2020年2月14日金曜日

『日中戦争への旅 加害の歴史・被害の歴史』宮内陽子 合同出版 2019.12.13 要旨・抜粋・感想


『日中戦争への旅 加害の歴史・被害の歴史』宮内陽子 合同出版 2019.12.13


序文

 日本軍による中国の人々に対する細菌戦の被害の実情はどうだったのか、今中国の人々はそれに関して日本人に対してどう考えているのか、また日本による台湾支配は平穏だったのか、そして琉球王国は平穏に日本に帰属し、喜んで沖縄県になったのか。
 細菌戦被害者の証言は胸に迫る。中国の人々は今ではもう忘れて水に流してくれているのだろうか。とんでもない。中国の人々の日本人に対する見方は今でも厳しい。それはこれまで日本政府や最高裁が、中国の人々にそっぽを向けてきたからだし、日本人もあまり関心を持たなかったからだろう。「日中友好」を考える上で、心すべきことだ。
 台湾の人たちの歴史は悲惨だ。日本人支配に対する長くて激しい抵抗の後で、それの裏返しである、アジア太平洋戦時の高砂義勇隊への志願と戦死、そして戦後では、外省人による本省人の弾圧と殺戮。台湾の人々はいくつもの多難な時代を潜り抜けてきた。
 琉球王国は滅亡させられた。誰によってか。日本の軍隊と警察によってだ。琉球の王様を東京に拉致して、「沖縄県」としたのだ。
 また、雲南援蒋ルートでの日本軍自滅戦の描写もすごい。投降しない日本の自滅戦争とはこういうものかと考えさせられる。それを参謀クラスや戦史家は、「美談」、「立派」だとして、「玉砕」などと形容し、司令官たちは「感状」なるものを打電して褒めたたえたとのことだ。

 当会の日中戦争への旅で、中国国内のどこへ行くかは、中国側の担当者が提案しているようだ。だからこれまで日本人が知らなかった、否正確に言えば伏せられてきた、虐殺現場を新たに知ることになる。「南京虐殺」は南京だけではなかった。中国のあちこちで中南京虐殺、小南京虐殺が行われていた。「三光作戦」だ。
 本来なら加害者側が自分がやった加害の実態をよく知っているのだから、進んで明らかにすべきところなのだろうが、残念ながら日本人・日本政府にはその勇気がこれまでになかったようだ。被害者側から、これまで知らなかった、知らされなかった、自国の歴史を教えられるのだ。これは朝鮮近代史を学ぶことは日本近代史を学ぶことでもあるのと同様だ。

 8月15日に日本人戦死者を追悼するだけでは片手落ちなのではないかと考え、中国や東南アジアの各地を訪れて戦死者を弔う活動をしてきた人たちの跡を、当会は引き継ぐとのことだ。017 これまで日中戦争への旅を23回も続けてこられたとのことだが、その熱意とノウハウを学び、自らの活動のための参考にしたい。

2020213()


感想

 日本人に対する中国人の反応が分かった。中国人は日本人を決して許していない。特に日本政府と最高裁判所をである。筆者は日本政府や最高裁判所に呼び掛ける。「罪を認め、謝罪し、賠償金を払うことは、日本のプライドを貶めることにはならない。罪を認めないことは、二度目の犯罪的行為である。罪を認め、謝罪し、賠償をすることは、かえって国際社会の中での日本の地位を高めることになるだろう。」

 日本の近代史を教えてもらった。台湾の抗日戦争、南京事件と似たような事件が中国のあちこちにあったこと。細菌爆弾の脅威と、それを米ロが擁護し、追及しなかったこと。彼らがその情報を知りたかったからだ。そして米は朝鮮戦争で実際それを使った。日本の関係者は戦後、細菌爆弾について秘密にした。

 人間の極限状況におけるむごたらしさ=利己主義は、戦争の本質なのかもしれない。

 筆者は中国語が堪能のようだ。ある程度のことは中国語で話せるようだ。感服。 2020.1.27




はじめに

003 「神戸・南京をむすぶ会」の訪中は1997年に始まり、2019年12月現在で、23回続いた。
004 日本が歴史を誠実に見つめ直して初めて、歴史の中で傷つけた隣国の人々の信頼を得る第一歩が始まり、共に平和なアジア世界を築いていくスタート地点に立てるのではないか。
 歴史の事実が痛みを伴って全身を包むことがあるが、毎年報告会を開き、報告集を作っている。
005 中国の普通の人々の思いに触れていただきたい。

第1部 南京事件をたどる

南京への道

012 戴国偉さんが「神戸・南京をむすぶ会」の23回の旅の企画・ガイド・通訳を初回から務めてくれている。
 上海から南京に向かう道中にある鎮江は、1937年11月27日、28日の空爆後、12月8日に、略奪、殺人、強姦、放火され、市民は徴用され、物資は徴発された。殺害された人は1万人。市街地の6割が破壊された。日本軍は傀儡政権を作り、人々は分断された。

碑巡り

014 1980年代、日本の教科書で「侵略」を「進出」とし、中曽根康弘首相が靖国神社を公式参拝する中で、中国では日本の歴史認識に対する批判が高まり、1985年に一斉に、南京虐殺追悼碑と記念館が建てられた。
 その中で燕子磯の碑は長江の一番下流にある碑である。
015 同碑文「1937年12月、3万人の武装解除した兵士と2万人の市民が燕子磯に集まり北方に逃げようとしたが、日本の軍艦に阻まれ、機関銃で撃たれ、ことごとく殺害された。屍は川渕に横たわり、血は川となって流れた。ここに碑を建て、永遠に記して忘れない。後の者は、昔から教訓をくみ取り、中国を発展させ、世界の平和を守ろう。」
016 燕子磯は村瀬守保の南京の写真を彷彿とさせる。

 燕子磯から上流に遡ると、幕府山のくぼ地で殺害された捕虜を追悼する草鞋峡と、捕虜と難民9000人が殺害されて焼かれた中山埠頭の碑がある。
 把江門の碑で一日の日程を終えた。この碑は繍秀公園の中にある。ここは虐殺現場ではなく、周辺で殺された無縁仏の遺体を集めて埋葬したところだ。
 あるおじいさんが戴さんに話しかけてきた。「あれは日本人か。追悼碑があるから連れていけ」「燕子磯、中山埠頭にも行け」

追悼式典

017 8月15日に日本人犠牲者を追悼するだけでなく、中国や東南アジアで追悼する取り組みが日本にあったが、本会はそれを継承するものだ。
 式典は、南京大屠殺遇難同胞記念館が準備する。日本語担当の蘆鵬さんがいる。幸存者も参加する。広場で短時間に行われる。
 メディアの取材を受けた。「家族に兵隊はいるのか」などと聞かれた。当日のテレビニュースや翌日の新聞で報道された。

幸存者のお話

018 式典の後で館長との懇談がある。前館長の朱成山さんは「人と人との関係を深めねばならない。」「許しはするが、忘れてはならない。」と言った。
019 以下2011年以降に会って話を聞けた幸存者の証言である。
 郭秀蘭 当時6歳
 「防空壕に隠れていたが、銃弾を撃ち込まれ、父母と生後8か月の妹を殺された。」郭さんは「日本鬼子」「日本鬼子」とたびたび語った。「戦争を発動した者には今でも恨みを持っているが、日本人民は恨んでいない。日本人は勤勉で優しい。」
020 楊翠英 当時12歳
 「父、2歳の弟、母方の叔父、大叔父を殺された。」「跪いて命乞いをしたがビンタを受け、耳が聞こえなくなった。母はその後男の子を生んだが、その子が飢えて死んでしまい、母は泣き尽くして失明した。30万人の中には私の家族も入っている。遺体はトラックで運ばれ、池の中に入れられた。」
 30万人という数に拘ると「嘘」という論調に絡めとられる恐れがあり、注意しなければならない。
 余昌祥 当時10歳
 「父が日本軍に徴用され、それっきり帰ってこなかった。どこで亡くなったのかも分からない。」「敗残兵や市民の殺害を目撃した。避難生活の中で、近隣住民は、傷に苦しむ私の兄弟や、騒ぐ幼い子供を殺さざるを得なかった。」
 陳桂香 当時13歳
 「両親を亡くし祖母と暮らした。隠れていたところを日本軍に見つかり、レイプされそうになったが、すきを見て銃撃を受けながら逃げた。捕まった従姉はレイプされ、殺害された。私を守ろうとした祖母は銃で殴られ重傷を負い、しばらくして亡くなった。私は孤児になった。童養媳(トンヤンシー、将来妻にするために貰う養女)にならざるを得なかった。」
022 岑洪桂 当時13歳
 「父が抱いていた妹の顎を日本兵に撃たれた。藁ぶきの家に火がつけられ、兵士が銃剣をもって脅すので、中で寝ていて泣き叫ぶ弟を助けることができなかった。弟の亡骸はジャガイモのように縮んでいた。」
 葛道荣(ロン) 当時10歳
 「叔父たちを殺された。一人の叔父は『日本人は悪いことはしない』と言って避難しなかったが、結局家に押し入られ、家財だけでなく命も奪われた。私も弟と妹を抱いているところを見つかり、足を銃剣で刺された。」

記念館見学

024 2015年から抗日戦勝記念日が9月3日になったが、8月15日には大勢の市民が記念館を訪れる。

 *9月2日、日本はポツダム宣言による降伏文書に調印した。

 壁面に犠牲者の名前が刻まれている。9・18(柳条湖事件、満州事変、1931年)から始まり、7・7(盧溝橋事件、1937年)、東北、上海、南京への道が、写真や地図で説明されている。
 南京空襲、亡くなった子供を抱いて顔をゆがめる父親の写真、日本軍機を迎え撃ち戦死した米軍、ソ連軍、中国軍の兵士の紹介。
025 国民党軍が頑強に抵抗した光華門の攻防の様子を示す壁画、その音声と映像、南京陥落を告げる日本の『毎日新聞』、大勢の捕虜連行を示す写真、刺突する直前の写真、捕虜の首切りの連続写真、民間人を殺害する瞬間、射殺や焼殺された遺体が折り重なる写真、乳母車に戦利品を満載して街を歩く兵士、強姦され悲痛な表情の女性を立たせて一緒に写した写真、「不許可」と判が押された写真。写真を現像させられた写真店主が密かに残しておいたものもあるようだ。
 遺体を戦車がひき潰していく様子を伝える日本人の私信、捕虜の処分を命じた上官の資料などが展示されている。
 侵攻時に南京に残った外国人に関する展示 彼らは上海に倣って、難民の保護のために安全区国際委員会をつくり、安全区を設定した。委員会の長はドイツ人のジョン・ラーベ、シーメンス社の中国支社総責任者で、ナチ党員だった。日本軍との交渉に有利だろうという理由で委員長に推されたらしい。
 委員の一人、アメリカ人のジョン・マギー牧師が被害の状況を撮影し、密かに国外に運び出し、世界に南京事件を知らしめた「マギーのフィルム」が壁に映し出されている。そこには、家族の前で日本軍に連行されていく青年、殺害されて池に浮かぶ遺体、すでに亡くなって硬直した子どもの遺体、妊娠中に日本兵士に襲われ、37か所も刺されながら抵抗した李秀英さんなどが映し出されている。
026 マギーは、(東京)裁判で、家族のほとんどが殺害される中で、幼い妹と共に生き延びた夏淑琴さんのことを含め、日本軍の残虐行為について証言した。
 安全区の運転手であるマッカラムが、大量のソラマメを手に入れ、毎日、ソラマメばかり食べることになったことを歌にした「ソラマメの歌」の手書きの楽譜が展示されている。
027 床が透明になっていて、(記念館の)建設の時に掘り出された遺骨がそのまま床下に見えるようになっている場所がある。
028 そこに柵をして、それを乗り越えてなくては中が見られないようにして、幼い子供のへの配慮をしていた。
 当時の土、石ころ、木の枝、激戦が行われた門のレンガなども展示されている。
 仙鶴門での虐殺犠牲者を埋葬した人の証言もあった。「1938年初夏、仙鶴門周辺の麦畑に、昨年の大虐殺の犠牲者の遺体がまだ残されていた。」

遺骨館で

029 記念館は江東門に建てられた。ここは虐殺現場で、遺骨がたくさん出土するため、屋根で覆い、発掘したままの状態を保存する遺骨館になった。白骨が何層にも重なる。その中には幼児の肋骨もあった。頭の両側に鉄釘が打たれ、右側骨盤にくさび型の刀傷のある、推定19歳の女性の骸骨が、こちらを見ている。

民間抗日戦争博物館

030 これは研究者で実業家の、吴(ご)先斌(ひん)が私財を投じて造ったものだ。
031 彼は、抗日戦争の遺物を収集した。少年兵や兵士の写真や、抗日戦争中に作られ、後に国歌となった「義勇軍進行曲」が掲げられている。この歌は「起て、奴隷になりたくない者たちよ、」で始まる。
 南京戦を説明するパネル、抗日を鼓舞する品々(「抗日」と書いた茶碗や刺繍した布、筆入れ、ライターなど)、「慰安婦」とされた女性の遺品、「アサヒグラフ」など戦時中の日本の、雑誌や新聞、千人針や出征を祝う幟、日本軍の刀や銃そして、国内外の研究書などが展示されている。
 日程が合えば吴さんと懇談する。「ある意味、日本を諦めた」と言われたことがあった。「名古屋で所蔵品を持参して展示するが、参観者が少ない。名古屋の『平和と戦争記念館』の南京事件に関する説明は500字に満たない。東京大空襲や原爆がなぜあったかを、日本人は知ろうとしない。」
 彼は、若い世代が話し合い、交流できるように、若者たちの面会の場を設けてくれた。
032 その面会に参加した一人が李陽であるが、彼は日本に留学し、NHKの「その時歴史が動いた」を見た。
 もう一人は鎮肯。1年間交換留学生として日本に留学して日本語を学んだ。彼は言う。「日本や日本人に好感を持っている。交流は大事だ。」と。
 吴は広島で「南京展」を開いたが、その時の感想は以下の通りだ。

被爆者に対して、人間同士、自然に同情心が湧いてくる。一部の中国人は原爆は自業自得だと言うが、私はそれに賛同しない。それはひどすぎる。原爆を作った人間がいかに残酷かと思う。

 吴は「八紘一宇の塔」の礎石返還要求もしている。「八紘一宇の塔」は1940年、戦意昂揚を企図した「紀元2600年」奉祝のために建てられ、礎石は植民地や侵略した先から集められた。その中の三枚の石は、南京の「明故宮」「中山陵」「紫金山」からもたらされた。

*「八紘一宇の塔」は、宮崎県平和台公園にある。
 八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の現在の名称は「平和の塔」、また正面に彫られた「八紘一宇」の碑文から「八紘一宇の塔」ともいう。1940年に建てられた。
 1946年GHQの命令で、正面に彫られた「八紘一宇」の碑文と荒御魂(あらみたま)像が撤去された。そして塔内部に収納されていた秩父宮雍仁親王の揮毫の「八紘一宇」も撤去の対象となったが、宮崎神宮の倉庫内に密かに隠された。
 1962年荒御魂像が復元され、1965年、八紘一宇の文字が復元された。宮崎県観光協会会長の岩切章太郎がこれを主唱し、革新政党や労働組合の抗議を跳ね返した。

033 戦後「八紘一宇」の碑銘は一旦取り除かれたが、後に復元され、「平和の塔」と呼ばれ、観光の対象となっている。
 吴は言う。「戦争は人を鬼に変える。今では日本人と日本軍とを区別できるようになった。」「今は戦争でもないが、平和でもない。完全平和になるために、博物館活動を続けていきたい。」

南京利済巷慰安所旧址陳列館

034 南京の中心部にある利済巷には慰安所が多数あった。この陳列館は、元は住宅だったが、慰安所として日本軍が接収した。戦後も住宅として使われたが、その後、陳列館になった。
 朴永心がここで慰安婦とされていた。朴は朝鮮から南京に連行され、ビルマや、雲南の龍陵や拉孟で働かされた。妊娠していたが、拉孟全滅戦の最中に脱出し、米中連合軍に捕らえられ、重慶から朝鮮に帰った。彼女は朝鮮民主主義人民共和国で過去を隠して生きていたが、1991年、金学順の証言に感動し、名乗り出た。女性国際戦犯法廷にも参加し、また、利済巷や拉孟、龍陵を訪問して当時の証言をした。
036 当館では、慰安婦の歴史を否認する日本の状況も説明されている。(日本政府への)提訴、国際社会への(慰安婦問題の)広がり、世界記憶遺産登録運動などの展示が行われている。
 慰安所はここ以外にも南京市内外にたくさん建設され、長江の対岸の浦口に残っている慰安所だった建物を見学した。

南京の門

 陸軍部隊は中山門から、海軍部隊は把江門から南京に入城した。
 中華門は南京で最大の門である。入口の上に千斤閘(せんきんこう)という壁があり、それが落ちて敵兵を門と門との間に閉じ込める仕組みになっている。門の上にはかつては城楼があった。
 光華門は東にあり、その北が中山門で、北に紫金山を望むことができる。

