跋文 埴谷雄高 この論文は平野謙『「リンチ共産党事件」の思い出』が出版された1976年6月15日以前に書かれたものと思われる。
メモ
・特定の時代に生きた人にはその人しか知り得ないその特定の時代について証言する義務がある。
・党員を増やすと秘密がばれる。
・大泉兼蔵がスパイだったかもしれないと思わせる不審なことが三点ある。
要旨
335 特定の時代に生きた人にはその人しか知り得ないその特定の時代について証言する義務があるから、私はそういう考えのもとに、私が生きた時代について以下に証言する。
336 戦前の日本の左翼運動を時代区分すると、大きく分ければ、1928年の三・一五の前と後であるが、1928年以後の時代はめまぐるしく変化し、1928年の三・一五時代、1929年の四・一六時代、1930年の田中清玄時代、1931年の風間丈吉時代、1933年の宮本顕治のスパイ・リンチ事件時代に分けられ、その時代時代で微妙に性格が異なる。
三・一五時代からスパイ・リンチ事件時代までの間に、根こそぎの検挙が連続し、(党に)「新しく捕らわれゆく」党員の理論的・質的水準が低下したが、その特徴に、私が生きた1931年の風間丈吉時代の特徴を付け加えよう。
風間丈吉はモスクワから帰国してから、国内で捕まらずに残っていた松村ヒヨドロフ、岩田義道、紺野与次郎などと連絡をつけ、1930年末に党再建に着手し、翌1931年1月に中央部を形成した。その党再建の情報は当時雑誌「農民闘争」にいた私達のところにもすぐに届いただけでなく、私たちにすぐ身近な親しい年長者の伊藤三郎と小崎正潔の二人が「農民部」へ赴いてから忙しくなった。そしてその1931年の春、私達自身――松本三益、伊達信、松本傑、私の4人が、「農民闘争」社内フラクションとして組織された。
337 この1931年特有の特徴は、党が次の二つの方針を他の時期よりも強調して打ち出し、その方針を最後まで持続したことである。その方針とは、
・党の大衆化
・中央部の労働者化
の二点である。
この特徴を私が敢えて記述するのは、1933年末のスパイリンチ事件に見られる「少なからぬスパイの存在」という暗い事態と、一般人にも奇異の念を与えるに違いない「スパイの中央部入り」という珍しい事態について、一つの重要な鍵を提出するからである。
338 「党の大衆化」は、当時の「赤旗」に『党員の大胆なる採用について』という論文が載せられたように、三・一五以後の非合法時代の党の歴史を通じて、1931年におそらく最大の党員数を招来した方針である。もし共産党員の入党年月を調べてみれば、1931年が圧倒的に多いはずだ。
ところで私は「党の大衆化」について『敵と味方』(『幻視のなかの政治』未来社1963年)というエッセイを書いたが、その中で次のように述べた。
339 「革命は数えきれないほど多くの無名な人々の苦痛と流血によって成し遂げられた。古い制度はすでに打倒されたので、個々の人々の胸裏に残った古い観念と習慣と誤りを正すべく(ように)、死を前にしたレーニンは訴えた。その時レーニンは分散した個々の人々の古く遅れた心情以外の、なんらか強固なものが、この忌むべく手ごわい事態をどこかで密かに支えることを、そのあまりに執拗な広範な保持力の故に、漠然と感じたはずであったが、その支柱となるべき古い制度のすべてが、すでに革命のなかで打倒されていると信じて眺めているだけに、レーニンはひとつの踏み越しがたい皮肉な盲点のなかにあって、ついに革命前からの古いままのかたちで密かに事態を支えている強固なものの姿をちらとでも眼前に垣間見ることができなかったのである。
レーニンが悲愴で皮肉な盲点のなかにあったところの、革命において変革されなかった唯一のものは、さて、党である。
