平野謙『「リンチ共産党事件」の思い出』三一書房1976年
感想
序文
Ⅰ
ある個人的回想
一 「リンチ共産党事件」の思い出
感想 2023年11月21日(火) 平野謙には検挙歴がないようだ。平野謙はWikiで調べてみても牢屋で暮らしたことがあるとは書かれていない。本書でも(スパイ)小畑達夫の下で働いていたとは書いてある028が、警察のリンチ・拷問を受けたとは書かれていなかったように記憶する。そして捕まらなかったことを「僥倖」とし、それは小畑達夫が捕まったとき、平野謙のペンネーム(ツクエ)だけをばらし、本名はばらさなかったせいかもしれないとし、さらに「小畑が死ななかったら、いずれ自分も本名がばれて(捕まって)いただろう」と言っているから、捕まったことはないのだろう。029
二 小林多喜二と宮本顕治
036 1933年2月20日の小林多喜二虐殺前に小林多喜二が本名で堂々とその小説を新聞広告に出したから、多喜二の殺害は当然だとするのだが、これは警察に聞いたうえでの発言なのか。
宮本顕治に対する悪意に満ちた揶揄
042 ・スパイが二人も入っている党中央は信じられないのに、党中央を信じてスパイを報告せよという。
043 ・宮本顕治はスパイ(小畑達夫・大泉兼蔵)査問時に当然暴力をふるっていたはずなのにしらばっくれているが、そういうやり方を「自分を可笑しくする」という。
平野謙にみられる相対主義(+と-との併置)の手法はずるい。自分はいったいどちらなのか。
文学作品に反映したスパイリンチ事件
平野謙の利益の源泉は出版活動、それに対する宮本顕治のよって立つところは政党の運営。平野謙が宮本顕治を批判するなら、同じ土俵で批判すべきではないか。違う土俵から批判すればいくらでも批判できる。095
「スパイリンチ」事件でスパイは殺害されたのではなく、突然亡くなったようだ。その描写が紹介されているが、それには信憑性があるように思える。大声を立ててもらっては困る、そこで布団の類(風呂敷のようなもの088)を口の上に乗せた(顔に被せた)、そしたら死んでしまったという(宮本顕治『スパイ挑発との闘争』昭和21年3月)。戦前のひどい裁判でも「殺人罪」を適用できなかった。ということはその証拠、例えば打撲とか内臓出血とか、ナイフの切り傷とかがなかったのだろう。
Ⅱ
日中戦争勃発前後
感想 2023年11月20日(月) こんなことを書いて悪いし、人をけなすようなことはあまり書きたくないが、私は平野謙の文体は嫌いだ。というのは平野の文体から人を見下しているように感じられるからだ。沢山の書名や人名が出てくるが、平野が一冊一冊を始めから終わりまで全て読んでいるかどうか疑わしい。本は持っているが全部は読まず、自分の論理展開に都合のいい部分だけを抜粋しているのではないかと疑いたくなる。平野の論理構成はほんの僅かなものに過ぎないのに、あちこちと余談を取り入れ、全体がさも大事な文章であるかのように装う。平野の基本的な立場は、ソ連共産党や日本共産党は嫌いで、雑誌『世界文化』同人などのブルジョワ民主主義をそれに対置することである。
それでも昭和初期の左翼に関するあれこれのゴシップを体験や伝聞や書物に基いて語っており、それはそれで参考になるが、文学作品の場合はそれが主観に基くものだから、事実か空想か願望かは怪しい。
番外・昭和文学私論
一 都知事選に思う
感想 2023年11月22日(水) 平野謙はフジ・サンケイの経営者になった水野茂夫よりましかも。1975年2月には、美濃部亮吉の都知事選立候補辞退に際して、争い合っている社共に対して社共連合を唱え、石原慎太郎都知事擁立に反対の立場を表明している。
二 三月十五日の集会 西田信春と伊藤三郎をしのぶ会
メモ
序文
Ⅰ
ある個人的回想
一 「リンチ共産党事件」の思い出
025 「リンチ共産党事件」は1933年12月下旬に発生した。
026 日本共産党は「リンチはなかった」という建て前を終始貫いていて、この事件のことを「スパイ挑発者査問事件」とか「スパイ調査問題」とか呼んでいるが、私は自分の記憶に従って、「リンチ共産党事件」と呼びたい。これはリンチがあったかどうか以前の(私の気持の)問題である。私は昭和8年1933年12月下旬に開かれた査問委員会の席上で急死した小畑達夫を、この事件の新聞発表以来次第に警視庁のスパイだったにちがいないと推定して、敗戦直後に宮本顕治が『スパイ挑発との闘争』を発表する前は、小畑達夫がスパイとして殺されたと思い込んでいたのだが、こういう私の記憶は、「リンチ共産党事件」という当時の新聞発表と今でも「切り離せない」(=変わらない)。*
*「発表する前は」と「今でも」とが矛盾している。そしてリンチがあったかどうかという事実関係よりも自分の主観的記憶の方が大事だという意味か。
「リンチ共産党事件」という名称は1934年1月16日、17日、18日にかけて朝日新聞などの新聞発表による。新聞は「赤色リンチ事件」として報道した。例えば、
1月16日「共産党の私刑暴露 裏切り者惨殺さる」
1月17日「殺された小畑達夫」や「私刑された大泉兼蔵」、「大泉の妻熊沢光子」、「加害者秋笹正之輔」、「秋笹の妻木俣鈴子」などの顔写真を掲げ、リンチ事件の首謀者を、宮本顕治や秋笹正之輔とした。
027 私は小畑達夫と半月以上同居したことがある。1932年3月以降、宮本顕治と小林多喜二らは地下に潜らざるを得なかった。私は宮本顕治が小畑達夫とともに党中央委員だったとは知らなかった。
1月18日「自殺して同志におわび」という大泉兼蔵夫妻の遺書が凸版写真とともに発表され、また「大泉と熊沢に遺書を書かせるまで」という「見張り役林鐘楠の自白」が新聞に報道された。
私は1930年4月の東大文学部入学後間もなく学内組織のR・Sに加入した。上級生の清水幾太郎や大塚楠緒子の長男と連絡を取ったこともある。1931年4月ころ私はR・Sから派遣されて全協(日本労働組合全国協議会)加盟の日本通信労働組合に所属した。郵便局関係の組合である。機関紙『通信労働者』のガリ版切りをしたり、レポーターをしたりしただけだ。全協は中央機関紙として『労働新聞』を発行し、私はそれらの機関紙を他団体と交換する役割を与えられた。全協加盟の労組を「金属」とか「日本通信」と呼んでいた。
高見順がレコード会社に勤めながら「金属」の仕事を手伝い、そのために検挙されたように、全教加盟の労組にはほとんど合法性がなくなっていた。「日本通信」の走り使いをした私も、それが警察に分かれば検挙されたはずだ。しかし1931年ころは、全協の仕事をしただけで起訴になることはまずなかった。日本共産党や日本共産青年同盟に加盟したことが判明すれば文句なく治安維持法違反容疑者として起訴されたが、労組や文化団体に所属していただけでは起訴されることはほとんどなかった。だから高見順は検挙されたが、起訴はされなかった。
028 そういう半非合法の日本通信労組の中央委員長が小畑達夫だった。私は東北訛りの小畑達夫を革命的な労働者と信じ込んでいて、小畑の交通費などを立て替えたり、今いるアジトが危ないと言えば、進んで自分の下宿屋に来るように申し出たりした。小畑は質朴な労働者出身という風情だった。小畑達夫がおかしくなったのは、1931年夏に万世橋署に検挙されてからである。日本通信の中央委員長ともなれば、当然(日本共産)党(の)フラクに違いないから、刑務所行きはまず間違いないと思っていたら、起訴されずに警察だけで釈放された。*小畑達夫は「全てを否認し、頑張り通したために出ることができた」と豪語し、私どもは「よかった、よかった」と言っただけでその時は済んだ。
*疑問 高見順が全協加盟の金属で仕事をしていて検挙はされたが、起訴にはならなかったのだから、同様に、同じ全協加盟の日本通信で働いていた小畑達夫も、検挙されても起訴にはならない可能性があったのではないのか。しかし党フラクの中央委員長なら別格か。
私は1931年の暮れか1932年の初めに日本通信労組を退き、新しくできた日本文化連盟(コップ)で働きたいと希い、その組織的了解を小畑達夫から取った。当時確かコップ出版部長だった壷井繁治に頼んでコップ出版部員として働きたいという私の希望を小畑達夫はあっさり飲んだ。私は壷井繁治と親交のあった一婦人の紹介状を持って壷井繁治を訪ねたが、結局コップ出版部員にはなれなかった。そこで私は本多秋吾を推薦者として「日本プロレタリア科学研究所」(プロ科)に加盟することができた。
029 壷井繁治は1932年3月のコップ弾圧で、中野重治や蔵原惟人らとともに起訴された。おそらく(壷井繁治の)面会に行った壷井栄を通じて、私が「ツクエという名前で警察から追及されているから気をつけろ」というレポが(私に)あった。それは1932年の夏ごろのことである。
そのレポを私に伝えてくれたのは、紹介状を書いてもらった婦人である。私が壷井繁治を訪ねたことがあるのを特高警察が知っていたので私は戦慄した。しかし小畑達夫がスパイ容疑者として査問されたという新聞記事を読み、日本通信で使っていた私のペンネームを知り、その私が壷井繁治を訪ねたことを知っているのは小畑達夫くらいしかいないとようやく思い当たった。当時私は同居したこともある小畑達夫が私の筆名だけをばらしたのは多少良心的と思っていたが、小畑達夫が1933年12月下旬に死ななかったら、早晩私の本名は警察に通報されたはずだと後年思い返し、ひそかに私の僥倖に感謝した。
感想 小畑達夫が平野謙の筆名や壷井繁治訪問を警察にばらしたらしいということは、事実ではなく臆測ではないか。どんな根拠があるのか。平野謙の筆名や壷井繁治訪問を知っていて検挙された人の中に、小畑達夫以外にもいたのではないか。
スパイだったに違いない小畑達夫が「殺された」のはやむを得ないと当時私は考えたが、その理由は殺されそこなった大泉兼蔵が偽装自殺の手段として遺書を書かされたという新聞記事のせいでもあった。「日本プロレタリヤ全勤労大衆を裏切り、日本革命運動の歴史を汚したということを、全同志の前に自己批判し、党の規律に従ひ、自ら自殺して自分の犯した罪をつぐなう心だ」という弟宛ての大泉兼蔵の遺書は、ピケ役の林鐘楠の自白によれば、秋笹正之輔らがいろいろ注文をつけて書き直させものだったという。私はこの新聞記事を鵜呑みにした。
*この事実関係はどうなのか。警察のでっち上げだったのか。
*小畑達夫 1907.7.7—1933.12.24 秋田県北秋田郡二井田村(現大館市)に教員の長男として生まれた。叔父に大杉栄の弟子がいて、秋田県立大館中学校在学中から天皇制を批判していた。1925年3月「野犬を食った」ことを理由に中学4年で退学処分となり、1929年上京して逓信省に就職し、日本通信労組に加盟、1931年常任委員、同年6月末万世橋警察署に検挙されたが、悔悟して起訴保留、一時帰郷したが、間もなく潜伏。1932年日本共産党に入党。全協秋田地区協議会を組織、1933年5月日本共産党中央委員、10月財政部長。
宮本顕治は小畑達夫の事件で「不法監禁致死罪容疑」とされ、「殺人罪」ではなかった。
広津和郎の小説『風雨強かるべし』
030 広津和郎の小説『風雨強かるべし』改造社1934年7月に「上野の西郷銅像下での短刀による殺傷事件を、その筋(警察)は裏切者に対する赤の私刑(リンチ)だと見ている」という記述があるが、これはフィクションではない。(フィクションがフィクションでないのか)この小説は1933年8月12日から1934年3月17日まで『報知新聞』の連載小説で、1932年の「尹基協射殺事件」などを根拠にしているに違いない。『社会運動の状況』三一書房1933によれば「尹基協射殺事件」とは、
「尹基協は党の規律に服せず、自己本意の運動を計画して分派行動を為し、その理由で5月下旬に処分が決定された。村上多喜男がこの処分を担当し、当日午後9時前上野松坂屋横で尹を発見し、東照宮付近に連行し、詰問したが反省がないので、ローヤル十連発で腹部と頭部に各一発浴びせ、即死させた。村上多喜男はその後検挙された」
*尹基協射殺事件 この事件は1932年8月15日に起った。日本共産党東京市委員長の村上多喜雄が、日本労働組合全国協議会の中堅幹部・尹基協を射殺した。「非常時共産党時代」のインテリ共産党指導部による極左方針に、朝鮮人が多い労組が反対したため、指導部は労組を弾圧した。溝上矢久馬・全協委員長は「逮捕」され、松原はスパイとされて暴行・除名された。天皇制打倒の綱領への採用に反対した(全協の)旧常任委員は総辞職させられ、2人が除名され、中堅幹部の尹基協と平安名常孝の2人が残った。全協構成員の半数は戦闘的な朝鮮人で、三・一五事件被告奪還計画の行動隊などを担ったが、地位は低かった。松村こと飯塚盈延(スパイM)は尹基協をスパイとして殺害指令を出し、村上多喜男にやらせた。指令を伝えたのはスパイMではなく、中央委員・紺野与次郎だった。村上は2年前に共青の活動家だったころ武装共産党一斉検挙にあい、その時短刀で警部を刺して逃走中だった。
パンフレット『日本革命運動小史』
031 宮本顕治は『スパイ挑発との闘争』(月刊読売1946年3月号)の中で、「赤色リンチ事件の真相」という見出しの下に、小畑達夫の死はショック死としたが、パンフレット『日本革命運動小史』(確か伊藤書店1946年ころ)には「小畑達夫がスパイであるという事実が判明したため、小畑達夫を殺害した」という意味のことが書かれていた。また大久保典夫も『転向と党批判』(『文学者』1965年1月号)の中で、『日本革命運動小史』の中のリンチ事件の箇所だけが訂正された印刷物が貼り付けてあり、それを剥がしてみると「スパイ小畑を秘密裏に処理した」(これでは殺害かどうかは分からないのでは)としている。私と大久保典夫の記憶はほぼ一致している。(どうかな)
032 また犬丸義一*は「『日本革命運動小史』(人民社1946年7月)は戦後最も早く出版されたものだが、これは1944年8月の、在華日本人解放同盟(鹿地亘らが重慶で組織)の機関紙に発表されたものの復刻である。これは明治以来日中戦争勃発までの時期の日本革命運動史であり、四・一六まではほぼ市川正一の党史の見解と同一であるが、四・一六以後から日中戦争勃発までを新しく書き加えたものだ」という。おそらくこれは捕虜となった日本兵士に読ませるための啓蒙用の党史であり、私や大久保典夫が見たものと同一のものに違いない。そのパンフレットには「スパイ小畑は殺された」と書かれていた。このことから党中央に近い人にもそう思われていたのではないかと想像される。
*みすず書房『現代史資料』第十四巻(昭和39年1964年11月)の付録の月報の犬丸義一『これまでの日本共産党テーゼの資料集と研究の概観』
感想 本事件がどのように在華日本人解放同盟に伝えられたのか、また資料『日本革命運動小史』に関するおぼろげな記憶(大久保典夫や平野謙の)に基き、ただ「殺された」とか「殺された内容の記述」というだけでなく、その前後関係がないと、信憑性に欠ける。やはり当事者の言葉(宮本顕治や警察)の重みは尊重すべきではないか。
033 私は戦争中、小畑達夫殺人説を小畑がスパイだからとして一応容認したが、最後的には是認できなかった。戦後メルロ・ポンティが『ヒューマニズムとテロル』(現代思潮社、昭和31年1956年2月)で提起した主題が、(小畑達夫が殺されたのではないという)漠然とした疑いとして湧きあがって来たのである。埴谷雄高が大泉兼蔵を知っていて、私も小畑達夫を知っていることが(私と埴谷雄高との間で)判明した時期は、埴谷雄高によれば昭和14年1939年のことだったらしい。私はスパイだと判明しても殺すのはどうかと思うと埴谷雄高に言った。
私は宮本顕治の小畑達夫ショック死説を素直に受け入れた。殺されると思って死に物狂いに暴れた小畑達夫が、心理的衝撃でショック死したことは大いにあり得ることである。かりに小林多喜二を拷問でなぶり殺した中川警部が宮本顕治らに拘禁されたとしたら、その心理的負い目だけで「殺される」と錯覚したことだろう。
小畑達夫のショック死が外傷性のものか特異体質のものかは問題ではない。食うか食われるかの土壇場では多少の暴力沙汰は当然だろう。おそらく肉体的暴力に加えて精神的圧迫が加わり、突然のショック死をもたらしたに違いない。また太平洋戦争下の暗黒裁判においても、結局宮本顕治を殺人罪にも殺人未遂罪にもひっかけることができなかったのである。その意味で外傷性か異常体質かという二者択一論法には真実味がない。この事件は昭和8、9年1933年、1934年の満州事変以後の悪気流を時代背景とする特殊状況下の事件であった。
034 (民社党の衆院議員)春日一幸1910--1989の問題提起にはこういう問題の現実性が抜け落ちている。小林多喜二らの無慚な拷問死との相対関係において宮本顕治のリンチ事件も見なければならない。小林多喜二の虐殺について魯迅は弔電を寄せ、志賀直哉は懇篤な弔文を小林多喜二の母親に送った。ただ警視庁だけが「急死」という新聞発表を最後まで固執し、死因の解剖を妨害した。春日一幸が宮本顕治らのリンチ事件の真相を追求しようとするならば、小林多喜二らの拷問死の真相と併せて追及するのでなければ、特殊な時代を背景とした事件の真実性は捉えられない。そういう片手落ちの春日一幸の問題提起に私は反対する。
とはいえ党中央の最高機関に二人もスパイの潜入を許したという党の組織上の責任は不問にできない。宮本顕治は1933年6月1日の『赤旗』で、プロヴァカートル(スパイ・挑発者)に対する処置として「このような疑惑のある者を発見した場合、相手かまわず言いふらすのではなく、その疑惑が自分の上の者であろうと、ためらうことなく党中央委員会書記局あての密封上申書を、信頼できる線を通じて提出すべきである」と警告しているが、その党中央委員会の財政部と組織部がスパイであったらどうしたらよいのか。
035 スパイに対する党の最高処分は党籍からの除名だと一貫して主張する宮本顕治の原則を私は尊重するが、(スパイが)党の責任者ともなれば、そういう原則に隠れて、党全体の組織上の弱点をカバーできない。例えば昭和28年1953年9月21日付『アカハタ』にスパイとしての伊藤律の除名が正式発表されたが、伊藤律の処分は除名だけで決着したのかどうか、世間の疑惑が今日でも解けていない。宮本顕治はつねに原則に固執し、組織自体の欠陥から教訓を学ぼうとする態度が欠けているのではないか。(これは難問)
昭和8年1933年12月下旬のリンチ事件を追及しようとするなら、小林多喜二問題と伊藤律問題をも考えなければ事件の現実性は浮かんでこないだろう。(党の組織問題と伊藤律問題は尻切れトンボ)
《週刊朝日》昭和51年1976年2月13日号
二 小林多喜二と宮本顕治
小林多喜二は1933年2月20日に虐殺された。現在日本共産党は「リンチ事件」と表裏一体のものとして小林多喜二らの虐殺をとらえ、この(昭和51年1976年)2月18日に「小林多喜二・野呂栄太郎・岩田義道をしのぶ大集会」を計画している。しかし昭和8年1933年2月10日前後に警察で虐殺された西田信春についての言及がない。(尻切れトンボ、何を言いたいのか。西田信春については178頁「三月十五日の集会」で触れている)
小林多喜二は警察を挑発した。プロレタリア文学者は1年前(1932年3月)に非合法化されていたのに、小林多喜二はその禁を公然と破った。
036 小林多喜二が虐殺された時、私はプロレタリア科学研究所(プロ科)に所属していた。2月21日の各紙夕刊は小林多喜二の「急逝」を報道した。なぜ小林多喜二は殺されたのか。
昭和8年1933年2月18日付朝日新聞朝刊に、雑誌『改造』3月号の広告が新聞一面の大きさで掲載され、そこに小林多喜二の小説『地区の人々』が白抜きででかでかと宣伝された。「今やプロ文壇に人尠なき時、突如――小林多喜二の百枚に余る雄作。労働者と淫売婦の住む街に潜んで活躍する人たちの全貌を描き出す」というタイトル文句を伴う白抜き広告は、警視庁特高課の人々をいたく刺激せずにはおかなかったはずである。昭和7年1932年3月の日本プロレタリア文化連盟(コップ)の弾圧以来、(小林多喜二が)宮本顕治らと地下生活を余儀なくされて一年近く経つとき、堂々と本名で一流雑誌に小説を発表するというような人もなげなるふるまいに警視庁特高課の人々は「あの野郎」とばかり頭にきたに違いない。(何を言いたいのか、警察の味方か)