上田政子さんのこと

039 光華門は現存しないが、堡塁はある。
 上田政子は日本の敗戦前後に赤十字の看護婦として南京で働き、傷ついた日本兵を看護した。彼女はむすぶ会の旅に参加した島根県の人である。

国際安全区

040 日本軍は、国際安全区内の敗残兵狩りを行い、中国人青壮年を連行し、強姦目的で女性を拉致した。
041 安全区内には、ラーベの家があり、ハーケンクロイツの旗を掲げて日本軍機の爆撃を避けた。ラーベの家はその後南京大学の教員宿舎となり、今では記念館になっている。
 マギーが負傷者を撮影した鼓楼病院も安全区にあった。
 安全区内の金陵女子文理学院(現・南京師範大学、金陵は南京の古称)は、中国最初の女子大学である。日本軍が接収したので爆撃をまぬかれた。
 アメリカ人教員のミニー・ヴォートリンも委員の一人で、女性たちを校舎で保護し、敷地内に侵入してくる日本兵と対決した。幸存者の揚020も保護された一人だ。女性たちは彼女を「華小姐」と呼んだ。ヴォートリンは華群と名乗っていた。彼女は抑鬱状態になり、米国に帰り、病気になって自殺した。
042 ヴォートリンの胸像が構内にある。

栄1944部隊

 ハルビンに731部隊があり、広州に8604部隊があり、南京に中支那派遣軍防疫給水部栄1644部隊がある。いずれも細菌戦部隊だ。
 南京の1644部隊が使用した病院は、現在では軍関連の病院になっていて、見学は難しく、条件を課された。戦前の地図は出さないでくれ、立ち止まって説明できない、大勢で固まってはだめ、三々五々で歩いてくれと戴に言われた。
 この病院は1929年に創設された。
043 当病院の1科で細菌戦のための人体実験が行われた。ノミをペスト菌に感染させた。元隊員の証言がある。マルタと称された実験用の人々を殺害し、焼却した。
044 日本人はそれを今も反省していない。

夫子廟の雨花石

 夫子廟には土産物屋が多い。
046 農産物を展示する南京博物院へ行った。


第2部 日中戦争をたどる

海南島

海南島の三光作戦

048 海南島は台湾と共に戦略上の要衝であり、日本軍は1939年2月10日、同島を占領した。
 図書館の資料は、「海南島で日本軍がいかに善政を敷いているか、多少反抗する分子はいても、討伐してしまえばそれでおしまい」という書き方だった。
 日本軍と抗日勢力とが拮抗していたところでは「討伐」=三光作戦が行われた。
 北岸村で虐殺が行われた。そこに五百人碑がある。
 1941年6月24日、北岸村と近隣の二つの村が日本軍に包囲され、499人の村人と通行人が殺された。
049 幸存者の何君苑に会った。顔に深い傷跡があった。何さんは黎族である。何さんはその時5歳だった。家族全員が殺された。
050 我々のツアーをパトカーが先導した。

特攻兵器「震洋」

051 猴島には小型の特攻ボート「震洋」の格納庫跡がある。震洋は、カミカゼ、回天、桜花同様特攻である。私の父は巡洋艦に乗った後、航空機要員になった。
052 父の同期のMさんは、猴島の三亜の103震洋隊の隊長だった。20歳だった。搭乗員の平均年齢は17歳、基地員総数は180人だった。
 震洋はベニヤ板製のモーターボートである。自動車エンジンを使ったので、速度は遅く、小さいから外洋に出られず、海辺の洞窟に潜み、米軍の舟艇が接近したときに出動し、群がって攻撃することになっていた。成功率は1割だった。舵を固定し、接近ギリギリのところで海中に飛び込むこともできるようになっていたが、そういう訓練はされなかった。
 震洋は、沖縄、日本の各地、済州島沿岸、台湾、香港、海南島に配備された。運搬中に撃沈されたものもあった。フィリピンと沖縄で、僅かの戦功を上げたに過ぎない。
053 Mさんの部下が「住民の土地を取り上げるのはけしからん」と言うと、Mさんは上部に掛け合って改善させたとのことだ。
 震洋の格納庫は西松組が造ったとMさんは著書で書くが、徴用された強制労働については触れない。

強制連行の跡地

055 島の西の八所港は、日本窒素が収奪した石碌鉱山の鉄鉱石を積みだすために、軍と西松組が築いた。
 土木工事は、中国人、朝鮮人、連合国軍(英、豪、インドなど)捕虜が行った。亡くなった人は万人坑に捨てられた。
 労工追悼碑が万人坑のあった場所にある。碑文には、「2万3千人以上の労働者が使われ、工事終了時に生き残っていた人は1960人しかいなかった」とある。
056 碑のそばに当時の監獄跡がある。
 三亜東方の田独には田独鉱山がある。石原産業が軍と共に資源調査を行って採掘した鉄鉱石を八幡製鉄所に送った。
057 田独に戦後すぐ労働者が碑を建てた。「日寇時期受迫害死亡工友記念碑」と書かれている。その横に海南省人民政府と三亜市人民政府が建てた大きな碑がある。「朝鮮、印度、台湾、香港及び海南省各市県から連行され、労働させられて死んだ」と刻まれていた。
 三亜市北方に朝鮮村がある。ここは黎族の村だが、そこで朝鮮人1000人が殺害され、村人が朝鮮村と名付けた。
058 「南方派遣報国隊」(海南島では「朝鮮報国隊」)が連行された。それは、1943年から1944年にかけて朝鮮の囚人の1割にあたる2000人(治安維持法違反の政治犯を含む)を、刑期を短縮するとして海南島に送り込んだものだ。彼らは現地の人々から隔離されていたが、日本軍が虐待・殺害したことを人々は見ていた。その遺骨が発掘され始めている。
 朝鮮村に韓国の篤志家が碑を建てた。

香港

「3年8カ月」

059 1941年12月8日、日本軍は広東省から香港に侵入し、25日、英軍は降伏した。香港は大東亜共栄圏の最初の占領地となった。
 香港の某女性「日本軍は人を、網で魚を捕まえるようにさらって行った。」日本軍は、3年8カ月の占領期間に香港の人口を100万人減少させた。
060 「人口疎散政策」だ。大陸の郷里に強制的に帰還させられたり、海南島などに強制連行され、労働を強いられ、その地で飢えや病気、けがで亡くなったり、無人島に置き去りにされたり、連行途中で海中に抛り込まれたりした。
 英国はトーチカや塹壕建設を香港人に任せた。香港人が香港人を雇い、ピンハネをし、同胞が相憎み合うことになった。
 英国は、18キロに渡って酔酒湾防線(ジンドリンカーズライン)を築いた。この防衛線を突破されると九龍市内に突入される。
061 ロシア軍の旅順や日本軍の虎頭の塹壕の方が、ここの塹壕より壁が厚く頑丈にできていた。ここの塹壕は東洋のマジノ線と呼ばれたが、華奢だった。

*マジノ線とは、フランスがドイツ国境に築いた要塞線である。建設 1930--40、使用期間1935--1969

 ガイドの陳さんの父親は、日本軍に雇われ、馬の世話をし、金も米も貰え、母も田舎にいたので大した被害に会わなかったとのこと。

街に残る日本軍支配の跡

062 日本軍は香港島と九龍半島の南部を支配した。その周辺は抗日活動が盛んで、日本軍は新界など周辺地で虐殺事件を繰り返した。
 西貢は新界地区の東部にあり、交通の便が悪く、要害の地だった。そこに抗日英烈記念碑がある。烏蛟にも記念碑がある。
 西貢の碑は、1987年、抗日遊撃隊や地下工作者を追悼して建てられた。
 忠霊塔の跡地にマンションが建っている。忠霊塔は、標高355メートルの山上に、香港総督の磯谷廉介が造らせたものだ。香港市民に寄付を強要して工事を進めたが、資材不足のために未完成に終わり、解放後爆破された。
063 市街地にある千歳館跡は高級慰安所として使われ、銀行は総督府として使われた。駱克道に慰安区があり、大仏口に防空壕跡があり、立法議会は当時旧憲兵隊本部だった。旧憲兵隊本部は、当初は高等法院だった。壁面に弾痕が残っている。
064 憲兵隊は香港市民を生活の隅々まで監視し、法に基づかないリンチを行い、蛇蝎のごとく憎まれた。総督府と憲兵隊が香港を軍事支配した。

香港軍票問題

065 日本軍は香港市民に、香港ドルと軍用手票(軍票)との交換を強制し、香港ドルを隠し持っている人を殺した。戦争末期に軍票が濫発され、物価が高騰し、食料が不足し、餓死者が多く出た。軍票の裏側には日本円との兌換が可能だと明記されていたが、敗戦後、日本は、大蔵省声明で、軍票の無効を宣言し、使用を禁止した。香港市民は日本政府に交換を要求したが、日本政府は応じなかった。
 1993年、香港市民は裁判に訴えたが、2001年、敗訴に終わった。東京高裁控訴審判決2001.2.8。最高裁「戦争で損害を受けたが、賠償を受けることはできない」2001 8年間に及ぶ訴訟だった。
 毎年協会の人たちは日本大使館に賠償を求める書類を提出している。また2002年、中国の外交部部長が東京で訴えたが、日本政府は反応しない。
 香港市民の多くは難民を出自とし、金を大事にする。
 香港索償協会有限公司はその被害者だ。当協会の前主席の故呉溢興は「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」で証言した。私はその記録を呉の妻に見せた。また7歳の時湾仔に住んでいて、空襲に会った人とも話ができた。
066 軍政時代、香港の学校の多くが閉鎖され、子どもが避難し、憲兵を恐れて外出しなかったので、生徒数が11万人から2000人に激減した。
 香港では今でも嫌な日本人からはたくさん(タクシー)料金を取るとのことだ。

周縁での抵抗

 香港歴史博物館に「3年8カ月」のコーナーがあり、占領時代のフイルムの上映がされていたが、そのBGMは、日本の「ねんねんころりよ」の子守歌だった。
067 抗日組織の港九大隊の説明では、同大隊が、日本軍の情報を集め、陥落後の香港から、茅盾(ボウジュン)や夏衍(カエン)などの作家や、寥承志を脱出させたことを説明していた。
 茅盾は香港脱出記を書いている。また、女優の胡蝶は、憲兵の侮辱に憤り、香港を脱出して重慶に逃げ、蒋介石を喜ばせたが、日本の参謀本部はこれに激怒したとのことだ。
 港九大隊は、東江縦隊五個大隊の一つで、西貢と烏蛟騰で活躍した。
068 東江縦隊の8月15日のビラは以下のとおりである。
 「投降を勧告し、安全を保障する。ただし抵抗すれば死ぬことになる。日本人民が平和で民主的な新国家を作ること、新しい民主主義の政府を作ることを援助する。」
 隣接するランタオ島では、憲兵隊が8月19日に、四つの村を討伐し、村民を虐殺した
 当時の香港市民の生活も展示されていた。

上海淞滬(しょうこ)抗戦記念館

 上海の宝山臨江公園に上海淞滬抗戦記念館がある。中国では二度の上海事変を、淞滬戦争と呼ぶ。
069 正規戦の終了後も、浦東民衆武装決起が行われ、ゲリラ戦が展開された。淞滬五支隊(浦東、嘉定、崇明、南淮、青浦)とよばれる遊撃隊である。それに対抗して日本軍の三光作戦も行われた。日本軍が退くまでゲリラ戦とそれに対抗する三光作戦が続いた。
 
台湾

琉球藩民の墓へ

070 車城郷統埔村に琉球藩民の墓がある。

 1871年、宮古島の島民が沖縄に進貢して那覇から帰る途中、嵐に会って台湾南部の東岸に漂着し、台湾原住民である、牡丹社のパイワン族に助けられたが、疑心暗鬼になって逃げ出したところ、捕まって54人が首をはねられた。ただし、残りの12人は地元の漢族の有力者に助けられ、翌年那覇に帰れた。(牡丹社事件)

 このころ台湾では遭難外国船の乗組員が殺害されていた。台湾には「出草」という首狩りの習慣があり、狩った首を家のお守りとして飾った。日本の「異国船打ち払い令」も、「抵抗したらその場で殺して構わない」と命じていたのだから、これと同じようなものだ。

071 清朝政府は「台湾は化外の民、化外の地」として責任を回避した。
 1874年、西郷従道が率いる日本軍は、台湾南部に上陸し、石門で戦い、パイワン族を制圧したが、風土病で多数の兵隊が死んだ。西郷は「大日本琉球藩民五十四名墓」の碑を建てた。清国政府は、日本の台湾出兵は日本国民保護のための義挙であるとし、琉球が日本領であることを間接的に認めた。

 1879年、日本政府は軍隊と警察官を動員して首里城に乗り込み、琉球王尚泰を東京へ拉致し、琉球国を滅ぼし、沖縄県を置いた。

 碑の後ろに亀甲墓に似た墓がある。12名を助けた漢族の人たちが、散乱して首のない遺体を集めて埋葬して建てたものだ。碑の下の遭難者の名前を刻んだ墓石は、1927年、台湾在住の沖縄県人が造ったものだ。
 沖縄大学の又吉盛清らが遺族や関係者を探し、1979年、統埔村を訪問し、漢族の人々の子孫と交流した。

073 碑文の「大日本」の部分は、台湾の総統が交替するたびに埋めたり掘り出されたりした。

二二八事件

 高尾市立歴史博物館は、植民地時代には日本が造った市役所であったが、ここで二二八事件が起こった。
 1947年2月28日に台北市で発生し、その後台湾全土に広がった。
 1947年3月6日、ここに集められた高尾の指導者が全員殺害された。

 日本の敗戦後、蒋介石は台湾を接収し、台湾省を置いた。台湾の人々は祖国を歓呼の声で迎えた。しかし、国民党軍は士気と規律に欠けていて、台湾人は失望した。

 着任した陳儀行政官は、降伏式の後、台湾人の国籍を一方的に中華民国籍に変更し、台湾人を「本省人」、大陸から来た人を「外省人」と呼んだ。
074 政権のポストは外省人で占められ、官吏は腐敗し、物資が不足し、インフレが昂進し、本省人の不満が高まった。

 1947年2月27日、台北の街路で闇煙草を売っていた女性(夫は兵士で、日本に連れ去られていた。)から、煙草と売上金を暴力的に没収しようとした取締員に、群衆が怒ると、取締員は逃げ、威嚇射撃したところ、傍観していた青年に弾が当たり、彼は死亡した。
 2月28日、群衆が行政長官公署に集まり抗議したところ、憲兵が屋上から機関銃を発砲し、多数が死んだ。
075 放送でこの事件が台湾全土に知らされ、各地で政権に対する抗議活動が行われ、軍警との対立が深まった。
 本省人は、事件の「処理委員会」を設けて政治改革することを要求した。陳儀長官はいったんは同意したが、鎮圧のために密かに国民党増援部隊派遣を要請した。大陸から基隆に上陸した軍隊は道すがら一斉射撃し、基隆、台北、嘉義、高雄などで、1カ月に2万8千人が殺された。(国民政府発表)日本の教育を受けた台湾知識人を殺戮する意図があったと言われる。

 二二八事件やその2年後の戒厳令の施行(~1987年)、白色テロ(権力によるテロ)は、台湾の人々を苦しめた。

 インフラが整備され、近代化、資本主義化が始まり、豊かになって来た台湾社会と、外省人との格差、台湾のために戦ってやったのだという外省人のプライド、日本の奴隷化教育を受け、北京語に不慣れな本省人に対する蔑視などが事件の背景にあると言われている。
 陳儀から部隊派遣要請を受けた蒋介石が、「共産党の扇動が原因の一つ」と語ったように、冷戦の影響もあり、これは、朝鮮の4・3事件を想起させる。

076 二二八事件は台湾では長い間タブーだったが、民主化の進展の中で、事件の調査、犠牲者の復権、総統の公式謝罪、記念碑の建立などが行われた。しかし、長い間の秘密と証拠隠滅のため、真相は完全には明らかにされていない。

霧社事件

 台湾中部の霧社で、原住民が抗日蜂起した。
 1895年の下関条約締結後、日本の台湾征服戦争は困難を極めた。民衆とゲリラが一体となって抵抗をつづけ、台湾総督府は、無差別殺戮を行うとともに、帰順を装って一網打尽に殺害した。

 1915年、西来庵で95名を死刑にし、武力抵抗が終わったかの観があった。
 1919年、日本国内の民主主義的傾向を受けて、初めて文官の総督が着任し、台湾人は議会開設運動に転換したが、その時、霧社で事件が起きた。

