2020年7月12日日曜日

同志「山宣」の流せる血 大山郁夫 1929年、昭和4年4月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988 要旨・感想

同志「山宣」の流せる血 大山郁夫 1929年、昭和4年4月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988

 

 

感想 悲愴と言うべきか、足が地についていないと言うべきか。筆者自身が、ここでは山宣のあとに続けと檄を飛ばしているのに、3年後には、米国に脱出している。これが本音だったのではないか。厳しい闘いだったのだ。対する政権側は、やんちゃというか、やりたい放題の感を受ける。ブルジョワのお坊ちゃまの政権か。

 

山宣追悼の辞。当時こういう文章が「文芸春秋」に掲載されたということ自体が驚きだ。この時代はまだ一定程度の表現の自由があったのだろうか。

 

ウイキペディアによれば、筆者は労農党の委員長だったが、その後、新労農党から立候補したとき、共産党から批判されたが、それは山本宣治のように議会で頑張っても右翼のターゲットになるだけだという共産党の反省からなのか。*筆者は新労農党の議員に当選したが、その2年後に米国に亡命したとのこと。日本を見限ったのだろうか。戦後、戻ってきて、社共の応援を受け、無所属で、参議院議員に立候補して当選した。

 

*コミンテルンの方針のためらしい。ウイキペディア(労農党・新労農党)参照。

 

山本宣治の本会議での発言は、動議によって会議が打ち切られ、発言できなかったという。自己中右翼自民党の祖先である特権階級の「代議士」たちは、自らの本質を厳しくつく山本の発言を封じたかったのだろう。

 

 

ウイキペディアによれば、

 

大山郁夫 1880.9.20—1955.11.30 労働農民党、労働者農民党、新労農党、無所属 衆議院議員1930.2.21—1932.1.21

 

兵庫県赤穂郡若狭野村(現相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれた。17歳の時に神戸の大山晨一郎の養子となった。1905年、早稲田大学政治経済学部を首席で卒業。1914年早稲田大学教授。1917年の早稲田騒動(学長後任をめぐる派閥争い)で早大を去り、朝日新聞に入社。翌年1918年、「白虹事件」(寺内正毅政権による、筆禍・言論統制事件)で辞職。1919年、長谷川如是閑らと雑誌『我等』を創刊するとともに、黎明会に参加。1921年、早稲田大学教授に復帰

 

労働農民党の委員長になり、1928年、衆議院議員総選挙に出馬したが、官権の選挙干渉で落選。1930年、総選挙で新労農党から立候補して当選したが、かつて大山が労農党から立候補した時は、共産等は大山を支援したが、今回は共産等は「合法政党無用論」に基づき新労農党の結成に反対した。2年後(1932年か)にアメリカに亡命し、ノースウェスタン大学政治経済学部研究嘱託。

 

1947年、帰国。1950年、参院選で、日本社会党・日本共産党などで構成される全京都民主戦線統一会議(民統)の支援で、当選した。選挙戦の途中で社会党が馬谷憲太郎を擁立して戦線が乱れたが、馬谷が落選した。また同年民統が推した蜷川虎三が京都府知事に、高山義三が京都市長に当選した。

 

 

山本宣治 1889.5.28—1929.3.5  労働農民党、日本共産党 衆議院議員1928.2.21—1929.3.5

 

1889年、京都市新京極で花簪(かんざし)屋の山本亀松の一人息子として生まれた。両親は厳粛な耶蘇教のクリスチャン。宣治の名は宣教師にちなむ。

1901年、神戸中学校入学。身体虚弱で中退。宇治川畔の別荘(後に「花やしき浮舟園」)で花作りをした。

園芸家を志し、1906年、大隈重信邸へ住み込む。1907年、カナダのバンクーバーに渡り、5年間、皿洗い、コック、園丁、鮭取り漁夫、列車給仕、伐木人夫、旅館のウエイター等30種類の職業を転々としながら、小学校や中学校に通った。1911年、父が病気となり、帰国した。『共産党宣言』『種の起源』『進化論』などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者との交流を深めた。

 

 1912年、同志社普通部4年に入学。1914年、丸山千代と結婚し、長男英治が誕生。1917年、28歳の時、第三高等学校第二部乙類を卒業し、東京帝国大学理学部動物学科に入学した。1920年、同大学を卒業後、京都帝国大学大学院に入学、傍ら同志社大学講師。

