2020年10月25日日曜日

通州の日本人大虐殺 安藤利男 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

通州の日本人大虐殺 安藤利男 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

 

感想 20201023()

 

 情緒的になるなと言っても、命に係わる問題だから、情緒的にならざるを得ないかもしれないが、戦後10年も経っているのに、情緒的な文章だ。しかし、この問題の核心は、親日的とされていた、中国側の冀東保安隊に対する日本軍の爆撃である。それが宗哲元軍に対するはずの誤爆か、意図的な爆撃かは未だ分からないと筆者は言う。395(編集部は誤爆だとする。)南京政府の冀東政府に対する影響や、抗日意識の冀東政府への浸透もあったのだろう。

 いい迷惑なのは殷汝耕・冀東政務長官である。彼は、日本の憲兵隊に取り調べられ、戦後は中国側に日本に与したとして有罪とされ、死刑となった。

 筆者安藤利男は、同盟通信社特派員。彼が銃殺の現場から逃げられたというのも不思議だ。「麻縄で腕を数珠繋ぎにされた」とあるから、どうやってほどいたのだろうか。392

 

追記 20201024()

 

 中国側の資料も見ないと公平な判断はできない。

 

 

要旨

 

編集部注 1937年7月29日、北京東方30キロにある通州で、親日的と見られていた冀東軍が「反逆」し、日本居留民を襲撃した。その真因は戦後まで秘せられていたが、日本軍による誤爆によるものだった。この事件は戦争拡大の契機となった。(日本軍が戦争を拡大するために意図的に「誤爆」したのか。)

 

本文

 

北支では日本軍と宗哲元軍とが、盧溝橋事件や公安門事件を起こしていた。

390 北平の(日本)軍当局に通州事件の第一報が届いたのは31日の朝だった。

 29日の午前4時頃から、銃声が鳴り始めた。冀東政府保安隊が「叛乱」を起こし、日本居留民虐殺という「大それた」「仕事」に取り掛かったのだ。

 当時通州にいた日本人は約300人で、中には韓国人も交じっていた。筆者もその中にいた。筆者は虎口を脱し、北平にたどり着き、「通州虐殺事件」の真相をニュースとして送り出した。後に生存と発表された日本人は、たしか131名だった。ともかく200名以上は惨殺された。冀東政府は、北平に公署をもった宗哲元の冀察政務委員会より、親日性格の強い政権だった。冀東政府長官・殷汝耕氏は、日支提携協力論者だった。冀東政府保安隊が「寝返り」を打ったのだ。

 冀東政府の建物の近くに蓮池があり、その近くに近水楼という日本人が経営する旅館(割烹)があった。日本人女中10数名が働いていた。筆者もそこに泊まっていた。菅島部隊という2、300名の通州派遣軍がいたが、27日の朝から付近に駐屯していた宗哲元軍に攻撃を加え、これを追い払い、北平の南苑方面に向っていて、留守だった。

391 筆者は28日夕方まで冀東政府の建物に出入していた。中はどの部局の部屋もざわめいていた。ラジオは支那軍の連戦連勝を伝えていた。蔣介石が南京から鄭州まで北上したとか、支那軍の飛行機200機が前線に出動するとかしつこく放送されていた。そして冀東の役人たちは、今夜の合言葉は、「勝」と言ったら「利」と言えばいい、と言っていた。

 銃声は午前4時から始まった。8時頃ボーイが「特務機関あたりの日本の店やカフェーで日本人が大勢殺されている」と連絡して来たのが第一報だった。

 私はこの時のことを生還直後に手記に書いた。

「午前9時頃、5、6軒先の支那家屋辺りでピストルが鳴り出した。近水楼の窓ガラスが一弾の銃声とともにバリバリと四散した。二階に上がり、畳で防壁を作った。屋根裏に隠れることにした。19人のうち11人が天井裏に隠れた。下から銃声と悲鳴が聞こえた。窓から下を見ると、暴徒が掠奪を始めた。最初保安隊の一部はこれを制止したが、効き目はなかった。この一団が引き上げると、今度は保安隊自身が掠奪を始めた。正午ころ屋根裏が発見された。」

392 身につけていたものは取り上げられ、男は6人ずつ1本の縄で数珠繋ぎに縛られた。筆者が最初だった。眼鏡をはずされた。梯子段を降りかかると、足元に惨殺死体が転がっていた。女中さんたちだった。一人の女中さんが丼に水を汲んで来て、皆で水杯を飲んだ。80名から100名の同じ境遇の日本人が政府建物内にいた。

 「反乱兵」ははしゃいで銃を振り回し、嘲る者もいた。

393 銃殺現場の城壁の内側に連行された。筆者は先頭だったので、崩れた内側の城壁の斜面を登り、城壁の頂上近くに着いた。兵隊が銃を構えたとき、ある女が「逃げましょう」と言った。それと同時に私は跳躍し、外側の斜面を這いながら滑り落ち、外に逃げた。

 131名の生存者の中には、事件を早く知り、未明のうちに兵営に逃げ込んだ者が多かった。部隊が留守中で、少数の憲兵や通信兵が犠牲になったが、営庭に無数の弾薬が積まれてあって、それに弾があたり、大爆発となり、叛乱軍は恐れをなして逃げてしまったという。本物の日本軍が到着したのは、その2日後だった。叛乱軍はすでに城外に逃げていた。通州では日本人の恨みは長く続いた。

 

394 通州事件の原因、真相は何か。

 冀東保安隊は(日本の)友軍だったが、一夜にして「寝返」った。そのいくつかの要因のうち、冀東保安隊幹部訓練所が日本軍によって爆撃されたことが直接の原因だ。事件前々日の27日、日本軍が通州の宗哲元軍兵舎を攻撃し、その時の一機が冀東兵営を爆撃した。冀東政府の五色旗がひるがえっていたのだが。

 そこで冀東兵営はさらに標識を掲げたが、それでも爆弾は落とされた。保安隊幹部は、当時の(日本)陸軍特務機関長細木中佐に抗議した。保安隊の幹部連はあちこちに飛び出していたので、殷汝耕・冀東政務長官が(彼等を)集め、細木と殷が誤爆だったと釈明した。その時の日本軍の飛行機は、天津や北京から来たものではなく、朝鮮から来たものだったと後で言われた。連絡がまずかったのか、できなかったのか、知りながら狙ったものか、その後も分からずじまいである。

395 この爆撃事件が冀東保安隊の寝返りに「ふんぎり」を与えた。爆撃事件を起こした者が通州事件の張本人であると言う人もいる

 殷長官は、細木中佐と前夜深更まで政府建物長官室で会った後、29日午前2時頃、反乱軍に拘束された。細木は宿舎への帰途、政府附近の道路上で戦死した。特務機関副官の甲斐少佐は、自分の事務所前で叛乱兵と戦って死んだ。

 叛乱の主力部隊は、保安第一、第二総隊だった。叛乱軍は殷長官を引き立てて通州域外に出て、北平に向った。叛乱軍は殷長官を宗哲元軍に引き渡すつもりだったらしいが、宗は日本軍の、28日正午を期限とする撤退要求のため、29日未明に北平を出て、保定に向っていたので、叛乱軍が(北平の)安定門についたころには宗はいなかった。叛乱軍は城壁の外側に沿って門頭溝へ向ったが、日本軍とぶつかり、いくつかに分散した。

 殷長官は安定門駅の駅長室から今井陸軍武官(少佐)に電話して、救出された。長官を手放した保安隊は、日本人に武装解除された。

 

 (日本の)天津軍は今井少佐に、殷氏を天津軍に引き渡すように要求した。今井少佐は反対だったが、結局そうなった。

 殷氏は六国飯店から日本大使館の隣の日本軍兵営の中の憲兵隊の一室に移され、そこから天津に護送され、天津軍憲兵隊本部に監禁された。殷氏は北平の憲兵隊にいた時、関東軍の板垣陸軍参謀長や東京の近衛公へ、通州事件の経緯を手紙に書き、殷氏の夫人(日本人で、たみえ夫人)の実弟の井上氏に託し、新京と東京へ行くように依頼していたが、井上氏も憲兵隊に足を入れたまま行動の自由を奪われ、殷氏の手紙は憲兵隊に取りあげられた。

天津憲兵隊の訊問はその年の暮れまで続いた。12月27日、当時訊問に当たった太田憲兵中佐は、殷氏と井上氏、その他3名の冀東政府中国人職員の5名に、「天皇陛下の命により無罪」と言ったそうだ。

 18年後の今日、殷氏は南京の中山陵付近の墓地に眠り、たみえ夫人は、日本で余生を送っている。

 通州事件後、政界から姿を消した殷氏は、北平で、終戦の年の12月5日の夜、国民政府の要人・載笠氏の招きで宴会に出たとき、その場で捕らわれ、多くの当時の親日政客と同様に、北平の北新橋監獄に送られ、民国36年(昭和23年、1948年)12月1日、中国の戦犯として、南京で銃殺された。享年59。

 殷氏が南京高等法院の法廷で述べた陳述のうち、冀東に関して、「自分がつくった冀東政府は、当時の華北の特殊な環境に適応したもので、当時華北軍政の責任者・宗哲元の諒解を得ていた」と記録されている。殷氏は獄中で「十年回顧録」を書いた。

 殷氏は南京で、たみえ夫人に日華の提携の必要を説き、死刑場では、「自分は戦犯ではない、歴史がそれを証明する」と言ったとのことだ。

 張春根さんは殷氏の運転手であった。中共は、春根さんを、戦犯につくしたというかどで、激しく追及した。春根さんはそれに耐え切れず、狂って南京で自殺した。

397 いつの時代でも恐ろしいのは狂った政策だ。

 通州事件も、当時の日本がたどった、中国の気持ちや立場をまったく思いやらない不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである。

 

1955年、昭和30年8月号 三十五大事件

 

