2020年2月3日月曜日

治安維持法小史 奥平康弘 岩波現代文庫 2006年 筑摩書房 1977 年表


治安維持法小史 奥平康弘 岩波現代文庫 2006年 筑摩書房 1977


年表

1908 警察犯処罰令、これは軽犯罪法の処罰を目的とした。
1920 東京地方裁判所検事局は、森戸辰男の「クロポトキンの社会思想の研究」を「朝憲紊乱」に当たるとして著者の森戸辰男と雑誌発行人・編輯人の大内兵衛を起訴した。
1922 高橋是清(政友会)内閣が過激社会運動取締法案を提出した。貴族院で修正されたが、衆議院で審議未了・廃案となった。
1925.2 加藤高明を首班とする護憲三派の連合内閣が、治安維持法を制定した。
1926.1 京都学連事件
1927.11 北海道集産党事件
1928 3・15事件
1928 緊急勅令によって治安維持法を改正した。「結社の目的遂行の為にする行為」が、目的遂行罪として創設され、結社と関係する行為は、協議・扇動を問わず全てが結社の目的遂行行為と看做された。084
1929 4・16事件
1934、35 治安維持法全面改正案は成立せず、廃案となった。
1935.3 袴田里見が逮捕され、『赤旗』が停刊となった。
1935末 皇道大本事件。
1936 思想犯保護観察法が成立した。これは、1934、35の全面改正案の第四章 保護観察案を手直ししたものである。
1937末 労農派グループ、日本無産党、日本労働組合全国評議会、労農派教授グループなどを一斉検挙した。
1941 治安維持法を改正した。予防拘禁、結社・集団(類似宗教組織)活動の規制、検事への強制捜査権付与。
1941.1 企画院事件
1942.9 横浜事件
1945.10 連合軍最高司令官が、覚書「政治的市民的及び宗教的自由の制限除去」に基づき、指令し、治安維持法が廃止された。



はしがき

vii 特高警察、思想検察、裁判所などの官庁資料は現在でもなお、かたく「極秘」の聖域に納められている。


治安維持法とはなにか

002 1941 治安維持法が大幅に改正された。
1936 思想犯保護観察法は治安維持法と一体だった。
005 警察犯処罰令や予防検束などは、治安維持法を補完した。
007 昭和の治安維持法では、特高、内務官僚とは別に、新たに思想警察が登場した。
012 1933秋 幹部のごぼう抜きではなく、プロレタリア文化団体のような外郭団体自身が治安維持法違反の違法結社であるかのような取り扱いを受けるようになった。
016 新治安維持法(昭和16年1941年法54号)では、権力の範囲(限界)を画するという近代法の基本的な性格を喪失した。
021 内務大臣の禁止処分には、利害関係者はどんな方法をもっても不服の申し立てをなしえなかった。
022 1920 東京地方裁判所検事局は、森戸辰男の「クロポトキンの社会思想の研究」を「朝憲紊乱」に当たるとして著者の森戸辰男と雑誌発行人・編輯人の大内兵衛を起訴した。内務省は検閲上なんら問題にならなかった学術論文を司法検察官僚が競合すべく割り込んできた。
 この事件のイニシアティブをとったのが、時の検事総長平沼騏一郎であった。司法次官は鈴木喜三郎、大審院検事局次席検事は小山松吉だった。
 山県有朋と同様、原敬は過激思想取り締まり、「大学教師の途方もなき意見」取締りに熱心だった。
023 美濃部達吉は「森戸大内両君の問題について」(『太陽』)の中で、「若し司法当局者にして世間に伝ふる如く、司法権に依って国民思想を統一せんとする如き意向を有って居るとすれば、それこそ実に此上もなき司法権の濫用であって、其の結果の如何に危険なるかは想像するだに膚に慄然たるものが有る」
024 内務官僚は、大正デモクラシーの風潮の中で、自由主義化し、即物的な行政処分にたよる治安体制を金科玉条としなくなりつつあった。
 一方、幸徳らの大逆事件以来治安体制に重大な関心を持ち続けてきた平沼ら司法官僚は、このことによって手抜かりが生じた思想統制領域に、好機至れりとばかりに乗り出した。
025 1900 治安警察法は、「安寧秩序を保持するため必要なる場合においては」内務大臣は結社を禁止することができるとした。そして1901.5 社会民主党に対して即刻禁止命令を出した。
028 保護検束よりも重宝な制度は予防検束であった。それは、「暴行、闘争其の他公安を害するの虞ある者に対し」、「公安」を予防するという名目で、身体の自由を奪う制度であった。
 法のたてまえからすれば、検束は緊急異例の行政措置であって、「検束は翌日の日没後に至ることをえす」とし、また犯罪容疑の取調べのような目的のために、これを利用してはならないはずのものだった。しかし、警察は書類の上だけで釈放し、実際は幾日も検束を解かないのが普通だったし、検束は刑事訴訟法上の強制処分の簡便な代用品として活用された。
 保護検束も予防検束も裁判所の関与を認めなかった。
029 軽犯罪(浮浪罪(俳諧罪)など)は、警察犯処罰令による違警罪即決例(明治18年太政官布告)という手続法によって、警察署長によって即決された。三十日未満の拘留に処することになっていたが、実際は、場合によっては一年以上も抑留した。そして救済の可能性はなかった。
030 要視察人視察制度は、法律上の根拠がなく、秘密裏に運営された。明治初期の藩閥政府は、全国に「密偵」のネットワークを張り巡らし、反政府運動をする者の動向を把握した。
「密偵」は「国事探偵」となり、要視察人視察制度が成立した。
社会主義者視察制度」は「特別要視察人視察制度」となり、ターゲットの来往、通信、会合、著訳、出版、宣伝扇動、資金の授受、兇器の所持等に注意し、裏面の動静探知に努め、張り込み、監視、尾行を為すとされた。
031 しかし、米騒動に対しては、このような監視制度が役に立たなくなった。
しかし、「特別要視察人視察制度」は、これとともに発達した「刑事要視察人制度」とともに、仮出獄者、起訴猶予者、起訴中止者、刑執行猶予者、刑執行停止者、保釈者、責付者(旧刑事訴訟法上、被告人を親族その他の者に預けて、拘留の執行を停止した制度)、拘留執行停止者などを監視した。三・一五以降、転向を慫慂し、転向を確保するため、当初は肉親などが身元引受人となったが、後には、保護観察所による「思想犯保護観察」となった。
032 以上のような行政警察による治安体制のほかに、不敬罪などの皇室に対する罪、内乱罪などの国事犯、騒擾罪や公務執行妨害罪のような刑事法規などの抑圧体系があった。

