2019年6月23日日曜日

ソウル旅行記 2019.6.4-7


ソウル旅行記 201964日(火)~7日(金)


 今回のソウル旅行の目的は、韓国との親善を目指すことがメインであり、それに実践的韓国語学習という目的もあった。

 この二つの目的はタイアップしており、私の言語能力が乏しいために、今回の成果はいずれも不十分なものでしかないという結果となったが、それは最初から分かっていたことだった。しかし、およその感じを実感として体感することができたことが、せめてもの成果だろうか。

 初日6月4日(火)

 金浦空港の税関を通った後、先ず眼に入ったのが、隣り合って並んだ二つの銀行の両替ブースの、元気な声で客引きをする若い女性たちだった。私は、その二つの声に合わせて、左右に揺れ動きながら、結局右側の窓口で一万円を両替することにした。
 次はインフォーメーションの日本語ブースで、韓国語や、韓国語で言えないときは日本語で、T-moneyカードをどこで入手できるかを尋ねてみた。戻って三階、あるいは、地下鉄の入り口周辺で買えるとのことなので、地下鉄に向った。
 とっつきの洋品店に入って、T-moneyカードをどこで入手できるか尋ねたが、ここでは扱っていないというだけで、どこで入手できるかは教えてくれない。こういうのが韓国人の日本人観かと思って、少々がっかりした。
 券売機が目に入ったので、少しいじってみた。
 次は、声を張り上げて食料品を売っている若い女の子にたずねてみたが、私の韓国語が通じないらしい、今度は女の子がスマホで日本語に翻訳してくれるのだが、その日本語も何を言っているのか分からない。そうこうするうちに事情が飲み込めたらしく、彼女は相向かいのセブンイレブンを指差してくれた。私もこんな近くにコンビにあるとは、指差されるまで分からなかった。コンビニで売っているということは、前から私も知っていた。
 セブンイレブンでT-moneyカードを購入。これは現金のみで、カードは使えないようだ。T-moneyカードのチャージも現金でないと受け付けない。やはり、キャッシュは必要だ。T-moneyカードに券売機でチャージする。これは日本語、中国語、英語にも対応するようになっていた。

 次は地下鉄、どちらの方角へ行くかが問題。入り口が一つしか見あたらない、不安を感じながらも、ホームに降りて、並んでいる若い女性に尋ねてみた。「イ
チハチョル、チョンノ3ガエ カヨ?」(この地下鉄、チョンノ3ガへ行きますか)すると「ネー」(はい)と返って来て、ほっと一安心。後でよく見ると、ホームの乗り口上部に、次の停車駅と進行方向が矢印で書いてある。それにホームに降りる前に、二つのホームがある場合は、行き先と矢印が書いてあるので、それを見ればよいことに気づいた。

 チョンノ3ガで降りる。夜の八時だというのに、町は人々で賑やかだ。屋台があちこちに並んでいる。食べ物屋もあちこちにある。さてホテルはどっちか。ここで役立ったのが、なんといっても地図とシルバーコンパスだ。山歩きでシルバーコンパスの使い方を習ったことが、こういう都会でも役立つのだ。地図上で進行方向を定め、目的地に向う路地を突き止め、ゆっくり歩いて行くと、ホテルが薄暗い闇の中に現れた。事前説明の通り、ホテルの下にコンビニがあった。

 「アンニョンハセヨ」と言ったが、フロントの男性は日本語で対応した。
 ホテルのコンビニで明朝の朝飯用に、サンドイッチと牛乳を買って、帰りがけにフロントの女性に、「イー クンチョエ スーパーマーケット イッソヨ」(この近所にスーパーがありますか)と尋ねたところ、今度は韓国語で、よく聞き取れなかったが、「オルンチョゲ カソ フェンダンボドロ コンノミョン イッソヨ」(右に曲がって、横断歩道を渡ればありますよ)とか何とか言ったような気がした。翌朝行って見ると、確かに、ちょっと小規模ながらスーパーがあった。しかし朝早くてまだ開店していなかったが。

 6月5日(水)

 朝の運動をかねて、タプコル三一記念公園に行ってみることにした。今回もやはりシルバーコンパスが役に立った。公園内には朝の九時にならないと入れず、外から中の様子を塀越しに見たり、説明文を読んだりした。
 ここで韓国の現実を知った。日本でもあることだが、仕事にあぶれた大勢の老人たちが、この公園の周辺でたむろしている。中には将棋をしている人たちもいる。ちょっと異様な光景だったが、仲間と仲良くやっている感じ。ここに限らず、韓国の人は、仲間同士の仲がいいみたいだ。食堂でもほとんどがグループの客で、仲間うちで仲良く話しこんでいて、すまし顔をしている人は、あまり見かけない。
 仕事のない人は、ここに限らず、大通りの交差点の大きな木の下にもいたし、それとは部類が違うが、夜になると、じゅうたんを歩道に敷いて、夜店を開く人も多い。

 ホテルに戻って朝食を済ませ、一休みしてから、インサドン通りを歩いて、日本大使館前に行くことにした。
 インサドン通りはきれいだ。服や美術品を扱ったしゃれた店が多い。
 二つの地区の間で地図が欠けたところにあったため、日本大使館前の通りを見つけるのに失敗し、おかしいと思って引き返した。ついに日本大使館前の、例の慰安婦像を発見。12時にならないのに、既に、三、四人の初老の男女が、日本大使館に向って抗議の声を張り上げていた。何を言っているのか、その言葉を理解できなかったのが、残念だ。今度はもっと勉強して来ようと思う。慰安婦像と一緒に子どもの写真を撮影していた女性に、「チゴジュセヨ」と言って、私も慰安婦像と一緒に記念撮影してもらった。そして、その女性と、近所にいた初老の感じのいい男性にも、前から用意しておいた、私の元慰安婦のおばあさんあてのメッセージを渡した。そこには私のメールアドレスも書いてあって、もし相手にその気があれば、メールしてくれると期待するものだった。
 集会は12時始まりだというのに、中学生や高校生が、あちこちからぞろぞろ集まり始めている。あまり暑いので、12時になるまで、近くのスターバックスで一休みした。
 出て来ると、すでに集会は始まっていた。元「慰安婦」のおばあさんと思われる女性も演台に上っていて、中年くらいの女性が、おばあさんを聴衆に紹介しているらしい。
 おばあさんが退場すると、今度は同じく中年の女性が、気合の入った演説を始めた。そして演説の最後の方で、聴衆の中高生と意気を合わせ、一方、中高生の一部は、用意していたプラカードを演説する女性の掛け声に合わせて、高く掲げる。そうするように指示する女性も聴衆の横にいる。言葉の内容が分からないのと、およその雰囲気がつかめたのと、それにあまりにも暑いので、最後まで付き合わずに、そこを後にした。これが私の今回の旅行のメインなのだから、最後までいるべきだったのかもしれない。

 近所の光化門周辺を歩く王朝時代の行列を見たり、敷地内の博物館を見たりして、地下鉄5号線でホテルに帰って、一休みした。

 午後二時頃から、今度は駱山公園からソウルの町を展望しようと、ホテルから歩いて向った。地図上では大したことはないと思っていたが、予想以上に距離があって疲れた。途中でまた、二つの地区間の地図の途切れているところがあって、大学路についたかなと思ったら、まだソウル大学病院だった。病院の敷地を通過して、大学路を横断すると、徐々に上り坂になり、途中のきれいな喫茶店を通過し、少し頑張ると、ようやく頂上にたどり着いた。ここはソウルの町が一望できる場所なのだが、そしてそのことはいいことなのだが、残念なことを申し上げて申し訳ないが、大気汚染で、高いソウルタワーや近くの北漢山は、薄ぼんやりしていて、興ざめだ。
  疲れたので、帰りは地下鉄に乗って帰ることにした。4号線と1号線を乗り継いで、チョンノ3ガに到着、途中、トンデムンで下車し、清渓川の噴水を見物した。
 チョンノ3ガ近くの大通りの歩道上には、早くも夜店を開こうとして、露天商の人たちがじゅうたんを敷き、商品を並べ始めていた。

 6月6日(木)

 朝の散歩に、1987年の、独裁制からの解放運動の拠点となった、明洞のカトリック大聖堂へ行くことにした。インサドン4ギルと5ギル通りを通って下ると、意外と近いのだ。しかし、実際は往復で一時間半かかった。ここでもやはりシルバーコンパスが役に立った。朝早いのに聖堂の中には、静かに座って、何やら知らないが、祈りを奉げている人々がいた。

 ホテルに帰って一休みをして、今日のメインであるナヌムの家に行くことにした。13時の約束である。1時間半くらいかかると見て、10時頃出発した。
 地下鉄3号線の中で、私の両側に座った中年の男が話しかけてきた。私が地下鉄の地図を広げて、きょろきょろ現在地を確認していたからなのだろう。「オディソ ネリセヨ」(どこで降りるのか)などと尋ねられた。私が降車駅や今日の目的地がナヌムの家であることを明らかにしたら、握手を求めてきた。私は別れ際に、用意して来たメッセージを渡した。

 ナヌムの家は京畿広州駅からタクシーで20分、料金は1000円くらい。ナヌムの家には、すでにメールで、群馬の高崎のYさんがいることを知っていた。Yさんと慰安婦問題関連の話をしてから、館内を見学し、説明もしてもらった。
 ナヌムの家を訪れる人の国籍で一番多いのが日本、次がアメリカとのこと、またソウルの挺対協はキリスト教系で、ナヌムの家は仏教系とのことだ。いずれも1987年の民主化運動との関わりが深いのかもしれない。
 おばあさん方は、国際公聴会の韓国の李美卿(イーミギョン)さんの報告にもあるように、小学校もろくに出ていないような人が大半で、つまり、ハングルが読めない。だから、絵に描いて自らの言いたいことを表現してもらったという。そういう絵の中で、いくつかショッキングなものがあった。一つは、伝染病のチフスにかかった慰安婦たちが、穴の中に入れられ、火をつけられたが、二人だけが朝鮮兵に助けられて逃げられたというもの。もう一つは、怒りが昭和天皇に向けられ、昭和天皇を銃殺にする絵だ。

 おばあさんと一緒に夕飯でも食べていかないかと勧められたが、遅くなるし、今日は夕方から雨が降るという予報なので、現に既に雨がぽつぽつ降り始めていた、と言うと、それではおばあさんに会ってから帰られたらということで、会いに行った。
 その日は元気なおばあさん三人はどこかのイベントに出かけているらしく、寝たきりで痴呆症になりかけた二人のおばあさんに会った。ここは介護施設なのだ。
 ボランティアでフィリピン出身のカナダ人の若い女性が、かいがいしくおばあちゃんの面倒を見ていた。私が用意していたメッセージを取り出し、「チェソンヘスムニダ、コングアングア ヘンボグル キオンハムニダ」(失礼しました。ご健康とご幸福を祈念します)などと言っても通じないようで、フィリピンの女性が私の言葉を短く切って分かりやすく話してやった。またYさんも、この人は日本から来られたのですよ、などと私を紹介するのだが、通じているのかどうか、心もとない。もう一人の韓国人らしい中年の女性が、私にカラメルのような飲み物を出してくれた。別れ際におばあちゃんが「さよなら」と言ったのでびっくりした。分かっていたのだ。私はまた近づいて何と言ったか覚えていないが、何かしらおばあさんに言って別れた。「アンニョンヒ ゲセヨ」だったかな。
 Yさんがタクシーを呼んでくれ、程なく近所にいたタクシーがやって来て、京畿広州駅に到着した。今回の旅のメイン行事が終わった。

 ホテルについてから、これまでいつもサンドイッチやおにぎりばかりだったので、ホテル前の食堂に入り、牛肉入りのうどんを食べた、名前はソゴギクスだった。カードで払えるのかなと思ったら、どういうわけか、機械が合わないのか、「アンテダ」(だめだ)ということで、現金で払った。こういうことは京畿広州駅近所のコンビニでもあった。
 昨日も今日も、日本大使館前で昨日私がメッセージを渡した男性から早くもメールが届いていた。辞書がないので、インターネットで調べれば調べられるが、また疲れていたので、返事を書く気が起こらない。返事は帰ってから、6月9日の日曜日の夜頃に書いて、すぐに送った。

 6月7日(金)

 「チェックアウト ハゲッスムニダ」(チェックアウトします)ホテルのフロントの女性に、食べ残しの半分残ったオレンジを渡した。「タ モンモゴヨ マシッソヨ」(全部は食べられません。おいしいですよ)などと言って。
 金浦空港の免税店で、みやげ物屋の叔母ちゃんたちの元気な勧誘と説明を聞いてから、ひとまず冷却期間をおくために座ってネットで調べて、(空港や地下鉄ではワイファイが通じる。しかし、ラインの送信には失敗した。)結局コチュジャンを11米ドルで買うことにした。

 羽田で顔認証用の、競馬のゲートみたいなものしか見当たらず、そこに入った。今度からはこれでいいのかとそばにいた中年の女性出入国係官に尋ねたら、それにはろくに答えず「早く向こうへ行け」と大仰に言われて、日本人警官は怖いと思った。

 以上がソウル旅行記だが、韓国には、民主主義を勝ち取った理想的な歴史があると思っていたし、また実際そうなのだろう。しかし今回の旅行で空想的な韓国像が、現実的な韓国像に変わったような気もした。
 しかし、そう判断する前に、大使館前の集会で発せられていた言葉を解読しなければならない。
 また、しかし、「イルボン、イルボン」(日本、日本)と何度も激しく繰り返し、聴衆の子どもたちを扇動していたように見受けられたが、日本のどういうものを「イルボン」と看做しているのか、韓国との親善を願う私などをどう評価しているのかなども知りたいと思った。少なくとも現政権のような右翼と同一視されたくはない。
 そして私にメールを送ってくれた人は、独島愛運動の顧問をしているのだ。領有権問題は基本的に、私にとって不毛でつまらないものだ。

世界に問われる日本の戦後処理①「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録 東方出版 1993


世界に問われる日本の戦後処理①「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録 東方出版 1993


序言 2019623()

韓国が、否、韓国の民主派勢力が、日本の右派勢力を叩いてくれるから、日本の政治の左右のバランスが保たれているともいえる。韓国の民主派勢力は、日本の政治の民主化に貢献しているのである。

これまでの自民党=日本政府の対韓国外交政策の誤りは、日韓併合が合法的だったとして平然としているところにある。その考え方がいずれ覆される日が来るだろう。日本の右派勢力は、日韓の歴史をいま一度原点に戻って考えてみる必要があるのではないか。


感想・意見

 本書に現れる証言を読んで、戦争中の日本軍が行った蛮行がひどいものだということがよく分かる。そして本書に現れるまでこの事実を知らなかった日本人は、私を含めて多いのではないかと思う。是非ご一読あれ。
 そして日本政府が被害者の証言を採用しないというのはよくない。裏づける資料のない証言は採用しないということらしいが、それはよくない。なぜならば裏づける証拠資料を、敗戦直後、意図的・組織的に、訴追から逃れるため、証拠隠滅=焼却してしまったからだ。その歴史的事実を承知の上で、「裏付ける資料のない証言を採用しない」というのはずるい。

しかし、本書に関して疑問もある。

・韓国挺身隊問題対策協議会の李美卿(イーミギョンが言うところの「精神的賠償029」とはどうすることか。日本人は韓国人に精神的に従属せよ、ということか。それはありえないし、そんなことはやろうとしてもできないことである。歴史を知るということならできる。例えば歴史教育で。
・犯人を捜し出せと言うが、これは他国の法律に関することで、そこまで言うと内政干渉になるのではないか。真相を明らかにし、罪状を確認し、犯人を探し出す、ということはいいことだとしても、それは観念的な理想にすぎず、国際政治関係では実現不可能な要求ではないか。それをオランダのファン・ボーベンが理論的バックアップをしているというのも、解せないことだ。028, 030の私の感想を参照されたい。

030 感想 もし、全ての日本人は愚かであり、私どもの考え方の方がアプリオリに優れている、と考えているのだとすれば、日韓関係は永遠に解決しないのではないか。
また本公聴会開催時1992には、戦後50年が経過し、また現在2019では70年が経過しても、戦争直後の軍事裁判の再現を要求するというのは、時効がなくなった072とはいえ、また残虐な死刑制度廃止の観点からも、とても現実的な要求とは思えないのだが、韓国や北朝鮮の人たちは、あくまでも戦犯の処罰を主張し続けるのだろうか。

 また、現自民党政権が、そういう犯人の孫たちで構成されている政権であり、そういう過去の反省から逃れようとする自民党政権が、戦後からずっと続いて来たのだから、前記のような観念的な要求は、なおさら、すぐには実現不可能な要求であり、非現実的である。
・個人補償を合計したら、総計いくらになるのだろうか。日本国家の財政が破綻しないか。破綻しない程度で勘弁してもらいたい。日本国家が破綻することを、隣国韓国は望んでいるのだろうか。それは自分自身に跳ね返ることではないか。

 韓国日本大使館前の水曜集会参加後の感想。201969()

 私は、犯罪者を処罰するという要求は、その気持ちは分かるが、すでに戦後70年以上が経過し、平静な世の中になっているときに、あえて犯罪者を引きずり出して、処刑にするというのは、現実的ではないと考える。
目には目をでは、批判や暴力の応酬や敵対的感情が継続するばかりだ。「慰安婦」にされたオランダの女性は「許す」と言っている。大変申し訳ないが、加害者の処罰は、現実的ではない。気持ちを静めてもらいたい。
また加害者は、当時の日本人全体であった。ただ昭和天皇一人ではなかった。また、昭和天皇は親政をしていたのではなく、その権威が当時の政治権力者に利用されていた。
処罰は、東京裁判で終わったことにしたい。しかし、まだ犯罪者を支持する考えの人がいるとしても、そして私はその人とは考えは異なるとしても、その人を今処刑にする事には反対だ。処刑したいという気持ちは分かるが、敵対的な応酬の感情に左右されてはいけない。それでは今の安定した世界が損なわれると考える。ごめんなさい。お気持ちをお静めください。
犯罪的事実を明るみに出し、日本人全員がその事実を知り、教育の場でそれを子どもたちに受け継いでいくことは、二度とこのような蛮行を繰り返さないためにも大事なことだが、犯罪者を探し出して、処罰することには賛成できない。

感想 2019年6月21日(金)

 戦前は差別的な植民地主義と帝国主義が、国際標準だった。婦女子の人身売買を禁ずる国際法である「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」が締結されたとのことだが、それは帝国主義国内にだけ当てはめられ、植民地については、いとも簡単に、宣言しさえすれば、その条文を適用しなくてもいいという、非常に差別的な国際法だった。
 そういう文脈で、終戦直後、インドネシアでは、オランダ人「慰安婦」の裁判は厳しく裁かれたが、インドネシア現地人「慰安婦」に関しては、不問に付されたということが納得できる。109

韓国における「従軍慰安婦」の実態に迫る 韓国挺身隊問題対策協議会 李美卿(イーミギョン)

020 韓国は、日本の占領と帝国主義によって、特に十五年戦争時代1931--1945に、最も辛酸をなめた。その中で最も悲惨な目に遭ったのは「従軍慰安婦」であった。
数年前いくつかの文書が発見されたのが契機となり、一部の女性たちが「慰安婦」という社会的問題に関心を向け始めた。
「慰安婦」ばかりでなく、元兵士からも、体験を語る者が出てきた。
021 1990.11、「韓国挺身隊問題対策協議会」が組織され、元「慰安婦」からの報告を受けてきた。韓国政府や韓国太平洋戦争犠牲者遺族会も報告を受けた。
生存している元「慰安婦」七十数人から報告が寄せられた。19人の女性の詳細なインタビュー調査を終えた。別の21人の女性も、僅かだが情報を提供してくれた。
「従軍慰安婦」は性的奴隷制度である。
022 ・軍の慰安所は日本軍兵士および軍属が独占的に利用した。
・慰安所は軍の管理下にあった。
開設、経営、「慰安婦」徴用などで、軍が援助した。民間人が慰安所を開設、経営、「慰安婦」徴用を行うとき、軍の許可を得て、軍の援助を受けなけなければならなかった。そして軍の管理下に置かれた。慰安所は軍の規則に従わねばならなかった。
慰安所には様々な形態がある。

開設から経営まで全て軍が行っていたもの
民間人がそれを行っていたもの
開設と「慰安婦」徴用は軍が行い、経営は民間に委託したもの

1930年代の初め、上海で海軍専用の「慰安所」が多く存在し、軍医による性病検査が定期的に行われた。(軍資料による)
1937年南京大虐殺の直後から制度化された。
1941年以降急速にその数を増やした。

連行時期 1931-1936  1937-1940  1941-1945
19人    0      10          9
21人    1      10          10

備考 19人とは、面接が済んだ人達、21人とは、まだ面接がすんでない人達
植民地からの動員は1937年以降に開始されたと考えられる。

最も長く滞在した場所 旧満州     中国 南洋諸島 南アジア 台湾 日本 韓国
19人         3       6         1      4     2    2    1
21人         3       6    2          5     1    4    0

024 「従軍慰安婦」制度が主に植民地の女性に強制され、創氏改名、天皇崇拝など植民地国家を消滅させる政策と併行されて実施された。韓国における慰安婦制度は、民族絶滅が目的であった。
 軍の慰安所を開設した民間人が軍に納税することによって財源が確保された。
 多数の元兵士や元軍医の証言によれば、慰安婦の国籍は80~90%が朝鮮人女性であった。日本や台湾の女性も少なからずいた。日本軍が占領した国々の女性も「慰安婦」として徴用された。朝鮮人元「慰安婦」が会った女性は、ほぼ全員が朝鮮人で、日本人はあまりいなく、その他の国籍の女性はほとんどいなかった。

徴用時の年齢16歳未満  16―19歳    20―24歳    25―29歳    30歳以上
19人     4          12            3         0         0
21人      8           9            2         2         0

 日本人「慰安婦」のほうが朝鮮人「慰安婦」よりも年齢が高かったようだ。10歳くらい高かったと朝鮮人元「慰安婦」が証言している。日本国内の遊廓の出身者だった。

出身
 調査された朝鮮人元「慰安婦」のほぼ全員が貧しい家庭の出身で、教育程度も低く、全く教育を受けない人もいた。

教育程度 無教育        夜間学校        小学校中退      小学校卒業      高校進学*
19人       6          3       9       0           1
              高校進学の女性は、日本の工場を逃げ出したときに誘拐された。                             

徴用の方法
 全員が強制的に「慰安婦」にさせられた。初めから強制連行された場合(第一の場合)と、よい仕事があると騙された場合(第二の場合)とがある。前者は主に兵隊か憲兵隊によって、後者は民間人によって連行された。民間人が騙して連行した場合、軍は移動の便宜を図り、援助した。

第一の場合   5   第二の場合 13 その他  1
内訳
兵隊・憲兵隊 4               3  兵隊  1 
民間人       1            10

