2019年4月5日金曜日

『「慰安婦」公娼説を論駁する 国際公聴会の証言を読んで』金井正之 2019年4月3日(水)


『「慰安婦」公娼説を論駁する 国際公聴会の証言を読んで』 金井正之 201943()


序言 

右翼は言う、戦前の「慰安婦」事業に日本の軍事政権は関与していなかった、従って「慰安婦」は、戦前まで一般的に行われていた公娼だったとしか考えられないし、また商売なのだから、強制的に連行したなどとも考えられないと。この説は本当なのだろうか。そう考えたい右翼は、戦前の日本軍が一般市民である少女を性奴隷にするために各地に連れて行ったなどというみっともないことを認めたくないのだろう。日本軍がそんなことをするはずがないと。だから彼らは、一般市民の強制連行だったと認める人たちを「日本を貶める」とか「国賊」とか「売国奴」などと言うのだろう。
しかし本当だろうか。以下『昭和天皇の終戦史』(吉田裕 岩波新書 1992)と『「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録』東方出版 1993.5 の証言に基づいて論駁する。



①強制連行での軍関与の否定をほのめかす2007年の閣議決定

安倍晋三が「人さらいのように連れて行った事実があったかどうか証明されていないことは閣議決定している」*(2012.11.30付『日経』)と言う中の「証明されていない」とは、「旧日本軍の資料によって証明されていない」ということであろう。ここで安倍が、旧日本軍の資料のような、最初から見つからないと分かっている資料を見つけようとし、それをあたかも資料が廃棄処分されずに沢山残っているかのようなそぶりをし、それを調べてみて見つけられなかったという欺瞞的な言辞をはいていることに注目すべきだ。

*「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行直接示すような記述も見当たらなかった」と閣議決定した。*
*ネットで調べてみると、これは2007.3.16の、「辻本清美君提出の質問に対する答弁書」を指し、それが閣議決定された後に示されたということらしい。

安倍はこうして「元『慰安婦』の証言の裏づけとなる資料は無かった。だから元『慰安婦』の証言は信憑性に欠け、疑わしい」という結論を導き出すのだろう。
また「直接」という表現の中に、「人さらい」ではなく「騙して連れ去ること」は含まれないということを含意しているようだ。ずるい表現だ。そしてその含意は、「騙すことは強制ではないから許される」ともとれる。1992年1月、吉見義明・中央大学教授が防衛庁図書館で発見した、旧日本軍が慰安所設置や慰安婦募集統制に関与していたことを示す資料は覆せないことを意識した表現なのだろう。騙して連れ去ることは強制ではなく、同意なのだろうか。後に示す元「慰安婦」の証言を一読されたい。


反証① 最初から見つけられないと分かっていて資料を見つけようとしたということの根拠

市ヶ谷の陸軍省や参謀本部は、駐留軍が上陸するまでの二週間に証拠隠滅の為に書類を延々と燃やし続けたと言う。

『昭和天皇の終戦史』(吉田裕 岩波新書 1992)によれば、

機密文書の湮滅(いんめつ) ニュルンベルク裁判では、ドイツ国内に進攻した連合軍が押収したドイツ側の文書の中から、ナチスの犯罪を立証できる証拠書類を入手できたが、東京裁判では、連合軍の日本本土への侵攻直前に「終戦」となり、ポツダム宣言の受諾決定から最初の米軍先遣隊が厚木飛行場に到着する八月二八日までのほぼ二週間の間に、日本側は軍関係文書を焼却した。「終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から、全陸軍部隊に対して、機密書類焼却の依命*通牒が発せられ、市谷の黒煙は、8.14から16までつづいた。」(元陸軍大佐の服部卓四郎『大東亜戦争全史』)
*文書などによる代理権による命令。
176 憲兵司令部は、8.14・15日、「秘密書類の焼却」を各憲兵隊に通牒を発し、8.20日、再度通牒を発し、「引き出しの奥」「机の脚の下等に挟んだもの」「棚の奥または下等に落下したもの」「焼却場に焼き残りたるもの」「参考書に綴じ込みたるもの」「床下に散乱せるもの」「家宅捜査を考慮して各自の私宅に所有しある書類ならびに手紙類にいたるまで全部調査焼却すること」と徹底した。(「極東国際軍事裁判速記録」第148号)
177 軍の焼却命令は、市町村レベルの兵事文書にまで及び、警察のルートを通じて、陸海軍の動員関係の書類の焼却が、各市町村の兵事係に命じられた。そして動員関係以外の兵事文書まで全て焼却してしまったようだ。(『村と戦争』)
 また軍は、各新聞社に対しても、「戦争に関する記録写真をすべて焼却すべしという圧力」をかけ、毎日新聞社などを除く多くの新聞社で、フィルムや乾板の処分が行われた。(『新聞カメラマンの証言』)

