和田洋一『灰色のユーモア』『私の昭和史』『スケッチ風の自叙伝』人文書院2018 初版は理論社1958らしい
感想 2024年11月27日(水)
時代がもたらす深く沈滞した気分を感じる。
「私は今後数年間は思想的な問題にはなるべく触れないようにし、目立たないように生きてゆくほかない。」147
「私は当分はあまりものを考えないようにして、無邪気に飛び回ろうと思った。」155
「反ナチ運動をやっていた私が、今は結果的にナチに貢献する仕事をしている。それは苦痛だったが、考えないようにした。」166
「桜田門で車掌が「宮城前でございます」と言うと、乗客は一斉に宮城の方に向かってお辞儀をしなければならない。明治神宮の前を通る時も同様であった。」167
感想 2024年11月5日(火)
和田洋一の問題点を二点指摘する。
京都人民戦線事件で1937年の一回目の検挙は、その約一年前*の『世界文化』の集会後に、和田が下鴨署に連行されて脅され、その後も二、三回特高と接触した際に、集会の参加者名とその発言内容を特高に漏らしたことが原因となっている。そのことを和田は反省するどころか、『世界文化』を警察に対して擁護したのだからよかったと締めくくっている。スパイ行為に対する反省がない。伊藤律の場合と同様である。*昭和11年1935年11月
もう一つは、特高がマルクス主義=共産党と人道主義とを分けて考えるなら、それはそれでいいことだ(筋が通っている099)と述べている点である。共産党を見捨てないで欲しい。場合によったら見捨ててもいいとするところに、和田の自分さえよければいいという考え方が透けて見える。
感想 2024年10月28日(月)
東京の「人民戦線事件」の被告が6年がかりで無罪を勝ち取った、しかも敗戦1年前の1944年に勝ち取ったということは大きいのではないか。理論的な強みか。その点、京都の「人選戦線事件」の被告が全て自白を強要されて罪を認め、服罪したのとは大いに異なる。ちなみに横浜事件では、敗戦後の1945年8月から9月にかけて有罪判決となった。横浜事件では拷問が行われていた。有罪の自白を強要したのだろう。
有罪のはずのない「事件」が有罪になるというのは冤罪である。有罪は自白の強要によって行われた。自白強要の伝統は戦後80年経っても維持され続け、袴田事件でも有罪の供述は1日12時間とも16時間とも言われる取調べが1か月間も続き、その際棒で叩くなどの拷問も加えて得られたものだった。
本書は当時の警察の非人道的な取調べや処遇を明るみにしたという意味では貴重かもしれないが、自らの意志を貫いて闘うという観点からは、全く不甲斐ない。そういう不甲斐なさを共産党員やその支持者など果敢に闘った人々から批判されて叩かれたという不満は当たらないのでは。
感想 2024年10月23日(水)
和田洋一は戦前、(いわゆる「人民戦線事件」による逮捕)釈放後新聞社に入り、時世に沿った政権応援の(国策に沿った)記事を書いた。
「私としては、(京大文学部の学生だった昭和4年1929年から敗戦までの16年間の出来事の中で、私が本書で語るべきテーマとして)昭和十年から十二年ごろまで、反ファッショ文筆活動を勢い込んでやっていた時期を選ぶこともできるし、一緒に文筆活動をやっていた仲間の者が検挙されたためにひどく不安になり、自分も捕まるのではないかと怯えていた時期を選ぶこともできる。次には自分も検挙される身となって、留置場と未決拘置所の中で不自由な日を送った時期、釈放されて一旦新聞社に入り、良心のやましさを微かに感じながら、国策に沿った記事をつくっていた時期、新聞社をやめさせられ、ドイツ大使館の翻訳の仕事をやりながら、ドイツと日本の決定的敗北の日を待つともなしに待っていた時期、そうした時期のいずれを選ぶこともできる。」010
警察は時局に関する微妙なテーマで作文を書かせたり、蔵書名を言わせたりして、思想検閲をした。和田はそれに素直に従った。
「思想経歴がすむと、今度は小手調べというつもりだったのだろう、係長は私に次々テーマを与えて、作文をつくらせた。テーマというのは、「キリスト教について」「国共合作について」「人民戦線運動について」などであった。」026
「特高係長はまた私に、最近数年間に読んだ書物の名前を全部書けと言った。」030
感想 2024年10月25日(金)
本書は特高の言動を詳細に記述することを通して批判しているかのようだ。
・特高の顔は共産党に対する凄惨な弾圧を経験してきたサディストの顔である。
・特高に堂々と抗弁する男に対する特高による凄惨なリンチは、膝の内側に棒を入れて正座させ、腿の上に土足のまま乗って、体を上下左右にゆすって痛めつける。するとその後の男は大人しくなった。
・言うことをきかない女に対しては、膣に物差しを入れて物差しをぐるぐる回す。そうすれば女はぐたぐたになって言うことを聞く。
・警察署長の無賃乗車を咎めた車掌を呼び出してぶん殴っていたぶる。嵐電の社長が太秦署に来て詫びる。
101 未亡人と学生との情交 特高は二人に肉体の交わりをしたときのことを微に入り細を穿って陳述させ、二人の手記が食い違うとさらに問いただす。そして書かれた手記を読んでニタニタと笑う。「特高の巡査たちは息を弾ませながら有頂天になって読んでいた。そしてこんなおもしろい読み物はないといって、次から次に手記をまわしてよんでいた。」
未亡人は留置場には入らなかったが、学生は一週間くらい留置場に留め置かれた。
何で不倫が犯罪なのか。しかも未亡人なのに。
102 朝鮮人に対する検閲と高圧的態度 「朝鮮人が会合する時には、必ず警官の立ち合いの下でやれ、そして日本語を使用せよ」というおきてに反対し、朝鮮語を使わしてくれという運動をしたので、捕まえられた。太秦署特高の話。
優雅な話もある
・若手の特高警官と外出の用事があるついでに外食したり、酒を飲んだり、京都のあちこちを見物したりできた。
・留置場から出してもらい、特高室で新聞を読んだり、特高と雑談したりした。
・起訴されて拘置所に入ったら、余命いくばくもない母親にもう会えなくなるかもしれないから、一度母親に会わせてくれと頼んだら、上部の許可が下りて、会わせてくれた。
処遇決定権は東京にあるらしい
起訴するかどうかなど被告人の処遇決定権は、中央=東京にあったようだ。このことは今日と事情が同じだ。袴田事件でも静岡地検は最高検の方針にただ従っていただけで、独自に判断していたのではなかったようだ。
メモ
プロローグ
010 国会で治安維持法改悪に反対した山本宣治が右翼のごろつきに暗殺された昭和4年1929年のころが日本社会の蟻地獄の始まりだとすれば、そのころ私は京大文学部の学生で、社会科学にささやかな関心を示し、第二次世界大戦が起るかもしれないと、漠然とした不安を抱いていた。
「私が京大文学部の学生だった昭和4年1929年から敗戦までの地獄の16年間の出来事の中で、本書で語るべきテーマとして、昭和十年1935年から十二年1937年ごろまで、反ファッショ文筆活動を勢い込んでやっていた時期を選ぶこともできるし、一緒に文筆活動をやっていた仲間の者が検挙されたためにひどく不安になり、自分も捕まるのではないかと怯えていた時期を選ぶこともできる。次には自分も検挙される身となって、留置場と未決拘置所の中で不自由な日を送った時期、釈放されて一旦新聞社に入り、良心のやましさを微かに感じながら、国策に沿った記事をつくっていた時期、新聞社をやめさせられ、ドイツ大使館の翻訳の仕事をやりながら、ドイツと日本の決定的敗北の日を待つともなしに待っていた時期、そうした時期のいずれかを選ぶこともできる。」
011 以下本書では、自分も検挙される身となって身体を拘束され、留置場と未決拘置所の中で不自由な日を送った1年半ばかりの時期について述べる。京都では反ファッショ文化活動を展開した20数名が検挙され、半数の者が起訴されて刑務所に放り込まれたが、京都の検事局が新聞記事差止め令を出したためにこの事件は闇に葬られていた。
同志社大学予科教授であった私と同僚2名、関西の各大学、専門学校の講師、研究者、女学校の教諭など学校関係者が10数名、弁護士1名、新聞記者2名、その他計24、5名が、かなり長い間社会から隔離された。
私たちと同じころ東京でも「人民戦線運動」と呼ばれる事件が起き、2回にわたって一斉検挙が行われた。第一回目は、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、向坂逸郎、鈴木茂三郎など400名で、第二回目は大内兵衛、有沢広巳、磯村義太郎、美濃部享吉などのいわゆる「教授グループ」であり、全国の新聞が大々的にこれらの検挙を報道した。
012 敗戦後鹿地亘が突如闇の中に消えた。それが一、二の人の勇気と努力によってようやく明るみになり、新聞が大々的に取り上げたために世論は動き、米占領軍に対する恐怖が日本国民の間に沸き起こった。鹿地亘は1951年に米軍機関によって監禁されていたのである。戦前鹿地は東京帝大在学中にプロレタリア文学運動に参加し、1929年に日本プロレタリア作家同盟を結成し、1936年上海に渡って重慶で日本人民反戦同盟を組織した。270
京都の「人民戦線事件」とは、合法的に出版されていた『世界文化』『学生評論』『リアル』という三つの雑誌と『土曜日』という新聞の編集者、執筆者が、コミンテルン第七回大会の方針にそって行動していると一方的にみなされ、検事局の指令によって逮捕・起訴された事件である。
私はこのうち『世界文化』だけに関係していた。『世界文化』は頁数60頁くらいの薄っぺらい月刊雑誌で、発行継続中の3年間に一度も警告を受けたこともなく、いわんや発行禁止の処分を受けたこともなかった。とはいっても当時の日本の国策に沿わない海外文化ニュースや当時の日本のジャーナリズムが取り上げないような反ファッショ文化情報ばかりを取り上げていた。
013 この『世界文化』の中心的地位にいた新村猛君が最初に検挙されたが、検挙の理由が分からなかった。ひょっとしたら『世界文化』のためだろうかと考えたが、まさかと思った。検事局が新聞記事の差し止めをしたのは、検挙の行為に自信がなかったのかもしれない。
014 『世界文化』のメンバーであった新村猛、真下信一、中井正一、久野収、禰津正志の5人が最初1937に検挙され、第二次の検挙は翌年1938年に行われた。
検事局だけの言い分を載せ、逮捕された者の言い分を載せないにせよ、報道されないよりは報道された方がましだと20年後の今の私は考えている。というのは、事件が新聞に大きく出て国民が注目しているかぎり、当局もある程度つじつまの合った取調べの結果を公表しなければならないからである。ところが新聞記事が差し止められ、一般国民が何も知らなければ、当局は非常に楽で、何でも勝手なことができる。
私たちの仲間で起訴された者は全員、執行猶予つきの有罪の宣告を受けたが、誰もかれも一審で大人しく服罪してしまった。うっかり控訴すれば、こいつは生意気だとまたやられるという危険を感じていたからである。
015 一方、東京の人民戦線事件の被害者であり教授グループの一人である脇村義太郎氏は、当時を回顧する座談会(雑誌『世界』昭和33年1958年4月号所載)の中で、「私達は治安維持法事件では珍しく大量の無罪判決を勝ち取った。無罪の判決を勝ち取るまでに6年間、戦時下の暗い時代に実に苦しい戦いをしました」と述べている。
この無罪判決は1944年のことである。戦いをあっさりと断念した私は恥ずかしい。ただ脇村氏は「逮捕の際大きな号外まで出した新聞は、無罪の報道はたった数行でした」と述べている。京都事件のように報道されなかった事件が、京都以外にもあったのかもしれない。
016 特高や思想検事、国粋主義者が大きな顔をし、民衆は怯え、小さくなっていた。ひどい時代だった。今の私には当時のことがあほらしくまたユーモラスにも見える。
017 最近は反動右翼によっていよいよ強く押されている観がするが、破局への一方的な傾斜ではない。
私は20年前のことをあれやこれやかなり詳しく覚えている。私が検挙されたのは昭和13年1938年6月24日で、以下その日の朝のことから順に述べる。留置場や刑務所の中で日記をつけていたのではないから、正確な日付は分からない。分かっている分は、死んだ父が残した日記と、私が未決監から家族あてに出した手紙による。
第一章
とうとうやってきた
019 1937年秋、昭和10年1935年以来発行されていた『世界文化』の関係者5人が逮捕された。その5人の中の真下信一と新村猛は、同志社大学予科の私の同僚である。
021 留置場の部屋の中を歩くと叱られた。
022 横になっても立ってもいけない。
023 特高係長は憲兵育ちで、その眼にはすごみがあり、鼻や口元はふてぶてしく、左翼弾圧でたたき上げてきた顔をしていた。
024 特高の左翼掛は谷本巡査という。
025 先ず思想経歴を書かされた。
026 次はテーマ「キリスト教について」「国共合作について」「人民戦線運動について」などに関する作文を書かされた。
私と同じ日に捕まった人 『土曜日』の編集者・弁護士の能勢克男、元同志社大学教授の林要、『世界文化』では、映画・演劇の辻部政太郎、仏文学の森本文雄、ロシア文学の熊沢復六、英文学の米田三治、哲学の島津勤、永島孝雄など京大生で『学生評論』のスタッフ若干名、毎日新聞記者の関原利夫、唯物論研究会の梯明秀など15、6名であった。
027 下賀茂署特高の構成 左翼係、右翼係、朝鮮人係、出版検閲係、経済係、宗教係、庶務係、係長、巡査部長など計10人。
特高N
028 ヒトラーは強制収容所コンツ・ラーガーに「思想犯」を何年も、裁判にかけないで収容していた。
同志社と縁が切れる
030 押収された百数十冊の蔵書の入手方法や、最近読んだ本の書名を調べられた。
033 マルクス主義の理論家で『学生評論』発行責任者の(京大生)草野昌彦は、8か月前に下賀茂署に捕らえられていた。
同志社大学予科長は私に「至急辞表を出してもらいたい」と言ってきた。
前年1937年、配属将校と同志社の予科教授会とが対立し、その年の秋に、二人の予科教授を赤い容疑者として出し、総長は辞任した。
034 私の父は40年間同志社に勤めていたが、私の逮捕で学長を辞め、講師となった。
第二章
永島孝雄のこと、スパイのこと
下鴨の特高係長は私の他に、五条署に留置されていた英文学者の米田も担当していた。
京大生の永島孝雄は演劇もやっていた。母親は朝鮮の京城にいて、見舞いに来た。父親は京城の控訴院長(朝鮮では覆審院という)であった。母親は気位が高くペコペコしなかった。その後永島はどこか他の警察署にまわされたらしい。永島は執行猶予にならず、実刑となった。京都の「人民戦線事件」では例外であった。永島は1年近く服役し、1941年の秋か冬のころ病死した。永島は「転向するが、自分の考えは間違っていない」と言ったとのことだ。野間宏の『暗い絵』の主人公・永杉英作は永島をモデルにしている。永島が『学生評論』以外にも多くの政治活動をしていたと最近知った。
038 中島重は元同志社大学法学部教授で、そのころは関西学院の教授をしていて、月刊雑誌『社会的基督教』を発行していた。
下鴨署の特高は某老人が橋や建築物の写真を撮ったことにより、アメリカ宣教師のスパイだとして検挙して来て、机を棒で叩いて脅したが、老人は一晩留置された後で釈放された。写真を撮っていた老人を尾行して家宅捜査をした後に連れて来たらしい。
朝鮮人(蔑視)
043 特高は、ばくちをしていた有閑朝鮮人青年を検挙して来たが、身分がいいからか、一晩で釈放した。
中年の某朝鮮人が、担当の仕打ちに腹を立て「何をするか!」と担当に怖い顔で開き直ったところ、担当はその朝鮮人に手錠をかけて廊下のたたきの上に座らせ、太ももとこむらはぎの間に竹刀を突っ込み、靴のまま太ももの上に乗っかって体を上下に揺さぶった。朝鮮人はうめき声とも叫び声とも分からない異様な声をあげた。朝鮮人は翌日から羊のように大人しくなった。
044 ここ(警察)へ来て逆らったら損をするだけだ。
特高係長は、基督教が日本人を軟弱にするから、日本を強い国にするためにはキリスト教を日本からたたき出してしまわねばならないと考えていた。
先ほど述べた中年の某朝鮮人は、うんざりするほど長期間留置場の中に閉じ込められた後で、釈放された。
特高の内鮮係は日本国内に居住している朝鮮人の生活の全てを担当した。矢野は内鮮係だった。矢野は某朝鮮人に「身なりが悪い、着替えてこい」と言い、彼が衣装を借りて身なり整えてやって来ると、今度は「明日来い」という。
人民シェンシェン(なぜ「シェンシェン」というのか分からない)
048 今まで述べて来た(下鴨署の)特高係長は安田寅吉という。昭和の初め、非合法運動に対する弾圧が激しかったころ、安田は左翼の闘志に対してずいぶん拷問をやったらしく、「わしも相当やったから、畳の上でまともな死に方はできんやろ」と言ってワッハッハと笑った。彼の笑いにはいつも陰惨なものがつきまとい、彼の人相がそれを告白していた。あらゆる残忍な方法で苦しめ、拷問によって相手が苦しむことに快感と生きがいを見出し、そういう生活を5年6年続けたものでなければもてないような人相をしていた。
049 彼の理解している人民戦線運動とは、マルクス主義者がマルクス主義の旗を掲げないで、反ファシズム、あるいはヒューマニズムの旗を掲げて、合法面で闘うことであり、それは日本についていえば、国策遂行を快く思っていない人々、自由主義者、ヒューマニスト、宗教家、被抑圧民族としての朝鮮人などにマルクス主義者が働きかけ、国策ないし中国侵略に反対している人民の統一戦線を結成する運動であった。フランスではフランス共産党がイニシアティブをとって、フランスの社会党や急進社会党に働きかけ、反ファシズム人民戦線を結成し、人民戦線内閣を成立させたが、日本でもそういう方針が取られ、その真似ごとがいま行われつつある、と彼は理解していた。そしてその方針は1935年、コミンテルン第七回大会でディミトロフが提案して採択され、京都の『世界文化』『学生評論』『土曜日』『リアル』などは全てこの方針に沿って編集され発行されたものである、と安田は確信していた。それはまた京都の思想検事の指導方針でもあった。
ある日安田警部補の上役である下鴨署の警部が特高室に入ってきて、特高室に掲げてある「滅私奉公」という額を見て、「『滅私』がしっくりしない、私も生かして天皇様や国家のために奉公するのがいいと思う」と言ったところ、安田は「あの警部さんも人民戦線やで」と言った。
051 安田は、「人民戦線派はヒューマニストの顔をして、『滅私奉公』という言葉にケチをつける」と確信していた。
パンフレットをまき散らして脅迫がましいことを盛んに行っていた国粋主義運動の中心的位置にいた若松某が、ある日、黒紋付を羽織ってやって来た。彼の扇には日の丸が描かれていた。052 安田は先日は特高の部員たちが御馳走になったと礼を言った。
米田三治026は茨木女学校の英語の教師で、『世界文化』では英米の文化情報を引き受けていたが、理論家でもマルクス主義者でもなかった。米田は「天皇制について書け」といわれも「不勉強で書けない」と言ったところ、米田は釈放された。
若い女性容疑者
警察用語の「たこをつる」とは「人民をしぼる」意味である。係長が「川端署の中井はたこをつっているそうや」と言った。美学者の中井正一である。中井が一般市民に対して警官づらして𠮟りつけたり、からかったりしているのだという。
054 特高たちはキリスト教の牧師に対して、他の人たちよりも一層たこをつるようだ。某牧師が「野外伝道のために天幕を張らしてくれ」と頼んだところ、係長は「やめとけ」と意地悪を言ったが、結局は許してやった。
牧師のKは私の父とも関係があり、ある日私を見舞いにやって来たのだが、私は会わなかった。
055 私は『世界文化』の最終号に「ナチス・ドイツの宗教戦争」という文章を書いた。それはドイツのプロテスタント教会が最初はナチ主義の本質を理解せず、ヒトラーの政策に譲歩したり、迎合したり、無関心であったりしていたが、次第に事柄の重大さに気づき、組織的な抵抗をはじめ、信仰の自由と教会の自由を守るために闘い、ヒトラーもたじたじだという情勢報告である。
それに対して日本のキリスト教会は、侵略戦争阻止の点では無力で、クリスチャンは聖戦を信じ、軍部に対してビクビクしている、と私は思っていた。
056 ある日左翼思想容疑の二十歳前後の若い娘が連れて来られた。女性はぐったりと意気消沈していた。女性は畳の部屋に入れられた。
留置場の中では便所に行く時間が決まっていた。朝の6時と10時、昼の2時、夕方の7時であったと記憶している。
巡査部長のKは、彼女を調べて1週間経っても、彼女の強情さにてこずっていた。「いつまで自分は正しいゆうて頑張りやがって。いい加減に頭をさげえ!」
私はマルキシズムを批判していた。彼女は(マルキシズムは)正しいと頑張っていた。
059 特高Nは一番の古参で、「エロの大家」と言われていた。N曰く「女がしぶといゆうたって、何でもありまへんで、私はね、女がどつかれても、けられても、髪の毛を引っ張られても白状しよらん時は、物差しを持ってきて、穴の中に差し込んでやりますね。そして両手でキリキリともんでやりますね、そしたらどんなしぶとい女でも、とびあがりよりますわ、そしてすぐ白状しよりますわ」
Nは人をまともに見ることができず、いつも下眼づかいをして、ジロッと相手を眺める。顔色は全くの土色である。これは栄養失調からきているかもしれなかったし、エロの方で精力を浪費することから来ているかもわからなかった。Nは特高の中でも一番陰惨で哀れな男だったが、この男がある日巡査部長に昇格した。
061 留置場に閉じ込めておくことを「蒸す」と言ったが、彼女は一月前後で釈放された。
私のことが右翼の新聞に
特高Mは或る日曜日に日直をしていて、私と草野君を朝から特高室に出してくれた。
草野君の起訴は、京都の検事局が中央にお伺いを立てていて、その裁可がまだ下りていなかった。日本の検事はすべてが一体であり、ピラミッドの中心は大審院検事局であり、下部は重要事件に関しては、必ず上部に伺いを立てるという定めがあった。それは馬鹿々々しいと私は思った。なぜならば、今では警察や検事局がどんな酷いことでもやりおおせる時代になっていたからである。
特高Mが右翼国粋派の新聞に私のことが載っていると言った。それによると「昨年秋、同志社大学予科教授中、不逞な思想を抱いていた真下信一、新村猛の二名が検事局の指令によって検挙され、そのため総長・湯浅八郎は責任を感じて辞表を提出し同志社を去った。しかるに今年六月、同じく予科教授であり現在同志社大学学長の長男である和田洋一が、またまた赤い思想の故に検挙されて取り調べを受けている。このような好ましからぬ教授を多数抱え、純真な学生に害悪を流し込んでいた同志社は、いかなる処置をとることによって、罪を天下に謝せんとするか」
この国粋主義の新聞は差止令に違反していた。Mは府庁の特高課に電話し、「代表者は呼び出されて罰金を申し渡されるだろう」と言った。
1938年2月1日、東京帝大教授大内兵衛、助教授脇村義太郎、有沢広巳、法政大学教授美濃部亮吉らが学年末試験を前にして検挙されたとき、記事差し止めにはならなかった。新聞は検事局の見解を一方的に伝え、大内氏ら労農派の共産主義的方針はこうであると解説し、「第二次人民戦線運動」という言葉を見出しに使い、「彼らの運動は治安維持法第一条に違反する疑いがある」と書いた。
″クウトベ″
065 安田係長は、クウトベ出身の小林陽之介が京都に潜伏しているのを検挙1937したと部下や草野君や私に法螺を吹いた。安田係長は得意げにクウトベについて説明し、日本の特高警察のすばらしさを自慢した。
066 小林陽之介は中立売署で酷い拷問を受け、懲役5年の判決を受け、1942年、千葉刑務所で獄死した。
月給
日出新聞(京都新聞の前身)の杉山記者はよく特高の部屋を訪れて来た。私の友人も日出新聞に勤めていたが、月給は30円(今の5000円くらい)しかなかったので辞めてしまった。下鴨署には署長以下警部補が4、5人いて、安田特高係長も警部補だった。外勤係長の警部補は熊本の五高を中退し40歳近くだったが、月給は50円しかなく、薄給を嘆いていた。
意図
068 特高から次々に与えられるテーマに関する作文は一月以上続き、その後は私が発表した論文や随想、書評、雑文など30篇を思い出してその解説を書かされた。
与えられたテーマは、キリスト教全般についてや人民戦線、国共合作、天皇制についてだった。私は著述の中でコミュニズムの宣伝はしなかった。私の著述30篇中での反ファッショ関連の文筆活動は24、5篇であるから、一日一篇書けば1か月で終了し、留置場から検事局へ行けると楽観していた。