2月20日午後、築地署に検挙された小林多喜二は、警視庁特高課の中川係長の指揮の下に無慙な拷問によって即日なぶり殺しにされた。これは拷問の行き過ぎによる傷害致死ではなく、最初から殺害の意図を持った一種の殺人罪に他ならなかった。その出世作『一九二八年三月十五日』において警察の白色テロルをリアリスティックにあばいた小林多喜二は、プロレタリア作家の中でも特別の憎しみを、かねがね警察から受けていたに違いない。その小林多喜二が地下生活のまま本名で一流雑誌に小説を発表するなどとは、あまりにも人をなめたふるまいと、頭にきた特高警察は、最初から殺すつもりだったと思わざるを得ない。
プロレタリア文学者は政治主義的な行き過ぎを犯した。
037 それに(小林多喜二が虐殺された)もう一つの間接的な原因として、コップ(日本プロレタリア文化連盟)弾圧(1932年3月)以来の日本共産党の文化政策の誤りを挙げたい。「誤り」が言い過ぎなら、「政治主義的な行き過ぎ」と言い直してもよい。ただしこの問題に関しては、「時代の犠牲者としての小林多喜二と火野葦平とを表裏一体のものとして捉えよ」などと敗戦直後に(私が)口走り、私は中野重治や宮本顕治にさんざん批判された前科者だから、これ以上ここで深入りしない。(どういう意味か)
ただ宮本顕治も、昭和8年1933年に、「野沢徹」や「山崎利一」の筆名で書いた「政治の優位性理論」や、「文学運動のボルシェヴィキ化理論」の行き過ぎに気づいているような気がする。(その理由を示すと以下の通りである。)宮本顕治は『宮本顕治文藝評論選集』全四巻を、昭和41年1966年10月から刊行しているが、「野沢徹」ら名義の論文を含む昭和初年代の文藝評論集第一巻だけが、今日でも未完のままである。しかも「野沢徹」ら名義の論文を除く『敗北の文学』などの初期作品は昨年文庫本として刊行された。このことはコップ指導者として非合法の状態で執筆した当時の論文を、今日の宮本顕治がもう一度活字として公表することを好まないせいではないか。(根拠薄弱では)
038 ついでに言えば、宮本顕治がコップ中央機関紙の『プロレタリア文化』の昭和8年1933年10月号、11月号、12月号に、「山崎利一」名義で発表した二つの論文は、私が神田の小さな印刷所で校正したものである。その時私の上部にいた池田寿夫から、これは宮本顕治の筆名だと教えられ、当時私は宮本顕治を尊敬していたから、その原稿を取り除いておいた。その論文はいかにも兵馬倥偬(へいばこうそう、戦争のために忙しいこと)の間に書き綴ったという感じの、消しや書き込みの多い原稿だった。私が昭和10年1935年代に面識を得た中条百合子にその原稿を進呈したとき、中条は「まあ」と絶句して目をしばたたいた。(何を言いたいのか、正面からの批判とは言えない)
小林多喜二がハウスキーパーを抱えていたというスキャンダル
ここで小林多喜二虐殺直後のあまり知られていない一挿話を書き添えたい。ナルプ*の中央機関誌『プロレタリア文学』昭和8年1933年4・5月合併号は、「同志小林多喜二の××に抗して」という特集を組み、その一環として窪川いね子(今日の佐多稲子)の『二月二十日のあと』という「報告文学」を発表した。その中には小林多喜二のお通夜における母親の嘆きの他に「親戚の婦人が三人転がるように走り込んで来て小林のそばに泣き伏した時、お母さんは顔を上げ、小林の屍の上に目を落としてはっきり言った。『×されたのですよ。多喜二は』その言葉で三人の婦人が一層声高く泣いた」という記述があるが、戦後貴司山治は虐殺当時小林多喜二の親戚の婦人が三人在京していたか(小林多喜二は秋田県出身)を問題にし、その三人は、北海道以来の愛人・田口タキと、非合法生活時代のハウスキーパー・伊藤ふじ子と、新しい愛人だったらしい女流作家・若林つや子の三人ではないかと推定した。(げすの勘繰りでは)
小林多喜二の女性関係に関するゴシップ
039 以下は上記に関連した小林多喜二の女性関係に関するゴシップなので省略するが、関連する人名・事項名を挙げておく。同人雑誌『文芸復興』昭和48年4月号に登場する上野壮夫の妻小坂多喜子、同人雑誌『現象』昭和44年10月号に登場する古賀孝之、『文化集団』昭和9年7月号に掲載された若林つや子『淡々水の如きもの』、そして尾崎一雄『あの日この日』や手塚英孝など。
*Wiki「ナルプ」によれば、
1928年、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成されたとき、文学者がその中心を担った。その後、プロレタリア文化運動全体の発展をはかるため、文学・演劇・美術・音楽・映画の各分野ごとにそれぞれの団体をつくり、ナップはその連絡機関として機能するようになった。
1929年2月、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が結成され、『戦旗』に登場する作家たちを中心に、新進の小林多喜二や徳永直も加えてプロレタリア文学の中心的存在となった。ソビエトロシアから帰国した中條百合子も加わった。弾圧も厳しく、1930年には共産党に資金を提供したという容疑で小林多喜二たちが収監されたが、そのなかでも作家同盟(ナルプ)は全国的に組織を広げていった。
1931年、蔵原惟人が新しい文化組織の結成を提案し、それが日本プロレタリア文化連盟(コップ)として結実し、作家同盟(ナルプ)はそのなかで機関誌『プロレタリア文学』を刊行し、小林多喜二の長編『転形期の人々』などを掲載した。また、『文学新聞』も発行し、全国の労働者や農民から作品の投稿を募り、そのなかで優れた作品は『プロレタリア文学』に掲載された。
1932年3月から4月にかけて文化連盟(コップ)に弾圧が下り、文化運動そのものを治安維持法違反とした。中野重治・蔵原惟人・中條百合子らが検挙され、小林多喜二や宮本顕治は非公然の立場においこまれた。
徳永直たちは弾圧にあわない組織づくりを訴えて作家同盟(ナルプ)を離れ、林房雄も政治にかかわることを避けて、文学に専念することを主張し、作家同盟(ナルプ)の組織は機能しなくなった。1934年2月、作家同盟(ナルプ)の書記長だった鹿地亘は作家同盟(ナルプ)の解散を決定し、2月22日付けで「ナルプ解体の声明」が発表された。
勝本清一郎を援用した、小林多喜二と宮本顕治の揶揄・冷やかし
040 昭和7年1932年、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)は国際革命家同盟(モルプ)に加盟してモルプ日本支部となり、小林多喜二がその名簿を管理していた。勝本清一郎は小林多喜二がそれを警察にばらす前に虐殺されたためにその情報が漏れずに助かったと私に言った。勝本清一郎はプロレタリア文学の批評家で、昭和7、8年1932年、1933年ころベルリンに在住し、モルプ主催のハリコフ会議に日本代表として出席した。勝本清一郎はおそらく千田是也らとともに在独邦人グループとしてドイツ共産党に所属していたと思われる。
新聞は小林多喜二の死を「心臓マヒによる急死」と報道したが、志賀直哉は「警察に殺されたるよし、実に不愉快」と日記に記している。
041 小林多喜二の死がインテリ層を(小林多喜二に対して)同情的にしたため、内務省上層部は警視庁特高課による即日虐殺に批判的とならざるを得ず、その事が昭和8年1933年12月26日に検挙された宮本顕治の拷問に手加減を加えることになったかもしれないと勝元清一郎は私に話した。
宮本顕治の自分を嘲る能力の欠如
警視庁のスパイ小畑達夫と大泉兼蔵が昭和8年1933年12月24日に警視庁と連絡を絶った2日後の12月26日に宮本顕治が検挙されたことは、この二人のスパイ以外のスパイ、小林多喜二の場合は三船留吉、宮本顕治の場合は荻野増治がいたこと、つまり警視庁はいつでも二人を検挙できる態勢にあったようで、それは滑稽だ。(「滑稽」というのは口が過ぎる。)
宮本顕治には森鴎外が『当流比較言語学』の中で言うところの「自分を可笑しくする」精神に欠けていたのではないか。宮本顕治は戦後間もなく、昭和8年1933年12月下旬の「赤色リンチ事件の真相」について語ったが、そこで宮本顕治は自分が警察に泳がせられていた(宮本顕治つきのスパイがいた)ということに気づいていないようで、こう書いている。(ではどうすればいいのだ。平野謙は宮本顕治をあざ笑うつもりはないと言っているが、実際あざ笑っているのでは)
042 「これらの状態に対し、党は白色テロル調査委員会を設定して、党組織の被害状況と原因調査を強力に促進することにした。調査委員会の構成は、逸見重雄が責任者で、同志袴田里見、秋笹正之輔などがその委員であった。その調査委員会の報告に基いて、(小畑・大泉を除いた)党中央委員会は(小畑・大泉)両名を査問委員会に付する決定をした。すなわち両名を除く党中央委員並びに候補者を加えた党拡大中央委員会を開催し、そこで正式に決定したのである。査問委員会は拡大中央委員会の出席者によって構成された」
拡大中央委員会が査問委員を任命したとは書いていないが、ものものしい形式ばった書き方だ。白色テロル調査委員会も拡大中央委員会も査問委員会も、実質的には警備員の木島隆明らが入るか入らないかくらいの違いにすぎないだろう。6人で構成されていた最高機関の中央委員会に二人もスパイが紛れ込んでいたという悲惨で滑稽な事態を客観的に見る能力が欠落しているから、宮本顕治は「自分を可笑しくする」結果に気づかない。私は宮本顕治の思考方法の中に硬直した固定観念を見出し、それでは事態を現実的に解決できないのではないかと杞憂する。勝本清一郎が先に指摘したように、小林多喜二の虐殺事件とスパイ・リンチ事件とは密接な関係がある。当時は食うか食われるかという非常事態であり、殺さなければ殺されるという切迫したつばぜり合いの状態だった。(殺し殺される関係だったのか。)だから党に近い者も遠い者も、小畑達夫は殺されたと敗戦まで思い込んでいたのである。
感想 確かに警察は党員・小林多喜二を殺すつもりだった、とすれば日本共産党はどうしたらよかったのか。しかし全党員とも限らない。一部は殺され、一部は懐柔(転向)された。また警察による小林多喜二の虐殺がインテリ層を同情的にしたことを内務省が気にしていた041らしいと平野謙は言っているが、そういう社会の警察に対する抑止力もあったのではないか。
043 小畑達夫の死亡は、殺害ではなくショック死という不幸なアクシデントだったことは、太平洋戦争末期の暗黒裁判でも殺意を立証できなかったことが証明している。しかしショック死に至る前に多少の肉体的暴力が振るわれても不思議でないし、またそれは正当防衛ともいえるのに、宮本顕治はそれを認めない。
宮本顕治は昭和51年1976年1月31日付の朝日新聞に「治安維持法の時代のスパイ査問事件」という文章を寄稿し、
「1933年12月、当時公然と活動する自由が奪われていた日本共産党の中央に、大泉兼蔵、小畑達夫らのスパイが潜入していることが判って査問した。私を含む中央委員会は、査問の前の総会でスパイの処分は除名とその公表が最高であり、私的科刑(リンチ)などでないという方針を確認した」
と述べている。しかしこれは原則論であり、「自分を可笑しくする」形式論であり、問題を現実から遠ざける。
大泉兼蔵は宮本顕治らに遺書を書かされたのではなく、大泉の絶望したハウスキーパーに促されて自発的に書いた。ハウスキーパー制度の非人間性の示唆。
大泉兼蔵が自殺の遺書を強制的に書かされたとしたら、それは殺人未遂を証明する間接的な証拠になったはずである。確かに大泉兼蔵の遺書は存在し、新聞発表でも凸版写真で紹介された。そして内務省警保局保安課刊行の極秘文書『特高月報』昭和9年1934年1月分は「小畑達夫惨殺事件」とならんで、大泉兼蔵とその内妻・熊沢光子のことを「大泉・熊沢惨殺未遂事件」として、次のように報告している。
044 「右小畑と同様にして、(12月)24日大泉は一時絶息したるが、同夜蘇生したるため、爾来連日木島及び林が交代してピストルを持って看視し、秋笹と木島両名が脅迫の上、大泉に「自分はスパイだ」という虚偽の手記と、両人の遺書を書かせたうえで、自殺(縊死)を装って1月15日夜に殺害することになり、1月14日の夜上記の場所に移したり。(後略)」(これは警察の捏造である)
大泉兼蔵の遺書は存在するが、その当人には自殺の意志なぞ毛頭なく、1月15日午後に脱走に成功したとすれば、大泉らの遺書は強制されたものであり、この事実はリンチ事件の殺意を間接的に立証しているように見える。
しかし太平洋戦争下の暗黒裁判でもついに宮本顕治を殺人罪にも殺人未遂罪にもひっかけることができなかった。問題の鍵は『特高月報』が「大泉・熊沢惨殺未遂事件」として報告したことの中にある。つまり遺書は大泉兼蔵だけでなく、そのハウスキーパーの熊沢光子も書いた。彼女が革命運動に献身すべく中央委員・大泉兼蔵に身も心も献げつくしたことは、当時の査問委員にも明らかだった。そういう熊沢光子を殺害しなければならない理由はどこにも存在しない。このことは献身した相手がスパイだったという事実に絶望し、自殺を決意したに違いない熊沢光子が、大泉兼蔵にも自殺を勧め、大泉もついにそれを拒むことができなかったという事情を自ずと解き明かす。
045 事実、新聞発表された遺書を見ると、「一か月以上も洗ったこともない体ですが、どうか御免下さい、どうか灰にしてください」と両親宛てに書き、絶望した熊沢光子の自殺の覚悟が瞭然としている。その不動の覚悟を前にして大泉兼蔵も引きずられずにはおられなかったに違いない。私がこのことに思い当たったのは、昭和40年1965年12月以降のことだった。実際、収監された熊沢光子は獄中で縊死している。(平野謙のこの判断は正しい。)
リンチ共産党事件で最も哀切で悲惨な犠牲者はこの熊沢光子だった。そのことは宮本顕治も袴田里見もよく分かっているはずだ。現に袴田里見は彼女の暗い絶望について書いている。また熊沢光子はハウスキーパー制度の犠牲者だった。敗戦後私はハウスキーパー制度の非人間性について問題にしたが、中野重治や宮本顕治に一蹴された。一つの欠陥を組織上のものとみる見方は、我が日本の革命運動には伝統的に欠落しているようだ。(付記 橋本菊代は熊沢光子ではなく大熊光子としている)
《週刊朝日》昭和51年1976年2月27日号
感想 2023年12月16日(土) 平野謙1907--1978は20世紀初頭の生まれで、私の父との同世代の進歩的知識人だが、「進歩的知識人」だからこそ、価値観が大転換した戦前・戦後にまたがる複雑な立場を物語る。どっちにもつかず、どっちにもつくというずる賢さは、この価値観が相反する二つの時代を生き抜く上での処世訓のようだ。
文学作品に反映したスパイリンチ事件
『週刊朝日』掲載論文「ある個人的回想」への反響
047 この主題は立花隆の『日本共産党の研究』(文芸春秋、昭和51年1976年1月号以降)が引き起こした宮本顕治らのリンチ事件に関する論争「ランチキ騒ぎ」に触発されたものである。私は立花隆の連載が終わってから私の考えをまとめようと思っていたが、国会で春日一幸が、昭和6年1931年の満州事変以来の時代的悪気流から切り離して意識的に歪曲しようとするのを見て、黙っていられなくなった。そこで需(もと)められるままに「ある個人的回想」と題して『週刊朝日』昭和51年1976年2月13日号と2月27日号に寄稿した。本題に入る前にこの『週刊朝日』に発表した分の反響や補足を書き加えておきたい。
『日本革命運動小史』は党中央によって小畑達夫が「殺された」という私の記憶の正しさを裏付ける
048 わたしの記憶では、敗戦直後伊藤書店から『日本革命運動小史』というパンフレットが刊行され、その最後の方に「日本共産党中央委員会に潜入したスパイを査問の結果殺した」という意味の記述があったと書いたら、某読者からそのパンフレットを借覧できることになった。発行所は私の記憶違いで、人民社から出版されていて、昭和21年1946年2月15日の発行だった。そしてその最後に次の記述があった。
「1934年昭和9年の夏(これは1933年昭和8年12月下旬の誤り)、日本共産党は裏切者がすぐ近くにゐることを発見した。もしこの裏切者を生かして置いたならば、党全体が破壊されたであらう。そこで自己防衛のために、共産党員は彼らを秘密裏に殺すことに決したのである。非常手段を用ひて、党は危険を切り抜け、当座の間裏切者と破壊者の活動を阻止することが出来たのである。だが、警察はそれを発見するや、デマを振り撒いた。あらゆる新聞紙は‟赤色テロのリンチ”‟共産党の殺人事件”と気狂のやうに叫んだのである」(「殺した」と認めているのだから、「デマ」ではなく真実ではないのか。)
049 敗戦直後に宮本顕治自身が「あれは殺人ではなく、ショック死だった」と真相を発表するまで、党の近くにいる者も、党の遠くにいる者も、あれはスパイ殺人事件と思い込んでいたが、これはその一例証として私の記憶は大して誤っていなかったといえよう。
党中央による人民社『日本革命運動小史』発売停止要請
しかし注意すべきことはむしろ一読者が教えてくれた次の事実である。この刊行物に関して《アカハタ》1946年4月23日号が「党声明」として「人民社発行『日本革命運動小史』/ゆるしえぬ誤謬/即時発売停止を要求す」という記事を掲げ、続いて「人民社発売を中止」という記事が発表されたことである。
小畑達夫と私との関係
当時組織に所属するものは、非合法、半非合法を問わず、すべて本名を名乗らず、組織名として変名を用いていた。日本通信にいたとき私は「ツクエ君」と呼ばれていた。(ということはこのことを平野謙の上司の小畑達夫だけでなく、多くの人が知っていたということだ。)私が昭和6年1931年末か昭和7年1932年初めころに、日本通信から日本プロレタリア文化連盟関係の仕事に移りたいと思って委員長の小畑達夫の了解を求め、壷井繁治に連絡をつけたことを、昭和7年1932年春すぎに、小畑達夫が警察にばらし、そのため昭和7年1932年春のコップ弾圧で検挙された壷井繁治が、ツクエという名の大学生に関して追及された。ただし小畑は私の本名をバラさず、ツクエという変名だけを警察に通告した。半月以上も私の下宿に同居していた小畑は、変名だけをバラした。下宿の客膳を食わせてもらい、時計や下着類などももらった私に多少恩義を感じていたせいかもしれないと思ったときもあったが、少しずつ小出しにして私を当分泳がせて置き、多少偉くなったら本名をバラすつもりだったのではないかと思い返した。
051 私は日本プロレタリア科学研究所に所属してからは「ツクエ」から「小林」というペンネームに変えた。ツクエという大学生が壷井繁治に連絡をつけたことを知っているのは小畑達夫しかいないことから、私は小畑達夫が警察のスパイになったに違いないと確信するようになった。昭和9年1934年1月に新聞に掲載された小畑達夫の顔写真を見た時は、小畑達夫が「中西」という変名を使っていることを知ったくらいで、スパイにまでは思い至らなかった。私はいつかその時スパイだと気づいたといったが、それは嘘だ。
壷井繁治への紹介状を書いてくれたKという婦人は、そのころ亡友北川静男らの東中野の屋敷の離れを借りてミシン仕事で自活していた。私より10歳くらい年上で、女流作家になる前の家庭婦人だった壷井栄と親交があった。
小畑達夫事件後の石上玄一郎の離脱
052 《第三文明》昭和50年1975年9月号に、石上玄一郎と白川正芳の対談が掲載されているが、小畑達夫が日本通信から全協本部、全協本部から党中央へと急速に出世していった昭和8年1933年ころに石上玄一郎は小畑の下で働いていたらしい。石上玄一郎は小畑達夫が党中央の人だと思ってその指導の下で働いていたら、石上玄一郎は検挙され、病気で釈放されている時にリンチ事件が報道され、「そのことで懐疑的になり、小畑がスパイだったとすれば自分はスパイの走狗であったと悔やみ、スパイでなかったとすれば党自体がおかしいと考え、当時はもう組織も殆ど壊滅していたので、党と組織と離れてしまった」と語った。
スパイ問題やリンチ問題を扱った文学作品から見るスパイ問題の歴史
053 四期に分けられる。
