『買春(かいしゅん)する帝国 日本軍「慰安婦」問題の根底』 吉見義明 岩波書店 2019
感想 200 2020年3月26日(木)
「慰安婦」は「身売り」だったのか。つまり、父親がお金=前借金を受け取り、その代償として、娘は一定期間身体の自由を拘束されなければならなかったのだろうか。それは一般の商取引と同様に、娘がその分の稼ぎを上げられなければ、ずっと身体を拘束され続けなければならなかったのだろうか。
ヨーロッパではそういう考え方を否定する運動(廃娼運動)が始まっていた。1904年、白人奴隷取引禁止条約が協定され、1910年に条約となっており、国際連盟規約第23条は、白人奴隷取引禁止条約の取決の実行を監視することを規定した。日本は国際連盟の常任理事国となり、それを推進する立場に立たされた。
つまり、娼妓は、性奴隷と看做され、一般の商取引とは明確に区別されるようになっていた。日本はこの流れに表面上は従いながら、この条約の適用を海外への移送だけに限定し、また植民地は適用除外とした。つまり植民地=朝鮮・台湾から、海外=中国への「慰安婦」移送を合法化したのだ。
同じく日本のごまかし的手法は、建前=法令上は、娼妓を廃止するとし、対外的な体裁を整えながら、実は、名称を変えるだけで、実質的に業者が性売し続けるのを取り締まらない=お目こぼしをするという手法である。
そういうごまかし的手法の流れの中で、違法と知りつつ、派遣軍の要望で、中国に軍慰安所を設置することになった。1937年、日中戦争が始まると、中国派遣軍は、いつ帰れるかも分からず不満を抱く兵士の「慰安」のために「慰安婦」が必要だと考えた。
上海総領事館警察署長は、上海憲兵隊・領事館武官室の決定に基づき、日本国内と朝鮮の警察署長に、業者の募集活動への便宜供与を要請した。内務省はそれに応じておきながら、業者に対して、募集に際しては、「軍がそのことを諒解している」などと口外してはならないと、厳重に取り締まった。1938.2.23つまり、秘密にしておきたかったのだ。これが、国外移送目的の人身売買罪だと知っていたからだ。195
関東軍特種演習1941.7.5の時、2万人の「慰安婦」が必要とされ、3000人の朝鮮人女性が募集=動員されたが、198頁の表20にはそれが含まれていない。それは満洲が植民地だとされ、外国ではないとされていたからだ。表20は、不要不急の渡航が認められない状況下での海外渡航数であるから、ほとんどが「慰安婦」だったと思われる。200
そして軍「慰安婦」制度は、非人道性の極致となった。1933年以降、日本内地の娼妓は外出の自由が認められ、やや進歩的傾向を示していたのに、軍「慰安婦」や植民地の娼妓にはそれが認められなかった。また、貸座敷の場合は、募集・管理・施設の設置・物資の供給などに、警察は関与しなかったが、軍慰安所では軍が介入し、戦地や占領地では、軍が直接女性を募集、ないし暴力的に連行し、日本・朝鮮・台湾・中国の女性を軍用船で移送した。
女性児童売買禁止諸条約は、民間人による人身取引を、国家が規制・取り締まることを目指すものだったが、軍「慰安婦」制度は、国家自体が直接女性・児童の人身取引に関わるものであり、これは想定外の事態だった。213, 214
また見逃してならないことは、貸座敷業者が皇室崇拝者だったことだ。1935年、貸座敷業者が、廃娼運動に危機感を抱いて、臨時全国大会を開いたが、明治神宮に参拝し、宮城を遥拝し、君が代を二唱し、天皇・皇后に対して万歳を三唱したという。161
また1937年秋ごろ、中国での軍「慰安婦」制度の創設に当たり、貸座敷業者の中野光蔵や藤村政次郎らは、荒木貞夫大将と右翼玄洋社総帥の頭山満と会合し、上海派遣軍のために3000人の「娼婦」を送ることを決定していた。195
日本では人権意識が希薄だった。現在のセクハラ大国に、女性蔑視の考え方が根強く残っているのも不思議ではない。
追記 上記のように、娼婦として連れてこられた人の他に、洗濯婦や看護婦や工場労働者だと騙して連れて来られた人もいたし、さらには、強引に連れて来られた人もいたことを忘れてはならない。それは『世界に問われる日本の戦後処理』Ⅰの証言が示すとおりである。
追記2 連行の三タイプ、娼妓、騙し、強権的のうち、騙しと強権的は、21歳未満で性売経験のない女性の海外への移送不許可規定の植民地での不適用と関連していて、これによって未経験な若い女性が、朝鮮などから半ば強制的に中国や南洋に移送された。また、軍による業者への「委託」を示す資料が「発見できない」こと=焼却処分とも関係している。これは当事者が、ヤバイと考え、国際的に秘密にしておきたかったからなのだろう。
追記3 著者は綿密に資料を調べ上げていて、その努力には頭が下がるが、『世界に問われる日本の戦後処理Ⅰ』に見られるような、被害者の口から発せられる証言の生々しさ、被害の詳細という点では、被害者の証言のほうが優っている。また筆者が調べる資料は、為政者の資料がほとんどである。
感想 073 「風流統監」の伊藤博文が、酔眼朦朧、鼻の下を長くして、占領後の朝鮮の高級遊廓に入り浸っていたという。そして相手の彼女らは「醜業婦」(蔑称047)と見なされていた。伊藤の心の中に、差別されて当然の人間がいたのだ。戦前の沖縄、台湾、朝鮮、中国の人々に対する蔑視の念があって初めて、関東大震災に象徴されるような異民族に対する殺戮を、日清戦争以来10年おきに繰り返すことができたと言えないだろうか。戦前の日本を理解する上でのキーワードは差別的蔑視ではなかろうか。
陸軍や海軍は県知事に遊廓の設置を積極的に要望した。軍隊は遊廓が兵士の不満解消と性病感染防止になると考えていた。また地元の商人や名士は、軍の要求に応えるために、また街の繁栄のために、遊郭設置に賛成だった。049 2020年2月29日(土)
プロローグ
001 1872年、太政官布告で性売買を禁止したが、その後性売買が続いているのはどうしてか。それは政府や軍部、政治家、業者の思惑があったからではないか。
002 2015年12月の「日韓合意」は、首相の事実認定を伴わない曖昧な謝罪で、賠償ではない金銭の支払いであったため、「慰安婦」問題はいまだに未解決である。
003 「売春」の「春」という語には、楽しさとか、慕い合う心とか、エロスの強調の意味があり、実態と異なるので、「性買売」と言い換えるようになっている。「性売買」でなく「性買売」である。
近代の公娼制とは、19世紀のヨーロッパに淵源する、性売女性を公権力が把握・管理する制度であり、性売女性の登録、居住・営業場所の指定(集住)、性病検査(検梅・検黴)の強制などの特徴を持つものを指す。
公娼制が性売公認であるのに対して、軍「慰安婦」制度は、性売公設である。
第Ⅰ章 人身売買禁止から公娼制へ 幕末~1894年
一 近世から近代へ
近世の遊郭
007 江戸時代の17世紀なかばまでに、江戸・京・大阪・長崎で幕府公認の遊郭がつくられた。城下町や宿駅・港町・門前町などにある、水茶屋・料理茶屋・食売(めしうり)旅籠屋などで性買売が行われ、飯盛女(めしもりおんな)・飯売女(めしうりおんな)などと呼ばれる性売女性がいた。遊女は事実上の身売りにより、年季奉公の間、雇用主に隷属し、人身を拘束されていた。
女性たちは、公権力から特権を与えられた遊女屋仲間に遊女として把握されていた。遊女とは、遊女屋などが把握していた名前や人数を幕府・藩に届け出た女性をさす。
遊女屋仲間は、幕府に遊女屋の設置と経営を独占することを公認されていた。江戸の新吉原町の遊女屋仲間は、町奉行の指示で、非合法の売女を摘発する特権を認められていて、摘発された女性を使役することができた。
遊女の自負と非差別
008 19世紀になると遊女屋の経営が困難になり、遊女の待遇が悪化し、遊女たちは放火を行って抵抗した。
しかし、キリスト教的な西洋の価値観に基づく社会的差別を受けておらず、遊郭から出れば、差別を受けることはなく、また前歴を隠すこともなく結婚できた。
性買売における世界的傾向
幕末における欧米の傾向は、奴隷制の廃止と性病防止策の実施であった。フランスで、性売女性に対する強制的な性病検査が先ず始まった。次いでイギリスで1864年に伝染病法が制定され、罹病者は隔離されたが、これは自由の保障に反するとして、ジョセフィン・バトラーらが反対し、1886年に廃止された。
009 バトラーは当初性売女性の搾取の廃止を目指していたが、その後、性売の禁止、性売女性の社会からの追放へと変化していった。
性病検査の強制
日本では検梅が行われていなかったため、近世社会では梅毒が広がり、治療法もなく、人々はこれを仕方のない現実と受け止めていたようだ。
幕末、日本にやって来た欧米の軍指揮官は、兵士・水夫への感染を恐れた。ロシア艦船の水兵多数が丸山遊郭で梅毒にかかったため、1860年、万延元年、ロシア艦隊は、長崎の対岸の稲佐に、水兵専用の遊郭、ロシアマタロス休息所の設立を要求し、検梅を行った。これが日本最初の検梅だった。遊女たちはこれを「淫門改め」として驚き、恐れて拒否した。そのため休息所に行く女性を農村や漁村から新たに集めた。
010 駐日公使パークスは、1867年慶応3年、横浜の吉原町遊郭での検梅を要求した。翌年、遊郭内に梅毒病院ができ、1870年、兵庫・長崎にもできた。長崎の丸山遊郭では遊女の57%が梅毒に感染していた。
二 芸娼妓解放令と貸座敷制度の開始
1872年10月、太政官と司法省が相次いで娼妓・芸妓などの人身売買を禁止し、芸娼妓解放令を出した。
011 太政官布告第二九五号(1872年10月2日)
人身を売買し、終身又は年期を限り、その主人の意思に任せて虐使することは、人倫に背くことであり、あってはならないことだと昔から禁じられてきたが、これまで、年期奉公など色々な名目をつけて奉公させ、住み込ませてきたが、これは、実際、人身売買と変わらない状況になっていたが、これはもっての外のことであるから、これからは厳禁とする。
一 農工商など種々の業を習熟するため、弟子奉公させることは自由だが、年限は満7年を超過してはならない。
ただし、双方が和やかに話し合って、その期間を延長することは、かまわない。
一 通常の奉公人は1年までとすべきだ。ただし、奉公を継続しようとする者は、契約の更新を文書で交わすべきである。
一 娼妓芸妓等年季奉公人一切解放可致(いたすべく)、右に付ては貸借訴訟総て不取上候事
右の通り、定めるから、必ず守るように。
司法省布達第二二号(1872年10月9日)
本月2日に太政第295号で言われたように、左の各件を心得るべきだ。
人身を売買するは古来制禁の処、年季奉公等種々の名目を以て其実売買同様の所業に至るに付、娼妓芸妓等雇入の資本金は贓金(ぞうきん、隠し金)と見做す、故に右により苦情を唱ふる者は取糺(あつめ)の上其金の全額を可取揚事
一 同上の娼妓芸妓は人身の権利を失ふ者にて牛馬に異ならず、人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし、故に従来同上の娼妓芸妓へ借す所の金銀幷(ならびに)売掛滞金等は一切償(はた)る(=徴収する)へからさる事
一 人の子女を金談上より養女の名目に為し、娼妓芸妓の所業を為さしむる者は、其実際上則ち人身売買に付、従前今後可及厳重の処置事
(太政類典 第二編 168巻)
012 太政官布告は、「これまで人身売買が禁じられていたにもかかわらず、年季奉公などの名目で事実上それが行われてきた」と指摘し、「今後は娼妓・芸妓などを解放する、身代金や借金などの訴訟は取り上げない」と宣言した。
司法省は「人身売買の身代金として用意している資金は、贓金、つまり不正な金として、不平を言えば取り上げる、娼妓・芸妓が借りている身代金や各種の借金は取り立ててはならない」と指示した。
(以下はこれまでの経過)
この解放令はマリア・ルス号事件*がおこり、ペルー側が日本の遊郭制度を非難したために、明治政府が慌てて出したものだと理解されてきたが、この裁判以前に、江藤新平に率いられた司法省が、「奉公人年期定御布告案」をいう人身売買禁止に関する布告案を6月23日に太政官に提出していた。この案は、「人民自主の権利を保護するために、娼妓、角兵衛獅子等の類、新規召抱は満一年に限る、既に召抱えている場合は満三年に限り、満期後親元に帰すこと、金子貸渡の訴訟は一切取り上げないこと」としていた。
*マリア・ルス号事件とは、1872年6月、横浜に入港したペルー船籍のマリア・ルス号から逃げ出した清国人が救助を求めたとき、他にも大勢の清国人が騙されてペルーに連行されようとしていることが明らかになり、神奈川県権令(ごんれい)大江卓は、清国人の帰船拒否を支持した。一方、船長が提訴し、船長の弁護人のフレデリック・ディキンズは、「ペルー船と清国人との契約よりももっと拘束的な娼妓契約が日本では行われている、契約は有効だ」とした。この事件はその後国際仲裁裁判所に持ち込まれ、裁判長のロシア皇帝は、船長側の敗訴を申し渡した。
013 また、井上馨大蔵大輔(たいふ)が、遊女解放の意見書を提出したが、これは、日本における遊女奴隷制度に関するディキンズ陳述の数週間前のことだったと、ダニエル・ボツマンが指摘している。当時内政に関する権限を持っていた大蔵省(井上馨大蔵大輔)は、「婦女を売買し、遊女・芸者などの名目で、年期を限り、または終世、身心の自由を束縛することは、かつてのアメリカの売奴と同じである」としてその買売禁止を7月30日に提案していた。また、井上は「営業を認められた遊女は、貸座敷を借りて営業すること」としたが、これは、遊女の前近代的な隷属関係を、貸座敷と遊女の近代的な金銭関係に組み替えようとするものだった。これはフィクションだったが、その後このフィクションが現実に実施されることになり、芸娼妓は新たな隷属を強いられるようになったのだが、反面で、娼妓は自分の身体を、他人に所有されない主体として法的に位置づけられたため、それをステップにして、この主体性を実質化していく第一歩ともなった。
014 また、遊女等の身代金に関して、司法省と左院(太政官の最高機関、正院の諮問機関。議長は後藤象二郎)との間に議論の応酬があり、「芸妓娼妓等の解放は、自主の権利を得させる一大端緒なのだから、人身売買の禁を犯した輩の一時失産は固より当然のことであり、身代金などの貸借訴訟はすべて取り上げない」という9月5日の左院の意見が通り、太政官布告が出された。
司法省布達を出したのは江藤新平と福岡孝悌(たかちか)だが、江藤は当時フランス民法に準拠した民法編纂を行っていた。この司法省布達は、1869年3月に「人を売買することを禁すへき議」という意見書を公議所に提出し、「娼妓は年季を限りて売られたる者にて、年季中は牛馬同様なるものなり」と述べた津田真道(まみち)の意見を参照しているようだ。
015 1867年、新吉原に4150人の遊女がいて、3500人が解放された。戸長*が芸娼妓の抱主(かかえぬし)と人主(ひとぬし、親など身元保証人)から証書を取り上げた。また、解放とは芸娼妓を親元に帰すことだった。東京府は、借金に関して示談とするように指導したが、遊女屋への保証は拒否した。
*戸長は1872年、新たな地方制度ができ、府県の下に大区が置かれ、その下に小区がおかれた。その小区の長が区長である。
感想 日本にも、津田真道1869や、江藤新平1872.6.23や、後藤象二郎1872.9.5らのように、金銭で人の身体を縛ること=奴隷制を否定する、先進的な考え方の人もいて、太政官布告や司法省布達が実現したが、一方で、次に見るように、そうでない従来どおりの考え方をする図々しい人がいて、現実はそれに押し切られたということのようだ。
貸座敷・娼妓・芸妓制度
明治政府は性買売を禁止したのではなかった。遊女屋を貸座敷業者にし、遊女を、性買売のために貸座敷を借りて営業する性買売の主体にした。つまり政府は性買売を公認したのだ。そしてこれが土着化した。
初めにそれをやったのが神奈川県だった。マリア・ルス号事件裁判に関わった大江卓・神奈川県権令の下で、1872年10月、「遊女渡世規則」が交付された。
「遊女になろうとする者は、父兄等幷親類連印の上願い出ること、遊女は高島町に住むこと、月3円を町会所に払うこと、病院・薬代・その他諸費用(検梅などの費用)を支払うこと」とされた。
東京府は、芸娼妓解放令が人身売買を禁止しただけで、娼妓芸妓の業を差し止めたのではないと判断し、「この業を営む者に、鑑札を渡すことにしたい」と上申し、大蔵省・司法省と協議の上、貸座敷渡世規則・遊女規則・芸妓規則案を1872年10月に作成した。それは次の通りである。
「貸座敷渡世の者(経営者)には、免許の上印鑑を渡す。免許の場所以外で営業してはならない。座敷を遊女に貸す代金は相対で決める、借金のない遊女は何時家を立ち退いても妨害してはならない、営業者は免許税を支払う」などが決められ、また、
「遊女は本人真意から願い出れば渡世を許し、印鑑を渡す、貸座敷の外で営業し居住してはならない、15歳未満の者は遊女になれない、免許税は毎月2円とする」などが決められた。
これに関して大蔵省は賛成し、司法省・左院は反対した。司法省は、これでは性買売が顕然明許となるとして反対した。ところが司法省の江藤が1873年10月の征韓論争で、西郷隆盛、板垣退助らとともに敗れて辞任したため、12月12日、東京府布達第145号が出された。この布達は以下の通りである。
「売淫遊女躰(てい)の者が増えてきたので、これを抑えるために貸座敷と娼妓の営業場所を吉原、品川、新宿、板橋、千住の五か所(他に根津は、年限を限定して免許した)に限り、次のような貸座敷渡世規則・娼妓規則・芸妓規則を規定した。」
017 「貸座敷をしたい者(経営者)は願い出の上鑑札を受け取ること、免許のない場所での営業はできない、無鑑札の娼妓などに座敷を貸してはいけない、鑑札料は月5円とする、客の一昼夜以上の滞留は認めない、不審な客がいる場合は訴え出ること。」
「性売だけを行う娼妓渡世の者は、本人真意よりの出願であれば鑑札を渡す、15歳以下の者は認めない、住居は自宅でも貸座敷でも構わないが、渡世は免許貸座敷のみで行うこと、鑑札料は月2円とする、毎月2回医師の検査を受けなければならない、不審な客がいる場合訴え出ること」とされた。
「芸を売る建前の芸妓渡世の者は、出頭の上鑑札を受け取ること、鑑札料は月3円とする」と規定され、芸妓の性病検査は規定されなかった。
「貸座敷屋と娼妓の鑑札料は梅毒院施設の費用にあて、芸妓の鑑札料は窮民手当とする」とされた。
その後、1876年1月、太政官布告により、警視庁と各府県警察が、性買売の取り締まりを任されるようになった。
警視庁は2月24日、貸座敷規則・娼妓規則を改定し、「貸座敷・娼妓営業の申請は警視庁に出すこと」とし、新たに、「娼妓は毎週一回検梅を受けること、検梅と病院入費として、貸座敷屋は稼高の10%を、娼妓は7%を納金すること、娼妓は遊郭区域の外に居住してはならないこと」と規定された。
018 遊郭許可地域は、維新後の新規許可地は243だったが、1881年末には、586になった。また貸座敷業者数は9599人に、娼妓数は3万105人になった。
娼妓数が多いのは、東京・大阪や、伊勢神宮のある三重、日光東照宮がある栃木などの参詣・遊興地、長崎・神奈川など早くからの開港地、そして新潟・福島・山形などであった。
北陸や東北が多いのは、米作大地主が多いことや、戊辰戦争による兵隊の流入と関係しているかもしれない。青森県警察部は、戊辰戦争との関わりについて、青森県廃娼事情の中で述べている。
三 北海道での遊郭の拡大
019 明治維新前の和人の居住区域は、南部の渡島(おしま)半島と小樽に限られていた。松前藩は渡島半島南西部を領地とし、幕府から蝦夷地の支配を命じられていたが、1855年安政2年、幕府が蝦夷地を支配することになった。
18世紀、和人のニシン漁(場所請負制)が成立する前後に、松前・函館・江差の三港で売女が出現した。幕府による蝦夷地直轄で、函館に遊所がつくられた。函館が開港すると、異人揚屋(あげや)ができ、遊所が吉原風に改造され、主要幹線上の宿場町的集落で、私娼が増大した。
1870年、開拓使は、北海道西部各郡の本陣・通行屋に、飯盛女を抱え置くことを許可した。
新たに建設された札幌で1871年、薄野(すすきの)遊郭が設置された。
開拓次官の黒田清隆は、「北海道には開拓人夫一万人が派遣されているが、遠隔の地であり、人夫に厭倦(えんおん)の道が生まれるのを防ぐため、妓楼を立て、公然売女免許を行いたい」と1873年1月23日に上申した。
020 1873年、開拓判官の岩村通俊は、官員などの心労を鬱散する場として、開拓使の予算で、洋風の一大妓楼を造ることを上申した。これは途中で中止となったが、民間に引き継がれた。
東京在住の松本弥左衛門と城戸弥三郎に対して妓楼建設が許可され、彼らは、東京から連れて来た遊女18人・芸妓3人を抱える東京楼を設置した。この女性たちは開拓使差し回しの横浜丸で送り込まれた。
これは芸娼妓解放令1872に抵触するものだった。開拓使は、解放令の施行を見合わせたいと抵抗したが、その上申は太政官によって拒否された。しかし、それでも、
開拓使は、1873年1月、「芸娼妓を希望する者には願い次第許可する。これまでの貸借関係は相対和談の上、年譜返済の方法で行う」と指示した。芸娼妓の借金は棒引きどころか、借金の踏み倒しができないようになっていた。
1873年2月5日、開拓使は、遊女屋を貸座敷とし、酌取(しゃくとり)・飯盛を、芸妓・娼妓とし、証印(鑑札)を与え、娼妓の検梅をした。また、娼妓は自宅・旅籠屋・料理屋で住むことができた。
021 ニシン漁の季節労働者、北海道開拓のための吏員・人夫のための遊廓は、1901年に469軒、娼妓数は1920年に2716人となった。北海道は内国植民地であった。
感想 1873年当時、北海道開拓使と東京中央の太政官との関係は、二重権力状態だったのか。北海道開拓使は、芸娼妓解放令を無視した人身売買を認めているようだ。というのは、北海道開拓使が、借金棒引を許していないからだ。
四 沖縄での遊郭の公認
沖縄では中世以来、ヤマト(本州・四国・九州)国家とは別に、琉球国が存続し、最盛期には奄美大島や先島諸島を支配していた。琉球国は明・清の冊封を受けたが、対外的に自立していた。
1872年、明治政府は琉球国を廃止し、琉球藩を設置し、1879年、沖縄県を設置し、旧国王に東京移住を命じ、沖縄を支配下に組み入れた。(琉球処分)
022 沖縄県設置以前、琉球には、本島の辻(ちーじ)と仲島・渡地(わたんじ)に遊郭があり、ジュリ(尾類)と呼ばれる傾城(けいせい、遊女)がいた。辻は主に中国からの冊封使や薩摩藩の役人向けであり、仲島は首里や久米などの王族・士族向け、渡地は八重山や宮古その他の旅人向けだった。
近代になると、辻は那覇・首里の客が主で、渡地は中クラス、仲島は三流どころだった。
ジュリは4、5歳から10歳くらいで人身売買され、アンマーとよばれる女性の抱え親に養育され、芸事を習い、14、5歳になると性売させられた。
娼妓取締規則に対する抵抗
1881年11月、沖縄県令の上杉茂憲は、次のような貸座敷娼妓規則を布達した。
「貸座敷営業は、辻・仲島・渡地に限る。営業したい者は警察に出願し、免許鑑札を受けること。娼妓が正業に就こうとすれば、故障(妨害)してはならない。誘客に犯罪人などの不審な者がいれば密告すること」
そして「廊外に宿泊する場合は警察に届け出ること。正業に就こうとして座敷主が妨害するときは、警察に申し出ること。病気があるときは医院の診察を受けること。梅毒を隠して客と交接してはならないこと」と規定された。
023 この規定には娼妓の検梅強制はなかった。
娼妓が廓外に宿泊する場合は警察に届け出ることという規定にはかなりの抵抗があった。ジュリとなじみの客は、疑似夫婦のようで、客の家の宴会で主婦代わりを努め、泊まりに行ったこともよくあったからだ。またジュリは梅毒検査を恐れ、公設の医院ではなく、従来通りの漢方医の診察を望んだ。
娼妓が正業に就こうとするとき故障してはならないとの規定にも、アンマーが反対した。ジュリは幼年から借金を背負い、アンマーはジュリを養育し、一人前になると、その営業で生計を立てていた。また、アンマーとジュリは疑似母子関係にあり、借金を返し終えても生家に戻らず、アンマーと一緒に暮らすのが慣習だった。
1882年3月23日、沖縄県がヤマトの娼妓解放令(1872年)を布達すると、辻遊廓の娼妓が自由廃業を申し出て、大騒動となり、上杉県令は免官となった。
芸娼妓貸座敷規則の布達
岩村通俊20は北海道で積極的に遊郭をつくっていたが、新たに沖縄県令になり、1883年5月、芸娼妓解放令の布達を取り消し、新たに芸娼妓貸座敷規則を公布した。
遊郭側の抵抗に妥協し、「廓外に宿泊するときは警察に届け出ること、病気があるときは医院の診察を受けること、梅毒を隠して客と交接してはならぬこと、正業に就こうして座敷主が故障するときは警察に申し出ること」という規定を削除した。
また「芸娼妓を廃業しようとする者は警察に届け出ること」とされたが、娼妓廃業届には、本人だけでなく、父母兄姉または親族と貸座敷業者、村の役人の印鑑が必要とされた。
こうして辻・仲島・渡地の遊廓は貸座敷になり、ジュリは娼妓とされ、公権力に把握されたが、旧慣習が温存された。
024 遊廓の楼の大部分は那覇の資産家の貸家で、一軒の楼では幾人かのアンマーがそれぞれ数人のジュリを抱えていた。1880年、貸座敷は828軒(辻659軒、渡地104軒、仲島65軒)、娼妓は1615人(辻1040人、渡地348人、仲島227人)だった。
025 芸妓・娼妓以外は私娼として取り締まりの対象となったが、実際は黙認された。またサカナヤーという料理屋を兼ねた性買売施設があった。
1900年、沖縄の芸娼妓にヤマトと同様の規則が適用されるようになった。1944年、軍隊が大量にやって来た。
五 軍備拡張による遊廓の設置・拡大
陸軍と遊廓
1873年までに六つの鎮台が置かれた。ただし、北海道と沖縄は除外された。また歩兵第一連隊から第十四連隊までが置かれた。つまり、東京1、佐倉2(千葉市の北方)、高崎3(のち東京)、仙台4、青森5、名古屋6、金沢7、大阪8、大津9、姫路10、広島11、丸亀12、熊本13、小倉14である。そして東京に近衛歩兵第一連隊と同第二連隊が置かれた。
1881年の明治14年政変で大隈系の官僚が追放されると、政府は帝国主義的傾向に方向を転換した。つまり、対外的に植民地を獲得して帝国を築き、日本の資本主義を育成しようとした。
026 それに伴っていっそうの軍備拡張が始まり、1884年から1888年までの間に、近衛歩兵第三連隊(東京)と同第四連隊(佐倉)が創設され、各地の鎮台の下に、新たに第十五連隊から第二十四連隊までが創設された。つまり、高崎15、新発田16(しばた、新潟市の東)、仙台17、豊橋18、名古屋19、福知山20、広島21、松山22、熊本23、福岡24に各連隊が置かれた。
そして対馬には対馬警備隊が設置された。
1888年、鎮台が師団に変更され、第一師団から第六師団が、東京1、仙台2、名古屋3、大阪4、広島5、熊本6に置かれた。そして東京には近衛師団が置かれ1891、北海道には屯田兵司令部がおかれた。
兵営の誘致に奔走した地域の有志者にとって、遊郭を同時に設けることは、半ば公然の合意事項だった。
仙台には歩兵第四連隊が置かれたが、近世には遊廓はなかった。1869年に、国分町に二十数軒置かれ、1878年に広瀬川河畔に移転した。(常盤丁遊廓)このころ150人前後の娼妓がいた。1894年、この遊廓は連隊に近すぎ、士気に影響するとされ、小田原峰屋敷に移転した。
027 愛媛県には歩兵22連隊が置かれた。1873年に道後、三津(みつ)、今治で娼妓営業を許可し、1876年に駆梅院を設置し、検梅を行った。
海軍と遊廓
1884年、横須賀鎮守府が設置され、1889年に呉鎮守府、佐世保鎮守府が設置され、1901年には舞鶴鎮守府が設置された。
1868年、横須賀でフランス人などを相手にする遊参所が大滝町につくられたが、それはその後日本人用の貸座敷になった。1888年、大滝町遊廓が焼失し、柏木田に移転した。1892年の規模は、妓楼18軒、娼妓254人であった。
神奈川県は遊郭が市街の中心にあるのは風俗を害する源だとして移転を主導したが、横須賀海軍鎮守府は、「遊郭の軍港内に在るは軍事上不都合だ」と県に伝えた。士官は「性売だけの貸座敷に行くな」と言われており、下士官や兵と海軍工廠の労働者が遊廓を利用し、将校は、貸座敷よりも高級な料亭で、歌舞音曲をたしなむ芸妓を利用するように奨励されていた。
028 呉では、軍港の開設に当たり、海軍から衛生上、風紀上、および人夫の気風緩和のために、遊郭設置の希望があり、1887年、県知事は吉浦海岸の埋め立てと遊廓の設置を許可した。1926年には貸座敷が13軒、娼妓は115人になった。
佐世保では、1886年に、鎮守府設置のために佐世保に出張した樺山資紀(すけのり)海軍次官が、「売淫取締方法の事」を東彼杵(そのぎ)郡長・原田謙吾に伝え、原田は、人家隔絶の地に遊郭を設置するように長崎県令に具申した。1887年に、日宇村木風(ひうむらきかぜ)へ遊郭設置が許可されたが、中心地から遠すぎたため、1891年に小佐世保免に移転した。1895年、貸座敷18軒、芸娼妓242人になった。
群馬県の廃娼と軍隊
倉賀野、板鼻、玉村、木崎(高崎の東)に貸座敷があった。1879年、県会で廃娼の意見書(建議)が可決され、1881年、県令の楫取素彦(かとりもとひこ)が七年後に貸座敷・娼妓を廃止すると布達した。これは日本最初の廃娼指令だ。自由民権思想、キリスト教の精神、蚕糸業者の堅実な勤労精神などが実を結んだと言われる。
その後貸座敷業者が存娼運動を展開し、佐藤与三(よぞう)知事は、1888年、廃娼を延期する県令を出した。これに反発した上毛青年連合会などの運動で、1889年、県会は再び廃娼決議を可決した。
029 すると知事は、新町、安中、妙義の貸座敷は廃止するが、倉賀野、板鼻など娼妓の多い七か所は残すことにしたので、県会は知事の不信任案を可決した。そこで知事は県会を解散したが、選挙の結果は廃娼派が再び多数となった。これを見た政府は佐藤知事を罷免し、新たに任命された中村元雄知事は、1891年、県内の貸座敷業を1893年末限りで廃止する県令を出し、群馬県は廃娼県となった。
1889年の県会で廃娼を訴えたキリスト者の天野宗忠県会議員は、貸座敷業者と娼妓との関係は、表面上はともかく、事実上は「実に奴隷に彷彿たるものであります」と指摘した。
しかし、群馬県の娼妓は、僻遠の旧街道に340余人しかおらず、前橋、高崎、桐生、伊勢崎などの市街地にはいなかった。廃娼が実現しても性買売はなくならず、私娼による非公然の性買売が継続した。高崎には遊廓は設置されなかったが、酌婦という私娼が多数生まれた。全県で私娼は1227人いた。
都市部での公娼設置運動は執拗に続けられ、1895年12月、公娼設置の建議が僅差で可決され、1898年、前橋、高崎などで、貸座敷営業場所指定の県令が出された。しかし、これは後に取り消された。
六 朝鮮での遊廓の設置
030 宋連玉によれば、朝鮮には妓生(きーせん)、娼女、女社堂牌(よさたんべ)、酌婦がいた。妓生の本業は歌舞音曲であり、官庁に所属する官妓(一牌)と、二牌とがいた。娼女は雑歌を歌う性売女性で、三牌と呼ばれ、女社堂牌は流浪芸能集団の女性だった。
一方、藤永壯は、ソウルの接客女性を、妓生、隠君子(うんくんじゃ)、三牌、酒食家に区分する。
朝鮮王朝は性買売を禁止していて、公権力が統制して集住させる性売専門の公娼制はなかった。
1876年、日朝修好条規により、釜山1876、元山(ウオンサン)1880、ソウル(漢城、のち京城)1882、仁川(インチョン)1883が開港・開市し、日本人が流入した。
釜山・元山の公娼制
釜山では日本人芸妓・娼妓による性買売が行われ、黙認されていた。
1881年、領事館が貸座敷営業規則、芸娼妓営業規則、黴毒病院規則、黴毒検査規則を公布し、貸座敷の営業を公認した。免許地を指定し、芸妓・娼妓とも許可制で、満16歳以上とし、営業取締費として月2円を収めること、毎週土曜日に梅毒検査を受けること、不審な客は密告することとされた。
031 そして、芸娼妓に居住の自由はなく、貸座敷以外で宿泊することは許されなかった。
釜山の日本人居留民男子10人に娼妓1人の割合にまで性売女性が急増した。欧米人の居留民が増え、我が国の体面に関わるとして外務省は1883年、貸座敷営業の漸次廃絶方針を決定した。しかし、これに対して1885年、前田総領事は、「貸座敷を廃絶すれば、密売淫が増え、梅毒駆除を阻害する。梅毒が広がれば、日本の水夫が感染し、屈強変じて脆弱になる」と反対し、現状維持となった。
元山でも釜山と同様に領事館が1881年、貸座敷営業規則、芸娼妓営業規則、黴毒病院規則、黴毒検査規則を公布し、遊郭を公認した。
仁川・ソウルの料理店、芸妓制
これに対し、仁川では1883年、便船ごとに売淫婦の渡来が増え、「外国人等我習俗の醜悪なるを蔑視するほどのあり様」となり、韓国人の嗤笑(ししょう)をまねいた。このため仁川領事館は、日本の警視庁の売淫罰則を適用し、性買女性と媒合容止者*に罰金を科した。 *媒合とは仲介、容止は場所の提供
一方、小林領事は、仁川に居留する日本女性の八、九分は梅毒に感染しているとし、梅毒の感染を防ぐために、釜山や元山同様、貸座敷営業の公認を求めた。
032 また、小林領事は、1884年、「性売女性は、洗濯、針仕事、髪結いなどの名目で、旅籠、料理店八、九軒に「人身売買類似の約束」で雇われている」とも報告している。
外務省は仁川で公然と性買売を公認することは対面上できないと判断し、領事館は芸娼妓と芸娼妓貸座敷を禁止し、例外的に芸妓20人に限り、1892年まで許可することにした。
1892年頃、芸妓営業取締規則が出され、芸妓は20人に制限され、鑑札制になり、住居は料理店に限定された。つまり、料理店芸妓として認可されたのだ。
ソウルではさらに制限を厳しくし、1885年、売淫取締規則が出され、売淫者と媒合容止者の初犯は罰金15円、再犯は30円以内とされたが、性買男性は処罰されなかった。
1887年、宿舎及料理店取締規則が出され、宿屋・料理店は許可制とされ、性買売を仲居にさせた。料理店の主人は芸妓を日本から連れてこようとしたが、渡航は許されなかった。
1895年5月、芸妓営業取締規則で芸妓を許可制にし、公認した。
榎本外相による方針転換
033 以上の通り、公然・隠然と性買売が容認されたが、それが日本の面目を損ねることは意識されていた。
1892年、榎本武揚外相は、「内地に於いては公開のものであり、ますます我国民の勢力を海外に伸暢するの大方針を執り候以上は、些細の保護策に拘泥致し居り難きことは、亦勢いの然らしむるところ」であるとし、「今後は性買売に従事する日本女性の海外渡航の取り締まりは、寛にするも、之を厳にするの方向は一転せざるを得ざる場合に立ち至りたり」と朝鮮の各領事に通達した。