以上 20201023()

 

 

砲声殷々たる北平における日支両国青年座談会 1937年、昭和12年9月号 話 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

砲声殷々たる北平における日支両国青年座談会 1937年、昭和12年9月号 話 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

 

感想 20201021()

 

1937年7月11日の夜は、近衛内閣=軍部政権が企画した、「挙国一致」を報道関係者、国会議員などに求めるために設定した特別な夜だったようだ。*本座談会も、この7月11日の夜に中国でもたれたとのことだが、その趣旨に合致する内容である。出席者の所属は○○で伏せられ、場所は中国とされているが、実際、これらの登場人物、設定された場所が真実なのかどうか疑わしい。要は、本座談会は、文芸春秋社が近衛内閣=軍部政権に協力しますという意思表明のために設定され、世間にその挙国一致の決意を表明するためにつくられた場と考えていいのではないか。座談会に中国人が出てくるのだが、日本寄りの意見を言う者ばかりで、南京政府=蔣介石政権の意思を表明する中国人ではない。こんな日本寄りの中国人がいるとは、本文にも出てくるが、中国人の多くが政治に白けていたからなのだろうか。(この私の論調を次の追記2で修正する。)

 

*1937年7月11日の夜、近衛文麿首相は、報道関係者、国会議員、財界代表を首相官邸に招き、近衛と杉山陸相が挙国一致を要請した。(山崎雅弘『1937年の日本人』pp. 99-100

 

追記1 中国人参加者が全く日本寄りでもなく、中国側の主張をすることもある。ということは本座談会が実際に行われたということか。

 

追記2 20201022()

 

本座談会に出席している中国人は、欧米が指導する東洋世界ではなく、日本を盟主とした東洋世界を、目指すべき世界として想定しているようだ。その点、日本の主張する大東亜共栄圏の考え方とも一致する。だからその意味で日中の衝突はまずいと考える。また、この中国人の一人は、明治天皇を崇拝しているという。これも東洋中心主義の考え方から生ずるのだろう。「日本がいなかったら、東洋は欧米によって植民地分割されていただろう」(賀安忠385)という発言にそれが現れている。

 

追記3 20201023()

 

 当時中国は国家としてのまとまりがないことが悩みの種であった。多くの小国に分割されていたヨーロッパが、戦後EUとして統合したが、中国は、戦前は、北方の軍閥を統合しようとし、戦後は、チベット、ウイグル、内蒙古、香港、台湾などを統合しようと努力している。日本のような小国は国家としてまとまり易かったのだから、戦前の中国が国家としてのまとまりがないと揶揄することは、国家の面積の大小を考慮に入れない自己中の発想ではないか。

 

話はそれるが、アメリカはどうか。アメリカはイギリス系を中心にして、原住民を追い払って居座った侵略者国家であるが、中国やヨーロッパと同様に国土が広大だから、州によって法的事情が異なる分散傾向があり、実際南北戦争のときは、南部諸州が北部諸州から独立しかけたこともあった。アメリカの連邦と各州との関係はどうなっているのだろうか。トランプ大統領が他党派のミシガン州知事を酷評し、そのためウイットマー知事がテロ組織に拉致されかかるなど、連邦と州とは疎遠な関係のようだ。少なくとも日本のように、中央政府の出先機関が実質的に自治体を縛りつけている中央集権とは違うようだ。

 

 

要旨

 

編集部注

 

 1937年7月7日、北京(当時は北平)郊外の盧溝橋での「ナゾの一発」から日中戦争が始まった。それから4日後の7月11日の夜、この座談会がもたれたという。発表当時の解説は以下のようだった。

 「北平東四牌楼四五条胡同の某所に会合した日支両国青年の舌端は火を吐き、日支の現状、アジアの将来を憂うるの至情は火花と散った」(戦争調)北平は当時戒厳令下に置かれていた。

 

本文

 

   出席者

○○会代表 松本 準

日本○○協会北平支部 吉村四郎

○○○嘱託 武島義三

北平○○出張所主任 東 達人

満州国○○会北平駐在員 藤岡 繁

北平○○会理事 王 純慶

中華○○研究会代表 賀 安忠

中国○○青年会北平支部長 劉 国芳

北支○○促進期成会理事 殿 学雲

 

378 松本 日本人はここに来るだけでも命がけだ。道中、哈達門(ハタメン)大街で訊問されたが、強気に出て通過した。

賀 お気の毒です。

東 いくら支那人くさく装っても、面貌、体つき、特に肩の線あたりで区別がつく。第一、歩き方が全く違う。

松本 今朝いつも乗りつけの自動車屋に電話したが、「松本だ」と言ったら、一旦車があると言っておきながら、故障だから行けないという。

東 日本人を乗せるなという指令が飛んでいるのだろう。

吉村 いつもなら洋車(ヤンチョ)夫が乗ってくれと言うのだが、今日は知らん顔をしている。支那人は現金だ。

松本 それは役所の指令に忠実なのだ。後が恐ろしいのだ。今度の事件は今までのとは様子が違う。今度ほど形勢が悪化したことはない。民衆が殺気立っている。

 

松本 (日中は)互いに今まで協力して来た。「北平の特殊性」に鑑み、「北支明朗化」のために協力してきたが、戦争になってしまった。

 

*「北平の特殊性」というのは、北京は南京とは違うから、日本に有利な状況を甘んじよ、「北支明朗化」も北京から南京勢力を追い出せというような意味なのだろう。

 

379 賀 日支が戦争することは東洋のために不幸を招来する。

 

賀 盧溝橋事件の責任は日本側にあると支那側は断じている。日支の新聞の声明は正反対である。

王 欧米各国の大公使や新聞記者は、一般的に、南京外交部員の談を信じているようだ。その内容は、7日夜、盧溝橋付近で演習中の日本軍が付近の住民である支那人を、原因は分からないが、逮捕しようとしたのを、支那兵が目撃し、その非を難詰したところ、日本兵はそれを聴かず、8日午前4時頃、日本兵から発砲してきたので、自衛上やむなく応戦したと言われている。

吉村 正反対だ。でたらめだ。支那一流の悪辣な宣伝だ。日本はこの手でずいぶん過去に泣かされている。事実を捏造して嘘でかためたことをまことしやかに吹聴し、鉦や太鼓でやんやと囃し立てる。

東 自衛上やむなく応戦したというのは、実に生意気なことをぬかす。支那軍がそんな鷹揚な態度が取れるものか。昨年の豊台事件*でもそうだった。今日まで頻発した不法事件のどれも、支那側から先に手を出している。実にけしからん。

武島 条約上の当然の権利に基づいて、通告しなくても演習してもいいものを、好意的に通告してやっている。あの前日もそうだった。

東 (条約上、)戦闘射撃(戦争行為か)をするときだけは通告することになっているが、その他は通告しなくてもいいことになっている。

 

吉村 今度の事件は支那側の計画的な行為だ。事件の直前に、天津と豊台、北平と豊台の間の日本軍の軍用電話が切断されていたそうだ。(日本軍がそうしたのかも。またデマかも。)また竜王廟*付近にたくさんの堅固なトーチカが築いてあった。それに数日来、(中国の)二十九軍には兵器弾薬が補給されていたという噂だ。

380 殿 それはないだろう。二十九軍には日本人軍事顧問の桜井参謀*がついていたから。

吉村 軍事顧問の眼をくらますことはありうる。

殿 私はそれは単なる噂だと思う。話はそれるが桜井参謀は日本武人の典型だ。豪快な人だ。敬服している。

劉 桜井参謀は乗用車の屋根に端座し、白旗を掲げて通過し、日中双方に戦闘をやらせなかったそうだ。

王 冀察*顧問の中島中佐も立派だ。

 

賀 日本側の計画的な行為もあった。6月の中旬から下旬にかけて、平津地方*の支那人の間の噂があった。「××が何かやろうとしている。近いうちにきっとひと騒動が起るぞ」という噂だ。平津地方の民衆は不安に震えていたところ、今回の事件となった。皆が「それやった」と思い込んだ。

東 それは悪性な流言蜚語だ。

松本 その噂は聞いたことがある。僕の家で使っている支那人が、「こんな噂があるが、本当か」と僕に聴いた。大砲の音が轟き出し、やっぱり起ったとその支那人は思った。4月頃、新京から友人が来て、新京の自分の家に来ないかと(その支那人に)言っていたが、それを(その支那人が)思い出して、「新京に行ってもいいか」と(僕に)言い出した。日本人の家で働いている支那人を(中国の)官憲が圧迫するらしく、ある夜(その支那人が)瘤だらけになって(帰って)来て、「飲料水に毒を入れて日本人を皆殺しにしろ。そうすれば賞金をやる」と(中国の官憲に)言われたが、ご厄介になった情け深い(日本人の)ご主人にそんなことはできないから、当分よそに行くと暇をとった。それに早く日本兵がやって来てやっつけてくれればいいとも言っていた。

381 武島 この流言の出所も抗日団体の策動だ。以前にもあった。

吉村 噂を流し、民衆を不安がらせ、敵愾心を煽り、抗日的な雰囲気を作り、時期を見計らってやり出す。

 

武島 その(盧溝橋事件の)時の演習部隊では、兵は空砲だけで、実砲は幹部だけが携行していた。

東 演習中に(中国側から)不法射撃を受けた経験から、警戒のために用意していたとのことだ。

松本 突発当時、自重して撃たなかったそうだ。(どうかな)

東 撃ちたくても弾薬がない。(用意していたのでは)日本軍は慎重だ。すぐ豊台*から補充したそうだ。

吉村 支那の新聞が、「日本の××は議会開会の間際になると、何か事件をしでかす。それは、予算をせしめようとする魂胆からだ」と、言語道断な非常識きわまりない暴言を吐いていた。

