藤野裕子『民衆暴力』中公新書2020 第4章 関東大震災朝鮮人虐殺とWikiとの対照
・内務省が凶悪朝鮮人というデマを流した。
141 9月1日の夕方、曙町交番巡査が自警団に「各町で不平鮮人が殺人放火しているから気をつけろ。」
9月2日、警視庁の自動車が「不平鮮人が各所で暴威を逞しくしつつあるから各自注意せよ」という宣伝ビラを撒いた。(報知新聞10月28日夕刊)
142 9月2日の午後、警察が中原村の青年団員兼在郷軍人会中原分会員に、「京浜方面の鮮人暴動に備えるために出動せよ」と達し、在郷軍人・青年団・消防等が武器を携え集合・進軍した。」(川崎市史資料編3)
142 9月3日午前8時15分、海軍無線電信所船橋送信所から呉鎮守府副官経由で各地方長官宛てに次の電報(内務省による民衆唆し)が発せられた。原文は9月2日の午後に東京から船橋に送られた。(山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺』)
各地方長官(知事)宛 内務省警保局長
東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地において充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締りを加えられたし。
そしてこれは地方長官から郡役所経由で各町村へ伝えられた。
・軍隊が朝鮮人を殺した。
157 軍隊が朝鮮人を機関銃で射殺し、刀で切りかかった。(目撃証言『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』西崎雅夫や、『風よ鳳仙花の歌を運べ』)
・内務省が方針転換 途中で内務省は「行き過ぎ」を海外から批判されることを恐れて方針転換し、「沈静化」を図り、10月ころ実行犯に対する処罰も行ったが、軍隊や警察は咎めず、民衆だけが咎められた。民衆は唆されて利用されたのだ。しかし民衆の場合でも裁判にかけられたのはごく一部で、懲役2、3年程度と軽く、執行猶予がつく場合が多かった。173
169 9月5日、山本権兵衛内閣が告諭「濫りに鮮人に迫害を加ふるが如きこと」を戒め、「諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非ず。」また、地方長官に流言新聞記事の差し止め・差し押さえを命じた。
9月9日、戒厳司令部が群馬県上空からビラを撒き、「鮮人に対する蜚語盛んにして人心兢兢たる由なるも、その真相を偵察せるに多くは虚伝にして憂慮すべき程のことに非ざるを確かめたり」(『館林市史』資料編5)
174 「私は三田警察署長に質問する。9月2日の夜、××(鮮人)襲来の警報を貴下の部下から受けた私どもが、ご注意によって自警団を組織した時、「××(鮮人)と見たらば、本署へ持って来い、抵抗したらば〇(殺)しても差し支えない」と親しく貴下から承った。あの一言は寝言だったのか、それとも、証拠のないことをよいことに、覚えがないと否定さるるか如何」(『東京日日新聞』10月22日)
・虐殺者数の操作
170 本庄署の巡査は「数が分からないようにせよ」という「お上の命令」を受けて、朝鮮人の死体を焼き、焼け残った遺体は「またやり直した」(『かくされていた歴史』)
171 遺体の引き渡しを求められたため、一度掘り起こして他箇所に移動した。(山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺』)
・埼玉県本庄町では、
190 埼玉県内務部長の通達によって町内に「朝鮮人暴動」の流言が飛び交った。郡役所からも「朝鮮人が東京で悪いことをした。見たら捕まえて警察に突き出せ」と指示。
以上の通り海軍大将の総理大臣の下に内務省が不逞鮮人と民衆を唆したのだが、Wikiはそのことについて一言も触れていない。これほどの重大事件がありながら、あまりにもおかしいのではないか。
Wikiによれば、1923年9月に朝鮮人虐殺を民衆に唆した時の内相は、1919年に朝鮮総督府総監に就任し「朝鮮文治(=同化)政治」で懐柔したとされる水野錬太郎(在任19220612—19230901、海軍大将の加藤友三郎内閣)と、後藤新平(在任19230902—19240107、海軍大将の第二次山本権兵衛内閣)の二人が関与している。いずれも時の内閣は海軍大将出身である。
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