レーニンは、党の組織は職業革命家を含み、労働者とインテリゲンチャの間の差異を認めず、あまり広範なものでなく、できるだけ秘密なものでなければならない、と規定した。それは端的に『もっとも厳密な秘密活動、もっとも厳格な成員の選択、職業革命家の訓練』という語句で示されるが、このような厳格な組織は、ロシアという苛酷な専制国で必然に要求されるかたちであり、政治的自由がすでに行われている国では、民主的原則すなわち完全な公開性とすべての職務の選挙制が、その組織原則とされることを彼はさらに明示した。このレーニンの規定は、さて、たしかにロシアの党に適用されたのであり、革命とともに民主的原則が採用されると、党は新しい条件に応じて一見広範に変化したように見えたが、しかし、しかもなおそれは新しい状況に応じた本質的な変化ではなかったのである。なぜなら、それはブルジョワ革命に応じた一つの脱皮に過ぎず、社会主義革命ののち、国家の死滅に向かって、まったく新たな歴史の第一歩を踏み出すべき決定的な変化の態勢がそこに見られなかったからである。
非合法党のとき、避けがたい必然として厳しく要求された上部と下部の厳格な関係は、いまこそ、最も深く考究されるべき第一番目の基本的な本質問題であったが、広範な大衆党となるにつれて、かえってこの上下関係は、動かしがたい原則として確立されてしまった。そして公開の原則はなおその傍らに秘密主義を引き連れて歩いていた。換言すれば、革命前の党の性格は、そのまま革命後にも本質的な変化なしに引き継がれてしまったのである。革命に際して革命されなかった唯一のものは、従って、党なのであった。」
感想 複雑で主観的な文章で真意をつかみにくいが、ロシア帝国の旧制度、欧米の民主的制度、来るべき共産主義の制度の三制度を対比させた上で、レーニンは旧制度に民主主義制度を導入したが、共産主義制度はいまだ導入できなかった。そこに党の旧態依然とした保守性が残存した原因があるということか。
341 つまり専制国家の下での非合法(共産)党の場合、「もっとも厳密な秘密活動、もっとも厳格な成員の選択、職業革命家の訓練」とレーニンが説いたように、つねに秘密と厳格性の二本柱が必要であり、他方、党の大衆化は、レーニン以後の新しい党でも、確かに長所はあるが、(古い)短所も持ち越していた。即ち党の大衆化は、現在ではほとんど常に喜ばしい方向にあるが、非合法時代の党の大衆化は、党員の質の低下とスパイの容易な潜入が続発することを覚悟しておくべきだった。
昭和6年1931年における党の大衆化方針は、社会運動の一般化という長所とともに、党内における前記の二つの短所(党員の質的低下とスパイの潜入)も携えて進んだ。
この質的低下は理論的水準の低下ばかりでなく、来るべき急速な転向時代を準備する大きな意味での質的低下も含んでいるのだが、この時期のもう一つの柱「中央部の労働者化」も、長所とともに、スパイの容易な潜入に引き続くスパイの中央部入りという短所を思いがけずも可能にした。今でもあまり明らかでないこの二つ目の柱「中央部の労働者化」の内容について、いくつかの例を取り上げて具体的に述べよう。
342 農民組合内での左右の対立が最も激しく明らかになった昭和6年1931年3月の全農第四回大会が大阪で開かれた帰りに、山形の佐久間次郎が東京で監視の刑事をまいて、私達に大会の模様を報告しに来たのだが、そのまま東京に留め置かれ、彼が中央部の労働者化の第一号となった。
この佐久間次郎は当時の運動家に最も多い型、つまり旧制高校を追い出された後に県連合会の書記になったインテリゲンチャであったが、その彼が地方の農民組合の現場にいる「生きた運動家」として中央部に「引き上げられた。」その頃私はまだ地下生活をしておらず、母と姉との三人暮らしだったが、その私の家が極めて自由なのをしばしば訪れて知っていた伊藤三郎は、佐久間次郎を私の家に置いてくれと言った。そして佐久間次郎は私の家の食客になっていたのだが、組合関係のある会合が開かれていたときに警察に踏み込まれて捕まってしまった。佐久間次郎が山形に帰省しないのを心配して山形の組合から後輩の橋本新七が上京して私の家を訪れたのはその後であった。私もその後5月に地下に潜った。
