濱口雄幸 ウイキペディア
感想 濱口雄幸は、身分や出自を重視する傾向がまだ色濃く残る時代に、立派な家系に生まれついたわけではなかった。ところが素封家の養子になり、また勉強もよく出来たため、大蔵官僚になれた。一時期上司に楯突いて外回りしていたが、拾ってくれる人もいて、首相の座にまで登り詰めた。
濱口は、軍事力増強が当たり前の明治以来の伝統をやめて、庶民の生活を考え、国際的には平和協調を重視して、軍縮に賛成した。ところがそういう弱腰の政策に反対する政友会、海軍、右翼などの反対される中、右翼のテロに逢って、それが元で、一年も立たない内に死んでしまった。ウイキペディアも指摘するように、濱口は戦前ではまれに見るリベラルな首相だった。運悪く世界恐慌に見舞われ、経済政策に失敗したことが、マイナス要因だったのかもしれない。右翼に注意すべし。
濱口雄幸 1870.5.1—1931.8.26 大蔵官僚、政治家。立憲民政党濱口内閣1929.7.2.—1931.4.14
土佐国長岡郡五台山唐谷で林業を営む水口胤平の3人兄弟の末子として生まれた。1889年、高知県安芸郡田野村(現・田野町)の素封家・濱口義立の16歳の長女夏子と結婚し、養嗣子となる。第三高等中学校を経て、1895年、帝国大学法科政治学科(後の東京帝国大学)を3番の成績で卒業。幣原喜重郎とは第三高等中学校、帝国大学を通じての同級生。
大蔵省に入り、大蔵次官を務め、1915年、立憲同志会に入党、衆議院議員に当選し、加藤高明内閣の大蔵大臣、第一次若槻内閣の内務大臣を務める。立憲民政党初代総裁となり、田中義一内閣の次の内閣総理大臣に就任。井上準之助を蔵相に起用し、金解禁や緊縮政策を断行し、立憲政友会の反対を排除して、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。
謹厳実直、頑固だが、大衆に親しまれた。財界人も彼に期待した。
大蔵省に入省後上司と衝突し、地方回りをしていたが、若槻禮次郎ら先輩や友人が帰京を嘆願した。後藤新平が財界入りを勧め、政治家となってからは加藤高明に重用された。
国際協調・軍縮の方針に一貫して賛同した。第一次大戦中から帝国海軍の拡張は当然であるという雰囲気があり、海軍省・海軍軍令部は、帝国国防方針に基づく八八艦隊*確立のために、国防費増額を要求していた。しかし濱口は、国家予算の多くが国防費に消費される中での国民生活の危機を感じ、また列国間の建艦競争を憂慮した。米国が早晩一番の大国になるのは明らかであり、「我が国は国力の関係上、英米二国の海軍力に追従することはできない」と述べている。
*艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核とし、補助艦艇や第一線を退いた艦齢8年超の主力艦群を主軸とする計画。ワシントン軍縮条約で中止。
戦後不況と社会不安の増大する中、彼は、軍拡から軍縮に転換し、国民負担軽減施策を提示した。明治以来、軍備拡張が当たり前の空気のある中、戦争から平和へ、軍拡から軍縮へ、積極財政から緊縮財政へという彼の政治家としての信念は、評価される一方で、緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し、社会不安を増大させたと酷評されることもある。
濱口は外務大臣に幣原喜重郎を重用して国際協調路線を貫いた。第二回普通選挙で民政党は政友会に圧勝した。ロンドン軍縮会議の首席代表に若槻禮次郎を任命し、ワシントン会議では加藤友三郎(海軍軍人)、ジュネーブ(海軍軍縮)会議1927では齋藤實(海軍軍人)を首席代表に任命した。若槻は文官であり、それは、それまでの海軍軍縮会議の責任者が海軍出身者だったことに反していた。
ロンドン軍縮会議では軍令部を中心に、巡洋艦の日本の対英米保有比率7割に猛反対し、これに右翼や野党も同調した。軍令部は、統帥権限を実際上握っていることから統帥権を拡大解釈し、天皇の統帥権干犯を主張し、また海軍軍人秋山真之の計算に基づき、対米7割以上の海軍力が必要と考えていた。反対派には伏見宮博恭王、東郷平八郎などの大物がいて、解決が困難だった。