慰安所の規則と現実
 慰安所の規則は日本軍が作った。規則違反もあった。
労働時間 
朝9時ないし10時から、夜6時ないし7時まで。この時間帯は二つか三つに分けられ、階級別にあてがわれた。接客時間は30分から1時間であった。通常の時間帯終了後は、主に将校が夜を徹して利用した。
 19人のうち、10人はスケジュールがあったとし、9人はなかったとしている。スケジュールが決められていても、それが守られることはほとんどなかった。週末は兵士が押しかけ、スケジュールは守られなかった。過剰労働だった。また性病に罹患し、現在でも苦しんでいる。
料金
料金は階級によって異なる。支払は軍発行のチケットで行われた。慰安所の責任者がそれを管理した。利用料金の何割を「慰安婦」に支払うかについて、規則には書かれていなかった。「恐らく極端に少額でしょう」19人中15人は、全くお金を受け取らず、衣服と化粧品だけを支給された。また、終戦後に精算すると言われた者もいた。
将校からチップを受け取った者もいた。
兵士がチケットを提出していることを、彼女等は知らなかった。
「慰安婦」の国籍によって料金が異なる場合もあった。日本人が一番高く、次は朝鮮人、次は中国人の順である。これがそのとおり実施されたかどうかは不明だ。19人はこのことに触れなかった。日本人女性は将校にしかつかないという規則もあったが、調査した19人中18人が将校を相手にしたと証言している。
定期健診
 日本の公娼制度で「慰安婦」の性病検査は重要だった。19人中の16人が、軍病院や慰安所で性病検査を定期的に受けた。毎週、隔週、毎月、隔月など一律でない。
 日本軍はコンドームの着用を命じ、慰安所の責任者にコンドームを支給した。コンドームを着用しない兵士がいれば、「慰安婦」は責任者に報告することになっていたと証言する女性もいる。コンドームが不足した場合、「慰安婦」は使用済みコンドームを洗浄しなければならず、5回繰り返し使用した場合もある。コンドームを洗うのは不快だった。
028 コンドームを使用しない兵士がいて、性病に罹患した人もいた。19人中5人が性病にかかり、「606」という注射をされたと証言している。接客のたびに膣内を消毒液で洗浄するように命じられたという女性が何人かいた。
終戦時における軍の「慰安婦」の取扱
 日本軍は終戦時、彼女等を置き去りにして、自分たちだけが逃げた解放前に帰国したのは4人である。残り15人は、取り残された。ある日忽然と慰安所に兵士が現れなくなったと言う。彼女らは自力で帰国した。また何人かは米軍に保護され、米軍キャンプでしばらく過ごした後、米軍の助けで帰国した。
元「慰安婦」の帰国後の生活
 本協議会に連絡してきた元「慰安婦」の大半は一人暮らしだ。経済的に厳しい生活をしている。自らの罪悪感、病気、偏見のために生涯独身を通し、あるいは結婚しても破綻している
「従軍慰安婦」問題に対して日本政府が行うべきこと
 日本政府は韓国・朝鮮民族と被害者に対して謝罪すべきだと本協議会は考える。日本人の多くは、宮澤首相が1992年1月に訪韓した時の謝罪発言で、このことが終わったと考えているかもしれないが、本当の謝罪は、一言の言葉では終わらない。相応の措置が伴わなければならない。それは真相の究明と、責任の所在を明らかにし、被害者に対して精神的、物質的賠償をすることだ。(精神的賠償とはどういうことなのか。以下の記述を読んでみると、それは犯罪者の処罰を含めた、戦後の軍事裁判を再現することを意味しているようだ。)
 本協議会は「従軍慰安婦」問題が物質的補償の問題に偏ることを憂慮する。物質的補償は国家間の請求と個人の請求とがある。国家間請求は1965年の韓日協定で終わってはいない。(請求権が国家間でも終わっていないとは、韓国併合が不法であるということを意味するようだ。このことは後の北朝鮮の代表の報告71, 72, 130でも、そういう認識をしている。問題は大きい。)
また、日本の民事裁判で問題とされている個人の請求権も終わっていない。

韓国人は物質的な補償だけを求めているのではない。(精神的補償をもとめるということか。その精神的補償とはどんなことか、はっきり言ってもらいたい。次に示される。)
 「従軍慰安婦」問題は、人権侵害による犯罪行為である。その犯人、犯罪の残虐性の程度、被害者数など、犯罪の真相が究明されなければならない。
 ファン・ボーベン博士が賠償の範疇を、真相究明、責任者の処罰、原状回復、記念事業、被害者に対する物質的補償であるとしていることに全面的に賛成だ。
 日本政府と日本国民が、日本軍部と日本政府が隠蔽しようとした、この深刻な人権侵害の歴史的事実を自ら明らかにする作業をし、人権と正議、平和に対する認識と基準を確立することを願っている。(観念的・抽象的な要求)
030 政治的・経済的に強大な日本(こういう認識だから、要求が過大で観念的になるのではないか)が、かつてみずから行った、史上例を見ないこのような人権侵害の事実に対して、徹底的な反省をしないまま過ごすならば、また同じような戦争と蛮行を繰り返すのではないかと危惧している。「従軍慰安婦」問題は、過去の歴史ではなく、今日の韓国と日本、そして世界各国がともに関心を持つべき歴史的課題である。(これは永遠の課題だ。抽象的・観念的要求だ。)
 日本政府は、慰安所の設置、経営、「慰安婦」の強制募集等に、軍が全面的に関与したことが明らかになっているこの時点でも、まだ全面的に認めていない。日本政府は強制募集を否定し、生存者の証言を資料として取り上げていない。日本政府は「慰労金」「生活扶助金」の支払で、この問題を性急に解決しようとしている。徹底した真相究明、犯罪認定、謝罪等のない慰労金を、私たちは断固拒否する。それは問題の本質をぼかし、再度私たちを侮辱する行為だ
 韓国国民は、生存している被害者への「慰労」と「生活扶助」は、私たち韓国人の役割であると考え、1992年12月1日、「元慰安婦生活基金国民運動本部」を設立した。
 犯罪の真相究明と犯罪認定をせよ。日本国民の一人ひとりが、真に人権と正義と平和を愛する高い意識を育てることを願っている

感想 もし、全ての日本人は愚かであり、私どもの考え方の方がアプリオリに優れている、と考えているのだとすれば、日韓関係は永遠に解決しないのではないか。
また本公聴会開催時1992には、戦後50年が経過し、また現在2019では70年が経過しても、戦争直後の軍事裁判の再現を要求するというのは、時効がなくなった072とはいえ、また残虐な死刑制度廃止の観点からも、とても現実的な要求とは思えないのだが、韓国や北朝鮮の人たちは、あくまでも戦犯の処罰を主張し続けるのだろうか。



弟よ――私を避けないで! 姜順愛(カンスネ) 英語版の全訳

韓国馬山*出身の元「慰安婦」の女性姜順愛(カンスネ)は「弟よ、私を避けないで」と題して、次のように証言した。(段落最初の数字は英語版のページを示す。)

*馬山は釜山の西方にある。

016 私が11歳の時、私の家族は永久の住処とすべく、私たちの故郷である慶尚南道(South Kyongsang Province)の馬山に戻った。私は1927年12月15日、東京で生まれ、11歳の時までは、韓国と日本とを行ったり来たりしていた。

父、母、兄弟の苦悩

父は16歳の時、測量技師として、釜山の影島Yongdo橋の建設現場に連行され、強制的に働かされた。その橋が建設されると今度は日本に送られ、東京の橋の建設の測量技師として働かされた。父は韓国に一時的に戻るとすぐに母と結婚した。結婚一ヶ月後、父は日本に戻り、私の姉が二歳になるまで、韓国に戻らなかった。この時一家はそろって東京に移住することになり、そこで私が生まれた。私が三歳の時、私たちは韓国に戻り、そこで弟二人が生まれた。
 私が7歳の時、また日本に行くことになった。今度は私の伯父も同行した。父は京都のトンネル工事の現場主任として掘削作業にあたり、母はそこで200人の作業員のために食事を用意した。ある日韓国人の作業員が、シャベルで頭を殴られた。彼が一瞬背を伸ばそうとしたことが、勤務怠慢だとされたのだ。その作業員が血を流して地面にくず折れると、父は怒って日本人に頭から突進した。父は投獄された。
 父が解放されてから数ヶ月後のことだが、ある日本人が母の左手の甲を日本刀で切りつけた。食事を速く出さないからと言うのだ。母の四本の指の筋が切られた。父はその日本人の首を殴りつけた。父はその男を殺しはしなかったが、また父は投獄されることになった。
017 姉は10歳の時、ある日本人に連れ去られた。その男は、姉が大村武夫という日本人警官の家族の子守になるだろうと説明した。当時私は8歳だったが、それ以来姉の消息はない。
 私が「慰安婦」の生活を終えて家に戻ったときには、Tae Jinという私の上の方の弟は亡くなっていた。日本人警察官の岩本という男に、刀剣の鞘で殴られて死んだのだ。母と一緒に飲み水の配給をもらいに行ったとき、その男が退けと言って弟を殴り、殴られた弟は冬の凍りついた地面にくず折れて死んだのだという。弟が11歳の時であった。

日本の国歌「君が代」を歌うことと引換えに米の支給

 私が14歳だった時の4月、1941処女供出」がますます激しくなった。当時の韓国人は、日本人警察による若い韓国人女性の捕獲のことをそう言っていた。私は捕獲されるのではないかと恐れ、14日間火葬場の中に隠れていたが、結局家に戻った。当時既婚女性は捕獲から免れていたので、母はピニョpinyoという既婚女性だけが普段身につける簪を作ってくれた。母は割り箸でこれを作り、私が警察に未婚だと分からないようにしてくれた。
 ある日私はこの簪を身につけて小麦の麩(ふすま)を集めに母と一緒に新馬山の埠頭にある精米所に行った。当時村人たちは新馬山駅の前で月に一度配給品を受け取っていた。私たちは僅かな米と二合(0.36 リットル)の小麦と靴(komshin)を配給されていた。日本人が私たちに彼らの国歌を歌えと言い、私たちが歌えなかったり、歌わなかったりすると、何もくれなかった。私の祖母が彼女の配給品を受け取りに行った時、祖母は日本の国歌を歌えず、結局泣きながら手ぶらで帰って来た。
 精米所で小麦の麩を集めていると、30歳くらいの、村長の息子Kim Yong Maが、二人の軍人と一人の警官とともに近づいてきて、私の祖母が君が代を歌えず、これから配給品を受け取れないことになるだろうし、私なら君が代を歌え、祖母の配給品も受け取れるだろうからと言って、私に配給品を受け取りに行ったらどうだと言った。すると警官が私の腕を掴み、私を配給所に連れて行った。私は役人の前で君が代を歌い、米を受け取った。その米の量はいつもの二合よりも多かった。私はさらに缶詰と、弟や祖母のための黒いゴム靴を二足もらった。この話が村中に広まると、村人は、これまで隠れていた娘を配給所にやり始めた。これはおとりだった。警察は馬山の娘を捕らえることができた。捕獲された少女たちの数は、総計14人であった

以上読んでみると、これは騙しである以上に、村長、警官、軍人が関わり、腕を掴んで連れて行くなど、実質的に「強制的」であったと言える。
それとこれは国家的・組織的・計画的な事業であり、業者が売春婦を連れ歩いていたというレベルの話ではないことが分かる。

日本軍人に捕獲される

1941年4月中旬、私が配給品を受け取ってから三日後に、私は祖母の誕生日の準備をするために祖母と新馬山の市場へ出かけ、市場で購入したいわしをかごいっぱいに詰め込んで家に帰って来た。家に着くと腕に赤い腕章をつけ、銃剣を肩に担いだ三人の軍人が来ていた。彼らは私について来いと命令した
019 父がいきなり家の中から出てきて、軍人の一人の制服の襟を掴み、自分の首を指差しながら、「娘に何かする前に、俺を殺せ!娘は連れ去らせないぞ!」と叫んだ。軍人が父を押しのけると、父は釜のそばの地面に倒れた。父は包丁を掴み、立ち上がって軍人に襲い掛かろうとした。そうすると軍人は冷静になり、父に煙草一箱を渡し、私が日本に行って「大阪仲子(ナカシ)(?)」会社に勤めれば、お金を稼げ、専門的な技術を身につけ、二人の弟が勉強するのを助けることもできるだろうなどと説明した。結局父は家の中に引きこもり、母は気を失ってしまった。(こういうのを強制連行というのではないか!)
 私は鞄に荷物をまとめて軍人の後について行くしかなかった。後で知ったことだが、父はこの事件で馬山刑務所に拘留されたとのことだ。父は「赤城」とか言う裁判官の助けで釈放された。しかし、父は私に会いに釜山に来た時、このことを話してくれなかった。とは言っても、父はその時刑事に付き添われていたのだが。
 例の軍人は私を釜山駅前の蓮池洞Yongji-dong 大東旅館“Daito(?) Inn” へ連れて行った。旅館の前庭には警備員が配置されていた。中にはおよそ10人の女の子がいた。それは1941年4月中旬のことだった。私たちはそこで特に何をすることもなく一週間過ごした。私たちの滞在中に女の子の数が10人から35人に増えた。その中には、大邱出身で16歳のカン・クンスン “Kang Keun Soon” と14歳のカン・オクスン “Kang Ok Soon” 姉妹がいた。
 私たちはその旅館におよそ20日間いた。そのとき私たちは朝の5時半に起床し、中庭で30分体操し、「君が代」を歌い、その後訓練を受ける決まりになっていた。訓練は主に船酔い対策で、波の動きに逆らわないことだとか、口に糸を銜えることなどだった。
 出発前に私たちはそれぞれ、天皇の肖像が描かれた50銭(1銭=1円の100分の1)紙幣を渡された。また私たちは出発前に自分の家の住所と面会したい人の名前を書かされた。それから切手代として一人につき20銭徴収された。私は母の名前を書いた。しかし、翌朝10時に面会に現れたのは父だった。父は跪き、「順愛Soon E よ、我娘よ」と言って泣いた。

広島で「舞子」という名前をつけられた

 午後7時ごろ私たちは下関行きの船に乗り込んだ。下関に着くと、そこから広島行きの列車に乗り換えた。私たちが講堂(劇場)に着くと、私たちよりも前に30人の女性が来ていた。彼女たちは自分たちが韓国北部の有名なキーセン(芸者)でハチュンセン “Hee Chun Song” と呼ばれていると言った。彼女たちは年齢が20から30くらいで、満州に連れて行かれ、そこで二、三年過ごしたと言っていた。

キーセンが最初に慰安婦にされていたのか。キーセン以外にも公娼がいただろうから、そういう人達が最初に駆り出される可能性はおそらく高かったかもしれない。しかし、本証言で見るとおりの普通の女子も駆り出さなければ足りなくなったのだろう。

 広島で私たち全員に日本名が与えられた。私には「舞子」という名前が与えられた。船の準備が整っていなかったので、私たちはそこで待機しなければならなかった。私たちは数ヶ月広島にいた。そこで私たちは船の乗り方を教えられたり、日本語の学習や体操をしたりした。またハチュンセン “Hee Chun Song” のお姉さんたちが、私たちに歌を教えてくれた。残りの時間は果樹園で作業した。みかんやイチジクを摘み取って箱詰めにした。私たちは果樹園で約2ヶ月働いた。
 私たちは夜間自由にトイレに行くことを許されなかった。それは私たちが逃亡するのを防ぐための予防的措置だったからだ。彼らは私たちがトイレに行く機会を利用して逃亡するのを恐れていたのだ。トイレに幽霊が出たという噂があり、それで私たちは夜トイレに行けなくなり、部屋の中のたらいを利用せざるをえなかった。しかし二人の女の子が実際トイレに行ったのだが、一人は気絶して死んでしまった。後で私たちは幽霊を捕まえたが、それは幽霊ではなく、二人の日本人の男と女だった。次の日、軍の高官が来て、私たちが夜トイレを使えるようにしてくれた。
 また私たちはこの講堂の近辺に、民家や売春宿があると聞いた。

船で連れ去られる

 5、6ヵ月後、私たち一人ひとりに、一重の着物やパンツ二枚、スニーカー一足、足袋(着物用の日本の靴下)一足、タオル、ハンカチ二枚、白粉、クリーム、櫛、爪切り、リボン、髪留め用のゴムなどが支給され、「すぐに家に帰れるから、心の準備をしておくように」と言われた。(ここでも嘘をついて騙す!)また私たち各人は50銭を与えられ、それで私たちはコチュジャン(韓国の香辛料)や唐辛子、ニンニクなどを買った。夕方近くに私たちは集まって喜んだ。
021 5日後、私たちは埠頭に連れて行かれた。その日の朝、私たちは夜明けに起こされ、「船のデッキに着くまで、よそ見をしないでまっすぐ歩け」「二列で歩け」「海面を見るな」などと注意を受けた。(私の記憶では、私たちが乗り物で埠頭までたどり着いたという記憶はない。)
 乗船後私たちは日本人将校から、命令に従っていさえすれば何も心配することはないと言われた。私たちが乗船すると、韓国北部出身のキーセンのお姉さんたちの姿が無いのに気づいた。船中で私たちは栗本准尉Sergeant Majorと木村軍曹Sergeant First Classの支配下にあった。二人とも神戸出身だった。
 翌朝トイレからの帰途、私は二人の韓国兵に会った。彼らはイム・チャンスIm Chan Soo少尉とヤン・オンチョルYang On Choi少尉だった。二人とも慶尚北道North Kyongsang Provinceの出身だった。彼らは17歳の時志願兵として徴兵され、これまで満州で軍務についていた。(満州から南方への作戦変更、対ソ戦から対米英戦への作戦変更に伴い、軍人も慰安婦も南方に移動されたことが分かる)二人が言うには、この船は女性たちを連行するために南太平洋に向かっているとのことだった。またこの船の名前は「水戸丸」といい、軍人を乗せた三艘の船と、潜水艦という見張用の海中の船を伴っていると、ヤン・オンチョルYang On Choiが私に説明してくれた。
 港を出航してから三日目の午前3時ごろ、船の底を目がけてやって来る明るい火の玉が見えた。それから爆発音がし、同時にサイレンが鳴り始め、船が沈みかけた。体ごと海中に引きずり込まれるような感じがした。二人の仲間が海中に投げ込まれ、それ以後二度と姿が見えなくなった。
 デッキではドラやサイレンの音がし、私たちは海中に飛び込むように命令された。私はとても怖くてそんなことはできなかった。むしろ私は友達とこの船と一緒にこのまま海中に沈みたかった。しかし、軍人が日本刀で私たちを脅しつけ、海中に飛び込むよう要求した。私たちは大きな風呂敷で頭を覆って飛び込んだ。私の隣の女の子も飛び込んだが、彼女は海中に沈んでしまった。波が高く上がり、私は右ひざの関節を痛め、以後トイレに行けなくなった。さらに左腿が裂けた。今でもその傷跡がある。
022 幸運にも私はヤン・オンチョルYang On Choiに助けられた。午後の4時か5時ころ、上空を3機の飛行機が飛び交い、紅白の旗で合図を送ってきた。その合図の意味は、「心配するな。諸君を救助する。」という意味だった。その飛行機の後を海軍の救助船が着いて来た。
 私たちは海軍島に連れて行かれた。その島は事故現場の近くにあり、海軍基地があった。そこで私たちはパイロット用の制服や靴下、底の平らな靴、陸軍の下着などを支給された。その日遅く私たちは空軍の制服を脱ぎ、短パンと半袖の陸軍用の服を与えられた。
 辺りを見回すと、二人の女性が亡くなり、生き残ったのは33人だと分かった。海軍島を去る前に、私は軍の高級将校のところに行き、その足にしがみつき、家に帰してくれとせがんだ。そうするとその将校は「よし」といい、私の頭をなで、私と一緒に泣いた。しかし暫くして「大阪丸」という大きな船が来て、私たちは南太平洋の島に連れて行かれた。船には大勢の軍人が乗っていた。

目的地 パラオPalau島の陸軍慰安所

 (パラオ島はフィリピンの東方にある。)

 この船に乗船していたある人の話によれば、私たちが広島を出航してから1ヶ月と3日で南太平洋のこの島に到着したとのことだ。私たちはパラオ島の本土町にトラックで連れて行かれた。この目的地に着くと「陸軍慰安所」という看板が眼に入った。私たちよりも先に来ていた女の人達が、私たちを出迎えにやって来た。医者も来て私たちを診察した。それから私を含む一番若い10人の女の子たちが、慰安所に配置された。咸鏡道Hangyong Provinceの元山Wonsan出身のキム・オクスンKim Ok Soonという女性が、慰安所の管理をしていた。彼女は私たちにドレスやハイヒールを支給した。彼女は、品川という、慰安婦を管理する将校と暮らし、慰安婦を監督し、私たちが間違いをすると、時々私たちをはたいた。
 慰安所には、玄関を入って右側に三部屋、左側に三部屋、そして奥の方に将校用の七部屋が配置されていた。建物の両脇に巨大な水のタンクが設置されていて、飲料用に雨水をためていた。沖縄出身の女性約十人が慰安所で働かされていた。私の部屋は狭く、一枚の毛布で部屋全体を覆うことができるほどだった。
023 到着した翌日から慰安婦としての私の生活が始まった。最初の日は13人を相手にしなければならなかった。午前9時から午後9時までは下士官を、午後9時以降は将校を相手にしなければならなかった。将校たちは一晩中留まっていたが、翌朝の5時か6時頃には立ち去った。
 軍人はやって来ると、受付に切符を渡した。その切符には彼等が所属する部隊の名前とスタンプが押されていた。切符は集められ、およそ週に一度の割合で、それぞれの部隊に返却された。暫くの間私たちは週一度の検診を受けた。担当医はユロロ病院 “Yuroro(?) Hospital” の軍医だった。この検診はアルコール消毒と「606号」という注射だった。痛みがひどいときはモルヒネかアスピリンの注射もした。さらに痛みがひどいときは、催眠剤をくれた。
 軍人にコンドームをつけさせるために、上の棚にコンドームが備え付けてあった。しかし全く何も装着しようせず、私がつけるように頼んでも、私の忠告を受け入れようとしない人もいた。それどころか私の腹を蹴っ飛ばすのだ。幸運なことに私は性病にかからなかったし、妊娠もしなかった。しかし今でも私はすぐ息切れがする。
 戦争中そういう軍人たちは自分勝手なことをやった。例えば彼らは女性が準備に手間取るからと言って、女性の乳首を噛み切ったのだ。女性の胸や性器を銃剣で抉り取る日本人軍人さえもいた。私たちが準備に時間がかかるのは当然だった。私たちが軍用のズボンを着いていたので、すぐには脱げなかったからだ。後で私たちは簡単な衣服とスリップを支給された。
 そこに滞在中、私を含めた一番若い10人くらいが選抜されて、一時期ガスパンGaspan(?) のウイヤマシWiayamashi(?)やサイパンに派遣された。そこでも私たちは慰安婦として働かされた。一日およそ15人の軍人を相手にしなければならなかった。私たち一人ひとりは薬袋を支給され、マラリアの患者の治療にも当たった。
 パラオ(コロール島か)に帰る途中、空襲がますますひどくなり、女の子一人と軍人二人が亡くなった。
024 食糧補給が尽きると、ジャガイモを栽培し、私たちも百姓仕事をし、その収穫物で何とか生きながらえた。後になって米軍の空襲が激しさを増すと、私たちは6000人を収容できる防空壕を掘り、その中に逃げ込んだものだ。防空壕の外に20張りのテントを張って、それを慰安所として用いた。テントの外で軍人たちが列をなした。私たちはこのテントの中で、一日に20人から30人の男の相手をした。彼らは私が従順でないと思うと、日本刀で私の右目や額の下、首の後ろ、頭などを斬りつけた。今でもその傷跡が残っている
 戦争が益々激しくなると、山の中にテントを張り、そこで私たちは一日に50人から60人の軍人の相手をした。一日が終わる頃には、私たちは気を失ってしまった。大村准尉が私たちをかばってくれた。本当にありがたかった。
 逃亡はあり得なかった。ある女性が将校を刺したが、将校は死ななかった。彼らは土盛をして、その中に彼女を首まで埋めた。彼らは私たちを集め、彼女の首が刎ねられるのを見させた。あまりにもぞっとする光景だったので、私は今でも過敏症や心臓病、胃炎などに悩んでいる。