東 支那新聞ときたら、こんなことくらいは平気で書き立てる。勝手なことばかり述べている。

武島 先月の6月24日、25日から、今月7月3日、4日頃まで、北京市内外で公安局員その他が非常警戒の演習をしていた。そして戒厳令が布かれてからも狼狽せず、希に見る整然たる配備の線を引いた。

劉 あれは違う。あれは毎月やっている警戒演習だ。

382 殿 北進事変の議定書に明示してあり、(日本軍が)自由に演習しても差し支えないとはいうものの、態度に遺憾な点が多々ある。日本軍ばかりでなく、他の駐兵権を持つ国の軍隊もそうだが、妙に示威的で威圧的な態度が見える。民衆はこれに反感を抱く。

武島 軍隊には颯爽としていて威風堂々、他を圧するような威厳が必要だ。その意味で支那の軍隊の青竜刀は効果的だ。

殿 義和団事件や団匪事件*など、現在の支那の青年たちが生まれる以前に締結された条約だから、不愉快に思うのは無理ない。

吉村 北清事変は残虐だったから(外国軍隊が威圧的なのは)無理もない。

殿 外国軍隊が駐兵しているから北支がいつも揉める。

吉村 駐兵していなかったらもっとひどくなる。駐兵していてもひどいのだから。(屁理屈)

 

松本 今回の盧溝橋事件は直接の導火線となったが、根本の原因は、国民政府の狂奔によって醸成された抗日意識であり、それが、二十九軍に発砲させた。

東 国民政府の協定無視による北支の中央化(南京化か)工作や冀察政権に反日的気分を扶植する工作と日本の北支「明朗化」工作とが衝突した。

 満州事変以後、北支で成立した日支間の協定は、塘沽停戦協定、通車協定、通郵協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、日支電信・電話協定、日支航空協定などがある。今日このどれもが協定違反となっている。実にあきれたものだ

武島 (南京政府は)北支の中央化工作に躍起となり、抗日意識を煽ってきた。

383 吉村 学生層に抗日意識を注ぎ込むために最近やったことは、平津地方の各大学の学長を南京系の人物に変えたことだ。また軍事的には、対日本宣戦を目標にした準備をし、地方の軍閥を中央化するために腐心し、特に二十九軍の士官・下士官を南京の九江軍官学校に入れて訓練し、空軍を充実し、南京軍事分会は、中央軍官学校の学生150名を、将来の北支軍事行動に備え、研究のために(北支に)派遣し、冀察政務委員会を反日的にするための策動を行うなど、本年になって50何件もの不法行為が行われている。排日が、抗日に、そして最近では侮日になってきた。

殿 過去の(中国の)為政者は極端な排日教育を行い、学童に日本に対する敵愾心を植えつけるのに狂奔したので、三歳の童子でも日本は不倶戴天の仇敵だと思っている。日本人を見れば、東洋鬼(トンヤンクイ)と言い、すぐ侵略主義者と思い込み、悪魔扱いする。今日の支那の青年層は皆、この排日教育を受けて成人した。日本に対しては善悪の判断なしに、反抗的な感情を抱き、すぐ激昂する。(これは編集部の作り話ではないのか。)

劉 全くその通りだ。まことにお恥ずかしい話しだが、支那の一般民衆は自分の国家がどんなに危機存亡に瀕しようとも全く無関心で、対岸の火事を見るような顔をしているような国民だ。政府がいかに宣伝し、時局の認識をさせようとしても、反響が起らない心細い国民だ。しかし、これは民国人に愛国心がないからではなく、昔から人民は、天災、地変、洪水、悪疫、飢饉に悩まされていたが、これに対して適当の処置をして救済する機関がなかっただけでなく、かえって軍閥の重税、圧政、搾取、徴発に苦しめられ、また絶えず革命、騒動、一揆、兵乱が年中行事のように続いたので、もう麻痺して少しぐらいの動乱なぞは、またかといった顔をしている。そして一度も保境安民の実績を挙げた国家機関が存立しなかったので、自然、政府なぞは頼むに足らずという観念を抱くようになり、自分一人の安心立命の生き方を考えるようになり、ついに個人主義になってしまった。それで政府の言うことなぞ当たらず触らずにしていた方が賢明だと思うようになってしまった。ところが妙なことにこんな国家意識の乏しい支那民族が、たった一つ相手が日本だということになると、果然激昂するという馬鹿馬鹿しい特異性を有している。今日の支那民衆は正しい批判眼を失ってしまった。(これも作文くさい。国家、愛国心、政府の尊重、個人主義批判など、日本人に向けた意図が垣間見える。)

384 吉村 (中国の)政府当局はこの民衆の特異性を利用し、不可能と見られていた中央集権の実を挙げている。打開に苦しむ危局に遭遇すると、この事件は日本の策動によると宣伝し、民心を扇動して解決している。

賀 我々のようにどちらかというと親日的と見られている者の話だからちょっと偏った議論になるかもしれないが、支那民衆が抗日意識を妄信していることは、自らの墓穴を掘るようなものである。日本では支那再認識論が風靡しているようだが、我々には日本再認識論が急務だ。支那民衆には抗日意識が頑固に潜伏している。日本の対支政策を支持できる。それは良心的だ。言行が一致している。僕がこんな言動をしたことがばれたら、拳銃の洗礼を浴びるだろうが、支那の正面の敵は日本ではない。日本は味方だ。協調すべき相手だ。従来の行き掛かりを捨てるべきだ。それよりも英、ソ、米こそ警戒すべきだ。好餌をもって歓心を買おうとする彼らの腹の中にはどんな計略があるか分からない。現在の南京政府は、欧米依存と抗日主義を武器として政府の体面を保持している。欧米は日本の大陸政策を阻止し、自国の利益を伸張するために、支那を直接・間接に支持しているようだが、国民は、政府が無能のために作れない施設を(欧米諸国が)どんどん作ってくれるので、欧米の真意を看破できず、眼前の恩恵に酔っている。英国は偽善者だ。最近抗日意識が旺盛になった間隙につけ込み、自国の勢力を扶植し、堅固な地盤を築いた。今日では政治経済の各部門に侵蝕している。今日の支那は一日も英国の支援がなくては国家の命脈が保てない。英国は将来の支那の癌だ。英国人はインド人を塗炭の苦しみに呻吟させている。ソ連は論外だ。共産主義は人類の敵だ。語るまでもない。排日運動だけが起こり、排英運動は起こらないから、支那民衆の病は重態だ。一般民衆でも学生でも、日本を理解している者も多い。平津地方の紳商(教養や品位のある一流の商人)は、早く日本が(イギリスを)やっつけてくれればいいと思っている者もいる。

385 東 そう思っている者が大勢いる。

賀 中華民国は将来的に日本と握手すべきだ。日本を盟主として、東洋の諸国はうって一丸となり、大亜細亜建設のために邁進すべきだ。支那は、日本の躍進をそねむ欧米諸国の走狗となって、仲良くすべき日本と争っている。もし日本がなかったならば、東洋は欧米白色人種国の植民地となって分割されただろう。もし日本が弱かったならば、欧米は魔手を伸ばすだろう。今日の支那が四方から侵蝕されてもまだ命が保てているのは、東洋に日本が厳然と腰を据えているからだ。これはお世辞でも、自己卑下でもない。日本は駄々子の支那を叩きもせずになだめている。国民政府の視野は狭い。日本の明治大帝陛下の東洋に対する御理想は実におりっぱなものです。御彗眼御達識、まことに恐れ入る。僕は明治大帝陛下を日夜欽迎している。

386 王 賀さんはご自分の部屋に大帝の御真影を掲げて、朝夕礼拝して、御遺徳を偲んでいる熱心な崇拝者です。(作り話)

賀 昨年1936年、内蒙義軍を起こした蒙古民族の指導者徳王*も、明治大帝を御崇拝申し上げているとのことだ。彼は明治大帝の御理想が即東洋人の理想だと言っているとのことだ。彼はこの理想に刃向かう者は東洋人共同の敵だと言っているとのことだ。

 

王 蔣介石は5、6年前に抗日意識を注入して支那軍の強化に成功した。昨年の綏遠(すいえん)問題*でその効果が発揮された。国論が沸騰し、国家総動員が偶然に起った。支那も以前からそうだったなら、世界の強国になっていただろう。

松本 (綏遠の第一線にいた)傳作義*は中国の英雄と崇められ、綏遠軍は愛国義勇軍と賞揚された。あの時の気分が現在の第二十九軍の少壮中堅の将校を刺激している。満洲の馬占山、上海事変の蔡廷鍇(かい)、綏遠の傳作義などが英雄視された。第二十九軍でも、抗日テロをやると国民が拍手を送り、中央が褒め、テロリストは増長する。ただし、もともと二十九軍は馮(ひょう)玉祥の軍隊で、馮は抗日人民戦線で重要な役割を果たし、ソ連の援助も受けたこともあるから、二十九軍の抗日意識は今に始まったことではない。

387 王 日本の方々も支那の軍隊を軽視してはならない。最近青年将校の間に、現状打破的な革新運動が始まり、昨年1936年11月28日、南京軍官学校の学生が挺身隊を組織し、蔣介石に面会し、日本と即時国交を断絶し、宣戦布告せよと迫った。今までは支那の軍隊は国家の軍隊ではなく、地方に割拠する軍閥の私兵だった。軍長と兵隊との間は親分子分のような関係で、国家よりも自分の一党のために動いた。しかし今は違う。二十九軍もそうだ。しかし、幹部級と少壮中堅将校とが思想的に対立しているようで、また、宗哲元は、日本と(中国)中央とを値踏みし、自分の都合のいい方につこうとしている。宗の煮え切らない態度のために、冀察政府内も二十九軍も混乱している。僕は宗が大嫌いだ。

