2024年7月16日火曜日

白井聡(しらいさとし)『国体論』集英社新書2018

 

白井聡(しらいさとし)『国体論』集英社新書2018

 

 

感想 2024629()

 

現上皇は、平成天皇だったころに、退位問題で、安倍晋三ら日本会議大東亜論者による戦後民主主義破壊の試みに反対・抵抗していた点は評価できるが、筆者が天皇制を温存しようとするつもりならば異議あり。そして現上皇が日本の古い時代の天皇のように「国民のために祈る」ことを是とするならば、それはまさに天皇制擁護である。私はそういう立場には賛成できない。033

 

補足 2024716() 確かに筆者の平成天皇に対する思い入れは強い。本書の末尾でも述べているように、平成天皇の「お言葉」を、これまでの天皇が時代の転換点に発した命令と同列のものとして扱っており、それは筆者も認める通り天皇の神格化である。

一方で筆者は平成天皇を、その「お言葉」に応答すべき「人」として扱っており、また「国体」や「天皇制」など天皇制にまつわる用語を、支配体制という意味で使っているようだが、これらのことが、筆者が天皇制を否定しているということにはならないかもしれない。

 

 

 

メモ

 

 

 

第一章 「お言葉」は何を語ったのか

 

1 「お言葉」の文脈

 

平田祐弘と渡辺昇一は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」のヒアリングの対象に選ばれ、「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」と述べた。018

 

平田祐弘(すけひろ)1931-- 比較文学、東大

渡辺昇一 上智大

 

 

八木秀次は論考「憲法巡る両陛下ご発言公表の違和感」(『正論』2014/5, pp. 46-47)の中で「天皇・皇后は安倍政権の改憲を邪魔するな」という趣旨の発言をし、立場を異にする保守派の憤激を招いた。 019

 

八木秀次1962— 憲法学

 

 

2 天皇の祈り023

3 戦後レジームの危機と象徴天皇制

 

 

 

第二章 国体は二度死ぬ

 

1 「失われた時代」としての平成

 

米は「日米構造協議」1988「日米包括経済協議」「年次改革要望書」「TPP協定」「日米FTA協議」などを通して、対日貿易赤字の削減を図ると称して、新自由主義的政策の採用を強いて来た。044

 

米のジャパン・ハンドラーであるアーミテージ=ナイ・レポートは、日本の安保政策から経済政策までを公然と規定している。045

 

数々出版されたアベノミクス関連本は「アベノミクスによって日本経済は大復活を遂げる一方で、中国・韓国の経済は破綻する」ことになっている。049

 

感想 筆者の言う「永続敗戦レジームの清算」048というのは、ソ連の崩壊によって米が日本を必要としなくなったのだから、もう対米従属は清算しようという意味らしい。

 

 

2 史劇は二度、繰り返される

 

昭和天皇が「対米従属の戦後レジーム」に関与したことについて論じた人がいた。豊下楢彦(1945-, 京大、国際関係論、『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』1996)である。055日米安保条約は天皇の意向に沿い、占領の継続ともいえる不平等なものになった。056

 

感想 天皇の共産主義に対する恐怖の言葉は、はっきりとは記憶していないが、戦中か戦後か、その懸念を表明したように記憶する。

 

日米地位協定が米に対して極めて有利であることは世界一らしい。それを調べた人がいた。伊勢崎賢治(1957-, 早稲田大)と布施祐仁(1976-, 北大、フリージャーナリスト)である。伊勢崎賢治・布施祐仁『主権なき平和国家――地位協定の国際比較からみる日本の姿』(集英社クリエイティブ2017, 035)、059

 

米は「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」(米大統領特使ジョン・フォスター・ダレス)を望んだ。055

 

諸外国のメディアはしきりに「トランプ米大統領にへつらう日本の安倍晋三」と言っている。061

 

日本の政治家やマスコミが、「米が日本を愛している」「トモダチ」などという幻想を日本人に抱かせているが、それは米では通用しない。063

 

 

3 戦前国体の三段階

 

筆者が戦前・戦後の日本をそれぞれ3つの時代に区分する上で参考にした書物は、大澤真幸1958- まさち、社会学、東大)の『戦後の思想空間1998である。大澤真幸は、明治を「天皇の国民」、大正を「天皇なき国民」、昭和前期=昭和維新を「国民の天皇」*の時代とする。066 *北一輝『日本改造法案大綱』1923

 

この「天皇なき国民」の時代である大正時代は、二人の学者によって代表される。一人は「民本主義」の吉野作造(1878-1933、政治学、東大)であり、もう一人は「天皇機関説」の美濃部達吉(1873-1948、憲法学、東大)である。いずれも天皇主権に触れずに民主主義を説いた。068 「天皇機関説」はドイツの法学者ゲオルグ・イェリネックの国家主権説(法人説)に基づき、立憲君主制を目指していた。069

 

 

4 戦後国体の三段階

 

戦後は天皇をアメリカに置き換えて(筆者は)「アメリカの日本」「アメリカなき日本」「日本のアメリカ」の3時代に区分する。070, 006, 007 そしてこの3段階は「対米従属形成期」「対米従属安定期」「対米従属自己目的化の時期」に相応する。071 

 

大澤真幸は1990年の見田宗介の戦後日本の時代区分「理想の時代」1945-60、「夢の時代」1960-70、「虚構の時代」1970-90を参照し、「理想の時代」1945-70、「虚構の時代」1970-95、「不可能性の時代」1995-に分けた。(大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書2008065, 075,

 

 

5 天皇とアメリカ

 

感想 1959年のミッチーの結婚式1959/4/10が、「古き良き時代の伝統」であり、「近代化」や「現代的家族像」を示したというイメージは私は持たなかった。当時はまだまだ貧しい時代で、優男と馬車に乗っている姿に反感を持った人も多かったのではないか。実際その行列に向けて抗議した青年19がいて逮捕されたのではなかったか。私も中学2年の頃であの行列を見て口惜しいと思った。この時代は安保反対で全国が燃えた時代でもあった。081

 

明治天皇のことはよく知らないが、明治天皇が天皇になったのは、まだ幼少の16才くらいの少年の頃で、筆者は明治天皇が「近代的な洋装」を始めた第一人者の一人とするが、周囲の薩長の大人に勧められたのではないか。080

 

 

 

第三章 近代国家の建設と国体の誕生(戦前レジーム:形成期)

 

1 明治維新と国体の形成

 

北一輝『国体論及び純正社会主義』1906は、北一輝が若かりし頃の論文である(北一輝『自筆修正版 国体論及び純正社会主義』ミネルヴァ書房2007、長谷川雄一、CWA・スピルマン、萩原稔編)が、北一輝はその中で「国体に忖度しないと本音を述べることができない」とする。「国体」はその曖昧さの故に思想を絞殺した。085

 

自由民権運動(国会期成同盟、自由党)は、体制内で改革を要求するのではなく、体制の在り方にまで口出しした。それを「制憲権力」とか「憲法制定権力」という。090 (歴史学者の松沢裕作『自由民権運動――<デモクラシ>の夢と挫折』岩波新書2016

 

大日本帝国憲法の発布は自由民権運動の消滅を意味した。091

 

 

憲法とともに発布された教育勅語1890の意味するところは、その徳目の良しあしではなく、天皇が大衆の徳目を上から定めたというあり方が問題である。

 

明治天皇の肖像1888は、その絵画を写真で撮ったもので、その意味するところは恣意的である。(美学者の多木浩二『天皇の肖像』岩波現代文庫2002) 093

 

内村鑑三不敬事件1891年において、御用学者とマスコミが内村を叩いた。096

 

 

2 明治憲法の二面性

 

水戸学の会沢正志斎『新論』1825が説く「国体」とは「神に由来する天皇家という王朝が、ただの一度も交代することなく一貫して統治しているという他に類を見ない日本国の在り方」098

 

しかしこれは史実に反していて、天皇が自ら実効的に政治的支配者として君臨した時代は短く、寧ろ例外的であった。098

 

国体と政体の区別 政体は変化するが、天皇の君臨は不変であり、精神的権威(国体)である。

 