七 1885年の廃娼・存娼論争
『女学雑誌』の編集発行人であった巌本善治は、娼婦を「吾等の姉妹」と呼び、「身を売られ、日夜東西の愚人に接しているため、畜類に堕落しようとしている」とし、その救済を呼び掛けた。(『女学雑誌』1885.11)
植木枝盛は「自分は廃娼主義だが、娼妓が存在する限り利用する」としたが、1885年頃からその考えを改め、「廃娼論」1885の中で、「売淫は秘密であっても許せない。公許は絶対に許せない。公許売淫を止めることは、文明世界が勧めるところであり、それによって国家の体面を保つことができる」と述べた。
福沢諭吉は「日本は売淫社会になっているが、娼妓は必要だ」とした。
福沢は「日本婦人論」1885の中で、男女の平等を論じ、「男は花柳界で遊び呆けているのに、女性は家にこもって再婚の権利もない。これは平等ではない」としている。
また「品行論」1885の中で、「維新以前は芸妓はあまり性売しなかったが、維新以来、東京市中に芸妓の巣窟が20余カ所もあり、妓の数は1000人を下らない。酒を飲むと必ず妓を侍らせ、上流階級の政治家がそれを自慢している」と批判している。
034 以下福沢説を抜粋する。
「貧乏人は貧乏で結婚できない。金持ちは虚飾の欲に忙しく(結婚できない。)そのため、独身者が増え、その情欲を満たすために娼婦が必要になる。そして、娼妓を全廃すれば、男が、良家の子女の淫奔となり、寡婦と和姦し、密通・強姦し、かどわかし、駆け落ちし、争闘を引き起こし、社会の秩序が保たれない。娼婦が社会の紊乱を防いでいる。」
「足利・戦国時代、武士は遠征すれば、花柳界で遊び、人の子女を強姦し、敵の妻を妾にした。徳川時代の儒教主義は、男女関係の道徳に効果がなかった。そして、維新以後その風潮が一般化した。」(*この考えは前言033と矛盾している。「維新以前は芸妓はあまり性売しなかった」と言っていた。)
「娼妓は社会の秩序を維持する」「娼妓は濁世のマルタル(殉教者)である。ヨーロッパの学者もそう言っている。娼妓は親鸞・日蓮の功徳に比すべき、身を捨てて衆生済度(困難や苦労から救う)を行う仁者である。」
しかし、他方では、「娼妓は人類の最下等であり、人間社会以外の業である」「芸娼妓を人間社会の外に排斥して、人と交際できないようにすべきだ。」
「芸妓を宴会に呼ぶことを禁止し、性売してもいいが、秘密にやるべきである。売淫者の地位を賤しくして、上流階級の男がこれに近づくのを防ぎ、近づいても秘密にすべきだ。」
福沢の考えは、性買売は公認するが、秘密にせよというものだ。福沢は上流の政治家の方が大事であり、人身売買で苦界(性買売の世界)で苦しむ女性の人権はどうでもよかった。
この時代の娼婦観は、人身売買は許されない。性買売は不道徳だが、必要だ。性売女性はモノ・手段だということらしい。
コラム1 森鴎外の性買売論
037 森鴎外は、1889年、大日本私立衛生会常会で「公娼廃後の策奈何」と題して演説を行った。
「売笑をやめることはできない。公娼を廃止すると私娼となり、そうすると性病が蔓延する。一方存娼のままでは売笑天地の怪事が続く。また、人身売買は芸娼妓廃止令後もまだ残っている。
公娼を廃止し邪媒を厳禁し、聚娼監守の制度を設け、検梅を行いうべきだ。聚娼=集娼の廊には業者はいない。税金も取らない、だから公娼制ではない。」
鴎外は娼妓に同情するが、堕落した女だとみなした。鴎外は、性病検査が女性の羞慙(ざん、恥じる)を犯すという議論に、女性の立場から反駁する。
鴎外は、女性を奴隷状態から解放することよりも、女性を用いて性病予防することの方を優先する。廃娼運動を歓迎するが、「この運動があまり婦人社会に入ることはいやだ」と言っている。鴎外の女性論は、家父長女性論である。
第Ⅱ章 買春帝国の成立 1894年~1905年
041 日本は日清戦争に勝つと没落を恐れて軍備を拡大した。それに伴って国内の娼妓の数は増え、1896年の3万9068人から1899年の5万2410人に増えた。 表Ⅰ 娼妓数の推移
伊藤博文首相は、1896年、『ロンドンデイリーニュース』の記者の質問に答えて、「娼妓を不徳と言うな。娼妓は憐れむべき存在だ。娼妓の中には、貧困の両親を助けるために身売りまでして孝行しようという高尚な目的をもっている人もいる。だから娼妓は、苦行の中で善行を積み重ねることによって、再び社会復帰ができるのだ。」と述べた。(『婦人新報』1896.9)
伊藤は、現実には人身売買という不法行為が行われる中で、公娼制が事実上の奴隷制度である実態を無視して、親孝行の場合もあると言って公娼制を美化している。
表Ⅰ 娼妓数の推移 日本婦人問題資料集成Ⅰ巻
年 全国
1896
39,068
1897
47,055
1898
50,553
1899
52,410
1901
40,195
1902
38,676
1904
42,502
1906
44,542
一 自由廃業運動から娼妓取締規則へ
042 函館の娼妓櫛イキは自由廃業をしようとして裁判を起こした。「娼妓は独立した営業者なのだから、開業や廃業は本人が自由にできるはずだ。しかし、貸座敷業者である武蔵野キヨが同意の印鑑を押さない。」函館控訴院は櫛イキの請求を認めた。
それに対して、武蔵野キヨは上告した。
大審院は、1896年3月11日、武蔵野キヨの上告を棄却した。「身体の拘束を目的とする契約は自由契約ではないから、無効だ。娼妓と貸座敷業者はそれぞれ独立の営業者であるから、その契約は労力契約ではない。労力契約なら、娼妓が貸座敷業者に身体の自由を譲与したことになるが、それは自由の範囲外になり、無効であり、芸妓解放令が禁ずるところだ。」
また、(控訴院判決は、)武蔵野キヨが、北海道庁令の貸座敷取締規則第六条を根拠にして、廃業届に貸座敷業者の連署が必要であると主張するが、これは個人の権利関係を制約するものではなく、連署はなくてもよいとした。
さらに、控訴院判決は、前借金について、廃業によって無効になるのではなく、他の弁済方法があるとした。そして、上告人が他に弁済方法があるというのは不当だと(大審院に)訴えたところ、(大審院は、)これは上告論旨であって、上告理由にはならないとした。(大審院民事判決録)(意味不明)
043 これに先立つ1882年10月27日、大審院は、娼妓の野崎ユキ・カナ姉妹が廃業する時、借金元利すべて返済すると借金証書で約束しているから、姉妹の訴えを認めない東京控訴院の判決を破棄する理由はないとし、廃業を認めていなかったから、今回(1896年3月11日)の判決は画期的だった。
しかし、1896年の大審院判決は、前借金契約の有効性を否定しなかった。
函館蓬莱町丸山楼の娼妓である坂井フタ(源氏名・小車、25歳)は、貸座敷業者の山田耕一に対して廃業届への調印を求め、裁判を起こした。
1899年、函館控訴院長は、「娼妓営業は公許されており、人身の自由を拘束する効果を生ずべき合意を禁止する法則はないので、借金を返さなければ廃業できないとし、さらに、両者の契約は芸娼妓解放令の規定外に属するとして、坂井の訴えを認めなかった。
そこで坂井の代理人は、1896年の大審院の論理に従って、上告理由書を書いて上告した。
1900年2月23日、大審院が判決を下し、貸座敷業者と娼妓との契約は、金銭貸借上の契約と、身体拘束を目的とする契約とがあり、その各自が独立しているが、身体拘束の契約は、法律上の契約として違法であるばかりでなく、芸娼妓解放令の精神に反するというのが大審院の判例となっているとした。
そして、坂井フタは1897年11月から30カ月、山田の楼で娼妓営業するとの契約で金銭を借り受けており、自由の束縛を受けざるを得ないに至るから、また、この契約は芸娼妓解放令が廃止される前になされているから、身体拘束の契約は無効であり、原判決を破棄し、差し戻すと判決した。
044 この判決は、前借金契約の有効性を認めたが、娼妓稼業は独立の営業であり、労力契約は娼妓の奴隷化を意味するとした。
1898年6月に公布された民法施行法第九条は、芸娼妓解放令が民法施行の日1898.7から廃止されるとした。つまり芸娼妓解放令は、「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とす」という民法90条に吸収された。民法は1898年7月に施行された。(これは後退ではないか。芸娼妓解放令は外圧を受けてを定められたのだろう。それが、国策に合わなくなったから廃止されたのだろう。)
1900.3.14、東京控訴院は、山梨の貸座敷業者の訴えを認めた。廃業を求める娼妓は300円を貸座敷業者から借用し、娼妓稼業によってそれを完済しなければ廃業できないという契約を結んでいるが、これはよくある雇用契約であり、また娼妓営業は公認されているので、この契約は公の秩序または善良の風俗に反する不法の契約とは言えない。また被控訴人は自由の全部を控訴人に譲渡したものではないのだから、娼妓解放令に違反していないとした。(少しぐらい自由が束縛されても我慢しろ)
他方、1900.6.28、名古屋地方裁判所は、原告の娼妓大橋ひさの勝訴を言い渡した。
娼妓営業は公認されいるが、愛知県令第48号によれば、娼妓は非常の赤貧者でなければ営業できないし、営業地域も限定されている。娼妓は、良家の婦女がしてはいけない醜業と見なされており、善良な風俗とは言えない。また、娼妓稼業に従事する者は、人身固有の自由を失い、その状はほとんど囚徒と選ぶところがない。従ってそれを強制する当事者間の契約は無効であり、業者は廃業届に連署調印を拒むことはできないとした。
045 この裁判については、アメリカ人プロテスタント宣教師のU・G・モルフィーが、民法90条によれば、娼妓の自由廃業は可能となるとし、訴訟を指導した。
また、モルフィーは1900年11月、名古屋市松坂楼の娼妓の小六の裁判でも勝訴した。それに対して貸座敷業者が控訴しようとしたため、小六は業者と示談をし、訴訟を取り下げさせた。
芸娼妓解放令から民法90条への転換は、人身売買禁止の法的検討に代わって、娼妓稼業契約の道徳的非難の強調へと変質した。
先の1900年の大審院判決043によって、前借金契約は消費貸借契約として有効であるとする判例が定着していったが、これは人身売買の法的保護ともいえる。
娼妓取締規則の公布
1900年5月24日、内務省は訓令を出し、18歳未満の者は娼妓をしてはならないとし、1900年10月2日、娼妓取締規則を出した。それは、各府県の貸座敷娼妓規則は煩瑣で不備があり、芸娼妓解放令と抵触する部分があったからだ。
第一条 娼妓は18歳以上とする。
第二条 警察官署に保管される娼妓名簿に登録されない者は、娼妓稼ぎをしてはならない。娼妓は警察官署の監督を受ける。
第三条 娼妓になろうとする者は警察署に出頭し、理由、生年月、親族の承諾書などを示さなければならない。
第五条 娼妓名簿の削除の申請は、娼妓自身が警察官署に出頭し、書面または口頭で行い、警察官署が受理すれば即座に削除する。
第六条 娼妓名簿の削除申請は、何人も妨害してはならない。
第十二条 娼妓の通信、面接、文書の閲読、物件の所持、購買その他の自由を妨害してはならない。
第七条 娼妓は貸座敷指定地以外に住んではならない。また外出は、警察署に出頭する以外の場合は、警察官署の許可が必要である。
第九条 健康診断(検梅)を受けなければならない。
また、娼妓が誘客を選択または拒否する権利は保証されなかった。
1901年4月、大森鐘一内務総務長官は、大阪府知事の問い合わせに答えて、外国人の娼妓登録は認めないように各府県に通達した。清国人、朝鮮人などの醜業婦(蔑称)の日本への渡来を一般化すると、風俗取締上好ましくないからとした。日清戦争後に朝鮮人女性が業者によって大阪に連れて来られて性買売させられていたようだ。
047 内務省の中にも公娼制に疑問を持つ者もいた。長崎県警部長の「娼妓は正当な営業か」の問いに、1903年、内務省の久保田書記官は、「娼妓取締規則制定当時、娼妓は営業として許可すべきものではない、できればない方が良いが、やむを得ないので警察の監視下に置いた。黙認したのであって、許可したのではない」と答えた。
娼妓取締規則公布後、前借金契約は消費貸借契約として有効であるという1900年の大審院判決が判例として定着した。1902年2月6日、大審院は、娼妓営業は公認されており、債務者である娼妓が自己の営業から生じる収益で債務の返済にあてることは(民法90条の)公序良俗に反しない、とした。貸座敷業者の要求を認めたのだ。前借金を娼妓稼ぎで返済する契約は公序良俗に反しないとしたのだ。
1901年、大審院は、一定期間他人と同居し一定の労務に服すべき契約を有効とした。
1902年、大審院は、芸娼妓が得た収入をすべて抱え主の所得とし、一定の労働が終わるまで債務は弁済されないとする契約も有効だとした。これは後退だ。
自由廃業運動は成果を挙げた。
1900年、岡崎のある娼妓が建築業で働く男となじみとなった。彼女は、廃業して京都島原の遊廓に移りたいと(業者に)申し出た。業者は移籍先からの仕替金で弁済させようとして、娼妓の外出を認めた。この娼妓は警察の外出許可を得て遊廓を出て、男と行方をくらませた。その後奈良からの廃業届を受け取った業者は、諦めて廃業届を警察に提出した。
048 名古屋の旭廓角町の娼妓二人は、モルフィー045の指導を受け、自由廃業しようとした。モルフィーら四人は業者の暴漢に襲われて袋叩きにされたが、うち一人の娼妓は警察の娼妓名簿からの削除に成功し、廃業できた。
娼妓の自発的な廃娼の動きや、廃娼運動の結果、娼妓の数が減少した。
豊橋では1900年1月に221人だったが、1901年末には164人になった。
全国的には、1899年の5万2410人がピークで、1901年には4万195人、1902年には3万8676人に減少した。(表Ⅰ041)
広島では1901年、娼妓取締規則発布により、自由廃業者が続出し、西遊廓(小網町、舟入村)の業者は自由廃業を制限するように求める請願書を出した。
以上の減少の理由は、1901年からの日清戦争後の恐慌の影響や、自由廃業運動、娼妓取締規則の自由廃業の規定の出現などの結果である。しかし、その後娼妓数は増加し、1904年には4万2502人になった。
二 軍備拡張と国内遊廓の拡大
陸軍と遊廓
049 日清戦争は遊郭を拡大した。広島では日清戦争中に大本営が置かれ、遊廓が増えた。日清戦争後は軍拡のため、1898年までに、第七師団(札幌)、第八師団(弘前)、第九師団(金沢)、第十師団(姫路)、第十一師団(善通寺)、第十二師団(小倉)が新設された。第七師団は1901年に、札幌から旭川に移転した。また沖縄県を除く各地に連隊が新設され、歩兵だけでも52個連隊になった。
軍隊は、遊廓が兵士の不満解消と性病感染防止になるとして、歓迎した。地元は軍の要求に応えるために、また街の繁栄のために遊郭を設置した。
兵営の設置によって、遊郭が新設されたり、それまでの遊廓が移転したり、増設されたり、遊郭は認められなかったが、芸妓や酌婦がいる花街ができたりする場合がある。
050 広島では性病が増え、1894年、知事は、小網町や舟入村にあった遊廓の他に、市内中央の下柳町を遊郭免許地にした。そして伴資健(ばんすけゆき)市長は、日清戦争後は新遊廓を廃止すべきだとしながら、兵士が梅毒にかからないように、市中心部への遊廓設置をやむを得ないと容認した。また自宅を宿泊所に提供した家の女性と兵士が関係することを防ぐためにもやむを得ないとした。
また、長沼鷺蔵刑事がこの下柳町の遊廓設置に尽力したらしく、その功績を称える「紀功碑」がこの遊郭の中にあったという。
「一死を期して行く身なれば慎むには及ぶまい」と多くの兵士が舟入遊廓に駆け込んできたとのことだ。
第八師団が新設された弘前では、1876年に北川端町に遊郭ができていた。師団誘致場所と遊廓とが近いのは好ましくないとされ、知事は遊廓を北横町や田茂木町に移転しようとしたが、近所に小学校があり、住民の反対があった。それにもかかわらず、県は当初の方針を変更せず、1898年に、小学校の方を代官町に移転した。
051 第十一師団が設置された香川県善通寺では、非公認の性買売で風紀が乱れ、遊廓の設置が計画された。地元から遊廓設置の請願が出されたが、1897年、県の警部長が、砂古裏(さこうら)の、練兵場の隣に設置することにした。その後地元の変更請願が出されたが、1898年に砂古裏に設置が決まった。
歩兵第四十八連隊は福岡城内に新設されたが、1897年、久留米に移転した。1896年、福岡県は久留米の原古賀町に遊廓設置を許可した。その前の1889年、久留米市は市会で貸座敷設置決議を否決していたが、1893年、教育界の反対を抑えて貸座敷設置の建白書が可決され、翌年遊廓が開業した。
また、久留米には萃香園という料亭があり、市の名士や将校がそこを利用した。萃香園はアジア太平洋戦争中に将校専用の料亭・慰安所をビルマに設置した。
海軍と遊廓
052 呉では吉浦に遊廓ができていたが、交通が不便のため、呉港内の荘山田村にも設置することになり、1895年に朝日遊廓ができた。開設に当たり海軍当局から貴族院議員の沢原為綱に内相談があり、沢原の意向で、地元の有力者が尽力した。
1894年、芸者の取次ぎをする共立券番呉栄舎ができ、一時200人の芸妓を抱えていた。1897年、朝日遊廓の中に朝日検番が開設され、5、60人の芸妓を擁した。
舞鶴では、1901年に舞鶴鎮守府が設置され、新市街の東側の龍宮が貸座敷免許地とされ、1902年に、龍宮遊廓ができた。
三 朝鮮での性買売施設の拡大
053 ヨーロッパの帝国主義は、中国や日本の貧困と家父長制と結びつき、人口移動をもたらした。日清戦争後は日本もそれに大いに関わった。
日清戦争の軍隊とともに性買売業者が朝鮮に渡り、兵士、軍属、人夫の間に性病が蔓延し、その数は419人だった。
日清戦争後、朝鮮への移民が増加し、新たに開港された鎮南浦、木浦、群山、馬山、城津などに日本人が入った。
日本領事館はこれまで性買売施設の設置を認めなかったが、1895年5月15日、芸妓営業取締規則を公布し、芸妓を公認した。その後、料理組合から娼妓を置く性売専門の遊廓設置の要望があったが、日本の醜業婦を外国にさらすは国辱なりとして許可されなかった。(理由は体面である。)
054 今村鞆(とも)は、朝鮮総督府の道警察部長を務めたが、以下のように語った。
「1895年に芸妓の設置が許可されると、料理屋は、従来置いていた仲居の中から三味線を弾ける者を選抜し、それに芸者の鑑札を受けさせ、また内地から34名の本物の芸者を移入した。これが朝鮮における鑑札付きの公許芸者の始まりで、総員30余名であったという。」
芸妓であるという名目でソウルでの性買売が黙認された。
1900年1月、木浦で酌婦営業が公認され、常住場所以外での外泊は禁止された。
1900年10月、釜山では居留地の隣接地域で特別料理店の営業地域が指定された。貸座敷とか娼妓などの露骨な名称を使いたくない事情があったのだろう。特別料理店は1902年から開業した。
055 釜山では朝鮮人名を名乗る邦人が経営する遊廓が佐須土原にあり、70余人の朝鮮人女性(妓生または蝎甫カルボ)がいた。
徐々に朝鮮内で日本帝国黙認ないし公認の性買売が広がった。
朝鮮北部の義州や龍岩浦では、邦人は醜業婦とその関係者しかおらず、みなロシア人の相手をしていた。
四 台湾への公娼制の導入
日本は台湾の抗日戦争を鎮圧し、1896年、軍政から民政に移行したが、抗日ゲリラは1900年代まで続いた。
公娼制への移行
056 占領当初日本の軍人や官僚は、艋舺(萬華、ばんか)の7、800人の台湾人性売女性を買春した。
民政に移行し、民間人の渡航が自由になると、日本から娼妓が連れて来られた。
「日本から渡来する醜業婦の大方は、天草、島原や、山口、広島、大阪からの者だ。彼らは不行儀で、不体裁な細帯姿、寝乱れ髪で、半裸体のままで横行し、大道狭しと二十銭計りの駒下駄を踏み鳴らし…その余りにタシナミの無さ過ぎるには誰かアキレ果てざるべき…」(『台湾日報』)
台湾では1896年公娼制が導入された。1896年6月、台北県は県令で貸座敷並娼妓取締規則、娼妓身体検査規則、娼妓治療所規則を出した。
057 1896年から1901年まで貸座敷営業区域が指定された。
台湾は欧米諸国の批判を気にしなくてもいい植民地だったから、最初から貸座敷・娼妓制が実施された。
台湾公娼制初期の特徴
台湾では当初、貸座敷娼妓取締規則が各地方庁ごとにつくられた。台中県、台南県では、娼妓の外出を禁止し、澎湖島庁では許可制にしていた。台中県では娼妓稼業年齢を16歳以上とし、朝鮮の17歳以上、日本の18歳以上より若かった。自由廃業や通信・面接の自由がなかったため、日本から台湾に連れて来られた女性や、台湾人女性は劣悪な状態に置かれた。
公娼制を必要とする理由
公娼制設置の理由には、在台日本軍兵士への娯楽の提供、性病蔓延防止やアヘン中毒予防、日本からの移民の定着化などがある。
1895年12月、陸軍軍医総監の石黒忠悳(のり)は、娯楽と性病・アヘン対策を挙げて公娼制を提案した。
058 「公娼は戍(じゅ)兵(守兵)の娯楽に必要であり、壮年の兵丁固より情欲の禁ずべからざるあり。為にやむを得ず公娼の法なかるべからず。公娼・私娼に論なく検黴毒の方法を履行すべし」とした。
また石黒は、台湾人性売女性からアヘン吸引の習慣が日本軍兵士に伝播することを恐れ、台湾人女性との接触を断つためにも公娼制設置を提唱した。
059 福沢諭吉は彼が主宰する『時事新報』のなかで、「人民の海外移植を推奨するに就いて、とくに娼婦外出(海外移出)の必要なるを認める」1896.1.18としている。(福沢も侵略者だ)澎湖諸島占領を指揮した比志島少将も1896年、「娼妓を設け、内地より婦女を輸入する如きは、内地人の足を止める方便にして、台湾の進歩上必要の事ならん」(傲慢な物言い)としている。
台湾に渡航した男は2万7千人で、芸妓・娼妓・酌婦数の合計が1990人だから、男14人に一人の性売女性がいたことになる。ただし、この2万7千人の男の中に、台湾守備隊関係者(軍人・軍属・人夫・職工)などの16万人を含まない。含むと男94人に一人となる。
軍専用の性的施設
公娼制とは別に、台湾各地の守備隊のために、性的行為だけを目的に、検梅の上、安く短時間で済ませる軍用の性的施設がつくられるようになった。軍医総監・藤田嗣章(つぐあきら)は、台湾兵站軍事医部長のとき、守備隊長と協議して、隊付の軍医に健康診断させて、これを実施した。
060 藤田は、飲食や歌舞を伴わないので短時間ですみ、廉価であるとして、これを公認の「私娼制」と呼び、日露戦争での遼陽や鉄嶺や、韓国統監府時代の朝鮮でもこれを実施した。日清戦争後の台湾では、これは公娼制に取って代わられるが、南方の鳳山の守備隊長は、この公認私娼制を維持した。
公認の私娼制とは、軍が公設した、隠蔽する、性買売専一の制度である。これは日本軍慰安婦制度の原型である。
日本国内では1900年046に娼妓取締規則が制定され、これに前後して台湾でも公娼制が移出され、朝鮮各地では芸妓制・酌婦制が設置され、買春する帝国が成立した。
五 中国大陸と東南アジアへの進出
060 日清戦争後の満州に、日本人性売女性が、ロシア租借地の大連に47人、旅順に210人いた。
大連では1903年から長崎市出身の西川初太郎が、妓楼と食パン製造を始めた。長崎市出身の西岡キセも大連で娼妓11人を抱え、妓楼を開設した。
熊本県天草郡出身の平田浅次郎は、洗濯業から転業し、1903年、穆棱(ムーリン)で妓女8人を抱える妓楼を開設した。熊本県天草郡志柿村出身の有江奥松は1901年、満州寧古塔(ニングク)で妓女6人を抱える妓楼を開設した。この女性たちはロシア人や中国人の相手をしていたらしい。
061 1902年の北京に、日本人芸妓が27人、酌婦が32人いた。
上海では日清戦争前に「東洋茶館」「東洋茶楼」と呼ばれる日本式の妓楼が栄えた。1882年、日本人性売女性が800人いたが、日本領事館の取り締まりで閉鎖に追い込まれた。それでも日本人女性が200人残り、日本旅館は「醜業婦媒介所」と評された。1901年、料理店は3軒で、芸妓が10人、舞妓が1人だけとなった。
「からゆきさん」(南方に出稼ぎに出た女子)のうち、日清戦争後、東南アジアに連れていかれた性売女性の数が増えた。
海峡植民地政庁*から性売許可証を交付された日本人女性は、1885年に16人、1889年に143人だった。日清戦争後の1895年、シンガポールで性売に関与する男女の数は400人(ペナン、マレー、ジャワで各2、300人)になり、1903年のシンガポールでは585人だった。
*海峡植民地とはマライ半島の南部、マラッカ海峡に面する旧イギリス領植民地。
日本以外からも来ていた。シンガポールの性売所(娼館)に入った住み込み人数1887--1894は、中国から2650人、香港から1946人、ジョホール(マレー半島南部)から1302人、ボルネオ・蘭印から554人、海峡植民地から381人、連合マレー諸州から381人、日本から305人の順だった。(ワレン、2015)
062 芸妓・酌婦はひそかに性売するが表向きはそうではないものとされ、検梅も強制されていなかった。
日本政府は対外的な公文書で、娼妓はlicensed
prostitute (売春婦)と訳して、性売女性であることを認めていたが、芸妓はgeisha girl(芸者)、artiste(芸人)、singing girl(歌手)などと訳し、芸者は性売しないと説明していた。
酌婦はwaitress(給仕女性)と訳して説明し、性売を行うことを隠蔽していた。
植民地化する前の朝鮮や、満州・中国本土などでは、「帝国の体面」を損なうことを恐れて、公然と貸座敷と娼妓を置くことを許可しなかった。ただし、関東州では認めたが、日本人女性の娼妓だけは認めなかった。
そのかわりに、貸座敷は「貸席」、「第二種料理店」、「乙種料理店」、「特別料理店」などと呼び変え、娼妓は「芸妓」、「乙種芸妓」、「酌婦」などと呼び変えてその営業を認め、検梅を強制した。
第Ⅲ章 買春帝国の確立 1905年~1918年
065 日露戦争は性買売を拡大した。「警察取締に属する営業者調 一」によると、1908年の日本国内の芸妓は3万5706人、娼妓は4万7541人、酌婦は3万2694人で、合計11万5941人となった。
国内の娼妓の数は、1904年に4万2502人が、1918年に4万8268人となった。「遊廓調 大正7年中」
国際的人身取引禁止の新傾向
19世紀後半の女性・児童の人身取引の増大に反対する国際的な運動が、イギリスのジョセフィン・バトラーらによってはじめられ、1875年、公娼廃止を目的とする民間の国際団体が設立され、1899年、ヴィジランス協会の第一回国際会議がロンドンで開催された。
1902年、パリでフランス政府の斡旋で、国家機関が参加する最初の国際会議が開かれ、白人女性取引に関して情報交換するための条約草案が作成され、1904年5月、ヨーロッパ12か国が参加する国際会議がパリで開かれ、白人奴隷取引禁止に関する国際協定が締結された。日本の外務省はこれを「醜業を行はしむる為の婦女買売取締に関する国際協定」と訳しているが、「醜業を行はしむる為の婦女買売」という訳は、原文の「白人奴隷取引traite des blanches」における奴隷性を曖昧にした訳である。
066 「白人奴隷」とはもともとは、性買売のために取引される白人女性のことである。この協定は、外国での性買売のために未成年女性が取引されたり、成年の女性が強制的に取引されたりすることを防止するために、女性の勧誘についての情報を収集する機関を各国が設け、女性の引率者を監視することなどを規定したが、当初は白人女性の取引しか問題にしなかった。
日本は、女性の人身取引を規制しようとするヨーロッパのこの動きに呼応するかのように、1907年に公布された刑法第226条で、「帝国外に移送する目的」をもって人身売買した者と移送した者は、同じ目的で略取した者や誘拐した者と同様に、二年以上の有期懲役に処す、とした。(誘拐は甘言やだましを用い、略取は暴行や脅迫を用いる。)
しかし、帝国内での人身売買は、犯罪とされなかった。この刑法は台湾・朝鮮でも施行され、植民地支配下の台湾・朝鮮でも、人身売買が公認され、日本・朝鮮・台湾間の人身売買も自由となった。
一 軍備拡張と国内遊廓の拡大
陸軍と遊廓
067 1904年2月に始まった日露戦争には、近衛師団を含め、国内13個師団のすべてが出動した。その時、芸妓・酌婦を含め、強制的な検梅が行われた。函館や旭川では1904年4月から、芸妓・酌婦・雇婦まで、強制検診が行われた。広島では芸娼妓、酌婦、掛茶屋の女房・子どもにまで、検梅命令が下された。これを嫌がって廃業した者もあった。
戦争中に、新たに第13師団(高田)、第14師団(宇都宮)、第15師団(豊橋)、第16師団(京都)が設置され、日露戦争後に、第17師団(岡山)、第18師団(久留米)が増設され、以下の連隊が新設された。つまり、会津若松、甲府、松本、水戸、岐阜、富山、浜松、奈良、津、篠山、和歌山、福山、松江、徳島、大分、佐賀、都城などの連隊である。
大阪第4師団の歩兵連隊が兵庫県篠山町に新設された際、1908年に、八上村に遊廓が設置され、娼妓数は79人だった。熊本第6師団の歩兵64連隊が宮崎県都城に新設された際、遊廓が設置され、芸妓は60人、娼妓は80人だった。1909年、高田第13師団の工兵大隊が新潟県小千谷町に設置された時、娼妓は約20人だった。
068 1910年、第13師団が設置された高田では、兵営の近くの高城村へ遊郭が移転し、その時の娼妓数は146人だった。豊橋や三重県久居でも兵営の設置に伴って遊廓が移転した。
豊橋での師団設置では、石本新六陸軍次官が、愛知県知事に対して、「豊橋への師団設置のためには、遊廓の膨張が必要であり、遊廓が狭くて困っている処もある」として遊廓移転を要求した。
長崎県大村への一個大隊の移駐や、大村海軍航空隊の新設で、遊廓が増大した。
北海道旭川町では1898年までに、市街地建設のために集まった人夫のための曙遊廓が設置されていたが、第七師団が1907年までに札幌からここに移駐した時、曙遊廓が兵営から遠かったので、兵衛の近くに私娼が集まって来た。そこで兵営に近い氷山村での遊廓新設が検討され、1907年、師団参謀長が北海道長官に対して遊廓の新設を要請したところ、道庁は1907年3月、氷山村を貸座敷免許地に指定した。ここは結局中島遊廓となったのだが、前年、旭川町議会は遊廓設置反対の決議をしていた。設置免許地の対岸に旭川町の小中学校や、高等女学校建設予定地があったからだ。反対運動が起こった。
反対運動には町長・有力者などと廃娼運動とがあった。
069 反対した町の有力者は、米穀、雑貨、肥料、呉服、旅館などの商業者で、その営業地や居住地は旭川町の中心にあった。彼らは遊郭そのものに反対ではなかった。遊廓が(街の外に)移転して街経済が後退したり、貸座敷賦金や娼妓献金などが減収したりするのを恐れていた。また町の発展のためには軍隊との共存が第一義と考えていた。
東京のマスメディアを巻き込んだ大規模な反対運動が起きたが、結局、師団の意向に沿って中島遊廓が設置された。1930年、中島遊廓の娼妓数は200人、曙遊廓は70人となった。
海軍と遊廓
1913年、横須賀の柏木田遊廓は不夜城と言われ、娼妓は302人だった。また観念寺付近に銘酒屋という酌婦を抱える店が増えた。横須賀の芸妓は102人で、酌婦は242人だった。(横須賀案内記、1915)
海軍士官は小松・魚勝・常盤・吾妻館などの料亭で遊興した。
呉では日露戦争後、朝日遊廓が発展し、1908年、娼妓の数は561人だった。中でも都楼が有名だ。海軍士官は吉川・徳田旅館などの高級旅館兼料亭を利用した。この他に小料理屋の酌婦や私窩(わ)子(私娼)が増えた。
1907年、呉市の芸妓は134人、娼妓は715人、酌婦は321人だった。
070 佐世保では1910年、新たに花園遊廓が設置された。それは陸海軍の下士官や兵士、海軍工廠の職工用だった。海軍士官は万松楼や「いろは」などの料亭(料理屋待合)で芸妓を相手にした。1913年、佐世保市の娼妓は668人、芸妓は128人だった。
舞鶴では、1902年から余部町の有力者が、「国家の干城たる」兵士の士気向上を掲げ、また地元の繁栄を願って、遊廓設置の運動を続け、1905年、余部遊廓が開設された。1907年、芸妓は15人、娼妓は100人だった。
二 朝鮮での性買売の拡大
日露戦争後、朝鮮支配が進み、朝鮮での性買売が一挙に拡大した。そこには三つの側面・世界=花柳界利用者の地位の上下があった。一つは、日本人の高級官僚・高級軍人・政治家・富裕層が利用する高級料亭や芸妓が増大したこと。二つ目は、日本軍の中下級将校・兵士や在朝民間人が利用する遊廓と娼妓が増大したこと。(1916年以前は、料理店と芸妓を名目とした。)三つ目は、漁民や季節労働者が利用する料理屋・芸妓・酌婦が増大したことである。
071 1905年12月末、朝鮮各地における、朝鮮在留日本人男性の数と芸妓・酌婦の数(表4)
この時期の朝鮮の芸妓は、日本内地での娼妓に相当するが、朝鮮全体で969人であった。1910年以降は、芸妓でなく娼妓という名称を用いて統計処理している。
1913年12月末における芸妓(娼妓)・酌婦の数は、表5の通りである。表4と表5を比較してみると、日露戦争後の8年間1905--1913で、日本人娼妓の数は、969人から1551人になった。
第一の側面・世界(為政者が利用した遊廓)
072 1905年12月に伊藤博文統監が着任後、高級官僚・高級軍人・政治家・富裕層のための料亭や芸妓が増大し、花月楼・掬翠楼・精華亭などの料亭が一気に栄えた。警察官僚の今村鞆(とも)は次のように語っている。
京城の花柳界は…日露戦争後の第二次的発達から、統監府の設置とともに、さらに第三期の進歩を遂げた。この第三期は数だけでなく質的にも一段と向上した。風流統監の来任と共に「春畝(伊藤博文の雅号)言はず、桃李自から妍を競ふ」で、まさに面目を一新した。…花月と掬翠は、日本大官の宿坊で、伊藤統監、長谷川大将を初めとして、それ以下のお歴々が盛んに出入りし、酔眼朦朧たる大政治家や、鼻下を延長した鬼将軍が、人間味を発揮する場面を遺憾なく現したが、精華亭は、…客の毛色も違い、朝鮮人側の策士と日本人の浪人とが得意で、…陰謀陽謀の策源地であった。当時、杉山茂丸、望月龍太郎、内田良平、小川平吉、五百木良三などの連中が入り浸ったものだが、後年大臣の椅子を占めたオガ平氏も、そのころはあまり振るわず、今の武蔵屋の女将である芸者三太などから友達扱いにされていた。(「二十年前の京城の花柳界」『朝鮮及満州』1927.4)
芸妓の数が激増する一因は、エリートの遊興を保証するという背景があった。
第二の側面・世界(中級・下級クラスが利用した遊廓)
