満州事変の舞台裏 花谷 正 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史1988
感想 これは満鉄総裁内田康哉の一大変節をテーマとし、その変節ぶりをあざ笑うかのように、満州事変を得々として振り返る、当時奉天特務機関員・陸軍少佐の戦後の回顧談である。これもやはり、1955年、米占領軍が公職追放からレッドパージに変節し、朝鮮戦争が終わり、日本がサンフランシスコ条約で独立し、米軍統治がなくなって安心した時の、戦前肯定の雄叫びである。
1957年、花谷が死んだとき、盛大な葬式が行われたという。無反省の狂気の集団が、戦後日本でもしぶとく存在することを物語る。
内田康哉 (うちだこうさい、1865.9.29—1936.3.12 )
優秀な外務官僚・政治家だったが、真の哲学がなく、その時々の時流に乗って過ごした「単なる有能な事務官僚」(外交評論家で元タイ大使の岡崎久彦)だった。パリ講和会議、ワシントン会議、パリ不戦条約では、国際協調的で進歩的な態度*を取っていたが、満鉄総裁になり、関東軍司令官の本庄繁と会ってからは急変し、不拡大方針から事変拡大派に転向した。一時、1932年4月、犬養内閣によって江口定條・満鉄副総裁(民政党系で軍部に批判的だった)の更迭に抗議し、辞表を提出したが、軍部に慰留され、そのまま留まった。1936年3月12日、二・二六事件の15日後に、70歳で亡くなった。ポリシーのない人生をやめたかったのかもしれない。
*これらについて内田は「四国条約*の締結といい、支那関係の原則の決定といい、全てこれは世界における恒久平和の樹立に対する一般人類の真摯なる要求の発露に他ならない。単に各国政府の一時的政策と認むるべきではない。」と演説している。*ワシントン会議において米英仏日の4カ国間で調印された。1921.12.13
熊本藩医内田玄真の子。同志社英学校入学の2年後に退学。東京帝国大学法科卒業後、外務省に入省。ロンドン公使館、清国北京公使館(一時臨時代理公使)勤務、オーストリア公使兼スイス公使、アメリカ大使、ロシア大使、第4次伊藤内閣のとき外務次官。
第2次西園寺公望内閣1911.8、原敬内閣1918.9、高橋是清内閣1921.11、加藤友三郎内閣1922.6で、外務大臣。原内閣以降、パリ講和会議、ワシントン会議の時期の外相として、ベルサイユ体制、ワシントン体制の構築、1928年の不戦条約成立に関与し、第一次大戦後の国際協調体制を構築した一人だった。
但し、清国山東省の元帝国ドイツ領の日本の権益を主張したベルサイユ条約の山東条項は、山東問題を惹き起こし、1922年の「山東懸案解決に関する条約」が締結されるまで解決されなかった。
原敬暗殺1921、加藤友三郎急逝1923の際、内田は宮内席次で内閣総理大臣の次席だったので、皇室儀制令の規定に則り、内閣総理大臣代理を務めた。2度目の首相臨時代理の際、第2次山本権兵衛組閣前の2日間だけ、関東大震災対策の指揮を取った。枢密顧問官1925、不戦条約に関与1928、貴族院議員1930
1931年、南満洲鉄道総裁に就任。同年9月の満州事変では、不拡大方針で臨んだが、満鉄理事で事変拡大派の十河信二の斡旋で、関東軍司令官・本庄繁と面会したのを機に、急進的な拡大派に転向した。1932年4月、犬養内閣によって江口定條・満鉄副総裁(民政党系で軍部に批判的だった)の更迭に抗議し、辞表を提出したが、軍部に慰留され、そのまま留まった。同年1932年7月に成立した齋藤内閣で外務大臣。国際連盟で満州国の取扱が審議され、松岡洋右全権が交渉にあたり、主権を中華民国(蔣介石)に潜在的に認めたまま、日本の「勢力圏」にするという日本に有利な調停案がまとまったが、内田がこの案を一蹴し、日本は、満州国を国家承認、国連脱退に追い込まれた。1932年8月25日、衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」(焦土演説)と答弁。当時の外交評論家清沢洌は「国が焦土となるのを避けるのが外交であろう」と批判した。
