶対に自由化しないと言明していることは約束に反する」と脅しの書簡が来ていることが明らかになった。
一九九〇年六月、公明党は一部自由化を容認した。
一九九〇年四月、フェリス女学院大学の弓削達学長宅に銃弾が打ち込まれた。キリスト教系四大学の学長連名で、一九九〇年秋の大嘗祭など新天皇即位の儀礼に反対していた。
一九九〇年四月、第八次選挙制度審議会(会長=小林与三次読売新聞社長)が、衆議院への「小選挙区比例代表並立制」の導入と政党法制定の検討を盛り込んだ答申を行った。審議会は、二十七人中十二人がマスコミ関係者だった。マスコミのほとんどが権力に取り込まれた。答申は自民党の「政治改革大綱」(一九八九年五月)の内容を引きうつしたものだった。
373 一九八九年五月、党首会談で、不破委員長は、一九八六年五月の国会決議に基づく衆議院定数是正をすべきだと強調した。また政党への国庫補助を理由に政党規制を行うことに反対した。社公民各党も小選挙区比例代表並立制に反対した。
党の試算では、自民党が四十パーセントの得票率で、七十六パーセントの議席(五百一中の三百八十一)を得ることになった。
一九九〇年五月、盧泰愚大統領が来日した。海部首相は、植民地支配とその責任への本質的な反省はなく、天皇は国政に関する権能を有しないという憲法の規定に反して、「痛惜の念」を述べた。
党は、天皇の元首扱いをやめるよう政府に要求した。
一九九〇年は、国際メーデー百周年に当たる年であった。国際メーデーは、エンゲルスの指導した第二インターナショナルによって開始された。
一九九〇年四月、京都府知事選が行われ、党は、自社公民、社民連、進歩各党の推す荒巻候補に敗れ(奮闘し)た。
374 一九九〇年四月、横浜市長選で、党は、自公民系候補と社会党候補と闘い、敗れた。
一九九〇年六月、参議院福岡選挙区の補欠選挙で、社会党候補が自民党候補を破った。党は、候補者を立てなかった。翌年の県知事選で社会党との共闘ができていた。
一九九〇年七月、いっせい農業委員選挙が行われ、党公認、推薦あわせて五百四十七人が当選した。中間選挙と選任をあわせると千人を越えた。
一九九〇年七月、西側主要国首脳会議は、政治改革と経済発展を全世界に指図した。また核兵器と軍事同盟に固執し、経済援助をテコに、ソ連、東欧諸国、発展途上国への干渉と介入の意図をあらにした。
375 一九八九年七月、志位和夫初期局員が、ネオ・マルクス主義*研究・批判を行った。
*ネオ・マルクス主義とは、ソ連・東欧圏の共産主義諸国の解体以後に生じた、マルクス主義のルネサンスから影響を受け、マルクスの著作にもどって、理論的知見を探求するアプローチである。
一九九〇年六月、党は、「科学的社会主義、資本主義を考える講演会」を開いた。
大会議案の討議も行い、議案への意見が五百六十七通集まった。商業マスコミは、「赤旗」評論特集版に載った大会決議案に批判的な意見だけを取り上げ、党内から指導部批判が噴出したとする報道・論評を展開した。党大会を前に『日本共産党への手紙』が出版された。
一九九〇年七月、「赤旗」は、佐々木一司社会科学研究所事務局長の論文で、加藤哲朗、藤井一行らを批判した。彼らは、日本共産党を、中国や北朝鮮の党、鄧小平、金日成、ホーネッカー、チャウシェスクなどと同列に論じた。
加藤哲朗は、反党分子や、ニセ「左翼」暴力集団の流れに属した人物とともに、「フォーラム90s」をつくった。志位和夫書記局員は、覇権主義の害悪の無視、科学的社会主義の国家論や前衛党論などの基本原則の放棄、社会民主主義や各種ブルジョア理論への期待と幻想など、加藤の「東欧市民革命」論の誤りを指摘した。
第十九回党大会に向けて、公安調査庁 ―― 日本の秘密警察筋の、党の指導部問題に的を絞った反共攻撃で、党の動揺、混乱を画策しようとする作戦があった。一九九〇年一月号の『公安情報』が、新年の「赤旗」新春インタビューで、宮本議長が党大会にふれなかったことを大袈裟にとりあげ、大会は、「ポスト宮本」問題が焦点だとし、「この問題をマスコミが大きな関心事として話題とする」と煽っていた。
376 公安調査庁筋に詳しいベテランの公安記者は、大会後、「日本共産党と論争して勝てるものはどこにもいない」と書いた。
ソ連では、物価の値上がり、インフレがすすみ、基本的な食料品さえ入手が困難になった。一九九〇年七月、シュワルナゼ外相は、「軍事費が全予算の四分の一を占め、わが国を破産させたと述べた。
一九九〇年七月、ソ連共産党は、分派を容認し、すでに政党としての統一した実体を完全に失っていた。
377 一九九〇年三月、ブッシュ大統領は、「国家安全保障戦略」の中で、ソ連の対米協調路線への転換と東欧旧政権の崩壊を、封じ込めの成功と位置づけ、これから軍事同盟を強化し、これからの軍事力行使にはソ連は含まれず、第三世界になるだろうと述べた。また日本もこの戦略に巻き込む方針を明らかにした。
一九九〇年七月、第十九回党大会を開催。
378 宮本議長は冒頭発言で、五十年問題は、徳田球一らによる分派の形成と、民主集中制の破壊が問題の本質であるとした。
冒頭発言は、NATOへの移行、資本主義の復活の動きも見られる東欧の事態を、民主革命の方向、社会発展の必然的段階などと規定することは科学的ではないとし、「東欧民主革命」論を批判した。
不破委員長は、「社会主義崩壊」論が、ソ連とその支配体制を社会主義の代表扱いするものであるとした。
大会は、レーニンが指導したロシア革命の最初の時期と、スターリンによる逸脱が開始されてからの時期とを区別し、レーニンの死後、対外的には、大国主義・覇権主義、国内的には、官僚主義・命令主義へ転換したことを解明し、日本共産党は、科学的社会主義の生命力が体制的にもかつて発揮されたことに確信を持ちつつ、体制としての本格的な前進は今後の課題であるとした。
感想 それでは先送りではないのか?夢を追い求め続けながらの。
379 大会は、帝国主義陣営がいぜん軍事同盟や核抑止力制策に固執し、ソ連もアメリカに追随しているとし、社会主義と資本主義の社会構造の共通性を強調するまでに進化を遂げた「新しい思考」の誤りを批判した。
また、大会は、米ソが軍事力均衡論に立って軍拡競争を続けてきたために、アメリカでは双子の赤字(財政赤字・貿易赤字)が激増したとした。
大会は、東欧の激変に関連して、社会民主主義を今日における社会進歩の主要な担い手とみなす風潮を批判し、「世界の社会民主主義の大勢を支配している軍事ブロック肯定、反共分裂主義*の方向に人類の未来を見出すことは根本的な錯覚」と批判した。
*感想 軍事ブロックは頷けるとしても、反共分裂主義では批判になっていないのではないか?
大会は、日本共産党以外の野党が反共反革新路線に固執し、現状の打開方向をしめす力を失っているとした。
大会は、大会までの期間の他に、大会後も引き続き十月末までの期間を特別月間として、機関紙読者拡大に取り組む方針をはじめて提起した。これは未達成の目標達成のためと、大会後の急落を防ぐためであった。
380 分派の禁止と民主集中制の不可分の組織原則は、五十年問題の経験から確立したものであり、スターリンや毛沢東らの専制政治は、民主集中制を暴力的に破壊して強行されたものであること、社会における複数政党制と、科学的社会主義を理論的基礎とする政党内部組織の問題とを区別すべきであること、*(科学的社会主義という)客観的真理の認識の一致は可能であることなどを解明した。
*感想 これもこじつけではないか?
大会は、「社会主義・共産主義崩壊」論や体制選択論などの攻撃を打破していく活動を重視した。
大会は、あらたに十五人の名誉幹部会委員と三十八人の顧問を承認した。
大会最終日の一中総は、書記局長に志位和夫、中央委員会副議長に立木洋、幹部会副委員長に、上田耕一郎、小笠原貞子、金子満広、高原晋一を選出した。
大会後、商業マスコミは、民主集中制や指導部を変えないのは時代遅れだとした。
381 招待者だけを対象とした党創立六十八周年記念招待会に、『週刊朝日』記者が身分を偽って不正入場した。『週刊朝日』は謝罪を拒否し、「赤旗」への攻撃記事を掲載し、不正入場の事実を否定した。
宮本議長は、「宮本退陣」論がふりまかれるのは、反動勢力が、東欧諸国の指導者が高齢で長期にその職を独占していた現象になぞらえて、路線問題抜きに組織の要である(宮本)議長を「古い」、「長い」と攻撃することが、日本共産党の混乱に有効だと判断しているからだと指摘し、長年にわたって運動し、訓練された人間が、党の発展に役立つかぎり奮闘しようと考え、党の大勢がそれを認め、党規約に定める方法で正式に選出したことは、非難されるに値しないと強調した。
*感想 それでも新陳代謝は必要ではないのかな?
