油井大三郎『好戦の共和国アメリカ』――戦争の記憶をたどる 岩波新書2008
第1章 独立への道
第2章 対欧「孤立」と大陸内「膨張」
1 憲法制定と第二次米英戦争
2 アメリカ・メキシコ戦争
「ジャクソニアン・デモクラシー」と先住民の強制移住056
058 対先住民戦争による領土の膨張と大衆民主制(白人男子普通選挙制の定着057)の拡大が一体的に推進されたが、その際西部への領土膨張は神の名によって正当化された。第二次米英戦争中のニューオーリンズの戦いで勝利した英雄アンドリュー・ジャクソン大統領1829/3-1837/3「神はアメリカ人を、人類のために、自由を維持する守護者として選んだ」
062 好戦的なジェイムズ・ポーク大統領(民主党)は、テキサス併合を目論み、対メキシコ戦争を仕掛けた。ポークがメキシコ領土内に軍隊を進めると、それに対してメキシコ側が領土侵犯として反撃を加え、米軍人10数人が死傷した。それをポークは議会で逆にメキシコ側による領土侵犯と説明して宣戦布告を求めた。しかしこの戦争の勝敗が決した後で、下院議員リンカーンは、最初の交戦地点の情報開示を求め、メキシコ領内での交戦の疑いを指摘した。その結果米下院は82対81の僅差で「戦争は不必要で憲法に違反する」としてポークを非難したが、一般民衆は領土拡大を歓迎し、リンカーンを非難した。067
064 西部への膨張は神によって与えられた「明白な天命」manifest destinyであるとして肯定する民意があった。(ジョン・L・オサリヴァン『デモクラティック・レビュー』1845年7,8月号)
065 アヘン戦争1840によってアメリカ人の間に東アジア貿易への関心が急浮上した。
アメリカは中国がイギリスに敗れ(アヘン戦争1840-1842)、香港を割譲して上海と広州の開港を余儀なくされたことから東アジアとの「貿易」に関心を持つようになっていた。その後メキシコとの戦争1846-48に勝利して太平洋岸のカリフォルニアを買い取った(ニューメキシコも)のもその現れである。
アメリカはメキシコにテキサスとの国境の変更(土地の割譲)とカリフォルニア・ニューメキシコの買い取りを要求したが、それにメキシコが応じないと、軍隊をメキシコ領内に派遣した。それに反発したメキシコとの間で戦争1846-48になったが、アメリカが勝利して上記の要求を実現した。
その流れを受けて1853年と1854年にペリーが日本にやって来て、威圧的に函館・下田を開港させた。
1835 テキサス独立戦争の開始。
1836 (テキサスの)サミュエル・ヒューストンは、メキシコのサンタ・アナ将軍を捕えて、テキサスの独立を認めさせ、テキサス共和国が成立した。
1845年7月、テキサス共和国議会は、メキシコからの国家承認オファーを蹴って、米国との合併を承認した。テキサス共和国がアメリカ合衆国に加盟した。
1846 米側はテキサス州の境界をリオ・グランデ川とし、メキシコ側はニュエセス川とした。ポーク米大統領は、以前の(テキサス)共和国時代に定めたテキサス州の境界リオ・グランデ川を、ザカリー・テイラー将軍に守らせた。テイラー将軍は、メキシコの撤退要求を無視して、リオ・グランデ川の北岸まで南下し、河口近くにブラウン砦の建設を開始した。
1846年4月24日、メキシコの騎兵隊が米の分遣隊に捕らえられ、戦闘が開始された。5月13日、米議会が宣戦を布告し、5月23日、メキシコも宣戦を布告した。
1847年1月、カフエンガ条約により米がカリフォルニアを征服した。
1847年9月14日、メキシコシティの中心部が陥落した。
1848年2月2日、米が、グアダルーペ・イタルゴ条約に批准し、米墨戦争が終結した。米はテキサスを含めて、カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半を1825万ドルで購入した。
メキシコ大統領
サンタ・アナ大統領1836,
1844 1844年12月政変で失脚、キューバへ追放された。
ホセ・ホアキン・デ・エレラ大統領1844
テキサス大統領
