2019年4月13日土曜日

『何が私をこうさせたか』獄中手記 金子文子 岩波文庫 2017.12 メモ・抜粋・感想


『何が私をこうさせたか』獄中手記 金子文子 岩波文庫 2017.12

底本 金子ふみ子『何が私をかうさせたか――獄中手記』(春秋社1931


序文 

本書は韓国映画『金子文子と朴烈』のストーリー以前の、彼女の生い立ちから朴との同棲生活に入るころまでのことを記述したものである。
金子文子は立松予審判事から本書を書くように命じられて書いたとのことだが、自らの死刑の可能性を知った後に書き始められた本書は、彼女の遺書とも言え、自らも「本書を世の親たち、教育家、政治家、社会思想家、全ての人に読んでもらいたい」と述べている。020
文子は5歳のとき父に捨てられ、8歳のとき母にも捨てられ、9歳から16歳までの朝鮮在住時にはブルジョワ的悪徳を代表するような父方の祖母に特にひどくいじめられた。文子はその時自殺しようとしたのだが、いじめた者たちに復讐するために生きるのだと堅く決意して自殺を思いとどまった。
そして東京の正則英語学校で知り合った苦学生たちから、アナキズムや社会主義の思想を知り、社会主義思想は自らの苦渋に満ちた半生をよく説明できる理論だと気づいた。
朴烈には、その詩を読んで強く惹かれるようになり、自分から朴に求婚する。朴はもう口や筆への興味を失っていた。上海や吉林から爆弾を取り寄せて、東京と京城で同時爆破する計画を立てていたと山田昭次氏の解説には書いてある。行動派である朴に、文子は惹かれたのかもしれない。
 山田氏の解説によれば、文子は死刑判決後、天皇による恩赦で減刑され無期懲役にされたことを示す文書を見せられたが、それを破り捨てたとのことだ。そして宇都宮刑務所栃木支所で縊首する。


メモ・抜粋・感想

 文子の父・佐伯文一は、母・金子きくの(きり)を遊びの対象としか考えず、籍に入れなかった。そのため文子は無籍者となり、小学校へも正式には通えなかった。*文子は勉強したかった。

*私設の学校や、もぐりで、普通の小学校に通学したことはある。また9歳の時、母の父親の金子冨士太郎の五女として入籍した。1912.10.14

父は母を捨て、文子は母に育てられることになった。父は母の妹・たかのに手を出したのだ。文子の弟・賢は、父と叔母に引き取られた。
 母は男がいないとやっていけないような弱弱しい女だった。母は、父に捨てられてから、何人か男を変えた。中村という年上の男、小林という年下の男。変えた理由は、ろくでもない経済力のない男だったからだ。貧窮のため、文子は母に女郎屋に売られるところだった。しかし、母が娘を遠くに行かせたくなく、娘を自分が見られる範囲に置いておきたかったために、その商談は不成立に終わった。
 小林の郷里である山梨県の山村・小袖に行ったが、そこへ実家の弟・金子共治が迎えに来て、それまでに生まれていた小林と母との間の子つまり文子の妹・春子を小林の下に置いて、母と文子は実家に帰ることになった。
 ところがそのとき母に縁談があり、母は私を置いて、金持ちの家(雑貨商)の古屋庄平の嫁になって行ってしまった。そうこうしているうちに、父方の祖母で、朝鮮に住んでいる佐伯ムツがやってきて、私を引き取るというのだ。その祖母の娘カメ(父の妹)は、朝鮮で岩下敬三郎と結婚したのだが、子どもが生まれないとのこと。私は祖母について行くことになった。岩下家は裕福そうだった。

感想 『寒村自伝』の荒畑寒村さんが、小学校しか出ていないのに文章が上手であるのと同様に、この金子文子も、小学校もろくに出ていないのに、*文章が上手だ。二人とも才能に恵まれていた上に努力を積み重ねたことの結果が、文章表現として表れたのだろう。また金子は記憶力が良い。五歳ころのことを記憶している。201947()