382 党内の一部に、科学的社会主義に確信を失った日和見主義が現れた。それは、ソ連・東欧のように日本共産党も路線や体制を変えろと主張し、民主集中制を否定し、前衛党の役割を否定する、不可知論の立場から客観的真理を否定した。
一九九〇年八月、田中角栄の出身地、新潟県西山町長選で、共社推薦の候補が当選した。
383 一九九〇年八月、イラク軍がクウェートを侵略し、同国を併合した。
国連安保理事会は即時無条件撤退を要求する決議と、イラクへの経済制裁を実施する決議をした。
イラクは、撤退条件として、パレスチナ問題の解決と、米軍のサウジアラビアからの撤退を要求した。(「リンケージ」論)
アメリカは、サウジアラビアの「要請」を工作し、防衛を名目に、ペルシャ湾に軍隊を派遣した。その後アメリカは、防衛行動の範囲を超え、イギリス、フランスや親米的なアラブ諸国の軍隊を集めて、「多国籍規軍」を組織し、国連に代わって軍事的制裁権があるかのように振舞い始めた。
日本政府は、アメリカ指揮下の多国籍軍の活動を、国連の活動と意図的に同一視し、自衛隊の海外派遣をねらった「国際貢献」策を検討した。
党は、国連憲章と憲法の平和的原則に即した対応を求めた。
海部内閣は、ただちに多国籍軍への支援額を十億ドルと決定し、直後に十億ドルを上積みし、イラク周辺諸国への二十億ドルの融資を決定した。
アメリカは、日本の人的貢献を強く要求した。海部首相は、一九九〇年八月の訪米前は、「自衛隊の海外派兵は考えていない」としていたが、九月、自衛隊の平和協力隊参加を柱とした「国連平和協力法の考え方」を発表した。
384 訪米した海部首相は、ブッシュ大統領との会談で、多国籍軍への戦費分担や自衛隊の海外派兵を含む人的貢献まで公約した。
党は、アメリカやイギリスが、イラクとの経済的取引を脱法的に続け、ソ連が、イラク軍への軍事援助や自国内でのイラク将兵の軍事訓練まで継続し散ることを糾弾した。
385 一九九〇年十一月、参議院愛知選挙区補選は、自社共三つ巴であり、自民党候補が勝利したのだが、社共をあわせると、自民党候補よりも十七万票多かった。*
*感想 つまり、社共共闘は不成立。もったいない。それに関して何のコメントもない。
自民党は「国連平和協力法」案に関する、野党を抱き込むための協議機関を設置した。公明党は、「国連平和協力法」の時限立法化と自衛隊員の休職・出向参加を主張し、社会党は、自衛隊派遣に反対したが、同党の「『国連平和協力機構』設置大綱」には、自衛隊参加を除けば、自民党案とほぼ一致する「国連平和協力隊」の設置が含まれていた。民社党は海外派兵推進の立場だった。
一九九〇年十一月、共産党を除く協議が、自社公民で開かれ、最終的に、社会党を除く三党が、「自衛隊とは別個に国連の平和維持活動(PKO)に協力する組織をつくる」新立法作成に着手することになった。
「国連平和協力法」案は、廃案となった。しかし、自公民の「自衛隊とは別個」の組織という公約は、一年半後にはほごにされた。
一九九〇年十一月、自衛隊海外派兵反対の集会に二十万人が集まった。
386 一九九〇年十一月、政府は国民主権の原則に反する新天皇の「即位の礼」・大嘗祭を行った。新天皇明仁は、前天皇を、「いかなるときにも国民と苦楽を共に」と美化した。
一九九〇年十一月、沖縄県知事選挙で、日本共産党、沖縄社大党、社会党、社民連推薦、公明支持の大田昌秀候補が、自民、民社推薦で四選をねらう西銘順次候補を破り、十二年ぶりに革新県政を奪還した。
一九九〇年十一月、二中総開催。
宮本議長は冒頭発言で、湾岸危機で血を流すべきだという自民党流の見方に対して、国連憲章の基本目標を強調した。
冒頭発言は、学者、研究員党員が、研究上の意見が党と必ずしも一致しない場合でも、党員としての誇りをもつなら団結できるし、意見の不一致を敵対的矛盾のように考えて、溝を広げてはならないと強調した。*
*私も賛成だ。共産党もこういう度量の大きい態度を続けて欲しいと思う。
387 不破委員長は、「新しい思考」の「国家関係の脱イデオロギー化」論の誤りが、イラクの覇権主義という現実によって破産したことを明らかにした。*
*ここの意味するところは、後の記述で簡単に触れられているように、ソ連がアメリカの軍事力行使の外交に追随することを指しているのか?
二中総では、ほとんど無収入の常任活動家への年金制度確立のため、「全国常任活動家の定年退職援助(年金)制度の創設について」が決定された。
一九九〇年十二月、地方議員全国集会を開催し、聴濤弘政策宣伝委員会責任者などが報告した。
388 会議は、現職地方議員の離党などの事例が、日和見主義と結びついていることを指摘した。
一九九〇年六月、党は、来日中のカンボジアのフン・セン首相と会談した。また、代表団をカンボジアとベトナムに派遣した。
一九九〇年八月、国連常任安保理事国は、「カンボジア紛争の包括的政治的解決のための枠組み」を出していたが、この協定案には、ポル・ポト派の破壊行為や大量殺戮の防止の言及がなく、現政権に代わって国連が行政権を管理するなど、国連憲章に反し、カンボジアの主権、民族自決権を侵害する内政干渉的なものだった。
会談で、カンボジア人民革命党は、すでに現政権が、国土の九十三パーセントを統治し、国連がこれに関わることはできないと述べ、ベトナム共産党も、カンボジア人民だけが、カンボジアを変革することができると述べ、内政干渉に反対した。
その後、ポル・ポト派を含むカンボジア当事者各派間や周辺諸国、国連安保理五常任理事国との交渉が続き、一九九一年十月、「カンボジア紛争の包括的政治解決にかんする協定」(パリ協定)が調印された。協定は、停戦や外部からの軍事援助の禁止などで合意したが、ポル・ポト派を野放しにする危険性を持ち、全土の大部分を実効支配していた現政権を弱体化し、国連の平和維持活動(PKO)である、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)にカンボジア直接統治を実行させるものであった。これは国連の名で民族自決権を侵犯しようとする大国の圧力と、カンボジア人民党(一九九一年十月、カンボジア人民革命党から改称)・プノンペン政権との妥協の産物だった。
自民党は自衛隊の海外派兵実現の画策を強め、パリ協定以後、プノンペン政権は、アメリカや日本の支配層に接近する政策をとるにいたった。
389 一九九〇年九月、自民党の金丸元副総理と社会党の田辺副委員長が政府関係者を伴って北朝鮮を訪問し、三党共同宣言に調印した。
共同宣言は、国交回復のために正式交渉を始めるとしたが、北朝鮮への謝罪、償い問題をめぐり、混乱し、そのため、金丸元副総理が、南朝鮮を訪問して弁明した。
党は、南北朝鮮それぞれが自国政府を唯一の政府とする立場を放棄することを、国交正常化の基本にすべきであるとした。
一九九〇年九月、一九九一年春のゴルバチョフソ連大統領訪日(予定)を前にして、不破委員長は、「日ソ領土交渉にあたっての提言」を発表し、その中で不破は、スターリンの覇権主義的な領土併合の誤りを指摘し、サンフランシスコ平和条約での千島関連条項を不動の前提にしないこと、解決の基本に、十九世紀後半の両国の平和的交渉の到達点を置くことなどを提起した。
390 一九九〇年十一月、国連安保理は、イラクが一九九一年一月十五日までにクウェートから撤退しない場合、「クウェート政府に協力している加盟諸国」に、「あらゆる必要な手段をとる権限を付与」する決議をした。これは紛争の平和的解決を基本とする国連憲章に反し、「多国籍軍」が国連の名をつかいながら、国連の指揮監督をうけずに武力行使を行うことを容認するものであった。ソ連は、賛成し、中国は、天安門事件以後の経済制裁を改めてもよいというアメリカの甘言にさそわれて棄権した。
日本では、多国籍軍への十億ドルの追加資金の支出を含む補正予算が、自民、民社の賛成で可決された。海部内閣は、安保理の武力行使容認決議を支持し、資金協力は、平和回復のためとか、資金提供は実力行使ではなく、集団的自衛権の行使にあたらないとした。
一九九〇年十月、東ドイツが西ドイツに併合される形で、ドイツが統一した。
一九九〇年七月、ゴルバチョフ大統領はコール西独首相との会談で、ソ連への経済援助と引き換えに、統一ドイツのNATO加盟を容認した。
391 党は、旧東独の進歩的諸党や民主勢力への抑圧、抹殺の動きに注目していると述べた。ドイツや東欧の事態には、社会進歩にも民主主義にも反する各種の逆流があった。
ワルシャワ条約機構が解体に向かう中、一九九〇年十一月、全欧安保協力会議(CSCE)が開かれ、NATOの存在、核戦力など西側の軍事的優位を東側が認める結果となった。
党は、ウルグアイ訪問、ブラジルとの会談、アイルランドとの会談・会見、北アイルランド訪問、フランス訪問などを行った。
一九九一年一月、ソ連軍がリトアニア共和国を、続いてラトビア共和国を武力弾圧した。両国とも少数派のソ連派の共産党が「国家救済委員会」をつくり、ソ連軍を導入した。アメリカは湾岸問題への対応でソ連の協調姿勢を維持するために、批判を控え、日本政府も遺憾の意を表明するにとどまった。
392 党は、ソ連問題で国際問題学習会を開いた。
一九九〇年の第十九回臨時大会で、科学的社会主義と無縁な社会民主主義政党化の方針を決めていたイタリア共産党は、一九九一年一月~二月、解党した。主流派は左翼民主党を名のり、反対派の一部は離党し、一九九一年末、共産主義再建党をつくった。この党は、ソ連共産党に追随し、社民化に反対した。議長コスッタは、一九八〇年代半ばに、ソ連共産党から資金援助を受けていた。
