治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央支部準備会主催「今こそ、戦争NOの声を!!講演を聞き 平和を語り合う会」2023/9/24(日)2pm—4:30 中央区立男女平等センター「ブーケ21」
①治安維持法犠牲者遺族・元中央区議会議員 田口仲子101歳
田口仲子の兄・杉浦正男と夫・田口俊朗は治安維持法犠牲者で、戦時中は家族も村八分にされた。現在船橋在住。
冊子『八十年を振り返って』は私が80歳の時に自らの生い立ちを書いたものである。私は隅田川の近くで生まれたが、今の東京はビルの乱立で昔の面影がない。兄と夫は戦後解放された。兄・杉浦正男は2年前に106歳で亡くなった。
②治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央本部副会長・千葉県本部会長 小松実 講演「今につながる治安維持法体制に決着を」
〇自己紹介 国賠同盟以前は千葉県議を7期(選挙制度改正で花見川区で5期)、それ以前は中学校の国語の教員だった。
杉浦正男は千代子の映画の(原作者)藤田(廣登)と交流があった。
〇戦争準備と学問統制・弾圧とはセットになっている。
2022年9月30日、読売グループ本社の山口寿一社長は「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会合で、敵基地攻撃能力の必要性を訴えた。
トマホークは役に立たないし、イージスに載せるために莫大な改修費がかかる。
トマホークが時速900キロで2時間飛行するとは、旅客機と同じ速さで2時間1600キロを飛行するということである。
共謀罪2017.6.15は罪刑法定主義を逸脱し、ある考え(相談・計画)で集まっただけでも逮捕する。
〇占領政策の転換と治安維持法勢力の復権
ポツダム宣言は平和推進と戦争廃止を目的としていたが、東久邇稔彦内閣はそれをせず、占領軍による10月4日の人権指令を待たねばならなかった。
某米人が内務大臣・山崎巌1945.8.17—10.8)に尋ねたところ、山崎巌は「共産主義者を弾圧し続ける」と明言し、そのことから米側は10月4日に人権指令(政治犯の即時釈放、思想警察・治安維持法等の廃止)を出した。もし8月15日に解放されていたら、三木清は死なずに済んだかもしれない。そして10月15日に治安維持法は廃止された。
1947年3月、トルーマン・ドクトリンが「全体主義」を批判し、冷戦が開始された。
1948年1月6日、米ロイヤル陸軍長官演説「日本を反共の防壁に」
1948年5月18日、米ロイヤル陸軍長官は覚書の中で「日本の再軍備を」「アメリカ人の命を節約することが日本の再軍備の目的だ」と言明している。この米ロイヤルの覚書が戦後改憲の始まりであるといえる。
1951年9月4日~8日、対日講和会議、日米安保条約調印(講和発効まで非公開)
特高上層部は戦後公職追放パージを逃れるために特高以外の部署に移され、その人脈は温存された。
〇特高54人は戦後国会議員になった。
古屋亨 岩手県特高課長。1955年、内閣総理大臣官房調査室室長、1957年、内閣調査室室長、1967年、纐纈弥三の後を引き継ぎ、岐阜2区から当選。1984年~85年、自治大臣、国家公安委員長。
古屋圭司は古屋亨の甥で核武装論者。慰安婦の強制連行否定。選択的夫婦別姓制度推進の意見書を採択しないように都道府県議会議長に文書を郵送した。(2021年1月)
原文兵衛 鹿児島県特高課長 警視総監 妻は町村金五の姪。町村の引きで内務省に。
〇特高は内閣情報調査室(内調)と公安調査庁をつくった。
村井順 内務省警保局公安第一課長 1952年内閣総理大臣官房調査室(現・内閣情報調査室、日本版CIA)設置。退官後日本初の綜合警備保障(現・ALSOK)を創業。
杉田和博1941.4.22--は公安出身で1997年4月から2001年4月まで内閣情報調査室長。安倍・菅内閣の官房副長官、学術会議会員任命拒否。
公安調査庁は共産党だけでなく日本ペンクラブも対象にしている。1922年度予算は160億円
〇厚生省の発足は1938年1月徴兵検査合格率の激減から軍部が要請した。甲種、第一・第二乙種合格率は1915年72%が1935年52%に落ち込んだ。厚生省発足時の幹部や1960年代前半までの大臣・次官はほぼ特高官僚。