しかし著述の意図を書くことは難しかった。ある意図を書くとまた次の意図を書けと言われる。作文は印刷されて証拠品となる。私は国体変革にも触れていないし、私有財産も否定していない。そして私の著述は日本のことではなくヨーロッパのことであるし、政治的宣伝ではなく、文化事情の報告である。しかし特高はその報告の意図は何かと迫る。
070 特高はしつこかった。『世界文化』関係者よりも一足先に捕まった『リアル』の同人たちの中の田中忠雄と永良巳十次が、「日本で共産主義社会を実現するために書いた」と告白してから、特高や検事は自信を持つようになった。
昭和12年1937年11月に捕まった『世界文化』のメンバー5人の中で、久野収が真っ先に「意図」を認めて起訴され、未決へ送られた。昭和13年1938年6月に検挙されたメンバーの中で、私は真っ先に久野収に倣おうとしていたが、なかなか意図を明らかにする踏ん切りがつかなかった。
071 特高が私に見本として見せた久野収や田中忠雄の手記は、堅紙の表紙がついた分厚いものだった。京大法学部教授の大岩誠は『世界文化』や『リアル』とは別系統だったが、大岩誠も私よりも先に検挙されていて、私はその手記を読んでみた。大岩誠はフランス滞在中に娼婦を社会主義に目覚めさせたと書いてあった。
田中忠雄は京大哲学科の出身で、私の同僚である真下信一の後輩であったが、田中は「共産党の秘密使命を持って真下信一を同志社に訪ねた」などと書いてある。072 田中忠雄は『リアル』に「岩波人を警戒せよ」を発表していた。「岩波人」というのは、阿部次郎や和辻哲郎、安倍能成などのことで、田中は彼らについて「もったいぶって眉唾ものだ」と書いていたが、田中の警察での手記には、「岩波人を警戒せよ」というちっぽけな論文も、「日本共産党の運動を助長し、日本に共産主義社会を実現する意図をもって書いた」ということになっていた。(特高に屈服した和田洋一自身だって同じ穴のムジナではないのか)
私はドイツの左翼作家や自由主義作家、ユダヤ系作家がヒトラーに追われ、国境の外で文筆活動をしていることに対して精神的支持を送り、彼らの活動を日本の読書人に伝え、ファシズムに対する怒りと憎しみを日本の知識人の間に培おうとした。それは事実である。しかし私はさらに「人民戦線の気運を盛り立てて広げて行こうとする意図で書いたが、それはコミンテルン第七回大会の方針に沿うものであり、大会の方針に沿うことによって、私は日本の共産主義運動の助長を図ったのであり、究極的には日本に共産主義社会を実現しようとする意図をもってこの論文を執筆したのであります」と書いた。
073 ヒトラーが政権を握った翌々年の昭和10年1935年の夏、私は神戸商科大学の学生新聞からドイツ文学の現況について書いてくれと頼まれて書いたのが最初であった。日本のドイツ文学研究家はトーマス・マン、ブレヒト、トラー、デプリーン、レン、ヴァッサーマン、ケストナーなどに尊敬と親愛の情を寄せていたが、彼らがヒトラーによって「赤」「ユダヤ人」「非国民」などとレッテルを貼られるようになると、急に冷ややかになり、亡命地での彼らの活動を見て見ぬふりをするようになった。
その1935年の秋から、私は京大独逸文学研究会の機関紙『カスタニエン』に、「故国を逐(お)われた作家達」と題して、ドイツの国外で発行される小説や戯曲の内容紹介、作家の動静報告などを5回にわたり連載した。そして『新潮』や、改造社発行の『文芸』『東大学園新聞』『京大学生新聞』『大阪毎日新聞』などから執筆依頼を受けた。また『世界文化』には文学関連以外のこと、例えばハイデルベルク大学での紛争や、反ナチの週刊雑誌のこと、反ナチの宗教闘争などについて書いた。
074 当時ドイツの亡命作家の著書や雑誌は、三越の洋書部が扱っていた。三越の洋書部には小松太郎というドイツ文学の研究家がいて、小松はケストナーの『ファービアン』の訳者でもあった。小松のお蔭でフランスやスイス、オランダで発行されるドイツ亡命作家の書物が、三越の店頭に並んだ。しかし三越洋書部は次第に消極的になり、亡命作家の本が入手しにくくなった。
モスクワ発行のドイツ語雑誌『ダス・ヴォルト』や『国際文学』などは京大正門横のナカニシヤ書店を通して入手できたが、私が検挙されてからはこのルートは途絶えた。ナカニシヤの親父さんは「今後ソビエト向けの注文は扱いません」と誓約してやっと警察に許された。
075 私が書いた反ナチの文章は、検挙2か月前に大阪毎日新聞の京都版に書いた短文である。それは教え子の横山健一の要望によるものだった。私はそのころ迷っていた。もう当分何も書かないで謹慎しておこうと考えたり、破れかぶれでもっと書いてやろうとも考えたりした。
日本国内の形勢は日に日に悪くなるばかりで、出征軍人があると日の丸の旗を持たされて万歳三唱をさせられ、同志社大学予科長で陸軍予備大尉の小畑先生や配属将校がますます意気揚々とし、自信満々の顔をしてくるし、国防研究会の学生は調子に乗って暴力をふるい出した。破れかぶれになった私だが、毎日新聞に対して亡命作家のことを書くことだけは遠慮した。私はドイツ国内で出ている文化雑誌の記事を材料にして、ヒトラー支配下のドイツの文化がいかに愚劣で低級であるかを論じてくそみそにこきおろした。
第三章
下鴨から太秦へ
077 私の特高に対する降伏手記の末尾「毎日新聞に掲載した文章を執筆したのは、ヒトラーの独裁政治がいかにドイツの文学を傷つけ、損なっているかを日本の国民に知らせようとしたのでありますが、そうすることによってファシズムに対する日本国民の不信と憎しみを強め、日本国内の人民戦線の気運を増大し、ひいては日本共産党の運動を援助し、究極的には日本に共産主義社会を実現しようとする意図に基づくものであります」
草野昌彦*は未決監に送られた。
*草野昌彦はマルクス主義の理論家で『学生評論』の発行責任者の京大生033
特高係長の安田は、係長から人民戦線運動を取り調べる専門家となったが、部下を失って寂しそうだった。
078 下賀茂署の新しい特高係長に尾崎というロシア語の達人が赴任した。尾崎はロシア語の学習を私に勧めたが、私は断った。
私は手記を安田に提出し、安田はこれでいいと言った。私は手記に署名し、拇印を押した。検事局の取り調べは1か月後ないし2か月後になり、検事局での取調べは1か月続くと予想される。それが済んでしばらくして、年内に未決監入りするだろう。
079 私は下賀茂署の特高係の巡査全員と友だちになり、散歩や風呂やコーヒーを飲みにつれていってもらった。係長の尾崎は私に「未決監では足をやられるから運動をして鍛えておけ」と裏の空き地でのランニングを勧めた。
未決監は1年続くだろう。もう下鴨署に来てから3か月になる。便所にも裏の空き地に行くにも監視はつかなかった。今はまだ暑い9月であり、空地は200坪もある。私はランニング後特高の部屋でタオルで汗をぬぐった。
080 翌日晩飯後の午後6時ごろ、特高のTが「太秦に変わる」と言ってきた。私の荷物は風呂敷包み一つである。太秦署には市電から嵐山行きの電車に乗り換え、家から1時間はかかる。タクシー代を払わされた。
太秦署の房は木の柵ではなく金網だった。私の同志社の教え子で英文科の学生・太田が独房に入っていた。
私は下鴨署では眼鏡をつけたままでよかったが、太秦署では取り上げられた。不便だったが留置場では何も読ませてくれない。
元同志社法学部教授の林要026は私と同じ日に東京の自宅で検挙され、京都に護送され最近まで太秦署に留置されていた。次に元予科教授の新村猛君013が西陣署から太秦署に回って来ていた。学生の太田は私が来る前日に太秦署に来ていた。太田は捕まった晩は泣き明かしたという。
082 新村は検事局の調べも済み、未決監入りを待っていた。私は検事局の調べが済んでいないので、(新村との)話し合いを禁じられた。太田は3晩泊って釈放された。
太秦署の特高は6人で下賀茂署より4人少なかった。係長の黒田は思想には疎かった。巡査部長の木村は特高らしい特高であった。太秦署に来る前は川端署に勤めていた。木村は『世界文化』の会議の張込みをしているとき、久野収のしょんべんのしぶきをかけられたという。ご苦労さんなことである。
ミュンヘン会談
『世界文化』の執筆者の一人である物理学者の武谷三男が、私が太秦署に来て1週間後に、下宿から太秦署に連行されて来た。
084 武谷は雑居房に入れられた。彼は阪大の物理学研究室で小数点以下の無限に小さい数字の計算をしていて、「紙と鉛筆をくれ」と警官に要望した。
特高は新村猛と私を2日に一度は留置場から出してくれた。新村は留置場生活を10か月、私は3か月過ごしていた。新村猛と私の二人は二階の特高の部屋で新聞を読めたが、武谷は放置されていた。
085 ある日曜日に(特高)係長が「散歩に連れていってやる」というので、武谷も同行できるよう頼み、私と新村と武谷は連れ立って出かけた。嵐山駅まで嵐電に乗った。武谷は「学問研究に唯物弁証法を採用しているだけで検挙なんてあるのか」と不平を云った。武谷はベートーベンの第九「歓喜に寄す」を歌い出した。
086 1938年9月29日のミュンヘン会談では、イギリスのチェンバレン首相、フランスのダラジェ首相がミュンヘンでヒトラーと会談し、チェコスロバキアの領土の1/4にあたるズデーテン地方をナチ・ドイツ軍が占拠することになった。そのことを私たちは新聞で知ったが、このとき武谷はおらず、検閲係のTと私と新谷の三人しかいなかった。
(ミュンヘン)会談ではファシズムの流れは変えられないと私は考えていたが、新村には未練があった。特高Tはミュンヘン会談を歓迎した。「チェコなんて生意気な国は潰してしまえ」翌1939年3月にTの意見通りになった。ヒトラーがプラーグに入城したその晩、チェコ人は家に閉じこもって泣いたそうだ。私はそのころ未決監の中にいて新聞を読めなかった。
退屈
武谷が別の警察署に回されたらしく、ある日突然いなくなっていた。
088 下賀茂の留置場ではゴザが二、三枚敷いてあるだけだったが、太秦署では畳が敷いてあった。弁当代は下鴨では一食3銭5厘、太秦では5銭であった。5銭は今の値段にすれば8円くらいである。
留置場では本が読めないのがつらかった。望みは特高が呼び出しに来てくれるのを待つだけだった。
089 晩の弁当の副食物は、漬物か菜っ葉を醤油で煮たものしかなかった。
太秦署の特高は家の者が面会に来た時には必ず私たちを呼んで面会させてくれた。
退屈だった。
090 妻が二日か三日に一度は菓子や果物か何か土産を持ってやってきた。妹も一、二度来たことがある。妻や妹が帰った後でも特高室に居残って新聞や雑誌を読み、丼物やランチを取って食べた。栄養失調を防ぐためである。
新村猛の父親・新村出が太秦署に一度だけ訪ねてきた。新村出は今は京大教授を辞めていたが、恩給は「300円と少し」と、新村猛が周囲の質問に答えると、特高は「わしらの給料の10倍だ」と唖然とした。
私立大学では恩給が出ない。同志社を40年間勤めて辞めた私の父は、数え年69歳だったが、文学部の講師として生活費を稼いでいた。私の妻子は私が同志社からもらった500円の退職金で生活していたが、その額は3、4か月分の生活費でしかなかった。知人や教え子や親戚が3円、5円、10円と見舞金を寄せてしてくれた。
092 私のたった一人の弟は兵隊にとられて中支へ行っていた。私は弟へ手紙を送りたいと要望したが、下鴨署は許してくれなかった。
義弟の守屋典郎は五条署に留置されていた。守屋は『世界文化』や『学生評論』とは関係がなかったが、治安維持法違反容疑により、私より3か月前に検挙されていた。義弟の妻、即ち私の妹は、豊中から小学校の二年生の一人娘を連れて下鴨の家に仮寓居していた。
闘わなかったということ
093 太秦署の情報係に木下という巡査部長がいた。彼はかつて下鴨署の特高であり、『世界文化』のメンバーを突け狙っていた。情報係は巡査部長1人と巡査1人の2名で構成されていた。
私が下鴨署にいたころの下鴨署の特高係の若い巡査2名が太秦署にやってきて廊下でばったり会った。彼らは「今の下鴨署の巡査部長とは働きにくい。以前の木下巡査部長はとてもよかった。戻ってきて欲しいと伝えに来た」と言った。木下はなぜ情報係に回されたのか。木下は「情報係は隠居仕事でつまらない。生き甲斐の感じられる特高に戻りたい」と言った。
094 昭和11年1935年11月、『世界文化』の主要メンバー5人が検挙される1年前のことである。北白川の誰かの下宿で『世界文化』の最新号に関する合評会を持った。私は夜の11時頃一人で百万遍から出町柳に向かい、高野川の橋を渡りかけたとき、二人の特高に呼び止められ「下鴨署まで来てもらいたい」と言われ、橋から200m程上手にある下鴨署に行った。
眼の鋭い、頬骨の出っ張った男は、木下巡査部長だった。「今晩はどこへ行っていたのか、何をしていたのか。」「友だちの家で雑談をしただけだ」と答えると、木下特高は鞭(むち)か何かで机の面をはたいて言った。「いい加減なデタラメを言ったらだめですぞ。今日の会合には何人集まったか、何から何まで知ってるんですぞ。いい加減なごまかしを言うと、今夜は家へ帰しませんぞ。」
私はそう言われたとたん、恐らく真っ青になったことであろう。私はあっさり手をあげてその晩集まった者の名前や、会合の模様を包み隠さず言ってしまった。眼鏡をかけたもう一人の特高は一言もしゃべらず、私の言うことをメモするだけだったが、眼の鋭い男(木下)は『世界文化』についてしつこく追及した。(木下)特高は非合法分子が(『世界文化』の中に)潜入していると疑っていた。私が二時間以上しぼられた後で、木下は「今後『世界文化』の内情について話してくれ。それを承諾するなら今夜は帰ってよい」と言った。私はそれを承諾した。
その晩は寝床の中で、精神的拷問や特高の威嚇的口調や眼付きなどに付きまとわれた。
096 その後私は木下巡査部長から面会の時日を指定した手紙を受け取り、3回下鴨署に行った。最初の夜は威嚇的で強迫的だった木下は、今度はがらりと態度をかえて「すみまへん」「すみまへん」を連発し、『世界文化』について根掘り葉掘り聞こうとした。二度目、三度目の時には帰り際に「今度は何とかしますわ」と買収をにおわせた。
私は恐怖心から警察に行った。拒否すればどんな恐ろしい仕打ちをされるか、と考えたからであったが、反面では『世界文化』がそれほど危険ではないと説明もしたかった。『世界文化』の例会は、毎月1回雑誌が出た後での合評会であり、学問的討論や世界各国の文化の情報交換だけだった。私は出席者名や、その発言内容を特高に伝えたが、それは特高の誤解を解くためでもあった。(甘い)
それでも特高の疑惑は消えなかった。私は「『世界文化』は合法的な出版物であり、毎月京都の警察と東京の内務省に献本しているから、それを見た上で判断してもらいたい」と言ったが、結局だめだった。私はそれ以上警察に行くのをやめたが、木下はあきらめないで私に匿名の手紙をよこし、学校へも電話をかけてきた。木下は手紙の中で懇願して、会ってくれと言ったが、私は会わなかった。そして特高に今まで密かに会っていたことを『世界文化』の友人たちに報告した。ひどく憤慨した者も一、二あったが、私は良心に恥じることはなかった。(甘い)
098 木下巡査部長とはそれ以後顔を合わせることはなかった。そして二年目に太秦署で思いがけずに再会したのである。
或る晩、今は情報係の木下巡査部長と私と新村の三人で、おでん屋で飲んでから、警察に戻って雑談した。木下が私に言った。
「和田先生、あんたは警察の取り調べに際してさっぱり闘っていない。和田先生がマルクス主義者や共産主義者でないことは私が一番よく知っている。それなのにあなたはマルクス主義者にされて起訴されようとしている。もっと闘わなければいけないのに、ちっとも闘わなかった。『世界文化』の中にはれっきとしたマルクス主義者や共産主義者もいた。もう少ししっかりして人生をやり直すんですなあ」
099 木下元特高に言われた通りに、私は留置場に戻って「睾丸のしわを伸ばして」いろいろと思いにふけった。
さまざまなお客
100 (次は、嵐山電車の車掌が、太秦警察署長の無賃乗車を咎めたために、車掌自らばかりでなく、嵐山電車の重役までが警察に謝罪に来たというお話など)
「お前、嵐電か?」相手が頷くと、次の瞬間に拳骨が横面を見舞っていた。署長は前日身分証明書を持っていなかった(「見つからなかった」)ので、「わしは太秦署の署長じゃ」それに対して車掌は「電車賃を払わないのなら終点まで来てくれ」
融通が利かない車掌に「おれとこの署長はなあ、大臣に見えるほどええ顔をしているはずや。それぐらい、顔見たらわかりそうなもんや、本当にアホウやなあ、お前は」
今度は嵐電の重役が謝りに来た。「平生から従業員にはよう言い聞かしているんですが、どうもわからんのがいまして…」と、部下のせいにする。
反戦的言辞を弄したというだけで引っ張って来られ、いろいろと追及される、私と同年配と見られる男もいた。謄写版刷りの同人雑誌の内容が、時局にふさわしくないとして𠮟られている青年もいた。検閲係のT「この頃は事前検閲ということをやっているから、印刷する前に持ってきて、みてもろうたらまちがいがない」
未亡人と関係した学生も引っ張られてきた。未亡人も呼びつけられて特高室に姿を現し、自分の方から学生を誘惑したという。警察は男女両方に初めて肉体の交わりをしたときのことを微に入り細を穿って陳述させる。それがぴったり合わないと、さらに問いただす。二人の手記を特高の巡査たちは息を弾ませながら有頂天になって読んでいた。こんな面白い読み物はないと言って手記を回し読みした。
未亡人は特高の部屋に二、三度呼ばれて、質問に答えたり、手記を書かされたりしていたが、留置場には入らなかった。しかし学生の方は一週間くらい留めておかれていた。
102 主人が共産党員で刑務所に入っていて、留守を守っている奥さんが、数え年三つの子どもと一緒に引っ張られてきて、留置場生活していることもあった。奥さんは特高に怒鳴られてしくしく泣きだし、ハンケチで顔を拭いていた。そのあいだ三つの子どもは部屋の中を独り言を言いながらよちよち歩き回っていた。
朝鮮人の学生も現れた。この学生は「朝鮮人が会合するときには、必ず警官の立ち会いの下でやれ、そして日本語を使用せよ」という掟に反対し、朝鮮語を使わしてくれという運動をしたので捕まえられた。
彼は酷い拷問をやられたそうだ。留置された期間もかなり長かった。彼は便秘しているからという理由で黒砂糖の塊を買って食べることを許してもらっていた。私が年がら年中便秘で困っているというと、黒砂糖の塊を二つに割って私にくれた。
103 私はせっかくの好意だったので食べてみた。美味しいとは思わなかったが、太平洋戦争の末期に砂糖がいよいよなくなってきたころ、この黒砂糖をしきりに思い出した。
警察署の中で、怒鳴るのは警官、怒鳴られるのは人民と相場が決まっているが、たった一度だけ例外があった。
背の低い四十がらみのおっさんで、紺の背広を着ていた。会社員や商売人ではないようだった。そのおっさんが大きな声で怒鳴っている。特高係長と私服ら三人は怒鳴られて、下を向いたり横を向いたりしていた。どうやら警官の方が人違いをして嫌疑をかけ、人権蹂躙をしたらしかった。その男は悠々と引き上げていった。私は国民全般がひどく軍人を恐れ、警官に怯えるようになっている今日、何と肝っ玉の太い男だと思った。
ところがそれから三、四日経って、その男は留置場に入っていた。それから数日経ったある日、その男と顔が合った。彼は薬剤師で、劇薬や毒薬を売ったとき、客から買受証を取って、それを二か月か三カ月は保管しておかなければならない。それは重要な規則ではなく、薬剤師は誰も厳格に守ってはいない。ところが太秦署の署員が翌日やって来て、買受証が保存してあるか見せてくれと言った。捨ててしまったというと、ちょっと警察まで来てくれと言われ、そのまま留置場に入れられた。もう一週間になる。「警察はえらいもんです。とてもかないません」とかつての虎が猫のようになっている。警察の諸君はさぞかしご満悦のことであったろう。
検事の取り調べ開始
105 検事局の取り調べが明日から始まる。留置場から毎日出してもらえるから、退屈しなくていい。検事局への行き帰りに市内見物できる。取り調べが済めば街中を散歩し、美味しいものを食べ、一杯飲めるだろう。
106 付添は最年少の坂田君だった。太秦の特高は、6人中5人は40歳前後で、坂田君は25か6であり、私より10歳くらい年下であった。坂田君は特高ずれしていなかった。坂田君は特高の部屋では私とはほとんど口をきかなかったが、外に出ると愉快そうにいろいろ話をした。私は「今日は京極裏の政宗ホールへ行って一杯やろう」とか、「今日は美味しい菓子を食べよう」とか言って、検事局の帰りに坂田君を引っ張った。お銚子を二本か三本開けて帰っても、帰りが遅いと怒る人はいなかった。
山下検事が私を取り調べた。京都の思想検事は、松山一郎と山下知賀夫の二人で、松山の方が年上で、上役だった。山下検事は明治大学の学生のころドイツ語が好きで、ヘルダアリーンの『ヒューペリオン』を少し読んだとのことで、取調べの前後にドイツ語やドイツ文学が話題に上ることもあったし、冗談も言った。
山下検事は『リアル』の田中忠雄と永良巳十次、『世界文化』の禰津正志と新村猛の順で4人を取り調べてその4人を起訴した後であった。「『リアル』の連中を検挙した当時は、ものになるかどうかはっきりした見通しがなかったが、やってみると巧いことひっかかった」とか、「禰津、新村あたりまでは熱が入ったが、そろそろ飽きて来た」などと平気で言った。
私は下鴨署で書いた調書を否定して山下検事と渡り合う元気はなかったので、取り調べはすらすら進行した。
山下検事は「今未決に入っている者やこれから入る者は田中忠雄、永良巳十次、久野収、禰津正志、草野昌彦、真下信一、中井正一、新村猛の8人である。裁判所の調べが一人に一月かかるとして、君は9番目だから、君が自由なからだになるのは、来年の8月かな」と言う。私が「刑務所で二冬過ごすことになるのではないでしょうか」と言うと、「心配するな」と慰めてくれた。
母
108 武谷三男が太秦署から出た後、入れ替わりに西田勲が入ってきた。西田勲は京大の学生時代に『学生評論』の編集に関係していたらしく、卒業後は東京日日新聞に入社し、『エコノミスト』の編集部員として働いていた。私とは初対面だった。
西田の出身地は岡山で、母親が度々見舞いに現れた。母親は特高に「かんにんしてやってつかあさい」と懇願した。
西田君は大人しかった。特高たちは西田を無視して特高室に迎えなかったが、母親が来れば特高室に呼んだ。
110 新村が太秦署から他に転じた。私は刑務所に入ると病身の母親に会えなくなるから一度会わせてくれと頼んだ。特高係長は検事局に電話して許可を得た。
翌日私は木村巡査部長082と自宅に行った。母はもう口をきけなかった。姪の父親は五条署にいるが、外国にいるとされ、おじちゃんの私も、お仕事で当分家に帰れないと聞かされていた。
特高は一時座をはずしていたが、昼食後すぐ戻ってきたので、私は母に別れを告げて太秦署に戻った。母は筋肉麻痺のために足腰が不自由になってもう10年になる。私は満35歳である。
112 翌日検事局に行った。山下検事「和田君は結婚して6年になるが、まだ子どもがいない。和田君への外出許可中に奥さんが妊娠したら私の責任問題となるので心配した。」山下検事は妻が弁当を持ってきて私が食べる間いっしょにいるのを許してくれた。
いよいよお別れ
113 検事局での取調べの終盤で、ドイツの劇作家エルンスト・トラーの青年時代に関する私の文章が問題となった。
トラーは第一次大戦直後に赤軍の指導者になり、反革命と闘った。彼は反革命側が赤軍の捕虜を容赦なく殺していたことを知っていたのに、「敗れた敵軍に対する寛容は革命の徳である」と信じて白軍の捕虜にも給料を与えた。トラーは「白軍の兵士は誤った方向に導かれた兄弟である」として捕虜を敢えて釈放した。しかし釈放された捕虜たちは数日後再び赤軍に刃を向けた。
私は以上のことをドイツ文学の雑誌『カスタニエン』に発表した。そして私は調書の中で「トラーのヒューマニズムや自由主義の誤謬はトラー自身によっても批判されており、寛容は決して革命の徳ではないことを、私は『カスタニエン』の読者に説こうとしたのであります」と書いていた。
山下検事は「革命に際しては敵は容赦なくたたっきれ、ヒューマニストのように甘いことを考えていてはいかんということか」と追及し、私はそうですと答えた。山下検事「ごっつい意識を出したなあ。」この「ごっつい」とは、私のボルシェビキの正体が暴露されたということであった。私は今まで起訴を免れるかもしれないと思っていた。私は急に気分が悪くなって横になってもいいかと尋ねた。