安倍日本会議は、河野談話における「軍の関与」がよっぽど気に入らないらしい。あくまでも「公娼」や「商売人」だったとしたいらしい。証拠資料を燃やしたり、嘘をついたりするのは、彼等にも悪いことをやってしまったというそれなりの良心のかけらがあるのだろうか。


②1994.5、永野茂門(しげと*)法務大臣が「慰安婦は公娼であり、それを今の目から、女性蔑視とか韓国人差別とかは言えない」と発言し、アジア諸国から反発を受け、引責辞任した。

*永野茂門1922—2010 は、日本陸軍軍人及び陸上自衛官で、退官後、参議院議員を二期務めた。

③1996.6、奥野誠亮(せいすけ、せいりょう*)・自民党「明るい日本」国会議員連盟会長は「慰安婦は商行為強制連行はなかった」と発言した。

*奥野 誠亮(おくの せいすけ、1913年(大正2年)712 - 2016年(平成28年)1116日)は、日本の内務官僚、政治家。「おくの せいりょう」と呼ばれることもある(有職読み)。浪速製氷冷蔵社長、奈良県議、御所町長を務めた奥野貞治の子。

奈良県御所市出身。みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会初代会長平城遷都1300年記念事業協会特別顧問。奈良大学理事。

第二次世界大戦中の昭和18年に鹿児島県警察部特高課長として新興俳句弾圧事件の一つであるきりしま事件を指揮。

長崎への原爆投下がされた翌朝に、内務省が各省庁の官房長を集めて会議を開いたが、当時、同省地方局戦時業務課の事務官をしており、ポツダム宣言に「戦争犯罪人は処罰する」(第10条)と書かれていたため、戦犯を出さないように公文書の焼却(=証拠隠滅)を提案した[1]。(出典は「戦後70年 あの夏 占領前文書焼却を指示元法相 奥野誠亮さん」読売新聞 2015810日)

④2013.5、橋下徹大阪市長が、「慰安婦制度は世界各国の軍が持っていた」「慰安婦制度は必要だった」「米海兵隊は風俗業を活用して欲しい」と米を挑発した。

 前記②③④のように、「慰安婦」は本当に公娼だったのだろうか。ただし、④は、②や③と違って、軍による慰安婦制度の存在を公言しているだけに、さらに挑発的である。


反証②

金学順さんの証言ばかりが元慰安婦の証言ではない。次の証言を読むと「軍の関与がなかった」などとても言えないことが分かる。元慰安婦の証言は生々しい。

『「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録』東方出版 1993.5(英語版は1993.6)によれば、

韓国馬山*出身の元「慰安婦」の女性姜順愛(カンスネ)は「弟よ、私を避けないで」と題して、次のように証言した。(段落最初の数字は英語版のページを示す。)

*馬山は釜山の西方にある。

016 私が11歳の時、私の家族は永久の住処とすべく、私たちの故郷である慶尚南道(South Kyongsang Province)の馬山に戻った。私は1927年12月15日、東京で生まれ、11歳の時までは、韓国と日本とを行ったり来たりしていた。