第一章 治安維持法の準備過程

社会主義運動の展開

司法省案「治安維持に関する件」

037 一九二一年八月、緊急勅令形式による治安立法の司法省案がまとめられた。近藤栄蔵事件がそれを触発した。
一九二一年五月、近藤栄蔵が上海のコミンテルン極東ビューローから資金を受け取って、芸者と豪遊した。それを怪しまれて近藤は逮捕されたが、警察は、資金受領は違法でもなく、釈放せざるを得なかった。近藤は、資金の出所や日本での運動組織を官憲にばらした。
038 この緊急勅令による治安立法案は、案のままで法律にはならなかったが、これをもとにして過激社会運動取締法案となり、1922年2月、帝国議会に提案された
039 その条文には「朝憲紊乱」とあった。森戸事件でその概念の多義性・不確定性が露呈していたため、内務省はその法案に反対した。
「朝憲紊乱」は現刑法77条にあり、戦前の新聞紙法や出版法にもあった。
040 また、平沼騏一郎やその配下の司法官僚や「興国同志会」は、本法案の「人倫を破壊し」という表現を固守しようとしたが、その表現はそのままでは生き延びられず、「社会の根本組織」という表現で生き延びた。

過激社会運動取締法案






063 「国体」の概念には二様あった。一つは司法的な意味で、もう一つは教育勅語的な意味であった。前者は国家権力を意味し、後者には、情緒的な意味が込められていた。
064 ところが司法を司るはずの人たちが、治安維持法が成立する以前も、後者の意味で発言しているのだ。平沼騏一郎検事総長や大木遠吉法相などである。彼らは、「国体の清華」「肇国の歴史」「忠孝の大義」などと司法官会議1920.11で語っていた。
066 また議員たちも、法案審議中に「国体」について議論することを「畏れ多くも」憚っていた。新聞も、1922年の過激社会運動取締法案の場合と異なって、条文の曖昧性がなくなったとされ、また「国体」を語ることに恐れをなして、反対論を構成するのが難しかった。
068 一九二五年治安維持法の「国体の変革」と「私有財産制度の否認」とは、当初、同等の重みを持つものとされたが、三・一五を契機に改正され、前者を重視するようになった。
 また、本法では「懲役または禁錮」とされたが、内乱予備陰謀罪のように本来禁錮だけにされるべきであった。それをあえて懲役刑を付け足したのは、本法の対象が破廉恥罪であると看做したからであり、三・一五以降は、実際、大審院の指導で懲役のみが科されるようになった。
 立法者は「結社」そのものを取り締まることが、二十世紀の世界共通の「新現象」であると強調した。
069 三・一五直後の緊急勅令によって、「結社の目的遂行の為にする行為を為したる者」が規定され、党員でなくただのシンパであっても、党員と同等に扱われるようになった。三・一五一斉大量逮捕では、多くのものが党員ではなく、せいぜいシンパ程度であった。彼らには第二条の協議罪が適用されたが、その適用は苦しいものだった。
070 在日朝鮮人の植民地独立のための私的会話は、本法第二条の協議罪で処罰された。