*その後文子は高等小学校を卒業し1917、東京で正則英語学校や数学の研数学館に通っている。
 
感想 ジャガイモ事件の中に日本のブルジョアのプロトタイプと進歩的西洋思想との対比が描かれている。先生の、労働すること、愛することの尊重、日本だけでなく他のどこの国でも同じことが言えるとする国際性、それに対して、祖母のブルジョワ的・差別的態度。

144 先生「不思議だろう!こんな泥みたいな(ジャガイモの)塊から芽が出てきて、それからまた子を産むんだ、そしてそれが人間の口に入って滋養になるんだ。だがだ、百姓のうちでこれは一番やさしい方だが、それでもほったらかしておいては好く実らない。充分可愛がって世話をしてやらなけりゃいけない。その骨折りは一通りでない。だからみんな、百姓を馬鹿にしちゃいかんぞ。百姓こそ日本国民の親だ。いや、日本だけじゃない。どこの国だって同じことなんだ。」
145 さらに先生は「人は互いに愛し合わなきゃいかん。いや、人ばかりではない。何をでも愛さなきゃいかん。だが、ほんとの愛は自分で骨を折って育てなきゃ起らない。」
146 先生「百姓を軽蔑しちゃいかん。百姓は生命の親だ。」
147 それに対して祖母(父の母)は言う。「今すぐ(百姓の授業を受けるのを)やめななきゃいけないよ。わしの家じゃ、月謝を出してまでも百姓なんか習わせる必要がないんだからなあ、それにせっかくだがお前なんかに百姓して稼いでもらわなくても、まだ生計(くらし)には困らんでな…」
「お前はよく下駄の鼻緒を切って来るが、ありゃきっと、あの、何とかいうブランコにぶら下がって飛んだり、男の子なんかと一緒になって跳ね回るからだろう。下司(げす)の貧乏人の子の真似ばかりしてさ。女の子なら女の子で、少しゃ高尚な女の子の真似でもしてみるがいい。」147 

感想 文子は賢すぎた。それを祖母は気に入らなかったのだろう。文子は11歳か12歳のころ、四桁同士の掛け算を暗算ででき、尋常二年のときは六年の読本が、三年の時には高等二年の修身が、たいした苦痛なしに読むことができたという。そして祖母がやるように言った学校の復習などいらないと祖母に言ったのだ。107, 108
文子は岩下家の後嗣ぎから下され、下女にされ、後嗣ぎは貞子という祖母の兄の子に回されてしまった。142

感想
1920年代は今と違って人々は早熟で、結婚する年齢が早く、性的にもおおらかで、悪く言えば性的に放縦だったのではないか。だから文子の父母のように、できちゃった婚が多かったのではないか。
 また世代の間隔が短く、祖父母の活躍する場が多かったのかもしれない。文子の父方の祖母のように、祖母が孫を育てることが、希なことではなかったのかもしれない。

153 朝鮮の叔父・岩下敬三郎は以前鉄道に勤めていた。体が弱かった。
155 カーキ色の憲兵が朝鮮人を裸にして尻を引っぱたいていた。
157 ジャガイモ栽培授業に対する祖母の悪い評価を、文子が先生に述べると、先生との関係も悪化してしまい、文子にとって学校も逃げ場でなくなってしまった。そんなとき文子にとって山=自然が唯一の救いの場となった。「自然は素直で、自由で、人間のように人間を歪めない。」
159 操さんは、福原という医者の細君で、祖母の姪である。
161 「いやならいやとはっきり言えばいいんだよ」と祖母が言うから、操さんの赤ん坊の子守をするのを断ると、祖母は文子を縁側から地べたに仰向けに突き落とした。祖母「百姓の鼻たれっ児の子守だったくせにさ。お前はうちにゃ用はないから出て行ってもらおうよ。さあ出て行っておくれ。たった今出て行っておくれ。」
165 朝鮮人の女性が声をかけてくれた。「またおばあさんに𠮟られたのですか。」「麦御飯でよければ、おあがりになりませんか。御飯は沢山ありますから。」と言われ、文子は「この時ほど私は人間の愛というものに感動したことはなかった。」しかし、祖母が「鮮人の家などで貰って食うような乞食は、うちに置かれない」と怒りだすのをおそれ、文子はそれを辞退した。
172 鉄道への飛び込み自殺や川への入水自殺など、一旦は自殺をしようと思ったが、ふと思いとどまり、「世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。私と同じように苦しめられている人々と一緒に、苦しめている人々に復讐してやらねばならぬ」と考え、自殺するのをやめた。