爆撃で数箇所の負傷

 パラオ島に上陸して数ヶ月後に再び空襲が始まり、ユロロ病院 “Yororo Hospital” が爆撃された。爆撃が激しさを増したある日、私は防空壕に避難するときに負傷した。爆弾の破片が私の体内に食い込み、私は土の中に埋もれてしまった。幸い4人の日本人軍人が私を助けに来てくれた。この時私は両肩の下部に深さ15センチの傷を負い、臀部の肉が爆弾の破片で抉り取られ、脚の一部が感染症で壊死した。私たちはウイヤマシ “Wiayamashi” 023があるガスパン島 “Gaspan Island” へ避難した。ところが彼らは私に最も恐ろしくひどい生活を強いたのだ。こんな状況の中でも、彼らは私に慰安婦として働かせたのだ。そして食糧も殆ど底をついていた。
 暫くして私はカン・ウンチョル Kang Eun Choi から、広島に原爆が落とされたと聞いた。
 米軍が上陸する前に、大きな飛行機が一機、上空を飛んだ。この大きな飛行機が越山部隊 “Koshiyama Unit” の上空を飛んでいた時、日本人が高射砲でこの飛行機を撃墜し、その飛行機はパラオ島の南洋神社の向こう側に墜落した。私たちが飛行機を探しにそこへ行くと、飛行機は破壊されていなかった。中で二人の女性と三人の軍人が死んでいた。食糧と軍用品もあった。私たちはその軍需品をいくつかの部分に分けて運んだ。その日の朝、私たちは発見した肉でスープを作って食べた。
025 後になって部隊の司令官が演説し、あれはアメリカの偵察機で、女性は高級将校の娘だと話した。この事件の後で、日本の将校たちが自殺した。私たちはびっくりして軍人に理由を尋ねた。彼等が言うには、東京である事件が起こったということだった。
 9月中旬、米軍が上陸して来た。彼らは私たちを集合させ、私たちは取調べを受けた。彼らは通訳を通して、韓国人、日本人、沖縄人に分け、一人ずつ写真を取った。それから私たちは解放された。遂に私たちは米軍が手配した船で韓国に帰ることができた。
 私たちが馬山に着いたのは、陰暦で1945年12月31日(陽暦では1946年2月16日)だった。翌日は私の19回目の元旦であった。
 私は一人前の女性として立派に生きていくことができないほど、全身に怪我をし負傷していた。当初私は結婚する機会がなかった。年老いた両親の世話をした後の、33歳だったころ、私は年下の夫にめぐり会えた。私たちはともに生活し、助け合った。彼が今年の3月に亡くなり、今私は全くの孤独である。私は生活の糧に花を栽培しているが、最近では視力が衰え、もう働き続けるのが難しい。医療費も大きな負担である。
 私は夫が死ぬ前は秘密を打ち明けたくなかった。私の過去が人にさらされるのは、ひどく恥ずかしかったからだ。しかしもうその夫も死んでしまったのだから、それに私のただ一人の生きている弟でさえ、私が慰安婦だったことをひどく嫌って私を避けることに対する憤慨が益々高じたので、私はこの忌まわしい社会に向って私の名誉を回復したいと強く思っている。
 私と同じ境遇の他の犠牲者たちが、人道的な行為を避け続けている日本政府を相手取って闘っていることを知り、言い表しようのない屈辱と迫害を受けた一人の人間として、私の経験を語ることによってこの問題を解決するために私の一生を捧げたいと私は決意した。
026 日本が過去の自らの残虐行為を改めなければ、国際社会からの非難を逃れることはできないだろう。そういう結末にならない前に、今私たちが直面している問題が解決できることを私は切に望んでいる。


 以上の証言から分かることは、次の通りである。

①この女性が公娼ではなかったこと。当時韓国では「処女供出」=「処女狩り」として、日本の警察による少女の捕獲が一般に恐れられていたこと。
②会社での仕事だから稼げると嘘をつき、また道中でも家に帰れると言って嘘をつき、遠い南太平洋まで少女たちを連れ出し、監禁状況で「慰安婦」を強制した。
③逃げられないということは、将校を殺害しようとした女性が残虐な公開処刑されたことから分かる。
④以上のことから、慰安婦制度は、業者による事業ではなく、村長、警官、軍人などが行った国家的事業でなくてはできない大掛かりな事業だったことが分かる。
⑤日本人軍人の中にも、少女が家に帰りたいと泣いてせがむと、同情して一緒に泣いてくれる人がいたり、一日60人もの相手をさせられ、人事不省に陥った女の子の面倒を診てくれる軍人がいたりと、日本人の中にも、置かれた状況の範囲内で少女たちに配慮をした人もいたようだ。



フィリピン人元「慰安婦」の現状 フィリピン「従軍慰安婦」調査委員会 ローデス・サホール

感想 フィリピンのこの団体も、日本がPKO法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)を成立させ、海外へ進出することを望んでいない。あくまでも平和な日本を期待している。
 「日本の軍国主義復活により、世界の平和と共存を脅かし、女性と子供に向けられる暴力の危惧を増大させ、アジア諸国を始め、世界各地への日本軍派兵の可能性を再び広げた日本の国連平和協力法を撤廃することを日本政府に要求する。」と述べている。052

042 1992.6、「従軍慰安婦」調査委員会のラジオ放送を、65歳のマリア・ロサ・ルナ・ヘンソンが初めて聞いた。9月3日、彼女は再びこれを聞き、9月11日、調査委員会に連絡した。その他の「慰安婦」たちもこれに続いた。ヘンソンは、9月18日、国内や海外の報道陣の前に現れた。
1992.11.30現在、計29人が調査委員会に連絡してきた。
1992.7.13、フィリピン「従軍慰安婦」調査委員会(TFFCW「日本軍による性的奴隷のフィリピン女性被害者特別調査委員会」)は、アジア女性人権協議会フィリピン支部とバヤン女性部によって設立された。
11月、五つの州に支部を新設した。パンパンガ(中央ルソン)、アンティケ(パナイ島)、イロイロ、カピス、パコロド(ネグロス西州)の五つである。
 本会は、元「慰安婦」の正義が、社会的な運動によって実現されると考え、元「慰安婦」に対する非難や中傷をする一般社会の意識変革を願っている。

043 インターナショナル・ヘラルド・トリビューン、ニューズウイーク、アジアウイーク、テレビ朝日、NHK、毎日放送、毎日新聞、共同通信など海外の報道機関も、フィリピンにおける「従軍慰安婦」問題を報道してくれた。
044 1992.9から電話連絡を受けつけた。

1992.3~8、本会は、フィリピン元「慰安婦」の名前と、元慰安所の所在地を示す日本の戦争資料に関する報告を受けた。
日本の軍医が憲兵隊に1942.3.19付けで提出した医療診断書に、イロイロの慰安所と陸軍が設置した売春宿の地図、それにイロイロの「慰安婦」の名前の一部が掲載されている。

また、マスバテ州カガヤン・バレーとサマールにあった慰安所と「慰安婦」に関する日本の情報を入手した。
この8月、日本政府は報道機関に対して、オルモック(レイテ州)、サンタ・クルス(ラグナ)、マスバテ、カガヤン(ミンダナオ)に慰安所があった可能性が高いと公表した。
日本の新聞が、マニラ、タクロバン(レイテ)、イロイロ州などの慰安所の所在地を明らかにし、1943.8、日本軍がタクロバンで9人のフィリピン「慰安婦」の使用を記録していたと報じた。
その他記録に残されている地域は、アンティケ、ミンドロ、ネグロス、カガヤン・バレー(イサベラ)などがある。

045 調査委員会がホットラインで受けた、慰安所に関する情報 1992.911

慰安所の場所
 マニラ市のカンサス通りとヘラ通りの角のアパートや、マニラ市のドゥエイ大通りのレオナルド・ウッド・ドーム。これは某大学教授からの情報である。
 政治家兼実業家の妻が所有していたバコロド沖の島。これは日本の新聞社からの情報である。この島は日本軍の捕虜収容所として使われていた。19421945
 パコ・パークにあるスペイン風建物が、日本軍将校の住居兼慰安所として使われていた。これは某教授からの情報である。
 マニラのサンタ・クルスのアヴェンダの近所。これは元軍医の退役軍人からの情報である。

 実情の分類
 ・多数の日本兵とのセックスを強要されたり、一人の上官にセックスを提供することを強要されたりした場合
 ・強姦
 ・拷問

046 1992年11月30日現在、調査委員会が調べた元「慰安婦」の数は30人である。また強姦が17件、拷問が3件で、合計50件となる。
 また、サマール、アクラン、レイテに「慰安婦」がいたという別の報告が50件ある。

調査委員会が開いた記者会見の席に出席したり、ラジオ局に出演したりした人は15人である。1992.911
元「慰安婦」の名前、年齢、慰安所の所在地は以下の10人である。(省略)
強姦された5人の年齢、場所は以下のとおりである。(省略)

047 元「慰安婦」の概略
 現在の年齢は64歳から80歳。徴用時は12歳から26歳。推定であるが、20歳以下が50%強、20~30歳が40%強。
子どものいる既婚者もいたり、10代の初めで初潮を迎えていない子もいた。

 連行方法
 家から強制的に連行された場合が多く家族は殺されたり、脅かされたりした。その他、道を歩いている時や、川で洗濯をしている時に連行された。

048 集団強姦
 学校や綿農園に集められ強姦(輪姦)された。ダバオのカルメル会修道院で、修道女が強姦され、その後輪姦されたり、拷問されたりして殺された。美人と看做された女性は、慰安所に連行された。
これは上官の指揮に基づいた行為である。またマカピリと呼ばれる、日本軍に協力したフィリピン人情報提供者が、村から若い女性を徴用した場合もあるが、これは僅かである。彼女等は「慰安婦」としてまた洗濯女として働かされた。
 パンパンガ州の検問所を通過した女性二人を連れ去った。
抗日ゲリラの夫が目の前で拷問されて殺され、妻は刑務所に拘束され、その後性の奴隷にされた。

 収監状態
 慰安所は、兵舎、病院、精米工場、フィリピン人の金持ちが所有するスペイン風の家、防空壕、森の中の木や椰子の家などに設けられた。
 外から鍵がかけられた。
 マニラのサンチャゴ要塞の元「慰安婦」は、暗くて冷たい独房に閉じ込められ、性の相手をするときだけそこから出された。南イロコスの女性は、縛られ、目隠しをされた状態で強姦された。
049 一日一人から三人、多いときは20人の相手をさせられた。夕方から深夜まで、午後早目から夜遅く(10時から2時)まで、朝から晩までの場合もあった。
 拒否やためらいを見せると、罵声を浴びせ、ひっぱたき、銃や銃剣で叩き、殴りった。
叩かれて左の耳が聞こえなくなった人、数ヶ月間正気を失った人もいた。5年間精神の健康が取り戻せなかった人もいた。なぐられて、左足に今でも深い傷が残っている人もいる。
 多くの女性が出血した。妊娠して流産した女性が2人いた。別の二人は出産した。当時18歳か19歳だった女性は、大出血で病院に運ばれ、子宮を取られてしまった。
050 日本人医師やフィリッピン人医師が、女性を検査した。何も検査を受けなかった人もいる。
 フィリピン人以外のアジア人女性もいたと証言するする人もいる。例えば、二人の中国人女性がいたとか、幾人かの朝鮮人女性がいたという証言である。
お互いに話すことを禁じられていたので、視線も交わせなかった時が多かった。

 生活 午前中は料理・洗濯・掃除をさせられ、午後は接待をさせられた。部屋から出ることを禁じられていたという人もいる。
 僅かな食事で、時折スパイスに漬けた生肉が与えられた。日本兵の好みに合うような服や、石鹸・白粉などが与えられたという証言がある。
 日本軍は敗色が濃くなると、女性をその場に残すか、釈放して立ち去った。
一人の元「慰安婦」は、日本の部隊が逃げる前に、女性を含めフィリピン人を整列させ、刀で首を斬ったと証言している。米軍が爆撃した時脱出した人や、フィリピンのゲリラや米軍に救助された人もいた。

051 調査委員会の要求と目標
 調査委員会は1992年7月に結成された。フィリピン「慰安婦」調査委員会事務局は、アジア女性人権協議会フィリピン支部と、バヤンから送られた専従のボランティア・スタッフで構成され、六人の女性たちが運営している。

 本会の要求と目標
 本会はフィリピン人元「慰安婦」に正義をもたらす社会運動を組織したいと考えている。
 A 日本政府が、元「慰安婦」問題に対して適切な措置をとり、同政府が犯した性的奴隷の犯罪やその他の人権侵害に対して責任を果たすことを要求する。
 ①フィリピン民衆、特に女性被害者(生存者とその家族)に対する日本の公式な謝罪
 ②女性被害者とその家族に対する日本政府の適切な補償。
 ③戦争と軍国主義がもたらす、女性や子どもをはじめとする一般市民への虐待を繰り返さないために、日本政府並びにフィリピン政府は、「慰安婦」として性的屈従の人権侵害を受けた女性たちの事実を、日本の戦争犯罪として歴史の教科書に掲載すること。
052 日本政府は強要しなかったと言っているが、それとは裏腹に、「慰安婦」の徴用と処遇に際して、武力と暴力を行った事実を認めよ。(韓国だけでなく、フィリピンでも、強制連行ではなかった、売春婦だったと主張しているのだろうか。)

 B フィリピン政府は「慰安婦」問題に対して、次のように対応せよ。
 ・生存している「慰安婦」とその家族を探し出すための正式な調査を行え。
 ・被害者、生存者、並びにその家族に対する補償と公式謝罪を日本政府に要求すること。

 C 国連人権委員会に対しては、徹底的な調査を行い、(過去の)人権侵害とその情報隠蔽(情報隠蔽ではなく情報隠滅ではないか)に対して、日本を非難するように求める。
 D 日本の軍国主義復活により、世界の平和と共存を脅かし、女性と子どもに向けられる暴力の危惧を増大させ、アジア諸国を始め世界各地への日本軍派兵の可能性を再び広げた、日本の国連平和協力法を撤廃せよ。*1
 E 日本軍への性的サービスをするために強制徴用されたアジアの女性たちの間で、連帯ネットワークを築きたい。

まとめ
 以上は30人の元「慰安婦」や地元の人々のインタビューに基づいた初期の調査結果である。
053 この問題には、性、人種、日本のアジア諸国に対する植民地的で帝国主義的な抑圧と支配などが絡んでいる。
 これは強姦であり、人権侵害であり、女性を道具と看做していた。
今でも女性に対する暴力や性的奴隷制が残っている。メール・オーダー花嫁、エンターテナー、セックス・ツアーを奨励する観光産業、軍事基地周辺の売春、ポルノ、女性の人身売買、強制売春などである。
フィリピンでは、日本人男性や旅行代理店によるセックス・ツアーが、マニラやセブで増加している。また日本に出稼ぎに行ったフィリピン女性は、性のエンターテナーになっている。
第三世界と工業発展国の不平等な貿易関係は、貧困と搾取と性差別を生み出す。*2
 この父権性国際秩序で、日本、アメリカを始め、南北の軍事国家による軍国主義が、その植民地や搾取する国の女性を卑しめ、虐待している。「慰安婦」問題はそれを証明している。*3
 ソ連や東欧社会主義の崩壊のために、戦争や軍国主義の風潮が強くなってきた。*4湾岸戦争やユーゴスラビアの戦争がそれである。この戦争でも女性が兵士の慰めとされてきた。
054 日本、アメリカなどの国家権力の軍国主義を停止させる共同行動をとりましょう。

 日本政府は元「慰安婦」に対する責任を全て取らなければならない。一人ひとりの被害者に謝罪し、適切な補償をすることは、日本政府にとってわけないことだ。それは傷をいやし、真の友好関係を築くきっかけになる。*5

感想 要求に関して、意地悪かもしれないが、論理の観念性・抽象性を感じた。

*1「要求」ではなく、「希望」とすべきではないか。「要求」は内政干渉であり、実際それは実現不可能である。そう要求する意図は、十分理解できるが。
*2意図は理解できるが、短絡していないか。
*3具体的にどのようにか。論理的飛躍がないか。
*4ソ連が平和の味方だったということか。
*5実現可能か。また日本の経済力を過大視していないか。

生きている間に私の体験を明らかにできた幸運 マリア・ロサ・ルナ・ヘンソン フィリピン

要旨・感想

フィリピンでは抗日ゲリラ運動があった。
彼女は一時それに参加したことがあった。自分が日本の軍人に強姦された経験があり、それに対する反発からだが、体を壊して途中でやめた。
ある時、某日本人大佐と、私を情婦とみなす日本人将校・田中が話していた、ゲリラ基地攻撃作戦をばらしたと疑われ、(実際ばらして、日本軍の作戦は失敗したのだが)、銃剣で殴られ、気を失った。1944年1月のことだ。062

フィリピンでの日本軍は、突発的な強姦もやっており、組織的な強姦=慰安婦施設と合わせて、やりたい放題だ。

055 14のフィリピンの女性団体からなるフィリピン「従軍慰安婦」調査委員会が、私を援助してくれた。
私は日本政府が私たちに犯した残虐な行為の責任を取るまで声をあげ続けるつもりだ。後遺症と悪夢はまだ終わらず、私たちを誤解した社会の一部による軽蔑と辱めはまだ残っている。
 私たち一人ひとりに対する謝罪と、国際法が保証する基本的な権利である適切な補償を要求する。
056 私は今66歳である。結婚して子どもが3人いる。夫は1954年に亡くなった。
1941年12月5日は私の誕生日だったが、8日に戦争が始まり、9日、母親とブラカン州ノルサガライのイポダムに疎開した。その後イポダム近くのビグティ村の洞窟に潜んだ。
 ウェインライト将軍がマニラを開城すると宣言し、私たちは家に戻り、現在に至っている。

058 当時私たちはキャンプ・マッキンレーで薪を集めて生計を立てていた。そこには現在は全国青年労働協会がある。
私が薪を集めている時、二人の日本兵に会った。叔父たちは木を切っていた。日本兵は私を捕まえた。田中という将校がやって来て、私を強姦した。次は二人の日本兵だった。私は出血して歩けなかった。
 近くの農民が通りかかり、私をその家まで運んでくれた。私は二日間そこにいた。
 叔父は心配し、私を捜していた。母はこの件で黙っているように私に言った。

 二週間後体調が戻り、薪集めを始めたが、例の日本人将校が私を見つけ、また強姦した。

059 3月までに、母と父の故郷であるパンパンガ州のアンヘレス市へ帰ることにした。私はパサイで生まれ育ったが、この移住は、私の悪夢を癒すためだった。私たちはパムパン村に住んだ。
 私はゲリラ集団のフクバラハップに参加した。これは日本兵に対する怒りに基づくものだと思う。ピナツボ司令官が、私たちのグループの指揮を取った。ラピドは、当時私の仲間だったが、現在はスムロン司令官となっている。私の役割は市民から薬や古着や甘藷などの食糧をもらい集めることだった。
 1943年までこの仕事をしていた。4月、水牛の荷車に乗って、マガランから家に帰ろうとしていた。荷車に食糧の乾燥トウモロコシを4袋積んでいたが、袋の中身は45口径の拳銃と弾薬、それに手榴弾だった。病院近くの検問所で、通行証を見せ、私たち3人は通行許可を得た。私たちは男2人と女の私1人だった。2人の男は私の後からトウモロコシの袋を運んでいた。
060 私は日本兵に呼び止められたが、男2人は行ってもよいと言われた。私は病院に監禁された。そこで6人の女性に会った。私は12人の相手をさせられ、少し休んでまた12人の相手をさせられた。
 その駐屯地に3ヶ月いたが、その後アンヘレスの精米所に連れて行かれた。朝夕関係なく20回以上やらされた。日本人の宿泊所や家に連れて行かれたこともあった。その一つはパミントゥアン博物館だったが、そこには数回連れて行かれた。拒めば必ず殺されるので拒否できなかった。
 午前中は見張りがいた。駐屯地の中は歩き回れたが、外には出られなかった。他の女性たちと話すこともできなかった。そのうちの2人は中国人だった。

 時々医師(タヤグ医師だったと思う)から検診を受けた。日本人医師が検診することもあった。
061 1943年12月、指揮官の交替があった。新しい指揮官は、マッキンレー要塞で会った田中だった。田中は私に今までとは違う待遇をし、他の日本兵を近づけないようにし、食物をくれ、私にお茶を出してくれとも言ったが、他の女性と話すことは禁じられた。
私はマラリアにかかり悪寒があっても、日本人の相手をさせられた。熱があると言ったら銃剣で殴られた。医者の診断で休養が許され、アルタブリッドという薬を飲み、その後大量に出血した。流産をしたと言われた。