一九九一年一月九日、ベーカー米国務長官とアジズ・イラク外相との会談が、また、デクエヤル国連事務総長とフセイン大統領との会談が行われた。
一月十四日、フランスは、まずイラク軍の撤退を、次にパレスチナ問題の解決を提案し、安保理十五か国中、十一カ国が支持し、多国籍軍に参加しているエジプト、サウジアラビア、ドイツ、イタリアも賛成し、イラク国連大使も歓迎したが、アメリカはリンケージ論*だとして反対し、イギリス、ソ連も同調したため、フランス案は安保理の正式な協議にもかけられなかった。
*リンケージ(linkage, 結合)論(p. 383参照)とは、おそらくイラク問題とパレスチナ問題とを結合するということなのだろう。「Wikimatome.org/wiki/リンケージ論」によれば、もともとは、仏案ではなく、フセイン案。アラブ領土からのイスラエルの撤退に応じて、クウェートからイラクが撤退するというもので、イスラエルが反対し、アメリカがそれに従った。ソ連・仏は理解を示した。フセインが一九九〇年八月十二日に提案した、とある。フランス案はこの解決順序を逆にしたものだろう。
党は、武力行使容認の期限後でもフランス案で平和的解決につとめるように、安保理十五カ国に打電した。
一九九一年一月十七日未明、多国籍軍はイラク軍への攻撃を開始した。
394 海部首相は、武力行使や財政支援を支持し、あらたな財政的支援と自衛隊の中東派遣の検討を主張した。
社会党は、イラクとアメリカを同列にし、「どっちもどっち」論に傾き、自民党から攻撃された。
一九九一年一月、海部内閣は、三か月分の戦費の二割、九十億ドルの拠出と、難民救済の名目で特例政令による中東地域への自衛隊機派遣を決めた。
不破委員長は二月、政府は国際移住機構(IOM)から自衛隊機派遣の要請があったとするが、事実は単なる問い合わせで、IOM職員が避難民輸送には民間機の方が安全だと述べていること、ヨルダン政府が軍用機の受け入れを拒否していることなどを指摘した。首相は、国際機関から正式な要請がないかぎり避難民救済の政令は発効しないと答え、結局、自衛隊機派遣は実施されなかった。
湾岸戦争では、イラク、サウジアラビア、イスラエルで民間人が爆撃で死んだ。また、イラクのクウェート油田爆破による原油流出と油田火災で、環境が破壊された。
自民党は小沢幹事長名で都道府県連会長に、湾岸戦争反対する意見書や決議には、徹底して対抗するように指示した。
395 西岡総務会長は、憲法の平和原則を維持することは、世界が血を流しているときに、自国のことのみに専念する「一国平和主義」だと攻撃した。
党は、イラク軍の撤退後、一九九〇年十二月に国連総会が採択した、パレスチナ問題を含む中東問題の国際平和会議を開催するという解決方法を示した。
一九九一年二月二十四日、多国籍軍による地上戦が開始された。
二月二六日、多国籍軍は、クウェート市内を制圧し、イラクは、国連決議を受け入れることを表明し、二十八日、湾岸戦争が終結した。
一九九一年三月、ブッシュ大統領は帰還兵士歓迎集会で、「歴史上もっとも激烈で、もっとも成功した航空攻撃」だと賞賛し、ベトナム侵略戦争も正当化した。
396 日本では、アメリカによる力の支配を冷戦後の世界秩序だとして肯定し、日本も人的・物的貢献もすべきだとする論調も現れた。
党は、イラン・イラク戦争で米ソがイラクに軍事援助したこと、パレスチナ問題の解決をアメリカが妨害し、フセインのクウェート侵略の口実にされたことを指摘した。
湾岸戦争を帝国主義戦争とは言わない理由は、中心目的がイラクのクウェートからの撤退であり、目的の達成によって戦争が終結したこと、国連による戦争ではないが、形式上国連決議により、国連の支持の下に行われたことなどである。しかし、党は、湾岸戦争を「国連の戦争」であるかのように主張して日本の協力を当然視する自公民を糾弾した。そして、戦争を急いだアメリカとソ連の無原則的な同調の背景を解明した。*どのように?
海部内閣による、多国籍軍への九十億ドル支出を盛り込んだ九十年度第二次補正予算は、自公民戦争協力ブロックによって衆議院を通過した。
397 党は、海部内閣の戦費支出合憲論に対し、従来の自民党政府が武器輸出三原則は合憲の平和主義にのっとったものだと主張してきたことを取り上げ、同じ武器でも武器そのものを輸出すれば違憲、武器購入資金の提供は合憲とする矛盾を指摘した。
公明党の補正予算賛成は十三年ぶりのことであった。*
*ということはそれまではすんなり賛成していなかったと言うことか?
その後アメリカは九十億ドルが円安で目減りしたとしてさらに五億ドルを要求し、日本は、多国籍軍に百十五億ドル、周辺国に二十億ドルと合計百三十五億ドル(一兆七千五百五十億円、一ドル=百三十円)の戦費を負担した。
一九九一年一月、蔵原惟人名誉幹部会委員が八十八歳で死去した。
地方自治体が税金を積立金として溜め込んでいる問題を、全国の自治体が溜め込んだ基金の総額は、一九八九年度で、十五兆九千億円、国民一人当たり、十三万円であった。
398 福岡知事選では、保守陣営が二つに分かれた。社会党県本部は、連合福岡が日本共産党を排除する必要があるとすると、それに同調し動揺したが、二月、日本共産党と社会党とは基本政策で合意した。
東京都知事選では、自民党東京都本部推薦の鈴木知事に対して、自公民本部は、湾岸戦争で「血も汗も流すような覚悟が求められる」と発言した、磯村尚徳NHK特別主任を推薦した。公明党は、湾岸戦争への貢献問題で、鈴木不支持を決めていた。社会党は、革新統一を拒否し、独自候補をたてた。日本共産党は、畑田重男を推薦した。*四つ巴戦であった。
国政で自公民連合を組んだ公明党と民社党は、地方政治でも、三十都府県、全人口の七割を占める地域で自民党と連合した。社会党も国政上は自民党と一定の違いはあるが、地方政治では、全人口の四割を超える十九府県で自公民連合に追随した。
一九九一年四月、福岡で革新県政を守り、道府県議選では、党は、九十八人(前回比-二十三)が当選し、群馬、高知では野党第一党になった。政令市議選では八十六議席(前回と同数)を獲得した。
399 選挙結果
道府県議選挙
自民 共産 社会 公明 民社
+161 -23 -98 五人落選 -22
政令市議選挙
自民 共産 社会 公明 民社
+23=244 ±0 -7 -12 -14
都知事選では鈴木知事が四選され、小沢幹事長が辞任した。
感想 この結果を見ると、湾岸戦争で血を流すということが国民に支持されたということか?
全国の市区町村が、地方行革の名のもとに溜め込んだ金額は、八兆三千億円、住民一人当たり七万円であった。(p. 397参照)
国民の一部に、「人柄や実績はいいけれど日本共産党では」という声があったが、「日本共産党だからこそ」と反共宣伝を克服した。
400 一九九一年四月、地方選挙後半戦の結果
一般市議選
自民 共産 社会 公明 民社
-98 -1=970 -47 -65 -53
東京特別区
自民 共産 社会 公明 民社
-10=157
町村議選
自民 共産 社会 公明 民社
-33 +19=850 -43 -88
党が推薦・支持した市区町村長は十三人が当選した。
一九九一年二月、三宅島村長選挙で、寺沢候補は惜敗したが、村議選では、NLP(米空母艦載機夜間離着陸訓練)反対勢力が、一議席増やし六人となった。
一九九一年四月、ゴルバチョフ大統領が来日した。史上初のソ連最高指導者の来日であった。日ソ共同声明は、一九五六年の日ソ共同宣言における歯舞・色丹の返還問題さえ確認されず、北千島を交渉対象から排除することに合意した。
401 ゴルバチョフは、スターリンによる領土併合を「軽率に修正してはならない」と、現状に固執した。そして海部首相や他党はそれに迎合した。
海部首相は、経団連の平岩会長らの掃海艇派遣の意向を受け、ペルシャ湾に海上自衛隊を派遣する方針を固めた。一九九一年四月、自衛隊掃海部隊がペルシャ湾に向かった。海部内閣は、創設以来はじめての自衛隊海外出動を、閣議決定で強行した。
海部首相は東南アジア諸国連合の五カ国を歴訪し掃海艇派遣の弁明をしたが、フィリピン「ニュークロニクル」紙は、「戦後憲法による平和主義、不干渉主義が終わった」とした。
402 一九九一年四月、食料品非課税問題抜きの消費税「緊急措置」案で、自社公民、社民連、連合参議院が合意し、成立させた。自民党案は、選挙公約の食料品非課税から後退し、国民の負担軽減は、消費税全体の一・五パーセントであった。*
*わずかながら非課税範囲などを改定したようだ。(nta.go.jo 消費税)
一九九一年四月、在日米軍駐留経費負担にかんする新特別協定が、自公民、連合参議院の賛成で承認された。日本は在日米軍駐留費の半分を負担することになり、基地で働く日本人労働者の本給と在日米軍の水・光熱費のすべてを日本側が肩代わりすることになった。
一九九〇年十一月、公明党は、二十年間かかげてきた「社公民路線」を下ろし、自民党との連立政権を追及する方針を確認し、参議院で過半数を割った自民党を助けた。
社会党は、国連平和協力法案、九十億ドル戦費分担、自衛隊海外派兵などで政府に反対したが、暫定予算に賛成した。一九九一年五月、社会党は、都知事選で対決した鈴木都政の与党に変身した。(p.398)
403 高齢化がすすむ*中、一九九〇年十一月、日本医療労働組合連合会が、二十一年ぶりに全国統一ストライキをした。
*以前はどこかで、高齢化にはならないと言っていたはずだ。