平田派国学は祭政一致論であり、1869年の太政官制では神祇官が行政機関の筆頭に位置づけられたが、それはその後挫折した。099

 

島薗進は、矛盾することだが、政教分離と祭政一致とが共存していたという。(『国家神道と日本人』岩波新書2010

 

天皇は神聖皇帝か立憲君主か100

 

鶴見俊介と久野収は、明治憲法体制はエリート向けには立憲君主制であり、大衆向けには神権政治体制であった。101(久野収・鶴見俊介『現代日本の思想――その五つの渦』岩波新書1956

 

伊藤博文は『憲法義解』(宮澤俊義校注、岩波文庫1940)において、憲法に基づく政治は専制の反対物であるとしながら、実際はそれを国会審議で否定した。105

 

欽定憲法であったこと、天皇は国民にではなくそのご先祖様に責任を負った。106

 

 

3 明治の終焉

 

大逆事件は夏目漱石、森鴎外、徳富蘆花、石川啄木、永井荷風らに深刻な衝撃を与えた。108

 

1900年、幸徳秋水は「自由党を祭る文」の中で、立憲政友会に合流した自由党の体制内化を糾弾した。109

 

乃木将軍の自死は何を意味するのか。それは天皇のために同族相戦った(萩の乱1876)反省の上に立ち、天皇制の正当性(正義114)を見せつけることによって相戦った同族との和解を図るためだった。114 ということか?

 

 

 

第四章 菊と星条旗の結合――「戦後の国体」の起源(戦後レジーム:形成期①)

 

1 「理解と敬愛」の神話118 要旨

 

 

著者は、マッカーサーと昭和天皇との会見1945/9/27で天皇が全責任をとると言った(真偽は不明)ことに対してマッカーサーが日本人(昭和天皇)の人格的すばらしさに感動したとする説があるが、それは神話にすぎないとする。その根拠は、その3年前1942年に、米は天皇を利用して日本を統治しようと決めていたと指摘するのだが、それに反する証拠もある。つまり、敗戦時に連合国や米内部で、天皇を利用する意見と、天皇の責任を問う意見とが争っていた。その矛盾について著者は何も触れない。

 

このマッカーサーの感動から昭和天皇に戦争責任がなく、天皇制の存続が認められ、退位を要求されることもなかったという神話が形成された。またこの神話には日本人の戦後の180度の変節を合理化する働きもある。

 

 

日本人が素直に米を受け入れた理由として、天皇の言葉(玉音放送)もある。「若シ夫レ情ノ檄スル所濫(みだり)ニ事端ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(せい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム」

 

この日本人の変節を悲しんだのは映画『ゴジラ』だった。ゴジラは南太平洋の核爆弾に目ざめ放射能を帯び、核兵器に対する恐怖と南太平洋で死んだ同胞の姿を反映していた。結末は若き芹沢博士が自分が発明した「オキシジェン・デストロイヤー」を使い、自らの命と引き換えにゴジラを倒して終わる。芹沢の最後の言葉「幸福に暮らせよ、さようなら、さようなら」は死んだ同胞の言葉か。

 

司馬史観も日本人の戦後の変節を許した。それは明治維新以来の日本の外交の本筋は英米協調であり、第二次大戦だけは狂気じみた軍人がその本流を逸脱させたのだという。その代表的政治家・外交官が幣原喜重郎や吉田茂である。

 

アメリカが日本を愛しているから従属していても従属ではないとするへんてこな理屈が今でも続いている。沖縄問題があってもアメリカが日本を愛しているから問題ではないとする考え方である。

 

 

2 天皇制民主主義129 要旨

 

この「天皇制民主主義」とは、米が天皇を利用して日本を支配するためのエセ民主主義である。だから次のような矛盾が生じる。つまり、片や「日米同盟のさらなる強化」などと言いながら、片や「占領憲法廃止」などという不可解な共存現象が生じる、ということらしい。

 

戦前の天皇制(国体)は否定されながら、(象徴天皇制として)維持・救済されるという矛盾。135

米側の日本人に対する軽蔑と偏見ゆえに戦前の国体を救済し(象徴天皇制)、その米側の行為は(天皇に対する)敬意と(日本人に対する)愛情による行為だと(米は)装った。135

 

「日米は自由民主主義を共通の価値として奉ずるが故に、緊密な同盟関係にある」(日米間の友情)としながら、その一方で、民主主義改革の重要な一部として位置づけられた新憲法を「みっともない」(安倍晋三)として軽蔑・嫌悪する。それが親米保守派の本質である。135

 

 

 

第五章 国体護持の政治神学(戦後レジーム:形成期②)

 

1 ポツダム宣言受諾と国体護持 要旨

 

 

138 閣議は194589日の夜になっても降伏に関する結論が出ず、10日の未明に天皇が出て来て御聖断が下されたのだが、それでもまだ降伏すると確定せず、スイスとスウェーデンを通じて連合国側と国体護持の保証を確認8/10した。

 

812日、連合国側から返事が届いたのだが、その内容が曖昧だったので、軍部が降伏に反対した。

 

813日、最高戦争指導会議で陸海軍が再照会を要求したのに対して、東郷茂徳(しげのり)外相はそれは無意味とした。

 

814日、再度の御前会議で天皇が「おそらく国体護持は大丈夫だろう」と予測して降伏受諾を通達した。

 

国体護持の保証を確認

 

140 この確認の際に、昭和維新大日本帝国が、その不可解な自己規定「国体」「天孫降臨」「三首の神器」「万世一系」「現御神(あきつみかみ)」「天壌無窮」などを、世界に向けてどう規定したのか。それは “the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler” 「主権的支配者としての彼の威厳(国王陛下)の特権」=「天皇ノ国家統治の大権」であった。1945/8/10 その時「それ(国体)を損なわないように約束してくれ」「変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコト」と求めたのだが、

 

 

それに対する連合国側の返事(米国務長官ジェームズ・F・バーンズ起草の回答)は「それは連合国の決定に従属する」というものだった。 “…shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms” 8/12

 

この “subject to” の解釈で外務省と陸軍とが割れた。陸軍は「隷属すべき」と取り、外務省は「制限する」と取った。陸軍はそれまでの本土決戦の決意を捨てきれず、外務省は講和を望んでいた。陸軍は「国体護持が保証されない」と受諾を拒否し、話し合いは続いたのだが、

 

バーンズ回答にはさらに、受諾後の「最終的な日本の統治形態は日本国民の総意による」 “The ultimate form of Government of Japan shall … be established by the freely expressed will of the Japanese people.” と書かれていて、これを「日本国民の総意なら天皇制護持は当然だ」と解釈され、天皇も玉音放送でそのことについて「朕は茲に國体ヲ護持シ得テ」としている。

 

 

2 「国体ハ毫モ変更せられず」144

 

144 「国体は変更されたのか否か」という論争が戦後起った。1940年代では、佐々木惣一・和辻哲郎論争、宮沢俊義・尾高朝雄(ともお)論争、そして1978年では江藤淳・本多秋五論争と続き、今日の押し付け憲法論や日本国憲法無効論に至る。

 

1946年、吉田茂首相が五箇条の御誓文を引き合いに出して「君臣一如の国である日本はそもそも民主主義国家だったのだから、新憲法によって国体は毫も変更せられない」とし、また憲法担当国務大臣の金森徳次郎は「天皇を憧れの中心として、天皇を基本としつつ、国民が統合しているというところに国体の根底がある。水は流れるが川は流れない」(衆院憲法審査会での国会答弁1946/6/25)と、国民主権の体制になっても国体は変わらないとした。

 

145 これらに反論したのが美濃部達吉と宮沢俊義であり、「新憲法で主権者が変更されたのだから、国体は変更された」とした。

 

一方、主権の所在論に立って以上の両者を批判したのが法学者の長尾龍一(『日本憲法思想史』1996)であった。長尾は占領体制を法体制とみなし、ポツダム宣言を憲法とし、マッカーサーを主権者とする絶対主義的支配体制とする。「マッカーサーは憲法に拘束されない。従って日本のこの時代は法治国家ではない。マッカーサーが日本国民の意思を尊重するとしても、それは恩恵にすぎない。それは民主主義とは言えない」とした。147 そして本当の主権の所在は、プレスコードによって論じてはならないテーマだった。(著者はこの立場)