民政党は大衆に支持され、宮中からも信頼されていた。濱口は「唯一正道を歩まん。たとい玉砕すとも男子の本懐ならずや」と言っていた。濱口は料亭政治を嫌い、根回しを回避したが、それは戦前では珍しいことだ。
1927年、金融恐慌による不況にあえぎながらも、軍拡の動きが活発だった。濱口は金解禁を不可欠だと考えた。しかし、世界的に見ても、第一次大戦後に再建された金本位制は、正貨不足からデフレの原因となり、不況に陥った。
濱口首相は蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助を起用し、不況の中でも金解禁を断行したが、それは「嵐に向って雨戸を開け放つようなもの」と批判された。しかも、日本経済の趨勢を無視して、旧平価(円高水準)で解禁した。(石橋湛山らジャーナリストは、新平価での解禁を主張していた。)そのため、輸出業が減退した。直後に世界恐慌が起り、1929年の実質GDP成長率は、0.5%、1930年には1.1%と、経済失政と評された。
濱口は、金解禁が経済正常化への端緒であり、いずれ日本の経済構造が改革されると考えていたが、結果は大不況と社会不安を生み出した。
濱口が凶弾に倒れた後の経済政策は、第2次若槻内閣に引き継がれたが、1931年の成長率は0.4%と低迷した。
民政党内閣から交代した政友会の犬養内閣で蔵相を務めた高橋是清のリフレーション政策によって、デフレが終息した。高橋は金輸出を再び禁止し、日銀の国債引き受けによる積極財政という、濱口とは正反対の方針を取った。犬養内閣での経済成長率は、1932年、4.4%、1933年、11.4%、1934年、8.7%と回復し、日本は、世界に先駆けて不況から脱出した。
1930年11月14日、現在の岡山県浅口市で行われる陸軍の演習と、昭和天皇の行幸への付き添いと、自身の国帰りも兼ねて濱口は東京駅を訪れた。第4ホームを移動中、愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃された。弾丸は骨盤を砕き、駅長室で東京帝国大学外科学主任教授の塩田広重の手で輸血され、容体が安定してから東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、一命をとりとめた。
(裁判のやり方や判決後の甘い処遇など謎の多い)原敬暗殺事件1921.11.4以後、首相の乗降時には一般人の立ち入りを制限していたが、濱口は「人々に迷惑をかけてはならない」とし、この時は立入制限されていなかった。銃撃発生の同時刻同ホームで、ソビエト連邦に向けて赴任する弘田弘毅大使が出発していた。
佐郷屋は「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い。」と供述した。(テロという手法が悪いのだ)
入院中は幣原外相が臨時首相代理を務め、濱口首相は1931年1月21日に退院した。野党政友会の鳩山一郎は執拗に濱口の登壇を要求し、同年3月10日、濱口は無理をして衆議院に姿を見せ、翌11日も貴族院に出席した。その後も政友会による登壇要求が止まず、濱口は18日に登壇したが、声がかすれていた。4月4日再入院し、翌5日手術を受け、4月13日、首相を辞任し、民政党総裁も辞任した。濱口雄幸は、8月26日、放線菌症のために薨去した。享年62。
佐郷屋には殺人未遂罪が適用されたが、1933年の判決は死刑だった。1934年、恩赦で無期懲役に、1940年11月、仮出所した。佐郷屋にモーゼルC96を渡した岩田愛之助と松木良勝も幇助罪で逮捕され、岩田は懲役4年、松木は懲役13年の判決を受けた。
以上 2020年7月18日(土)
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