父、母、兄弟の苦悩

父は16歳の時、測量技師として、釜山の影島Yongdo橋の建設現場に連行され、強制的に働かされた。その橋が建設されると今度は日本に送られ、東京の橋の建設の測量技師として働かされた。父は韓国に一時的に戻るとすぐに母と結婚した。結婚一ヶ月後、父は日本に戻り、私の姉が二歳になるまで、韓国に戻らなかった。この時一家はそろって東京に移住することになり、そこで私が生まれた。私が三歳の時、私たちは韓国に戻り、そこで弟二人が生まれた。
 私が7歳の時、また日本に行くことになった。今度は私の伯父も同行した。父は京都のトンネル工事の現場主任として掘削作業にあたり、母はそこで200人の作業員のために食事を用意した。ある日韓国人の作業員が、シャベルで頭を殴られた。彼が一瞬背を伸ばそうとしたことが、勤務怠慢だとされたのだ。その作業員が血を流して地面にくず折れると、父は怒って日本人に頭から突進した。父は投獄された。
 父が解放されてから数ヶ月後のこと、ある日本人が母の左手の甲を日本刀で切りつけた。食事を速く出さないからと言うのだ。母の四本の指の筋が切られた。父はその日本人の首を殴りつけた。父はその男を殺しはしなかったが、また父は投獄されることになった。
017 姉は10歳の時、ある日本人に連れ去られた。その男は、姉が大村武夫という日本人警官の家族の子守になるだろうと説明した。当時私は8歳だったが、それ以来姉の消息はない。
 私が「慰安婦」の生活を終えて家に戻ったときには、Tae Jinという私の上の方の弟は亡くなっていた。日本人警察官の岩本という男に、刀剣の鞘で殴られて死んだのだ。母と一緒に飲み水の配給をもらいに行ったとき、その男が退けと言って弟を殴り、殴られた弟は冬の凍りついた地面にくず折れて死んだのだという。弟が11歳の時であった。

日本の国歌「君が代」を歌うことと引換えに米の支給

 私が14歳だった時の4月、1941処女供出」がますます激しくなった。当時の韓国人は、日本人警察による若い韓国人女性の捕獲のことをそう言っていた。私は捕獲されるのではないかと恐れ、14日間火葬場の中に隠れていたが、結局家に戻った。当時既婚女性は捕獲から免れていたので、母はピニョpinyoという既婚女性だけが普段身につける簪を作ってくれた。母は割り箸でこれを作り、私が警察に未婚だと分からないようにしてくれた。
 ある日私はこの簪を身につけて小麦の麩(ふすま)を集めに母と一緒に新馬山の埠頭にある精米所に行った。当時村人たちは新馬山駅の前で月に一度配給品を受け取っていた。私たちは僅かな米と二合(0.36 リットル)の小麦と靴(komshin)を配給されていた。日本人が私たちに彼らの国歌を歌えと言い、私たちが歌えなかったり、歌わなかったりすると、何もくれなかった。私の祖母が彼女の配給品を受け取りに行った時、祖母は日本の国歌を歌えず、結局泣きながら手ぶらで帰って来た。
 精米所で小麦の麩を集めていると、30歳くらいの、村長の息子Kim Yong Maが、二人の軍人と一人の警官とともに近づいてきて、私の祖母が君が代を歌えず、これから配給品を受け取れないことになるだろうし、私なら君が代を歌え、祖母の配給品も受け取れるだろうからと言って、私に配給品を受け取りに行ったらどうだと言った。すると警官が私の腕を掴み、私を配給所に連れて行った。私は役人の前で君が代を歌い、米を受け取った。その米の量はいつもの二合よりも多かった。私はさらに缶詰と、弟や祖母のための黒いゴム靴を二足もらった。この話が村中に広まると、村人は、これまで隠れていた娘を配給所にやり始めた。これはおとりだった。警察は馬山の娘を捕らえることができた。捕獲された少女たちの数は、総計14人であった

以上読んでみると、これは騙しである以上に、村長、警官、軍人が関わり、腕を掴んで連れて行くなど、実質的に「強制的」であったと言える。
それとこれは国家的・組織的・計画的な事業であり、業者が売春婦を連れ歩いていたというレベルの話ではないことが分かる。

