組閣工作の109時間 宇垣一成 1954年、昭和29年7月号 昭和メモ 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988
感想
これは宇垣の、戦後になってからの当時の回想である。ファシズムに反対したと言うが、本当なのだろうか。
1937年1月、青年将校を中心として、陸軍全体が軍港主義化を目指して暴走し、それに歯止めをかけられる者がいない状態だったようだ。
ウイキペディアによると、
宇垣一成(かずしげ)1868.8.9—1956.4.30
宇垣は1925年、加藤高明内閣の陸軍大臣だった頃、軍事予算削減の世論に押され、4師団と陸軍幼年学校2校を廃止したが、浮いた予算は軍備の近代化に回した。さらに中学校以上に、余剰となった将校を配置し、国家総動員体制を構築しようとした。(やはり戦前の人間)
要旨
編集部注
1937年、昭和12年1月、宇垣一成に首相の大命が下ったが、陸軍中央が拒否し、結局、陸軍の意向のままに動く林銑十郎内閣が成立した。これは、政治が軍部に屈するようになる転回点であった。
本文
358 1937年、昭和12年1月24日午後8時45分、百武侍従長から電話があり、翌25日午前1時、私は組閣の大命を拝受した。
私は1936年、昭和11年8月、朝鮮総督を辞し、伊豆長岡の松籟荘にこもっていた。私はすでに69歳だった。
1924年、大正13年、軍備縮小と費用節減の政府方針に従い、当時陸相であった私は、21個師団のうち4個師団を廃し、また1931年、昭和6年の三月事件*で(宇垣自身も関与していた)参謀本部の軍国主義派への協力を拒んだ(これは戦後の作文ではないか)ことなどから、一部青年将校(石原莞爾ら)の反感と不信が根深く浸透していた。また軍上層部は、これら少数の軍人の不満を抑えるべきだったのに、逆に彼等によって秩序を乱されがちであった。(否むしろ、青年将校を利用していたのではないか。)わたしはそれだからこそ政局の安定を図り、もって宸襟を安んじ、不肖私に対する国民の支持の声に答えねばならぬと決意し、大命を拝受した。
*三月事件 クーデターの提唱者もいたが、慎重派もいた。大川周明ら民間右翼も参加していた。宇垣(当時は陸相)はクーデター成功後の首相と目されていた。宇垣は最後の段階になって、クーデターをしなくても自分に大命降下があるだろうと予測し、合法的に軍事政権を樹立できると考えて、クーデターに反対した。クーデター案は内部から瓦解し、クーデター予定日3月20日の3日前の3月17日に中止された。事件は隠蔽された。宇垣は事件が中止となった後、陸相を辞して朝鮮総督になった。政党政治を廃して軍事政権を樹立することが目的だった。
参内しようとして、横浜駅から自動車で夜半の京浜国道を東上した。ところが、六郷の鉄橋近くで、中島今朝吾・東京憲兵隊司令官が私の車を止めて、乗り込んできて、寺内陸相の、大命拝辞の要望を伝えた。
中島はかつて私の幕僚だった。中島は「陸軍の若い層が騒ぎだし、容易ならぬ情勢です。参内されてもいちおう大命を拝辞していただきたい」「時局柄、私が(陸相に)代わって申しあげるように、と陸相が言っていた。」それに対して私が「私がもし大命を受けて組閣すれば、二・二六事件のように部隊が動くとか、中隊の機関銃がうなるとかの徴候があるのか」と問うと、「いやそんなことはありますまい」と中島は言った。
359 (大命を拝受してから)御前を辞して四谷の私邸に着くと、陸軍の反宇垣説が伝わっていたせいか、大命降下と聞いて馳せ参じた者、家族の者、みな悲愴な面持ちであった。
中島憲兵隊司令官から聞いた陸相の言と、湯浅内府から聞いた陸相の言とは食い違っていた。湯浅内府は「寺内(陸相)に私が『(西園寺公望)公爵は宇垣を選ばれたが、これに対して陸軍はどうか』と訊ねると、寺内は、『もう宇垣さんが出られても大丈夫でしょう(=虐殺はないだろう)』と答えた」と言った。
とすると短時日のうちに軍部の上層部は反宇垣論者の運動に屈したことになる。国家の安寧期しがたしの感を抱いた。