 

148 日本はサンフランシスコ講和条約で独立が認められたが、それには安保条約がついていた。ダレスの言うように、日本における米軍の量、場所、期間は無制限という条件だった。

149 そして日本の主権の制限という被支配の事実は国体護持(象徴天皇制)によって隠された。

 

 

3 国体のフルモデルチェンジ

 

154 自衛隊は「ポツダム政令」という非民主的な方法によって創設された。

158 砂川闘争の最高裁判決は、「駐日米大使の指示と誘導をうけながら」書かれた。(宮内庁『昭和天皇実録 第九』東京書籍2016) 「安保法体系」という法体系が別に存在した。

158 そして講和後も日本は自主的に主権を放棄した。

159 米は共産主義という国体の敵から天皇を守った。

160 国体護持は日本人の主観の中でのみ存在する。「天皇はひたすら平和を祈念し、戦後日本の平和主義を主導する」という言説も日本人の主観にすぎない。

161 戦前は昭和維新主義者だった戦後の政治家は、米民主主義の本質を知りもしないで、外面的にそれに迎合し、内心ではこれを軽蔑・嫌悪する。

 

163 新憲法は旧憲法に基づき天皇が発議して裁可した欽定憲法であるが、内容は主権在民である。その矛盾点をついて、美濃部達吉は新憲法に反対した。

164 GHQは大日本帝国憲法を微修正した松本烝治*の憲法案を蹴り、天皇元首・戦争放棄を盛り込んだ原案を作った。米は1946226日に予定されていた極東委員会で天皇元首を守り抜くことができないのではないかという不安にかられ、憲法作成を急いだ。

 

*松本烝治1877-1954、まつもとじょうじ、東大法学部卒、農商務省参事官、東京帝大教授、満鉄理事、1946年公職追放、

 

166 天皇が「これでいいじゃないか」と言ったので、幣原喜重郎が決断した。(朝日新聞2017/5/3、これ以前の米公文書に同趣旨の天皇発言があったようだ)

 

166 天皇の国体護持の意思は日米安保護持となった。

167 天皇の「沖縄メッセージ」はその現れである。

 

168 昭和天皇は新憲法に違反して助言・励まし・警告などをほのめかしの手法で高官政治家に伝え政治に介入した。

169 戦前の御前会議も憲法に規定はなく、戦後も天皇は政府と占領軍との仲介をした。

 

 

4 征夷するアメリカ

 

173 米は天皇を退位させなかった。それは日本人の反感を買うのを恐れたからである。

174 1975年、訪米後の天皇発言「言葉のあや」という、天皇の戦争責任に関する答弁拒否は、天皇に戦争責任はないと決められた体制を覆したくはなかったからだ。

 

177 1951年、マッカーサーが解任され離日するとき、「マッカーサー神社」を建てようという計画が持ち上がり、その推進者は、秩父宮夫妻、田中耕太郎・最高裁長官、金森徳次郎144・国立国会図書館長、野村吉三郎(開戦当時の駐米大使)、本田親男(ちかお)毎日新聞社長、長谷部忠(ただす)朝日新聞社長らであった。

 

178 坂口安吾は天皇制を利用する政治のあり方を批判した。(「続堕落論」:『堕落論』2000

 

182 ポスト冷戦により「安保国体」の基盤は失われたが、親米保守の政治家は、これまで通り米の権威と権力の両方を支持するそうだが、米の権威は拒否できないのか。

 

 

 

第六章 「理想の時代」とその蹉跌(戦後レジーム:形成期③)

 

 

感想 202476() 

 

 三島由紀夫が19691021日に、当局が首相訪米阻止の左翼運動を抑えつけるために自衛隊を出動させた場合、天皇を殺害しようとしていた*というが、信じられない。203

 東アジア反日武装戦線も天皇を殺害しようとしていた(虹作戦)というのだが、その根拠は示されない。

いずれにしても伝聞を元にしているのだが、その伝聞をもうちょっと詳しく説明されないとにわかに信じがたい。209

 

*英文学者の鈴木宏三『三島由紀夫-幻の皇居突入計画』彩流社2016

 

 

1 焼け跡・闇市から「戦後の国体」へ184

 

190 石橋湛山18841973は首相となった1956/121957/2が、軽い脳梗塞で引退しため、短命な内閣で終わってしまった。石橋は対米追随という従来の自民党の方針と異なり、米追随を拒否した。

 

197 吉本隆明は日常の私的な幸福を良しとする発言をしながら、60年安保闘争ではブントに共鳴して逮捕されたという。著者は吉本を(政治的)「ニヒリスト」とする。

 

 

2 政治的ユートピアの終焉199

 

202 三島由紀夫の自決時の檄文 三島由紀夫「檄」:『決定版 三島由紀夫全集36』新潮社2003

206 東アジア反日武装戦線の三菱重工事件犯行声明文 松下竜一『狼煙を見よ』河出書房新社2000

208 東アジア反日武装戦線は当初一般人も帝国主義者・植民地主義者だとしていたが、三菱重工事件以後は反省し、一般人に犠牲者が出ないように気をつかうようになった。

209 『腹腹時計』1974は東アジア反日武装戦線のパンフレットである。

 

 

 

第七章 国体の不可視化から崩壊へ(戦前レジーム:相対的安定期~崩壊期)

 

 

感想 202476()

 

 著者は「国体」が叛逆分子(幸徳秋水、日本共産党員、労農派、知識人)を包容する暖かみがあるとし、それを1928年以降の共産党員の転向に当てはめるのだが、これにはとても賛成できない。拷問で500人を殺し、昭和維新を率先して唱えないと許さない、中立は駄目だとする、そんな政府に「包容」などあり得ない。230

 

 

1 戦前・戦後の「相対的安定期」の共通性218

 

 

2 明治レジームの動揺と挫折223

 

225 大逆死刑を敢行したのは山県有朋だった。 230 幸徳秋水『基督抹殺』1911

225 筆者の言う「国民の天皇」論は歴史家の伊藤晃による。伊藤晃『「国民の天皇」論の系譜―象徴天皇制への道』社会評論社2015

 

 

3 「国民の天皇」という観念231

 

231 「閥族打破、憲政擁護」を掲げる大衆運動である1912年の「大正政変」は、第三次桂太郎内閣を総辞職に追い込み、それを契機に「軍部大臣現役武官制」が「緩和」された。

232 数百万人による自然発生的な米騒動1918は、寺内正毅(まさたけ)内閣を退陣に追い込み、原敬による政党内閣が成立した。

1921年、31歳の無名の青年朝日平吾(へいご)は、富豪・安田善次郎を刺殺した後、自殺したが、「自らも天皇の赤子として平等に扱われたい」という遺書233, 234を残し、「大正維新」を呼びかけた。

そして朝日事件の1か月後に、原敬首相が18歳の青年・中岡艮一に刺殺された。

236 橋川文三による朝日平吾の遺書の解説。『昭和ナショナリズムの諸相』1994 朝日平吾事件は下層中産階級で無名人の犯行であり、その点でその後の血盟団事件1932や五・一五事件1932と性格が似ている。

久野収と鶴見俊輔の解説「朝日平吾の遺書には外来思想の排撃、直接的テロ行動や志士意識、天皇の赤子観など昭和の超国家主義の特色が全て出そろっているが、ないのは国内改革を対外国策に結びつける主張である」久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』

 

 

4 天皇制とマルクス主義者241

 

241 1918年に創立された東大新人会は、当初は吉野作造の民本主義を奉じていたが、労働運動と関わる中で急速にマルクス主義化した。ロシア革命に国体支配層は恐怖した。

1922年、堺利彦・山川均・荒畑寒村らがコミンテルンの影響下で日本共産党を結成したが、ニコライ・ブハーリンが起草した党綱領草案には「君主制の廃止」が盛られていた。堺利彦はこれを受け入れなかった。

1923年、共産党員が検挙され、1924年、解党した。

1925年、治安維持法が制定された。幸徳秋水は「社会主義者は国体と不倶戴天の敵として対決せざるを得なくなるだろう」と予見していたが、その通りとなった。

 