結果としてエルンスト・トラーの件はどうともなかった。和田は起訴すべきだという方針がどこかで決まっていて、それに対して山下検事は多少納得できない面もあったようだが、結局私は起訴された。
近所の人達は「和田さんは起訴などになんかになりませんよ」と言い、父も堅くそう信じていた。
115 明日からまた退屈な留置場生活が始まる。街では前線向けの慰問袋が盛んにつくられていて、赤紙・応召に際しては、大勢が集まって万歳万歳と叫んでいる。市民はどう考えているのか。
幸い私の家や同じ容疑者の家は非国民扱いされなかった。私は京都の町中の商売人の娘に家で週一回ドイツ語を教えていた。女子薬専の生徒であった。私が6月に検挙されたとき、妻は多忙を理由に断りの葉書を出した。ところが娘にせがまれて母親が是非もう一度教えてくれと頼みに来た。妻は真実を語った。すると娘の親は同情して立派なお見舞いを届けてくれた。
116 新聞で共産党は恐ろしいと教え込まれているのに、非国民や国賊視せずにお見舞いをくれるとは不思議だった。また他の人も見舞いをくれた。
新嘗祭11/23の前日11月22日に検事局から「和田の未決監入りは24日の午前に決まった」という電話連絡があった。係長は「和田君ともいよいよお別れか。おなごりおしいなあ。明日は祭日だし最後の日だからどこへでも好きな所へ遊びに行ったらどうや。おい、坂田君、明日は和田君の付き合いをしてあげてくれ」
117 この係長は思想犯に対して憎しみを持たず、思想問題に強い関心を持たなかった。
私は6月24日に下鴨署に連行され、留置場生活は5か月になる。我々の仲間でこんなに短いのは私だけだった。
留置場の冬を知らないで済んだこともありがたかった。留置場で一冬過ごした先輩の草野昌彦は、寒い季節の間、囚人たちはいじけて元気がなくなるという。それに対して未決では独房で家から暖かい布団が差し入れられる。
118 翌日坂田君とお昼ごろ街へ出た。裏寺町の正宗で牡蠣(かき)の土手鍋を食べ、昼間でもお銚子をつけ、古本屋を一、二軒覗き、ヴィクトル・ヘーンの『ゲダンケン・ユーバー・ゲーテ』というゲーテ論を見つけたが、高いので買わなかった。ヘーンは若い時に政治犯で刑務所に入れられたときにゲーテを味読していた。
東山五条から清水坂を上り、清水寺の舞台に上がり、清水寺から真葛ヵ原へ抜ける道を降りてゆく途中で汁粉屋に入り、すし屋に入り、祇園石段下の八百文で果物を食べ、四条を西に歩き、最後に四条小橋のフランソアという喫茶店でコーヒーを注文した。
119 そこへ学生が二人入ってきた。一人は同志社の学生で私の教え子だった。教え子は同志社マンドリンクラブの演奏会の切符を売りに来たが私は断った。この学生は私が検挙されたことを知っているはずなのに、お見舞いの言葉もかけてくれなかった。
太秦署に戻ると妻が待っていた。スープを作って魔法瓶に入れてきていた。私は腹一杯だったが、ぐーっと平らげた。
120 翌朝、特高Tに伴われ、二か月間起居した太秦署を後にし、柳馬場竹屋町のFという差し入れ屋に行き、今後の差し入れを頼むことにした。義弟の守屋典郎もこの店で世話になっていた。妻と妹がお別れにやって来た。
裁判所の敷地には検事局と未決拘置所が併設されていた。起訴されると山科刑務所か裁判所裏の拘置所とに分けられるが、実刑が確定すると全員が山科刑務所で服役する。
第四章
未決囚の苦痛
122 未決監では青い囚人服に着せ替えさせられるとのことだったが、私はそれを免れた。ただし袷(あわせ)の胸に「廿一」(にじゅういち)と書かれた布切れを縫い付けられた。
囚人同士がお互いに顔を見られないために、編み笠が与えられた。建物の真ん中は空洞になっていて、その両側に一、二階とも房がずらりと並んでいた。私は二階の南側の独房を与えられた。
房の中には家から差し入れられた敷布団と掛け布団が積んであった。広さは6畳くらいだが、畳は4枚しか敷かれてなかった。南側の高い所にガラス窓があって空を見ることができた。下鴨署の窓の位置より低かったが、私の背より高かった。
123 端座か胡坐(あぐら)だけが許され、それ以外は立っても、横になっても叱られた。椅子にも座れなかった。体操は朝晩二回で囚人が全員でやり、一人で勝手にはできなかった。
屋上に上がって長方形の平面をぐるぐる走り回る、時間は5分。東山や比叡や愛宕や街中の甍(いらか)を見下ろすことができた。
山科刑務所では独房の囚人たちが一度に10人ぐらいずつ、相互に隔離された状態で同時に運動し、運動時間は30分とのことだが、裁判所の未決拘置所ではそうではなかった。
屋上での5分間の運動以外に、独房の外に出られるのは、週に3回手紙を書くために一階に降りることと、5日に1回の入浴、月1回の面会、散髪と、不定期の出廷であった。外へ出る時編み笠を忘れると、看守が「廿一!編み笠!」と注意する。
124 出廷のとき廊下で両手に手錠をはめられた。手錠をはめられたのは昨年6月に検挙されたとき以来初めてだった。検事局に連れていかれてそこで待たされていると、米田*という三高時代のクラスメートで検事をしている男がひょっこり現れた。米田は真下、新村とは京都府立一中、三高以来の友だちだった。米田はちょっと口をきいただけで、そそくさと姿を消した。(*米田三治026とは別人だろう。)
出廷の用件は、警察が私の写真を撮りに来たことだった。撮り忘れていたのだ。指紋も取るべきだったらしいが、その後誰も取りに来なかった。
125 この未決には義弟の守屋や新村、草野もいるはずだ。唯一の話し相手は看守だったが、用件を一言二言するだけで終わりであった。
外部との面会は月に1回だけで、それもほんの3、4分だった。面会にやって来た妻との間には机が置かれ、その机の上には枠に入ったガラス板が立てかけられていた。そして二人のしゃべることを横の看守がいちいち筆記していた。5、6年前の市ヶ谷刑務所にはこんな仕切りはなかった。
未決全体で150人から200人が収容されていると想像された。静かだと思ったが、実際は、出入りが頻繁で、扉を開け閉めする音、手紙、面会、運動などのために階段を上ったり下ったりする足音など、にぎやかである。
126 看守の私語や廊下を歩く者の気配などから、新村と草野が真ん中の私の房より西の独房にいることが分かった。番号も分かった。
楽しみは読書と食事だけである。食事は朝と昼はここで支給される麦だらけの官弁を食べ、夜だけ白い米の差し入れ弁当を食べた。毎朝の熱い味噌汁は美味しかったが、冬はすぐ冷えてしまってまずかった。みそ汁の具や菜は何だったかを手紙に一々書くと、検閲係の看守に「つまらんことを一々書くな」と叱られた。
127 差し入れ弁当は25銭と決まっているのかと思ったら、金さえ出せばいくらも上等な弁当を差し入れ屋がつくってくれると追々分かってきた。果物も認められたが、お菓子は未決拘置所の中で売っているものに限定され、その種類は2つか3つしかなかった。ある日大分県日田在住の教え子がその土地名産のお菓子を送ってくれたが、没収されてしまった。しかし送った証拠に、見せるだけは見せた。そのお菓子は看取たちだけを喜ばすことになった。その教え子は電気炬燵も送ってくれたが、幸い没収されなかったが、その使用は勾留を解かれる日まで待たねばならなかった。
画集や地理風俗の書物が引っかかって入らなかった。女人の絵が描いてあったからだろう。15、6歳の女の子を描いた絵ハガキも、看守が「どうかと思うがまあいいことにしてやろう」と渡してくれた。ところが『赤と黒』のような姦通事件を扱った小説は入ってきた。
128 日曜日の午後は軍歌か童謡や浪花節や琵琶歌を聞かされたが、いい音楽は聞けなかった。未決の建物の南に小学校があり、唱歌の時間に子どもが歌う声が聞こえてきたが、子どもたちの歌は音楽以前である。
冬から夏へ
金を払えば湯たんぽのお湯を毎日入れ替えてくれた。昭和14年1939年の元日の朝、雑煮が差し入れ屋から入ったが、ぬるくなっていてがっかりした。
129 元日から三日間は屋上の運動も取りやめで、手紙も書かしてもらえず、独房に閉じ込められたままだった。4日、看守が「おい廿一!歩くか?歩きたかったら歩かしてやるぞ!」と言うが、屋上には雪が積もっていてとても走れないが、歩くだけならどうにか歩けるがどうするかということだった。私は「歩きます。歩きます」独房居住者にとっての外での5分間の意味を今さらのようにかみしめた。
2月11日の紀元節の朝は格別寒かった。看守が「煉瓦建てのこの建物は木造の家よりずっと寒い。真冬の真夜中でも囚人が大人しく寝ているかどうか見て回らねばならない。腰から下が冷えて、冷えて、自分の足か何か分からなくなる」と言っていたが、眠れない程寒い日は二度と来なかった。
3月1日の午後、看守が「面会!」と言う。下の妹だった。今朝母が冷たくなっていたという。「兄さんも虔二(けんじ)も典郎もいない、女ばかり。お父さんも病み上がり」と言いながら泣き出した。虔二は召集されて中支にいる私の弟で、典郎は未決に閉じ込められている妹の夫である。
130 「予審判事に、兄さんだけでも帰ってもらおうと、頼んでみたが、許してくれなかった」とのこと。私は「僕からもういっぺん頼んでみよう」と言って別れた。看守を通して願い書を出したがやはりだめだった。
南の方向に異様な音がし、それが僅かな間隔をおいて連続的に響いてきた。火薬庫の爆発のような音だった。
131 真夏には、5日に一度だった入浴が二度になった。順番なのでゆっくりと入っていられない。団扇を使って外の青い空を仰ぎながらビールを空想した。
8月上旬、新村が出廷した。今日判決だということを看取同志のささやきから分かった。1時間で新村が戻ってきた。元気がなさそうな歩きぶりだったので実刑かと思ったら、次の日看守に聞いたら、執行猶予で自宅に帰ったとのこと。
132 ここの看守で私に接触した人は10人くらいいた。そのほとんどはお人好しで親切だった。口をきく回数が増え、頼みもしないのに珍しいニュースを教えてくれた。平沼内閣がつぶれた*ことや、9月にドイツ軍がポーランドに侵入1939/9/1し、ポーランドをドイツとソ連で分割したというニュースを教えてくれた。看守は「もう、こうなったら正しいも糞もないわい」と付け加えた。*平沼騏一郎内閣1939/1/5-8/30
日本が戦争地獄に落ちて行くのを感ぜざるを得なかった。
予審・潜在意識
1939年の中秋の名月の2日前頃、私は南側の独房から北側の独房に移動させられた。京都の府会議員か市会議員かの選挙で、買収をして捕まった京都の財界や政界の名士たちのためだった。それまで私は、草野、新村と私などの思想犯が皆南側の独房をあてがわれていたのは優遇だと思っていた。私は石板に「名月を見ずに移れり北の房(へや)」と詠んだ。独房の中では鉛筆やペンの使用が禁じられている。(ひどい)石板と石筆だけが入所後9カ月目に許可されていた。
133 10月13日、予審判事に呼ばれて出頭した。調べは約1か月かかるだろうと言う。年内に家に帰れるかもしれない。11月中旬に予審が終結し、それから書類が裁判長へ回り、何日か後の年の暮れには判決が言い渡されるだろう。
予審判事の前で私はどの程度頑張るべきか、あるいは頑張れるか。検事に認めたことを予審判事にも認めれば問題はなく、有罪でも執行猶予は間違いない。頑張れば無罪になるかもしれないが、取調べに時間がかかり、二度目の正月を拘置所で過ごさねばならないかもしれない。予審判事は特高や検事と違って罪に陥れることはないだろうとも思った。
134 私は検挙される2か月前に、ドイツの現代作家フェルディナント・ブルックナーの戯曲『犯罪人』を読んだ。殺人犯とされた青年は冤罪だと主張するが、予審判事はねばる。そして青年は嘘の自白をする。
135 これはワイマール共和国の裁判である。私は頑張れるだけ頑張ってみようと思った。
予審判事は松野孝太郎といい、齢は40くらいで、冷静かつ無表情で、1か月間私と向かいながら一度も笑顔を見せたことがなかった。抑揚のない声でぼそぼそと質問をした。
予審判事の横に私と同年配くらいの書記がいたが、その書記は、一日中まったく口をきかず、愛そう笑いもしない。
136 午前の調べが済むと独房に戻って昼食をとり、一休みをしてからまた出廷する。夕方帰って来ると疲れて畳の上にぶっ倒れそうになる。
最初の2週間は順調だったが、ついに引っかかった。私が「反ファッショ文筆活動はしたが、日本に共産主義社会を実現するためなどは全く考えていなかった」と言うと、予審判事は「検事局の調べではそういう目的でやったと自分で認めているではないか」と言う。予審判事は特高や検事の苦心を無駄にしたくないらしかった。
137 私が「共産主義社会の実現のためということは、潜在意識の中にあったかもしれない」と言うと予審判事は「それでよろしい。」私は潜在意識によって罰せられることになった。
もう一つ引っかかったのは、「反ファッショ文筆活動を続けていたが、勝てるとは思っていなかった」という記述であった。予審判事は「勝てる見込みがないのに闘うとうのは理屈に合わない」と言う。それに対して私は「日本の支配階級の力はとても強く、歯が立たないと思っていたが、インテリゲンチャの一人として、侵略戦争という悪の遂行を黙って見逃すことはできない。ドイツやイタリーで行われている野蛮な独裁政治が日本で行われようとするのをじっと見ていることはできない。だからペンを取って闘ったのだが、そうかといって勝てるとは夢にも思っていない。新村君はその点私とは違っていてはるかに楽観的で、いつも昂然(こうぜん)としていた」と言ったが、予審判事は納得せず、「角力でも、相手が強くてもひょっとして勝てるかもしれないと思えばこそやるので、そうでなければ初めから土俵に上がらない」と言い、若干不機嫌そうに「今日は調べをこれで打ち切る。君のように筋の通らないことを言っていたんでは、調べは進まん。今夜ゆっくり考え直しておくように」と言って部屋から出ていってしまった。
138 私は翌朝「日本の支配勢力は強大で、左翼がこれに刃向かっても勝つ見込みはない。これは確信している。しかし左翼が弾圧されて、それでおしまいというのではない。何十年か後にはまた立ち上がって、その時は勝つかもしれない。私はそのことまで否定はしない」と言ったら、予審判事は「それならよろしい」と言った。
私は無罪の可能性はないと思ったが、それでも無罪かもしれないという楽観的観測もあった。
予審判事は最後に、「被告として過去の行為に対する反省、ならびに今後社会に出た場合、どのような生き方をするかについて書け」という。転向手記である。私は心にもないことを書きたくないという気持ちと、どうせ書かなければ堪忍してもらえないのだから、諦めるしかないという意識もあったが、「私は今まで日本の文化を軽蔑し、徒に外国の文化ばかりを尊重し、外国の思想を最高のものと考えてきたが、この度検挙された機会に日本の古典文化を新たに見直し、万葉集の立派さに驚異の目を見張り、芭蕉の世界に沈潜して、自分が今まで自国の文化をいかに不当に軽視していたかを知った。私は今後は今までと打って変わって、日本人らしい日本人として生き、日本の国を立派にしていくために尽くしたい」と書いたが、それ以上きまりの悪いこと、例えば「天皇陛下の御為、滅私奉公する」とか、マルクス主義をくそみそにこき下ろすとかは書かなかった。しかしそれでは転向とは認められないと危惧して「焼けぼっくいには火がつきやすい、という諺がありますが、私はまさにその焼けぼっくいであります。二度と再び左翼思想に迷わされないよう、十分気を付けるつもりであります」と付け加えた。
私のこの転向手記は裁判長からもとやかく言われず無事にパスしたが、裁判が済んで2年半後に私が住居を東京に移し、東京の保護観察所で主任と面会した時、主任は「あんなものは転向の表明でもなんでもないじゃないか。君はあの中でマルクス主義の批判を何もしてないじゃないか」と私に詰め寄った。私は神妙そうに頭をうなだれた。主任はそれ以上追及しなかった。
140 予審終結とともに接見禁止が解かれたが、今まで月に一回だけ特別にお許しをえて面会してきた妻が、週に一度くらいの割合でやって来たのと、上の妹が一度やって来ただけで終わった。
第五章
判決
141 弁護士として三高時代のクラスメートである小林寛を依頼した。小林は公判で無罪を主張するつもりだと語った。
太秦署の木下巡査部長はかつて「公判の時に証人に出てあげます」と言っていたので頼んでみた。木下は私を起訴したのは間違いであると確信していた。
142 ところが妹が電話したところ、木下は条件を持ち出し、ぜひ証人になりたいようでもなかったので、妹は断ったという。
小林弁護士は「偉い人の保証があった方がいい、京大の成瀬清先生がいい」と言う。妻が頼みに行くと、「出廷するのは堪忍してもらいたい」と言って書類を届けた。
法廷に出る日は12月14日と決まった。その前日に差し入れられた黒紋付の羽織と仙台平*の袴を身につけて出廷した。一般の傍聴は禁止されていて、父と妻と、神戸の妻の父の三人が傍聴した。(*著名な仙台の呉服店)
検事は私を調べた山下ではなく、野呂といった。野呂検事は私の文筆活動が日本共産党やコミンテルンの目的遂行の為にする行為であると強調し、「被告は甚だ危険な思想を所有しておりながら、そのことを十分に自覚していない。それだけ一層危険である」と言って懲役三年を求刑した。
その後小林弁護士がまず成瀬先生の保証文を読み上げた。
「文学士 和田洋一
右の者本学在学中精励勤勉資性潔白廉直にして友誼に厚く然諾(ぜんだく)を重んじ常に儕輩(せいはい、友だち)の推すところとなりたり 然かも身を持すること謹厳和して同ぜず苟(いやしく)も軽挙妄動に走ることなく優秀の成績を以て業を了へたり 頃日(けいじつ、最近)書を寄せてその心境を吐露し或は独逸の古典に親しみ或は芭蕉の俳句に思いを潜め以て真に日本人らしき日本人としての思想信念を堅むべく努力しつつありと語れり 余は同人の平生に徴し人格に鑑みてこの言の真実なることを確信し其将来に対して聊(いささか)も危惧の念を懐かざるものなり 仍(よ)ってこれを証す
昭和十四年十二月
京都帝国大学教授
文学博士 成瀬清 印」
この保証文の特徴は、私が共産主義思想にかぶれていないこと、「検事局にご迷惑をかけた」とかのお世辞や治安当局への迎合がないことである。成瀬先生はヒトラーのちょうちん持ちを最後までしなかった。成瀬先生は自由主義者であり、左翼ではなかったが、成瀬先生のレジスタンスを後で気づいた。
144 小林弁護士は、「自分も学生時代は『戦旗』を読んでいたし、左翼の出版物もいろいろ読んだ。昭和の初めに学生時代を送った者は、多かれ少なかれ被告和田と似たり寄ったりの思想を持っている。被告和田にまで治安維持法を適用するのは、明らかに度を越えている」と言い、最後に「裁判長が無罪の判決を下されるようお願いしたい」と言った。
裁判長はちょっと驚いたような顔をして、「無罪?」と聞き返すと、小林弁護士は、「はあ、無罪に願いたいです」と答えた。この裁判長にはファッショ的な傾向は全くなく、内心は私に同情していると小林弁護士を通して聞いていた。
私は実父と岳父に目であいさつし、編み笠を手にとり、看守に伴われて法廷を出た。(開廷中は編み笠を取っていたのか)
私の岳父は治安当局がけしからんと考えていた。彼は内村鑑三の末弟で、一高の教師であった兄の鑑三が、陛下の御真影の前に頭を下げなかったために、非国民、国賊呼ばわりをされ、暴徒が押し寄せてきて家に石を投げた。岳父は周囲から冷たい扱いを受け、特に小学校の教師からいじめられ、その心の中に皇室中心主義や偏狭な国粋主義に対する抜きがたい反感が育った。就職もできず、アメリカに渡り、そこで農場労働者になった。岳父は日本の右旋回を苦々しく思い、私が捕まったといって愚痴などこぼさなかった。
その日の夕方夕食を食べ終わろうとしたとき、看守が「廿一!保釈や保釈や!早う支度をせえ」と言った。保釈の話は小林弁護士から聞いていたが、夕食になっても何ら音沙汰もなかったので、私はあきらめていた。いずれあと五日(後の)判決が済めば、釈放されると思っていたが、五日でも早く出られるのは有難かった。
入り口で妻が待っていた。タクシーも用意されていた。家では父が迎えた。父は数え年70であった。私は父に「どうも長い間ご心配をかけてすみませんでした。」父「ご苦労だったなあ」
判決の日までは遠い所へ出かけないよう、なるべく家にじっとしているように、と裁判所から注意されていたが、歩きたくて、上賀茂や嵯峨野へ出かけた。前へ前へと進む足を抑えることができなかった。146 出所した翌日の晩はスキ焼をした。私はがつがつ食べた。
判決の日は背広で出かけた。裁判長が「治安維持法違反のかどをもって懲役二年、執行猶予三年」と申し渡し、「不服はないだろうね」と言い、私は軽く頭を下げて服罪の意志を表明した。
私は未決勾留から解放され、無罪でも執行猶予でも同じことだと思った。私より先に執行猶予の判決を受けた友人がみな服罪したことを知り、私一人が控訴するのは大分勇気がいること、また勇気を出してまた検挙されたらたまらないとも思った。小林弁護士が控訴してはどうかと勧めたが、私はどうでもよくなったと言った。
私は判決には不服だったが、今は大人しく引き下がって、今後は生活の収入を得るために道を切り開いていくしかないと思われた。情けないが諦めるしかない。敗北と諦念とともに始まるこれからの人生を、第二の人生とは呼ぶ気になれなかった。私は転向したことになっているし、今後も転向を装わねばならないが、私はちっとも転向していない。私は今後数年間は思想的な問題にはなるべく触れないようにし、目立たないように生きてゆくほかない。「そのうちに」が何年先のことか、どんな形態をとって現れるか、全く見当がつかなかった。
保護観察・就職
148 思想問題で起訴された者は、釈放されると保護観察法に付せられる。私も自由な身となると同時に、京都司法保護観察所によって保護・観察されることになった。また警察も下鴨署の特高がちょいちょい私の家を訪問して来た。
保護観察所からは、私を調べた山下検事に挨拶に行くように言われた。山下検事の家の応接間で話したのだが、山下検事は「君と中井正一の二人はマルクス主義者ではないので、起訴したのは間違いだった。君を起訴する気はなかったが、塩貝がどうしても承知しなかった」と言った。
塩貝とは京都府の特高で、左翼を担当していた警部であった。特高課長が塩貝の上にいるが、特高課長は二年勤めると、課長や部長となって他府県に転勤するので、実質的な京都の特高の左翼対策ではこの塩貝が采配をふるっていた。
149 昭和12年1937年の夏、同志社大学予科の右翼学生が、配属将校に唆されてストライキを起こして退学処分となった。その時京都府の特高は予科教授会に圧力をかけ、教授会による退学処分決定を取り消させようとした。しかし教授会は頑張り通した。それに対する意趣返しを覚悟していた。教授会の中の左派と目されていた三人が特に睨まれていると想像できた。塩貝警部は真下、新村をやっつけたから、和田もいっしょにやっつけろと思っていたのだろう。
山下検事は「君を13か月未決に放り込んでおいたが、あれは間違いだった。俺の本心からやったことではなく、他所の男(塩貝)に押されてやむを得ずやった」と言った。すまなかったと謝りはしなかったが、その正直には好意が持てた。
私は保護観察所に度々顔を出さねばならなかった。保護観察所の近くに叔父の家があり、ある日そこに立ち寄った。叔父は「お前もこれで一人前になった。苦労もせずにひょろひょろと育った人間はつまらん。人生はこれからじゃ。しっかりやれ」と言って私にステッキを1本くれた。私はそのステッキを持って保護観察所に行った。
ところが数日後、私同様に保護観察処分に付されていた新村が「観察所では君がステッキを振り回しながら観察所を訪問したということを問題にしている。態度が不謹慎だということらしい。観察所の所員はそういう考え方をする連中だから気をつけた方がいい」と忠告してくれた。私は前科者、日陰者として小さくなって生きることを要求されていたのである。私は保護観察所の役人に対して軽蔑と反感を持つようになった。
150 1月末日に義弟の守屋典郎が保釈になった。私の家で父親の帰りを待っていた一人娘の姪は、お父さんがニューヨークに行っていると聞かされていた。そのお父さんが着流しで*ぶらりと帰ってきた。そしてニューヨークのお土産だと京都の街中で買った西洋人形を子どもに手渡した。(*くだけた身なり。羽織や袴をつけない着物だけの服装。いでたち。)
