2020年7月14日火曜日

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』『戦争まで』年表

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』『戦争まで』年表

 

「そ」は、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を表す。「注」は、本文巻末の注番号を表す。

 

 

1854 日米和親条約を結び、開国した。孝明天皇の時。孝明天皇は明治天皇の父。

1858 井伊直弼は日米修好通商条約を無勅許で結んだとして批判された。

1915.1 第二次大隈重信内閣の加藤高明外相が、袁世凱政府に二十一か条を要求した。

1918 日米間で調印された船鉄鋼管条約。アメリカが鋼材を禁輸した結果、日本は鉄飢饉になった。そのためアメリカが日本に鋼材を提供し、日本が建造した船をアメリカが買う交換協定が結ばれた。

1920 セーブル条約

1922 ワシントン会議で日本が中国に山東省を返還した。

1923 トルコ共和国は英仏伊とローザンヌ条約を結んだ。

1927.11 永田鉄山・陸軍省軍務局軍事課長(予算)、鈴木貞一・陸軍省軍務局支那班長、根本博・参謀本部支那班長、石原莞爾・関東軍参謀らが、木曜会を開催し、次の戦争を研究した。(役職名は一九三一年九月現在)そ282

1931.9.18 関東軍が満州事変を起こした。

1931.10 上海において開催された太平洋会議に、日本の青年たちが参加し、堂々と発言した。

1931.10.24 十四カ国からなる国際連盟理事会で、日本軍は満鉄線沿線内に撤兵すべきだとする決議案が上程されたが、日本が反対して否決された。賛成一三、反対一。

1931.11 日本軍は、溥儀を天津から秘密裏に脱出させた。

1931.12 スターリンは、モスクワのハリストス大聖堂を破壊し、その場所に市民プールをつくった。

1932.1 海軍が上海事変を起こした。

1932.3.1 満州国建国宣言

1932.3.9 満州国建国にあたって、溥儀を執政にした。

1932.9.15 日満議定書を締結。「所要の日本国軍は満州国内に駐屯するものとする」

1932.11.21 国際連盟理事会審議

1932.12 イギリスのサイモン外相が、連盟に代わる五大国による解決を提案したが、内田康哉(やすや)外相は、中国に対して強気に出て、対日妥協派による日中二国間交渉の成功を確信して、その提案を蹴った。

1933.1 張学良の軍隊を満州国から追放すべく、熱河作戦を閣議決定し、昭和天皇がそれを裁可した。308

1933.2.8 斎藤首相が国際連盟の第十五条、第十六条の適用を恐れ、天皇に対して、熱河進攻の閣議決定や、天皇によるその裁可の取り消しを求めたが、侍従武官長の奈良武次や元老の西園寺公望が抑えた。

1933.2.20 斉藤は、経済制裁と除名を恐れ、連盟による日本への勧告案が連盟総会で採択された時に、自ら脱退するという閣議決定をする。

1933.2.22 熱河に進攻。

1933.2.24 松岡が連盟総会の議場から退場する。

1933.3.27 国際連盟脱退の詔書が発出された。

1934 満州国は帝国となった。

1936.2.26 二・二六事件

1936.4 中独条約が結ばれた。

1936.11 日独防共協定

1936.12 蔣介石は張学良に監禁・説得された(西安事件)が、蔣介石は殺害されたと内外の報道が伝える中、尾崎は正確な論評を書いて名を挙げた。

1937.7 北京郊外で日中戦争が始まった。

1937.8.21 中ソ不可侵条約で、ソ連が中国に武器援助するようになった。

1937.9 近衛内閣は、特別会計で「臨時軍事費」を計上した。その内訳は、例えば一九四〇年では、七割が太平洋戦争のための蓄えであり、三割が日中戦争のための出費であった。またその会計は秘密にされ、一九三七年当時、海軍省調査課担当の高木惣吉は、日記(37.8.3)の中で、「我々部内の者も、何のためにそれほどの経費を要するや、主義として諒解し得ざる点あり」と記していた。そしてこの会計の計上には、政党の反対など考えなくてすんだ。この会計報告が帝国議会で初めて行われたのは、一九四五年十一月のことだった。

1937.12 南京事件。また重慶などの爆撃で民間人を殺害していた。

1938.12 善隣友好、防共共同防衛、経済提携の原則に基づく第三次近衛声明が出された。

1939.1 アメリカは、航空機とその部品の対日輸出を禁止した。

1939.3 軍用資源秘密保護法により、金属工業、機械工業、化学工業などの統計が丸秘扱いにされ、軍や経済官僚の一部だけに握られた

1939.7.26 アメリカは、日米通商航海条約の破棄を通告した。

1939.8 ドイツは日本側に知らせず、独ソ不可侵条約を締結した。その時の首相は平沼だった。

1940 「紀元二六〇〇年式典」があり、八紘一宇が流行語となった。

1940.5.10 イギリスは、イタリアを介してドイツと講和することを考えた。

1940.6 北部仏印進駐は援蔣ルートを閉鎖する目的だった。陸軍の担当範囲だった。

1940.6 フランスや現地の植民地総督と交渉開始。

1940.7 日本が北部仏印に進駐した。

1940.7.22 近衛文麿内閣成立。近衛は、日中戦争開始時の首相でもあった。

1940.7.26 アメリカは石油と第一級屑鉄(鋼材を製造する原料)を輸出許可品目に加えた。

1940.7.31 アメリカは、禁輸対象をオクタン価八七以上の航空機用ガソリンと潤滑油に限定した。

1940.8 海軍軍令部と陸軍の参謀本部が武力による南進を相談し、一ヶ月前の「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を具体化した。