佐久間次郎が捕まって次に引き上げられたのは三重の池端勘七で、彼は正真正銘の農民出身だった。ある夜、当時画家と称して駒込の食堂の二階にいた私の部屋に、その池端勘七が訪ねて来て「泊めてくれないか」と言い、私も承知したところ、当時女優の卵だった私の女房が同じく訪ねて来て鉢合わせになると、見るからに精悍で農民風の池端勘七は、「東京の同志の生活は華やかだね」と言って急にもじもじして「俺は他で泊まる」と言い残して出て行った。この池端も捕まった。
344 農村から東京へ出てくると、その長い農村生活の地味な習慣が身についているので、機敏でなく目につきやすい。「中央部引き上げ」を受けたこの二人が相次いで捕まると、農民部長の伊藤三郎は中央部で責任を問われ、降等(旧日本陸海軍の懲罰の一つで、階級を1階級下げること)した。
伊藤三郎は、後年、「キリストはこんな顔つきの男だったに違いない」と私が冗談に言い慣らすほど澄んだ目をした、見るからに清潔感に満ち満ちた人物だったが、私との連絡中に悲痛な表情を浮かべて「俺、閉門くっちゃった」と私に告げた。伊藤三郎の跡を継いだのは、スロー・テンポで話す、保釈で出てそのまま潜って来た宮城県出身の赤津益造だった。
赤津益造の農民部長時代も中央部引きあげの方針は続いていて、富山から梶哲次と谷口直平が東京へやって来たまま留め置かれ、そして昭和6年1931年の冬、新潟での細胞検挙の報告をもって大泉兼蔵が上京した。
大泉兼蔵
大泉兼蔵は池端勘七と違った意味で全く農民的だった。池端勘七は鋭い目つきをした精悍な農夫といった感じだったが、大泉兼蔵は質朴で、一見しただけで鈍重(どんじゅう)で善良な東北型ともいうべき代表的な農民の顔つきをしていた。大泉兼蔵は富山の梶哲司や谷口直平の場合と違って、中央部引きあげで呼ばれたのではなかったので、在京する予定はなかったのだが、あまりに質朴な農民そのままの風貌をしているので、これまでの先例に懲りていた伊藤三郎は、大泉を目立たぬ都会風に仕立て上げるよう私に命じた。(中央部引きあげと似ている)当時は冬のさなかだったので、岡山市長の息子で私たちの間では物持ちの守屋典郎から二重回しを徴発してきたのを手始めに、衣服を取りそろえ、人との応対の仕方まで教育した。大泉兼蔵はその都会化の過程で私の言うことに素直に従っていたので、そのとき私は大泉がスパイであるなどと毛頭思わなかったばかりか、その後彼がスパイとされたときでも大泉スパイ説を暫く疑ったほどだった。それは長く世話をした大泉の鈍重な言行全てを通じて全く何等の(頭脳の)閃きも感ぜられなかったからである。大泉が上京後間もなく私は彼に「農民闘争」の原稿を頼んだことがあるが、当時の流行語である「いまや資本主義第三期は…」というふうな書き出しから始めているものの、全く使い物にならないあまりのひどさに、私たちはその原稿を没書にしたばかりでなく、その後、全く原稿のことを言い出さなかった。私は大泉がこれまで組合支部にいたのだろうかと疑うほどの無理論さに接していたので、私はこのようなまったく一筋の閃きもない人物が秘密なスパイ活動などできるとはその後もどうしても考えられなかった。彼が新潟の細胞壊滅の報告をもって上京した時、私は伊藤三郎に命じられて彼のそれまでの履歴を調べたことがあった。新潟から出されている公の文書や私信の類を調べて、彼が地方の一支部にかなり古くからいることを知り、それを伊藤三郎に報告したのだが、そういう全体の印象が幾重にも重なっていたので、秘密で大胆なスパイ活動と質朴で無理論なその人物とはどうしても私の脳裏で結びつかなかった。