サミュエル・ヒューストン初代大統領1836, 1837
ミラボー・ラマ―大統領1838
サミュエル・ヒューストン大統領1841
アンソン・ジョーンズ大統領1845
米大統領
アンドリュー・ジャクソン大統領1829-1837
マーティン・ヴァン・ビューレン大統領1837-1841
ウイリアム・ハリソン大統領1841/3/4-4/4 就任1か月で急死
ジョン・タイラー大統領1841-1845が1844年4月、テキサス併合条約を締結したが、米上院が否決
ジェームズ・ポーク大統領1845-1849が1844年の大統領選挙で勝利。1845年2月28日、上下両院での選択権の大統領への付与決議により、タイラー大統領が、任期3日前にテキサスを併合した。
1840-1842 米がアヘン戦争(東洋との貿易)に関心を持つ。
1846-1848 アメリカ・メキシコ戦争の結果、アメリカはメキシコから、テキサス国境拡大変更の上、カリフォルニアやニューメキシコ等を買い取る。
1853.7.8 ペリーが来航して日本を威圧する。
1854.3.3 ペリーが再びやって来て、日米和親条約により函館・下田を開港させる。
1858.6.19 タウンゼント・ハリスがやって来て、米は日米修好通商条約(不平等条約)により領事裁判権を設定し、関税自主権を剥奪する。日本は蘭露英仏とも同様の条約を結ばされる。
1861-1865 南北戦争
1871-1873 岩倉使節団訪米欧
第3章 内戦の悲劇と海洋帝国化――南北戦争と米西戦争――
1 南北戦争の勃発
南北戦争の発端は南軍による連邦軍に対する攻撃072であったが、争いの抑々の始まりは、自由州と奴隷州との力関係に関わる争いであり、リンカーンが大統領に選ばれる1861と、奴隷州の多くが連邦から離脱した。リンカーンは奴隷制既存州の奴隷制度への不干渉で妥協したが、奴隷州はそれに応じなかった。070
イギリスが南軍に肩入れして仲裁しようとしたので078、リンカーンは、奴隷制廃止を宣言していた1833イギリスをけん制する意味で、奴隷制廃止宣言1863.1を行った。
北部の方が人口も多く、鉄道網も長くて有利だったが、徹底的に戦う将軍に欠けていた。
南北戦争での戦死者数はアメリカ史上最大の53万人(62万人083)である。第二次大戦の41万人よりも多い。図表3参照007
南北戦争の時に米で初めて徴兵制が行われた076が、弁済金で徴兵免除が行われたため、金持ち優遇だとして徴兵反対暴動がニューヨークで起こった。
アメリカ人は政治の口実に神を持ち出すのが好きだ。リンカーンの激戦地ゲッティスバーグでの演説「(我々には)神の下にあるこの国が、自由の新しい誕生を実現し、人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅させないようにする使命がある」079
南北戦争の結果、アメリカは州の連合体から連邦政府の権限が優越する国家となった。080
アトランタでの1か月に及ぶ戦闘は民間人も含み、それはマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』で描写された。081
リンカーンは戦勝1865/4/9の5日後4/14の観劇中に、俳優ジョン・ブースによって射殺された。082ブース「暴君の最後はこのようなものだ」
2 戦争の記憶と愛国的な和解083
リンカーンの戦争目的は連邦制維持つまり分離を許さないということだったので、戦争終結は相手を完全に打ち負かすまで続き、戦争は長引いた。083
南北戦争の戦闘形式はナポレオン式の一斉に並んで両者がにらみ合うという方式084だったため、犠牲者が多くなった。電信と鉄道の戦争利用や、塹壕戦闘方式の採用084が画期的だった。
北軍勝利後の大統領は16年間にわたって共和党であり、みな戦功のある将校ばかりだった。グラント総司令官1868、ヘイズ、ガーフィールドらである。これは1884年に民主党のクリーブランドが大統領になるまで続いた。089
日本の明治以来の首相も軍閥がほとんどだったが、アメリカでは選挙による点で異なる。岩倉具視使節団が訪米した1871―1873のもこの戦後の共和党大統領時代だった。