守屋の親子三人は当分私たちと同居することになった。私は単独で東京に出かけ、職がありそうか様子を見て来ることにした。
東京では友人宅に世話になり、いろいろな人を訪問した。最初に満鉄の尾崎秀実に会った。尾崎は「私は岩波新書にちょっと書いて、それが予想外に売れた。印税もばかにならない。あなたも何か書いて見られたらどうですか」と勧めたが、私は向こう(特高)に引っかからないような本が書けるとは思えなかった。翻訳も考えてみた。岩波は翻訳も出していたからである。しかし「翻訳の意図は」などと追及されるのはごめんである。
151 改造社の雑誌『文芸』の編集者小川五郎にも会った。初対面であったが、かつて小川の依頼を受けてドイツ亡命作家の作品を紹介する文章を二、三度『文芸』に載せたことがあった。
小川は京都の検挙のことを薄々知っているようだった。「京都はひどかったようですね。東京へ出ていらっしゃい」と元気づけてくれた。特高の眼から見れば『文芸』も人民戦線運動の機関であるに違いない。東京でも文筆活動の自由はほとんどもうなくなりかけているのではないか。私はビールを飲んでいると急に胸のあたりが苦しくなってきた。
それから何日か経ってまたビールを飲むと、トイレで小便をしている最中に意識を失い、気づいてみると便所の戸に体をくっつけて倒れていた。それが数日後にまた起こった。心臓が弱っているに違いない。それからはアルコールには気をつけるようになった。
152 私はまた同盟通信社にも行った。そこには三高時代に私の所属している教会で洗礼を受け、その後協会から離れた旧友が二人勤めていた。一人は「同盟通信社に入る気があるなら運動してみる。ここにはもと左翼だった者、検挙されていったん失業した者などがじゃぶじゃぶいる。仕事も気楽だ。ただし月給が恐ろしく悪い。小遣い稼ぎは他にもいくらも口はある」と言ってくれた。私は「東京へ出て来る決心がついたらよろしく頼む」と言った。
親族へもあちこち顔を出した。一人の叔母は「罪を犯していない者が有罪の判決を受けたのだから、相手に無罪を認めさせなければならない。どうして控訴しないのか」と言われた。私は叔母の健全な常識がもう行われなくなっている日本の現状を改めて悲しく思った。
もう一人の叔母は有力な雑誌社の口を世話しようとしてくれた。私は思想問題で引っかかった人間でもまともな仕事につけるかもしれないと希望をもった。東京では誰もが私を非国民とは扱わなかった。
153 しかしただ一人、父の親友で畏友(尊敬している友人)であった老哲学者は例外で、私に苦言を呈し、反省を促した。「けしからんのは日本ではなく、アメリカであり、イギリスである。貧乏国で後進国である日本が発展しようとするのを、金持ち国の英米が抑えつけようとしている。それに対して日本は黙って抑えつけられたままでいいのか。君もゆっくり考え直さなくてはいかん」私は「よく考えます」と答えた。私は検挙され、釈放されて後は、意識的に理屈ぽい話は避けるようにしていた。子どもの時から私をかわいがってくれたこの老哲学者の主張も、何ほどか正しいものをもっていることを認めたが、持てる国と持たざる国との抗争という世界観には賛成できるはずもなかった。
東京に10日以上滞在していた留守中に、三高時代のクラスメートの一人が、大阪時事新報社への就職話を持ってきてくれていた。「大阪時事新報社の専務取締役は京都市内に住んでいる。一度会ってみたらどうか」とのことである。
私は大阪時事新報社は貧弱な新聞だと思っていたのだが、会うだけは会ってみようと、その専務の家を訪ねた。専務は昼間から酒が相当回っていてろれつが回らない程で「君が和田君か。詳しい話は何もかも聞いている。大阪時事はこれからぐんぐん発展する。君もひとつしっかりやってくれたまえ。君の月給はフンデルト、フンデルト(百円、百円)…」と右手を振り上げて言ったが、あとは酔いつぶれて、ものもろくすっぽ言えなかった。
154 私は当惑したが、相手が寝てしまったので引き上げた。家人は賛成も反対もしない。私は就職活動は面倒なので、大阪時事に決めた。
履歴書の賞罰の欄には「治安維持法違反の廉(かど)で懲役二年、執行猶予三年」と書き、大阪の編集局長に手渡した。編集局長は別に困ったような顔もしなかった。
私が大学を卒業してすぐに同志社大学予科の専任講師になった時の月給はフンデルトであった。それから8年勤めて130円ぐらいまで上がった。
155 私は新聞記者になろうなどと子どものときから一度も考えたことがなかった。大阪の街も嫌っていたが、3月10日から新聞記者として大阪に勤めることになった。
155 私は大阪市役所や府庁の部長や課長、財界の有名人、阪大の総長、恩師の成瀬先生、作家の藤沢桓夫、貴司山治、ドイツ総領事、東京から来て新大阪ホテルに泊まっている政治家、その他多数の庶民諸君を次々にインタビューして、それを家庭欄の記事にした。自分の思想を出さないで、ただ相手のしゃべったことを手際よくまとめればいい仕事は、私にとって実に楽であった。またこれまでの教師の世界は狭く、動きの鈍いものだということを知った。私は当分はあまりものを考えないようにして、無邪気に飛び回ろうと思った。
転向
155 私は大阪に勤務し始めると、保護観察所への出頭が免除された。勤務を休んで出頭せよとは要求しなかった。また日曜日は観察所も休業だった。観察所主催の「集会」が夜行われていたらしいが、私の所には召集状が来なかった。仮にそれが来ても、勤めで帰りが遅くなったと言えば済む話だった。
156 私は学芸部の記者として京都での取材活動もあったから、出頭もできないわけではなかったが、根性の卑しい小役人にじろっと観察されたくはなかった。
私は京都大学の誰かに原稿依頼をするとき、ついでに真下信一を訪ねて雑談した。京大に新たに人文科学研究所が設立され、真下はそこで嘱託の地位を与えられ、購入した書物のリストをつくるとかの雑用をゆっくりとやっていた。正式職員ではないから薄給であろう。新村猛宅にも出かけた。新村は父親の出先生の『辞苑』改訂の仕事を手伝っていたので、当分就職のことを考える必要はなかった。
私と同じ時期に検挙され私よりも遅れて起訴された連中も次々と釈放されて出て来ているようだったが、これらの連中を訪問することは控え、訪問先はかつての同僚である真下、新村両君に限定した。
157 梯(はしご)明秀、熊沢復六の両君は、一番しんがりになって、昭和15年1940年の夏に出てきた。梯は『世界文化』のメンバーではなく、私は彼とは検挙以前は面識があるという程度の付き合いしかなかったが、その彼が私の家の近くに転居して来ていて、何度も私の家にやって来た。梯は今度の事件で日大専門や相愛女子専門の講師の地位を失った。彼は哲学者で『唯物論研究』に哲学の論文を掲載したことでひっかけられたのだが、人民戦線運動に関しては全く無知で、取調べの係官から「学生以下だ」と叱られたとのことだ。
彼は一高、京大哲学科の出身で、一高時代の仲間の世話で、北支那開発会社の調査局東京支局に就職して京都を去った。彼が転向していないことは確かだった。調査の仕事なら政治的意見を発表する必要はないだろう。
真下、新村も転向していないことは明白だった。私の仲間は誰一人として転向していないらしかった。急に奇妙な日本主義者になったり、侵略戦争を積極的に支持し出したりしたらたまらない。
158 京都の人民戦線運動で捕まって起訴された者のうちで転向したのは『リアル』の田中忠雄一人だけだった。山下検事もその転向に折り紙をつけていた。田中が東京に移住し、その後私も上京しようとしたとき、山下検事は「あれといっしょにいたら間違いはない」と私に言った。私は東京で彼にどういう経過で転向したのかと聞いた。彼は「未決の独房で道元を読んでいる時、世界観が変わった」と言った。しかし彼は留置場にいるときにすでに立派な模範的な手記を書いていた。未決以前に転向の素地はできていたのだろう。しかし彼は私を国粋主義者にさせようとはせず、私に翻訳の小遣い銭仕事を一、二度紹介してくれた。
(もう一人の転向者である)清水三男は『世界文化』の同人ではなかったが、初期に論文を寄稿したことがあった。清水は私よりも3か月前に検挙され、私が釈放されたときには、すでに自由の身になっていて、保護観察の仕事に積極的に協力しているらしかった。彼は私の親しい友人の友人で、直接話したことはなかった。私は彼に対して一つの疑問を懐いていた。
それは彼が新村猛や臼井竹次郎、その他二、三の『世界文化』の同人と親しい関係にあったのに、仲間に加わらなかったこと、また『世界文化』を飽き足らないと思って、非合法活動に首を突っ込んでいたらしいからである。
159 合法主義者を「意気地なし、卑怯者」と軽蔑してやっつけるのは、昭和の初めから日本の左翼の伝統だった。合法政党を目指した大山郁夫がひどくやっつけられ、そのどぎつさに河上肇が立腹して党へのカンパを拒否すると、「裏切者 川上肇」と大きな活字で無産者新聞に現れる。その河上も後に非合法運動に踏み切って捕まった。そしてそういう「あっぱれな闘士」たちが獄中で転向表明して出獄して来る。それでも若い人たちが非合法活動に身を投じるのを私は理解できた。
しかし清水三男の非合法活動は理解できなかった。彼は大学を卒業して5、6年経っていて、和歌山商業の教諭であった。彼は小学校5年で中学へ、中学4年で高校へという当時の最短コースを歩んだ秀才であった。彼は学者肌でもあったから、『世界文化』は彼に相応しいと思われた。
共産党の運動も全く影を潜めた時期である。彼は検挙されて玉砕したか。否、彼は取調べの最中に自白を強要される。自白しなければ拷問される。秀才には拷問が耐えられない。彼は非合法の新聞を誰々に手渡したとその名前を漏らす。転向したことを示さなければまた捕まる危険があるので、心にもない言動をする。これが検挙される前の私の考えだった。
清水三男は『世界文化』を軽蔑し、それをインテリゲンチャの自慰行為だとしていたが、後にコミンテルン第7回大会の決定を知り、『世界文化』にある程度理解を持つようになったと彼の友人は言うが、どうか。今日彼はこの世にいないから確かめようがない。彼の親友のTも彼の跡を追ってしまってこの世にいない。彼は保護観察所によく出入りしていた。
彼は自由の身になってから4年目の昭和17年1942年に、『日本中世の村落』を著し、日本の史学発展の上に画期的な業績を打ち立て、その直後に「国民学術協会賞」を授賞した。同書のはしがきや、その後に発表された『素描祖国の歴史』を、彼がどの程度本気で、どの程度思想検事や特高の顔色を気にしながら書いたのか、今は誰にも分らない。
『世界文化』のこと
161 私は昭和10年1935年以後の日本の状況の中でも非合法活動に従事して捕らえられた清水三男が愚かしいというつもりはない。愚かしかったのは『世界文化』もそうである。(「も」と言って、清水三男も愚かしいと言っている)
『世界文化』の仲間は警察のブラックリストに載っていることを自覚していた。大部分が学校関係者だったので、何かの機会に辞表の提出を求められることもあるだろうと覚悟していた。しかし治安維持法に引っ掛けられて一年半も二年も拘禁されるとは誰も予想していなかった。もし予想していたら活動を中止していただろう。それを知らなかった意味で『世界文化』の同人は愚かだった。
京阪神在住のクリスチャンで社会的関心を持った人々によって発行されていた『社会的基督教』に対して、警察が廃刊を勧め、「もし廃刊しないなら何らかの措置を取る」と言って脅したそうである。こうして『社会的基督教』は昭和16年1941年に廃刊となった。仮に『世界文化』が同じような警告を受けたなら、議論が硬軟両派に分かれるとしても、最後は廃刊していたのではないか。ところが私たちは警察や内務省の検閲課から一度も警告を受けたことがなかったので安心し、言論の抑圧が激しくなったとはいえ、まだわずかの自由は残っていると考え、学校を首になるぐらいの危険を冒してもと覚悟して活動していた。
162 このように私たちは法律に違反しない範囲で活動していたのに、検事と特高は無理やり私たちを法律に引っ掛けようとし、私たちはとうとう最後に「法律に違反していました」と言わせられた。この点でも我々は(現状認識が甘く)愚かしかった。
私たちは乏しい収入の中から各自が外国の新聞や雑誌を購入して『世界文化』の記事を書いたが、出来上がった雑誌を売りさばくのは不熱心だった。
固定読者は200人弱だったろう。店頭売りもごくわずかで、広告収入も僅かで、印刷代は維持会員の会費によった。維持会員数は終わりごろは16人だったと思う。原稿料も入らない。売ることは反ファシズムに貢献するのだから、収入以外の観点からももっと熱心に販売活動をやるべきだった。これも愚かしいことの一つである。その意味で『世界文化』が自己満足に過ぎないという批判は当たっている。
『世界文化』は内容が難しく、聞きなれない外国の作家や学者の名前がふんだんに出て来るし、文章も堅く、それが売れない原因でもあった。しかしもっと平易にして大勢の読者に読んでもらおうという話は合評会で出てこなかった。こういう雑誌を買う人はどうせ選ばれた少数であると決めてかかっていた。
その点『リアル』は文学的で親しみやすかったし、同人が販路拡大に熱心で、部数も当初の1000部が、最後には2000部まで伸ばした。京都の街中の垣根や電柱に手製の宣伝ビラも貼ってあった。
一方『学生評論』は1300部くらい印刷され、『世界文化』よりも売れていた。『学生評論』の編集発行を担っていた京大の学生たちは、京都以外の大学にも雑誌を売りさばいていたようだ。
『世界文化』の特徴は、人民戦線内閣が成立したフランスで、知識人や芸術家がファシズムに抗して華々しい活動をしている姿を日本の読者に伝えたことであった。そしてそれは当時の日本のジャーナリズムがサボっていたことだった。また単にフランスの事情を伝えるだけでなく、自分自身もそれに倣って反ファシズムの運動を推進しようとした点である。
コミンテルン第七回大会での書記長ディミトロフの演説を知っていた同人が何人いたかは分からない。『世界文化』はフランスやヨーロッパの知識人の反ファッショ的行動に刺激され、励まされた運動であり、コミンテルンの方針に沿おうという運動ではなかった。当時のディミトロフの演説を今日読んでみると、インテリゲンチャの活動などほとんど問題にしていないことが分かる。ディミトロフは人民戦線運動を成功させたフランス共産党とフランスのプロレタリアートを称賛しているが、フランスの知識人のことについては触れていない。ディミトロフはまた、「われわれは勤労インテリゲンチャに対して、彼らの職を奪い、彼らを街頭に投げ出すのは誰かということを説明してやらねばならない」とも言っている。
ディミトロフにとって勤労インテリゲンチャは、説明してもらわねば分からない人たちである。ディミトロフは知識人を馬鹿にし、軽蔑し、軽視していたが、それは間違っていると私は思う。ディミトロフのような考え方は、日本の最左翼の中にも存在していた。その立場から見れば『世界文化』はインテリの自慰行為だったのかもしれない。
『世界文化』は、フランス人民戦線の作家たちによって発行されていた週刊誌『金曜日』について詳しく報道した。それがきっかけとなって京都に週刊誌『土曜日』が生まれ、『世界文化』のメンバーはこれに協力した。『土曜日』は庶民にとって親しみやすかった。日本の政権担当者や軍部、国粋主義者などに対する当てこすりやからかいが好評だった。京都市内のあちこちの喫茶店に『土曜日』が30部、50部と置かれ、それが売れた。『土曜日』に対して警察がひどく目を光らせ始めたという噂があった。
165 『世界文化』の同人たちは、毎月雑誌が出た後に合評会を開くだけでなく、お客さんを囲んで座談会を催した。お客さんとは『世界文化』の協力者である。例えば、アメリカの劇作家エルマー・ライス、ドイツの中国研究家カール・ヴィットフォーゲル、日本人では、演劇関係で千田是也、松尾哲次、学者・文筆家では林達夫、小松清、清水幾太郎、高沖陽造、戸坂潤、その他東京在住の人々だった。また当時大阪朝日の学芸部にいた白石凡が、朝日の学芸瀾への投稿を我々に促し、同人一同が代わる代わる朝日に投稿した。『世界文化』は小さいながらも一つの運動であり、一つの勢力であり、心の支えであり、砦であった。
新聞社・ドイツ大使館
165 最後に私自身のその後の行動について語る。新聞記者としてインタビューし、相手のしゃべったことを記事にしているかぎり、良心の痛みはなかったが、そうでもないときもあった。私が新聞社に入ると間もなくドイツ軍はノルウェー作戦で成功し、次に北フランスに侵入し、瞬く間にパリを占領した。ドイツ軍の強さに日本国民は目をみはり、どの新聞も「ドイツはなぜ強いか」について連日解明の記事を載せた。
166 その時期に私はドイツ総領事館をしばしば訪れ、資料の提供を受け、ドイツ人の会合に出席し、その盛んな模様を記事にした。またヒトラー・ユーゲントの団長をはじめ、多くのドイツ人にインタビューした。大阪朝日の某記者は東大独文卒であったが、ほとんどしゃべれなかったので、私は優越感を感じた。反ナチ運動をやっていた私が、今は結果的にナチに貢献する仕事をしている。それは苦痛だったが、考えないようにした。真下は研究所で雑用ばかりしていたから、思想上の問題で自責の念に駆られることはないだろう。『辞苑』の編集をしている新村も同様だろう。新聞記者は記事に署名をしないが、記者当人にとっては良心の呵責が生じる。新聞社に入って国策に反した記事を書こうなどと考えるのはナンセンスである。私は新聞社をやめようとまでは考えなかった。
167 ドイツの軍隊の中に「快速部隊」があった。それが実戦に際してすばしこく、機動的に活躍したという文章があり、ドイツ総領事館からその文章を貰って翻訳した。新聞社では別に時事問題を扱った旬刊の雑誌を発行していて、それに私の翻訳が掲載された。総領事館から連絡があり、「快速部隊」の文章が掲載された旬刊雑誌を、ドイツ大使館が5000部買い上げるという。私がその話をすると、ドイツ文学の先輩Sから「和田君もドイツ大使館から感謝されるような仕事をするようになったか」と言われ、それがずっとトゲとなって胸に残った。
大阪時事新報と夕刊大阪とが一緒になって大阪新聞として発足してから、私は東京支社づめとなった。支社は銀座四丁目にあり、世田谷のアパートから井之頭線と市電で通った。桜田門で車掌が「宮城前でございます」と言うと、乗客は一斉に宮城の方に向かってお辞儀をしなければならない。明治神宮の前を通る時も同様であった。
168 私はやりきれなくなって市電のルートを変更した。
皇室中心主義や忠君愛国に対する私の反発は、私がクリスチャンの家に生まれたことと関係がある。「人は二人の主に兼ね仕うることあたわず」と聖書にある。天皇の名によって行われている侵略戦争をキリストのしもべとして是認できなかった。「聖戦」と言われると、ごまかされるのか、二人の主に兼ね仕えても、私は矛盾をあまり感じなかったようだ。宮城や明治神宮で頭を下げたくないというのは、そのような自分に対する抵抗だった。「天皇に帰一し奉る」「大君の御為」「国体護持」という言葉は、私は転向の手記では使わなかった。それは最後までどんなことがあっても口にしたくない言葉であった。むしろ盟邦ドイツを持ち上げている方が気楽だった。それで転向の実が認められるのなら、その方がありがたかった。
169 特高が月に一度は訪れてきた。世田谷区から杉並区へ引っ越した時「なぜ黙って引っ越したのか」と怒られた。保護観察所からの出頭命令は、東京滞在中に二度あった。
昭和18年1943年の夏、新聞社が突然解雇の通知をしてきた。私はそのころ仕事に身が入っていなかった。私は大人しく辞表を書いた。社内には私より怠けていた者もいた。丁度そのころ大阪毎日新聞の記者が左翼運動に関係したとして検挙され、そのため当該の部長や編集局長が責任を取り、その地位を去るという事件があった。私は新聞社に3年3か月勤めて失業した。
東京は小遣い銭稼ぎのできる町である。ある人にドイツ大使館での翻訳の仕事を世話してもらった。出来高払いだったが、毎日平均6時間の労働で、新聞社の収入の倍になった。翻訳の材料はベルリンから打ってくる政治、軍事、経済に関する電報だった。
私はそれ以前からドイツの必敗を信じていたので、ドイツ大使館での仕事の話があったときも多少ためらった。ドイツはあと1年か、せいぜい2年しかもたないのではないか。しかしドイツの敗北と日本の敗北とは時間的にそう開くまい、それまではともかく食いつないでいかなけらばならない、と思ってドイツ大使館の仕事を引き受けたのだが、最初の日に手渡された最初の電報が、ムッソリーニの失脚と反乱軍による(彼の)逮捕を伝えるものだったので、さすがにひやりとした。
ドイツの首都から毎日強がりの電報がいくつも届いた。
そのようにして1年余が過ぎたが、京都の老父が永眠し、私は東京を後にして京都に帰った。昭和19年1944年秋のことである。
(1958年)
和田洋一『私の昭和史』1975-1976 『スケッチ風の自叙伝』1979
感想 心に残る一文
1940年元旦の新聞の一面、二面、三面、四面は、「奉祝紀元2600年」、「奉祝皇紀2600年」ばかりである。私はこれでは日本国民の頭はおかしくなるだろうと思った。203
新聞社内では「ドイツはすごいなあ」「ソ連はとてもながもちはすまい」などとやり取りが交わされていた。203
1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃の成功後の暫くの間、日本国民の大部分は緒戦の勝利に酔い、「日本の海軍はやっぱり強い、陸軍もやっぱり強い」と上機嫌だった。204
…物資の不足に苦しみ、労働の過重に苦しみ、待遇のアンバランスに腹を立て、生活の前途に不安を感じたが、それらをどこへも持っていきようがなく、特高警察や憲兵に対する恐怖の中で、弱者は逃亡と逃避を考える。204
明石順三とともに頑張り続けた非転向の同志4人のうち2人は朝鮮人であり、この二人は獄死した。205
ちょっとした反戦的行為のために捕まり、犬か猫のように撲殺される人の死について、新聞は一行も報道しない。207
一人の牧師補が太平洋戦争開始の直後、「犬死」したこと、憲兵によって無残に殺されたことを突き止めた。207
信州郷軍同志会は、悠々の反軍的論説に反発して不買同盟を組織し、社へ強硬な申し入れをした。208
感想
和田洋一1903/9/22-1993/12/20をご存じでしょうか。父親が同志社大学の学長で、ご自身も同志社大学予科の教授でした。和田洋一は京大文学部独文学科を卒業しています。
和田洋一は大正デモクラシーの時代に青年時代を過ごし、京大の学生のころは左翼的影響を受けたようですが、マルクス主義の勉強はせず、その運動にも加わらなかったようです。この時代の日本共産党員の華々しい闘いぶりに関する記述はよく目につきますが、和田は、日本共産党員のように華々しい運動をした英雄的な闘士と、拷問を恐れ、無期懲役、死刑を恐れる卑怯者とを比較し、後者が前者の何百倍も多かった179と言っています。
和田は非マルキストでしたが、自由主義的・人道主義的な文筆活動はやっていました。ヒトラーのためにドイツ国外に脱出せざるを得なかったユダヤ人作家の活動を紹介する文章を雑誌『世界文化』に投稿し、いわゆる「人民戦線事件」*で検挙されるのですが、自分がマルクス主義者ではないにもかかわらず、特高のシナリオに沿って、「コミンテルンの方針に沿い、共産主義運動の助長を図り、ひいては共産主義社会を実現する意図で論文を書いた」と、素直に白状する作文=調書を書いてしまいます。なぜか。それは共産党員のように拷問を受けたり、長い間刑務所に閉じ込められたりしたくないからです。早く留置場や拘置所から出たいからです。私はそういう和田の態度は不甲斐ないとは思いますが、私も実際そういう場に置かれたら、おそらく和田と同じようにするだろうと思います。拷問も牢屋も嫌だからです。そういう不甲斐ない卑怯者が、当時の日本人の大半を占めていたのだろうと思います。
和田洋一は卑怯者として咎められるべきなのでしょうか、それともみんながそうだったのだから、それでいいよと許されるべきなのでしょうか。
*京都の「人民戦線事件」では、検挙に関する新聞記事が差し止められ、一般の人は京都で人民戦線事件があったことを知らない。
太平洋戦争下の抵抗――明石順三の『灯台社』を中心に193