 宗は日本の強硬な態度に尻ごみしているが、二十九軍の将士は馮治安を中心に、中央の意図通りに動くだろう。宗も中国が挙国一致で日本に当たるなら、中国側につこうとするだろうが、中央が宗をおだてて、日本と衝突させ、宗を日本にやっつけさせて、宗のような地方の雑多な軍隊を解消(消滅)させようとしたり、あるいは宗の中央化をねらったりする南京政府に乗りたくないらしい。宗は南京の真意を計りかねているようだ。

 

藤岡 遅くなってすみません。文林洋行の奈良さんが豊台の帰りに拉致されたらしい。息子さんも永定門付近で捕まり、金銭を取られたとのことだ。

武島 身分証明書と護照を持った私服の憲兵が2名拘禁されたとのことだ。

藤岡 西城新街の忠順旅館も襲われた。丸坊主の者は日本軍人に違いないから看視せよという指令も出ているそうだ。

東 (中国の)戒厳部隊に日本軍や日本側官庁の専用自動車のナンバーを教え、なるべく行動を妨げるようにしているようだ。

388 松本 秦徳純(北京)市長は(日本人)在留民の保護に当たると言っているそうだが、二十九軍が城外に撤退しないうちは、この種の不安は消えない。支那民衆の避難民は、荷物を纏めて安全地帯に逃げようとしている。

東 今朝、支那側は日本の要求を全面的に拒否したようだ。中央系の軍隊が北上し、空軍が出動し、軍需品や兵器の輸送もやっているようだ。衝突は不可避だから(日本人)在留民も引き揚げることになるだろう。北平でも婦女子は満州国方面や天津に引き揚げさせるだろうが、男子は頑張ると息巻いている。非常用の食料も整い、いざという時の合図のサイレン、花火の打ち上げなどの連絡もついたそうだ。さすがは日本人ですね。ある商店の親爺は「俺でも支那人の二人や三人は引き受けられる。いざという時はこの日本刀を持って斬りまくってやる。日本男子は踏みとどまらねばいけない。十何年築いた地盤を失うことは、俺らの損じゃなくて、日本の損だ」と張り切っていた。

吉村 北平はまだいいが、奥地の大同、包頭、張家口の連中はまったく孤立無援になる。平綏(すい)線を絶たれたらそれまでだ。

東 日本の事件不拡大の方針もいいが、あまり隠忍自重は相手に乗ぜられる。すでに日本兵は27、8名の死傷者を出している。

松本 列国は静観しているが油断はならない。そのうちに英国が何とか言い出すだろう。

東 帝国の所定方針は断乎としている。支那側が反省しない以上、欲しない一戦でもやらねばならない。支那も各方面で改革され、実力を過信している。日章旗は勇猛心を奮い立たせてくれる。日本は全くありがたいなあとしみじみ思う

 

松本 賀さんなど皆さんのお気持ちがよく分かりました。皆さんのような思想を持っておられる方々には、今が一番大切な役割を果たしていただかねばならない時だと思う。

389 賀 協力して暗雲を一掃することに努力する。お互いに軽挙妄動は戒めましょう。

吉村 日本人がいかにやられても、日本にいる支那人に対して日本人が危害を加えるようなことはしませんからその点は安心してください。(関東大震災の時の中国人殺害の事実を知らないのだろうか。)日本人は決して支那を憎んだり、支那人を敵対視したりしていない。

 

昭和12年9月号 話

以上20201022()

 

 

2020年10月19日月曜日

近衛文麿論 阿部真之介 1937年、昭和12年7月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

近衛文麿論 阿部真之介 1937年、昭和12年7月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

 

感想 20201019()

 

 再度読み返してみると、筆者が社会主義的な見地に立っているように思われた。「大衆が目を覚まし、自らの力を信ずるまでは、政治の難局を解決することはできないだろう。」「大衆や大衆の力を無視した政治形態は、究極のものとはいえない。」とさりげなく長文の中に挿入している。そして「左への逆戻り」とは、ちょっと前の社会主義が盛んだった頃への逆戻りを意味し、筆者はそれへの郷愁を感じつつ、時代のファシズム化を憂えているようだ。また、一見白けたように見える筆者の文体は、ファシズム化が進むどうにもできない時代への反発・反感があるからではないだろうか。

 

感想 20201019()

 

・文体が変 白けた(クールな)口ぶり 時代の影響か、それとも筆者固有のものか。

・近衛の特権的立場=身分 政治経験がなくても総理大臣になれる。その程度の政治。

・国民の愚民性 近衛称賛 国民は何を見ていたのか。その国民とは誰か。一部の特権階級ではなかったのか。

 

要旨

 

編集部注

 

 近衛文麿は、二・二六事件直後に組閣を命ぜられたが辞退した。その後も出馬が期待されていたが、1937年、昭和12年6月、総理大臣となった。近衛の才能も知らずに国民は歓呼をもって近衛を迎えた。このころ日本の情勢は重苦しくなる一方で、国民は情勢の好転を近衛に期待したのだった。しかし組閣1ヵ月後に盧溝橋事件が始まった。(軍部は政治を知らない貴族を望んだのだろうか。)

 

本文

 

 近衛公が所在する社会的位置が、彼の価値を高めている。安井文相は大阪府知事から大臣になったが、近衛公は全く官歴も持たずに、総理大臣になった。近衛公の方が跳躍振りが大きい。

371 安井の躍進は近衛の学友だった関係からということだ。近衛は公爵だから総理になれたのであって、彼が偉大だったからではない。

 近衛内閣を信頼していない人もいる。

 近衛は幸せであると同時に不幸だ。近衛は同じ人間として生まれたが、育ちが違った。近衛は労働する平民と全く違った人種になった。高雅な気品、おうようで迫らぬお殿様の気品に人々は圧倒される。これは彼の奇妙な人気の一因だ。

 近衛は生存競争の外にある。勅選議員になるには何十年の勤労奉仕を必要とするが、彼は大学生で既に公爵になり、貴族院議員になった。公爵は一定の年齢に達すると、貴族院議員の資格を得るが、それは生存競争を必要としない加齢という過程だ。

 近衛は50歳にならないのに、苦労もせず、大宰相になった。羨ましいかぎりだ。しかしそれと同時に、痛ましいとも思う。第一に、彼の精神力と体力は、非常時という凶暴な波風に耐えられるのか。彼に自信があっても、彼の取り巻き連中は、困った時には逃げるような人たちだ。彼が大事な国政を行う時、周囲の者から子ども扱いされたら、聡明な彼には耐え難いだろう。

372 彼の親近者は、彼が政界に深入りすることを憂えているとのことだ。彼らは彼をできるだけ早く内閣から引退させ、宮中に入れ、西園寺公が百年間やってきたことを継承させようと目論んでいる。彼が政治的に致命傷を負う前にそうさせたいと彼らは考えている。理想的には次の普通議会開会前である。近衛内閣短命説はそこから来る。

 しかし親近者の中にも近衛が政界に進出するのを望んでいる者もいる。これが新党運動である。彼は親近者の中の自重派と積極派との間で身動きが取れない立場に置かれている。

 消極派は実は消極的でなく、世論の要望を上手くつかんでいるようだ。組閣者奏薦の方式は天下の難問だ。これは政党主義没落以後の政治方式の問題である。もし彼が筋書き通り内大臣になり、組閣者の御下問に奉答することになれば、彼の立場は重大になる。彼に政治運動は似つかわしくない。ボロを出すよりは、内大臣のそういう役目が彼にとってうってつけの役回りかもしれない。しかし、近衛はうぬぼれて、かなり政治家意識に燃え立っているとのことだ。

373 彼がいつ政党組織に載り出すかは分からない。有馬伯邸はかつて新党運動の密会の場所だった。ここに大将、永井柳太郎中島知久平らも謀議に加わった。林大将は新党組織に失敗し後退した。謀議に参画した有馬、永井、中島の三人が入閣したところから見ると、近衛の、新党に対する思い入れの度が分かる。彼が新党の陣頭に立つかどうかは未確定だが、彼が陣頭に立たないと望みは薄い。

 

 新党についてさらに詳しく述べる。新党運動は広田内閣の頃から始まり、政党の革新運動と称しているが、実は政党の降伏運動でもある。政党は現状のままでは立ち枯れるだろう。

 世界的にみても、政党政治は弱くなってきた。英米のような政党主義の国々でも、その制度を補修している。日本では政党政治の日が浅く、その功罪は相半ばしているから、政党政治の行く末は危うい。だから、議会政治を否認する思想、議会政治を容認しながら、政治を否認する思想、議会政治を容認しつつ、政党を排撃しようとする思想、議会政治の権限を極端に局限しようとする思想などが実際行われつつあり、しかも新党運動はこれらの勢力と協調するから、自らは後退し、恭順で、命だけはお助けというのだろう。

 近衛内閣が組閣されてからの第一の声明は、国家の各層の摩擦を緩和するということだった。(近衛の)新党運動は降伏・帰順であるから、摩擦を皆無にすることを意味するだろう。近衛は新党の総裁になる決意がまだできていない。広田外相を新党総裁に押すという説もあるが、日本人は家柄について迷信を持っているから、広田総裁では受けがよくない。由緒ある家柄の末裔を擁して一旗挙げることは、勇ましく殉教的であると伝統的に思われている。

374 人々には、関白太政大臣の家柄の若くて聡明な公達が、何となくありがたいのだ。

 人々は、貧乏人の子が欠食児童になるのは当たり前だが、大名の若殿が欠食児童となるのがたまらなく憐れなのだ。

 仙台の東北振興会社で東北(の民衆の)救助の仕事をしていた吉野信次が、その救助の作業を中止して近衛内閣の大臣として参加した。今出羽奥州の何百万人もが飢えている。吉野が会社をやめたのは、出羽奥州の何百万人を見捨てたということだ。近衛はこれをどう考えるのか。それは政治的不道徳ではないか。