戦後も兵隊から銃を取り上げなかったので、銃の民間所持が始まった。また銃生産を維持するために、ライフル協会ができた。086黒人解放を妬む南軍兵士によるKKKが生まれた。089
平和運動も起こったが、「奴隷制打倒」を理由に南北戦争に賛成するという矛盾を含んでいた。クエーカー教徒による兵役拒否も一部認められた。「内乱平定」を支持した「アメリカ平和協会」を批判した「万国平和同盟」Universal Peace Unionが発足1866し、軍備撤廃、戦争の違法化、国際仲裁機関の設立、戦争原因の根本的除去のための人種・階級・男女の平等を主張した。そして1874年には議会で、「国際仲裁裁判所の設置を支持する決議」を採択し、1882年、全国仲裁聯盟National Arbitration Leagueが発足した。088
089 南部白人の多くは南北戦争に敗れた後でも、「分離独立は憲法で認められている」とし、南北戦争を「第二次独立戦争」「州間戦争」と呼んだ。
091 1891年1月、スー族のレッド・クラウドが降伏し、それ以降は先住民との武力衝突はなくなった。そして「ドーズ法」1887によって、先住民は小農民化し、伝統文化を喪失し、アメリカ社会への同化を強制された。
岩倉使節団1871は、米が取得したばかり1848のカリフォルニアから、新設したばかり1869の大陸横断鉄道を使ってワシントン入りしたのか。091
092 1877年6月4日、国旗制定100年を祝い、6月4日を「国旗記念日」に指定した。
093 元北軍の軍人は恩給で優遇され、「共和国軍人協会」は共和党の票田となったが、元南軍の兵士・遺族には恩給は支給されなかった。(靖国神社も賊軍は祀られていない)
094 1889年になってようやく「南部連合復員軍人連合」が結成された。
アーリントンは南軍の司令官であるリー将軍の領地であったが、報復的にそこを連邦軍兵士の墓地にした。
慰霊祭も南北別々に行われていたが、1889年、メモリアル・デー(戦没将兵記念日、祝日)として南北で統一された。
しかし1877年、南部から連邦軍が撤退すると、「再建」と言われた南部の占領改革は途絶え、黒人の選挙権は剥奪され、人種隔離政策(ジム・クロー制)も1896年の連邦最高裁によって認められ、1960年代半ばの公民権法成立まで存続した。
097 1890年の「フロンティア・ラインの消滅宣言」は、ヨーロッパ的階級社会の再現を米人に思わせた。
098 少年少女雑誌『若者の友』は、学校で国旗忠誠の誓いを行うようキャンペーンを張った。児童は毎朝星条旗に向かって「私はわが国旗と、国旗が表している共和国に忠誠を誓います。わが国は一つにして分かつことはできず、すべての人に自由と正義を与えます」と誓った。この運動は1898年の米西戦争の時から始まった。
099 アルフレッド・マハンは『海上権力史論』の中で、海軍の増強、ハワイの併合、中米運河の建設を唱えた。米国は1867年、ミッドウェー島を占領し、1887年、ハワイ王朝からパールハーバーの排他的利用権を獲得した。
しかし米国内には独立戦争の体験から植民地保有に反対する意見が強かった。1893年、(米軍人が)クーデターでハワイ王朝を倒し、本国政府に併合を要請したが、クリーブランド大統領は、強い反対意見を考慮して、併合条約の批准を見送った。
3 米西戦争と海洋帝国化099
アメリカ史では米西戦争1898が、米の帝国主義列強への堂々たる仲間入りの転機である。その主役がセオドア・ローズベルト。アメリカは米西戦争でキューバへ向かうと思いきや、最初に向かったのはフィリピンだった。米は日本が日清戦争1894で頑張ったのに触発され、東洋の利権に対する関心をそそられたのかもしれない。
100 ラテンアメリカ諸国は1810年代から20年代にかけて独立し始めたが、キューバは取り残されていた。1868年~78年、第一次独立戦争。1895年、ホセ・マルティのキューバ革命党が蜂起(第二次独立戦争)した。マッキンレー共和党政権1897-は、米資本による製糖業に対する利権もあり、キューバ人の自治権拡大を求めた。