199 「昭和12年1937年と13年1938年との切れ目は、私個人にとってはっきりしていたし、客観的状況から言っても、13年以後は、文化運動だけでなく、労働運動も農民運動も、国の大方針に逆らうような方向では、もう何もできないことになってしまった。」
政府が共産党といわゆる「人民戦線運動」つまり文化人・大学人の圧殺に成功した後では、民衆の側はもう何も政府の方針に反対できなくなったとここで和田洋一は言っている。
戦前、文化運動ばかりでなく労働運動や農民運動などあらゆる場面で、政府に対して異議を唱えることができなくなった暗黒時代は、和田洋一の個人的な体験感覚からすると、1938年から始まったとのことですが、その暗黒の時代になってからも、共産主義者だけでなく、ある宗教家が敢然と異議申し立てていたとのことです。
その人は、今統一教会と共にスキャンダルの対象になっているエホバの証人の明石順三です。エホバの証人は戦前は灯台社と言われ、その中心人物であった明石順三は、天皇や皇室の尊厳や神聖を否定して投獄され、獄中では共産党の春日庄次郎と友誼を深めたとのことです。春日庄次郎は関西地方を中心に日本共産党の再建を試み、1937年に共産主義者団を結成しました。灯台社に対する一斉検挙は1939年6月に行われ、130余名が取調べを受け、長期間の拘留と拷問による脱落を経て、最後に5人だけが残ったとのことです。
和田洋一がGHQの指令によって同志社大学に復帰できるようになった時、戦前のドイツ文学から新聞学の担当に変わった245のには訳があった。和田は戦中の特高のやり方、政権のあり方に関する問題意識を温めていたのである。亡命したユダヤ系ドイツ人の作品の翻訳・紹介を通して彼らを擁護するようになり、語学そのものよりも社会のあり方の方に関心を向けるようになった。1963年2月or 3月ころ北朝鮮を訪問したり(保坂正康297)、日朝協会会長を勤めたり、1967年4月8日、韓国政府に追われる韓国人・金東希の亡命を手伝ったりした(鶴見俊輔258, 266*)ように、戦後は政治的・文化的運動に奔走したのである。(和田洋一「スケッチ風の自叙伝、245」)
*結局金東希は北朝鮮に送られた。
要旨
昭和初期の政治風景――山本宣治と水谷長三郎
労働農民党・水谷長三郎の当選
173 1928年昭和3年2月21日、普通選挙法による第一回衆議院議員選挙が行われた。私は水谷長三郎に投票した。当時私は京大の学生で、水谷については顔も経歴も知らなかった。
水谷長三郎は労農党の候補者で、労農党は三つの無産政党の中でも最も先鋭な政党だった。私はキリスト教の家庭に育ち、旧制高校時代は陸上部に所属し、マルクス主義の本は一冊も読んだことがなかった。京都府第一区からは水谷の他に、穏健な社会民衆党の吉川末次郎も出馬していた。私の父は水谷のことを「闘争的でよろしくない」とし、吉川に投票した。私もどぎつい闘争性には反発していたが、学生は一般に妥協よりも断乎とした態度を好み、社会民衆党は学生層を惹きつけることができなかった。
174 水谷長三郎は当選し、吉川末次郎は落選した。京都府第二区では労農党の山本宣治が当選した。京都府以外の労農党候補はすべて落選した。水谷長三郎は三高・京大の卒業生であった。また後で知ったことだが、水谷は京大生時代に、神戸の貧民窟で伝道をしていた賀川豊彦から洗礼を受けたとのことである。山本宣治は同志社中学から三高を卒業している。また後で知ったことだが、山本宣治もキリスト教の家庭に生まれたとのことである。
1918年、水谷長三郎は大宅壮一とともに、京都から神戸に行って賀川豊彦から洗礼を受けた。しかし大宅は昭和の初めに左翼がかった社会評論家になり、水谷は労農党の代議士になったので、賀川は「水谷・大宅に洗礼したのは一生の間違いだった」という。水谷の求信・受洗は気まぐれで、大宅の受洗は滑稽である。(どういう意味か)
「ダラ幹」の語感と意味
174 私はマルクスの著書は読まなかったが、プロレタリア小説は読んで少しずつ赤い色に染まっていった。私は1928年ころ、同志社大学でのプロレタリア文学講演会に参加した。弁士は作家の江馬修、左翼演劇の演出家佐野硯など4、5名であった。佐野硯は坊主頭で威勢のいい話をした。佐野が「ダラ幹」と言うと聴衆はどっと笑った。
「ダラ幹」という言葉はこのころ労働者や左翼学生の間ではやり始めた言葉だった。ダラ幹とは「堕落した幹部」という意味で、資本家に買収されたり、闘争を放棄し、仲間を裏切ったりする労組の幹部のことだ、と私は戦前から戦後にかけて思い込んでいた。これとは別に、「ダラ」とは、「だらしのない」の「ダラ」だという考えもある。今津菊松は『労働運動一夕話(いっせきわ、ある晩に語った話)』の中で、「ダラ幹」という言葉が生まれたいきさつについて述べている。
1925年大正14年4月から5月にかけて、総同盟は革新派(マルクス主義系)と現実派(社会民主主義系)とに分かれて激しく争っていた。革新派は現実派に向かって「君たちは思想的に堕落したのか」と叫び、「偏狭潔癖」に現実派を攻撃した。「偏狭潔癖」という語は今津菊松の造語である。今津は当時現実派の中央委員だった。「幹部の思想的堕落」という言葉が新聞記事に現れるようになり、革新派の山本懸蔵はこれを新たに「ダラ幹」と呼んだ、と今津は述べている。思想的堕落の「ダラ」である。
176 つまりこの場合の「堕落」は、資本家に買収されるという意味ではなく、思想的に「偏狭潔癖」なマルクス主義者が、勇気に欠けた社会民主主義者を「堕落した」としたとする、そういう意味である。ここではマルクス主義・共産主義と社会民主主義とは共存せず、(マルクス主義の)高潔な精神と、その精神を失って味方を裏切る堕落分子とが対決する、とマルクス主義者は想定していた。そういう意味が「ダラ幹」の言葉には含まれていた。
コミンテルンの日本に関する決議(二七テーゼ)は、共産党の社会民主主義に対する闘争を重視し、「ブルジョワジーの代理人、妥協主義と愛国主義と社会帝国主義の毒素、議会主義的幻影の流布、左翼的言辞を弄するだけの左翼的社会民主主義者、日和見主義者、裏切り政策、アメリカの妥協的組合主義を日本に移植しようとする改良主義者の努力」等々悪罵の言葉で満ち溢れている。そして現実派は革新派によるこれらの批判・罵倒に向かってやり返す言葉を持っていなかった。
私は思想的に幼稚だったが、雑誌『戦旗』などの影響を受け、社会民主主義や社会民衆党を次第に軽蔑するようになた。しかしソ連共産党を中心に、ヨーロッパ各国の共産主義者が集まって、日本の情勢を分析し、コミンテルンの名前で、「日本の君主制廃止の闘争」を指令することに関しては、私は納得できなかった。
天皇・皇室に対する日本国民の感情がどんなものか、君主制(天皇制)廃止の闘争を現実に行うとすれば、どんな恐ろしい結果が生じるか、そんなことが外国人にわかるはずがないと私は考えた。大正末期の皇太子狙撃犯人難波大助の両親や親戚一同がどんなつらい目にあったか、かつての難波の恩師や、彼を一晩泊めたその県の知事たちも、片っ端から被害者にされてしまったが、モスクワで会議している青い目の連中に、そんな事情が分かってたまるか、と私は思い、君主制廃止をスローガンにして日本人を闘わせておいて、おそらく責任を負わないだろうコミンテルンのお偉方に対して腹立たしい気持ちになった。(タコつぼ思想)
マルクス主義者の私の友人は、「モスクワの会議には日本共産党の偉い連中が四名参加している。外国人であっても、マルクス主義の立場に立って日本の歴史・政治・経済の分析を正確にやっている」と私に語ったが、私は半信半疑だった。
「山宣ひとり孤塁を守る」
177 1929年昭和4年3月4日の夜、それは代議士・山本宣治が暗殺される日の前夜のことであるが、山本宣治は大阪市天王寺公会堂での農民組合の大会に出席した。そのとき山本宣治が「山宣ひとり孤塁を守る」と聴衆に向かって語ったとされる。
会場に居合わせた小岩井浄弁護士は、25年後の1954年に「その言葉は今も私の耳朶(じだ)にはっきり残っている」と書いているが、山宣暗殺の直後に朝日新聞の記者が小岩井浄から直接談話をとって、朝日の3月6日の朝刊に、「小岩井弁護士談」として、「山本宣治が「階級的な立場を守っているのは自分一人になってしまった」と語った」としている。となると「山宣ひとり孤塁を守る」という表現はあやしくなる。また、当時会場に居合わせた故辻村茂治が、生前に親友の児玉誠に語ったところによれば、「孤塁」ではなく「赤旗」だったという。そしてまた会場に居合わせた弁護士・大矢省三に私が過日尋ねてみたところ、すでに83歳となって記憶がはっきりしないとのことだった。
178 水谷長三郎が山本宣治から離れたため、「孤塁を守る」あるいは「階級的な立場を守っているのは自分一人」という言葉が出た事は確実である。
次に山本宣治が自分のことを「山宣」と呼んだのは、おかしいともおかしくないとも言える。大正の初め私は京都市内の小学校で「和洋」と呼ばれていた。柴田熊二郎は「シバクマ」と呼ばれていた。昭和の初め左翼の連中が渡辺政之輔を「ワタマサ」と呼び、山本懸蔵を「ヤマケン」と呼び、徳田球一を「トッキュー」と呼ぶのを、私はいい趣味だとは思っていなかった。敬愛をこめた愛称もあったのかもしれないが、軽蔑の意味を込めて「ミズチョー」と呼ぶことは、戦前・戦後を通じてあった。『水谷長三郎伝』1936によれば、水谷は「合法の範囲で階級闘争をやるつもりで、山宣もそれに賛同したが、共産党の圧力で山宣は自分から離れた。「裏切者はたれか」」と語っている。
共産党の側からすれば、昭和3年1928年、4年1929年ころの水谷は、ダラ幹であり、ブルジョワの手先であり、裏切者であり、卑怯者であった。「卑怯者、去らば去れ」という左翼の側に、英雄的な闘士が沢山いることは私も知っていた。しかし拷問を恐れ、無期懲役や死刑を恐れる卑怯者と、英雄的な闘士とに分けるとすれば、前者の数は後者の何百倍多いことか。1933年昭和8年以後、獄中でその英雄的闘士は転向を声明して釈放され、うなだれて帰ってきた。卑怯者が多すぎて卑怯者のレッテルを貼ること自体がおかしくなっていった。
水長は山宣を孤立させ、右翼に襲われる状況をつくったことのために、そして命を賭けた山宣と脱落した水長とのコントラストのために、水長は特別激しく卑怯者よばわり、裏切者よばわりされた。
感想 筆者は当時の共産党に対して反感を持っているようだ。自己主張し、物言いのはっきりしていた英雄的革命闘士の多くが、獄中で転向し、「卑怯者だらけになったので、卑怯者がいなくなった」とあてこする。また共産主義者が社会民主主義者に対して一方的に批判する手法にも反感を持っているようだ。確かにそれは頷ける。共産党支持者は自分だけが正しいと思っている。
しかし確かにそういう面はあるかもしれないが、我々が何を目標とすべきか、という視点は忘れてはならないことではないか。
「許してやれ!」と「許さん!」
179 1929年昭和4年3月4日の夜、山本宣治は天王寺公会堂での集会に出席した後、夜汽車で東京へ向かい、翌日3月5日、神田の旅館で右翼の兇漢の訪問を受け、短刀で刺し殺された。私は右翼を恐ろしいと思う気持ちと、憎む気持ちとで体中がいっぱいになった。
数週間後京都市の岡崎公会堂で左翼による政治集会が開かれた。私は一人で出かけた。超満員だった。選挙演説で顔見知りの奥甚(府会議員奥村甚之助)が真っ先に激しい口調で演説を始めた。労農党はとっくに解散を命じられていて、彼は無所属であった。奥甚は命がけで治安維持法改悪法案の成立を食い止めようとして闘った山宣をたたえ、山宣を孤立させた卑怯者水長(水谷長三郎)を弾劾した。聴衆「そうだ、そうだ」ところが私の後ろの方で「許してやれ!」それは寛容の発言であって、水長が正しいという意味ではない。
非寛容は左翼の特徴であり、またそれが左翼の魅力でもあった。そういう状況で「許してやれ!」と発言するには勇気がいった。誰かが「許さん!」と叫んだ。ところがそれに同調する声は起こらなかった。「許してやれ!」は思いがけない発言であり、それによって聴衆は何かを考えさせられたのかもしれない。
臨席の制服警官に「弁士中止!」と命ぜられ、奥甚は後方の出口から姿を消した。すると聴衆の中から、十人、二十人、三十人と男どもが次々に立ち上がり、前方へ歩き出し、演壇のところまでいき、壇上につぎつぎと飛び上がった。一人として後ろを振り向く者はいなかった。彼らが私服警官や特高警官であることは説明されなくても分かった。彼らは奥甚の後を追うように、後方の出口から次々と姿を消した。聴衆のあいだからうめき声とも溜息ともつかぬものが生まれた。先ほど「許さん!」と叫んだ男も特高の行動に抗議をしようとはしなかった。
181 1935年から1937年までの時期に、私が友人たちと出した『世界文化』という雑誌の刊行が、反ファシズム人民戦線運動だとするのは大げさすぎるとは思うが、その刊行運動の過程で、少なくと私は、このときの「許してやれ!」という発言を思い出し、「許してやれ!」がなければ人民戦線運動はできないと考えた。
(1975年)
『世界文化』とトーマス・マン1875-1955
182 『世界文化』の復刻版三巻が40年ぶりに小学館から刊行されることになった。『世界文化』の寿命は1935年昭和10年2月から1937年10月までだった。トーマス・マンはスイスで不安定な生活を送っていた時期があった。
1935~37年――ファシズムと反ファシズムの時代
183 『世界文化』創刊の年1935年、日本では2月に美濃部達吉の天皇機関説への激しい攻撃が貴族院で開始され、インテリゲンチャはその報道に接して強いショックを受け、暗澹たる気持ちに陥っていた。『世界文化』は同年同月1935年2月の創刊である。6月6日、トーマス・マンがスイスのチューリヒ湖畔の仮住居で還暦を迎え、その半月後、パリで「文化擁護国際作家大会」が開催され、フランス、ソ連、アメリカ、イギリスなど38か国の代表が参加した。ヒトラーに追われて国境の外で暮らしていたドイツの著名な作家たちのほとんどが参加したが、トーマス・マンはヒトラーに気兼ねして欠席した。「文化擁護」という言葉には、ファシズムの野蛮から文化を守るという意味が込められていた。トーマス・マンは同大会に祝電を打つことも控えた。
7月14日のフランス革命記念日に、共産党、社会党、急進社会党の大デモがパリの市中を行進し、人民戦線の威力を発揮した。7月25日から8月20日にかけて、モスクワで第七回コミンテルン大会が開催され、書記長ディミトロフが反ファシズム統一戦線を呼びかけ、それが決議として採択された。
184 翌1936年2月、日本では2・26事件というあの重苦しい出来事が起こった。夏にはベルリンで国際オリンピック大会が開催され、ヒトラーはニコニコした顔で何度も何度も公衆の前に現れた。スペインでは新しく成立した人民戦線政府に対してフランコ将軍が叛乱を起こし、スペイン国民はファシズムと反ファシズムの両陣営に分かれて血を流して闘った。秋には日独防共協定が結ばれ、12月2日、ナチ政権がトーマス・マンの国籍を剥奪し、財産を没収した。それまでの4年間トーマス・マンとナチ政権との間には一種の妥協が成立していて、ドイツ国内でのトーマス・マンの書物の発行と販売が黙認され、その代わりにトーマス・マンはナチ政権に対する批判を差し控えていた。
12月19日、ボン大学文学部長は書面で、これまでトーマス・マンに授与していた名誉博士の称号を撤回する通知状を発送した。トーマス・マンはナチ政権による国籍剥奪や自著の出版禁止はやむを得ないとしても、知性の砦としての大学もそうなのかと思い、今までの穏忍自重を捨て、これまでの良心の疚(やま)しさから解放され、ナチズム・ファシズムと正面から闘う決意を固めた。
1937年1月、ボン大学文学部長のその通知状と、トーマス・マンのこれに対する反駁・反撃の文章を掲載した小冊子が、『往復書簡』と題してチューリヒで発行された。日本では『世界文化』が不完全な抄訳を4月号に載せ、『新潮』は吉田次郎による全訳を掲載した。第一書房の『セルバン』や改造社の『文芸』にも訳文が掲載された。フランス文学者の渡辺一夫がフランス語から重訳し、高志書房から発表した。
185 7月、北京郊外の盧溝橋で銃声がとどろき、日中戦争が開始された。トーマス・マンはフランコに対する憤りを込めて、「スペイン」という文章を発表した。11月、『世界文化』の中心メンバー5人が検挙され、後に残った同人は相談して雑誌の発行継続を断念し、10月号が最終号となった。やがて日本軍は南京を占領し、万歳万歳の提灯行列。スペインの市民戦争では、ヒトラー、ムソリーニがフランコの叛乱軍に対して公然と軍事援助を行い、一方英仏は不干渉を唱えて人民戦線政府を助けようとしなかった。そしてスペインの人民戦線だけでなく、世界の人民戦線勢力の士気が衰え始めた。
反ファシズム――トーマス・マンと『世界文化』
185 以下トーマス・マンと『世界文化』との共通点と相違点について述べる。
第一に、ファシズム反対や戦争反対という点では両者は共通していた。またその反対を大胆に表現できなかった点でも共通していた。
1935年、1936年の日本では「ファシズム反対」は辛うじて口に出せたが、「戦争反対」とはとても言えなかった。一方(トーマス・マン以外の)ドイツの亡命作家の日常生活は不安定で脅かされていたが、ファシズム反対・戦争反対と率直かつ大胆に叫ぶ自由を持っていた。
トーマス・マンも叫ぼうとすれば叫べたのだが、彼はドイツ国外に居住しながら、国内の検閲に拘束される状態を1936年の暮れまで続けていた。ナチが彼の国籍を剥奪し、著書を禁止する措置に出たことから、彼も踏ん切りがつき、自らの言論の自由とナチ批判の自由とを獲得した。しかしそれは名誉なことではなかった。(トーマス・マンが反戦を主張するかしないかは彼の決断次第だったのに対して、日本の『世界文化』の同人にはその決定権がなかったのだから、共通点と言うよりは相違点ではなかったのか)
一方『世界文化』の同人たちは内務省警保局の検閲に引っ掛からないように注意して原稿を作成していた。例えば、我々同人は「革命」という表現が危険であると考え、また××も好ましくないと考え、「改革」という表現を用いたが、結局『世界文化』はコミンテルンの方針に沿って編集発行されている雑誌とみなされ、同人12人が治安維持法違反の疑いで検挙され、うち6名が起訴されて有罪の宣告を受けた。(『世界文化』の同人たちは亡命を考えなかったのか)
第二に、ファシズム反対・戦争反対はモスクワの合言葉だったが、モスクワと『世界文化』との関係、モスクワとトーマス・マンとの関係について以下に述べる。
『世界文化』の同人は約20人、年齢は30歳前後、思想的にはマルクス主義者が1/3、中井正一や和田洋一などはマルクス主義者ではない。中井正一はモダニストとされているが、中井の方が私よりたくさんマルクス主義の本を読んでいたようだが、ファシズムとの戦いの意欲は私の方が強かった。このほか穏健な自由主義者、ヒューマニスト、平和主義者が半数近くいた。
『世界文化』の中にマルクス主義者が1/3いても、1935年当時、日本共産党は事実上壊滅していた。ただし関西には地方的な非合法組織が存在し、『世界文化』の同人個々に働きかけ、「左翼インテリが合法雑誌を出して何になる、自慰行為はやめろ、我々非合法運動活動家にカンパしてくれ」などの働きかけはあった。
しかし『世界文化』の同人は自分の身を守るという意味で、非合法組織とのつながりを極度に警戒していた。非合法運動に参加すれば、必ず特高にかぎつけられ、必ず検挙され、何年か留置され、未決監に入れられ、時には実刑を科せられ、最後は「もう今後は一切共産主義運動はやりません」といって頭を下げ、しょんぼり家に帰って来る姿が見え透いていた。(敗北主義)『世界文化』同人が自分の判断で非合法運動にこっそり資金提供していたかもしれないが、『世界文化』の編集方針に対して外部(の共産主義者)からの指導・指令はなかった。同人はフランスやスペインでの人民戦線の勝利に学び、その勝利に励まされ、反ファシズム勢力の結合を願っていただけだ。
同人がモスクワを支持し、国際共産党を支持していた、というのは言い過ぎである。ただし「平和の砦としてのソ連、地球上の唯一の社会主義国としてのソ連」に対してモーラル・サポートを送っていたことは認める。
アンドレ・ジッドの『ソビエト訪問記』
188 アンドレ・ジッドの『ソビエト訪問記』がもたらした混乱に対する対応の中に『世界文化』同人の気分が現れている。
アンドレ・ジッドはソ連を訪問し、社会主義国ソ連はすばらしいと思うとともに、他方では失望したとも述べた。ところが各国の新聞、特にナチ・ドイツの新聞、フランコの新聞、一部のブルジョワ新聞は失望の部分だけを強調して反共反ソの宣伝にジッドを大いに利用し、共産党に近い人民戦線派の作家(アンドレ・ジッド)がソビエトに対して失望したことを取り上げ、人民戦線運動に水を差そうとした。また日本の保守的知識人も「ジッドの再転向」と言って喜んだ。
中井正一がこの問題について同人間での意見交換を提案したところ10人近くが集まり、約一時間程話し合った。某の「ジッドは正直すぎる、政治的配慮が欠けている、高度のマルクス主義者ではない」という発言に対して、新村猛は「ジッドはもともと「意識の高い」作家ではなかったし、過大評価もしていなかった」と言った。
この集まりには物理学の武谷三男、美術史の辻部政太郎、英文学の米田三次、哲学の富岡益五郎、フランス帰りのねず・まさし(禰津正志)などがいたが、久野収はいなかったようだ。
全体としては、党機関紙プラウダのジッド攻撃がどぎつすぎる、とする一方で、地上唯一の社会主義国ソ連の存在も大切にしたいという気持ちは参加者の間で共通していた。同人たちはソ連に対するジッドの苦い忠告に同感を示しながら、それを示して反動陣営を喜ばす結果になったことは、やはりまずかったというところに落ち着いたと記憶している。
『世界文化』はジッドの『ソビエト訪問記』に関する三人の外国人作家の批判を掲載した。一人はドイツの亡命作家フォイヒトワンガーで、彼はプラウダ同様ジッドを痛烈に批判していた。もう一人もドイツの亡命作家のクラウス・マンで、彼はジッドがソ連に関して真実を語ったことを評価し、「真実こそが我々(ファシズムに反対する者)の武器ではないか」とジッドを支持した。三番目はアメリカの作家マーカム・カウリーで、彼はジッドを擁護しているようでもあり、非難しているようでもあった。『世界文化』の同人自身の積極的な意見表明は差し控えた。それは護身術であった。
190 次にトーマス・マンとモスクワとの関係である。彼の『パリ日記』によれば、彼は1926年にパリを訪れ、そこに住んでいる亡命ロシア人と会見し、「自分もいつかは赤い政権によって国外に追放されるかもしれない」と考え、モスクワに対する強い警戒心を表明している。彼はそれから7年目(の1933年?1936年では)に赤い政権ではなく褐色の政権によって追放されたのだが、1935年から1937年にかけての時期に、モスクワについて何も語っていないのはなぜなのか。確かに慎重だったのだが、その慎重さは何に基づくのだろうか。彼は反ソ的だったのか、それとも親ソ的だったのか。
トーマス・マンをどう扱ったか
190 以下『世界文化』がトーマス・マンをどう扱ったかについて述べる。『世界文化』は文学だけでなく、哲学、美学、歴史学、映画、演劇、音楽、物理学、化学、生物学など様々な分野を扱っていた中で、出版期間2年9か月の間に4回、トーマス・マンを扱った。『世界文化』はドイツ亡命作家の動向に関心を示し、ルートウィヒ・レン、アーダム・シャラー、リオン・フォイヒトワンガー、ベルト・ブレヒト、ハインリッヒ・マン、クラウス・マン、エルンスト・トラー、エー・エー・キッシュなどの亡命作家と、亡命作家の雑誌『ザムルング』などを取り上げた。その中でトーマス・マンは最も重要な扱いを受けた。
第一回目の記事は、1935年9月号に「トーマス・マンとその近況」と題し、ナチ政権によって国籍が剥奪されたことを報道した。しかしこれは早まった間違った報道だった。トーマス・マンの国籍剥奪は1933年以来何度も日本の新聞や雑誌で報道されており、この記事の記者・新村猛はフランスの新聞か雑誌を信用して書いたらしい。トーマス・マンはヘルマン・ヘッセ宛ての手紙の中で、「自分の国籍剥奪が新聞に伝えられているが、正式にはまだ通達は届いていない」と書いている。