 毎晩日本兵の宿泊所に連れて行かれ、終わると精米所に連れ戻された。
 あるとき、私たちの町パムパンにゲリラがいることを日本軍が突き止めた。私が死んだと諦めている母がそこに住んでいた。母は一人暮らしだった。
 大佐と田中の話を耳にし、パムパンでゲリラの囲い込み作戦をすることを知った。
062 翌日私がパムパンを通る人を捜していたところ、ある人が私の村の人だと分かった。私は日本兵が村を焼き討ちすると耳打ちした。
夜中に田中らが私たちの村に行ったところ、住民が誰もいなかったので、怒って帰ってきた。大佐と田中が口論し、大佐は私が密告したと言った。私はひどく殴られた。銃剣でも殴られ床に倒れた。それは1944年1月のことだった。私の顔はあざだらけになり、手を縛られ、他の囚人と一緒にさせられた。暫くして意識を取り戻した。田中が私に水を飲ませてくれた。田中を見たのはそれが最後だった。
 私が意識を失っている間に、フクバラハップが日本軍駐屯地の精米所を襲い、私は解放された。私の連絡で私たちが精米所にとらわれていることを知って攻撃したのだ。
 私は家に帰った。私は高熱を出した。偽医者の治療を受けた。二ヶ月間意識を失った。液状食物で生命を維持した。意識が回復した後も、私は話せなかった。声を失ったのだ。今でも私の声はこのようだ。当時の私の状態は、生後一、二ヶ月の赤ん坊のようだった。
063 その後誰かに支えられて立ち上がれるようになった。体が温まるように、毎朝砂の上を歩かせてもらった。記憶も戻ってきた。上手く歩けないのでもうゲリラには加わらなかった。
 戦前私たちの主治医だったティンボル医師に診てもらうためにマニラに行った。列車の屋根に乗って母と出かけた。医者は私が脳マラリアだったが、もう治っていると言った。医者は私が殴られたことが、マラリアに影響を与えたと言った。高熱は腸チフスのせいだろうとのことだった。髪が抜け、はげた。今は直っているが。

 1944年9月21日、ヴィラモール少佐が率いる部隊と日本軍との空中戦があった。その時私は今の住所にいた。私たちは食糧が不足し、バナナの葉やその根を料理して食べた。

 今でも日本軍に捕らえられていたときのことを思い出したり夢に見たりすると、数日間ぼんやりとしてしまう。独り言も言う。そして悪い影響が心や体に出る。

064 ラジオで「従軍慰安婦」となった人を捜していると聞いたときもそうだった。1992年6月30日、ラジオのDZXL局で、バヤンのリディという女性がよびかけるのを聞いた。「恥ずかしがらないで、さあ立ち上がって。あなたの権利のために闘いましょう。」と。
次は9月3日、フィリピン「従軍慰安婦」調査委員会のネリアの声をラジオで聞いた。「『従軍慰安婦』を捜している、あなた方を助ける。二人の韓国人女性が既に見つかり、今日も生きている。『従軍慰安婦』はここフィリピンにもいる。」と言っていた。
 私はすぐにDZXL局のダッキ・パレデスに手紙を書き、フィリピン「従軍慰安婦」調査委員会の電話番号を聞いた。

 恥じることはない。これは私たちが進んでやったことではないからだ。私たちの体験は二度と繰り返されてはならない。



質疑応答① 強制連行か自主的に応じたのか

065 質問
ファン・ボーベン
 連行が強制ではなかった、自主的なものであったという主張が日本政府によってなされている。実際、どのような方法で連行されたのか、どのような名目で連行されたのか、どういう力を使って、連行されたのか。

066 ローデス・サホール(フィリピン)
 30人の「慰安婦」の場合、職場から、家庭から、あるいは川の側や川の中で水浴びをしていたときに、軍の車に乗せられて連行された。アンティケから来た人の場合は、軍人が家の中に入って来て、父親が抵抗し、父親は腕を斬られ、娘は武力で連行された。全ての女性が強制的に連れ出された。

067 李美卿(韓国)
 韓国でも強制的に連行された。姜順愛さんの場合、憲兵が家に来て、娘を出せと要求し、父親は「慰安婦」にされることだと知っていたので*、包丁で抵抗し、殴られ、母親は気絶した。
 連行された先で、全ての娘たちは抵抗し、殴られ、時には斬られている。三日間病院で治療を受けるほど殴られた人もいた。

*大阪仲子という会社での勤務ではなかったか。034, 019(英文からの翻訳)

感想 後で触れられるが、台湾の場合は、慰安婦であることを自覚し、率先して戦場に赴いた人もいた(調査対象者の5%、3人)が、騙されて行った人の方が多かった。(75%)099
また事前に父親が金銭を授与されていた人もいた。101

元「慰安婦」について朝鮮民主主義人民共和国での調査報告 許錫七(ホソクティル、「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会)

感想 「慰安婦」問題をこじらせた原因は、1992年7月6日に発表された日本政府の「調査結果」に見られるように、当時の日本政府の煮え切らない態度、不誠実な対応だったようだ。
日本政府は調査をしたが、「政府が『関与』したことが確認された」としたのだ。つまりその含意は、日本政府と軍部が、民間人組織の業務に消極的に関与しただけだという印象を与えようとしたのだ。業者に任せたのだとし、全面的に政府と軍の責任を認めようとしなかったのだ。「日本政府と軍部は一体となって、『従軍慰安婦』制度を自らの責任で計画し、政索を立案し、準備し、かつ実行したことは、資料によって立証されている。」072
そして、「強要したという資料は見当たらない」として、強制連行を否定し、資料でなく、被害者が現にいるのに、被害者や日本の加害者の証言を聞き取ろうとせず、「包括的な調査は技術的に困難かつ不公平である」などと言って、真相究明をしようとする誠実な態度を示さなかった。
以上のように、日本政府に真摯に真相究明をしようとする態度がなかったことが、周辺諸国の不信を拡大したと言える。

しかし、一般人を殺害する人道上の罪に時効がないとは言え、いまさら犯罪者を死刑にするのは、死刑廃止を願う私としては反対だ。死刑は第二の殺人である。

068 1992年8月に「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会が発足し、調査した結果、「従軍慰安婦」だったと名乗り出た者は、11月現在で123名いる。

 「慰安婦」制度は1920年代から始まったと考えられる。日本政府は1918年の「シベリア出兵」による長期化する侵略戦争の過程で、性病による戦闘能力の減退を防ぐ目的で「従軍慰安婦」制度を設ける必要性を痛感したようだ。
 1929年に「慰安婦」として動員されたリ・ギョンセンの証言がそれを裏づける。
 「1929年8月の晩、当時私は12歳だったが、区長に呼ばれて行って見ると、長い刀を腰に下げた日本人の警官三人が待っていた。区長は『お前を良い所へ連れて行ってくれる人たちだ。怖がるな』と言って、私は彼等に連れ去られた。」

069 1930年代、中国本土に侵略戦争を開始した日本軍は、「皇軍」用の「慰安所」の設置を制度化した。
 キム・デイル「1934年から私は日本の『従軍慰安婦』として中国各地を転々とした。」
 当時上海派遣軍参謀副長だった岡村寧次が、1932年の上海事件で、「皇軍」兵士が頻繁に女性をレイプしたことがきっかけで、各部隊内に「慰安所」を配置したと証言している。(『岡村寧次大将資料』)
今回、朝鮮人強制連行調査団が発見した日本の国立公文書館の資料でも、1932年に朝鮮人「慰安婦」がいたと記録されている。

 1937年の日中戦争勃発後「慰安婦」制度は急速に拡大され、「皇軍」内の不可欠の「軍需品」とされた。関東軍後方担当参謀だった原善四郎は「関東軍特殊大演習」に動員された70万「皇軍」兵士の性欲を満たすため、「慰安婦」として一度に二万人の朝鮮女性を調達する計画だった。(千田夏光『従軍慰安婦』)

 責任は日本政府と軍部にあり、軍部が統括、運営、実施に直接関与した。
 1944年5月、独立歩兵第十三旅団中山警備隊は、軍人倶楽部(第一軍人倶楽部は食堂で、第二倶楽部は慰安所)の使用に関する規定を設けたが、その記録がある。

 日本政府及び軍部が「慰安婦」の大半を朝鮮女性で賄うことにした時から、朝鮮半島は「慰安婦」の草刈り場となった。
070 彼等は「慰安婦」を集めるために強制的な徴発や拉致を行った。
 被害者の証言によると、当初は「職を与える」という口実で朝鮮女性を誘い出していたが、「慰安婦」の必要が急増すると、政府・軍の強権を発動して、20代の女性、母親、12~13歳の女生徒を狩り集めた。

 強制徴発の担当者の一人であった日本人吉田清治は、「朝鮮人の強制動員に責任を負っていたのは、大日本労務報告会」であり、氏が労務報国会山口県下関支部長の頃、朝鮮人「慰安婦」の強制動員に自ら関与したということを明らかにした。

「我々は、村に入ったとき、村中の女性を通りに引きずり出した。逃げようとする者は誰でも棍棒で殴りつけ、トラックに乗せた。我々は泣き叫ぶ若い母親たちを押さえつけ、そのため2~3歳の赤ん坊が泣き出せば、放り投げた。村全体が修羅場と化した。女たちは貨車或いは船に乗せられ前線に送られた。」

 「慰安婦」の正確な数はいまだ明らかにされていないが、20万人以上と見られ、そのうちの80%から90%が朝鮮人女性であったと思われる。

 シム・ピョンオクは次のように証言している。某「皇軍」兵士「お前らは軍の命令に服従しなければならない。これは『天皇陛下』のためのお務めだということを肝に銘じておけ。ちょっとでも逆らったりすると、首が飛ぶぞ。」
 日本軍は反抗する「慰安婦」を虐殺した
071 ユン・ギョンエは、「ある女性が必死に抵抗すると、やつらは脚、腕、首を五頭の馬に括りつけ、バラバラに引き裂いて殺しておいて、私たちに向って、『もしも帝国軍隊に逆らえば、お前らもこうなるぞ』と言った。」と証言した。
 チョン・ムンボクの証言では、「日に30人から40人の兵隊が、昼となく夜となく私に襲いかかって来た。晩は、無理やりに八人の将校の相手をさせられた。」
 リ・ギョンセンは、ユンという少女が泣き叫んだために窒息死させられたと証言している。
 日本軍は「慰安婦」のほとんどを殺した
 キム・デイルの証言によると、伝染病が上海の慰安所内で発生し、多くの朝鮮人「慰安婦」がこれに感染したとき、日本人は慰安所に火を放、また「シンガポールで敗北した『皇軍』は、腹いせに『慰安婦』を手当たり次第銃殺し、彼女らを穴に入れ、手投げ弾を浴びせた」と言う。
 リ・ボブは「約30人の女性が『慰安所』で私と一緒に働かされていたが、生き残ったのは僅か5人に過ぎなかった。」
 チョン・スンヨンは「やつらは毎週『検診』を行い、病気にかかっている女性は私たちに知られないように殺した。数が減った分だけ、新しい朝鮮人女性で埋め合わされた。私は26人のグループの中にいたが、生き残ったのは4人に過ぎなかった。」

071 国際法の見地から、「ニュルンベルク国際軍事裁判所条例」と「極東国際軍事裁判所条例」は、「戦前または戦時中の一切の一般人に対して為された殺戮、殲滅、奴隷的酷使追放」などを人道に対する罪と規定している。
072 1948年、オランダのハーグ軍事裁判所で、太平洋戦争当時にインドネシアを占領した日本軍がオランダ女性を「慰安婦」として狩り出したかどで、「皇軍」将校12名に対して死刑並びに有罪判決を言渡した先例がある。
日本軍の犯罪は、1932年に批准したILO「強制労働に関する条約」にも違反していた。
また1968年国連総会が採択した「戦争犯罪と人道に対する犯罪の時効不適用に関する協定」に従えば、人道に対する犯罪行為には時効が適用されないのが国際慣行になっている。

073 私たちは、人道に対するこのような重大な犯罪が再び起こるのを防止するためにも、日本政府当局が、歴史教科書に日本の過去の犯罪行為を明記するように、当公聴会が尽力してくれるものと信じる。



彼らの罪を許すことができましょうか 金英実(キムヨンシル)朝鮮民主主義人民共和国

074 私は1924年10月21日、両江道普天郡で生まれた。父が病に倒れ、母が家庭を支えていた。子どもは5人いた。二人の息子と、三人の娘である。私は二番目の長女だった。
 貧しかったので、私は、13歳の時、会寧(フエリョン)にいる叔母のもとへ預けられたが、叔母は既にその地を去っていた。私は方々物乞いして歩き、見知らぬ人の家で女中をした。
 18歳の時、背広を着た日本人が私に歩み寄り、金になる仕事を提供するから一緒に来るように言った。どういう仕事か分からなかったが、物乞いよりはましだと考え、私はついて行った。
 大勢の少女がいた。トラックに乗せられ、会寧鉄道駅から列車に乗り、咸鏡北道慶興郡(現ウンドク郡)チョンハク洞で降ろされ、そこからトラックで30分の渓谷に着れていかれた。
 そこには17、8歳くらいの少女が10人あまりいた。15歳に満たない子もいた。そこは旧ソ連と中国とに接する国境地帯だった。
075 彼女たちは「生きて出ることのできない所にどうして来たの」と私に尋ねた。
 出入り口にムシロがつるされた便所のような小屋に住まわされた。チマ・チョゴリを脱ぎ、日本の着物を着るように命じられ、ためらっていると、力づくでチマ・チョゴリを脱がされた。

 その日から私はエイコと呼ばれ、彼らはエイコと書かれた名札をわたしの胸に貼り付けた。
 部屋は二人がやっと横になれるくらいの広さで、二枚のムシロが広げられていた。最初に来た男は、私を誘った男で、中尉の軍服を着ていた。彼は私を強姦し、続いて七人の将校が私を強姦した。私は「オモニ」と叫んだ。
次の日から二、三十人の将校や兵士の相手をさせられた。日曜日はそれ以上だった。食事は大麦のおにぎりと僅かな汁だけで、飢えに苦しんだ。
076 近くにホンウイという山村があった。その村の周辺に駐屯していた軍人たちの為に出張奉仕をさせられた。その地域の三つの駐屯地のうち、ホンウイだけに慰安所がなかったからだ。
 一週間に一度身体検査を受けた。病気や栄養不良のため性的奉仕が出来ない人は、軍人にどこかに連れて行かれ、その後をまた新しい「慰安婦」が埋めた。
 朝九時から夜遅くまで奉仕しなければならなかった。夜明けまで続く日が何日もあった。

 トキコと呼ばれる少女が朝鮮語をしゃべった。将校は私たちを野原に集め、見せしめに彼女の首を斬りおとした。私たちは泣き叫びながらその場から逃げ出した。
 ジュンコという少女が妊娠した。彼女が出産を終えると、将校は彼女とその子どもをどこかへ連れて行き、それ以来彼女について何も聞かなかった
 いく人もの少女が、苦境に堪えられず、首をつって自殺した

 ある日曜日、私を騙して連れて来た将校が、ひどく酒に酔って、私に奉仕を強要した。私は拒んだ。体調が悪かったからだ。彼は私の上にまたがり、私の髪をわしづかみにし、私の頭を何度も床に打ち付けた。私は将校の腕をかんだ。彼は腕を払い、私の二本の歯が折れた。
077 翌日、数人の男が私に襲いかかってきた。鼻から水を流し込み、私の胃が膨れると、私の腹に板を載せ上から踏みつけた。彼等は私が気を失い、意識を取り戻すと、また同じことを繰り返した。他の少女たちは恐怖のあまり目を背けた。こういうことは日常茶飯事だった

 1945年8月13日、日本軍将校は私たちに、一緒に日本へ帰る支度をしろと命じた。私たちは皆で話し合い、別々に逃げることにした。
 一回目の逃亡を敢行した。厳重な非常線が張られていたが、トウモロコシ畑を抜け、何とか山中に逃げ込めた。他の少女たちがどうなったのか分からない。
 飢えに耐え忍びながら、山中を二日間ほどさまよってから、村に降りた。そこで朝鮮が解放されたことを知った。
 私はチョンジンへ向い、恵山のシンジャン村に住みついた。そこは恵山から八キロの山岳村だった。私は過去の恥辱が明るみに出ることを恐れ、人目を避けて暮らした。

 私は自分自身の過去を恥じ、結婚しないと決めた。長い間怨恨の念で苦しんだ。今年になり、テレビで報道された元「慰安婦」の証言は、私にとって大きな衝撃だった。私を勇気づけてくれた。
 長く深い思案の末、私は日本軍がかつて犯した残虐行為を明らかにしようと決心した。私には夫も子どももいない。恐れることはない。
078 私の胸を締め付けるようなこの怨恨を晴らさずには、たとえ死んでも両目を閉じることはできない。
 日本軍が犯したこのような残忍で非道な行為を世界中の人々に話し、胸の怨みをすべて吐き出せるように、世界の良心ある全ての人々が力を貸して下さるよう訴える。

 日本政府はいまだに私たち朝鮮人女性に犯した日本帝国の残虐非道な罪をありのままに認め、謝罪しようとしない。日本政府はこのような罪を認め、真相究明を行い、謝罪すべきだ
 また日本政府は、これに伴う補償をすべきであり、このような罪や過ちを再び繰り返さないことを誓うべきだ


感想 北朝鮮の場合 天涯孤独の女性の誘拐で、「慰安婦」としての「売買契約」でもなかった。
 
強姦された女の叫び  ジャンヌ・オヘルネ  オランダ079


感想 オランダの女性ジャンヌ・オヘルネの証言は、表現力が豊かで、現実味があり、リアルだ。誰がこれを否定できるか、誰がこの証言を裏付ける資料がなければこれが信用できないと言えるだろうか。

要旨

1944年2月、捕虜収容所に日本軍がやってきて、17歳以上の未婚の女性の中から選別し、慰安施設に連行した。抵抗すれば刀で脅した。妊娠したら無理やり薬を飲まされ流産を強いられた。ご本人は戦後結婚しても、当時の恐怖心のあまり、セックスが楽しいとは思えないと言う。080, 089
彼女は「日本人を赦す」と言うが、それはゆとりのせいか、それとも日本の皇室の謝罪を込めた黙祷*のせいか、平和憲法の存在のせいか、それとも地理的に離れているせいか。089

*2000年(平成12年)、皇太子(平成天皇)が即位後初めてオランダを訪問した時、オランダ人から反発(デモ)を受けたが、戦没者慰霊碑の前で約一分間の長い黙祷をすると、「それまでの重い空気が一変し、歓迎色になった」と前侍従長の佐藤正宏が語った。しかし、本公聴会は1992年12月9日に開かれていて、2000年の前だから、これとは無関係だ。

期間は3ヶ月余と短かった。彼女は1942年捕虜になり、収容所に入れられ、1944年2月に、慰安婦にさせられた。その3ヵ月後、インドネシアの日本軍は米軍に敗退したということか。「真珠湾攻撃から敗戦まで(www.kyoritsu-wu.ac.jp) によると、1944年1月、レイテ島の日本軍は米軍に敗退し、また「インドネシアの歴史」(ウイキペディア)によると、1944年9月、日本はインドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁したとある。088

彼女等は高級な慰安婦で、別に下級兵士用の、現地人で構成される劣悪な状況に置かれた低級な慰安婦がいたようだ。087


078 ユングスラガー  オランダ対日道義請求財団法律顧問

 これから話をするオヘルネさんは、 “Comfort Women” 「慰安婦」という言葉を拒否したいと考えている。 “comfort” とは愛、同情、暖かさを意味する。しかし、その名のもとに彼女等がやらされたことは、それとはまったくかけ離れたことだった。

080 ジャンヌ・オヘルネの証言

 私は50年間沈黙を守って来た。今日は娘が私の隣にいてくれる。

 1942年、私が19歳の時、オランダ領インドを侵略した日本軍によって、ジャワの捕虜収容所に入れられ、三年半そこで生活させられた。オランダ人女性は、恐怖、屈辱、残虐な仕打ち、飢え、苦難を味あわされたが、最も屈辱的で最もひどい人権侵害についてはまだ語られていない。

 私は最初アンバラワ収容所に母と二人の妹と一緒に入れられた。約二年半そこにいた。1944年2月、収容所の重労働から戻る途中、日本の軍人たちが大勢トラックで到着した。「17歳以上の独身女性は中庭に集合しろ」と命令が出されたとき、不吉で、変な、疑わしい気持ちになった。
 収容所全体が恐怖で包まれ、隠れようとする少女もいた。
彼らは、整列した私たちの上から下までをじろじろ見て、お互いに笑ったり、私たちの誰かを指差したりした。日本人は時々私たちの顔を見るために無理やり顎を上げさせた。
082 彼等は歩きながら、ニヤニヤ笑ったり、指差したり、私たちの体に触ったりした。彼等は誰にするか選び、最後に十人の少女が前に出ろと言われた。私はその一人だった。
 女性たちの泣き声や叫び声が聞こえてきた。勇敢に日本人にはむかっていたのだ。
 所持品を一つのバッグに詰めて正門に集まるように言われた。そこには私たちを連れて行くトラックが待っていた。詳しい事は何も聞かされなかった。少女たちや母親たちは抵抗した。あたりは悲鳴や叫び声、泣き声に包まれた。
 私たちは屠殺場に連れて行かれる羊のようだった。私は聖書、祈祷書、十字架を鞄に入れた。私を守ってくれる武器のように思えたからだ。
 少女たちは母親や家族に別れを告げた。母と私は言葉もなく、ただお互いの目を見て抱き合った。その瞬間、二人は互いの胸に抱かれたまま、まるで死んでしまったように感じられた。
 六人の少女が新たに加えられ、結局16人の少女が、アンバラワ収容所から連れて行かれた。
083 16人のうち7人が、セマラン近郊の大きな家の前で降ろされた。私もそのうちの一人だった。一人ひとりに部屋があてがわれたが、その晩私たちはかたまっていた。
 翌日居間に呼ばれ、日本人の性の慰みの為にここにいるのだと説明された。家から出ることは許されなかった。それに家は監視されていた。私たちは強制売春の奴隷にされたのだ。
 私の将来は滅茶苦茶にされた。死んだほうがましだと、私たちは大声で反対した。日本人は笑いながら、彼等が今や主人なのだから、何をしようと勝手だ、命令に従わなければ家族が面倒なことになると脅した。
084 翌日、私たちは写真を撮られた。写真は待合室の壁に貼られ、日本名がつけられた。
 一人の日本人女性が来た。その人は女性なのに、何の同情も示さなかった。その家は売春宿になるように変えられていった。
 みんな処女だった。あの恐怖感を忘れることができない。私たちは祈った。
 軍人たちの粗野な笑い声と床を歩く長靴の音が聞こえた。私たちは各人の部屋に戻るように言われたが、従わなかった。
085 今でも悪夢の中で目を覚まし、眠れないことがある。夫に求められるたびに、この感覚が戻って来る。私は今までセックスが楽しいと思ったことは一度もない。