第一期 宮本顕治らのスパイリンチ事件以前
林房雄『密偵』(戦旗、昭和3年9月号) 本作は、橋本栄吉の小説『少年工の希い』や、三好十郎の戯曲『疵(きず)だらけのお秋』などと一緒に掲載されたものである。林房雄は芸術大衆化論争に一役買った。本作は明治17年1984年の6月なかば、武州秩父の山麓深くに埋められた、上州自由党の密偵・照山俊三の死骸発見を発端として展開するが、林房雄の後の『キエフ大劇場の暗殺』(改造、昭和4年10月号)とは、後者が純然たる読物であるという点で異なる。『キエフ大劇場の暗殺』はエス・エル党のテロリズムを取材しているが、『密偵』は明治幕藩政府の現実に密着している。本作は、大逆事件の奥宮健之を主人公として、スパイだったかどうか不明のまま死刑となった謎の人物を取材した尾崎士郎『蜜柑の皮』には及ばないが、発見されたスパイを殺害しようとする下部を抑えて説得する上部の理論を見透かし、一応説得されながらついに殺害せずにはいられぬ下部の行動や、その後の政府の報復などが描かれている。
054 貴司山治の作品集『舞踏会事件』(弘文社、昭和22年3月)の中に、『チタの烙印』『赤い踊り子』(昭和4、5年ころ)や、『宗十郎頭巾』(講談倶楽部、昭和10年1・2月号、これは鞍馬天狗物語の一章)などがある。
平林初之輔の探偵小説『動物園の一夜』は、某秘密結社のキャップが、スパイとなった裏切者の裏をかいて党員名簿を奪い返すというもの。本作は《新青年》に発表され、《日本探偵小説全集》第十四巻『平林初之輔・橋本五郎集』(改造社、昭和4年10月)に収められている。
平林たい子『スパイ事件』(《新青年》、大正15年ころ)も探偵小説である。
埴谷雄高『暗殺の美学』(中央公論、昭和35年12月号)によれば、暗殺、テロ、スパイ、裏切者、リンチなどには歴史的に密接な関連があるとのことで、プロレタリア作家・批評家がこれらの主題を取り上げているのは文学的必然であった。
第二期
広津和郎『風雨強かるべし』(改造社、昭和9年1934年7月)は第二期の最初に位置し、昭和7年1932年8月の尹基協射殺事件030をヒントにしたリンチ事件を描く。主人公は「かういふ(新聞)記事を見て黙って考えていると、左翼の運動がだんだん神経的になり、興奮性を帯び、落ち着いた板についた感じがなくなって来ているのが感ぜられる。おそらく激しい弾圧のせいだろうが、同志同士が互いに猜疑の眼で見合って、落ち着いた気持でなくなって行ってゐるのが感ぜられる」と語るが、裏切者を殺害する心情の描写がなくて物足りない。上部の命令ならためらうことなく人一人を殺していいものなのか、という倫理的懐疑が欠落している。
宮内勇『ある時代の手記』(河出書房新社、昭和48年1973年9月)は、宮本顕治らのスパイリンチ事件後の党内の心理的パニックを扱う。
中野重治『室生さんへの返事』(文芸、昭和9年1934年12月号)は、昭和9年1934年10月ころ書かれたものと思われるが、それによると、
「西沢隆二にも3年ほど会っていない。…私は答えておいた。西沢は過ちを犯しやすいが、汚いことや卑しいことはできない男だ。西沢がプロヴァカートル(スパイ・挑発者)であったとは信じられない」
056 わたしの記憶では当時の日刊紙には、共産党内の疑心暗鬼を示す「輪番リンチ」という言葉が使われていた。西沢隆二はその輪番リンチの加害者でもあり被害者でもある当事者として新聞紙上に現れたはずだ。《特高月報》昭和9年1月・2月分に、小畑、大泉の他に、大串雅美、大沢武男、波多然らに対するリンチ事件が報告されている。大串雅美を査問したのが西沢隆二で、その西沢隆二は、《赤旗》昭和9年1934年2月7日号によれば、大沢武男とともに、スパイ・挑発者として除名されている。そのことは昭和9年1934年5月に「リンチ共産党事件」として記事解禁となったときに新聞でいちおう触れられ、再び昭和9年1934年10月の日刊紙に報道されたのではないか。中野重治の室生犀星宛ての手紙はそのことに触れているのではないか。
高見順の『嗚呼いやなことだ』(改造社、昭和11年1936年6月号)は、そういう輪番リンチを描写し、脱落者の縊死が見せかけのリンチ絞殺ではないかという関係者の疑心暗鬼を扱う。この作品の語り手は悪質の性病にかかっていて、この作品の導入部は語り手が私娼と戯れる描写で始まる。高見順は戦後の『いやな感じ』に至る道に(過程で)、被害者から加害者へと眼を転じる。しかし高見順は党の組織上のデカダンスには触れない。
第三期 戦後
以下、宮本百合子『播州平野』(新日本文学、昭和21年1946年3月号以降)を引用する。
「治安維持法関係の思想犯は解放される、とはっきり語られている<新聞の>数行の文字は、ひろ子の心を捩(ねじ)りあげた。重吉の事件は、党組織の中に特高課が計画的に何年間にもわたって入れていたスパイの摘発に関していた。偶然、スパイの一人が特異体質の男で、変死した。事件の性質から、この裁判は全く復讐的なものであった。公判ではじめて内容を知ったひろ子は、支配権力の法律というものが、本来の性質である公正だの面目などをもはやかまっていられないほど兇猛になっているのをその目で見たし、耳で聞いた。道理は常識が判断するのとは、全く逆につけられた。重吉に対しては、ことさら苛酷で、同一の事件、同一の立場、経歴においては却ってより軽い重吉ばかりが、数人の同志たちの中で、一人だけ無期懲役を宣告された。一個の姓名のわきに、書き並べることが出来るかぎりの罪名がつらねられた。ひろ子には、その一つ一つが、重吉の躯をしばって、一足ごとに重い響きを立てる鉄の鎖の環の数として、その重みとして感じられた。事実をとり上げて、社会生活の歴史の中におこった一つの現実としてみれば、そこには何一つ犯罪らしいことは行われていなかった。政治的なたたかいの方法において卑劣であり非道徳的な腐敗を示したのは、スパイと、それを飼い、計画を与えた権力者たちの行動であった。人生に経験は浅いかもしれないが、それだけ無私に、社会の不合理を改善しようと熱中する若者たちの試みは、歴史の当然の足どりであるものを罪人とするそもそもが、ひろ子には、納得しかねた」
私はこの引用文になんらの註釈を加える気はない。ただ作者がこの文字を全身全霊をもって書いただろうことを誌せばたる。
058 私はこの『播州平野』の中の「偶然、スパイの一人が特異体質の男で、変死した」という一節を読む前に、宮本顕治の『スパイ挑発との闘争』(月刊読売、昭和21年1946年3月号)を読んでいた。そこには
「小畑の死因を、最初の鑑定書は、脳震盪であるとしたが、事実、かれが暴れ出した時、なにびとも脳震盪をひきおこすような打撃を加えていないのである。そうして再鑑定書は、脳震盪とみなすような重大な損傷は身体のどこにもないこと、むしろショック死(特異体質者が一般人にはこたえない軽微の刺戟によって急死する場合を法医学上、普通ショック死という)と推定すべきであるとした。そして、裁判所もついにこの事件を殺人および殺人未遂事件として捏造することが不可能となった」
という一節が含まれている。私は小畑が殺されたとばかり思いこんでいたが、ここに全く新しい局面を垣間見た。
059 しかし、私は宮本顕治のこの文章を読んですぐにショック死を受け入れたわけではなかった。大泉兼蔵の強制された遺書の新聞発表が忘れられなかったからである。
《新日本文学》「宮本百合子追悼特集」(昭和26年1951年4月号)に、宮本百合子の『公判日記』が掲げられ、その前書きの宮本顕治の文章によれば、
「事件に対する私の陳述は公判法廷以外では一切していず、警察調書も予審調書もなかったので、公判陳述が最初で最後の陳述となった」
黙秘権など認められていなかった戦前に、宮本顕治が警察でも予審廷でも一言も口をきかなかった事実に、私は心から頭(こうべ)を下げた。その人(宮本顕治)の公判における陳述ぶりを伝える宮本百合子の『(公判)日記』によれば、(宮本顕治は公判廷でこう言った。)
「西沢(隆二)は大串(雅美)に逃亡されたことから嫌疑をかけられ除名になったため、実際以上にスパイに対する自分の態度を明白にしようとする心理から、殺意を積極的に否定することをしなかった」
そういう西沢隆二の「犠牲的人格」に対して、宮本顕治は「過去いかんにかかわらず、新しく評価されるだろうと信じます」と証言(擁護)した。また森長英三郎弁護士が「第一審で付加されていた殺人は第二審で取り除かれていたのであるから、控訴判決によらない検事の論告は理解しがたい」と弁論した。
小畑ショック死説再考
平野謙は手塚英孝『予審秘密通報』を読み、そこで小畑達夫の最後や、大泉兼蔵の女たらしについて触れられていないことから、関係者の中に小畑ショック死事件をタブー視する雰囲気を感じとり、宮本顕治の「検閲」を察知し、宮本顕治への不信感をにじませる。これはこれまでの文章の論旨の転回である。「1965年以降にショック死説を受け入れるようになった」と言っているが、心の中ではそれを否定しているように思える。
手塚英孝『予審秘密通報』
060 これらの経緯から私は少しずつショック死説を受け入れるようになった。しかしショック死説を確信したのははるか後年のことで、昭和40年1965年12月以降のことであった。《文化評論》昭和40年1965年12月号に発表された、手塚英孝の小説『予審秘密通報』は、宮本顕治らのリンチ事件を小説化したものであるが、私はこの『予審秘密通報』に関して次のように批評した。
「…その査問委員会には宮本顕治、袴田里見、逸見重雄、秋笹正之輔らが参加し、宮本顕治は査問の途中の昭和8年1933年12月26日に逮捕され、治安維持法違反、殺人、同未遂、不法監禁、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反というまがまがしい罪名の下に起訴され、以来敗戦直後までの12年間獄中に拘禁された。…『予審秘密通報』は(小畑達夫の最後について言及せず、)焦点を逃亡したスパイ(大泉兼蔵)だけに絞り、それを彼のハウスキーパーの一女性の視点から描き、事件の全貌とその意味の重さという点で不完全である」
『予審秘密通報』は死亡した小畑達夫について(の記述を)ほとんど回避し、逃亡するまでの大泉兼蔵の心理的動揺は、ハウスキーパー熊沢光子の視点から書いていることに、私は失望し、不満だったが、後にはハウスキーパー熊沢光子の視点を中心とした(手塚英孝の)方法に教えられた。(何を言いたいのか。)
062 平野謙が同人誌《構想》仲間の埴谷雄高と初めて知り合ったころ(1939年)話し合った内容に関する記憶の曖昧さなど。(この部分は省略)
遺書
065 1933年末から1934年にかけて大泉兼蔵とそのハウスキーパー熊沢光子が20日間ほど同じ家に監禁されている間についに心中する気になり、二人とも遺書を書くに至ったという道筋は、大本のところ手塚英孝の『予審秘密通報』によって教えられた。
私は熊沢光子の遺書を読み、肩肱(ひじ)張った生硬な文章の最後に、いかにも女らしい哀切な結びの文句を見出し、この遺書は本物だと思った。
066 「…私は手塚英孝に(査問)当時の様子を聞いたが、手塚英孝もリンチ事件の時には既に検挙されていて、細かい(査問の)様子はあまり知らなかった。…」(平野謙『文学・昭和十年前後』文学界、昭和36年1961年6月号、これは平野謙の回想)
手塚英孝『査問』を宮本顕治が検閲
067 (1965年の『予審秘密通報』発表の5年前の1960年ころ)に手塚英孝は小説『査問』を書き上げていて、私はその読後感を手塚英孝と話し合って様々アドバイスし、手塚英孝もそれを受け入れて書き直すことにした。ところが昭和35年1960年6月19日の改定安保条約の自然成立の夜、私が手塚英孝とばったり会ったとき、手塚英孝は「宮本顕治の検閲に引っ掛かって『査問』の書き直しは取りやめた」と言った。
その5年後に、手塚英孝の『予審秘密通報』が《文化評論》昭和40年12月号に発表された。それは宮本顕治の検閲を通過したことを意味する。その描写方法を以下に述べる。
手塚英孝『予審秘密通報』
069 査問されるのはスパイ容疑者のハウスキーパーであり、彼女が一種の哀れな犠牲者に他ならぬことは次第に査問委員にも判明して来るとはいえ、まるでフェミニストの聖人君子たちの集まりみたいな描写は不自然だ。
070 小畑達夫の最期の記述が欠けている。大泉兼蔵が自殺を決めるまでの心の変化の描写がない。
《赤旗》昭和9年1934年1月17日号
073 大泉兼蔵が査問委員会に自殺を申し出たことは真実らしく、《赤旗》昭和9年1934年1月17日号によれば、「私の罪は万死に値すると思います」とし、その次にこういう付記がある。
「『人の将に死なんとするやその言やよし』スパイ片野(大泉)の最後の告白の態度は、終始悲鳴をあげて一命を乞うた彼としては、あまりに大出来である。但、彼としてはかくの如き観念の臍(ほぞ)を固めることは却々(なかなか)容易にできなかった。(中略)彼の『心境の変化』は、彼を監視した英雄的同志達の献身的態度に動かされたのであるか、それとも最後の一芝居であったかを知らない」
手塚英孝の『予審秘密通報』は大泉兼蔵を女たらしとして描写せず、ハウスキーパー制度を美化している。
宮本顕治の法廷での証言と袴田里見『党と共に歩んで』
宮本顕治は昭和15年1940年4月18日の法廷で「大泉は資金を拐帯(かいたい、持ち逃げ)し、妻子があるのにないといってハウスキーパーに結婚詐欺をもって瞞着し、機械的・テロリスト的宣伝を農民団体の機関紙に掲げるべきだと党フラクションに命じたりした」と陳述している。また袴田里見は『党と共に歩んで』(新日本出版社、昭和43年8月)の中で大泉に「田舎に女房・子どもがいるのに、君をだまして申し訳ない」と告白させ、熊沢光子には「スパイの女房だったと知った上は生きていけない。私も死ぬがこの男を殺させてください」と言わせた。
075 熊沢光子が大泉兼蔵に自殺の話を切り出したというのは、袴田里見のこの推定に基づいた私の思い違いだった。いずれにせよ手塚英孝の『予審秘密通報』は、哀切な犠牲者としての熊沢光子を十分に描いていない。
警察での熊沢光子の「手記」と裁判所での妹の証言
私は先に『予審秘密通報』の枠組みは意外にも事実に則っていると書いたが、《赤旗》昭和50年1975年12月15日号に、昭和9年1934年3月19日に、目黒警察署で熊沢光子が書いた「手記」の抜粋や、昭和13年1938年1月25日の東京刑事地方裁判所で行った熊沢光子の妹の証言が発表されている。手塚英孝が『予審秘密通報』を執筆した時、すでに熊沢のその手記や妹の証言を知っていたようだ。さらに同紙は市ヶ谷刑務所長から東京地方裁判所予審判事に宛てた秘密通報を公表している。それが『予審秘密通報』の冒頭に引用されている。作品の名前もそこから来ている。
熊沢光子の手記からの引用 「絶望、くやしさ、信頼していた、スパイだった驚き、憎しみ、未練、精神的打撃、自信喪失、自殺以外に考えられなかった。大泉は『出されたら自殺する、死ぬときぐらい一緒に死んでくれてもいいじゃないか』としきりに泣いて頼んだ。怒りよりも軽蔑に似たあわれみを感じ、何もかも捨てて、彼と共に死ぬことを約束した」
077 手塚英孝はこの『予審秘密通報』を含めた短編集『落葉をまく庭』を昭和48年1973年4月に東邦出版社から出版し、第5回多喜二・百合子賞を受賞したが、その多くの書評は『予審秘密通報』には言及しなかったように思えた。私はリンチ事件はタブーなんだなあと感じた。
佐藤静雄の手塚英孝『予審秘密通報』に関する解説の中に潜む宮本顕治の内閲
手塚英孝の短編集『落葉をまく庭』は2年後の昭和50年2月にも新日本出版社から「新日本文庫」の一冊として刊行され、その解説を佐藤静雄が書いている。佐藤静雄は『予審秘密通報』について「スパイの人間的腐敗と、これをたくらんだ権力の非道に対し、党幹部の、偽られてスパイの妻とされた女性への人間的配慮や、あくまで党の目的は、スパイを徹底的に摘発して党を再建強化することにあり、その摘発は、スパイを除名して組織外に放逐し、組織の傷の事実を具体的に明らかにすることであるとして、そのために不当に押し付けられている非合法下という条件のなかで、理性的に事の処理をすすめる(党幹部の)姿を、氏はここに画いたのだった。/ここにも、氏の真実なる生を誠実に生きようとするものへの深い共感と、これに敵対するものへの厳しい糾弾の姿勢を伺うことができる」
078 この佐藤静雄の解説は単なる誉め言葉ではなく、明らかに宮本顕治の内閲を代弁している。そういうものとしてここに録するに足るのであり、同時に作品自体が宮本顕治の内閲を通過したことをも証かしている。
ハウスキーパーの人権問題
熊沢光子の妹はこう語る。「姉は勝気な性質でありますから、自殺するようなことはなかろうと思っていました。それで昭和10年1935年3月、姉が市ヶ谷刑務所で縊死したことを数カ月たって風の便りに獄中で知った私は、大変驚き悲しみました。私としては、結局、大泉が姉を殺したようなものだと思っております」
大泉兼蔵は、「大泉さんのハウスキーパーだった熊沢光子もリンチを受けたのですか」という質問に対してこう語った。「いや、彼女はそれほどやられなかったでしょう。(監禁はされた。)獄中で首をつって死にましたよ。考えてみれば、あれが一番かわいそうなことをした。名古屋の判事の娘でね」(全貌・昭和40年1965年5月号)
この二つの証言のギャップを埋める仕事こそ作家の仕事なのだが、手塚英孝はそれに成功していない。
感想 「もリンチを受けた」という表現の中に、リンチを否定する宮本顕治の立場に反して、大泉兼蔵に対するリンチがあったということが前提されている。
《週刊朝日》編集部はハウスキーパーを「昭和初期、共産党が非合法の時代、警察の目をくらますため、男性党員が、女性党員やシンパと同居して、普通の家庭生活をしているように見せかけた。その女性党員やシンパのことをハウスキーパーと呼ぶ。ここから男女問題が起ったこともある」と解説している。
伊藤ふじ子の場合
私は小林多喜二の『党生活者』の中に出てくる〝笠原″というハウスキーパーの非人間的な扱われかたを批判して、戦後初めてハウスキーパー問題を提起した。
私はこう書いた。「目的のために手段を選ばぬという点に政治の特徴がある。プロレタリア的な政策でもハウスキーパーという〝制度″?が採用された一時期があった」(『ひとつの反措定』新生活、昭和21年4月・5月合併号)とか、「小林多喜二の『党生活者』の中の笠原という女性の取り扱いを見よ。目的のために手段を選ばぬ人間蔑視が、〝伊藤″という女性との見よがしの対比のもとに、運動の名において平然と肯定されている」(『政治と文学』新潮、昭和21年10月号)ただし、私は後に笠原と伊藤ふじ子との混同を訂正した。
080 当時の作家同盟員・小坂多喜子は『小林多喜二と私』(文芸復興、昭和48年1973年4月号)の中で、小林多喜二が虐殺され、母親の元にその遺体が返されたときのことを回想し、「和服姿の若い女性(伊藤ふじ子)が小林多喜二の体のあちこちを手や頬で愛撫する様を見て、その異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見た」とし、やはり一般論として当時のハウスキーパーなる存在に一種の嫌厭の情を表明せずにおれなかった。さらに小坂多喜子は「私は当時云われていたハウス・キーパーという言葉に一種の抵抗を感じていた。いやな言葉だと思っている。地下運動をする男性の、世間の眼をごまかすための同棲者、実質的には妻同様の役目をする。イデオロギーの便宜のための、そういう女性の役目に私は釈然としないものを感じる。女としての立場から納得のいかないものを」
江口渙も、確か朝日新聞で、伊藤ふじ子が死体に「熱烈な」接吻するのを見て、屍毒のおそろしさを注意したと書いていたと思う。小坂多喜子や江口渙の伊藤ふじ子を眺める眼に、殺された同志の妻の取り乱した姿というより、場違いなヨソモノを見るような冷たさを感じる。そこにハウスキーパー一般に対する昭和7、8年ころの「世間の眼」のようなものが感得される。