日露戦争開始後すぐに、多くの性売女性が業者に連れられて朝鮮に渡った。1904年8月、寺内正毅(まさたけ)陸軍大臣は、小村寿太郎外務大臣に、「韓国に駐留している軍隊の周りに性病検査を受けない多くの密売淫婦が来集しており、軍隊に性病が伝播すれば、兵力維持に少なくない影響があるので、領事館でもこれら女性を取り締まるよう」要求した。(韓国駐箚軍に於いて花柳病増発に付取締方の件)
このため、京城領事館は、性売女性を管理し、検梅を受けた女性の性買売を認めるために、1904年10月に料理店取締規則を制定した。これは料理店を第一種と第二種に分け、第二種料理店は、営業区域を指定し、芸妓を抱えることを認め、芸妓の健康診断所の設置を義務づけた。また同日、芸妓取締規則も制定し、第二種料理店の芸妓は、満18歳以上であること、第二種料理店内に住むこと、外出は警察の許可が必要なこと、性病検査を受けることなどを定めた。(外務省警察史 三巻)性病検査は週二回義務付けられた。
074 これは日本内地の貸座敷を第二種料理店と言い換え、娼妓を芸妓と言い換えただけであった。こうしてソウルでも公娼を認めた。ソウルの双林洞に遊廓が設置された。ソウルの居留民団は遊郭設置に熱心だった。それには日本人児童の教育費と公衆衛生費の捻出という動機もあった。
1905年、領事館に代わって理事庁が設置され、料理店取締規則、芸妓取締規則、酌婦取締規則などが朝鮮各地で発布され、貸座敷を第二種料理店と言い換え、娼妓を二種芸妓と言い換える、特別料理店方式の遊廓が、朝鮮各地で作られていった。性買売の公認と隠蔽の同時進行だ。
韓国併合後の1916年3月には、朝鮮全土に共通する貸座敷娼妓取締規則が朝鮮総督府によって制定され、公然と貸座敷・娼妓という用語を用い始めた。それを作成したのは、朝鮮総督府警務総長の立花小一郎中将である。彼は朝鮮駐箚憲兵隊司令官を兼ねていた。彼はこの直後に朝鮮に駐留する第19師団の師団長になった。(軍隊と遊廓との結びつきに注目せよ。)第19師団の配備を目前にして、陸軍の意思で、公然とした公娼制が朝鮮全土で展開されたのだ。
この規則の日本内地の規則との異同は次の通りである。朝鮮では、日本人・朝鮮人とも、娼妓の年齢は17歳以上とされ、日本よりも一歳若くても娼妓にされた。警務部長が貸座敷営業地を指定した。娼妓が店の中で並んで、通行人に品定めをされる張店は、日本では禁止されていたが、朝鮮では道路から見通しできなければ、許された。廃業の自由は事実上認められず、業者の遵守事項として、「濫りに娼妓の契約、廃業、通信、面接を妨げ、または他人をして妨げしめざること」とされただけだった。(第7条)つまり、自由廃業、通信、面接などの妨害は濫りに行わなければ許されるという規定だった。
075 娼妓の外出の自由や居住の自由も認められず、外出や外泊には憲兵警察の許可が必要だった。娼妓には定期的な健康診断=性病検査と臨時の健康診断の義務が課され、性病予防措置がより徹底された。
朝鮮人娼妓を抱える業者は、当分の間遊郭で営業できた。つまり朝鮮人娼妓は必ずしも集娼制(娼妓の居住・営業を遊廓内に限定する規則)ではなかった。これは朝鮮人業者を懐柔するためだった。結婚している女性は娼妓になれなくなった。従来は妓生に夫がいることもあった。
076 1926年、日本人女性の前借金は1000円~2000円、花代は午後8時から午前2時までで、6円~7円だったが、朝鮮人女性の場合は、前借金が250円~300円、花代は3円程度であり、朝鮮での娼妓の地位・状態は内地よりも劣悪だったが、中でも朝鮮人娼妓の地位は低かった。
第三の側面・世界(漁民・季節労働者が利用した遊廓)
漁民と季節労働者の性買 日露戦争後、漁民の朝鮮移住が進められ、300カ所に漁業根拠地ができた。1908年、出漁漁民は1万6644人だった。そして女性を連れた接客業者が彼らの後について来た。
グチ(魚)の漁場である黄海道延坪(ヨンピョン)島では1910年、漁船や運搬船が来ると、風呂屋、床屋、飲食店、料理屋ができ、酌婦が集まり、「白首」が往来し、漁夫たちが稼いだ金を狙った。
ハモやサワラの根拠地である前羅南道羅老(ナロ)島では、1908年、性売女性が143人いた。慶尚南道方魚津(パンオジン)では1909年に、性売女性が260余人いた。これらの漁村の一部は1916年074に貸座敷営業地域に指定され、遊廓となった。
この時期には朝鮮・台湾から日本への人身取引も始まった。1910年の韓国併合後も、内務省は日本内地での朝鮮人女性の娼妓登録を、他の外国人同様認めなかった。風紀上・衛生上望ましくないという理由だった。同じく1910年、台湾人・樺太人に対してもこの処置が適用された。
077 しかし、性売を全く禁止するのではなく、日本での芸妓営業は認める方針だった。(台湾人樺太人娼妓登録に関する件)1912年、日本で芸妓とされる4人の朝鮮人女性が現れた。この女性たちは20歳から21歳で、前橋に籍を置き、仙台や松本に出稼ぎに行った。(朝鮮人たる芸妓の現在調)
1924年、横浜市の業者から、北海道で酌婦稼業をしていた満18歳の北海道のアイヌ女性の娼妓登録申請が出されたが、内務省は、「遊客が好奇心に駆られて買春し、業者がアイヌ女性を多数誘引すると風紀上望ましくない」として登録を拒否するように指示した。((アイヌ人)娼婦名簿登録申請に関する件回答)
第一次世界大戦の影響
第一次世界大戦が始まると、朝鮮でも景気がよくなり、買春する男が増えた。1918年末の性売女性の数は、1913年と比較すると、日本人女性はやや減少したが、朝鮮人女性は1.8倍になった。表6 「朝鮮における芸妓・娼妓・酌婦の数(1918年)」(『朝鮮総督府統計年報』1918年版)
三 台湾での性買売の拡大
078 台湾での性売女性(芸妓・娼妓・酌婦)の数は、1901年の1990人から、1906年には、1821人になり、若干減少したが、1916年には3090人、1920年には4094人に増加した。
日本人女性と台湾人女性の比は、1916年には2500人対590人だった。
朝鮮人性売女性が公式統計に現れるのは1920年からである。
1906年2月、これまで地域によって異なっていた取締規則が、貸座敷及娼妓取締規則標準という、台湾総督府の通達によって統一された。この通達の内容は以下の通りである。
娼妓稼業年齢は朝鮮よりも一歳年下の16歳以上とされた。これによって稼業開始年齢が引き上げられた地方庁もあったが、台北・宜蘭・台南・澎湖各庁では、これまで18歳だったので、2歳も引き下げられた。娼妓稼業年限はこれまで2~3年だったが、4年に延長された。娼妓は貸座敷内に住まねばならず、居住の自由がなかった。外出は庁または支庁の許可を得なければならず、外出の自由もなかった。性病検査が義務付けられていた。張店は一応禁止されたが、外部より見通しやすい場所に設置してはならぬというもので、全面禁止ではなかった。
079 廃業しようとするときは、書面または口頭で許可証を返納するという規定が新たに定められたが、日本内地の規則にあるような、「娼妓名簿削除申請を受けた時は直ちに名簿を削除する」という文言はなかった。台湾警察当局は、前借金の完済など、契約で負っている義務を履行せずに期間内に廃業する者は、民法上の義務に違反するという見解をとっていた。
「何人も娼妓の休業・廃業・通信・面接・その他の自由を妨害してはならない」という規定が新たに盛り込まれたが、警察の解釈では、「これは娼妓の自由権を認めたものではなく、業者の悪質な行為を制止するための規定だ」とされた。
性病検査は、1906年、台湾総督府により、娼妓検診及治療規則標準が制定され、毎週一回の検梅などが統一された。
1911年、総督府により、芸妓酌婦取締規則、料理屋飲食店取締規則が制定された。芸妓と酌婦の違いは、芸妓は宿屋で歌舞・音曲を演ずることができ、酌婦はそれができないことだった。
警察官僚の鷲巣敦哉は、芸妓とは有産上流階級を相手とする「売笑婦」に過ぎず、性売行為をすることは周知の事実だと述べている。
芸妓・酌婦は許可制とされ、庁長が必要と判断した時は、健康診断を受けなければならなかった。廃業した芸妓・娼妓・酌婦が改めて芸妓または酌婦になろうとするときは、前借金などの債務を履行せず、抱え主の意に反して廃業した者には許可されなかった。旅行・外泊には、庁または支庁の許可が必要だった。廃業その他の自由は書かれておらず、年齢制限も規定されていなかった。
080 以上は日本人の買春に関する措置だが、台湾総督府は台湾人の買春については無関心で、総督官僚の関心は、台湾での日本人社会をいかに守るかを最優先し、台湾人の性買売に関しては黙認し、放置した。
四 南樺太での性買売の開始
日本は幕末以来樺太島に進出した。1875年、ロシアと樺太千島交換条約を交わし、樺太の領有権を放棄した。日露戦争が始まると、日本軍が樺太全島を占領したが、1905年、ポーツマス条約で、北緯50度以南の樺太が日本領となった。南樺太では軍政が敷かれ、1907年に、樺太庁が設置された。当初二個連隊を投入したが、間もなく一個大隊になった。
樺太民政署コロサコウフ(大泊)支署長は、1905年9月、貸座敷及娼妓取締規則を公布し、1907年4月、樺太庁は貸座敷及娼妓取締規則を公布し、公然と公娼制を敷いた。
樺太庁の規則は、貸座敷営業地を指定し、娼妓は18歳以上とし、遊廓内に住み、定期的に性病検査を受けなければならないとした。自由廃業や通信・面接・文書閲読・物件所持の自由は、独立した条文としては明記しなかったが、これらの自由を妨害した者は、二月以下の懲役または70円以下の罰金とされた。(第34条)また1923年の一部改定で、外出は警察の許可制となった。
貸座敷営業地域は、豊原(西六条西側・西七條南)・大泊(梅ヶ枝町)・真岡(台町)の三カ所が指定された。
樺太庁が置かれた豊原は、区画整理され、碁盤目状の町で、豊原駅の西側近くに遊廓ができた。
081 1905年末の南樺太の日本人人口は1990人だったが、1919年には8万4845人となった。労働者の賃金が内地より高かったので、料理屋・飲食店が発展し、芸妓・酌婦の数は多かった。
082 南樺太では、日露戦争後、性買売女性が拡大しなかった。
五 中国での性買売の拡大
1914年、帝国外の日本人性売女性(芸酌婦)の数は、満州4353人(うち関東州1304人)、中国本土604人、香港307人、東南アジア2167人(シンガポール1681人、マニラ349人、サイゴン69人、バタビア68人)、北米275人(サンフランシスコ208人、ホノルル67人)、ウラジオストック297人、合計8003人だった。(海外各地在留邦人職業別人口表)
第四軍軍医部長だった藤田嗣章によれば、日露戦争中に戦闘が休止状態になると、遼陽・鉄嶺で、中国人性売女性が多数現れ、兵站部は性病蔓延を恐れ、憲兵が取り締まり、一部を公認し、軍医が毎日検梅して合格者に健康証を与えた。
入口に木柵を設け、点呼し、時間を決めて出入りさせ、あたかも「劇場入口に於けるが如き光景」であった。
これはすでに台湾で実施済みの方式で、貸座敷のような酒や食事はなく、買春行為だけであり、最も安く、時間を空費しない方法だった。(陸軍軍医団編、1934)
その後藤田は、1907年、韓国駐箚軍軍医部長になり、韓国統監府時代にも、韓国各地の守備隊長と協議し、兵士用にこの方法を用いたという。
083 第三軍兵站監部にいた中村緑野(ろくや)は、後に軍医総監になった男だが、「兵站監部が法庫門に軍政署を設け、軍政署が臨時売笑婦制を許可した」と述べている。業者が満州生まれの酌婦を雇い入れ、軍政署が商店を改作して田楽小屋(小さい長屋を田楽刺しのように並べた家屋群)式に、並列する各室の中間に隔障を設け、数カ所に入口をつけ、憲兵が混雑を整理した。連日盛況で、臆面もなく蝟集し、汽車の改札口そのままに、数珠つなぎとなりて、順番を待つ光景が出現した。これは軍慰安婦制度と同じ方式だ。
日露戦争が終わった時、関東州に日本人芸娼妓が1403人いた。これは日本軍の後を追って性売業者が連れて来た者だ。牛荘では、1905年8月1日に入港した摩耶丸に乗船していた日本人175人のうち92人が女性で、苦界(性買売の世界)に身を沈める者もあると報告されていた。
日露戦争の辛勝により、1905年に、日本は関東租借地と鉄道利権を獲得した。関東州に民間人の渡航が許可されると、芸妓・娼妓・酌婦が多数連れて来られ、それが在留邦人の半数を占めるようになった。関東州民政署は、1905年10月、芸妓酌婦及雇婦女取締規則をつくり、12月に貸座敷取締規則と娼妓取締規則を制定し、性買売を公認・統制した。(関東庁要覧、1927)
084 関東庁は芸妓・酌婦・雇婦女を「特殊婦女」とみていた。雇婦女とは芸妓・酌婦以外の雇用女性である。芸妓・酌婦は自らの届け出で許可証を得るが、雇婦女は業者の届け出で許可証を得なければならなかった。居住地制限や年齢制限はなかった。また必要に応じて健康診断を受けなければならないとされていたが、実際は芸妓・酌婦は強制検梅された。芸妓・酌婦の、他家への宿泊は許可制だった。
娼妓は17歳以上とされ、居住は遊廓内に制限され、外出は許可制で、性病検査を強制された。「娼妓廃業せむとするときは、自ら本署又は支署に出頭し、書面または口頭を以て届け出すべし」とする廃業規定があったが、廃業を妨害してはならないという規定はなく、廃業届があれば、必ず娼妓名簿から削除するとも書かれていなかった。通信・面接・文書閲読・物件所持・購買等の自由は規定されていなかった。
中国人性売女性は関東州では娼妓として許可し、満鉄付属地では俳優という名義で許可した。西春彦・長春領事の1925年の報告によれば、長春では俳優は中国料理店(平康里)に抱えられており、検梅を行わず、そのかわり日本人客を取らせなかったとある。
大連では、逢坂町と小崗子を遊廓に指定し、市内に散在している業者を集中させようとした。逢坂町遊廓は日本人男性用であり、日本人娼妓をおいた。小崗子は中国人男性用であり、主として中国人娼妓をおいた。
関東局によれば、逢坂町では、児玉源太郎・満州軍参謀長の斡旋で、大阪の実業家・田中宗一郎から10万円が投じられて遊廓が開設され、芙蓉楼・勇楼・三好楼などができた。1907年、佐藤友熊・民政署長は、地ならし、道路、下水などの設備の工事を指示し、1908年、料理店の移転を実現した。
085 奉天では1905年10月、城内に日本人公娼が55人おり、うち日本人だけを相手にする女性は38人だった。日本人遊客は延べ1827人だった。軍人・軍属が1696人で、他に、軍夫65人、商人66人だった。1906年末、奉天には、芸妓51人、酌婦222人、鉄嶺には芸妓63人、酌婦255人がいた。
長春では三井物産支店、タバコ専売所、マッチ製造業の他には、売春を営む料理店が5、6軒あるだけだった。
1907年、営口には芸酌婦が64人いた。
満洲婦人救済会の益富政助は、「奉天で日本人経営の料理店は、どれも日の丸の旗を交叉させて軒先に掲げているが、これを見た中国人が、あれは淫売の印だと冷笑している」と1907年に述べた。
1907年12月、邦人性売女性に娼妓稼業を認めず、芸妓・酌婦の公娼的行為を黙認した。それは対外関係を配慮してのことだった。そして年齢制限がなくなった。その背景に税金問題があった。毎月の税金は、芸妓が7円、娼妓が5円(中国人は半額)、酌婦2円50銭だったが、業者は、自分たちが抱えている性売女性の身分を、娼妓から酌婦に変えてほしいと陳情していた。
086 中国人娼妓は、そのまま娼妓の名称を用いた。
関東州・満鉄付属地以外の日本領事館管轄地域では、日本人相手の性売女性は領事館令によって管理された。長春領事館は、1909年、芸妓酌婦及雇婦女取締規則を公布し、料理店に寄寓する芸妓・酌婦を許可制とし、性買売を公認した。酌婦の年齢は17歳以上とし、芸妓・酌婦に週一回の健康診断を強制した。
安東領事館は、1906年11月、料理屋飲食店取締規則、貸席取締規則、改正特殊婦女取締規則、特殊婦女健康診断規則を公布した。特殊婦女とは、甲種芸妓・乙種芸妓・雛(ひな)妓・酌婦と、貸席・料理店・飲食店にいる仲居・下婢を指す。このうち乙種芸妓と酌婦は、指定地内の貸席以外に居住・稼業してはならないとされた。(集娼制)更に週一回の健康診断が強制された。年齢は、乙種芸妓が18歳以上とされた。酌婦の年齢制限はなかった。
日本内地の娼妓取締規則と同様に、名簿削除申請が出されたら、直ちに削除し、申請は何人も妨害してはならないという自由廃業の規定が書き込まれた。通信・面会・文書閲読・物件所持・購買その他の自由については、妨害されたら警察官署に届け出ることとされ、人権保障が曖昧だった。料理屋ではなく貸席を地域指定するという遊廓の形態をとり、名義は娼妓ではなく乙種芸妓・酌婦とした。
また、新市街の西北隅に「遊園地」という一画があり、これは純然たる遊廓だった。
087 公然と性買売を認める遊廓があり娼妓がいるのは、旅順と大連だけで、他は、芸妓・酌婦が名目だった。性売女性が特に多いのが大連だった。
関東州・満鉄付属地周辺以外にも、日本人性売女性がいた。1911年末、酌婦が、ハルビン210人(芸妓15人、酌婦195人)、双城堡54人、山姓39人、佳木斯(ジャムス)3人、湯原県5人、一面坡(は)38人、石道河子2人、横道河子20人、寧古塔27人、掖(えき)河3人、抬(たい)馬溝3人、穆(ぼく)棱4人、ポクラニーチナヤ8人、太平溝9人、大通県2人、吉林51人(芸妓2人、酌婦49人)いた。
088 ただし、ここで買春する男性は主に出稼ぎの中国人だったとのことだ。
中国人を相手とする性売女性はひどい環境に置かれていた。1918年1月、本野一郎外相は、「汚い家屋で下級外国人を相手に性売する女性が甚だ多いが、これは一般邦人の体を毀損するので、営業状態を改善しなければ、本年末までに禁止する」ように通達した。これは奉天での領事館会議の結論だった。佐藤尚武・ハルビン総領事は、「外国人を主たる顧客とする料理店は、今後芸妓・酌婦を抱えることができない」とする資格標準を出した。
チチハルでも下級外国人を顧客とする性売女性の営業を禁止した。
こうして、中国人を相手とする芸妓・酌婦は廃業させられたが、日本人を相手にする芸妓・酌婦には制限しなかった。
089 日露戦争後に始まった大正デモクラシー運動は、「外に帝国主義・内に立憲主義」を目指したが、買春する帝国日本は、「帝国外に絶娼、帝国内に存娼」という政策を実行した。
関東庁の統計によれば、1919年末の芸妓・娼妓・酌婦の数は、表9の通りである。088 芸妓・娼妓・酌婦の合計は3766人だった。公然と性買売を認める娼妓がいるのは旅順と大連だけだった。大連が性売女性の数が一番多い。この表以外に雇婦女が501人いたので、関東州・満鉄付属地内の性売女性(関東庁の用語では「特殊婦女」)の数は、4267人となる。
満洲以外では、日露戦争下の1905年7月、上海領事館は、芸妓営業取締規則を制定し、これまでの排除から管理に転換した。そして芸妓を甲種と乙種に分け、貸席に乙種芸妓を抱えることを認めた。乙種芸妓は事実上の娼妓である。1918年には、甲種芸妓が121人、乙種芸妓が43人であった。
植民地・租借地等からの性買売方式の移入
1912年8月30日、日本で唯一の廃娼県だった群馬県は、料理店飲食店及芸妓営業取締内規を制定し、酒のお酌などの業務である「酒間の斡旋」に、主として芸妓を用いる店を甲種料理店とし、芸妓ではない女性=酌婦を用いる店を乙種料理店とし、女性を用いない店を飲食店とした。芸妓は満12歳以上、乙種の酌婦は満16歳以上とし、酌婦は月三回の健康診断を義務付け、芸妓は伝染性疾患がある場合は健康診断を義務付けた。
090 しかし、実際は芸妓に対しても月1回の検診を行った。
これは、従来の曖昧屋(ダルマ屋)と呼ばれる秘密性売所の取り締まりが、酌婦による性売の事実上の公認へと転じたことを意味する。乙種料理店の営業者と酌婦の数は制限された。1919年末の芸妓は1187人、酌婦は953人になった。(群馬県統計書 警察及衛生の部 1919)
1924年の群馬県の調査によれば、酌婦は前借金を負っていた。その多くは借金が減らず、増加する者もいて、永久に淪落する者が少なくなかったとのことだ。(群馬県知事回答)
これは、植民地・租借地で貸座敷を、貸席や料理店に言い換え、娼妓を、乙種芸妓や酌婦と言い換えたことと同じだった。
廃娼運動を行っていた伊藤秀吉・廓清会常務理事は、この群馬方式を登録黙認制度と呼び、「これはヨーロッパの公娼制度と同じであり、前借金の廃止・集娼制の廃止・性買売を公然と認める妓楼の廃止に進むべきだとした。(『婦人新報』1931.7)
しかし日本国内では廃娼とともに、公認・隠蔽のこの方式が拡大していった。
六 海外「売淫婦」取締りの運動
091 1907年、日本キリスト教婦人矯風会の矢島楫子(かじこ、女子学院)ら1099人は、島田三郎衆議院議員や岡部長職(もと)貴族院議員を通じて、「在外国売淫婦取締法制定に関する請願書」を、改めて貴衆両院に提出した。最初の請願は1892年だった。
「日本人性売女性が海外に存在することは、日本にとって不面目である。利益を貪る者に誘拐された者もいる。渡航を取り締まる法律を制定して欲しい。」「女性たちが、奴隷制度よりも悪しき境遇に置かれている。強兵富国の大義を世界に布こうとする大日本帝国にとって、このような女性の存在は、国旗の汚である」とした。
この請願は貴衆両院で採択され、参考として政府に転送すべきとされた。
一方、司法・内務・外務の三大臣は、同年1907年に公布された刑法第224条から229条に、略取罪・誘拐罪・人身売買罪があるから請願の趣旨は達成されているとし、特段の措置を取らなかった。(刑法の人身売買罪は、帝国外移送の場合にだけ適用された。)
092 1910年、ヨーロッパ12か国とブラジルは、白人奴隷取引禁止に関する国際条約をパリで締結した。外務省の訳は「醜業を行はしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」である。日本はこの条約に締結しなかったが、第一次世界大戦後に、この条約批准が大問題となった。
七 シベリア戦争と性買売
1917年11月、ロシア社会主義革命が起こり、日本は1918年8月、シベリアへの出兵を宣言し、第12師団、第3師団、第7師団など7万3000人の兵力を派遣し、シベリアで革命軍と戦闘を始めた。(シベリア戦争、シベリア出兵)
4年間戦闘を継続したが、戦果もなく、戦死者2700人を出し、1922年に撤退した。なお、北サハリンからの撤退は1925年になった。この間1109人の性病患者が出た。
先に見たように、満洲の領事館会議後、外務省は、外国人を相手にする日本人女性による性売の廃業方針を決定していた。ところが、派遣軍は、軍人の慰安と性病予防のためと称して、性売施設を求め、性売女性の検梅を行った。そこで、領事館は、方針変更を求められた。
チチハル領事館は1918年11月12日、下級外国人相手の料理店・酌婦の営業を禁止する方針を改め、日本軍の駐屯中は、昻々(こうこう)渓・札蘭屯(ジャラントン)・博克図(ボグト)での営業継続と、軍医による検梅を認めることにしたい、と外務省に申請し、20日に許可を得た。
琿春(こんしゅん)領事館は、1920年10月に日本軍が入ってきてから、日本人・朝鮮人の性売女性の検梅を軍医に依頼し、性病防止の状況が改善したと、1921年に本省に報告した。
ニコリスク領事は、日本軍駐屯と共に性売女性が500人になり、ロシア人などの顰蹙を買ったが、軍憲側のなすが儘に一任している、しかし、日本軍撤退と共に営業は困難になるだろうから、その機会に業者・女性を一掃したい、と1921年9月9日に報告した。
津野一輔サハリン軍政部長は、1920年9月1日、芸妓酌婦取締規則を作り、芸妓・酌婦は憲兵隊の許可制とし、憲兵隊の指定した場所で、芸妓・酌婦に検梅を受けるよう義務付けた。ここでも芸妓・酌婦の名義を用いており、公認と隠蔽の政策は受け継がれていた。
シベリア戦争中は、数多くの性売業者が女性を連れて日本軍の後を追い、日本軍はそれを管理し、領事館はそれに協力した。
感想・疑問 外国人を相手にする日本人性売女性を廃止する領事館の方針を軍が覆して、軍主導で買春が行われるようになったという論旨なのだが、日本人を相手にする場合は、継続していたのか、どうなっていたのだろうか。88頁では継続したとある。ここでは日本軍が利用するのだから、「外国人を相手にする」ということは、ここでは無関係ではないか。088
コラム 3 飛田遊廓の設置問題
093 1909年、曽根崎新地(遊廓)が焼失した。林歌子ら矯風会などによる廃娼運動は再設置を阻止した。
1912年、難波新地(遊廓)142軒が、23軒を残して焼失した。再び、再設置を阻止した。
094 大阪府には1912年末現在で、市部の新町・堀江・松島・九郎右衛門町(ころえもんまち)・櫓(やぐら)町・阪町・宗右衛門町と、郡部の栄橋・龍神・乳守(ちもり)・貝塚・枚方に、指定地があり、貸座敷は1593軒、娼妓は6039人いた。
大阪府は1916年4月11日、告示第107号を出し、南大阪の南端、東成郡天王寺村に、2万4000坪の貸座敷免許地を指定した。これは飛田遊廓となった。
近くに今宮中学・大阪商業などの学校や天王寺公園があり、鉄道院関西線や南海鉄道から望見でき、大きな反対運動が起こり、矯風会・廊清会も1年半反対運動を続けた。
大阪府知事は大久保利通の子の大久保利武であり、首相は廊清会に近い大隈重信で、内相は謹厳な一木喜徳郎だった。大隈は「よく取り調べよう」と答え、大久保は「湧き立てる今日の輿論を鎮和する方法あらば、腹蔵なく注意ありたし」と述べた。
大阪府の新妻警察部長は、難波新地遊廓の失業者126軒中、復旧を願う79軒を救済するため、また私娼が増えているので、その弊害を除くため、市内に散在している遊廓の整理のため、という理由を挙げた。(大阪毎日新聞1916.4.18)しかし、火災から4年もたち、復旧を願う業者は25人しかおらず、遊廓をつくれば私娼が減るという根拠もなく、また散在している遊廓の業者も移転を求めていなかった。
一木内相は「一旦許可したものは取り消せぬ」と撤回を拒否した。(これがどうして謹厳か。)10月大隈内閣が倒れ、寺内内閣が成立し、後藤新平内相のもとで、飛田遊廓の建設が進み、1917年12月に開業した。
1914年、府警察部が秘密裡に調査して内務省に進達していた。土地所有者の背後に、既成政党関係者が隠れていたのですぐには許可せず、申し継ぎ事項になっていた。その後、1916年4月、内務省から大阪府に指定地の告示を命じてきたとのこと。内務省の湯浅倉平警保局長や、後藤文夫保安課長らがこれを主導したらいい。
飛田遊廓は1940年9月、2858人の娼妓を抱えた。
第二次世界大戦後、公娼制や赤線が廃止された後も、飛田にかつての遊廓の建物が残り、現在も大きな性売施設が維持されている。2013年5月、「軍慰安婦制度は必要だった」と述べた橋下徹大阪市長は、かつてこの飛田新地料理組合の顧問弁護士をしていた。
第Ⅳ章 買春帝国の変容 1919年~1931年
099 表10 内地における芸妓・娼妓・酌婦・貸座敷遊客数の推移 1924--1935 『日本帝国統計年鑑』各年版
第一次世界大戦後は、男性の好みの変化もあって、娼妓以外の性売女性が増えた。
感想 貸座敷遊客数が27,278,106人(1935)で、成人男子数が16,060,000人(1924)とのことだから、やらない者が一人もいなかったのだろうか、恐ろしい戦前に関する事実だ。
一 日本内地の性買売の推移
100 仲居・女給(カフェー・バー・レストラン)・売子(デパートなど)の中にも1923年以降は私娼がいたらしい。東京の銀座裏、新宿の三越裏や東横横丁、渋谷の百軒店、神田の新天地、上野の山下、浅草の六区に集団的なカフェー街ができた。
警視庁は1929年、カフェーやバーの取締要綱を定め、乱立防止とエロサービスの厳禁をはかった。また1933年、特殊飲食店営業取締規則を制定した。
101 1929年、女給の年齢は、15歳以上25歳未満が最も多く、全体の84%を占めた。大部分は性売の前歴がなかった。
1930年ころ、女性が密売淫窟で姓売買を常業とする大きな私娼街が、東京の亀戸と玉ノ井にできた。ここは飲食物を提供しないので安上がりだった。また横浜には形式がホテルで女性がホテルの雇女である「チャブ屋」ができ、多くが18歳より前に性売を始めていた。
軍港の横須賀には銘酒屋があり、酌婦をおいて密かに性売をした。横須賀警察署長の指示で、銘酒屋街の場所が、安浦町と田浦町船越(皆ヶ作、かいがさく)に指定され、また、酌婦は1軒につき4人以内とされた。
102 遊客は、軍人と海軍工廠の職工と、遠洋漁業の捕鯨船の船員だった。
廃娼運動と存娼運動
第一次世界大戦後、廃娼運動が盛んになった。その要因として、1923年の関東大震災で吉原遊廓が全焼したこと、1925年に女性児童の取引禁止諸条約への日本の加盟が避けられなくなったこと、1926年、廓清会と婦人矯風会が連合し、廓清会婦人矯風会廃娼連盟(以下廃娼連盟)を結成したこと、大戦後の不況や、買春の好みが、娼妓からカフェー・バーの女給、ダンスホールのダンサーなどに変化し、遊廓営業が不振になったこと、国際的な廃娼運動が高揚し、日本の運動が力づけられたことなどがあげられる。
1923年の関東大震災により、東京では吉原などいくつかの遊廓が焼失すると、廓清会、婦人矯風会、基督教連盟、基督教青年会同盟などが、10月3日、内務大臣に、「遊廓復興反対の請願書」を提出し、「前借金は事実上の人身売買であり、娼妓の生活は事実上の奴隷生活であり、貞操を国家公認の下に売買する社会制度は、時代錯誤である」とし、また「東京市内に公娼区域を設置せず、少なくとも東京市外に移すこと、芸妓屋・待合を裏通りに移すこと」などを提案した。
103 一方、貸座敷業者による存娼運動は激しく、廓清会が行う廃娼演説会に暴力を伴う妨害活動を行った。1924年10月15日の演説会で、福岡県柳町遊廓の帳場・板場の従業員など30人が廃娼演説会を襲撃し、広田宗義弁士など3人が重傷を負った。業者は全国組合大会を開催し、1925年の福岡市の大会では、福岡市会が500円の補助金を出した。
1926年4月に京都市で開かれた全国大会では、娼妓登録年齢を満18歳以上から満16歳以上に引き下げるように決議し、9月に開かれた東京大会では、「貸座敷業者に不当の圧迫を加えその生活を脅かすべからず」と決議した。
二 国際連盟と人身取引禁止運動
女性児童取引禁止諸条約への加盟問題
1920年、国際連盟ができ、日本は常任理事国になった。
104 日本は女性の人身取引問題を避けて通れなくなった。国際連盟規約第23条で、白人奴隷取引禁止条約の取決の実行を監視することが規定された。
白人奴隷取引禁止条約は、1904年に協定され、1910年に条約となった。
1920年の国際連盟理事会で、白人奴隷取引禁止条約の調印国以外に参加国を拡大し、国際会議を開くことが決定され、日本はこれに参加せざるを得なくなった。
1920年12月15日に開かれた国際連盟総会は、アルメニア・小アジアで、トルコに奪取され、ハレムに入れられたとされるアルメニアやギリシャの女子・児童の調査を行うことを決定したが、この時日本の代表は、喝采を受けて壇上にのぼり、「1915年以来2万人のアルメニア人女性が、奴隷的生活で苦しんでいる」「奴隷売買が続く限り文明なるものは存在しない」と断言した。
しかし、1921年6月にジュネーブで開かれていた「女性児童の取引禁止に関する国際会議」に出席していた埴原正直外務次官に、小橋一太内務次官は通牒を発し、その中で、
「日本の公娼は全く自由な稼業だから、1910年の白人奴隷取引禁止条約に抵触しない」とし、また、「稼業許可年齢を20歳以上にすると、日本内地だけでなく、朝鮮・台湾などにも重大な影響を及ぼすから、日本代表は、加入を留保するなど適当な措置をとるように」
とした。(売淫婦女取締に関する「ゼネバ」会議の件依命通牒)
ところが1921年9月、日本の予想を超えて、「女性児童の取引禁止に関する国際条約」(外務省訳は「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」)が新たに締結され、「1910年条約の未加入国は速やかに批准すること、性売を禁止する年齢を、1910年条約の満20歳未満から満21歳未満に無条件に引き上げる」と規定した。日本はこれに調印せざるを得なかった。
105 1921年、イギリスの提案で、「白人奴隷取引
“traite des blanches”という用語が、「女性児童の取引」“traffic in women and children” (外務省訳は「婦人及児童の買売」)という用語に変えられ、白人や女性に限定しなくなった。
1910年条約は、性買売を目的として、未成年の女性を勧誘・誘引または拐去した者を、無条件に処罰する義務を批准国に課していた。ここで「無条件に」ということは、「女性本人が同意していても処罰する」ということである。
またこの条約の最終議定書は、「未成年者とは満20歳未満」とされた。また、成年の女性でも、性買売を目的として詐欺や暴行・脅迫・権力乱用その他一切の強制手段によって勧誘・誘引または拐去した者を処罰する義務を批准国に課した。
この時期の欧米の廃娼運動は、当初の性売女性の統制に対する反対運動から、性売禁止運動に変質し、無垢で幼い少女の奴隷化に反対するだけで、経済的強制(貧乏が原因)による性売は合法化され、性売する成年女性は「非難されるべき特殊な女性」と見なされ、1910年条約も、同様だった。(藤目ゆき1997)(冷たいね)
この条約は日本にとって脅威だった。日本の全権は、1921年条約の留保条件を狙った。未成年の女性に娼妓稼業をやらせる行為は
traffic であることは避けられない、日本帝国の性買売はそれによって制約される、20歳ではなく18歳に下げられないものか、しかしそれを言い出すのは不体裁だった。
105 日本の全権は、帝国の性買売に大きな影響を与えるとして、「1921年条約は朝鮮・台湾・関東租借地には適用しない」と留保宣言をした。ところで1910年条約では、植民地に適用するときは、その旨宣言することになっていた。
さらに日本政府は、1925年の批准時に、「未成年の年齢を、満18歳未満とする権利を留保する」とし、そしてさらに、「条約の効力が及ばない範囲に、樺太(南樺太)と南洋委任統治領を加える」と宣言した。
また、枢密院に諮詢するとき、日本政府は、フランス政府に従って、「この条約は複数の国々に渡って行われた不正行為に適用されるのであって、一国内で行われる不正行為には適用されない」という解釈をした。日本政府、特に内務省は、女性児童取引禁止諸条約の将来の規定が、「直接国内の娼妓制度に干渉する」ことを恐れた。(これではこの条約の精神は骨抜きではないか。)
1921年条約に調印する時、年齢に関して留保した国・地域は、他に、シャムとインドがあった。
