荻野富士夫「治安維持法は今も生きている」20250621 土 エデュカス地下会議室 『治安維持法100年 「新しい戦中」にしないために』発行記念 「治安維持法とは何だったのか その歴史と現在を考える」 主催 歴史教育者協議会、大月書店
感想 荻野富士夫さんは柔和なフェイスであるが、坦々とした語り口の中に、綿密に史実を掘り起こし、治安維持法による弾圧の実相に迫ろうとしているように思えた。
メモ
司会 桜井
大月書店刊、荻野富士夫・歴教協編『治安維持法100年』第3章の1「戦後、治安維持法体制の断絶と連続」を執筆した関原正裕は本書の編集委員でもある。
荻野富士夫さんは1953年に埼玉県の生まれである。
講演 荻野富士夫
記録上は「7万人を検挙」とあるが、令状もなしに引っ張られた人がいて、実際は7万人ではなく、50万人検挙されたと思われる。それは統計には出ていない。
「留保」処分は1931年から36年までの6年間だけ行われた処分である。それは転向への誘導として使われた処分である。
「被疑者」→告訴されて「被告」となる。→予審訊問(調書)→公判or免訴(免訴はほとんどない)2、3か月で結審。
予審制度はフランスから輸入されたもので、フランスでは現存しているが、日本では検察の横暴で不評廃止になった。
治安維持法施行の前半10年は対共産党で、後半10年は宗教や社会民主主義者を対象とした。
1941年ころ、共産党員が転向せずに出獄→保護観察、予防拘禁
前述の留保処分の対象のほとんどは学生で、学生は放免されても9割が停学や退学処分を受けた。これは強制的道徳律といえる。会社員は解雇された。教育勅語の精神が「国体」の中に入ってくる。
植民地では執行猶予ではなく実刑が多く、刑の重さも日本の2、3倍重かった。その理由は独立運動であった。朝鮮人に対しては放火など併合罪適用で重い罰を科された。起訴率は日本の3倍であった。
台湾では2人が死刑になった? 台湾では4322人が死刑になった。P.5
満洲国では2000人が死刑になった。突出している。独立戦争との関係らしい。
「臨時法院」「特別治安廷」とはどこでも裁判所を開廷することができるというもので、どこでも安易に死刑判決をして死刑を執行した。
質疑
満洲国での「合作社事件」1941.11 6人 佐藤大四郎が無期刑に 合作社とは農協のようなものである。捜査記録が発見され2008.10、その結果この事件はでっち上げだったらしい。(Wiki)
その次に「満鉄調査部事件」1942、1943が起こった。
感想 今は戦前の日中戦争開始前の1937年ころのような状況であり、各種弾圧法が整備され、今やその実施を待つのみとなったというのだが、このままただ権力に流されるままに、また戦争と弾圧の時代に取り込まれていくのだろうか。マゾヒスティクに。軍備増強と対米追随、中国や北朝鮮を敵視するキャンペーンを常日頃垂れ流す自民党の支持率が常に他党の2倍の支持率を維持している。沖縄では戦争準備が着々と進められ、いつ戦争が始まってもおかしくない状況だ。原発も再稼働賛成が4割にも復活してきた。この国はどうなっていくのだろうか。ガソリンの値段や不倫やコメの価格や裏金などがそんなに重要なのだろうか。なぜ軍事費がテーマにならないのか。不思議でならない。
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