私が張作霖を殺した 河本大作(こうもとだいさく) 1954年、昭和29年12月号 「文芸春秋」にみる昭和史 1988
疑問 この一文がいつ書かれたのかという疑問である。この一文が「文芸春秋」に掲載されたのが1954年12月号で、筆者が72歳で亡くなる1年前なのだが、ウイキペディアによれば、筆者は戦後も中国に留まり、結局日本には帰らず、そこで死んでいる。筆者は国民党の側について共産党と戦い、中国共産党に捕まって、太原収容所に収監1949—1955.8.25(病死)されたのだが、この期間中に、この一文を書き、それを中国共産党もしくは筆者自身が日本の誰かに送ったのだろうか。
それとも、満州事変1931.9.18について言及しているのが本文で一番最後のものと思われるから、筆者が金沢在住1929.7—8 から京都在住1929.8—1930を経て東京への転居1930—1932(推定)の間、つまり、筆者が語るこの時系列からすると、東京在住の頃に*この一文を書き、それが戦後の1954年頃に発見され、「文芸春秋」の記者の目にとまって発表されたのだろうか。
*あるいは、1932年以降、民間人として満洲や太原に在住していたときに書かれたのだろうか。
もう一つの可能性は、その可能性が高いと思うのだが、本文は河本大作によって書かれたものでなく、別の第三者、おそらく河本に近かった元関東軍のある関係者によって書かれたのではないかということである。これは「文芸春秋」社が読者を欺いたことも意味するから、直ちに公にできないことかもしれない。しかし、この可能性が高いことを指摘したいのは、上記二つの可能性が低いと思われることと、本文の文体を読むと、張作霖爆殺事件1928.6.4当時から相当の時日を経て、過去を過去のものとして捉えるゆとりが見られることである。
第一の可能性が低い理由として、河本が共産党と戦争をしている時は落ち着いて文を書けるようなゆとりはなかっただろうし、共産党に捕まってからは、反省文を書かせられていたのだから、本文のような自慢話はとても書けなかった、そんなものを書いたら、釈放が遅れるばかりだろうからだ。
第二の可能性に関しては、これから戦争を本格的に始めようとする当時、こんな総括めいた文章を書くゆとりはなかったのではないか。本文中には満州事変を振り返るような記述もあり、この文章には過去を振り返るゆとりが感じられる。
本文が出版された1954年という時期は、公職追放が解除され、今度は一転してレッドパージが行われ、米軍政が終わって日本が独立した時期である。戦前の日本を担ってきたと自負していたが、これまで米軍政下で息を潜めていた人達がこの時期に、やはり戦前の方針に間違いはなかった、身の危険を感じることもなくなったとし、このような戦前の日本を自慢するような文章を書いて出版するという挙に出たのではないか。『「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻』を読んでいると、他にもこの種の戦前の日本を自慢する文章が、この時期に書かれているのを散見する。
これと関連してもう一つ疑問がある。本文では「1929年8月に金沢で停職処分を受けてから京都の伏見に移住し、その1年後に停職を解かれ、予備役に編入された」とあるから、予備役編入は1930年になるはずだが、ウイキペディアでは予備役編入を1929年4月としていて、矛盾している。
感想
張作霖爆殺事件には、ウイキペディアによれば、不確かな要素があるようだが、関東軍の部下・河本大作(筆者)による謀略事件であるようだ。
日本政府や議会は、その意向を無視した、関東軍のこのような突出した軍事行動を認めなかったが、田中義一首相は、もしこの事件が日本軍のやったことなら、関係者を処分すると天皇に約束しておきながら、それを握りつぶそうとして、天皇の怒りを買い、内閣総辞職した。
日本政府は米国を中心とする欧米諸国に配慮していた。関係者が処分されたが、関東軍の中では政治家を無視してでも軍事力を行使して政治に関与しようとする独善的な心意気が強かったようだ。
その論理は国益なのだが、それは一人よがりに過ぎなかったようだ。中国の対日感情悪化の原因は、対華21か条の要求*1915.1.18が大きかったようだ。実現されなかったが、中国の警察権をも奪う内容だったからだろう。その後中国では、本文では触れられていないが、5・4運動が起こり、民衆は列強の中で突出した日本のやり方に腹を立て、欧米に向ったようだ。日本が欧米より一歩先の利権を主張し過ぎたためなのだろう。