日本軍人に捕獲される

1941年4月中旬、私が配給品を受け取ってから三日後に、私は祖母の誕生日の準備をするために祖母と新馬山の市場へ出かけ、市場で購入したいわしをかごいっぱいに詰め込んで家に帰って来た。家に着くと腕に赤い腕章をつけ、銃剣を肩に担いだ三人の軍人が来ていた。彼らは私について来いと命令した
019 父がいきなり家の中から出てきて、軍人の一人の制服の襟を掴み、自分の首を指差しながら、「娘に何かする前に、俺を殺せ!娘は連れ去らせないぞ!」と叫んだ。軍人が父を押しのけると、父は釜のそばの地面に倒れた。父は包丁を掴み、立ち上がって軍人に襲い掛かろうとした。そうすると軍人は冷静になり、父に煙草一箱を渡し、私が日本に行って「大阪仲子(ナカシ)(?)」会社に勤めれば、お金を稼げ、専門的な技術を身につけ、二人の弟が勉強するのを助けることもできるだろうなどと説明した。結局父は家の中に引きこもり、母は気を失ってしまった。(こういうのを強制連行というのではないか!)
 私は鞄に荷物をまとめて軍人の後について行くしかなかった。後で知ったことだが、父はこの事件で馬山刑務所に拘留されたとのことだ。父は「赤城」とか言う裁判官の助けで釈放された。しかし、父は私に会いに釜山に来た時、このことを話してくれなかった。とは言っても、父はその時刑事に付き添われていたのだが。
 例の軍人は私を釜山駅前の蓮池洞Yongji-dong 大東旅館“Daito(?) Innへ連れて行った。旅館の前庭には警備員が配置されていた。中にはおよそ10人の女の子がいた。それは1941年4月中旬のことだった。私たちはそこで特に何をすることもなく一週間過ごした。私たちの滞在中に女の子の数が10人から35人に増えた。その中には、大邱出身で16歳のカン・クンスン “Kang Keun Soon” と14歳のカン・オクスン “Kang Ok Soon” 姉妹がいた。
 私たちはその旅館におよそ20日間いた。そのとき私たちは朝の5時半に起床し、中庭で30分体操し、「君が代」を歌い、その後訓練を受ける決まりになっていた。訓練は主に船酔い対策で、波の動きに逆らわないことだとか、口に糸を銜えることなどだった。
 出発前に私たちはそれぞれ、天皇の肖像が描かれた50銭(1銭=1円の100分の1)紙幣を渡された。また私たちは出発前に自分の家の住所と面会したい人の名前を書かされた。それから切手代として一人につき20銭徴収された。私は母の名前を書いた。しかし、翌朝10時に面会に現れたのは父だった。父は跪き、「順愛Soon E よ、我娘よ」と言って泣いた。

広島で「舞子」という名前をつけられた

 午後7時ごろ私たちは下関行きの船に乗り込んだ。下関に着くと、そこから広島行きの列車に乗り換えた。私たちが講堂(劇場)に着くと、私たちよりも前に30人の女性が来ていた。彼女たちは自分たちが韓国北部の有名なキーセン(芸者)でハチュンセン “Hee Chun Song” と呼ばれていると言った。彼女たちは年齢が20から30くらいで、満州に連れて行かれ、そこで二、三年過ごしたと言っていた。

キーセンが最初に慰安婦にされていたのか。キーセン以外にも公娼がいただろうから、そういう人達が最初に駆り出される可能性はおそらく高かったかもしれない。しかし、本証言で見るとおりの普通の女子も駆り出さなければ足りなかったのだろう。

 広島で私たち全員に日本名が与えられた。私には「舞子」という名前が与えられた。船の準備が整っていなかったので、私たちはそこで待機しなければならなかった。私たちは数ヶ月広島にいた。そこで私たちは船の乗り方を教えられたり、日本語の学習や体操をしたりした。またハチュンセン “Hee Chun Song” のお姉さんたちが、私たちに歌を教えてくれた。残りの時間は果樹園で作業した。みかんやイチジクを摘み取って箱詰めにした。私たちは果樹園で約2ヶ月働いた。
 私たちは夜間自由にトイレに行くことを許されなかった。それは私たちが逃亡するのを防ぐための予防的措置だったからだ。彼らは私たちがトイレに行く機会を利用して逃亡するのを恐れていたのだ。トイレに幽霊が出たという噂があり、それで私たちは夜トイレに行けなくなり、部屋の中のたらいを利用せざるをえなかった。しかし二人の女の子が実際トイレに行ったのだが、一人は気絶して死んでしまった。後で私たちは幽霊を捕まえたが、それは幽霊ではなく、二人の日本人の男と女だった。次の日、軍の高官が来て、私たちが夜トイレを使えるようにしてくれた。
 また私たちはこの講堂の近辺に、民家や売春宿があると聞いた。