インドの代表は、「アジアでは女性の成熟が早い」と理由を述べたが、日本の代表はノーコメントだった。
調印時に植民地等の除外を宣言したのは、イタリア、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド(西サモア委任統治地域)であり、批准時に植民地等の除外宣言をしたのは、フランスだった。
イギリスとフランスは、1910年条約では植民地に適用していた。
1921年条約で、イタリアの植民地は、1922年にこの条約に加入し、イギリスのほとんどの植民地も1925年までにはこの条約に加入した。
日本は1910年条約でも、1921年条約でも、植民地等に適用しなかった。
オーストラリアは、1936年に除外宣言を撤回し、パプア島、ノーフォーク島、ニューギニア・ナウル委任統治領に適用した。
(批准時の)枢密院での審議
1925年、枢密院で、富井正章審査委員長の審査報告書では、「これら条約の批准は何らの不可なきこと言を俟たず」とし、二つの留保条件(年齢と植民地)について、
「植民地等への適用除外について、南樺太・南洋委任統治領には、人道上適用すべきであり、朝鮮・台湾・関東租借地の適用除外が必要ないことが確認されたら、撤回すべきだ」とした。
また、成年年齢の留保は、「帝国の体面に顧みて、本官等の遺憾に堪えざるところなり」とした。
枢密院本会議で、若槻礼次郎内相(憲政会)は、「年齢制限の留保については、なるべく速やかに撤回する」と釈明した。
石黒忠悳(とく)顧問官(元陸軍軍医総監)は、自ら台湾での公娼制を提案したことがあったのに、「娼妓の許可年齢を満18歳から若干引き上げるのは当然ではないか、また、1872年の娼妓解放令は廃止されたのか」と質問した。
108 これに対して若槻内相は、「現状においては登録する娼妓の年齢を引き上げることは困難だ」と答弁した。(どうして)
山川端夫内閣法制局長官は、「娼妓解放令は民法第90条の公序良俗違反として生きており、また日本には人身売買は無きはずなり」と答弁した。(うそ)
議論は不徹底のまま原案が承認され、女性児童取引禁止条約は、留保条件をつけたまま批准された。
1927年、日本政府は年齢に関する留保条件を撤回したが、条約は国際的取引に関するものだとし、日本内地の娼妓の稼業許可年齢引き上げについては、「18歳からにしたのは、日本社会の状態や、女性身体の発育と思想発達の程度を考慮して決めたのだから、21歳にする必要はない」とした。(警保局警務課意見)(「日本社会の状態」とはどういうことか)
また、植民地等への適用除外は撤回しなかった。このため、朝鮮、台湾、関東州、南樺太、南洋群島からは、ほとんど制限なく、海外に人身取引が続けられた。またこれによって軍慰安婦の戦地への送出が容易になった。
1923年の国際連盟女性児童取引問題委員会第二回会議で、「公娼制度が女性取引の原因になっているのだから、この公娼制度が廃止されるまで、少なくとも外国人を公認貸座敷で稼業させないようにする」という決議が可決された。この決議案にフランス、スペイン、ウルグアイなどが反対したが、少数意見であった。
日本政府の調査では、朝鮮にロシア人12人、フランス人1人の娼妓がおり、関東州には1752人の中国人娼妓と、3人のロシア人娼妓がいた。
109 日本代表はこの事実に触れず、日本には外国人娼妓がいないと言い、この提案に賛成した。(嘘つき)
また、女性児童の取引禁止諸条約を批准したから、これに合わせて刑法を改正する必要があった。性買売を目的として未成年の女性を勧誘・誘引又は拐去した者は、女性の同意を得ていたとしても罰せられるという1910年条約第一条の規定に対応する刑法の規定はなかった。外務省は改正案を検討したが、改正はついに行われなかった。
感想 日本の議会は伝統的に嘘と不誠実で成り立っているようだ。
三 廃娼運動と存娼運動の対抗
帝国議会での公娼制の審議
1925年2月、松山常次郎議員(政友会、鮮満開拓社社長、南海拓殖社社長、和歌山1区)は、公娼制度制限に関する法律案を衆議院に提出した。これは憲政会24人、政友会11人、政友本党11人、革新倶楽部8人、実業同志会3人、中正倶楽部2人の賛同を得て提出されたが、賛成53票、反対157票で否決された。
この法律案は、今後新たな娼妓や貸座敷業を営むことができないようにするというものだった。提案理由で、松山は「公娼制度は事実上の奴隷制度であり、人道上・風紀上・衛生上有害無益な悪制度だ」とし、「人道上、国家が売春を公許するのはよくない」と述べた。
110 また松山は「公娼制は性病の蔓延を防止するという説には根拠がなく、かえって性病を助長する、公娼を廃止すれば私娼が増えるという説にも根拠がなく、公娼制が私娼を助長する」と説明した。
これに対して2月26日の委員会審議で、存娼派の筒井民次郎議員(政友本党、大阪1区選出、元府会議員)は、「公娼制を廃止すれば、私娼が増え、治安が悪化する、性病者も増える、婦女凌辱の凶悪事件も増える、男の性欲は防止できないからだ」と反対した。
片岡直温・内務政務次官(憲政会、京都2区)は、「公娼制を廃止すれば、衛生上害毒を瀰漫する」とし、山田弘倫・陸軍軍医総監は、「兵士の衛生上の見地から、公娼制は只今の所では必要」と述べた。
古川清議員(政友会、島根6区、三等郵便局長)は、「年季を早くあけて娼妓の身分から脱することができるようにするために、満16歳から娼妓登録を公認したらどうか」と提案した。
中原徳太郎議員(憲政会、東京9区、医学博士)は、3月5日の本会議で「公娼制は奴隷制度だというが、私娼も奴隷制度であり、人権を蹂躙されている。」と述べた。
内務省による公娼制度改革の検討
111 1925年6月、白根竹介・岐阜県知事は、県内の110軒の業者(娼妓数730人)を調査し、娼妓に対する折檻、稼ぎ高のごまかし、粗末な給食、病気中の食事提供拒否、遊客のいないときの雑魚寝強要などの不法行為を摘発した。
1926年、内務省警保局長・松村義一は、警察部長会議に公娼制度改革に関する諮問案を提出し、警察部長会議で議論した。
1926年5月、警保局は調査をした。以下はその調査内容である。
娼妓のほとんどは家庭貧困の犠牲者であり、学歴は極めて低く、無就学者と尋常小学校を中退した者が、1922年末現在で、3万2095人(5万471人中)であり、居住制限・外出禁止などにより、一般社会と隔絶され、娼妓の無知に業者が乗じ、一度この境涯に陥ると正業に復帰することは難しい。そして、娼妓稼業は生命身体の危険を伴う。1922年に病死したものは542人、心中は94人、その他の変死が136人である。3年以上いる者が1万7877人もいる。娼妓は法制上は独立した稼業だが、実際は貸座敷業者の下で奴隷関係にある。
1924年の前借金の最高額は3500円、最低は200円で、手数料を差し引かれて、親元にはそれぞれ、2925円、115円が支払われた。娼妓が稼いだ金額は、業者が6割取り、7割取る場合もある。「前借金の返済如何に関わらず、契約年限が満了すれば、返済が終わったものとする」という契約の場合は、業者が全額取り、娼妓に追借金が生じ、廃業できない。
112 1923年、宮城県仙台市小田原遊廓に4年以上いる46人の娼妓の5年間の平均の稼ぎは、4563円だったが、娼妓の所得は1369円、負債は1662円(前借金458円、追借金1204円)で、5年間以上働いても293円(1662-1369=293)の借金があった。1年で返済できた前借金は、458円のうち165円だった。(どういう計算をしているのか)
以上の調査に基づいて、1926年5月3日の道府県警察部長会議で、公娼制度改善に関する諮問事項が審議された。その結果、「娼妓の外出制限は人権無視だから撤廃すべきだ」とし、「娼妓は絶対服従を強いられている、客の選択権を与えるべきだ。娼妓賦金は、娼妓の負担になるから廃止すべきだ」と提言した。しかし、「公娼制を即時廃止すべきだ」という意見は、二県の警察部長から出されただけだった。(『東京朝日新聞』1926.5.4)
安部磯雄・星島二郎と廃娼運動
1929年3月19日、安部磯雄、星島二郎、箸本太吉、内ケ崎作三郎らが、「公娼制度廃止に関する法律案」を衆議院に上程し、新規の貸座敷業と娼妓登録の禁止と、1935年を期し、娼妓と貸座敷業の廃止を目指した。賛成者は、犬養毅、永井柳太郎、清瀬一郎、松村健三、鶴見祐輔、西尾末広など54人だった。
安部磯雄(社会民衆党、東京二区)は、1865年元治二年生まれで、1901年、片山潜、幸徳秋水らと社会民主党を結成した。早稲田大学教授で、1926年、無産政党右派の社会民衆党委員長になった。同志社で学び、新島襄の感化を受け、日本の植民地支配を当然視した。
113 彼は提案理由として、「公娼制度の廃止は、売淫行為を禁止することではない。売淫行為は秘密裡に行うべきである」とし、私娼を認めた。
そして「私娼を実行するためには、前借制度や抱主制度を止めなければならない。この制度のために、か弱い婦人が奴隷のような生活をしている。今日、醜業婦が自由廃業するとなると、命がけである。」
安部は「公娼制度は人身売買であり奴隷制度であり、国家がそれを公認することは、人道上許されない。この奴隷制度の悪い点は、廃業しようにも廃業できないことであり、お客を選択できないこと、病気の治療が十分にできないことである」とした。(「奴隷制度は国辱なり」『廓清』1929.3)
114 公娼制度を廃止しても、さらに劣悪な私娼が増えるだけだという反論に対して、安部は「日本の私娼は公娼なり」として反論した。
「欧米の私娼は誰にも拘えられない。前借もないし、抱主もいない。人目につかない処に室を自分で借りてやっている。これが私娼だ。売淫だけなら、人身の拘束や奴隷売買という恐ろしいことは伴わないから、忍ぶことができる。公娼・私娼の区別は隠れてやる度合による。」(「公娼制度廃止に対する世人の誤解を解く」『廓清』1929.5)
安部の意見は、抱主による前借金に基づく拘束、外出の自由・居住の自由・廃業の自由などの剥奪があれば公娼であり、それを廃止せよというものだ。
また彼が「秘密にやれば構わない」というのは、帝国の体面を気にする考え方と同じようだ。これは、彼の「性買売は下水だ」という論理の反映だ。彼は1911年、「下水は汚いが、なくてはならないので地下に流すべきだ」と述べていた。
存娼派の川島正次郎(政友会、元東京市商工課長、千葉一区)が、21日の委員会で、「娼妓だけを廃したのでは提案者の目的を達成できない」と批判したが、それに対して安部は、
115 「公娼・私娼の別は問題ではなく、奴隷制度が問題だ。現在の私娼制度にも奴隷制度が行われている。芸妓がそうだ。公娼制度には奴隷制度が一番露骨に現れている。」と述べている。(「奴隷制度廃止運動」『廓清』1931.7)
安部は、人身売買の契約を法律で禁止し、即時に廃業できるようにすること、抱主制度の廃止が必要であるとし、公娼制度を廃止し、少しも束縛的意味のない私娼制度にすべきであるとし、公娼制度の廃止と同時に、(芸妓などの束縛されている)私娼も認めない。しかし、1929年の法律案にはこのような準備ができていなかった。
共同提案者であった星島二郎議員(政友会、岡山二区)は、「公娼制は、人身売買を公認する前借金制度であり、人間を担保として金を借りる制度であり、これを改廃したい」と3月20日の本会議で説明した。
そして22日の委員会で「男女平等、人格尊重の観点から、金銭のために人身を売買することは、人道上遅れた悪習慣・悪制度であるから、速やかに廃止すべきだ」と述べた。
116 星島は「私娼は若干許せるが、奨励はしない」と述べて、安部とはこの点で異なる。そして性病予防のためには、私娼のブラックリストをつくった上での強制検梅を提案した。強制検梅が女性の人権侵害になることには思い及ばなかったようだ。
存娼派議員の議論
帝国議会で横山助成・内務省警保局長は、「公娼制は風俗上・衛生上、存続する必要があり、社会的要請があれば、増設を認めるのはやむを得ない」と答弁した。また「前借金制度は人身の拘束になり易いが、前借しなければならない家庭の事情(貧困)などから、やむを得ない。」そして「自由廃業しても、前借金の返済は、楼主・娼妓の間の道義からして、娼妓に返済の義務がある。」と述べた。(ピンハネしておいて「道義」と言えるか。)
山田準次郎・内務省衛生局長は、「1927年の性病検査で、娼妓4万7436人に対して、延べ295万6438回検査(1人60回)したところ、公娼の罹患率は2.03%だったが、私娼の罹患率は、32.12%(しかしこの数字は、たまたま検挙した私娼の検査に基づく)だった」とし、その点から横山警保局長は、「性病予防のためには、公娼制をやめて散娼にするという主張を防ぐことが妥当だ」と述べた。
117 公娼の検診は、顕微鏡検査ではなく、目視だけであったが、山田衛生局長は、そのような不十分な検診でも、「公娼の患者数は6万21人なので、すべての人が1回以上罹っているということになる」とし、公娼を介して性病が蔓延することを否定できなかった。
川島正次郎議員は「男性の性欲は抑制できないので、公娼制は人類の淫欲に対する安全弁である」とし、「公然と密集した場所で行うことを禁止するためには、密売春や芸妓取締規則の廃止と合わせて提案すべきであり」、また、娼妓の自由拘束に関しては、「前借金制度の廃止が不可能であり、抱主の反省・娼妓の自覚・警察の厳重な取締によって(自由の拘束を)矯正できる」とした。
庄司良朗議員(政友会、静岡2区、静岡朝報社社主)は、「成年男子の性欲は抑制できない、最も旺盛な労働者階級に対して、これを合法的に、経済的に、しかも簡単に調節すべきものは、公娼制度の他にない」とした。
山田毅一議員(民政党、富山2区、復興通信社社長)は、1919年に香港・シンガポール・ペナンなどに寄港したとき、日本人性売女性が減ったことを喜んだことがあったが、「国内の公娼制は、数百年の歴史があり、1軒の家に醜陋な便所があるように、風紀上の問題、社会の秩序維持のためには、公娼制はやむを得ない」と述べた。外に絶娼、内に存娼の立場であった。
118 存娼派の議員数が圧倒的であり、委員会で廃娼法律案は否決された。
しかし、公娼制は行き詰まりつつあった。1928年末は、1926年末比で、貸座敷指定地数が若干減少傾向であり、貸座敷業者数も、娼妓数も若干減った。
また、中立の立場の土屋清三郎議員(民政党、医師、千葉3区)は、「公娼も密売淫婦も人身売買であり、人道上から許すべきでないという見解には、一部これに同感するとし、さらに、外出の自由の剥奪は、全く不必要だ」と述べた。
存娼派の久山知之議員(政友会、実業家、岡山1区)も「未成年の女子を雇い入れて娼妓にすることは、国際信義上から、研究する必要がある」とした。
また横山警保局長も、「売笑婦の認定は、少なくとも丁年(満20歳)以上に達した者にするように努力したい」と答弁した。
無産婦人運動家の山川菊栄は、「娼妓などの性病検査は、人権蹂躙の極致であり、日本労働組合評議会婦人部提案の公娼全廃の意味は、「集娼制・散娼制を問わず、強制検黴を施し、これに鑑札を与え、買淫を国家公認の業務として認可する制度の廃止」を意味した。(「公娼廃止と無産階級」『廓清』1925.11)
男性議員には、娼妓などの性病検査が女性の人権を侵害するものだという認識はなかった。また買春する男性の検査が必要だという議論もなかった。
府県議会での廃娼決議積み上げ運動
119 1926年6月、廃娼連盟が結成され、各府県議会に廃娼決議案を提出した。
帝国議会議員の選挙区のほとんどには遊廓があり、帝国議会で法律案を通すことは困難だが、遊廓がない選挙区が少なくない地方議会では可能性があった。毎年三県での可決を目指し、これを9年間続ければ、過半数の県議会で勝利でき、それによって帝国議会に影響を与えることができると考えた。(伊藤秀吉「廓清会三十年史(下)」『廓清』1941.12)
また、中央運動では、全国貸座敷組合が反対運動を行うが、その運動は、府県別まで手が回らなかった。
1928年、埼玉、福井、秋田の県議会で廃娼決議が通り、1943年までに、22県が廃娼決議を行い、廃娼実施県は15県となった。廃娼決議をするか、廃娼を実施した県は、重複を除いて47道府県中29県となった。
120 県議会の決議を受けて廃娼を実行する知事が出てきた。廃娼を早くから始めた群馬県を除くと、1943年までに廃娼が14県で実施された。そして政府も態度を変え、廃娼に向けて動き出し、齋藤実内閣の下で、内務省(松本学警保局長)は、廃娼連盟と協調し、廃娼を府県別に行うことを定めた。
廃娼運動の中心にいた廃娼連盟事務部長の伊藤秀吉(廓清会常務理事)は、南満洲鉄道(満鉄)の社員だった。
1908年ごろ、廃娼運動のリーダーだった島田三郎と安部磯雄が、満洲に連れていかれた性売女性たちを救済するために、女性たちの保護を伊藤秀吉に依頼した。伊藤とその妻きんは、預かった20数人の女性たちを自宅に住まわせ、自立の世話をした。伊藤は満鉄を辞して日本に帰り、廓清会に参加し、常務理事となり、府県会での廃娼決議運動を指導した。
廃娼連盟は、埼玉県を第一の目標県とした。1875年、埼玉県は白根多助県令により廃娼が断行されたが、翌年1876年、熊谷県が廃止され、貸座敷のある本庄町と深谷町が埼玉県に移管された。その後も遊廓免許地は、本庄と深谷にしか許されず、1929年、座敷業者は12人、娼妓は48人しかいなかった。
伊藤秀吉らは県会議員を訪ね、1927年に県廃娼同盟をつくり、廃娼演説会を各地で開催し、1928年12月、廃娼建議案を満場一致で可決させた。その後、本庄の娼妓は26人に減少し、1930年に廃娼を実施し、貸座敷を指定地料理店に変更し、娼妓は酌婦と名称変更し、6カ月だけ営業を許すことにした。
娼妓たちが他府県や朝鮮・台湾に転売される恐れがあったので、廃娼連盟は娼妓を正業につかせること、引き取り手がない場合は廃娼連盟が引き受けることを県に申し入れた。
122 新潟県では、1929年12月、廃娼決議が可決された。新潟は娼妓の供給地であり、業者は317人、娼妓は1286人いた。新潟県議会では、無産政党の井伊誠一、井上乙吉、須貝綱太郎と中立派の渡辺熊三郎が提案者となり、民政党が賛成して、三票差で廃娼決議が成立した。
1930年12月、神奈川県議会が廃娼意見書を満場一致で可決した。神奈川県には業者が189人、娼妓が1389人いた。政友会・民政党の議員がそれぞれ17人いたが、政友会の賛成者は一人もなく、その中には真金町遊廓楼主の兄もいた。決議案の提案は無産政党の金井芳次が行い、「公娼制度は人身売買と自由拘束の二大罪悪を内容とする事実上の奴隷制度である」「封建遺風たる奴隷制度より、完全に婦女子を解放せられむことを望む」と提案文に書いた。
県予算案の審議が紛糾し、「会期既に尽きて疲労と睡魔に苦しむる頃、かろうじて予算の通過を見、爾余の建議案は一括決せらるるに至った」という状況で通過した。
山県治郎県知事は、「警察や衛生当局は衛生上から廃止に反対しているが、風教上、人道上、国際上、断然廃止すべきで、衛生上からの反対はささいな問題である」と歓迎した。
長野県では、廃娼連盟の運動開始から5年目の1930年に廃娼決議が可決された。業者133人、娼妓607人だった。前年の1929年、6万数千通の署名と659の団体声明を集めて臨んだが、否決された。
123 1930年、廃娼連盟は方針を練り直し、廃娼が風紀と衛生の改善に不可欠だという主張を撤回し、公娼を廃することに絞り、国際的体面と「公民権を賦与されるべき婦女子に対し、最も貴重な貞操権の存在さえ認めない」ことへの批判に集中し、「衰えつつあり無益で人権を無視した公娼制度の廃止」という主張を強調した。公娼廃止の猶予期間を7年から10年に延ばす修正がなされて可決された。
1930年の時点で、娼妓数が多い道府県では廃娼決議までには至らなかったが、国際連盟東洋女性児童取引実地調査団(ジョンソン調査団)が来日し、廃娼へのインパクトをもたらした。
四 東南アジア・香港での性売女性の廃業と帰国
矯風会は第一次大戦後も「在外国売淫婦取締法制定に関する請願書」091を提出し続け、衆議院・貴族院ともそれを採択した。しかし、1927年に、日本が「女性児童取引禁止条約」で年齢に関する留保を撤回したとき、植民地等への適用留保を撤回しなかったのに、矯風会は請願活動を取りやめてしまった。
124 1920年5月、国際連盟理事会が、白人奴隷取引に関する国際会議に備えるための特別任務の職員を選任することにしたとき、日本は海外性売女性(公式には「在外醜業婦」)の数を調査した。
その結果、海外の日本人性売女性の数は、8807人で、中国本土と満洲が多く、ついでシンガポール、バタビアなどの東南アジアが多く、次がシベリアだった。
第一次大戦後、東南アジアや南アジアの日本人性売女性は廃業して帰国した。これはイギリス、オランダ、アメリカの廃娼運動とその結果としての各国の政府の方針転換による。
1919年12月、イギリス官憲はマレー半島のペナンで廃業方針を確立し、日本人女性に通告した。1920年1月、シンガポールの日本人会連合会は、年末までの性売女性の自発的廃業を促す決議をし、日本領事は、シンガポールで働いていた日本人性売女性175人に、6月末限りでの廃業を説諭した。また副領事をマラッカ、バトパハ、タイピン、ケダに派遣し、廃業を説諭した。
同年1920年11月末、廃業した者は377人で、帰国した者は、長崎県出身者が120人、熊本県出身者が70人などで、計247人となったが、なお700余人が残った。
オランダ領東インドでは、1913年8月末限りで、性売所の閉鎖と性売女性の解散が命じられた。1915年、日本人性売女性は1090人いたが、他業へ転業したり、オランダ人と結婚したり、使用人として雇用されたりして廃業し、その他は帰国した。
バリクパパン(ボルネオ島東岸)、スラバヤ、マカッサル(東インドネシア、スラウェシ(セレベス)島の南部)では、1920年中に、日本人会の説得で日本人性売女性が廃業した。
フィリピンでは、1918年まで公娼制があり、アメリカ陸海軍駐屯地の周りに、フィリピン人、欧米人、日本人の性売女性がいた。第一次大戦にアメリカが参戦し、軍隊衛生方針が立てられ、1918年、米軍所在地の10マイル以内での性売所とダンスホールなどが撤廃された。
126 マニラ市内では1918年10月16日を期して、それら性売所とダンスホールなどが閉鎖され、日本人性売女性122人が廃業して帰国した。
領事館の説諭で、サンボアンガ市(ミンダナオ島西部)から13人、セブ市から4人、イロイロ市から3人、アンギリス市から2人が帰国した。ダバオにいた女性も、1920年中に日本人会長の説諭で廃業したが、マニラ市内にはなお30人の酌婦(私娼)が残った。またダバオには女中と偽って性売させられている酌婦が6人いた。
1921年6月16日、内田康哉外相は、「海外に性売女性が多数いることは国家の体面上面白くないだけでなく、日本人の堅実な海外発展を妨害する」として「期間を定めてすべて廃業させるか、『醜業婦』の絶滅を図るよう」東南アジアと南米の公館に指示したが、中国の領事館には指示しなかった。
1930年、シンガポールの日本人性売女性は138人に減り、1930年5月、華民政務局が廃娼命令を出し、6人が帰国し、1930年6月、残存日本人性売女性は、シンガポールに70人、マレー半島に250人になった。
蘭印ジャワでは、1925年までに日本人性売女性がいなくなったが、スマトラ島近くのサバンのホテルには、日本人漁師を相手にする性売女性が10人いた。また、1930年、バンカ島の錫鉱山周辺に11人、スマトラ島のベンクーレン金鉱山付近に23人が残存した。相手は主に中国人労働者だった。
127 フィリピンでは、1928年末、スチムソン総督が私娼取締を行い、1930年、マニラでは日本人料理店で日本人を相手にする酌婦が4人だけになった。
シャムには、1916年頃20人の日本人性売女性がいたが、領事館の漸減方針で3人になった。その後1925年、シンガポールから2人が流れてきて5人になったが、1930年には4人になり、そのうちの2人は、台湾からスワトー(汕頭、広東省、南シナ海に面す)経由で来た者であり、1人はマレーから流れて来た者で、1人は中国人の妾だったが、離別して流れてきた。
ビルマでは、1921年10月、「売春宿及び不正人身取引禁止法」が施行された。それ以前、日本人性売女性が400人いてたが、この禁止法で、1925年には45人になった。
香港では1920年に300人の日本人公娼がいたが、領事館の漸減方針で、1930年には27人になった。また欧米人・日本人・インド人を相手にする女性には週1回の検梅が義務付けられていた。しかしこの他に芸妓39人、酌婦25人、女給3人、私娼50人がいて、さらに1928年以来、朝鮮人業者に連行された朝鮮人私娼が20人いたという。
カルカッタ(コルカタ)には、1925年に、62人の日本人性売女性がいた。インド人性売女性は8877人であったが、外国人性売女性のトップは日本人で、次がロシア人の17人だった。しかし、日本人性売女性は、1930年には39人に減少した。
128 日本人性売女性の相手が日本人男性ではなかったので、日本政府は英蘭米の廃娼方針に協力したともいえる。
五 中国の状況
中国と満洲には4967人の日本人性売女性がいた。外務省は1924年と1930年に、在外公館に性売女性の調査を命じた。
満洲
奉天には、1925年、日本人562人、朝鮮人149人、中国人894人(うち満鉄付属地内に313人)の性売女性(芸妓・酌婦)がいた。
前借金は、日本人芸妓が2000円、日本人酌婦が650円、朝鮮人女性が380円だった。
1930年には、日本人500人、朝鮮人220人、中国人882人だった。朝鮮人や中国人の中には誘拐された人もいたが、それに対して何もなされなかった。
129 長春では、1925年、日本人芸妓144人、酌婦210人(うち朝鮮人21人)、中国人芸娼妓2138人がいた。
前借金は、芸妓が2000円、酌婦が800円だった。治療費、衣料費、各種消費、家族への送金などのため、前借金を完済できる者は稀で、身請けされて廃業する以外に離脱できなかった。ときどき逃亡者や自殺者が出た。
1930年には、日本人芸妓160人(うち朝鮮人3人)、酌婦152人(うち朝鮮人32人)、中国人芸娼妓2108人となった。
ハルビンでは、1925年、日本人芸妓68人、酌婦163人(うち朝鮮人17人)で、大部分が日本人を相手にした。
満洲の芸妓は内地の娼妓と大差なく、満洲の酌婦は内地の娼妓に相当し、週1回の検梅を受けた。性の相手は、一面坡・梅林・三姓・寧古塔では中国人で、それ以外は日本人だった。
1930年には、日本人芸妓41人、酌婦63人で、朝鮮人酌婦が108人となり、朝鮮人が増えた。
鉄嶺では、日本人111人、朝鮮人13人の芸妓・酌婦がいた。満16歳から許可され、一律に検梅を受けた。
これ以外に中国政府が管轄する326人の中国人性売女性がいた。
女性たちは、仲間内で衣類その他の贅沢競争をして借金を増やし、契約期間が満了しても辞められず、稼業を継続したり、他の料理店に鞍替えしたりした。贅沢競争は業者が煽っていた。
130 遼陽では、芸娼妓は満鉄付属地内に197人(うち朝鮮人9人)、付属地外に16人いた。芸妓・酌婦に区別はなく、「売笑」を目的としていた。日本女性204人は、日本人を相手にした。
満鉄付属地内に、中国人と朝鮮人の性売女性約140人がまとまって住んでいる一画があった。
中国本土
青島には、1925年、日本人芸妓240人、日本人酌婦230人、朝鮮人酌婦30人、計500人がいた。
1930年には、それぞれ、289人、145人、106人、計540人になった。朝鮮人が増えた。居留民1万4500人の他に、多くの観光客と第二遣外艦隊*所属の海軍軍人が利用したようだ。 *青島付近を警備する日本海軍派遣部隊。
天津では、1930年、日本租界内に、日本人芸妓96人、日本人酌婦8人、朝鮮人酌婦45人、旧ドイツ租界に、朝鮮人酌婦12人がいた。酌婦は内地の娼妓と同一だった。合計で161人である。他に中国人女性が67人おり、女性たちは週一回検梅を課された。日本人租界内に、検梅をうけない中国人性売女性が1012人いた。
131 済南では、1930年、日本人料理店が抱える日本人芸妓50人、日本人酌婦10人、朝鮮人酌婦5人がいた。年齢は16歳以上で、外出・旅行は制限され、年季は、契約満了まで廃業できなかった。自賄は、前借金完済まで廃業できなかった。検梅は週一回義務付けられていた。顧客は日本人の船員が多かった。
チーフ―(芝罘)では、1930年、日本人芸妓4人、酌婦11人がいた。主に日本人船員を相手にしていたが、夏に避暑にやってくるアメリカ人東洋艦隊の水兵も相手にしたが、芝罘領事館はこれを認めず、日本人相手だけに規模を縮小しようとした。
上海では、1924年、共同租界の料理店に抱えられていた甲種芸妓108人、租界外の中国政府管轄地域の貸席に抱えられていた乙種芸妓(内地の娼妓に相当)39人がいた。甲種芸妓のピークは1919年(243人)で、乙種芸妓のピークは1920年(44人)だった。1924年、工部局によって租界内で廃娼が行われ、貸席は領事館の許可があった場合にだけ設置され、それ以外は租界外にあった。この他女給やダンサーもいて、1930年に712人だった。1920年、芸妓・娼妓・酌婦その他で558人だった。
漢口には1930年、日本人芸妓62人、朝鮮人酌婦37人がいた。
マカオ(澳門)には公娼制はなかったが、賭博場があり、その周りに花街があった。1930年、日本人私娼はいなかったが、4人の朝鮮人私娼がいた。
132 厦門(アモイ)には、1925年、領事館の許可を受けた日本人性売女性が3人いたが、営業期間が6カ月に制限されていた。料理店に抱えられ、日本人だけを相手にした。朝鮮人(女性)は許可されなかった。台湾人には制限がなく、台湾人経営の妓楼に263人の(台湾人の)性売女性がいた。年齢は日本人が16歳以上、台湾人には制限がなく、10歳から歌曲を歌い、13・14歳から性売させられた。日本人女性には週一回の検梅があったが、台湾人女性にはなかった。1930年には、日本人女性7人、台湾人女性115人となった。
中国本土では日本政府は廃業・帰国させなかった。日本人男性に必要だったからだ。中国本土の日本人性売女性は増加傾向にあった。1930年代の上海での日本人芸妓・娼妓・酌婦の数は、1932年に1396人、1934年に1795人になった。
日本政府は、東南アジア・香港では廃娼に協力し、中国本土・満洲では存娼につとめた。外に絶娼・内に存娼の政策である。
六 朝鮮・台湾・南樺太・南洋群島の状況
朝鮮
133 朝鮮での性売女性数の1918年から1931年までの推移(表13)によると、その総数は増加傾向にある。
1918年、芸妓・娼妓・酌婦の数は、日本人が4081人、朝鮮人が2831人、外国人が2人、計6914人だった。
1930年末には、それぞれ、4431人、4885人、4人、計9320人で、総数で1918年比1.3倍になり、朝鮮人が増えた。
134 朝鮮の警察統計によれば、3000余人の娼妓の自由廃業は、1925年なし、1926年1人、1928年2人、1929年2人だった。一方同時期の東京での自由廃業数は、1926年6人、1927年10人、1928年14人、1929年19人、1930年28人、1931年75人だった。1931年は国際連盟東洋女性児童取引実地調査団(ジョンソン調査団)が来日した年だった。
朝鮮では、借金をしたうえでそれを踏み倒そうとする前借詐欺と自由廃業とを混同したり、自由廃業しようとする女性を、「借金があるのに稼業をやめるとは何事か」としかりつけたりする警官がいた。(朝鮮総督府警察官講習所教授の増田道義)
台湾
台湾での1919年の芸妓は1344人、娼妓は1375人、酌婦は1113人、計3832人であった。このうち日本人が2666人(芸妓941人、娼妓1189人、酌婦536人)、台湾人は760人(娼妓186人、酌婦574人)、外国人酌婦3人だった。
135 1930年になると、芸妓が1358人、娼妓は1119人、酌婦は1772人で、計4249人であった。このうち日本人が2304人、台湾人が1793人、朝鮮人が129人、外国人(おそらく中国人)が23人だった。
この間に、日本人が減って台湾人が増えたが、その多くは酌婦だった。また朝鮮人が新たに登場した。朝鮮人の登場は1920年の4人から始まる。1930年には娼妓数では、台湾人(119人)より(朝鮮人の方が)多くなった。
娼妓の総数は1913年の1584人がピークで、以後漸減した。台湾人女性は娼妓になりたがらないと言われたが、その最大は1911年の234人だった。
台湾でも嗜好の変化で、遊廓が衰退し、カフェー女給が増え、娼妓が女給を兼ねている場合もあった。(台湾総督府警務局、台湾の警察)また、日本式の貸座敷や娼妓の制度が、台湾人に嫌われ、台湾総督府は、台湾人業者が行う性買売を、貸席・酌婦という形で管理した。
南樺太
南樺太では1920年10月、「芸妓及酌婦取締規則」が制定された。これによると、芸妓置屋と料理屋に抱えられた芸妓・酌婦は許可制とされ、年齢は13歳以上とされ、必要に応じて健康診断を命じることができるとされた。芸妓・酌婦の性売が黙認された。
136 1912年から1941年までの南樺太の芸妓・娼妓・酌婦・女給数の推移(表14)によると、樺太の性売女性は、第一次大戦中に急増した。第一次世界大戦後、南樺太に製紙工場や蟹缶詰工場ができたためだろう。
『樺太庁統計書』1930によれば、1930年末、豊原遊廓には貸座敷が21軒あり、娼妓が121人おり、真岡町遊廓は、12軒・55人だった。『全国遊廓案内』によれば、日本人が8割、朝鮮人が2割だった。大泊遊廓には、1909年、3人の娼妓がいたが、1924年までにいなくなった。『樺太庁統計書』によれば、大泊には遊廓がないが、料理店が115軒あり、芸妓が、210人、酌婦が312人いた。
豊原・真岡・大泊には王子製紙の工場があり、豊原には樺太開発・樺太鉱業・樺太精糖、真岡には、樺太酒精、樺太大同缶詰、大泊には樺太寒天・樺太冷凍などの会社があった。
137 1922年に樺太で朝鮮人性売業者が出現した。1927年、(朝鮮人の)貸座敷3軒、料理屋41軒、娼妓7人、酌婦230人に達した。
娼妓数のピークが1924年で、性売女性数のピークは1929年であった。1934年以降、カフェーなど特殊飲食店と女給が、統計に出てくる。
委任統治領南洋群島
1914年10月、日本は太平洋のドイツ領南洋群島を占領し、軍政を布いた。大戦後そこを日本の委任統治とし、1922年4月、南洋庁を設置した。南洋庁は1924年5月に、芸妓酌婦取締規則を制定した。芸妓・酌婦を許可制とし、許可年齢は16歳以上で、有夫の女性は不許可とされ、定期的な検梅が強制された。(『南洋群島要覧』1927)