 1922年3月、訪日していたアメリカの産児制限運動家のマーガレット・サンガーに啓発され、産児制限運動を展開。

1923年、京都帝国大学理学部講師。三田村四郎・九津見房子夫妻とともに「大阪産児制限研究会」を設立。

1924年1月、西尾末広などが設立した「大阪労働学校」講師。同年3月、「京都労働学校」の校長。同年1924年5月、鳥取での講演の内容を警官に激怒され、それが新聞に載り、京都帝国大学を追放された。同年6月、大山郁夫らにより設立された「政治研究会」の京都支部設立に参加。

1925年、京都学連事件のため、12月、家宅捜査を受ける。1926年、同志社大学を辞めさせられ、同年、著書『性と社会』1924は廃刊とされた。

 

同年1925年3月、京都地方全国無産党期成同盟に参加。同年5月、労働農民党京滋支部に参加。同年6月小作争議を指導する。同年10月、議会解散請願運動全国代表に就任。

1927年、衆議院京都5区の補欠選挙に労農党からの立候補要請を受け、病気を理由に固辞したが、共産党に要請されて立候補した。489票で落選。当選は立憲政友会の垂水新太郎の4843票。ただしこの時は中産階級の制限選挙だった。

同年1927年12月労農党京都府連合会委員長

1928年、第一回普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)に京都2区から立候補し、1万4412票で当選。労農党からは水谷長三郎と2人が当選したが、山本は共産党の推薦。(当時は非合法のため非公式推薦。)一方、水谷は反共主義者だった。

同年1928年の三・一五事件では、事前に事件を察知した谷口善太郎の忠告を受け、共産党関連の書類を処分し、事なきを得た。このころから山本への右翼の攻撃が始まった。

第55・56帝国議会で治安維持法改正に反対した。

1929年3月5日、衆議院で反対討論を行う予定だったが、与党立憲政友会の動議で強行採決され、討論できないまま可決された。その夜、右翼団体の「七生義団」の黒田保久二*に刺殺された。

 

子は男3人、女2人がいたが、敗戦まで警察の干渉に悩まされた。墓碑は記念碑であると当局から見なされ、数年間建立を許可されず、また、建立後は碑文をセメントで塗りつぶすよう文句をつけられた。

長男は三高と早稲田を受験したが、面接で「信念をもち大衆のために死んだ父を尊敬している」と述べ、いずれも落とされたが、関西学院に入学した。

 

墓の碑銘は全国農民組合大会での演説の一節であり、大山郁夫の筆で、山本宣治の墓に刻まれ、その拓本は国会内の日本共産党事務所に飾ってある。

「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る!だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が(異説:「多数の同志が…」)支持しているから…」

 

これには当時の大会の書記をしていた西尾治郎平の記憶に基づく異説もある。「『山宣』とか『孤塁を守る』などとは言わなかった」とし、「卑怯者去らば去れ…われらは赤旗守る、であります。だが私は寂しくない。…」

 

「武器なき斗い」(山本薩夫監督)は、西口克己の評伝『山宣』に基づき、山本宣治の生涯を描いた映画である。この映画化に総評が尽力した。

 

 

*黒田保久二 1893.9—没年不詳 警察官。日雇い労働者。

 

徳島県阿波郡柿島村の村会議員黒田種三郎の二男。成績優秀だったが、家業が傾き、中学進学を断念。村役場の給仕。朝鮮に渡り人夫。

門司の運送業者「木村組」の世話になり、後年木村組の組織する右翼団体「七生義団」に入団。1919年巡査。病気で翌年退職。土木工事、運送業。

七生義団は「労働共済会」から発展した右翼団体。機関紙『人民新聞』を発行。

黒田は山本宣治に関し、「赤化」「不敬」などの言葉を含む斬奸状を書き、山本に議員辞職と自決を要求したが、断られ、刺し殺した。すぐ自首し、山本に掴みかかられたと、正当防衛を主張した。黒田は単独犯を主張したが、『人民新聞』は、不敬代議士6名(山本宣治、西尾末広、亀井貫一郎、河上丈太郎、浅原健三、水谷長三郎、いずれも無産政党)の名前、議員除名と自決の勧告書、内野辰次郎議員に請願を取り次いでもらった、6名の除名動議請願書を掲載していた。

 警視庁の有松清治特捜課長は、これは殺人ではなく、傷害致死であり、殺意がなかったと擁護したが、東京地裁の次席検事松阪廣政は現場検証をし、殺人罪を適用した。黒田は裁判で正当防衛を主張したが、殺人罪で懲役12年の実刑判決を受けた。