077 1930年10月27日、霧社の公学校(台湾人児童が学ぶ学校)で、日本人・台湾人・原住民の合同運動会が行われたが、それを六つの社(集落)の青壮年が襲った。リーダーはマヘボ社のモーナ・ルダオだった。校長、教師、警察官、子ども、保護者など132人が殺害された。当時、原住民の村に配置された警察官は、村長であるとともに、医師や教師も兼ね、原住民の女性と関わり、恨みを買っていた。
 襲撃した人は、「漢人は殺すな、日本人だけを殺せ」と叫び、実際、日本人以外で殺されたのは二人だけで、一人はいつも原住民につらく当たっていた漢人の商店主であり、もう一人は、着物を着ていて日本人と間違われた子どもだったと言われている。
 襲撃した人は、多数の社に決起を呼び掛け、霧社から遠い順に警察署の電話線を切断し、襲撃後は奥山に逃げ、ゲリラ戦を行った。山間の急峻な地形のため、日本の警察と軍隊は大きな痛手を被った。日本側は2000人超の軍警と機関銃、大砲を用い、山地での白兵戦では、モーナ・ルダオたちと反目している社の人々を用いる、「蛮をもって蛮を制する」方法を用いた。

078 総督府は近代化政策に障害のある「出草」070という首狩りの風習を厳しく禁じたが、この時ばかりは、襲撃派の、頭目、青壮年、女子と分けて、首に懸賞金をかけた。また飛行機から毒ガスを投下したという。原住民は飛行機を「大きな鳥」と恐れていた。日本は毒ガス使用を否定しているが、台湾では使ったことが定説となっている。
 鎮圧に50日以上かかった。原住民は、兵糧攻め、寒さに苦しめられ、民族発祥伝説がある大木で、年寄りや女性、子どもたちが縊死した。モーナ・ルダオは山奥に消え、残った青年たちは絶望的な戦いを続けた後に自死した。投降した人々は、捕らえられた。また警察は、他社を唆して第二霧社事件を起こさせ、生き残った青年のほとんどが殺された。集団的絶滅である。

*第二霧社事件 1931年4月25日、蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者(保護蕃)を、タウツア社が襲撃し、216人が殺され、298人が生き残った。タウツア社の死者は1人だけであった。タウツア社はセデック族と対立し、味方蕃として日本に協力した。(ウイキペディア)

 生き残った少年たちが報復のために決起しようとしていたことを察知したあるおばあさんが「このままでは絶滅する、生きることはたやすくないが、子孫を繁栄させなければならない、お前たちの命が唯一の希望だ、生きろ」と諭し、彼らはその言葉を受け入れた。

 清朝、日本時代を通して差別された原住民は、一人前の日本人として認められたいと思い詰め、アジア太平洋戦争が始まると軍属に志願し、6000人が「高砂義勇隊」として前線に赴き、3000人が戦死した。

*これは韓国済州島の4・3事件とよく似ている。朝鮮戦争の時、極端な反共主義者になった、元反政府側の人たちがいた。

079 戴国輝は、客気(はっか)出身の台湾人作家である。かれは霧社事件関連の文献や資料を整理・保存した。彼は原住民を迫害した漢族だったが、事件当時の少年で生き残ったアウイヘッパハの言葉「霧社事件を知ることは、日本人の義務であり、日本人にとって有益なことだ」に関して次のように述べている。(省略)

*インドネシアの9・30事件 1965年9月30日、軍事クーデターが起こり、「赤狩り」と称してインドネシア全土で100万人が虐殺された。(ウイキペディア) 大虐殺の一例として本文で挙げられたもの。

080 記念碑がある。
081 モーナ・ルダオは日本に屈服させられ、同族を討伐させられ、日本見学を強要され、日本の強大さを思い知らされた。モーナ・ルダオは、蒋介石政権の時に英雄視された。

 戦う原住民像の後ろに、無名戦士の墓と「霧社山胞抗日起義紀念碑」がある。

台北の二二八平和記念館

082 山を下りると台北だ。記念館の建物は、かつて日本が建てた台北放送局だった。二二八事件の時、人々はここを占拠し、台湾全土に事件発生を知らせたが、鎮圧が始まると、政府側が、ここから投降を呼びかけた。
083 館内ガイドの張さんは1931年生まれの日本語世代で、「1945年の解放の時は中学生だった。祖国の軍隊を歓迎したが、装備も悪く質も低い。規律を守らず、買い物をしても金を払わない。役人は賄賂をもらい、法律を執行せず、社会秩序が乱れた。国民政府は様々な物を専売にし、利益を上げた。」と言った。
 張さんは事件の時、台北近郊に住んでいた。早朝、橋の下で逮捕者が軍の車から降ろされ、撃たれたのを見た。
084 (馬場町河賓)公園の入口に二二八事件の勃発を報じた放送台が残っている。ラジオ放送は総督府が整備した。人々はラジオで事件の発生を知り、抗議行動、武装闘争、処理活動に立ち上がった。

陳明忠さんと馮守娥さん

 陳明忠さんと馮守娥さんは、二二八事件の幸存者である。彼らは夫婦である。馬場町河濱公園は、白色テロの時代に、台湾の青年知識層が処刑された場所だ。
 陳明忠は1929年生まれ、馮守娥は1930年生まれである。

 陳明忠の話。
 私は本省人である。公学校で日本式の教育を受けた。中学校で差別され、自分が日本人でないことに気づいた。祖国中国を美化した時もあったが、戦後やって来た祖国に失望した。二二八事件の時銃をとって戦い、逮捕された。軍の施設で、後に妻となる馮守娥の兄さんと出会い、彼が処刑されるのを見た。私は10年の刑を受け、政治犯収容所である緑島*に送られ、激しい労働を強いられた。出獄後中学校で教え、馮守娥と結婚し、山之内製薬の社員となったが、政治活動に参加してまた逮捕され、拷問を受けた。アメリカの世論に訴える救援活動のおかげで死刑をまぬかれ、15年の刑を受けた。同房の人で気が狂った人もいた。体を壊して仮釈放となったが、獄中生活は合計21年になった。
 陳さんは台湾最後の死刑囚であった。*緑島は台湾南東方向にある島である。

086 馮守娥さんは1930年生まれ、当事者でもあり、受難者の遺族でもあり、逮捕者の家族でもある。彼女の話は次の通りだ。
 光復(1945.8.15)後の自由な雰囲気の中で読書会に入り勉強した。1950年、逮捕された。兄も逮捕され、馬場町で処刑された。駅に書かれた公告でそれを知り、父は馬場町の溝の中から兄の遺体を引き上げた。私は10年の刑を受け、台北から緑島に移送された。母は最後の面会から一週間後に亡くなった。出獄して5年後に結婚した。夫が逮捕され、死刑になりそうになった時、友人や親戚、日本人に助けられ、15年の刑にすることができた。戒厳令解除後、犠牲者の追悼会が開かれ、それに参列した。1997年から平和と人権の集まりを開いている。

 烏来の公園は、原住民出身の日本軍兵士(当時「高砂義勇隊」と呼ばれた)を記念する。褌に上っ張りを着用し、槍を持ち番刀を携えている。石碑には、日本式姓名、族名、部落名、殉職日、遺族代表名が刻まれている。
087 1942年、本省人に陸軍志願兵制度が実施され、第一回の募集に42万人の若者が応募した。志願を願い、認めた血書も残っている。沖縄戦でも少年少女に皇民化教育が徹底された。本省人、原住民の日本兵・軍属は、20万7183名にのぼり、そのうち3万304人が戦死した。(厚生省発表)
 戦争終結後、彼らは日本のために戦ったことで白眼視され、彼らは沈黙した。
 民主化が進み、言論の自由が認められ始め、尊厳回復のために補償を求める運動が日本の国会を動かし、1982年、死傷者に対して一人200万円の弔慰金が支払われ、日本政府はそれをもって解決したとした。しかし、この人たちの献身を認めても、志願せざるを得なかった状況を作り出したことへの反省はいまだになされていない。

 戒厳時期政治受難者紀念公園は六張犂にある。碑の裏に200余名の墓がある。国民党政府に反対する党に参加したり、その党費を払ったりしただけで死刑にされた。足枷をされたまま埋葬された人もいた。
088 墓は、1993年の発掘当時のままにされていて荒れていた。犠牲者の中には大陸から来た人もいた。両岸関係の悪さから、引き取り手のない遺骨もある。
 陳明忠さんと馮守娥さんが、安息歌(追悼歌)を歌った。

無錫・上海

許巷惨案

090 許巷は無錫市にある。無錫市は上海と南京の間にある。ここで村人が虐殺された。ここは水路で囲まれ、昔から外敵から守られていた。土地の有力者の一族の中に日本に留学した人がいて、村人はその人の「日本人はひどいことはしない」という言葉を信じていた。
091 1937年11月23日から24日にかけて、日本軍第19師団第20連隊が許巷を侵略した。この2日間で223人の村人を殺害し、19人を強姦した。建物を94軒、食料の山を34個焼いた。
 1991年、許巷虐殺事件発生現場に碑が建てられ、1995年、犠牲者となった人々を追悼するための同胞紀念碑が建立され、2007年、紀念館が開館した。

 幸存者の許玄租の証言。
 「1937年、旧暦の10月、日本軍は一軒一軒ドアを銃剣で刺し、鉄砲を撃った。父は外に連れ出され、射殺された。自分は母の乳を飲んでいたが、日本兵は母を7、8回銃剣で刺した。自分も唇を斬られ、肩も刺された。母は死んだ。自分は血の中にうつ伏せになり、一晩を一人で過ごした。翌朝、祖父母が避難先から戻ってきて助けられた。
092 私は見つかった時、呼吸がなかった。目は細菌に感染したのか、1週間後に失明した。祖父母が死に、孤児になったが、父と兄とその妻が育ててくれた。これらのことは10歳ぐらいの時、村人や伯父夫妻から聞いた。恨みは持っているが、仕方がない。庶民を殺すのはいけない。女性を強姦し、殺すのはいけない。」

 許巷とは別の、華庄岸で起こった長善坊惨案の現場に碑がある。ここで民間人80人が殺され、家屋が68軒と刈り入れされたたくさんの籾が焼かれた。

上海

093 上海は小さな漁村だったが、アヘン戦争後、英・米共同の租界と、フランスの租界が置かれた。租界は治外法権を認められ、帝国主義列強による侵略の根拠地となった。欧米資本は、電気・水道・ガス・金融・紡績業に進出し、租界の外国人は優雅な生活をした。日本は条約上は租界を築かなかったが、強引に虹口地区に日本租界を形成した。
 産業の発達は労働者を増やし、上海では労働運動・革命運動が盛んになった。5・4運動、5・30事件*で、運動は高揚し、蒋介石の北伐軍に呼応して上海の労働者が蜂起し、市民政府を樹立した。しかし、蒋介石は反共クーデターを起こし、労働者を殺害し、上海ではその後白色テロが支配した。租界では言論出版の自由がかろうじて保たれ、文学者が活躍した。魯迅もその一人だ。魯迅は国民党政府の手を逃れながら、文筆活動を続けた。

*5・30事件 1925年5月30日、上海のデモに向けて上海共同租界警察が発砲し、学生・労働者13人が死んだ。その後の反帝国主義運動を5・30運動という。

 1931年の満州事変に抗して上海で抗日運動が起きた。1932年、日本は、第一次上海事変を起こしてこれを鎮圧した。
094 この時、日本人上海居留民は恐怖心から、「便衣隊狩り」の名の下に、中国人を捕まえて陸戦隊に引き渡したり、監禁して処刑したりした。関東大震災時の中国人・朝鮮人虐殺の再来である。
 重光葵公使「彼ら(日本人)の行動は…あたかも大地震当時の自警団の、朝鮮人に対する態度と同様なるものあり、支那人にして便衣隊の嫌疑をもって処刑せられたるもの、すでに数百に達せるもののごとく」と書いている。
 1937年7月7日から始まった日中戦争は、華北から上海に飛び火し、1937年8月、第二次上海事変が始まった。茅盾の『第二章』は、この戦闘を上海市民の立場から描いたものだ。
 松井岩根は、上海派遣軍の司令官となり、8月23日、呉淞地区から上陸した。3カ月で日本軍戦死者1万名、戦傷者3万名となった。これは日露戦争での旅順攻防戦や、台湾征服戦争と並ぶ犠牲者数である
 11月5日、日本軍は杭州湾金山衛から上陸し、中国軍を挟み撃ちにし、中国軍は南京に撤退し、欧米の租界を除く上海が陥落した。1941年12月まで、上海の租界は、日本軍に抵抗する孤島のような一拠点となった。

金山衛

095 杭州湾に「金山衛日軍登陸地点」の碑がある。そこは記念公園となっている。金山衛はもともと倭寇からの防衛のために城が築かれたところだ。その城門が復元され、それが公園の正面になっている。
 1937年陰暦の10月3日、金山衛に上陸した日本軍は、1015人の村人を殺害した。倒れた母親の腕を持って引き起こそうとする女の子、母親の膝の上に小さな男の子の遺骸がある人物像が置かれている。「悲天憫人」という題名である。
096 金山衛での虐殺現場は、何か所かある。日本軍が家を焼き、殺害し、強姦した挙句、村人の遺体を池に投げ込んだ「殺人池」があり、そこに石碑がある。3歳の幼児や妊婦、年寄りもその池に投げ込まれた。

魯迅を訪ねて

099 上海に魯迅記念館がある。1936年の全国木刻巡回展覧会の会場で沙飛が撮影した写真をもとにして造られた人形が展示されている。
100 1931年の「一八芸社習作展覧会」に、魯迅は、青年に期待を寄せる一文を寄せている。
101 曹白は、ロシア人文学者をモデルにして木刻作品を作ったため、国民党政府に逮捕・投獄され、展覧会での魯迅像の展示を禁止された。魯迅はそのことを随筆『深夜に記す』の中で告発した。逮捕された若い労働者が指の一本一本に針を刺される拷問を受けたことを、曹白は魯迅に伝えていた。
102 東亜同文書院の日本の若者が魯迅の葬儀に参列したとき、中国の若者から「帝国主義」と罵声を浴びせられたが、彼らはそれに怒らず、むしろそれに共感したとのことだ。
 魯迅の故居は、日本人が多く住んだ紅口区にある。魯迅の妻は許広平である。故居の2階には日本人の秋田義一が描いた「海嬰、生まれてから16日目の像」がかかっている。
103 海嬰は、魯迅の息子である。
 3階には日本人の宇留河泰呂が描いた「逆立ちする雑技の娘」がかけられている。
 故居から200メートルのところに内山書店跡がある。店主は内山完造で、書店は作家の交流の場となった。内山はスパイの嫌疑をかけられたが、魯迅を助けた。
104 書店跡は今は銀行となっている。そこに魯迅と内山が並んだ肖像がある。また2階に、上海事変の時に魯迅が避難した部屋が再現されている。
 魯迅の作品には、『故郷』『阿Q正伝』『藤野先生』『一件小事』などがある。『一件小事』は、老百姓に対する魯迅の畏れと自戒の念が語られていて、中国の人に愛読されている。
105 内山書店の近くに上海海軍特別陸戦隊本部跡がある。そこは日本海軍の牙城であった。

中国「慰安婦」問題研究センター

106 上海師範大学に、中国「慰安婦」問題研究センターがある。ここは1999年、中国で初めて「慰安婦」問題を調査・研究するためにつくられた。「慰安婦」問題に関する会議を主催し、元「慰安婦」に経済的支援をしている。紹介パンフレットには「一日も早く日本政府が全世界の『従軍慰安婦』という制度の被害者に深く謝り、賠償を行うように期待しよう」とある。
 上海師範大学教授の蘇智良が中心となって、当センターを設立した。彼は東大に留学中に「慰安婦」関係の資料を初めて見て、古文書館を見て回り、中国の慰安所の調査を行った。蘇は「ソウルの8月13日の『慰安婦』記念の世界的活動の一環としての集会は、反日ではない」と言った。また、「吉林で発見された関東軍憲兵に関する資料に、『慰安所をつくらせた』という送金記録がある」とも言った。敗戦間際、日本軍は書類を焼却していたが、ソ連軍の侵攻に会い、穴を掘って埋めたものが、工事中に発掘されたもので、10万ページに上る。
107 「ジュネーブで『慰安婦』の実態を訴えるつもり」だとも言った。

 大場鎮江湾鎮との間に要塞が築かれ、それは中国のヒンデンブルク・ラインと呼ばれた。大場鎮激戦地となった。
108 閘北地区八字橋も戦場となった。林京子の『耕地』に八字橋が出てくる。八字橋で兵士が頭蓋骨をサッカーボールだと言って子供に放り投げると、子どもは「八路軍のだ」と言って騒ぎ、ぶっつけ合って遊ぶ。頭蓋骨は日本兵のものであったかもしれないし、八路軍もまた人間であったことに思い至らないのだ。