花谷正(はなやただし、1894.1.5—1957.8.28)は恐ろしい男だ。1933年、軍部を批判した「北陸タイムス」(現・北日本新聞社)を、大隊を率いて「独断で」「攻撃した」という。そして不思議なことに、この件で懲罰を受けるどころか、同年1933年8月、参謀本部付きとして済南武官にご栄転。1935年8月、関東軍参謀となった。1937年8月、陸軍大佐に昇進し、歩兵第43連隊長として日中戦争に出征。1940年3月、陸軍少将に昇進。1943年6月、陸軍中将に昇進。同年1943年10月、第55師団長に親補され、ビルマに出征。第二次アキャブ作戦を指揮し、無能で杜撰な作戦で大失敗したが、責任は追及されなかった。
人格的にも問題があり、第55師団長時代、部下の将校を殴り、自決を強要した。陸大卒を鼻にかけ、無天(陸大非卒業者)や専科あがりの将校を執拗にいじめ、上は将校から下は兵卒まで、自殺者や精神疾患を起こした者が多数出た。部下から強い侮辱と憎悪を買った。半面小心で、行軍中でも小休止の度に自分専用の防空壕を掘らせた。
1945年7月、第39軍参謀長に就任し、タイ王国に赴任。第18方面軍参謀長として終戦を迎え、1946年7月に復員し、予備役に編入された。戦後は軍人恩給で暮らし、「曙会」という右翼団体を一人で運営した。
1955年『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」昭和30年12月号 河出書房)において、秦郁彦の取材に応える形で、満州事変が謀略であったことを証言した。このとき、満州事変は自衛であるとし、関東軍による謀略を否定していた、当時の関東軍指導者である、本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾らは物故していた。
1957年、病で倒れ、片倉衷が義捐金を募ったが、部下は一人としてこれに応じなかった。同年死去。旧満州関係者が列席し、盛大な葬儀が営まれたが、部下は誰一人会葬しなかった。
本庄繁(1876.5.10—1945.11.20、戦犯指定で自決)は、天皇にも嘘をついていた。自分が天皇よりも優れた政治判断を下せると考えていたに違いない。ウイキペディア、片倉衷(かたくらただし、1898.5.18—1991.7.23、軍人・実業家)によれば、以下の通りである。
1932年9月8日、前関東軍司令官の本庄繁中将、板垣征四郎(1885.1.21—1948.12.23、死刑)、石原莞爾(1889.1.18—1949.8.15、肺炎と膀胱癌で死亡)らとともに片倉衷は、宮中で昭和天皇に拝謁し、昼食会に臨席した。懇談会において天皇は本庄に、「満州事変は、一部の者の謀略との噂もあるがどうか」と質問し、本庄は「一部軍人、民間人によって謀略が企てられたということは、私も後で聞き及びましたが、関東軍並びに本職(私)としては当時断じて謀略はやっておりません」と答えた。
要旨
編集部注