 大衆が名君思想に跪く意気地なさを、私は情けないと思う。大衆が目を覚まし、自らの力を信ずるまでは難局を解決することはできないだろう大衆や大衆の力を無視した政治形態は究極のものとはいえない。その意味で近衛内閣は、我らの内閣ではない。しかし暫定的な意義をこの内閣に認めることは、不可能なことではない。

 この内閣をファッショ政策の最後の障壁だとみる人もいるし、ファッショ勢力に達するための最後の飛び石と見る人もいる。両者の見解は正反対だが、同じ的を射抜いている。もし近衛内閣が林内閣よりも一歩でも左へ逆戻りしたかに考える人は、政治的見方が間違っているか、先入観を脱せない人だ。

 近衛は進歩主義的と看做されていた。彼の一本槍とも言える貴族院改革が、その進歩主義を表すと考えられた。階級闘争の論議が行われる時代に、貴族階級に属する者は安心していられないはずだった。彼の提案が平民の心を和らげる意図を持つ意味から、彼も平民主義者であるかのように思われた。

 近衛は右から左まで交友が広い。近衛はよく他人の意見を聞き、自ら語ることは極めて簡潔で、言葉に含蓄が多いから、――反対に言葉の表現が曖昧だとも言える――それぞれをそれぞれの立場で、近衛が自分の味方だと思い込ませてしまう。しかし時勢の変化につれて、彼の表現にも多少の変化は免れない。十年前左翼が華やかだったころ、彼は自由主義よりもっと左に見えたが、今では時代と共に右へ移動し、自ら国家社会主義者と公然と名乗るようになった。世の中が(左に)後戻りしたなどとはとても言えない。

 新聞は彼を「科学的ファッショ」と呼んでいる。それは実行性のないファッショの風刺だ。ファッショは元来実行者だ。実行したあとに取ってつけた理論が、すなわちファシズムである。近衛は先に理論を考える。ブルジョワはファッショを恐れているから、近衛の出現を歓迎している。彼の実行性のないファシズムを見抜いているからだ。

376 実生活を知らない者が空想的・理想的になるのは自然のなりゆきだ。彼の同僚の有馬農相もそうだ。有馬伯から悪い印象を受けることはまずない。それは華族ならではの善良さだ。

 有馬伯が日比谷公園で草を刈った。自分の庭園は植木屋に任せておいて、公園の草を刈るのは矛盾している。そこに気づかない「いっこくさ」(頑固さ)は、貴族社会ならではのものである。だからそこに好感が持たれる。有馬は文部大臣の椅子を割り当てられたが辞退した。それはほんのわずかの品行上の問題があったためだ。普通の政治家ならそんなことは気にしない。

 このような善良さや良心的なことは貴族の特徴であるが、その半面実行力は欠けている。食いついたら離さないような執念は彼等にはない。近衛内閣への人気のもとも「何かを為すだろう」という積極性ではなく、「悪いことはしないだろう」という消極性である。

 近衛内閣の第一の仕事は保健省の設置だった。陸軍省の調査によると、国民体位の低下は年々驚くべきものがある。

377 近衛の健康状態を問題にして、近衛内閣が短命だと言う人がいる。かれはひどい不眠症に悩まされている。

 

以上 20201019()

 

 

2020年10月18日日曜日

学生の知能低下について 三木清 1937年、昭和12年5月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

学生の知能低下について 三木清 1937年、昭和12年5月号 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨

 

 

感想 20201018()

 

 三木は1930年、日本共産党に資金提供して逮捕・転向し、本論文執筆頃(支那事変後かも)の1930年代末には、総力戦体制に協力する昭和研究会に関与していたが、それでも、三木は本論文執筆の頃も、マルクス主義的考え方を捨てていなかったのではないかということが、本文を読んでいると伝わってくるような気がする。また治安維持法違反被疑者の高倉テルが、葬儀のための釈放中に逃亡して来た時、彼女に着物と金を提供していることからも、三木のそういう心意気が伝わってくるように思われる。

 

感想 

 

この程度の批判が1937年当時でも可能だったということが分かる。三木は当時の「日本文化」論を批判する。本論文が言うところの学生の「知能」とは、知識と区別され、知識が単に大学入試のための知識を指すのに対して、知能は、批判精神であり、不要と思われるようなものも含めて、あらゆるものに対して関心を持ち、自分の頭で考え抜く力を指す。学生の知能の低下は、満州事変を境にして現れたと三木は言う。

 日本文化論の対象は、既定の、指定された目標であり、既に決められていて、自分で新たに考え出す必要がないから簡単である。簡単だから、知能を要しない。日本文化論でいくら古いものを探し出してみても、既に限界があり、新しい文化は生まれない、と三木は言う。

 

 三木は、ウイキペディアによれば、治安維持法違反で逮捕・拘留されて獄死したとあるが、実際は監獄の中で疥癬に悩まされ、それを起因とする腎臓病が悪化し、敗戦後の9月に、ベッドから落ちて死んでいるのが発見されたとある。またその逮捕・拘留の理由は、1945年、治安維持法違反被疑者(高倉テル)が葬儀のための釈放中に逃亡して三木の疎開先を訪れたとき、三木が金や衣服を与えたことであった。三木自身はマルクス主義を研究したことはあったが、マルクス主義者ではなった、とウイキペディアは言う。転向経験(日本共産党に資金提供1930)もあるが、「支那事変の世界的意義」と題する講演を行い、当時の全体主義・総力戦体制(昭和研究会の文化研究部会委員長)に貢献するようなこともしている。しかし、そのような見方は一面的なのかもしれない。ウイキペディアも言うように、当時の転向経験者は、与えられた状況の中で、当局に協力しつつ、当時の政治のあり方をたとえ少しでも批判しようとする「両義性」を持っていたという。

 三木清の「人生論ノート」は戦後ベストセラーになったとのこと。

 

要旨

 

編集部注

 

二・二六事件後、日本国内ではしきりに「非常時」が声高に叫ばれだした。

 

本文

 

364 満州事変後の国家の文化政策、特に教育政策が、「事変後の学生」を生み出した。

365 事変後、国家の文化政策・教育政策は積極化したが、それで非常時に国家が必要とする学生がつくられているか。また今日、学生の健康は憂うべき状態にある。それはファッショ政策の自己矛盾だ。

 

 今日の学生論は一見リベラルな立場から書かれているが、それは教育者的立場であり、当局的立場であり、批判性を失う恐れがある。今日の学生論は、学生に対して好意的であり過ぎる。学生だけを見る学生論ではなく、国家の文化・教育政策からの学生論が求められる。

 

366 試験準備の勉強は、学問について功利主義的なあるいは結果主義的な考え方を生じ、このような考え方は、知識欲を減殺するばかりでなく、知能を磨く上で有害である。以前の高等学校生は、青年らしい好奇心、懐疑心、理想主義的熱情を持ち、あらゆる書物をむさぼり読んだが、今日の学校の教育方針がそういう心情の成長を阻害している。青年の理想主義的熱情は、ヒューマニズムの精神から生まれるのが常だ。それは、社会の矛盾を発見し、現実に批判的になることから出てくる。そこから社会認識を深めようとする知的努力も生じる。しかるに、今日の学校では、このような社会を批判的に見ることを禁じている。学問そのものが批判的であることを許されていない批判力は知能の最も重要な要素である。今日の教育は、青年の批判力を養成しようとは欲せず、かえって日本精神や日本文化についての権威主義的で独断論的な説教を詰め込むことで彼らの批判力を滅ぼすように努めているようだ。

367 事変後の高等学校生はほとんど社会的関心を持たず、学校を卒業しさえすればよいと思って大学に入学するという話を某大学生から聞いたことがある。社会的関心を持つという危険なことから遠ざかろうとする現実主義から、彼らは学校の課程以外は「キング」程度のものしか読まない「キング学生」になる。彼らの現実主義・功利主義から、彼らの知能の低下がもたらされる。学生が理想主義的熱情を失ったのは、今日の社会が彼等に夢を与えないからだけではない。真の理想主義は人生や社会の現実を直視し、その矛盾を発見することから生まれる。学生の批判力を殺しておいて彼らの功利主義を責めることは矛盾だ。日本主義は理想主義ではないのか。この頃の教学では日本主義を「理想主義」と考えることすら異端として排斥されているそうだ。それ自身は真に現実主義的である学問の根底には、つねに理想主義的熱情がある。理想主義的であることを望まない日本主義は、現実そのものについては、架空の理想主義的見方で満足しようとしているようだ。「キング学生」は学校の成績は悪くないかもしれない。「高文学生」つまり高等文官試験に合格することを唯一の目的として勉強する学生の数は増えているだろう。しかしこのような勉強には何ら批判は伴わない。卑俗な現実主義は、人生においてただ間違いのないことだけを求める。詩人は言った、「人は努力する限り誤つ」と。間違いがないことは真に努力していない証拠だ。

368 今日の学生が勉強しないのは、彼らの将来に希望がないからだと言われている。彼らは「何のために勉強するのか」と問う。もし勉強しても食えるようになれないのなら、なぜそのような社会の状態の原因を追究しないのか。その原因がわかれば、その排除のためになぜ闘わないのか。社会的関心が高まれば、研究心も旺盛になることは、かつてのマルクス主義時代の学生が証明している。しかし今日の日本主義的学生は頭脳が悪く勉強しない。また頭脳のよい学生は功利主義的で社会的関心を失っている。このことは日本主義のためにも慶賀すべきことではないだろう。

 