*「対華21か条の要求」1915は、朝鮮に対する「第二次日韓協約」1905(外交権剥奪)や、「第三次日韓協約」1907(韓国軍隊の解散)の延長線上にあったのではないか。
関東軍は自国の利益だけを考え、国際関係も実質的に無視して、軍事的に解決することが最善の策だと思い上がっていたようだ。
自由主義に反発する筆者も、自由主義が欧米の価値観と同一視され、それを煙たく思っていたようだ。
*「自由主義」とは、河本にとってどんな意味だったのか。民族自決や国際協調か、それとも民主主義(制度)一般か。
ウイキペディアより
河本大作1883.1.24—1955.8.25
兵庫県佐用郡三日月村(現作用町)に地主の子として生まれた。大阪陸軍地方幼年学校、(陸軍)中央幼年学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校を卒業。翌年、日露戦争に出征し、重傷。1914年陸軍大学校を卒業。大佐で関東軍参謀時、張作霖爆殺事件1928.6.4を起こし、停職、待命*、予備役編入。
*待命(たいめい)とは、一定期間職務に就かずに給料を受け、期限になると辞職する制度。
張作霖爆殺事件を当初日本の新聞は、蔣介石が率いる国民党軍のスパイ(便衣隊)の犯行の可能性も指摘した。(マスコミ操作か)河本は、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉と、朝鮮軍から分遣されていた桐原貞寿工兵中尉を使用した。
当初から関東軍の関与は噂されており、奉天総領事から外相宛の報告では、現地の日本人記者の中に、関東軍の仕業であると考える者も多かったと記されている。
関東軍司令官の村岡長太郎は、支那駐屯軍に張作霖を抹殺させる工作を行うよう竹下義晴中佐に内命を下したが、河本がこれを押しとどめ、自身の計画を実行した。
この事件の処理をめぐって、当時首相の田中義一は当初、日本軍が関与した可能性があり、事実ならば厳正に対処すると天皇に報告していたが、後の報告で隠蔽を図り、昭和天皇の怒りを買い、内閣総辞職につながった。
河本は軍法会議にかけられることもなく、1929年4月に予備役に編入され、軽い処置に留まり、事件はもみ消された。この処置に対して、松井石根陸軍大将は反対し、河本に対する厳罰を要求し続けた。
ロシア人歴史作家のドミトリー・プロホロフは、張作霖爆殺事件をロシア連邦軍参謀本部情報総局GRUが首謀したという。
河本は、1932年、南満洲鉄道の理事、1934年、満洲炭鉱の理事長となった。1935年2月、南満洲鉄道の経済調査会委員長として、奉天省・吉林省・黒竜省の人口調査を行った。
1942年、日支経済連携を目的として設立された北支那開発株式会社傘下の山西産業株式会社社長に就任した。ソ連軍の満洲侵入後も華北で生活していた。
戦後、山西省太原市の山西産業は、中華民国に接収され、西北実業建設公司へと名称変更し、河本は中華民国政府の指示で同社の最高顧問に就任した。
戦前同社に勤めていた日本人民間人の半数は終戦に当たり帰国したが、残り半数は終戦前と同じ待遇で留任し、家族を含め、1200人いた。河本が残留を勧誘した。
その後、河本は日僑倶楽部委員長に就任し、太原の日本人と共に、閻錫山の中国国民党山西軍に協力して、中国共産党軍と戦ったが、1949年中国共産党軍が太原を制圧し、河本は捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。
1955年8月25日、河本は収容所で病死した。*第二次国共内戦に関わり、その戦犯として獄死したこともあり、極東国際軍事裁判や南京軍事法廷で、張作霖爆殺事件の証人として呼ばれたり訊問されたりすることはなかった。
*1956年6月~7月、山西省太原市と遼寧省瀋陽市で開かれた特別軍事法廷で、重要戦犯容疑者の45人の裁判が行われた。それ以外の容疑者たちは、管理所内の臨時法廷で「起訴免除、即時釈放」の判決を受け、1956年7月~9月、起訴免除者が帰国した。(『中国侵略の証言者たち』027)古海忠之でも1963年に帰国した。(同上053)
1956年1月31日、青山斎場で葬儀が営まれ、友人代表の大川周明が弔文を寄せた。
要旨