報道では山本がビールを飲んでおり、20分ほど口論した末の犯行と報じられたが、これは警察が黒田を擁護したためで、実際は、山本は酒を飲んでおらず、二言三言のやり取りだけで犯行に及んだという。

 黒田は獄中で「共産主義者を殺すのだから勿論無罪で、十万円もらえるということだったのに」と述べた。警視庁の有松は黒田ら七生義団団員と面識があり、酒席を共にしたこともあった。一方、松阪検事は山本と面識があった。

 黒田は6年の服役で残余の刑を免除され、出所した。異例の厚遇だった。黒田は黒幕に頼ろうとしたが、相手にしてもらえなかった。満洲に渡り、特務機関で働いた。

 戦後、門司の七生義団に戻り、門司や小倉で日雇をした。同僚の労組員の中に元町長や植民地の警察部長などがいて、「よき日」の思い出に花を咲かせた時、黒田は過去を聞かれても黙して語らず、ただある時「わしは人に言えんことをしているから」と答えたという。

黒田は、脳梅毒のため精神病院で死んだ。

 

本庄豊は、黒幕を大久保留次郎1887.5.12—1966.11.19としている。その理由は、大久保が、門司警察署長・桜井敏雄に目をかけ、桜井は木村清の七生義団を援助したこと。大久保の直属の上司の横山助成警保局長の親類である石田英一郎が治安維持法違反で逮捕され拷問を受けたことを、山本に議会で追及されたこと。(1929年2月8日、衆議院予算委員会第二分科会)また、黒田が戦後、自分に山本暗殺を持ちかけたのは「偉い人」で、戦後「代議士になった」と証言したこと、そして、大久保の思想である。

大久保は、第一次共産党事件1923や、三・一五事件の指揮にあたった。

内務官僚、政治家。第18代東京市長。戦後、公職追放や落選を挟みながら、衆議院議員に4回当選。

本庄豊『テロルの時代』2009、群青社

 

 

ウイキペディアの黒田保久二を読んでの感想 

 

右翼の言う「赤化」「不敬」と、左翼の言う「反帝」「反スタ」とは、下っ端にとって、スローガンだけで物事を考えるとするなら、紙一重、その人のめぐり合わせによって、どっちに転ぶか分からない。黒田も下積みの生活を続け、社会的地位もあるお金持ちの黒幕に「共産主義者を殺しても無罪、10万円もらえる」と騙され、事後頼って行っても、知らん振りされ、戦後は人を殺したことを反省しているような口ぶりだ。貧しさにつけ込んで人を利用し、自分は手を汚さず、自己の利益を追求する卑怯な黒幕こそ、白日の下に曝されなければならない。

 

 

要旨

 

053 編集部注

 

 筆者大山郁夫は、山本宣治が刺殺されたとき、労農党委員長だった。

 

本文

 

 私は「我らの行くところは戦場であり、墓場である…」と労働農民党の結党大会で述べた。(やや意気込みすぎているきらいがある。)

 帝国主義戦争に伴って、白色テラーが吹き荒れている中を、我々は苦難の行進を続けている。

田中反動内閣は、我々に強権をもって臨んでいる。それに辟易した社会民主主義者の一群は闘志を失い、ブルジョアジーの陣営に迎合し、戦闘的労農大衆とその組織とを敵の砲火の下においてきぼりにして恥としない。*我々は戦友の屍を踏み越えて敵陣に迫る覚悟を持っていなければならない。

 

*ただし、大山郁夫は後に1929新労農党を結成したことで共産党から批判された。

 

 すでに幾多の犠牲者たちの血が流されたが、多くは隠れた精鋭だったため、一般的にはその事実があまり注意されなかった。しかしそれを聞き知った労働者農民は、極度に憤怒の血潮を沸かした。

 今や公然の舞台の上において、新たな犠牲がまた一つ加えられた。勇敢潔白な階級的戦士として、当面の第五十六議会において、純粋に無産階級的立場から政治的自由のために奮闘していた唯一人者としての山本宣治の身上に降りかかった暗殺がそれだ。

054 これは偶発事件ではない。白色テラーの組織系統の一局部に現れた一現象である。

 それは田中反動内閣の在職時代に起り、あらゆる無産階級弾圧法の第一に位する治安維持法の最終案が衆議院を通過したその日に起った。

 