 泣いて、叫んで、抵抗したが、一人ひとり部屋に引きずられて行った。少女たちは、懇願し、叫び、脚をばたつかせ、力の限り抵抗した。

 私は食堂のテーブルの下に隠れた。部屋から泣き叫ぶ声が聞こえて来た。私は十字架を握りしめた。
 私はついに見つかり、引きずりだされた。日本人将校がニヤニヤしながら見下ろしていた。彼の向こう脛を蹴った。それでも笑っている。「やめて、ジャンガン」とインドネシア語でも叫んだ。男は私を引っ張り上げ、部屋に引きずって行った。部屋に入るとドアを閉めた。私は英語とインドネシア語で、懇願し、「意思に反して連れて来られた。あなたにはこんなことをする権利はない」と言い続けた。私は神に祈った。
086 彼は開館の夜大金を払い、ものすごく怒っていた。鞘から取り出した刀を私に向けた。私は「殺されてもよい、死ぬのは怖くない、どんなことがあっても体は許さない」と言った。男は刀を私の体に当て、殺すぞと脅し続けた。殺す前に祈りをあげさせてくれと頼んだ。男は祈っている間に服を脱ぎ始めた。殺す気などなかったのだ。私が死んだら男にとって何の役にも立たないからだ。(東洋の女性なら、ここまでしたら殺されていただろう。)男は私をベッドに放り投げ、服を破って脱がせ、上に乗って来た。蹴ったり、引っかいたりしたが、どうにもならなかった。私の頬に涙が流れた。それは際限なく続くように思えた。

 非人道的で残虐な強姦は言葉で表現できない。死より残酷だった。男が出て行っても全身が震えで止まらなかった。破れた服を体に巻き、風呂場に駆け込んだ。汚れと恥辱と傷をすべて洗い落としたかったからだ。
 お風呂には既に何人かの少女がいた。私は食堂には戻らず、どこかに隠れようとし、裏庭にある部屋に隠れた。
 しかし暫くすると怒鳴り声と足音が近づいてきて、私はまた引きずり出された。まだ大勢の日本人が待っていた。恐怖がまた繰り返された。
087 その最初の夜が終わる頃、ちょうど明け方前だった。七人の少女はかたまってお互いを慰め励ましあった。
 昼間は安全なはずだったが、日本人の出入りが絶えず、歓談したり、私たちをじろじろ見たりした。昼間でも強姦されることがよくあった。毎晩違う場所に隠れたが、何度か殴られた後、部屋に引きずり込まれた。
 ある朝醜く見えるように丸坊主になるまで髪を短く切った。しかし髪を全部切った娘がいるという噂が広まり、好奇の目が集まっただけだった。
 私たちは皆痩せた。食べられなかった。売春宿に高い位の軍人が来るたびに抗議したが、彼等は聞く耳を持たなかった。
 私は強姦されるたびに、抵抗した。いつも「殺すぞ」と脅され、何度もひどく殴られた。
 私はかなりの日本人に怪我をさせた。「いつまでも大人しくしないなら、下町にある下級兵士用の売春宿に移すぞ」と言われた。そこは地元の女性たちがいて、もっとひどいところだった。しかしこの脅しは実行されなかった。
088 医者も全く無関心で、同情や謝罪の色を見せず、初めて来た日から私を強姦した。
 軍医が来るたびに、裏庭の部屋に、産婦人科にあるような機械が備え付けられた。軍医は来るたびに私を強姦した。軍医の診察室はいつも開けっ放しで、診察中日本人は誰でも覗くことができた。
 私は妊娠した。赤ん坊を愛することができるのだろうか。少女たちは日本人女性の看守に告げたほうがいいと言った。彼女に話すと、錠剤が入ったビンを渡された。私は飲まないと拒否し続けた。しかし無理やり喉に押し込まれ、その後すぐに流産した。
 
 セマランの慰安所にどれだけ入れられていたのか、正確には思い出せない。少なくとも三ヶ月はいただろう。彼等は私の青春を滅茶苦茶にした。彼らは私から、自尊心、人間としての尊厳、自由、財産、家族など、何もかもを奪った。しかし、彼らは、私の信仰、神への愛を奪うことはできなかった。
 残虐で野蛮な日本人から受けた苦難をすべて乗り越えられたのは、神への信仰があったからだ。日本人がやったことを、今は許しているが、それを忘れることは決してない。
 これは、第二次大戦中、日本軍にジャワのあちこちの収容所で捕らえられ、私と同じ苦難をくぐり抜けてきた200人の勇気あるオランダの少女たちの話だ。
 二度とこのような恐ろしいことは繰り返さないようにと願う。


私は日本軍が死ぬほど憎い 万愛花(ワンアイファ、中国)

感想 これは管理の行き届いた慰安所というよりはむしろ、殺人である。強引に連れてきて輪姦し、挙句の果ては殺害するというもの。当然お金など支払われなかっただろうと思われる。「慰安婦」や売春婦以下の扱いである。陰毛や腋毛を引き抜き気絶させ、最後は殺すことになるのだから、最後は川に投げ捨てる。もし中国の人がこれに気付かなければ、おそらく彼女は死んでいたであろう。これは明らかに殺人行為である。

090 司会 天皇訪中の前後、中国では、日本に対する補償要求が、一時的に抑えられた。万愛花さんは、元「従軍慰安婦」として中国で初めての訪日である。

 可清(中国山西省外事弁公室) 山西省には108の県があり、万さんは内モンゴル生まれで、河林格爾県の人である。四歳の時、孟県に売られ、15歳の時に日本軍に捕まり、いじめられ、今でも体全体に後遺症が残っている。調査の結果、孟県だけでも万さんのような人が、今現在で41人いる。


091 万愛花
 私は1929年12月12日、内蒙古呼市河林格爾県韮菜溝村に生まれた。原名は、劉春蓮という。漢族である。4歳の時、山西省孟県羊泉村の李五学家に童養娼(奴隷妻。労働力としてまた将来の妻として売買された。)として売られた。貧乏だったからだ。背が高かったので、年齢を4歳水増しして、8歳として売られた。
当時李五学家には、父親と三人の妹がいた。日本軍が山西省に入ってきて三光作戦(殺しつくし、焼き尽くし、奪いつくす)を実施し、隣村は全村が焼かれ、多くの人々が殺害された。殺された人の中には老人や女や子どももおり、死体は乾いた井戸の中に投げ込まれ、その上から石を入れて井戸を埋めたとのことだ。私は日本軍を憎み、11歳の時、農村の抗日活動に参加した。

 私は日本軍に三回捕まり、陵辱された。

 一回目は、1943年6月7日、私は近くの桃荘にあるどぶ穴に隠れた。
092 しかし、日本軍に捕まり、羊泉村から36華里(16キロメートル)離れた進圭社村の東にある日本軍の拠点に連れて行かれた。そこは漢奸(日本人侵略者の蔑称。日本鬼子リーベンクイズ、東洋鬼トンヤングイとも言う。)側の「維持会」がある建物で、私はそこに監禁された。他に4人の女性もここで、一人ひとり別の部屋に閉じ込められた。陳林桃、劉面換、馮(ひょう)面香、劉二荷の4人である。私たちは顔を合わすことも許されなかった。
 彼等は昼夜を問わず、気の向くままに強姦・輪姦した。私は何度も気を失った。将校も私を陵辱した。
 6月28日、日本兵の会議中に、私は逃げ出し、羊泉村に戻った。

 二回目は、同じ1943年の、8月18日、私が川辺で洗濯をしているときだった。
 西煙に拠点をおく日本軍と、進圭社村に拠点を置く日本軍が、羊泉村を挟み撃ちした。前と同じように、進圭社村の東側の日本軍の拠点に監禁され、蹂躙された。鬼は地下組織の幹部や八路軍の支持者の名前を言えと私を脅迫し、言わないと殴りつけ、虐待した。食事は彼らの残飯で、それも二口ぐらいしかなく、与えられないときもあった。
 日本軍が市今(が上にが下にある一語の漢字)園村に掃討戦に出かけている隙に、逃走した。9月16日のことだった。家に病人がいて看病する必要があったので、羊泉村に戻った。
093 同じ年の1943年12月8日の早朝、突然日本軍がやって来て、村を包囲した。若い人は逃げたが、私は病人を看病していたので逃げられず、三度鬼に捕まってしまった。私はロバの背に括り付けられ、進圭社村の東側の日本軍の拠点地に連れ戻された。

 ある日、一人の日本兵が私に淫行を行い、もう一人が私の両手を頭の上の方で押さえつけ、さらに側にいる男が、私の腋毛と陰毛を抜き取った。私は何度も気を失った。彼等は思い(性欲)を果たした後、私をさんざん殴り、罵った。私の股間やあばら骨が折れた。私はそのため身体の形が変わってしまった。元は大柄だったが、すっかり萎え、本来1メートル65センチあった身長が、1メートル47センチになってしまった。
 ビンタを受けたとき、私の右の耳輪(イアリング)が、日本兵の指輪の角に引っ掛けられ、私の耳の一部が耳輪もろとも引きちぎれた。今も右の耳の一部が欠損している。
 鬼たちは私をさんざん虐待し、私は意識不明になった。鬼たちは、私の腋毛を引きちぎり、私が反応しなくなったのを確かめると、私を裸のまま、村の近くの川に投げ込んだ。旧暦1月28日のことだ。

094 幸い村の老人が私を助けてくれた。その後三年間私は動けず、床についたままだった。
 動けるようになってから、新中国成立までは、体が前かがみに湾曲し、やっと歩ける程度だった。
 新中国が成立し、按摩や気功などの治療を受け、背骨を立てて歩けるようになった。
 しかし、私の生殖能力はなくなってしまった。そして家族も村人も汚い女だと言って私を遠ざけた。私は止むを得ず、村を離れて太原に移住した。私は小さな借家に住んでいる。天涯孤独の身だ。
 あの鬼どもにも、私と同じ年頃の娘もいたでしょう。どうして私は15歳で、こんなに体をぼろぼろにされなければならないのだ。私は日本軍を死ぬほど憎んでいる。これは日本政府に責任がある。

 私は日本軍に殺された数知れない中国人同胞と、私のように傷つけられた多くの被害者同胞を代表して、日本政府に対して、まず、その罪を認め、私に公開で謝罪することを要求する。そして、私と私の家族が蒙った身体的、精神的、経済的損失に対して、しかるべき賠償をすることを要求する。

095 私が今回来日したもう一つの目的は、日本政府が過去の歴史の事実を正しく次の世代に伝えていないのを見て、私たち中国人が、過去、日本軍国主義によってどれだけ大きな災難を蒙ったかという歴史的事実を、日本の若い人に知ってもらいということだ。それは、二度と再び同じ歴史の過ちを犯さないことを望むからだ。

以上日付は旧暦である。


第二次世界大戦中の日本軍による台湾の性の奴隷  王清峰(ワンチンフエン、台北市婦女救援社会福祉事業基金)

096 1991年12月、私は「慰安婦」という言葉を『ユナイテド・デイリー・ニュース』で初めて知った。その意味するところを知ったのは、その後暫く検討してからだった。私は被害を受けたおばあさんたちの聞き取りをした。
 私は自分が書いた「慰安婦」に関する報告書を発表することをためらっていたが、今回強い要請を受け、勇気を奮い起こした。
097 『ユナイテッド・デイリー・ニュース』が、強制的にセックスをさせられた朝鮮女性に関する記事を載せた。伊藤秀子という日本人の国会議員が、日本の国会図書館で、台湾でも同じ被害があったことを立証する、三本の秘密電信文を発見し、私たち台北市婦女救援社会福利事業基金会は、1992年2月20日、被害女性たちの申し立ての受付を始めた。政府も電話を設置し、「台湾慰安婦プロジェクト調査委員会」を設立した。

 処女性は、理不尽だが、未だに取り払うことのできない束縛だ。現在では昔ほど深刻ではないかもしれないが、半世紀前は、それは命以上に重要なものだった。強姦で処女を奪われた女性は自殺を図った。中華民国の刑法では、女性を強姦し、自殺に追い込んだ犯罪者は、最低7年(自殺をしなければ5年)の実刑を課せられる。強姦された女性は屈辱の中で生きねばならない。女性は被害が知れ渡ることを恐れる。恋愛や結婚に大きな影響を与える。だからおばあさんにとって名乗り出ることは、新たな苦悶である。

098 私は基金会の会長である。申し立て受付の締め切りを1992年11月2日にしたところ、合計66名が申し立てた。大半は本人からではなく、友人や養子からだった。
66名中、聞き取りができなかった人が2人、拒絶した人が1人、住所不明が2人、「慰安婦」としての地位を否定した人が2人、申し立てを取りやめた人が2人、中国本土で徴用され、現在は台湾に住んでいる人が3人、中国本土出身で現在海外に住んでいる人が1人、朝鮮人で現在台湾に居住している人が1人、性の奴隷ではなかった(一人は病院の付添婦、一人は調理人)人が2人で、残る50人は、台湾生まれで「慰安婦」だった。そしてまだ生存し、現在聞き取り中の人が35人である。

 性の奴隷にされた人の多くが戦場で殺された。聞き取りを受けている女性は、厳しい生活を送っている。補償金目当てで名乗り出た偽「慰安婦」は一人もいなかった。

099 一部の女性たちは「慰安婦」という仕事を承知の上で率先して戦場に赴いた。しかし大半(およそ75%)は騙されたり、強制されたりして徴用されており、自発的に行った人は3人(5%)にすぎない。その他の人に関しては正確な情報がつかめない。
 被害女性は手配師に騙されたり、地元の役所で徴用されたり、中国本土の戦場で陸軍に捕らえられたり、海外で看護婦として働くように病院に命令されたりした。彼女たちは「政府の仕事」という名目で、レストランや軍の食堂のウエイトレス、看護婦、病院付添婦、洗濯婦、調理人として働くのだと騙されて徴用された。「慰安婦」になることを事前に告げられた人もいたが、厭だと断ることはできなかった。(つまり騙さないで「慰安婦」を強制された)

 このような事業は、全般的で組織的な事業であることが窺がわれる。今のところ土着の部族民は名乗りでていないが、日本の国会議員の伊藤秀子さんは、台湾の陸軍司令官が、ボルネオのサラワクで働かせるための50人の土着台湾人女性と3人の慰安所経営者の徴用を要求する、1942年3月12日付けの秘密電文を入手している。そして1942年6月13日、彼は、新たに20人の女性を要求した。秘密電文にある「土着民」という言葉は、台湾の部族民の女性を指しているようだ。

100 徴用された女性たちの年齢は、15歳から30歳以上で、吉見義明によれば、台湾で徴用された「慰安婦」の中には14歳の女性もいた。そして海南島の海口、ウエンチャン、楡林、インドネシアのサマリンダ、ケンダリ、チモール、そしてフィリピンのマニラ、セブ、イロイロ、ビルマのラングーン、シンガポール、沖縄付近の八重山群島、中国広東省の広東と山東などで、二ヶ月から六年間、性の奴隷として幽閉された。
以上の地域に加え、サラワク(70人)、ニューギニアのラバウル(253人)、ベトナム国境付近の広東省の欽州(6人)に送られた台湾出身の女性がいるが、私たちの現在のファイルにはこれらの人たちは含まれていない。

 彼女等は逃走しようとしたが失敗した。喉に剣を突きつけられて、初めのセックスを強要された人もいた。病院看護婦として働いていた17歳のチェンーツや、母親とそばを売っていた18歳のタオーツは、看護婦として働いてお金を稼ごうと思い、数十人の女性たちと南洋地域(東南アジア)に騙されて連れて行かれた。送られた先はチモール島で、到着後二、三週間してから、一人ひとり処女かどうか調べられ、司令官に強姦された。

101 姉妹同士の場合や、母と娘の場合もあった。

母親は目の前で自分の娘が強姦されるのを見させられ、娘は母親が強姦されるのを見させられた。
 1943年の冬、一人の日本人が台湾に来て、「南洋地域」の日本軍の食堂で調理師やウエイトレスとして働けば、「三倍の収入が稼げ」、家族に移民の特典が与えられると称して、人集めをした。母親のアイーツと娘のチューツは、他の三人の女性たちとそれに応募し、高雄から乗船したが、船の中にはすでに沖縄から乗ってきた数十人の女性たちがいた。船はサイゴン、シンガポール、ジャカルタ、メガサルに寄港し、最終的に二つの空軍部隊が駐屯するジャングルの奥地に連行された。部隊の一つには七五三の暗号がつけられていた。
 上陸後、ココナツの葉でできた屋根の家に入れられ、そこで騙されたことを知ったが、出発前に日本人から父親に400円が渡されていたため、異議を唱える気持ちにならなかった。

 この仕事は国に献身することだった、という女性もいる

 すでに朝鮮女性や日本女性がそこで性の取引をさせられていた。そこにはケンダリという空港もあった。
娘のチューツは煮えたぎった油を飲んで自殺を二度図ったが、失敗した。

 慰安所ではそのほか30人から40人の女性が働いており、その中には、日本、朝鮮、沖縄、台湾の女性が含まれていた。

 一年後、一艘の船が入港した時、娘チューツは、母親を先に戻し、自分は借金を払い戻すまで働くことにした。
102 台湾に戻った母親は、できるだけ早く帰ってくるようにと娘に手紙を書いた。娘の悲惨な運命に怒った父親は、母親に暴力を振るうようになった。
娘は砲撃にあって、髪や手に火傷を負い、海に落ちて救出されるまで数時間漂い、三ヶ月入院して、台湾に戻った。スラバヤで船を待っている時、同じような道をたどった40人以上の台湾女性と出会った。

 彼女たちは手配師によってあのような運命をたどったのであり、日本軍とは関係ないと言う人がいるかもしれない。しかし、彼女たちの証言によれば、外国に行く時彼女たちが乗った船は、「鎌倉」や「浅間丸」など日本軍の船だった。また彼女たちが戦闘地域に入れられたのは、軍の承認があったからだ。そして部隊の移動と共に、彼女たちも移動した。性の奴隷の仕事は、軍のキャンプの中かその周辺で行われた。彼女たちは、日本兵士か、台湾生まれで日本軍に徴兵された兵士たちだけを慰めるように言われた。健康診断は軍医だけが行った。セックスを提供する回数を決めたり、コンドームを支給したのは日本軍当局だった。
従って慰安所は実質的に日本軍キャンプの一部であり、「慰安婦」は事実上日本軍にとって不可欠な付属品であった。

 集中的で長時間にわたる性のサービスは、激しい肉体的拷問だった。性病、マラリアその他の重い病気にかかった。精神的にも苦しめられ、その悪夢から生涯逃れられない。

103 現在77歳になる老女は、慰安所で強制労働させられるまでは看護婦をしていた。目的地に向かう船の中で、彼女と他の50数人の女性たちは、逃走してもすぐに見つけられるように、腕に「台北」という刺青を入れさせられた。その刺青があるため、彼女たちは一生袖なしの服を着ようとしない。
 人間としての尊厳と青春と命を犠牲にして作ったわずかばかりのお金は、戦後の貨幣価値の低下で値打ちのないものになった。ある被害者は、証明書や銀行通帳を保管してきたが、口座から一円も引き出すことを許されなかった
 犠牲者たちは恋人を作ったり、結婚しようとしたりしなかった。また一部の女性は結婚したが、子どもを産むことができなかった。そして夫に過去を知られ、見捨てられた女性もいる。

 元「慰安婦」は既に老人となり、健康状態も優れない。謝罪は大きな意味を持たない。お金が欠かせない。しかし、お金では、青春を取り戻し、恥辱を消し去り、運命を変えることはできない。

良心の力によって、悲惨な歴史を繰り返さないことを祈るばかりだ。

感想 「慰安婦」と明示されず、ウエイトレスや看護婦という名目で雇うと言われたとき、お金が父親に渡されていた。本人や父親は、これは変だと思わなかったのだろうか。給料の前払いか。父親に対する口止め料か。


チモール島の慰安所で動物のように  匿名(証言・台湾)

104 六年制の小学校を卒業後、看護婦として四年間働いた。
1943年、17歳の時、ある日本人(一般人)が、東南アジアで働く看護婦を募集していることを友人から聞いて応募した。
 10人くらいの女性が応募していた。軍用船浅間丸でチモールに着いた。山中のココナツの葉でできた家に入れられた。着いた当初は看板がなかったが、後に「慰安所」という看板が掲げられた。

 最初軍医に処女であるかどうか調べられた。その後、司令官が全員を強姦した。
午後1時から5時まで、7人から10人の客につくように言われた。軍が兵士の順番を決めていた。兵士は番号で女性を見つけた。夕食後は上官が来て、一夜を過ごした。

105 道向かいに朝鮮人女性の慰安所があり、10人から20人の女性がいた。そこは陸軍用で、私たちは海軍用だった。

 戦争が終わる数ヶ月前に空襲があり、三人の女性が亡くなった。
私たちを殺そうと虐待しようと、彼らの意のままであった。

 1945年戦争が終わり、スラバヤに送られ、そこで台湾行きの船を待った。

 陸軍が私たちに「配給所」で働くように手配し、私はそこで働き、日本の軍票で1万ドル以上を貯金した。

1945年、私は台湾に送り返された。結婚したが、貧乏で、食堂や麵のスタンドで働いた。息子が一人いる。夫は何年も前に死んだ。今一人暮らしだ。家族や親戚と付き合いたくない。

 私たちは無理強いされた。私の人生は滅茶苦茶にされた。屈辱、恥ずかしさ、辛苦など、一生忘れられない。

106 私は退職手当の300ドルの軍票を受け取っただけだ。銀行預金は価値が下がり、突然なくなってしまった。私はお金を引き出していない。貯金通帳もなくした。

日本政府に抗議し、謝罪と補償を求める。日本の戦争犠牲者が受けているのと同等額の補償を求める。


「従軍慰安婦」問題の歴史的研究 吉見義明 中央大学教授107


感想 吉見義明によって防衛省の図書館で発見されたという文書が、「民間業者」に軍が委託したとし、「民間業者」を強調する点は、意図的にこの文書を焼却せずに残しておき、慰安婦事業が国家権力によって行われたのではなく、あたかも民間業者の主体性で行われていたかのようにすりかえたいというのが、終戦当時の慰安婦事業を担当していた国家公務員のシナリオだったのではないか。だから戦後公娼説をとなえる元特高官僚の政治家などの発言が繰り返されたのではないか。国家・政府に責任はないと。

吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店1992

感想・要旨 2019年5月25日 土曜日

 当時1992の日本政府の態度はあいまいだった。つまり、この「慰安婦」事業の主体が、慰安所の経営者なのか、政府・軍なのかという点についてである。
 そして吉見が発見できた防衛省の図書館に保管されていた文書だけを焼却せずに残しておき、「軍が民間業者を選んで『慰安婦』の徴集をやらせた」などという表現を見せびらかし、戦前は内務官僚(特高)や軍人で、戦後は政治家に転身した者が国会で、慰安婦は「公娼」だったのではないかなどとうそぶいたのだろうと想像される。