044 1926年、大正15年3月、私は小倉聯隊中佐から、黒田高級参謀の代わりに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であった。参謀長も河田明治少将から、支那通の斎藤恒少将に代わった。
満州では張作霖が威を張り、日支21か条問題をめぐり排日が到る処で行われていた。日本人の居住や商租権*などの既得権も有名無実であり、在満邦人20万の生命、財産は危殆に瀕し、満鉄に対し、幾多の競争線を計画し、これを圧迫しようとし、日清、日露の役で将兵の血で贖われた満州が、今や奉天軍閥によって蹂躙されようとしていた。
*租借つまり他国の領土の一部を借りて、そこでの統治権を行使することか。
045 張作霖の周囲に、軍事顧問の名目で、松井七夫中将や町野武馬中佐がいたが、彼らは「みんな日本人が悪いのだ」と言って顧みない。
支那の各地でも排日の空気が濃厚な地方もあるが、満州ほどでもない。満人は日本人を見ると、見くびり、蔑む。これは日露戦役直後の満人の態度とまるで違う。
私は旅順でじっとしていないで、変装して全満各地を偵察した。チチハル、満洲里、東寧(牡丹江市)、ポクラニチアなど北満の辺境を南北に観察した。東寧では街路上で邦人が満人に鞭打たれ、チチハルでは日本人の娘子群が満人に極端に侮辱されるのを見て、私は切歯扼腕であった。奉天(瀋陽市)に近い新民府では白昼日本人が正規の軍人の強盗に襲われた。邦人商戸は日夜怯々としていた。
日本人の軍人顧問や、奉天にある外交官が、「日本人が悪い」と断言するに足るものはどこにもない。
意識的、計画的に、奉天軍閥が邦人に対して明らかに圧迫しようとしていることは明らかだった。
経済的にも満鉄線に対する包囲態勢、関税問題、英米資本の導入など、日本の経済施設や大陸資源開発の邪魔をし、撫順の石炭の不買を強いている。
郭松齢事件*で、日本からの弾薬補給、作戦指導などの援助がなかったなら、奉天軍の今日の武威はなかったはずだ。商租権はその恩返しとして奉天軍が進んで提供したものだった。
*郭松齢は、北京政府、奉天派の軍人。郭松齢は張作霖の下野を要求したが、関東軍は郭松齢が国民党の三民主義や「赤化」をもたらすのを恐れ、張作霖に味方し、郭松齢が南満洲鉄道とその附属地20里以内で軍事作戦をすることを禁止した。張作霖はそのため優勢となり、郭松齢は敗北し、妻の韓淑秀と共に逃亡したが、捕らえられ、妻と共に銃殺1925.12.25された。郭松齢とともに行動していた馮玉祥は、下野を宣言し、ソ連に逃げた。
吉田茂は当時奉天の総領事であったが、国民党の三民主義やソ連共産党を排除する一方で、ごろつき親分張作霖を支持する、関東軍の方針に賛成していた。宇垣一成陸相も同意見だった。
張作霖は勢いに乗り、関外に出て北京に入り、大元帥を自称した。張作霖の家臣の楊宇霆は、日本の恩を忘れて、米国に媚態を見せ、借款を起こそうとしている。
046 1927年、昭和2年7月、田中義一は総理大臣兼外務大臣であったが、「東方会議」を提唱した。森恪はその外務政務次官だった。
当時の関東軍司令官は白川大将に代わって武藤信義中将が、1926年、大正15年7月に赴任していた。
武藤中将はロシア通で、かつて参謀本部第二部長も勤め、支那にも明るかった。武藤将軍は私らの献策をよく了解し、相談に乗ってくれた。
東方会議に武藤司令官が出席し、私もそれに随従し、上京した。会議で私は、満鉄線に対して奉天軍閥が取った包囲態勢に対して、もはや外交的抗議等では及ばないと力説し、武藤将軍も、武力解決を強調した。田中首相もこれを諒解し、武力解決を是とする方針が概略決定された。
私は以下の具体案を献策した。
「その頃支那南方に起った蔣介石が、孫逸仙(孫文)と共に北伐を開始し、奉天派はこれに対して、浙江方面、上海まで進み、張学良と楊宇霆を首将としていた。
蔣介石の、軍官学校で育てられた新鋭の兵は、奉天旧軍閥の兵とは、軍紀で優れ、また揚子江以南の地では南方派の勢力が強く、奉天軍はいずれ敗退して関内にもどって来るだろう。
張作霖の、関外の30万の兵が、敗れて関内に戻れば、どんな乱暴を働くか分からない、これを助けても一生恩に着るような節義はない。それは既に郭松齢事件で試験済みだ。
047 (蔣介石と張作霖とが)南北で戦い、東支や山東の地を戦渦に曝(さら)すことは、幾多の権益を持つ日本や列国や、無辜の支那民族のためにも、看過すべからざることである。また北伐も北支で阻止しなければならぬ。