第三章 治安維持法の発動

二つの前期的な事件

071 京都学連事件1926.1.15が、本法適用第一例であった。司法当局は用意周到に、新聞社に対して逮捕前夜緘口令=新聞紙法19条を敷き、事件を闇の中で処理した。というのは、当初は、警察が新聞社にたたかれて、学者も反対意見を述べ、効果的な弾圧ができなかったからであった。緘口令が解かれたのが八ヵ月後、起訴が確定1926.9.14してからであった。078
 秘密法、共謀罪、今日も十分に戦前の体制が整っている。或る日本維新の会の国会議員は、「朝日新聞の加計報道が捏造だ」と発言し、その発言を撤回するつもりはない、と開き直っている。今日は非常に危険な状況である。
 本法適用第二例は、北海道集産党事件1927.11=ナップの機関誌『戦旗』読書会弾圧事件である。この事件は北海道の人々を萎縮させた。073
 12月7日までに学生は全て釈放されたが、それ以降、警察は、学生・大学・新聞界などの非難攻撃の的にされた。行政検束や任意捜査の結果、犯罪容疑事実が確認できなかったではないかとして、地元の新聞は、「泰山鳴動ネズミ一匹も出ぬ有様に府警察部の焦慮深し」と報じた。076
 ところが翌年1月15日、政府当局は、治安維持法を初適用し、京都だけでなく東京などの学生を逮捕した。これは検事局主導で行われた。そして当局は検挙前夜、新聞紙法19条を根拠に、新聞社に対して記事掲載の差し止め命令を出した。事件が新聞などに初めて報ぜられたのは、26年9月14日だった。それは予審決定がなされ、38名全員を治安維持法その他で起訴することが確定した時点だった。077 警察=内務省ではなく、検事=司法省が、この事件をひそかに治安維持法違反事件として仕立て直そうと検討していた。林瀬三郎司法次官、小山松吉検事総長、各控訴院検事長、各地裁検事正、または主席検事、各府県特高課長らが秘密会議を開いていた。
084 当局は三・一五以降、国民のあいだに反共思想をまき散らし、アカへのヒステリアをかきたてるため、共産主義者らの「国体変革」要素を喧伝した。
087 新聞界は記事解禁とともに、事件をセンセーショナルに報道した。石田英一郎は、家宅捜索のときに発見された中学生時代の日記に、北海道巡行中の皇族を批判する文を書いていたとして、不敬罪として問擬された。男爵の家系の息子が不敬罪とはもってのほか、と新聞界は石田を凶悪なる国賊と描き出した。
088 国民は戦前を通じて、治安維持法の実像を形成する資料・情報を与えられなかった。
089 当局は事件を口実に京大教授の河上肇、同志社大講師の河野蜜、同山本宣治の私宅を家宅捜索し、河上の学外追放を目論んだ。
090 学連事件後、岡田良平文相は、全国高専学校長あて内訓で、社会科学研究会の組織・活動を全面的に禁止し、生徒の個人的な社会科学研究さえも制限するように指示した。1926.5.29
一、研究会並びに読書会はその名称内容のいかんを問わず、絶対に禁止す。
二、個人としての研究も社会思想に関するものは禁止す。
三、指示したる書籍雑誌を読むことを禁止す。
四、学校外の演説はその学術講演たると否とを問わず禁止す。
五、他の学校との連合演説会を禁止す。
091 政友会院内総務の東武は、衆議院本会議で長々と次のような「思想問題に関する緊急質問」を行い、拍手喝采を受けた。
「私はこの問題を提起する為には斎戒沐浴、伊勢大廟、明治神宮に祈願を籠める熱誠を以ってこの問題を提起しているのである」