公娼=娼妓は認められず、芸妓・酌婦という名目で性買売が公認・隠蔽された。
1927年末の日本人芸妓・酌婦の数は、サイパンで79人、パラオで39人、ヤップで6人、ヤルートで3人、ポナペで2人であり、計129人だった。
1931年には、別の資料によるが、芸妓44人、娼妓300人、計344人だった。
138 1933年には、409人(芸妓72人、酌婦310人、女給27人)に、1937年には、822人(芸妓137人、酌婦480人、女給205人)と増加した。
南洋群島では、日本内地や植民地のような露骨な遊廓はできなかったが、芸妓・酌婦という形で、それと同様な性売制度が出来上がっていった。
コラム4 布施辰治と自由廃業運動
布施辰治1880--は、明治法律学校(後の明治大学)を卒業し、司法官試補(判事・検事になる為に裁判所や検事局に配属された。現在の司法修習生)を経て、弁護士になった。トルストイの影響を受け、社会運動に関わるようになり、第一次世界大戦後、廓清会の評議員になり、自由廃業運動に関わった。以下は布施の廃娼論である。
公娼制を廃止し、人身売買を禁絶するためには、被害者自身が自由廃業を決行することが一番力強く、相手を戦慄せしめる。(「自由廃業の実際問題」『廓清』1928.6)
自由廃業とは、娼妓だけでなく、芸妓、酌婦、密淫売婦など、金で貞操を切り売りする醜業を強制されている者が、いやだと思うときに自由に廃業できることである。(「誰でもできる自由廃業の戦術と法律」1~10『廓清』1925.10--1926.9)
自由廃業を保障する法律として、1872年の芸娼妓解放令と司法省布達第22号、民法第628条(雇用契約の解除)・第90条(公序良俗違反)・第708条(不当利得)などがあり、金権に頭を下げている連中に、人権自由の旗を翻すのが自由廃業であり、借金踏み倒しと混同してはいけない。自由廃業は、立派な法律上の権利であると同時に、人道上の権利である。
139 自由廃業は警察に届け出ればすぐに受け付けられるような生易しいものではない。
第一に、自由廃業を望むものは、性売から絶対に足を洗う決心がなければならい。
第二に、直ちに正業につかないと失敗する。
第三に、死んでも性売に後戻りしないという決心が必要だ。そうでないと業者から詐欺として訴えられる。
第四に、詐欺などの容疑で警察に拘留されることぐらいの覚悟がなければ失敗する。
第五に、前借金未済で財産の差し押さえを受けても辛抱しなければならない。差し押さえに来た時、民事訴訟法第618条の権利を主張して、日常品の差し押さえを拒めば、日常生活に直ちに困ることはない。保証人に対する差し押さえでは、保証人の叔父さん叔母さんに泣かれて陥落することも少なくないが、泣き脅しにかかってもくじけない決心が必要だ。
第六に、遊廓で事実上前借金に相当する稼ぎをすでにしている場合は、計算書を請求することだ。足りない場合も、払いたいがお金がないと言えばいい。
第七に、世間体が悪いという見栄を捨てねばならない。まわりからなんだかんだ言われても、自由廃業は、誤った奴隷制度の破壊になると思って、耐えねばならない。
娼妓には外出の自由がないが、廃業のために警察に行くことは処罰されないので、隙を見つけて逃げ出すこと、逃げ出せなかったら大声を出せばよい。どうしても出頭できない場合は、できない理由を書いて郵送すればよい。届け出ても、それが本人の自由意志ではないと警察が言えば、検事局に告訴すればいい。自由廃業ではなく住み替えを勧められたら、詐欺で訴えられることになるので、新しい証書に判を押してはいけない。
140 最もいい方法は結婚の届け出をすることだ。
布施は、公娼制が女性の自由を束縛する制度だからいけないとする自由主義一点張りの運動に反対し、人生男女貞潔の理想から、性買売の廃絶を目指した。(「公娼廃止運動と無産階級の危機」『廓清』1927.1)
第Ⅴ章 大恐慌・満州事変下の買春帝国 1931年~1937年
143 1929年の大恐慌の影響が深刻になり始めた1930年以降、国内の貸座敷は減り続けた。娼妓も1930年の5万2111人をピークに減少傾向になった。1931年、大阪の松島遊郭で娼妓がストライキを起こし、1931年から1932年にかけて、佐賀の武雄遊廓の娼妓もストライキ起こした。
貸座敷の買春男性も1930年、218万7730人と落ち込んだが、その後大恐慌下でも増え続けた。高橋財政による、円切り下げ、軍事費増加による、輸出関連産業と軍需関連産業が発展し、都市部で景気が良くなり、さらに買春男性数が増加した。
芸妓は1934年まで減り続け、1935年から増加に転じた。酌婦は、1932年以降ほぼ一定しており、カフェー・バーの女給は、1932年以降、他の業種の中で最多であり、1936年まで増え続け、1937年から減少した。
女給がすべて性売女性とは限らなかった。性売女性の数は1937年まで増加し続けた。この間、娼妓の数は減るが、買春男性数が増えたので、娼妓の負担は増加した。
1930年、日本国内の貸座敷数は1万861軒で、娼妓の数は5万2111人で、それが1934年には、それぞれ9738軒、4万5705人に減った。貸座敷の遊客数は1936年2806万3451人で、1938年には、3348万6192人となり、これがピークだった。
144 同じ時期に芸妓数は1930年の8万75人から、1936年の7万8693人に減り、酌婦は、7万5535人から8万5685人に増え、カフェー・バーの女給数は、6万6840人から11万1700人に増えた。
表15 国内の芸妓・娼妓・酌婦・女給・貸座敷業者・貸座敷遊客の1929年から1939年までの推移。内務省警保局『警察統計報告』各年版より作成。
一 国際連盟調査団の調査と勧告
調査の開始
1931年、国際連盟の東洋女性児童取引実態調査団(ジョンソン調査団)が、アジアでの調査を始めた。国際連盟は、ロックフェラー財団の資金援助を受け、南米・中米・北米とヨーロッパの調査を終了していたが、再び同財団の資金援助を受け、1931年、バンコク、インドシナ、香港、マカオ、マニラ、中国(広州、汕頭、上海、南京、芝罘、天津、北京)、満洲(奉天、ハルビン、大連)、朝鮮(ソウル)、日本(東京、横浜、大阪、神戸、長崎)の調査を行った。台湾の調査は行われなかった。
145 帰路、ジャワ、シンガポール、マレー、インド(カルカッタ、マドラス、ボンベイ、カラチ)、コロンボ、イラン(ブーシェル、テヘラン)、バグダッド、ダマスカス、ベイルート、パレスチナ(エルサレム、ハイファ)の調査を行った。
調査団のメンバーは、アメリカ社会衛生協会のバスコム・ジョンソン、ポーランド外交官のカロル・ピンドール、スウェーデンで廃娼運動を行った女性医師・アルマ・ズンドキストの三人であった。いずれも全国的な公娼制度がないか、廃止した国の出身者である。
日本帝国では5月29日から7月12日にかけて調査が行われた。調査は原則として国際取引に限られ、性買売業者やひも(擯夫、ぴんぷ)への聞き取りは行わなかった。
日本側は「関東州では国際的女性取引はない」としたが、調査団は、「国際的女性取引の有無を調査したのか、取締りをする意欲があるのか」と疑惑を持った。また、日本のハルビン領事が「満洲にいる日本人性売女性は独立した営業者だ」としたことに対して、調査団は、「契約は業者と親とがするのであり、これは強制された性買売ではないか」と質した。
また朝鮮総督府が「満洲で性売している朝鮮人女性がいるが、それは農業目的で渡航したのであり、国際的女性取引ではない」としたが、調査団は、「国際的取引を黙認している」と判断した。また調査団は、公認の周旋業者が、朝鮮だけでなく国外の娼家をも女性に紹介することを、総督府が認めているのを知り、総督府にこのような行為を取り締まる意図がないと確認した。
146 また調査団は以下のことを確認した。つまり、日本では、芸妓(singing girl) という名目であれば、性売女性が中国に渡航することを禁止されていないこと、内務省は、親のために行う性売は、強制ではなく、自由意志であると考えていること、また内務省は、娼妓稼業契約と消費貸借契約が別であるから(「同じだから」の間違いでは)、性売女性が負っている違法な前借金は、有効であると判断していること、そして、性売女性の紹介斡旋をする業者が合法とされていることも確認した。
1932年7月31日、調査団は、「大々的な東洋での婦人及児童売買実地調査――日本に関する報告」を日本政府に内示した。そこで指摘された問題点は次の通りである。
①芸娼妓になる者に紹介する専門業者が公認されていること。朝鮮・台湾では芸娼妓の紹介が、一般の職業紹介業者にも公認されていること。
②他人の性買売による収入で生活する擯夫(ひも)を処罰する法律が日本にはない。
③貸座敷業者は、本人とではなく、娼妓の両親と、前借金契約を結ぶ。
④自由廃業に関して 女性が娼妓名簿からの削除を申請したとき、警察が、業者と本人や親と協議させ、圧迫すること。それでは契約期間満了または前借金完済まで廃業できない恐れが生ずる。
⑤救世軍によれば、助けを求めてきた芸妓の大多数は、(未成年の時に)雇い主に性買売を強要されたために逃亡したのであり、またその芸妓は成年に達すると、性売女性にされる、とのことである。
これに対する日本政府の反論。
①紹介業者は単に就職口の存在を告知するだけである。娼妓稼業を勧誘することは非合法であり、処罰される。
②擯夫(ひも)を処罰する法令はないが、刑法や警察犯処罰令で制裁できる。
③契約の当事者は、親ではなく、娼妓本人である。
④警察が、業者と本人や親と協議させたことは、かつてはあったが、今は減少している。
⑤この指摘は、芸妓を私娼と見なしているようだ。芸妓は英語に翻訳すれば、アティースト(artiste)であり、私娼ではない。また幼年者を姦淫することは、刑法の準強姦罪で罰せられる。(国際連盟婦人児童売買調査委員の日本に関する報告書に対する帝国政府意見書)
147 ④について、警視庁は、1931年6月30日、「娼妓名簿削除申請取扱方に関する件」という通牒で、「従来娼妓から娼妓名簿削除の申請があった時には、前借金をめぐる紛議に警察が介入し、前借金問題が解決してから削除していたが、これは娼妓取締規則の規定に反しているので、今後は遅滞なく名簿の削除を行うよう指示した。しかし、申請が本人の真意に基づくのか、詐欺などの犯罪を構成するのかを確認し、その上で削除するように、という条件を付けていたので、従来とあまり変わらなかった。
調査団は日本政府の反論を受けて、1933年に報告書を公表した。それはアジア全体に関する報告書だった。その結果、①は残り、さらに「周旋業者は農家の娘を騙して海外に移送する」と付け加えられた。④、⑤も残った。②③は削除された。
調査団の勧告
148 調査団は、アジア全体に対する勧告として、国際的人身取引をなくすためには、公認妓楼を廃止しなければならないとし、行政当局と被害者救済民間団体との協力を提案した。(“Summary of the Report to the Council,” 1934 「ジョンソン報告書要綱」『廓清』1933.4)
1933年4月、国際連盟女性児童諮問委員会第12回女性取引委員会は、この報告書を討議したが、その時日本代表は次のような主張をした。
「日本は外国人を娼妓にしていない。貸座敷が国内にあるから、日本女性は外国に行く必要がない。日本の公娼制度は、国際的女性取引を助長したり、それを取締りしずらくしたりしていない。日本はすでに公娼制廃止の準備をしていて、またすでに廃止した地方もある、と反論した。
1934年、日本は、公娼制度維持国に対する女性取引委員会の廃止勧告を理事会に依頼する決議に賛成した。
しかし、日本は、芸娼妓酌婦等周旋業*を廃止するつもりはなかった。*女衒、判人、桂庵など。
紹介業者の問題
149 明治維新後、各府県が紹介業の取締規則を制定し、日本政府はそれに直接タッチしなかった。
1872年、東京府は、男女雇人請宿渡世規則を制定し、口入(くちいれ)・紹介を許可制とし、世話料を、給金の5%、雇主・雇人の双方から半分ずつ受け取ることとした。
他の府県も同様で、芸妓・娼妓の紹介は、他の雇人の紹介と区別がなかった。また、請宿主は、紹介先の雇主に、紹介された者の行為に責任を負わされた。
1878年、警視本署(警視庁の前身)は、上記規則を改正し、世話料を給金の10%、紹介業開設の条件として、100円以上の不動産を持つ身元引受人を必要とした。これは、1891年、雇人口入営業取締規則と改称された。これは警察庁警察令だった。これによって、紹介される者の身元に関する責任が免除された。
1903年、警視庁令改正規則が公布された。営業者は、東京市内では、200円以上の不動産を持つことが条件とされ、郡部では100円以上とされた。東京府は娼妓の周旋を公認しておらず、この規則の範囲外だった。
1905年、警視庁は芸娼妓口入営業取締を公布した。娼妓を含めて性売女性紹介業者を公認し、他の雇人紹介との兼業を禁止した。
1905年、岐阜県は、口入営業及職工募集規則を制定し、芸妓・娼妓・酌婦・仲居の紹介周旋(第一号)と、下男下女などの僕婢、乳母、子守などの雇人=紹介周旋および職工・徒弟などの紹介周旋(第二号)との兼営を禁止した。
150 1902年、栃木県は、紹介営業取締規則を制定したが、上記のような兼営を禁止しなかった。
1917年、警視庁は、紹介営業取締規則を制定し、芸娼妓酌婦の紹介(第一号)と依子(身元引受人である寄親の奉公人)の紹介(第四号)を、事務員、船舶乗組員、店員、僕婢などの紹介(第二号)や、職工、徒弟、労働者の紹介(第三号)との兼業を禁止した。この規則で酌婦の紹介が新たにできるようになった。
1919年9月、和歌山県は紹介営業取締規則(県令)を公布し、芸妓・娼妓・酌婦・徒弟・僕婢・乳母などの雇人=紹介業と養育児紹介業は、一般の営利職業紹介業と区別され、警察の営業許可を取る必要があり、紹介手数料も許可制だった。
1921年に制定された岩手県の紹介業取締規則も和歌山県のそれと同様だったが、紹介手数料の許可制はなかった。
1925年12月、内務省が営利職業紹介事業取締規則(省令)を出し、全国的に統一した。職業紹介業者は、芸妓・娼妓・酌婦の周旋営業をしてはならないとされ、職業紹介業と芸娼妓酌婦紹介業とを区別し、芸娼妓酌婦紹介業は、職業紹介業ではないとした。しかし、芸娼妓酌婦紹介業者は、警察に公認されていた。
1938年、職業紹介法が改正され、職業紹介事業をすべて禁止したが、厚生省は、「芸妓・酌婦その他これに類するもの」の紹介事業は、この法に適用しないとし、芸娼妓酌婦等の紹介事業は、相変わらず認められることになった。
151 政府は芸娼妓酌婦を必要だと考えていた。日中戦争がはじまり、日本軍は中国で大規模な軍慰安婦制度を作り始めていた。
芸娼妓酌婦等の紹介業者数は、東京府で241人1922で、就業した芸妓2861人、娼妓1319人、酌婦1099人だった。紹介業者は契約に立ち合い、法令に違反しないように、「前借金を娼妓稼業で返済する」などと公正証書に書かせず、金銭消費貸借契約だけにし、私署証書に、「娼妓稼業で返済する」と書かせた。
娼妓の紹介に限って、警察署に、紹介顛末書を提出しなければならなかった。芸娼妓が逃亡したり、前借金を返さないで廃業したりした場合、捜索や、債務の督促は、慣習的に紹介業者が負っていた。
大阪市での1918年の紹介数は、芸妓738人、娼妓5047人、酌婦1180人だった。東京では芸妓が多く、大阪では娼妓が多かった。その理由は大阪が、内地から植民地や勢力圏に女性を送る拠点になっていたからかもしれない。
名古屋では、芸妓2634人、娼妓1389人、酌婦4023人であり、酌婦が最大だった。
152 紹介業者は、性売業者と女性を仲介し、契約に立ち会い、娼妓の住み替え、廃業、事故に際して折衝に当たった。
芸娼妓酌婦等紹介業者数は、1935年、全国で6786人、最大は福岡の462人だった。警察はこの女衒を公認した。
1912年、朝鮮の全羅南道警務部は、諸営業取締規則を制定したが、他のいくつかの道も、各種営業とともに、紹介業・雇人口入業を公認した。
1913年、慶尚北道警務部は、周旋営業取締規則を出し、芸妓・仲居・酌婦・僕婢・職工等の稼業・就職を斡旋する業を、周旋営業として、業務の種類を指定し、許可制にし、手数料・宿泊料も許可制にした。
第一次大戦後、朝鮮の各道が取締規則を制定した。1922年、京畿道は、紹介営業取締規則を出し、芸妓・娼妓・酌婦の紹介、雇用者の紹介、求婚者の紹介、土地家屋の売買・賃貸の紹介などを警察の許可制とし、手数料も許可制にした。紹介種目の兼業を禁止しなかった。料理屋・芸妓置屋・貸座敷など性売業との兼業も禁止しなかった。
1922年9月、慶尚南道は紹介営業取締規則を制定し、人事一般と、動産・不動産の買売・賃貸に関する紹介周旋をする者を紹介業者とし、警察署長の許可制としたが、兼業禁止規定はなかった。
平安南道だけが兼業を禁止した。全羅北道は300円以上の不動産を所持することを営業の条件としたが、他の道にはこの規定がなかった。また新聞では人の紹介業を人事紹介所と呼んでいた。
153 1915年、台湾総督府は、周旋営業取締規則(総督府令)を出し、各庁長が周旋営業を許可し、芸妓・娼妓・酌婦・仲居などの周旋(第一種)と、職工・徒弟・海員・褓乳母(ほううば)・僕婢などの労務者の周旋(第二種)との兼業を禁止した。第一種の営業者は身元保証金300円を納めなければならなかった。周旋料は一人10円以内とされたが、これ以外に汽車・汽船・馬車などの運賃と宿泊料を受け取ることができるとされた。
1920年、関東州は紹介営業取締規則を制定し、芸妓・娼妓・酌婦・仲居などの紹介周旋(第一種)と、職工・徒弟・海員・乳母・僕婢などの労務者の紹介斡旋(第二種)との兼業を禁止した。警察官署が定める保証金を(警察官署に)納めなければならなかった。
1931年、樺太は雇人口入営業取締規則を廃止し、周旋営業取締規則を制定した。料金を得て職業紹介や雇用周旋する者は、警察署の許可を必要とした。芸妓・娼妓・酌婦・労務者を濫りに勧誘してはならないとされたが、これはこっそりやればいいということだったようだ。また兼業禁止規定はなかった。
1937年、満洲国は紹介業取締規則を出した。芸妓・酌婦・仲居・女給・舞踏手の紹介周旋(第一号)と、職工・徒弟・僕婢・褓乳母・海員などの労務者の紹介周旋(第二号)、結婚紹介(第三号)の各号を定め、これら各号を跨った紹介を禁止した。手数料は警察の許可を要した。
以上植民地での紹介周旋規則は、日本内地よりもゆるかった。朝鮮と樺太が特に緩かった。
154 1930年末、在朝鮮日本人娼妓1798人中、1536人が周旋業者の手を経て性買売させられていたが、朝鮮人娼妓1372人中、958人が周旋業者の手を経て性買売させられていた。(それ以外は、どうしていたのか。)
警視庁警視の桑原栄次郎は、日本内地の紹介業者について次のように語った。
往々人を誑惑(きょうわく)し、或いは誘惑して、依頼人の意思に反するところに周旋し、或いは、雇主に対して不良の輩を口入し、甚だしい場合には、妙齢の婦女を海外又は遊廓に誘拐し、或いは強いて醜業を営ましめるなど、その弊害は数えられないくらいだ。
同様の誘拐・略取を、朝鮮の紹介業者もやっていた。総督府は人身売買を不問にしていた。「朝鮮人の若い女性は、ちょっと失敗すると、人事紹介所の魔手にかかり、全生涯をだめにすることが多い」と『毎日新報』1939.12.3は報じた。
1931年、長春の領事館は、芸妓・酌婦等紹介業者を4人を把握していた。そのうちの徳島県出身の森岡伝八は、吉林・ハルビンの領事館警察に巡査として勤務し、その後、芸妓・娼婦紹介業者に転身した。また、青森県出身の安部末吉は、俳優紹介業だった。俳優とは中国人娼妓である。彼の前歴は、小学校の教員、関東庁巡査であり、モルヒネ、コカインを扱って免職となっていた。
ハルビンには朝鮮人周旋業者が二人いた。在上海の茶販売業の勝崎鍬吉は、芸娼妓周旋取扱許可を受けていた。香港には、3人の紹介業者がいて、そのうちの国井かじは、表向きは飲食店経営だが、朝鮮人酌婦を、朝鮮や上海から呼び寄せて性買売をさせていた。
擯夫の処罰問題と成年女性取引禁止条約
155 1931年4月、国際連盟婦人児童取引委員会は、「醜業婦の収益に依り生活する者の処罰に関する協約草案」を、1921年条約の追加議定書としてつくった。1932年4月7日、内務省はこれに同意するように、外務省に回答したが、擯夫(女性も含む)の強制的移住・地方的放逐、犯人の所在移転などの、特別行政処分・保安処分を付加するかどうかの自由を留保するという条件をつけた。しかし、結局、この留保条件は実現しなかった。(日本の内務省の希望が実現しなかったということか。論旨不明。)
1933年10月11日、成年女性取引禁止に関する国際条約が調印された。これは、「他人の情欲を満足させるために、他国での性買売を目的として、成年の女性を勧誘・誘引・拐去した者は、女性の承諾を得たとしても、処罰されなければならない」とした。そして植民地等を除外する場合は、宣言しなければならなかった。この条約は1934年8月24日から効力を発生した。
1934年3月9日、河田烈拓務次官は、外務省からの問い合わせに対して、「この条約を植民地等に適用することに異存がない、1904年協定・1910年条約・1921年条約を植民地等に適用することにも異存がない」と回答した。ところが、3月12日、皆川治広司法次官は、「この条約の第一条が規定する犯罪の予備罪に関して、植民地も外国と見なされるから、植民地相互間や植民地と内地間の犯罪の予備的行為を処罰する必要が生じる、しかし、そのように国内法を改正することは困難だ。それ以外の点は異存がない」と回答した。3月30日、内務次官は「意見がない」と回答した。結局、外務省は、司法省の意見を採用して、この条約の署名をしなかった。
156 この条約を批准していれば、日本から軍慰安婦を送り出せなかっただろう。また植民地を除外するという宣言を撤回していたら、朝鮮・台湾・中国から慰安婦を送り出すことは難しかっただろう。しかし、現実はそうならなかった。
二 国際連盟調査団の勧告に対する反応
売笑問題対策協議会の反応
1932年、吉原遊廓の有力者たちが(廃娼派の)星島二郎代議士に「公娼を私娼に転換したい」という交渉が、新聞で報じられた。
「近年の不況と新時代の遊興機関の続出に押され、どの妓楼も客足が非常に少なく、また公娼は税負担が重く、娼妓の自由廃業は、合法非合法を問わず頻発している。廃娼運動に対抗するための廃娼防止運動費だけでも、年々数万円要する。伝統を抱いて誇りとしていた吉原も、ホトホト疲れ果て、同三業組合有志は遂に、公娼廃止運動の闘士星島二郎代議士と協議し、目下その具体案について考究中である。」(『東京朝日新聞』1932.6.29)
157 伊藤秀吉・廓清会常務理事は、「この動きは、私娼黙認への転換に過ぎず、絶娼主義とは異なる。しかし、微動だにしなかった鉄壁の公娼制度が一大転換しつつある」と評価した。
1933年3月、国際連盟の勧告が公表され、東京市社会局の壷井弘の斡旋で、廃娼派と存娼派とが協議する売笑問題対策協議会ができ、1934年3月まで、10回会合を開いた。廃娼派からは星島二郎代議士、松宮弥平廃娼連盟理事長らが参加し、存娼派からは、新吉原・品川・洲崎・新宿・千住の遊廓組合代表と川島正次郎代議士らが参加した。(売笑問題対策協議会議事要録)
星島代議士は、「帝国議会に廃娼案を出しても通過する見込みがなかったので、提案を見合わせてきたが、業者と直接話し合って実現可能な廃娼案を作ろう」とした。星島の提案は、「絶娼ではなく、法律で公娼が認められている現実をやめる」というものであった。そして、松宮弥平廃娼連盟理事長は、「遊廓を、性買売を公然とは行わない風紀営業地区に替える」案や、「群馬県や埼玉県が施行しているような、貸座敷を乙種料理店にかえる」案や、「貸座敷の名称を残すが、娼妓を酌婦や雇婦と言い換える」案の三案を提案した。星島代議士は、群馬・埼玉方式を推奨した。
存娼派の川島代議士は「業者の営業が正当な営業であると法律で認められなくなるのは困る」とし、新吉原三業組合の市川伊三郎取締は、「安心して営業を続けられる方法の考案」を要求した。
同組合の斎藤直一副頭取は「警察が黙認するというだけでは、私娼地区の玉ノ井と変わらなくなる。自分たちは正業と思い、紳士として、相当の資材を投じてきた。」
158 林信夫警視庁保安部長は第五回協議会で「仮に吉原が風紀地区に指定されたとした場合、法令上はいつでも取り締まれるが、行政上=実際は一切干渉しない=取り締まらないということで同意できる」とした。これに対して新吉原三業組合の市川取締は、「それではいつ取り締まられるか分からないという不安がある」とした。
結局成案は、「娼妓取締規則を廃止する。貸座敷指定地での性買売を公認し、娼妓を乙種芸妓に変える。警察犯処罰令を改正し、指定地では罰則を適用しない。行政執行法を改正し、指定地では、日没後から日の出まで、臨検をしない。法令にある『密淫売』を『淫売』に変える。」というものだった。(日本的な表面だけの対応。)
警察犯処罰令の改正は、存娼派の川島代議士の提案であり、貸座敷という名称を残し、娼妓を乙種芸妓にするというのは、新吉原三業組合の市川取締の提案だった。
この案に対して、内務省警保局の増田甲子七(かねしち)事務官は、「現行制度より根拠法が多く、複雑多岐になり、公娼制度をこれまで以上に確立するもので、とうてい容認できない」と一蹴し、「『乙種芸妓は事実上娼妓と同じではないか』というジョンソン調査団長の質問に対して、『芸妓は技芸をもって、営業するものであり、売淫行為はしていない』と明確に答弁したのだから、娼妓を乙種芸妓と改称すると、国際的に窮地に陥り、容認できない」とし、「内務省としては、娼妓の禁止は到底実行できないとしても、公許は望ましくないので、『容認』という形式にしたい」と述べた。そして「『娼家娼婦』存在の根拠を法規から撤廃し、内務省から『従来の貸座敷指定地に限り、売淫の検挙を行わない』という通牒を各府県に出す方法もある」とした。
内務省の担当者はこの腹案に関して「よくこれで廃娼運動をやっている人たちが、承知したものですね。これではまるで公娼廃止になっていないではありませんか。」と言ったとのこと。
159 売笑問題対策協議会は、遊廓存続を法規に求めることをあきらめ、行政上の措置=お目こぼしで営業を保証するしかないと判断し、さらに東京府貸座敷連合会の意見を聞き、一案をまとめた。それは、
「これまでの遊廓と同様の風紀地区を設け、既存の私娼地区もその中に入れ、営業内容は現状のままとし、前借金はそのまま継承し、抱婦(娼妓)は、16歳以上とする」
となった。年齢を下げた理由は、芸妓・酌婦・女給等は明らかに性売をしているのに年齢制限がないか、低いので、18歳未満の者は公娼にならず、私娼になってしまうからというものだった。
これに対して警視庁の林保安部長は、「娼妓は、雇い入れにあたり、一片の届書ですむ雇婦としたい。風紀地区の地域拡張は困難だが、営業に関しては、あるがままの姿で転向できるように苦心しているので、当局を信頼してもらいたい。年齢低下には同意できないが、実際問題として、表面上、性買売をしない営業に転向すれば、年齢制限がなくなるので差し支えないのではないか」とした。(慣れ合い。実質上悪くなり、表面上「公娼制度」をなくすというものだった。)
この成案に対して、業者側は、「今後業者の了解をもらわねばならない」とし、松宮廃娼連盟理事長は、「今後一切の売淫を認めない建前になるから一大変革だ」と歓迎した。
この成案が出る前に救世軍の山室軍平は「看板の書き換えではなく、前借金=身代金と、貸座敷業者=奴隷売買業者を禁止することを願う」と述べていた。1934.1
廓清会の安部磯雄・社会民衆党代議士は、「妥協も必要だ」と歓迎したが、「公娼制度は奴隷制度であり、一日も早く撤廃するために、前借金制度だけはやめてもらう必要がある」1934.7とした。
貸座敷業者と帝国議会
160 1934年以降マスメディアが廃娼時期切迫としきりに報じたので、貸座敷業者は危機感を持ち、1935年2月、2000人を集め、全国臨時大会を開催し、気勢を上げた。その全国貸座敷連合会臨時大会記録によれば、
昨年来業界は四囲の情勢頗る悪化し、流言蜚語盛んに行われ、新聞・ラジオは頻々として廃娼の時期切迫を伝え、ために一部業界には多少動揺の兆しあり。殊に東北地方においては、山形県における当局の業者弾圧に次いで、青森県の強制転向あり、岩手県業界の一画また突如として崩潰し、形勢日を追って険悪を加え、事態実に容易ならざるものあるに至った。
1934年7月、山形県は娼妓の新規登録を認めなくなり、青森県では、貸座敷業者が18歳未満の少女に性売をさせていたことが判明し、取締りを受け、やがて全県で廃娼に追い込まれた。岩手県では二戸・岩谷堂の組合が廃業し、私娼営業に転じていた。
1935年2月17日、市川伊三郎・新吉原三業組合取締は、全国支部長代表者会議で、売笑問題対策協議会156が解散した後の状況を説明した。
「公娼の公の字を削るなら、それに見合う代償を考慮するように、また、娼妓の稼業年限を最長6年にするように、警視庁の林保安部長申し入れた。内務省との折衝では、松本学警保局長以下事務官が絶娼論者なので、見解に大きな開きがあった。」などと説明した。
161 1935年2月18・19日、臨時大会が開かれた。参加した業者は、開会前にそろって明治神宮を参拝し、大会では宮城を遥拝し、国歌「君が代」を二唱した後で議事に入り、閉会では、天皇皇后に対して万歳を三唱した。大会では公娼制度固守を決議した。その論拠は以下の通りである。
「公娼を廃し、私娼を黙認すれば、私娼が増え、性病が広がる。」(決議)「公娼制度は日本の国体に合っている。廃娼論は外国の直訳だ。」(木野正俊副会長、大阪三業組合取締)「廃娼すれば、全国に50万余の失業者が出る。」(浅井幸三郎会長、品川三業組合取締)
大会には、52人の帝国議会議員が来賓として出席した。まず、政友会議員の発言は、以下の通りである。
安藤正純は、自己の選挙区内に新吉原があるが、「人間がいる限り売笑はなくならない」とした。
高橋熊次(山形)は「若い男女の貞操観念を確立するには、公娼制度を存置し、それを完璧なものにすることが必要だ」とした。
板野友蔵(大阪)は「性買売の制度として日本の公娼制度に優るものはない」とした。
三上英雄(東京)は「公娼は種族保全に最も大切な仕事」とした。
162 松木弘(新潟)は「公娼制度は風紀の維持、保健衛生から必要で、それがない欧米では姦通・私通・淫売の百鬼夜行となっている」とした。
中井一夫(兵庫)は、「本当の籠の鳥状態に置かれているのは公娼ではなく私娼だ」とした。
川島正次郎(政友会、元東京市商工課長、千葉一区)114, 117, 157 は「公娼制度を廃止することは、世論の無視、立憲政治の破壊だ」と述べた。
船田中(栃木)は、「義理と人情という国民道徳は、遊廓の中に現れており、これを維持しなければならない」とした。
森田政義(大阪)は、「時には遊郭で鬱憤を晴らすから、社会が繁盛するのであり、売春婦が増えるときに、日本国家は栄える」とした。
大野伴睦(岐阜、1890--1964)は「既に衆議院の院議で公娼を存置すべきだと決しているので、廃止できるものではないが、油断は大敵だ」とした。
民政党の議員も同様だった。
荒木五郎(広島・日大理事)「生殖欲は抑えることができない。大和民族が発展したのは、ひとつには公娼制度のおかげだ」
前田房之介(兵庫)「風紀を維持し、家族制度を守るために、公娼制度は、社会上必要欠くべからざる伝統的な制度だ」
土屋清三郎(千葉)「公娼制度を廃止したら、貧しい娘は私娼窟に行くことになる。公娼維持は、政府として最も親切な態度だ」
一松(ひとつまつ)貞吉(大阪・検事出身)「公娼制度は、性問題の解決、保健衛生、社会秩序維持のための間然する(=欠点を批判する)所なき良制度」
貴族院議員
宮田光雄(研究会・元警視総監)「公娼制度は社会の安全弁」「ただし、娼妓の待遇改善が必要だ」
大会は「公娼制度存置に関する請願」を貴衆両院に提出すると決議し、2月22日、帝国議会に提出した。また、山形、福島、岩手、宮城の業者は、「貸座敷営業者取扱に関する請願」を提出した。
163 「公娼制度存置に関する請願」は、社会風紀維持と性病予防のため、公娼制度が存置されるべきことを請願するというものだった。貴族院では審議未了となったが、衆議院請願委員会で、3月1日審議され、採択された。
「貸座敷営業者取扱に関する請願」の内容は、「東北4県で警察から業者に圧迫があったが、今後そのような圧迫をしないように、地方庁に通牒してもらいたい」というもので、13日に委員会で採択された。
これら請願の審議の過程で、次のような問題が浮かび上がった。存娼派議員はこう言う。
「公娼制度は、性病予防のためだけでなく、有夫の婦や良家の処女が犯されたり、貞操を汚されたりすることを防ぐ、良風美俗を守る機関である」(大石倫治・政友会・宮城)
「非公認の私娼は、囚われた囚徒であり、強姦を強いられている者だが、公認の娼妓はよく保護されている」(土屋清三郎)
「公娼制度は一家離散を免れ、親兄弟の病難を減らし、沈淪した一家を更生させ、兄弟等を修業の道につかせるという美しい点もある」(岡田伊太郎・北海道・政友会)
彼らは、娼妓にされる女性の立場について思いを馳せることがなかった。
東北4県で廃娼が進んだが、それは警察の圧力によるよりも、大恐慌による東北経済の不振による。1934年、東北の冷害による少女の身売りが問題となり、青年団、廃娼連盟、村役場、警察などが少女の身売りを防ごうとした。
唐沢俊樹警保局長は、この点に関して次のように述べた。
164 「東北地方は災害の程度がひどく、疲弊困憊していた。一家を救うために、身を売り・売らせられる子女が増加した。これに対して、社会問題として、人道問題として、官庁や民間の有志から救済の運動が起きた。年若き、又世の中の経験が浅い者たちが、公娼ということの実体を知らずに、唯身を売りさえすれば相当纏まった金が手に入って、そうして親兄弟を救うことができるというような純真な考えから、身を売るということが果たして如何なることであるかということも知らずに、苦界に身を沈めるというような場合が少なくないということである。」(「第67帝国議会衆議院請願委員会会議録」第9回、1935.3.1)
警察が娼妓稼ぎに入らないように指導し、東北や長崎で廃娼が進んだ。貸座敷が料理店に、娼妓が酌婦に改称され、性病検査も継続され、実質は変わらないということが明らかになった。性買売が公認されるという法的保障がなくなるので、全国の貸座敷業者は、この転換を恐れた。
娼妓取締法案の提案者は、94人の衆議院議員だった。佐藤庄太郎(政友会・福島)、高橋熊次郎(政友会・山形)、川島正次郎(政友会・千葉)など94人である。委員会の賛成議員は260人で、過半数だった。議員定数は466だった。