1940.9 三国同盟締結

1940.9 北部仏印進駐

1940.9.22 基地権利協定が日仏間で締結された。

1940.9.26 アメリカからの第一級屑鉄が、全面禁輸となった。

1940.9.27 日独伊三国軍事同盟は、アメリカが介入しないようにとの目論見で、ベルリンで調印された。

1940.11 末 日本は汪兆銘政権と日華基本条約を締結した。

1940.11.30 日本は汪兆銘政権を承認し、ドイツの仲介による日中講和は潰れた。

1940.11.30 日満支(華)共同宣言が発せられた。支(華)は、汪兆銘の新中華民国をさす。

1941.1 松岡は、中国駐在の日本総領事の会合を開き、寺崎太郎外務省アメリカ局長を中国に巡見させた。日米間の紛争の中心は日中関係だった。

1941 春 ドイツはハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、ギリシャに侵攻・進出した。このうちハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアを三国同盟に加盟させた。

1941.3 ローズベルト大統領は、イギリスや中国への無償の武器貸与法に署名した(そ)。武器貸与法は、アメリカがイギリスに武器や補給物資を送り、戦後に現物で返済してもらうというものだった。(まで)

1941.4~11 日米交渉

1941.4 三国同盟の混合委員会が発足した。

1941.4.12 チャーチルの手紙を、松岡がソ連に滞在中の四月十二日、モスクワ駐在の英国大使が松岡に手渡した。

1941.4.13 松岡洋右がソ連と中立条約締結し、ソ連の中国への武器援助を止めた。

1941.4.15 アメリカは、海軍部隊によって哨戒する範囲を、アフリカとブラジルの中間の線の西側まで拡大した。

1941.4.16 ハルから野村に日米諒解案が手渡された。それは七つの項目からなる。

1941.4.16 アメリカは時間稼ぎのために日米交渉に着手した。

1941.5.8 ローズベルトは閣議で船団護衛方針を決定した。

1941.5.12 日本側の対案(回答)が作成された。

1941.5.29 ローズベルト「船団護衛を海軍に命令する考えはない」と明言した。日本の回答が欲しかったからだ。

1941.6.21 アメリカが回答した。アメリカは日本の既成事実を認めなかった。

1941.6.22 独ソ戦が始まった。

1941.7.2 御前会議を開き、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」の中で南部仏印進駐を決定した。これは独ソ開戦によって急浮上した、外務省(松岡洋右)と参謀本部の北進論を抑えるためであった。

1941.7.2 情勢の推移に伴う帝国国策要領が決定される。それは、「北方問題を解決」(対ソ戦を準備)しつつ、「大東亜共栄圏を建設し、もって世界平和に寄与」するとしたが、「方針」の次の「要領」では、「対英米戦を辞せず」とした。これ以前の一九四一年六月二十二日に独ソ戦が始まっていた。

1941.7.7 アメリカも、デンマーク王国の統治下にあった独立国のアイスランドに進駐した。

1941.7.15 これに対して日本が回答した。五月十二日の日本案を撤回し、六月二十一日のアメリカ案を承認した。ただ、蔣介石が和平に応じなければ、アメリカの援蔣打ち切りを約束させるというものだった。松岡更迭の直前のことだった。

1941.7.16 第二次近衛内閣が総辞職することによって、松岡を更迭する。

1941.7.18 豊田貞次郎を外相に迎え、第三次近衛内閣が成立した。

1941.7.23 日本はフランス領インドシナ南部に五万の日本の軍隊を送る協定を日仏間で調印した。平和進駐だった。

1941.7.24 野村がローズベルトと面会した時、ローズベルトは、もし日本が南部仏印から撤兵し、仏印の物資を各国が公平に分配できる方法があるなら、そういう方法を考える努力をすると述べた。

1941.7.25 アメリカは、在米日本の資産を凍結した。

1941.8.1 アメリカは、石油の対日全面禁輸措置をとった。

1941.8.1 発動機用燃料の全てと、航空機用潤滑油の対日輸出禁止を決定した。

1941.8.7・9 近衛とその側近は、日米首脳会談を計画し、申し入れた。

1941.8.9 チャーチルとローズベルトが大西洋上で会い、十二日、米英共同宣言(大西洋憲章)を発表した。領土の不拡大や不変更、民族自決、自由貿易、国際的な経済協力、公海の自由など。