要旨 20171121()

明治政府の支配機構は、当初内務省を主体としたもの、つまり、警察による個別事例に対処する取締り手法であった。それが、ロシア革命の海外への影響が及ぶようになると、司法がイニシアティブをとり、結社することを禁止し、更に、結社する目的に関わりのあること全てを取り締まる方向へ、その取締りの度合いを強化していった。治安維持法は最初から最後まで一貫して同一の性質を持っていたのではなく、時の経過とともに、その取締りの度合いをますます強化していった。
また、学連事件と三・一五事件とでは刑罰の処し方が変わった。学連だけに関与したものには禁固刑に処したのに対して、共産党に関与したものに対しては、懲役刑に処した。つまり、当局は共産党結党を破廉恥罪と看做したということだ。
以上は法務省や内務省など政府に関わることだが、もう一つの反動的要素は、政界と新聞である。
新聞の論調は、学連事件と三・一五事件とでは、大きく変化した。学連事件では新聞は警察の行き過ぎを批判していたのだが、三・一五事件に関わったものに対しては、「国賊」と書きまくった。
また国会議員も新聞同様、共産党関係者を国賊扱いし、共産党=アカ=国賊というイメージを国民の間につくっていく大きな要素となった。
疑問。どうして新聞や政界は、急変したのだろうか。学連事件も共産党も内容的にはさほど違いはないはずなのだが。

1928年、治安維持法が改正され、「結社の目的遂行の為にする行為」を罰するようになった。

感想
筆者奥平康弘は、三・一五事件において、特高が令状(おそらく裁判所の判断)もなしに、「同意の下で」家宅捜索した、拘引したことが多かったことを問題視するのだが、私はそれよりも、国民がどうしてそういう特高の行為に異議を唱えなかったのか、国民はどうして共産党弾圧に異議を唱えなかったのか、なぜ治安維持法が成立した時に異議を唱えなかったのか、そのことが政治を変える力だったはずなのに、どうして日本国民にそういう行動をとらなかったのかを問いたい。097


第四章 治安維持法の本格的な適用 三・一五、四・一六

095 松本清張は『昭和史発掘』第二巻「三・一五共産党検挙」の中で、特高が共産党の活動のどの部分を、いつごろから、どのように知るようになったのかを書いている。
096 松坂広政は『現代史資料(16)社会主義運動』1965年、みすず書房の「三・一五、四・一六事件回顧」の中で、三・一五検挙の時期が、捜査の秘密がばれないように、総選挙後に随伴する選挙違反取締りのためのうごきだとカムフラージュできるからということで、3がつ15日に決定されたと指摘している。
097 三・一五事件では、圧倒的多数(1600名中の158名)が、正式な拘引状なしに逮捕された。捜索令状なしに捜索された場所も少なくない(百数十箇所中数十箇所)。
当局は、治安維持法関連では、正式な刑事手続をふまず、学連事件の第一ラウンドのように、行政執行法による検束を多用した。
そのことに関して、1930年代前半、検察・警察は議会で自粛を要求されても無視した。
078 三・一五で初めて検察と特高が一体となってことに当たった。担当者は以下のとおりである。
東京地裁検事局
塩野季彦(すえひこ)(検事正)
松阪広政次席
平田勲(思想担当検事)
警視庁
大久保留次郎(官房主事)
纐纈(こうけつ)弥三(特高課長)
浦川秀吉(労働係長)
石井石茂(特高係長)
 平沼騏一郎、鈴木喜三郎ら司法官僚主流は、司法官僚(=検察陣)が、思想犯取締りでイニシアティブを取るべきだと考えていた。(『平沼騏一郎回想録』1955, 『鈴木喜三郎』1944
101 政府は記事解禁と同時に、労働農民党、全日本無産青年同盟及び日本労働組合評議会の三団体を治安警察法八条二項に基づき解散処分に付したむね公表した。1928.4.11各紙
102 三・一五では、労農党は行政的・物理的に解体されたのであって、労農党そのものに治安維持法が適用されたのではなかった。しかし、1937.12、労農党の系統を継ぐとはいえ、それよりももっと中道的な日本無産党が、今度は治安維持法違反の結社そのものと認定され弾圧の対象になる。
 政府関係者は、新聞で「国体の清華」「国体の精神」を述べ立て、思想犯を「非国民」だと糾弾した。
 田中首相が「一般国民に訓示する趣旨から」発表された声明書
「共産党事件の発生に対し私は国体の精神と君臣の分義とに鑑み実に恐懼(く)置く所を知らない。事件の内容は金甌(おう)無欠の国体を根本的に変革して労働階級の独裁政治を樹立しその根本方針として力を労農ロシアの擁護および各植民地の完全なる独立等に致しもって共産主義社会の実現を期し当面の政策として革命を遂行するにあったのである。しかも国体に関し国民の口にするだに憚るべき暴虐なる主張を印刷して各所に宣伝頒布したるに至っては不逞狼藉言語道断の次第で天人ともに許さざる悪虐の所業である。
 由来我が国体は万邦に卓越し義は君臣にして父子の如き国柄において偶々今回の大不祥事を出したことは痛恨骨に徹して熱涙の滂沱(ぼうだ)たるを禁じ得ぬのである」1928.4.12各紙