1898年2月15日、ハバナ湾に停泊中の米軍艦メイン号が沈没し、米水兵260人が死亡した。海軍がスペインの仕業だと示唆し、新聞がキューバ解放を騒ぎ立てて国民を唆し、「メイン号を忘れるな」と開戦支持論が高まった。しかし後にそれが内部の事故であることが分かった。アメリカ人はテキサス独立時の「アラモを忘れるな」とか「パールハーバーを忘れるな」とか、正当防衛で戦意をかきたてることが多い。
101 マッキンレー自身は開戦に消極的だったが、閣内には好戦的な海軍次官セオドア・ローズベルトがいた。セオドアはもともと虚弱体質で、男らしくなるんだという強迫観念を抱いていた。セオドアは戦争が国民の統合と道徳性の向上にプラスになると考え、「アングロ・サクソンの優越性」から「文明化」の使命を抱いていた。1890年代後半、列強による中国分割が進み、日本が台湾を領有し、1897年にはドイツが山東省の膠州湾を占領し、中国市場に強い関心を持っていたアメリカ人の間に危機意識が高まった。セオドアはアジア艦隊司令長官ジョージ・デューイにマニラ攻撃を準備させた。セオドアはフィリピンを中国進出の拠点にしようとしていた。
103 またロング海軍長官は3月に「海軍戦時委員会」を設置し、『海上権力史論』の著者マハンを加え、戦争指導態勢を整えた。海軍も戦争計画を準備していた。
マッキンレーはこれらの開戦論者の声に押されて4月11日、キューバの混乱の平定、在キューバ米人の保護を目的に、武力行使の権限を議会に求めた。議会はキューバ併合を否定するテーラー修正条項つきで武力行使を容認した。
最初に戦端が開かれたのは(キューバではなく)1898年5月1日のマニラ湾だった。海軍力ではアメリカは当時世界6位程度であったが、新鋭艦の保有ではスペインに勝っていた。デューイが率いるアジア艦隊はスペイン艦隊を数時間で打倒した。米軍はフィリピンの独立運動指導者エミリオ・アギナルドの帰国を援助し、6月12日、アギナルドがフィリピンの独立を宣言したが、アメリカはそれを黙殺してスペイン軍との地上戦を継続し、8月13日、マニラが陥落した。
104 キューバには6/22に上陸し、革命軍の援助を受けた。セオドア・ローズベルトは海軍次官を辞して自ら従軍した。7/17、スペイン軍が降伏したが、米は降伏文書調印式に革命軍代表を出席させなかった。
105 1898年12月10日、パリで講和条約に調印し、キューバは独立したが、フィリピン、グアム、プエルトリコを「領有」し、1893年には成立しなかったハワイ併合案も、1898年には勢いに乗ってハワイも併合した。
アメリカ人は米西戦争を「素晴らしく小さな戦争」と呼ぶが、それはアメリカ人の自己中表現ではないか。キューバ革命軍やフィリピン独立軍そしてスペイン人の側からすれば、どうだったのか。
19世紀末のアメリカの帝国主義的な動き アメリカはスペインとの戦争を契機にキューバを保護国化し、フィリピン1898、グアム1898、プエルトリコ1898などを植民地にし、同時にハワイ1898も併合し、それ以前の1867年には早くもミッドウェーを植民地化している。そしてそれは奇しくも日本の日清戦争1894-95という帝国主義的な動きと歩調を合わせているかのようにも見える。104
105 かくしてアメリカは初めて海外植民地を保有することになった。キューバ革命軍は解散させられ、キューバは米軍の軍政下におかれた。そして1901年3月、キューバの条約締結権、借款の借入権を制限し、1902年5月にキューバは「独立」したが、事実上、アメリカの保護国となった。(日清戦争における朝鮮の「独立」とよく似ている)
セオドア・ローズベルトは1898年秋にニューヨーク州知事に選出され、1900年秋にはマッキンレー大統領と組んで副大統領となった。そして1901年にマッキンレーが暗殺され、43歳で大統領に昇格した。