1931年、昭和6年9月18日、関東軍は奉天の北東にあたる柳条湖の鉄道爆破を仕掛け、それを中国のせいにして、中国に戦争を仕掛けた(原文は、「鉄道爆破によって、日中両軍が衝突した」)満州事変は、日本陸軍が企てた国際的謀略であった。生命線たる満蒙を完全に日本の勢力下におくことによって、国防の安全と国内の不況を一挙に解決しようとする「戦略」であった。しかし、当時の国民はそのこと(日本軍による謀略だったこと)を知らず、真相が明らかになったのは、戦後である。筆者は陰謀計画者の一人で、当時は奉天特務機関員で陸軍少佐であった。
本文
101 長期間に渡る排日、張学良が奉天政権となってからの満洲全土での侮日。日露戦争以来満洲在住の父子二代の日本居留民は日常生活を脅かされて日本政府の温和政策を非難し、日本内外で「物情騒然たる世相」が続き、このままではとても「収まるまい」とは、国民の勘で想像されていた。
1931年9月18日の夜「勃発」した満州事変に日本国民の血潮が湧き立ったのは当然だった。
特に、満洲在住の一般市民、会社員、実業家、軍人、満鉄社員などの感激がその極に達したことは、現地にいた当時の者でなくては想像できないことだ。各地に日本人大会が開催され、この際、徹底的に満蒙問題を「解決」し、武力衝突の起った現在、中途で姑息な妥協をしてはならぬ、との激しい叫びが全満に響き渡り(扇動的)、奉天に出動している関東軍司令部へは非常な激励が続いた。
兵力移動の輸送に任ずる満鉄鉄道部の現地職員の張り切り方は、軍隊と競争であり、大連本社の職員の各種専門家も、大連から軍司令部に来て、「何でもお手伝いする」と各人非常な意気込みである。我々軍の参謀もこれに感激し「不眠不休」懸命の努力を自ら誓った。
日本における当時の民政党若槻礼次郎内閣は、幣原喜重郎外相、井上準之助蔵相の宥和政策に押され、南次郎陸相、安達内相の強硬主張と対立した。幣原外相から満鉄に対して、「事件不拡大、武力行使停止の考えだから、満鉄は関東軍と一緒になって、事件進展を図らぬよう、静観せよ」との電報があり、満鉄理事以上の重役は、傍観的な無為無策の態度を採った。
「事変」はもともと鉄道の警備、満鉄マンを含む在満日本人の生命財産の保護から端を発したものであったから、軍司令部は満鉄首脳部の態度に不快で(自分達で勝手に始めておきながら「不快」か)、一般居留民は憤慨した。
誰かが内田康哉(こうさい)満鉄総裁を奉天に「引っ張り出し」、軍司令官以下と、現在および将来に関して協議させようではないかということになり、非公式にこれを大連本社の者に伝えた。
102 しかし出てきたのは、江口定条副総裁であった。江口は本庄繁軍司令官、三宅参謀長と会って、儀礼的挨拶に終わり、林総領事とも会ったが、あっさり大連に帰った。江口は、事件の現在・将来に関する政策的問題には少しも触れず、負傷者の慰問さえしなかった。江口は大連で、「本庄司令官も三宅参謀長も、別に満鉄幹部に対して憤懣の色はなかった」と報告した。
それで我々は、「本庄軍司令官や三宅参謀長は老熟した人々で、わざわざ挨拶に来られた江口副総裁に怒りの色を表すなど、はしたないことはされぬのは当然だ。また江口氏が満州政策など持ち合わせていないことを知っていたので、愛想よく応接したに過ぎない。これで軍と満鉄とが良くいっている証左とはいささか呆れる」と、大連の満鉄社員倶楽部で、社員に「やらせた。」(言わせたということか。内田を挑発したということだ。)
これが内田総裁や江口副総裁の耳に入った。内田伯は、日本内地、満洲その他、世界情勢の推移を静観しつつ、今度の事変をいかに処理すべきか、「毎日考えていた。」ある日、理事の十河信二を呼び、「東京の中央部と出先関東軍との意見不一致のまま、関東軍としては、「敵」を前にして作戦を続けつつ、電報その他で政府と意見調整を図っているようだが、軍は積極的であり、政府は「事なかれ主義」で収めようとし、現地の満鉄としては容易に動きが取れない。それで私が東京に行き、政府の意見を聞き、「満鉄社内の統一」(満鉄社内でも不統一の問題が生じるまでになっていたようだ)を計らねばならないと思うがどうか」と言った。
