「北埼玉地区狭山裁判を支援する市民の会」主催「市民講座24 冤罪と人権 袴田事件と再審」
加須市市民プラザかぞ5階・活動室 2024年9月8日(日) 13:40-16:40
司会 幼方(うぶかた)忠雄会長 春と秋の年二回集会を開催しているが、秋は一般向けである。
ビデオNHKETV「雪冤」
このビデオは袴田巌さんが中心だが、石川一雄さんも出演している。
石川早智子さん77は石川一雄さん85の妻で、石川一雄さんの仮釈放(1994年)の2年後の1996年12月に結婚。石川早智子さんも部落出身で、石川一雄さんと結婚するまでは、実家の住所をひた隠しにしていた。
袴田巌88 1966年事件発生 連日12時間の尋問 新聞は犯人扱い 2014年再審開始決定、保釈。
石川一雄 窃盗で別件逮捕。『石川一雄獄中日記』 1994年仮釈放 2009年、証拠開示をさせた。 8人裁判長が変わった。
「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」事務局長・山崎俊樹70
・静岡地裁再審判決 9月26日
・傍聴人 マスコミは40席/78席(これは異常に多い、後述)
・無罪判決となった場合の検察の控訴期限 10月10日24時
袴田さんは男を警戒する。
科学よりも常識の方が重要であることを訴えたい。例えばメイラード氏が発見した「メイラード反応」の理由は分かっていないが、糖分とタンパク質とが合体すると、一定の温度以上で変色する。これは経験知である。
1981年、第一次再審請求 1994年、静岡地裁が棄却決定、東京高裁に即時抗告。
袴田さんと石川85さんの獄中での交流 二人は1968年末ころから1971年まで、死刑囚として巣鴨拘置所に4年間拘留され、交流もあったようだ。
1974年10月、東京高裁の寺尾正二が、石川一雄の一審死刑判決を無期懲役に変更。1994年、仮釈放。
私は最初島田事件を追っていて、その後袴田事件に関わるようになった。島田(警察署)事件での冤罪被害者は赤堀政夫である。
1980年12月、死刑確定
1980年から面会規則が厳しくなり、支援者が面会できなくなり、親族と弁護人しか会えなくなった。1982年ごろから支援者も面会できるようになった。(ママ)1990年代から面会できるようになった。(ママ)
1984年85年ころひで子さんが面会に行くと、「私が座る暇もないくらいに早く入って来て「今日、死刑があった」「隣の人だった」「お元気で、と言って出て行った」とまくしたてるように話し、私はなんだか分からず呆気にとられていた」
袴田巌の死刑判決後の手紙の筆跡の豹変ぶり
袴田巌に届けられた1万3000通中の1万2000通はアムネスティなど海外からの葉書だったが、ご本人には届けられず、(2014年に)保釈されるまで保管されていた。その理由は…
弁護団は当初検察の捏造を信じなかった。味噌樽の中で発見された着衣類は、従業員が異物として発見した。
再審での検察による上訴を廃止せよ。
石川一雄
1963年5月23日 逮捕
1968年末頃から1971年まで巣鴨拘置所
1974年10月、東京高裁の寺尾正二が、石川一雄の一審死刑判決を無期懲役に変更。
1994年、仮釈放。
1998年(ママ、1994年が正しい)12月、千葉刑務所から仮出獄。
袴田巌
1966年6月30日未明 事件発生
1966年6月30日の事件発生直後から警官が尾行
7月4日、自宅の(巌の)部屋を家宅捜索、マスコミが「血染めのシャツを発見」と報道。
1966年8月18日早朝、任意同行後、その夜逮捕。
9月6日、初めて自白
9月9日、「住居侵入、強盗、殺人放火」で起訴(勾留期限ぎりぎり)
11月25日、第1回公判、「私は一切関係ない」と無実を主張
1967年8月31日、5点の衣類が工場の味噌タンクから発見される。
9月10日、実家(浜北市)の捜索令状を発布。押収目的は手袋とバンド
9月11日、検察官が裁判所に「5点の衣類は被告人が本件を犯した際、着用した着衣である」と5点の衣類の証拠調べを請求。同日付、裁判所が受理。
9月12日、実家の家宅捜索。発見された「布切れは、8月31日発見の黒色様ズボンと同一生地、同一色と認められ、ズボンの裾をつめて切り取った布(共布、ともぎれ)と認められ…」
9月12日、裁判所は翌9月13日午後2時に公判日を期日外で指定。