大泉兼蔵は昭和6年1931年の暮れ近くに上京した。翌1932年3月、伊藤三郎、小崎正潔336の農民部の二人と、伊達信336と私の「農民闘争」フラクションの二人が相次いで逮捕され、引き上げられたのではない大泉兼蔵がそのまま在京するようになった。
「農民闘争」の「赤旗」への解消
347 (遡って)農民部と「農民闘争」との連絡は、農民部から小崎正潔、「農民闘争」から私が出て落ち合うのが基本で、伊藤三郎と(私との)連絡もしばしばあり、赤津益造344と私が会うことも時々あった。ところが昭和7年1932年2月末か3月初め、「農民闘争」フラクションの全員、つまり、松本三益、伊達信、松本傑と私336の4人を招集した会場に、小崎正潔が初めて出席し、「農民闘争」の「赤旗」への解消という中央部の重要決定を通告した。
すでに印刷化された「赤旗」の三面である農民版の編集は、初めから「農民闘争」が行っていたので、そのとき私たちは中央部の通告をそのままに受け取ったのだが、大衆団体の機関誌をそのまま党の機関紙へ解消するという方針は、古くから我が国の通有事となっている党と大衆団体の差異の無視、それらの同一視であり、党員である私達はともかく、党員ではない農民闘争社員はどうするのかという点を私たちは細密に論議すべきだった。
当時全農全国会議*は機関紙として「農民新聞」をすでに持っており、「農民闘争」とは不離不即の関係にあったとはいえ、「農民闘争」がその機関誌であるとは明確化されておらず、ただ「農民闘争」フラクションが党農民部に直属するということだけが規定されていた。昭和6年1931年秋、「農民闘争」は農民部に属すべきか、それともアジプロ部*に属すべきかという機構いじりの論議が中央部であり、私もアジプロ部に呼び出されて、農民闘争社の機構と活動内容を報告させられたが、その時からすでに直属フラクションとフラクション以外の者もいる大衆団体を、中央部は全く同一視して扱っていた。
*全農は1931年以降左派が弾圧を受けて締め出され、独自に全農全国会議派を創設し、全農総本部派と分立した。世界大百科事典
*アジプロ アジテーションとプロパガンダ。扇動と宣伝
農民部と「農民闘争」の逮捕
348 そして中央部の最後の決定で、「農民闘争」の「赤旗」への解消に伴い、フラクションの私は近畿オルグに、松本三益336は東北オルグに出ると決められた。しかし「農民闘争」の「赤旗」への解消が中央部の発案通りに実施される前に、1932年3月末、農民部の伊藤三郎と小崎正潔336が、「農民闘争」フラクションの伊達信336と私が、相次いで逮捕され、後段のオルグ派遣方針は修正され、宮内勇が東北オルグとなって仙台へ赴いた。
私達の逮捕の内容は、昭和7年1932年3月23日、先ず小崎正潔の家が襲われ、同日小崎家に赴いた伊達信、26日、同じく小崎家へ赴いた伊藤三郎、同日、伊達信宅を訪れた私が逮捕され、農民部と「農民闘争」フラクションの大半が捕まった。最初に襲われた小崎正潔の小石川茗荷谷の家は、伊藤、伊達、私の3人しか知らず、大泉兼蔵は当時知らなかったのだから、この最初の検挙が何処から糸を引かれているのか今でも解らない。大泉が何かの会合後に他の者に小崎正潔を秘密につけさせたということも考えられるが、小崎正潔だけということは当時ありそうもないことなので、最初の小崎正潔宅襲撃は今でも謎である。それから間もなく赤津益造もやられて、農民部は全く壊滅した。
学者の参加