 旅の別れ際に「中日両国人民世々代々友好下去」(日中両国の人はこれからもずっとなかよくしていきましょう)と団員が戴さんに感激しながら言った。

広州

広州に残る空襲跡

111 広州は欧米の援蒋物資の80%が通過した。日本軍は漢口*攻撃と並行して、1938年10月12日、広州東方のバイアス湾から上陸した。 *漢口は武漢の一部。
 広東攻撃に従軍した火野葦平は『広東進軍抄』を著し、「炎天下を行軍する兵の中には、突然倒れて息を引き取るものもいた」と書いている。広東は北回帰線が通る。
112 ブーゲンビリアは厦門市の花で、広州市の花は真っ赤な花をつける木綿だ。
 石馬桃花公園に旧日本軍のトーチカがある。
 官庁街だった黄華路に、空襲犠牲者の追悼碑がある。国民党時代の1946年に建立され、住民によって追悼式が行われた。碑には「血涙酒黄華」と刻まれ、裏に、広州陥落前の「1938年5月2日と13日の午後、2度の空襲で100余人が亡くなった」と書かれていた。
113 市民に対する無差別爆撃を最初に行ったのは日本である。戦争遂行能力を叩くとともに、戦意を喪失させることが狙いだった。
 海軍の記録によると、中国への爆撃にほぼ毎日出撃している。来るべきアメリカとの「最終戦争」*に備えて戦闘機・爆撃機の訓練を中国で行ったと言える。 *石原莞爾の論文に「最終戦争論」がある。

 無差別爆撃は国際的な非難を浴びた。ピカソは日本の中国爆撃をもとに「ゲルニカ」を描いた。当時パリで万国博覧会が開かれていて、いっそう反響が大きかった。駐日アメリカ大使のグルーは、外相広田広毅に、本国の怒りを伝えた。それに対して、日本は無差別爆撃と非戦闘員殺害を否認した。国際連盟の非難決議に対しても、一般市民と軍事施設が混在しているから仕方がないとした。ルーズベルト大統領は「他国の内政に干渉し、あるいは他国の領土に侵入することにより、世界の秩序及び国際法を破壊しつつある。正当な理由もなく婦女子を含む非戦闘員を空爆により無慈悲に殺害しつつある状態である」と非難した。
115 珠江は華南を代表する大河である。

朝の散策

 沙面には租界の建物が多く残っている。
116 沙面に向かう途中に碑があった。「母忘此日」(この日を忘れることなかれ)と刻まれ、「中華民国14年6月23日」とある。中華民国14年は、1925年、5・30事件の年である。この碑は「沙基惨案烈士記念碑」で、沙基事件(六二三事件*)を記念するものだった。

*六二三事件 1925年6月23日、沙基通りで行われた10万人の反英デモ隊に、対岸の沙面に駐屯していた英仏軍が発砲した。52人が死亡し、170人余が負傷した。このデモは、上海の5・30の労働運動に呼応したものである。(ウイキペディア)

 1925年、上海の日華紡(日系紡績会社)で働く中国人労働者が待遇改善を求めて行ったストライキに対して、工場側が発砲し、1人を殺害した。5月30日に抗議デモが起こり、租界のイギリスと日本の警察が発砲し、多くの学生・労働者を射殺した。(死者13人、40人余の負傷者を出した。ウイキペディア)これをきっかけに上海全域でゼネストが決行され、反帝国主義運動が各地に広がった。(5・30運動)この時香港と広州の港が封鎖され、6月23日に、広州の沙基に集まった10万人の反英デモに対し、沙面から英仏軍が発砲し、52人を殺害した。この碑は珠江沿いにある。 

波8604部隊

117 波8604部隊は、広東における日本軍の細菌戦部隊である。広州には香港関連の戦争跡地がある。
 香港から本土に難民として追い出された人たちがいた。彼らは傀儡広東省政府によって収容所に入れられ、一日にお粥一杯だけが与えられるだけだった。しかもお粥の中にサルモネラ菌などを入れられ、次々と殺害された。「籠の鳥は高くは飛べない、味付けがゆを喰わなきゃ空きっ腹、食えば食ったで腹痛み、病気になっても薬はない、死んだら最後、骨まで溶かす池に放り込まれる。」これは当時収容所内ではやった歌だそうだ。
 追悼碑があった。碑の表に「侵華日軍の細菌武器の下で亡くなった無辜の人々 粤(えつ)港難民の墓 1995年7月20日建立」とある。粤は広東、港は香港の意である。裏面には次のように刻まれていた。

「この付近1キロ辺りには、数千体の無辜の人々の遺体が埋められている。彼らには残す名もない。1942年、広州南石頭の収容所で、数千人の、香港と広東の難民が、日本侵略軍に秘密裡に殺害された。彼らは細菌武器がもとで亡くなった。この軍隊の名は波8604部隊という。この痛ましい歴史は、半世紀の間覆い隠されていたが、1994年、ついに明るみに出された。20世紀の歴史の悲劇を繰り返さないために、世界反ファシズム戦争と中国抗日戦争勝利50周年に当たり、特にこの碑を建て、永久に記念する。」

118 碑は広州製紙会社の敷地のはずれ、アパートが並ぶ一角にある。ここに遺棄された遺体が埋められた。日本軍は難民の処遇に窮して殺害した。初めは遺体を縦5メートル、横20メートル、深さ5メートルのコンクリート製の「池」に入れ、薬品を投入して溶かした。「化骨池」である。池は二つ造られ、蓋を取るとき大変な臭いがしたとのことだ。やがてその池もいっぱいになり、そのまま遺棄したとのことだ。

119 広州製紙工場の管理係だった人が、1950年代、職員住宅の建設時、この付近を50センチも掘ると沢山の白骨が出たと証言した。遺骨は何層にも重なり、長い間野晒しになった後に埋められたようで、骨はボロボロだったとのことだ。
 1980年代の工事の際、1メートルほど掘り下げたところから100体余りの遺骨が数組発掘された。すべてばらばらで、何体か数えようがなかった。当時は真相を究明する方法がなく、工場が費用を出して、遺骨を別の場所に埋葬して終わった。
 
 牛山公園には、清朝末期のアヘン戦争のころ林則徐が建設した砲台が7基ある。ここの万人坑は、長さ100メートル余、幅と深さが3メートルの溝穴である。広州陥落後、日本軍憲兵隊が中国人を殺害する刑場としてこれをつくり、広州や近郊から捕まえてきた抗日戦士と無辜の群衆を銃殺し、その遺骨をここに埋めた。
 1984年の工事の際、遺骨が発掘された。多くは首を斬られていた。

120 中山医科大学の図書館は、難民を殺害した波8604部隊の本部跡である。日本軍は1938年10月22日の広東占領後、ここに中国で4番目の細菌部隊「波8604部隊」を置いた。闇に葬られていたこの部隊について、広東省社会科学院歴史研究所の沙東迅さんが、聞き取りと研究を重ね、その罪行を明るみに出した。
 細菌戦部隊分隊長だった丸山茂は同じころ、日本で行われていた「731部隊展」を見てショックを受け、「他国を侵略するような事態を繰り返さないために、何度も考えた上で、『香港難民を大量に虐殺した細菌戦』のことを明るみに出す決心をして」そのことを語ったが、これは、沙東迅さんの調査を裏付けた。日本側の研究でも、陸上自衛隊衛生学校編集の、旧陸軍衛生史関係の資料の中に、沙さんの調査内容と一致する証言が見つかっている。
 沙さんは、被害者が勇気をもって告発することを希望し、行政、研究者、マスメディアに呼び掛けた。「粤港難民の墓」は、彼の働きの結果建てられたものである。
 部隊の総務課が置かれていた図書館の壁に、広州市人民政府が1997年に「侵華日軍細菌戦広州大本営旧址」と刻んだプレートを設置した。

孫中山記念館

 孫中山記念館は、広州市の南の中山市にある。翠亨村は、孫文の生まれ故郷である。そこに民族展覧館がある。100年前の中・上流の民家がある。

122 魯迅は広州大学(現・中山大学)で教えたことがある。大学の時計台「大鐘楼」に住んでいて、そこが魯迅記念館となっている。魯迅は『鐘楼にて 夜記の2』のなかで、広州について書いている。蒋介石の上海クーデターが起こり、魯迅の教え子が逮捕され、魯迅は半年間広州にいただけで、抗議辞職して広州を去った。

 孫中山記念館には孫文の立像がある。
123 中国人が黒人奴隷に代わって売買されるようになる苦難の時代、第一次アヘン戦争や太平天国の動乱のころ、孫文は生まれた。ハワイで成功して大農場主になった兄を頼って12歳の時にホノルルに渡った。香港時代、マカオ時代を経て、広州博済医院勤務の頃、男子が産科の実習に参加できないという規定を撤廃して、最も早く産婦人科に接触した男性医師となった。1894年、ホノルルで興中会を結成し、1900年から、後に国旗となる青天白日旗を軍旗に掲げ、起義と亡命の日々を送った。1911年に辛亥革命が起こり、孫文は大総統に就任し、中華民国が成立し、封建帝政を終わらせた。
 1915年、宗慶齢と結婚した。孫文が踏み切った国共合作の中央執行委員会の名簿には、毛沢東の名も載っている。孫文の死後、合作が崩壊し、血みどろの内戦が始まった。

三灶島(さんそうとう)惨案

124 珠海市は珠江デルタの東岸にあり、150近くの島がある。すぐ南がマカオだ。1980年代に経済特区に指定された。
 日本軍は珠海の島の一つである三灶島に飛行場を建設した。山奥にトーチカがあり、「慰安所」や兵舎もあった。三光作戦も行った。
 「三灶島三・一三死難同胞記念碑」がある広場の門に「悲恨長天」「日偽凶狂血酒人間千載墳」「中華抗暴気貫山河万古存」と書かれている。その説明板に書かれた文章は以下の通りだ。
126 「三灶島侵華日軍罪行遺迹(万人坑遺迹) 七・七事変(盧溝橋事件)後の1938年2月16日、日本軍6000人余りが蓮塘湾に上陸し、飛行場を建設して、三灶島を華南侵略の基地とし、軍事上の必要から大虐殺を行った。旧暦3月12日、魚弄村の366人を射殺、13日、上表村、定家湾など36の村と164艘の船を焼き払い、強姦、児童殺害、絶滅の三光作戦を行った。14日に、2000人余りの老若男女を捕まえて殴打・殺害し、わずか3日間で焦土と化し、遺体が野を覆った。8年間に2991人が殺され、3500人が餓死した。日本が投降後、逃亡していた人々が遺骨を集めて、万人坑を築いた。1948年、華僑が墓をつくった。三灶島万人坑は、日本の侵略の鉄の証である。2013年、国務院全国重点文物保護単位とする。」

127 追悼碑には「三灶島三・一三死難同胞記念碑」と刻んである。碑の後ろに亀甲墓のようなお墓があった。

三灶島での侵略の跡

 に慰安所跡があった。碑の表に「三灶島侵華日軍罪行遺迹 2013年指定」とあり、裏に「三灶島を侵略した日本軍は、ここにも慰安所を開き、朝鮮・台湾・東南アジアから拉致した女性たちを「慰安婦」として働かせた」とある。
128 上表村では虐殺事件もあった。小山に日本軍のトーチカがある。
129 そのトーチカに説明板がある。「三灶島侵華日軍罪行遺跡 (轎頂山侵華日軍トーチカ)1939年に築く。1938年1月17日、日本軍は三灶島に上陸、華南侵略の基地とした。軍用飛行場を建設、それを強固にするためにトーチカを築く。2013年、国務院が重要文物保護施設とした。」
 ここは軍用飛行場があった現在の珠海飛行場を見下ろす位置にある。
 神社、司令部、学校の跡もあった。
 蓮糖村西路に、日本軍第6航空隊司令部跡がある。そこは裕福な住人の家を接収したものだ。その近くに興亜第二国民学校(現・海澄小学校)がある。校庭の隅に石造りの円柱がある。それは祠の鳥居の跡だった。
130 1938年、日本軍は三光作戦で支配し、島民の学校を建設し、奴隷化教育を行った。毎週神社に子供をお参りに連れて行った。神社は島の中央の丘の上にあったとのこと。
 島の中央の第一国民学校が沖縄移民の子供の学校であったが、興亜第二国民学校は、帰順させた島民の子どもの学校であった。
 三灶島惨案のドキュメンタリーが、当地の高校の教師によってつくられた。

三灶島と沖縄

131 三灶島は日本海軍が海外に造った最初の航空基地(第六航空基地)だった。1938年2月、海軍陸戦隊は三灶島に上陸し、基地部隊は、連行した労働者や住民を使って滑走路と付属施設をつくり、その後彼らを殺害した。鹿児島の鹿屋や台湾の高雄で編成された航空隊がここに進出し、華南を攻撃した。三光作戦や避難後の餓死によって、1万2千人の島民は、2000人足らずになった。逃れてゲリラ闘争をする人々に対して爆撃と掃蕩作戦を行った。指揮官発行の「三灶島特報」には、島の裏山に掃蕩を免れた島民が逃げ込んでいるとか、北部の山中に逃れたものを時々掃蕩しているとか、逃走の女を処分したとか書かれている。

 この島への沖縄からの移民団は、食料増産のためだった。『名護市史』には以下のとおり書かれている。
 「1939年9月26日、那覇で〇〇島行きの農業移民の壮行会が開かれた。移民は南方開発挺身隊員と呼ばれた。第一次は50名、翌年1940年5月に家族を呼び寄せ、計248人となった。1941年、第二次の戸主45人が出発し、1943年に家族を呼び寄せた。」
132 三灶島では当時抗日ゲリラが続いていたが、移民する人たちにはそれが知らされず、新聞は「南方進出の国策に副う沖縄県民の新たな発展地取得」「沖縄移民政策の画期的政策」と喧伝した。県の視察団の一人は「全くの沃野で、全く住民がいなくなってしまったから、50家族ぐらい行けば、最も適当な耕地が得られる」と語っている。支度金25円が支給され、水田2町歩に畑5反歩、農具や家畜購入のための補助金も提供という条件に、移民申し込みが殺到した。永住覚悟で家も土地も処分した人がたくさんいた。
 開拓団は島民がいなくなった家屋をそのまま用いた。島民は「壊れた家を使っていたが、自然に壊れたというより、壊された感じだった」と言っている。また「壊れた家の中に、白骨化した中国人の死体があった」「草むらに、首を斬られた中国人と思われる頭蓋骨が山積みされていたのを忘れることができない」という証言もある。
 開拓団は軍属扱いで、ある人は「農業生産して軍に収めるという話だったが、最初は実弾射撃の練習、兵隊の訓練だった。」「昼は食料生産、夜は毎日交替で、夜間警備だった」と語った。全家屋に銃が常備されていた。
 1940年、日米開戦に向けて、中国にいた主な航空隊は日本に帰り、三灶島の航空隊も半減し、飛行場はほとんど使われなくなるが、開拓団は送り込まれた。そこの働き手が軍隊に現地召集され、戦死した例もある。これは満州と同様だった。

133 台湾にも植民地化のために、沖縄から警察官が送り込まれた。1879年、琉球王国を亡ぼし、沖縄県を設置し、初めて植民地を手にしたと言える。三灶島への移民は、その延長線上にある。

雲南

雲南へ

134 保山*へ向かう。このルートは、ヒマラヤを越えカルカッタ(コルカタ)と雲南とを結ぶ空の援蒋ルートだ。こぶの山が連なることからハンプ航路と言われる。

*グーグルマップによれば、保山は保山市で、保山市の中に騰越鎮がある。騰越の南に龍陵があり、昆明は騰越の東にある。騰越の西にビルマのミッチーナがある。マンダレーはミッチーナの南方、保山の南西方向にある。保山市を南北に怒江が流れる。保山市の中心部は、怒江の東方にある。拉孟は昆明の東南東方向にあるが、本文の説明に合致していないようにおもわれるが、どうか。本文の説明によれば、拉孟は、怒江の西側138・真上になければならない。
150頁の説明では、龍陵の東に拉孟があり、西に騰越があるとしており、上記の記述とは矛盾する。拉孟が東にあるのはいいとしても、騰越は龍陵の西ではなく、北にあるはずなのだが。

ミッチーナ    騰越鎮 高     ダーリー
             黎           昆明
             山 怒  保山市
             脈 江

          龍陵 拉孟
          (司令部)

135 日本軍は保山をたびたび空爆した。1942年5月4日、5日、学校で運動会が行われているところを日本軍機と知らず、機銃掃射され、1万人の犠牲者を出した。神戸市は1945年3月17日と、6月5日、米軍により無差別爆撃を受けが、それと同じだ。

ビルマ・雲南戦線

 米英ソは、日本による中国独占を警戒し、重慶に退いた蒋介石政権に物資で援助した。援蒋ルートは、香港から広東へのルート、仏領インドシナからの雲南鉄道ルート、ソ連からの西北ルート、そしてビルマ、雲南を通るビルマルートがあった。
136 他のルートが切断される中、ビルマのラングーンからマンダレー、保山、昆明に至るビルマルートは蒋介石にとって命綱となった。
 1942年1月、日本軍はビルマに侵攻し、雲南西部に軍を進め、ビルマルートを遮断し、要所に守備隊を置いた。
 ビルマルートを奪われた後、ハンプ航路により物資が輸送されたが、空輸のために量は限られていた。
 中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官のスティルウェルは、インドのレドからビルマのミッチーナ、雲南の龍陵を経て、保山、昆明に至る第二のビルマルート、レド公路を建設し始めた。疲労と風土病で犠牲者が多く出た。総延長1736キロのレド公路は、1945年1月開通した。スティルウェル公路、東京公路とも呼ばれた。