それに対して十河氏は、「総裁は外相も総理大臣代理も経験された日本の重鎮であり、外交畑の大先輩である。若槻総理や幣原外相から、現地の実情と現在及び将来の対策を聞かれるだろう。軍司令部は、在満20万同胞の輿望(よぼう、衆望)を担い、満洲3千万人民の安寧を企図し、幾万の軍人と幾千のシビリアンの「有志」達を指揮している。また軍司令官は法制上、満鉄に対して軍事指揮権を持つ。だから満鉄は軍司令部の意見を聞かなければならない。従ってまず奉天に行き、軍司令官と対策を検討し、その後で東京政府と折衝する必要がある」と主張すると、内田伯はこれに「直ちに賛同した。」
さらに十河氏は「非常に多くの満鉄社員が軍司令部に入って職員となり、事務室で政策の立案、現地の活動に死力を尽くし、また参謀で立案に当たっている者もいるので、これらの者とも懇談する必要もある。(満鉄はどういう組織なのか。関東軍の附属機関か。)軍病院の戦傷患者の慰問もお忘れなく。」と語った。
103 内田総裁は奉天ヤマトホテルに満鉄関係の人を呼び、奉天の状況、軍司令部の様子を聞いた後で、本庄軍司令官を訪れ、事件発生後の軍諸機関の敏速な活動と機宜に適した数多の処置を賞賛し、その労苦と心労をねぎらい、また三宅参謀長を交えて時局について語り、軍病院に傷病兵を見舞った。そして軍司令部の幕僚板垣征四郎大佐(後の板垣大将)、石原莞爾中佐、竹下中佐、それに私(花谷正)の四人に、午後3時からホテルで会見したいと申し込んで来た。私は満洲での日満両軍の対立状況、イルクーツク以東浦塩(斯徳、ウラジオストク)までのソ連軍の配置、熱河省以遠支那本部の張学良軍や南京政府軍の状況を述べ、また、この事変を契機に、日満漢蒙鮮五族を中心とする民族協和の「新天地」をつくり、交通、産業、政治、教育において大発展するような新国家をつくらねばならない。(現実を弁えない自己中の空想、或いは軍事介入の口実か。)その際、日本は満洲を領土とする意志があってはならない、と結んだ。
104 次いで、石原、竹下、板垣等が、それぞれ自らの経綸や抱負を述べた。
内田伯は「そのような諸般に渡る構想が練られ、他民族を含む多くの人々と以前から交わりが密かに結ばれ、強大な武力を現在までに把握し、諸計画の大綱が出来ているとは夢にも知らなかった。」
「私は、日本民族や満洲3千万民衆を厚生させる、そのような雄大な計画を考えたことも作ったこともない。面目がない。よく話してくれた。外国に対しては秘密なことばかりのようだ。外務省や陸軍の中央部でも、自分で研究し、立案し、見識を持っている人は少ない。私も関東軍に全幅の信頼を寄せ、満鉄の財産全部を投じて諸君に協力する同志となる。」
その後夕食を一緒にとった。
内田伯「私は愉快だ。決心が決まった。」
私(花谷)は「私が陸大の学生で中尉のころ、閣下は外務大臣でした。そのころ新聞や世間は閣下のことをゴム人形と言っていた。上京されたとき無為の安全論にヘコマヌようにお願いします」と注文をつけた。
内田伯は上機嫌で、老いの一徹、老人なかなか意気盛んだと感じた。
散会後、板垣大佐と私は残ってさらに内田伯と歓談した。(歓談というより注文か。)
花谷「現内閣は国民感情に押しつぶされ、次は政友会内閣となるだろう。犬養さんは孫文以来、南方の支那人と連絡が多いから、支那と満洲とをどう調節するかを考えておられるだろう。」
板垣「一蓮托生であるべき閣僚が中から割れている。内閣不統一で、若槻さんは(内閣を)投げ出すだろう。もうその臭いがする。」