感想 日本ブルジョアのプロトタイプのような存在が、この岩下家の祖母だ。働かず、買い物を蔑視し、労働を蔑視し、自らをお金持ちだと自称し、衣服をめかし、着飾る。彼女がよく言う「出て行け」は、自らのような豊かな場所から、貧窮の場所へ出て行け、という意味である。

194 朝鮮の祖母はけちだった。
200 円光寺の千代さんが私を迎えに駅に来てくれていた。円光寺には父がかつていたことがあった。
201 母の実家に帰る途中で叔父の寺に泊まった。
206 私が朝鮮に行ってから、母は相変わらず男を何度も変えた。
208 「田原」は今母が嫁いでいるところらしい。
211 元栄(もとえい)という叔父は、彗林寺の望月庵に住んでいた。私はここが好きになった。エネルギーが出てきたように感じた。
218 父が興津に住んでいたころ、叔父がやってきて居候していた。叔父は坊主に飽きて、寺から逃げ出してきた。そしてその後船員になったが、一度航海して帰ったところを、家人に呼び戻された。
218 叔父の経歴。
224 私は浜松に住んでいた父について浜松へ行った。
227 父は私を坊主の叔父に嫁がせ、望月庵の財産を狙っていた。そして坊主の叔父は、処女である私の体を求めていた。
227 その叔父は水島という美人の女性の妹を追いかけたこともあった。
229 父は浜松下垂町の借家に住んでいて、恐喝の新聞記者をしていた。
232 父、叔母、弟が、毎朝床の前に座って、佐伯家系図に向って礼拝を捧げた。
233 私は浜松の実家女学校に通わされた。それは坊主の叔父の要望だった。
234 夏休みに母の実家に行こうと甲州に向った。塩山駅に着くと雨が降っていて、私が傘を借りに母の家に行くと、母は娘と話していて、結局私は傘を借りられなかった。母の家では、母に子どもがいないことになっていた、つまり私は存在しないことになっていたので、母以外の人に会うとまずかったのだ。
236 塩山駅に戻り、汽車酔いと雨にあたったのとで吐いてしまった。休んでいると、小松屋の叔父(浜松の叔母の妹の夫の弟)が来て、傘を借りてくれると言うのでついて行ったが、料理屋の二階に上げられ乱暴された。結局それは人違いで、甲州の叔母の家(母の実家)の近所の男だった。239

240 私は杣(そま)口の母の実家に帰って来た。千代さんの兄にも話を通され、寺の叔父と親密な千代さんの縁談が起った。千代さんと寺の叔父とを引き離すためである。
241 千代さんは、石和(いさわ)の、千代の姉の嫁ぎ先から急に呼び出された。
243 また母の実家の家人は、私を叔父から引き離すためにも、母の嫁ぎ先の二番娘であるよしえさんを叔父に奨めた。また叔父には、奈良の坊さんから、その娘の婿になってくれという話もあった。