1926年、党再建。福本和夫は山川均を罵倒した。山川は「共産党は、無産者階級の先進的な分子を中核として、後続の意識を引き上げる」としたが、福本は「共産党は、一旦大衆から分離し、(大衆の)階級意識を磨き上げてから、大衆と結合すべきである」という「分離―結合論」を唱えた。

244 1927年、コミンテルンのテーゼが福本を批判し、福本は党指導部から追われた。

 

1931年、コミンテルンが新たなテーゼ「日本共産党政治テーゼ草案」を発表したが、そこには「天皇制打倒」は盛り込まれておらず、明治維新を「ブルジョア民主主義革命」とし、目標はプロレタリア革命であるとされた。

その1年後の1932年、コミンテルンが再び新たなテーゼを発表し、今度は「天皇制の打倒」を指示した。「明治維新による天皇制はブルジョワ階級の支配装置であるとともに、地主階級に依拠する絶対主義的支配を行っている」と規定し、「当面の目標はブルジョア革命(市民革命)である」とした。

 

245 日本共産党は右往左往し、事大主義をさらけ出した。

246 日本資本主義論争(封建論争)とは『日本資本主義発達史講座』の講座派と労農派との論争である。

 

247 政治学者の梅本直之は福本和夫の「歴史意識」を解説し、「無産者階級は第一に事物を媒介性において、第二に事物をその生成において、第三に全体性において観察することができ、そうせざるを得ない。この認識から得られた世界観・歴史観が階級意識である」とする。(『初期社会主義の地形学―大杉栄とその時代』有志舎2016)意味不明。

 

250 「三二テーゼ」は『石堂清倫・山辺健太郎編『コミンテルン 日本にかんするテーゼ集』青木文庫1961に掲載されている。

 

 天皇制は、福本の「階級意識」と同様に、ばらばらにされた無産者階級に統一性全体性を与えた。251 天皇制も「階級意識」も実在はしない。252 天皇は民衆にとって「いかにも上品な、何やらありがたい存在」にすぎない。252 天皇制は敵対的ではない。『国体の本義』(文部省編1937)は「永遠の家族」「家長の赤子」とし、天皇制は「支配を否認する支配」である。天皇制は偏在しているから見えない。その成功の理由は、封建道徳の残存か、為政者が民衆に押し付けた武士道の忠か、乃木希典の自死に見られる社会分裂の調停者としての天皇なのか。

253 同様に戦後の対米従属も目に見えず、実在もしない。

 

254 「戦前の共産党は大衆への浸透力を全く持たなかった」と筆者いうが、異議あり。

 

1933年の佐野学と鍋山貞親の転向声明はコミンテルンの独善を痛罵し、天皇制との対決を酷評する。(佐野学・鍋山貞親「共同被告同志に告ぐる書」:『改造』1933/7

255 吉本隆明はその『転向論』の中で、「佐野・鍋山が、自らを引き離したはずの大衆の実感に回帰した」という。転向声明「皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が勤労者大衆の胸底にある」における「皇室を民族的統一の中心と感ずる」は、社会に内在する敵体性を放棄することを意味した。

 

256 経済学者・青木孝平編著『天皇制国家の透視―日本資本主義論争Ⅰ』社会評論社1990によれば、講座派は「天皇制の外見的な超階級制」とその大衆の支持とを解明できず、労農派は、「国体の特殊性」を無視した。両者とも天皇制ファシズムの解明に無力だった、とする。

 

 

5 北一輝と「国民の天皇」258

 

258 北一輝が明治憲法から日本人統合の原理として引き出したとする「国民の天皇」「国民の日本」という概念は、久野収と鶴見俊輔による。(久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想―その五つの渦』岩波新書1956) 北は1906年弱冠23歳の時に著した『(自筆修正版)国体論及び純正社会主義』(長谷川雄一、CWAスピルマン、萩原稔編、ミネルヴァ書房2007)の中でそれを論述した。

 

259 北「万世一系の国体論における天皇は、国家の本質及び法理に対する無智と、神道的迷信と、奴隷道徳と、転倒せる虚妄の歴史解釈とを以て捏造せる土人部落の土偶である」とし、「日本の国体は、君主が国家をモノとして所有した中世までの家長国の時代から、明治維新によって「公民国家」の段階に進化した」とスペンサーの社会進化論に依拠して論述した。これは労農派的解釈と同一である。そして「そこでは君主も国民の国家の一員・法人上の人格であり、君主は中世のように国家の外に立って国家を所有する家長ではなく、国家の一員としての機関であることは明らかである」とする。そして北は万世一系の国体論は「復古的革命主義」とする。

 

260 さらに北は「その公民国家が高度化すれば、貧困がなくなり、社会的平等が実現し、犯罪はなくなる」とし、「人間は個性を前面発達させて真善美を加え、ついに人類は消滅して『神類』の世になる」とする。これは奇想家シャルル・フーリエを想起させる。

 北はこの意味で明治維新を高く評価し、一方で「藩閥勢力は政治を壟断(ろうだん)し、閥族は私利を貪り、社会発展を停滞させ、御用学者(国体論者)は反動的イデオロギーを説いて自己保身に汲々としている」と怒る。北の思想はユートピア的である。

 

261 北の『国体論及び純正社会主義』は発行5日後に発禁処分となったが、川上肇福田徳三*はそれを高く評価した。板垣退助も「御前(北一輝)の生まれ方が遅かった。この著書が20年早かったならば、我が自由党の運動は別の方向に向かって居った」と言ったそうだ。自由党は伊藤博文にからめとられて体制内の利権屋に堕した。それは自由党が天賦人権論以外のイデオロギーを持たず、人民が権利を獲得した先のヴィジョンを持たなかったからである。

 

*福田徳三1874-1930、クリスチャン、経済学者。高等商業学校(現一橋大学)卒、教員、高等商業学校教授、慶應義塾教授、東京商科大学教授、関東大震災後の失業者の実態調査を行い、失業率を推計し、生存権の必要性を唱えた。

 

 北は社会主義者とも交流したために大逆事件で逮捕されたが後に釈放された。*

 

*これは疑問。Wikiで調べる限り、「大逆事件1910, 1911で逮捕された」という記述は見当たらない。その10余年後の(フレームアップ臭い)爆発物容疑1924から大逆罪容疑1925に切り替えられた朴烈が、予審中に金子文子を抱いている写真を北一輝らが公表して倒閣運動を巻き起こしたという記述はあるが、それは時代が10余年も後のことだし、北一輝は大逆罪容疑義で捕まっていないから、釈放されるわけもない。

 

感想 2024712() 北一輝と社会主義者との違いは、神という宗教的な非論理を持ち出すか否かである。

 

262 北一輝は『国体論及び純正社会主義』を自費出版した1906年ころに「中国革命同盟会」に加入していたが、「釈放後に」中国に赴き、辛亥革命1911, 1912に参加した。1913年、盟友の宗教仁が暗殺され、対華21箇条により日中関係が悪化した。1919年、北一輝は上海で『国家改造案原理大綱』を執筆し、1920年に帰国した。

 

 『国家改造案原理大綱』の「国民の天皇」の章は、「天皇の大権で三年間憲法を停止し、私有財産の制限、土地改革、資本合理化、労働者への権利付与、人権の拡充、男女同権、植民地制度や国防」など、社会主義的な改革を唱えている。

 

 北一輝は大川周明らと「国家改造運動」に関わり、数々の陰謀を働いた。1923年、『国家改造案原理大綱』を『日本改造法案大綱』と改題して出版し、陸軍皇道派の青年将校を惹きつけた。北は1936年の二・二六事件で、1937年に処刑された。

 

263 日本の昭和ファシズムには独伊のようなファシズム革命がなく、既存の国体イデオロギーを強化して「超国家主義」に発展した。そのことに関して橋川文三は『昭和ナショナリズムの諸相』の中で「なしくずしの超国家主義」とした。

 

 

青年将校の大蔵栄一は「国民の天皇」について、「天皇を雲の上で祭り上げるのではなく、胴上げしたい」と述べた。(大蔵栄一『二・二六事件への挽歌』読売新聞社1971

 

