2020年2月3日月曜日

『朝鮮近代史』 姜在彦(カンジェオン)1986 平凡社 感想


『朝鮮近代史』 姜在彦(カンジェオン)1986 平凡社


感想 2018726() 筆者の書きぶりは時に情緒的な印象を受ける。やはり在日とはいえ韓国を祖国としているという愛国心があるのだろう。
 西洋列強の攻撃にさらされたとき、日本が韓国と違って有利だった点は、将軍が、天皇や薩長を打ち負かすためにフランスなどの外国の武力援助提供を断ったことだと思う。その点で日本は韓国とは違う。韓国は中国やロシア或いは日本の武力に依存しようとしたため、自主的な政権運営ができなくなり、外国の干渉を招く原因となったのではないか。そうは言ってもそれは結果論でしかないが。
 一方韓国の歴史における長所は、農民=市民が蜂起するという熱い経験を積み重ねてきたことではないか。そしてそれが今の文在寅政権の源流となっているのではないか。他方、日本には民衆が立ち上がったという経験はあまりなかったのではないか。米騒動はあっても、組織的ではなかったようだ。韓国では東学=反西学派が組織的に民衆をまとめ、一時は全州城を奪い、閔政権に譲歩させたこともあった。


三政とは地税、軍役回避税、高利貸の三種の税金のこと。016
李氏朝鮮時代の儒教関係の学院(書院)は、両班儒生の朋党の温床で、保守的で利益独占をしたようだった。023
大院君とは、李氏朝鮮の国王・高宗(在位1863--1907)の実の父親で、政治の実権を握っていた人。それまでの国王の王妃系の親族関係者による政治の独占(壟断)を廃し、各方面から人材を登用し*、それまでの勢道政治014を廃した功績があったが、景福宮を建築し、多大の経費・困難を国民にもたらし、国民の反感を買ったようだ。024
*四色平等…老論、少論、南人、北人の四つの派閥

大院君は攘夷・反キリスト教主義者だった。

1801 辛西教難010
1839 己亥教難011
1845 丙午教難011
1866 丙寅教難026
1866 丙寅洋擾026 フランスの軍艦を撃退した。フランスがローマ法王によって朝鮮を担当していた。025フランス人宣教師処断に対する「問罪」=賠償・処罰を名目に、江華島付近で戦闘した。
1866 アメリカの軍艦シャーマン号を焼き討ちし撃退した。028
1868 チャイナ号、グレタ号による大院君の父・南延君の遺骨盗掘のたくらみの失敗。
『禁断の国――朝鮮紀行』オッペルト Ein Verschlossenes Land --- Reisen nach Corea 1880,  英語版 A Forbidden Land --- Voyages to the Corea 030
1871 辛未洋擾 コロラド号で シャーマン号焼き討ちに対する謝罪、難破船の救済と通商条約の締結を武力で強制したが失敗した。032
『隠者の国――朝鮮』 Corea --- The Hermit Nation, 1st ed., 1882  032

『高宋実録』034
大院君の親書によれば、和解は売国であり、交易は亡国であり、王都を去ることは国を危うくすることだとした。
政府に招かれた在野の儒者・李恒老も、主戦斥和を主張した。「わが側」「賊側」「礼教」「禽獣の域」などと言う。
その弟子は、反日義兵運動のリーダーになった。金平黙、崔益鉉、柳重教、梁憲洙、柳麟錫などである。
衛正斥邪思想とは、正=正学=孔子・孟子・程子・朱子の学問の正統を衛(まも)り、邪学=西学=キリスト教を斥けるということである。
035 18世紀の後半には実学を唱えた人もいた。朴趾源(1737--1805)(『燕岩集』)やその弟子朴斉家などである。

第二章 朝鮮の開国と壬午軍乱

一 鎖国から開国へ
1873 大院君が閔氏の陰謀で摂政の座を降り、閔氏一派による勢道政治が始まった。閔氏一派の政策は親清・開国だった。
1868 日朝交流を求める日本の書契で用いられた「皇」「勅」の表現は、日本が朝鮮に対して上国として振舞う恐れがあるとして、朝鮮側は、訂正を要求し、その書契を受理しなかった。
それまで日本は、朝鮮国王に対して、「日本国王」や「日本国大君」と称し、対等の関係(伉礼)であったが、「日本皇帝」となると宗属関係を意味する。
倭学訓導・安東晙は「皇はこれ統一天下、率土共尊の称」「勅はこれ天子の詔令」不遜の文字であるとした。
 1866.12 中国広東発行の『中外新聞』は、日本が西洋の軍備学術を習い、八十余艘の火輪兵船を持ち、また中浜万次郎が上海で火輪船を製造して本国に廻航し、国中の260名の諸侯が江戸に会して朝鮮を征討する計画があることなどを報じた。清国政府はこれを朝鮮に密報した。
 日本は朝鮮の「侮日」を言い募り「征韓論」の世論を高めた。
 1875.4 在釜山外務省出仕の森山茂の副官広津弘信は寺島宗則外務卿に上申した。