 今日の学生は知識量では以前の学生より勝っているかもしれないが、それは彼ら自身の功績ではなく、新聞雑誌の発達や書物の普及による。先祖が蓄積した財産に寄食して豊かに生活している者は、先祖よりも優れているとは考えられない。今日の日本主義は、先祖の文化の遺産に寄食すべきことを人々に勧めている。そこでは新しい文化を生産するよりも過去の文化を反復することが問題となっている。日本精神とか日本文化とかは、学ぶに苦労を要しない。日本主義的学生にとって、頭脳も勉強も問題でないようだ。カントの哲学を理解することは困難だが、日本精神の講話や日本文化の講義は、どんな学生にも理解できる。ドイツ語でカントの『純粋理性批判』を読むことに比べて、日本精神に関する現在の書物や過去の日本人が書いた書物を読むことは容易だ。困難があるとしても、それは主として言語上ないし、文献学上のものであり、理論的なものではない。思想善導は、学生に、苦しんで思索することを教えるものではなく、その反対だ。日本主義は自ら非合理主義を標榜している。思想善導の結果が、学生の知能低下となって現れても不思議はない。

369 断片的な知識をどれほど集めても真の知識とはならない。このような知識を積むには多くの知能を要しない。一方、真の知能は理論的なものである。今日の学生は種々のことを知っているが、何事も根本的に知っていない。理論的意識は、組織的・体系的な精神であるばかりでなく、批判的精神である。しかるに今日の学生の間に次第にいちじるしくなりつつあるように見えるのは、権威主義である。学問の精神は権威の精神とは反対だ。権威を承認せず、権威を破壊するところに学問の精神がある。現在の権威主義は、学問における官僚主義の現われだ。政治における官僚主義が濃厚になるにつれ、学問の世界における官僚主義も濃厚になる。批判的精神を奪われた学生は、この官僚主義に感染しつつある。

 学問における官僚主義の結果は、研究の自主性の喪失である。研究の自主性の喪失は、知能の低下をもたらす。学生は「何を読むべきか」と頻繁に問う。この質問に対して与えられた解答にしたがって彼等がどれ程熱心に読書しているかは疑わしい。この質問自体に権威主義が潜んでいる。今日の学生は読書においても自主性を失っている。これは読書でも無駄を省こうとする功利主義の現われか。自主的な研究は自主的な読書から始まる。大きな学問とは無駄のある学問だ。

370 批判的精神の欠乏の原因は、今日の学校で研究の自由が束縛されていることだ。

 

 今日の学生の大多数がファシズム的教育に内心から同意しているとは私は考えない。不幸なことに、彼らは自分で内心思っていることと、公に言うこととを区別しなければならないということだ。そのことは彼らの良心を駄目にする。真理に忠実であるべき学問を駄目にする。これは道徳の問題でもある。

 

以上 20201017()

ウイキペディアより

 

三木清 1897.1.5—1945.9.26 

 

1922年、ドイツに留学し、ハインリヒ・リッケルトから歴史哲学を学んだ。1923年、マルティン・ハイデッガーやニコライ・ハルトマンから学んだ。また、ハイデッガーの助手カール・レーヴィットの影響で、ニーチェやキエルケゴールに興味を持った。1924年、パリに行き、パスカルを研究した。

1925年、帰国した。1927年、法政大学文学部哲学科主任教授。羽仁五郎とマルクス主義的雑誌『新興科学の旗のもとに』を起こす。1930年、日本共産党への資金援助を理由に逮捕され転向した。有罪判決を受け、公式には教職に就けなくなったため、法政大学を退職し、文筆活動に転じた。1930年、一人娘の洋子が生まれた。彼女は東大文学部の初めての女性教官永積洋子(近世通行貿易史専攻)である。

1930年代後半、後藤隆之介ら近衛文麿の友人が中心となって組織した昭和研究会に参加し、協同主義という多文化主義を掲げ、それが日中関係打開の新政策に繋がると海軍から期待されたが、中国からの反応はなかった。

 

支那事変後、昭和研究会内に世界政策研究会が発足した。酒井三郎が三木の論文「日本の現実」(中央公論)に注目した。三木は昭和研究会で「支那事変の世界的意義」と題した講演を行い、その中で思想・文化に関する研究会の設立を提案した。昭和研究会の中に、文化研究会が設立され、三木はその委員長に就任した。

総力戦体制に対する抵抗と関与という両義的な態度は、同時代の転向知識人の特徴だが、三木はその典型だ。軍部と皇道右翼によって、マルクス主義や自由主義は自立的な社会的活動の余地を奪われていた。(今日2020.10の6人の学術会議員への選任拒否と同じ構図だ。)総力戦体制の効率化・合理化は、体制派の主流に対する批判的意見表明を可能にする最後の可能性だった。しかし、昭和研究会は、軍部や保守派に敵視され、解体され、大政翼賛会に取り込まれた。当初の総力戦動員の合理性の追求は、戦争協力に変質した。

1930年代末から1940年代にかけて、三木は、マルクス主義をより大きな理論的枠組みの中で理解し直す「構想力の論理」を企てたが、未完に終わった。最後は親鸞の思想に再び惹かれた。

1945年、治安維持法違反の被疑者高倉テルが、葬儀出席のため数日間の釈放中に逃亡した際、三木の疎開先を訪れた。三木は彼女に服や金を与えたことを理由に、検事拘留処分*を受け、東京拘置所に送られ、同年1945年6月、豊多摩刑務所に移された。そこで三木は疥癬を病み、腎臓病が悪化し、終戦後の9月26日に、独房の寝台から転がり落ちて死んでいるのが発見された。48歳没。

 GHQは三木の死に驚き、治安維持法の撤廃を急遽決定した。

 

思想

 

高校時代 西田幾多郎の『善の研究』を読み、哲学専攻を決意した。

大学時代からドイツ留学まで 新カント派を研究し、歴史哲学を研究の中心テーマとした。

ドイツ留学時代 第一次大戦後のドイツはインフレで、日本人留学生は生活しやすく、大勢の日本人がドイツに留学した。そこで三木も多くの日本人留学生と交流した。羽仁五郎、大内兵衛、天野貞祐、九鬼周造、北昑(きん)吉、石原鎌、久留間鮫造、阿部次郎、藤田敬三、糸井靖之、黒正厳、小尾範治、鈴木宗忠、大峡秀英などである。

ハイデルベルク カール・マンハイム、ヘルマン・グロクナー、エルンスト・ホフマン、オイゲン・ヘリゲルらと交流した。

マールブルク 三木は日本でリッケルトの著作のほとんどを原典で読んでいたので、ハイデッガーの演習に参加した。歴史哲学を学んだ。カール・レービットの影響を受け、ディルタイ、フリードリッヒ・シュレーゲル、フンボルト、キエルケゴール、ドストエフスキーなどを読んだ。

パリ パスカルを研究した。

マルクス主義研究 パリからの帰国後、当時日本ではマルクス主義が研究されていたので、三木も研究を始めた。

福本和夫は文部省留学生としてドイツで学んだ。福本は、共産党が中核となって大衆を指導すべきだとした。

三木は1930年5月、日本共産党に資金提供したとして逮捕され、11月に懲役1年、執行猶予2年の判決を受けて転向した。

 

以上 20201018()

 

 

2020年10月15日木曜日

組閣工作の109時間 宇垣一成 1954年、昭和29年7月号 昭和メモ 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 要旨・感想

組閣工作の109時間 宇垣一成 1954年、昭和29年7月号 昭和メモ 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988

 

 

感想

 

 これは宇垣の、戦後になってからの当時の回想である。ファシズムに反対したと言うが、本当なのだろうか。

 1937年1月、青年将校を中心として、陸軍全体が軍港主義化を目指して暴走し、それに歯止めをかけられる者がいない状態だったようだ。

 

ウイキペディアによると、

 

宇垣一成(かずしげ)1868.8.9—1956.4.30

 

宇垣は1925年、加藤高明内閣の陸軍大臣だった頃、軍事予算削減の世論に押され、4師団と陸軍幼年学校2校を廃止したが、浮いた予算は軍備の近代化に回した。さらに中学校以上に、余剰となった将校を配置し、国家総動員体制を構築しようとした。(やはり戦前の人間)

 

要旨

 

編集部注

 

 1937年、昭和12年1月、宇垣一成に首相の大命が下ったが、陸軍中央が拒否し、結局、陸軍の意向のままに動く林銑十郎内閣が成立した。これは、政治が軍部に屈するようになる転回点であった。

 

本文

 

358 1937年、昭和12年1月24日午後8時45分、百武侍従長から電話があり、翌25日午前1時、私は組閣の大命を拝受した。

 私は1936年、昭和11年8月、朝鮮総督を辞し、伊豆長岡の松籟荘にこもっていた。私はすでに69歳だった。

 1924年、大正13年、軍備縮小と費用節減の政府方針に従い、当時陸相であった私は、21個師団のうち4個師団を廃し、また1931年、昭和6年の三月事件*で(宇垣自身も関与していた)参謀本部の軍国主義派への協力を拒んだ(これは戦後の作文ではないか)ことなどから、一部青年将校(石原莞爾ら)の反感と不信が根深く浸透していた。また軍上層部は、これら少数の軍人の不満を抑えるべきだったのに、逆に彼等によって秩序を乱されがちであった。(否むしろ、青年将校を利用していたのではないか。)わたしはそれだからこそ政局の安定を図り、もって宸襟を安んじ、不肖私に対する国民の支持の声に答えねばならぬと決意し、大命を拝受した。

 

*三月事件 クーデターの提唱者もいたが、慎重派もいた。大川周明ら民間右翼も参加していた。宇垣(当時は陸相)はクーデター成功後の首相と目されていた。宇垣は最後の段階になって、クーデターをしなくても自分に大命降下があるだろうと予測し、合法的に軍事政権を樹立できると考えて、クーデターに反対した。クーデター案は内部から瓦解し、クーデター予定日3月20日の3日前の3月17日に中止された。事件は隠蔽された。宇垣は事件が中止となった後、陸相を辞して朝鮮総督になった。政党政治を廃して軍事政権を樹立することが目的だった。

 