感想 小坂多喜子や江口渙の表現の中に、ハウスキーパーが世間的には不道徳なものと思われていた、さらに小坂多喜子の場合には「女性蔑視」である、と平野謙は言うが、愛し合っていたならいいのではないか。やっかみではないのか。そして橋本菊代と山本正美との関係は、最初から「妻同様の役目」ではなかったようだ。
ハウスキーパーの歴史
082 田中ウタが山代吉宗との危険な関係(昭和3年1928年9月から昭和4年1929年4月まで)を回避した努力が、ハウスキーパーの原初形態ではないか。(伊藤千代子はそれ以前1927年9月初旬に浅野晃と結婚しているが、これは正式の結婚だからハウスキーパーとは言えないか。)
083 昭和5、6年1930年、1931年ころ、党のテック(技術部)が女子学連の女子大生などのハウスキーパー養成に乗り出した。
昭和5年1930年7月に田中清玄が検挙されたとき、3人のハウスキーパーがいたが、田中清玄はハウスキーパーに関してかなり厳しい規律を要求していて、中本たか子(現・蔵原惟人夫人)がそのことを『受刑期』(中央公論、昭和12年1937年6月~8月号)の中で証言しているが、それ以前に中本たか子は、その規律を無視して、党中央委員の岩尾家定と結ばれて妊娠している。(中本たか子『光くらく』敗戦直後の執筆)
昭和6年1931年に中野重治が江馬修の小説『きよ子の経験』の浅薄さを厳しく批判し、蔵原惟人が片岡鉄平の小説『愛情の問題』(改造、昭和6年1月号)の男性的偏向を指摘したが、おそらく昭和5年1930年ころから「少しずつ退廃」し始めたハウスキーパー問題があったに違いない。
ハウスキーパー問題は西田信治にもある。西田信治は小林多喜二の斃れる10日早く警察のテロルに斃れた。宮本顕治はこの問題について戦後こう語っている。
宮本顕治を原則主義的だと批判
宮本顕治『新しい政治と文学』(『人民の文学』岩崎書店、昭和22年5月)は、私の『ひとつの反措定』(新生活、昭和21年4月・5月合併号079)に対する反批判であるが、その中で宮本顕治は、
「日本共産党はハウスキーパー制度をかつて採用したことはない。個々の党員がそれぞれ相応しい婦人党員と同居することは、その人たちの自由であって、党は干渉しなかった。これらの党員が検挙されると、警視庁がこれを様々な猟奇的歪曲によってセンセーショナルな報道をやった。逆に官憲のスパイ・挑発者によって持ち込まれた党堕落化のための破廉恥的徴発と党が精力的に闘ってきたことは、スパイ・挑発者が党より除名追放された理由をみれば明白である」
「平野謙というのは、戦時中情報局の役人とか嘱託とかをやっていた人物だそうだが、プロレタリア文学運動や小林多喜二や、彼の考える日本共産党の政策なるものについて、熱心に否定的批評を試みている。私はこれを反批判する義務を感じる」
西田信春はハウスキーパー=女を要求
これはハウスキーパー制度の歴史の実情に即しておらず、原則主義的である。山本斉一は、官憲に虐殺された西田信春について、「党中央オルグとして昭和7年1932年に九州に派遣された木本六郎(西田信春)は、ハウスキーパーとして婦人同志を提供するよう要求したが、私にはそれが純粋な意味でのハウスキーパーを必要としているとは聞こえなかったので、その要求を断った」と語っている。ハウスキーパー問題を個人的問題としてでなく、組織的問題として取り上げるべきである。
宮本顕治の原則論の由来 リンチ事件隠蔽の決意
《文化評論》昭和51年4月臨時増刊号『犬は吠えても、歴史は進む』の付録「スパイ査問事件と復権問題の真実」によれば、
「1933年12月23日、東京都渋谷区幡ヶ谷の秋笹方の二階で査問開始。翌24日、査問続行、小畑の急死により査問中止。同26日、宮本顕治検挙。1934年1月14日、大泉兼蔵は目黒区下目黒の木島方に移る。翌15日、大泉兼蔵が逃亡して麻布鳥居坂署に赴き、通報。警視庁は直ちに新聞発表。2月17日、木島隆明042検挙。同27日、逸見重雄042検挙。4月2日、秋笹正之輔検挙。1935年3月4日、袴田里見検挙。1938年10月、予審終結決定」
とある。
昭和15年1940年4月18日の公判の冒頭陳述で宮本顕治は、
「私が麹町警察署に検挙された時、私を調べんとした山懸(ママ)警部は鈴木警部とテーブルを囲んで曰く『これは共産党をデマるために絶好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離すためにやる』と言って非常に満足した様な調子で、我々に冷笑を浴びせていた。しかし自分はテロによる訊問のため警察に於いては陳述を拒否してきた」(文化評論・前掲号)
宮本顕治『スパイ挑発との闘争』(昭和21年3月)によれば、小畑達夫の急死に関して、
「事態の重大性を直観し、私もとびおきて木島とともに小畑の傍らへよった。小畑は、大声をあげ、猛然たる勢いでわれわれの手を振り切って、暴れようとする。私たちはそれを阻止しようとして、小畑の手足を制約しようとする。逸見は小畑の大声が外へもれることをふせごうとしてか、小畑が仰向けになっている頭上から、風呂敷のようなものを小畑の顔にかぶせかけていた。私と木島は、小畑の手をそれぞれ両腕でかかえ、袴田は脚をかかえて、みな小畑の暴れるのをとめようとしていた。すると、そのうち、小畑が騒がなくなったので、逃亡と暴行を断念したのだと思って、私たちは小畑からはなれ、事態が混乱におちいらなかったことをほっと一安心した状態であった。そこへ、秋笹が階下からあがってきて、だまって小畑のおおいをとった。すると、顔色がかわり、生気を失っている。これはまったく予期しない事態であるので、直ちに秋笹が脈をとり、人工呼吸を始め、さらに私がつづいて、柔道の〝活″をこころみ、それを反復したが、小畑の意識はついに回復しなかった」
「小畑の死体を遺棄すべく協議決定したこともなく、また遺棄したこともない」
安倍源基の序文がつけられた、小林五郎『特高警察秘録』(生活新社、昭和27年7月)は、猟奇的歪曲を狙った赤本だが、小畑達夫の死体を発掘したときの状況について、
「玄関の次の部屋の畳を上げてみると、新しい釘が打ちつけてある。素人が慌てて打ったらしく、曲げて打たれている。ねだを上げたが土を掘るものがない。土は柔らかい。勝手元から木炭用の十能を見つけて少し掘って見るとシャベルが出てきた。シャベルで三尺程掘ると、むき出しの人間の膝が先ず現れた。」
本書は鈴木猛『佐野学一味を法廷に送るまで』(警友社、昭和6年1931年11月)と目次が類似していて、それを盗用した赤本である。小畑の死体は1月15日夜に発見された。
今でも体に傷跡が残る程の拷問の中でも完全黙秘を押し通そうとする宮本顕治の態度の中に、スパイに対する最高処罰は除名・追放であるとする理念的理論化と、党絶対化に基づく原則主義が生まれた。(どうかな)
宮本顕治の原則主義の弊害
宮本顕治の原則主義は戦後の「相対的な世間の風」には通用しない。宮本顕治は党声明(《アカハタ》昭和21年4月23日)により、人民社に『日本革命運動小史』の発売停止を求め、人民社はそれに応じて絶版にしたが、それは出版社の生存権の侵犯であり、出版の自由権の否定であった。そしてこの事件は宮本顕治の頑なな原則主義が内容空疎なタテマエ主義に陥る予兆であった。実際は人民社は在庫を処分するために該当箇所に修正の貼り紙をつけた改訂版を出し、それが大久保典夫031の手にしたものである。以下はその修正部分である。(小畑達夫を「殺した」とはないから、修正後のものらしい)
「支配階級、その手先(の)破壊者等の憎むべき策動に抗して、日本共産党は党員、革命的労働者に向かって警戒と大衆的・組織的闘争を求めた。同時に党は白色テロル調査委員会を設け、その被害の原因を慎重に調査した。その結果党のごく近くにスパイを発見した。十二月下旬、党中央部はスパイを査問に付した。スパイは罪状の逐一を白状したが、その直後、スパイの一人が逃走を企て騒ぎ始めて、その男は突如死亡した。(後にこれは鑑定書によって法医学上ショック死であると推定された。(調査)委員達は公判において自然死――心臓麻痺との推定を主張し、あくまで鑑定を求めた。いずれにしろ階級裁判も殺害でないことは認めざるを得なかった。)だが警察はそれを発見するや、デマをふり撒いた。新聞紙は〝リンチ事件″〝共産党の殺人事件″と気狂のやうに叫んだ」
092 最初から両者(出版社と共産党)で改訂するように話し合えなかった。そこに私は党の絶対化に発する宮本顕治の原則主義の長短を認める。手塚英孝の作品でのハウスキーパーの美化に宮本顕治の意見が加わっているとすれば、それは今でも原則主義に固執することによって空しいタテマエ主義に転化したことを自覚しない、宮本顕治の性情によるのではないか。(ちょっと勘ぐりすぎではないか。)
感想
・発売停止要求問題は確かに行き過ぎだと私も思う。そういう判断がどういう経過で出て来たのかを日本共産党は明らかにすべきではないか。
・家政婦ハウスキーパー問題は、その制度を宮本顕治は否定しているが、橋本菊代の自叙伝を読んでみると、「今度のあなたの仕事は○○(山本正美)の秘書(妻)ですよ」*と言われてそこに行ったように記憶するから、制度としてはあったのだと思う。しかし、女性が慰安婦みたいに自由が拘束されていたわけではなく、党中央からの要求と言えど、断りにくいが、いやだったら断ることもできたのではないか、また女性の側の自主性がまったくなかったとは言えないと思うし、セックスを伴わないカップルも、橋本菊代の場合のようにあったと考えられる。
*「松尾茂樹から共産党中央の人の秘書への部署変更を言い渡された。共産党員である私に部署選択の自由はない。<共産党員である以上自分を必要とする部署で最善を尽くすのみ>と決意して承諾した。」077
・手塚英孝の『予審秘密通報』が小畑達夫の事件を伏せたという問題に関しては、確かにこの事件に関するタブーはあったようにも思われるが、戦後宮本顕治が『スパイ挑発との闘争』の中でこの事件の事情を説明して明らかにしているのだから、その後のタブー視があったとしても、問題にはならないのではないか。
宮本顕治の強い性格
中野重治『甲乙丙丁』(講談社、昭和44年9月)の中に、宮本百合子が昭和26年1月21日に急逝した時、その葬儀委員の中に湯浅芳子を加えることに、宮本顕治が断固拒否したとあるが、その宮本顕治の強さは、超人的なものよりも人間性に根差している。
093 宮内勇は「査問は食うか食われるかの闘いだから、査問の過程である程度の暴力が行使され、それが度を越して死に至らしめたことは当然だった。」「問題を大きくしたのは宮本顕治と共産党の間違った対応による*」(朝日ジャーナル、昭和51年2月20日号)とするが、私はこの考えに賛成だ。(殺人説は前言の否定では)*どういう意味か。
リンチ共産党事件は政治の劇であるとともに人間の劇でもある。
林芙美子は人生を「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」とする。
094 私も文学を「危機における人間の表現」と規定した。しかし、今では、広津和郎に倣って「破滅もせず、調和もせず生きながらえたい」をモットーとするようになった。
095 政治に駆使されっぱなしの宮本顕治より、ジャーナリズムの中で多少とも本心を吐露できる私の方がましだ。リンチ共産党事件は政治の劇であるとともに人間の劇でもある。
二元論的思考
096 私は宮本顕治や宮本百合子の非転向と、中野重治や佐多稲子の転向とを比べて、一種の極論を吐いたことがあった。私は二元論者だ。私は昭和初年代に半非合法的なコップ(日本プロレタリア文化同盟)書記局で働き、昭和10年代には情報局第五部第三課の嘱託として、日本文学報国会の設立に関係した。私はこの閲歴を180度の転向とは考えず、「偶然による一種の身すぎ世すぎ」と考えているが、やはり宮本顕治に「情報局の役人」云々と言われたことはショックだった。
097 本多顕彰は『指導者』(光文社、昭和30年10月)の中で、こう述べている。
「情報局に呼ばれて行ってみると、外国部会の幹事が集められていた。手摺の一番高い所に井上司朗氏がすわり、そのうしろに目の大きい無愛想な男が座っていた。この男は終始黙して語らず、ただ私たちに据えた目を動かさなかった。にらんでいるようにも思われ、こわく、気味が悪かった。…この無愛想な男は、戦後聞いたところによると、平野謙氏だった。それならあんなに恐れるのではなかった。平野氏は私の高等学校の後輩だった。」
『指導者』という本は、戦争中は時局に便乗していた連中が、戦後は進歩的文化人然として指導者ぶるのに我慢ならず、揶揄嘲弄の戯文調でやっつける本だった。本多顕彰は、戦時中は情報局に勤めながら、戦後は口を拭って旧左翼みたいな顔つきをしている平野謙をからかったのだが、私はからかわれてもやむを得ないと思った。本多顕彰が私を恐れたり気味悪がったりする根拠は何もない。(嘘)私は昭和20年代に二元論者になったようだ。私の二元論は弁証法的発展ではなく、一平面上の二点、紙の裏表にすぎない。
感想 自らが弁証法的発展のない「二元論者」であり、その二元論の観点からすれば、自らの戦時中の汚点が却って長所であったかのようにほのめかしつつ、自分がそういう凡人であることが、原則論を主張する宮本顕治より優れていると言いたいようだ。立花隆の『日本共産党の研究』もこれに似ているのではないか。
098 第三期
コミンテルンからのスパイ殺人指令
手塚英孝『予審秘密通報』と対立する作品は、平林たい子『宮本百合子』(文芸春秋、昭和47年6月)である。それによると、
「…しかし、当局がリンチによる殺人事件と見たのはありそうなことで、宮本顕治が殺人を自供しないために調べは長引いた」「こんな状況に対してコミンテルン極東局は、〝スパイは発見次第必ず消すこと″という指令を、上海に行った紺野与次郎に与えた」
とあるが、平林たい子はこの出典を明らかにしていない。
099 《全貌》昭和47年5月号にこのコミンテルンの指令が出ているが、指令を受けたのは紺野与次郎ではなく、風間丈吉となっている。そして「スパイは発見次第必ず消すこと」とは「肉体的に抹殺せよ」ということであると注記している。
志賀義雄『日本共産主義運動の問題点』(読売新聞社、昭和49年1月、志賀義雄の除名は1964年昭和39年)の第三部「闘いのなかから」は、スパイM、大森銀行事件、大泉・小畑問題、リンチ事件、スパイ・挑発者対策、コミンテルン勧告、袴田逮捕などに触れ、その中で「Sは発見次第必ず消すこと」というコミンテルン極東局指令について述べるが、その前に、昭和9年1934年7月発表の岡野進*の論文「党攪乱者を一掃せよ、党分裂者を粉砕せよ」を紹介し、その趣旨に照らしながら、昭和6年1931年5月に風間丈吉がコミンテルン極東局から指示されたという「Sは発見次第必ず消すこと」はコミンテルンの見解ではないとしている。(志賀義雄はソ連寄りだからソ連批判はしたくないだろう)
*岡野進は野坂参三か。130
感想 ソ連・コミンテルンが日本共産党に「Sは殺せ」と言ったことは真実かもしれないが、たとえそう言われても、宮本顕治が小畑を殺さなかったことも考えられる。ソ連は国家主権を握っているから、Sを殺しても死体を埋葬(処分)できるが、日本共産党は非合法だから、如何にソ連が「Sは殺せ」と言っても、Sを殺したら死体の処分に困るのではないか。
100 中野重治『貼り紙』(群像、昭和37年1962年10月号、中野重治も1964年に志賀義雄の「日本のこえ」に合流しているが、『貼り紙』発表当時1962年は党中央委員だった)はリンチ事件のことについて触れている。
メモ 『貼り紙』はリンチ事件のことについて触れているようだが、主人公の主観的な気持ちの描写だから、意味不明である。
101 中野重治が発行人となっている《通信方位》昭和51年1月号の中野重治の巻頭言『歴史の縦の線』は、リンチ事件に追い込まれた原因を追究すべきだとする。
土屋祝郎は『時の舞い』(《北方文藝》、昭和48年1月号~4月号)の中で、リンチ事件に関する自己批判と、今後の方針が欠けていると指摘するが、私はそれが土屋の当時の考えか、それとも戦後の考えかに関して、信用できない。
103 京都の堀悦之助は個人雑誌《独創》を刊行しているが、私は堀が日本プロレタリア作家同盟解散時の怨恨から解放されていないと思う。ちなみに小林多喜二の筆名は、堀英之介であった。
第四期
私は3月上旬から健康を害し、急に明日(1976年4月20日)から入院することになったので断念するが、第四期の対象は、埴谷雄高『悪霊』、高橋和巳『日本の悪霊』、武田泰淳『快楽』、西野辰吉『挑戦者』などである。
また第三期と第四期とを過渡するものとして、石川淳『白頭吟』、高見順『いやな感じ』、瀬戸内晴美『余白の春』、臼井吉見『春一番』など、アナーキストらのテロリズムを扱う予定だった。
104 私は石上玄一郎052とともに小畑達夫の下で働いていたが、私だけがこの(リンチ)事件を大げさに吹聴していると思われているのは不本意だ。私は土屋祝郎101のように小畑達夫に怨念を抱いている。
感想 平野謙は殊更リンチ事件や、ハウスキーパー(女たらし)制度など、社会主義運動にまつわる汚点らしきことをあげつらうが、運動をどう進めたらよいのかという点で、焦点が外れているのではないか。
平野謙は文章や文学が好きなようだが、細部の心理的なことに注意が向くあまり、政治や歴史の大局的流れの視点からは、的が外れることがあるように思われた。
平野謙はこれから(4月20日に)入院とのこと。平野謙がくも膜下出血で死亡したのが1978年4月3日であるから、これを書いて2年後に亡くなったということになる。これから入院ということで第三期、第四期は尻切れトンボの観がする。
《文学界》昭和51年1976年4月・6月号
Ⅱ
日中戦争勃発前後
107 本論は昭和12年1937年日中戦争勃発当時の3件の治安維持法違反事件、つまり春日庄次郎らの日本共産主義者団、永島孝雄らの《学生評論》グループ、中井正一らの《世界文化》グループを扱う。当時は共産主義運動が反ファシズム人民戦線という世界革命路線に変わる時期だった。
108 当時の常識では日本共産党と日本共産青年同盟に加盟していた事実が立証されれば、起訴されることになっていた。この二つの結社は結社禁止の非合法組織だったからである。しかし共産党指揮下の日本労働組合全国協議会(全協)に加盟している組合は、現実的には次第に半非合法状態に追い込まれていたが、政治結社ではなく大衆団体だから、治安維持法違反の立件は法律上困難で、全協加盟の組合員というだけでは起訴しにくい建前になっていたようだ。
109 ところが昭和8年1933年の下半期以降になると、全協や日本プロレタリア文化連盟(コップ)の加盟団体に所属していることだけで、治安維持法を適用できるような改悪の気運が高まった。そのためコップ加盟の日本プロレタリア作家同盟から脱退する者も出て来て、この同盟員の動揺がきっかけとなって、日本プロレタリア作家同盟は昭和9年1934年2月に解散を決議しなければならなかった。
日本共産党や日本共産青年同盟だけでなく、それを支援する大衆団体にまで治安維持法を適用しようとする改悪の提案は、昭和9年1934年2月の第65議会に上程されたが、結局その時は採決されなかった。しかしその前後から警察当局による治安維持法の拡大解釈は公然の秘密となり、単なる支持者、同情者も起訴される傾向が顕著になってきた。昭和6年1931年9月の満州事変勃発以後、5・15事件、小林多喜二虐殺事件1933.2.20、京大の滝川事件1933.5.26など、自由とイデオロギーを圧迫しながら次第にファシズムの傾向を強めて来た日本は、採決しなくても治安維持法の強引な拡大解釈に突き進まざるを得ない必然性をはらんでいた。
この治安維持法が法文上も全面的に改悪されたのは、昭和16年1941年3月10日の第76議会においてだった。旧法では七条に過ぎなかった治安維持法は、全体で65条となり、その主眼は、
(一)共産党の外郭団体を直接取り締まりの対象とする支援結社に関する処罰規定、
(二)直接に国体変革の実行を担当せず、党再建の気運醸成を主要目的とする準備結社に関する処罰規定、
(三)結社の程度に至らない集団(グループ)に関する処罰規定、
(四)類似宗教団体に関する処罰規定、
