2020年2月3日月曜日

『1937年の日本人』 なぜ日本は戦争への坂道を歩んでいったのか  山崎雅弘 感想


『1937年の日本人』 なぜ日本は戦争への坂道を歩んでいったのか  山崎雅弘 1967年大阪生

感想 2018612()

 当時の日本は図に乗っていた。日本の軍隊が東アジアでは抜群に強かったからだ。
冀東防共自治政府1935.11.25中華民国臨時政府1937.12.14などは、満州国1932.3.1同様、日本の傀儡政府であった。それは、日本が中国の領土を侵略したという意味である。
 蔣介石はじめ中国の人たちは、そういう日本のやり方=侵略行為に対して我慢ができなくなった。
 しかし日本はそれが侵略行為であることを自覚できなかった。日本は、反発する中国の武力攻撃に対する軍隊増援を「自衛行為」と言っている。傀儡政府は自分の所有物だ、と看做したいのだ。日本は中国の気持ちを理解できず、このような図に乗った行為を修正できずに最後まで押し通した。
 それは喧嘩の論理=軍隊の論理だった。近衛首相はその軍隊に歩調を合わせ、大きな役割を果たした。近衛首相が決定した国家総動員法は、ドイツからの借り物か。*国民や団体の行動・財産を全て国家の意のままに利用できるというものだ。
 以上のような図に乗った日本の態度は、現在の右翼による中韓に対する態度にも当てはまる。GDPが中国に追い越されると、一人当たりではまだまだだなどと相手の優位を認めたがらず、反中・嫌韓の心性を持ち続け、東アジアで仲良くやって行こうとする気持ちに欠ける。

参考になった事項とその頁

018 「この頃にはいわゆる貧困層は投票権を持たなかった」という著者の記述は本当なのだろうか。普通選挙法が1925年に成立していたのではないか。ところがこれは私が浅はかだったようだ。Wikipediaによると、

こうして1924年(大正13年)611日に公約通りに衆議院議員選挙法(普通選挙法が成立した)が改正された。しかし、政府原案中の、選挙権及び被選挙権の資格規定に関しては、1925年(大正13年)2月の枢密院の修正被選挙者の年齢を30年以上とする。貧困のため公私救恤(こうしきゅうじゅつ)を受ける者や住居不定の者には選挙・被選挙権を与えない。華族の戸主は選挙・被選挙権を有しないなど)があった。これに対し、衆議院3月の第50議会でこれを削除したが、貴族院はこれを復活さらに貴族院は政府原案中にあった「貧困ノタメ」を削り、欠格範囲を拡大したが、両院協議会での協議により「貧困ノタメ」を「貧困ニ因リ」とすることで妥協が成立(213日)した(「貧困ニ因リ」を加えることにより、兄弟・親子の相互扶助は欠格要件とならないこととした)。