244 小松屋の叔父や祖母、叔母とともに、私は活動を見に行った。
246 映画館の中で瀬川が話しかけてきた。
251 祖父たちは、私が叔父の寺に入り浸らないように、私は、小松屋に引き取られ、裁縫塾に通わされた。
252 瀬川は中学4年で退学し、私が小松屋に来た時分には、東京で簿記学校に通っていた。
253 千代さんは円光寺で叔父さんと最後の夜を共にした。
253 円光寺で千代さんの嫁入り祝いをしたが、千代さんは沈みきっていた。
255 千代さんの嫁ぎ先は医者であるらしく、彼女は叔父に捨てられたことも忘れて、新婚生活を楽しんでいるようだった。
257 私は官費で通える女子師範学校を出て教員になり、経済的に自立してから、自分の好きな勉強をしたいと考え、経済的支援を求めて、叔父にその話をしたが、叔父は受け入れてくれなかった。
259 叔父は私を祖母とともに浜松へ行かせ、後からやって来た。叔父は話が済むと、その日のうちに帰ってしまった。叔父は私が瀬川と遊んだことを理由に、父が持ちかけていた私との縁組を拒否したようだ。261 
263 たかのさんは父の妻である。
266 賢ちゃんは私の弟で、三つの時に父に引き取られていた。
270 賢ちゃんは中学に合格できた。賢ちゃんの通学用の靴の値段を実際よりは高く言う父を、私は父に聞こえるように批判した。父は私に暴力を振るい、「出て行け」と言った。父は家系や法律を重視し、賢ちゃんを法律関係に進ませたがった。しかし私は、父が賢ちゃんに強制するのを好まなかった。

280 東京の大叔父(祖父の三番目の弟)を頼って東京に出た。大叔父は古物商をしていた。
284 大叔父の長女の花枝さんは、婿として継母(はは)の甥の源さんと結婚させられていた。
288 電柱に貼られた蛍雪社(白旗新聞社)の求人広告には、「苦学奮闘の士は来たれ」と書かれていた。
292 私は英語を正則で、数学を研数学館で、漢文を二松学舎で学ぼうと学費を払ったが、二松学舎には一度も行けなかった。私は女学校検定試験を受け、女子医専に行くつもりだった。
293 白旗新聞社の従業員の中には、藤田、吉田、奥山という苦学生と、一般社員の「腕の喜三郎」(元工員で右腕をなくした男)、「長髪」、「ハイレキ」などがいた。
294 早稲田の哲学科を卒業した平田さんもいた。
297 路傍での新聞販売は4pmから12amまでの八時間労働であった。
299 新聞販売をしていた場所の近くで、救世軍が路傍で説教し、社会主義者が演説やビラ貼りをしていた。仏教救世軍も来た。
300 その社会主義者に原口という男がいて、パンフを40円のところ、原価の20円で売ってくれた。私は「仲間」になった。彼らは巣鴨の労働社の人たちだった。初めて私に本を渡そうとした男は高尾だったが、(仲間割れでもしたのか)高尾は米村に殺された。
305 同じ研数学館に通う学生で、伊藤という救世軍の軍人がいた。彼はキリスト教徒で、獣医学校の学生だった。
307 白旗には先妻と後妻と、さらに他にも女がいた。
311 夜中の12時に白旗の後妻が私の部屋で金勘定をするので、私はやむなくその間お勝手仕事をし、寝るのは午前1時から2時くらいだった。朝は7時に起き、子どもの通学の付き添いまでやらされた。朝の授業には1時間から2時間遅刻することが多く、居眠りばかりしていた。体が言うことをきかないのだ。
312 私は白旗新聞社を出ようとしたが、12円から13円の前借金があり、伊藤や原口(社会主義者)に相談しても頼りにならなかった。そして私が辞めそうだという話を耳にした白旗は、私を急に首にした。私が出るとすぐ、白旗は大叔父に私の借金を払わせたとのことだ。