(五)人民戦線方策の採用の結果として現れて来たところの、結社とは関係ないが、目的に資する一切の個人的行為を処罰する規定、
などを新設することだった。さらに旧法になかった、
(六)特別刑事手続きや、
(七)予防拘禁制に関する規定も
も付加された。
旧法は最高10年の懲役とする第一条、そういう結社組織実現のために協議した者、扇動した者、そのために騒擾、暴行、財産援助をした者に適用する七条から構成され、その中には、「前五条の罪を犯した者が自首した時は、その刑を軽減又は免除する」という一条もあって、脱落者・スパイを奨励した。
110 これ(新法の実質的中味)が現実に成文化されたのは昭和16年1941年3月だったが、日中戦争勃発前後ころからすでに実質的な拡大解釈が着々と実行されつつあった。
昭和14年1939年6月、キリスト教団の灯台社が一斉検挙され、その責任者明石順三が昭和17年1942年4月の第三回公判廷で最終陳述を述べた。
「私は今までに法律に触れるような行為をしていない。聖書は公刊書であり、この聖書に基いて私が発行した出版物は当局の検閲を受けている。今更法律に触れることは考えられない。私が今まで述べたことは神の言葉である。私共5人が言う神の言葉が勝つか1億が勝つか、それは近い将来に立証されるだろう。」
111 灯台社は昭和8年1933年5月に不敬罪違反容疑で幹部数名が検挙された。昭和14年1939年1月応召入隊した灯台社の一員がこう言った。
「天皇は元来宇宙の創造主エホバによって造られた被造物であり、現在は悪魔の邪導下にある地上の機関に過ぎないから、天皇を尊崇し、天皇に忠誠を誓うなどの意志は毛頭ない」
と公言し、支給された兵器を神意に反する殺人器として返納を申し出た。これがきっかけとなり、昭和14年1939年6月、全国130名の灯台社員が一斉検挙された。
このことはヒューマニズムにも当てはまる。《世界文化》の同人和田洋一は昭和13年1938年6月治安維持法違反で検挙され、昭和13年1938年11月に起訴された。和田洋一が改正前の治安維持法に違反することはなかった。日中戦争勃発前後、警察当局は恣意的に治安維持法の拡大解釈を実行しつつあった。
112 以上は佐々木敏二『治安維持法改悪とキリスト教会』キリスト教社会問題研究・第十号、昭和41年4月に依拠している。
春日庄次郎の日本共産主義者団
司法省刑事局《思想研究資料》特輯第67号(昭和14年1939年11月)の主要な内容は、検事佐藤欽一《日本共産主義者団結成の研究》であるが、その覆刻版(昭和43年11月)には「思想資料パンフレット」が付載され、そのパンフレットの中に、春日庄次郎の(おそらく警察宛ての)手記『多数派批判』と『日本共産主義者団結成の動機』が収録されている。
113 『日本共産主義者団結成の動機』
本手記は、日中戦争を分析し、侵略戦争反対に立ち上がるべき「我が日本無産階級運動の状態」を、社大党、日本無産党、日本労働組合全国評議会、労農派グループ、エセ人民戦線派、インテリゲンチャ諸グループなどの動向に即してそれぞれを検討し、日本共産主義者団結成の必然性を力説した。その内容は以下の通りである。
昭和12年1937年6月の総選挙で、社大党は反戦・反軍部のスローガンを掲げて一躍37議席を獲得したが、翌月日中戦争が勃発すると、社大党幹部は近衛首相の招待に応じ、「社会主義の勝利のためには確乎たる資源を必要とする。然れば、我々は積極的にこの戦争に参加しなければならぬ。戦争を通じて社会主義へ――」という声明を発表し、積極的に戦争協力の態度を明らかにした。こうして社大党幹部は大衆の切実な期待を裏切ったが、もともと「彼らの本姓は夙に自覚あるプロレタリアートによって暴露され、社会ファシストとして、無産大衆の一大事の際に決定的な裏切りをやるために、日ごろ左翼的言辞を弄して大衆を引き付けているに過ぎない、無産階級内に派遣された支配階級の『特務機関』であることが熱心に指摘・警告されていた。」だから日中戦争が勃発すると彼らはその組織を愛国主義・排外主義の戦争動員機関にしようとした。
「革命的前衛組織の崩壊状態」は、戦争とファシズムの切迫に伴って、一方では右翼ファシストの社大党系の勢力を進展させ、他方では合法左翼、つまり労農派一派をも伸暢させた。労農派は合法主義者・解党主義者として、昭和の初めに共産主義の陣営から放逐され、(1936年の)二・二六事件以後、日本共産党の衰微に乗じて、反軍部(反)ファシズム人民戦線運動を提唱した。昭和10年1935年夏のコミンテルン第七回大会で「合法運動の利用の重視と、一切の反ファッショ的要素の統一集中の必要」を力説した人民戦線戦術が採択されると、労農派は「非合法的前衛党を要せず、合法的大衆的協同戦線党だけが必要である」という(彼らの)多年の主張の正しさが是認されたとして、従来の自らの日和見主義的裏切り行為に免罪符が与えられたかのように宣伝した。すなわち「反ファッショ人民戦線運動を通じる(を通して)プロレタリア―トのヘゲモニー、及びプロレタリア階級闘争とその組織の強化・発展という点を骨抜きにし、この(日中)戦争の中から、合法主義と解党主義の弁護になりそうなものだけを切断して自己の着物を縫った」
114 その左翼的言辞を信じてきた大衆は、労農派、日本無産党、全国評議会こそは、社大党とは異なって、戦争反対の一貫した行動を遂行するだろうと期待したのだが、この派の中心人物加藤勘十は議会で「全組織を上げて戦争に協力する!」と誓った。彼らを信頼してきた大衆の批判に対して、彼らは「今は時期が悪い、戦争の進行と共に必ず政府が破綻する時が来る。それまではどんなことがあってもカムフォラージュして待機せねばならぬ」と糊塗した。
115 この日和見主義の待機はアテがはずれ、昭和12年1937年12月以降、日本無産党、全国評議会の幹部らと、彼らの参謀本部を自認していた労農派の理論家、教授グループが一斉検挙された。労農派は左翼的言辞によって大衆の要求に基づく闘争を骨抜きにし、去勢化し、政府の戦争計画に協力した。彼ら合法左翼の一派が根底に於いて社大党幹部らの社会ファシストと本質的に同じであり、外見上の相違は、左翼的言辞の有無にすぎなかった。」
春日庄次郎はさらにエセ人民戦線派や、コム・アカデミー派と呼ばれたインテリゲンツィアの諸グループを厳しく批判し、「理論と実践とを分離することによって、実践の優位を本質とするマルクス・レーニン主義の方法を踏みにじった」とし、「これら社会ファシストから(や)あらゆる種類の日和見主義者と闘争することが必要だが、そのためにはコミンテルンの日本支部としての日本共産党の再建・確立を優先すべきであり、戦争反対、大衆生活の擁護、無産者団体の統一、日本共産党の再建などを中心課題として、われわれ日本共産主義者団は結成されたのである」とした。
大変退屈な叙述になってしまったが、この春日庄次郎の手記に、日中戦争勃発前後の根深い左翼的発想法の一典型が定着されている。それは当時の左翼的思考法のオーソドックスと呼んでも差支えない。そういう正統的な発想法のアンチテーゼとして、雑誌《世界文化》を中心とするグループがある。また日本共産主義者団と《世界文化》グループとの間に、雑誌《学生評論》とその延長上の「京大ケルン」がある。
感想 平野謙は春日庄次郎の共産主義者団(1937年12月5日結成)を紹介した後で、それを「典型的な左翼の考え方、根深い左翼的発想法の一典型の定着だ」と批判し、それに対して同時期の月刊誌「世界文化」グループ(1935年~1937年発行)を対置するのだが、「世界文化」学者グループは闘わず、従順であったのに対して、戦前の多くの共産党員は拷問を受けて殺されたり、10年間もの長期間収監されたりした。そういう実践の重みを考えずに、「私には批判する自由があるが、宮本顕治は原則主義に捉われていてそれができない」と揶揄する。私は戦前体を張って頑張った人々が戦後の民主化に貢献したと思う。それは、山本(橋本)菊代の自伝で述べられている彼女の戦後の行動が示している。重税軽減闘争、保育園増設運動、付添看護婦を首切りから守る闘争、休日診療所開設運動…など、社会を動かす運動を実際に、しかも私生活を顧みず、実行している。それを揶揄する文化人・評論家はいったいどんな社会的影響を与えたか。ニヒルか。平野謙の論文『日中戦争勃発前後』や『文学作品に反映したスパイ・リンチ事件』は、共産党を批判した新左翼運動が凄惨な内ゲバに入った時期の、それぞれ昭和48年1973年と昭和51年1976年に書かれているが、そういう時代を反映しているのかもしれない。
警察文書
115 それらに触れる前に日本共産主義者団の結成からその一斉検挙に至る経緯を次に述べる。内務省警保局編『社会運動の状況』昭和13年度によれば、
「(1928年の)三・一五事件当時に日本共産党関西地方委員長であった春日庄次郎は、昭和12年1937年1月23日に刑期を終えて出所したが、日本共産党の再建を決意し、大阪で安賀君子、竹中恒三郎らの非転向分子と交友し、客観情勢の推移を注視していたが、昭和12年1937年12月、大阪を中心に、日本共産党の再建と、それ自体が一つの闘争団体であることの二面の目的を持つ日本共産主義者団という非合法結社を組織し、爾来全国的に組織体制を整えつつ、矯激な活動を展開するようになったので、昭和13年1938年9月13日以来、大阪府外七庁府県にわたり、関係人員158名を検挙した」
以下、結成の経緯、団の構成、活動状況、趣旨規約などの説明が続くが、その活動状況の項では「京大学生布施杜生と連絡して『京大ケルン』を構成させた」とある。昭和12年1937年11月8日から12月5日にかけて、新村猛、真下信一、中井正一、久野収、禰津正志、大岩誠らの《世界文化》同人とその関係者が一斉検挙され、雑誌《世界文化》も昭和12年1937年10月号で廃刊を余儀なくされた。《世界文化》グループの反ファシズム人民戦線の文化活動を経過しながら、日本共産主義者団は頑なに32年テーゼを中心とする根深い左翼的思考法を墨守した。昭和10年1935年3月初旬、袴田里見が検挙され、事実上日本共産党中央委員会は壊滅したが、それ以来宮内勇らの多数派分派の混乱を経て、大阪を中心に関西地方委員会を主体とする党再建が続けられ、昭和11年1936年7月下旬、日本共産党中央再建準備委員会の名の下に、『労働者階級の反ファッショ統一戦線の為に』その他のパンフレットが、そして1936年8月には再刊《赤旗》第一号が刊行された。この再建運動の中心に奥村秀松、和田四三四、宮本喜久雄らがいたが、昭和11年1936年12月5日に一斉検挙された。春日庄次郎らの日本共産主義者団(1937年12月結成)はその後を継いだものである。
《学生評論と京大ケルン》
昭和11年1936年5月、雑誌《学生評論》が創刊された。郡定也『京都学生文化運動の問題』(『戦時下抵抗の研究』第一巻、昭和43年1968年1月、同志社大学人文科学研究所編、みすず書房)がこの《学生評論》について詳論している。また野間宏の小説『暗い絵』は、当時の京都大学の左翼的な「暗い花ざかり」を描いている。
野間宏『暗い絵』
118 昭和30年1955年4月に野間宏の『暗い絵』や『崩壊感覚』が刊行された。私はその『暗い絵』で描かれた時代が昭和12年1937年11月ころと推定して、『暗い絵』に関する解説文を書いた。野間宏自身も『暗い絵』に関する回想をしていて、野間宏の様々な回想文は「暗い谷間の時代」(『鏡に挟まれて』(昭和47年1972年12月、創樹社)に収録されている。
野間宏『「暗い絵」の背景』(昭和25年1950年2月)によれば、昭和10年1935年の7、8月頃に開かれたコミンテルン第七回大会で反ファシズム人民戦線を提唱したディミトロフ報告は、昭和10年1935年10月ころにアメリカを経由して日本に入って来て、そのディミトロフ報告の日本での具体化について、川崎造船所のミーリング工(工作機械の一つでフライス盤、回転式刃物)の矢野笹雄や町工場の旋盤工の羽山善治らが協議し、まず日本共産党神戸市委員会の再建を第一にするかどうかで議論し、結局5対1で(党委員会)再建説が否決され、コミュニスト・グループのままで人民戦線運動を展開することになった。こうして昭和11年1936年3月ころに神戸の人民戦線運動が出発した。羽山善治は野間宏と小学校の同級生で、野間宏を矢野笹雄に引き合わせた。矢野笹雄は、高野実らによって昭和9年1934年に創立された日本労働組合全国評議会(全評)に所属し、政治的には社大党支持を打ち出し、合法的に反戦・反ファシズムの統一組織をつくろうとした。
一方、野間宏はやはり小学校時代の旧友で《学生評論》同人の小野義彦と京都大学で再会し、小野を通して《学生評論》グループの永島孝雄や布施杜生らと交友した。つまり、野間宏は京大の《学生評論》グループと神戸の労働者グループとの結節点にいた。しかし、(共産党)神戸市委員会再建を放棄したまま、戦争協力を唱える麻生久らの社大党を支持した矢野笹雄らのうごきに、永島孝雄らは釈然としなかった。
小野義彦
小野義彦は『学生無名戦士の思い出』(昭和22年1947年)の中で、昭和13年1938年に捕らえられ非転向のまま獄死した永島孝雄について、「永島孝雄が組織した京大ケルンは、軍部ファシスト打倒、天皇制廃止、民主共和国樹立を目的とする地下政治組織と結合された。つまり、昭和12年1937年末頃から、当時の日和見主義的傾向に断固反対し、反戦・反軍闘争の中に強固な地下政党(共産党)の確立を目指して英雄的な闘争を始めた『日本共産主義者団』と結合したのである」としている。
野間宏・矢野笹雄
120 他方、野間宏は小野義彦の『学生無名戦士の思い出』を推奨しながらも、「日和見主義的傾向という否定的表現の中に実は人民戦線の芽となる貴重なものがあった」と訂正する。神戸の人民戦線は矢野笹雄らの努力によって労農無産協議会を結成し、幅広い人民戦線方式を展開しようとしたが、昭和12年1937年12月に一斉検挙された。その時矢野笹雄は捕らえられて起訴されたが、羽山善治は難を逃れて大阪に引っ越した。戦後矢野笹雄は「最初党組織と人民戦線とを切り離して考え、コミュニスト・グループによって人民戦線の展開ができると考えていたが、それは根本的な間違いだった」としているが、羽山善治は「日本の左翼運動は日和見主義という言葉を正しく理解していない。それは呪文のようなもので、人々はそれを前にしてたじろぎ、そのため前進できなかった」と述べている。これは注目すべき意見である。*そして野間宏も「日本の共産主義者は人民戦線を理解していなかった」としている。日本共産主義者団の人々は、多数派「残存分子」としての人民戦線派を唾棄すべき解党主義と見なしていた。
*感想 ここに平野謙のスタンスが現れているが、なぜ「注目すべき」なのかの説明が欠けている。アプリオリに人民戦線戦術の方をよしとし、三二テーゼ、軍部ファシスト打倒、天皇制廃止、民主共和国樹立の主張を時代遅れだとする。
郡定也・下川検事
121 しかし私は《学生評論》グループを反人民戦線派と見なしているわけではない。(一転)さきの郡定也の研究『京都学生文化運動の問題』117によれば、検挙された《学生評論》グループの取調べを担当した下川検事は「中心分子がかつて非合法運動に関係した者であったため、当初の編輯方針と記事の中には公式主義的なものがあったが、同年昭和12年1937年9月に草野昌彦が編集人になると、漸次人民戦線的形態をとりつつあった。学生啓蒙を目的とし、殊に漠然と自由主義的意識を持つ者を、判然たる自由主義者にさせ、共産主義の同情者を獲得しようとし、全国の各大学で読書網をはりつつあった」と報告しているとするが、郡定也はそれを疑い、結局、「《学生評論》は、学生の思想的自立をテーマとし、「文化の擁護」を提唱しているのであって、安易に政治的プロパガンダの拠点であるなどとすべきではない」と結論付けた。従って「ディミトロフの報告やヨーロッパの人民戦線の政治的闘争形態と結びつけて《学生評論》を扱うのは不当であり、下川検事の報告書は実質的にまったくのでっち上げであり、また草野昌彦個人をグループの指導的人物に見立てたのも失当である」とする。(「思想的自立」を目指し「文化を愛する」ノンポリ学生集団説か)
《学生評論》は昭和11年1936年5月から昭和12年1937年6月にわたり10号を発行して廃刊したが、その総目次を見ると、田万清臣『大衆戦線とは何か』、川上貫一『人民戦線とインテリゲンチャ』、小岩井浄『日本ファシズムの現段階』などの寄稿や、スペイン革命の海外情報などが掲載されていて、その点からすると政治的な感じを受けるが、人民戦線一辺倒でも人民戦線全否定でもなく、「思想的自立」としての「文化の擁護」だったのだろう。そういう《学生評論》に「京大ケルン」を重ね合わせてみると、人民戦線派に対する(京大ケルンの)否定的空気がにじみ出る。
野間宏『暗い絵』
122 野間宏『暗い絵』の中に永島孝雄や布施杜生(両者とも京大ケルン)をモデルにしたと思われる永杉英作や木山省吾が登場し、「裏切者カウツキイ、人民戦線は破れるよ」という彼らの言葉には、天皇制打倒を唱える三二テーゼを依然として信じざるを得ないせっぱつまった心情が見られる。一方日本人民戦線は共同・提携の必要上、敢えて天皇制問題を回避しようとしたから、永島孝雄や布施杜生らはデスパレートな春日庄次郎の日本共産主義者団と結びつかざるを得なかったのだろう。永島孝雄も布施杜生も非転向のまま獄死したが、『暗い絵』の作者野間宏と主人公の木山省吾は、それを「仕方のない正しさ」とする。
123 主人公の木山省吾は言う「彼らは共産党の旗を掲げ、決行してすぐ逮捕される、成功しやしない」と。京大ケルンは人民戦線方式を拒否し、日本共産主義者団と運命を共にした。野間宏はフランス・サンボリスム(シンボリズム、象徴主義)に薫染され、神戸の人民戦線運動に触れたため、日和見主義についての従来の正統的な考えとは異なる考えを持っていた。敵味方、肯定否定の二元論はストイックで観念的である。(日和見主義万歳!日和見主義問題は好き嫌いの問題か、これで楽になった)
私は京大ケルン結成時期を昭和13年1938年1月ころと推定したが、それは間違いで、昭和10年1935年秋ころからケルン組織の母胎が、永島孝雄、小野義彦(二人とも《学生評論》同人)、村上尚吾等によって作られていたと郡定也に指摘された。
メモ
・三二テーゼ墨守の共産主義者団
・コミンテルンのディミトロフ1935の呼びかけに呼応する人民戦線派
・文化の擁護派=思想的自立派=ノンポリ派?=「日和見主義」者
感想 あれこれ引用するが、平野謙の立場は上記第三番目の「文化の擁護派」=「思想的自立派」のようだ。
以下引用第一は引用第二・第三と《学生評論》の位置づけで矛盾していないか。
引用第一「しかし私は《学生評論》グループを反人民戦線派と見なしているわけではない。」郡定也の援用121
引用第二「《学生評論》に「京大ケルン」を重ね合わせてみると、人民戦線派に対する(京大ケルンの)否定的空気がにじみ出る。」121
引用第三「京大ケルンは人民戦線方式を拒否し、日本共産主義者団と運命を共にした。」123
《世界文化》《土曜日》
124 誌齢
《世界文化》は《美・批評》の後継誌であり、昭和10年1935年2月に創刊され、昭和12年1937年10月まで34号を刊行して廃刊となった。文化新聞《土曜日》は月刊紙《京都スタヂオ通信》を改題し、その第12号(昭和11年1936年7月4日)から第44号(昭和12年1937年11月5日)まで、月2回発行された。
《世界文化》と《土曜日》の同人や寄稿家が、昭和12年1937年11月8日から12月5日にかけて一斉検挙された。この第一次検挙対象者は、新村猛、真下信一、中井正一、久野収、禰津正志、大岩誠、斎藤雷太郎らであり、昭和13年1938年6月24日の第二次検挙対象者は、和田洋一、米田三治、梯明秀、辻部政太郎、森本文雄、栗本勤、熊沢復六、能勢克男、林要らである。《土曜日》の編集責任者は林要と能勢克男だったが、林要は後に東京に引っ越して、削られた。ちなみに《学生評論》の編集責任者の草野昌彦121は昭和12年11月8日に検挙された。
和田洋一『灰色のユーモア』