1941.8.17 野村は、ローズベルトから、首脳会談に乗り気である、と告げられた。

1941.8.26 近衛がローズベルトにメッセージを送り、謝意を述べた。

1941.9.6 陸軍側は、中国からの撤兵に関して最後まで妥協しなかったため、日米交渉は頓挫した。

1941.9.6 御前会議で、「戦わずして負けるよりも、緒戦での七・八割の勝利の可能性にかけてみてはどうか」と、永野軍令部総長が天皇を説得した。340

1941.9.6 帝国国策遂行要領で外交交渉の期限を区切った。

1941.9.18 近衛の暗殺計画が発覚した。

1941.9.28 英米は、ソ連に対して、軍需物資を送る協定を結んだ。当時、アメリカの戦争準備は遅れていたが、一九四二年春には武器製造能力に見込みがついていた。アメリカは、時間稼ぎする必要があった。

1941.10.2 アメリカ大使館に対する襲撃計画が発覚した。

1941.10.2 ハルは、巨頭会談を行うのは危険だと、野村に回答をよこした。

1941.10.15 尾崎秀実(ほつみ)が検挙された。

1941.11.26 ハル・ノートが提案された。日本軍の中国仏領インドシナからの全面撤兵、蔣介石政権以外の政権の承諾拒否などを内容とする。

1941.11.27 ハル・ノートが来た。この日まで交渉は続いた。

1941.11.27 外務省は「会談成功の際の輿論指導要領」を作成した。「戦わずして米英両国の戦意を喪失せしめ非常なる成功と言わざるべからず」

1941.12.7 七時五十五分、日本はハワイを奇襲し、三千三百三人のアメリカ人を殺した。最後通牒を手渡したのは、攻撃開始の一時間後であった。370, 373, 389

1941.12.11 ドイツは条約の義務もなくアメリカに宣戦布告した。

1944 日本軍は、大陸の海岸線を千キロに渡って行軍し、アメリカ軍が使わないように、中国側の飛行場を全て潰した。(大陸打通作戦)

1944.6~7 サイパンに住む日本人、現地の人々、飛行場建設のために連れてこられた多数の朝鮮人がなくなった。多くの沖縄の人々がサイパンに渡っていた。サイパンでは玉砕が行われた。新聞は、サイパンが予想外に早く陥落したのは、住民が十分に抵抗しなかったからだと書いた。

1944.10 レイテ作戦フィリピン沖海戦で、日本軍は近代的な戦争をするための空母も航空機もなかった。

1944.11 空襲が始まった

1944.11.7 尾崎は、国防保安法、軍機保護法、治安維持法違反で、ゾルゲと共に巣鴨拘置所で絞首刑となった。

1944.11.18 第三十二軍は、極秘「報道宣伝防諜等に関する県民指導要領」を作成した。「我が国の存亡は、六十万県民の総蹶起を促し、軍官民共生共死の一体化を具現」することにかかっている。

1945.8.8 ソ連が、ドイツ降伏(五月七日)の三ヵ月後という連合国との約束に基づいて、日本に参戦・進攻した。そ392

1945.10.30 幣原喜重郎総理大臣の下、大東亜戦争調査会設置が閣議決定された。

1946.2.23 日本草案中の天皇条項、主権の表記などを書き換え、戦争放棄を含んだ、GHQ憲法草案が発表された。

1946.3.6 日本政府が、日本国憲法草案を発表した。

1946.4 連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の諮問機関である対日理事会が設置された。

1946.6.21 社会党の片山哲は、吉田茂にこう質問した。「民主憲法は、日本国が平和国として出発することを明示し、世界に向かって平和宣言をする必要がある。」

1951.9.8 対日平和条約と日米安全保障条約に調印。

1952.4.28 日本が独立。

1960 新たに第二条の経済条項が付け加えられた。第五条で、「日本国の施政の下にある領域」での、日米いずれかの一方に対する武力攻撃につき、日本と米国が「共通の危険に対処するように行動する」とされた。

1967 日本本土に限定した「防衛計画の大綱」が書かれた。

1978 実質的な条約の変更(アップデート)である、日米防衛協力のための指針(日米ガイドライン)で、日本本土だけでなく、海上防衛に関して、海上自衛隊と米海軍の「海軍協力」により、ソ連のバックファイア爆撃機や潜水艦を太平洋方面に出さないことが求められた。

1995 防衛計画の大綱で、国際貢献への任務拡大がなされた。

1997 日米ガイドラインで、第六条の「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」を、「周辺事態」という概念で再定義した。

1998 北朝鮮がはじめて日本上空を越えるミサイル発射実験を行った。

2014 安倍内閣は二〇一四年あたりから日本国憲法改正を本格的に論議し始めた。

2014 ISは国家を樹立したと称している。

2014.7.1 安倍内閣は、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」に限り、憲法上、集団的自衛権の行使が許されるとする閣議決定を行った。

2015.4 日米ガイドラインで、「アジア太平洋地域およびこれを越えた地域の平和、安全、安定及び経済的な繁栄の基礎を提供するため」とし、対象範囲を全世界に拡大した。

2015.5 統合幕僚監部が、安保関連法案が成立するより前、「「日米防衛協力のための指針」及び平和安全法制関連法案について」という内部文書を作成していた。共産党の小池晃政策委員長がこれを用いて質問した。

2015.9 安全保障関連法が可決された。

 

 


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