…今彼(朝鮮)の内訌して攘鎖党(大院君派)未だその勢を成さざるの際に乗じ、力(武力)を用いるの軽くして(容易)事をなすの易からんには、即(ち)今我軍艦一、二艘を発遣し、対州(対馬)と彼国との間に往還隠見して海路を測量し、彼をして我意の所在を測り得さしめ、また朝廷時に我理事(森山茂)の遷延を督責するの状を示し、以って彼に逼(せま)るの辞あらしめば、内外の声援に因りて理事の順成を促し、また結交においても幾分の権利を進むるを得べきは必要の勢なり…(『日本外交文書』第八巻)

1875.5~6 江華島と本土間の水路は許可なく外国船が通過することを禁止していたことを知っていたにもかかわらず、日本の雲揚号は、「航路測定」を口実に航行し、江華島で砲撃を受けると、永宗島に上陸し、官衙(が)と民家を焼き払い、三十余名を殺戮した。
 日本政府は「飲料水を求めていた」と逆宣伝し、日本国民に排外的な雰囲気を盛り上げた。
1874 日本は、台湾原住民の「琉球人殺害事件」を口実に、アメリカ人リゼンドルの指導のもと、西郷従道指揮下に軍隊を派遣していた。
 日本政府は全権大使黒田清隆、副全権大使井上馨、六艘の軍艦に三百余名の兵員を乗せて「江華島談判」に望んだ。日本側は交渉失敗の際は武力に訴えるつもりで、政府の法律顧問ボアソナードに国際法から見た開戦の条件を研究させた。そして陸軍卿山県有朋は、朝鮮遠征軍を編成して下関に待機させ、三菱会社の船舶をここに集結させた。

一八七五年十二月九日米国公使ビンガムは外務卿より、日本の目的がペリーの故知に倣う朝鮮の平和的開国であることを聞いて諒解した。…ビンガムは井上副全権にペリー提督日本訪問の際の一随員テイラーの著『ペリーの日本遠征小史』を贈ったりした。(『日米文化交渉史』Ⅰ)

感想 201887() 治安維持法は日本国内でよりも朝鮮でのほうが激烈であったようだ。小林多喜二一人どころか、朝鮮人は日本軍・警察権力と果敢に闘い、何人もの人が拷問死している。日本の政治権力に対する抵抗は、日本の共産党の比ではなかったようだ。日本では結社するくらいだったが、朝鮮では武力蜂起もしている。それは時期尚早ではあった、と筆者は言っているが。朝鮮人には、ソ連の指令と中国の応援の下に、満州を根拠地にして満州や朝鮮北部で日本の官憲と武力衝突を繰り返す実力が最後まであった。


本書の要 日本の教科書はこれに関する詳細は触れていない。日本人に不都合なことは教科書では詳しく触れないのだ。
122 閔妃殺害の陰謀は、井上馨から長州軍閥で職業軍人の三浦梧楼への公使の交代によって計画的に行われた。またその殺害行為を朝鮮人の「訓練隊」になすりつけようとしたのだが、日本人の行為は欧米人に目撃されてしまった。
三浦は、大院君を担いだ朝鮮人の訓練隊が、王宮護衛の侍衛隊と紛争を起こし、それに対して日本守備隊が出動し、鎮圧したかのような芝居をしくみ、「居留民の重なる者を領事館に召集し、今回の事件が日本人とは無関係であると論達し、小官部下の官吏には、(真実を)口外せざる様取り計らうべし」(内田領事の報告)とした。
 侍衛隊教官のアメリカ人ダイとロシア人の電気技師サバチンは、日本人が王宮を襲い、閔妃を殺害する現場を目撃した。『ニューヨーク・ヘラルド』の特派員コロネル・コッケエリールは、これらの証人の目撃談を記事にして電送しようとしたところを妨害され、外交問題となった。124
 

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