 参内しようとして、横浜駅から自動車で夜半の京浜国道を東上した。ところが、六郷の鉄橋近くで、中島今朝吾・東京憲兵隊司令官が私の車を止めて、乗り込んできて、寺内陸相の、大命拝辞の要望を伝えた。

 中島はかつて私の幕僚だった。中島は「陸軍の若い層が騒ぎだし、容易ならぬ情勢です。参内されてもいちおう大命を拝辞していただきたい」「時局柄、私が(陸相に)代わって申しあげるように、と陸相が言っていた。」それに対して私が「私がもし大命を受けて組閣すれば、二・二六事件のように部隊が動くとか、中隊の機関銃がうなるとかの徴候があるのか」と問うと、「いやそんなことはありますまい」と中島は言った。

359 (大命を拝受してから)御前を辞して四谷の私邸に着くと、陸軍の反宇垣説が伝わっていたせいか、大命降下と聞いて馳せ参じた者、家族の者、みな悲愴な面持ちであった。

 中島憲兵隊司令官から聞いた陸相の言と、湯浅内府から聞いた陸相の言とは食い違っていた。湯浅内府は「寺内(陸相)に私が『(西園寺公望)公爵は宇垣を選ばれたが、これに対して陸軍はどうか』と訊ねると、寺内は、『もう宇垣さんが出られても大丈夫でしょう(=虐殺はないだろう)』と答えた」と言った。

 とすると短時日のうちに軍部の上層部は反宇垣論者の運動に屈したことになる。国家の安寧期しがたしの感を抱いた。

 同日午後2時、組閣本部に行った。元警保局長松本学、元樺太庁長官県忍、元朝鮮政務総監今井田清徳等をブレーンに組閣工作を進めた。(閣僚候補として)安井英二、貴族院の溝口直亮伯、民政党の川崎克、政友会の砂田重政等が思い浮かぶ。軍の政治干渉を潔しとしない予後備*の林弥三吉原口初太郎上原平太郎山路一善中将などが馳せ参じた。彼らは将軍グループを形成し、私を激励し、相互に議論を戦わせた。

 

*予後備 予備役とは、現役を終わった軍人が一定期間服する兵役。平常は市民生活を送り、非常時に召集されて軍務に服する。後備役とは、予備役を終了した者が服した兵役。

 

 私は4時、寺内陸相を官邸に訪れ、協力を求めたが、寺内は大命拝辞を婉曲に勧めるだけであった。次に永野海相を訪ねたが、永野も「陸軍が(陸相を)決定すれば、すぐに大臣を出す」と答えるだけだった。

360 浜田国松と寺内陸相との「腹切り問答」*で広田内閣が総辞職したが、それ以後の軍部の動きの一端を示す国民新聞(2月6日付け)の一節を以下に掲げる。

 

*1937年1月21日、帝国議会衆議院本会議で、浜田国松と寺内寿一陸相との激しいやり取りがあった。立憲政友会の浜田衆議院議員が、「近年日本では特殊事情のため言論の自由が圧迫され、独裁強化の政治的イデオロギーが軍の底を流れている」と、二・二六事件後の軍部の政治干渉を痛烈に批判した。これに対する寺内陸相「それは軍人に対する侮蔑のようだ。」浜田「侮辱する言葉があるなら割腹して謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と迫った。寺内はこれに激怒し、浜田を睨みつけた。議場に怒号が飛び交い、大混乱となった。議会は天皇に裁可を仰ぎ、翌日から閉会となった。寺内は「政党は時局に認識不足だ」と言って政党に反省を求め、議会解散を強く求め、解散しないなら単独辞職すると言い放った。海軍予算の成立を急ぎたい永野修身海相が寺内を説得したが、寺内はこれに応じず、廣田は閣内不統一を理由に内閣総辞職した。(陸軍やりたい放題。「戦争時局」が言論の自由を抹殺した。)

 

国民新聞(2月6日付)の一節

 

『宇垣内閣絶対反対――緊張しきった三宅坂の朝、陰惨な政局をそのまま、鉛色の濃霧がもやもやたちこめ、時々血の色を思わす不気味な太陽が、その間から顔を出す午前八時、「宇垣反対」の物言わぬ声は重苦しく参謀本部、陸軍省の建物を押し包み、まさに爆発一歩前という形、…ごろ寝の一夜を明かした各局長等の「敵はまだ動かんぞ!逸(はや)まるな」という興奮した甲高い声があちこちに飛ぶ。まるで戦場…』

 

 当時の軍部は青年将校の狂気に押され、政党本部のようだったと想像される。一方肝腎の各政党は、音を潜めて見守っていた。軍の政治活動は、軍人の政治関与である。

 軍部の屁理屈 「軍部は宇垣大将に大命が降下したことに反対ではなく、宇垣が大命を受けて組閣することに反対しているだけだ」という論法。また、国民世論を反映した後では、「軍部は宇垣大将の組閣に反対するのではなく、推薦した後任の陸相候補自身が入閣を拒否したに過ぎない」とし、軍部の行動は政治干与でないと、部内の結束を固めた。

 このころの陸軍は「全軍一致」の行動によって政局を左右し、事実上誰が内閣を組織するかを決定する政治的機能を持ち始め、(名目上は)「軍部の政治干与」とならずに、(実質的には)「政治干与」を行うことができるほど強力な組織に発展していた。

 だからこそ、私は日本国固有の憲政を擁護し、ファシズムへの道を歩まないように、難局を打開しなければならなかった。(これは戦後だから言える言葉ではないか。)これは私だけの考えではなく、国民大衆の心でもあった。言論機関はこう言った。「九人が是とし、一人が非とする。しかもその非とする所以がはなはだ分明を欠く。国民は難問を前にして首をたれるだけだ。――1月29日の『読売』新聞。「国論は定まっているのに、国論が行われない。誰がこうしたのか」――1月28日『東日』。国民大衆があの時ほど真剣に組閣の進行を見守っていたことはないだろう。

361 26日午前11時、杉山教育総監が組閣本部を訪れた。杉山は私の陸相時代に、軍事課長、軍務局長、次官を勤めた幕僚だった。杉山は「後輩として、個人として申し上げる」と前置きしてから私に言った。私が陸軍大臣のとき「4個師団を減らした。それは当時としては当然のことだった。しかし、その後陸軍部内はいろいろ『複雑』になり、…」と、陸軍の現状を説明し、私に「善処」を要望した。杉山は25日未明に、私の私邸に来ていたのに。

 次に予備の建川中将が、寺内陸相を打診した後に私のところを訪れ、「陸軍大臣は絶対に得られない」と報告し、「善処が賢明である」と忠言した。

 同日午後5時半、10期後輩の寺内陸相が現れ、「三長官会議で推挙した陸軍大臣候補が、全員辞退した」と正式に回答した。

 この陸相候補とは、杉山元、中村孝太郎、香月清司の3人である。しかし、後年、香月は何らの交渉も受けていないと言っている。つまり、「全員辞退」は、陸相官邸で、寺内、杉山、西尾(参謀次長)の三長官会議の筋書によるものだったということだ。当時の三長官会議の決定は、政府にとって無効(効力がない)であったと最近聞いた。すなわち、小磯内閣成立の直前、広田弘毅が小磯に、「陸軍大臣現役武官制は、総理が三長官会議を経ることなく陸相を任命できるという交換条件の下で立法化されたものだ」と確認させた。これは東條が三長官会議を楯に、小磯内閣の陸相に居直ることを広田が恐れていたからだろう。

 これが事実なら、今井田清徳、林弥三吉らの努力で実りつつあった組閣工作が、陸相問題で崩れることなく、宇垣内閣流産はありえなかったことだろう。広田はなぜ私にそのことを早く伝えてくれなかったのか。

 

362 私が1944年、昭和19年、支那での視察から帰朝した時、前述の中島憲兵隊司令官が私に、「宇垣内閣を新たにつくろうと努力した。ただ遅すぎた」と言った。また、当時、強硬に宇垣内閣出現に反対していた片倉衷中佐は、後日、反対理由を問われたとき「ただ時が悪かっただけで、宇垣氏に他意はない」と答えたところ、梅津陸軍次官に叱責され、満洲に追われた。その梅津は、1940年、昭和15年、第一次近衛内閣のとき、柴山兼四郎(軍務課長)が梅津次官と相談した後の国策研究会で、「陸軍は今後宇垣内閣に反対しない」と発表したが、これもまた時機を失したものであった。(意味不明)

 27日朝、今井田清徳に「宇垣が三長官と会見したい」と申し込ませたが、無駄だと拒否された。(誰に拒否されたのか。三長官か。今井田は宇垣内閣を組閣中だから、そんなことを言うはずがないから。)

 私は朝鮮軍司令官・小磯(國昭)中将に電話して、陸相就任を依頼した。彼は私の陸相時代に軍務局長を務めた。小磯は「三長官が同意するなら引き受けてもよい」とのこと。

 残る手段は、私自身が現役に復するか、(しかしこのためには陸相の手を経ねばならない)あるいは大権の発動を奏請するかである。大権発動の先例として、隈板(わいはん)内閣*の組閣当初、軍部が大臣を出し渋り、明治天皇が陸海軍二大臣を選任したことがある。

 

*第一次大隈内閣(隈板(わいはん)内閣1898.6.30—1898.11.8)は日本史上初の政党内閣である。与党となった憲政党のうち、旧進歩党系の大隈重信を首相に、旧自由党系の板垣退助を内務大臣に迎えて組織した。

 

 私は参内し、湯浅内府に会い、大命再降下あるいは「後任陸相を推薦せよ」とのお言葉を賜るよう執奏を求めたが、湯浅は、「無理を重ねて再び(二・二六事件のような)流血の不祥事となれば重大だ。」と反対した。

363 「私は死を賭している。執奏してくれ」と言ったが湯浅は拒否した。

 

 私は万策尽き、1月29日午前11時50分、大命を拝してから108時間50分後に、大命を拝辞する上奏文を上呈した。

 