264 大蔵栄一の言う「妖雲」とは「君側の奸」つまり、私利私欲の重臣・政党政治家・財閥・軍閥などを指すが、大蔵らは天皇の統治の正統性を維持しつつ、統合の原理を変更しようとした。

 

 

265 しかし実際は天皇は二・二六事件の青年将校を嫌い、「君側の奸」を大事にした。(本庄繁『本庄日記』原書房1976

 

266  北一輝は天皇機関説論者であり、青年将校の磯部浅一もそれを信奉するが、磯部浅一は『獄中日記』の中で、天皇を呪詛した。268 磯部浅一の『獄中日記』は三島由紀夫を魅了した。(三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」:『決定版 三島由紀夫全集34』新潮社2003269 三島由紀夫は天皇機関説を廃する。「天皇は国家機関ではなくて変革のシンボルであり、道義国家の首領として変革を行い、その時天皇信仰が永遠の現実否定となる。幕末の尊王攘夷イデオロギーがそれである」とする。

 

北一輝の機関説天皇は不可侵の天皇を奉じるという矛盾があった。天皇不可侵は『日本改造法案大綱』の中の憲法停止や天皇独裁に現れている。それは天皇信仰という土人部落のイデオロギーでもあった。

 

磯部ら青年将校の中で天皇の身柄を確保するという勇気のある者は数少なかった。しかし天皇の身柄確保は彼らの革命成就のためには必要なことだった。なぜならば天皇自らが身近な側近を重視したのだから。

 

陸軍首脳部は磯部らの革命に対して敢えて優柔不断な態度で接し、磯部らの革命を利用して軍部の影響力を強めようとした。

 

こうして「国民の天皇」は「天皇の国民」に回帰し、国民は再び「物格」として扱われるようになった。

 

271 (二・二六事件に接した)昭和天皇「日本もロシアのようになりましたね」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著『昭和天皇独白録』文春文庫1995) 昭和天皇「(太平洋戦争)開戦の決定に(私が)ベトー(拒否権発動)していたら国内は大混乱となり、側近は殺され、今回の戦争以上の凶暴な戦争となり、終戦もできずに日本は滅びたであろう」と自己弁明。

 

日本は天皇にしか道義がない空しい国だった。(意味不明)274 太宰治「東條の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のもの(天皇)もなかった。からっぽであった。怪談に似ている」(太宰治「苦悩の年鑑」:『太宰治選集 Ⅰ』柏艪舎2009

 

 

 

第八章 「日本のアメリカ」――「戦後の国体」の終着点(戦後レジーム:相対的安定期~崩壊期)

 

 

1 衰退するアメリカ、偉大なるアメリカ276

 

276 経済史家のジョヴァンニ・アリギは世界システム論『長い20世紀――資本、権力、そして現代の系譜』作品社2009の中で、ルネサンス以来の近代資本主義と政治権力との関係について論述している。つまりスペイン、オランダ、イギリス、アメリカという順での世界ヘゲモニー国の変遷である。そして20世紀末のアメリカの衰退と日本の勃興との関係に触れている。

 

「アメリカの世界ヘゲモニーは1968年から1973年までの間に、三つの分野で揺らぎ始めた。一つは、ベトナム戦争での敗色、二つ目はブレトン・ウッズ体制の崩壊、三つめは反共イデオロギーの衰退である。そして1973年にその全てで撤退した。

277 アメリカはそれ以降の1970年代に世界を統治する意欲を失った。1979年のイラン革命とそれに続く1980年の(イラン大使館での)人質事件などがそれを示している。

 

278 アメリカはベトナム戦争で敗れ「偉大な社会」という福祉国家政策を断念した。その結果二つのニクソンショックが生じた。(このようなアメリカの衰退を止めた一因は日本にあった。後述)1971年突如として米中国交正常化が行われ、米は「中国封じ込め政策」から転換したが、それは米の対ソ戦略とも関係している。

 

アメリカは対ソ戦略と中国封じ込めのために日本を必要とし、日本を庇護する必要があった。アリギによれば、「1960年代にアメリカは韓国と台湾を日本の市場にしようとすべく、韓国と台湾に働きかけた」*のだが、280 米によるこの突然の「中国封じ込め政策」の取り下げは日本経済にとって転機となった。アメリカは日本を庇護する理由がなくなったのである。中国封じ込め政策の転換は中ソ論争に附け込むものだった。

 

*アジア市場漁りは1987年以降にも行われ、日本の投資が米からアジアに変更された。291

 

ドナルド・トランプの「偉大なアメリカを取り戻す」キャンペーンはこの延長線上にある。トランプは1980年代のレーガン時代に不動産業で大儲けした。レーガンは「偉大なアメリカを取り戻す」の元祖だった。レーガンは「双子の赤字」つまり財政収支と貿易収支に対応したが、その減税政策は失敗した。金融引き締め策、ドル高政策、そしてグラス=スティーガル法の骨抜き化などによる金融資本への規制緩和策などは、世界のマネーをアメリカに集中させた(カジノ資本主義化)が、製造業の競争力は回復しなかった。

 

282 レーガンの次の父ブッシュ政権は、1991年の湾岸戦争とソ連の崩壊とにより「偉大なアメリカ」を取り戻したが、経済は停滞した。次のビル・クリントン政権は、情報技術や金融資本主義の高度化を進め、この政策は子ブッシュ政権に引き継がれた。子ブッシュ政権は、2001年の911事件後は、対テロ戦争に突き進んだ。子ブッシュはネオコンに支配され、キリスト教原理主義に支持され、「先制攻撃ドクトリン」を打ち出し、イラク戦争を敢行し、国際的信頼を失った。2008年、米の金融資本主義はリーマンショックで破綻した。次のバラク・オバマ政権は「偉大なアメリカ」を世界から待望されたが、失望に終わった。カジノ資本主義への規制は進まず、軍産複合体との対決もせず、ドローン兵器の使用は反米感情をもたらした。

283 レーガン以来の40年間に米は「偉大なアメリカ」を取り戻そうとしてきたが、トランプの「偉大なアメリカの回復」は単なる掛け声に終わった。

 

 1970年から今までの50年間にわたるアメリカと日本(戦後国体)との相互関係はどうだったのか。

284 ウォーラーステインら世界システム論者は、一時、アメリカの衰退と日本経済の上昇によって、ヘゲモニー国がアメリカから日本に移ると予想したが、実際はそうならず、日本は「失われた20年」を味わい、対米従属は一層強固になった。

 

1980年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われ、日本の資本はアメリカに移動した。アリギは言う。

 

「二つの世界大戦中に米資本はイギリスに経済支援を行った。勝者(イギリス)を支援することで利益を見込めたからだ。そのことは米ソ冷戦の過程での日本についても言える。しかしアメリカは膨大な利益を得たが、日本は得られなかった。」

「アメリカのイノベーションの産物である『垂直統合・官僚主義的経営・多単位構成型の企業体』は世界の市場で覇権を握り、膨大な利益を得た。」

 

アリギは日本の敗因理由として1985年のプラザ合意によるドル価値の切り下げを指摘する。

 

「レーガン政権は財政が悪化し、減税と軍拡を行ったが、それを米国債購入で資金援助したのは日本だった。レーガンは強いドルを放棄した。プラザ合意当時の1ドル240円は、19872月には1ドル140円台になったが、このことで米の借金は棒引きされた。」

286 「さらに日本は対米進出時に文化的・政治的困難に直面した。日本による米資本の買収は米世論の憤激をもたらした。これは文化的障壁である。」

 「政治的障壁としては、米政府は国内での雇用を創出し、国際収支の赤字を埋めてくれるように、工場生産設備の日本からの投資を歓迎したが、利益が多く戦略的に重要な産業を日本が乗っ取ることには反対した。そして日本の資本輸出は総じて失敗に終わった。」

 

287 このことは1990年代末に「マネー敗戦」(吉川元忠(きつかわもとただ)の著書名)と言われたが、親米的主流派はこれを無視し、非難した。それは「国体の神秘」である。

 