315 私は伊藤に紹介された萩原という救世軍小隊長のところへ行った。ちょうど集会があり、伊藤も来ていた。私は救世軍の仲間になった。
319 伊藤は湯島の新花町に間を借りてくれ、伊藤の知り合いから粉石けんを買ってくれ、私は粉石けんの露店商人になった。
324 仕事の上がりは夜の10時で、11時頃帰宅した。遅くなって起こしては悪いと思い、神田明神の見晴台で野宿したこともあった。
325 私は露天商では上がりが少ないので、行商に転じてみた。
330 学校は正則だけにして、数学はやめた。学校では社会主義者の妹の河田から、弁当の一部をもらった。
332 代数の参考書を古本屋で売った。伊藤がたまには食事代を出してくれた。伊藤が私に日曜礼拝に必ず出て、奉仕もしなければならないと言ったので、私は言われる通りに、日曜礼拝に出て、下宿の便所掃除もした。
333 私は3日間何も食べなかった。伊藤が払ってくれた間代が切れて、私は追い出された。キリスト教の教えることは、ごまかしの麻酔剤に過ぎないのではないか、欺瞞ではないかと思う。

335 秋原(救世軍小隊長315)の世話で浅草聖天町の仲木砂糖店の女中になり、学校はやめた。337
仲木家には若夫婦の夫の弟の銀さんと、その下で末の伸ちゃんがいた。伸ちゃんは学校に通っていた。338 
社会主義者の、河田330の兄が印刷所を経営することになり、私はそこでの仕事を河田に勧められた。学校にも通えるという。しかし仲木家の大奥が私を引きとめ、その年いっぱいはとどまることになった。340
河田は伊藤への私の借金も肩代わりできるとし、25円送金してくれていた。私が今年中は仲木家で働くことになったからいらないと言っても、河田はそれを受け取らなかった。そこで私はこの25円を伊藤に送った。
342 私は伊藤にさらにお金や座布団や枕を送った。11月30日、伊藤は私に愛の告白をすると同時に、もうこれを限りに会わないと言って去った。

348 伸ちゃんは7時に家を出て学校に行き、銀さんは10時起床、大奥は11時に起床し、夜中の1時2時までしゃべっている。だから私は5時起床、午前2時就寝とならざるを得ない。
350 仲木は12月31日までの3ヶ月と1週間の給料として、僅か15円しかくれなかった。

352 私は「主義者」の間を一、二箇所居候した挙句、大叔父の家に戻った。大叔父から月5円の小遣いを貰って、学校へ通った。2円は月謝、2円30銭は電車賃。朝5時起床。
353 学校での知り合いに徐がいる。徐は社会主義者で、休み時間に『改造』を読んでいた。徐は一年後、朴(私が一年後に同棲した男)や私と機関紙を出したり運動したりした。しかし彼は病弱で、郷里の京城に帰って、私が入獄した最初の冬に病死したらしい。
354 もう一人の学校での知り合いの大野は、東京電鉄ストで首になったことがある「信友会」員だったが、「でも社会主義者」だった。
355 社会主義思想は今までの私の生活を整理してくれる理論だった。私は生命を犠牲にしても闘いたい

355 突然瀬川に会った。瀬川は私の消息を追っていたのだ。瀬川は役人になっていた。
356 父から4円だったか7円だったか送金があり、一度帰って来いというので、浜松の家に帰ったが、また喧嘩になって出た。
357 次に甲州の母のところに行ってみたが、母は田原家を出て、独り精糸場で働いていた。
358 私は八月末東京に帰った。瀬川博361の下宿へ行った。
360 瀬川の友人が二人来ていた。朝鮮人の(日本名は松本)とである。
361 瀬川は私に子どもができても「知らない」と言う無責任な男だった。瀬川は私をおもちゃにしていたに過ぎなかったということが分かった。
363 玄は東洋大学哲学科の学生で、朝鮮京城の資産家の一人息子だった。無責任な瀬川が、玄と話している私に干渉したので、私は彼に怒鳴りつけた。
369 玄から社会主義者の久能女史が病気だという電話があって行ってみると、それは嘘だった。久能は三木本と大阪に行って不在とのこと。久能は私の着物を質流ししてしまっていた。私は労働社や社会主義者は信じられないと思った。