和田洋一は検挙から釈放までの回想記『灰色のユーモア』を昭和33年1958年11月に理論社から発表した。それは日中戦争勃発前後の特高警察の取り調べぶりを明らかにしている。和田洋一はドイツ文学研究者であった。
126 太秦署で和田洋一はドイツの亡命作家に関する論文を書いた意図を追及されたが、「ドイツの左翼作家、自由主義作家、ユダヤ系作家がヒトラーに追われ、国境の外で文筆活動をしていることに対して、精神的支持を送り、彼らの活動を日本の読書人に伝え、ファシズムに対する怒りと憎しみを日本の知識人の間に培おうとしたのがその意図であると何度も説明しても警察は承知せず、その奥の意図を追及しようとした。ファシズムに対する怒りと憎しみを人々に培い、人民戦線の気運を盛り立て、広げて行こうとする意図で書いたが、それはコミンテルンの第七回方針に沿うものであり、その事によって日本の共産主義運動の助長をはかり、究極には日本に共産主義社会を実現しようとする意図が存したことを認め、その旨を手記に書き記すまでは警察は追及の手を緩めなかった」それを和田が認めると、元特高の「善良な」巡査部長は「和田先生はちっとも戦わなかった」と言った。*
*この特高の言葉の真意がつかみかねる。和田洋一は共産主義社会の建設を主張すべきだったという意味か、それとも逆に、自分は共産主義とは無関係であるという自分の真意をもっと主張すべきだったという意味なのか。
その手記を書き、未決囚となり、予審廷で調べられた時も、その繰り返しだった。押し問答の末に「潜在意識の中では共産主義社会実現の意図があったかもしれない」というと、「それでよろしい」となった。それが日中戦争勃発前後の治安当局の一般方針だった。
内務省警保局編『社会運動の状況』
128 内務省警保局編『社会運動の状況』昭和11年度1936年度版の「総説」によれば、「昭和11年1936年中の社会運動を顧みると、2月26日に帝都で起こった一部陸軍将校を中心とする反乱事件が我が国に与えた影響は極めて深刻で、各種社会運動はその影響を受けた。先ず共産主義運動は、当局の引き続く厳重な取締と、満州事変以後に急激に勃興した国家主義的風潮の重圧を受け、その運動は漸次衰退し、一時は全く壊滅した観があったが、本年1936年2月の帝都反乱事件(二・二六事件)前後から台頭した反ファッショ的気運に乗じて再び跳梁の兆候を示し、一方コミンテルンが第七回世界大会(1935年の7、8月頃)で決定した反ファッショ人民戦線運動の新方針が国内左翼分子に浸潤し、これに勢いを得て、ますます発展するようになった」
129 さらに同『社会運動の状況』昭和12年度版の「総説」によれば、「共産主義運動の分野では、昭和11年1936年に引き続き、各地に、コミンテルンの反ファッショ人民戦線運動に関する新方針に則り、合法活動を利用し、または擬装する運動が展開され、とりわけ、反ファッショ人民戦線の統一強化を目標とする労農一派、並びに日本無産党、日本労働組合全国評議会の活動は極めて注目に値し、その支那事変以後の行動は放任を許さない。ここにおいて、昭和11年1936年12月5日、日本共産党中央再建準備委員会115の検挙、次いで本年1937年12月15日、労農派以下の不逞分子の検挙を断行し、同月12月22日、日本無産党と日本労働組合全国評議会に対し、結社禁止を命じた」
昭和12年1937年11月の《世界文化》《土曜日》《学生評論》などのグループの一斉検挙(者)も(を)、「京都人民戦線事件」*の名の下に治安維持法違反容疑者として起訴することは、少なくとも《リアル》同人検挙の直後から決定されていたに違いない。(この4年後の)昭和16年に改悪された治安維持法の趣旨は(その4年前から)拡大解釈され、すでに日中戦争勃発前後に着々実行されていた。
*人民戦線事件 1937年12月15日および1938年2月1日に、コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応して日本で人民戦線の結成を企てたとして、労農派系の政治家、運動家、大学教授、学者グループが一斉検挙された。
130 反ファシズム人民戦線というコミンテルンの新方針に藉口して、検察当局は合法的な日本無産党や、治安維持法違反容疑として(法文上は)検挙できない《世界文化》や《土曜日》などの文化グループを強制的に検挙・起訴したが、そういうデッチ上げぶりは《学生評論》の場合にもまして歴然としている。ねずまさしのような《世界文化》同人は、ディミトロフ報告の内容を知らなかったようだ。(《キリスト教社会問題研究》第十一号、昭和42年3月)一方野間宏らのグループは、昭和10年1935年10月にディミトロフ報告を知っていて、《世界文化》以外のグループは、モスクワから指令された野坂参三の『日本の共産主義者へのてがみ』を中心に据えていた。
野坂参三の『日本の共産主義者へのてがみ』
昭和11年1936年2月に、コミンテルンに駐在していた野坂参三と山本懸蔵は、岡野・田中の連名で日本人に向けて手紙を書き、それを《国際通信》昭和11年1936年5月号に発表した。これはコミンテルン第七回大会で採択された人民戦線方式をいかに日本に適用するかについて書かれたものである。ところで、野間宏らはその1年前の昭和10年1935年10月にディミトロフ報告の日本語版を見たとのことだが、それはどこで発表されたものなのだろうか。
『日本の共産主義者へのてがみ』は野坂参三一人によって書かれたものらしい。「わが共産党はプロレタリア独裁の樹立を目指し、まずブルジョア民主主義革命を遂行しようとしている」と、三十二年テーゼは現在も有効だと念を押しているが、「しかしこれまではともすれば革命の基本的スローガンの抽象的宣伝に甘んずる宗派主義的誤謬に陥るきらいがあった。コミンテルン第七回大会の決定に基づいて、我々は戦術的方針を是正しなければならない」「これまでは三十二年テーゼを戦術的に具体化する際に、組合のような大衆団体にもそのままストレートにスローガンとして押し付け、結果として宗派主義的誤謬に陥ったこともないではなかったから、二・二六事件の勃発直後の現在では、当面の主要な政治的スローガンとしては、公然と軍部ファシスト独裁反対をまず掲げなければならない」「わが国民をファシズムと戦争の恐怖から救う道は、労働者階級の統一行動と、反ファシスト人民戦線を基礎とする偉大な国民運動だけである。だから日本共産党の当面する任務は、軍部・反動・戦争に反対して全勤労者を統一することである。そしてその全勤労者とは、単に労働者階級だけでなく、小作人や、小商工業者のような都市小ブルジョアジー、勤労するインテリゲンチャを含めた全勤労者の統一である。だから現存の無産大衆政党はもとより、合法的な大衆団体である全ての労働組合、農民組合、水平社、産業団体、平和団体、在郷軍人会、青年団、特に反動的な日本青年団などへもすすんで入っていかなければならない」
132 また「徳川幕政に対する民衆の憎悪を利用する必要がある。なぜならばこの徳川幕府の弾圧・暴政を、軍部が今日我が国に復活させようとしているからである」これは天皇制打倒という政治的スローガンをいまやたらと使うなという現実的な注意のようだ。また具体的な政策として「社会大衆党と対立するような新しい無産政党設立の企図に対して断乎として反対せよ」と明示している。
一方「我らの当面の決定的任務は、共産党の思想的・政治的・組織的強化である」「そのために党は一方ではエセ革命家の宗派主義的誤謬を暴露するとともに、右翼日和見主義の泥沼に、或いは社会民主主義者の側に引きずりこもうとする一切の策謀に断乎たる闘争を遂行すべきだ」とする。
133 しかしこの『日本の共産主義者へのてがみ』の曖昧な多義性*が、日本の共産主義者を混乱させた。この「てがみ」が発表された昭和11年1936年5月現在、日本共産党中央はすでに壊滅していた。(そして結果的に)党再建の方向ではなくコミュニスト・グループとして活動しようと決めた矢野笹雄118や、それとは反対に、人民戦線方式に反対する絶望的な日本共産主義者団の建設などの矛盾として現れた。
日本共産主義者団
春日庄次郎は昭和12年1937年12月、日本共産主義者団の結成にあたり、「我が日本共産主義者団は、日本共産党の再建を目的とし、コミンテルンの一般方針、特に我々に与えられた三十二年テーゼの趣旨と、第七回世界大会の一般方針に従い、日本共産党の革命的伝統を継承しようとする」と、昭和13年1938年2月の激に書いた。これは野坂参三の手紙を継承している。
春日庄次郎『当面の方針』
134 春日庄次郎は『当面の方針』(昭和13年1938年3月)の中で、「我が日本共産主義者団は、今日我が無産者運動を支配している合法主義、日和見主義、清算主義との熱烈な闘争の過程において結成されたものであり、今後も容赦なくこれらと闘わなければならない。今日これらの合法主義、日和見主義、清算主義は次のように現れている。即ち、
一、合法主義労農派のエセ人民戦線論
二、従来の日本共産党のやり方に反対する過去の我が党の直接・間接の関係者と、かつての左翼運動の破廉恥極まる裏切者・脱落者・党内反対派等とが合流した、実質上、いかなる党活動・組織も否定する清算主義
三、『よき時節を待て』という日和見主義
四、素朴な文学的センチメンタリズムとしての『大衆偶像崇拝主義』『大衆の中への沈潜主義』等々。
これらの日和見主義、合法主義、清算主義は一様に、一面ではコミンテルンの人民戦線主義の曲解と、他面では従来の日本共産党活動の失敗的方面・否定的方面だけの片意地な強調を特徴とする」
検事・佐藤欽一
ここで春日は三十二年テーゼと第七回大会の一般方針とを同等に尊重したと言っているが、結果的には反人民戦線路線の固執になった。そのことは担当検事が指摘している。日本共産主義者団の取調べ検事・佐藤欽一は「その組織・活動・運動の形態において、人民戦線戦術採用後の日本の合法一点張りの運動形態を変更し、三・一五事件当時に逆転した観を呈した。即ち地下潜行、非合法文書激発、その他の非合法活動を敢行し、近来の合法偏重的傾向を極力排斥し、強力な中央部の建設に努力した」
このこと(日本共産主義者団の反人民戦線路線への固執)には、日本共産党の存在の前提と社大党に対立する新党樹立への反対という野坂参三の手紙に責任がある。
135 論理的には、天皇制打倒を中心とする三十二年テーゼは戦略問題であり、反ファシズム人民戦線というディミトロフの報告は戦術問題であるが、後者を戦術問題の範囲にとどめるのは疑問である。そこから党再建を第一にする春日庄次郎と、コミュニスト・グループとして人民戦線運動の中に入り、その盛り上がりのなかで党再建を目指すという矢野笹雄との違いが生じる。その違いが生ずる原因は野坂参三の手紙の曖昧な多義性である。
日本共産党中央再建準備委員会
136 日本共産党中央再建準備委員会は昭和11年1936年8月1日付《赤旗》再刊第一号を刊行した。その社説は『二・二六事件と現政治情勢』と題して、
(一)二・二六の経過とその目的
(二)日本主義ファシズムとは何か?
(三)政府及び議会の役割
(四)階級闘争の状態
(五)反ファッショ人民戦線
と分けて二・二六事件直後の政治状況を分析している。注目すべきは(四)階級闘争の状態と(五)反ファッショ人民戦線であろう。
この《赤旗》再刊第一号は、社会民主主義の役割、合法左翼新党樹立問題、ファシスト諸団体の動向、日本共産党の再建統一などの問題を論じ、結論として反ファッショ人民戦線論で締めくくるのだから、野坂参三の手紙を端緒とする、対立的意見の理論的・現実的統一の可能性、少なくとも戦略と戦術の統一的具体化の可能性がここにみられる。ただしその統一的方向は、「五・一五事件から二・二六事件に至る日本主義ファシズムの新情勢に対応する戦術的見地を示す代わりに、天皇制打倒という一般的スローガンを代置したところに我が党の誤りがあった」と自己批判し、ここから再建(準備)委員会は、社大党の動きや、新党樹立を企図する労農無産協議会の動き、つまり山川均以来の協同戦線党論を、反ファシズム人民戦線方式に代置するような、現実の危険(軍国主義)に対置するのに、軍部ファシスト独裁――国民に死と労苦をもたらす軍事的冒険主義とテロル的野蛮政治、文化の破壊――に対して人民の民主主義的権利の拡張や勤労大衆の生活条件の改善を要求する積極的な大衆運動を以てした。(意味不明。方法としては山川党路線を中心に据え、目標としては民主主義的権利の拡大と生活条件の改善がファシズムに対抗するための行動指針ということか)
野坂参三が日本共産党中央再建準備委員会を称賛
137 日本共産党中央再建準備委員会は、再刊《赤旗》第一号以前に、「日本共産党関西地方委員会」の名で、人民戦線方式を解説した各種パンフレットを刊行していた。この日本共産党関西地方委員会は、奥村秀松115や和田四三四と、東京から参加した宮本喜久雄らによって、日本共産党中央再建準備委員会に再編され、《赤旗》の再刊を行った。この《赤旗》再刊第一号を野坂参三は歓迎し、『故国の同志への手紙』(昭和11年1936年10月)を書いた。そこで野坂参三は、深田清名義の論文『党の統一と再建の条件と方法』について、「多数派残滓の具体的内容の批判が十分でないが、その批判の態度は正しい」と褒め、再刊《赤旗》が、統一戦線や人民戦線の重要性を説き、その戦線展開の最も重要な主体条件を共産党の統一・強化としている点を高く評価した。
警察文書
また(原文は「しかし」)当時の警察文書によれば、「日本共産党中央再建準備委員会は、従来の綱領の中で高度なものは党組織を妨害するものとして、
(イ)国体に関するものは中止し、
(ロ)帝国主義戦争反対も高度に過ぎ、軍事費反対も現情勢では強すぎるので、寧ろ軍事費の一部を無産者救済のための社会施設費へというスローガンに改める点は、社大党は勿論、政民既成党内の進歩的分子をも支持させるようになった。
(ハ)反ファッショ共同闘争の強化
などを新しい目標とすべく、行動綱領の改訂を意図していた」という。
138 それは(日本共産党中央再建準備委員会が)天皇制打倒という戦略目標を、たとえ戦術的にせよ一応ひっこめることであり、三十二年テーゼの陰密な否定につながる。つまり「戦略と戦術との統一的志向」とはいえ、内々三十二年テーゼの否定を結論付けているようだ。
岩村登志夫『日本人民戦線史序説』昭和46年1971年5月、校倉書房
『日本人民戦線史序説』の中で岩村登志夫は「日本人民戦線闘争が神山茂夫や春日庄次郎らのグループによって代表されるとするのは錯覚である。それは(研究者の)三十二年テーゼの墨守と絡み合っている。1936年12月の検挙まで、日本人民戦線結成のために指導的役割を果たした日本共産党中央再建準備委員会首脳部の奥村秀松、和田四三四が戦後期に生存しなかったことは、岡部隆司の獄死とともに、日本人民戦線研究にとって不幸なことだ」と日本共産党中央再建準備委員会を高く評価する。
岩村登志夫は、大阪地方を中心とする多数派分派→共産党関西地方委員会→共産党中央再建準備委員会という系譜は「正統的な路線」であるとし、神田文人の「三十二年テーゼが日本人民戦線運動を阻害し、思想的停滞をもたらした」という問題提起を推奨する。
神田文人
神田文人は季刊《現代と思想》(第十号、昭和47年1972年12月)の『日本における統一戦線について』の中で、「日本共産党中央再建準備委員会について私が触れられなかったのは私の欠点だが、当時の共産党が人民戦線論を理解していたとする岩村登志夫氏の主張には納得できない」と一応反駁しながら、「戦前の共産党は三二年テーゼ段階で思想的に停滞していた」とする。
さらに「人民戦線戦術は、ナチス・ドイツの政権獲得によって戦術の検討を迫られたコミンテルンが、試行錯誤の末に第七回大会で確定した戦術であった」と定義して、「それはファシズムから民主主義を守るという戦術だが、その成功が革命をもたらす可能性の観点から戦略ともいえる。そしてこの戦術転換を日本にもたらしたのは野坂参三であった」とする。
平野謙
140 春日庄次郎が克服すべきものとしていた清算主義・解党主義が当時の大阪に残っていて、それとの熱烈な闘争の過程から日本共産主義者団の目標が決まったのだと私は考える。清算主義的傾向は多数派の結成当時に遡る。昭和9年1934年3月に党中央反対派に踏み切った宮内勇らの多数派のイデオロギー的影響を抜きにして、党中央再建準備委員会や共産主義者団の動きを解釈できない、と私は考える。
多数派から日本共産主義者団結成へ
141 私が先に言及した春日庄次郎の二つの手記『多数派批判』と『日本共産主義者団結成の動機』のうち、後者から同団結成のモチーフを引用した113が、以下前者『多数派批判』について述べる。これは昭和12年1937年8月24日付であるが、春日庄次郎は大阪の築港警察署に留置されているときに、昭和14年1939年1月17日付で『多数派批判』の「序文」を書き加え、『多数派批判』を書くに至った経緯を述べている。その序文によれば、
「日本共産主義者団結成上の最大の妨害は多数派であった。多数派は昭和10年1935年中ごろに自ら解散して組織を持たなかったのに、未だに成長・発展する全国組織を持っていて、多数派の合法主義・経済主義は、人民戦線戦術を歪曲し、解党主義となり、支配階級のデマゴギーと唱和しつつあったからである」
とし、その最後に、
「多数派の出現とともに台頭した、小ブル・インテリが大多数を占める諸文化団体の解体(主義的)運動の一つであるコップやナップ(ナルプが正しい)の、解体(主義)に関する諸文書、例えば昭和8年1933年10月、11月、12月発行のコップ機関誌『プロレタリア文化』誌上の『治安維持法改正問題』に関する諸論文、およびナップ発行のパンフレット『文学運動の方向転換の根本理解のために』(昭和9年2月1日)を見ると、
一、昭和9年1934年第65議会に治安維持法改正案が提出されて弾圧が強化される見込みであり、これによって抑圧・壊滅されたら、組織は混乱し、悲痛な敗北を受けなければならなくなるだろう。
二、故にこの際非合法性を(捨てて)、法律の限度内において活動し、合法性を獲得しなければならない。
とあるが、この主張が根本動機となって彼らを解体に導いたのは明白である。さらに芸術活動における政治主義の否定も現れている。このプロレタリア文学者・芸術家連を灰色に染める敗北主義は、多数派の指導下で現れて来たものである。言論・集会・出版の自由や、検閲の廃止等の要求を以て、治安維持法改悪に対して大衆的に抗議し、闘争することなしに、戦わずして降伏したこれらプロ文学者の敗北主義は、今日でも救うことのできない、果てしない無気力・堕落を影響として残している」
宮内勇「△△××細胞会議声明書」
142 治安維持法改悪に関するこの春日庄次郎の結論はだいたい当たっているが、鹿地亘『日本プロレタリア文学運動の方向転換のために』(昭和9年1934年2月、ナルプ出版部)は「多数派の指導の下に現れたもの」ではない。多数派が多数派として現れたのは(その1か月後の)昭和9年1934年3月だったからである。しかし多数派発生と、鹿地亘のパンフレット(『日本プロレタリア文学運動の方向転換のために』)との共通の地盤はあった。昭和8年1933年12月下旬の(小畑達夫)「赤色リンチ事件」直後の党内の恐慌・紛乱をきっかけとして、宮内勇らの多数派が発生したらしい。宮内勇『或る時代の手記』055(《社会運動通信》昭和47年1972年12月)は、宮内勇が多数派分派の最高指導者に踏み切り(なり)、昭和9年1934年10月3日に検挙されるときまでを扱う。宮内勇が当時書いた「△△××細胞会議声明書」は、多数派発生の出発点となったが、宮内勇はこの文書について「盲信に近いまでの共産主義への帰依、党並びにコミンテルンの権威に対する無条件的な忠誠、それから殉教者的な英雄主義に基づく数々の気負った思い上がりの言辞」と回想している。
声明書『最近における一連のテロ(赤色リンチ事件)に関し、党中央委員会の指導に対する我々の態度につき表明す』(昭和9年1934年3月)を、当時農民組合の全農全会派の中央フラク・キャップだった宮内勇は、全会フラク会議の決定に基づいて書き上げた。
144 宮内勇はスパイ・査問・中央委員会のあり方だけでなく、こういう深刻な混乱を産むに至った近年の党中央のセクト的独善主義、機関中心の街頭主義、出版物過剰の無責任主義、形式的な官僚主義など多年の鬱積をぶちまけた。