288 日本は儲かっていた東西冷戦構造を自ら破壊した。冷戦構造の破壊はレーガン政権が追及したことだったが、日本は財政的にそれを支えた。この日本のスタンスを「日本のアメリカ」的価値観という。

 

 

2 異様さを増す対米従属289

 

289 「グローバリゼーション」とは主に米の巨大グローバル企業による日本市場への参入であり、公的保険制度を破壊せよと要求するまでに至った。(自由診療)それに反対したのは鳩山由紀夫だけだった。

1989年の「日米構造協議」は「非関税障壁による日本の市場の閉鎖性」をやり玉にあげた。これは後に「日米包括経済協議」と名称を変え、さらに「年次改革要望書」となったが、2009年の鳩山由紀夫政権はこれを廃止した。しかしその次の菅直人政権が「日米経済調和対話」として復活させ、これがTPPへとつながった。

290 「非関税障壁」の概念は肥大化し、「グローバル企業が拡大転回する際に障害になりうる全ての事象」を意味するようになってきており、国民生活の安定や安全に寄与するための規制や制度が「障壁」とされ、国民皆保険制度が攻撃された。(水道事業も)

 この新自由主義的グローバリゼーション化は日本だけではないが、日本でのそれに対する批判の声は小さい。TPPをグローバル企業による収奪ととらえるメディアは少なく、「日本社会の閉鎖性」を唱える論調が90年代以降力を伸ばした。

 その行き着く先はアーミテージ=ナイ・レポートのような内政干渉であるが、日本ではそれが違和感なく通用し、政権の政策と一体化した。これは2000年代以降の(日本の)潮流である。

 

291 この異様な隷属についてアリギは語る、

 

「親米的自民党政権のもとでさえも、日本はアメリカの命令に従う理由を見つけることがますます困難になった。1987年以降、日本の投資はアメリカからアジアに変更された。それまで日本はアメリカで莫大な損失を蒙り、アメリカの技術と文化を乗っ取ろうとしたが無駄だった。日本はアメリカのますます高まる「軍事的ケインズ主義」に資金を提供したが、利益は得られないことに気づいた。そこでアジアの労働資源を徹底的に活用する必要があった。」

 

292 「グローバリゼーション」とはバズワード(もっともらしい嘘)であった。

 

293 ところが自民党政権はアメリカの命令に従う理由を見つけようとして現にそうした。イラク戦争を西欧の多数の国々が批判したが、日本は賛同し支援した。脱対米従属の鳩山由紀夫政権以後は、対米従属は露骨に強化された。

 

 その標準的な理由は、軍事的従属のためであり、従って「対米経済的成功は自立するはずがない」と。294 「日本の戦後復興はアメリカのお蔭だ、米は対日賠償請求を抑制してくれた、朝鮮戦争で特需をもたらしてくれた、米市場を開放してくれた、軍事力と核の傘で日本を守り、その結果日本の「軽武装経済優先」(吉田ドクトリン)をもたらしてくれた、アジア市場への転向も、米軍のアジア支配のお蔭だ」と。

 

 米軍事力は米の世界ヘゲモニーを維持させた。イラクのフセイン大統領が200711月に石油取引をドル建てからユーロ建てに変更したことが、イラク(侵略)戦争の真の理由だったと言われる。

295 米ドルが基軸通貨となったことは、世界中の金をアメリカに集中させた。ドル以外に購入できない商品があり、それが石油だった。

 

 米の負債は募り、米ドルの価値が崩壊する懸念があったが、米の軍事力は米財政圧迫の要因であるとともに、米に世界ヘゲモニーを提供した。

 

 

3 隷属とその否認

 

296 日米安保条約の存在は対米従属の理由だろうか。否、ドイツを見よ。ドイツは敗戦国として大規模な米軍基地を受け入れているが、日本のように卑屈ではない。

 戦後の日米間の国力の格差も、対米従属の理由ではない。フィリピンを見よ。フィリピンは一旦米軍基地を追い出し、対中関係悪化の中で再び米軍事力を利用しようとしている。

 

297 日本による米軍基地の受け入れ理由は変遷してきた。最初は敗戦の結果、次に東西対立における日本の防衛へ、さらに自由世界の防衛へ、米が世界の警察であるという正義へ、そして中国の脅威や暴走北朝鮮の脅威への抑止力へところころと変遷した。

 

 真の対米従属の理由は、「日本は独立国ではなく、独立国になりたくもなく、それでいて従属国であることを否認したい」ということである。本物の奴隷は「奴隷は素晴らしいが、自分は奴隷ではない」という。奴隷は、自分が奴隷であると指摘する自由人を非難し、誹謗中傷し、他者にも奴隷になるよう強要する。

 

298 第二次安倍政権は、戦後国体の崩壊期にあったが、このような奴隷的思考が疫病のように広がった。

 

 自民党議員の山田宏は2018116日こうツイートした、

 

「沖縄県名護市長選が始まる。翁長知事の「オール沖縄」という名の親中反米反日勢力と共にある現職は、名護市政をすっかり停滞させてしまった。沖縄を反日グループから取り戻す大事な選挙」

 

この手の発言は多い。

 

 

299 1980年代の中曽根康弘政権のブレーンだった香山健一はこう言った、

 

「左翼が強く、我が国にも社会主義政権が成立する危険が現実に存在し、また周辺の国際環境も冷戦とアジア共産主義の勃興、浸透が進んでいた一時期に、我が国の政権党であった自民党が、戦前保守と戦後保守の大連合、リベラルと右翼的諸勢力の連合という形で辛うじて多数派を形成しなければならない時期があったことは、政治の現実でありますが、(今般の)衆参同日選挙に示された民意は、自民党が左右両翼を切って新たな健全な国民的多数派を形成しつつあることを明確に示しております。労働組合の中の自民党支持率も急上昇しつつあります。我が国社会の一部に存在する右翼的勢力――それは第一に戦争と侵略への深い反省がなく、第二に日本の国体、精神文化の伝統について全く誤った歪んだ固定観念に凝り固まっており、第三に、国際的視野も歴史への責任感も欠いております。こうした愚かしい右翼の存在と二重写しにされることは馬鹿々々しいことだと思います。」(香山健一「靖国神社公式参拝を行わぬよう決断を」:世界平和研究所編『中曽根内閣史 資料編(続)』1997

 

300 これは戦後の「穏健で理性的」を標榜する親米保守派の言であるが、何かが欠落している。「共産主義はもはや脅威ではない、従って緊急措置として結ばれた旧ファシストとの同盟を解消しなければならない」と香山は言う。

 

301 ところが自民党はその30年後にその「愚かしい右翼」に占領され、体制内保守=戦後保守は放逐され、沈黙し、また愚かしい右翼に仲間入りもした。

 

 戦前保守は戦前の国体を無批判に肯定する。「(戦前の)国体は完全に無傷である」として観念的に国体を護持する。一方戦後保守は対米従属を「唯一の合理的で現実的な選択」であるとするが、それが戦後の日本の国体としてアメリカを媒介として形成されたことの意味を考えなかった。302 香山のような合理的親米保守派も、この事実を見落とした。今日の親米路線の合理性論者も同様だ。

 

戦前保守の山田宏にとって愛国=親米である。303 現代の右翼デモは日章旗や旭日旗と共に星条旗を持ち込んで誇示している。天皇はアメリカである。星条旗への忠誠は皇道である。国体は無傷で護持されなければならないと同時に、アメリカの媒介抜きには成立しない。アメリカに天皇に代わって君臨してもらわねばならない。「反米・反日」は「親中」でもある。沖縄基地反対運動の参加者が「中国から日当を貰っている」という彼ら奴隷には、自由な思考と意志でもって親米保守政権を批判して行動することがあり得ることを理解できない304 彼らには自らがフェイクニュースを流しているという自覚がないし、彼らの発言にはアジアに対するレイシズムも含まれている。

 

 ジョン・フォスター・ダレスはサンフランシスコ講和条約と日米安保条約を取りまとめ、後に国務長官となった人だが、戦後日本の支配の要点を、「明治維新後の日本人の欧米人に対するコンプレックスとアジアに対するレイシズム利用することだ」と考え、そうすれば「日本はアメリカに従属し、アジアでは孤立し続けるだろう」と考えていた。