 また国家は情報を公開する意思がないし、公開を請求して提訴しても、司法も当てにならない。
今まで防衛庁や外務省は、その資料の一部を公表し、厚生省は4点を公表しただけである。肝腎の警察や労働省、法務省の資料は非公開であるし、政府はそれらを公表したくないと考えている。それも敗戦直後の焼却を免れて資料が残っているとしての話だが。民衆にとって、資料が残っているのか、残っていないのかも分からないような日本は、民主主義国家といえるのだろうか。
 30年経過したら公開するというのは外務省だけで、その外務省も重要資料のほとんどが非公表である。また議会の委員会の多数決がなければ、国政調査権が発動できない。121

 情報の自由化法は日本にはなく、関係者のヒアリングも政府は拒否している。
「韓国の慰安婦が起こした訴訟に政府は争う姿勢であり、国家レベルの請求権は決着済みとし、個人の補償は行おうとしない。現在日本政府は補償でなく、一定の金銭の支払いでの決着を検討していると伝えられるが、今必要とされることは、事実関係の解明を曖昧にしたままの決着ではなく、まず事実の全面的な解明を行うべきであり、そのことなくしては真の解決はあり得ないと私は確信しています。」(吉見義明115)
 吉見義明は「従軍慰安婦」問題に関する調査委員会を設置し、連続した公聴会を開催することを要求している。


107 1991年まで、日本政府は「従軍慰安婦」問題に関する政府の関与と責任を否定していた。1992年1月、「慰安婦」の徴集、軍慰安所の設置・監督・統制に関する、政府・軍の深い関与を示す諸資料を私が発見したことから、政府はその事実を否定できなくなった。
宮沢喜一首相は韓国を訪問し、日韓首脳会談で、政府・軍の関与を認め、公式に謝罪した。
 以下、私の『従軍慰安婦資料集』としてまとめられた調査結果に基づいて述べる。

一 軍慰安所の開設を展開
 1931年、日本は満州事変と呼ばれる中国東北部での侵略戦争を起こし、1932年、上海に戦線を拡大し、上海に派遣された日本陸海軍は、1932年に軍慰安所を設置した。これが確実な資料によって確認される最初の事例である。
108 1937年、日本は中国に対する全面的な戦争を開始した。瞬く間に80万もの将兵が中国大陸に派遣されたが、これに応じて1937年末から中国の占領地に、軍慰安所を設置した。
 1942年春以降、東南アジア・太平洋の広大な地域に軍慰安所を設置した。
 日本・アメリカ・オランダの公文書によって、軍慰安所の存在が確認される地域は、中国、香港、フランス領インドシナ、フィリピン、マレー、シンガポール、英領ボルネオ、オランダ領東インドのジャワ、スンバワ、スラウェシ、スマトラの各島、ビルマ、太平洋地域のニューブリテン島とトロブリアンド島、沖縄諸島、小笠原諸島である。他にも大量の日本軍が派遣されたところには、軍慰安所が設置されたと推定される。
 「従軍慰安婦」として徴集された女性たちは、日本人、韓国朝鮮人、中国人、台湾人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人などが公文書で確認され、オーストラリア人看護婦も「慰安婦」となるように強要された。これ以外に、日本軍が占領した各地域で、地元の女性たちが「従軍慰安婦」にされたと思われる。「慰安婦」の大多数を占めるのは、韓国朝鮮人、台湾人や占領地の女性たちだった。民俗別では韓国朝鮮人が最も多く、それについで中国人が多かったのではないかと思われる。

二 植民地・占領地の女性が「慰安婦」にされた理由
109 中国に派遣された日本軍は、民間業者を選び、その民間業者を、日本、朝鮮、台湾に送り、その業者は1937年末から「慰安婦」の徴集を始めた。
 日本は、1904年、1910年、1921年に締結された「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」に加入した。この条約は、売春を目的にする、婦人・児童の売買を禁止した。
 内務省警保局長は、1938年2月、各都道府県知事に通牒を出し、日本各地からの「醜業」を目的とする婦女の渡航に際して、21歳以上の売春婦に限って各警察署は身分証明書を発給することとした。
 しかし、この国際条約には、宣言をすれば、この条約を植民地に適用しなくてもよいという規定があった。そこで日本政府は、朝鮮・台湾にはこの条約を適用しないと宣言した。占領地でも同様だった。こうして売春経験のない女性や未成年の女性が多数徴集された。またこれは性病の蔓延を防ぐ上でも好都合だった。

 現在、日本で裁判を起こしている9人の韓国人元「慰安婦」は、全員が徴集時に21歳未満の未成年だった。台湾からは14歳の少女が連行された。フィリピンのパナイ島イロイロ市にあった軍慰安所には、15歳の「慰安婦」がいた。また同市にあった軍慰安所のフィリピン人「慰安婦」13人のうち、10人が21歳未満で、最低は16歳だった。

三 慰安所のタイプと国家の責任
110 日本軍が利用した広義の「慰安所」には、四つのタイプがあった。

①軍直営の慰安所
②形式上民間業者が経営するが、軍が管理・統制する、軍人・軍属専用の慰安所で、このタイプが最も多かった。
③一般人も利用するが、軍が指定する、軍利用の慰安所で、軍が特別の便宜を求めた慰安所
④純粋に民間の慰安所

①、②は日本国家に責任がある。③は利用の程度に応じて責任があり、④は日本軍兵士が利用したとしても、日本国家に責任はない。

 ②のタイプに、国家(軍・警察・領事館)は深く関与していた。
軍慰安所の設置は、陸軍の場合、占領地の最高指導部(参謀部)が指示し、海軍の場合、海軍中央が「慰安婦」の配置を指示した。
「慰安婦」の徴集は、日本、台湾、朝鮮の場合、派遣軍が選定した周旋業者が、軍あるいは領事館の証明書を持って渡航し、軍と警察の援助を受けて「慰安婦」を徴集した。占領地の女性を徴集する場合、現地の憲兵や軍属が徴集に当たった例がある。
 日本軍は、民営の形式をとった軍慰安所の経営を、厳しく統制・監督した。慰安所の建物は、軍が提供し、慰安所の細かい規則、利用料金・利用時間、各部隊の利用日の指定、衛生管理の内容などを軍が決定した。
111 また軍は、利用者に関する詳細な報告を業者に提出させた。「慰安婦」は軍の指示によって移動し、「慰安婦」の定期的な性病検査は、軍医が行った。
 「慰安婦」は、契約期間中は身柄を厳しく拘束され、多くの場合、いやおうなしに契約が継続された。

 四、日本軍が軍慰安所を必要とした理由
 ①日本軍人による強姦事件が多発したからだ。1937年12月の南京大虐殺を契機にして、中支那方面軍は、この前後に慰安施設をつくるように指示した。上海戦後から南京戦にかけて大量の強姦事件が起き、中国人や欧米諸国の非難を恐れたからだと思われる。
 1938年6月、数十万の兵員を持つ北支那方面軍の参謀長は、「中国北部で日本軍人が頻繁に強姦事件を起こすので、占領地の中国民衆が日本軍から離反している」と各部隊に述べ、「強姦事件を防止するために、速やかに性的慰安施設をつくれ」と各部隊に指示した。
 本来、強姦事件防止には、軍隊内の人権の確立と、兵士の待遇改善、犯罪への厳重処罰で対応すべきだ。
112 ②将兵への「慰安」の提供 軍に休暇制度がなく、長期間将兵を戦場に釘付けしなければならないから、慰安所は必要だと日本軍は考えた。
 ③民間の売春宿を利用すると性病が蔓延し、将兵の治療に時間がかかり、戦力が落ちる。また将兵が帰還の際、性病が日本国内に流入し、民族の将来にかかわると考えたからだ。そのため軍は民間の売春宿の利用を禁じ、軍医が定期的に「慰安婦」の性病検査を行い、兵士にコンドームを着用させた。

五、 「従軍慰安婦」問題と国際法
 「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」で、日本は、朝鮮・台湾に対して差別的取り扱いをした。そのため、「売春婦」ではない女性や未成年の女性が、朝鮮・台湾から多数徴集されることになった。
 条約で述べられている「詐欺により、または暴行、強迫、権力乱用その他一切の強制手段でもって…勧誘し、誘引し、または拐去(かいきょ、かどわか)」された女性が多かった。
 その中でも騙されて連行され、現地で売春を強制された女性が非常に多かった。現在、東京で係争中の9人の元「慰安婦」のうち、5人が騙されて連行され、性的奉仕を強制されたと主張している。また米軍が1944年にビルマで保護した20人の朝鮮人「慰安婦」に対する尋問報告では、これらの女性たちは、病院での看護の仕事だという業者の言葉を信じて、海外勤務に応じたとされている。
113 またそこには、周旋業者の背後に日本軍がいたことも明確に記されている。

 日本は、1930年、ILO総会で採択された「強制労働に関する条約」を、1932年に批准した。本条約の第二条で、「ある者が処罰の脅威の下に強要せられ、かつ右の者が自らの任意に申し出でたるにあらざる一切の労務」(all work or service which is exacted from any person under the menace of any penalty and for which the said person has not offered himself voluntarily)を「強制労働」 (forced or compulsory labour) と定義し、第11条で、女性に強制労働を行わせてはならないと規定している。「従軍慰安婦」に対する性的労働の強制は、これに違反する。

 また、占領地では「戦争の法規および慣例」に違反する戦争犯罪である「強姦」、あるいは「強制的売淫のための婦女子の誘拐」に該当する。

六 なぜこれまで問題にならなかったのか
 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、主に欧米諸国の市民が被った戦争犯罪が追及され、アジアの声はほとんど無視された。BC級戦犯裁判では、オランダが開いたバタビア裁判で、オランダ人「慰安婦」強制連行事件が裁かれたが、インドネシア人「慰安婦」の問題は裁判にならなかった。
 その後の賠償交渉でも「従軍慰安婦」問題は取り上げられなかった。1965年の日韓協定では、「従軍慰安婦」の問題は全く認識されなかった。
 日本では、敗戦直後、「従軍慰安婦」の問題は興味本位の物語として密かに話題となっていたが、人道に反する問題として取り上げられなかった。1970年代に千田夏光の著書『従軍慰安婦』はベスト・セラーになったが、著者への反響はほとんどなかったとのことだ。

114 元「慰安婦」の方々が被害を訴えるために名乗り出ることすらできない状態が続いてきたのだ。
 1980年代末から、韓国の女性運動がこの問題を取り上げ、1991年に韓国で元「慰安婦」の方が、最初に被害を訴えたことから、この問題が初めて浮上した。しかし、在日韓国朝鮮人の元「慰安婦」は、現在1992まで一人も原状回復redressのために名乗り出ていない。(1993年に一人が名乗り出た。)日本人元「慰安婦」も同様だ。

七 日本政府の態度
 日本政府は「慰安婦」の募集や、慰安所の設置や経営などについて、政府や軍の関与を認めたが、それらの行為の主体が、政府や軍であり、民間の募集業者や慰安所経営者が従であると明確には認めていない。また「慰安婦」の強制的な連行については、騙して連行した場合を含めて、認めていない
 「慰安婦」関係の資料についても、防衛庁・外務省は資料を一応公表したが、一番重要な警察の資料はまったく公開されていない。労働省・法務省の資料も非公開で、厚生省は4点を公表しただけで、他の資料は非公開だ。30年経過した資料は公開する、という原則を持っているのは外務省だけであり、その外務省も、重要資料をほとんど非公開にしている。
115 情報の自由化法は日本にはないので、非公開資料にアクセスできない。強制連行については、本来資料として残る可能性が少ないため、関係者からのヒアリングが不可欠だが、政府はそれを拒否している。
 宮沢首相の1992年の訪韓で、どのような事実を認めて謝罪したのか、曖昧だ。元「慰安婦」の人々が訴えた裁判で、政府は、争う姿勢を示し、国家レベルの請求権については決着済みとし、個人に対する補償を行おうとしない。現在日本政府は、補償ではない、一定の金銭の支払での決着を検討しているようだが、今必要なことは、事実関係を曖昧にしたままの決着ではなく、事実の全面的な解明を行うことだ。


116 資料②-27 「接客婦(芸妓および酌婦)」とし、「慰安婦」と芸妓を同一視している。


質疑応答②

質問 

ファン・ボーベン
日本では議会のメンバーが政府当局に情報を要求できないのか。

吉見 
私は政府と国会の両方に、「従軍慰安婦」問題に関して、調査委員会を設置するように、またそこで連続した公聴会を開催するように要求している。
議会の現在の多数党は、このような調査委員会をつくることに賛成していない。また国会議員には国政調査権があるが、その国政調査権の発動は、議会の委員会の多数の承認を得ないとできない。そして多数派は、そのような国政調査権を発動することに反対している。

質問

カレン・パーカー
韓国の元「慰安婦」の人々が始めた司法訴訟で、日本政府が持っている全ての書類を提出するように、そして政府がそれに従わなければならないという裁判所の命令を出せないのか。

吉見 
裁判所がそのような決定を出すことは絶望的だ。警察の資料が公表されない限り、真相の解明を日本政府が本気でやったとはいえないが、それは実現しそうにない。内外で、真相を解明せよという圧力が強まることが、一番大きな力になるのではないか。


第Ⅱ部 強制連行・戦争犯罪

朝鮮人強制連行・強制労働 洪祥進(ホンサンジン、朝鮮人強制連行真相調査団)朝鮮民主主義人民共和国


124 朝鮮人強制連行真相調査団は、1972年、在日朝鮮人と日本人の法律家、学者、文化人らによる、朝・日合同調査団として結成された。

朝鮮人強制連行の種類

強制労働 炭鉱、鉱山、土木、軍需工場・地下工場建設、軍事基地建設などを、朝鮮国内、日本国内、その他の地域で行った。
挺身隊 朝鮮、日本国内の軍需工場
慰安婦 軍隊慰安婦(戦地・基地)、労務慰安婦(炭鉱・港湾・作業所)
軍人、軍属

 朝鮮人強制連行の法的根拠

国家総動員法に基づいて、1939年から実施された、労務動員計画国民動員計画による朝鮮本土からの連行、
国民徴用令による日本国からの労務動員
・軍人・軍属・女子挺身隊・「慰安婦」としての戦時動員

125 資料 表1 都道府県別強制連行場(日本国内)

(1)内務省警保局『協和事業関係』(1944年)の1943年末現在の統計。(朝鮮人強制連行真相調査団「資料集1」1992.1)これは、炭鉱・土木・工場建設関連の連行数を記述している。1939-1943.3
(2)米国戦略爆撃調査団編『米国戦略爆撃調査団報告書第15巻』には、100程の地下工場建設予定地が示され、「労働力の主体は、朝鮮人と捕虜の中国人であった」と指摘している。これは、航空機地下工場建設関連の連行数を記述している。1944-1945
本表の83箇所は、兵庫朝鮮関係研究会が確認したものである。(同研究会編『地下工場と朝鮮人強制連行』(明石書店1990.7))
(3)陸軍兵器行政本部及び第2動員解除部が、GHQ/SCAPに提出した報告書。(防衛庁防衛研究所所蔵、日本兵器工業会資料『旧陸海軍施設関係綴』)これは、陸海軍基地建設関連の連行数を記述している。1944-1945
1992年2月にこの資料が発見された。(朝鮮人強制連行真相調査団編『朝鮮人強制連行調査の記録―四国編―』(柏書房1992.5))

現在文献から確認される連行地は1、141箇所であるが、もれているものがかなりある。

126 強制連行地
 上記の表1に示された1、141箇所の調査は、二、三の地方自治体を除いて、ほとんどが民間人によって行われた。調査済みは10%にすぎない。

労務動員

 強制連行初期に日本国内に連行された朝鮮人の60%が、鉱山関係だったとされている。これは国家総動員法の企画段階(1939年度)から示されており、政策的なものであった。
 労務管理
 「半島人の大量使用に際して請願巡査の配慮」(日本鉱業株式会社『所長会議資料』1941)は、朝鮮人強制連行者の増加と共に、担当警察署員が増加されていることを示している。

127 労働時間・期間
 労働時間は10時間から12時間がほとんどで、契約期間は2~3年だったが、期間終了後もほとんどが強制的に再契約させられた。

未払い賃金・供託
 1945年8月15日、朝鮮人労働者は企業に対して、強制貯金、未払い賃金の支払を求めた。
連合国総司令部は、日本政府に覚書を送り、「差別待遇を行わず、これを許さないと保証しなければならない」とした。(SCAPIN360, Nov.28, 1945)
 しかし日本政府は、企業に対して、未払い金と名簿を、法務省供託局に提出させた。現在、日本政府はその名簿の公開を拒否している。

女子挺身隊
 1943年から朝鮮国内や日本国内の軍需産業に、勤労挺身隊として、12歳前後の朝鮮人少女までも動員した。
 1992年7月、ソウルの芳山国民学校で確認された学籍簿によると、12歳から14歳の生徒が、1944年7月、富山市の不二越に連行された。証言によると、労働時間は14時間以上であり、食事すら満足に与えられなかった。(『東亜日報』1992.1.16

労務動員による死傷者
 1943年の労働科学研究所の調査によれば、朝鮮人労働者の死傷率は、日本人労働者の3.5倍から6倍であった。
128 昨年(1991年)、本調査団は、北海道三菱美唄炭鉱の死亡者名簿を入手した。それによると、1944年5月のガス爆発で死亡した109人中、朝鮮人は82人である。目撃者によると「現在でも当時の労働者の白骨が残っている」とのことだ。

 当時朝鮮人が反抗したり、逃走したりすると、警察と企業の労務担当者が迫害し、虐殺した。
 苛酷な強制労働や虐待による死傷者数は、分かっていないが、日本国内だけでも、30万人と言われている。また遺族への死亡通知も、なされていない。
 残虐行為の主体は軍隊だったが、民間人も、官民一体となって、600万人もの他民族に奴隷労働を強要し、リンチ、虐殺したが、未だに謝罪すら行われていない。

軍務動員
 慰安婦 
「慰安婦」は日本軍の管理下で戦場に連れて行かれ、性行為を強制された。
「慰安婦」制度は、1932年の中国侵略戦争前後から1945年まで行われた。そのほとんどが朝鮮人の未婚女性であり、本人の承諾なしに連行した。連行数は10万人とも20万人とも言われている。

128 軍人・軍属
 朝鮮人は、軍人や軍要員として、日本軍の基地建設や捕虜の監視等に徴用された。連行数は36万4000人であり、1953年5月現在の死亡者・行方不明者数は、14万人である。(公安調査庁『在日朝鮮人の概況』1953
 日本政府は外国籍という理由で、朝鮮人を援護法の適用から除外している。

朝鮮人強制連行は国際法に違反する
 朝鮮人強制連行は、人道に関する国際法とその慣習を踏みにじる違法行為である。
極東国際軍事裁判所条例とニュルンベルク国際軍事裁判所条例は、民間人に対する虐殺、奴隷化等の非人道的行為が、加害国の国内法にかかわらず、戦争犯罪であるとしている。
 また朝鮮人強制連行・強制労働は、ILO「強制労働に関する条約」(第29号)に違反している。同条約は、女性労働や地下労働、差別賃金を禁止し、労働期間を二ヶ月以内としている。日本は、1932年11月にこれを批准していた。

日本政府の対応

 強制連行
 1965年の「韓・日条約」締結時の国会答弁(参議院日韓条約等特別委員会1965.12.3)で、椎名外務大臣は、強制労働に関して「これを裏付けるよすががない」と発言したが、1990年8月、労働省の書庫から、6万7000人の被強制連行者の名簿が発見された。

130 「慰安婦」問題
 1992年7月、日本政府は127点の「慰安婦」関連の資料を発見したとする調査結果を発表したが、これ以外の資料が、国立国会図書館や公文書館に所蔵されていることが確認された。日本政府はこの部分を意図的に除外したのだ。
 今回の我々の調査で、国立公文書館から48点の資料(以下に示す)が発見された。これによると、朝鮮人「慰安婦」が1932年にすでに動員されていたことが判明した。これは1937年動員説を遡るものだ。

原因
 日本政府の主張が根拠とする根本は、日韓「併合」を合法だとし、それが有効であり、適法であると考える点にある。現在朝日間で政府間交渉が行われているが、朝鮮側が、かつての植民地政策による人的・物的被害の補償を求めるのに対して、日本側は、朝鮮の併合は「合法的」になされ、「有効」であり、従って、強制連行や女子挺身隊などもすべて「適法」になされ、従って補償問題は生じないとする立場を表明してきた。
 また問題が「従軍慰安婦」だけであるかのように装い、またこれに対しても、形だけの「補償に代わる措置」で問題を解決しようとする欺瞞的態度を示している。
131 植民地支配と侵略戦争を認め、日韓併合条約を再検討することが求められる。

解決への課題
 日本政府に以下のように提案する。
 ・真相を究明し、事実の検証結果と資料を公開すること。
 ・原因と責任を認め、謝罪をすること。
 ・真相の究明と謝罪や補償を「慰安婦」問題に限定せず、日本の植民地支配下での犠牲者全てに対して行うこと。すなわち、朝鮮の独立闘争に参加し犠牲になった人々、朝鮮人「慰安婦」、被強制連行者に対する補償を行うこと。
 ・強制連行・強制労働の歴史的事実の資料と記録を、追悼碑や記念館等で、永久的に保存すること。

資料

 混成第十四旅団(編成地、札幌)の衛生業務関係の報告(1932.9.241933.12.20)を中心とした48編1006ページの資料綴(国立公文書館)

 全体の構成

衛生業務旬報 34

構成
1、部隊行動の概要
2、衛生機関業務の概要
3、患者輸送の状況
4、衛生材料補給の状況
5、一般衛生状況
6、防疫及衛生施設
7、その他必要と認むる事項

司令部指示 2
防疫に関する実施要綱 3
講演要旨 2
検索成績概況報告 1
要報、会報 6
計 48

慰安所の設置
 1932年10月の中国侵略初期から、性病の予防策を講じていた。(「花柳街地域への立ち入りは禁止」衛生業務旬報、昭和7年10月11日―20日)

ところが、花柳病患者が発生したため、支那遊廓を閉鎖し、軍隊慰安所の開設となり、朝鮮人「慰安婦」を導入した。(「平泉に内鮮人娼婦38名入り来たり、開業するに付き、16日、之が検黴を実施」衛生業務旬報 昭和8年4月11日―20日)これが朝鮮人を導入した最初の軍慰安所と考えられる。

健康検診要領
 「慰安婦」のために行うのではなく、「軍隊防疫上の必要により実施」としている。
健康検診の実施は「憲兵または警察官と協議し」、一般検査を一月一回、局部検査を毎週一回以上とし、疾病に湛えるもの、または伝染病を発見したときは、「憲兵または警察官に通報するものとす」としている。