 1943年11月、米中連合軍は、ビルマ奪回作戦を開始し、それは雲南戦に至る。雲南の西で行われたので、滇西(てんせい)抗戦と呼ぶ。
 米中連合軍は、新編中国軍雲南遠征軍で構成され、前者はインドで、後者は雲南で、スティルウェルの方針で訓練を受け、米式装備を持ち、強力だった。スティルウェルは西と東から日本軍を挟み撃ちし、中国から日本を駆逐することを考えていた。
137 日本軍はビルマ北部で新編中国軍と戦い、緒戦は勝利したが、敗退した。ビルマルートに置かれた日本の各守備隊も、数十倍規模の雲南遠征軍に包囲される。日本軍は補給も届かず、援軍も来ず、撤退も許されず、全滅した。これが拉孟、騰越守備隊である。
 このころ、サイパン、グアム、テニアンで日本軍は全滅していく。島嶼では、孤立していて撤退の余地がないが、撤退可能な陸地での全滅は、戦史上珍しいと言われる。一方、中国軍民の犠牲者数は、日本軍の犠牲者数の数倍であった。

拉孟

 拉孟戦は中国では松山戦と言われる。「日本からの慰霊団がここに来るが、煙草、清酒などを供え供養することは固くお断りします。草木、石、一つも取ってはならない」と戴さんに言われた。政府の政策とのこと。
138 高黎(れい)貢山脈*の道はアスファルト舗装されているが、断崖、倒木、斜面の崩落がある。ろばや水牛の群れを追う家族連れに出会う。

高黎(れい)貢山脈は、怒江のすぐ西を北から南に走る山脈で、保山市の西方で標高が次第に低くなる。

 日本軍はラングーン占領の2カ月後、1942年5月5日、2000メートルの高地の拉孟を占領した。拉孟は、怒江を1000メートル下に見下ろし、恵通橋を渡り保山へ通じる要衝で、東方のジブラルタルとアメリカの軍事家が評した。中国軍は怒江にかかる橋を落とし、退却し、怒江を挟んで日中両軍が陣地を築き、対峙した。西側が日本軍、東側が中国軍である。日本軍は2年間の間に陣地を構築した。
 1944年5月、米中連合の雲南遠征軍の反攻が始まった。ルーズベルトは、日本軍が北京から広東に至る鉄道を確保し、沿線の米空軍基地を破壊しようとする大陸打通作戦に対して、蒋介石が自軍の動員を渋るのを、催促して雲南遠征軍を進撃させた。5月11日衛立煌将軍に率いられた雲南遠征軍7万2000名は、米軍の補給と将校の助言を受けながら、怒江を渡った。対する日本の拉孟守備隊は1200名余。その中には歩兵、砲兵と、通常はあまり実戦に参加しない輜重兵、衛生兵、防疫給水部の兵士、そして傷病兵で動けるものも含まれていた。ビルマルートを守る他の各守備隊も、数百、数千人規模に過ぎなかった。拉孟に限らず、渡河できるところは300キロに渡り、そこを1万1000人の兵士で日本は守っていた。
139 6月2日、遠征軍が砲撃を開始した。渡河した遠征軍は、拉孟と、司令部を置く龍陵との間に進出した。拉孟は1週間後に孤立した。初めは攻撃を阻止していたが、陣地が次々に落とされた。数回、飛行機による決死の補給で弾薬が届いたが、それだけでは不足だった。それに対して遠征軍は、一日に数千発の砲弾を撃ち込み、突撃を繰り返した。日本側の拉孟は、弾薬が尽き、雨と砲撃で崩れ落ちる陣地にこもり、中国兵の投げる手りゅう弾を拾って投げ返したり、挺身切り込み隊を組織して夜襲をかけ、白兵戦をしたりするくらいしか手段がなかった。
 7月27日、28日、司令官たちから感状が打電される。感状は、軍功をたたえ、名誉あるものだ。書類の焼却命令も出される。全滅は必然と考えられていたのだ。
140 8月29日、守備隊本部を置く陣地が奪われ、9月5日、守備隊長は訣別電報を打ち、文書を焼却し、無線機を破壊した。9月7日、150メートル四方の陣地に追い詰められた数十名は、敵中に突入し、全員死亡した。その直前、連隊本部への報告を命じられた木下正巳中尉が、兵2名を連れて脱出した。拉孟戦の様子が分かるのは、彼が生き延びたからだ。

松山陣地 (松山秀治大佐の名をとって松山陣地というらしいが、中国語版のウイキペディアには、松山大佐が出てくるが、日本語版のウイキペディアには、松山大佐の項目がない。)

 拉孟にビルマルート構築記念碑、慰安所跡、野戦病院がある。
 松山陣地の入口に「松山主峰」の碑がある。その前の古木に「弾痕累々的見証樹」と書かれたプレートが付いている。
142 池、湧き水、井戸水は乾季に渇水し、搬水班が背負い袋を担ぎ、往復数時間かけて川から水を運んだ。後に、トラックの部品で揚水ポンプをつくり、3キロの水道管をつくったが、攻防戦で破壊されてからは、砲弾跡に溜まった雨水を飲んだ。

 2012年、陣地をめぐるための板張りの登山道が完成した。傾斜60~70度のところもある。日本軍の塹壕が斜面にある。塹壕と塹壕を結ぶ交通壕、弾薬保管場所、説明のための看板などがある。これらのことは、日本兵が残した陣中日誌などを手掛かりにした記録や、国民党の将軍で、台湾に逃れた人の回顧録などを参考にして判明した。
144 守備隊は「拉孟の陣地は我々の墓場である。今流す汗の一滴は、敵の反攻時の血の一滴である」を合言葉にして陣地を築いた。参謀級の人や戦史作成者は、玉砕まで敢闘したことを美談として伝えるが、実際は、負傷しても手当てが受けられず、最後は自殺同然の突撃をした。これを「玉と散る」と言えるのか。

 保山人民政府外事弁公室の朱さんの出身地である騰越(現・騰衝)に日本の慰霊団が来るが、慰霊は許されない。私どもが、騰衝を訪問する最初の友好訪問団だった。拉孟も騰越も、日本人の観光に開放されてから20年しかたっていない。かつての将兵や遺族が訪問するようになったが、遺骨の収集と慰霊は許されない。侵略し、心身ともに深い傷を負わせた側が、遺骨を掘り出したい、慰霊したい、というのは勝手すぎる。住民感情として許しがたいのだ。
丸い台座の上に松山陣地の模型がある。そこに松山、東京などの地名がある。

恵通橋

146 恵通橋は旧ビルマルート上にある。恵通橋へ下る途中に、トウモロコシ、タバコ、サトウキビ、バナナなどの畑がある。恵通橋と、新しく架けられた虹旗橋が並行して怒江にかかっている。橋の右手が拉孟陣地の山で、左手が鉢巻山である。
 怒江まで下ると、そこは亜熱帯である。恵通橋の入口に「援蒋」のスローガンが描かれている。下流に紅旗橋がある。怒江を挟んで死闘が繰り広げられた。
147 旧ビルマルートに大岩がある。騰越の坑戦記念館に、中国軍と米軍の兵士がこの岩のそばにで撮った写真がある。

龍陵

150 龍陵は山中の町だ。南のシルクロード上にある。龍陵には25の少数民族が住み、滇西抗戦・松山戦役の遺址がある。
 日本軍は龍陵を1942年5月に占領し、守備隊歩兵団の司令部を置いた。東に拉孟、西が騰越である。ビルマルートの拠点である。ここに日本軍は慰安所を置いた。
 古山高麗雄が龍陵の戦いを描いた。NHKのドキュメンタリーに「龍陵会戦ー一兵卒の戦争」がある。古山はこの戦いに参戦した。
151 ドキュメンタリーの中で、当時少年だった現地のお年寄りが、龍陵を囲む山肌に中国兵、日本兵が隙間なく折り重なって死んでいたと証言している。

旧日本軍慰安所

 龍陵に董家溝日軍慰安所旧址(日本軍慰安所犯罪行為展覧館 以下展覧館)がある。ここはヒスイ、茶の取引で財を成した華僑の董一族の邸宅だった。日本軍は都市の集合住宅を慰安所にすることが多かったが、ここはその意味では珍しく、一軒家である。
152 ここは1942年から1944年の日本軍占領時代に慰安所として使われた。董一族はアメリカに出国するとき財産処分し、県に居宅を寄贈した。
 一階には、将校用の風呂付の広い部屋があり、性病検査室、復元された備品が展示されている。ここに朴永心さんが慰安婦として一時働かされていた。彼女は拉孟全滅戦の最中に脱出した。妊娠していた。写真がある。034
153 証拠品や写真が2階の一般兵士用の部屋に展示されている。龍陵、遮放、大埡(お)口、盈(えい)江などの慰安所の写真もある。朴さんらは拉孟から決死の脱出をし、遠征軍に捕らえられ、保山、重慶を経て、帰国した。しかし、それ以外の場所では、足手まといになる女性たちを殺害したという。董家溝でも射殺されたり、服毒自殺を強いられたという。(米中もひどい。そうではなく、日本軍の行為か。)
 「吊慰安婦受難 祈願和平」(吊=悔やむ)と、中国語と英語で書かれた碑が置かれている。

騰越

154 騰越(現・騰衝)は標高1600メートルのところにある。騰越は、明の時代に、高さ5メートル、幅2メートルの城壁で正方形に囲まれていたが、今では城壁はほとんどない。ここは、中原漢文化と辺境少数民族文化が融合し、温泉もある。
 騰衝はヒスイの産地である。ビルマのヒスイを加工した600年の歴史がある。
 騰越戦に際して、守備隊は住民を移転させ、戦闘の邪魔になる建物を破壊した。ガイドブックには「滇西抗戦は重要な戦いだったが、騰衝は、滇西抗戦で最も惨烈な戦場となり、焦土坑戦の末、侵略者を亡ぼした」とある。
155 騰越には、南に来鳳山、東に飛鳳山、西に宝鳳山少し離れて北方に高良山がある。守備には7000名が必要とされたが、騰越に配備されたのは、歩兵、砲兵、工兵、輜重兵、防疫給水部、郵便、倉庫勤務、野戦病院の患者を含めて2000名しかなく、攻める方は5万名だった。
 1944年6月27日、来鳳山への砲撃開始、29日、高良山陣地が陥落、龍陵への退路が遮断され、騰越は孤立した。司令部のある龍陵は自らの防衛に必死で、騰越救援は不可能であり、司令部の龍陵を守る意味でも、騰越死守を命じた。騰越守備隊は救援を期待できず、拉孟と同じ運命をたどった。
 7月27日、来鳳山陣地が攻略された後、守備隊は市内にこもり、突入する遠征軍を撃退し、戦況は一進一退したが、戦闘機、爆撃機による空襲、一日一万発以上の砲撃、火炎放射器など物量攻撃により、立てこもっていた旧英国領事館や市内の陣地を奪われ、最後に北東角に追い詰められ、9月13日、残った将兵全員で敵中に突入し、全滅した。

156 ここにはこれまで政府関係者の交流ツアーが一回あっただけとのこと。

滇西坑戦記念館

 騰越に、滇西坑戦紀念館(以下紀念館)と、その隣に、国殤墓園がある。紀念館は、もともと民間人が収集したものを展示するところだったが、後に国家が管理するようになった。解剖道具、日本軍出征兵士を送る旗、細菌弾、銃剣、水筒、飯盒、日本刀などが展示されている。また、タイ族女性に軍用物資を強制的に作らせている写真や、「慰安婦」の朴永心さんのモザイク入りの写真が展示されていた。
157 人海戦術で高歌築路(歌を歌いながら道を建設)する写真や、その人物模型群像が展示されていた。公路を築くための資金は、借款、国債の発行だけでなく、南洋の華僑も、機械や工具を提供した。
 朱自清の写真も展示されていた。日本軍に抵抗する意志のある人は、沿岸部から内陸部に移動して後方基地を築いた。これを大後方という。重慶もその一つであるが、雲南もその一つであり、朱自清は、雲南を訪れた。彼は抒情的な文筆家である。
 野人山の戦い 1942年4月、南から攻め上がる日本軍に追われ、アメリカのスティルウェル司令官が率いる米中連合のビルマ遠征軍は全面撤退し、ビルマ北部の山岳地帯の密林を抜けて、インドに脱出した。野人山の戦いは、その時の戦いで、米中連合軍は多大な犠牲を被った。マラリアと飢え、寒さで死亡し、白骨が野を覆った。「白骨街道」は日本のインパールだけではなかった。
158 日本軍の追撃を避けるため恵通橋を爆破するとき、中国軍の兵士や車も怒江に墜落した。恵通橋は2年後は反攻のために再建される。
 李根源は、雲南の政治家・軍人である。日本に留学し、騰越で戦死した守備隊の蔵重隊長たちを、国殤墓園の倭塚に葬った。彼は「日本軍は侵略者であると同時に被害者である」と言ったとのことである。彼について詳しく展示されていた。
 米義勇兵航空部隊(フライイングタイガーズ)によるハンプ航路飛行のジオラマがある。機首にサメを描き、それがトラと誤解され、飛虎隊と言われるようになった。
 ハンプ航路では最盛期には2分半に1機飛んだ。ヒマラヤ越えや日本軍の迎撃を受け、米軍機468機、中国軍機46機が墜落した。
159 フライングタイガーズを率いたのは、アメリカ陸軍航空隊司令官のシェンノートである。彼は中国国内の日本軍航空基地と、沿岸を航行する日本の輸送船を爆撃すれば、日本軍を一掃できると考えた。蒋介石は初めシェンノートの方法を採用し、スティルウェルのレド公路建設に反対した。しかし、シェンノートの案は、空港の整備が遅れ、実現しなかった。南京の航空烈士陵園にシェンノートの像がある。
 スティルウェルは中国軍兵士を使って日本本土を攻撃する構想を持っていた。しかし蒋介石は、日本敗退後、共産軍との戦闘に備えて自軍を温存したかった。ビルマ・雲南戦線の勝利間際の1944年10月、ルーズベルトは、蒋介石の求めに応じて、スティルウェルを解任した。スティルウェルは、蒋介石政権の腐敗・堕落に憤った。彼は解任の2年後に死去した。
160 豐子愷(がい)の戦争画が掲げてある。190 「陣亡将士之墓」「燕帰人未帰」などである。1940年ごろ描かれたものだ。

国殤墓園

161 遠征軍戦没将兵の名前が石碑に刻まれている。忠烈祠の後ろに墓がある。
 陣地前で泣きながらうろうろしている少年兵を「来!来!」と呼んで陣地に引き入れ、情報を聞き出した後で殺して谷に投げ捨てたという日本軍兵士の証言がある。
 中国兵の後ろでピストルをもって突撃を督励する米軍将校を見たという日本軍兵士の証言もある。
163 国殤墓園の庭に、赤ちゃんを負ぶって石を砕き、レド公路の建設に協力する女性の像がある。

騰越に残る激戦の跡

 守備隊が立てこもった英国領事館跡
164 イギリスは雲南を中国への入口とし、騰越西門の外に領事館を建てた。1942年、領事は日本軍の侵攻によって撤退した。壁だけが当時のままのものであり、他は復元されたものだ。
 啓聖宮は慰安所として使われていた。日本軍は敗北の時、慰安婦を近くの池に投げ込んだという。女性の遺体の写真がある。砲爆撃のためかもしれないが。
 来鳳山の山頂近くの山道に、塹壕があちこちにあり、十数メートルの至近距離に、日本と中国の陣地跡がある。
166 雨に打たれて血が止まらず、出血で死んでしまうとのことだ。

遠藤美幸さんの本から学ぶ

167 遠藤美幸は、雲南戦に参戦した軍人から話を聞き、手記を読み、靖国神社や戦友会を訪ね、『「戦争体験」を受け継ぐということ』を著した。
 遠藤は雲南戦の元参謀・黍野弘の仕事を手伝った。遠藤が「ビルマルートの遮断と、拉孟・騰越守備隊の救出を任務とする断作戦が成功すると思っていたか」と黍野に尋ねたところ、黍野は、「誰も成功すると思っていなかった」と答えた。参謀の黍野がである。
 遠藤は、将兵が、撤退できず、死に無感覚になり、食べて、寝て、敵を殺すことだけを考えていた戦場の様子を描写した。
 遠藤の問題意識は、当初将兵の苦難から出発したが、次第に加害性に気づくようになった。私も戦場体験者に囲まれて育った。