377 寺の叔父が病気で、東京の病院で診察してもらうために、大叔父を訪ねてきたので、わたしは叔父を連れて病院めぐりをした。叔父はやつれていて、私は別れるときこれが最後の見納めだと思った。
378 趙や玄はドイツへ留学するという。「それは結構です」と私は言った。玄は私に、一緒に住むための家を捜そうなどと言っていたのだ。

380 私は日比谷の小料理屋で働くことにした。主人は社会主義の同情者で、私の夜学校の月謝と電車賃を持ってくれた。
学校で新山初代に会った。初代は当時21歳で、郷里は新潟だった。
381 初代の父親は、初代が女学校2年の時になくなった。
382 初代は府立第二か第三を優等で卒業したが、妹がいたので、タイピストになって、正則の夜間部で英語を勉強していた。
384 私は初代から『労働者セイリョフ』や『死の前夜』などの本を借りて読んだ。初代から、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲルや、スティルネル、アルツィバーセフ、ニーチェなどの思想を、少なくともその名を知った。
学校近くの、玄の友人鄭の下宿で、玄から私宛の手紙を読み、「母が危篤のため急いで出立した」とあったが、それもまた嘘だった。
鄭が発刊しようとしていた月刊誌の最後にあった詩に私は感動した。その詩の作者は朴烈であった。
385 私は苦学するのをやめた苦学しても偉い人間になれるはずがない、偉い人間は下らないということが分かったからだ。
389 今夜美土代町の青年会館で開かれる「社会思想講演会」に初代を誘って行った。
389—390 すばらしい筆者の決意をまとめた一文がある。(後述)
391 鄭の宿へ行き、朴烈に会った。
392 朴烈は、中華青年会館でのロシア飢饉救済音楽会に参加していたのではないかという私の質問に答えず出て行った。
395 私は朴烈を待ったが、彼は現れなかった。私はタイピストになろうかとも思った。3月5日か6日ころ、朴が私の店にようやくやってきた。
399 私は朴に求婚した。
401 私は朴が独立運動をする民族運動者ならいっしょになれないと朴に言った。
402 朴は慶尚北道の農家で常民として生まれた。彼の父親は、彼が4歳の時なくなった。彼は7歳の時村の寺子屋に通い、9歳の時新設された普通学校に通った。百姓もした。
朴は15歳の時大邱の高等普通学校に合格し、早稲田の講義録を取り寄せた。
朴は民族運動では指導者が変わるだけだと考え、17歳の時東京へ出た。口や筆への興味を失った
404 朴は木賃宿での生活や秘密出版を私に提案した。私がクロポトキンの『パンの略取』の翻訳を提案すると、朴は自分たち自らの言葉で書きたいと言った。
私は学校を卒業してから朴と一緒になることを心の中で朴に提案した。

以上


389—390 筆者の決意をまとめたすばらしい一文がある。おそらくこれはアナキストの立場なのだろう。(抜粋)