一九九一年五月に閉幕した国会で成立した八十四の法案に、公明・民社はそのすべてに賛成し、社会党は、反対したのは三本だけで、賛成率九十六パーセントであった。日本共産党の賛成率は、五十七パーセントだった。
一九九一年五月五日、志位書記局長は、武力による威嚇や行使を永遠に放棄し、一切の戦力保持を禁じた日本国憲法の平和原則は、国際紛争の平和的解決という国連憲章の基本精神をさらに発展させ、「平和理念の理想としては、国際的にも先駆的意義を持つ」と協調した。
404 一九九一年五月、三中総を開催した。
宮本議長は冒頭発言で、党の実績を宣伝する「党押し出し」と「党の存在意義」の証明とは別のカテゴリーであると述べ、歴史的に検証された客観的真理としての日本共産党の存在意義、存在理由を語る必要を強調した。
一九九一年五月、自民党は、自衛隊そのもののPKO参加を求めようと、小沢一郎前幹事長を会長に、党内機関の「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」(通称=小沢調査会)を設置した。これは小選挙区制、憲法改悪を視野に入れていた。
405 一九九一年六月、政府は、「国連平和維持活動等協力法案」(PKO法案)の原案を作成した。それは、新組織として「平和維持活動協力協力隊」をつくり、自衛官の参加と武力行使をともなう国連平和維持軍(PKF)への参加を認めるものだった。
一九九一年五月、自民党は、衆議院への小選挙区制導入を柱とする「政治改革」関連三法案(公職選挙法改正=小選挙区制法案、政治資金規正法改悪案、政党助成法案)と小選挙区制区割り案を党議決定した。
公職選挙法改正案は、衆議院選挙に小選挙区比例代表並立制を導入し、自民党が四割台の得票で八割近くの議席を独占するものであった。マスコミは、「実行しかない政治改革」(「読売」社説)、「後戻り許されない政治改革」(「毎日」社説)、「改革ポーズだけでは困る」(「朝日」社説)など、支持または好意的論調であった。
自民党は、共産党以外の野党を、安保・外交などで「現実路線」に取り込もうとし、特に社会党に揺さぶりをかけた。
406 社会党は、「政権交代可能な責任政党」をうたい文句に、「自衛隊の存在を直視」「安保条約の存在を直視」するという党改革案をまとめた。選挙敗北の責任を取って土井委員長が辞任し、七月、田辺誠副委員長が委員長になった。
一九九一年六月、全国革新懇が結成十周年をむかえ、世話人総会を開催した。革新懇運動とは、日本共産党と革新無党派勢力との共同による統一戦線運動であり、かつて社会党の一員であった幹部・活動家が少なからず参加してきた。
二年後の一九九三年八月、細川政権が成立したが、自民党政治の推進派が多数を占める政治情勢になった。
生協運動では、日生協本部の活動方針から核戦争阻止や核兵器廃絶の課題が欠落し、事業運営への組合員の参加を軽視し、共同購入を否定的に扱うようになった。
407 党は、大企業の横暴な行為を規制する闘いを進めてきた生協運動の伝統を守ることを期待する態度を表明した。
一九九一年七~八月、全労連第五回定期大会が開催された。全労連の活動は、連合傘下の労組を含めた広範な広がりを見せた。
一九九一年七月、第十七回西側主要国首脳会議がロンドンで開かれた。国連を中核とする新国際体制を呼びかけたが、これは世界の諸問題をアメリカ主導で帝国主義大国本位に処理しようとするものであった。ゴルバチョフ大統領はロンドンを訪問し経済援助を要請し、ソ連の経済的屈服と資本主義化の姿勢を示した。
三中総がよびかけた、党を学び、党を語る運動と関連し、党中央は、「赤旗」読者を広げるべく、「赤旗」宣伝ビラの活用を強調した。
408 一九九一年七月、ワルシャワ条約機構は政治諮問委員会で解散を決定した。
一九九一年七月、ソ連共産党中央委員会総会は、科学的社会主義の世界観の放棄、社会民主主義への変節、資本主義の美化・待望論などを特質とした綱領草案を採択した。
ゴルバチョフ書記長は、「兵営的共産主義モデルそのものの危機」「数十年にわたって党と社会に押し付けられてきたモデルは、戦略的な敗北をこうむった」と認めた。
綱領草案は、「党諸政綱のまわりに結集する自由」をうたい、派閥の自由を認め、民主集中制の組織原則を放棄した。
一九九一年八月十九日、ソ連でクーデターが発生した。ヤナーエフ副大統領を大統領代行にし、六ヶ月の非常事態と国家非常事態委員会の全権掌握を宣言した。同委員会は、反対する政党や大衆団体の活動停止、集会、デモ、ストライキの禁止、マスメディアへの統制を発表した。
二十一日未明、クーデターに反対する市民に武力行使を行い、犠牲者が生まれた。
409 不破委員長は、国家非常事態委員会は憲法に規定されていないと指摘した。
クーデターは三日間で失敗した。ソ連共産党がクーデターに関与していた疑いがあった。
八月二十四日、ゴルバチョフがソ連共産党書記長を辞任し、同党中央委員会の解体を勧告した。中央委員会書記局もその勧告を受け入れ、ソ連共産党の解体は決定的となった。
日本共産党は、八月二十五日、不破委員長の談話を発表し、ソ連共産党の解散は、「日本共産党が歴史的巨悪として批判してきた大国主義・覇権主義の破産を証明したもの」であり、「科学的社会主義と無縁であったその体質と路線の破産宣言は、当然」とした。
一九九一年八月三十一日、宮本議長は、「ソ連共産党の解体を、双手を挙げて歓迎する」と述べた。常任幹事会も同様の声明を発表した。日本共産党は、三十年余(1991-30=1961)にわたってソ連の大国主義・覇権主義と闘ってきた。
410 日本のマスコミは、「日本共産党、結束固めに躍起」(「日経」)、「重くのしかかるソ連共産党解体」「ショック度表す懸命の反論(「朝日」)とした。
常幹声明は、世界的な帝国主義、覇権主義の害悪の清算を目指すとした。そして、クーデターの失敗、ソ連共産党の解体というソ連の事態を、「十月革命に続く第二の革命」などと社会の法則的発展の必然的段階のようにみることは、正しくない*とし、レーニンの指導のもとで体制としての社会主義の先駆性を示したロシア革命の世界史的意義は清算主義的に否定されるべきではないとした。
*大国主義・覇権主義は破産するのが当然とする立場からすれば、必然性を語ってもいいのではないか。
自民党など反動・反共勢力と商業ジャーナリズムは、「ソ連=本家」論やソ連共産党と日本共産党とを同一視する「同根」論などを唱えた。「率直な『総括』が必要な共産党」(「読売」)、「共産党声明への三つの疑問」(「朝日」)、「日本共産党の居直り」(「産経」)などとした。
党は、商業ジャーナリズムが、一九六〇年代に、志賀一派をもてはやした事実を上げ、覇権主義との闘争の意義を理解できない商業ジャーナリズムの弱点が、日米安保条約によるアメリカの覇権主義的な対日支配を擁護する立場と結びついていることを明らかにした。
411 宮本議長は、ソ連の党との間には何の同根も、共通の理念もないと述べた。
党は、ソ連覇権主義と闘ってきた党の先駆性と歴史的な存在意義を全党員と支持者に伝えた。
一九九一年九月、バルト三国の独立が、クーデター失敗後に新設されたソ連国家評議会によって承認された。
412 一九九一年九月、バルト三国と共に、南北朝鮮の国連加盟が、国連総会で承認された。
一九九一年七月、南アフリカ共和国のアフリカ民族会議(ANC)が、三十数年ぶりに同国内で開かれた。ANCと南アフリカ共産党が合法化され(1990.2)、ほとんどのアパルトヘイト法が廃止(1991.6)された。しかし、断圧立法が存続し、政治犯が残された。
ANCは、各国の民主運動との対等・平等の相互連帯の立場をとらず、資金援助の大小を、連帯の基準としていた。一九九一年九月、ANC東京事務所は、解同や連合からの財政支援に飛びつく一方で、日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(日本AALA)などが加入する「アパルトヘイトの廃絶を目指す南ア人民支援連帯基金」に対して、援助を取り消したなどとして、干渉・攻撃を行った。
日本AALAは、ANCの非難が事実に反すること、ANCが全解連*との合意*を覆し、解同と歩調を合わせて攻撃したことなどをANC側に伝えた。*ANCが「反差別国際運動」*から離脱するという合意。*「反差別国際運動」とは、解同の国際的な組織。(「解同の国際的な市民権をかすめとるための策動の場」)
*全解連(全国部落解放運動連合会)とは、正常化連(部落解放同盟正常化全国連絡会議)の後身。(ウィキペディア)
413 一九九一年六月、野村、大和、日興、山一の四大証券などが大企業などに株価急落の損失を補填していたことが判明した。また、イトマン・住友銀行事件*、富士、埼玉、東海銀行などが不正融資を行っていた*ことも発覚し、政財官の癒着が暴露された。
*イトマン・住友銀行事件。住友銀行から伊藤萬を経由して三千億円以上の資金が暴力団関係者など闇社会に消えていった。一九九一年七月二十三日、協和総合開発研究所の社長から伊藤萬の筆頭常務となった伊藤寿永光、雅叙園観光の債権者の一人であった許永中、住友銀行の役員から伊藤萬の社長になった河村良彦*を含む六人が逮捕・起訴された。河村や伊藤は、許永中から、市価の二~三倍であることを知りながら、美術品や貴金属・骨董品などを購入した。問題の背景には、会社経営に伴う損失回復があったようだ。
*住友銀行の磯田一郎会長が河村の後ろ盾となった。