 

305 「アメリカに追いつけ追い越せ」と共に、「アジアにおけるアメリカの最重要パートナー」として「アジアで突出して豊かな国」になることで日本人は満足した。

アメリカは日本に自由主義や民主主義を与えたのではなく、他のアジア人を差別する権利を与えたのだ。

 

しかし現実は、対米進出はアメリカのレイシズムによって挫かれ、アジア諸国の台頭は、アジアにおける一等国が根拠のないことを知らしめた。そこで奴隷は発狂したのである。

2012年の第二次安倍政権は、戦後国体の崩壊期にあった。安倍政権が崩壊しても社会と個人の劣化は止まらない。306 安倍政権は夜郎自大(自らの実力を知らずに威張ること)の右翼イデオロギーと縁故主義に堕したが、その責任は一部のおかしな人たちだけにあるのではない。現在の標準的な日本人は、コンプレックスとレイシズムにまみれた「家畜人ヤプー」(沼正三、米人女性の家畜としての日本人)という自己認識はもはや通用しないことを薄々自覚しつつも、それに代わるものが見つけられないから、自分の姿を安倍晋三の姿に見出す。これは泥沼の無気力である。

 

 

4 ふたつのアイデンティティー307

 

307 改憲・護憲論争の上位に日米安保条約・地位協定と密約があるが、憲法のお蔭で日本はベトナム戦争参戦を回避でき、イラク戦争では戦闘行為に参加せずにすんだことは認める。

 

308 日米安保条約は広大な国土を米軍に提供し、駐留経費の75%(2002年、86.42015年)を日本が負担し、その負担率は他の米軍駐留国と比較してダントツで、ドイツの倍以上である。日本の米軍基地は米軍の世界戦略の基礎となっている。

 

 平和運動家の梅林宏道1995年~96年の「日米安保再定義」における米側の認識は、

 

「『日米安保体制はもはや締結時に意図した対ソ防衛体制ではなく、米軍の全地球的展開を支える体制である』というのが米側の認識であり、それが今や公然と語られている」(梅林宏道『在日米軍――変貌する日米安保体制』岩波新書2017

 

この時期は東西対立が終結したのだから、日米安保条約の見直しや在日米軍基地の大幅な縮小が可能な時期であったのだが、日米両政府はそのような意図を全く持たず、当時の日本側の認識も、19954月に防衛庁は、

 

「わが国の安全に対する直接的脅威目に見える形で差し迫っていないが、(日米安保条約は)世界の安定維持に関する米国の活動を日本が支援するための不可欠な枠組みである」

 

(これはすでに集団的自衛権を認める見解である。筆者もそれを後で述べている。金井)

 

これと同時期の19959月、沖縄の少女が海兵隊員に輪姦されたとき、太田昌秀知事は土地の強制使用のための代理署名を拒絶し、310 米側は沖縄の米軍基地を維持できるかどうか危惧したが、結局「安保再定義」は米側の意図を基本的に実現し、橋本・クリントン「日米安保共同宣言――21世紀に向けての同盟」19964となった。

 

「世界の安定維持に関する米国の活動」は5年後の911後には終わりのない「対テロ戦争」となり、2014年の集団的自衛権行使容認の閣議決定となった。

 

 憲法9条の下でも米軍の世界的な戦争は遂行され、その間日本は米軍の共犯者となって来た。

 

311 憲法と自衛隊の存在との関係よりも、憲法と日米安保条約との関係の方が上位にある。ベトナム反戦運動は反米運動であった。自民党政権はベトナム戦争を支持したが、「憲法は国民に支持されている」として改憲を棚上げし、「平和国家」観と「アメリカの戦争協力者」とは矛盾せずに共存し続けた。

312 元防衛官僚で退官後は安倍政権の集団的自衛権行使容認に対して否定的論陣を張る柳沢協二は、

 

「現実の日本のアイデンティティーは、唯一の被爆国として戦争は二度としない、自衛であっても戦争は許されない、という発想になった。もう一つのアイデンティティーは、私も政府にいて推進したことだが、日本がアメリカにとって良い同盟国であるということである。」

 

この二つのアイデンティティーは矛盾する。後者のアイデンティティーしかないとすれば、日本人はアメリカ帝国の忠良な臣民としてアメリカの弾除けになる運命を喜んで甘受すべきである。安倍政権はその方向に舵を切った。

 「台頭する中国」論はアメリカをつなぎとめるための努力である。朝鮮半島危機についてのトランプ大統領の勇ましい言辞に接して「100%ともにある」と宣言することは、「大君(であるアメリカ)の醜(しこ)の御楯と出で立つわれ」*という決意を示すことである。

 

*「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは」万葉歌人の今奉部与曽布の短歌。

 

 

 

終章 国体の幻想とその力

 

 

1 国体の幻想的観念316

 

316 中国文学者の竹内好(よしみ)は「一本一草に天皇制がある」とし、「天皇制的なるものは、天皇の側近の政治機構上部の統治エリートの中で発生してから、それが社会全体に一方的に押し付けられたのではなく、日本社会のいたるところに、天皇制的なるものが形づくられている」という指摘である。(竹内好「権力と芸術」:『現代日本文学大系 78』筑摩書房1971

317 しかしそれでは、日本社会のさまざまな組織や共同体にボスや茶坊主たちによる不条理な支配が見られるし、天皇制の支配から抜け出すことは永遠にできないだろうということになる。

 

しかし本書は天皇制を、近代日本社会が生み出した政治的・社会的な統治機構とする。天皇制の起源は一本一草によらずとも辿ることができる。

 

 また本書は天皇制機能の起源を宮中祭祀に求めない。確かに古代天皇制の権威や権力の起源は、祭祀王としての地位だったし、現代にも残る大嘗祭はその一例である。

318 民俗学者の赤坂憲雄は宮中儀式の形骸化を根拠として天皇制はいずれ衰亡するという。(赤坂憲雄『象徴天皇という物語』ちくま学芸文庫2007)近現代日本は、農耕社会が工業社会へ、さらにポスト工業化社会へ変転したことの結果であり、天皇の宮中祭祀は農耕社会を起源としている。

 

しかし本書は生産様式に関わらず、近代日本で天皇制的なるものは十分機能するという立場である。天皇制は古代的衣装をまとった近代的構築物であり、近代化を意図して作られた装置である。その意味でアメリカニズムも天皇制に代替可能である。

319 歴史家の安丸良夫は『近代天皇像の形成』において、天皇制は近代的構築物とし、天皇制の基本観念を次の四つにまとめた。

 

①万世一系の皇統=天皇現人神と、そこに集約される階級制秩序の絶対性・不変性

②祭政一致という神政的理念

③天皇と日本国による世界支配の使命

④文明開化を先頭に立って推進するカリスマ的政治指導者としての天皇

 

しかしこの規定はいずれも戦後の天皇制には通用しない。安丸は「戦後天皇制の儀礼は国民の日常生活から乖離し、天皇制は人畜無害の骨董品となった」とし、「国民国家の統合原理としては無力化するだろう」とするが、一方では「日本国家の秩序の基本的な枠組みであり、権威的・タブー的なものを集約し、今も秩序の要となっている」と矛盾したことを言う。

 筆者はこれを理解できない。また安丸は天皇制と世界各国の君主制一般とを区別しないから、天皇制をことさら批判しなければならない根拠が不明である。それとも安丸は近代国家が国民を均質的に統合することを問題視しているのだろうか。(意味不明)

 

321 このように戦後の天皇制の規定で混乱するのはなぜか。その要因は戦後の天皇制がアメリカを無視しては考えられないからである。安丸の上記四つの天皇制規定はアメリカの支配を考えると明確になる。

 

①万世一系の皇統は、日米同盟の永続性を意味している。安倍政権が神聖皇帝的米大統領とその近親者を接遇する様式は、これを裏書きする。322 政官財学メディアにまたがる日米安保マフィアの面々はこの聖なる階統的秩序の中に位置する。