 この頃から私には、社会というものが次第に分かりかけてきた。今までは薄いヴェールに包まれていた世の相(すがた)が段々はっきりと見えるようになった。私のような貧乏人がどうしても勉強も出来なければ偉くもなれない理由も分かってきた。富めるものがますます富み、権力のある者が何でもできるという理由も分かってきた。そしてそれゆえにまた、社会主義の説くところにも正当な理由のあるのを知った。
 けれど、実のところは私は決して社会主義思想をそのまま受け入れることが出来なかった。社会主義は虐げられたる民衆のために社会の変革を求めるというが、彼らのなすところは真に民衆の福祉となり得るかどうかということが疑問である。
 「民衆の為に」と言って社会主義は動乱を起こすであろう。民衆は自分たちのために起(た)ってくれた人々と共に起って生死を共にするだろう。そして社会に一つの変革が来たったとき、ああその時民衆は果たして何を得るであろうか。
 指導者は権力を握るであろう。その権力によって新しい世界の秩序を建てるであろう。そして民衆は再びその権力の奴隷とならなければならないのだ。しからば、××(革命)とは何だ。それはただ一つの権力に代えるに他の権力をもってすることにすぎないではないか。
 初代さんは、そうした人達の運動を蔑んだ。少なくとも冷ややかな眼でそれを眺めた。
 「私は人間の社会に対してこれといった理想を持つことができない。だから、私としては先ず、気の合った仲間ばかり集まって、気の合った生活をする、それが一番可能性のある、そして一番意義のある生き方だと思う」と、初代さんは言った。
 それを私たちの仲間の一人は、逃避だと言った。けれど、私はそうは考えなかった。私も初代さんと同じように、既にこうなった社会を、万人の幸福となる社会に変革することは不可能だと考えた。私も同じように、別にこれという理想を持つことができなかった。けれど私には一つ、初代さんと違った考えがあった。それは、たとい私たちが社会に理想を持てないとしても、私たち自身には私たち自身の真の仕事というものがあり得ると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私たちの関したことではない。私たちはただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をすることが、私たち自身の真の仕事である。
 私はそれをしたい。それをすることによって、私たちの生活が今ただちに私たちと一緒にある。遠い彼方に理想の目標をおくようなものではない。

感想 私の立場はこれと異なる。これは良いと同時に悪くもある。良いというのは、気楽で、自分の現実を肯定できるからだ。悪いというのは、それは自己満足にすぎない、政治権力が社会全体に及ぼす影響を見ていない。それは「逃避」だと本文では言っている。
これは共産党に対する見方にも及ぶ。アナキストは言う。共産党も支配者だ。共産党の支配下でも民衆の生活は以前と変わらないと。しかし、私は永遠の過渡期と捉えたいのだ。そうでなければ進歩を放棄することになる。共産党を修正して行かなければならない。それは今の日本会議を修正しなければならないのと同じだ。好きなもの同士の殻に閉じこもっていてはいけない。
ただし再読してみると、彼女が最後で語っている「自分の仕事」は、案外私が考えていることと同じなのかもしれない。2019411()


金子文子年譜

429 転居先の山梨県小袖は、母の第三の夫(愛人)小林の郷里である。1910
430 次の転居先の山梨県杣口は、母の実家である。1911
431 本文に出てくる寺院名や人名が、実際と異なるものが二つある。

一つは、本文で彗林寺は、実は恵林寺、1919
もう一つは、本文で救世軍の伊藤は、実際は鈴木音松である。1920


解説 山田昭次

410 1924.1.22、文子は東京地裁での尋問で、皇族や政治の実権者に対する爆弾攻撃をばらした。「両者の階級に対し爆弾を投げ様かと考えたこともあり、朴と同棲後其の話合をした事もあった位であります。」(再審準備会編『金子文子・朴烈裁判記録』黒色戦線社、1977
1924.1.25、尋問で、文子は、皇族と政治の実権者に対して爆弾を投げるために、朴烈と相談の上、朴がアナーキスト金重漢に、上海からの爆弾入手を依頼したことがあったと陳述した。(前掲書)
412 1925 夏か秋、文子は本書を執筆し始めた。

413 1926.3.25、若槻礼次郎首相は死刑判決後、死一等を減ずることを摂政宮(後の昭和天皇)に上奏した。
1926.4.5、恩赦で無期懲役に減刑された。若槻首相「聖恩の広大なる事誠に驚懼の至りに堪えません」
江木翼(たすく)法相「我が皇室の仁義の広大である事を証するもの」
414 文子は減刑状を破り捨てた。朴烈は受け取りを拒否したが、秋山要・市ヶ谷刑務所長の途方にくれた顔を見て、「君のためにその恩赦状を預かってやろう」と言って受け取った。
秋山要市ヶ谷刑務所長「朴烈と文子は感謝して受け取った」と記者団に発表した。