第二回目は1936年の10月号と12月号で、ジェルジェ・ルカーチの「トーマス・マンと文学遺産」論が二度に分けて紹介された。このころルカーチはモスクワ発行の月刊誌『国際文学』のドイツ語版に『ヒューペリオン論』『クライスト論』『ハイネ論』などを発表したが、僕(私)はマルクス主義の文学論にひどく感動した。「トーマス・マンと文学遺産」はその頃発表され、前半はマンの「市民時代の代表者としてのゲーテ」に対する、また後半は「リヒャート・ワーグナーの苦悩と偉大さ」に対するルカーチの批判である。ただしルカーチは戦後「この論文は深さが足りなかった」として著作集に入れていない。
192 1937年4月号はトーマス・マンの『往復書簡』184の抄訳を掲載した。しかしその訳文は学部長を意味するデカーンDekanを人名と誤解して「デカン氏」としたり、存在しないのに「ナチス・アカデミー」としたり、醜態を演じているが、誰が訳したのか分からない。そしてマンの手紙の前半と、マンが自分について語っている興味深い部分が省略されていて、後半のナチの戦争政策の部分だけが訳されている。
我々は「侵略戦争反対」とか「帝国主義戦争反対」と叫ぶ自由はなかったが、トーマス・マンがナチス・ドイツの戦争政策に反対していることを日本の読者に伝えることはできた。その程度の自由でも、その自由を生かすことが『世界文化』を存続させる意義だと考えていた。
『世界文化』は千部以上刷ったことはないが、ドイツ語、フランス語、あるいはロシア語の読める同人は、それぞれ各国の新聞雑誌の予約購読者となって、諸外国の反戦の声や、反ファシズムの声、文化擁護の声を聞き取って、それを日本の知識人や学生に「第三者的に」伝えた。
「亡命」か「国外移住」か
193 ドイツの作家は「亡命」したのか、それとも「国外移住」したのか。久野収は「移民」とし、私は主に「亡命」とし、時には「追放」とし、「移民」は一度も使わなかった。
ところが東大独文出身の野上巌(ペンネーム新島繁)が私に「亡命でいいのか」と尋ねた。実はトーマス・マンやアルフレート・デブリーン、ルネ・シッケレなどは「亡命」とは言いにくい。
「亡命」という言葉は中国から伝わってきた言葉である。中国の学者によれば、「命」は「名」なりであり、権力者からにらまれているから「名」を出せない状態が「亡命」である。トーマス・マンは権力者からにらまれていたが、1936年12月までは国籍は剥奪されておらず、著書もドイツ国内で販売され、印税はベルリンのフィッシャー書店からどっさり入っていたから、「亡命」とは言い難い。またハインリヒ・ハイネは1831年にパリに「移住」し、「亡命」ではなかった。舟木重信、中野重治、井上正蔵らは、「ハイネはパリに亡命した」とは書いていない。ハイネはパリで楽しく暮らし、ドイツ国内の新聞に寄稿していたが、やがてハイネの著書がドイツ国内で禁止された。このときからハイネは亡命に変わった。1930年代の日本の知識人は、亡命生活の苦渋についてよく分かっていない。『世界文化』同人も同様である。戦後、山口知三が亡命作家を研究して雑誌『希土』(南江堂刊)に発表した。
(1975年)
太平洋戦争下の抵抗――明石順三の『灯台社』を中心に
戦時下抵抗と世代
195 藤原彰編『戦争と民衆』(昭和50年1975年)に、大学院博士課程の某氏が「戦時下の抵抗」と題する一文を寄せ、それ(戦時下=太平洋戦争)以前の、昭和8年1933年から12年1937年までの抵抗については別の人が担当しているが、満州事変の始まった1931年に28歳だった私のような戦前派の人間にとって、戦中とそれ以前とを分けて考えることはできない。
昭和12年1937年までは、ともかく抵抗の名に値する抵抗、特に組織的抵抗があったが、太平洋戦争下ではそれが見られなくなった。その変化に注目すべきだ。
196 15年戦争下の自らの姿勢を記述すべきである。あの戦争を「聖戦」と信じていた人は無邪気であるが、知識人は懐疑的・否定的にとらえていて、その戦争に抵抗するかどうかは、知識人にとって決意の問題であった。私自身は、弱々しい無抵抗について語りたい。
革命と抵抗
1961年、私は同志社大学の中に、戦時下の抵抗について調査研究するグループを組織した。メンバーは最初3、4人にすぎなかったが、5年後には14、5人となり、その研究成果をみすず書房から刊行した。以下「抵抗」という概念について述べる。
197 強者が弱者に力を加えると、弱者は心ならずも従順な態度をとる。逆らえば痛い目にあうと思うからである。しかし強者の言いなりになっていたのでは、自らが破滅するかもしれない、強者の無理わがままを通させるのは悔しい、と思ったとき、弱者は不従順な態度をとることもある。それが抵抗である。抵抗は受け身の立場に立つ者が、危険を意識しながら自発的に行う行為である。
この観点からすると革命運動は「抵抗」ではない。昭和初期の共産主義者は、帝国主義戦争やファシズムに反対した。その意味ではそれは抵抗運動であったが、共産主義運動の主目的は反戦や反ファシズムではなく、「ブルジョワ・地主の政府打倒、労働者・農民の政府樹立」が主目的であったはずだ。だからそれは抵抗運動ではない。(社会を強者・弱者の観点からしかとらえない、未分明な考えでは)フランスのレジスタンス運動で、フランスの民衆はドイツ占領軍の支配と抑圧に果敢に抵抗し、最後には自らを解放したが、解放後のプログラムは持っていなかった。
日本の共産主義者による革命運動は、昭和8年1933年をもってほぼ終わった。同じ年、昭和8年1933年の春から夏にかけての京大法学部の滝川事件は、歴史的な大闘争だった。それは国家権力とファシズム勢力をバックにした文部大臣・鳩山一郎が、(京大)教授会を無視して滝川幸辰(ゆきとき)教授を罷免しようとしたことに対する反対運動であった。それは抵抗運動であった。革命運動ではなかった。この時期ドイツではすでにヒトラーの独裁が始まっており、焚書事件も起こっていて、日本国内では共産党が度重なる弾圧によって無力化し始めていた。
198 私は1933年の滝川事件を念頭に置き、それ以降(の抵抗運動)に注目してみると、その抵抗運動が終わったのは、昭和12年1937年のころであったろう。そして私は昭和13年1938年以降、特に昭和16年1941年の真珠湾攻撃以降は、(抵抗運動に関して)ほとんど問題にしなかった。
しかしそれは間違っていたことに気づいた。日本国民が真珠湾での大戦果、マレー沖での英戦艦二隻の撃沈、シンガポール陥落などで有頂天になっている時期に、無名の英雄が不屈の抵抗を行っていたことが、研究会で分かってきたからである。太平洋戦争下の新聞はそのような英雄たちの抵抗について一行も記事を書かなかったし、書けなかった。
治安当局は、反ファシズム人民戦線方式は、コミンテルン第七回大会の決定に基づく戦術である以上、日本共産党とは直接関係がなくても人民戦線運動を弾圧する、という方針を日中戦争が始まった年1937年の秋に打ち出し、『世界文化』の中心メンバー5人が突如検挙され、『世界文化』の刊行を10月号で断念した。翌昭和13年1938年6月、更に7名が検挙され、最終的に私を含めて7名が治安維持法違反で有罪の判決を受けた。
199 『世界文化』の同人のうちには、マルクス主義者、左翼的戦闘的自由主義者、穏健自由主義者、ヒューマニストなど様々だったが、雑誌は合法的出版物だった。検閲でひっかかることもなく、呼びつけられて警告を受けることもなかった。南京陥落で新聞社はセンセイショナルな紙面を作り、街頭では提灯行列が展開された。私はもう反ファシズムを口にすることはできないと観念したが、その時、著名演劇人・杉本良吉、岡田嘉子の二人が樺太からソ連へ脱出した1938/1/3というニュースが伝えられた。私もできることなら日本を脱出したいと思った。昭和12年1937年と13年1938年の境目は、私個人にとってはっきりしていた。また客観的状況からみても、昭和13年1938年以降は文化運動だけでなく、労働運動も農民運動も、国の大方針に逆らう方向では何もできなくなった。
宗教団体『灯台社』の抵抗
200 私は戦後になって宗教団体『灯台社』による太平洋戦争中の抵抗運動のことを知った。『灯台社』の中心人物・明石順三とその周囲の人々は、超人的な戦いをしていた。その戦いは留置場内、法廷内、刑務所内、兵営内、陸軍刑務所内で行われていた。灯台社の人々が受けた責め苦の連続、それに耐えた精神の強さは言葉では言い尽くしがたい。(共産党員もそうだったのでは)それに対して『世界文化』の同人は弱々しかった。
太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年1942年4月、被告・明石順三は第一審の法廷で「自分が発行した出版物は全部当局の検閲を受けている。自分が今までやってきたことは、すべて合法的な方法・手段を採ってきている。自分は今まで法に触れるようなことはしていない」と述べた。この点は『世界文化』と同じである。突如として治安維持法違反容疑で逮捕・起訴された点でも同じである。起訴処分にするための調書に心ならずも、肉体的・精神的拷問に耐えかねて、拇印を押したという点でも同じである。(『世界文化』同人は肉体的拷問は受けていないのでは)相違点は留置場生活に入ってからの心構え・姿勢である。『世界文化』の同人たちは、合法活動しか行っていなかったことが明らかであるし、半数が大学・専門学校の教授・講師の肩書を持っていたので、肉体的拷問を受けることはほとんどなかった(特権の上に胡坐をかいている)が、その代わりに特高は自分たちの望む通りの調書作成に協力しない限り、何カ月でも何年でも留置場に入れておくという態度を明らかにした。同人たちは「敵の捕虜になった、生殺与奪の権を相手に握られた」と感じて抵抗の姿勢を放棄した。あっさり断念した者、かなりねばったあとに断念した者の区別はあるが、同人たちは自由な体のときは文筆による反ファシズムの戦いをしたが、体の自由を奪われるとともに、戦いを放棄した。(これは共産党員が獄中で転向したことと同じではないか。)
ところが灯台社の諸君は、身体の自由を奪われた後に、一層抵抗精神を発揮した。法廷で裁判長が明石順三に対して「しからば被告は灯台社運動継続中においては、天皇陛下および皇室の尊厳性を認めておったか」と問うと、明石は「尊厳神聖というようなことは全然認めません」と答え、「天皇陛下のご地位についてはどうかね」という質問に対しては、「天皇のご地位など認めません」と答えている。なんという大胆さであろう。
明石はまた「私の後について来ている者は4人しか残っていません。私ともに5人です。1億対5人の戦いです。1億が勝つか、5人が言う神の言葉が勝つか、それは近い将来に立証されることでありましょう。それを私は確信します」エホバの神*を信じ、聖書の教えの正しさを信じる者の強さと迫力は『世界文化』同人には見られなかった。
*灯台社は輸血を拒否するエホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)の前身だが、1947年、明石順三は米本部から除名された。
昭和14年1939年6月、灯台社に対する一斉検挙が行われ、130余名が取調べられたが、新聞記事差止め令が出されて一般国民は知らされなかった。『世界文化』も公判中傍聴禁止だった。その理由は、国論の統一を妨げる不逞分子の続出を懸念したのかもしれないし、治安維持法違反で有罪にできるかどうか、思想検事、特高警察の側に自信がなかったのかもしれない。(理由は後者ではなく、前者だったのでは。後者と考えるのはお人好し過ぎる。)
昭和4年1929年3月に右翼の兇漢に暗殺された山本宣治は、「私は寂しくない。背後に大衆が控えているから」と述べたが、明石の背後にはたった4人しかいなかった。
202 灯台社の一斉検挙のときの検挙者130余名は、長期の留置場生活と拷問の苦しさに耐えかねて次々と脱落し、最後に5人だけが残った。この5人は日本国民全体を、敵としてではなくとも、対立するものとして、受け取っていたに違いない。
兵役を拒否した日本人・村本一生も灯台社のメンバーだった。日露戦争のときに入隊・出征を拒否して銃殺されるところだったキリスト者・矢部喜好に関する本が出ているが、村松一生の受難に関しては『兵役を拒否した日本人』(岩波新書)がある。私は昭和47年1972年9月、灯台社で最後に残った5人中の一人である隅田好枝と、明石順三の未亡人、村本一生の三人に、栃木県鹿沼町で面会した。彼らは普通の人だった。私がそこでいただいた本には、明石順三の獄中の様子とともに、彼と獄中生活を共にした共産主義者・春日庄次郎についても触れられている。春日も強い人だった。
感想 特権階級の大学教授の抵抗精神など、信用できないのでは。そういう私も恐らくすぐ降参するだろうが。しかし死刑には抵抗するだろう、袴田さんように。『世界文化』同人は、本書の著者和田洋一のように、執行猶予を予想していたから有罪を認めている。そして無罪を主張するのを入獄期間が長くなるからと避けている。
さまざまな抵抗の形
203 私は、昭和14年1939年の暮れ、勾留の身から解き放たれて1年半ぶりに自宅に戻った。これからは保護観察の対象となる。また特高警察も独自に監視するだろう。1940年元旦の新聞の一面、二面、三面、四面は、「奉祝紀元2600年」、「奉祝皇紀2600年」ばかりである。私はこれでは日本国民の頭はおかしくなるだろうと思った。
その翌年1941年の6月22日、独ソ開戦が始まった。真珠湾攻撃の半年前である。このころ私は大阪新聞の政治部記者であったが、政治部嘱託の某陸軍大尉が背広姿で我々の前へやって来て、指二本を突き出しながら、「ソ連は二週間、二週間で崩壊する」と興奮しながら叫んだ。私は心の中で「ソ連が二週間でつぶれてたまるか」と思ったが、新聞社内では「ドイツはすごいなあ」「ソ連はとてもながもちはすまい」などとやり取りが交わされていた。その後新大阪ホテル入り口でドイツ国総領事に会ったが、彼は「半年、戦争は半年で終わる」と言った。ベルリン特電では、ドイツ陸軍高官の見通しとして、「一月で崩壊」とか「六週間で崩壊」とかまちまちだった。英仏軍に対するドイツ軍の強さは、私にとって想像以上だったことは確かで、ソ連との不可侵条約を守り続けていく限り、ドイツのヨーロッパ制覇は相当長く続くだろうと思っていた。しかしソ連を敵に回したことでドイツの敗北は決まったと私は思った。ドイツが敗北すればドイツを頼りにしている日本も敗北する。その日までせいぜい自重して生きながらえようと思った。(他力本願)
204 1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃の成功後の暫くの間、日本国民の大部分は緒戦の勝利に酔い、「日本の海軍はやっぱり強い、陸軍もやっぱり強い」と上機嫌だった。しかしその後戦況の悪化に気づく者がぽつぽつと出てきた。
戦況が好転しようがしまいが、無理な戦争を続けている日本の国内では、民衆の各層、労働者、徴用工、農民、都市の給料生活者、商工業者は、物資の不足に苦しみ、労働の過重に苦しみ、待遇のアンバランスに腹を立て、生活の前途に不安を感じたが、それらをどこへも持っていきようがなく、特高警察や憲兵に対する恐怖の中で、弱者は逃亡と逃避を考える。
逃亡や逃避を抵抗の一種と考えることもできる。そうすると太平洋戦争下の抵抗は計り知れない数になるに違いない。
205 (朴慶植)『朝鮮人強制連行の記録』(1965)には、「朝鮮人一般に対する徴用が実施されると発表されると、一部の知識階層や有産者階級は、いち早く支那や満洲国方面へ身を隠し、住居を転々として当局の住所調査を困難にさせ、一般階層も、医師を篭絡して仮病入院し、わざわざ花柳病にかかり、疾患を理由に免れようとし、自分の手足を傷つけ、不具者となって忌避しようとするものが続出した」とある。
日本の官憲に逆らうことなど恐ろしくて考えられないので、朝鮮人はひたすら徴用を免れることばかりを考えただろう。しかし忌避や逃亡に成功した者はほんの一部分だっただろう。そして、残りの者は日本内地へ強制連行され、苛酷な労働を押し付けられ、牛か豚のように扱われ、苦しさに耐えかねて逃亡し、捕まってまた連れ戻され、半殺しの目に会う。これが70万人あるいは100万人とも言われる朝鮮人強制連行者の運命だったのではないか。彼らの逃亡や逃避が抵抗であったすれば、太平洋戦争下の朝鮮人の多数が抵抗したことになる。朝鮮人労働者や徴用工は、日本人使用者からすれば、牛であり豚であり、非人間的な状態に置かれていたのではないか。ただし、明石順三とともに頑張り続けた非転向の同志4人のうち2人は朝鮮人であり、この二人は獄死した。この二人こそまさに殉教者であり、抵抗者であった。
日本人労働者・徴用工の逃亡成功率は朝鮮人に比べてはるかに高かっただろう。サボタージュも行われただろう。意識的な不良製品の生産もあっただろう。無自覚的抵抗もあっただろう。しかしそれらが日本の敗戦を促進する決定的役割を果たしたとは考えられない。
小山宗佑(こやまそうすけ、1916/1/21-1942/3/23)と桐生悠々
206 太平洋戦争末期の10か月余、私は京都の独逸文化研究所の研究員をしていた。研究所には常勤のドイツ人が二人いて、そのうちの一人はナチ党員であった。隣に日仏会館があり、フランス人が一人か二人住んでいた。そのため憲兵や特高がこの二つの建物を目当てによくやって来て、我々日本人にも話しかけてきた。昭和19年1944年の暮れ、ドイツ人二人はもはや勝つ見込みはないとあきらめたようだった。日本人の研究員三人は、国民服を着用せず、脚にゲートルをつけず、頭を坊主にもしなかった。憲兵にはそれが戦争への非協力と見えたらしく、「なぜゲートルをまかないのか」と私達に詰問したが、私たちはそれを聞き流した。特高が私の過去の思想事件を知っているのかどうかも不安の種だった。研究員の一人大山定一は、昭和5年1930年のころ、共産党員への資金提供が発覚して検挙されていた。彼はある日「犬死にはしたくない」と言った。
207 戦後知ったことだが、参院議員の高良とみ女史が戦争末期に「犬死にしてはだめですよ」と一人の若者に自重を促した。まもなく戦争は終わる、それまでは大人しくしていなさい。ちょっとした反戦的行為のために捕まり、犬か猫のように撲殺される人の死について、新聞は一行も報道しない。戦争が終わって20年になるが、私は戦時下の抵抗を調査し、研究する過程で、一人の牧師補が太平洋戦争開始の直後、「犬死」したこと、憲兵によって無残に殺されたことを突き止めた。
函館の青年で、牧師見習いの小山宗佑*は、函館の護国神社へ毎朝輪番で参拝する順番が回ってきたときに参拝を断った。隣組の誰かが密告し、彼は「犬死」した。「犬死」したくないとは、良心のやましさを感じながらも神社を参拝する、ということである。(卑屈)
*Wikiによれば、キリスト教の牧師だった小山宗佑は、1942年1月、護国神社への参拝を拒否し、それを密告されて憲兵隊に検挙され、1942年3月、大逆罪で、第一回公判(非公開)の翌朝に、警察発表では、縊死自殺とされるが、浴衣に血液が付着し、首に痕跡があり、首の骨が折れていた拷問死とするのが順当だろう。
抵抗した人だけでなく家族の者や周りの人達にも被害が及ぶ。
昭和46年1971年10月の新聞週間のとき、NHK教育テレビが、戦争中の「あっぱれな」抵抗をしたジャーナリスト桐生悠々の特集番組を放送した。(筆者は「犬死」「あっぱれな」と言って馬鹿にしているようだ)そのとき悠々の未亡人の寿々さん(1976年の今生きておられたら88歳)が現れ、「私がいくら言うたって、言うことをきく人じゃあなし」と語った。桐生悠々が抵抗の姿勢を貫くにも妻の従順と犠牲が必要だったし、子どもたちにはひもじい思いもさせた。桐生悠々が信濃毎日新聞の主筆だったころ、信州郷軍同志会は、悠々の反軍的論説に反発して不買同盟を組織し、社へ強硬な申し入れをした。悠々は社長や社員に迷惑をかけることを避けて退社した。その後62歳の悠々は個人雑誌『他山の石』を刊行し、矢折れ刀尽きるまで戦った。発禁の連続で、「他山の石廃刊の辞」をしたため、これを活字にしようとしたところ、その「廃刊の辞」が禁止された。禁止令が届いたのは悠々病死の直後であった。
悠々の死は昭和16年1941年9月だった。彼の言論は太平洋戦争の時期に入る前に完全に息の根を止められていた。正木ひろしの言論による抵抗は終戦まで続いた。続けられたのは個人雑誌だったこと、表現上苦労したことによる。「暗夜には一本のローソクでも尊重される」と思い、雑誌『近きより』の原稿を書いたのだが、私は戦前このことを全く知らなかった。(無駄なことと言いたいようだ)
(1976年)
感想 皮肉っぽい文章。身を守るという意味で、それも一理あるが、奴隷の論理。著者は奴隷を何年でも続けていたらいい。
筆者が言っていることは、戦後になったから言えることではないか。戦中には戦後のことは予想できなかったはず。それをあたかも予想できていたかのような口ぶりだが、それは偽りではないか。
状況に対して自らが先頭を切って働きかけようとはしないという日本人の性向は、戦前も戦後も同じように思われる。自分からは働きかけようとはせず、何事も他人任せで、権力に迎合することを基調とする。
終戦の年、敗戦の年
「終戦」という表現
209 敗戦後の日本人は戦争に負けたことを素直に認めようとせず、「終戦」という言葉でごまかしたと何度も言われてきたが、それは間違いである。戦争の末期に、「もういいかげんに戦争をやめてもらいたい」と思っていて、8月15日の玉音放送でホッとした人々は多かったはずである。そういう人々にとっては、戦争がいつまで続くかの方に関心があり、勝つか負けるかには関心がなかった。終戦の次に敗戦を意識したのである。
独逸文化研究所の思い出
210 1945年8月15日までの私の記憶はかなりはっきりしているが、それ以後の記憶は朦朧としている。それは最後の勝利を信じていたとか、玉砕を覚悟していたので、がっくりと虚脱状態に陥ったとかいうのではない。私は独ソ開戦以来、ドイツと日本の必敗を信じていたので、いつ、どういう形で負けるか、敗戦直後の混乱はどんなものかということだけに関心があり、また敗戦をこの目で見ないでむざむざ死んでたまるかと思っていたので、8月15日までは張りつめていた。従って「終戦の年、敗戦の年」という題で語る時、ほとんど敗戦前の話、つまり1945年1月から8月までについて語ることになる。
211 京都市左京区東一条電停前に社団法人独逸文化研究所があった。私は1944年9月からそこに勤務していた。ドイツ人が二人いて、一人は研究所主事でナチ党員のハンス・エッカルトである。彼は一時は当たるべからざる(勢いが激しくて阻むことができない)勢いであったが、ドイツの敗色が濃厚になると、元気を失い、1945年を迎えると、勝利の望みを捨てていた。彼はある日私と私の同僚の谷友幸を前にしてこう語った。
「我々独逸民族は第一次大戦で敗北した後、もう一度立ち上がるために、一生懸命頑張った。いいところまでいったが、もう駄目だ。我々は再び敗れた。しかし見ていてくれ、この次の第三次の大戦争を、その時こそは必ず勝ってみせる」
もう一人の独逸人は非党員で大人しい人だった。日本人の研究員は大山定一、谷友幸、和田洋一の三人で、研究所の事務的な仕事は和田と谷が分担し、ドイツ語講習会では、この三人と三浦アンナ夫人が講師を勤めた。
独逸文化研究所の北隣に関西日仏会館があり、ここは適性国の建物であり、フランス人が居住していたので、憲兵も特高も警戒していたが、盟邦ドイツの運命が危うくなってくると、独逸文化研究所も気がかりになり出したようで、出入りする回数が増えてきた。
敗戦間近のころ(私には前科があったから、警官の旧友がいなかったら、ひょっとしたら検挙されていたかもしれない)
212 当時の日本の男性は、国民服にゲートル、頭は坊主刈りにして戦闘帽をかぶる、これが決戦下にふさわしい身なりとされていた。しかし、大山、谷、和田の三人は背広姿で無帽、ゲートルは巻かず、髪の毛は長いままだった。(これで大人しいと言えるのか)憲兵は顔をしかめて、「ゲートルぐらい巻いたらどうや」と言ったが、それ以上はしつこく言わなかった。
私が6年前に治安維持法違反で有罪の判決を受け、現在も保護観察下にあることを憲兵が知っていたら、こちらも言動に気をつけなければならないと思っていた。ある日憲兵隊から私宛に呼び出し状が来た。憲兵隊の詰め所は七条大宮の龍谷大学の近くにあった。私は途中七条烏丸の七条警察署に立ち寄り、佐藤という警部と立ち話をした。彼は私の旧制高校時代のクラスメートで、私の思想経歴については一通り知っていた。私は別れ際に「憲兵隊から出頭命令が来たのでこれから行ってくる」と言った。
