芥川の事ども 菊池寛 1927年、昭和2年9月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻 1988
芥川龍之助の自殺を評した菊池寛の文章である。一高の同級生だったらしいが、菊地のこの文章には何かしら冷たいものを感じる。言葉では芥川を高く評価するのだが、内心では、「肝っ玉の小さい男だ、生活力がない、俺には生活力があり、小さなことに気は使わない。」と言っているかのように聞こえるのだが、勘ぐりだろうか。
当時の知識人は、知識があることを競い合い、西洋の文物*を急速に取り入れようとし、菊地はそのことを「過渡期」027と表現している。つまり、日本の知的レベルはまだまだ西洋に追いつかず、取り入れるべきことが多いということなのだろう。また芥川が自殺したのは生活力がなかった点も一つの要因だと菊地は指摘するが、菊地自身も、時事新報や大阪毎日025での勤務や、文芸春秋の経営026などに触れ自慢しているようだが、そういうことを言い出すだけ、菊地自身も生活の不安を抱え、汲々としていたのではないかと思われる。
*例えばわざわざ英語を使って Social unrest (社会不安)だとか、「ショウ」とか、「君、マインレンデルというのを知っているか。」――「君は。」――「僕も知らないんだ、あれは人の中かしらん。」など、西洋の知識があるかどうかを気にしている様子が分かる。
ウイキペディアによると
菊池寛1888--1948は香川県香川郡高松市7番丁で7人兄弟の四男として生まれた。菊地家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄であるが、寛が生まれた頃は家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていた。
高松中学校卒業後、東京高等師範学校へ進んだが、教師になる気がなく、怠学で除籍処分され、明治大学法科を3ヶ月で退学し、徴兵逃れを目的に早稲田大学に籍だけを置いた後、文学を志し、家族の資金援助で第一高等学校第一部乙類に22歳で入学したが、卒業間際に盗品のマントを質入して退学処分となった。友人の成瀬正一の実家の援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学、1916年京大を卒業し、上京。成瀬家の縁故で時事新報社会部記者となった。月給は25円で、うち10円を実家に送金した。
菊池寛も生活に苦しんだらしく、生活のため資産家の娘と結婚することを考え、郷里に相談し、1917年、高松藩の旧藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚した。
1923年菊池寛は『文芸春秋』を創刊した。発行編集兼印刷人で、発行元は春陽堂。定価は10銭であった。当時『中央公論』が特価1円、『新潮』が80銭の時代で、10銭は破格の安さであり、創刊号は3000部を売りつくした。1926年、春陽堂を離れて、文芸春秋社として独立した。
1927年7月25日、芥川が自殺し、菊池寛は号泣し、葬儀では「弔辞読む半ばから涙が止まらなかった」とのこと。
1928年衆議院選挙に東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。
1938年内閣情報部は日本文芸家協会会長の菊池寛に、作家を動員して従軍するように命令した。菊地は総勢22人で大陸に渡り、揚子江作戦、南京、徐州を視察した。菊池は「国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、樺太、台湾など戦地を回った。1942年日本文学報国会の議長となり、映画会社「大映」の社長になり、国策映画作りに奮迅した。
1947年GHQから公職追放の指令が下されたが、菊地は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った。1948年、2月胃腸障害で寝込み、回復後の3月6日、近親者や主治医を集めて全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べた後、二階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、59歳で急死した。葬儀委員長は久米正雄。久米も一高の同期で、戦争中戦地を共に視察し慰問し講演をした一人だ。
遺書があったという。自殺か。それとも、死にそうになってあわてて遺書を書いたのか。
私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。
吉日吉日 菊池寛
感想 「文芸春秋」が菊池寛の創刊で、菊地が戦時中戦争に協力し、戦後は公職追放になるなど、「文芸春秋」の性格を物語っているように思える。「僕のどこが悪いのだ」とのことだが、戦地に出向いた時、何も感ずるところがなかったのだろうか。2020年7月1日(水)
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