雲南戦を学んで

168 ジャン・ユンカーマン監督の『うりずんの雨』2015の中で、沖縄線に参戦した元米軍兵士が、「死傷者が出ることは分かっていた。それには慣れていた」と回想するが、古山高麗雄も同じようなことを言う。
 こうの史代原作のアニメ『この世界の片隅に』2016に、右手を不発弾に吹き飛ばされた主人公のすずが、敗戦の報を耳にして憤る場面がある。
 1944年8月23日、全滅二週間前の拉孟で、金光守備隊長は、「守兵は片手、片足のもの大部なるも、全力を奮って、死守敢闘該線を確保しあり」と司令部に打電する。それを新聞記者が「皇軍の精華 拉孟・騰越両守備部隊、数十倍の敵を撃砕し、全員壮烈なる戦死、滇緬*公路の打通許さず 隻眼隻手(片目片手)の将兵も立つ 阿修羅の奮戦 孤塁守る百日」と書いた。 *緬は緬甸(めんでん)ビルマのこと。
 現地を訪れて、現実の戦争を想像し、そのことによって、反戦の意思も強まるのではないか。

叙州・台児荘

叙州戦

171 参戦体験者が「叙州、叙州と人馬は進む」と「麦と兵隊」の一節を歌ったとき、私はその気持ちを理解できなかった。
172 叙州市は河北平原の東南部にあり、周囲を丘陵に囲まれた要害の地である。「項羽と劉邦」や「三国志」の戦いの舞台になったところだ。近代には、天津と南京の浦口を南北に結ぶ津浦線と、海州と蘭州を東西につなぐ朧(ろう)海線とが交わる交通の要衝となった。
 日本軍は、南京陥落後しばらくは持久戦をとっていたが、軍部の要求で叙州を獲得し、北部と中部の占領地をつなぎ、中国軍を殲滅することになった。日本軍20万人、中国軍50万人以上が投入された。台児荘の戦いで日本軍は苦戦したが、中国軍は次第に押されて、黄河の堤防を決壊させ、日本軍の針路を塞いだ。日本軍は叙州を手に入れ、次に武漢作戦を発動した。
 叙州はまた中国内戦期に淮(わい)海戦役の舞台となった。
 トウモロコシ畑と大豆畑が延々と広がっている。細菌戦ではこのような穀倉を汚染することも行われたとのことだ。従軍記によれば、日本兵はピクニックのように畑から野菜を採り、家畜を捕まえて料理をした。日本兵は抵抗されれば殴打した。少しの反抗にも怒り、殺し、焼き払った部隊もある。
173 1938年5月、叙州戦の時、炎熱の行軍の際に、部落民が一椀の水を差しだした写真があるが、差し出しているのは男である。女、子ども、年寄りは隠れているのだ。そして男も、遊撃隊に通報して反撃に立ち上がるつもりなのだ。
 叙州の花園飯店は、国民党の要人も泊まったホテルである。

台児荘

174 台児荘は叙州市の北東、山東省にある。国民党軍が叙州防衛の最前線にしたところだ。台児荘は、司令官・李宗仁のもとに、優秀な装備を持つ湯恩伯軍10万も集結し、住民を避難させ、要塞化していた。日本軍は多くの死傷者を出し、救援に向かった軍も命令で反転し、全滅を恐れた台児荘攻撃部隊は、独断で戦場を離脱した。このニュースは世界に広がった。
 台児荘に李宗仁史料館がある。ここは元は棗(なつめ)荘*の石炭を運ぶための駅舎だった。戦争で破壊されたが、1993年に復元された。 *棗荘は山東省に位置し、台児荘の戦いが始まった場所である。叙州市の北側にある。

 李宗仁は広西省生まれの軍人で、軍閥割拠の頃、広西省を統一・統治し、北伐に参加したが、蒋介石と対立し、広西省に広州国民政府ができるとそれに参加し、抗日戦争での台児荘の戦いでも活躍した。1948年、中華民国副総統となり、後に総統になった。中華人民共和国成立後はアメリカに亡命し、その後1965年に帰国して歓迎を受け、北京で亡くなった。
 李宗仁は国民政府軍の将軍だが、現在の中国で尊敬されている。北伐で統一を果たした蒋介石は、好き嫌いが激しく、過去のことを理由に、雲南軍、四川軍、広西軍に給与も武器も少ししか与えなかった。
 台児荘防衛戦で李宗仁は、蒋介石から冷遇されている寄せ集め部隊を引き受け、それぞれの司令官を味方につけ、日本軍を撤退に追い込んだ。
 戦後、李宗仁は、周恩来の、バンドン会議1955での「国を愛すれば家族」という言葉に感銘を受け、香港で二人は会って、(米国から)帰国した。
176 記念館に毛沢東と握手している写真がある。一方台湾は彼を売国奴・裏切り者として、国民党から除名した。
 台児荘は「中華古水城、英雄台児荘」と銘打って、テーマパークになっている。手りゅう弾を腹に巻き戦車壕に突っ込む用意をしている二人の若い兵士の等身大写真が建物の壁面にあった。(中国でも自爆攻撃をしていたのか)ロバート・キャパが撮ったものだ。街の中の「顔省吾営長 挽腸血戦処」と書かれたところでは、この場所で、「顔省吾という隊長が負傷し、はみ出した腸を押さえながら指揮を執った」という説明書きがあった。

淮海戦役紀念館

178 淮海戦役は、東北の遼瀋*戦役、華北での平津*戦役に並ぶ、内戦時の三大戦役の一つであり、1948年11月から1949年1月まで行われた。叙州は戦いの中心となり、蒋介石は80万の兵力を動員し、60万の共産党軍と戦ったが、共産党軍が勝利した。共産党軍は長江以北を支配下に収め、長江を渡河し、南京を手中にした。国民党軍は上海から台湾に逃げた。 

*遼瀋は遼寧瀋陽戦役1948.9.12林彪将軍率いる東北野戦軍が長春・瀋陽の国民党軍50万を包囲・殲滅した。
*平津(へいしん)戦役

179 淮海戦役には日本人で共産党軍に協力して戦死した人たちもおり、生き延びて帰国した人の中には、国慶節に招待された人もいる。日本の敗戦後、技術兵、飛行機整備士、大砲整備士などが共産党軍に使われた。東北地方で特に多く、閻錫(えんしゃく)山*の軍隊では1000人くらいが使われた。「蟻の兵隊」2006は、彼らを扱った映画だ。
 淮海戦役紀念館には兵士の他に、もっこを担いだり、丸太を引いたりする民衆の群像もあり、壁画、ジオラマ、彫像、照明、音響で、内戦の中での最大の戦いを表現していた。 

*閻錫山は中華民国の政治家・軍人で、辛亥革命の時、山西省での蜂起を主導した。

180 中国ではここは必見の場所になっている。

閻窩(えんか)村惨案

 叙州銅山県張集鎮閻窩村は、南京虐殺と同様の被害を受けた村だ。中国には中南京、小南京が無数にある。
181 叙州は土埃で有名だ。追悼碑がある。門柱に「不忘民族恨 牢記階級仇」と書かれている。殺害された人たちが埋葬された直系3メートルくらいの半円の墓がある。犠牲者は、叙州から避難した人、兵士、住民が3分の1ずつである。
182 今現地の人たちの伝聞・証言を集めているところだ。
 墓の前に「閻窩惨案死難同胞紀念碑」と刻まれた碑がある。設立は1971年で、裏に「盧溝橋事件以後、蒋介石が不抵抗主義を採り、狼を引き入れた。1938年5月20日朝、1000余名の日本軍が飛行機の援護下、閻窩村にやって来た。…午後、武器を持たない670名の人々を焼き殺し、閻窩惨案を作り出した。」と書かれている。
183 閻窩惨案は、まだ調査・記録が十分に行われていない。
184 付近の中国人女性が、田舎道を三輪車に乗せてくれた。

中国「慰安婦」問題研究センター再訪

185 上海の「中国『慰安婦』問題研究センター」(以下センター)を再訪した。構内の木立の陰に少女像がある。ソウルの少女像と同じ像と中国の少女像が並んで座っている。
186 2階に博物館がある。様々な資料や被害女性たちの寄贈品が展示されている。万愛花さん、李蓮春さんなどの中国人女性たちと並び、金学順さん、朴永心さんたち韓国・朝鮮人女性の写真もあった。
 山西省、南京、松山戦役(雲南省)、台湾、フィリピン、インドネシア、香港での被害を展示している。沖縄についても、戦後の米兵関連の慰安所の写真があった。
187 女性たちの日用品、ランプ、薬ツボ、帽子、入歯、櫛、化粧箱、虫眼鏡などが展示されていた。手作りの靴底、刺繍入りの布靴もあった。
 中国全土での慰安所分布の地図がある。慰安所は中国全土で1000か所ほどあり、上海だけでも149か所あった。

四行倉庫

 閘(こう)北に四行倉庫がある。4つのローカル銀行が共同で作った倉庫なので四行倉庫という。1937年の第二次上海事変の時、四行倉庫に司令部を置いていた第88師団の謝晋元が率いる守備隊は、ここで撤退援護を命じられた。
188 10月26日から11月1日まで戦い、当初800人いたので、「800壮士」と呼ばれた。
 四行倉庫の壁面に弾痕が残る。「四行信託部上海口部倉庫」と書かれている。倉庫は共同租界の境である蘇州河に面していて、空爆や艦砲射撃は、西側からしか砲撃できなかった。
 租界への被害を恐れた欧米列強の懸念から停戦となった。蒋介石の命により、兵士たちはイギリス租界に撤退し、隔離された。毛沢東はこの戦いを「中華民族の魂」と表彰し、そのことが新華日報に掲載された。謝晋元は、その後汪兆銘の刺客によって兵営で暗殺された。
 倉庫の横、兵舎のあったところは、晋元広場と名付けられ、石碑も据えられた。

 豐子愷(ほうしかい)のこと

190 滇西抗戦紀念館の壁に豐子愷の絵が掲げられていた。1940年代の抗日戦争期に描かれたもので、厭戦的な絵であった。
191 『日本の侵略、中国の抵抗 漫画に見る日中戦争時代』に、豐子愷について書いてある。
 その本に彼の「轟炸四」という絵が紹介されている。聾学校の真上に、一発の爆弾が落下する絵である。
 この訪中の少し前、(日本の)新聞でも豐子愷の「KISS」が紹介されていた。母親が赤ちゃんに頬ずりをし、そのそばの柳の木の枝が、河面にKISSしている絵である。
 叙州駅の高架橋にも豐子愷の絵が掲げられていた。

 豐子愷は音楽家、教育者、翻訳家である。
192 楊暁文は日本に留学し、神戸大学で豐子愷を研究した。豐子愷は仏教徒で、縁を大事にし、彼が設計した家は「縁縁堂」と呼ばれる。
 楊は豐子愷の年譜をつくった。以下はそれによる。
 豐子愷は1998年浙江省石門湾に生まれた。知識人の父の塾で学んだが、父は豐子愷が8歳の時に亡くなった。10歳の頃、図画練習に熱中し、16歳の時に師範学校に入学し、翌年、李淑同に師事した。

李は中国の芸術教育家であり、日本で学び、黒田清輝に師事し、図画・音楽教師となり、のち出家した

 豐子愷は李から絵画と音楽、日本語を学んだ。
 豐子愷は23歳の時、日本へ留学し、西洋画とバイオリンを学び、帰国後中学校で図画と美術を教えながら、漫画を描き始めた。27歳の時、同志と共に上海で中学校を開設し、西洋画を教えた。29歳で仏教に帰依した。第一次上海事変に際し、「中国著作家抗日会」に参加した。この間、女子中学校で図画と芸術論を教えたり、雑誌の編集長を務めたりした。翌年、中学校に国民党勢力が及んだので辞職し、自ら設計した「縁縁堂」で、その後5年間、著述、描画、翻訳の仕事に専念した。
193 1936年、巴金、林語堂、茅盾、魯迅、謝冰(ひょう)心らと「文芸界同人為団結御侮与言論自由宣言」を発表した。日中全面戦争勃発後、一家を連れて故郷を後にし、江西省、湖南省を経て、貴州省に行き、1942年、抗日の拠点重慶に行き、国立芸術専門学校の教授と教務主任を兼任した。避難生活の中でも個展を開き、著書を出版した。
 日本降伏に際しては「百年笑口幾回開」という絵を描き、親類と友人に送った。1948年5月、上海解放の時、絵でその感激を表現した。7月、中華全国文芸界代表大会の代表に選ばれた。
 1966年、68歳の時に、文化大革命で批判され、1974年に起こった「批林批孔運動」でも批判され、1975年9月、肺がんで死んだ。77歳だった。1978年名誉回復された。
 
 日本に留学した時、藤島武二に習い、古本屋で竹下夢二の絵と出会い、夢二の「簡略なタッチで描かれた毛筆スケッチ」に衝撃を受け、一場面で様々な情景を表す絵を描き始めた。豐子愷の絵は、諧謔と抒情性があり、「子愷漫画」と呼ばれるようになった。
194 友人の朱自清は、自分が編集する本に豐子愷の絵を載せた。朱は豐子愷の詩趣を好み、「あなたの漫画は短編詩である。私たちがオリーブを食べるように、いつまでもその味が残る」と評している。

豐子愷 子どもへの眼差し

195 豐子愷の絵に「日曜日は母親の悩みの日」という絵がある。子どもたちは決して品行方正ではなく、むしろ泣いたり、笑ったり、滑ったり、転んだり、ふざけて暴れまわり、電球は壊すわ、ビンはひっくり返すわの大騒ぎの中で、お手上げ状態の母親が描かれている。

 エッセー「我が子たちへ」、「父として」(吉川幸次郎訳)がある。
196 吉川は豐子愷を鈴木三重吉になぞらえている。
 豐子愷「私は子どもが好きであるばかりでなく、自分自身が子供、今年49歳の子どもである。」
 『一角札の冒険』を是非ご一読を。

豐子愷と日本

197 豐子愷は翻訳家でもあった。日本から帰国の船中で、英文のツルゲーネフ『初恋』を翻訳し始めた。
 1950年、52歳の時に、ロシア語を学び始め、ロシア文学を紹介した。『源氏物語』、『落窪物語』、『竹取物語』、『伊勢物語』、夏目漱石、石川啄木、徳富蘆花、中野重治などを翻訳した。中国では『源氏物語』を翻訳できる人は豐子愷以外にはいなかったと楊さんが話している。
 美術作品の紹介や理論に関する本も訳している。
198 エッセー「ひまわりの種」1934
 『少年美術物語』の中で、清明節という日本のお彼岸のような日の時の遠足を描写している。
 『漫画日本侵華史』を描いているとき、日本軍が石門湾*を空爆し、100人を超える死者を出した。そのため、豐子愷は10年間の流浪の旅に出る。そして「縁縁堂」は、日本軍の柳川部隊によって焼かれた。「縁縁堂を返せ」という文章を書いている。 
200 その時、彼の画風は日本に対する憎しみを表すようになった。
 戦後重慶から開封に来て、そこで国民党軍と出くわしたために、鄭州に引き返し、長江で南京に、南京から汽車で上海に戻ったが、廃墟の縁縁堂を見て、杭州へ移動した。
 上海で書店を経営していた内山完造103は、回想録『花甲録』の中で豐子愷について語っている。

平和教育者 豐子愷

201 豐子愷は70歳*の時、文化大革命で批判され、強制労働をさせられ、肺結核にかかり入院した。
 *193頁では68歳になっている。70歳は、入院時のことか。
203 吉川幸次郎は『縁縁堂随筆』1940の中で豐子愷について語っている。
 豐子愷の死後、その伝記や翻訳などが、娘や息子などによって出版された。英語、ドイツ語、ポーランド語に翻訳され、韓国、オーストラリア、フランス、ノルウェーに研究者がいる。


岳陽・廠窖(しょうこく)・常徳・長沙

洞庭湖と岳陽楼

205 南京から江南路を岳陽へ向かう。ため池、蓮池が見える。岳陽には洞庭湖があり、洞庭湖には岳陽楼がある。杜甫の詩「岳陽楼に登る」がある。笵(はん)仲淹(えん)の『岳陽楼記』に「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」とあるが、これは、尊敬に値する人格を表現している。

廠窖惨案

207 廠窖惨案は小学校の教科書に載っている。小南京事件、中南京事件の中で最大のものだ。
 廠窖は洞庭湖の西にある。廠窖に向かう道中に蓮の花が見える。華容、安郷、南県を過ぎる。国民党軍の退却路だ。
 廠窖事件は、抗日運動に対抗する江南殲滅作戦の中で起こった。1943年5月9日から11日にかけて、敗走する国民党軍と避難民、住民を、南北10キロ、東西5キロの狭い地域に包囲し、無差別に3万人を殺害した。戦後の内戦のために事件は調査されなかったが、近年記念碑が建立され、紀念館が建てられた。
208 侵華日軍廠窖惨案遇難同胞紀念館の会議室で、幸存者の郭鹿萍(へい)さん、彭奇(ほうき)さん、全伯安さんから話を聞いた。