*富士、埼玉、東海銀行の架空預金証書事件。融資の担保となるだけの銀行預金があるという架空の預金証書を発行し、その証書を担保に金融機関から融資を引き出すという詐欺事件である。
一連の不正事件の背景となったバブル経済は、日本独占資本の強蓄積を基礎とし、一九八五年のプラザ合意に基づいて、自民党政府が強行した対米追従の超金融緩和政策が引き金となっている。日本の大企業や大銀行・大証券会社は、株や土地の投機で莫大な利益を上げたが、国民は、三十兆円をこえると計算される預貯金金利を失い、大都市を中心とする地価高騰で苦しめられた。
政府・自民党は、高齢者の医療負担を増大させる老人保健法、借家人の権利を弱める借地借家法の改悪を強行した。
一九九一年六月、雲仙・普賢岳の火砕流被害に際し、政府は湾岸戦争での戦費負担による予備費の逼迫を口実に、必要な財源措置をとらなかった。
414 政府は、自公民三党幹事長・書記長会談をうけて、一九九一年九月、「国連平和維持活動等に対する協力に関する法案」(PKO法案)と、国際緊急援助隊派遣法「改正」案を閣議決定し、国会に提出した。
海部内閣は、平和維持活動協力隊に派遣された自衛隊の武器使用は、武力行使とは別だとし、武力行使を伴う平和維持軍(PKF)への自衛隊の参加についても、基本方針に基づくPKF参加は憲法に反しないとした。
自公民三党の賛成でPKO法案は、継続審議となった。
小選挙区制導入を柱とする「政治改革」関連三法案について、政府は、一九九一年九月、衆議院本会議での趣旨説明を強行した。
日本共産党以外の野党も政府案に反対し、政府・自民党は、「与野党協議」機関を設置し、小選挙区制導入の火種を残そうとしたが、政治改革三法案は廃案となった。
一九九一年八月、党は、「スポーツの民主的な発展のため」の政策を発表した。
415 三大都市圏の市街化区域内農地への宅地並み課税の強化(一九九二年四月から)を前に、党は、一九九一年十一月、「宅地並み課税の実施と生産緑地*指定に関する緊急提案」をした。これは自社公民による生産緑地法と地方税法の改悪で、三大都市圏の市街化区域内の農地に宅地並み課税が強要されるのに対して、負担軽減措置を提案したものだった。
*生産緑地。大都市圏の一部自治体では、生産緑地指定を受けることで、固定資産税の基礎となる評価が農地並みになる措置が受けられる。ただし、一旦指定をうけた土地は、一定の要件を満たす場合以外は、解除できない。生産緑地法は、昭和四九年(一九七四年)六月一日に制定された。
一九九二年の同法改正で、一部自治体が指定した土地については、固定資産税は農地並みに軽減され、また相続税の納税猶予が受けられる「生産緑地制度」が適用された。
415 一九九一年十月、第二回全国協議会を開催し、五中総も開いた。
宮本議長は冒頭発言で、自民党の一部有力幹部を中心に、「連合」幹部も巻き込み、アメリカへの従属的関係を基本に維持しながら、日本がアジア・太平洋地域に政治的、軍事的に乗り出す「特別構想」がすすめられており、保革の対立は古い立場であるとして、「国際社会で通用する日本」を合言葉に、当面は小選挙区制の導入による「政界再編」を共通の目標とし、必要な場合には憲法の明文改悪も目論まれていると警告した。
417 不破委員長は、ソ連で長く「国定の哲学」とされてきた「マルクス・レーニン主義」は、スターリンの命題を絶対化した教条、ドグマの体系、現実をそれに当てはめて裁断する「型紙」型の理論であるとした。
党の目指す大企業の民主的規制の課題は、「日本の国家独占資本主義が現実に準備している仕組み、経済の全国的な規制や管理の仕組みを、民主的な権力の元で人民的に活用しよう」という方針であるとした。
418 五中総が二全協の決定を承認し、二全協決定が全党にとって義務的なものとなった。
五中総で宮本議長は、比例代表選挙を軸とするよう強調した。
一九九一年十一月、常任幹部会は、機関紙陣地三割増を目標とすることをよびかけた。
一九九一年十月、宮沢喜一元副首相、渡辺美智雄元政調会長、三塚博元外相の三候補で自民党の総裁選挙が行われ、国際貢献で竹下派の要求を認めた宮沢が、同派の支持を受けて自民党総裁となった。
宮沢内閣は、首相、渡辺副首相をはじめ、十人の閣僚がリクルート疑獄に関与した汚職政治家であった。
不破委員長は、宮沢内閣が、アジア・太平洋地域の盟主たらんとする自民党政治の「特別構想」の具体化の先頭に立つ内閣であると指摘した。
419 不破委員長は、三年前、竹下内閣当時蔵相辞任を余儀なくされた宮沢首相のリクルート疑惑の真相をせまった。宮沢が蔵相辞任後、リクルート社から宮沢への一億円の政治献金問題が明らかになっていた。
宮沢首相は、不破委員長の質問に対してわずか五分間の答弁で済ませ、リクルート疑惑や侵略戦争などで、答弁を回避した。
武装した自衛隊を軍隊である平和維持軍(PKF)に参加させるPKO法案と憲法との矛盾は明白であった。
政府は、武器使用の判断は自衛隊の現地指揮官や協力隊本部でおこなうので、武力行使はありえないと述べた。
これに対し党は、PKOの作戦規定と訓練内容を示した「国連文書」が、平和維持軍の指揮権は国連の軍司令官が排他的に有し、平和維持軍が国連の指揮下で武力行使を行うと明記していることを示した。
420 自民党と公明党は、一九九一年十一月、衆院特別委員会でPKO法案と、国際緊急援助隊派遣法改正案の採決を強行した。
十二月二日、自民と社公民との個別折衝の後に開かれた衆院特別委員会で、自民、公明両党の賛成多数で(衆院本会議での)採決の確認が行われ、翌三日、衆院本会議で、PKO法案は、自民、公明の賛成で、国際緊急援助隊派遣法改正案は、自公民の賛成で可決された。
PKO法案に関して民社党がはずれたことは、自民党にとって痛手となった。国際平和協力特別委員会の後藤正夫委員長(宮沢派)が辞任した。
PKO法案は参議院では継続審議となった。
社会党は、自民党と、宮沢首相のリクルート疑惑解明の証人喚問を棚上げし、次期通常国会でも証人喚問を要求しないとする密約を結んでいた。
一九九一年十一月、公明党第三十回大会は、「統治党的な結果責任」をかかげ、自民党との連合路線を宣言した。
日蓮正宗(総本山・大石寺、阿部日顕法主)は、十一月七日、同宗最大の信徒団体である創価学会に対して解散を勧告し、二十八日に、破門を通告した。
解散勧告書は、言論出版妨害問題、選挙時の替え玉投票事件、宮本委員長宅電話盗聴事件などの反社会的行為、公明党議員のリクルート事件など贈収賄事件、ルノワールの絵画取引疑惑*などをあげ、創価学会の資質や責任を批判した。
*「アート・フランス」は別の画廊*から計二十一億円でこの絵の販売を委託され、三菱商事に三十六億円で売却した。この段階で生まれた十五億円の不明金が問題とされている。
*「フランス人」は架空の人物で、実際は、「アート・フランス」の持ち物であった。
三菱商事デベロッパー事業部の部長代理、創価学会副会長・八尋頼雄(やひろよりお)、(創価学会の)東京富士美術館副館長・高倉達夫、売主の画廊「アート・フランス」社長・石原優、取引を仲介した陶磁器店「立花」役員・立花玲子、千代田区の投資顧問会社社長・金子暁、豊島区の経営コンサルタント会社相談役・宮田宋信、新宿区の建設会社元役員・森一也の計八人が「桂の間」で取引に立ち合った。
破門通告書は、「宗教団体の目的からも著しく逸脱する」と批判した。
単なる宗門内部の内紛ではなかった。
421 社会党は、一九九一年十二月、「社会民主主義勢力の総結集」や「リベラルな立場に立つ政治勢力」との提携を打ち出し、田辺委員長は、「リベラル」な政治勢力とは、自民党の主流派・竹下派であるとした。政治方針は、アメリカを「アジア地域の安全保障と経済的発展を追及する共同のパートナー」とし、対米追従の自民党に接近した。
一九九一年十二月、党常任幹部会は、運動の主体的な再検討の中心問題として、科学的社会主義の学説を生きた指針として社会の法則的な発展を促進する立場の貫徹をあげた。
422 一九九一年九月にブッシュ大統領が、十月にゴルバチョフ大統領が、それぞれ、戦術核兵器の撤去・廃棄、戦略核兵器の緊急発射体制の解除、あたらしい戦略核兵器の開発中止などの核戦力削減措置を発表した。
一九九一年九月、フィリピン上院は、米軍基地の存在は、時代錯誤、植民地と国際干渉の道具と宣言し、米比新基地条約の批准を否決し、フィリピン政府も、十二月、アメリカに対して一年以内の基地撤去を正式に通告し、約百年にわたって存続したフィリピンの米軍基地は撤去されることになった。
日本は、百四十三ヵ所の米軍基地を提供していた。
一九九一年十二月二十一日、グルジアを除く十一の共和国が首脳会議を開き、「独立国家共同体」の創設と連邦廃止を決定した。*
*これに先立って、一九九一年十二月八日のベロヴェーシの合意がある。ロシア(エイリツィン)、ウクライナ、ベラルーシが、ソ連から離脱し、CIS(独立国家共同体)を樹立した。
また、一九九一年十二月二十五日、ゴルバチョフがソ連大統領を辞任した。
党常任幹部会は、ソ連邦の解体と共に崩壊したのは、科学的社会主義から逸脱した体制であって、科学的社会主義の破綻を意味しないとした。
423 一九九一年十二月、EC加盟十二カ国の首脳会議が、オランダのマーストリヒトで開かれ、一九九九年一月までのEC単一通貨の発行、外交・国防面での共通政策の実施などを盛り込んだ欧州同盟条約(マーストリヒト条約)を採択した。
しかし、経済統合をめぐる独・仏と英との利害の対立や、加盟各国の主権との矛盾、NATOとの対立などの問題があった。