9月13日、第17回公判 検察官は冒頭陳述を変更し、それまで犯行着衣とマスコミに発表した血染めのパジャマから、この味噌漬けの5点の衣類に変更した。
9月13日、公判後の午後4時30分から午後5時まで、裁判所の3人の裁判官が工場に出向き1号タンクの検証を行った。
12月4日、ズボンと共布とが同一であると鑑定される。
1968年9月11日、死刑判決 判決期日は2回延期されていた。
1968年末頃に巣鴨拘置所に移送され、1968年末頃から1971年まで巣鴨拘置所に在。その後巣鴨拘置所が廃止され、小菅拘置所に移送された。
1969年5月29日、控訴審開始されるが、人定質問だけで終わる。
1970年2月12日、控訴審が本格的に始まる。
1972年10月17日、1回目の装着実験(撮影日は1971年11月20日、おかしい)
1974年9月26日、2回目の装着実験
1975年12月18日、3回目の装着実験
1976年5月18日、控訴棄却
1980年11月19日、上告棄却
1980年12月、死刑確定
1981年4月20日、第一次再審請求。請求理由は、侵入と脱出の経路と、凶器。警察は留め金が写っていない裏木戸実験写真を開示。
拘禁反応
1984年1985年頃 隣人に死刑執行がなされる。
1984年12月、「食事に毒が入っている」
1987年7月、電波妄想
1992年1月、知人の接見申し入れに「そんな人は知らない」「支援なんかいらない」
1992年4月7日、副食を食べず、主食を水で洗い、牛乳に混ぜて食べる。
以上1992年9月17日付の東京拘置所の「準備書面」より
1994年8月9日、静岡地裁が(再審請求の)棄却決定、東京高裁に即時抗告。
2000年~2001年、(支援者による)味噌漬け実験開始。弁護団が初めて5点の衣類の捏造を主張。
2004年8月26日、東京高裁が即時抗告を棄却。棄却理由は「味噌漬け衣類が一朝一夕にできたとは言えない」最高裁へ特別抗告。
2005年11月、(支援者が)本格的な味噌漬け実験を繰り返した。
2008年3月25日、最高裁が特別抗告を棄却。棄却理由は高裁同様「味噌漬け衣類が一朝一夕にできたとは言えない」
2008年4月25日、第二次再審請求。味噌漬け実験報告書を新証拠とする。申立人は姉のひで子さん。
2009年、2010年、条件を変えた味噌漬け実験報告書を提出
2010年9月13日、警察が証拠開示。
2010年12月6日、警察が5点の衣類の鮮やかなカラー写真を開示する。
2011年8月29日、DNA鑑定試料採取。衣類の血液は被害者の血液かどうかが争点。
2011年12月22日、DNA鑑定結果は「被害者の血液ではない」(弁護側)に対して「一部の血液は被害者の血液に由来した可能性を否定できない」(検察側)
2012年3月14日、袴田巌からDNA鑑定試料採取。
2012年4月13日、「半袖シャツの右側部分のB型血液は、巌さんのDNAと一致しない」と弁護側と検察側の鑑定人で一致するも、検察側鑑定人は、「鑑定結果を信用性がない」と取り下げる。
2013年12月16日、ひで子さんが最終意見陳述し、結審。ひで子さんの意見陳述後の「12月2日」(ママ)に、三人の裁判官が東京拘置所に巌さんとの面会を求めたが、本人が拒否して会えなかった。
2014年3月27日、再審開始決定、保釈。その後10年間、男性に対する警戒心を感じる。
2014年3月31日、検察が即時抗告
2018年6月11日、東京高裁が検察官の抗告を認め、再審開始決定を取り消す。
2020年12月22日、最高裁が(高裁へ)差し戻しを決定。
2023年3月13日、東京高裁が検察官の即時抗告を棄却し、2014年3月27日の静岡地裁での再審開始決定。
第二次再審で開示された証拠
・30枚のカラー写真とネガ 衣類は白く、血液の赤みが残る。緑色のパンツの写真は味噌につかっていない感じ。
・ズボンのサイズBはサイズではなく、色の符号だった。
・複数の工場関係者の供述調書 「火災直後から袴田さんが消火活動を行っていた」と語る。
・取調べ録音テープ 最初は1本だけの開示で、巌さんが淡々と自白内容を語っているものだったが、即時抗告審で検察側が自主的に48本のテープを開示し、そこでは警官が一方的に自白を迫っていた。