 山宣は我々に先んじて政治的自由獲得闘争の戦場に自己の墓場を見出した。

 私自身も再三普通の形式の弾圧以外に、暴漢や暴力団の襲撃を受けたが、致命的傷害を受けずに済んだ。不思議に助かったと考えたが、それは間違いである。私の遭難はまだ時代が現在ほど切迫していなかったときのものだ。それに私の地位が、まだ暗殺の冒険に値しなかったのだ。

 時代は急転直下に進展した。帝国主義戦争が動き出し、世界の解放運動が我が国に迫った。対支外交の如何が、田中内閣の運命を左右する契機にまでなった。白色テラーの脅威が明らかになってきた。

 

 水谷代議士が戦闘的労農大衆を裏切ってから、同志山本は、議会闘争という最も困難な部署でただ一人代議士となった。かれは議会内で孤立したが、勇敢に発言の機会を戦い取ろうとした。他の無産党代議士たちは比較的容易に本会議の演壇を占領することが出来たが、彼にはそれが極力妨害された。彼の確信が鋼鉄の如く堅かったために、少なくともブル代議士どもからは毛虫の如く嫌われた。

055 彼は最後まで本会議において発言する機会を持ち得なかったが、予算分科会などでは善戦した。ことに2月8日の予算分科会*での彼の質問は、彼の勇敢さを証明した。

 

*衆議院予算委員会第二分科会。

 

 速記録によれば、それは、階級的闘士への検束、拘留辱遇、××(共産)党被告への××(拷問)*等々の諸問題に関するものだった。その内容は峻辣を極めた政治的暴露だった。ああした言論が本会議に持ち出されたら、その大衆啓発力の偉大さは、いかに激しく政府当局の心胆を寒からしめたことであろう。ああした言論がたびたび議場で繰り返されたら、田中反動内閣に対する、更には資本家地主の政府に対する、大衆の憤懣反感は、いかに急激に高まっていったことであろう。

 

*××はこの時代の制約か。

 

 同志山本は身上の危険への警戒が不十分であったが、それは我々の過誤でもあった。

 それは階級的自衛の組織の問題だが、ここでは触れない。

 最近の市議選で彼は同志の候補者の応援演説に出かけた。帰途同伴の同志から護衛を申し出られたことがあったが、彼はそれを固辞した。それは忙しい任務を帯びている同志に対する配慮だった。

 迂闊だった。

056 2月24日の夜、私は彼と共に本所*のある小学校で、同志の一市議候補のために応援演説をし、帰途、同じ円タク*に乗って省線の上野停留所まで同行した。彼は別れ際に治安維持法最後案の衆議院上程の日への決意を私に語った。それが彼との最後の別れとなった。

 

*東京市35区の一つ。隅田川東岸の低地。商工業地域。

*円タク 一円タクシーの略。大正末期から昭和初期にかけて、大阪と東京市内を料金1円均一で走った。

 

 彼が死を賭して戦い取ろうとしたその発言の機会は、また彼から奪われた。治安維持法改悪案が、最後的に取り上げられた3月5日、彼がかねて通告しておいた質問の順番が回ってこないうちに、討論終結の動議が出されて裁決され、彼はついにこの悪法に関して労働者農民の深刻な呪詛の声をブルジョア議会に反射することができなかった。

 その夜彼の宿で彼を刺した暗殺者が持って来た斬奸状の中では、彼の治安維持法反対の態度が、彼の罪責の一つに数えられていた。

 彼は真理の熱愛者であった。優秀な研究者であり、抜群の説話者であった。彼の脳の重量は、遺骸の解剖の結果、日本でレコード・ホルダーとして示された。

057 彼が研究者の道から社会運動家に進出した理由は、生物学の科学としての性質と彼の真摯な研究態度から来たものだ。生物学は自然科学と社会科学との交差点にある。彼は科学的態度で事物の真相を探求し剔抉しなければ止まない性向を持っていた。

 この研究態度は彼を唯物論に向わせた。そして彼はついに戦闘的唯物論へ向った。彼はその思惟を実践に結びつけるようになった。彼は科学者であったが故に、理論の実践家となり、かれの実践の理論家となった。

 三、四年前の秋、私が同志社の学生に講演したとき、初めて彼に紹介された。その時彼から貰った産児調節問題に関するパンフレットを読み、その論旨の社会科学的傾向を知った。そのころ既に彼は社会運動に深入りしていた。