船で連れ去られる

 5、6ヵ月後、私たち一人ひとりに、一重の着物やパンツ二枚、スニーカー一足、足袋(着物用の日本の靴下)一足、タオル、ハンカチ二枚、白粉、クリーム、櫛、爪切り、リボン、髪留め用のゴムなどが支給され、「すぐに家に帰れるから、心の準備をしておくように」と言われた。(ここでも嘘をついて騙す!)また私たち各人は50銭を与えられ、それで私たちはコチュジャン(韓国の香辛料)や唐辛子、ニンニクなどを買った。夕方近くに私たちは集まって喜んだ。
021 5日後、私たちは埠頭に連れて行かれた。その日の朝、私たちは夜明けに起こされ、「船のデッキに着くまで、よそ見をしないでまっすぐ歩け」「二列で歩け」「海面を見るな」などと注意を受けた。(私の記憶では、私たちが乗り物で埠頭までたどり着いたという記憶はない。)
 乗船後私たちは日本人将校から、命令に従っていさえすれば何も心配することはないと言われた。私たちが乗船すると、韓国北部出身のキーセンのお姉さんたちの姿が無いのに気づいた。船中で私たちは栗本准尉Sergeant Majorと木村軍曹Sergeant First Classの支配下にあった。二人とも神戸出身だった。
 翌朝トイレからの帰途、私は二人の韓国兵に会った。彼らはイム・チャンスIm Chan Soo少尉とヤン・オンチョルYang On Choi少尉だった。二人とも慶尚北道North Kyongsang Provinceの出身だった。彼らは17歳の時志願兵として徴兵され、これまで満州で軍務についていた。(満州から南方への作戦変更、対ソ戦から対米英戦への作戦変更に伴い、軍人も慰安婦も南方に移動されたことが分かる)二人が言うには、この船は女性たちを連行するために南太平洋に向かっているとのことだった。またこの船の名前は「水戸丸」といい、軍人を乗せた三艘の船と潜水艦という見張用の海中の船を伴っていると、ヤン・オンチョルYang On Choiが私に説明してくれた。
 港を出航してから三日目の午前3時ごろ、船の底を目がけてやって来る明るい火の玉が見えた。それから爆発音がし、同時にサイレンが鳴り始め、船が沈みかけた。体ごと海中に引きずり込まれるような感じがした。二人の仲間が海中に投げ込まれ、それ以後二度と姿が見えなくなった。
 デッキではドラやサイレンの音がし、私たちは海中に飛び込むように命令されていた。私はとても怖くてそんなことはできなかった。むしろ私は友達とこの船と一緒にこのまま海中に沈みたかった。しかし、軍人が日本刀で私たちを脅しつけ、海中に飛び込むよう要求した。私たちは大きな風呂敷で頭を覆って飛び込んだ。私の隣の女の子も飛び込んだが、彼女は海中に沈んでしまった。波が高く上がり、私は右ひざの関節を痛め、以後トイレに行けなくなった。さらに左腿が裂けた。今でもその傷跡がある。
022 幸運にも私はヤン・オンチョルYang On Choiに助けられた。午後の4時か5時ころ、上空を3機の飛行機が飛び交い、紅白の旗で合図を送ってきた。その合図の意味は、「心配するな。諸君を救助する。」という意味だった。その飛行機の後を海軍の救助船が着いて来た。
 私たちは海軍島に連れて行かれた。その島には海軍基地があり、事故現場の近くにあった。そこで私たちはパイロット用の制服や靴下、底の平らな靴、陸軍の下着などを支給された。その日遅く私たちは空軍の制服を脱ぎ、短パンと半袖の陸軍用の服を与えられた。
 辺りを見回すと、二人の女性が亡くなり、生き残ったのは33人だと分かった。海軍島を去る前に、私は軍の高級将校のところに行き、その足にしがみつき、家に帰してくれとせがんだ。そうするとその将校は「よし」といい、私の頭をなで、私と一緒に泣いた。しかし暫くして「大阪丸」という大きな船が来て、私たちは南太平洋の島に連れて行かれた。船には大勢の軍人が乗っていた。

目的地 パラオPalau島の陸軍慰安所

 (パラオ島はフィリピンの東方にある。)