その後、32日、衆議院で修正可決。326日、貴族院で修正可決され、衆議院議員選挙法改正が公布される。

なお、社会変革を恐れた枢密院の圧力により、同時に治安維持法も成立され、衆議院議員選挙法改正公布より先422日に公布された。

つまり、貧困に因り公私救恤(こうしきゅうじゅつ)を受ける者や住居不定の者には選挙・被選挙権を与えない、ということになったわけだ。

052 軍機保護法=スパイ防止法の改正
083 森下仁丹社がグライダーを献納を公告で消費者に提案
099 「自衛権発動の派兵」という名目で日本軍の北支派兵
091 冀東(きとう)防共自治政府 1935.11.25 塘沽(たんくー)協定1933.5.31で、非武装地帯と規定された河北省東部の22県を統括する、親日(日本側の要望をほぼ受け入れる姿勢)の地方政府として冀東防共自治政府が樹立された。
 冀察政務委員会 1935.12.18 宋哲元が代表を務め、河北省西部とチャハル省、および北平と天津の二市を管轄する地方政府の冀察政務委員会が樹立された。
099 7.11 マスコミ等に対する近衛首相の戦争遂行協力要請懇談会
107 新聞に現れ始めた○○という伏字
110 蔣介石の「最後の関頭」演説「中国の犠牲の最後の関頭(大きな分かれ目)は、刻一刻と近づきつつあり、我らは中国の主権を侵すものに対して、断じて一歩も退かず」「冀察政権は南京政府の設置したもので、これを不法に改廃することには応じない」「二十九軍の現駐地に制限を加えることは許さない」
110 朝日新聞社の航空機献納運動
114 「暴支膺懲」という用語が新聞紙面に出現
118 ソ支軍事条約締結
119 孫文の息子の孫科は、中蘇文化協会の会長
121 中国人の冀東保安隊が通州の日本人居留民を虐殺…この記述は後述される。
その前に日本が通州駐留部隊を救助するために付近を空爆していた。
124 汪兆銘は中国の弱さを認識していた。汪兆銘の声明「抗争(軍事面での対抗)できぬ以上は最大の犠牲やむなし」
140 大山大尉が上海で殺されて、上海事変へ飛び火した。
149 天皇が近衛首相と陸海軍に与えた「お墨付き」の勅語
152 1937.8.24 国民精神総動員実施要綱
156 武田麟太郎 プロレタリア文学の弾圧後は、庶民作家として活躍 『中央公論』九月号
159 黒田礼二=本名岡上守道は『文芸春秋』で「我らは敢えて支那民族が、統一国家を作ることに反対はない。それこそむしろ我らの心から希望するところだ。ただ、しかしながらその統一は、支那民族が日本の存在と勃興に対して十分な理解と同情を持つような統一でなければならぬ。日本はなんと言っても全東洋民族の『盟主』である。盟主という漢語に語弊があるというなら、日本語でくだけて『兄貴分』である、といってもいい。そりゃ事実が証明しているから仕方がない。
 しかるに蔣介石の南京中央政府は排日抗日侮日を材料とし、その土台において全国を統一しようとしている。そんな統一なら直接に迷惑を蒙るのはわが日本であって、日本は自国の生存確保の上からも、これに反対せざるを得ないのは理の当然である」
166 1940年の東京オリンピック辞退へ向かい始めた。
178 『国体の本義』は、1937.3.30に文部省が刊行した国民向け教本。
180 1937.10.1 近衛首相の署名入りのビラが発行された。「国民精神総動員に際し国民諸君に望む」「国民精神総動員に当たって、我々国民は何をしなければならないか」
184 九カ国条約参加国が中国の依頼で仲介に乗り出した。
186 この頃から米英は中国に味方するようになっていった。ここに第二次世界戦争にまで発展する可能性が生じた。191
186 1937.10.27 戦死者が一万人に近づいた。
193 1937.10月号の『文芸春秋』に掲載された、杉山平助の「戦争とジャーナリズム」で、杉山は「指導者側に重大な誤謬が犯された時に、ジャーナリズムはこれを批判すべき義務がある。それは国家の大局から見ての義務である」
7.11の近衛首相099による、ジャーナリズムへの協力要請から雑誌は外されていて、このころはまだある程度の自由な発言がなされていたが、それでもこの一文も後半で「72行削除」とあり、その後の文章はそれまでの文章とは打って変わった内容になっていた。194
195 1937.11.27 大阪朝日新聞「近衛首相時局を語る『一切は蔣の出様次第だ』」
近衛首相「我が派兵の目的は、国民政府を相手とし、その抗日政策を放棄させ、日支の根本的な国交調整を行い、相提携して東洋永遠の平和を確立することにある」「蔣介石が政策を転換し、反省の実を示し、和平交渉の手を差し伸べてくれば、これに応じるという建前である」「しかし、もしもかかる反省の実を示さず、どこまでも長期抵抗を続けるならば、こちらとしても一層長期にわたる覚悟をもって彼に徹底的な打撃を与える考えである」
日本のこの方針は1945.8月まで変わらなかった。日本は中国の変化に気づかなかった。113「中国は日本に軍事的に60年・70年は遅れている」(汪兆銘124)ことを自覚していたが、中国も盧溝橋事件以後の日本の出方に反発して、それまでのバラバラな状態から一枚岩に変化し、それまで日本が我がままで自由に中国に対して行っていたことに我慢ならなくなり、徹底抗戦、それも持久的な戦術に変えた。それは正面から日本と戦ったのでは勝ち目がないことを知っていたからである。
一方、日本は日本のほうが軍事力では優れていることを自他共に許すだろうと過信していたので、すぐにも中国が降伏するだろうと勘違いした。戦争が八年も続いて多くの戦死者が出ても、一貫してその方針を日本が変えられなかったのは、軍部の面子があった。そして、軍部にものが言える政治体制がなかった。軍部大臣現役武官制019
211 南京市内の清掃 南京入場式の準備
212 便衣に着替えた中国兵は二万五千人…これは多過ぎる、と著者は南京虐殺の原因を示唆しているが、直接にはそれに触れない。
217 人民戦線事件 逮捕
219 第二回国民精神総動員強調週間を予告 「全国民こぞって宮城を遥拝」 1938年の紀元節の朝 奉祝の時間 国体観念の明徴と日本精神の昂揚 第一回は前年1937年の10月13日から19日までの一週間179
222 戸坂順「一九三七年を送る日本」『改造』
224 文部省は学校教育や国策行事の主催などを通じて、政府の戦争政策を援護し、国民を戦争へと協力させる運動を積極的に進めた。
227 ダンスホール閉鎖
234 1937.12.14 北京で中華民国臨時政府が樹立されが、日本は当面それを中国政府としては認めず、ただの蔣介石に対する当て馬であった。王克敏が、行政委員会委員長。
235 第一次近衛声明「爾後国民政府を相手とせず」
241 靖国神社の宮司の賀茂百樹 「現津御神(あきつみかみ)」である天皇が戦没軍人の慰霊のために参拝することの「有り難さ」を「何という畏(かしこ)さ、なんというかたじけなさ。ただ涙こぼるるばかりであります」
251 国家総動員法に関して、斉藤隆夫議員は「戦時に大権の発動によって、憲法第二章に基づく臣民の自由を制限することがあるのである。憲法で保障された国民の権利、自由、財産をかくも広範囲に委任立法する例は、かつてない」
253 佐藤賢了陸軍中佐の「黙れ!」暴言事件 佐藤が発言中に議員にやじられ、それに対して佐藤が「黙れ!」と言って、委員長に促され、撤回した。
257 ところがこれだけの気概が議員に残っていたのかと思いきや、あっさりこの法案は満場一致無修正で可決されるのである。しかも近衛が今次日支事変には適用しないと衆議院では約束しておきながら、貴族院では「戦争に準ずる事変」とあるのだから今事変にも適用されると豹変しても、なんら反対がなかったというのも、その気がもともとないのではないかと疑われる。
266 首相も戦争が起ったことは知らなかった。11.5の杭州湾上陸*(第六章)を知らなかった近衛は「内閣と大本営との連絡会議」の開催を要望しそれが実現したが、軍事行動の事後報告がなされるだけであった。12.14の北京での王克敏らの「中華民国臨時政府」ができる時も、内閣は全くのツンボ桟敷におかれた。
*これは上海での戦いが、当初の計画にはなかった南京攻略戦へとつながる軍事作戦だった。
268 朝日新聞が特に戦前・戦後を通じて、権力に対する迎合の点でゆれ幅が大きかったので、著者は朝日新聞だけを本書の題材に用いた。



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