憲兵隊に行くと顔なじみの男が柔和な表情で対応した。「君は七条署の佐藤警部と三高時代に同級生だったらしいなあ。さっき電話がかかって来て、『和田という男がまもなくそちらへ行くが、あんまりいじめんといてやってくれ』と頼んできたよ。学生時代の友だちというものは、ありがたいもんやなあ」
佐藤兵太郎警部は京大法学部出身で、本来ならとっくに警察署長になっているはずであったが、大正デモクラシーの時代に受けた自由教育が身に付き過ぎて、戦時下の警察の中では出世できないのだとクラスメートたちは話し合っていた。(いい友達がいてよかったね)
213 いずれにしてもまた検挙されたら何もかもおしまいのような気がしていたので、蔵書に関しては配慮していた。(以下のことは「配慮」に値するのだろうか)1938年6月、私は特高の訪問を受け、家宅捜索されたが、その時の捜索はずいぶん寛大だった。彼らは横文字が苦手だったので、ドイツ語の左翼文献は大部分そのままにしておいてくれ、モスクワで発行されていた
“Internationale Literatur”という雑誌や、表紙にマルクスとレーニンの顔が出ている書物などが助かった。父の書斎も妻や妹の私物にも手を触れなかった。おかげで奇跡的に助かった貴重な文献を私は所蔵していて、それが危険だとは十分自覚していたが、焚書を決行する気にもなれず、ドイツ語の書物や雑誌はそのままにし、日本語のものは妻のタンスの中や衣服の下へ隠していた。私は目立ったことは何一つしていなかった(ゲートルも巻かないでか)が、日仏会館のフランス人が川端署に留置されたと聞くとヒヤッとした。
大阪大空襲や神戸大空襲の後ころに、京都市民も家財道具の疎開をはじめたと思う。家財道具を積んだ荷車が列をなして連日東山通りを南から北に動いていった。彼らは戦争が終わるのを黙って待っているようだった。決戦に備えるという気迫はみじんも感じられなかった。私は研究所の蔵書の疎開を思い立ち、大山定一先輩に相談したら「ろくな本はないから、みんな焼けてよろしい」ナチ・ドイツの機関から寄贈された書物がたくさんあった。
玉音、そして…
214 1945年8月13日、米軍機が撒いたビラが研究所の屋根や庭にも落ちてきた。私は「日本の皆様」と題した文章を読んで、日本政府が連合国を相手に降伏条件に関して打診していることを知り、戦争もあと数日で終わると思った。
8月15日の玉音放送は、研究所の屋上で、ドイツ人二人を含めて全員で聞いた。何という歯切れの悪さ、負けたということを正直に言えないのである。だから「終戦」という言い方はごまかしだ、正直に「敗戦」と言うべきだ、という意見も後になって出てきた。研究所の中では、ドイツが負けたあと、日本が最後まで頑張って勝つと思っている人は一人もいなかった。放送を聞いて表情を変えた者もいなかった。女事務員の口元には微かなほほ笑みが浮かんだようにさえ思われた。
215 その翌々日くらいに、特高の一人が研究所に現れ、私たちを前にして「アメリカの科学者は原子爆弾を発明したのに、日本の科学者は一体何をしていたのか」と、テーブルをどんと叩き、「日本は原子爆弾のために負けたのだ」と言って、京都帝国大学の方を睨みつけた。彼は法経文の研究室ではなく、理学部研究室の方を向いていた。私は「あはは」と笑うのはまだ早すぎることを知っていた。私は敗戦後、東条英機を初めとして大きな顔をしていた軍部のお偉方がどんな顔をするか、我が世の春というような顔をして日の丸の扇をばたつかせていた右翼の連中がどんな顔をするか、私たちを留置場に放り込み、未決監・刑務所に放り込んだ思想検事、残虐の限りを尽くした特高の刑事がどんな顔をするか、これを見ずには死ねないと思い続けて来た。もうあとしばらくの辛抱だ。そう思って私はきょとんとしたまま特高の悲憤慷慨の収まるのを待った。
(1976年)
和田洋一『私の昭和史』1975 感想 2024年11月17日(日)
以下の文章の中に、戦前の思想検察・特高警察による非人道的な横暴・拷問に対する筆者の憤りが表現されているが、それは戦後なくなったのだろうか。否、戦前の検察・警察は、冷戦開始と朝鮮戦争を契機に、復権して今日に至っているのではないか。そのことは最近の袴田冤罪事件が示している。
袴田冤罪事件再審無罪に対する控訴を断念した時の検事総長談話の不気味な無反省、取り調べ時の肉体的・精神的拷問による、検察ストーリーに沿った自白の強要、有罪立証に不利な全証拠の不開示、そのことによる再審開始のしづらさ、そして再審判決に対する検察による抗告による裁判の長期化と、無実の人の長期間の勾留(抗告しないで裁判で争えばいいのである)等々である。
「独逸文化研究所の中では、ドイツが負けたあと、日本が最後まで頑張って勝つと思っている人は一人もいなかった。玉音放送を聞いて表情を変えた者もいなかった。女事務員の口元には微かなほほ笑みが浮かんだようにさえ思われた。
215 その翌々日くらいに、特高の一人が研究所に現れ、私たちを前にして「アメリカの科学者は原子爆弾を発明したのに、日本の科学者は一体何をしていたのか」と、テーブルをどんと叩き、「日本は原子爆弾のために負けたのだ」と言って、京都帝国大学の方を睨みつけた。彼は法経文の研究室ではなく、理学部研究室の方を向いていた。私は「あはは」と笑うのはまだ早すぎることを知っていた。私は敗戦後、東条英機を初めとして大きな顔をしていた軍部のお偉方がどんな顔をするか、我が世の春というような顔をして日の丸の扇をばたつかせていた右翼の連中がどんな顔をするか、私たちを留置場に放り込み、未決監・刑務所に放り込んだ思想検事、残虐の限りを尽くした特高の刑事がどんな顔をするか、これを見ずには死ねないと思い続けて来た。もうあとしばらくの辛抱だ。そう思って私はきょとんとしたまま特高の悲憤慷慨の収まるのを待った。」
Ⅲ スケッチ風の自叙伝
感想 心に残る一文
「不逞鮮人」という言葉は、そのころ流行語になっていて、新聞紙上には毎日のように「不逞鮮人がかっぱらいをした」とか、「不逞鮮人が工場から集団逃亡した」という記事が出ていた。226
「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」という軍国美談1932/2が軍の優秀な人たちによって発想され、新聞はいっせいに大キャンペーンを展開した。NHKも映画も演劇も、宣伝に協力した。浪曲師も講談師も、動員されたのか自発的か、三勇士、三勇士と騒ぎ立て、日本全体が熱にうかされているように見えた。238
要旨
父と子
219 鎮守府将軍八幡太郎源義家が、和田家の祖先である。長男である私の家には和田家の系図一巻が残っている。
220 私の父、和田琳熊(りんくま)は、東京に出て帝国大学文科大学に入学し、哲学を学んだ。日清戦争が終わったすぐあとの時期である。卒業後の1900年4月、同志社の教員になり、1944年まで続いた。父母ともキリスト教徒である。父は私に「同志社では懇親会で酒を無理強いされる心配はないと思った」と言った。「クリスチャンだから酒は飲まない」と言っても承知しないで、飲め、飲め、というのが明治、大正の気風であった。父の恩師中島力造は同志社英学校で新島襄から直接教えを受けた。
221 敗戦後同志社にも教職員組合がつくられ、法学部教授の高橋貞三が委員長に、予科教授の私は副委員長に選ばれた。私はクリスチャンか共産主義者か判らないようなところがあり、闘争的でもあった。
私にとってのキリスト教
222 父が自分の教会だと定めた日本基督教会(日基)の人達は、一般に、自分たちの神学は、カルヴィンの流れを汲んでおり、正統的である、生活態度においても自分たちは真面目であるが、他会派は、水をわったぶどう酒であり、世俗的であると考えていた。父は日基と室町協会を最後まで離れず、40年間長老の地位にいた。
私が通った室町幼稚園の園長はアメリカ人宣教師の奥さんだった。私の家庭では三度の食事の前にめいめいがお祈りをした。親戚もクリスチャンばかりで、私の従兄弟姉妹40数名のほとんどが日曜学校に通っていた。
223 中学4年卒で高校受験ができるようになったので、私は同志社中学5年の時に退学した。(高校浪人中に、日基の)日高牧師から、そろそろ信仰告白して正式の教会員になってはどうかと二度三度催促を受けた。明治以来キリスト教の世界では「救われる」「神様に救って頂く」ということがよく言われていたが、私は「救われた」とは思わず、感激もないまま、ただキリスト者としての生活をいつまでもつづけるという決心だけはして、信仰告白をし、正式教会員となった。
入学・落第・特別及第
225 1923年4月、三度目の入学試験でやっと三高に合格できた。週34時間の授業中、ドイツ語が11時間を占めていた。私は大学卒業後の愚劣で野蛮な兵営生活を思うと気が滅入った。甲種合格を免れるために近視度を強くしようとして、暗い電灯の下で毎晩細かい活字を読み、映画館では眼鏡をかけないで画面をじっと見つめた。結果は第二乙種合格となり、ほっとした。しかし兵営生活は免れても、戦争が始まれば狩りだされる心配は残った。
226 夏休みに札幌郊外の真駒内牧場での草刈りのバイト中に、私が薄汚い格好で札幌市内の知人宅を尋ねると「やあ、不逞鮮人がやって来た」と言われた。「不逞鮮人」という言葉は、そのころ流行語になっていて、新聞紙上には毎日のように「不逞鮮人がかっぱらいをした」とか、「不逞鮮人が工場から集団逃亡した」という記事が出ていた。
8月下旬、東京まで戻り、9月1日、青山六丁目の叔母の家で遊んでいると、関東大震災に会った。9月3日のころ「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れようとしているので気をつけてください」と、誰かが戸外で叫んでいる。そのころ自警団が組織され、私も町内の人と交替で見張りに立った。ただ青山六丁目周辺はかなり冷静で、朝鮮人を日本刀で叩き切ったとか、その他流言蜚語で神経をとがらせることはほとんどなかった。私は日本人に対して日頃恨みを持っている朝鮮人の中には、このどさくさの中で、井戸に毒を入れる者が一人や二人いてもおかしくないだろう、と最初は思っていたが、下町の方では朝鮮人が続々殺されて、死骸が道端にごろごろ転がっているという話だった。その様子を私は見なかったが、朝鮮人問題を理解するためには見ておくべきだった。
9月17日に京都に帰った。「大正デモクラシー」とか「大正リベラリズム」という言葉は当時はなかったが、デモクラシーらしきものやリベラリズムはまだ生きていた。
数学ができず落第し、4月から新入生とともにもう一度全教科をやり直した。
228 5名の友人を誘って、週二回、ドイツ古典を読む集まりを続けた。数学が50点以下で、また落第しそうになったが、特別及第となった。二度続けて落第したら、放校処分という規則があった。父から「危ない綱渡りはもう止めてくれ」と言われた。
大正リベラリズム
229 1925年大正14年3月に治安維持法が成立した。そのころの衆議院や貴族院での法案審議の様子が新聞で報じられていたのを私は今にして知った。私はその13年後の1938年に治安維持法違反容疑で検挙・起訴された。(治安維持法成立)当時、私は陸上部の中距離ランナーで、治安維持法には無関心だった。クラスの中でも話題にするものは一人もいなかった。これは大正の「非政治的教養主義」の現れか。
そしてこの年1925年の4月、陸軍省から全国の中等学校、高等学校、専門学校、大学に対して、現役将校が派遣され、軍事教練を担当した。早稲田大学で軍事教練反対の騒ぎがあった。三高の掲示板にも「配属将校受け入れ反対」の檄文が貼られた。(世界の)軍縮の世論に押されて、陸軍省は将校の頭数を減らさざるをえなくなり、余った将校を中等学校以上の学校に配属したのである。
配属将校の側からすれば、古い歴史をもった官立高校の学生は苦手であったにちがいない。配属将校は高圧的な態度に出ることを避け、物わかりの良さを示し、学生の機嫌をとり、トラブルはほとんど起らなかった。軍事教練の時間には、ズボンの上にゲートルをまくことになっていたが、ある日私はゲートルを忘れたので、友達のゲートルを片一方だけ借りて参加した。配属将校が「みっともないことはやめとけ」と言ったので、二人はゲートルなしで教練をやった。大正の終わり(1925年)に始まった軍事教練は、最初はこのように気楽だったが、6年後の満州事変1931年以後になると、びっくりするような変わりようだった。私はそのとき同志社大学予科の教師をしていたが、学生は怒鳴られるのではないか、ぶん殴られるのではないかと緊張して行進したり立ち止まったりしていた。
230 京都学連事件第一次、第二次は、1925年12月、1926年1月に起った。検挙されたのは主に京都大学、同志社大学の社会科学研究会のメンバーだった。そのころ三高の掲示板に張り出される檄文も政治的闘争的になってきた。
三高を卒業する前年1926年の暮れ、イエス・キリスト降誕の日12月25日に大正天皇が死去し、新しい元号が昭和と発表された。「昭」は日常使わない文字で、「昭代」とは「よく治まっている御代」という意味であるが、これから世の中が乱れそうな気配なのに、いい気なもんだと私は思った。
日高牧師223は「信仰の養いになるという意味では英文学だ、ドイツ文学は異端的だ」という意見だったが、私は大学でドイツ文学を選んだ。
東大、京大のどちらを選ぶべきか。東大ドイツ文学の教授青木昌吉は文学者とはいえない、と私は思っていたが、東京では築地小劇場の芝居が見られていい。京大ドイツ文学の助教授成瀬清は講演や著書が魅力的だった。京大に決めた。*
*大学入試はなかったのか。Wikiによれば、旧制高校と帝国大学の総定員はほぼ等しく、旧制高校生は大学学部を問わなければ、どこかの帝国大学に全入できた。
大学生としての三年間
231 1927年昭和2年4月から1930年昭和5年3月まで私は京大文学部ドイツ文学科の学生だったが、ドイツ文学に専念しなかった。室町協会の集会に参加し、礼拝のオルガンを弾き、日曜学校の校長を勤めた。
232 ドイツ文学の研究対象は一般にゲーテやシラーであり、新しいところでは19世紀末の自然主義であったが、昭和の初め1926年頃には、外国の古典文学の研究に没頭することを許さない雰囲気があった。つまり、三高時代に私と同様に社会科学に無関心であった私の友人が、マルクス主義の本を貸してくれたり、左翼的な会合への出席を勧めたりしたのである。
1928年昭和3年2月20日は、普通選挙法による最初の投票日であった。その前々日の私の日記によれば、私は当局による選挙干渉に腹を立て、「あれでは誰だって労農党に同情するようになってくるだろう」とある。私の左傾は、普通選挙を公正に行おうとしない政友会内閣や内務大臣、警察に対する感情的反発から始まったようだ。
日本共産党に対する最初の大弾圧三・一五事件が記事解禁となった翌月4月11日、私は号外に目を通しながら「切ない」思いに駆られた。
233 私は日本共産党が君主制廃止をスローガンに掲げていたことに対して、壮快であるとともに、天皇陛下を有難く思っている国民があまりにも多いことや、日本の警察があまりに強大であることなどを思い、こんな天皇制廃止というスローガンは間違いだと思った。「壮快」というのは、明治以降、日本のクリスチャンが天皇制に屈してしまっていることに物足りなく思ったからである。そうかといってプロレタリア革命の成功など、私にはとても考えられなかった。
その前後に中国の山東半島での排日の動きを威圧しようとして日本の軍隊が出動した(第一次山東出兵1927/5、第二次1928/4、第三次1928/5)。下鴨神社の近くの電柱に墨で書かれた「大陸侵略反対!」というビラが貼られていたのを見て私は強い衝撃を受けた。私はマルクス主義者に言わせれば二つの階級の中間を浮動するプチ・ブルであり、ブルジョワ・地主政府転覆というスローガンにはそれほど強い共感を覚えなかったが、「大陸侵略反対!」には強く共感した。私が軍国主義や日本軍による中国大陸侵略に強い不快の念をもったのは、第一にキリスト教の感化であり、平和主義者だった父の感化によるものだが、第二に、大正デモクラシーでの学校教育によるものだろう。電柱に危険な貼り紙をしたのは誰か、恐らく共産主義者だろうが、電柱に貼っているところを警官に見つかったらもうおしまいである。私はそのビラ貼りの勇気にも衝撃を受けた。
234 室町協会の青年会のメンバーの中にもマルクス主義に接近する者が出てきた。私に社会科学の勉強を説得したある友人は、その後しばらくして「おれはやっぱりアナだ。ボルにはなれない」としょんぼりと語った。1928年や1929年のころに「おれはアナーキストだ」と胸を張って言う学生や知識人は一人もいなかったと思う*が、私にとってアナかボルかの選択はなかった。ただキリスト教的人生観・世界観の中に安住していた私は、ようやく心の落ち着きを失ってきた。
*どういう意味か。当時の学生や知識人のほとんど皆がボルということか。
京大のドイツ文学のクラスメートは15名であったが、それぞれ出身高校が違って非社交的で、三年間を通じて親しみ合うことは稀だった。
私はドイツ文学助教授の成瀬無極(清)先生は偉い先生だと思っていたが、京大学生新聞は無極先生の文学への理解がプチ・ブル的であると、こてんぱんにやっつけていたのを読み、マルクス主義の学生は「驚異的」だと感じた。
プロレタリア芸術連盟の機関誌『戦旗』が創刊され、私も買って読んだ。私は階級的な観点に立つ小説・評論の魅力にひかれたが、その一方で、そのどぎつさについていけないものを感じた。私は京大法経大教室で行われる公開講演会にもしばしば出席し、中野重治、大宅壮一、川上肇、大山郁夫などの話を聞き、感銘を受けた。そして山本宣治が右翼の兇漢によって暗殺されると、私は一層左翼化した。
三回生になり卒論のテーマを決めなければならない。私はトーマス・マンの短編を読み、不思議な魅力にとらわれていた。私は研究対象を第一次世界大戦以前のトーマス・マンの作品に限定した。クラスメートの田木繁は私に「ブルジョワ作家のトーマス・マンも最近いよいよ左傾したらしい。和田君も頑張れ」と言った。田木繁の詩「拷問を耐える歌」は『戦旗』にも掲載され、彼はすでにプロレタリア詩人として認められていた。
夏休みは信州の木崎湖畔で過ごした。東大の学生三人が近くで自炊していた。三人ともマルクス主義者だった。特に帆足計は私を啓蒙しようとした。彼は「ロシア革命の時に血が流れたと言っても、死者は僅か数十名にすぎない、第一次世界大戦のときの死者は数百万ではないか、帝国主義者は第二次世界大戦を起こそうとしており、これを食い止めるためには内乱・革命以外にない」と言って私を説得した。しかしそれから6年、7年後にスターリンにより粛清された人間の膨大な数は、帆足計や私のお人好しを嘲笑しているように思えた。
他の二人の東大生河合篤と守屋典郎は、私を啓蒙することに興味はないらしく、秋の司法試験に備えて勉強に励んでいるようだった。三人の所には党の新聞が定期的に送り届けられていて、8月19日に届いた新聞には、合法政党を樹立しようとする大山郁夫らの行動を裏切りだと激しく批判していて、帆足はがっかりし、河合や守屋はそれみたことかという顔をした。私は合法政党としての新労農党をつくることが望ましいと思ったが、論争するだけの力はなかった。
236 秋になり、河合・守屋は試験に合格した。11月14日、トーマス・マンがノーベル賞を受けることに決まったという新聞記事を読んだ。私は明けても暮れてもトーマス・マンを読んでいたので嬉しかったが、この喜びを共にしてくれる人はそばには誰もいなかった。
3月20日になってもドイツ語教師の口がなかったが、思いがけずに同志社大学予科のドイツ語教授が突然辞表を出し、後任として私の採用が内定していることを父が知らせてくれた。父が文学部の古参教授で予科長とも親しかったためにそういうことになった。
独逸語を教えながら
236 私は、同志社大学予科の専任講師になり、ドイツ語を教え、ドイツ文学を研究し、小説を翻訳し、ドイツの作家についての評論を書いて一生を終わるのもいいではないかと考えた。大学でドイツ文学を担当する教授は日本中でも5、6人くらいしかいない。京都は東京のような活気はないが、落ち着いて勉強しようと思った。
237 同志社大学予科のドイツ語は、第二外国語で、学生は3年間勉強しても、ドイツ語の原書をスラスラとは読めるようにはならない。私は5、6年経つと熱意が冷めてきた。貧乏でも東京へ出て、文筆で食べていこうとまた考えた。
学生との関係はかなり親しかった。(同志社予科での)最初の年、クリスチャンの学生が自分たちの聖書研究会に出席してくれと頼んできたので、私は快く引き受け、マルコ伝を一緒に読んだ。翌昭和6年1931年(同志社予科での2年目)5月、全予科生によるストライキがあった。左翼系が指導していたが、同志社ではクリスチャン学生も少なくはなく、彼らはストライキに参加するかどうかで悩んだようだが、圧倒的多数の学生を裏切ることはできないとしてストライキに参加したようだ。
238 1931年9月に満州事変が起ったときは、日本国民は第二次世界大戦を予想していなかった。新聞は今までになくはっきりと支持を打ち出しているように思えて不安だった。翌1932年2月に上海事変が始まり、私の不安は一層大きくなった。
私はすでに28歳で、京都名物のお菓子を製造している店の娘との縁談があったが、見合いにはいたらなかった。「クリスチャンの家庭で、学校の先生、そんな堅いおうちとのお付き合いは、まっぴらどす」とあっさり断られた。
クリスチャンで学校の先生では派手な恋愛はできない。私は、上海での戦闘が進行中に、六甲山のふもとで、神戸女学院出身のピアニストに引き合わされた。二人だけで歩いていらっしゃいと勧められて歩いていると、突然「万歳!」「わー!」それは召集令状を受け取って軍隊入りする若者への歓送に決まっていた。私にもいつ召集令状が来るかわからない。私は京都へ引き上げた。
その直後に「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」という軍国美談1932/2が軍の優秀な人たちによって発想され、新聞はいっせいに大キャンペーンを展開した。NHKも映画も演劇も、宣伝に協力した。浪曲師も講談師も、動員されたのか自発的か、三勇士、三勇士と騒ぎ立て、日本全体が熱にうかされているように見えた。
239 三勇士と全く同じ場所で同じように壮烈な死に方をした兵隊が他にも5人いたことが新聞に出たが、彼らは三勇士ほどの注目を集めなかった。満州事変や上海事変で1525名が戦死しているのに、3人だけを特別扱いするのは、残りの1522名の英霊に対して申し訳ないはずだが、誰もそんなことは言わなかった。
日本軍国主義は宣伝戦で完璧の勝利を収めた。私はもはや戦争は食い止められない、日本の運命は決したと思った。新聞はその宣伝を本気でやっていたのか、それとも良心の疚しさを感じながらやっていたのか、新聞記者の中には自由主義者やヒューマニスト、平和主義者、合理主義者もいるだろうに、どうしてこんなことになってしまったのか。私は三勇士のころに新聞の学問的研究に関心をもつようになった。私は新聞に絶望し、新聞がもう少しまともであったらなと考えた。
元蔵相井上準之助の暗殺1932/2、三井の大番頭団琢磨の暗殺1932/3などの暗い事件が相次ぐ中を、私は阪急の御影付近で幼稚園の保母さんと見合いをした。内村鑑三の姪であった。内村は日露戦争に反対し、敗戦後は人気が出たが、戦前はそれほどでもなかった。当人は相手をそれほどいいとは思わなかったが、仲人が熱心で、5月19日に室町教会で結婚式を挙げた。
240 そのころ京大ドイツ文学の卒業生の間で雑誌を出そうということになり、印刷費用を持ってくれる篤志家も現れ、『カスタニエン』(Kastanie(n)栗の木)という名の季刊雑誌が創刊された。1933年2月のことである。私はヘルマン・ヘッセの孤独な魂について書いたが、それは思想性のない、自己陶酔的なものだった。
1933年は悪いことばかりの年だった。京大滝川事件、ヒトラーによる独裁政権の樹立、小林多喜二の虐殺、(共産)党幹部の転向声明、リンチ査問。私個人の周辺では、義弟守屋典郎の党活動の疑いによる検挙、同志社大学の三教授、住谷悦治、長谷部文雄、松岡義和と、京大講師大山定一の、(共産)党に資金を提供した疑いによる検挙などが相次いだ。
(同志社大学)予科で哲学を教えていた松岡義和の後任に、松下信一が現れた。彼はれっきとしたマルクス主義者だったので、このご時世にと、私は呆れかつ喜んだ。同じ予科でフランス語を担当していた新村猛は、目立たないながらも左傾化していた。真下、新村、和田の三人が、ほぼ同じ時期に三高、京大文学部で学んでいたので、予科の学生たちは三人組と呼んでいた。