ソ連共産党の解体後、ソ連共産党による国際的な資金援助が暴露され、アメリカ共産党、フランス共産党、ポルトガル共産党などアフガニスタン侵略でソ連を支持してきた党や、イタリア共産党、イギリス共産党などに、一九八七年度一年間で、二千万ドルが援助された。
スターリン時代の一九五〇年に、「左翼労働者組織援助国際労働組合基金」がつくられ、覇権・追従関係は、ゴルバチョフの時代まで続いた。
一九九二年二月、ロシア連邦最高会議は、十年間に二億米ドル以上、すべての大陸の九十以上の党に財政援助が行われていたことを公表した。また旧ソ連共産党のヤコブレフ元政治局員は、「わが国の権力体制を正当化するために必要だった。ソ連共産党の大会で各国の共産党の指導者たちが賛辞を寄せる報酬として、何百万もの金を支払った」と発言した。
一九九一年、党は、ノルウェー、アイルランド、ニカラグアを訪問した。また来日したポルトガル共産党代表団と会談した。
424 一九九二年一月、ブッシュ大統領は、「アメリカは冷戦に勝利し」「世界の指導者となった」とし、覇権主義をあらわにした。一九九一年十二月、ブッシュ大統領は、ベトナム侵略を英雄的な戦争とし、広島、長崎への原爆投下を正当化した。
ブッシュ政権は、一九九二年一月の一般教書や二月の国防報告などで、世界の「不確実性」、「不安定性」を安全保障上の新たな敵とし、世界のあらゆる地域紛争に「世界の憲兵」として軍事介入すると宣言した。そして戦略的核抑止力の維持・近代化*、米軍の前方展開と海軍基地の再編強化、同盟国の一層の負担増など、これまでの軍事政策を踏襲した。
*戦略核兵器の開発はやめると言っていたのではなかったか。(p. 422)
一九九二年一月の日米首脳会談では、「世界の憲兵」戦略に沿って、日本の、米軍前方展開戦略への協力と一層の負担増が決められた。そして「グローバル・パートナーシップ」の名のもとに、日米軍事同盟を地球規模に拡大・強化することで合意した。貿易でも、日本側は市場開放を求めるアメリカ側の要求の多くを認めた。
一九九一年十二月、南朝鮮の元従軍慰安婦や遺族らが日本政府に謝罪と補償を求めて提訴した。日本政府は当初、「民間業者が連れ歩いた」としていたが、一九九二年一月、日本軍の関与を示す文書が防衛庁防衛研究所図書館で発見され、政府も軍の関与を部分的、限定的なものとしつつも、認めざるを得なくなった。政府は言葉では一応謝罪しつつ、補償問題は全く取り上げなかった。
425 宮沢首相は、一九九二年一月、南朝鮮でデモ隊に包囲された。その後、朝鮮、中国、フィリピン、インドネシア、シンガポール、マレーシア、オランダなど、占領地域の女性を日本軍が強制連行した事実が明らかになり、侵略戦争の責任を認めない歴代自民党政府への国際的な批判をよびおこした。
一九九二年一月、党幹部会は、二つの決議を全党員が読了すべき文書と確認した。
426 一九九二年二月六日、映画監督、俳優、日本共産党代表らが発起人となって、一九九一年十一月に死去した今井正監督追悼の集いを開いた。今井監督は日本共産党員だった。不破委員長は、今井正監督が、ソ連、東欧の失敗で社会主義はもうだめなのではとの質問にも、「僕はそう思いませんね。あと百年、二百年たてば、本当の社会主義になる」「日本は日本独特の社会主義になればいい」と答えたことを紹介した。
一九九二年一月、宮沢派事務総長で、北海道・沖縄開発庁長官だった阿部文男代議士の、鉄骨加工メーカー「共和」からの資金供与疑惑が発覚し、東京地検特捜部は、阿部を収賄容疑で逮捕した。共和から政界に流れた資金は総額で十数億円、受け取った政治家は十数人とされ、塩崎潤元総務庁長官に二千万円、鈴木善幸元首相に一億一千万円の流れが明らかになった。
党は衆議院で、過労死問題の要因である長時間・過密労働をなくす労働基本法の再検討や、白内障治療の眼内レンズの保険適用などを要求した。白内障治療の眼内レンズの保険適用は、一九九二年四月から実施されるようになった。
また党は、従軍慰安婦問題での政府間交渉の開始と保障措置を求めた。
参議院で党は、企業の社会的存在を理由に、企業献金を正当化する宮沢首相に、企業・団体献金の禁止を求めた。また党は、PKOへの自衛隊参加を合憲だとする渡辺外相を批判した。
衆院予算委員会で不破委員長は、「三点セット」の名義問題*を取り上げ、代筆を禁じた銀行業務マニュアルもあげて、宮沢首相の説明の矛盾を追及した。
*三点セットの名義問題とは、…
強制執行に必要な三点セットは、債務名義、執行文、送達証明書。
競売における三点セットは、担保競売・担保執行、不動産競売の手続。
428 「共和」事件に続いて、東京佐川急便の巨額債務保証問題が浮かび上がった。自民党幹部や閣僚多数、野党議員も含む百数十人から二百人以上の政治家に、五百億円から一千億円の資金が流れたといわれた。党独自の調査によると、総額五千二百七十八億円にのぼった。東京地検特捜部は、一九九二年二月、東京佐川急便の渡辺広康社長ら四人を逮捕した。佐川急便による政界工作は、強引な企業合併、労働基準法を度外視した長時間労働のおしつけ、巨額の脱税、免許獲得やトラックターミナル建設などの許認可をめぐる行政への働きかけなど、反社会的行為や違法行為とそのもみ消しに使われてきた。また、九月の渡辺被告らの初公判で、竹下政権成立の際、金丸らが、佐川急便からの裏金と広域暴力団の力を借りたという疑惑が表面化した。
党は、関係した金丸信、小沢ら政治家の責任を追及した。*党は、十月の金丸議員辞職に至る世論を盛り上げた。
*一九八七年、日本皇民党(稲川会系)は、自民党次期首相最有力候補である竹下登に対して褒め殺し攻撃をしていた。恩義のある田中角栄を、竹下が裏切ったことが原因であった模様。竹下は、これに対処するため、腹心の金丸信に相談。金丸は、佐川急便の渡辺広康社長に、暴力団稲川会会長石井隆匡との仲介を依頼。都内某ホテルで、竹下、金丸、渡辺、小沢一郎が善後策を協議し、竹下は田中邸を訪れた。門前払いとなったが、事件は沈静化した。
佐川急便疑惑では、民社党への献金、公明党への資金供与も明らかになった。社会党では、安恒良一議員などへの疑惑が続発した。社会党は倫理綱領を発表したが、企業によるパーティー券購入を容認した。田村誠私鉄総連委員長も同様の疑惑や暴力団との交際が指摘された。
一九九二年二月、参院奈良選挙区保稀有選挙で自民が敗北し、「連合」候補が当選した。「連合」は、参院選後、自民党の一部と大連合を組むとしていた。共産党系の候補は支持を伸ばしきれなかった。
429 一九九二年二月、全国都道府県委員長会議を開催し、その内容は、三月の六中総に引き継がれた。
会議で不破委員長は、社会主義の下での国有化万能論の立場に立たず、国有化の条件の成熟や国民的合意の可能性、大企業への民主的規制との関係なども考慮しながら行うとした。
一九九二年三月、参院宮城補選で、社会党は立候補を見送り、自共対決となった。
一九九二年四月、大阪・大東市長選挙で日本共産党が推薦する候補が、自社公民推薦の現職を破った。
参議院沖縄選挙区では、一九九二年一月、沖縄社会大衆党が同党委員長(島袋宗康)を党公認で革新統一候補にするように要求し、社会党も同様の主張したが、党は、無所属の候補による革新共闘を求めた。
430 四月、日本共産党沖縄県委員会、沖縄社大党の島袋宗康委員長、社会党とで政策協定が成立し、島袋が無所属で出馬を表明した。
一九九二年二月、自民党の「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」(小沢調査会)が、「安全保障問題に関する提言」の素案を提示した。提言素案は、自衛隊の海外派兵の障害となる従来の政府の憲法解釈の廃棄を求め、「国際的安全保障」の名目で、自衛隊の海外出動を合理化する憲法解釈を打ち出した。これは、PKO,国連軍はもとよりた「多国籍軍」への自衛隊参加も可能とした。
読売新聞社は、一九九二年一月、「読売憲法問題調査会」(会長=猪木正道・元防衛大学校長)を発足させ、海外派兵合理化の憲法改悪キャンペーンを開始した。
一九九二年三月、「ニューヨーク・タイムズ」紙が、米国防総省の「国防計画指針」を暴露した。
「指針」は、アメリカに「脅威をもたらす新しいライバルの出現を防止すること」を国防戦略の第一の目的に掲げ、アメリカだけが「すべての間違ったことを正す責任を負う」とし、国連の枠を超えて独自に行動すると宣言した。
これは、集団的安全保障体制の実現をめざした国連憲章と対立するものだった。
431 上田副委員長は、一九八〇年年代の後半からつよめられた人権無視の税務調査や強権的な徴税攻勢を批判し、申告納税制度を維持するために、納税者の権利を明記した憲章(基本法)制定をよびかけた。
つづいて不破委員長が、過労死を生む長時間・過密労働を解消するための、労働基準法の改正を提案した。「一日拘束八時間、完全週休二日・週四十時間労働制」の実現、残業時間の上限を、一日二時間、月二十時間、年百二十時間と法定化することなどを内容とした。
一九九一年十二月、ガットのドンケル事務局長が、ウルグアイ・ラウンド(包括貿易交渉)の最終合意案を発表し、農業分野で例外なき関税化=完全自由化をうちだした。宮沢内閣・自民党は、これを高く評価し、受け入れ不可避とした。
一九九二年三月、六中総を開催した。
432 不破委員長は、人類の進歩に誰が貢献し、誰が逆らったか、資本主義万歳論が通用するかなどについて解明した。
宮本議長は、社会主義の青写真をおしつけるようなことをしない党の立場を貫くかぎり、日本共産党は不滅だと強調した。