内田「君等が退官して義勇軍を作るような破目にまで、政府が(君等を)追い込まぬように、頑張る。」(内田も関東軍が跳ね上がりで、しかも組織的に行っていることが分かったようだ。関東軍のこの陰謀は、民間の右翼(北一輝、大川周明、井上日召)やクーデター計画とも関連しているに違いない。)
105 板垣「閣下が上京の際、(天皇への)拝謁があるように、その筋に連絡しておく。天皇への言葉を準備しておいて欲しい。」(すでに組織が出来上がっていることを示唆する発言だ。)
内田「君等に内地にも同志がいるとは、機敏なことだ。」
花谷「臨時議会が開かれて臨時軍事費が令達されるまでの作戦軍部隊や軍需品の輸送費は、後払証を駅か輸送事務所へ差し出すことで、満鉄が軍隊輸送を担当して欲しい。後日精算します。」「また、奉天や各地で軍の職員となって働いている満鉄社員で、本社へ辞表を出して来ている者も多い。満鉄はこれらの者も会社の籍において、出張旅費を出してください。」
内田「これは上級幹部の判断の問題である。大いに鼓吹する。」
板垣「(満鉄の)理事中二名位は奉天に常駐させ、軍司令部と連絡させ、互いに構想を練り、軍事以外のことでは、軍を援助・指導するくらいの気位をもって欲しい。」
内田「軍力がなければ政治的な調査ができない。奥地に「飛び込む」には軍からピストルなどの武器を貸してもらうこともあろう。将校の軍服を借りて支那人と話さねばならないこともある。その辺は軍でよく面倒を見てもらいたい。全幅の協力をさせる。日本民族未曾有の大事業だ。
板垣君は、いろいろと支那人を使い、降伏した奉天や吉林の旧敵軍を改編し、兵器弾薬材料の処理に臨時人夫を雇い、大勢の日本人を運用しているが、この人件費や事業費は、日本の臨時議会が開かれない間は、第二予備金などを大蔵大臣が出し渋れば、陸軍大臣が関東軍に予算を増加令達することは難しく、陸軍省も関東軍も苦しんでおるでしょう。陸軍省の方は東京で何とでもやりくりがつくが、関東軍はそうは行かないので大変だ。
過渡期の今が大変だ。満鉄が一時立替し援助する。こんな緊急事態は歴史上そうあるものではない。各方面が協力すべきだ。」
さすが国務大臣をやった人だけに、国政の事務的着眼もよい。百万の味方を得たような気がした。
内田「東京の青壮年の参謀将校や、部隊の元気な将校たちは、大変な意気込みだそうだね。安達謙蔵内務大臣などは、『内閣がボヤボヤしているから、これらの精鋭を越軌の行動に出させることがあってはならぬ』と善意から心配しているらしい。」
106 「安達も若いとき新聞記者で、朝鮮にいて、閔妃のやり方が日本を排撃する禍根であると、宮廷に飛び込んで皇后を斬り殺した一味で、元来熱血漢だ。安達は、時局を積極的に促進するよう、自分の民政党を割って努めるだろう。月日の経過に伴って自然に内地も、だんだんしこりがほぐれていくだろう。」
板垣「国際連盟の理事会や総会が日本を抑えるためにずいぶんとやかましく言い、今後紆余曲折もあるだろう。内田さんのご意見は。」
内田「通信社や新聞、雑誌を賑やかにするだろう。諸君が先刻判断していたように、極東の一角のことで列強が兵力を差し向けるようなことは馬鹿馬鹿しくてやらぬ。(こういう計算なのだ。力任せの。)
外交官は嫌がるだろうが、死にはせぬのだから、(世界の反対輿論の中でも)孤軍奮闘、論駁また論駁で意志強固に粘ってもらわねばならない。いったんその決意に踏み切れば、後は先方が寄ってたかって何と言おうと蛙の面に水さ。」(これでは国際協調抛棄、自己中愛国に埋没。)
「奉天の林総領事も、外交交渉の相手は消し飛んでしまった。(武力攻撃で相手が逃げたということか。)目下、(関東軍の)軍事行動中で、彼に作戦に関する知識はないから、軍司令部に進言することもできない。