349 引き続く逮捕に伴う質的逓減化現象は三・一五以後の常態であったが、その質的低下に抵抗する対策もわずかながら採られていた。昭和6年1931年、私たちが動いていた段階では野呂栄太郎は私たちの研究会に出席してもらう程度であった。野呂栄太郎は足が悪く、書斎で勉強してもらうのがよいと私達全員が考えていたのだが、その後私たちが大量にやられると、野呂栄太郎も直接運動の中へ動員されねばならなかった。私たちがやられた後の昭和7年1932年は、野呂栄太郎の時期と呼ばねばならない。またその同じ時期に川上肇も直接参加し、「中央部の労働者化」の時期の後に「学者の参加」の時期という小さな内容を付加しなければならない。
スパイの中央部への潜入
350 質的低下への補いは、一方で中央部への思いがけない補足、党の大衆化によって党の末端にいるかもしれないスパイの短期間での中央部潜入を可能にした。
即ち、赤津益造、伊藤三郎、小崎正潔の逮捕による農民部の壊滅は、その時いた「農民」出身の大泉兼蔵を農民部に移し、「農民闘争」フラクションとして残った松本三益に、大泉兼蔵を補佐させることになり、そして戦線に動員された野呂栄太郎は、それ以前の事態を知悉しないまま、農民出身というだけの大泉兼蔵を中央部員として信用するに至った。
喫茶店経営
地下生活中の私は母からひそかに金をもらい続けていたが、あるとき「こういうふうに毎月もらうのをやめてまとめて金を出してくれ、女房に店をやらせて生活費と運動費をそこから稼ぎ出し、以後金の迷惑はかけない」と殊勝らしい親不孝の発案をしたのだが、息子孝行の母は忽ちその意見に従って、上野桜木町にあった喫茶店を買ってくれた。するとその金を払った直後に私自身が逮捕された。
351 私は「三日帰らなかったら行先が分からないように引っ越せ」とあらかじめ女房に言っていたので、私は富坂署に留置されたのちも、三日間でたらめの住所を告げつづけて、その間に女房は当時新宿の第五高女の裏、現在のコマ劇場の裏あたりのアパートから実家に帰った。
ところが運動費を稼がせる本体の私がいなくなったのに、すでにその喫茶店を買ってしまっていたので、女房は音楽学校の裏手にあるその上野桜木町の喫茶店「ココナッツ」を改造し、店を開くことになった。そして金だけ出してもらう予定だった母も、私が豊多摩刑務所に入ってしまったので、女房と小僧だけのその喫茶店「ココナッツ」を手伝って一緒に住むことになった。
そして私の逮捕後、「長谷川=般若(埴輪雄高の筆名か)には女房がいるはずだ」と警察が探し続けても、それが何者とも分からなかったのを幸いに、その喫茶店「ココナッツ」はそれ以後、農民部関係の一つのアジトになった。その二階が会合場所となり、また郵便ポストとしても使われたが、女房の話によると、その時約1年以上にわたって出入りしていた数多くの人物のうち、大泉兼蔵だけが特に際立った鮮明な印象をもって記憶に残ったそうだ。
妻から聞く大泉兼蔵スパイ説の根拠
352 女房の話によると、多くの人々が出入りしたなかでももっとも頻繁に来たのが大泉兼蔵であったが、彼が際立って特別な印象を彼女に残したのは、次の三つの忘れることのできない特別なことを彼が申し出たからであった。
その第一は、私の逮捕後、りゅうとした身なり*になった大泉兼蔵が女房に向かって、「自分のハウスキーパーにならないか」と言い出したことである。女房が、「ハウスキーパーは家事ばかりでなく妻君的なこともするのではないか」と聞き返すと、「そうだ」と大泉が言うので、「いま自分の亭主は刑務所にいるので妻君の役目をするハウスキーパーになどなれない」と断ったそうだ。
*りゅうとした身なり 着こなしが洗練されているさま
私の女房が断ったため、その後、熊沢光子が大泉のハウスキーパーになった。熊沢光子はリンチ事件後、袴田里見だけが残った党中央に対する中央部奪還闘争つまり多数派の運動を、宮内勇とともに行った消費組合関係の山本秋が名古屋で組織した女性だった。名古屋地方の組織者として赴いた山本秋が消費組合の集会を開いたとき、僅か5、6人集まった人々の中に熊沢光子がいた。熊沢光子は判事から弁護士になった父の許に当時いたが、その後、妹と共に上京し、偶然新潟からやって来た大泉兼蔵のハウスキーパーとして結びつけられた。