一九九二年三月、党は、『紹介日本共産党』を発行し、歴史・日本・世界・理論・組織・財政などに関して、党の全体像を解明した。
433 不破委員長が、一九六八年の日朝両党会議の経過をはじめて明らかにし、その中で、宮本書記長が北朝鮮の武力による南進政策を批判したことを公開した。
自民党と社会党は、一九九二年四月、金日成の八十歳の誕生祝いに代表団を送り、金日成神格化と金正日への権力世襲のための儀式に追従した。
「大運動」目標の九十パーセント弱の到達点にとどまったが、五月度、全都道府県党組織で機関紙増勢をかちとった。
一九九二年六月、沖縄県議選挙で、党は、六議席から二議席に後退した。体制選択論への反撃が弱かったためである。
434 参院で継続審議となった自衛隊海外派兵法=PKO法案について。
公明党の市川書記長は、二月の衆院予算委員会で、PKO法案は原案のままにしておいて、付則でPKF(国連平和維持軍)本体への自衛隊参加を凍結するよう提案した。
政府自民党は、パリ協定に基づいて一九九二年三月に発足した国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の明石康国連事務総長特別代表を衆院PKO特別委員会へ参考人として招致し、つづいて、来日したカンボジアのフン・セン首相と宮沢首相や社会党、公明党の党首が会見し、フン・セン首相を通じて自衛隊のカンボジア派遣を要請させた。
国連文書では、訓練と給与以外の活動上の問題に関して、事務総長から命令を受ける国際連合の司令官からのみ命令を受け、出身国の政府からは受けないと明記されていた。(「PKO標準作戦規定ガイドライン」)
党は、自衛隊とは別個に国連の平和維持活動に協力する組織をつくるとした、一九九〇年十一月の自公民三党合意にそむいて自衛隊海外派遣を強行する三党の態度を糾弾した。
さらに党は、国連カンボジア暫定統治機構とパリ協定(一九九一年十月)が、カンボジア人民の民族自決権の侵害とポル・ポト派の策動の余地を残す問題点を指摘した。
435 一九九二年六月、自公民三党のPKO法案の再修正案が参議院に提出された。再修正案は、PKFの本隊業務への自衛隊の参加を凍結するとした。これは、PKF本体と後方とを区別するというごまかしと、政府案にはなかった「国連平和維持隊」への参加という規定を盛り込み、自衛隊派遣の国会承認を七日以内に議決するとし、国会の審議権を侵害した。
一九九二年六月、公表された国連PKO特別委員会の報告書は、紛争の早い段階での軍事監視員や平和維持軍の派遣をうたい、紛争当事者の合意を絶対条件としないという議論が明記されていた。国連PKO特別委員会に代表を出席させ、PKO変質を促進する議論を行っていた日本政府は、これを国会にも国民にも隠し、PKOは武力行使には関係ないとごまかした。
自公民三党は、一九九二年六月五日未明、突然動議を提出し、PKO特別委員会の審議を中断し、下条特別委員長は、騒然とした中で、動議と合わせて法案の採決も行ったと強弁し、同日、参議院本会議の開会を強行した。
日本共産党と社会党などは、牛歩戦術を行い、四泊五日の徹夜国会を展開した。
社会党は、参院の最終局面で、議長不信任決議案の提出に同意せず、PKO法案そのものの記名投票では、牛歩をしなかった。一九九二年六月九日、PKO法案が参議院本会議で可決され、衆議院へ回付され、衆議院でも、自公民三党は、日本共産党などの本会議での趣旨説明の要求を拒否し、ただちに衆院PKO特別委員会に付託した。
436 一九九二年六月十一日、衆院特別委員会で東中議員がPKOに関する国連文書の提出を要求し、宮沢首相はできるだけ早く提出すると約束した一時間後に、林PKO特別委員長は、質疑打ち切りを宣言し、採決を強行し、自公民三党は、十二日、衆院本会議を強行した。
自公民三党は、発言時間制限動議、質疑終局動議、討論終局動議を乱発した。また衆院議長は、牛歩に対して一方的に投票時間を制限し、一部議員の投票の権利を奪った。
自民党は、閣僚や内閣不信任決議案などを封殺するために、宮沢内閣信任決議案を提出し、公民両党もこれに賛成した。
一九九二年六月十五日、PKO法案の採決が衆院本会議で強行された。社会党、社民連は、所属する全衆院議員の辞職願を提出して本会議を欠席した。不破委員長はその戦術を敗北主義だと批判した。衆院議長は、議員総辞職は認められないとした。
一九九二年六月十八日、国連のガリ事務総長は、安全保障理事会に報告した。その報告は、従来のPKFより重武装の「平和強制部隊」の創設、予防外交を強調し、「予防的平和維持軍」の展開の際には、全紛争当事者の合意を基本としながらも、一方の政府の要請だけでも安保理が派遣を決定できると提案した。
自民党などは、PKO法成立後、海外派兵の道を拡大し、憲法改悪に踏み込み、一九九三年、憲法改悪を目ざす小選挙区制が争点になった。*
*一九九四年に成立した。「政治改革四法」
437 カンボジアでは、ポル・ポト派が武装解除を拒否して停戦違反を繰り返し、PKO法発動の条件のないことは明白だった。
一九九二年七月、金丸副総裁は、実態調査のための超党派代表団の派遣と、PKO法に関する各党協議会設置を提案した。党は参加の意志を表明した。
しかし政府・自公民は、これらの合意をうやむやにして超党派調査団派遣を拒否し、政府調査団の報告を利用して、「カンボジアに戦争はない、紛争もない」(公明党市川書記長)などと実体を偽った。
感想 マルクス主義は、本質的・現象的・現実的には、他人から他人のものを横取りすることを合法化するものである。しかし、資本主義も、合法的に、他人のものを横取りしていることも事実であり、ただそれが、そう見えない、慣習化していて不思議と感じないだけの話である。
あと、創意という問題がある。マルクス主義は資本主義以上に、生産活動において創意を刺激するのだろうか?あまりにも単刀直入に人のものを横取りするから、生産に励むという意欲がそがれてしまわないか?しかしだからと言って資本主義のように、人を騙すのが上手な人、悪く言えば詐欺上手がうまい汁を吸うことが許されるわけがないだが。2016年9月30日(金)
一九九二年三月、小選挙区制導入を目論む政治改革協議会が開催された。
自民党は、日本共産党を除いた、自社公民四党の国対委員長会談を開き、そこで議論の枠や結論をきめ、協議会に結論を押し付けた。自民党の梶山国対委員長は、日本共産党排除は長年の慣習であり、なんら痛痒(つうよう)を感じないとした。
438 自民党は、ポスター規制、選挙期間短縮などを含め、実務者会議に下ろしたいと提案した。自社公民は、部分的課題の実務者会議への付託を強行した。
一九九二年六月、農水省は、コメ輸入自由化に耐え得る農家の育成の名のもとに、大規模農家だけを重視し、三百数十万戸の農家を切り捨てる、「新しい食料・農業・農村政策の方向」(新政策)を発表した。
一九九二年六月、埼玉県知事選挙で、革新統一で出馬を表明していた畑和知事が、選挙直前に突然、出馬を辞退した。自民党の土屋義彦参院議員が出馬表明したが、自民党で内紛が起き、「土屋降ろし」がおきた。マスコミは、金丸副総裁が調停し、社会党などとともに、畑、土屋双方の出馬辞退を勧めたと報じた。土屋は辞退しなかった。社会党は革新統一の呼びかけを拒否した。党は、高橋昭雄候補をたてた。
439 一九九一年六月、ユーゴスラビアでは、クロアチア、スロベニアが連邦からの独立を宣言し、民族紛争となった。
一九九二年三月、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言し、さらに紛争が激化し、武力衝突した。そして停戦の合意がないまま、国連平和維持軍として「国連防護軍」が派遣された。民族浄化論のもとに、それぞれの民族が多数を占める地域で、少数民族を追い出したり、収容所に入れたりした。
一九九二年六月、地球環境サミット(国連環境開発会議)が開催され、気候枠組み条約、生物多様性条約に各国が署名した。経済優先の立場に立つアメリカ、日本、西欧諸国と、貧困からの解放を第一に掲げる発展途上国との利害が対立した。
440 党は、「民活」、リゾートの名による環境・景観破壊の解決を強調し、地球温暖化、オゾン層や熱帯雨林破壊などの元凶である、日本など発達した資本主義国の大企業への規制を主張した。また環境対策の資金は、元凶の大企業の負担を原則とし、竹下首相が提唱し、財界や政府も乗り気になっている環境税に反対した。
一九九二年七月、第十八回主要資本主義国首脳会議(ミュンヘン・サミット)が開催された。「新しいパートナーシップの形成」という宣言は、同盟ブロック体制維持をとなえ、湾岸戦争での国連の役割を強調した。そして、当事者の同意なしに平和維持軍を「予防展開」するなどPKOの性格を変質させるガリ国連事務総長報告を支持した。
党は、ガリ報告とPKO法との乖離を警告したが、宮沢首相は無視した。
(ミュンヘン・サミットでの)経済宣言では、東側ブロックへの資本主義体制の拡大を打ち出し、資本主義化を推進するエリツィン政権を支えることを明確にした。
一九九二年五月十八日、常任幹部会は、山本懸蔵、杉本良吉、国崎定洞に関する、ロシア連邦保安省からの回答を公表した。
山本らは「国家反逆罪」で銃殺刑にされていた。
441 一九九二年六月、一九六七年と一九七二年に、日本社会党の要請に応じて、ソ連共産党が、貿易操作を通じて財政援助を承認していたという疑惑が、ソ連共産党の資料で発覚した。この時期は、社会党が志賀らと結びついて、ソ連と連帯を深め、チェコスロバキア事件で干渉者を弁護していた時期であった。