(林総領事は)情報を調べもせずに、外務省に通達する。それが陸軍省、参謀本部に伝えられる。逆に関東軍から東京に通報する。(林総領事の報告に)事実と違ったことがあるから、(関東)軍が憤慨し、笑殺する。その結果、出先の協力が乱れ、外務省と陸軍省との一致が乱れる。
軍は居留民の生命財産を武力的に保護してくれるから、各地の居留民は軍隊に親しみ、総領事館を罵倒する。これは日本人全体としての協力一致を破る。だから私は外交畑の先輩として、林君(総領事)に今は用事がないのだから、賜暇休暇を取って日本に帰りのびのびするように勧めたい。それとも軍司令部の方で総領事に何か頼んで現地でやってもらわねばならないことはあるのか。」
我々としては何も依頼することはなかった。現地の陸軍は、奉天政権の排日的横暴に在満同胞が衰え行くのを見て、切歯扼腕、時の至るのを待っていた。若林大尉が、鴨緑江上流の満洲側で殺され、さらに万宝山事件があり、それらの交渉が奉天政権の不誠実で解決がつかぬことを知り、激昂していたからだ。
暴力で来る相手には力で当たらねばならない。事件が勃発すると、大河の勢いで敵に押しかかった。
予後備兵を動員することもなく、常備兵で編制された戦闘部隊だから、将校と下士官との間には、教官すなわち指揮官という親しみがあり、精鋭度が高かった。また国家としても動員費が要らず、糧食、弾薬の運搬も、親日支那人が引き受けた。機関銃、馬、弾薬、小銃や迫撃砲も、鹵獲(ろかく)兵器だけで補充し、内地からの輸送はまったくなかった。いったん矢が弦を離れた以上、日本政府の幣原外相や井上蔵相や若槻総理は、何で危ぶんで躊躇していたのか。(居直り)
107 内田康哉伯は、奉天に住む日露戦争以来の老居留民や外務省出先官や有志の人々と会って、三日後に上京した。
(内田)伯爵からしばしば電報による激励がなされ、「幣原その他に会った。遠き慮の策案がない。諸君の意志を枉(ま)げず邁進されよ。」と逆に促された。
伯は陸軍省、参謀本部の首脳とも会い、対満強硬策を述べ、現関東軍を掣肘するなと烈しく進言した。政治家に対しては日本民族発展の好機を逸するなかれと論じ、枢府の老人には積極的に政府を鞭撻せよと唱えた。陸軍省、参謀本部の若い連中は百万の味方を得たりと喜んだ。(軍組織が年齢によって分裂していたのか。)
天皇陛下及び皇太后陛下には、別々に拝謁御下問があった由。全国至る所の国民大会は、「若槻内閣打倒、満州事変完遂、外国恐るるに足らず」と絶叫決議し、内閣に迫った。若槻民政党内閣はつぶれ、後継内閣の犬養政友会内閣に、外務大臣として伯爵内田康哉が名を連ねた。1932年、昭和7年春、日本国は新興満州国を承認した。
満州事変の初期段階では国策が長い間決定されない「過渡的混乱期」だった。
後に私が松岡洋右(東京裁判公判中に病死1946.6.27)に、内田のこの話をしたところ、「ゴム人形がそんなになられたか。余はあまり傑出した人と思っていなかったが、国家の大事に臨んでのその認識、その信念は敬服すべく、賞賛すべきものであったと思う。」「犬養内閣の外相としての強硬な主張、国際連盟のリットン調査団に対する応答、満州国早期承認論など、堅確な意志には驚いていたのだ。」
私は、1935年、昭和10年、政務班長として関東軍参謀に、済南駐在武官から転任した。満州国が内田康哉伯を表彰するのを事務当事者が失念していたので、是非表彰すべきだと私は主張し、満州国は勲一等位の勲章を伯の霊前に捧げた。
1955年、昭和30年8月号 三十五大事件
以上 2020年7月28日(火)
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