133 花柳病発生数

一四旅団  0.0553(実数47人)
関東軍   0.077
上海派遣軍 0.08
1、000人に対する一日の数。
一四旅団は1932.101933.5

まとめ
朝鮮人「慰安婦」の導入は、1933年4月から行われた。
「慰安婦」の徴用が大規模に行われることに伴って、強制的連行・管理が行われたと推定できる。
軍隊慰安所という用語は使われていないが、状況と資料内容から軍隊慰安所と考えられる。
この資料は、軍隊慰安所の設置経緯、検診結果、「慰安婦診断実施要領」、軍隊内での性病感染比率などを扱った、体系的かつ総合的にまとめられた資料である。
日本政府は1992年7月6日に調査結果を発表したが、国立公文書館、国立国会図書館の資料を調査していなかった。



元三菱徴用工たちの思いを伝えたい   金順吉キムスンキル 韓国

感想 言われている通りの強制的な徴用(強制連行)だった。

134 1944年12月半ばごろ、徴用令状を受け取ったが、徴用から逃げる目的で母の実家に隠れた。予備召集日に不参加だったので、警察署から毎日家族に強迫があり、全ての生活物資の配給を止められた。警察官が母親を連行し、その口を割らせ、母親の実家に隠れているところを逮捕され、1945年1月8日の夜、釜山駅付近の旅館に軟禁され、丸坊主にされ、翌9日朝、関釜連絡船に乗せられ、三菱重工長崎造船所に連行(強制連行)された。

 当時、私は慶尚南道生薬(漢方薬)統制組合の書記として勤務していた。

135 私が強制連行された後、妻は実家に戻ったが、雇い人夫も徴用で連行され、農作は不可能になり、家族の生活は悲惨な状態に陥った。

 三菱造船所では、釜山出身者35人と慶尚南北道出身者300余人が、平戸小屋寮という木造二階建ての宿舎に、三個の中隊に分けられて収容された。
 空腹に耐えかねた逃亡者が続出し、負傷者や事故による死亡者も出た。栄養失調者が多く、朝夕の食事は、どんぶり鉢に八分ほどの、玄米がまばらに混じった脱脂大豆粕飯に、たくあん三切れだった。味噌汁は、海草などの塩汁に変わっていった。昼食は、現場で配給する握り飯一つだけだった。毎日、握り飯やイリ豆、スルメなどを、所持金で買って食べた。
 寮で配給される金鵄(し)たばこ一箱が1円60銭、酒一合が50銭で、これらの代金は、月給から差し引かれた。みかん二個は無償でくれた。

 私は2月15日付で、第一船殻工場輔工係の水上遊撃班に配置された。造船資材類を各船台に配送する作業だった。六時に起床すると同時に朝食、その直後に、日本人班長が引率して現場に出勤、退勤は5~6時、残業は9時30分までが普通だった。他の組の徴用工は、徹夜作業が多かった。

 2月28日(水)は、初めての給料日だった。

給料明細1・2月分


給料
円・銭

1月分
29.41

2月分
87.27

小計
116.68

内訳


加給金
7.99

精勤奨金
4.35

家族手当
15.00

皆勤賞与
1.71

小計
29.05

控除金


立替金
1.00
1%
下宿料
8.80
8%
国体費
0.68
1%
国民貯金
71.28
61%
健康保険料
1.05
1%
退職積立年保金
3.87
3%
小計
86.68
74%



現金渡
30.00
26%
合計
116.68





136 国民貯金は本人の意志に関わらず天引きされ、貯金通帳を見せてくれなかった。給料は日本人班長が支給した。
3月分の給料77円30銭を受け取ったが、支給明細は渡されなかった。

感想 確かに給料はもらっていた。しかし、未払いの給料があり、強制的な貯金という形でピンはねされ、明細書が渡されないこともあった。そして戦後、その事実を指摘しても、会社は国にやったとし、一方、国は知らないとし、未払いの金を払おうとしない。(後述)

 4月26日(木)は晴れの日だった。11時30分、グラマン三機が造船所に500kg爆弾を投下し、激しく爆撃した。
137 7月3日(火)、何度も空襲があった。12時間交替作業で、真夏の太陽の下、造船所内は溶鉱炉のようだ。分隊の木下相一君が、船台の木工2人と逃亡した。夜は南京虫との戦いだ。夜中に起きれば、夜明けまで眠れなかった。
 7月、爆撃がひどくなり、一日に数回あり、徴用工の逃亡も増えた。班長級の者まで逃げ出した。
 7月16日(日・雨)作業中にクレーンで感電して死ぬ目に遭った。
 8月1日(水)、爆撃がひどく、学徒動員の女高生50余人が爆死した。船台岸壁にあった回転式クレーンが被弾し、5、6人が爆死し、地上に大きな池ができた。死体の掘り出し作業に動員された。
 8月9日(木)朝、出勤途中に警戒警報が鳴った。晴れた真夏の日照りで暑く、団平船で鉄材を運搬し、岸壁に到着した時、北の空からB29が飛来し、B29の後尾に白い気球が見えた。B29はその気球を落として、急旋回して逃げた。この時、警報はなかった。引き潮で海が浅かったので、木船から飛び降り、石垣の岸壁を駆け登り、食堂の下水溝に入り込んだ。その瞬間ピカー!!と太陽が燃えつきるような、稲妻のスパークのような閃光が私の体に光り、ドドーンと物凄い爆音で、腹が切れ、胃袋(腸)が口から出そうな、物凄い地響きと同時に、食堂の屋根が壊れてきて、体の下半身が埋もれ、気絶した。
138 真っ白い大きな爆雲が段々大きく広がりながら昇り、ますます真っ赤な火の玉のようになってきて、私はまた気絶した。
同じ組の蓮沼徴用工に、船に行って握り飯を、負傷者が避難していたトンネルに持ってこさせた。稲佐山の頂上へ行って下を見ると、港内の海に多数の死体が浮いていた。暗い山道を越え福田寮に行き、その晩は海辺で野宿し、翌日平戸小屋寮に戻り、畳の下に隠しておいた日記帳を取り出し、造船所の横穴の防空壕で8月12日まで隠れていた。12日の夜、会社のトラックで脱出した。運転手は平安道出身の徴用工で、木鉢寮にいた人だ。
 8月15日、天皇の重大放送があるとのラジオニュースで、無条件降伏の朗報を知らされ、下関の町は大騒ぎ、歓喜の声が町中に流れ、朝鮮人は万々歳と叫び、一方日本人は痛哭の声だった。
139 8月17日21時頃、石炭が積んであった船と交渉し、70円で乗船し、50余人と共に8月19日の夜の2時ころ、釜山の南浦町に到着した。
 
1991.8.9、長崎の46周年平和祈念式典に参席後、三菱造船所の三上総務課長が私の在籍証明書をホテルに持参し、それを証拠に原爆手帳の申請ができた。
その前々日の8月7日、三菱重工長崎造船所へ、徴用工の名簿閲覧の目的で、久保田達郎・長崎造船労組委員長と平野伸人・被爆二世教職員の会会長とともに訪問したとき、「朝鮮人徴用工の名簿はない、仮にあっても見せられない」と言われた。理由は私が徴用工であったかどうかを証明できないからということだった。
その時私は徴用期間中にこっそりつけていた日記帳を同課長に見せ、本人に間違いないことを確認させた。すると「徴用工の名簿や関係書類は被爆の時に焼失あるいは散逸した」と断言した。そこで、その被爆の日がいつだったのかと尋ねると、私の日記にも、その日に被爆したという記述があった。
140 8月12日、長崎市役所で記者会見し、原爆手帳を交付された。
三菱は、昨年5月から今までの一年半かかってようやく、未払い賃金の存在や強制貯金の未払いを認めたが、「未払い賃金は、貯蓄と一緒に、昭和23年に法務局に供託済みだ」「徴用は国が行ったことであり、三菱には関係がない」とし、私の要求を拒否している。そして供託したことを証明する資料は紛失したと公言し、謝罪の言葉もない。
 一方供託を受けたはずの長崎法務局や県、ならびに労働基準局からも、供託を証明できる資料は何も出て来なかった。長崎法務局の局長は「もうこれ以上探す気もない」と開き直っている。

1992.7.31、私は、長崎地方裁判所に、国と三菱を相手に、未払い賃金請求訴状を提出した。8月9日、原爆平和祈念式典に、長崎刑務支所で爆死した韓国人の遺族とともに参列した。
去る10月6日、長崎地方裁判所で、第一回の公判が開かれ、認定尋問を終えた。次回は1993年2月2日である。私の裁判を支援する会も組織された。
三菱は戦争中にあらゆる軍需品を作り、その武器によって数百万の人命がなくなった。三菱はそれらの武器を国に納め、莫大な利益を儲けた。国は戦争に負けても、三菱は今、世界有数の大企業体になっている。
141 韓国の被爆者は、戦後47年になっても、国家的にも社会的にもなんらの補償も受けられずにいる。
また、三菱は徴用解除後に賃金を精算し、集団で帰国させたというが、一次帰国者は20人足らずであった。またこれらの人も、帰国途上の海で台風を受け、帰らぬ人となった。
日本国と三菱は、戦争の罪悪を何一つ反省していない。日本政府は私の請求に誠意を尽くして欲しい。私は、裁判を通して彼らの蛮行を糾弾する決意を固めた。
私は帰国後、後遺症で悩んでいる。結核で入院、胆石症で胆嚢除去手術、結核性肋膜炎で入院手術し、毎日薬を飲んでいる。
142 私の裁判は、元徴用工全員の思いを代弁する闘いであり、日本人一人ひとりの戦後責任を問い直す闘いだ。これはすぐれて現在的な課題である。裁判での私の勝利は、日本国民の勝利でもある。

感想 彼は日記を克明につけていて、これが証拠となった。

裁判のその後は、下記の通りである。下記のサイト


によれば、

1992.7、金順吉さんは、国と三菱を相手に、損害賠償1000万70円(70円は帰りの船賃)、未払い賃金124円28銭(日記で確定できる分のみ)の支払を要求し、長崎地裁に提訴した。(インフレ率や延滞金を考慮に入れないのか。)

 判決は、国の不法行為責任について「違法だった」と事実認定し、三菱重工については「旧三菱重工に不法行為責任があり、未払い賃金の支払義務を負う」とした。

「三菱の行為は、国民徴用令に基づく徴用でも、許容されない違法なものだった」*

*これはどういう意味か。国民徴用令そのものは違法ではないということが言いたいのか。それは問題だ。そのことが日本の全ての判断の間違いに貫流しているように思われる。国家は間違っていないのだと。

 しかし、裁判所は、国について、「国家無答責任」*とし、三菱については、「新旧三菱は別会社だ」とし、金さんの請求を棄却した。

*国家は民事責任を負わないということらしい。また、新旧三菱が別会社だとはひどい。そんなことがまかり通るのだろうか。

 金さんは控訴したが、1998.2.20、肺がんで死亡した。控訴審は、金さんの長男金鐘文らによって引き継がれた。

 1999.10.1、福岡高裁で控訴審判決が行われたが、それは長崎地裁と同内容だった。金さん側は上告する方針である。

国が民法上の使用者責任等を負うことはない原爆投下後の処置について、国が直接民法上の不法行為責任を負うこともない」「旧三菱の債務は新会社に継承されない」(福岡高裁判決)


サハリンに徴用、置き去りにされて 朴亥東パクヘドン サハリン

感想・要旨 「徴用」という名の強制連行、ソ連による、祖国との文通も許さない冷戦政策、祖国の父母や妻子のことに思いをはせること自体を罪悪と見なす「共産主義教育・宣伝・介入」、しかし、最初の原因を作った日本政府が悪い。日本政府は、我々韓国人を祖国に帰し、祖国での住居を補償せよ。それは経済大国、民主主義国家日本の責務だ。

143 私は蔚山郡で1923年4月18日に生まれた。かつて樺太に連行された三万人のほとんど全てが亡くなり、今生存しているのは1000人くらいだ。
 私は、日本の植民地時代の抑圧、徴用、強制労働、抑留の生き証人だ。
1943年元旦、私の兄を指名した徴用令状を持った者が、私の家に乗り込んで来た。17歳の末の弟が南洋群島報国隊に連行され、マラリアにかかって故郷へ戻ったことに対して、父は厳しい追及を受けていた。父は病気で寝ていて、兄が看病していた。その事情を訴えると、弟のお前が行け、拒めば、父母兄弟から食糧配給券を没収し、田畑の穀物も全部没収すると言うので、私は抵抗できなかった。
144 私はその時20歳だった。同じ日に蔚山郡で徴用された者は42人だった。釜山から下関へ、下関から特別列車で青森まで、7日間、都市を通過するときは、窓がカーテンで閉ざされた。
 4日目、私は逃亡を図ったが、失敗し、手錠をかけられ、足蹴にされ、殴られた。
 樺太につくと、途中で逃亡をしたことを理由に暴行され、謝罪させられた。
 樺太豊栄郡落合町の樺太人造石油会社の内渕炭鉱で、炭坑内の最奥の工夫の仕事をさせられた。今も喘息に苦しんでいる。
145 石油ストーブ一つに、毛布一枚で寝かされた。一部屋12~14人ずつであった。食事は、寮長、事務員、炊事夫およびその家族が食べた後の食べ残しで、配給量の半分だった。豆、ふき、玄米飯に、おかずは、昆布汁、ふき、身欠きニシンだった。
 食費代として一日18円を天引きされ、賃金の残りは強制的に貯金させられた。通帳は国家銀行がつくったものではなく、会社がつくったものだった。
 外出する自由もなく、ある人が脱走を企てると、半殺しで人事不省の状態で連れ戻された。
146 貧弱な食事と過酷な労働により、体が弱り、仕事を休むと、ケーブル線で殴られた。ある日蔚山郡から来た19歳の青年が、下痢で晩交代の仕事を休み、5人から殴る蹴るの制裁を受けているのを見て、私は彼らに抗議した。私は15日間監獄にぶち込まれた。今でも腰が痛む。
 一日12~14時間働かされた。
 内渕炭鉱だけで朝鮮人工夫が3500人から4000人いた。
147 1941年から45年にかけて二年の期限で、「徴用」という呪わしい方法で強制連行された。約束の「徴用」期間二年が過ぎても、さらに二年の延長を強要され、賃金を手にすることもできなかった。鉄道や道路の建設、炭鉱などの重労働で危険な仕事をする者の中には、事故で負傷し、死亡した人もいた。寮長や隊長は乱暴で、私たちを人間扱いにしなかった。

 1945年、日本政府は日本人だけを帰国させ、私たち朝鮮人を放置した。

―――――――――――――――――

ウイキペディア、「在樺コリアン」によれば、

 樺太の南半分に大勢の日本人や韓国人が住んでいた。
日本人は当初30万人いて、1949年までに28万人が帰還したが、韓国人は乗船できなかった。朝鮮人と結婚した日本人女性は、子育てや仕事で戻れなく、日本政府はその戸籍を抹消し、彼女らは無戸籍者となった。(TBSラジオ2018.6.8、放送は6.2「サハリン在住日本人」)
1950年代初頭、日本時代からの韓国人は2万7千人で、戦後北朝鮮から派遣された人が、1万2千人いた。
ソ連が1945年8月にヤルタ会談に基づいて進攻して来たとき、彼等は逃げられず、そのまま樺太南部にいて、ソ連の支配下に置かれた。
 1946年に、アメリカとソ連が彼らの処遇を、ソ連に任せることで一致した。(「在ソ日本人(朝鮮人を含むのだろう)捕虜の引揚に関する米ソ暫定協定」)ソ連は日本人を日本に帰したり、一部はシベリアで強制労働させたりした。
 ところが北朝鮮出身者は帰還させたが、南朝鮮の人は帰還の対象から外されたようだ。それは、南朝鮮が反共政権でソ連と国交がなかったかららしい。また実際は、在サハリンの朝鮮人は、南朝鮮の人が殆どで、北朝鮮に帰った人は殆どいなかった。また南の政府は彼らを帰郷させたいという意思表示をしなかった。

1952.4.28のサンフランシスコ条約で、日本政府は、朝鮮人の日本国籍を剥奪した。彼らはまた1990年まで韓国国籍も与えられなかった。北朝鮮国籍やソ連国籍取得は許された。

 ソ連が彼等を労働力として必要だったという側面もあるようだ。

1956.10、日ソ国交が回復し、1957.8月から1959.9までに、また日本人の引揚が行われた。(この時は日本人妻が対象だったのだろう)日本人の妻がいれば朝鮮人は帰国できたが、殆どの韓国人は帰れなかった

1960から1976まで、南朝鮮人の帰還申請についてソ連は、「日本政府が韓国政府から許可を取れば、出国を認める」としていた。このころは韓国とソ連との国交はなかった。1976.4、日本政府は仲介を始めたが、ソ連政府は、1976.7月に、どういうわけか、出国許可を取りやめた。
331名が申請した。日本入国認可者19名のうち、ソ連が出国を認可した者は、たったの1名で、韓国政府の受け入れ認可を待つ者が5名とのこと。(意味不明)結局、日本入国後韓国へ帰国した人が1人、日本に留まった人が2人だった。

1983年当時、韓国は独裁政権で、北朝鮮は社会主義の友好国と看做し、サハリンの朝鮮人は、みな北朝鮮の国民だと看做し、韓国に帰すことに賛成できないとしたのが、日弁連、日教組、自治労、日本社会党など進歩的文化人、市民団体や左派労働組合だったとウイキペディアは述べるが、どうか。しかし、その「左派」も次に述べるように方針を転換したようだ。それは韓国の独裁性が1987年に打倒されたからだろう。

1987、日本社会党のイニシアティブで、サハリン在住韓国、朝鮮人問題議員懇談会が、補償のために外務省で予算化し、毎年1億円、1994年には村山内閣でそれが増額され、2007年、在サハリン韓国人支援で3億円、2007年までのトータルで70億円を拠出した。
その内訳は、家賃無料のアパート建築費、療養院建設費、ヘルパー代、一時帰国する人の往復渡航費と滞在費、また、2006年には、サハリンに留まる韓国国籍者のための、サハリン韓国文化センターを建設した。

1990、韓国とソ連との国交が結ばれ、韓国国籍取得や韓国への帰郷が行われた。

韓国は2007年、まだ3000人の韓国への帰還希望者がいるので、日本に支援を要請した。

村上春樹は『1Q84』の中で、樺太の朝鮮人両親兄弟と別れて日本で孤児となったタマル(田村健一 朝鮮姓 朴)を描いている。

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148 ソ連時代、私たちは韓国に送金できなかった。故国の家族を思うあまり、精神を病み、自殺する者もいた。酒と賭博に走る者もいた。ソ連は民族平等を唱えながら、私たちは民族差別を受け、肉体的虐待も受けた。傷害を負って、死んだ者もいた。解放から1962年までは、ソ連大陸本土からサハリンに来たソ連人に対しては地域別割増金が支払われたが、韓国人労働者には支払われなかった。国家勲章やメダル、賞、その他表彰に関しても差別があった。商店での買い物や住宅配分においても差別があった。
 解放後、ソ連本土で特別任務を受けてサハリンに派遣されたソ連系朝鮮人インテリ=宣伝者は、多くの韓国人労働者が働く職場の副支配人となり、私たちはひそかに彼らを「政治部長」と呼んだ。彼らは共産主義思想を宣伝し、社会主義的優越性と法則、規律、思想を説き、家庭生活や個人生活に至るまであらゆる面で介入し、支配統制した。またソ連国籍取得を強要され、「帰国」を口にしようものなら厳重な注意と批判を受けた。これは1980年ころまで盛んに行われた。彼らは、私たちを日本帝国主義の鎖から解放し、私たちに完全な自由を与えてくれたと宣伝した。
 しかし、実際は、これは半世紀に及ぶ父母兄弟妻子との離散であり、祖国への帰還を放棄し、断念する永遠の抑留を意味した。「解放」は、手紙一通を送ることも適わない終わりなき悲しみと苦痛をもたらした。
 根本的原因は日本にある。日本は戦後、民主化され、人権を擁護する国になったと言われる。それが事実であるなら、なぜ私たち韓国人一世の当然の要求がいまだに実現されないのか。それは道徳も常識も欠いた野蛮な行為ではないか。
150 今日の豊かな日本経済にとって、補償することは、広大な太平洋の一滴の水のようなものではないか。
 補償がなされても怨恨を解くことはできない。私たちは異国で過ごすうちに、文化や言葉、風習を忘れてしまった。貴重な青春を取り戻すことはできない。
 今の問題は、生き残った年老いた韓国人一世の命にかかわる問題だ。私たちは祖国に帰りたいという気持ちで胸がいっぱいだ。
 過去、大日本帝国が私たち韓国人一世の人生をめちゃくちゃにした以上、現在の民主日本は、当然、速やかに補償する絶対的な責任と義務がある。韓国に永住帰国する一世のための受け入れ施設が準備されなければならない。そうすれば残留韓国人一世の心がいくらかは晴れ、日本は人道的義務と使命をひとまずは遂行する者として、多くの人達の歓迎を受けるだろう。


日本軍捕虜収容所における私の体験 ジェラード・ユングスラガー オランダ

はじめに  ハントリー

151 私はオランダの対日道義請求財団に勤めている。
 1942、日本はインドネシアにいた全てのオランダの民間人を収容所に入れた。慰安婦にさせられた人や、強姦された人もいた。日本は、スウェーデンやスイスなどから我々に送られた赤十字の物資を横領していた。
152 昨年私は日本に来て、教科書の図書館を訪れたが、日本の歴史の本には、南京事件、真珠湾攻撃、徴用、徴発などが書かれ、さらに東京の爆撃、広島と長崎の原爆などは、写真つきで書かれていたが、戦争で死亡した人は、日本人しか書かれていなかった。戦争捕虜、連合軍側の捕虜、民間人などが被った被害については書かれていなかった。

 子どものころ収容所に入れられると、アルコール中毒になったり、離婚率も高まる。

 韓国人、中国人、台湾人の被害とオランダ人の被害とは、人権侵害という点で同一である。
153 戦争捕虜は強制労働をさせられながら、賃金が支払われていない。
グアム、ビルマ、タイでの捕虜に対する仕打ちがひどかった。
 一週間に七日間働かされ、病気になっても休みを取ることができなかった。捕虜の死亡率はビルマ、タイでは50%であったのに対して、日本軍人で連合軍の捕虜になった人の死亡率は5%にすぎなかった。

ユングスラガー

153 1941年から1945年まで日本はオランダ領東インドを占領した。オランダ・インド王室軍は、圧倒的多数の今村均陸軍中将が率いる第16軍に敗れ、1942年3月9日に降伏し、この日にオランダ総督はその地位を失った。
154 私は両親と兄の四人暮らしだった。
日本軍政監部は、ヨーロッパ系の学校の校長を拘留し、ヨーロッパ式の学校教育を禁止した。
オランダ領インド・ラジオ放送局は、放送終了時にオランダ国歌の「ウイルヘルムス」を3月18日まで流していたが、その局員は日本人に撃ち殺された。
 3月末、日本人はヨーロッパ人の収容を開始した。総督は4月6日に投獄され、満州に送られた。
155 オランダ人公務員や事務員は、理由も告げられず逮捕された。バダビアではヨーロッパ人が襲撃された。
「ティガA」(3A)運動とは、日本がアジアの指導者であることを宣伝するために、支配された人たちに、各自の家にこれを描かせたことである。これは屈辱的だった。