敗退した場合の張作霖の兵30万は、山海関で武装を解除してから入れるべきである。そして秩序・軍紀・自制のない暴虐な手兵を持たぬ張作霖を相手に、失われつつある一切の、我が幾千件にわたる権益問題を一気に解決すべきである。」
右の方策は会議の容れるところとなり、ことに森恪は、これに非常に共鳴した。そしてこれは東方会議の議決となった。
感想 これはいちいちもっともらしい論理だが、他民族のことはどうでもいい、自民族のことだけ考えていればいいという自己中の考え方であり、第一次大戦後の民族自決、国際平和の時代思想に逆行し、武力的解決を信じて疑わない奇妙な精神構造であり、私は残念ながらこれを支持できない。それに首相や外務政務次官までが賛成したと言うのだから信じられない。
蔣介石は北伐を開始した。山東や北支を戦渦に巻き込まないようにとの(日本側の蔣介石への)提案を蔣介石が受け入れていたのに、蔣介石軍が済南城内に入城したので、済南事変が勃発し、我が兵が出兵した。*
*これには中国側の主張もあり、戦争の原因は確定していない。(ウイキペディア)
奉天軍は敗走し、山海関へ殺到した。
関東軍は、朝鮮から一混成旅団を編制し、奉天に集中し待機した。錦州や山海関へは、満鉄線附属地以外への出兵となるので、奉勅命令が出なければ出兵できない。奉勅命令がいっこうに下らない。(張作霖軍の)敗兵が続々と入ってきた。*
*奉勅とはみことのりを承ること。
田中首相は東方会議の主催者であり、山海関の手はずは、東方会議の議決によって不動の方針となっていたのに、なぜか躊躇している。
それは、出渕駐米大使からの報告に基づいて、米国の輿論に気兼ねして、既定の方針の敢行をためらったのであった。
参謀本部第二部長は、松井石根中将であり、田中首相の側近のブレインとして、佐藤安之助少将などがあり、それらの意見によっても動かされ、田中の肝はいよいよぐらついた。
関東軍司令官は、その時、武藤将軍が村岡将軍と代わっていたが、村岡将軍も、不動の大陸経営に関する意見では、武藤将軍と軌を一にしていた。
048 そのうちに奉天城内に呉俊陞が五万の兵を黒竜江省から率いて来て守備をしている。そこへ山海関から毎日、一万、五千と敗残兵が帰ってくる。(1928年か)5月下旬、敗兵がもう3、4万逃げ込んだ。京奉線から、また古北口の方から、続々入る。
関東軍は腹背に敵を受けねばならない。奉天はまだいいにしても、全満に瀰漫(びまん)した排日は、事があれば、燎原の火のごとく燃えさかり、排日軍は一斉に蜂起するだろう。また奉天で、我が軍と敗残兵とが干戈を交えれば、奉天在住の日本人はどんな目にあうか分からない。すでに排日は奉天城内では言語に絶し(前言と矛盾)、邦人小学生の通学は、関東軍を唯一の頼みにしていたが、関東軍が傍観していたので、日本人に憎まれた。
このような奉天軍の排日行為は、張作霖の意図によるもので、民衆が日本を敵としているのではない。(これも前言と矛盾)張作霖は、欧米に依存し、日本の力を駆逐し、軍閥としての勢力を伸ばし、私腹を肥やそうとしているだけで、真に「東洋永遠の平和」を計るという信念に基づいたものではない。
(こんなことをよくもぬけぬけと言えるものだ。図々しい。)張作霖が倒れれば、他の奉天派諸将もバラバラになる。張作霖によって満州を君臨させれば治安が保たれると日本がこれまで信じてきたのは間違いだった。張作霖は単なる軍閥者流にすぎない。彼には国家観もなく、民衆の福利を計ろうとする考えもない。そして他の諸将も、親分乾分関係の私党の集合である。
こういう私党の集合は、その巨頭が斃れれば、ただちに四散し、再び第二の張作霖が現れるまでは、手も足も出せない。張作霖は匪賊の巨頭に過ぎない。
巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと私は思った。一個の張作霖を抹殺すれば足るのだ。
関東軍司令官村岡将軍もついにここに到達した。では、張作霖を抹殺するには、在満の我が兵力をもってする必要はない。これを謀略によって行えば、さほど困難なことでもない。(これが軍人特有の発想だ。)
今、張作霖は北支にいて、逃げ支度をしているところだ。我が北支派遣軍の手で、これを簡単に抹殺せしむれば足ると考えられた。
竹下参謀が、その内命を受けて、密使として北支へ赴くことになった。
私はそれを察して、竹下参謀に提案した。