全国貸座敷連合会の記録によれば、提案者数は95人、賛成の署名をした議員数が155人で、合計250人となる。内訳は、政友会が170人、民政党が55人、国民同盟が18人、第一控室が7人だった。
165 国民同盟の由谷義治や、第一控室の朴春琴・松谷与二郎らも提案者となっていた。
法案は、娼妓取締規則から罰則規定を除外して作られた。法案化の意図は、内務省令を法律に格上げし、公娼制度を内務省だけでは廃止できないようにするためだった。
廃娼派の松山常次郎は「イギリスでは性売を禁止せず、罰則もなく、ただ場所の提供と周旋など、性売にいたる道程を禁じている」と述べたが、存娼派は、非公認の性売女性を取り締まれと主張した。(女性には罪がないということを理解していない。)存娼派にも廃娼派にも、性買する男性を処罰するという発想はなかった。
娼妓取締法案は1935年3月25日、委員会で可決された。会期切れで、本会議では審議されなかった。娼妓営業公認に関する建議案は、娼妓取締法案と重なるが、これは審議未了となった。
衆議院では、存娼派が圧倒的だった。
内務省の廃娼案
1935年9月、内務省は「公娼制度対策」を出した。これは公娼制度を廃止するという内容だった。
1930年末から1934年末までの間で、貸座敷業者は1万861人から9738人に減少し、娼妓も、5万2117人から4万5705人に減った。一方遊客は2182万7730人から2596万5934人に増加した。私娼は1万2181人から2万2354人に増えた。芸妓は、8万75人から7万2538人に減少した。酌婦は7万6786人から8万5121人に増え、女給は6万6840人から10万7481人に増えた。ダンサーは、1933年現在で1531人いた。
166 公娼制は後退したが、買春は増加し、買春男性の好みは、遊廓から、料理店・カフェー・ダンスホールなどを介しての買春に変化している。
1933年、娼妓取締規則が改正され、娼妓の外出が自由になった。
1930年、埼玉県が廃娼を実施し、1933年、秋田県が、1934年、長崎県と青森県が廃娼を実施した。これらの県では、貸座敷業者は料理店に転業し、娼妓は廃業するか酌婦になった。酌婦は定期的な性病検査を受けた。
秋田県では110人の娼妓中、78人が酌婦として残り、他は女中などになった。長崎県は、新たに料理屋飲食店営業取締規則を制定し、週1回以上の性病検査を義務づけた。これは公認の公娼制から黙認の私娼制への転換であり、いつ摘発されるか分からなくなった。
警保局は公娼制廃止の方針をたてた。公娼制の廃止理由は次の通りである。
第一、公娼制度は、一夫一婦制の夫婦の健全なる協同生活の原則に反している。
第二、公娼制度は、人道に反している。娼妓は指定地内に居住を強いられ、進退・生活は、楼主の監視下に置かれ、遊客選択の自由もなく、不健康でも(病気をしていても)稼業を強いられ、利益の大部分は楼主の取得となり、その地位は、奴隷よりも劣ると称すべく、奴隷よりも陰惨なりと称せざるべからざるものだ。事実上奴隷にも等しき娼妓の存在を公認することは、人倫に反する。
第三、公娼制度は、国家が性買売を公許したために、金銭で合法的に貞操を買えるという観念を男子に与え、一国風紀を紊乱させている。
第四、公娼制度は事実上人身売買を助長する。前借金契約は合法とされているので、娼妓は身代金により、一定期間、身体の自由を奪われた奴隷と称するほかない。
第五、ジョンソン報告書などが指摘するように、公娼制度は人身売買を促進しており、女性児童取引禁止諸条約の趣旨に反する。
第六、公娼制度に伴う欠陥は、この制度の廃止によってのみ除去することができる。
第七、公娼制度は、国家の性買売対策として不徹底である。公娼制度は本来性買売を公娼に一元化するはずだったが、現状は公娼私娼の二元政策となっており、一方を公認、他方を処罰或は黙認している。
第八、道徳悪たる売淫を公認し、これを保護することは、警察官の信念に反する。(えらいかっこいいことを言っているが、これは外国に対する表向きか。)
次に警保局は消極的廃止理由を掲げる。
第一、公娼制度は性病予防に必要だというが、娼妓の性病検査は目視によるだけで、不完全だ。また私娼の検査は放置されている。性売女性の全面的・強制的検査でなければならない。(遊廓自体が性病の感染源となっているとか、買春男性の検査の必要性とかの発想はなかった。)
第二、公娼制によって私娼の発生を防ぐ効果はない。
第三、公娼制度を廃止しても、私娼は増加しない。埼玉・秋田・長崎・青森での廃娼後、相当数の娼妓が、帰郷・結婚・女中就職し、性売から離れた。公娼制度の廃止後、性買売を非合法化し、性売所を臨検(=立ち入り検査)の危険にさらすことによって、性買売の増大を防ぐことができる。(買春男性を取り締まるという発想はなかった。)
第四、公娼制度を廃止することは絶娼政策ではないので、性犯罪は増加しない。
第五、公娼制度を廃止しても、性売女性の待遇が低下するとはかぎらない。
168 内務省の政策は、娼妓取締規則や各府県の関連規則を廃止し、公認制度をやめるが、絶娼制度は取らず、買淫行為を非合法化し、黙認するというものだ。貸座敷を料理屋に、娼妓を酌婦に転業させ、集娼政策をとり、強制的検診制度をとるというものだ。これにより、性買売の斡旋や場所の提供は非合法となり、業者の地位は不安定なるが、黙認するというものだ。また、前借金にしばられる女性の奴隷的地位は変わらなかった。女性の居住の自由もなく、強制的な性病検査を強いられる。また植民地での公娼制廃止は検討外だった。
警保局の改革はあいまいだった。性売女性は社会における「必至的存在」と考えていたからであった。男性の性欲は恋愛や結婚では抑止できないと警保局は思い込んでいた。そして、この曖昧な制度改革は実施されなかった。1935年、天皇機関説事件後に、国体明徴運動が拡大し、1936年、二・二六事件で岡田内閣が崩壊し、1937年日中戦争がはじまったからだ。
感想 内務省の廃娼案は先進的である。西欧の廃娼運動、それをバックアップする国際連盟、ジョンソン報告書そして日本の廃娼運動などに触発された様子が伺える。それがその通りに実現しなかったのは、国内の存娼派=業者・議員の力のせいか、またそれと同根と疑われる、軍慰安婦を要求する上海派遣軍やそれを認める陸軍のせいか。195, 196
三 朝鮮・台湾の状況
169 朝鮮では1927年以降、日本人娼妓の数が徐々に減少して1932年が底になり、それから増え始め、1937年がピークになる。1933年からカフェー・バーの女給の統計が始まり、1936年まで増加した。
朝鮮人娼妓数は、1932年が底で、1940年まで増加し、1939年には、日本人娼妓よりも多くなった。朝鮮人芸妓の数は日本人芸妓の数より更に多くなった。
日本人・朝鮮人を合わせた性売女性の総数は、1940年がピークとなった。
170 性売買の拡大は、軍と企業の朝鮮進出が関係していた。1920年代後半から1930年代にかけて、日窒財閥は朝鮮北部に工場を建設した。
台湾では、娼妓の数は日本人が常に多く、1931年の929人が最大だった。朝鮮人娼妓の数は少しずつ増加し、1930年に台湾人娼妓の数を上回り、1940年の249人がピークとなった。台湾での娼妓稼業年齢が日本より二歳低く、朝鮮より一歳低かったので、日本や朝鮮から18歳や17歳未満の若い女性が台湾に連れてこられた。
台湾には朝鮮人芸妓がほとんどいなく、台湾人芸妓が多く、1940年の507人(台湾人芸妓数)がピークだった。酌婦の生活は苛酷だったが、台湾人酌婦の数は多く、1941年まで増加した。
四 中国での性売買の拡大
満州
171 1931年、日本軍が満州事変を起こして満州各地を占領し、邦人の進出が始まった。
満洲事変で出動した部隊は、すでに駐留していた仙台第二師団、京城(ソウル)第二〇師団(1932年に日本へ帰還)、熊本第六師団(1932年に日本に帰還)、1932年から熱河(モンゴル高原の東端)や関内(かんだい、陝西省の渭水盆地一帯)で戦った弘前第八師団、ハルビン・東満州で戦った姫路第一〇師団、上海から転用され北満洲で戦った宇都宮第一四師団だった。
満洲事変後の1933年、管内の日本人の人口は、1万5308人(日本人3422人、朝鮮人1万1886人)になり、この2年間1931--1933で、日本人が2517人増え、朝鮮人が1107人増え、芸妓・酌婦その他が、17人から170人に増えた。(森岡正平総領事1933.12)
172 芸妓・酌婦は、1932年から1936年にかけて概ね増加している。酌婦は日本人よりも朝鮮人の割合が多い。
吉林では1936年からダンサーが出現した。吉林では日本人人口が満洲事変前の900人から1936年には2万5000人に増加した。
敦化(とんか)に満洲事変前にいた日本人は18人であったが、満洲事変後は、守備隊が駐屯し、1932年10月、敦図線が起工され工事関係者が常駐した。
蛟河(こうが)・新站(しんたん)でも、満洲事変後に芸妓・酌婦が登場した。
承徳には、1933年9月末、芸妓23人、酌婦95人(日4人、朝91人)、女給38人がおり、赤峰には、芸妓12人、酌婦42人(日22人、朝20人)がいた。
芸妓・酌婦その他は、朝陽に186人、凌源に142人、北票に45人、平泉に27人いた。
承徳では、討伐戦後の軍隊復帰や満洲国日系官吏来任のため、1934年10月現在で、一般居留民が540人しかいないのに、芸妓33人、酌婦111人(日7人、朝104人)、女給39人がいた。
173 1933年末、通化には日本人は69人しかいなかったが、芸妓・酌婦が11人いた。
海龍には1933年に新しく15軒の料理店ができ、芸妓17人、酌婦30人がやってきた。
間島では、朝鮮人が40万人いて、抗日運動が続いていたが、1932年2月、領事館は、未開放地(商埠地*外)での料理店設置を認めないとしたが、朝鮮人芸妓・酌婦には、従来どおり、飲食店を置くことを黙認した。1934年1月、芸娼妓・酌婦その他の数は、日本人58人、朝鮮人85人となった。
*商埠地とは、1905年、日清満洲善後条約第1条に準拠し、清が外国人居住地として自ら指定・開放した地域である。
奉天省鄭家屯では、1932年以降日本人が増えた。1933年12月から守備隊400人が常駐した。四軒の料理店ができ、芸妓7人、酌婦20人がやって来た。
洮南(とうなん)では、1933年末、料理店が17軒になり、芸妓30人(日29人、朝1人)、酌婦68人(日28人、朝40人)になった。
通遼では、1933年2月の熱河*作戦以降、日本人が増え、料理店7軒、芸妓5人、酌婦34人になった。
*現在の河北省、遼寧省、内モンゴル自治区の交差地域。熱河はかつて存在した省。
1932年2月、日本軍はハルビンを占領し、白系ロシア人に代わって覇権を握った。日本人は事変前の3900人から激増した。その中心は、軍人のほかは、日系官吏、鉄道従業員などだった。1932年末、芸妓が、128人、酌婦が253人(日127人、朝126人)、女給が150人となったが、これは前年より329人増えた数字だ。1934年、日本人が激増し、カフェーが第一位で、旅館、自動車業、芸妓置屋、待合、医師、看護婦会、理髪店等が新規開業した。同年1934末、芸妓が302人、酌婦が270人(日105人、朝165人)、カフェー・飲食店女給が575人(日550人、朝25人)となった。
174 1936年には、芸妓282人、酌婦321人(日107人、朝175人)、カフェー・飲食店の女給806人(日790人、朝16人)、ダンサー115人(日146人、朝8人)となった。
綏芬河(すいふんが)では、1933年に日本軍が駐屯すると、日本人が増え、1934年末、日本人は522人になった。芸妓は17人、酌婦は59人、女給は17人に増えた。
同じ時期1934に牡丹江では、芸妓90人、酌婦113人、女給92人となり、寧古塔では、芸妓26人、酌婦78人、女給59人、海林では、芸妓4人、酌婦1人となった。
1935年、東寧県の料理店の酌婦3人が匪賊=抗日ゲリラに拉致された。君子という源氏名の女性は群馬県総社町出身で20歳、恵美子は沼津市出身で24歳、アイコは鹿児島県志布志町出身で31歳だった。
1936年末、綏芬河(すいふんか)地区(綏芬河・下城子・穆棱(ぼくりょう)・東寧・梨樹鎮・平陽鎮・密山)では、芸妓122人、酌婦304人、女給198人になった。
牡丹江では、芸妓186人、酌婦102人(日40人、朝62人)、女給374人(日282人、朝92人)となった。
海林では、芸妓3人、酌婦17人、東京城では、芸妓6人(日4人、朝2人)、酌婦19人(日6人、朝13人)、女給97人(日5人、朝92人)、寧安では、芸妓7人、酌婦15人、女給26人、佳木斯(ジャムス)では、芸妓60人、酌婦8人、女給129人、三姓では、芸妓6人、酌婦27人、女給13人、富錦では、芸妓4人、酌婦23人、女給10人、林口では、芸妓23人、酌婦42人、女給6人となった。
ハルビンの北西チチハルでは、1931年11月、仙台第二師団が馬占山軍*と戦い、そこを占領した。事変前の日本人は580人(日140人、朝440人)だったが、1936年には、1万1777人(日9426人、朝2351人)に増大した。
*馬占山1885--1950は中華民国・満州国の軍人。1931年9月、満洲事変が勃発すると、張学良によって黒竜江省政府主席代理に任命され、10月中旬、嫩江(のんこう)にかかる鉄橋を破壊し、関東軍や、関東軍に協力した張海鵬の侵攻をチチハルで食い止めようとした。
1933年には第14師団司令部が置かれ、兵舎の新築や満鉄の鉄道工事を請け負う業者や御用商人がチチハルに流入していた。
チチハル市内では、1931年末、料理店5軒(日3軒、朝2軒)、芸妓・酌婦33人(日14人、朝19人)だったが、1934年末には、料理店29軒、芸妓157人、酌婦116人、女給206人に増加し、新たにダンサー5人も登場した。
1936年末の満洲各地の芸妓・酌婦・女給・ダンサーの数は、表19を参照せよ。
チチハルよりさらに北西にあるハイラルには、1919年11月末、芸妓・酌婦が29人いて、満洲里には、芸妓・酌婦が68人いたが、これはその後減少したと思われる。というのは、1930年になると、満洲里には日本人男性が106人しかいなかったからだ。
ハイラルでは、事変後に日本軍が入城した後、芸妓37人、酌婦88人に増加した。そして1934年には、芸妓59人、舞妓(芸妓見習い中の少女)6人、酌婦68人、女給36人となり、1936年末には、芸妓88人、舞妓5人、酌婦58人、女給181人となった。
満洲里には1936年末、芸妓29人、舞妓1人、酌婦39人、女給16人がいた。
176 以上『外務省警察史』による。
華北の状況
華北と満洲との境にある山海関では、所謂「冀東密貿易」が行われ、日本人のほとんどは、中国の軍隊を対象とする禁制品の取扱業者だった。
1933年の山海関事件以後、日本軍が侵入した。停戦協定後、日本人女性が増えたが、そのほとんどは日本軍を相手にする者だった。
1933年末、芸妓32人、酌婦104人、女給16人となり、前年より142人増えた。
1936年末、芸妓58人、酌婦45人、女給43人となり、酌婦が減り、芸妓・女給が増えた。
塘沽(タンクー)では、1935年末、料理店が3軒(日2軒、朝1軒)あり、芸妓5人、酌婦17人がいた。
1931年末、天津の日本租界には、芸妓861人(日(朝を含む)83人、中778人)、酌婦110人(日55人、中55人)がいた。
1936年末、芸妓131人、酌婦150人(日99人、中51人)、女給171人、ダンサー50人(日32人、中18人)となった。
中国人芸妓はいなくなったが、女給やダンサーが登場した。
177 青島では、1930年、芸妓が256人、酌婦が275人おり、カフェーが7軒あった。
1933年には、ダンサー58人が登場した。
1936年末、芸妓210人、酌婦251人、女給50人、ダンサー99人となった。芸妓・酌婦が減少気味で、ダンサーと女給が増えている。
済南では1932年末、料理店が11軒(日10軒、朝1軒)あり、芸妓が41人、酌婦が12人(日9人、朝3人)いたが、1936年末には、芸妓37人、酌婦11人に減った。
華中・華南
1930年、上海の共同租界に2万5000人の日本人が暮らしていたが、中国との協定を無視して、次第に境界の外に進出した。1930年3月には、共同租界の外の「境界築路」に、日本人が経営する、事実上の貸座敷である料理屋=貸席が三軒あり、事実上の娼妓である乙種芸妓が33人いた。三軒は、三好館、小松、大一だった。
1930年、中国国民政府上海公安局は公娼制度を廃止しようとし、この三軒に対して、営業禁止または租界内への移転を求めた。日本の外務省は、無視するのは好ましくないとして、性売買しない正業に転換させることが適当だとし、4月11日に指示した。(幣原喜重郎外相→重光葵総領事)
幣原外相は中国の内政に対する不干渉を唱えていた。
178 重光総領事は「業者が中国の公安局と交渉し、料理屋の外に旅館の看板を掲げ、性売を黙認してもらうことにしたので、領事館も黙認することにした」と5月1日に返電した。「上海は船員や通過客が多く、業者の事情もあるから」というのだ。
現地の総領事館には、あくまで廃業させるという意図がなかった。三軒の貸席は、光月、松亭、一福と屋号を変え、建物も、妓楼的な施設を改築し、応接間に掲げていた乙種芸妓の写真を降ろし、乙種芸妓を酌婦と改称し、営業を続けた。
上海共同租界には、この他に、1930年末に、料理店兼芸妓置屋に抱えられていた日本人甲種芸妓が173人、旅館・料理店・飲食店等の女中が386人、女給が43人、ダンサーが164人、洋妾が159人、私娼が346人いた。1929年に、検番(三業*組合の事務所)制度ができ、甲種芸妓は、検番を兼ねる料理屋か住宅に居住することになった。
*三業とは、料理屋・待合・芸者屋。東京日々新聞1875によれば、貸座敷・娼妓・引き手茶屋(客と娼妓との媒妁をなす案内者)
1931年10月、満洲事変開始直後、上海総領事館は、乙種芸妓を、廃娼の意味で、名実ともに酌婦と改め、新規の抱え入れを禁止したが、名称を変えただけで、実質は変わらなかった。
飲食店・カフェーは102軒あり、女中の一部は船員などに性売していた。ダンサーも同様だった。私娼の大半は、大連や青島から流れてきた朝鮮人女性で、中国人の家屋を間借りし、船員や外国兵士を相手にしていた。
179 1932年、第一次上海事変後、海軍兵士用の貸座敷(=海軍慰安所)ができた。新規開業が17軒、廃業が3軒で、年末には17軒になり、酌婦が164人、芸妓が279人、ダンサーが245人いた。
この海軍慰安所は、1933年末、14軒、酌婦185人、1934年末、14軒、173人、1936年末、10軒、131人(日102人、朝29人)、1937年末、9軒、118人と減少した。
その実態は、1936年では、3軒が民間人も利用する貸座敷で、1932年に海軍指定の慰安所となった。残りの7軒は、海軍下士官・兵士用の軍専用慰安所で、民間人には利用させず、性病検査を週二回、海軍陸戦隊員と領事館警察官立会いで行っていた。
11軒の海軍専用慰安所は、第一大星、大正館、海楽、曙、浮舟、都亭、梅月、千登勢、筑紫、東優園、上海であり、東優園と上海は、下士官専用だった。(1933年の海軍文書)
これ以外に1932年に陸軍専用の慰安所が作られた。
1933年6月、華中の領事館警察署長会議で、ダンスホール・ダンサーとカフェー・女給等の取締りを協議した。
ダンスホールは、1927年の上海ゼネストの時に派遣された英米軍兵士用につくられた。1933年末、ダンサーは187人、飲食店・カフェーの女給は479人になった。
180 上海領事館は、女給の数を制限した。
1936年末、ダンサー135人(日98人、朝37人)、女給354人(日306人、朝48人)、私娼330人(日40人、朝290人)となった。
上海は野鶏(ヤーチー)と呼ばれる中国人性売女性や、白系ロシア人の性売女性など、私娼が多かった。朝鮮の経済恐慌のため、朝鮮人ダンサーが増加し、朝鮮人女給が性売することが多かった。同様の理由で朝鮮人私娼も多かった。
廈門では、1932年末、カフェーの女給16人、ダンサー4人がいた。1934年、私娼は芸妓・酌婦などに登録され、1936年末、芸妓111人(日5人、台71人、中35人)、酌婦33人(日2人、台19人、中12人)、台湾人女給24人、台湾人ダンサー29人がいた。中国人は、台湾人の養女名義だった。台湾人女性と、養女名義の中国人が多かった。
第Ⅳ章 買春帝国の極限化 1937年~1945年
183 1937年、日中戦争が始まってからも、貸座敷での買春男性は増え続け、1938年にピークになった。表15 144 1940年以降は統計がないが、1939年は減少している。性売女性の数(芸妓・娼妓・酌婦・女給の合計)は、1937年がピークで、その後減少している。これは総力戦体制と統制経済の影響だろう。娼妓と酌婦の数が1938年から減少しているのは、日本軍が海外の占領地で軍慰安婦制度をつくったため、女性が遊廓や料理屋から引き抜かれたからだろう。
一 日中戦争下の国内状況
日中全面戦争にともない、軍需産業が拡大し、京浜工業地帯に男性労働者が激増し、風紀が頽廃し、性病が問題となった。
川崎市では芸妓・待合の遊客は、1937年の9万7430人から1939年の13万7535人に増加した。そのほとんどは工場の幹部や顔役で、一部に、下請工場の雇主や幹部職員が、労働者の親方や中堅職工を接待した。
184 貸座敷では、遊客は、1937年の14万81人から、1939年の19万5281人に増加したが、そのうちの85%は蒲田・川崎・鶴見などの労働者だった。この間、娼妓数は195人から180人に減少した。
酌婦を抱える私娼街では事実上公認されている店=強制検梅が行われている店と非公認の店とがあった。これらは、労働者などが内職として二、三人の女性を抱えて、飲食店や居酒屋を経営していたものが、性売業に転化したものだ。公認されている私娼街での遊客は、7万2000人から8万8000人に増加した。遊客のほとんどが労働者で、酌婦は前借金を負っていた。1938年から女性の軍需産業への労務動員が始まり、酌婦は減った。
カフェーでは女給30人以下の二級の店では、1939年に客数が減り、工場労働者が通う女給10人以下の三級店でも1939年に客数が激減し、酒も不足した。
京浜産業調査会調査部は、経済的な理由で結婚できない男性にとって、公娼・私娼は必要であり、私娼を認めるのか認めないのかはっきりしない今の取締り方針を改めるべきだとしている。
185 1938年以降、待合・遊廓・私娼街に対する営業時間制限や娼妓の待遇改善のための警察の指導が行われ、1940年11月には東京のダンスホールが閉鎖された。
神奈川県では1938年8月、風俗営業取締要項が出され、カフェーその他の特殊飲食店やダンスホールなどの新規許可と、料理屋、待合茶屋、貸座敷の増改築が許されなくなった。
1940年3月、風俗営業時間制限要項が出され、貸座敷は、午前零時まで、待合茶屋、料理店、カフェー、バーなどは午後11までに制限された。
1940年9月、貸座敷営業は午後5時開店、午前零時閉店とし、慰安的営業をする芸妓は、慰安所の従業婦として就業させ、特殊飲食店は休業させる、などの措置が取られた。奢侈生活抑制のためだった。ここで慰安的営業とは性的営業だった。
これらの措置は性売買を抑制するものではなく、人身売買の禁止も取り組まれなかった。
アジア太平洋戦争下の状況
1942年4月21日、「小売業の整備に関する件」が閣議決定され、これに基づき、5月8日、「小売業整備要綱」が、商工・農林・厚生・大蔵・内務の五省次官会議で決定された。
186 第一次に整理統合すべき業種として、内務省関係では、麻雀倶楽部、カフェー、バー、周旋屋が指定された。
内務省は、7月29日、未婚女性を生産に動員するために、芸妓・娼妓・酌婦・女給等の増加を認めないとする通牒を出した。
警視庁は1943年末までに、待合489軒、芸妓屋738軒、芸妓3015人、貸座敷328軒、娼妓1346人、特殊飲食店2947軒、料理屋301軒を転廃業させた。しかし、銘酒店には手をつけず、私娼は43人増えて、1714人となった。(すごい警察の権力)
1943年8月3日、内務次官通牒「接客業の整備に関する件」が出された。接客業の施設・労力を国家総力戦に順応させるためのものだった。住宅対策・国民動員・奢侈抑制に協力させ、特殊施設(軍の施設)の所在地や、それを特に必要とする新興地帯=軍需産業地帯に格段の考慮を払い、必要ならば、地域的配置転換をするよう指示した。内務省は適当な限度での国民の慰安・娯楽まで抑制するものではないことを強調した。
待合・芸妓置屋・料理店・カフェーなどは、工員宿舎・旅館・アパートなどに転換された。川崎遊廓は日本鋼管に売却され、洲崎遊廓は石川島重工業に売却され、建物は工員寮となった。
しかし、性売業者や娼妓は完全に廃業したのではなく、洲崎の業者は、立川飛行機・昭和飛行機・航空工廠などの労働者用の慰安所の業者として立川市羽衣町に移転した。
187 また一部は鎌田穴守に新築された慰安所に移った。川崎遊廓では、廃業したのに前借金があるという理由で、(他の性売業者に)転売された娼妓もいた。岐阜県の金津遊廓は、軍需産業の寮などに使うために、廃業・転業を迫られて郊外に移転し、1944年から特殊飲食店として営業した。
1944年2月25日、「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、29日、「高級享楽停止に関する具体策要綱」が閣議了解された。高級料理店、一部の料理店、高級待合、一部の芸妓置屋、芸妓、一部のカフェー・バーの休業を指示し、休業は3月1日から施行するとした。
ただし、下級待合は営業を継続され、芸妓置屋・芸妓のうち慰安的営業に必要なものは、名称を変更して営業を継続し、カフェー・バーのうち高級ならざるものは、飲食店として営業継続が認められた。また例外として、貸座敷・銘酒屋、転業料理屋などの営業は停止されなかった。
内務省は料理店に関する独自の定義を持っていた。また、一般大衆のための安い享楽的娯楽まで禁止するものではなかった。
188 内務省によれば、料理店とは、10坪以上の宴会用の客席があり、女性が客を接待し、飲食物を供するものであるとし、軍施設や軍需工場の所在地などの「特殊地域」にある待合・料理屋に一応休業させるが、実際上支障が生じないように「適当の措置」を講ずると指示し、手加減を加えた。27日の内務大臣の説明資料によれば、これらは「享楽的ならざる慰安施設つまり慰安所として認めることとしたい」としている。(「高級料亭の停止に関する件」)
全国風俗警察主務課長会議と推定される史料によれば、内務省は、次のように、各府県の質問に対して回答・指示をした。
横浜本牧のチャブ屋(22軒、酌婦114人、形式は旅館)は、横須賀鎮守府(海軍の警備・監督に当たった)と協議し、海軍の用途にあててはどうか。
「公娼と私娼を慰安所に活用するほうがいい」とする神奈川県の意見に対して、「それでいい」とした。
大分県には特殊料理店の名称による私娼窟があるが、これはそのまま存置して差し支えない。別府にある海軍専用の高級料理店については、実情との調和について慎重に考慮されたい。(実質残せということらしい)
軍利用のため、京都の伏見などに残っている施設は、軍に配慮し、禁止する必要はない。
山口では待合がないが、芸妓置屋を「売淫所」にすることは止むを得ない。
鳥取では料理と娼行為の両方を行う料理屋があるが、これは飲食を制限したらどうか。
(「高級享楽停止に関する会議質疑応答」)
高級享楽停止措置の実施の結果、1945年2月までに休業したものは、料理店2万5476軒、(全体の78%)、カフェー・バー9493軒(94%)、待合5197軒(99%)、芸妓置屋1万5077軒(100%)、芸妓4万2039人(99%)、高級飲食店602軒に達した。
189 このうち1944年9月までに性的慰安施設(慰安所)に転換したものは、芸妓置屋2068軒、待合1425軒、料理屋1238軒、カフェー・バー111軒、合計4842軒であった。慰安所従業員=接待婦になった芸妓は、7131人だった。(警務課長会議資料)
これら芸妓は芸を捨て、肉体サービス専用に追いやられたが、これは、娼妓のいる遊廓とともに、戦後の赤線=性売買街の下地となった。
性産業従業員で軍需産業に転業した者は、男2225人、女1万6355人となった。これ以外に慰安所に転換営業した者が多数いた。寝具などは、工員宿舎や海軍の「特殊需要方面」(慰安所か)に供出された。(「閣議決定事項の実施状況報告に関する件」)
警視庁は、洲崎遊廓の転業の成功を見て、新たに他地域で性売女性を稼動させた。この新規慰安所数は、業者1473人、接待婦=慰安婦1539人だった。
兵庫県警察部は、神戸市東部の貸席の一部業者を「実質的慰安=売春的な特殊飲食店」に転換させた。
1945年1月26日、「高級享楽停止に関する措置要綱」が閣議了解され、高級享楽停止措置を継続し、休業・転廃業した待合・料理店を、生産設備、工員宿舎、疎開残留者の合宿所、空襲罹災者の収容所にし、人員を緊急生産部門に動員した。
190 1945年2月13日、府県警務課長会議で、今回の閣議了解の意味は「旧来の業態への復帰を願う業者の思いを断ち切り、戦力増強に挺身させることである」としたが、「慰安施設=慰安所では、慰安婦の不足が極めて深刻で、料金が不当に吊り上げられる傾向にあり、税率が高く、遊興費が高騰し、待合から転換した接待所=慰安所は、従来のなじみ客との関係から、大衆性が失われつつある」と指摘された。
警保局警務課は、性的慰安施設の現況と今後の措置や世論に関して次のように述べた。
性売業界の現況は、開店後すぐに満員となり、従業婦は不足している。その原因は、(イ)性売女性=雇入婦女の勤労動員への転換(ロ)軍需工場幹部等新興所得層による落籍=身請け数の増加(ハ)好況による前借金弁済廃業者の続出などであり、営業が困難になりつつある。
業者は(イ)泊まりの有無に関わらず玉代を払わせ、(ロ)酒・料理代金の名目で、不当の請求をし、(ハ)娼酌婦に過大なチップを要求させることなどを行っていて、これは健全な慰安施設ではなく、特権階級の独占施設だ等の意見が多数ある。
世論は、大衆的な公設食堂や喫茶店式の会合施設の開設を要望すると共に、慰安婦の増員、安価な慰安所の設置を要望している。(警務課長会議資料)
191 府県警察部は、性売女性の数を増やし、税率を下げ、遊興料金を下げ、とくに大工場地帯の工員向けの簡易な慰安の方法を講ずべきだと要望した。このため、旧待合の高級化を防止し、公娼を廃止して私娼化することも止むを得ないと指示された。
二 日本軍慰安婦問題と女性の動員
日本内地から
日中戦争が全面化し、日本軍は80万の部隊を中国に駐留させた。日本軍は性的問題を解決すると言って、慰安婦制度を展開したが、その動機は4つある。
第一は、駐留する軍人・軍属による強制性交=強姦を防止するという理由づけである。
1938年6月、北支那方面軍参謀長の岡部直三郎中将は、華北一体で日本軍人による強姦が各地に頻発し、そのため支配地域の情勢が悪化していることを認め、速やかに性的慰安施設をつくるよう各部隊に指示した。
192 しかし、実際は軍慰安所があることによって性的刺激を受けた軍人による強制性交事件が多発し、逆効果だった。また強制性交防止の手段として軍慰安所に入れられた女性たちは、モノ扱いされ、女性の人権は全く無視された。
第二は、軍人・軍属が性病にかかることを防止するという理由づけだ。中国の駐屯地に地元の性売所=売春宿がある場合、そこでは性病が蔓延しているので、軍人・軍属にはその利用を禁止し、軍が管理する軍専用の慰安所を作り、軍人・軍属に利用させるというものだ。軍慰安所では週一回程度の性病検査が行われ、民間の性売所よりも感染の機会は少なかっただろうが、検査は概ね目視によるだけであり、軽度なら禁止しなかった。また軍人・軍属には同様の頻度で性病検査をしなかったので、効果はほとんどなかった。ここでも女性は性病を防止するために、モノ扱いにされた。
第三は、軍人・軍属の不満を解消するための慰安を提供することが必要だという理由づけだ。これが真の理由だ。戦地に長期間釘づけされた軍人・軍属の不満は極めて大きかった。戦争目的がはっきりしない、戦争がいつ終わるか分からない、定期的な休暇制度も、従軍期間を限定した復員システムもない、いつ帰還できるかも分からない状態におかれていた。また、軍隊内では兵士の人権が無視され、服装・装備は貧弱で、音楽・映画・スポーツ・読書など健全な娯楽施設はほとんどなかった。軍人の不満の爆発を防ぐためには、酒とともに性の相手をする女性が提供された。ここでも女性は不満解消のモノ扱いにされた。
193 最も優遇されたのは将校だった。軍慰安所では夜間は将校専用とされ、将校専用の慰安所や料亭が多く設置された。久留米市の萃香園は、ビルマのラングーンに進出した将校専用の慰安所だった。
第四は、スパイ防止という理由づけである。軍人・軍属が民間の性売所に通い、その女性と親密になり、軍の秘密・機密を漏らす恐れがある、軍が十分に管理できる慰安所が必要だというものだ。ここでも女性は軍の機密を守るためにモノ扱いにされた。
軍慰安所の法的裏づけは、1937年9月29日の「野戦酒保規定改正」だった。野戦酒保とは戦時に野戦軍に設置される酒保=物品販売所であるが、そこに新たに「野戦酒保においては、…必要なる慰安施設をなすことを得」と改正された。(永井和、2007『日中戦争から世界戦争へ』思文閣出版)
慰安婦にされる女性たちの徴募は、軍が選定した業者が行い、軍は徴募の為に様々な便宜を業者に与えた。
日本国内では、上海と神戸で貸座敷業を営む中野光蔵は、1937年12月、上海特務機関から、上海派遣軍の為の慰安所の酌婦3000人を集めるように指示され、200人から300人を送った。
神戸市の貸座敷業者である大内藤七は、その一部の500人を集めようとし、1938年1月5日、前橋市の芸娼妓酌婦等紹介業の反町忠太郎を訪れたとき、警察に通報された。
194 大内によれば、契約期間は2年間、年齢は16歳から30歳、前借金は500円から1000円、途中病気になっても年季完了とともに完済とする、という条件だった。(支那渡航婦女の取扱に関する件)
これは、刑法第226条の国外移送目的人身売買罪に該当した。
大内は、1月19日に水戸市で2人の酌婦を前借金691円と642円で買い、神戸に送った。大内は山形県で、北支派遣軍の為の酌婦2500人といって動いていたが、これは上海派遣軍のためであったはずで辻褄が遭わず、一部疑わしいかもしれない。