 郭さんは93歳、「4か所傷跡が残っている」とシャツをめくっておなかの傷跡を見せた。

 「私は当時17歳だった。75年前の5月、日本軍の戦闘機が爆撃を加え、大砲を撃ち、船舶・兵士が包囲した。7日、川に避難民が包囲された。狭いところに数万人が集まった。私は父母、兄妹弟の6人家族だった。私は父と廠窖に残って親戚の家に隠れた。
 避難民は70~80人で、うち30人~40人は女性だった。9日の9時に13人の日本兵がやって来た。軍刀を帯びていた。騎馬の上官が先頭に現れ、ほぼ全員を追い出し、連れ出した。私はベッドの下、溝のようなところに身を隠していたので連れ出されなかった。だんだん声が大きくなり、怒鳴り声がさんざん聞こえた。何が起こったか分からなかった。
 暫くして外の様子が静かになった。家が焼かれるのではないかと心配になり、這い出したら、目の前に日本兵がいた。日本兵は長い棒で頭のてっぺんから叩こうとしたのでよけたが、こめかみを殴られた。その痕は今でも残っている。ぼんやりとしたまま家の外に連れ出された。脱穀場に40~50人いた。人の群れの中から子ども、女性を出して、「動くな」と一画に集めた。残りは服を脱がされた。
209 私は綿入れの服を着ていた。殺されるとは思わず、苦力にされると思っていた。縛り付けられ、壁に向かって跪くように強要された。すると日本兵は銃剣で刺し始めた。大工の曹さんは「日本軍は本当に人を殺すぞ」と叫んだとたんに殺された。私はもういいやと諦め眼をつぶった。真正面からお腹を刺された。浅かった。大丈夫と思った。その後貫通し、3発はお腹、1発は胸だった。綿入れを着ていなかったら、今頃皆さんには会えなかった。胸を刺され意識不明になった。
 暗くなりかけた頃意識が戻った。一人だけ生きていて他は死んでいた。縄で縛られていて解くのに一苦労した。生きる思いが強く、どうしても生きたいと思い、そら豆畑に入って身を隠した。目の前に広がるのは屍だけ、沢山の人が死んでいた。死体の中にいた。
210 火事で炎が上がり、村中が炎に包まれた。私たちの村は焼き払われた。そのまま畑で3日過ごし、未熟なそら豆を食べ、枝に溜まる雨粒を飲んだ。このまま死ぬだろうと諦めたところ、避難していた人たちが帰ってきて、私のうめき声を聞き、倒れているのを見つけた。血と泥で生きた人間の相をなしていなかったので皆近づこうとしなかった。勇気のある知人が草を分けて発見してくれた。親戚の家に背負って連れて行った。亡くなった父と対面した。親戚は3人の息子を全員殺された。彼は漢方薬の医者で、薬草を調達して、(私は)その治療を受け、だんだん傷が治っていった。母たちも戻ってきた。
 あの事件から73年も経ったが、17歳の私が死んでいたら、今日の私はいない。二度と過去の戦争は起こってはならない。今93歳、命を拾った。75年を生きることができた。日中は平和的に付き合うことを願う。本日は日本人でありながら、調査して来てくれて感謝する。共に平和のために生きましょう。」

 証言の聞き取りの後、紀念碑前の追悼式で黙祷、献花した。碑は事件の起こった日を忘れないように、高さ19.43メートル、基壇の高さは5.9メートルになっている。(1943年5月9日である。)碑正面の追悼文の大要は、

「日本軍は5月8日、3000人が出動、陸、水、空から廠窖にやってきて、殺しつくし、焼き尽くし、奪いつくす政策を行い、わが同胞、廠窖と近郊の住民1万3000人、避難民1万2000余人、国民党軍5000人を屠殺した。3000余軒の建物、2500余艘の船を焼き、食料、家畜、衣服など数えきれないものを奪い、国内外を驚かす廠窖惨案を引き起こした。この時遺体は野に満ち、血は川となって流れ、鳥も犬も声もなく、天は暗くなった。」

211 裏面には、惨案の様子が壁画になっていて、天を仰いで叫ぶ人、横たわる母親に小さな手を上げて縋り付く金太郎の腹かけを着けた赤ちゃん、刀を持って走りだそうとする人、鎖を握りしめて立つ人などが描かれていた。
 紀念館は2010年に完成したが、当時すでに67年も経過し、地域共同体が破壊されたため、展示品には事件の遺物は少なく、写真パネルがほとんどである。
 家族を殺害され、住まいでもある船のそばで嘆く人の様子が、ジオラマで表現されている。遺骨の発掘現場が復元され、ガラスケースに遺骨とともに発掘された子どもの銀の足輪が納められている。
212 事件を起こした責任者、横山勇中将などの写真も掲げられている。横山はのちに九州大学での米軍捕虜の生体解剖の罪に問われ服役*しているときに病没し、その他の責任者も戦死したり、階級が低いということで罪に問われなかった。

虐殺の現場で

212 虐殺現場に向かう途中の道端で「有名な幸存者」にたまたま会い、挨拶し握手したのだが、いきなり、「你 日本人!(ニー リーベンレン!)」と返された。「お前!日本人め!」という語感だった。大変険しい目つきで、厳しい表情をし、「你 日本人!」を7、8回言われた。
 「日本人は凶暴だ。母が犠牲になった。母は妊娠中だった。数年前お墓を移転する時、母の骨と赤ちゃんの骨が出てきた。日本はなぜ賠償しないのか」と言い、腹と頭の傷を見せた。深い傷跡、節くれだった日焼けした手、白濁した右目は、苦痛を物語っていた。任徳保さんというが、それは後から聞いた。

213 虐殺現場には「廠窖惨案遺址 徳伏白骨坑」と書かれた石碑がある。碑の前の池はもと川だったが、風が吹くと遺体が寄ってきたとのことだ。

常徳での細菌戦

214 沅(ユアン)江のほとりに「詩の墻(かき)」がある。2000年に建造され、秦の時代から、常徳に関わる1300の詩が3キロに渡って刻まれている。
 城門をくぐると、沅江だ。(詩の墻の周辺には、)水売り、荷を担ぐ人、子どもたちに団子を売っているおばあさんなど昔の風物を表す彫像が置かれている。南京陥落、台児荘勝利、中華民国成立、中華人民共和国成立など歴史的事件の場面を表す彫刻もある。

215 日本は、対ソ戦を想定して細菌兵器を開発した。細菌兵器は、1925年のジュネーブ議定書によってその使用が禁止されていたが、開発・生産・貯蔵は禁止しておらず、研究・実験が進められた。
 アジア・太平洋戦争の初期に、バターン半島に立てこもる米比軍に対して細菌兵器を使用することが検討されたが、半島が攻略されたため、使用しなかった。その後、ドゥーリットル隊による本土爆撃に衝撃を受け1942.4.18、米軍機が帰着した飛行場を破壊する浙贛(せっかん)作戦*で、細菌兵器を使った。中国軍の撤退が早く、日本軍1万人以上が病気になり、1700人が死亡した。細菌兵器の使用を自軍にも秘密にしていたのだ。日本の兵隊は、予防注射のあとの化膿に苦しみ、「ペストあり」という張り紙におびえながら行進したという回想記が残っている。国力の乏しい日本にとって、細菌兵器は重要で、「決戦兵器」と位置付けられていた。

*浙江省と江西省(別名、贛)にまたがる地域が対象となった。1942.5--9

216 敗戦時、細菌戦部隊は、施設を破壊し、書類を焼却し、幹部を始め隊員は、民間人に先立って優先的に帰国した。極秘とされ、隊員は口をつぐんだ。

 常徳は、重慶への南の(東の)玄関口で、交通の要所である。日本軍は常徳市民にペストを流行させ、交通遮断を目的とし、常徳に細菌をばらまいた。1941年11月4日、常徳上空に、穀物に混ぜたペストノミを撒布した。最初に12歳の少女蔡桃児が犠牲になった。
 ペストは急速に広がり、多数の死者を出した。その被害は戦後の混乱のために取り上げられず、何が原因で亡くなったのか分からない人もいた。ペストの流行は収まったかに見えてまた再発し、長い間死者を出した。今もペスト菌陽性のネズミが見つかるとのことだ。

調査そして提訴へ

 1996年、森正孝が、常徳で調査をした。それ以前、中国国内でも対日賠償を求める組織を結成しようとしたが、中国政府が認めなかった。一方、アメリカの華人組織は、対日賠償の運動をしていた。
217 中国人の対日感情が厳しく、森の調査は進まなかったが、中国政府はその重要性を認めた。

 1997年、森は日本の弁護士に調査を要請し、調査団が結成された。被害者も協会をつくり、村々を訪ね、被害の記録を掘り起こし、少しずつ明らかになってきた。

 程秀芝さんをはじめとする107名の原告団(常徳は30名)が、1997年に、日本政府に対し、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟を起こした。初めは死者が100人余りだったが、調査の進展に伴って、その数は増えている。

 提訴の目標は二つあり、一つ目は、勝訴して、被害者の霊を慰め、その無念を晴らし、奪われた尊厳を回復すること。日本政府が反省・謝罪・賠償することによって、アジア諸国の信頼を回復し、和解・友好・平和を築くこと、二つ目は、事実を明らかにすることであった。

 請求の要旨は次の通りだ。(「第6回中国平和の旅報告集」草の家ブックレット、平和資料館草の家1999

「各原告に次の謝罪文(総理大臣名)を交付し、官報に掲載すること。
『日本国は1940年から42年にかけて、浙江省や、湖南省常徳市石公橋鎮桃源県において、多数の中国人をペストないしコレラに罹患させて殺傷した。日本国政府を代表して、原告に、国際法に明白に違反する人類史上稀にみる非人道的な残虐行為である細菌戦を行い、計り知れない被害をもたらしたことについて深く謝罪する。加えて、これらの事実を隠蔽し続けるという恥ずべき卑劣な行為を行い、被害者に癒えることのない悲しみと苦痛を強い続けたことを深く謝罪する。日本国政府は謝罪を踏まえ、二度と繰り返さない決意とともに、保管するすべての文書や資料を公開するなどして徹底した事実調査を行い、歴史教育を行うなどして後世に伝えること、日中の間の真の友好と信頼関係を築くためにあらゆる努力をすることを約束する。』『一人1000万円の賠償金を支払うこと』」

218 訴訟代理人の土屋公献弁護士は、訴状陳述に当たり次の二点を指摘した。

 「この裁判は、公権的に事実を明らかにする裁判である。ところが、被告である国は事実についての認否を避けており、これは事実を明らかにすることを拒み、一切の責任を回避しようとする姿勢である」こと、「日本が国として潔く過去の人道に反する罪を認め、その責任を明らかにし、被害者に謝罪することは、決して日本の『国益』に反するものではない。逆に隣国をはじめとするアジア諸国と世界に対する信頼を築くための不可欠の条件なのであって、これこそが金銭に代え難い大きな『国益』に繋がるのである」こと、そして裁判所に対して「確立された国際法上の諸原則を遵守し、数十年の過去に遡って、本件と真正面から取り組み、被害者らの人間の尊厳を回復して下さることを強く期待する」と述べた。(そんなへりくだった態度では解決しない。裁判所も国と同じ側にいることを自覚すべきだ。)
219 この期待に日本の司法は応えることができなかった。被害者自身の口から述べられた被害実態、そして詳細で綿密な調査の結果を無視することはできず、細菌戦の事実と、その犯罪が陸軍中央の指示で行われたこと、人間社会に対する破壊が極めて大きいということを認めたが、国家無答責(なんだこれは!)(旧憲法の下では、国の賠償責任を定めた法律がなかったから、現在もその責任を負う必要はない。屁理屈だ!)などを理由に、謝罪も賠償責任も否定した。
 細菌戦の犯罪性は、使用したことばかりでなく、その事実を隠ぺいしたことにもある。
 日本による細菌兵器の研究とその実施の効果を利用しようとした米ソの思惑が関与していた。戦後すぐ、日本による細菌戦の成果をめぐり、米ソの争奪戦があった。日本をほぼ単独占領したアメリカが、その研究結果を独占し、ソ連は対抗してハバロフスク裁判で訴追したが、ソ連のプロパガンダだという宣伝が奏功し、結局この犯罪は闇に葬られた。成果を入手したアメリカは、朝鮮戦争で細菌兵器を使用し、多くの人々に被害を与えた。

弁護士事務所で

 湖南博集律師事務所(弁護士事務所)を訪ねた。そこで常徳市弁護士会(以下、律師協会)と常徳日軍細菌戦受害者協会(以下、受害者協会)共催の座談会が開催された。

220 律師協会会長の「反戦・友好の活動を展開して欲しい。」
 律師協会主任・受害者協会会長・司会の高峰「常徳は、空襲、会戦、細菌戦の被害を受けた。慰安所もあった。かつての戦争は終わっていない。調査するとどんな傷が残っているかが分かる。賠償訴訟では数千回に上る膨大な歴史が語られた。日本の最高裁判所の判断は、被害者の傷に塩を塗ることである。原告の何人かは他界された。

受害者協会の徐万智の証言

「私は現在78歳だ。3歳の時、細菌戦の被害を受けた。出身の漢寿県は、常徳から15キロのところにある。父は収穫した米を天秤で担いで売りに行き、必要なものを買ってくる仕事をしていて、常徳に行ったり来たりしていた。1943年9月のある日、父は帰ってから高熱を出し、元気がなく、病気のように見えた。原因が分からず、漢方薬をもらったが、いくら飲んでも効かなかった。4日目に亡くなった。2日後、叔父さんの息子も発病し、同じ症状で亡くなった。看病した祖母も数日後に亡くなった。父の兄弟2家族で住んでいて、祖母の存在は大事だったのに。
221 小学生だった11歳の兄も、おじも、同じ病状で数日後に亡くなり、葬式でお金を使い果たし、葬式をするお金がなくなった。棺もつくれず、家の中の木材で作った。母も感染し、寝たきりで泣いた。周りの人は疫病神と恐れて近づかない。私は、母方の叔父が実家に連れて行ったので、九死に一生を得た。母は半年闘病し、髪の毛が抜けたが、何とか命を取り留めた。祖父は元気だったが、泣き続けて失明した。
 日本軍の攻撃による私たちのような例は沢山ある。全滅してしまった家族もある。
 訴訟のため、被害原告として、事実を調査し、被害者支援も行っている。日本政府を相手に、無報酬の活動をし、訴訟を起こしてから20年経つ。日本は被害者への犯罪を未だに認めていない。日本政府からは何の対応もない。憤りを感じる。被害者は、目の黒いうちに謝罪・賠償を受けずに亡くなった。悲しく、怒りを覚える。日本政府は、人類の歩むべき道を逆方向に行っている日本の政権の人たちが靖国に行くことや、歴史を歪曲する反人類的行いに憤りを感じる。謝罪・賠償を実現するまで、世界の人々と手を取り、努力するつもりだ。」

222 丁徳望さんの証言

「私は1933年の生まれだ。9歳の時、大黒柱の父がペストで亡くなり、母は纏足で働けなかったが、再婚せず、どん底の生活の中で育てられた。1998年から被害調査の一員として活動してきた。日本政府が反省しないのは、平和への妨害であり、被害者に対する2度目の犯罪である。諦めず戦い抜く決意である。」

223 胡精鋼さんの証言

 「資料の収集や実地調査を行った。歴史を強調するのは、復讐や仕返しが目的ではない。歴史を鏡にし、残酷な歴史を繰り返さないように、平和を保ち、悲劇を起こさないように、世々代々仲良くしていきましょう。」

 湖南文理学院教授の張華さんが、オーストリア人医師のポリッツァーについて語った。
224 「ポリッツァーは、常徳でペストが発生したとき、多くの住民を救った。中・米合同の航空関連部品工場がある雲南でペストが発生したときも、派遣されて調査・対策に当たった。」

 ベチューンは延安で2年間仕事をし、共産党に貢献したが、ポリッツァーは国民党政府の下で働いた。

 当時地方政府は、患者を隔離し、亡くなったら解剖して火葬するという防疫対策を行ったが、民衆は、一族大勢で集まって死者を盛大に見送る葬儀や、身体を傷つけずに土葬することを大切にしたので、地方政府のやり方に抵抗した。後にポリッツァーは、火葬を廃止しペスト死者専用の墓地を整備することを提案し、土葬が認められるようになった。

 雲南の滇西坑戦紀念館156に細菌爆弾が展示されていた。日本軍が雲南で細菌爆弾を投下したことはありうることだ。

225 会長・高さんの話

 「1969年、日本からの調査団が(中国)政府を通して現地に赴き、被害者ボランティアの協力を得て、最初に犠牲になった蔡桃児の遺体から初めてペスト菌を検出したカルテなど、アメリカ人経営の広徳病院の資料から、確たる証拠を得た。ペスト流行への対策・治療・死者について記した国民政府資料も見つけた。細菌戦を実行したパイロットが菌を撒布した地図、重慶にあったポリッツァーの報告書(菌検出確認)も発見した。これは第一次資料である。これを契機に日本側も陣中日誌などの資料を見つけるようになった。
 調査によって明らかになった被害者の人数は、7643人である。もっと多いかもしれない。受害者協会は、被害者と遺族が結成した草の根の100パーセント民間の組織であり、外部からの援助はない。嘆願書を日本の国会に提出した。日本の弁護士と協力して陳述し、デモも行った。事件から70数年経ち、メンバーが亡くなっている。資金面で見通しが立たない。
 被害者は人間であり、血と肉と骨で形成された尊い命を持っている。彼らが自分の期待に即した結果を見ず、無念の気持ちで他界していくことを考えると感慨無量だ。被害者の尊い命、尊厳、名誉回復のために闘わずにはおれない。日本の裁判所は罪を認めた
226 (日本)政府は鉄証が出たにもかかわらず認めない。更に研究するための貴重な資料が自衛隊や防衛省などにあるはずだ。是非欲しい。資料を持っている施設に公開するよう呼び掛けている。
 単なる恨みを持って日本に行くのではない。これからの日中はどうするべきか、考えるために行く。闘いはこれからも続く。政府が謝罪・賠償するまで、諦めずに闘い続ける。」