241 私はトーマス・マンなど多数の反ナチ作家が国外に追われた後の動きに強い関心があった。1934年の夏、神戸商大学生新聞から、祖国を追われたドイツの作家について書くよう依頼があり、これをはじめとして、雑誌『カスタニエン』『新潮』『文芸』(改造社)その他東大、京大の学生新聞などに執筆するようになり、国外でファシストと闘っているドイツの作家たちの活動ぶりを、意気消沈している日本のインテリゲンチャに伝えようと努力した。1935年2月に京都で創刊された『世界文化』には、同志社予科の三人組は初めから同人として加わり、京都の特高はこの雑誌に目をつけ、全同人の約半数12名を検挙し、その半数の6人を起訴した。真下、新村、和田はこの6人の中に入っていた。
戦争が終わるまでの期間
241 私が1934年から1937年にかけて行った反ファシズムの文筆活動は、ヒトラー独裁反対や、国外に亡命したドイツの自由主義的・共産主義的作家活動支持の文章を、雑誌や新聞に書き続けたことだけであり、特高警察が目をつけるのは致し方がないとしても、日本の法律によって罰せられるものではなかった。にもかかわらず私は(1939年12月14日以降の某日)京都地方裁判所で懲役2年執行猶予3年の判決を言い渡された。
242 特高の係長、思想検事、予審判事は私を共産主義者に仕立て上げ、私の書いた文章は表面は反ファシズムだけを目指しているように見えるが、究極の目的は日本での共産主義社会の実現であるとして、治安維持法違反の罪を問うた。私はプロレタリア小説は読んでいたが、マルクス、エンゲルス、レーニンの理論的な著作はほとんど読んでいなかったので、特高係長も思想検事も、私を共産主義者に仕立て上げるにはずいぶん苦労し、時にはさじを投げた。しかし彼らがさじを投げても、彼らよりも上の方(既述、京都の某特高の意向)で和田洋一を起訴する方針が決まっていたらしい。裁判長は弁護人に、私的には、気の毒だと語りながら、私に有罪の宣告をした。
次に、思想問題で有罪となった私をどこかでやとってくれるかという心配があったが、大阪時事新報社が(1940年?)私を記者として採用してくれた。その後(1942年?)東京支社勤務となり、一年ばかりで(1943年夏)辞表を出してくれと言われ、理由を聞かないで翌日辞表を提出した。新聞社をやめても東京なら仕事があると思ったからである。ドイツ国大使館に翻訳の仕事があり、月給ではなく出来高払いという話を友人から伝えられ、ドイツは二年はもつまいが、その間生き延びようと考えた。その他に東亜研究所の依頼で、ゲルツェン(ロシアの思想家・作家)の著作をドイツ語から重訳し、翻訳料を稼いだ。その間(1944年秋)、京都の父が栄養不良で亡くなり、続いて弟の虔二が仏印で戦病死した。
243 私と妻は京都の家に戻った。京都帝国大学の西、関西日仏学館の南に独逸文化研究所があり、私はそこで事務をしたり、ドイツ語を教えたりした。研究所の主事はナチの党員だったが、1944年の暮、ナチ・ドイツの崩壊がそう遠くはないと小声で我々日本人に語った。
翌1945年5月、結婚してから13年後に、家内が満36歳と8か月で、物資がますます不足していく中で、初めて妊娠した。
戦後
243 日本は必ず勝つと思い込んでいた人は、8月15日の玉音放送のあと虚脱状態に陥ったかもしれないが、日本は必ず負けると思っていた私も、同じように虚脱状態に陥った。精神衛生の悪さがあまりにも長く続いたために、まともな状態にすぐに戻れなかったのである。「この戦争は勝目がない、ドイツも早晩手をあげるだろう」というようなことを、親しい友人や親戚の者に言うと、そんな話は聞きたくないような顔をされた。敗走するドイツ軍を追ってソ連軍が西へ西へと進軍するのを、私は真夜中ただ一人、地図を見ながら確認していた。戦争終結の日、解放の日が近づきつつあるのを喜び合う友はそばにいなかった。新聞記者として心にもないことを原稿にしなければならない状態が3年余りつづいた。(1940年?から1943年夏まで)ドイツの敗北を見通しながら、独逸国大使館から翻訳料を貰っているという奇妙な状態がその後1年続いた。(1943年夏から1944年秋)憲兵、特高警察、保護観察所ににらまれないように気を配っていなければならなかった。それらが私の精神衛生の悪さだった。虚脱は私の場合敗戦の日から約1年続いた。
244 敗戦の翌年1946年の1月3日、家内が産院で女の子を産んだ。産院から自宅へは家内と赤ん坊は荷車で運んでもらった。母乳の出は悪かった。母親の栄養が悪かったからである。悦子と命名された赤ん坊はおなかをすかして泣いてばかりいた。
「戦前、戦中に思想問題で学園を追放された教授たちは速やかに呼び戻せ」という命令がマッカーサーから各大学に発せられた。同志社大学では10名前後の該当者のうち、私だけが(1946年?)4月に復帰した。同志社からの書類は通り一遍の事務的なものだったので、受け取って憤慨した人もいた。私は7年8か月ぶり(1938年から1946年まで)の出戻りで、当初しっくりしなかった。また一生ドイツ語の初歩ばかり教え続けることに疑問を持った。
日本の新聞社は過去において朝刊と夕刊と両方を発行していたが、米占領軍の命令でそれができなくなり、京都では京都新聞社の輪転機を他社が借用して夕刊を印刷発行するという抜け道が講じられた。その夕刊新聞の編集を手伝えという話があり、同志社大学予科への復帰がすでに決定していると答えると、独逸語を教える片手間でいいということで、新聞の仕事の方が面白かったが、いつまでも二股をかけるわけには行かなかったので、暫く迷ったが、夕刊新聞の経営がガタガタになり、二股問題は自然消滅した。
それから少しして、同志社大学文学部社会学科内に、新聞学専攻が創設され、講師は全部新聞社の人やNHKの人ばかりで、せめて一人ぐらい内部に責任者がいないと格好がつかないということで、その地位に座ってくれという依頼が私のところに来て、私は新聞学という新しい学問、まだ学としての体系を整えていない学に、興味を感じていたが、新聞学に打ち込むことはドイツ文学を放棄することであり、決断はすぐにはつかなかった。親しい友人たちはドイツ文学を止めてはいけない、と強く言った。しかし私は自分の意志によってではなく、ドイツ文学から引き離されてからもう10年以上(1938年から1946年までなら8年だが)経っており、高等学校以来の意気込みは失われかかっていた。この二者択一問題は、新聞学かドイツ文学かであったが、より正確には、新聞学を本業とするか、それともドイツ語の初歩を教えることを本業とし、かたわらドイツ文学を研究するかであって、私は最後に前者を選んだ。
しかしその後の私は新聞学に全力を傾けるということにはならず、政治的・文化的運動に多くの時間とエネルギーを費やした。第二次世界大戦は起るのだろうか、起らないですむのだろうかと思っているうちに情勢がどんどん悪化していった1930年前後のことを思い出しながら、第三次世界大戦はどんなことがあっても未然に防がなければならないと思っていた。破壊活動防止法案、その他危険な法案阻止のためにずいぶん動いた。治安維持法成立の頃にぼんやりとしていた自分自身に対する反省が働いていた。1930年代の学問的な調査研究も大切だと思って、同志社大学人文科学研究所の中に小グループを組織し、若い世代の諸君と共同研究を長くつづけ、その成果は『戦時下抵抗の研究』二冊(みすず書房)となった。
246 またそれとは別に、明治以来長く続いてきた同志社の「新島先生」神話を打ち砕くために新島襄の研究をし、一冊の本を書いた。古い同志社関係者の中には顔をしかめる人や、新島襄の研究らしい研究がやっと始まったという人や、今までのと違って客観的だという人など、さまざまであった。
私は自分の専門に不忠実になった。朝鮮の研究に打ち込めるといいとは思ったが、そこまでは手が回らなかった。日本人の朝鮮人に対する意識を変えることがどうしても必要だと思って日朝協会の組織づくりに参加し、京都の代表理事を5年、理事長を16年勤めた。敗戦後私が参加したいくつかの民主団体は、1年あるいは3年、あるいは5年でがたがたになったが、日朝協会京都府連だけは奇跡的に発展し、私は現在会長として若い男女会員の働きぶりを頼もしいと思いながら見守っている。
(1977年)
鶴見俊輔「亡命について」
感想 亡命者の立場は日本人(日本の国家権力)には分からない。日本では国家権力を批判して亡命するような場合はほとんど考えられないから、亡命者の立場を考えようともしないということらしい。
要旨
247 トーマス・マンはナチスの支配が始まる直前にドイツを離れ、その後帰れなくなり、亡命生活に入った。それは1933年から1952年まで続いた。
その間ヴィリ・フルトヴェングラーは、国立劇場監督兼ベルリン・フィルハーモニー指揮者として、ナチスに協力しつつドイツにとどまった。
1952年、トーマス・マンがドイツに来た時、フルトヴェングラーは再会したいという手紙を送ったが、その時のマンの返事は、
「お気持ちはかたじけなく思いますし、また嬉しく思わないわけではありませんが、何といたしましても、私たちの間には、うずめがたい溝があります。ですから、お会いしたところで、さしてためになるとも思えません。とすれば、むしろ、お会いしない方がいいと考えます。」
248 この返事にフルトヴェングラーは大変怒って、あるときこう言ったそうだ。
「私はトーマス・マンのような人間とはわけが違う。まるでシャツを着替えるように、何かあるたびに国籍を変えるような人間とはわけが違う。」(カーチャ・マン『夫トーマス・マンの思い出』筑摩書房1975)
『広辞苑』によれば、「亡命」の「命」とは「名籍」の意であり、「亡命」とは、①戸籍を脱して逃げうせること、②政治上の原因で本国を脱出して他国に身をよせること、とある。①の例として「山にこもる人、漂泊の人」がある。
249 スタール夫人、ハイネ、ゲルツェン、クロポトキン、マルクス、レーニンなどの亡命に関する逸話が明治以後日本に伝えられたが、満州事変以後の十五年戦争期間中は、亡命に対する日本人のあこがれはなくなった。知識人でも一般人でもそうだった。
250 日本は明治以後日本にやって来る亡命者を好意をもって迎えた例は少ない。医学博士P・パーカー『シンガポールから日本への遠征日記、琉球訪問記を付して』(スミス・ホルダー社、ロンドン1838)は、米船モリソン号に乗っていた米人船医の日記であるが、それによれば、
「1837年7月30日、米船モリソン号は、日本からの漂流者7人を祖国に送り届けようと、江戸湾まで来たが、幕府に砲撃されて退去した。
7人の漂流者のうちの3人は、14名の乗組員のいた日本船の生き残ったものの全員で、カナダのクイーン・シャーロット島に上陸してインディアンに捕まった。コロンビア川流域に住んでいた英国人が金を払ってこの3人を自由にし、イギリスやマカオに連れて来た。3人はマカオではC・グツラフ牧師の家に身を寄せ、そこで英語を覚えた。
残りの4人はラコニアで難破した日本人で、フィリピンのマニラからやって来た。
7人の日本人漂流者を乗せた商船モリソン号は、オリファント会社の委託で、D・インガソル船長指揮下に、江戸に向かった。日本との貿易も望んでいた。平和の意図を示すために、軍事装備はリンティンにおいて行った。
7月30日、モリソン号は江戸湾で砲台から攻撃を受け、浦賀近くに錨を下ろした。すると15隻ほどの漁船が集まり、漁師たちが甲板に上って酒を飲みパンを食べた。役人もやって来たので、来訪目的を述べた手紙を渡した。次の日は上陸するつもりだった。
ところが7月31日、前夜のうちに対岸に砲台が据え付けられ、朝の6時から砲弾が撃ち込まれた。白旗を掲げたが効果はなかった。
「一発が船の真ん中の載貨門を破り、甲板の板二枚を貫き、そこで横にそれて、大型ボートの厚い側面を抜け、はじけ飛んで水中に落ちた。
日本人の乗客は失望と屈辱感を感じたことだろう。日本人は上陸しようとはせず、「上陸すれば死刑になるだろう」と言った。
鹿児島では7人のうちの1人の尾張の岩吉が陸に上がり、同胞と言葉を交わした。人々は米船に親しみをもった。しかしここでも砲撃が始まったので、結局日本を去ることになった。7人は上陸しなかったのである。そしてそのうちの2人は髪をそって僧侶に扮した。
253 この7人の漂流者は、尾張の岩吉、音吉、久吉、肥後の原田庄蔵、肥前の寿三郎、熊太郎、力松であり、川合彦充『日本人漂流記』(社会思想社1967)によれば、彼らはその後生涯を海外で過ごしたという。
但し、肥前の力松だけは、日本開国後の安政2年1855年、英国艦隊とともに函館に来て、その後、長崎で奉行との交渉で通訳を勤めたが、日本に定着したかどうか定かでない。そして尾張の音吉の息子ジョン・W・オトソンは、明治12年1879年、日本を訪ねたそうだ。7人は同じ境遇の日本人を海外で世話をした。ただし、重罰を覚悟して日本に帰った中浜万次郎もいる。
トーマス・マン、ベルトルド、ブレヒトなどが亡命者の典型とされるが、それよりも広い、地球上移動するのが当たり前だという考え方は、国家の権力の政策と対比される。それは亡命とは海外渡航できる文化人に許された特権であるという見解とは異なる。
254 「亡命者は民族を見捨てた者だ」と非難するフルトヴェングラーのような見解は避けた方がいい。亡命は国家批判や政府批判である。
255 馬場辰猪は「西欧で教育を受け、海外にいる時は熱烈な自由主義者であったが、日本に帰ると熱烈な愛国主義者に変貌した」(ジョージ・サンソム『西洋世界と日本』1950)とされるが、これは事実と異なり、萩原延寿は、「馬場が自由民権運動の変質を照らし出した」とし、「日本は馬場を埋没させた」という(『馬場辰猪』1967)
大正から昭和の初めにかけて活躍した新劇演出家の佐野硯は、ソヴィエト・ロシアに入り、スターリンによる演出家メイエルホリドの粛清の余波を受けてソ連から追放されたが、日本には戻らず、メキシコに向かった。ところが在メキシコ日本公使に邪魔された佐野は、メキシコ大統領カルデナスに手紙を書いて亡命したいと伝えた。佐野は61歳で亡くなるまでメキシコに住んだ。彼は敗戦後の日本政府にも不信感を懐いた。
在日朝鮮人の中には祖国を否定する人が多く、その意味で亡命者である。ベトナム戦争のとき、朝鮮人兵士が日本に亡命を希望した際に、日本政府は冷淡だった。韓国はベトナム戦争で米軍支援のために兵士を派遣した。
日本の不戦憲法への共感を表明して日本に逃げて来る人々が現れた。そのうちの一人、金東希(キムトンヒ)は、兄弟が在日朝鮮人として現に日本に住んでいて、彼らを頼って密入国したが、捕らえられて裁判にかけられ、出入国管理令違反で大村収容所に入れられた。ここで彼は日本への亡命を希望する文書を書いたが、それは受け入れられなかった。日本人の間に金東希支援運動が起こり、刑が待っている韓国ではなく、ソ連船で北朝鮮に送られた。1968年1月25日のことである。
日本政府が亡命受け入れの基準を示していないため、この種の事件が繰り返し起こった。本間浩一『政治亡命の法理』1974によれば、
「日本の法令で、政治亡命者を救済できる法的根拠は、出入国管理令の法務大臣による特別裁量だけである。この裁量権は、裁判所がすでに判示しているように、無放縦ではないから、亡命者は法務大臣の裁量権と対決できる。しかし裁判所はその限界の明示に消極的であった。
そこで国際法が参照されるが、国際法は詳細を各国に委ねている。「亡命者の地位に関する条約」1951のような政治亡命者庇護に関する条約への加入とそれに伴う国内立法が待たれる。
「亡命者の地位に関する条約」1951によれば、亡命者とは、
「1951年1月1日以前に起った事件の結果として、かつ、人種・宗教・国籍・特定の社会集団への所属、又は政治的信条を理由に、迫害を受ける確たる恐れの故に、本国以外にあり、自国の保護を受けることができず、またはそのような恐れの故に、自国の保護を受ける意思のない者、
若しくは無国籍者であって、右記事件の結果として、居住国外にあり、居住国に帰れず、またはそのような恐れのために帰国の意思のない者」
本間浩によれば、この亡命者の概念は次の要件から構成されている。
1 本国又は居住国の外にいること
2 1951年1月1日以前の事件の結果であること
3 迫害を受ける確たる恐れがあること
4 迫害の理由が人種・宗教・国籍・特定の社会集団への所属・または政治的信条であること
5 本国の保護を受けることができないか、その意思がないこと
260 出入国管理令違反行為では有罪としつつ、執行猶予を認め、実質上庇護の場を与えることが、取り得る最大限の処置であるが、それでは確実性に欠ける。つまり庇護提供の制度的保障に欠ける」
260 ナチスが1933年にドイツで多数を制してから、それまでドイツの自由主義・平和主義の文学を翻訳して紹介してきた日本のドイツ文学者の多くは、つまり、ゲーテの翻訳者、グリルパルツァーの翻訳者、ヘルマン・ヘッセの翻訳者、トーマス・マンの翻訳者の多くは、ナチスドイツ礼賛に変身した。これは昭和10年代(1935年から1945年までの10年間)に起こった。私は憂鬱だった。私がこれらの人々の訳業を通してドイツの自由な精神に触れていたからである。
261 ところが同じ時期に和田洋一は、「故国を逐われた作家たち」1936、「亡命作家の動静」1935などの論文を通して、トーマス・マン、ハインリヒ・マン、エルンスト・トラーなどの、ナチス台頭に対する身の処し方を追跡した。これらの作品は『国際反ファシズム文化運動・ドイツ篇』1949に収められている。
和田洋一はその戦争中の文章の中で、当初トーマス・マンたちを「亡命者」と呼ぶことをためらわなかったが、トーマス・マンが最初にドイツを離れ、ドイツでその著作が自由に売られている時期は、亡命者と呼ぶべきではないと改めた。以下『私の昭和史――「世界文化」のころ』1976より引用(省略)
また和田洋一は、近代日本の最初の自発的国外脱出者としての新島襄について『新島襄』1973を書いた。
新島襄は亡命者だった。新島襄は攘夷主義者として国法を犯して脱出し、明治維新後も、「文明の道を究める」として、すぐには帰国しなかったからである。
263 新島襄が日本脱出に際して残した日記があり、その中で新島襄は、岩手県宮古の北にある鍬ケ崎で娼妓のいる所を記したが、その部分を今日同志社にある原本では20行が剃刀で削られている。それに対して和田洋一は、「港町の商売女の強引さに負け、思いきり金をふんだくられたからといって別に恥さらしでも何でもない。(函館到着時に所持金が奇妙に減っている)」としている。
15年戦争下の日本からの亡命者、同志社の総長だった湯浅八郎について、和田洋一は「湯浅は軍部の圧迫に対して同志社の学風を守ろうとしたが、敗れて辞職し、米国に渡り、日米戦争になっても帰って来なかったことは、「半亡命」か、「四分の一亡命」か」と書いた。
264 湯浅自身は「日本に帰ったら自殺させられる。日本には妻と息子がいる。敵国人として残るのだから、よく考えた。平和をつくり出さなければならない。平和を企画するジョン・ダレスとの交際もあったので残った。失業し、身辺に危険を感じ、法律上の問題を抱える日本人一世の、米社会との橋渡しの役に立ちたいとも思った。」
亡命は祖国の政府に対する不満の表明だが、必ずしも反逆とか、忠誠の放棄ではない。湯浅は野坂参三や鹿治亘と違って、こう述べている。
「私は日本生まれの日本人である。戦争中に敵国のお先棒をかつぐようなことはすべきでない。祖国を裏切るようなことはしたくない。アメリカ政府の関与する要求は断った。」(『あるリベラリストの回想――湯浅八郎の日本とアメリカ』同志社大学アメリカ研究所編、日本YMCA同盟出版部1977)
湯浅八郎は敗戦後日本に戻り、再び同志社大学の総長になったが、反共主義者となった。しかし自由を守るための戦前の闘いが忘れられた中で、和田洋一は湯浅八郎を取り上げ、その軍国主義との闘いについて書いた。滝川事件のとき、湯浅八郎は京大農学部の教授で、滝川を擁護した。滝川事件以後、知識人の大部分が意気消沈していたが、湯浅八郎は同志社大学総長として、軍部と対立した。渡米後日米開戦が起ったが、湯浅は捕虜交換船に乗って帰国せず、米国にとどまった。それは国内の大勢には従わないことを示す。湯浅の亡命は市民的抵抗である、と和田は評伝で示した。
266 戦後の和田洋一は、在日朝鮮人に対する差別と取り組み、京都の日朝協会会長を勤めた。そして韓国軍兵長金東希が日本への亡命希望を表明した時、1967年4月8日、その時の決裁をゆだねられていた法務大臣田中伊左治に、福岡精道、橋本峰雄、岡部伊都子、和田洋一の4名が面会し、亡命許可要望の関西での署名400筆を手渡して配慮を頼んだ。金東希は、韓国に送り返されることはなかった。(北朝鮮に送られた)
和田は1944年9月から独逸文化研究所に勤めたが、その建物が敗戦後京都大学人文科学研究所分館となり、私はそこにしばらくいた。私と紀篤太郎が共同で使用した部屋にナチスの文献が多数あった。1950年から1953年にかけて、私は、エルンスト・ユンガーやゴットフリート・ベン、エリヒ・ケストナーなど、ドイツ国内に踏みとどまったナチス批判者の存在を知った。
(1979年)
以上
注解 保坂正康
291 私が「灰色のユートピア」を読んだのは1970年ごろだったが、そのころ私はすでにジャーナリズムで仕事をしていた。私は2年間和田ゼミに在籍していた。
292 私は1959年から1963年まで同志社大学文学部社会学科で学んだ。社会学、社会福祉学、新聞学の三つの専攻があり、私は新聞学で学んだ。先生には、和田洋一、住谷申一、山本明、鶴見俊輔らがいた。鶴見俊輔は60年安保で岸信介首相の議会政治無視の暴挙に怒り、東京工業大学教官を辞め、同志社に転じてきた。1961年、私は3回生になった。和田ゼミを選択した。
ゼミ仲間は12人だったと思う。東西冷戦が最も厳しいときだった。私は議論することが学問だと考えていて、和田先生と激しく議論した。革命の主体は党派か、議会による政党かなどを議論した。
293 和田先生は私に「スターリンのどんな点を批判するのか」と問うた。私はスターリニズムについてブントの議論を借用していただけだった。和田先生は「スターリンはソ連社会主義を建設した一人であるが、彼の過ちは、真の社会主義者ではなかったということではないか。私は彼の政策の一つひとつに納得しがたいところがある。君もそういう点を具体的に説得しなければ、本当の批判にはならないよ」とたしなめた。私は和田先生から実証主義的研究態度を教えてもらった。事実に基づかないと、社会科学ではなく宗教になると和田先生は忠告してくれた。
294 和田先生は行動の人ではなく思索の人だった。
私らが卒業する1963年の2月、3月に、和田先生は北朝鮮訪問団の一員として訪朝した。
298 私は昭和史の中の過激な宗教団「死なう団」(日蓮主義を掲げた政治的宗教団体)の事件をジャーナリストとして追い、それを1972年にノンフィクション作品として著した。そしてそれ以後昭和史の事件や人物などについて取材して作品を発表し、和田先生に著書を送った。すると和田先生が読後感を送ってきた。
1970年代の終わりごろ、和田先生は東京の本郷教会にクリスチャンとして出席しているらしく、私はその帰りに和田先生と会った。私は和田先生が亡くなる1993年12月の二、三年前までは、毎年先生に会っていた。和田先生は私に尋ねた。「昭和ファシズム体制下の軍事や民族主義運動に関心がありそうだが、それはどういう理由か。」当時はこういうテーマを選ぶだけで右翼だと謗(そし)られた時代だった。私は「ファシズムの主体となった組織や人間の考えや誤り、今の総括を知りたかった」と答えた。
299 私は6年間取材をして『東条英機と天皇の時代(上下)』を発表した。そこでは知性や理性の退嬰化を問題とした。私の立脚点は、8月15日の和田先生の敗戦体験215であった。(私もこの部分には感激した)300 和田先生は私の『東条英機と天皇の時代』を貪り読んだという。
私は同志社大学の学生時代に演劇研究会にも所属し、演出や創作劇に没頭していた。田中千禾夫の「マリアの首」や、安倍公房の「どれい狩り」、フランスの現代劇などに取り組んだ。大学3年生のとき、特攻隊員の生き残りと学生運動の闘士が、昭和35年という時代背景で、会話する創作劇を書き、それを上演した。和田先生はその劇を見ていた。当時私は知らなかったが、和田先生は別の演劇団体の顧問をしていた。
以上
2024年11月24日(日)