 3月8日の告別式の前夜、本郷帝大キリスト教会館の一室の遺骸を前にした席上で、彼と姻戚関係にある高倉輝氏から、今から7年前(1922年、大正11年10月)に出版された彼の訳書『戦争進化之生物学的批判』(ゲオルグ・エフ・ニコライ原著)を示され、その扉に書かれた彼の自署による一文を発見した。それには1923年4月の日付が記されていた。

 

「謹呈 高倉輝大兄 訳者 山本宣治

我らを縛る鎖の強さはいかに

一目見ていかめしくもまた頑丈らしい、それももはや

ところどころ錆びくち、ゆるまんとしているのを我々

はあきらかに知っている。

その鎖を断然切り離そうと試みる勇士達のために

私はこの書を武器のひとつとして献じた

好むにせよ好まないにせよ

やがて来るその日のために」

 

058 訳者序を見ても、彼の動機には、弱き者、虐げられた者に対する一種の人道主義的義憤が基調をなしていたことが分かる。それは社会科学的知識に裏付けられたものだった。

 その後、彼が大阪労働学校の校長(ウイキペディアでは講師、校長は京都労働学校)になり、日本農民組合にも「関係をつけ」、ついで旧労農党の創立と共にそれに入党してから、勇敢な階級的戦士として悲壮な最後を遂げるまでの記録は、人々の記憶に生々しく印象を留めている。

 

 同志山本は、洛外宇治の旅館「花屋敷」の若主人として育ち、もし階級戦に突入しなかったならば、安逸な生活を享受し、同志社大学の教授や京都帝国大学の講師としての椅子を永く持ち続け、学界に相当な盛名を馳せていたことだろう。

 しかし、彼は内心に一片鉄の如き侠骨を蔵し、少年時代に父の扶助を自ら断ち、アメリカに奔(はし)って苦学し、後に帰って京大理科に学び、卒業後は大学院で研究を続け、小ブルジョワの羨望の的となる地位を得ながら、真摯な研究態度のために戦闘的唯物論を戦い取り、敢然階級闘争の渦中に身を投じ、世俗的栄躍(えいよう)と家庭における安逸生活とを一擲(てき)して弾圧の砲火の中をまっしぐらに戦い進み、ついに荒れ狂う白色テラーの餌食となって倒れるに到った。(大袈裟)

 山宣が、左翼戦線が苦境の時でも退却せず、社会民主主義の陣営を一蹴できたことは、彼が純情だったからだ。それに反して水野長三郎一派は、戦闘的労働者農民を裏切った。

059 3月初旬の全国農民組合大会での彼の祝辞演説や、暗殺直前の神田の某小学校での選挙応援演説はすばらしかった。

 3月3日、彼は全国農民組合大会に出席すべく自宅に帰ったが、母堂、夫人、児女が、戦士として彼を送迎したと同志「奥甚」が私に語った。

 3月5日の深更、訃報が宇治の花屋敷に届いたとき、母堂、夫人は取り乱さなかった。翌朝遺骸を受け取りに行く「奥甚」と故人の妹婿山中君に託して、次の言葉を我々に送ってきた。

 

「宣治の死は悲しいが、全然予期していなかったことではありません。遺骸は荼毘に付し、送り返してください。宣治の屍を旧労農党の党旗で包んで棺に収めてください。」

 

故人のなきがらは真紅の色に燃え立つ党旗に包まれて入棺された。

 山宣は「赤旗の歌」を好み、それを子女に教えるのを楽しみにしていた。3月8日、本郷仏教会館で、赤旗で包まれた彼の遺骸を収めた棺前で行われた告別式が終わった時、会衆の間から自然と――

「民衆の旗、赤旗は――」

の歌声が湧き起こり、棺車が火葬場に向って出発する瞬間まで続いた。

 

 彼の声は絶えず我々を政治的自由獲得の戦場に駆り立てる。

060 今日彼を弔う我々が、明日は自ら弔われる身とならないとは、誰が保証できよう。我々はそれを恐れるものではない。今我々が、治安維持法を筆頭とする一切の無産階級抑圧法を葬るため、絶体絶命の戦いを戦わなければ、――さらに敵田中反動内閣を打倒し、同時に社会民主主義の上に鉄槌を加えることによって、無産階級の最後の勝利への行進の道を地ならしすることに全力を尽くさなければ、彼の血はいたずらに流されたことになるであろう。

 

 同士よ!いっせいに奮い立って進もう!さあ、固く腕を組んで!

 

1929年、昭和4年4月号

 

以上 2020712()

 


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