以下がその上奏文である。敬語省略。内容のみ。

 

 臣(私)の組閣に反対することが陸軍の総意であるかのように伝えられていたが、実際は10数名が、その地位と官権を濫用し、宣伝・圧迫等によって誇張されていることが、だんだん明らかになってきたので、一度組閣すればこれらの始末はさほど難しくはないと考えられる。

 私による組閣の大命拝辞の結果を想像してみる。昨日28日午前、陸軍当局と再度会見したが、自分らの力ではどうにもできないとのことであった。そこで権道(手段方法は道に外れているが、結果から見て正道にかなっていること)を考えてみた。内閣官制第9条によって陸相事務管理を設置し、立法当時の精神に訴えることは、違法ではないが、今は用いるべきではないと考えた。国家の大法を紊(みだ)すべきではないと考えたからだ。さらに現役将官に個人的に就任を交渉したところ、ご本人は進んで今の混乱を収める努力をしたいと考えているが、天皇の優諚(ゆうじょう、諚はおおせの意。天子の言葉=選任)を求めないと禍根が残るだろうという回答だった。しかし宸襟を悩ますことはできないから、その交渉も中止した。

354 その他の手段も尽くし、時局が大切であることや挙国一体の必要性を説いたが、上手く行かなかった。これ以上の遷延で時局を紛糾させるのはよくない。聖命に答えることができない。内閣組閣の大命を拝辞する。(文章が論理的に整理されていないように感じられる。)

 

今これを読み返し、日本が辿った運命を思う時、暗澹たる気持ちになるだけだ。

 

昭和29年7月号 昭和メモ

 

以上 20201013()

 

ウイキペディアより

 

宇垣一成(かずしげ)1868.8.9—1956.4.30

 

 大正末期から昭和初期にかけて、長州出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥を築いた。陸軍大臣として宇垣軍縮を断行し、クーデター未遂事件である三月事件に関与した。予備役入り後に組閣の大命が下ったが、陸軍の反対で頓挫した。以後も幾度か首相に擬せられたが、いずれも実現しなかった。短期間外相を務めた後、公職を引退した。戦後参議院議員になったが、在職中に死去した。

 

生い立ち

 

水飲百姓の宇垣奎右衛門の5人兄弟の末子。10代で小学校の校長。岡山県から上京し、成城学校から陸軍に入り、軍曹になったところで、陸軍士官学校(1期)に入り、明治33年、1900年、陸軍大学校を卒業した。1902年~1904年、ドイツに留学。1906年にもドイツに留学した。1913年、山本権兵衛内閣による陸海軍大臣現役制廃止に反対し、左遷された。

 1924年、田中義一の工作で、清浦奎吾内閣陸軍大臣に就任し、加藤高明内閣でも陸軍大臣を留任した。しかし田中や政友会と距離をとり、憲政会に接近し、宇垣軍縮を実行した。1925年、加藤内閣で、軍事予算削減や軍縮を要求する世論の高まりを受けて、陸軍省経理局長三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会が設けられた。

21個師団のうち4個師団、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校が廃止された。

 軍縮は予算縮減を目的としていたが、実際は浮いた予算を、装備の更新に回した。日本の装備は見劣りしていた。戦車連隊と高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾に山砲兵連隊1個を新設し、自動車学校と通信学校の開校、飛行機、戦車、軽機関銃、自動車牽引砲、野戦重砲を配備した。

定員縮小で師団長4人、歩兵連隊長16人のポストがなくなった。これは後に反発を招いた。中学校以上に余剰になった将校を配置し、軍事教育を徹底させ、国家総動員体制を構築しようとした。第1次若槻礼次郎内閣でも陸相を留任し、1927年まで務め、陸軍大将に進級した。

 1927年、政友会政権下での陸相を辞退し、朝鮮総督に就任した。1929年、浜口雄幸内閣で再度陸軍大臣に就任し、軍縮を検討したが、自身の健康悪化と、濱口の銃撃で実現しなかった。

 

 幕僚が首謀者となり、宇垣ら陸軍首脳も関与した、クーデター未遂事件である三月事件が発覚した。宇垣はクーデター後の首相就任を予定されていたが、合法的に政権を獲得できる見込みがついたので、計画を中止させた。1931年予備役となり、1936年まで朝鮮総督を務めた。内鮮融和を掲げ、皇民化政策を行った。「南綿北羊」の農村振興と工鉱併進政策を推進したが、あまり効果はなかった。金の産出を奨励したが、ほとんどの利益を日本の資本が占めた。朝鮮人の間では、「朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督」と評価されていたと、大谷敬二郎は言う。(『憲兵 元・東部憲兵隊司令官の自伝的回想』光文社NF文庫、2006327頁。)

 

組閣流産

 

 1937年、廣田弘毅内閣が総辞職し、宇垣に組閣の大命降下がなされた。

 元老西園寺公望は宇垣の軍縮手腕を高く評価し、宇垣が軍部を抑えられると考えていた。(伊藤之雄『元老 西園寺公望 古希からの挑戦』文春新書2007宇垣は軍部ファシズムに批判的で、中国や英米など外国に穏健な姿勢で、評判がよかった

 宇垣に組閣の大命降下がなされたが、石原莞爾歩兵少佐など陸軍中堅層は、軍部主導の政治を目論み、宇垣組閣を阻止した。

 石原は、自身が属する参謀本部など陸軍首脳部を突き上げた。石原は陸軍大臣・寺内寿一を説得し、宇垣に自主的に大命を拝辞するように説得するよう、寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。しかし、宇垣はそれを無視して、大命を受けた。

 石原は諦めず、軍部大臣現役武官制を利用し、誰も陸軍大臣のポストにつかないように工作した。宇垣が陸軍大臣だったころ、宇垣四天王と呼ばれた者のうちの2人、杉山元教育総監、小磯國昭朝鮮軍司令官への石原の、陸相を受けさせない工作は成功した。

 当時、予備役陸軍大将だった宇垣は、首相が陸相を兼任する内閣発足を模索した。宇垣は現役復帰と陸相兼任を勅命で実現しようと、湯浅倉平内大臣に打診したが、湯浅はそれに失敗した時の宮中への悪影響を恐れ、拒絶した。

 石原は自身のこの行為を後日反省した。(嘘だろう)石原は中国との全面戦争に反対で、対米戦争は時機尚早と考えていた。(これも嘘だろう)

 西園寺はその後、天皇の下問と奉答を辞退したいと述べた。(同前)

 

 宇垣は陸軍省の課長だった頃、第一次山本権兵衛内閣1913.2.20—1914.4.16が、軍部大臣現役武官制を予備役に拡大することに反対した。現役武官制は廣田内閣のときに復活し、そのため自身の組閣が阻止された。

 宇垣はその後も首相候補となったが、陸軍が賛成しないとして大命降下にならなかった。1938年第一次近衛内閣で外務大臣に就任し、拓務大臣を兼任した。

 1938年5月の改造内閣のとき、宇垣は、日中平和交渉の開始や近衛文麿の「爾後国民政府を対手とせず」という声明を撤回することを条件に、外務大臣に就任した。宇垣は、近衛声明の再検討を表明し、駐日英国大使クレーギーや駐中英国大使カーなどを介し、孔祥煕国民政府行政院長らと極秘に接触し、中国側から「現実的な」和平条件を引き出した。しかし、近衛首相は、蔣介石の下野など和平条件を吊り上げ、近衛声明の維持表明もした。また陸軍は、宇垣の和平工作を妨害し、興亜院*の設置を働きかけ、対中外交の主導権を、外務省から奪おうとし、それに近衛も賛成した。梯子を外された宇垣は外相を辞任した。

 

興亜院 中国侵略後の占領地の政務・開発事業を統一指揮するために開設された。1938.12.16

 

 宇垣は在任中に発生したソ連との国境紛争張鼓峰事件*を外交交渉で停戦させた。在任中、牛場信彦ら革新派若手外交官が、対中強硬論や、革新派リーダー白鳥敏夫の次官就任など外交刷新を、宇垣の自宅に押しかけて訴えた事件が発生した。(戸部良一『外務省革新派 世界新秩序の幻影』中公新書2010、3頁)

 

 *張鼓峰事件1938.7.29—8.11 満州国東南端の琿(こん)春市にある張鼓峰で起きた国境紛争。

 

 宇垣が国民政府から引き出した条件は、後の日米交渉の条件より有利だった。また交渉ルートが確実に国民政府中枢と通じていて、実現性が高かった。ジャーナリストの清沢洌1890.2.8—1945.5.21は、宇垣の外交を高く評価している。(北岡伸一『日本の近代5 政党から軍部へ―19241941』中央公論新書、1999

 

東条倒閣運動と宇垣

 

宇垣は同年1938年9月、拓務大臣兼外務大臣を辞任した。1944年、拓殖大学学長に就任。

1943年、東條英機内閣に対する批判が高まり、中野正剛らが宇垣を後継首相に推薦し、重臣たちの了解もとりつけ、宇垣本人もそれを了承したが、東條に弾圧されて、流産した。

 

戦後の宇垣

 

 1945年、公職追放。

 東京裁判を主導したキーナン首席検察官は、米内光政、若槻礼次郎、岡田啓介、宇垣を、ファシズムに抵抗した平和主義者と呼んで賞賛した。

 1952年、追放解除となり、1953年4月の参院選挙全国区でトップ当選した。選挙運動中に倒れ、1956年、議員在職のまま死去した。一酸化炭素中毒とのこと。

 

評価 

 

 宇垣は軍部大臣現役武官制を主張して政党政治を批判し、三月事件に関与し、軍部による国家支配を画策したが、西園寺に首班指名されるとそれを全て否定した。張鼓峰事件*でも、天皇には戦争反対論を上奏していたのに、出兵を容認したかのような発言をした。

 

以上 20201014()

 

 

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