1938年2月、大阪市の貸席業・佐賀今太郎と金沢甚右衛門と紹介業の平岡茂信は、「上海皇軍慰安所のため」と言って、3000人の酌婦募集の一部を担当して動いていたときに、誘拐犯と間違われて、和歌山県下田辺署に逮捕された。
上海総領事館警察署長が、長崎水上警察署長宛てに、「前線各地に『軍慰安所=貸座敷』を設置することになり、酌婦を募集するために、領事館発行の身分証明書を持った業者を内地と朝鮮に派遣したので『便宜供与』を依頼する」という文書を出していた。上海では、上海憲兵隊と領事館武官室が協議して決定したという。
和歌山県警察部刑事課長が、大阪の九条警察署長に問い合わせたところ、内務省から、大阪府警察部長宛に、「上海派遣軍慰安所従業酌婦募集に関する非公式の依頼」が届いており、九条署は、酌婦公募証明書を出し、「相当の便宜」を与えて募集を助け、すでに1月3日に第1回分の女性を渡航させていたことが判明した。
195 金沢甚右衛門の話によれば、「1937年秋ごろ、上海・神戸の貸席業・中野光蔵と大阪の貸席業・藤村政次郎らは、上京して、荒木貞夫大将と頭山満・玄洋社(右翼団体)総帥と会合し、上海派遣軍のために3000人の娼婦を送ることを決定し、1月3日に70人を、憲兵護衛の下で軍用船で送った」という。
「いい金儲けになる、上海では軍人のみを相手にする、食料は軍から支給される」と言って、女性たちを騙しているので、誘拐の容疑があるとして逮捕したのだが、和歌山県警は、彼等を釈放せざるをえなくなった。
佐賀今太郎らが和歌山県の御坊市で集めたのは、前借金470円で募集した26歳の女性と、前借金362円で募集した28歳の女性だった。これは国外移送目的人身売買罪に当たるはずだが、警察はこの容疑で追及しようとしなかった。(永井和、2007『日中戦争から世界戦争へ』思文閣出版)
虚偽の事実を提示する誘拐犯だと思って逮捕したのに、犯人が言っていることが事実だと分かり、釈放せざるを得なくなるという混乱が各地で生じたため、陸軍省と内務省は協議の上、新たに徴募の方針を定めた。
内務省は、一方で、軍慰安所のための女性の渡航は、必要已むを得ざるものとし、特殊の考慮を払うことにした。他方で、皇軍の名誉を傷つけず、女性児童取引禁止条約に抵触しないように工夫した。つまり、
「性売を目的とする女性の渡航は、
①娼妓など現に性売を営んでいる者とすること(娼妓なら人権を貶めてもいいのか)
②満21歳以上であること(満21歳以上なら人身売買が許されるのか)
③性病に感染していない者であること
④日本軍が駐屯する華北・華中に向かう者であること
以上の条件を満たす者に限って黙認し、警察署が女性に身分証明書を発給する」と通知した。また、「これらの女性の募集・周旋に際して、軍の諒解とか、軍と連絡があるとか、軍に影響を及ぼす言辞を弄する者は厳重に取り締まるよう」1938年2月23日に警視総監・各府県知事に指示した。(従軍慰安婦資料集 資料5)
196 陸軍省は、1938年3月4日、派遣軍に対して、軍の威信を保持するために、「今後軍慰安所の従業婦等の募集に当たっては、
・派遣軍が統制すること
・募集等にあたる人物の選定を、周到適切に行うこと
・実施に際して、関東地方の憲兵・警察当局との連携を密にすること」
を指示した。(同前 資料6)
陸軍省は、軍慰安所の設置や慰安婦の募集を推進することを認めたのだ。
現地の派遣軍が、自ら慰安所を設置しており、1942年に陸軍省自体が慰安所の設置に乗り出したから、これは、「公認と隠蔽」にあらず「公設と隠蔽」と言うべきだ。
1938年11月、華南に駐留していた第21軍司令部の久門有文参謀と柳田元三陸軍省徴募課長は、内務省警保局を訪れ、第21軍の慰安所のための女性400人の徴募を依頼した。その時、内務省警保局警保課は、該当各府県に対して、
・慰安所を経営する業者を選定すること
・女性を大阪・兵庫・福岡から各100人、京都・山口から各50人を割り当てて集めること
・募集と渡航について便宜を与えること
を指示した。
この時既に台湾から300人の女性の渡航が手配済みとなっていたので、内地からの400人と合わせて合計で700人となる。
197 その後、第21軍司令部は、兵100人につき慰安婦1人を徴募する方針を定め、1939年4月までに1400人から1600人の慰安婦を導入し、週二回の検梅を実施した。
朝鮮から
慰安婦徴募のため、派遣軍の担当将校は、朝鮮・台湾にも派遣され、依頼を受けた朝鮮総督府・台湾総督府の警察部はこれに協力し、派遣軍や総督府の警察に選定された業者が便宜を受けて、女性たちを集めたが、そのことを示す史料がほとんど出ていない。
1937年8月31日、外務省は通達を出し、戦時下に一攫千金をねらう不良分子が中国に渡航するのを防ぐために、これまで旅券がなくても自由に渡航できた制度を改め、日本・朝鮮・台湾の民間人に対して、警察署が発行する身分証明書=渡航証明書か旅券を持たない者の渡航を認めないことにした。また、中国にいる派遣軍も、不要不急の民間人の渡航を認めないこととした。
このため、朝鮮総督府と台湾総督府は、満洲への渡航を除いて、中国への渡航者数を把握できるようになった。表20は、朝鮮総督府が拓務省に通知した、性売女性(酌婦・芸娼妓)に対して出された渡航証明書の発行数であるが、この多くが軍慰安婦と考えられる。
記録のない月もあるが、1937年9月から、1942年6月までの間に、朝鮮半島から中国本土に、朝鮮人3689人、日本人255人が渡航している。内訳は、華北2852人、華中922人、華南170人となる。
199 1938年初めと1939年春が最も多く、前者は軍慰安所設置の草創期であり、後者は中国侵攻作戦が一段落した時である。芸娼妓・酌婦名義での朝鮮人女性の中国本土への渡航は、月平均102.5人であるから、1937年9月から1942年6月までの58ヶ月の推定合計数は、5945人となる。
派遣軍または総督府警察によって選定された業者は、人身売買の方法で、または「楽な仕事だ、食堂で働く、看護婦のような仕事だ」と言って騙して連れて行った。これは、刑法の国外移送目的人身売買罪や、国外移送目的誘拐罪に該当する。またある場合は、強制力を用いて連行した。
日本国内では2月24日(2月23日 195)に出された警保局長通牒が、朝鮮や台湾では出されなかったので、性売経験のない女性や、21歳未満の女性も数多く連行された。日本政府が女性児童取引禁止条約を、植民地等に適用しなかったことが、このような結果を生んだ。
宗神道は1922年忠清南道に生まれ、1938年12月ころ、満16歳の時、「兵隊の服を洗濯する仕事だ」と朝鮮人の女性業者に騙されて、中国・武昌の世界館という慰安所に連れて行かれた。そこでいきなり性病検査をされ、軍人の性の相手をさせられたが、その最初のときのことは、ついに語ることもなく亡くなった。軍人の相手を拒否すると、「お前には借金がある。着物代がなんぼだ」などと言われ、「船賃その他の借金があるのでそれを返せ」と迫られた。(吉見義明・梁、2019)
200 李守山は1928年慶尚北道の生まれで、1944年、当時16歳だったが、満洲の牡丹江に連れて行かれた。「中国の麻を織る工場で働く」と言って騙された。徴募する業者数名が連携していた。友達の家で話を聞き、騙された。その家には警官がいて、何も言わなかったが、座って見ていたという。(吉見義明、2011)募集に当たっては、地元の憲兵・警察と連携せよという1938年3月4日の陸軍省の指示196が、この時も生きていた。
1941年7月5日、対ソ侵攻作戦のための関東軍特種演習(関特演)で、85万の兵力を配備するために、新たに50万の兵力を満洲に動員することが決定されたが、その時関東軍は、2万人の慰安婦を募集しようとした。対ソ武力行使は8月9日に中止されたが、関東軍参謀部第三課兵站部の村山貞夫によれば、この間に朝鮮から3000人の女性が連れてこられ、各部隊に配置されたという。これが表20に現れていないのは、行き先が満洲だったからだ。
1941年12月8日にアジア太平洋戦争が始まると、1942年中に、東南アジア向けに、朝鮮から少なくとも4回女性たちが輸送された。それは韓国人慰安所従業員の日記に、「一昨年1942、慰安隊が釜山から出発する時、第四次慰安団の団長をしてきた津村氏が、生鮮(ママ)組合の要員として働いていた」(1944年4月6日)とあることから分かる。このうち1回は、朝鮮人女性703人を運んでいる。(従軍慰安婦資料集 資料99)
台湾から
201 台湾では朝鮮総督府ほど整った文書が発見されていないが、各州知事・庁長官から台湾総督府への、渡航身分証明書や旅券の発行状況についての月例報告がある。「慰安所関係」「慰安所の酌婦及雇人」「酌婦」「慰安所就業」「軍慰安所」「軍慰安所関係」「慰安所従業婦」などに人数が集計されている。その人数には、業者や慰安婦以外に、従業員を含む場合がある。(表21 台湾での慰安所関係渡航身分証明書・旅券発行数 1938.7—1941.7)
表21の数には、業者やその家族・従業員が含まれるから、日本人慰安婦のこの期間1938.7—1941.7のトータルは、表21の884人より少ないだろう。日中戦争初期1938.7—1941.7に台湾から中国に移送された軍慰安婦の多くは、日本人や朝鮮人だったようだ。渡航先は華南がほとんどであり、華中が少しで、華北はほとんどない。この表の1938年12月は、369人となっているが、これは、第21軍司令部の為に台湾から11月に300人の渡航が手配済みという内務省警保局警務課の文書と一致する。このとき、台湾に住んでいた朝鮮人女性と日本人女性が主に送られたようだ。
アジア太平洋戦争が始まると、台湾での徴募の主力は台湾総督府ではなく、台湾軍になる。
1942年1月、東郷茂徳外務大臣は、台湾総督府の蜂谷外事部長から、軍の要求による慰安所開設のために渡航する者の取り扱いについて問われたが、「軍の証明書で渡航させるよう」に指示している。東郷茂徳外務大臣は、「旅券を発給することは面白からざるに付」とし、「軍用船にて渡航させよ」と一旦は書いたが、この部分を後で削除した。外務省は不快だったようだ。
1942年3月、台湾軍司令部が、東条英機陸軍大臣(兼首相)に、「南方軍総司令部が『ボルネオに慰安婦50人を送るよう』に要求してきたので、台湾憲兵隊が選定した三人の業者の渡航を許可されたい」と要請したところ、陸軍省はこれを許可しているので、このころの慰安婦徴募の主体は陸軍省だったことになる。(従軍慰安婦資料集 資料18・19)
中国の状況
203 表22の通り、海外在留日本人性売女性の数は、中国以外の地域では、1929年以降減少した。香港・澳門(マカオ)では1937年から減少した。
一方、満洲では1934年から激増した。中国本土では、1930年代は2000人台で、1938年から激増した。これは軍慰安婦が増大したからだ。表22は、朝鮮人と台湾人を含まない。
華北
チャハル省張家口には、
1936年末、芸妓が28人(日19人、朝9人)、酌婦が14人(日7人、朝7人)、女給が23人いたが、
1937年8月に日本軍がここを占領すると増加し、
1939年末、芸妓が131人、酌婦36人(うち朝鮮人22人)、女給159人となった。
1940年末、康荘には、酌婦17人(うち朝鮮人8人)、女給6人がおり、
宣花には、芸妓17人、酌婦31人(うち朝鮮人17人)、女給12人がいた。
204 大同には、大同炭鉱と雲崗石仏があり、日本人が増え、1940年末、日本人芸妓が87人、酌婦が94人(日15人、朝79人)、女給76人(日69人、朝7人)となった。
領事館は軍人に性病が感染しないように気を使った。性病は軍衛生に大いに関係するので、検査を厳正にし、治療を的確にし、防毒サックを備え付け、洗浄施設等の監督を厳しくし、警察嘱託医を督励し、軍医官を立ち会わせようとしている。(外務省警察史32巻)料理店の芸妓・酌婦の性病検査が厳格に行われたのだ。
厚和では、占領後治安が安定すると、業者の進出が相次ぎ、1938年、料理店11軒、芸妓22人、酌婦48人となった。1940年末、芸妓が52人、酌婦が82人(うち朝鮮人17人)、女給が53人となった。
集寧では、芸妓3人、酌婦25人(うち朝鮮人10人)、女給9人だった。
包頭では、1939年末、芸妓が27人、酌婦が186人(うち朝鮮人101人)、女給51人がいた。
山海関では、1937年末に少し減り、1938年末、日本人芸妓28人、酌婦31人(日13人、朝18人)、女給21人だった。1939年末、芸妓33人、酌婦16人(全部朝鮮人)、女給30人だった。
秦皇島では、1940年末、芸妓13人、酌婦27人(日3人、朝24人)、女給6人がいた。
205 北京(北平)では、1934年末、芸妓が19人、酌婦が34人(日5人、朝29人)だったが、1938年末には、芸妓420人(日410人、朝10人)、酌婦201人(日59人、朝142人)、女給481人、ダンサー51人(日46人、朝5人)と激増した。
「芸妓酌婦その他」の統計によれば、日本人は、1936年142人、1937年394人、1938年1134人、1939年1296人、1940年1345人と増加した。朝鮮人も、1937年111人、1938年179人、1939年201人、1940年297人と増加した。
石家荘では、日本軍はここを1937年10月に占領したが、占領と同時に、軍御用商人、芸妓、酌婦、飲食店、旅館、カフェーなどが激増し、1938年12月末、芸妓55人、酌婦262人、女給275人になった。料理屋「なる美」は、芸妓17人を抱え、一人当たり一ヶ月の花代は844円となった。「藤の屋」は芸妓3人、酌婦13人を抱えていたが、同花代は306円であった。これ以外に酒肴料の収入があった。占領直後は朝鮮人業者が多かったが、次第に日本人業者が増えた。
彰徳では、1939年末、芸妓29人(うち朝鮮人6人)、酌婦81人(うち朝鮮人43人)、女給62人がいた。
順徳では、1940年末、芸妓8人、酌婦42人(うち朝鮮人20人、中国人6人)、女給13人がいた。
天津では、1937年末、日本人人口は1万6000人いたが、1938年末には、3万5000人となった。日中全面戦争以前・以後の「芸娼妓酌婦その他」の数の変化は、日本人は、591人から1024人に、朝鮮人は、311人から939人に激増した。
206 1937年末、芸妓284人、酌婦377人、女給375人、ダンサー135人だった。
1938年11月、ダンスホール閉鎖命令が出て、ダンサーが全員廃業し、酌婦も61人が廃業した。芸妓は108人、女給は120人となった。1939年、芸妓469人、酌婦286人、女給681人になった。
1940年、日本租界内で、中国人娼妓479人が記録されている。
「芸娼妓その他」の記録を見ると、日本人は、1938年1333人、1939年1370人、1940年1233人であったが、朝鮮人は、1938年236人、1939年224人、1940年177人と漸減した。
済南では、1936年末、日本人の人口は2033人で、芸妓37人、酌婦11人だったが、1937年11月、日本軍が済南を占領した後の1938年末、日本人が7940人となった。鉄道関係者や会社関係者や接客業者が多かった。芸妓161人、酌婦229人、女給219人に増加した。
青島では、性売女性がもともと多かったが、占領後急増した。1938年末、芸妓262人、酌婦322人、飲食店女給189人、カフェー女給195人、ダンサー71人で、全体で(1936年比)392人増えた。
徐州は1938年5月に日本軍が占領したが、1939年末、芸妓75人、酌婦229人(日114人、朝114人、満1人)、女給・女中208人(日155人、朝52人、台1人)だった。1940年は、芸妓114人、酌婦222人だった。徐州には朝鮮人経営の料理店が12軒あり、朝鮮人酌婦が137人になり、日本人より多くなった。
207 開封では、1939年末、芸妓31人、酌婦140人、女給110人だった。1940年末は、芸妓68人(うち朝鮮人6人)、酌婦140人(うち朝鮮人116人)となった。
新浦は、1939年3月に日本軍が占領したが、1939年末、芸妓が7人、酌婦108人(日38人、朝70人)となった。
山西省は日本軍がいち早く占領した所だった。1937年11月、日本軍が太原を占領すると、天津・北京・石家荘・大同・張家口から1万人の日本人が流入したが、その大半は、接客業者と「特殊婦女」で、その顧客は、日本軍将兵と御用商人だった。1939年末、芸妓83人、酌婦231人、女給306人となり、1940年末、芸娼妓酌婦は、日本人172人、朝鮮人102人で、他に、女給256人がいた。
臨汾では、1939年末、芸妓46人、酌婦133人(日62人、朝71人)、舞妓2人、女給69人だった。
陽泉では、1940年末、芸妓13人、酌婦78人(うち朝鮮人54人)、女給14人だった。
楡次(ゆじ)には、芸妓が12人、酌婦が27人、女給が3人いたが、住み替えした者が多く、日本人芸妓酌婦は4、5000円借金を負っていて、朝鮮人は1000円借金を負っていた。
以上、酌婦の多くは、軍慰安婦だった可能性が高い。地方に行くほど朝鮮人酌婦が多くなる傾向がある。
華中 ここに写真がある。上海の海軍指定の慰安所である海乃家の業者家族と慰安婦や従業員たちの集合写真である。
208 上海では、日中戦争が始まると、性売女性に関する「従来の漸減策を持続し得ざる事情がある」として、従来の漸減主義を撤廃した。1938年末、料理店兼置屋27軒、芸妓275人に増加した。事実上の貸座敷として、滬月(こげつ、滬は上海市の別称)と末広ができ、貸座敷11軒、酌婦191人(日171人、朝20人)に増えた。このうち7軒が海軍専用慰安所だった。この他に、酌婦300人を抱える陸軍慰安所ができていた。
ダンサーは、内地の歓楽自粛による廃業のために上海へ進出してきた者が多く、300人に激増した。飲食店・カフェーも制限をやめ、臨時営業を許可し、女給は862人になった。その中には、性売買を行い、業者と収入を折半する者もいた。日本人私娼はこれまで250人くらいいたが、戦争開始後に正業=娼妓に転じても、まだ150人いた。その多くは朝鮮人だった。
209 芸妓・酌婦その他の女性は、1936年末、1062人、1937年末、915人、1938年末、1178人、1939年末、1795人、1940年末、1429人となった。(43巻)以上の数字には陸軍慰安所の慰安婦は計上されていないと思われるから、それも加えると満洲事変期と比べると激増したと言える。1944年、462人(日387人、朝75人)となり、うち軍慰安婦は211人だった。(表23)
南京では、1938年4月、陸軍・海軍・外務の三省関係者会同があり、次のように決定した。
ダンスホールの設置は当分許可しない
カフェーでのダンスホール類似の行為も許さない
芸妓置屋・待合は兼業できるのであれば許可する(どういうことか)
料理店・貸座敷・割烹・飲食店・カフェー・喫茶店は、現在の許可数でほぼ需要を満たしているので、しばらく経過を見る。
陸海軍専属の酒保・慰安所の取締りは領事館が行い、ここに出入する軍人・軍属の取締りは憲兵隊が行う。
将来設置される軍専属の「特殊慰安所」は、憲兵隊が取り締まる。
既設の「慰安所」の一部を「特殊慰安所」に編入・整理することもある。
210 ここで「慰安所」とは貸座敷のことであり、「特殊慰安所」とは軍慰安所のことである。この軍専属の特殊慰安所について、領事館は関与しないが、領事館の事務処理の便宜のために、営業者の本籍・住所・氏名・年齢・出生・死亡その他身分上の移動を領事館に通報することとされた。こうして、領事館が監督・取締りをしない、軍管理の、業者と女性たちが生まれた。
1938年末、甲種料理店が13軒、芸妓63人、乙種料理店が13軒、酌婦が94人となったが、この他に仲居が31人、女給が116人いた。
芸妓・娼妓・酌婦その他の人数は、1937年、2人、1938年、546人、1939年10月末、658人、1940年10月末、611人だった。
蕪湖には1938年末、料理店3軒あり、酌婦が81人いた。
漢口には日本租界があり、1936年末、甲乙芸妓66人、酌婦29人(朝22人、中7人)、女給16人(すべて朝鮮人)、ダンサー23人(日1人、朝7人、中15人)がいた。酌婦は娼妓ではなく、私娼のことだろう。
武漢は日本軍が1938年10月に占領したが、1938年末、料理店・慰安所が61軒で、芸妓・酌婦は、漢口で200人、武昌で292人いた。また「漢陽に軍慰安所関係者13人が滞在」と記録されている。ここでいう慰安所は貸座敷のことだが、その中に軍慰安所も含まれているかもしれない。
芸妓・娼妓・酌婦その他の統計によると、日本人は1939年、787人、1940年、627人で、朝鮮人は、1939年、380人、1940年、372人であった。台湾人は、1939年に1人だったが、1940年には8人になった。武漢で最も多い日本人は日本軍人だったから、これは軍の需要によるものだ。
華南
211 日本軍は1938年10月、広州(広東)を占領した。1936年末、広州には、料理屋が1軒あり、芸妓が3人、酌婦が1人いたが、1938年末、芸妓が20人、酌婦が155人(日54人、朝73人、台28人)、女給21人に増えた。在留日本人は713人しかいなかったので、その相手のほとんどは陸海軍将兵だった。
芸娼妓酌婦その他の統計でも、1939年、805人、1940年、629人だった。ただしこの統計には、1938年と1939年に派遣軍(第21軍)が移送した軍慰安婦は入っていないようだ。
海南島は、1939年2月に占領されたが、1940年末、芸妓・酌婦が、海口に、103人(日85人、朝2人、台16人)、瓊山(瓊(けい)は海南省の別称)に、30人(日7人、朝8人、台15人)いた。
アジア太平洋戦争下
日本陸海軍は、最前線を除く各占領地に軍慰安所をつくっていった。確認される限りでは、北は千島列島北端の占守島や、満洲の孫呉まで、南はスンバ島・チモール島まで、東は太平洋のポナペ島やブーゲンビル島まで、西はビルマのアキャブ(シットウェ)やインドのアンダマン・ニコバル諸島までつくった。
212 民政部第二復員班長による「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」は、オランダによる戦犯裁判にむけてつくられたものだが、そこに、オランダ領東インドのセレベス島(スラウェシ島)南部についての記述がある。これは海軍の記録である。慰安婦の待遇が良かったと強調している。
軍慰安所の数は、民政部がつくった慰安所が23軒、陸海軍がつくった慰安所が6軒あった。
民政部管理下の慰安所には、223人の慰安婦がいた。判明している限りでは、ジャワ人50人、トラジャ人71人、マンダル人4人、マカッサル人7人、カロシ人4人、チンレカン人4人と数多くのインドネシア人が動員されていた。(不詳が83人)
陸海軍が管理する慰安所には、トラジャ人40人、ジャワ人17人、ブギス人1人、中国人1人がいた。(従軍慰安婦資料集 資料99)(中曽根康弘も海軍慰安所建設で尽力していた。)
ビルマの前線のミッチナーには、軍慰安所が3軒あった。うち2軒は朝鮮人女性がいる慰安所で、41人の女性がいた。もう1軒は、広東から連れて来られた中国人慰安婦21人がいる慰安所だった。(同前 資料99)
ビルマのマンダレーには、1945年1月現在、軍慰安所が9軒あり、うち3軒は、朝鮮人女性17人がいる慰安所で、1軒は、広東から来た中国人女性11人がいる慰安所で、1軒は、日本人女性8人がいる将校専用の慰安所だった。他に「軍准指定慰安所」が4軒あり、ここにはビルマ人女性27人がいたが、そのうちの1軒は、ビルマ人兵捕(日本軍の補助兵力)専用の慰安所だった。(マンダレー駐屯地勤務規定)
213 1944年2月、フィリピンのマニラに17軒の軍慰安所があり、これとは別に、将校倶楽部が4軒あった。女性の民族別は分からない。
1942年、パナイ島イロイロ市には、2軒の軍慰安所があり、うち1軒は、フィリピン女性が入れられていた。その人数は、5月、7人、9月、15人だった。(従軍慰安婦資料集 資料67・103)もう1軒は、日本人女性がいたらしいが、史料が黒塗りされていて、日本人か、台湾人か、朝鮮人か分からない。
全容解明はなおまだ今後の課題である。
軍慰安所と貸座敷との異同
軍慰安婦制度と国内の公娼制(貸座敷・娼妓制度)はいずれも、公権力による女性の登録であった。前者は軍が行い、後者は警察が行った。またいずれも、前借金や年季で拘束し、検梅を強制し、選客の自由がなく、性売を拒否することができず、居住の自由がなく、基本的人権が侵害されていた。
しかし違いもあった。1933年以降、日本内地の娼妓には「外出の自由」が認められたが、これは、植民地の娼妓にも、軍慰安婦にも認められなかった。また、(日本内地の娼妓に認められた自由廃業が、)たとえ形式的であったにせよ、(軍慰安婦には)自由廃業は認められなかった。
また、貸座敷の場合、女性の募集や管理、施設の設置や必要な物資の供給などに、警察は関わらなかったが、慰安所の場合は、軍が関わった。
214 また、軍慰安所は、性売買専一であり、飲酒・飲食など性買以外の遊興はなかった。軍慰安所は、軍人・軍属専用であり、民間人には利用させなかった。戦地や占領地で軍が直接女性を募集したり、時には、暴力を用いて連行したりすることは、公娼制では考えられないことだった。日本人女性だけでなく、朝鮮人・台湾人・中国人女性が、軍用船で、東南アジアや太平洋の各地に移送されることも、公娼制では考えられないことだった。女性児童売買禁止諸条約などの国際法が想定していたのは、民間人による人身取引であり、それを国家が規制し取り締まることだったが、国家自体が直接女性・児童の人身取引にかかわることは、想定外の事態だった。買春する帝国は軍慰安婦制度でその極限にまで到達してしまったのだ。
コラム 5 久布白落実(くぶしろおちみ)と廃娼運動の限界
久布白落実は、1882年、明治15年、熊本県に生まれ、両親と共に若くしてアメリカに渡り、プロテスタントのキリスト者として教会で暮らした。父は牧師だった。
1913年、31歳の時に帰国し、1916年、上京し、キリスト教婦人矯風会の総幹事になり、廃娼運動の財政面を支えるため、五銭袋運動を始めた。
矯風会は、貞潔において男女とも同じ標準・道徳に立つべきだとし、飲酒・喫煙・賭博・アヘン・公娼・私娼に絶対反対を宣言していた。禁酒・酒造全廃と、廃娼は、矯風会の二大眼目だった。以下、矯風会の機関誌『婦人新報』から彼女の考えを検討する。
215 久布白は、公娼制度について、女子の貞操が売買され、肉が売買され、身体・心霊が売買される市場が公認され、厳存することは奴隷制度であり、このことは日本女性の無権利の烙印であるとした。1919.11
久布白は、国家的に人身売買と肉体売買を禁止し、男女関係に一大覚醒を与えることに着手した。1919.2
1919年、日本政府が国際連盟に、人種差別撤廃案を提出し、否決されたとき、日本政府は、世界に醜業婦を輸出し、国内に公衆性欲の奴隷たる公娼・酌婦等を放置しておいて、他国に人種差別撤廃を強いる前に、なぜ自国の奴隷を解放しないのかと久布白は批判した。1919.6
久布白は、性売を賤業とし、1920年、満洲に連れて行かれた日本人性売女性について、「支那に対して、私ども日本婦人として実に堪え難い苦悩を感じていることは、北満地方のように、既に200箇所も、我国の醜業婦が侵入していることである。(みっともない)このことは我が民族の心情を汚し、隣人を蹂躙することだ」とした。1919.1 (久布白の性売女性賤業観)
また久布白には、朝鮮人・台湾人・中国人女性に対する思いやりが欠如している。エルサレムでキリスト者の会議があり、キリスト教会と人種問題がテーマになり、朝鮮人のキム女史が、関東大震災での朝鮮人虐殺にふれて、「せめてあの時は間違って済まなかったという一言が聞きたい」と言った時、久布白は、朝鮮・中国・インドに誰一人友を持たないと初めて痛感したと述べた。1928.8
久布白は、1917年12月、横浜の少女が茨城県の宿屋に奉公に行き、酌婦になるように強要され、拒否すると、何度も転売され、苦しんでいることを知り、その少女を保護した。
1918年から1921年にかけて、性売を強要した業者たちを処罰しようとして、水戸区裁判所と東京地方裁判所・控訴院・大審院に告訴したが、どこの検事も、「罪状軽微にして取り上げる価値なし」と却下したとき、久布白は、「少女の意志を蹂躙し、無理強いに性売させた者になぜ罰則がないのか」と憤った。
216 久布白はこの時女性児童取引禁止条約の条約文を知り、これこそ永年求めていた法案であると確信し、島田三郎(衆議院議員091)、国際連盟協会、内務省、外務省等を訪ね、婦人保護法案を編んで、議員を通して帝国議会に提出したが、結局審議未了で終わった。
1922年、アメリカで開かれた矯風会世界大会に出席し、そこからヨーロッパに渡り、国際連盟で女性児童問題を担当するクラウデー部長に会い、「この問題は全世界の問題であるから、共に力を尽くしてやろう」と誓い合った。1925.10
帰国の途中シンガポールに寄港し、英国官憲から、ある少女の保護を依頼された。この少女は実の父母に身売りされ、養母によって芸妓にされ、シンガポールに連れて来られて、性売させられていた。英国官憲はこの時公娼廃止を実施していた。一時帰国していた養母は性売業者なのでシンガポールに入国禁止となり、少女は保護者を失った。日本領事館や日本人会に少女を渡すと、父母か養母によってまた性売させられることになるので、矯風会なら安心だと思われて保護を頼まれた。
久布白は、「日本では18歳になれば娼妓として身売りされるだろう、芸妓や酌婦ならもっと早く身売りされるだろう、女性の保護年齢を21歳に引き上げることは、今日只今の問題だ」と痛感した。(21歳以上なら人身売買はいいのか)1925.10
廃娼が実現しても、私娼が残り、実態は変わらないという意見に対しては、「確かに五十歩百歩だが、公娼廃止後は、散娼黙認から絶娼へ進まなければならない。18歳からの性売を公認する娼妓取締規則の撤廃が第一歩で、それから性病予防、性教育をすべきだ」とした。1931.4
運動の結果、県会での廃娼決議や実際の廃娼が進み、彼女は勝利だと感じた。1934年5月16日、全国警察部長会議で、内務省の宮野警務課長が、「公娼廃止の腹案ができており、近く正式局議で決定する」と述べたことを、『婦人新報』は、「内務当局が廃娼断行を声明」と持ち上げた。1934.6 久布白も「売淫制度撤廃が目前に迫っていることの確証を得ている」と述べた。
217 1935年、内務省の廃娼方針が確定したとして、久布白は「純潔同盟」を組織し、「純潔日本」の建設運動を始めた。
しかし、実際は、いくつかの県は廃娼したが、公娼制度は残った。また日中全面戦争が始まり、軍慰安婦制度や軍需企業用の慰安婦制度ができたが、久布白はこの点に関してノーコメントである。
1920年、イギリスのホレイショ・H・キッチナー将軍が、第一次大戦出征兵士に対して、「出征中、汚れた婦人に触るなかれ、特に外国の淫婦に触るなかれ」と訓示したが、久布白はこのことを紹介している。1920.11
日中全面戦争開始直前、久布白は、「軍隊の規定についてよく知らないが、陸海軍人の飲酒と性病に関して、建前が示されることを望む」と述べた。1937.7
久布白は満洲・華北を視察し、将兵を慰問し、満州国の発展を喜んだ。久布白は、満洲での遊蕩機関が発展し、性病が蔓延することを心配しているが、軍慰安婦問題には触れない。1937.11
1939年にも訪中し、「満洲移民は理想的だ」とし、軍慰安婦問題に触れない。1939.7, 10 (ビビッているのか)
その後、純潔のために、公娼問題の整理と売笑自粛を論じているが、軍紀問題について、「皇軍の無比を信頼する」と述べた。1940.2
1940年に確立したファシズム体制に関して、「矯風会の主義主張は、この新体制において愈々その必要性が増している。困難を突破し、東亜建設の大業の達成を冀(こいねが)うとすれば、酒と戦い、性病と戦い、堅忍、不抜、完全に一億一心、所謂大政の翼賛に当たらねばならない」とした。1940.10 (ファシストに変身)
矯風会員の中には、「皇軍御用」とは言わないが、中国へ行く日本男性のために、次々に送られる「女」という「荷物」に「しみじみと考えさせられる」とする人もいた。生田花世である。1939.4
廓清会理事で、仏教徒の高島米峰は、企業慰安所について、「最近都内の大工場付近の17ヶ所に、一種の慰安所が設けられ、せっかく正業に挺身しようとしていた数千の下級芸者をこの接待につかせていると聞くが、工場に働く若い女性の性的危難を救うために止むを得ないとか、単身東都に留まっている男性の性の解決に絶好の方法だと言うのは、道義神経麻痺症が膏盲(こうこう)に入っている」と批判した。(『廓清』1944.8)
第Ⅶ章 公娼制廃止から売春防止法体制へ ――1945年~1958年
221 1946年1月21日現在、貸座敷業者3826人、娼妓1万2363人だった。連合国軍総司令部指令により公娼制が廃止され、貸座敷から転じた特殊飲食店は、1947年6月1日現在、6104軒、業者の国籍別は、日本人6031軒、朝鮮人40軒、中国人24軒、台湾人9軒、その他53軒であり、朝鮮人経営の店は、一般に言われるほど多くなかった。
一 連合国軍慰安所の設置
日本政府は連合国軍のための性的慰安所の設置を決定した。東久邇宮内閣は、8月17日に成立し、8月18日、水池亮・内務省警保局長は「外国軍駐留地における慰安施設について」という通牒を、警視庁と各庁府県知事に出した。
「連合国軍が駐留する場合は、性的慰安施設・飲食施設・娯楽場を、秘密にかつ急速に開設できるように準備を進めるように」指示した。灘尾弘吉・内務次官がこの文書を決裁した。灘尾と水池は、翌日8月19日に転任し、橋本正実・警保局長が引き継いだ。
222 8月21日の閣議で、近衛文麿国務相は、「連合国軍の性暴力から日本女性を守る必要がある」と述べたそうだが、それ以前に、坂信弥(のぶよし)警視総監は、近衛から「これは下の者にやってもらうわけにはいかんから警視総監にやってもらう」と指示されていた。坂警視総監は、愛宕山の料亭・嵯峨野の主人に依頼し、資金は日本勧業銀行から4000万円融資させたとのことだ。(続内務省外史)
坂警視総監は、署長会議で、「アメリカ兵のために南京でのこと(強姦・虐殺)のようなことがあってはたまらんから、しっかりやってくれ」と指示したという。日本の指導者は、アジア太平洋戦争下の日本軍の占領地で、日本軍人による、住民に対する強制性交=強姦事件が頻発したことをよく知っていたので、連合国軍による占領下でも同様の事件が起こると確信していたのだ。ここでも性の防波堤として犠牲にされる女性は、モノ扱いされ、人権を無視されていた。