一九九二年七月の参議院選挙で、自民党は、「社会主義は崩壊」「日本共産党は時代遅れ」と攻撃した。党は、戦前、主権在君と専制政治、侵略戦争への反対を貫いたことなどを明らかにし、反撃した。
自民党は、憲法違反の自衛隊海外派兵を憲法にそった国際貢献と偽った。そして「生活大国」づくりをとなえ、六兆円の「景気対策」などを宣伝し、有権者の歓心を買おうとしたが、その内容は、大企業本位のものであった。
社会党はPKO法反対を掲げたが、各地でPKO推進の民社党と野合した。
公明党は、眼内レンズの保険適用を自党の実績と偽った。
442 党は、一九九二年七月、社会党に対して公開質問状を出し、ソ連時代の「財政援助」疑惑についてただした。
また、著名な元社会党員の労組幹部八人が、日本共産党支持の訴えを発表した。
選挙結果
自民 共産
議席数 69 比例5, 選挙区4(1986)→比例4, 選挙区1(1989)→比例4, 選挙区2(1972)
比例得票数 1496万票 353万票
得票率 7.0%(1989) →7.9%(1972)
社会 公明 民社 社民連 日本新党
議席数 維持 増 低迷・後退 低迷・後退 4
比例得票数 -1170万票 361万票
443 六中総決定の読了率は五割以下であった。
日本共産党を除く野党は、安保、自衛隊問題で自民党に同調し、連合を競い合った。投票率は50・7パーセントであった。
公明党は、高知選挙区で自民党竹下派の候補を推薦し、北海道などでも自民党と連合した。
細川護煕が旗揚げした日本新党は、「既成政党だめ」論だけで、政策が明確でなかったが、マスコミが応援した。佐川急便との関係など財界依存の体質や、人脈的にも、政策的にも、自民党と変わらない第二自民党的な潮流であった。日本新党は、自民党の延命をはかり、「政界再編」推進力の一つとなった。
沖縄選挙区では、革新統一候補が当選し、一人区で唯一自民党を破った。一方「連合」候補は、二十二選挙区で全滅した。
一九九二年七月三十日、党創立七十周年記念招待会で宮本議長は、日本の反共偏見、誤りの底には、中学・高校の歴史教科書で、天皇制と侵略戦争に反対した日本共産党の存在を無視して、すべての政党が解散して大政翼賛会に合流したと書かれているものが多いこと、文部省が検定を通じて明治憲法の下で日本の民主化が前進したと書かせていることがあると指摘した。
党は、八月、文部大臣に対して、明治憲法を美化し、治安維持法など絶対主義的天皇制による国民弾圧の事実を隠蔽する、教育基本法違反の不当な検討の取り消しを要求し、教科書会社に対しても、歴史的事実に反した記述を正すよう申し入れた。二つの出版社が、一九九三年度歴史教科書の記述を改正した。
一九九二年八月六日、党創立七十周年記念講演会を開き、その中で不破委員長は講演の最後に、「科学的社会主義の学説は不滅であり、七十年の歴史の試練を経た日本共産党も不滅である」と述べた。
445 一九九四年一月、第二自民党勢力(日本新党、p. 443)は、自民党と共に、「政治改革」と称して、体制擁護政党の独裁を制度化し、強権政治に道を開く小選挙区制を強行した。
世界の人々の多くは、資本主義的搾取が人類にとって永久であるかのような閉鎖的な史観に安住しておらず、科学的社会主義に基づく社会進歩の展望の有効性は、日々示されている。
下巻読了後の感想
今井正映画監督(p. 426)が、ソ連、東欧の失敗の後で、「あと百年、二百年たてば本当の社会主義になる」「日本は日本独特の社会主義になればいい」と述べたように、この発言は、まさに日本共産党の姿を的確に表現している。『日本共産党の五十年』では、「あと五十年後には」と言っていた。それが二十年後には、百年、二百年となった。つまりそれは一種の夢、見果てぬ夢なのかもしれない。
そして日本共産党は、世界の共産主義運動の中でも、わが道を行く、悪く言えば、偏屈だと思う国もあるかもしれない。しかし、日本共産党はそれを貫いてきた。それには理由がある。戦前のコミンテルンによる「押しつけ」によって悲惨な虐待を受け、戦後は、北京機関による暴力革命の押しつけや、ソ連による、志賀、社会党、小田誠等々様々な人脈を使ったソ連の方針の押しつけなどを受けてきた。それを日本共産党は、邪魔だと思う。中国の暴力路線を採用して、日本の自民党からたたかれたくはない。政府・自民党は、政党法まで準備しているし、盗聴はする、盗撮はする、スパイをいれてくる等々に対して、日本共産党は組織を守らなければならない。日本共産党が世界の共産主義運動の中でわが道を行くのは、日本のような保守的な社会で、戦中・戦後、自ら自由を勝ち取った経験のない日本社会で、反共的アメリカに支配される中で、わが身を守るために暴力的な方針はご法度であるからだ。だから、発達した資本主義国における共産主義運動として党のすすむ道を純化してきたのである。
もう一つ。日本共産党は、一九八〇年の社公合意以降、そして特に、一九八九年以降、東欧やソ連で社会主義政権が倒されてから、実際かなりダメージを受けているはずなのに、空威張りして、ソ連を批判し、自らを美化し、強がっているように思われるのだが、そういう現実離れした現状認識で大丈夫なのだろうか。
たしかに、党員を教育し、党の歴史を学習させ、党の存在意義に自信を持たせ、赤旗購読者を増やすことによって、日本共産党は、一九八九年問題をなんとか乗り切れたのかもしれない。しかし、そこには現実とはかけ離れた夢を現実と思う、いわばキリスト教の千年王国のような宗教的なにおい、強がり、超楽観的な自己美化・自己陶酔が行われ、部外者から見るとこそばゆい感じがするのだ。信じるのだ。党を信じるのだ。そうしないとやっていけないのだ。私もそういう不屈で夢を追い続ける態度に共感する。しかしもっと現実的になり、現実に近づいた方針を打ちだせないものかと思う。そうでないと、支持が一定程度は得られても、大きな部分を取り込むことは出来なのではないだろうか。夢を食べて満足できる人は一定数以上にはならないのではないだろうか。2016年9月19日(月)
もう一つ。戦後当初の「大企業の国営化」から、いつのまにやら「大企業の民主的経営」へと変化しているようだが、そのことについて何等説明がない。それは、一九八九年以来の社会主義陣営の崩壊に伴って反省が加えられ、企業経営の才能は国営では発揮できないということを意識するようになったからだろうか。
経営者の中で、上(共産党)から指図されながら自主的・積極的に経営に取り組もうと思う人は、おそらくあまり多くはないだろうということは頷けることである。共産党の偉いさんがどんなに歴史的に解明をしても、それはただ説明をするだけであり、そのことはなんら良質で安価な製品を生み出すことに寄与しないだろう。共産党は、社会主義となっても、企業家の首根っこを捕まえて大威張りしてはいけないのだ。そういう社会主義であってはならないのだ。搾取や民主的経営を口実に、経営者の自主性を損なわない程度に、共産党がどこまで経営に口出しできるのかという問題である。おそらくあまり大きく口出しはできない筈だ。そういう意味からすると、夢の「社会主義社会」の達成と言うけれども、それはどれほど社会民主主義と違いがあるのかということにならないだろうか。
また「搾取」と言うけれど、一番ひどく搾取されている所に生産活動が集中するのが今のグローバリズムのようだから、民主的な経営と言っても、一国だけでは完結しない問題もある。
もう一つ。複数政党制の許容について日本共産党は自らそれについて語っていながら、ソ連や東欧でそれが許容されると、社会主義の放棄だと批判するが、それでは首尾一貫していないのではないか。しかし、三百六十八ページでは「当然」としているが、確かイタリア共産党の社民党化の時には批判していたはずだ。*
*この件に関する本文関連ページを列挙すると、下記のとおりである。
「一九九〇年三月、イタリア共産党は、社会民主党化を決定した。朝日新聞は、日本共産党もこれに見習えとした。イタリア共産党は軍事同盟を容認する社会民主主義への屈服であり、世界の進歩の流れに合致しなかった。」(p. 369)
「一九九〇年七月、ソ連共産党は、分派を容認し、すでに政党としての統一した実体を完全に失っていた。」(p.376) 2016年9月20日 (火)
大会は、東欧の激変に関連して、社会民主主義を今日における社会進歩の主要な担い手とみなす風潮を批判し、「世界の社会民主主義の大勢を支配している軍事ブロック肯定、反共分裂主義*の方向に人類の未来を見出すことは根本的な錯覚」と批判した。(p. 379)
一九九一年七月のソ連共産党のあたらしい綱領草案は、「党諸政綱のまわりに結集する自由」をうたい、派閥の自由を認め、民主集中制の組織原則を放棄した。(p. 408)
党の目指す大企業の民主的規制の課題は、「日本の国家独占資本主義が現実に準備している仕組み、経済の全国的な規制や管理の仕組みを、民主的な権力の元で人民的に活用しよう」という方針であるとした。(p.417)
一九九二年二月、全国都道府県委員長会議を開催し、不破委員長は、社会主義の下での国有化万能論の立場に立たず、国有化の条件の成熟や国民的合意の可能性、大企業への民主的規制との関係なども考慮しながら行うとした。(p. 429)
以上
2016年10月2日(日)
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