414 文子の死後について。
415 1926.11、文子の遺骨は、朴烈の故郷である韓国慶尚北道聞慶郡麻城面梧泉里の北方8キロの同郡聞慶面八霊里の山に埋葬されたが、憲兵は墓参を許さなかった。
415 1973.7.23、墓碑『金子文子女史之墓』の除幕式が、前記の墓地で行われた。
2003、前記の墓は、韓国の朴烈の実家の裏に移された。
428 2012.10.9、韓国慶尚北道聞慶郡麻城面梧泉里に、朴烈義士記念館が設立された。

416 1903.1.25、文子は横浜市で生まれた。
426 1922.4・5、東京府荏原(えばら)郡世田谷池尻の下駄屋の相川新作の家の二階の六畳の間を借りて朴烈との結婚生活を始めた。
426 1923.3、東京府豊多摩郡代々木富ヶ谷の借家に転居した。
427 1923.4中旬、朴烈と文子は不逞社を組織し、最初の集まりを持った。

416, 425 朴烈について。
1902.3.12、慶尚北道聞慶郡麻城面の地主の家で誕生したが、その後朴の家は没落し、慶尚北道尚州郡化北面の小作人となった。
1919.3.1、独立運動に参加し、独立新聞を発行した。
1919.10、東京に来た。
1920.11、朝鮮人苦学生同友会が設立され、幹部となった。
1921.10、無政府主義や社会主義の在京朝鮮人学生や労働者で組織された義挙団に加入し、上海から爆弾を入手して東京と京城で同時に使う計画を立てた。
1921.11、朴烈、鄭泰成、白武、金若水などの、無政府主義思想に共鳴した在日朝鮮人が、黒濤会を結成した。
1922.7.10、黒濤会の機関誌『黒濤』を創刊した。
 朴烈は、ソウルの金翰(ハン)を通じて、日本の支配者や朝鮮人親日派に対する暗殺計画を目的として中国東北地区吉林に朝鮮人が結成した義烈団から爆弾を入手しようとしたが、実現できなかった。
1945.10.27、秋田刑務所から出獄した。
1946.1.20、新朝鮮建設同盟を組織して委員長に就任した。
1946.10.3、前記同盟が、在日本朝鮮居留民団(民団)に改組され、その委員長に就任した。1949.4.1・2、民団全大会で団長選挙に敗れた。
1950、韓国に帰り、朝鮮戦争中に北朝鮮に連行された。
1956.7.2、在北平和統一促進協議会の常務役員となった。
1974.1.17、死去。享年77歳。

414 文子は自伝の原稿と、その添削についての希望も添えて、不逞社の仲間である栗原一男に渡した。文子の死後五周年にあたる1931.7、『何が私をかうさせたか』が、栗原の回想「忘れ得ぬ面影」を添えて出版された。
 1926.7.23 早朝、文子は宇都宮刑務所栃木支所で、麻縄で首をくくって自殺した。

参考文献 山田昭次著『金子文子――自己・天皇制国家・朝鮮人』影書房、1996

感想 2019412()
 文子が皇族や政治の実権者に対する爆弾攻撃の計画をばらしたのは大逆事件1911の後だから、文子が大逆罪を知らなかったはずがないと思われるのだが、なぜばらしたのか。類が朴烈を始め、仲間に及ぶことが分からなかったはずがない。なぜか。ひょっとして彼女は、そんな配慮などどうでもいい、死などどうでもいいなどと考えていたのだろうか。それが彼女の美学なのだろうか。それとも拷問のせいでばらしたのか、詳細は分からない。

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