警視庁は、8月18日、業者を集め、公的慰安施設について協議させ、8月28日、特殊慰安施設協会(後にRAA協会と改称)が設置・認可された。
特殊慰安施設協会RAAは、「昭和のお吉*数千人の人柱の上に、狂爛を阻む防波堤を築き、民族の純潔を護持する」と声明し、女性を募集した。8月28日、連合国軍の先遣部隊が厚木飛行場に着き、東京大井鈴ケ森町の料亭・小町園に最初の連合国軍用慰安所ができた。
*斎藤きち1841—1890 は、ハリスの世話をした幕末の下田の芸者で、1928年、十一谷義三郎が、彼女に関する小説『唐人お吉(とうじんおきち)』を発表した。
9月中に1360人の女性が採用され、若林町(将校専用)、大井鈴ケ森町、大井海岸町、立川、福生、調布、三鷹、多摩郡三田村、千葉県市川(将校専用)、箱根などに慰安所が開設された。また、銀座に、連合国軍専用のキャバレー・バー・カフェー・ダンスホール・ビヤホール・ビリヤードが開設され、高輪と赤羽にキャバレーが、木挽町にビヤホールやダンスホールが、熱海に旅館やキャバレーが設置された。
与謝野光・東京都民生局予防係長は、GHQの要請を受け、向島、芳町、白山の芸者街を将校用に、貸座敷の吉原、新宿、千住を白人兵士用に、亀戸、玉ノ井、新小岩の私娼街を黒人用にするという提案をしたという。
223 坂信弥警視総監は、この施策を推進したが、彼は、1936年、鹿児島県警察部長時代に、海軍の鹿屋(かのや)航空隊の少年航空兵が性問題を起こすので、性売買用のダンスホール(特殊飲食店)をつくり、また、日中戦争下に上海領事(警察部長)となったときには、軍のダンスホール禁止要求を拒絶して、高級慰安の場を維持した。男性の慰安と治安維持のために女性を使うという根深い伝統がここに見られる。
RAAの施設は、東京、市川、熱海、箱根以外にはなかった。各道府県は、独自に連合国軍用慰安施設をつくった。
神奈川県では、警察部保安課がこれを担当し、横須賀で400人の女性を集め、元海軍工廠工員宿舎など数箇所を用意した。また横浜では80人の女性を集め、山下町のアパート・互楽荘で、9月3日から営業させた。施設補修資材や営業用物品を警察が提供した。
224 その後、横浜の互楽荘は閉鎖され、真金町、神奈川、大丸谷、曙町、新天地、楽天地、本牧、大久保、入船に慰安所が設置された。業者は174人、接客婦は355人だった。
茨城県では、警察が、特殊飲食店組合を説得し、業者に施設や必需物資を斡旋し、警察が慰安婦も募集し、9月20日、土浦に慰安所を開設し、続いて、水戸、日立(多賀)、古川に慰安所を開設した。
土浦では、独身警察官合宿所を改造し、ここに霞ヶ浦海軍航空隊のベッドや寝具を持ち込み、慰安婦20人で慰安所を開設した。
群馬県警察部は、高崎など県内の主要地に、連合国軍将兵用に慰安施設を開設した。当局はこれが性の防波堤として大いに役立ったと自慢している。群馬県は、乙種料理店の整備、休業者・廃業者の復活、酌婦指定数の増加、紹介業手数料の値上げ、酌婦募集旅行への便宜供与、酌婦への配給米の増加、布団などの特別配給などを行った。(群馬県警察史 二巻)
栃木県では、11月4日、警察の指導で、栃木県国際慰安協会が設置され、宇都宮市の南新町慰安所、日光町の大名ホテル、合戦場慰安所など性的慰安所5箇所と、ダンスホール2箇所を設置した。
広島では、警察部が県費36万円の予算を追加計上し、業者に、「警察が資金を立て替え、警察が女性を募集し、必要物資は斡旋する」という条件で、9月20日、広島県特殊慰安協会を設立させた。
警官が慰安婦の募集に当たり、女性に、「貸座敷免許地で慰安婦になってくれれば、毎日白米4合と油・牛肉・砂糖などを十分に斡旋しする」と説得し、500人を確保し、安芸郡船越町、吉浦、厳島、広町の工場や徴用工員宿舎を改造した慰安所に送り込み、10月7日に開業した。さらに、福山・大竹・呉・江田島などにも開設し、慰安婦総数は725人になった。(広島県警察百年史 下巻)
225 連合国軍は当初これを受け入れて利用した。
米陸軍省は、性病予防や、兵士の買春スキャンダルを避けるために、軍が性売買に関与したり、兵士が買春したりすることを禁止していたが、GHQ公衆衛生福祉局長のサムス大佐や、性病管理将校のゴードン中佐や、第六軍・第八軍の関係将校は、これに従わなかった。
兵士の性病罹患率が急上昇し、従軍牧師・司祭(チャプレン)が買春に反対し、買春の実情が本国で報道され、陸軍省は再度、性売買禁止を指示した。
1946年3月18日、第八軍は、性売買施設立入禁止=オフリミット指示を出し、RAAなど施設が閉鎖された。広島県ではその前の1945年12月16日に、立入禁止の命令が出された。
二 公娼制廃止指令とその骨抜化
226 内務省は、連合国軍慰安所の設置に続けて、公娼制度廃止に取り組んだが、これは、GHQの公娼制廃止の意向に気づいて行ったようだ。
1945年11月15日、小泉梧郎・内務省警保局長は、「貸座敷営業取締に関する件」を、警視総監と各庁府県知事に通牒した。「貸座敷制度は、遊蕩心の誘発、犯罪の動因、男女道徳観念の麻痺などの悪影響が少なくないので、貸座敷営業を自発的に廃業・転業させるように配意せよ」とした。
警視庁は、1946年1月12日、保安部長から各警察署長あてに、「貸座敷業者と娼妓を自発的に廃業させるが、私娼としての稼業継続は認める」と通牒した。具体的には「貸座敷を接待所とし、娼妓を接待婦と呼称をかえて、認める」というもので、居住の自由はなく、強制的性病検査を行い、単なる名称変更に過ぎなかった。またその取締内規に、「止むを得ない事情がある場合は、17歳から稼業できる」とし、従来より後退する規定があった。ただし、改善点は、稼業によって借金を返済する契約を禁止し、揚代の50%以上を接待婦の取り分とするとした。
1946年1月15日、警視庁管内で貸座敷・娼妓制が廃止された。警視庁は「これによって居住制限が緩和され、揚代の配分率が改善され、契約内容が更新されたので、娼妓は歓喜し、明朗になった」と自画自賛した。
ところが実際は、接待婦は、旧貸座敷指定地域で住まねばならず、「居住制限の緩和」は嘘だった。
同様の措置を千葉、福島、長野が行った。
227 1946年1月21日、GHQは、「公娼制廃止に関する指令」を出した。「公娼の存在を許容する、一切の法律・法令・規定を廃棄・無効とし、女性を束縛し、身を委ねさせる、あらゆる契約・合意を無効にするよう」日本政府に命令し、「公娼制の維持は、デモクラシーの理想に抵触し、個人の自由発達に矛盾する」とした。
この時、内務省の方針を実現せず、公娼制を存続していた道府県は、北海道、山形、神奈川、山梨、静岡、福井、滋賀、京都、大阪、奈良、兵庫、岡山、鳥取、山口、福岡、大分、佐賀、熊本、鹿児島だった。
内務省警保局は、GHQの指令を受けて、1946年2月2日、「公娼制度廃止に関する件」を警視総監と各庁府県知事に通牒した。「内務省の娼妓取締規則を本日廃止したので、関係地方法令を、20日までに廃止すること、性売買で女性を拘束する契約・合意は一切無効たるべきこと、抱主に前借金・年期などの契約を、自発的に放棄させること」を指示した。(自発的に放棄する人がいるだろうか)
警保局は同時に「公娼廃止に関する件」を発し、「①今回の指示は、既に公娼制を廃止した警視庁・各府県には関係しない、②本人の自由意志で、公娼を私娼化することは差し支えない、そのための新しい法令を制定せず、訓令・内規によるか、従来の私娼に準じて取り扱われたい、③前借金・年期などの、抱主による自発的放棄の指導は、警察の深くタッチする問題ではないので、公娼を建前とする前借(娼妓稼業で返済する前借金)でないように、形式を変えて円満に協議するよう指導されたい」と内密に指示した。これは抜け道だった。1872年の芸娼妓解放令布達の抜け道と同じだった。
228 GHQはこれに気づき抗議し、内務省は、1946年5月28日と、8月20日に、通牒を出した。
5月28日の指示は、
①料理屋・飲食店・酌婦置屋等でも、業者と従業婦との前借金や年期の契約が、女性の意思や身体の自由を拘束して性売買させる場合は、GHQの指令が適用される。
②貸座敷営業取締規則廃止前の前借金・年期契約は、法的に無効にならないが、業者に放棄するよう慫慂されたい。料理屋・飲食店・酌婦置屋の契約も、同様にするよう慫慂されたい。
③個人の自由意思による性売買は、GHQの指令とは別問題だ。
GHQは、料理屋・飲食店・酌婦置屋などの準公娼制(私娼黙認制)も問題にしていたが、内務省は、前借金・年期契約を無効にする法的措置を取らなかった。
内務省は8月20日の通牒で、GHQが8月に各部隊に指示した覚書を、警保局が警視庁や各道府県に知らせた。
8月のGHQの覚書
①1月21日のGHQ指令の根本趣旨は、女性を奴隷化すること enslavement of
women を禁止することである。(警保局は「奴隷扱いすること」とぼかしている。)
②このことは、性売女性だけでなく、ウエイトレス・芸妓・ダンサーなど、本人の意思に反して性売を強制される女性にも適用される。
③性売は合法的な仕事とは認められない。ただし、生活のために個人が自発的に性売に従事することは禁止されない。
④如何なる女性も、本人の意思に反して性売を強制されない。承諾した場合でも、いつでも、如何なる理由でも、撤回できる。
⑤女性に性売を強制する契約・約束・負債は、一切無効である。
⑥金銭支払の義務、勤めをなす義務は、すべて解消されたものとみなし、負債はすべて完全に支払われたものとみなす。
⑦連合国軍の各司令官は、この覚書の実施に際し、その内容をすべての日本の関係者に通達するために、適切な措置を講じ、地方警察官を指導し、この指令に違反した者を起訴せよ。
229 1946年8月7日、公衆衛生福祉局のジョゼフ・ザコーネ法律顧問は、1946年1月21日の公娼制廃止指令の最も重要な動機は、公娼だけでなく、女給・芸妓・ダンサーなどを含め、本人の意思に反して性売を強いられるかもしれない女性の奴隷化を禁止・防止することであるとした。
1946年8月20日、民生局次長のチャールズ・ケーディスとアルフレッド・ハッセー海軍中佐と、政治部法制司法課長のアルフレッド・オプラーの三人は、性売買制度について話し合ったが、その時、オプラーは、「性売買の処罰化には反対だが、占領軍職員を性病感染から守る方策を強化し、強制性売に対して厳しく対処すべきだ」と述べている。
これを受けて司法省刑事局の勝尾鐐三は、GHQに呼び出され、ホワイト・スレーブの解放を告げられた。
1946年11月14日の内務・厚生・文部三省次官会議は、この覚書を意識して、「私娼の取締並びに発生の防止及び保護対策」を決定した。
・性売とその媒介や部屋の提供を禁止するが、性売買は社会上止むを得ない悪と認め、特殊飲食店等を指定し、地域を限定して、集団的に行う場合は容認する。
・定期的または随時に性病検査を行う。
・接客婦は、性売以外の正業を持たねばならない。
つまり、貸座敷のような形態を取らず、女性の登録もしないが、私娼として黙認するという準公娼制だった。
230 内務省は、「従来の貸座敷と慰安所の建物は、旅館や下宿屋などに転換させるが、やむをえないものは、特殊飲食店として認め、従来の娼妓や私娼は、自由意志によって建物に下宿・寄遇する者という建前をとるよう」指示した。
特殊飲食店は、従来の貸座敷や慰安所の一階に喫茶室やダンスホールを取り付けたものだが、実際は飲食物を提供しない飲食店だった。これが赤線である。赤線=特殊飲食店街(特飲街)が公認され、その周りに、黙認の青線ができた。
内務省は「芸妓・ダンサー・酌婦・女給は、性売以外の正業によって自活し、店主から給料を受け取る者」という建前を取った。
厚生省は、酌婦・女給は独立の正業とは認めず、売淫婦を暗示すると難色を示したが、「芸妓またはダンサーとして芸を目的とする正業を持たせるということにしたい」とした。内務・厚生の両者の差は、建前の違いに過ぎなかった。
1947年1月15日、内務省は、密売淫以外の売淫も処罰するため、警察犯処罰令を改定し、売淫を処罰するようにした。性買男性を処罰するという発想はなかった。
231 (GHQは)性売を目的とする一切の雇用契約と金銭消費貸借契約を無効とするため、芸娼妓酌婦等紹介業を禁止し、関連庁府県令を廃止した。1947年1月15日、(ポツダム)勅令第9号を出し、「暴行や脅迫によらなくても、婦女を困惑させて売淫をさせた者や、婦女に売淫させることを内容とする契約をした者を処罰」できるようにした。
ただし、刑法で国内の人身売買を罰する規定は検討されなかった。2005年に刑法で、人を買い受けた者と未成年者を買い受けた者や、人を売り渡した者を処罰する規定が入った。
紹介業は、関係法規が廃止され、女性を性売させることを内容としない限り、放任された。正業につけさせると主張されれば取り締まれなかった。
1947年職業安定法が成立し、その第32条で、「何人も有料の職業紹介事業を行ってはならない」とされ、芸娼妓酌婦等の紹介業がなくなった。ただし、刑法には国内での人身売買罪の規定はなかった。(前述)
前述の1946年11月14日の三次官会議で、「闇の女(街娼)の発生防止・保護策」があり、
・闇の女の取締りの強化
・貧困から転落して検挙された女性を、婦人福祉施設にあずけて更生させること
・正しい男女交際と性道徳の向上
などを謳ったが、性売女性は、転落した女性であり、取締りと更生の対象とだけみなされていた。
232 1948年、風俗営業法が施行され、赤線の特殊飲食店と従業婦は、カフェーと女給という呼称になり、性売買が容認された。
感想 敗戦直後の日本人内務官僚は、女性の人権を認めるという米国の価値観を理解できなかったのか、それとも理解しようとしなかったのか。GHQの覚書「③性売は合法的な仕事とは認められない。ただし、生活のために個人が自発的に性売に従事することは禁止されない」ことに付けこんで、女性を「特殊飲食店」の従業婦とし、形式的に正業とみなし、実質的に性売を維持し続けたいという。この流れには、警察と業者との馴れ合いがあり、右派=天皇主義者の価値観も影響しているのかもしれない。
三 売春防止法体制へ
売春等処罰法案をめぐって
1948年、芦田均内閣は売春等処罰法案を国会に提出した。この法案は、売春を、報酬を受ける約束で、不特定の相手方と性交することとし、性売者と性買者と仲介者を処罰し、女性を奴隷的に拘束することを禁止しようとするものだったが、性売女性の保護や更生の規定がなく、性売買を犯罪とし、女性は処罰されるだけだと批判され、廃案となった。
1945年10月、国際連盟が設立され、1946年から性売買問題に取り組み始め、1949年、国際連盟が制定した女性児童取引禁止に関する条約を統合した「人身取引及び他人の性売からの搾取の禁止に関する条約」を採択した。
・本人の同意があっても、性売を目的として人を勧誘・誘引・拐去することや、人の性売から搾取することを禁止する。(第一条)
・性売所(売春宿)を経営・管理したり、それに融資したりすることや、建物など場所を貸与・賃借することを禁止する。(第二条)
233 1951年、サンフランシスコ平和条約が締結され、日本本土は独立したが、日本本土には赤線・青線が維持された。占領が終わり、ポツダム勅令が廃止されたが、婦女に売淫させた者を処罰するポツダム勅令第九号231を継続する運動が起こされ、これを法律としての効力をもつものとする法律案が1952年、国会で可決された。
234 参議院で、女性の人身売買防止と基本的人権の保護のためには、この勅令だけでは不十分とし、根本的な改正法案を政府が提出すべきだという決議がなされたが、政府提案は行われなかった。
矯風会やキリスト教協議会が、性売買取締強化の陳情をしても、佐藤藤佐(とうすけ)検事総長は「取締りがやりにくいので、性売女性を一ヶ所に集めて営業させるといい」と答えたという。
矯風会などは、女性児童に性売を強いて搾取する業者を撲滅し、女性児童を守るために、1952年12月、売春禁止法制定促進委員会を結成した。また労働省の諮問を受けた婦人少年問題審議会(会長・神近市子)は、「一部の女性の肉体をもって、一般の女性・児童を守るという考え方は、基本的人権を蹂躙する。黙認主義を廃し、性売取締りを強化することが必要だ」と答申した。
・性売は非合法であるという観念を国民に植え付けるため、単独の売春禁止法を制定する。
・性売女性に対して、罰金・拘留等と、保護処分を科す。
・買春男性を処罰する。
・他人の性売によって利益を得る者には、厳罰を科す。
この答申の、性売女性を処罰することは、問題だった。
1953年3月、売春等処罰法案が議員立法で国会に提出された。
・性売者・性買者ともに罰金または拘留または科料に処す。
・性売のために勧誘した者を、罰金または拘留あるいは科料に処す。
・性売常習者、性売周旋者、場所の提供者等を、懲役または罰金に処す。(買春常習者の処罰規定はなかった。)
・女性を騙し、或いは困惑させて、または親族などの影響力を利用して、性売させた者は、懲役または罰金に処す。
・性売の報酬の収受、性売契約等も処罰する。
・性売施設の経営または管理者を、より重い懲役または罰金に処す。
以上は、人身取引が行われている赤線の実態に対処するものだった。
その後同様の法案が何回か国会に提出されたが、審議未了あるいは廃案になった。
1955年、鳩山内閣の時の第22回国会に、神近市子ほか18人の議員が、衆議院に提出した法案は、否決賛成が191、反対142で、否決された。
同法案の7月7日の審議で、吉原のサロン・トルコで働いていた女性は「前借金8万円を借り、二ヶ月働き、22万円稼ぎ、取り分40%なので、8万8千円あるはずなのだが、借金が5000円しか減らなかった。煙草・ちり紙・衛生用品代や、複数の客を取り、相手をできない男を待たせておく回し部屋の電気代・布団代などを差し引かれる。多い時は1日に、5、6人の男を相手にし、稼働時間が長く、支給される食事も悪く、外出には常に監視がついて、自由行動を許されず、病気でも休めなかった」と証言した。
赤線の下で人身売買と自由剥奪が行われていたのだ。
感想 これは、女性が自主的に性売しているとされる赤線が、身売りの娼妓と変わらないことを示している。前借金、搾取、監視=居住や移動の自由の剥奪などがその証拠だ。
236 長崎市寄合町の赤線で働いていた女性は、「子どもを抱えて親子心中するところまで追いつめられ、死に至らないために選んだ道がここだった。一方で、『あなたも一般の女性と同じ』と言われながら、この法案では、『売春婦、施設に追い込む、処罰する』ということになれば、罪人のような気分になる」と抗議した。
吉原で赤線のカフェーを営業し、全国性病予防自治会(全性、警察の指導で設置された組織)という業者組織の代表だった鈴木明は、「これまでこの法案が通らなかった原因は、性売買の根源をつかずに、表面の姿だけを追って、厳罰によって性売を禁止できると考えたところに、大勢の人々の不安・危惧がある」と主張した。
委員会の裁決で、日本民主党の椎名隆議員(千葉二区)は、「この法律ができると、百数十万の被疑者ができる」と言って反対し、自由党の福井盛太議員(群馬二区)は、「法施行後の対策ができていない」と反対した。法案に反対する日本民主党の山本粂吉議員(茨城三区)は、「内閣に強力な審議機関をつくり、次の国会に法案を提出すべきだ」とする決議案を提出し、採択された。参議院で花村四郎・法相は、「買春対策協議会の答申案が8月に決定されるので、つぎの通常国会に政府から法案を提出する」と言うことになった。
賛成討論をした日本社会党の神近市子議員(東京五区)は、「国会内の廊下で業者が、『あの男には二十万だったか、あの男には三十万だったっけ』という噂話をしている」と述べたが、後で、椎名隆議員と民主党の真鍋儀十議員(東京六区)は、国会活動に関して買春汚職事件で摘発されることになった。
237 1958年9月29日、東京地裁判決は、買収側の三人の特殊飲食店経営者のうち、全性236理事長の鈴木明に、懲役1年、専務理事の山口富三郎に懲役8月の実刑、会計の長谷川康に懲役6月(執行猶予)に処した。また収賄側の椎名隆元議員が、懲役10月の実刑、真鍋儀十元議員が懲役10月(執行猶予)に処せられた。
椎名議員は、1956年10月、謝礼10万円を収賄し、真鍋議員は、9月に30万円を受け取った。1961年の高裁判決は、一審の判決を維持したが、全員が執行猶予となった。捜査を担当した伊藤榮樹・検事は、「全性の幹部はいずれも海千山千の売春業者で、まことに口が堅く、理屈による説得も聞かず、往生した」と述べた。1988.5.20全容解明はできなかった。
感想 以上のことから、業者、警察、政治家がグルになって、女性を監禁し、搾取することを継続していたと言える。
前借金無効の最高裁判決
1955年10月7日、最高裁判所は、前借金は消費貸借契約として有効であるという判決を取り消し、契約は全体として無効であるという判決を下した。
1953年、一審の裁判が松山地裁宇和島支部に起こされた。16歳未満の少女が料理屋に抱えられ、酌婦として稼動することを条件に、その親が4万円を前借し、1950年から半年稼動したが、前借金返済ができず、親とその保証人に支払うよう業者が請求した。
原審高松高裁は、判例に従い、「酌婦稼業により前借金を返済するという特約は、公序良俗に反して無効だが、消費貸借契約は有効である」とし、前借金の返済を命じた。
238 最高裁は「契約の一部たる稼動契約の無効は、ひいて契約全部の無効を来たすものと解するを相当とする」とし、「労働基準法・児童福祉法・民法第90条により、酌婦としての稼動契約は無効であり、民法第708条により、不法の原因のための金員の返還請求はできない」とし、「酌婦稼業による前借金契約を、酌婦稼業による弁済契約と金銭消費貸借契約という二個の独立した契約と解するのは、理論上の技術に過ぎない解釈であって、実社会の現実的取引より(から)遊離した解釈である」とした。
芸娼妓解放令(1872年10月2日011)から83年、娼妓取締規則公布(1900年5月24日045)から55年後のことであった。
売春防止法の成立
労働省婦人少年局の1955年4月末日現在の調査によれば、全国の集娼地域は、赤線・青線・三業地・駐留軍基地付近・保安隊付近の五種類があり、1921地域、業者数3万7112人、性売女性12万900人であった。この他にもぐり・街娼などの散娼が相当数おり、総計は30万から50万と推計された。
1954年の調査によれば、その成り立ちは、
・1948年頃までは、戦前からの業者が、最初は占領軍のために、後には日本人相手に切り替えたものや、旅館や飲食店が、収入の多い性売買業に転換したものが多く、
・1949年から1950年頃は、引揚者や戦災者の露天商・マーケット業者が、飲食店から性売買業に転化したものが多く、
・1951年から1952年頃は、警察予備隊・保安隊や戦災復旧工事の飯場を相手にできたものが多く、これらとは別に、米軍基地周辺に素人住宅の貸間から転換した性売買ハウスがあった。
239 別の調査によれば、1956年4月30日現在、性売女性数は、特飲街(赤線)5万9298人、二業地・三業地2万3421人、特飲街以外の集娼地(青線)2万6029人、米軍基地周辺1万3137人、街娼(ストリートガール)1万4331人、散娼(コールガール)1万2301人、街娼・散娼区分不能2206人、計15万723人だった。(売春に関する資料 二号)公娼制は廃止されても、公認・非公認の性売施設が拡大していた。
労働省婦人少年局の依頼で総理府国立世論調査所が1953年に風紀についての世論調査を行った。
・遊廓に似た場所(赤線や青線)があったほうがいい。35% ないほうがいい。47%
・性売を罪悪と考える。78%
・男の性買は止むを得ない。46% 一般的に悪い。76%
日本は国際連合に加盟するために、1948年の世界人権宣言や、1949年の「人身取引及び他人の性売からの搾取の禁止に関する条約」に対応し、赤線や青線を廃止しなければならないという(為政者の)意識も高まった。
240 東北地方では、1950年代前半の凶作で、少女の性売業者への身売りが増加し、1955年、鹿児島の旅館・松元荘の経営者夫妻が、地元の女子高校生に、接待のために性売を強要した。
1956年5月2日、政府提案による売春防止法案が国会に提出され、衆参両院で可決され、21日に成立した。
・売春(性売)は、人としての尊厳を害し、性道徳に反し、風俗を乱すものである。(第1条)
・売春とは、対償を受け、または受ける約束で、不特定の相手方と性交することである。(第2条)
・何人も売春し、またはその相手方になってはいけない。(第3条)
・この法律は売春を処罰するのではなく、売春を助長する行為等を処罰するものである。(第1条)
これにより、業者による売春の周旋、脅迫・暴行等により売春をさせる行為、売春の対償の収受、売春のための前借、売春をさせる契約、場所の提供、売春をさせる業、売春をさせる業への資金・土地・建物の提供などが、刑事処分の対象となり、特殊飲食店(赤線)や青線の維持ができなくなった。
しかし、性売者の相手方になってはならないという倫理規定はあったが、性買者を処罰する規定はなかった。
また、附則第4項で、売春またはその相手方になる行為を処罰する条例は効力を失うと規定したので、東京都が1949年に定めていた「性売者・性買者は5000円以下の罰金又は拘留に処する」という処罰規定が無効になった。
241 また売春とは性交だと限定されたので、性交類似行為は禁止の対象外であり、トルコ風呂などの風俗営業が黙認され、栄えていった。また一部の地方条例にあった性交類似行為の禁止規定が無効になった。
また対償を得て、繰り返し性交しても、特定の相手なら禁止されなかったので、特定の旦那だけを持つ芸者やオンリー・妾などが許容され、経済的に豊かな男の買春を助長すると批判された。
また、搾取するヒモの処罰規定もなかった。
旅館・下宿・料理屋・バーなどに転業すれば継続営業することが可能であり、単純買春は取締りの対象外となり、自由意志という名目で性売買は発展し、管理買春(搾取買春か)や性売女性の搾取もなくならなかった。
エピローグ
243 1926年に締結された奴隷制禁止条約は、奴隷制を、「所有権に伴ういずれか若しくは全ての権限が行使される者の地位又は状態をいう」(第1条)と定義した。ここで「地位」は法的な奴隷制を意味し、「状態」は事実上の奴隷制を意味した。
244 所有権に伴う権限の行使とは、人の支配であり、その使用・管理・収益・移転又は処分により、その人の個人としての自由を剥奪するものと理解されている。奴隷制は人の支配であり、支配とは、人の自由または自律性を重大なやり方で剥奪することだった。
貸座敷娼妓制度は、外出の自由、居住の自由、遊客を選択ないし拒否する自由がなく、検梅を強制され、廃業の自由は事実上ないから、これは事実上の奴隷制であった。1933年、内地で、外出の自由が認められたが、貸座敷娼妓制度が奴隷制であることに変わりはなかった。
1920年代から1930年代前半にかけて、貸座敷娼妓制度が事実上の奴隷制であるという認識が広まり、安倍磯雄、久布白落実、林歌子、山室軍平などの廃娼運動家だけでなく、首相を務めた若槻礼次郎や、政治家の長井柳太郎、星島二郎、田川大吉郎らや、読売新聞なども同様の見解を表明した。国際連盟事務局次長を務めた新渡戸稲造や、1935年に公娼制度対策を作成した時の内務省警保局もこの中に入れることができる。
しかし、日本政府は、日本には奴隷制はないとして、奴隷制禁止条約を批准しなかったし、性売買での事実上の奴隷制を廃止しようとしなった。「帝国外に絶娼、帝国内に存娼」という原則を確立して、外国からの批判をかわし、日本人の買春を保障した。海外の居留地や租界では、「公認と隠蔽の原則」で、料理店酌婦制度などの方式で性売買を公認して、対外的に隠蔽した。これが内地に還流し、廃娼県で適用された。
245 満洲事変以降は、日本軍や日本政府は、軍慰安婦制度という新しい性売買システムを自ら作り、運営し、日本・朝鮮・台湾・中国の女性たちは、中国・東南アジア・太平洋の島々に連れて行かれ、拘束され、隷属状態におかれた。また東南アジア・太平洋地域の女性たちは、日本軍軍人・軍属の性の相手をするために、人身売買や誘拐だけでなく、軍事的な暴力によっても動員された。
日本政府や軍は、女性たちの置かれた奴隷状態をなくすのではなく、女性たちは自由意志で性売しているとし、その責任を回避し、性売買施設を維持した。
沖縄と朝鮮
1944年、第32軍が沖縄に配備された時、短期間に数多くの軍慰安所が設置された。辻(チージ)遊廓*の女性や、九州から連れて来られた女性や、朝鮮人・台湾人の女性などが動員された。2012年までに確認された軍慰安所の数は145ヶ所になる。
*「辻」は沖縄の言葉で、「四つ角」の意味ではなく、「辻」という場所がある。辻は、高い所、頂を意味する。辻遊廓は沖縄固有の遊廓である。
ついで、米軍による占領の直後から、住民は米兵による性暴力に直面した。
1950年代、米兵による強姦=強制性交を防ぐためとして、バー、キャバレー、ナイトクラブ、サロンなどの特飲街がつくられ、性売買が黙認され、女性たちの多くは前借金をかかえ、拘束された。
246 1963年、米軍はAサイン制度を適用し、風俗営業から性売買を排除するAサイン店を増やそうとした。Aサイン制度とは、性病予防を目的とした米軍関係者向けの営業を、米軍が許可する制度である。
しかし、性売買はホテルを利用する形式に転換し、前借金で女性を拘束することもなくならなかった。
また、Aサインの許可が得られなかった零細な店は、沖縄人向けのバー・キャバレー・ナイトクラブに転換した。
ベトナム戦争下では、米兵とAサインバーのホステスとのホテルでの性売買が急増し、女性たちは、店外の性売でも、性産業の管理下にあって、搾取された。
日本と同じ売春防止法が1970年に成立し、1972年5月の本土復帰と同時に全面施行されたが、米軍や沖縄住民相手の管理性売=管理売春が潜行し、また、新たに観光性売買が増加した。前借金による女性の拘束も継続した。
韓国では、米軍軍政下で、日本統治時代の公娼制が廃止され、旧公娼地域は、米軍兵士の性買売のための基地村になった。
1947年、米軍により、妓生・女給・ダンサー・ウエイトレスなどの接客婦に対する性病検査が強制された。
1950年、朝鮮戦争のとき、韓国軍の旧日本軍将校の主導で、韓国軍慰安所が設置された。
1957年、米軍のための基地村が、新たに再編・設置された。
1961年、朴正熙政権は、日本の売春防止法を参考にして淪落行為等防止法(淪防法)を制定したが、観光事業振興法を制定し、翌年1962年、外貨獲得のために、淪防法が適用されない赤線地帯を104ヶ所指定し、性買売を公認した。
247 1970年代、外貨獲得のために買春ツアーを誘致し、多くの日本人男性がこれに応じ、団体で買春した。これは1980年代、韓国人男性を対象にした遊興・享楽産業に転換した。
2000年、群山の性買売施設で火事が起こり、外出できないように鍵をかけられていた女性14人が焼死する事件が起り、女性たちが立ち上がった。
運動の結果、2004年、「性売買斡旋等行為の処罰に関する法律」と「性売買防止及び被害者保護等に関する法律」が制定された。これらの法律は、管理性売ではない自由性売の女性も処罰されるという問題を抱えていた、つまり、被害者であると立証しないと処罰されるという問題を抱えていたが、斡旋業者に対する処罰を強化し、中間搾取を禁止し、性買者処罰も強化し、被害者の保護と、自立支援の道を開いた。(チョン・ミレ、イ・ハヨン、2019)
日本では、売春防止法施行後も、自由意志による性買売という建前で、女性の人身取引や管理性売による女性の拘束や性的搾取がなくならなかった。
1970年代以降の買春ツアーが批判された後、エンターテイナーなどの名目で海外から女性たちが連れてこられるようになり、性売強制と搾取が行われるようになった。
2002年、アメリカ国務省は、タイ・フィリピン・旧ソ連から、また、少数ながら、韓国・マレーシア・ビルマ・インドネシア・コロンビア・ブラジル・メキシコなどから、女性と児童が、性的搾取と強制労働のために、人身取引されて日本に連れて来られており、日本では人身取引が広く行われていると報告した。(アメリカ国務省人権報告)
このため日本は漸く2005年に刑法を改正して、包括的な人身売買罪を設け、2017年に「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する、人*の取引を防止し、抑止し、及び処罰するための議定書」(国際組織犯罪防止条約人身取引議定書)を批准した。 *特に女性及び児童
248 議定書は、とくに女性・児童を性売させて搾取することや、その他の形態の性的搾取・奴隷化またはこれに類する行為などの防止・処罰を求めている。
今でも日本軍慰安婦問題の解決を阻んでいるものは、帝国の性買売の執拗さの遺産ではないか。
あとがき
263 私は2013年から裁判を闘った。私の本に関して、「吉見さんという方の本を司会者が引用されておりましたけれど、これは既に捏造であるということが、いろんな証拠によって明らかにされております。」と述べた桜内文城・日本維新の会の政治家を名誉毀損で訴えた。裁判では「軍慰安婦制度は性奴隷制である」ということが捏造であるかどうかが争点となった。
264 東京地裁民事部第33部、原克也裁判長は、2016年1月20日の判決で、「被告の発言は名誉毀損に当たるが、『捏造』という用語は、『誤り』『不適当』『論理の飛躍がある』という意味に解されるので、免責される」とした。
東京高裁第19民事部、小林昭彦裁判長は、2016年12月15日の判決で、「上記発言の『これ』が『吉見さんという方の本』をさすと認定することは難しい」として、原告の控訴を棄却した。
最高裁第一小法廷、小池裕裁判長は、2017年6月29日、原告の上告を棄却した。
これらの判決・決定は、日本語の常識を理解しない異常なものである。
裁判を支える会「YOいっション」の吉田裕・梁澄子共同代表や加藤圭木事務局長をはじめ、多くの研究者・市民の方々や、11人の弁護士の支援を受けた。また、阿部浩己、小野沢あかね、木畑洋一各氏に意見書を書いてもらった。
2019年5月
感想 裁判所は死んでいる。憲法判断を避ける場合が多いように、判決までに2年もかけておきながら、慰安婦問題の本質に対する判断を避けている。これでは「三権分立」が泣く。単なる政権のお人形だ。
裁判所は問題の本質的判断を避けるために、国語辞典と日本語文法の遊びに逃避した。「『これ』は文中の何を指すか。『捏造』とは国語辞典によれば云々など。裁判官としての自分の身を守るために、政府見解にも、吉見さんにも、敵だと思われたくないのだろう。
2020年4月5日(日)
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