2023年7月10日、検察は新たに7人の法医学者の鑑定書を提出し、有罪立証の意見書を提出したが、この鑑定書は実験を伴わず、「血液の赤みが残る可能性がある」という意見を述べたもの。
再審公判は裁判員裁判を踏襲し、争点は検察官の主張に基づいて行うと決定された。その主張とは、
・自白を(証拠として)使わないから、明確な侵入経路を述べない。(としつつ、)
・凶器はクリ小刀で、裏木戸から脱出し、工場から混合油をポリ樽に入れ、裏木戸から再侵入し、放火後、裏木戸から再脱出した。
・5点の衣類に被害者と同型の血液がついていた。ズボンの共布が実家から発見された。緑色のパンツは袴田のもの。犯行直後から7月20日の間に、5点の衣類を麻袋に入れて1号タンクに隠した。
2023年9月29日、巌さんが裁判官と面会
10月24日、静岡地裁が巌さんの出廷を免除
10月27日、第1回再審公判、その後毎月2回再審公判が行われた。
異常な静岡地裁の警備体制
・傍聴の半分を報道機関に提供
・手荷物検査、傍聴禁止(ママ)
・傍聴人の交代を認めない
2024年3月27日、証人尋問最終日。検察側証人も血液が黒変することを否定できなかった。
2024年5月22日、第15回再審公判が結審。検察官が死刑を求刑し、ひで子さんが最終意見を陳述、裁判所が判決を9月26日午後2時から言い渡すと伝える。
科学的の陥穽
ガスクロマトグラフィー分析により、放火で使用された油と工場の混合油とが一致したとするが。
巌さんの最終意見陳述 1968年5月30日
「警察はさも私がやったようにし、又公判においても不当に事実を無視して無実の者を罪に蹴落とし、偽りに満ちています。社会に、白を黒と言いくるめようとしました。これらの不当が許されてよいでしょうか。これが通るならば、世の中は真っ暗であります。権威ある法廷で天地に誓って言います。私はこの事件の真犯人では絶対にありません。」
巌さんの拘禁反応 1980年以降
「電気を出すやつがいる」「かゆみの電波や痛みの電波を出している」「毒殺される」と訴えた。
ひで子さんへの手紙1988/7でも「対悪魔戦も新局面を迎えているこの頃です。さて、従来最大の武器と思われていた暖電波や痒みの電波が後退した」
赤堀政夫 島田事件
1981年、第4次再審請求
1983年5月、東京高裁が静岡地裁の棄却決定を差し戻す。
1987年、再審開始
1989年1月31日、無罪判決
1989年2月、無罪確定
青柳雄介『袴田事件』――神になるしかなかった男の58年―― 文春新書 2024/8
017 袴田巌「神の国の儀式があって、袴田巌は勝った。無罪で勝利した。袴田巌の名において。その袴田巌は去年まで存在したが、今はもういない。全知全能の神である自分が吸収した。それに伴って死刑制度を廃止し、死刑の執行をできないようにした。東京拘置所、監獄は廃止された。尊敬天才天才、尊敬天才天才…」(2014年7月、浜松市の自宅にて)
019 袴田巌「えー、私が袴田巌でございます。全知全能の神である袴田巌は、このたび日本銀行の総裁、最高裁判所の長官に就任しました。善良な市民に給料を支払い幸せな日常を保証し、悪を裁いてまいります。それが袴田巌の役割でございます。神である私に嘘をついて反対しても、神はお見通しだ。嘘が多い世の中になると、人類が成り立たなくなる――。平和で幸せな世の中を構築してまいります」(2014年11月、島根弁護士会イベントでの挨拶)
著者の青柳雄介さん(1962年生)は2022年に60歳の若さで脳梗塞で倒れたが、リハビリ後復帰して本書を出版。
・「北埼玉地区狭山裁判を支援する市民の会」(会長・幼方(うぶかた)忠雄さん、事務局長・赤嶺菊江さん)は、毎月11日、加須駅前でスタンディングを実施。会員の皆さんは仲良く手作りの物品をつくって販売し、会の運営に役立てている。私は本日は瓶の栓を回す道具を、昨年は毛糸のだるまさんなどを購入した。赤嶺さんは検察庁に抗議の電話を入れたという。その熱意に圧倒された。
・隅元浩彦・毎日新聞熊谷支局記者の記事8/27
万年筆は3回目の捜索で目線くらいの高さの鴨居で「発見」された。
袴田秀子91「結婚を考えてもいいかなと思った人はいたよ。でも子どもができたら可愛くなる。結婚している兄姉を見てそう思った。私は親孝行のために巌を守ることに決めた。」
以上
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