「つまらぬ事は止したほうが好い。万一仕損じたらどうする。北支方面に、このような大胆な謀略を敢行できると信じられる人がいるか、心もとない。万一の場合、軍や国家に対して責任を持たせないで、一個人の責任だけで済ませるようにしなければ、虎視眈々の列国が、得たりとどう突っ込んでくるか分からない。俺がやろう。君は北支に行ったら、北京に行き、張作霖の行動を偵察し、いつ汽車に乗って関外に逃れるのかを的確に探知し、俺に知らせてくれ。」と言った。北京には建川義次少将が大使館付武官をしていた。
竹下参謀から暗号電報が届いた。張作霖が関外へ逃れて奉天に帰るために乗車する予定を知らせてきた。さらに、山海関、錦州、新民府と、京奉線の要所に出した偵察者にも、正確な通過地点を監視させ、通過したかどうかを速報せしめる手はずをとった。
奉天ではどこの地点が好いか、巨流河にかかる鉄橋こそは絶好の地点であると決した。
そこで某工兵中隊長をして(名前を出さない)、詳細にその付近の偵察をせしめたところ、奉天軍の警備が非常に厳重である。(謀略の準備のために)少なくとも1週間はそこで待ち構えていなければならないから、それは不可能である。常に替え玉を使うという本尊を捉えるには、ただ一回だけのチャンスでは取り逃がす恐れがある。充分の手配が必要だ。
こちらの監視が比較的自由に行える地点を選ぶ必要がある。満鉄線と京奉線とがクロスする地点、媓古屯は満鉄線が下を通り、京奉線がその上を通るから、日本人が少々うろついていても目立たない。ここに限ると結論を得た。
では今度はどんな手段に出るかが次の問題だ。
一、列車を襲撃するか、
二、爆薬を用いて列車を爆破するか、
手段はこの二途しかない。第一の方法によれば、日本軍が襲撃したという証拠が歴然と残る。
第二の方法によれば痕跡を残さずに敢行できないでもない。
そこで第二の方法を選ぶことにした。そして、万一、この爆破計画が失敗に終わった場合は、直ちに、第二の手はずとして、列車を脱線転覆せしめるという計画をめぐらせた。そしてその混乱に乗じて、抜刀隊を踏み込ませて斬り込む。
万端周到な用意は出来た。
6月4日、確かに張作霖が列車に乗ったという情報が入った。
050 クロス地点を通過するのは午前六時頃である。かねて用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一が仕損じた場合、直ちに第二の爆破が続けられるようにした。しかし完全に本尊を抹殺するには、相当の爆薬量が要る。量を少なくすれば、仕損じる懼れがある。分量が多ければ、効果は大きいが、騒ぎが大きくなる。これには大分頭を悩ました。
それから満鉄線の方である。万一この時間に列車が来ては事だ。予め満鉄に知らせておけばいいが、最小限の当事者のみがあたり秘密裡に敢行するのだから、それは出来なかった。万一の場合にそなえて、発電信号を装置し、危害を防止することにした。
轟然たる爆音とともに黒煙が200メートルも空へ舞い上がったかと思えたが、我ながら驚き、ヒヤヒヤした。
第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも、不要となった。ただ万一、この計画をこちらの計画と知って、兵を差し向けて来た場合は、わが兵力によらず、これを防ぐために、荒木五郎*が組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を堅めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は、軍の主力が警備した。
そして、万一奉天軍が兵を起こせば、張景恵*が我が方に内応(内通)して、奉天独立の軍を起こし、その後の満州事変が一気に起る手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅*がいて、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終わった。(戦争になる恐れもあった。つまり、これは一人河本が行った個人的な事件ではなく、関東軍の統率下に組織的に行った出来事であったことをこの一文を書いた人自らが打ち明けたということである。)
喪は発しないで、人心を鎮めるために、「張作霖は重傷だが、生命に別状なし」と発表したが、城内は異常な沈黙のうちにあった。昨日までと変わって、一時ではあったが排日行為もピタリと止んでしまったのは笑止であった。(挑発的)