 劫難碑

 桃源県に劫難碑がある。ここは常徳に繋がる地域の一つで、ペストが伝搬し、多くの犠牲者を出した。
 碑は、2015年12月、桃源県の細菌戦調査委員会によって建てられた。
 碑文には、常徳へ豚を売りに行って感染し、亡くなった李佑生と、相次いで亡くなった15人の親族の名前が刻まれている。また、国民政府の防疫活動・調査が、「防治湖西(湖南西部)ペスト経過報告書」として記録されたことも書かれている。
227 李佑生の孫で原告の一人、李宏華さんを訪ねた。李は90歳で、「祖父、叔父が亡くなり、棺桶に入れないまま葬った」と言った。李の妻や、ひ孫を抱いた娘も集まって来た。
 案内の高峰さん220も、父方の伯父二人をペストで亡くしたと言った。祖父は阮江の水売りで、ペストのこととは知らず、疫病に罹ったと思い、(二人に)石灰をかけて山の斜面に葬ったとのこと。
228 疫病は不吉な病とされ、普通の埋葬ができなかった。
229 裁判資料にも、「高緒武12歳、高緒文10歳」と書いてある。

鶏鵝巷

鶏鵝巷は最初にペストノミが撒かれたところだ。そこにプレートの碑文がある。
230 「听不憧 対不起」(テインプトン トゥイプチ、聞き取れない、ごめんなさい) 迷路了(ミルーラ、迷子になった)と案内してくれた二人連れの女性に言った。
232 道案内してくれた女性たちは、別れ際に「和平」「反対戦争」とこぶしを挙げた。
 沅江河畔に詩の墻がある。

長沙

 日本軍は三度目に長沙を占領した。
 長沙博物館は、馬王堆の遺物である2000年前の女性のミイラとその副葬品を展示している。

桂林

打通作戦の終着点・桂林

234 桂林は、日本軍の大陸打通作戦(1号作戦、以下、打通作戦)の一つの終着点だ。これは多くの犠牲を払った作戦だった。
 日本軍は抗日勢力を討伐するだけで支配地域を拡大できなくなっていた。
235 日本軍はそれを打開するために、アジア・太平洋戦争を始めた。日本軍は太平洋で制海権を失い始め、拡大した戦線へ、兵士や物資を送ることも、南方から資源を日本へ送ることも困難になりつつあった。
 米国の義勇兵からなる飛行隊(フライングタイガーズ)は、日中戦争当初から中国を支援し、アジア・太平洋戦争が始まると、米中連合の空軍が爆撃するようになった。1943年11月、華中の遂川*から発進した米軍のB25、P38が、台湾の新竹飛行場と市街を爆撃し、また、すでに東シナ海の船舶は撃沈が相次いでいた。 

*遂川(すいせん)は江西省吉安市の県。

 そこで華中の米空軍基地を破壊する作戦に着手した。しかし、天皇に上奏された時、そこに、さらに華北から華南、そして仏領インドシナを結ぶ陸路を開通させ、攻略地点の資源を取得する作戦が加わった。参謀本部だけでなく、現地軍も、中国軍を撃破し、日中戦争の帰趨を決めたいと考えていた。打通作戦は1944年1月に発動された。
 作戦は三段階に分かれていた。一段目の京漢作戦は、河南省を戦場に、1944年4月18日から5月25日まで戦われ、北京から武漢に至る陸路を打通した。
236 二段目の第一期湘桂作戦は、5月27日から9月中旬まで、湖南省を戦場とし、岳陽、長沙、衡陽を占領し、広西省に迫った。最後の第二期湘桂作戦は、9月中旬から1945年2月まで、広西省と貴州省を戦場とした。この作戦での山場が、桂林と柳州の戦いである。桂林と柳州を攻略した日本軍は、北部仏領インドシナから進撃してきた日本軍と合流し、打通作戦は達成された。

 2019年、「むすぶ会」は桂林を訪問した。桂林は華中の交通の要衝であり、「東部中国における最大のアメリカ軍事センター」(中米印軍事指揮官スティルウェルの言葉)が置かれていた。日本軍は多大な犠牲を払い、1944年11月10日、桂林に到達したが、米軍は飛行場を破壊し、飛行機も移動していた。その2週間後、マリアナ諸島から発進した70機のB29が、東京を初めて空襲し、それは各地の空襲に繋がった。
 その(打通作戦の)数か月後に中止に追い込まれたインパール作戦1944.3--7の惨憺たる結果を見て、打通作戦への反対は、参謀本内にもあった。しかし参謀本部の服部卓四郎たちは、あくまでも遂行しようとし、現地司令官も、戦局の全体や兵の苦難を見ようとせず、反対を押し切って、打通作戦は続行された。

237 しかし打通したとはいえ、南方に送る武器弾薬はなく、南方からの物資を輸送するはずの陸路も、米中軍機の爆撃で破壊され、補修もままならず放置された。

 打通作戦は、動員兵力50万人、総作戦距離2400キロを踏破する大作戦だったが、兵力の多くは東北部の関東軍からの転用と補充兵であった。すでに南方に多くを引き抜かれていた関東軍は弱体化し、ソ連軍から満州国の日本人を守ることができなかった。補充兵の多くは、体力も訓練・装備も不十分で、召集されて現地に着く前に、過酷な行軍に耐えきれず、倒れてしまった。日本軍の死者は10万人、その半数が餓死、または栄養失調による病死だったと推測されている。

 打通作戦における日本軍兵士の状況に関して、手記、研究者やNHKの調査結果が出版されている。
 この作戦での中国側の兵力は100万人、戦死傷者は75万人と言われている。中国民衆の被害は、正確に知るすべもない。日中戦争からアジア太平洋戦争にかけての日本の民間人の死者は80万人、中国の民間人の死者は1000万人にのぼるという統計がある。打通作戦は日本軍最後の大作戦と呼ばれる。


性暴力被害者の韋紹蘭さん母子のこと

 1945年7月15日、日本軍の撤退時、今では桂林の漓江下りの終点となっている陽朔に立てこもっていた日本軍は全滅した。
 日本は戦後責任を果たしていないから、中国本土で戦没した日本人を追悼することはできない。

239 茘浦県新坪鎮桂東村に住む性暴力被害女性の韋紹蘭さんの家を訪ねた。『週刊金曜日』に連載された「私は『日本鬼子』の子」(糟谷廣一郎著、2007年)によると、韋さんの被害は次の通りだ。

 1944年11月下旬、20~30人が住む韋さんの村に日本軍が来るとの知らせで、村人は洞窟に避難した。半月ほど経ったある朝、家の様子を見るために洞窟を出た韋さんは、日本兵に見つかった。娘を背負っていたため逃げ遅れ、娘と一緒に拉致された。夫は洞窟の中でそれを知ったが、親類に「殺されるだけだ」と抱き留められ、助けに行けなかった。日本兵は韋さんを馬嶺鎮の陣地に連れて行き、部屋に押し込め、軍刀をのどに突き付けて強姦した。性病検査もし、避妊具を与えた周到さから、軍隊による組織的な犯行だと分かる。
 韋さんは監視の目が緩んだすきに娘を連れて逃げ出し、3カ月ぶりに村にたどり着いた。一緒に拉致された娘はなくなり、その生まれ変わりのように、息子、羅善学が産まれた。しかし息子は「日本鬼子」の子だとのうわさが広がり、夫の態度も変わり、ひどい罵声を浴びせられるようになった。その後夫の虐待に反論できない日々が続き、夫が亡くなった後、母子二人は、家族や村人から孤立して暮らしている。

240 羅さんは後から生まれた弟妹のようには可愛がられず、学校も途中でやめさせられた。結婚もできなかった。

 2007年、林博史関東学院大学教授によって、日本軍が桂林で犯した性犯罪を記した、東京裁判での検察側の書類が発見され、それが公表された。それによると、桂林を占領した日本軍は、強姦、捕虜、略奪などのあらゆる残虐行為を行い、「工場を設立する」と宣伝して女性を募集し、「脅迫して、獣のごとき軍隊の淫楽に供した」というもので、これは証拠として裁判で採用された。この出来事は中国でも報道され、取材を受けた韋紹蘭さんは、被害者として名乗り出た。韋さんは日本に来て自身の体験を証言した。
 これを機会にこれまで韋さんを蔑んでいた村人たちにも変化が起き、「正義を実現しようとしている勇気のある人」と支持してくれるようになった。
241 韋さんは「三十二」「二十二」というドキュメンタリー映画(郭柯監督)にも出演した。
 韋さんは2019年5月5日に亡くなった。羅さんは、茘浦県の、韋さんの孫の武春さんの新しい家に住んでいる。
242 ひ孫の武敏さんは、夏休みで帰省していた。
 馬嶺鎮の慰安所は、地元の裕福な陳一族の屋敷だった。
243 陳慶文さんは「父は、共産党の地下工作員で、安徽省で抗日戦を7年間戦って戻ってきたとき、大地主に知られて殺された。1949年の内戦時のことだ。日本軍は年寄りと子供にやさしく、飴を配ってくれた」と言う。しかし、それは安定した占領時のことで、日本軍が撤退するときは、意味もなく建物に火を放ち、焼き払ったと東京裁判の訴状に書かれている。
244 予定では今日羅さんと会えるはずだったが、桂林での羅さんの誕生日パーティーのため、まだ戻って来ていなかった。羅さんには支援してくれるボランティアの人がいて、明日桂林市内で会えるかもしれないとのことだった。

羅さんとの出会い

 李宗仁紀念館が臨桂区にある。李宗仁は叙州戦で活躍した。174 李宗仁は、地方軍閥の出身で、国民的英雄になった。ここ(桂林)は打通作戦のルート上にある。
245 美国飛虎隊(フライングタイガーズ)桂林遺址公園と、その飛行場の滑走路跡がある。
 七星公園で羅さんと待ち合わせしていた。
246 羅さん「しゃべっても何にもならない。かつての悲惨な出来事は皆さんのせいではない。皆さんの先祖の罪悪であり、皆さんが関与したことではない。私のような被害を受けた人は私一人ではない。母は天国に行った。」
247 「生活苦は山ほどある。政府から補助金が出ている。」「昔のことは仕方がない。日本人がしたことは法律違反だ。」
 「私の人生は台無しになった。」と羅さんは糟谷さんのインタビューには語っていた。
 日本兵の「父」については「恥ずかしいことだから考えないようにしていた。」「日本政府に賠償を求める気はないが、母に謝ってほしい、失礼なことをしたのだから」と言い、日本政府に対し、調査を依頼する嘆願書を書いた。

248 この公園の近くに桂林防衛戦で戦死した指揮官と兵士の墓がある。1944年10月末の日本軍侵入時、ここの陣地に兵站部門、負傷兵を含む400人の兵士、参謀が立てこもった。日本軍の方が数も武器の質も圧倒的に優れていた。鍾乳洞の中に撤退し、毒ガスで殺害された。戦後洞内と周辺で823体の遺骨が発見された。
 三人の指揮官、陳済桓、闞維雍、呂旃(せん)蒙の墓と記念塔が立っている。陳済桓、闞維雍は拳銃で自殺し、日本軍は陳に対してその奮戦を称え、埋葬して墓をつくった。「八百壮士墓」がある。国民政府軍の戦死者の顕彰碑、追悼碑の多くは文革中に破壊されたが、その後修復された。

伏波山上に立って

249 「零の進軍」は、初年兵として打通作戦に従軍した吉岡義一の手記である。攻撃対象の村は、木柵で囲まれ、地雷で防衛され、水中には鉄条網が敷かれていた。
252 解放橋はもと船をつないだ橋だったが、本格的な橋(中正橋)1939が建造され、日本軍の侵攻阻止のために破壊1944.11され、建国後、再建され、解放橋と命名された。 
 桂林作戦は3回あった。日本軍の侵攻に対する防衛戦1944.11、日本軍が撤退するときの作戦1945.7、内戦時の解放戦1949である。

燕岩惨案

 日本軍は廟嶺郷馬埠江村で住民を虐殺した。これが燕岩惨案である。
253 幸存者の陽振珠82さんの案内で農道を歩き、虐殺現場に向かった。
 日本軍が侵入すると、村人は山の洞窟に逃げ込んだ。
254 枇杷(びわ)畑の向こうに洞窟があった。

 1944年、「日本軍がやって来た」と聞き、陽さんは村人と共に、父母、兄と4人でこの洞に避難した。洞窟内は空気が悪く、外に出ると、日本軍が火をつけた。
 陽さんの兄陽振球87さんが来て、詳しく話してくれた。以下は、陽振球さんの話である。

255 「1944年10月25日の6時ころ、親戚の家族と朝ご飯を一緒に食べた。数日前、(洞窟に)避難していた母子が、日本兵とばったり出会ってしまった。母子はまた隠れたが、逃げるときにできた、草を踏んだ道ができている。家族は「ここは危ないから」として家に帰ったが、他の人たちは残った。
 そのすぐ後、日本軍兵士3人が入口に草を積み上げ、火をつけた。父の兄は泥をかぶり、布団を体に巻き付けて外に転がり出たが、見つけられた時、ピータンのようだった。その家族は、6人亡くなった。一家全滅が9家族、村で生き残った人は8人だけだった。
256 父が棺桶を用意した。遺体は腐敗していて誰の遺骨か分からなかった。
 111人の遺骨が洞窟内にあるが、数年前、政府がコンクリートで塞いでしまった。
 この場所を日本人が訪ねるのは初めてとのことだ。

加害と被害のはざまで

257 吉岡義一249は、絵と文章で打通作戦の体験を記録した。それを「熊本新老人の会」(以下、会)の方々が、『零の進軍』にまとめた。出版に際して、会の中から、「日本人の恥、皇国軍人の恥」と反対の声もあったが、会の提唱者の故日野原重明が、「事実を事実のまま出した方が良い」と言い、出版された。書名の「零」は、補給も見通しも、兵士の命もないという意味だ。
 吉岡は、歩兵銃を持ち、銃剣、手りゅう弾2発、榴弾8発、小銃弾60発を腰につけ、飯盒、鉄帽、スコップを括り付け、背嚢には小銃弾60発、天幕、着替え、米3升を詰め、水筒、防毒マスクをたすき掛けにし、肩の肉が抉られるようなこの装備で歩いた。
258 途中、米軍機の空襲を受け、突撃も命じられ、古参兵による私的制裁も理不尽を極めた。
 吉岡さんは民家に残された老婆と対面し、自らの加害性に冷や汗を流す。人殺しの毎日から抜け出そうと、逃亡も考えたが、「国賊」の汚名を家族が被ることを思ってやめた。

 被害と加害に関する戦場の記録を読むことは、戦争の現実認識に厚みを加える。
259 加害と被害に追い込んだ者に対して憤りを感じる。(異議あり、当時日本人全体が戦争を望んでいたのではなかったか。)

おわりに

戦いにありし月日の長ければしみつきしものひそかにあらむ

260 この歌は『生きて再び逢う日のありや――私の「昭和百人一首」』に収められている。作者は坂井春枝で、1942年の作である。編者は高崎隆治である。高崎は言う。「戦場で永かった者は、言い逃れが巧みで、証拠を突きつけられても非を認めない。利に対して動物的に敏感で、弱者に冷酷である。『略奪・強姦勝手次第』とは、南京戦当時の合言葉だ。その『しみつきしもの』が、戦後世代に受け継がれなかったという保証はない。」

261 雲南戦に参加した元兵士、大里巍は語る。「今まで戦争体験を縷縷語ってきたが、心の中の残忍さを、私はまだ語っていない。」「私は心の鬼を覗いてしまった。」


271「神戸・南京をむすぶ会」は、1966年に「丸木位里・俊とニューヨークの中国人画家たちが描いた南京1937絵画展」を開催した神戸実行委員会のメンバーが、訪中の際に作った市民グループである。1997年以降、毎年8月に南京市内外の南京事件の現場と、中国各地に残る日本軍の加害の現実、幸存者、関係者を訪ねている。1997年から2019年まで、2003年のSARSで中止した時を除いて、毎年訪中している。

神戸・南京をむすぶ会

代表   宮内陽子
副代表  門永秀次、林伯耀
事務局長 飛鳥田雄一 

〒657-0064神戸市灘区山田町3丁目1-1 (財)神戸学生青年センター内
TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878

以上 2020.2.11

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