TJAHAJA ASIA NIPPON
PERINDOENG ASIA NIPPON
PEMIMPIN ASIA NIPPON (リーダー アジア 日本)

日本は(住民)登録制度を開始し、その際お金を支払わせた。ヨーロッパ人は自分たちの祖先を明らかにされたが、その情報は収容者を選考する際に用いられた。
1942年6月14日から収容が始まった。16歳以上の男子で、ヨーロッパ人を親とする者が拘留された。(これはインドネシア人は除外されたという意味か)父と兄はバンドンの少年院に送られた。週一回の面接は、一ヶ月で打ち切られた。父の経営していた薬局は閉店を余儀なくされた。
1942.9、ジャワ島の日本軍政監部は、連合軍の女性と子どもを保護区に移住させた。
156 私たちの家はこの保護区の中にあったので、私たちの家に、30人の女性と子どもを受け入れるように命じられた。
12月に父が収容所から釈放され、薬局を再開するように命じられた。父は白い腕章をつけさせられた。その腕章には、日本の事務所の従業員であるから、御配慮願いたいということが書かれていた。
母と私は、父の店の裏の小屋に潜伏した。薬局に来る日本の軍人やインドネシア人に見つからないようにしなければならなかった。これまでの使用人が、食糧を毎日持ってきてくれた。
店にはインドネシア人とオランダ人の女性従業員が、それぞれ一人ずついた。これは1942年の10月まで続いた。(12月に父が釈放されたという前の記述と合わない。)
父は憲兵隊に捕まり、私と父は、兄のいる少年院に送られた。母の消息は、戦争が終わるまで分からなかった。(父が捕まったのは、母と私の潜伏が発覚したせいか)
157 所持品を没収された。食事は粗末だった。収容所内で自主的に学校が開かれた。定員200人の少年院に2500人が収容されていた。
1944.2、行き先や理由も告げられずに移動させられた。行き着いたところはバンドンの旧営舎だった。食事はさらにひどくなった。
158 一人の拘禁者が脱走に失敗したが、それ以後彼の姿を見なくなった。
1944.3、また移動させられた。バンドンから西へ20キロのチマヒだった。オランダ・インド軍大隊の第四大隊の営舎に収容された。営舎の片隅に、ここで七人の兵士が処刑されたと落書きされていた。逃亡を試みたようだった。
 1000人収容の施設に1万人が収容されていた。一人の寝床は幅70センチだった。
 赤痢で亡くなる人が多かった。
159 食べ物はチマヒの町で調達した。労役は、竹の棒で武装した日本人が監督していた。
1945年、食糧の調達に町へ行ってはならない日が、何度かあった。
一日10人の死体の埋葬と、菜園の手入れをやらされた。
160 外のインドネシア人と接触して買い物をすると、ひどい罰を受けた。後ろ手にされ、24時間電柱につるされたり、それに誰かが抗議すると、壁に向って12時間逆立ちをやらされたりした。また雨の中や炎天下の中を、何時間も気をつけの姿勢をさせられた。
日本人の看守が見回りに来る時は、最初にそれを見つけた人が「気をつけ」と叫ばされ、全員が気をつけの姿勢をし、監視人が前を通り過ぎる時は、御辞儀を深々とやらされた。頭の下げ方が足らないと、棒でたたかれた。点呼は一日に二回あった。
米がなくなり、ウビという、豚が食べる芋が供された。それはすぐに腐り、変な匂いがした。
パンを作るためのイースト菌の使用が禁じられ、人間の尿でイースト菌のようなものが作れるというので、尿がためられた。
1945.8.22、天皇陛下が戦争を終わらせる決断をしたとマレー語で伝えられた。
8.31、誰かが正門にオランダ国旗を掲げたが、掲げた人は罰を受けた。
母はバンドンの保護区に連れて行かれ、暫くしてジャワ島中部のセマランにあるランプリサリ収容所に移され、終戦までそこにいた。そこで女性は12時間以上気をつけの姿勢で立たされたり、殴られたりした。母も殴られ、右の耳が聞こえなくなった。
母は、バンドンで父に再会できた。ロニー・ハーマンの『イン・ザ・シャドウ・オブ・ザ・サン』に著者の母親の、女性収容所での体験談がある。

感想 中国人よりはマシかなと思うが、粗末な食事、所持品の取り上げ、病気、厳しい制裁、等々ひどいものだ。そして脱走を試みて失敗した人はどうなったのだろうか。

軍票による被害者の声に耳を   呉溢興(シーヤツヒン、香港索償協会) 香港

要旨 香港市民は、イギリス人が逃亡したり、捕虜にされたりした後で、香港ドルを日本の貨幣と軍用手票(軍票)に強制的に、しかも違反者に対しては首を斬る164という手荒なやり方で、没収された。このことは英国政府とは無関係である。しかし、戦後、日本はサンフランシスコ条約を楯にとって、その日本貨幣や軍票の香港ドルへの両替に応じようとしない。サンフランシスコ条約はイギリスなど47カ国と結ばれたのであり、香港人は関与していない。166
ドイツは全ての被害者に金銭的に補償(総額500億米ドル)し、アメリカ(1990.10, 被害者各人に20,000ドル168)やカナダ(各人に20,000カナダドル)は、戦時中に収容された日本人に、金銭的に補償し、謝罪した。日本は補償も謝罪もしていない。

164 1941.12.25、日本軍が香港を占領し、香港市民に、香港ドル二元につき一元の日本貨幣あるいは軍用手票(軍票)と強制的に両替させ始めた。また1942.7.24からは、香港ドル四元を軍票一元と両替させ、1945.9に両替停止となった。
165 1945.9、日本軍は香港を撤退し、今なお5億余元の軍票が我々の手許にある。
 当時日本軍は如何なる物品の交換に応ずるという声明を公布した。
 日本貨幣や軍票の裏面には、日本通貨と両替すると明記されている。
167 国際法には人道に対する罪があり、被害を受けた側は補償を要求できる。当時の日本軍は、「殺しつくす、奪いつくす、焼き尽くす」の三光作戦をはじめ、首を刎ねる、水責めなど数々の拷問や、婦女への強姦など残虐を極めた。これは人道にたいする罪だ。
168 日本政府はロシア共和国に対して北方四島の返還を求めているが、香港で発行した貨幣を回収しないのか。これはダブルスタンダードだ。

日本がお詫びと補償を行えば、アジア人民の日本に対する見方が一新するだろう。


戦争被害の実態と日本の戦後処理 研究報告 村山晃 日本弁護士連合会

一 なぜ今戦後処理に取り組むのか
169 被害国の民主化が進み、人権擁護の運動が高揚し、被害者がようやく自らの声を上げることができるようになった。
 個人に対する戦後補償を当然のこととする国際的な世論の流れが、特にドイツで、形成されてきた。
170 日本国内でも、誠実に戦後処理を行うべきだという世論が形成された。それは日本における民主主義と人権思想の発展に相応している。

 日弁連人権擁護委員会は、去る7月11日、「日本の戦後処理を問う――被害の実態と補償のあり方」というシンポジウムを開催し、報告書を作成した。この報告はそれに基づいている。

二 被害の実態と処理
 被害の状況を個人レベルで特定する必要がある。
172 BC級戦犯については膨大な裁判記録があり、現時点であればまだ当時の関係者の証言を入手できる。
1 日本は占領地で軍政をひいた。中国では15年間、東南アジアでは4年間である。
2 (一)住民等非戦闘員の虐殺
住民等非戦闘員が理由もなく殺傷されたが、その実体は把握されていない。
中国では軍関係の死傷者が300万人であるのに対して、一般人の死傷者は1800万人を越えるのではないかと言われている。
南京大虐殺では、女性・老人を問わず集団虐殺された。
「焼き尽くす・殺しつくす・奪いつくす」という「三光作戦」で、村全体が殲滅された。
捕虜が何の理由もなく一方的に虐殺された。
戦争当初から強姦・輪姦・強姦殺人(本書中国人女性の証言を参照せよ)が集団的に行われ、従軍慰安婦制度を生む要因となった。
 731部隊による生体実験は非人道的この上ない。これらが軍ぐるみで行われたことは、その時の状況と、資料や証言などから疑うべくもなく、中には作戦そのものとして行われたものもある。
南京大虐殺の被害者数を中国では三十数万人としているが、日本の論者の中には数千人としている者がいる。
 中国人に関しては、マレー半島に移住した者のうち、その多くが集団虐殺の対象となった。住民虐殺は中国人に集中している。
 しかしその他の全ての地域でも、同種の被害が報告されており、特に抗日運動の激しかったフィリピンでは、その被害の最大のものは、住民虐殺だった。
174 フィリピンでは、軍人・ゲリラ五万人に対して、民間人百万人以上が殺害されたという報告がある。
 捕虜となった連合国の軍人や民間人は虐待され、フィリピンの「バターン死の行進」では、数万人の捕虜が死んだ。一方的な虐殺事件も報告されている。捕虜に対する待遇は人道を無視しており、各地のBC級戦争裁判で、捕虜収容所関係が全有罪者の27%に上る。
(二)強制連行・徴用
 植民地下の朝鮮や占領下の中国、東南アジアの国々で、住民を強制的に連行し、労働に駆り立てた。連行政策が国策としてなされたことは明らかになっており、朝鮮、中国から、日本へ、また東南アジア各地からタイ、ビルマへと連行され、そのまま帰国できなかった人達が大勢いる。
 苛酷な労働と虐待の中で、死亡するものが多かった。中国では各地に「万人坑」が残っている。各所で毎日何十人もの死者がでて、その死体はこの「坑」の中に放り込まれ捨てられた。
 「花岡事件」では、一年間で半数の418人が死んだ。日本への強制連行者は、韓国朝鮮人で百万人を越え、中国人は四万七千人に達したと言われている。
175 この労働者は低賃金で、賃金未払いもあり、さらに貯金と称してそのまま返還しない経済的被害を発生させた。
 これには日本の企業も深く関与している。
サハリンに連行された人たちで、日本人に対しては帰国政策が取られたのに、韓国朝鮮人の人たち四万数千人は、今でも取り残されている。また日本国内においても、帰国できないまま終戦後も住み続けた土地を、占有権限がないことを根拠に、土地所有者から明け渡しを要求されている。これは日本の戦後処理に、原状回復をはかる観点がなかったことを示している。(意味不明)
 日本国内に強制連行された人たちの中には、原爆被害にあっているにもかかわらず、原爆二法が適用されていない。
(三)「従軍慰安婦」
 「慰安婦」事業が日本軍・日本政府の施策としてなされたことは、日本政府の調査結果からも明らかにされている。「前線における軍占領地域内の日本軍人による強姦事件の発生から来る反日感情を抑え治安回復を図るため、速やかに性的慰安設備を整える必要がある」という観点から慰安所が設置された。
日本政府はその全貌を明らかにしようとせず、さらに「慰安婦」の連行の方法をめぐって、責任を回避している。
176 連行の方法に関しては、被害者や軍関係者その他様々な人たちから多くの証言が寄せられており、強制的になされたことが明らかになってきている。「慰安婦」の状況を見れば、彼女等に自由意志がなかったことは明らかである。
こうした事実を無視して、「強制連行されたことを示す資料がなかった」と言って、日本政府や軍の作成した文書が発見されない限り事実を認めないという対応は、日本政府の戦後処理のあり方を象徴している。この考え方を変えさせなければならない。
(四)軍務につかされた人たちの被害
 日本は植民地支配をテコに、韓国朝鮮・台湾等の住民に徹底した皇民化教育を推し進め、徴兵制度を導入し、日本の軍人・軍属にした。また南方では兵補として、現地人を日本の軍務に従事させ、彼等は死傷した。植民地支配下、占領下で、日本の戦争の遂行のために動員されて被害に会ったのだから、責任は日本にある。
177 彼らの中にはBC級戦犯として、日本の戦争責任を取らされた韓国朝鮮人や台湾人がいる。
 日本人の軍人・軍属には援護法が適用され、補償がなされているが、彼等に対しては日本国籍を一方的に剥奪し、日本人ではないことを理由に、日本の援護法の適用から除外している。これは二重の差別だ。
 又彼等は、約束された給料をもらえなかったり、強制預金が返還されなかったり、戦後一方的に放置されるなどの経済的被害にあっている。
(五)財産的被害やその他の被害
 戦争目的は資源の掠奪だった。また戦争行為それ自体が家屋、田畑、山林を破壊し、軍隊は建造物を使用し、資源、食糧、物資を供出させた。
ベトナムでは食糧供出のために、200万人から300万人の餓死者が出た。中国では放浪者が一億人出たとも言われる。
 日本軍が軍票を発行し、物資を調達したため、インフレが進行した。日本政府は戦後この軍票を兌換しなかったために、それは単なる紙切れになってしまった。
178 占領地域で日本軍は、神道と日本語を強要し、固有の民族文化を否定した。戦後におけるその影響は深刻だった。

3 日本人の被害
 沖縄では人口の三分の一、二十数万人が死亡した。一般住民が軍人を上回る。戦後はアメリカに土地を奪われた。
 数百万人が紙切れ一枚で戦争に狩り出され、戦死し、アジアの各地に取り残された。戦争に反対したことで投獄され、拷問・虐殺された。自由が抑圧され、文化・芸術・学問の発展が抑えられた。
 戦後の援護法は軍人・軍属だけを対象にし、一般市民を除外した。
179 沖縄では米軍や自衛隊が接収した土地の返還を求める訴訟が今でも行われている。日本軍が強制移住させた先で多くの(沖縄)住民が、マラリアに罹患したことに対する補償要求や、本土移住を求められて船舶遭難に会ったことに対する補償要求が出されている。
空襲被害者、恩給欠落者、治安維持法犠牲者、シベリア抑留者なども補償を求めている。
中国残留孤児に対する、補償を含めた解決が求められている。
 援護法には国家補償である旨が記されているが、補償の対象は戦争を遂行した者(軍人・軍属)だけであり、被害者に対する補償の観点がない。これは最大の問題だ。

三 日本の戦後処理の問題点
 日本の戦後処理は、国内法制で援護法を制定し、諸外国に対しては条約や協定で解決を図ってきたが、それは不十分だった。
180 
(一)日本の処理法の実態と問題点
 1952年に初めて援護法が制定されたが、対象は軍人・軍属に限られ、外国籍の者は除外された。その後制定された法も基本的に同じだ。
ただし、戦争協力者の幅を広げたり、原爆被害についてのみ、医療補助をしたりした。しかし、基本的には一般の被害者は補償から除外された。
 国籍条項で外国人を排除していたが、原爆二法では国内にいる外国人にも適用し、1988年には台湾人元兵士に一時金を支給した。
1953年に軍人恩給が復活したが、日本国籍のある軍人・軍属中心主義が制度の根幹である。また法が時々の政治的思惑で作られ、体系性・統一性を欠いていて、理念に乏しい。
(二)戦争被害国との関係
 日本国政府の見解は、北朝鮮を除いたアジア諸国との関係では、政府間の条約・協定などで既に解決しているというものである。
 しかし、それは被害の実態に即していない、被害の実態を無視した政治的解決だ。
 韓国では強制連行について「事実関係を実証するような材料は全てなくなっている(自らが焼却したからこれを確信できる)」ことが前提され、被害が特定できないとして、一括援助にしたとされている。(これは焼却処分とタイアップした態度だ。)
181 被害の実態を明らかにしなければならない。
 どの国に対しても、基本的に、被害者個人への補償はなされていないが、数少ない補償例は、韓国において、日本への預貯金や国債、年金などの債権の整理のための支払や、軍人・軍属または労務者として召集・徴用され、終戦までに死亡した人たちに、一人30万ウオンが支払われ、またミクロネシア地域では、戦病死者に対して500ドルから5000ドルの補償がなされた。しかし、補償の範囲や額が極めて不十分だった。
(三)求められているもの
 被害の実態に即した補償をする法制度を構築することである。戦争遂行者・戦争協力者補償法から、戦争被害者補償法への転換である。戦争に伴うもろもろの被害が含まれなければならない。
182 事実の調査と解明をすべきだ。
 これまでの条約・協定では、被害者への補償措置ができていない。日本政府もそれぞれの人たちの請求権は失われていないということを認めている。*
 援護法の国籍条項は撤廃すべきだ。戦争を引き起こした日本人には補償があるが、それに引き込まれた外国人には補償がないというのは不合理だそれは国際人権規約の内外人平等取扱原則に反する差別待遇だ
 今なお現存する被害について、状回復を基本とした解決をすべきだ。原爆後遺症で苦しむ人達の援護、サハリン残留韓国朝鮮人の原状回復、沖縄の土地問題の解決などである。これらは補償では解決できない。
183 *政府の答弁は、条約や協定において、個人の補償問題も解決済みだ、と繰り返している。それが日本政府の立場だ。しかし(原則的には)これは国と国との協定・条約であるから、そのことによって個人の持っている請求権までも、その条約で放棄させることは、基本的にできないから、その個人請求権は残っているというのが政府の立場だ。

感想 実質的に個人請求権は残っていないのに、個人請求権が残っていると言っても、絵に描いたぼたもち同然ということだ。詭弁である。

感想 しかし、個人補償をすべきだというのは正論だが、補償額の合計がいくらになるのか、計算した人がいるのだろうか。
これに関連して、第一次大戦後のヴェルサイユ条約で、ドイツが高額な賠償金を課せられ、それがドイツのナショナリズムを刺激し、第二次大戦を誘発し、その反省の上に立って、第二次大戦後は、高額な賠償はしないという方針になったらしい。つまり支払い可能な総額を幾らにするのかという問題である。このくらいで勘弁してくれという問題だ。

 払う払わないはともかくとして、日本軍がアジアの近隣諸国にどんな被害をもたらしたのかは、日本人が知っておかなければならないことだ。日本人が常に反省を迫られる国民だということをいつも自覚していなければならないということは、これから東アジアでますます人権意識が高まるにつれ、日本が正当に評価されるためには必要なことだ。人を殴っておいて、弁償するかどうかの問題以前に、殴らなかったと言ったら、信用されなくなるだろう。

 私はこれまで海外旅行の行き先として東アジアを避けてきたが、何か行きにくい気分だった。日本人はそういう戦前の重荷を背負っている国民だという自覚の上に立って、東アジアの国々と仲良くなれるように心がけるべきではないか。2019年6月1日(土)


閉会挨拶184  日本弁護士連合会「国際人権セミナー」実行委員長 山下潔

 西独憲法第一条は、「人間の尊厳性を尊重することは、国家権力の最大の責務だ」としている。
 明日の講師はファン・ボーベン教授、ハンフリー教授、国際赤十字のムッシュ、ゼマリ、カレン・バーカー弁護士、パク弁護士です。


あとがき187

 金学順さんが前年に名乗り出てから一年余り経つのに、日本政府から誠意ある回答が得られないままである。
 必要経費はカンパで賄われた。総額1400万円を超えた。
 参加者の中には韓国、アメリカから来た人もいる。壇上に国連・NGO関係者が着席した。英語、韓国語、日本語の同時通訳で行われた。
 多くの聴衆は証言を聞いて胸を打たれ、被害者である証言者自身も、50年間しまい込んでいた思いをほとばしるように表現し始めた。朝鮮民主主義人民共和国の金英実キムヨンシルさんが「慰安婦」にされた辛い証言を終えると、金学順さんがフロアーから壇上に上がって彼女を抱きしめた(19頁や本書表紙の写真)。それを合図にしたかのように、同じ境遇にされた女性たちが何人も、壇上で口々に自分の過去を語り始めた。
188 彼女たちは、その前々日に開かれた日本政府相手の補償請求裁判に原告としてやってきていて、この公聴会にも参加した。
 中国からやってきた万愛花ワンアイフアさんは、証言の途中で立ち上がり、日本軍から受けた身体の傷跡を見せながら説明していた時、「日本が憎い…」という言葉を最後に気を失い、倒れこみ、病院に運ばれた。「もっと証言したかった」というメッセージを会場に寄せた。本書に掲載されている万さんの証言は、あらかじめ用意された原稿である。
 オランダのジャンヌ・オヘルネさんは、冷静に、勇気を奮い立たせながら、50年間、この日のために推敲を重ねたかのような証言を読み上げた。公聴会の後、オヘルネさんは、「アジアの女性たちの気持ちをヨーロッパ人に理解してもらうためには、私が必要だと思ってやって来た」と語った。
 日本政府は様々な手を使って、特別報告者が日本にやってくるのを阻止しようとした。ファン・ボーベン氏の今回の来日は、あくまでも個人資格によるものであるのに、それを国連特別報告者としての正式訪問であるかのように誤報した某新聞の記事を(日本政府は)英訳し、「任務からの逸脱行為」として国連に圧力をかけた。日本政府はこれに失敗すると、来日したファン・ボーベン氏に会談を申し入れた。本書65頁と120頁の彼の質問は、その時日本政府がどんなことを彼に強調したかをうかがわせる。彼の吉見氏に対する質問は、「このようにしっかりした吉見先生の研究があり、明々白々であるのに、なぜ日本政府は、いまだに責任逃れの言葉や、強制はなかったなどと言うのでしょうか。吉見先生、こうした研究を彼らに学ばせる方法はないのでしょうか」と言っているように聞こえる。
 本公聴会は、ファン・ボーベンさんの国連人権小委員会への報告書や、カレン・バーカーさんが収集した証言・資料に基づく活動や、今後の国連の会議の中に、その成果を表すだろう。
 本日の「日本の戦後補償に関する国際公聴会」は、翌日の「戦争と人権、戦後処理の法的検討」とともに、戸塚悦朗弁護士が提案したものだ。彼は、国連人権小委員会と現代奴隷制部会で「従軍慰安婦」問題が取り上げられることに寄与した。1992.5--8 彼は日本に帰国後、日本弁護士連合会と「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」に、ファン・ボーベン氏を招いて人権セミナーを開く提案を行った。
190 本書の英文版を出版する予定であり、ビデオも頒布している。申し込みは、
〒556 大阪市浪速区塩草2―4―518 国際公聴会事務局 06-562-7740

1993年2月28日 国際公聴会実行委員会事務局

青柳雄介『袴田事件』文春新書2024

  青柳雄介『袴田事件』文春新書 2024       裁判所への要望   (1) 公判時に録音・録画を許さないことは、知識の独占であり、非民主的・権威主義的・高圧的である。またスマホや小さいバッジなどの持ち込みを禁止し、さらにはその禁止事項を失念するくら...