353 大泉兼蔵が妻に特別の印象をもたらした第二は、喫茶店「ココナッツ」によく来た大泉がしばしば百円札を出して、それを両替してくれと女房に頼んだことである。当時百円札はほとんどの者が見たこともない大金で、普通の家では両替など到底できず、そのたびに女房は郵便局に行って両替をしてもらったそうだ。しかし百円の両替は目立つ出来事で、女房はそのたびに嫌な思いをしたそうである。昭和6年1931年の運動当時、私達には金がなかったのだが、昭和7年1932年以後、党の「技術部」(テク)の活動が盛んになって資金が豊かになったことをこの百円札の挿話が示している。
354 大泉兼蔵の最後の第三の印象は、(喫茶店開業から)約一年以上たってその喫茶店をやめるときに起った。だいたいが私の活動費、生活費を稼ぎだすためだけの喫茶店であったのに、その本人の私がいないばかりか、正午過ぎ音楽学校の生徒が一斉にどっと来るだけで、夜は人々の往来がほとんどない桜木町の店は、終始欠損続きなので、ついに母も女房もやめると決めたのだが、その時大泉兼蔵が「この店を止めるとのことだが、党で金を出すからまだ続けてくれ」と申し出たという。しかし女房は亭主の費用かせぎという目標でなく、党のアジトのためだけという目標でその喫茶店を維持してゆく気分になれず、大泉兼蔵の申し出をすぐ断ったという。
355 私たちの時代の運動の範囲は極めて狭く、思いがけない場所にも目に見ない(警察の)糸がつながっているという例証が、この三つの挿話からも示されている。
リンチ事件
私は先に古いエッセイ『敵と味方』を引用し、専制国における革命前の党も、革命後の党も、「秘密主義」を傍らに引き連れていると述べたが、スパイもまたこの秘密をめぐって、様々な仮装と歪みをもって現出する一徴標である。そして秘密な党の中に秘密なスパイが潜入すると、その党とスパイとの関係は《秘密と秘密が互いに比例し合う相関関係》になる。換言すれば、自らの秘密を党側がどのように重視するかという度合に応じて、スパイの側の秘密の重みもまた変化する。即ち、そこには常時不変の対スパイ方針は存在しないのであり、その時の党の持つ秘密と公開との間の幅、そしてこれがより重要なことだが、その秘密についての自己判断の深浅の度合に応じて、その処分もまた、ある時は除名だけで終わり、他のある時は、除名から死に至るまでの大きな幅をもつ。(こえ)
356 そして放逐から死に至るまでの幅の広さは、人間自体が持っている秘密のかたち、ひとりの人間とひとりの人間のあいだに存する秘密の原質のかたちに由来する。ただに敵対者のあいだばかりでなく、単にそこに二人いるところの人間、友と友、夫と妻にも、更に白昼の秩序のなかの生活者たる自己と夜夢みる渇望者としての自己とのあいだにも秘密は存在する。そして、ここで、隠蔽される秘密と開かれる秘密、秘密を隠す力と秘密を解く力の二つの方向を私たちが思い浮かべ、大雑把にその二方向を命名してみれば、それはまさに政治と文学という形に他ならぬことに気づく。(意味不明)
356 平野謙は政治の秘密を文学の力で解いたのである故に、暗いスパイ・リンチ事件も、党の表向きの建前から裏側の犠牲者熊沢光子の鎮魂にいたるまで、私たちの胸裏に深く迫る或る切実な昇華と浄化の大きな幅のなかで緻密に解き明かされている。
政治は自ら秘密をさらに暗く覆い隠すだけであって、自らの秘密を解く力は政治自体にはないと言わねばならない。
感想 ニヒリズム。政治とは共産党中央を意味するらしい。
以上
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