張作霖の爆死後、張学良と楊宇霆は、奉天にある日本軍の意向を計りかね、錦州方面に踏みとどまり、奉天に帰ろうとしなかった。奉天では袁金凱1870--1947*を首長とし、東三省治安維持会を組織し、臨時政権を形成した。
今後の東三省政権の首脳者について、日本側には種々の意見があり、奉天軍の軍事顧問だった松井七夫少将一派は楊宇霆を推し、当時奉天特務機関にあった秦真次少将の一派は張学良を推し、その間で暗闘があった。
051 しかしこのまま奉天を空にして主権者なしにおくことは「統治上面白くない」ので、秦、松井の両者から、張学良に「何ら他意のない」ことを示して、張・楊両人が奉天に帰ることを慫慂した。張学良は安心して密かに苦力(クーリー)に変装して奉天に帰ってきた。
ちょうどそのころ前駐支那大使林権助が奉天に来て、まだ落ち着かぬ気分の張学良に会った。
林権助は張学良に、日本外史の中の関が原戦後の豊臣、徳川の関係の一節を説き、暗に張学良を秀頼に、楊宇霆を家康に擬し、張学良を激励した。
張学良は、大阪落城後の秀頼の運命と比べて、家康かもしれない楊宇霆に対して、疑心暗鬼を感じた。たまたま、楊宇霆の誕生祝が催された。張学良は、楊宇霆に対する支那全省の要人達からの山のような豪華な贈り物を見て、豊太閤没後、天下の諸侯がすでに家康になびいた有様を悟った。
張学良の楊宇霆に対する猜疑心は高まり、殺意を抱くようになった。
張作霖爆死の翌年1929年4月、張学良は、奉天督軍公署に、楊宇霆を招き、衛兵長の某をしてピストルで射殺させた。
これを知り、かねて張学良擁立を考えていた秦少将や、奉天軍に入っていた黄慕(荒木五郎)*等は、すかさずこの機会を捉えて張学良を主権者に推し、張学良を親日に導こうとした。しかし、当時既に張学良をとりまく若い要人たちは、欧米に心酔して、自由主義的立場であり、張学良もこれらの者をブレインとして重く用いていたので、張学良の恐日は、次第に排日に、そして遂には侮日に進んだ。
その現れは、満鉄線の包囲路線となり、万宝山事件1931.7.2*となり、あるいは慿庸大学での排日教育となり、秦少将らの張学良懐柔策は失敗した。
張学良政権を再び武力によって倒壊しなければ、ついに満洲問題が永遠に解決できないことが明らかになった。
他方、日本の政界では満蒙問題解決に邁進する誠意を欠き、張作霖爆死事件に関して、これに善処するどころか、かえってこれを倒閣の具にしようとする一派が出てきて、中野正剛、伊沢多喜男*らはそれに狂奔した。
052 時の陸相白川義則大将は愚直で、事件に関する答弁は拙劣で、中野、伊沢らがそれに乗じ、ついに田中義一内閣はこのために倒閣した。
さらに、この事件に参画した私は、停職処分を受け、村岡軍司令官、斎藤参謀長、水野袈裟六独立守備隊司令官等も行政処分を受けた。
私は1929年、昭和4年7月、いったん第9師団司令部附となり、金沢に左遷され、同年8月、停職処分を受け、軍職を退いた。旧伏見聯隊時代の縁故をたどって京都伏見深草願成に移住し、謹慎した。
この謹慎生活で私は沈思した。世は滔滔として自由主義に傾き、彼らは満蒙問題の武力的解決に対して、非難攻撃を集中し、甚だしきは、満蒙放棄論を唱える外交官もいた。
年々増大する我が国の人口問題は如何、食料に対する政策は如何。これから経済政策の根本的建て直しを必要とする時代ではないか。その当然の解決策として、大陸への確乎とした方策なくして何ができよう。私が取った武力的方法は、果たして世の非難攻撃を甘受すべきことであろうか。猛省すべきならば、敢然と反省しよう。
私は自らを責め、自らを省み、深く時代を虚心、しっかり把握するために、努力、研鑽した。京都帝大の権威と言われる多くの学者達の門も叩いた。また連日に渡り京都帝大図書館に通ってあらゆる政治経済の群書を広く渉猟した。
その結果、日本の将来に直面しているものが、満蒙問題解決に他ならないということが不動の真実であることに間違いのないことを確かめた。新しい構想の下に、あくまでも満洲問題を解決すべきであるという強固な決意を深めるばかりであった。
伏見には一年間いた。その一年が過ぎると、一応停職を解かれて、第十六師団司令部附となり、現役に復したが、その翌日付で予備役*に編入され、居を東京に移した。
1954年昭和29年12月号
以上 2020年7月9日(木)
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