第一、党中央に二人も警視庁のスパイが潜入していたという異常な事態に対して、党大会を開催して党中央の信任を問い、民主的な善後策を計れ、
第二、挑発者断罪に至るまでの査問の経過を公表せよ、
第三、スパイ大泉兼蔵の逃亡問題に関する責任ある態度をとれ、
などと宮内勇は要求したが、それに対する党中央の回答は官僚的そのものだった。そこで、宮内勇はこの機会に全協再建問題、党員再登録問題、《赤旗》編集上の問題等を批判するとともに、党の体質改善を図るために、セクト的極左主義、カンパニア偏重主義、官僚主義、行政的処罰、それと表裏して、無原則的に盲従する下部党員の政治的・理論的水準の低下などを批判した。
それに対して、昭和9年1934年4月20日付で、日本消費組合連盟フラク会議がその支持声明を出し、近東地区細胞会議も同様の支持声明を出した。そして(宮内勇は)1934年5月中旬に党関西地方委員会との連絡もでき、ここに「日本共産党中央奪還全国代表委員会準備委員会」という分派を結成し、《多数派》という機関紙を発行した。この多数派分派は昭和9年1934年8月9月ころ組織的・財政的に安定し、孤立した袴田中央委員会とは比較にならぬほどの影響力を全国的にふるった。しかし最高指導者・宮内勇が昭和9年1934年10月3日に検挙された。
コミンテルンが多数派に解散指令
多数派分派はコミンテルンから批判され、組織的解散を指令された。そのコミンテルン文書『日本共産党統一のために』は、第一部「広汎な統一戦線を樹立せよ」と第二部「党の統一のために」とで構成され、その第二部は多数派を批判し、分派組織の解散を要求した。この文書の執筆された時期ははっきりしないが、文中に袴田里見が逮捕されたという註がついているから、昭和10年1935年3月以降であり、第一部の項目に記された党批判はすでに人民戦線思想に則っているようで、また宮内勇の最初の声明書の趣旨も活かすべきものは活かしてあるようだから、コミンテルン第七回大会の直前の昭和10年1935年5・6月のころではないかと推定する。
多数派は昭和9年1934年8月に一般機関紙《多数派》と理論的機関誌《理論と実践》を創刊していたが、このコミンテルン批判に接して、昭和10年1935年9月20日付の「多数派解体声明書」を発表して、解散した。
多数派の余波
146 昭和11年1936年8月に日本共産党中央再建準備委員会により再刊された《赤旗》第一号に掲載された、深田清137の論文は、1年前に解散したはずの多数派の残存イデオロギーと闘わねばならなかった。昭和11年1936年夏ころでも、「コミンテルン批判は的外れだ」とか、「あの時はああするしかなかったのにコミンテルンはその実情を知らない」とかいう声が絶えなかったようだ。それだけでなく春日庄次郎は、昭和12年1937年の初めに10年近い実刑を終えて出所し、三十二年テーゼやディミトロフ報告などを新たに勉強して党の残存分子と連絡を取るうちに、今でも多数派分派のイデオロギー的影響が強いのに一驚し、党再建のためには残存イデオロギーとの「熱烈な闘争の過程」なしには成就しがたいと見極め、昭和12年1937年8月に『多数派批判』を書いた。岩村登志夫138が「大阪地方を中心とする多数派分派→共産党関西地方委員会→共産党中央再建準備委員会という系譜は、日本の人民戦線路線の正統である」としたのも、多数派の根深い残存イデオロギーを密かに注目した結果かもしれない。
昭和9年1934年3月に宮内勇(多数派)が党中央批判の声明書を出したときのポイントと、昭和11年1936年や昭和12年1937年における多数派の残存イデオロギーとの間には変質があったかもしれない。つまり多数派の残存イデオロギーとディミトロフ報告の人民戦線戦術とが癒着して、春日庄次郎が批判する所の、清算主義的・解党主義的歪曲化が固定化したと想定される。しかし昭和11年1936年の党中央再建準備委員会は、たとえ歪曲化されても多数派の残存イデオロギーを無視できず、行動綱領から天皇制打倒という戦略目標を降ろさざるを得なかった136ことは、残存イデオロギーの根深さを示している。このことは日本のように権威に弱い風土としては珍しいことだ。
ゲマインシャフト対ゲゼルシャフト
147 またこのことは、鹿地亘(作家同盟(ナルプ)の書記長039)の二冊のパンフレット『文学運動の新たなる段階のために』(昭和8年1933年12月、国際書院)と『日本プロレタリア文学運動の方向転換』の精神と共通している。春日庄次郎が鹿治亘のパンフレットに多数派イデオロギーの影響を見たのは誤解だが、そういう誤解を生む共通の地盤がうかがえる。宮内勇も鹿治亘もそれぞれ、農民組合や作家同盟の合法的非党組織の党フラク・キャップであり、党中央のラディカルな指導方針と、ゲマインシャフト的な農民組合や作家同盟など合法団体とを媒介するパイプとして苦労していた。それが赤色リンチ事件という終局的な事態に直面し、治安維持法改悪の声におびえて同盟員脱退が続出する非常事態に、党フラクの責任者として「合法的非党組織」の現場感覚を後ろ盾に、党中央の指導方針に反逆せざるを得なかった。その時の党中央委員会の責任者が宮本顕治だった。全国的な全農全会のなかの党組織を総括する党農民部長兼党中央委員の大泉兼蔵が警視庁のスパイで、しかも査問の途中で逃亡してしまったときの全農全会の中央フラク・キャップの宮内勇の心理的パニックは、作家同盟崩壊前夜の鹿治亘のそれよりもいっそう深刻であったろうが、いずれも次第に党中央と対立しながら、分派行動寸前の宮内勇と、作家同盟解散を回避するために方向転換を模索する鹿治亘とは、土壇場に追い込まれた者として共通していた。(作文的)
148 埴谷雄高は、宮内勇と共に全農全会の党フラクだったが、「農民組合の構成員はみな部落の顔なじみで、職場で顔を会わせるだけの都会の労働組合と性格が違うから、党中央の指令をストレートに言っても受け付けない「遅れたところ」があった」と言う。
文壇も農民組合と同様である。農民組合では村の顔ききをつかまえないとことが始まらないが、作家同盟でも半非合法の鹿治亘よりも、ブルジョワ文壇にも発言力のある徳永直や林房雄の方が影響力が強かった。その他治安維持法改悪の声におびえた徳永直などが、「世界観と芸術的方法との矛盾」という社会主義リアリズムに藉口して理論的に自己を合理化した態度と、のちの多数派の合法主義的・解党主義的イデオロギーを、ディミトロフ報告で粉飾し合理化しようとした態度とも似通う。
昭和9年1934年10月に検挙され、昭和12年1937年かに出所して以来今日に至るまで共産党とは全く無縁な場所で生き通し、現在は出版社の社長という宮内勇と、今日もなお党内にとどまってなにかと苦闘しているらしい鹿治亘とを同一視するつもりはないが、昭和8年1933年末から昭和9年1934年初めにかけて党フラクであった両者の精神に共通する思潮を認めたい。党中央の指導方針よりも、合法団体の現場感覚に通暁した党フラクの方が、はるかに現実的だ。だから後者の声明書(宮内勇)やパンフレットなどの影響力が深く長く続いたのだ。
平野謙の意見
150 昭和8年1933年・9年1934年ころの鹿治亘の「方向転換論」*と宮本顕治の「政治の優位性論」のどちらが文学的に現実的かはまだ確定していないようだが、私の当時の経験を書いておきたい。鹿治亘は「葉山嘉樹や平林たいこを改めて同志と呼びたい」と言い、「葉山嘉樹の『海に生くる人々』や平林たい子の『施療室にて』のようなすぐれたプロレタリア文学を、彼らの拠って立つ労農派という政治的立場の故に、率直にすぐれた作品と認めたがらなかった我々の態度は今となれば間違っていた」という自己批判に、私はショックを受けた。この問題を巡って私は池田寿夫と対立した。池田寿夫は「鹿治亘を行き過ぎ」と評したが、私はそれに納得できなかった。宮本顕治と同じころ池田寿夫も検挙されたから、昭和8年1933年12月の国際書院刊行のパンフレットの方に「同志葉山嘉樹云々」と書かれていたようだ。*
*鹿地亘『日本プロレタリア文学運動の方向転換のために』(昭和9年1934年2月、ナルプ出版部)142
*鹿地亘(作家同盟(ナルプ)の書記長039)の二冊のパンフレット『文学運動の新たなる段階のために』(昭和8年1933年12月、国際書院)と『日本プロレタリア文学運動の方向転換』147
鹿地亘『日本プロレタリア文学運動の方向転換のために』(昭和9年1934年2月、ナルプ出版部)142
昭和8年1933年1月、私は『プティ・ブルジョワ・インテリゲンツィアの道』という習作を山室静に勧められて発表した。そこで私は唐木順三の『現代日本文学序説』を批評した。そのころ私は自らをマルクス主義者にしようと力んでいたので、唐木順三に感服するわけにいかず、唐木順三を井上良雄と対照して無理やり唐木順三を批判した。
昨年昭和47年1972年、私は『昭和文学の可能性』を書き、その中で宮本顕治の評論『同伴者家族』に触れた。その評論は広津和郎を論じたものだったが、(宮本顕治が)同伴者作家*を、進歩と反動に分化する際の中間的存在としてしか認めない、と私は指摘した。広津和郎に代表される同伴者作家を過渡的な存在と見なして、同盟者にまで高めることを要求する(宮本顕治の)発想を私は批判した。(宮本顕治のように)広津和郎や唐木順三を独立の存在として評価せず、同伴者性を清算して同盟者にまで高めることを要望する批評は、全てをエントウェーダー・オーダー*で割り切ろうとする性急な観念性に基づくものである。広津和郎や唐木順三を自立した存在と認めないならば、彼らと共通なテーマで連帯する統一戦線はいつまでたっても組めない。鹿治亘が葉山嘉樹を同志と呼びかけたとき私が衝撃を受けたのは、私自身の自己批判の端緒を見つけたからだ、というのは嘘であるが、ただ新鮮な思いに打たれたのである。昨日まで社会ファシストと最悪の敵とした葉山嘉樹や平林たい子を、改めて同志と呼びかけたコペルニクス的転換に、新しいものの予兆を感じた。
*同伴者作家 コミュニストではないがソビエト体制に反対しない作家。トロツキーの命名。
*エントウェーダー・オーダー entweder..oder..=
either..or..二者択一
152 日本における人民戦線論の芽生え
私が戦争中にディミトロフの人民戦線戦術を知ったのは埴谷雄高からだったかもしれないが、私が埴谷雄高に初めて会ったのは昭和14年1939年の夏ころであったので、それでは少し遅すぎるようだ。いずれにせよ私は初めてディミトロフの人民戦線戦術を知ったとき、鹿治亘の発想が人民戦線の芽生えだったのだと思い当たった。また鹿治亘によれば、戦後宮本顕治は、「昭和8年1933年の学芸自由同盟などの動きが人民戦線の端緒だったのか」と思い当たったらしい。この点で私と宮本顕治は類似していると言える。
勝本清一郎
私は戦後早くに人民戦線論を述べ、《文学界》創刊当時の小林秀雄と人民戦線とを結びつけて話したら、丸山静は私どもの《近代文学》同人を厳しく批判した。
勝本清一郎は人民戦線論者で、中野重治と私どもとの「政治と文学」論争で発言し、中野重治の辛辣な論法を批判した。勝本清一郎は昭和初年代のプロレタリア文学運動を批判する場合に、人民戦線思想の欠如を強調する。勝本清一郎は、昭和5年1930年のハリコフ会議の主催者である国際革命作家同盟(モルプ)の立場は人民戦線思想の上に立っていたと主張する。勝本清一郎はそのハリコフ会議に出席し、その時から人民戦線思想を抱くようになったと言った。私と勝本との対談は《文学》昭和39年1964年4月号に掲載されたが、勝本はその対談の中で、勝本が昭和7年1932年10月から翌8年1933年2月ころまでモスクワに滞在していた時、野坂参三の了解の下に、勝本は佐野磧と共同して、作家同盟にあてたテーゼを作成したと言った。そしてそのテーゼ草案とは、作家同盟は即刻労農芸術家同盟と無条件で合同すべきだというものであった。
人民戦線思想開始の時期
人民戦線戦術や人民戦線思想は、1935年のディミトロフ報告によって初めて出現したのではない。1933年1月のヒトラー制覇が、共産党と社会民主主義諸政党との対立抗争によってもたらされたという教訓と、翌1934年2月から7月にいたる、共産党と社会党などとの自然発生的統一行動によるファシズム撃退というフランスでの勝利の教訓とが、1935年のディミトロフ報告として定式化された。清水幾太郎はフランスでの1934年の社共共闘の自然発生性に関して皮肉で意地の悪い見方をしているが、ともかく社共共闘の勝利だった。それはドイツやフランスのことだけでなく、コミンテルン日本支部が存在していた日本でも、統一行動の動きが昭和10年1935年以前に見られた。昭和8年1933年以降の京大滝川事件のたたかい、学芸自由同盟の結成、唯物論研究会の発足などには、マルクス主義者と非マルクス主義者との統一行動の原初形態が見られた。文学の領域でも、勝本清一郎の昭和7年1932年から昭和8年1933年にかけての戦旗派と文戦派との無条件合同というテーゼ草案や、昭和8年1933年から昭和9年1934年にかけての鹿地亘のパンフレット*の精神は、コミュニストと社会民主主義者との連帯思想の先駆的な現われだった。雑誌でも《文化集団》《日暦》《文学界》《現実》《世界文化》《人民文庫》などの創刊は、マルクス主義者とリベラリストとの協同・提携という性格を帯びている。舟橋聖一らの能動精神を提唱する知識人論も、独立作家クラブの性格規程をめぐる対立意見も、連合・連帯の現れであった。
*鹿地亘(作家同盟(ナルプ)の書記長039)の二冊のパンフレット『文学運動の新たなる段階のために』(昭和8年1933年12月、国際書院)と『日本プロレタリア文学運動の方向転換』147
鹿地亘『日本プロレタリア文学運動の方向転換のために』(昭和9年1934年2月、ナルプ出版部)142
トリアッチ(構造改革論提唱者)
155 1928年のコミンテルン第6回大会で、社会民主主義政党はプロレタリア革命の主要な敵とされ、翌1929年のコミンテルン第10回プレナムで、マヌィルスキイが初めて「社会ファシズム」という用語を使用し、社会民主主義者を最悪の敵とした。ディミトロフ報告は既成事実の定式化ではなく、画期の政策転換である。(「画期的」というのは「漸進的」という前言の流れと矛盾)
トリアッチは言う。「社会民主主義を社会ファシズムとしたことは誤りだった」「共産党の政策を『階級対階級』の政策とすることは本質的な間違いであり、それは危険なセクト的閉鎖状態の源になっている」「この方針(人民戦線戦術)は戦術であるだけでなく戦略的なものとなった。レーニンが予見できなかった新しい情勢に、レーニンが展開した革命的政策の原則が適用された」(トリアッチ『共産主義インターナショナルの歴史』、邦訳『コミンテルン史論』所収)
日本のプロレタリア文学運動で、蔵原惟人の「共産主義芸術の確立論」や「文学組織のボルシェヴィキ―化論」、小林多喜二・宮本顕治の「文学の党派性理論」や「政治の優位性理論」など窒息せんばかりのリゴリスティック(厳格主義)な指導方針が、前記の諸雑誌の創刊によって突き崩される気配が見えた。鹿治亘のパンフレットや宮内勇の第一回声明書についてもそのことが言える。
私は宮内勇との対談の中で、「プロレタリア的と革命的との違いを一応承知していた小林多喜二が、『プロレタリアートのヘゲモニー』とか『組織のボルシェビキ的指導』とかをすぐ言い出すので、(小林多喜二が)プロレタリア的と革命的との違いを理解していなかった」と言った。小林多喜二が虐殺された直後に、日本プロレタリア文化連盟出版部から遺書として出版された書名は『日和見主義に対する闘争』だったことがそのことを示す。
戦術戦略問題に関する私の意見
156 人民戦線戦術は単に戦術ではなく、戦略的なものに変わりつつあったが、そのことで日本の場合について、私は岩村登志夫138や神田文人に教えられた。以下はこのことに関して私が参照した文献である。
《改造》昭和11年1936年7月号の特集「人民戦線と日本」
清沢洌『人民戦線の政治的基礎』
荒畑寒村『人民戦線の中心と組織』
鈴木東民『人民戦線は進展する』
美濃部亮吉『フランス人民戦線内閣の動向』
《社会評論》昭和11年1936年7月号特集「人民戦線は進む」
フォガラッシ『社会民主党の分化と統一戦線』
ボルィンスキイ『フランス人民戦線の勝利』
ミンロス『動乱渦中のスペインと人民戦線』
小岩井浄『日本における人民戦線の問題』
《中央公論》昭和11年1936年9月号特集「日本人民戦線の胎動」
大森義太郎『人民戦線・その日本における展望』
木下半治『世界人民戦線の鳥瞰』
窪川鶴次郎『時代と文学との新機運』
加藤勘十『人民戦線結成への一つの道』
『世界の一環としての日本』昭和11年1936年5月
戸坂潤『所謂「人民戦線」の問題』
157 これらの文献のほとんどは日本人民戦線の可能性を(楽観的に)述べているが、一人清沢洌は悲観的である。ほとんどの論者はファシズムの対極として広義の社会主義を措定している。日本共産党系の思考形式は、軍部ファシズムに対置して、プロレタリア独裁を措定する。荒畑寒村、大森義太郎、加藤勘十もファシズムに社会主義を対置する。ただし清沢洌は反ファシズムの目標を憲法擁護に置く。
トリアッチも指摘するようにファシズムに対抗するものとして社会主義と民主主義があるが、日本の昭和11年1936年ころの人民戦線担当者は民主主義を忘れていたようだ。その点、神田文人は寛容的すぎる。(意味不明)反ファシズムの目標として憲法擁護を主張した清沢洌だけがブルジョワ民主主義に固執した。
158 講座派と労農派との争点はブルジョワ民主主義革命と社会主義革命との関係だが、現実にはブルジョワ民主主義革命の実現について、天皇制問題は別にして、講座派も労農派も重視していなかったようだ。(人民戦線問題は)戦術の領域を超え、戦略目標に変化したのではないか。昭和10年代の神山茂夫はこの問題で苦労した。
コミンテルンから思想的に自立していた《世界文化》同人
日中戦争勃発前後の日本人民戦線の展開は、共産党系、労農派系、日本無産党系の全てが世界革命の総本山たるコミンテルン第七回大会の人民戦線戦術を中軸としているが、そういうコミンテルン中心の考え方とは「全く無縁」な地点から出発したほとんど唯一無二の例外は、《世界文化》同人であった。
159 ねずまさし130は「全くコミンテルンとは思想的に無関係」と言い、真下信一115も「コミンテルンとは無関係」(座談会『「世界文化」の思い出』現代と思想第二号)と言っている。《世界文化》は広義のマルクス主義者と非マルクス主義者との協同作業であり、ねずまさしや真下信一は広義のマルクス主義者の方である。ねずまさしはコミンテルンから派遣された小林陽之助と関係していたようだ。真下信一は「方法論的にも思想的にも(コミンテルンとは)一線を画していた。(コミンテルンよりも)もっと有効な方法があるはずだという思想的自信があった」と言い、和田洋一も「知識人は知識人でやることがある」と言った。彼らのこの言葉はコミンテルン・コンプレックスから自由だった。思想的に自立していた。彼らは反ファシズムにブルジョワ民主主義で対応した。
160 平林一は松田道雄の説を肯定するが、それを訂正せずにはいられない。松田道雄は《世界文化》や《土曜日》を「日本のインテリゲンチャの独立宣言」と評するが、平林一は「日本の知識人の独立宣言とは断定しがたい」とし、「自主と同伴とが交錯した主体」と評価する。しかし私は《世界文化》の中に「日本のインテリゲンチャの独立宣言」をみたい。《世界文化》のブルジョワ民主主義擁護の立場と、日本共産党中央再建準備委員会の統一戦線の立場とが、それぞれ独立を保持しながら連帯できたら、日本人民戦線も現実化したかもしれないが、それは困難な課題だった。
感想 各種思想が影響し合わずにはいられない現代世界で、孤島でのインテリの独立宣言などあり得るのだろうか。
《世界文化》《土曜日》のその他の注意点