〇労働省 1947年発足。戦前は厚生省の内局。発足時の幹部は特高官僚で、中労委事務局長は松崎芳・鹿児島県特高課長、労働教育課長・失業保険課長は、岩手県特高課長の村松俉郎。
〇行政のトップとなった特高
田中義男 群馬・長野で特高課長、大阪で外事課長。外事は朝鮮や中国人が対象である。
〇拷問のプロ
毛利基(もとい)は戦後、佐賀県や埼玉県の県警本部長に出世した。
中川成夫(しげお)は戦後東映に入って「警視庁シリーズ」をつくり、妻は北区の教育長になった。
山本菊代『たたかいに生きて』060「直接の拷問者である当時の特高課長であった纐纈や、労働課長であった浦川や、私にも拷問を加えた中川警部、亀山検事たちを証人として喚問することを要求した。」
〇司法界での公職追放は25人しかおらず、荻野富士夫は「GHQは司法を視野に入れていなかった」と指摘している。GHQは司法(思想検事や司法判事)に手をつけなかった。
荻野富士夫『多喜二の時代から見えてくるもの』新日本出版社2009
荻野富士夫『闇があるから光がある』
平田薫 大審院検事、初代保護観察所所長、水野成夫の転向上申書を刑務所内の党員に読ませ、男子房の相当部分を転向させる。
水野は伊藤千代子を入党させた。国策パルプの資金をフジサンケイグループにつぎ込んだ。
池田克 治安維持法の立案者。1943年、刑事局長として横浜事件を担当。追放解除後、最高裁判事となり、松川事件で厳しい判断をした。1942年臨時思想実務家会同での訓示「思想警察こそはあらゆる反国家的思想とそれに基づく反抗とを防遏することにより、国民思想の醇化を図り、皇基を永久に維持せんとするもの」
大田耐造 1941年、新治安維持法を主導し、予防拘禁制度を創設。
特高太田耐造の弟子司波実は、佐賀検事正時代に佐賀県教組を弾圧し、財政難を口実に教員の首を切り、勤評で弾圧し、教組員を検挙・起訴した。これは石川達三『人間の壁』のモデルとなった事件である。
古河光貞 ゾルゲ事件を主任検事として捜査。1948年、法務庁特別審査局(後・公安調査庁)初代局長。団体等規制令や破防法制定を推進。レッド・パージを主導。
田中耕太郎は特高ではなく、大学教員だが、レッド・パージは占領軍の指示だから可とした。「GHQの指示による超憲法的な措置であり、解雇や免職は有効」と判決したが、GHQの指示を示す証拠はなく、これは嘘である。GHQの示唆だとしても、示唆には従う必要はない。
1945年10月、文部省学校教育局長。「教育勅語は自然的法理」全国教学課長会議1946.2
1950年最高裁長官。論文の中で「共産主義諸国は国際的ギャングであり、これに対抗してアメリカ等の諸国との連携を固くする政治的信念を持つことこそ裁判官に不可欠の条件であり、これを欠きまたはこれに懐疑的な者は、裁判官として適当であるとは言えず、安んじてその地位に止まり得ない」
レッド・パージは一次、二次と二回あり、その被害者総数は3万人から4万人と言われるが、明らかにされていない。その結果、労資協調の労組同盟が隆盛するようになった。
1949年7月~8月、下山・三鷹・松川の反共謀略行為は、国鉄・郵政の大量首切り直後に行われ、労働組合の反撃を抑え込んだ。これを契機に1950年末にかけて官公庁、教員、民間でレッド・パージが行われた。
毛利基は「多喜二は心臓まひで死んだ」というが、それは「拷問で死んだ」とは当時の法の下でも言えなかったからである。
千葉県検見川事件(現・千葉市花見川区、旧幕張町と近接しているので幕張事件とも言われる) 震災時9/5、秋田、沖縄県、三重県出身の3人が逃げて来た。自警団は3人を殺して花見川に捨てた。三重県の遺族は事件直後損害賠償を求めて提訴。2009年、子孫が判明。
島袋和彦75が事件に関する本を出版。法律新聞1923/11/3、山形民報1923/10/18、宮武骸骨『震災画報』に事件の記載がある。東京新聞2023/8/7より
国賠同盟は市民野党連携のさきがけとなった。
宮本顕治は柔道をやっていたので拷問に耐えた。
国賠運動は1965年ころから始まり、署名は年20万筆ずつ、計1000万筆集まった。
③メッセージ ○○あきひこさん「最近病気をして声が出なくなった。」マイクの音がダブってさらに聞きづらい。
以下私は退出欠席
④アピール かたかわひでこ、こぐれちえこ(共産党議員)
問い合わせ:藤田正吾 090-7700-9125 風間秀子090-3808-4122
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