長野県教員赤化事件 

1932.9 教労東京支部で小学校教員46名を検挙。
1933.1 全協加盟の日本繊維労働組合員を検挙。
1933.2.1 長野県学務部長が各校長に通牒を発した。149

職員の思想行動に関し特に左記御注意
一、読み物の種類傾向
一、交友関係及び信書の往復
一、諸種の会合の性質
一、欠勤遅刻理由を明知すること

 臼井吉見『安曇野』第四部にこの事件の描写がある。
1933.2.4 全協労働者を一斉検挙。全協加盟の教員組織=教労、コップ加盟の文化団体組織=新教関連の教員が検挙された。230人。うち女性24人。(『特高月報』昭和八年六月分)その中に日本共産党員はいなかった。
150 当局はこの事件を当初あまり重視していなかったが、途中から態度を変更して、この事件を利用して国民の反共・日本精神・国民精神を増強させようとしていくようになった。
 当局は当初記事掲載禁止措置を講じていなかったが、後になって禁止措置をとった。
 警察当局の取調べを受けたという理由だけで自動的に休職処分とされ、准教員、代用教員は馘首された。休職処分を受けたものは、視学によって査問を受けた。起訴されたもの以外に、懲戒免職6件、諭旨免職27件。復職可能性のある休職者に対しては、「告白文を提出せしめ、郷里に宅控えを命じ、日記感想文の記述をなさしめ、毎月一回以上所属学校長を訪問し、その検閲を受けしむること」とした。
151 信濃教育会「時局に関する宣言」は以下のように誓っている。

一、国体の大義を闡明し国民の信念を確立すること
一、一層敬神崇祖の念を喚起し日本精神の真髄を発揮すること
非常時日本の教育に渾身の努力を傾注すべく

151 信濃教育会は、「左翼教員」の排斥という消極的なものにとどまらず、非常事態国家体制への参加という積極的なはたらきかけへの旗ふりとなっていた。ファシズムへの道は、このようにして通じていった。




感想 法律家の文章はとかく法律の文章や裁判の判決文にこだわる。社会を動かす政治、人々の動向などにはあまり関心が向かないようだ。本書の著者もそのことが当てはまる。私などはそんなことは些少なことのように思われるのだが。

171 行刑のあり方が被疑者の転向の程度によって変わったという。それを行刑累進処遇令が担当した。
受刑者は改悛の程度や行刑上の成績のいかんによって、第四級から第一級まで階級づけられ、上級へ上昇するごとに、刑務所内での処遇が良くなる。そして第一級へ上った者のみが仮釈放の恩恵にあずかる。
175 転向したかどうかの基準は、時の経過とともに厳しくなり、1933年7月では、河上肇のような行動的方向転換、つまり思想面では社会主義を温存していても転向と認められたが、1933年12月になると、それは準転向とされ、転向とは認められなくなった。また、転向者は侮蔑的に没落者と当局から呼ばれた。
176 治安維持法は「革命思想」の抛棄を強制するための思想弾圧法へ飛躍的に展開した。
177 さらに、1936年末、東京保護観察所で執務上の便宜のために協議した「思想進化段階論」(著者は徳岡一男)によれば、単なる思想の抛棄のみならず、「完全に日本精神を理解せりと認めらるるに至りたる者」へと進化し、さいごには「日本精神を体得して実践躬行の域に到達せるもの」といえる段階にいたらなければ、真の「転向」とはいえないとされる。
178 さらには「転向」とは「過去の思想を清算し、日常生活裡に臣民道を躬行し居る者」とも定義づけられている。(1941年)