161 《世界文化》の主要な同人中井正一の『委員会の論理』(久野収編集の論文集『美と集団の論理』昭和37年1962年12月中央公論社)は難解である。その他の同人の専門分野の論文も難解である。《世界文化》は仏独英米露中スペインなど世界各国の文化情報も紹介している。例えばドイツの亡命作家の消息やフランスの文化擁護国際作家大会の特報などを紹介するが、それを通じて人民戦線運動とも合流する様子が伺える。そのことに関して新村猛は『国際反ファシズム文化運動(フランス編)』1948を、和田洋一は『国際反ファシズム運動(ドイツ編)』1949を三一書房から出版した。
《世界文化》に出てくる以下の二つの論文を紹介しながら、新村猛が小松清の「行動主義」について批判していると平野は言うが、詳細は不明。
・小松清編著『文化の擁護(国際作家会議報告)』1935、第一書房
・新村猛『フェルナンデス・行動主義・「作家連盟」』1935、世界文化
《世界文化》は新刊批評欄を通して世相を批判する
163 《世界文化》の新刊批評欄は《世界文化》の二本の柱である学問的業績と時事的紹介とを統一して学問的原則を時事的・時評的なものに応用する場所である。クレミュウの『不安と再建』(昭和10年1935年、小山書店)はアナクロニズムをチェックした。(書籍を)推奨する場合でも、著者と評者との学問的立場の相違を明らかにする。三木清も評者として登場する。おそらく荒正人、小田切秀雄、佐々木基一らによる《文藝学資料月報》の発刊は《世界文化》の新刊批評欄に示唆されたのだろう。私の《世界文化》に対する異論は、高沖陽造の評価に関することだ。高沖陽造『欧州文藝の歴史的展望』の傍題「ダンテからゴーリキイまで」は、阿呆らしく無神経で、当時私は手に取ってみる気もしなかった。しかし高沖陽造の著書は啓蒙書としては有効だった。また高沖陽造の《世界文化》への寄稿数も多い。しかし高見順は『高沖陽造とはなにものか』(人民文庫)のなかで高沖陽造を批判している。それは高沖陽造が世界文学の立場から現代日本文学を見下す態度を取ったからだろう。
《世界文化》は文学批評(文芸時評)を重視しない
164 《世界文化》は現代日本文学や現代日本小説を無視・黙殺する。《世界文化》が現代日本文学を扱ったものは中野重治の『ハイネ人生読本』くらいで、それもハイネを論じたから扱われたのであろう。《特高月報》昭和13年1938年9月分は《世界文化》《土曜日》《学生評論》の寄贈者名簿を公表しているが、それによれば《学生評論》は当時無名の(詩人・文芸評論家・翻訳家)山室静に寄贈しているのに、《世界文化》や《土曜日》は文壇関係や作家関係には全く寄贈されていない。これは現代文学無視の態度である。川端康成は『末期の眼』のなかだったかに、純文学の敵は岩波文庫の赤帯(海外文学)読者だと言った。武谷三男はロマン・ロランを愛読し、中井正一はドストエフスキーを愛読し、《世界文化》はのちに映画、演劇、音楽などの時評瀾を新設し、文学瀾も設けたが、取り上げられたのは高倉テルの日本語論や文藝学関連ばかりで、文芸時評は一切取り上げられなかった。取り上げられたのは《世界文化》昭和11年1936年11月号の小出卓爾の『一人息子』の映画評だけである。
《土曜日》
《土曜日》に掲載された文芸時評は、《世界文化》同人の現代小説観をうかがえる唯一の資料である。《土曜日》の歴史や性格については、斎藤雷太郎の回想記『「土曜日」以前』や『手記・「土曜日」について』に詳しい。それらの回想記はそれぞれ、京都の同人雑誌《現代文化》昭和41年1966年12月号と昭和43年1968年6月号に掲載されている。
斎藤雷太郎は小学校を4年で中退した映画俳優だが、文章力があり、独力で《京都スタヂオ通信》を刊行しながら、保証金500円を納めてそれを時事問題も取り扱える新聞にし、その編集を能勢克男や中井正一らに委ね、《京都スタヂオ通信》を《土曜日》と改題した。
感想 保証金500円を納めないと時事問題について発言できなかったのか。
166 久野収は《近代文学》の座談会で、「《世界文化》の活動も《土曜日》という啓蒙新聞によって思想史上・運動史上に画期の足跡を残すことができた」としている。斎藤雷太郎の庶民精神が《土曜日》大衆化の成功の一因だったにちがいない。《土曜日》は2000部から8000部に部数をのばした。六ページのタブロイド判で、「憩いと想いの午后」と刷られた第一面の下段に巻頭言、第二面文化欄、第三面映画欄、第四面婦人欄、第五面社会欄、第六面くらぶ欄という構成である。第一面の巻頭言は主として中井正一が担当し、それは『美と集団の論理』161に収録されている。平林一によればその中に能勢克男が執筆したものも含まれているという。巻頭言の題名は『花は鉄路の盛り土の上にも咲く』『星を越えて、人間の秩序は、その深さを加える』『どんな小さな土の一塊でもよい、掌に取って砕こう』『野にすみれが自由に咲く時である』『手を挙げよう、どんな小さな手でもいい』『人間は人間を馬鹿にしてはならない』『爽やかな合理のこころを持ちつづけて』などである。
中井正一はブルジョワ民主主義者である。《土曜日》は新しい市民主義に彩られていたが、それが大衆化を成功させた。《世界文化》はブルジョア民主主義の擁護者であると私は考えるが、その根拠はこの新しい市民主義にある。
《土曜日》にはラジオ時評、映画時評、社会時評、婦人時評などが常設されていて、文芸時評もあり、そのなかには読者の投書もある。同人の辻部政太郎が担当していたようでTという署名がある。辻部政太郎は日本の演劇史を専攻し、百科全書的な博識の士であった。この文芸時評は《世界文化》を代表する現代日本文学観として唯一のものである。
168 《世界文化》はその創刊号で「現代のインテリゲンツィアは不安と絶望、虚無と退廃にさいなまれている。それは必然だが、いつまでもそこに身をゆだねることなく、それを乗り越えて、真理の扉を叩くようでありたい」というマニフェストを掲載している。この精神は文芸時評にも貫かれていて、《世界文化》らしい。
しかし高見順や石川淳らの虚無と頽廃を超克するものは、加賀耿一や島木健作の作品や、石川達三の『日陰の村』であるとするのは、興ざめだ。私は島木健作の『再建』を取り上げて欲しかった。この長編は日本人民戦線のプラスとマイナスを作品化したもので、私はそれを『昭和文学私論』で扱った。
辻部政太郎の文芸時評は純文学や私小説などの文壇文学を認めない。その代償が石川達三あたりではすこし困る。(意味不明)川端康成の文芸時評を文壇的とすれば、辻部政太郎は非文壇的である。新聞小説を論じ、ルポルタージュ、発表機関の問題、国語論を論ずる視野の広さがあるが、それだけでは当時の大熊信行の文学論と大差がない。このことは高沖陽造163を高く評価することと同根である。(意味不明)
169 《世界文化》は学者の研究雑誌であり、私のような文学青年の雑誌ではない。
《世界文化》と《唯物論研究》との比較や、《土曜日》と《労働雑誌》との比較はここでは割愛する。
内務省警保局編『社会運動の状況』昭和13年1935年度版115の見立ては間違っている
『社会運動の状況』から引用 「同志社大学予科教授新村猛、同真下信一、大阪相愛女専講師中井正一等の共産インテリ分子は『日本共産党の運動方針が従来著しく極左的公式主義に偏し、他の合法団体を全然排斥し居りたるは誤謬にして、現今の如きファシズムの攻勢下に在りては之に対抗する為革命の前提として他の反ファショ的なる一切の諸団体と協力提携せざるべからず。仍ち日本共産党を中心として其の影響下に於いてファシズム及び戦争に反対する全階級層を糾合してファシズム打倒の為の統一戦線を結成すべきは刻下の急務なるを以て、左翼文化人は自己の能力に応じて文化の全分野に亘りて左翼運動を展開し、政治活動及び経済闘争と相俟って統一戦線の結成に寄与せざるべからず』との新運動方針に基づき、昭和十年1935年一月末頃数名の左翼分子を糾合して、従来より存在し居りたる美批評研究会を改組して共産主義理論及び戦術の研究機関となし、その機関誌として左翼雑誌『世界文化』を創刊するに至りたるが、更に昭和十年1935年二月頃フランスに於て右と同様なる運動方針即ち人民戦線運動が展開せられ着々成功し居ることを知り次いでコミンテルンの新運動方針を知るや茲に益々右運動方針に確信を昻め、前記美批評研究会を中心としてフランスに於ける『文化の家』組織に倣い文学、映画、演劇、ラヂオ、音楽等の文化分野の全領域に亘り広汎なる共産主義的運動を展開し、日本共産党の戦術を是正すると共に大衆に共産主義思想の滲透を図り、之を人民戦線に動員すべく極めて活発なる運動を継続せり」
感想 2023年12月13日(水) そもそも警察の調書など信憑性がないのに、ここではその信憑性を否定しておきながら、リンチ事件ではそれ(袴田里見の調書)があたかも公正な文書であるかのように本書に挿入し、三一書房は本書の帯にその一部を掲げ、読者の注意を引こうとしている。ご丁寧にページ数まで示している。
170 《世界文化》グループに対するこの警察当局の見解は、一見慎重な取調べの結果ようやく判明した結論のように見えるが、実はそうではない。
昭和12年1937年12月分の《特高月報》にも《世界文化》グループの第一次検挙に関する記事がある。
「京都府に於いては本年昭和12年1937年8月検挙せる同人雑誌『リアル』関係者の取り調べにより、京都府に於いて発行する雑誌『世界文化』雑誌『学生評論』新聞『土曜日』は孰れも表面合法を装うも其の真目的は所謂人民戦線戦術に依る共産主義社会の実現を企図しつつ活動し居るものなること判明したるを以て、十一月八日より十二月五日に亘り別記の如く同志社大学教授新村猛外七名を検挙し目下取調中なり」
とある。この「表面合法を装うも其の真目的は所謂人民戦線戦術に依る共産主義社会の実現を企図しつつ活動し居るもの」という予断を警察は最初からいだいていて、新村猛らを一斉検挙したことは明らかである。それは警察の既定方針だったのだ。ただし昭和13年度版『社会運動の状況』に、「日本共産党の運動方針が従来著しく極左的公式主義に偏し」とか「日本共産党の戦術を是正すると共に」とかいう修正意見が付加され、そのことによって《世界文化》がコミンテルンの人民戦線戦術という「新運動方針」にも忠実に則ったかの如く書かれているが、警察当局の狙いは依然として「共産主義社会の実現」という企図を最後の決め手とするところにあり、それによって治安維持法違反として起訴したのである。
《世界文化》や《土曜日》の内容がどういうものかは明らかである。《世界文化》グループの検挙は根も葉もない「まったくのでっち上げ」である。昭和16年1941年に改悪される治安維持法の内容が日中戦争勃発前後に拡大解釈され、着々実行されつつあったことがここで実証された。昭和10年1935年コミンテルン第七回大会で人民戦線戦術が採択され、翌1936年7月以降《改造》や《中央公論》などの一流総合雑誌が度々その特集を組むという新情勢を迎え、検察当局は「孰れも表面合法を装うも其の真目的は所謂人民戦線戦術に依る共産主義社会の実現を企図し」という一点を重視しながら、(その時の)治安維持法違反容疑とは全く無縁な市民を逮捕する絶好の口実をとらえ、着々(警察の)その「新運動方針」を先取りした。
こういう恣意的な法の拡大解釈は決して過ぎ去った過去の物語ではない。憲法第九条において明確に戦争放棄を宣言しながら、警察予備隊から自衛隊へと着々軍備を拡大しつつあることは、その最もみやすい証左である。私のささやかな住民運動からでも、法律の屈伸自在の解釈の可能性を実証することができる。
私は昭和34年1959年3月に『革命家失格』を書いたが、その最後に山川均の協同戦線党論とコミンテルンの人民戦線論との比較、さらにそれと昭和10年1935年前後の現代日本文学との接触というような問題点を追及したいと書いた。それから15年近く経って、ずいぶん違ったものになったが、本稿の執筆によってその宿題が果たせたと思う。
《すばる》昭和48年1973年3月号
以上
番外・昭和文学私論
一 都知事選に思う
174 1975年2月16日、美濃部東京都知事が三選不出馬を表明した。それ以前、美濃部亮吉と石原慎太郎との一騎打ちの様相が決定的となったとき、私は週刊新潮(2月20日号)にこう書いた。
「私は区画整理反対の住民運動の責任者として石原慎太郎に立候補してもらいたくない。美濃部さんは口先だけで実行力がないと批判されるが、下手にいじってもらうより現状維持の方がましだ。派手なことをする人は剣呑である」
私は石原慎太郎の青嵐会イデオロギーを警戒する。
私どもが住んでいる世田谷南部に区画整理事業が施行されれば、私の住む家の庭先を切断して、現在の4メートル道路から18メートル道路に拡幅される。そうなると自動車の騒音で私はもの書きとして住んでいられなくなる。なのにその補償はない。私は生存権擁護のために区画整理反対に立ち上がり、現在1万人の反対署名を集めた。これを世田谷区議会も東京都議会も黙殺できず、私たちの反対請願は趣旨採択された。
私どもは昭和47年1972年11月17日、美濃部都知事と面談して、「地域住民の同意なくして区画整理は行わない」という確約を得た。石原慎太郎ならそういう確約なぞいっぺんに吹き飛ばすだろう。
しかし現時点(昭和50年1975年2月20日)で、社共は歩み寄ろうとしない。
176 同和問題は選挙後に検討することにして、社共共闘ができないものか。民主勢力が東京都知事を確保するまで同和問題を凍結できないのか。美濃部都知事も当初そう楽観していたのではないか。それができなくなって三選不出馬となった。
美濃部亮吉は1923年ドイツで社共がファシズムに敗れたのを目の当たりにし、野坂参三は1935年のコミンテルン第七回大会の人民戦線という戦術転換の採択に参加した一人であった。
177 二人はどうしてその教訓を現在によみがえらすことができないのか。
私は美濃部都知事三選不出馬をショック療法としたい。美濃部都知事も社共も住民本位を投げ捨てた。私たちはささやかな日常の利害を自分たちの手で守って行くしかないことに気づいた。
毎日新聞 昭和50年1975年2月22日夕刊
二 三月十五日の集会 西田信春と伊藤三郎をしのぶ会
178 1975年の東京都知事選では幸い社共の統一戦線が曲りなりにも成就されたが、私には釈然としないものが残っている。しかし私が最近参加した三月十五日の集会は、本物の統一戦線といえるものだと思う。
土筆社という社長一人の出版社が、西田信春と伊藤三郎の追悼会を主催した。土筆社の吉倉伸・社長が、岩波書店の《図書》三月号に「たったひとりの出版社」という副題の文章で参加を呼び掛けたのである。吉倉はそこで西田と伊藤に関する二冊の本を紹介しつつ出版にまつわる苦労話を語った。その二冊とは『西田信春書簡・追憶』(石堂清論・中野重治・原泉編)と『高くたかく遠くの方へ 伊藤三郎遺稿と追憶』(渋谷定輔・埴谷雄高・守屋典郎編)である。吉倉は「西田・伊藤の追悼会を開かねばならぬような気がして、国電中野駅前のサン・プラザ(全国勤労青少年会館)十二階の会議室で開くことになりました。〝1930年代を考える″ということで、問いかけや話し合いができればと思っております」と呼びかけた。予想に反して、150人も集まり、3時間の予定を2時間もオーバーした。
西田信春は明治36年1903年1月生まれ、一高文甲、東大文学部、昭和4年1929年3月日本共産党に入党、昭和8年1933年2月10日前後に福岡で検挙され、拷問のため死亡。伊藤三郎は明治35年1902年11月生まれ、青山学院、大阪外語。中学生の時にエスペラントに傾倒、昭和5年1930年に鉄道書院から『プロレタリア・エスペラント必携』や『プロレタリア・エスペラント講座』を刊行、共産党に入党して農民運動を指導、昭和7年1932年3月検挙入獄。その後も昭和10年代に何度も検挙されながら、戦後までエスペラント、児童問題に取り組んだ。昭和44年1969年3月病死。二人とも共産主義者として生涯を貫いた。
180 西田信春は無名戦士として、その最期は不明で、戦後になってようやく拷問死が判明した。伊藤三郎は世俗的には報われないまま生涯を終えた。そういう特殊な二人の遺稿と追憶を二冊の本にまとめた土筆社もまた奇特な存在である。
この集会が政党政派を越えて一つの統一的な雰囲気を盛り上げた点に私は感銘を受けた。この集会にはこの二人を直接知っている人も参加し、その数は予想以上に多かった。伊藤三郎の弟が岡山から参加し、九州、京都、長野、仙台からの参加者もいた。
181 昭和初年代に西田・伊藤に直接指導を受けた人もいた。伊藤三郎から農民運動を指導された仙台の人は、とつとつと伊藤三郎の人間的魅力を語った。西田信春は昭和7年1932年8月に党中央オルグとして福岡に赴き、昭和8年1933年2月10日頃検挙されるまで、日本共産党九州地方委員会を組織したが、その指導を受けた6人が九州から参加した。
西田・伊藤に対する人間的信頼が現在の政党・政派の枠を忘れさせたからこの集会が成功したのだろう。出席者の中には共産党を除名された元中央委員や、現役の共産党員もいた。
1930年代に左翼運動に関与しなかった医者や社会学者も参加した。土筆社の無私な取り組みに対する共感が集会を成功させたのだろう。これが統一戦線の原初形態だと私は思った。
182 集会では、「西田信春の最期が長く分からないままでいたが、戦後になってようやく遺骨の行方が推定できるようになった」という話があったり、或る医者が「多くの若者を死に駆り立てた国家権力を今も許せない」という内容の詩を歌ったりした。
私にとっては一青年の話が一番印象的だった。その話とは「警察のテロルにたおれた西田信春の時代は、たたかうべき敵を正面にみすえていた幸福な時代と呼ぶべきであり、もはやたたかうべき敵を見失って内ゲバという陰惨な殺人行為を繰り返さざるを得ない我々現代青年から見れば、すべて古き良き時代の思い出話にすぎない」というものだった。
党利党略とは全く無縁な人間的共感が一貫して流れていたことが、こういうフリートーキングを成立させた理由であり、これこそ統一戦線であると思った。そしてある人はこう言った。「今日は全国で三・一五事件の記念集会がいろいろ開かれているかもしれないが、われわれの会が最高じゃないか」と。
183 埴谷雄高と本多秋吾と私とは最後に発言する順番となり、時間もオーバーしていて十分な発言ができなかったので、ここに整理する。
私は書物を通してしか西田と伊藤を知らなかったので、生前に面識のある人の話には注意をひかれた。西田信春は組織者としてだけでなく、人間的にもすぐれていたらしく、九州地方委員会の確立に努力した人は古き良き時代を追想するのだが、その気分に私は不満だった。
私はその会で疑問だけを表明した。
西田信春は昭和7年1932年8月、党中央オルグとして福岡市に到着し、同年末までに九州地方委員会を設立し、翌1932年2月11日に一斉検挙され、組織は壊滅した。そのため西田スパイ説が当時囁かれた。しかし西田は検挙後の拷問で殺されていた。それは小林多喜二虐殺の10日前のことだった。
184 労働組合部長担当の男がスパイだったことが後日判明したが、それは組織運営上の欠陥のせいではないかという疑問を、釈放された人々が一人も起こさなかったのは私は不審に思う。
また西田信春のハウスキーパーだった女性は、その後、西田信春を売り渡したスパイと同棲し、同志に何度も忠告されながら、戦後までその関係を続けた。牛島春子はのちに作家になった人だが、その牛島がそのハウスキーパーの近くにいたのに、彼女を追求しなかったことも不審に思う。この問題は文学のテーマとしてふさわしい。以上が追悼集会での私の発言である。
毎日新聞 昭和50年1975年3月26日夕刊
以上 2023年12月15日(金)
袴田里見警察訊問調書248頁に、
「斧の背中で頭を叩いて出血させ、足の甲にたどんを押し付けて火傷をさせ、硫酸を腹にかけ、錐の尖(さき)で臍(へそ)の上の方を小突いた」
とあるが、頭の傷、足の火傷、腹の火傷、臍の突き疵などが残らないはずがあろうか。しかし宮本顕治の実際の裁判では外傷などによる殺人罪の物的証拠がなかったというではないか。
また警察の意見だけを聞いて、袴田里見の意見を聞かないのなら不公平だ。
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