②祭政一致の司祭者は、グローバリスト経済専門家(中央銀行関係者、経済学者、アナリスト等)に相当する。中央銀行総裁は神聖皇帝である米大統領の経済思想を忖度する。

③八紘一宇はパックス・アメリカーナである。これは今日の危機の原因となっている。アメリカは日本に代わって八紘一宇を実現してくれ、日本はそれを助けたが、同時に日本が冷戦構造から受益できる状況が失われた。アメリカは中東で失敗し、東アジア情勢は激変している。パックス・アメリカーナの追及は日本に利益をもたらさないのに、日本の為政者にはそれ以外の選択肢が思い浮かばない。

④戦後の物質的生活・消費生活・大衆文化におけるアメリカニズムの拡大は世界現象であった。現代的であることはアメリカ的であることを意味した。日本におけるアメリカニズムはネオリベラリズムの覇権以降顕在化した。アメリカ化は消費生活における憧れの中心から制度改革へ移行した。それは1990年代以降の労働慣行の改革、司法制度改革、大学改革などグローバル化への対応であり、「平成の文明開化騒ぎ」とさえなった。325 これらの改革は総じて失敗したが、停止されないことがおかしい。大学における「公正な競争」は競争的研究資金獲得制度を導入し、研究教育環境は荒廃した。「神国だから負けるはずがない」は、「アメリカ流だから間違っているはずがない」へと転化した。

 

 

2 国体がもたらす破滅325

 

325 このようなパックス・アメリカーナへの信仰は、いずれ経済危機や戦争をもたらすだろう。以下北朝鮮の核・ミサイル問題が日本に何をもたらすかについて考えてみたい。

 

326 経済学者の森嶋通夫は『なぜ日本は没落するか』岩波現代文庫1999, 2002の中で、「2050年に日本国は、特に政治的に、無力になり、没落するだろう」という。森嶋は右傾化や歴史修正主義を懸念しているが、森嶋の懸念以上にすでに今現在、排外主義が大手を振り、貧困と階級格差が顕著になった。森嶋は言う。

 

「これまでの日本の経済成長は戦争という特需に頼って来た。政治家は今後戦争によらない特需をもたらすべきだが、政治屋しかいないのでそれができないでいる。328 これまでの日本の高度経済成長は日本人の勤勉さや努力が原因ではない。」

 

1980年代のバブル景気は、投機の熱狂によるものだった。既述の通り、2000年代以降、日本経済はアジアに向かったが、対米追随をさらに純化させた。森嶋は言う、

 

「『東北アジア共同体』を創設し、その広域経済圏の中で日本経済の成長を見つけるべきだ。政治家はそれに尽力すべきである。」

 

鳩山由紀夫政権は「東アジア共同体」構想を掲げたが、その降板後は米主導のTPP構想が急速に持ち上がり、政官財メディアはそれへの批判に耳を傾けなかった。

329 他方中国は2013年に「一帯一路」構想を打ち出し、AIIBアジアインフラ投資銀行創設を呼びかけたが、アメリカの同盟国が次々にAIIBへの参加を決める中を、日本だけが米と歩調を合わせて不参加を続けた。2017年、トランプ大統領はTPP不参加を決定した。森嶋は言う、

 

「アジアで戦争が起これば、日本は米からのパックス・アメリカーナの維持要請に応じ、その戦争に協力して経済を立て直すだろう」

 

330 世界で唯一「北朝鮮にさらなる圧力を」と願う安倍政権は、朝鮮半島有事を望んでいる。2017年から18年にかけての朝鮮半島危機の高まりに対する政権の対応を見よ。「朝鮮戦争有事において、自衛隊は米軍の指揮下に入る」という指揮権密約が公然となるだろう。*

 

*末浪靖司『「日米指揮権密約」の研究――自衛隊はなぜ、海外へ派兵されるのか』創元社2017、矢部宏治『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』講談社現代新書2017

 

そして朝鮮戦争が起これば憲法の「戦争放棄」は意味を失い、九条と自衛隊との問題も解消する。与党政治家は「北朝鮮の反撃は完全に封じ込められる」と考えており、朝鮮戦争勃発に伴う日本人の犠牲は護憲派になすりつけるだろう。

332 「永続敗戦レジーム」の中で思考停止している日本人の多くは、日本にとっての北朝鮮によるリスクが、アメリカの軍事的恫喝、つまり米軍の日本駐留、が北朝鮮に与える影響によるものであることを理解していない。

日本の武器は米製だから、指揮を米に頼るしかない。

朝鮮戦争がいまだ休戦状態であるために米軍の日本駐留が必要になっていて、それが朝鮮半島危機の要因となっている。「米軍がいるから大丈夫だ」という漠然とした安心感は、駐留米軍がリスクの根源であることを気づかせない。

 

333 「朝鮮戦争は平和的に解決すべきである」という声が政界から聞こえてこない。それはパックス・アメリカーナへの信仰があるためである。今日の米の衰退と中国の隆盛は、不安定化をもたらす。パックス・アメリカーナへの信仰は、今般の朝鮮半島危機における日本政府の対応と国民のふるまいによって証明された。

 

ジョン・ダワーによれば、

 

「マッカーサーは日本人に、古い残存物(天皇制)を新しいナショナリズムで包み込む可能性を与えた。日本人は、他の国々が讃え、未来において競おうとする「平和と民主主義」の指針となることによって、いったん失われた自国の名声を取り戻すことができるかもしれない、とマッカーサーが呼びかけたとき、日本人の国家としての誇りに直接訴えたのである。恥辱の敗者日本人に向かって征服者マッカーサーは語る。「真の転向という苦難に堪え、それを制度化(九条)することによって、その恥辱を一掃して道徳的な勝利に転化できるのだ」と」(ジョン・W・ダワー「解説」:袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様』)

 

このような評価を下すときに見落とされるのは、戦後の平和主義が「天皇制平和主義=米平和主義」であるということである。

 

334 戦争は国連憲章によって違法化されているが、例外として侵略者に対する自衛行為としての戦争がありうるだけである。しかし、建前は平和主義だが、アメリカの平和主義は、世界中に部隊を展開し、現実的・潜在的な敵を積極的に名指しし、時には先制的にこれを叩き潰し、自国民の安全平和を獲得するという「平和主義」である。

 安倍政権の「積極的平和主義」が意味するところは、「九条による平和主義は消極的平和主義であり、九条の存在はできる限り戦争・紛争から身を遠ざけることによって自国の安全を確保するというものであるが、日米安保を強化し、日米戦力の一体化を図るつもりなら、アメリカ流の平和主義に合わせて、『戦争をすることによる安全確保』へ転換しなければならない」ということである。(白井聡『「戦後」の墓碑銘』)

「戦後日本の平和主義」=「積極的平和主義」=「アメリカの軍事戦略との一体化」というこの三項は(アメリカによってもたらされた)「天皇制平和主義」に集約される。

 

 

3 再び「お言葉」をめぐって337

 

337 天皇(現上皇明仁)の「お言葉」は歴史の転換を画する言葉であった。それは後醍醐天皇による倒幕の綸旨(りんじ)、孝明天皇による攘夷決行の命令、明治天皇による五箇条の御誓文、昭和天皇の玉音放送などの系譜に連なる。(筆者は信じがたい天皇主義者だ)

338 「お言葉」は天皇による天皇制批判だった。「アメリカ式天皇制」で「日本人の霊的一体性」を保つことができるのかと天皇は問うた。そして「それでいいなら私は天皇を止める」と天皇は言いたかったのだろう。

私が天皇を政治利用している、あるいは天皇を権威主義的神格化している、と批判されるかもしれない。私はそれを認める。

しかし私は「尊王絶対」とか「承詔必謹」を主張するつもりはない。私は天皇に「人間として」共感し、敬意を感じている。その共感は政治の次元ではない。天皇は私に「これまで私がやって来た象徴天皇制でいいのか」と尋ねた。天皇の言葉には、穏やかさの中に厳しさも感じた。天皇は何かと闘っていたのだ。そしてその闘いに「義」があると私は思った。そして私はそれに応えるべきであると思って本書を書いた。

「お言葉」が示している可能性を実現するのは民主主義的な人民の力である。

 

以上

2024716()

 

 

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