106 このようにキューバ「解放戦争」は「海外膨張戦争」に変質した。1898年、ボストンでフィリピン併合反対運動が起こり、11月、「反帝国主義者連盟」が結成され、アンドリュー・カーネギー(「ビジネス平和主義」)や労働運動の指導者サミュエル・ゴンパースもそれに名を連ね、「市民の平等」と「植民地格差を是認する帝国」とは両立しないとしたり、人種差別的な主張だが、「異人種」労働者の流入に反対したりした。
1899年2月6日、上院でのパリ条約の批准は、賛成57反対27という、批准に必要とする2/3の1票差という僅差で可決された。
107 1899年2月4日、フィリピンで米比両軍が衝突した。マッキンレー大統領は「善意の同化」を標榜し、医療や教育の「アメリカ化」を目論んだ。また1900年5月、アーサー・マッカーサー(ダグラスの父)は「ゲリラ戦には戦時国際法は通用しない」という命令を発し、捕虜の保護を否定した。
108 捕虜に対する拷問・殺害、民間人の虐殺、焦土作戦が行われ、カンザス連隊の某大尉の手紙は「5000人のマイバホ村は今では焦土と化し、石ころ一つない。戦争は地獄よりひどい」と、それを証言した。またマーク・トウェインは「私は渡航以前は熱狂的な帝国主義者だったが、…フィリピンの人々を解放したのではなく征服したのだ」と語った。
109 それに対して米軍指導部はフィリピン軍側の残虐行為を指摘し、これは「欧米の文明化された戦争」ではないと反論し、フィリピン軍のサンディコ将軍が、マニラ居住の「白人全員」の殺害を指令したと宣伝し、米ジャーナリストも、米比戦争を「対先住民戦争」に似た「人種戦争」とし、手段を選ばない戦法を支持した。(まるでイスラエルのガザ戦争)そしてセオドア・ローズベルトは「野蛮との戦い」と呼び、米兵はフィリピン人を「ニガー」と呼び、アジア人を侮蔑的なグークgookと呼んだ。
一方「反帝国主義者連盟」は志願兵の帰還要求運動を展開し、民主党の大統領候補ブライアンは「フィリピン人に独立を与える」と公約した。しかし民主党の一部はフィリピンの保護国化に賛成し、アギナルドとの接触を拒否した。
110 大統領選1900では共和党のマッキンレーとセオドア・ローズベルトのコンビが勝利したが、これはアメリカ国民が海外領土の保有を承認したことを意味した。
しかし、マッキンレーも1899年1月、「フィリピン調査委員会」を設置し、6月、同委員会は「フィリピンの最終的な独立と自治」を勧告した。1900年4月、「第二次調査委員会」も自治政府の樹立を勧告した。1901年3月にアギナルドが逮捕されると、7月、フィリピン自治政府が樹立され、同委員会委員長ウイリアム・タフトが総督に任命された。
111 その後親米派の地主が抱き込まれ、ゲリラの孤立化が図られた。1902年5月、セオドア・ローズベルトは「未開と野蛮という暗い混沌を頼みとする勢力に対する文明の勝利」と演説し、同年1902年7月4日、米比戦争の終結を宣言した。
フィリピン軍人(独立軍)に対する拷問やフィリピン民間人の強制移住などの事実が明らかになり、「不名誉な戦争」と評された。これは60年後のベトナム戦争の原型となった。
112 1899年6月、ジョン・ヘイ国務長官は「門戸開放」政策を提唱し、中国の分割を進める列強に対して、中国市場における通商や航海の機会均等を求めた。アメリカは南北戦争とその後の南部再建に忙殺されて遅れをとっていた。アメリカは列強のこれまでの勢力圏を認めるが、その勢力圏の中で経済的な機会の均等を要求した。また義和団事件平定後の1900年7月に出された「第二次門戸開放通牒」は、「中国の領土保全」を認めた上で、「通商の機会均等」を要求し、他の列強に対抗する姿勢をより明確にした。
このアメリカの門戸開放政策は他の列強に認められなかったが、その後のアメリカの外交の基本原理となった。門戸開放通牒の発出以後は、米国内の反帝国主義論争は下火となり、門戸開放政策は、超党派的合意となった。アメリカでは当時「(貿易の)自由は(資本主義経済の)強者の利益」と言われた。