 この船に乗船していたある人の話によれば、私たちが広島を出航してから1ヶ月と3日で南太平洋のこの島に到着したとのことだ。私たちはパラオ島の本土町にトラックで連れて行かれた。この目的地に着くと「陸軍慰安所」という看板が眼に入った。私たちよりも先に来ていた女の人達が、私たちを出迎えにやって来た。医者も来て私たちを診察した。それから私を含む一番若い10人の女の子たちが、慰安所に配置された。咸鏡道Hangyong Provinceの元山Wonsan出身のキム・オクスンKim Ok Soonという女性が、慰安所の管理をしていた。彼女は私たちにドレスやハイヒールを支給した。彼女は、品川という、慰安婦を管理する将校と暮らし、慰安婦を監督し、私たちが間違いをすると、時々私たちをはたいた。
 慰安所には、玄関を入って右側に三部屋、左側に三部屋、そして奥の方に将校用の七部屋が配置されていた。建物の両脇に巨大な水のタンクが設置されていて、飲料用に雨水をためていた。沖縄出身の女性約十人が慰安所で働かされていた。私の部屋は狭く、一枚の毛布で部屋全体を覆うことができるほどだった。
023 到着した翌日から慰安婦としての私の生活が始まった。最初の日は13人を相手にしなければならなかった。午前9時から午後9時までは下士官を、午後9時以降は将校を相手にしなければならなかった。将校たちは一晩中留まっていたが、翌朝の5時か6時頃には立ち去った。
 軍人はやって来ると、受付に切符を渡した。その切符には彼等が所属する部隊の名前とスタンプが押されていた。切符は集められ、およそ週に一度の割合で、それぞれの部隊に返却された。暫くの間私たちは週一度の検診を受けた。担当医はユロロ病院 “Yuroro(?) Hospital” の軍医だった。この検診はアルコール消毒と「606号」という注射だった。痛みがひどいときはモルヒネかアスピリンの注射もした。さらに痛みがひどいときは、催眠剤をくれた。
 軍人にコンドームをつけさせるために、上の棚にコンドームが備え付けてあった。しかし全く何も装着しようせず、私がつけるように頼んでも、私の忠告を受け入れようとしない人もいた。それどころか私の腹を蹴っ飛ばすのだ。幸運なことに私は性病にかからなかったし、妊娠もしなかった。しかし今でも私はすぐ息切れがする。
 戦争中そういう軍人たちは自分勝手なことをやった。例えば彼らは女性が準備に手間取るからと言って、女性の乳首を噛み切ったのだ。女性の胸や性器を銃剣で抉り取る日本人軍人さえもいた。私たちが準備に時間がかかるのは当然だった。私たちが軍用のズボンを着いていたので、すぐには脱げなかったからだ。後で私たちは簡単な衣服とスリップを支給された。
 そこに滞在中、私を含めた一番若い10人くらいが選抜されて、一時期ガスパンGaspan(?) のウイヤマシWiayamashi(?)やサイパンに派遣された。そこでも私たちは慰安婦として働かされた。一日およそ15人の軍人を相手にしなければならなかった。私たち一人ひとりは薬袋を支給され、マラリアの患者の治療にも当たった。
 パラオ(コロール島か)に帰る途中、空襲がますますひどくなり、女の子一人と軍人二人が亡くなった。
024 食糧補給が尽きると、ジャガイモを栽培し、私たちも百姓仕事をし、その収穫物で何とか生きながらえた。後になって米軍の空襲が激しさを増すと、私たちは6000人を収容できる防空壕を掘り、その中に逃げ込んだものだ。防空壕の外に20張りのテントを張って、それを慰安所として用いた。テントの外で軍人たちが列をなした。私たちはこのテントの中で、一日に20人から30人の男の相手をした。彼らは私が従順でないと思うと、日本刀で私の右目や額の下、首の後ろ、頭などを斬りつけた。今でもその傷跡が残っている
 戦争が益々激しくなると、山の中にテントを張り、そこで私たちは一日に50人から60人の軍人の相手をした。一日が終わる頃には、私たちは気を失ってしまった。大村准尉が私たちをかばってくれた。本当にありがたかった。
 逃亡はあり得なかった。ある女性が将校を刺したが、将校は死ななかった。彼らは土盛をして、その中に彼女を首まで埋めた。彼らは私たちを集め、彼女の首が刎ねられるのを見させた。あまりにもぞっとする光景だったので、私は今でも過敏症や心臓病、胃炎などに悩んでいる。