感想 治安維持法は、法務省や内務省の主導によって、実体としては警察権力によって、その法を先取りし、その法の内容をはみ出すようなやり方で、その弾圧の対象を広げた。当局は、被疑者に共産主義からの転向を勧めるだけでは満足せず、「日本主義」を先導する人材になるように求めるという、得体の知れぬ「国体」「日本主義」の精神を要求した。そのことは、国民の自発的な意見の表明を押さえつけ、国民の、唯々諾々とあるいは積極的に、戦争への動員を容易にした。まさに暗黒時代である。202 20171127()

感想 「建設的」という言葉がいつの時代においても、保守的で体制擁護的な人たちによって使われてきた言葉であることが、次の「社会大衆党」の体制擁護宣言=声明書でもわかる。「建設的」なる言葉は、安倍晋三や希望や維新の面々によっても頻繁に使われる言葉だ。

非常時下の思想対策を断行すると共に建設的なる言論、結社その他の堅実なる社会運動に発展せしめて、国民の胸底からの努力精神を発揚することこそ、思想対策の根本であり、一部の反国家的策謀を根絶する所以なりと信ずる。217

感想 皇道大本教事件1935.12.8とは何だったのか。権力の側の嫉妬か。筆者は天皇の側近たちが妬んだようなことを言っている。228*大本教は、連携する民間の国粋右翼や軍人を擁し、信徒は40万人だった。そして、治安維持法は弾圧のための方便でしかなかったのかもしれない。

228 皇道大本が、その人力、財力などの社会的支配力を背景にして、軍の統制派などと結託して「国家改造断行上奏請願運動」をおこし始めたことは、西園寺公望、松平公爵、木戸幸一など天皇側近を著しく刺激した。
 しかし、それを待つまでもなく、内務省警保局は、34年終わりごろから大本に対する視察内偵を推し進めつつあった。

 結局大本教事件は第二審1942.4で無罪となったが、それまでの六年半の間に建物はほとんど破壊225され、拘留され、組織は壊滅状態となった。*そしてこの事件は戦後の大審院まで引き継がれ、大審院は、両者の上告を棄却した。1945.9

*『大本事件史』1967、宗教法人大本

感想 「国民精神総動員」なるものを推進した者、『世界文化』を弾圧し、『日本文化』なる冊子を大量に配布した者は、誰だったのか。筆者は治安維持法にこだわるが、それ以上に、この日本主義の流れをつくった張本人は誰だったのかを問題としたい。239, 20171128()


第七章 太平洋戦争下の治安維持法

新治安維持法 「国体変革」への重罰

242 スパイ活動を取り締まる国防保安法1941が制定されたが、それは、一般的な刑事訴訟法ではなく、新治安維持法1941と同様な刑事手続を新設した。思想犯も敵国通謀者もひとしく国賊と看做され、取り調べ、裁判されたということだ。
245 新治安維持法は、国体変革結社ばかりでなく、その支援結社準備結社をも処罰の対象にした。そしてそれぞれの「目的遂行のためにする行為」を罰する規定を設けた。
新治安維持法は第五条で、結社、集団どころか、個人までも罰する規定を設けた。個人が国体変革の目的たる事項を宣伝したり、また、そのような「目的遂行のためにする行為」をしたりするのを禁止した。

新治安維持法 宗教取締り

246 新治安維持法は宗教取締りの規定を設け、「国体を否定*し、または神宮もしくは皇室の尊厳冒瀆すべき事項を流布することを目的として結社を組織したる者または結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者」を処罰した。

*否定は、変革と異なり、人の内面や思想に関わることである。「国体の否定とは、主権の所在を観念的に抹殺して認めざるを謂う」247

248 「国体否定」という法文は、異常・異例である。全く観念の世界にとどまる人間の精神活動そのものを標的にしているからだ。

感想 「横浜事件」とは、被疑者が横浜で治安維持法違反事件を起こしたというのではなく、神奈川県横浜の特高・検事が、特高があやしいとにらんだ全国の外務官僚、大学教授、出版関係者などを、ただの人間関係から、拷問を多用し、治安維持法違反事件に強引に仕立て上げた一連の事件の総称である。
 特高・検事の側の全くのデッチアゲを、裁判所は唯々諾々と特高・検事の言い分通りに判決を下した。
著者は、横浜事件の背景に、平沼騏一郎派が、近衛文麿など旧勢力を蹴落とそうとしたことから起こった280としている。また現在1977内務・司法官僚が現場の特高係りをどう動かしたのかについて立証することができていない、と言う。つまり、証拠隠滅されたということらしい。280

20171130()



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