113 門戸開放政策は単に経済的進出ではなかった。1946年、アメリカはフィリピン独立に際して米軍基地と通商上の特権をフィリピンに認めさせた。海外基地の確保による政治的影響力の保持と経済進出とがセットになっていた。しかし20世紀初頭のアメリカは大国の一つに過ぎなかったので、門戸開放政策はアメリカ側の願望にすぎなかった。
米西戦争は南北を和解させた。1900年、元南軍兵士がアーリントン墓地に埋葬された。1913年、ゲティスバーグでの集会で、南北戦争後初めての南部出身大統領ウイルソンが演説したが、ウイルソンは奴隷解放には触れなかった。北部の白人は南部の人種隔離政策を「南部の独特な慣行」として黙認し、1915年、南部のKKKを主人公にしたD・W・グリフィス監督の映画『国民の創生』に黒人は抗議したが、白人は名画だと評した。
115 アメリカはフィリピンを「(米本土への)編入不能地域」とみなして植民地との格差を容認したが、それは「市民平等」の原則に反した。19世紀末、労使対立が激化し、プロテスタント系でない新移民が東欧や南欧から大量に流入した。セオドア・ローズベルト、ウイリアム・タフト、ウイルソンらによる「革新主義改革」は独占企業を規制した。
116 軍事大国化 セオドア・ローズベルトは「大海軍創設政策」を推し進め、海軍参謀部1900を設置し、民間でも海軍聯盟1903が創設された。イギリスによる「ドレッドノート戦艦」の建造1906に刺激され、大艦巨砲の建造に乗り出し、戦艦数は1898年の11隻から1913年の36隻に拡大した。
117 1909年、ハワイのパールハーバーに海軍基地を建設し、1914年、パナマ運河が開通し、1903年、参謀幕僚法が成立し、1912年、参謀本部が設置された。
セオドア・ローズベルトはパナマに介入して独立を助長し、財政危機のドミニカに介入し、「棍棒政策」を強行した。彼はモンロー宣言1823を拡大解釈し、中米地域への干渉を正当化し、中米地域を自らの勢力圏とみなした。日露戦争の調停は、「勢力均衡」の「現実主義外交」の現れであった。
118 一方1912年の大統領選挙で南部出身のウイルソンは、民族自決や国際機関の創設を唱えた。ウイルソンは1910年にニュージャージー州知事に選出され、企業規制、労災補償、奴隷制廃止を唱えた。
119 しかしウイルソンは、米西戦争に関する当初の帝国主義戦争批判から解放戦争へと変質し、フィリピンのアギナルドを急進的だと批判し、フィリピンでの「漸進的自治能力」育成が必要だとし、「自由貿易主義」や「自由民主主義化」を口実にフィリピンの領有を正当化した。ウイルソンは1908年以来「アメリカ平和協会」に所属した。
120 ウイルソンは米西戦争開戦以前には、仲裁・調停を唱え、スペインにキューバの独立を認めるよう仲裁し、開戦後は「反帝国主義者連盟」とともに、パリ講和条約の批准を拒否し、海軍軍拡に反対し、国際司法裁判所や国際機関の設置による戦争防止を主張した。
ユージン・デブスの社会党や、IWW世界産業労働者組合は、第二インターナショナルと提携し、ゼネスト戦術を採用した。デブスの社会党は1912年の大統領選挙で90万票を獲得した。
121 民主党は東欧や南欧の移民票を取り込み、都市部の中産層の平和志向に応えた。
122 ウイルソンは1914年4月-1917年1月、自由主義政権を助長するとして、メキシコへ内政干渉し、海兵隊を派兵したが、反発されて撤退した。
感想 日米帝国主義の共通性 米西戦争における、アメリカによる、キューバの「独立支援」を装った実質保護国化という植民地支配、フィリピン独立軍に対する明白な帝国主義戦争の「文明」をかざしたごまかしと、日本の日清戦争における朝鮮の独立=保護国化との類似性に驚く。時期も19世紀末とぴったり一致している。
アメリカは「善意」や「文明」を口にしつつ、アジア人(フィリピン人)を対等とみなさず、国際法を無視して拷問も平気でやる。今イスラエル人がガザ人を対等な人間とみなさず、暴虐の限りを尽くしているのと驚くばかりに一致する。常にその口実に「神」「自由」「民主主義」を持ち出すのだ。
2024年9月1日(日) 以上
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