爆撃で数箇所の負傷

 パラオ島に上陸して数ヶ月後に再び空襲が始まり、ユロロ病院 “Yororo Hospital” が爆撃された。爆撃が激しさを増したある日、私は防空壕に避難するときに負傷した。爆弾の破片が私の体内に食い込み、私は土の中に埋もれてしまった。幸い4人の日本人軍人が私を助けに来てくれた。この時私は両肩の下部に深さ15センチの傷を負い、臀部の肉が爆弾の破片で抉り取られ、脚の一部が感染症で壊死した。私たちはウイヤマシ “Wiayamashi” 023があるガスパン島 “Gaspan Island” へ避難した。ところが彼らは私に最も恐ろしくひどい生活を強いたのだ。こんな状況の中でも、彼らは私に慰安婦として働かせたのだ。そして食糧も殆ど底をついていた。
 暫くして私はカン・ウンチョル Kang Eun Choi から、広島に原爆が落とされたと聞いた。
 米軍が上陸する前に、大きな飛行機が一機、上空を飛んだ。この大きな飛行機が越山部隊 “Koshiyama Unit” の上空を飛んでいた時、日本人が高射砲でこの飛行機を撃墜し、その飛行機はパラオ島の南洋神社の向こう側に墜落した。私たちが飛行機を探しにそこへ行くと、飛行機は破壊されていなかった。中で二人の女性と三人の軍人が死んでいた。食糧と軍用品もあった。私たちはその軍需品をいくつかの部分に分けて運んだ。その日の朝、私たちは発見した肉でスープを作って食べた。
025 後になって部隊の司令官が演説し、あれはアメリカの偵察機で、女性は高級将校の娘だと話した。この事件の後で、日本の将校たちが自殺した。私たちはびっくりして軍人に理由を尋ねた。彼等が言うには、東京である事件が起こったということだった。
 9月中旬、米軍が上陸して来た。彼らは私たちを集合させ、私たちは取調べを受けた。彼らは通訳を通して、韓国人、日本人、沖縄人に分け、一人ずつ写真を取った。それから私たちは解放された。遂に私たちは米軍が手配した船で韓国に帰ることができた。
 私たちが馬山に着いたのは、陰暦で1945年12月31日(陽暦では1946年2月16日)だった。翌日は私の19回目の元旦であった。
 私は一人前の女性として立派に生きていくことができないほど、全身に怪我をし負傷していた。当初私は結婚する機会がなかった。年老いた両親の世話をした後の、33歳だったころ、私は年下の夫にめぐり会えた。私たちはともに生活し、助け合った。彼が今年の3月に亡くなり、今私は全くの孤独である。私は生活の糧に花を栽培しているが、最近では視力が衰え、もう働き続けるのが難しい。医療費も大きな負担である。
 私は夫が死ぬ前は秘密を打ち明けたくなかった。私の過去が人にさらされるのは、ひどく恥ずかしかったからだ。しかしもうその夫も死んでしまったのだから、それに私のただ一人の生きている弟でさえ、私が慰安婦だったことをひどく嫌って私を避けることに対する憤慨が益々高じたので、私はこの忌まわしい社会に向って私の名誉を回復したいと強く思っている。
 私と同じ境遇の他の犠牲者たちが、人道的な行為を避け続けている日本政府を相手取って闘っていることを知り、言い表しようのない屈辱と迫害を受けた一人の人間として、私の経験を語ることによってこの問題を解決するために私の一生を捧げたいと私は決意した。
026 日本が過去の自らの残虐行為を改めなければ、国際社会からの非難を逃れることはできないだろう。こういう結末にならない前に、今私たちが直面している問題が解決できることを私は切に望んでいる。


 以上の証言から分かることは、次の通りである。

①この女性が公娼ではなかったこと。当時韓国では「処女供出」=「処女狩り」として、日本の警察による少女の拘引が一般に恐れられていたこと。
②会社での仕事だから稼げると嘘をつき、また道中でも家に帰れると言って嘘をつき、遠い南太平洋まで少女たちを連れ出し、監禁状況で「慰安婦」を強制した。
③逃げられないということは、将校を殺害しようとした女性が残虐な公開処刑されたことから分かる。
④以上のことから、慰安婦制度は、業者による事業ではなく、村長、警官、軍人などが行った国家的事業でなくてはできない大掛かりな事業だったことが分かる。
⑤日本人軍人の中にも、少女が家に帰りたいと泣いてせがむと、同情して一緒に泣いてくれる人がいたり、一日60人もの相手をさせられ、人事不省に陥った女の子の面倒を診てくれる軍人がいたりと、日本人の中にも、置かれた状況の範囲内で少女たちに配慮をした人もいたようだ。


以上
201943()



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