同日午後2時、組閣本部に行った。元警保局長松本学、元樺太庁長官県忍、元朝鮮政務総監今井田清徳等をブレーンに組閣工作を進めた。(閣僚候補として)安井英二、貴族院の溝口直亮伯、民政党の川崎克、政友会の砂田重政等が思い浮かぶ。軍の政治干渉を潔しとしない予後備*の林弥三吉、原口初太郎、上原平太郎、山路一善中将などが馳せ参じた。彼らは将軍グループを形成し、私を激励し、相互に議論を戦わせた。
*予後備 予備役とは、現役を終わった軍人が一定期間服する兵役。平常は市民生活を送り、非常時に召集されて軍務に服する。後備役とは、予備役を終了した者が服した兵役。
私は4時、寺内陸相を官邸に訪れ、協力を求めたが、寺内は大命拝辞を婉曲に勧めるだけであった。次に永野海相を訪ねたが、永野も「陸軍が(陸相を)決定すれば、すぐに大臣を出す」と答えるだけだった。
360 浜田国松と寺内陸相との「腹切り問答」*で広田内閣が総辞職したが、それ以後の軍部の動きの一端を示す国民新聞(2月6日付け)の一節を以下に掲げる。
*1937年1月21日、帝国議会衆議院本会議で、浜田国松と寺内寿一陸相との激しいやり取りがあった。立憲政友会の浜田衆議院議員が、「近年日本では特殊事情のため言論の自由が圧迫され、独裁強化の政治的イデオロギーが軍の底を流れている」と、二・二六事件後の軍部の政治干渉を痛烈に批判した。これに対する寺内陸相「それは軍人に対する侮蔑のようだ。」浜田「侮辱する言葉があるなら割腹して謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と迫った。寺内はこれに激怒し、浜田を睨みつけた。議場に怒号が飛び交い、大混乱となった。議会は天皇に裁可を仰ぎ、翌日から閉会となった。寺内は「政党は時局に認識不足だ」と言って政党に反省を求め、議会解散を強く求め、解散しないなら単独辞職すると言い放った。海軍予算の成立を急ぎたい永野修身海相が寺内を説得したが、寺内はこれに応じず、廣田は閣内不統一を理由に内閣総辞職した。(陸軍やりたい放題。「戦争時局」が言論の自由を抹殺した。)
国民新聞(2月6日付)の一節
『宇垣内閣絶対反対――緊張しきった三宅坂の朝、陰惨な政局をそのまま、鉛色の濃霧がもやもやたちこめ、時々血の色を思わす不気味な太陽が、その間から顔を出す午前八時、「宇垣反対」の物言わぬ声は重苦しく参謀本部、陸軍省の建物を押し包み、まさに爆発一歩前という形、…ごろ寝の一夜を明かした各局長等の「敵はまだ動かんぞ!逸(はや)まるな」という興奮した甲高い声があちこちに飛ぶ。まるで戦場…』
当時の軍部は青年将校の狂気に押され、政党本部のようだったと想像される。一方肝腎の各政党は、音を潜めて見守っていた。軍の政治活動は、軍人の政治関与である。
軍部の屁理屈 「軍部は宇垣大将に大命が降下したことに反対ではなく、宇垣が大命を受けて組閣することに反対しているだけだ」という論法。また、国民世論を反映した後では、「軍部は宇垣大将の組閣に反対するのではなく、推薦した後任の陸相候補自身が入閣を拒否したに過ぎない」とし、軍部の行動は政治干与でないと、部内の結束を固めた。
このころの陸軍は「全軍一致」の行動によって政局を左右し、事実上誰が内閣を組織するかを決定する政治的機能を持ち始め、(名目上は)「軍部の政治干与」とならずに、(実質的には)「政治干与」を行うことができるほど強力な組織に発展していた。
だからこそ、私は日本国固有の憲政を擁護し、ファシズムへの道を歩まないように、難局を打開しなければならなかった。(これは戦後だから言える言葉ではないか。)これは私だけの考えではなく、国民大衆の心でもあった。言論機関はこう言った。「九人が是とし、一人が非とする。しかもその非とする所以がはなはだ分明を欠く。国民は難問を前にして首をたれるだけだ。――1月29日の『読売』新聞。「国論は定まっているのに、国論が行われない。誰がこうしたのか」――1月28日『東日』。国民大衆があの時ほど真剣に組閣の進行を見守っていたことはないだろう。
361 26日午前11時、杉山教育総監が組閣本部を訪れた。杉山は私の陸相時代に、軍事課長、軍務局長、次官を勤めた幕僚だった。杉山は「後輩として、個人として申し上げる」と前置きしてから私に言った。私が陸軍大臣のとき「4個師団を減らした。それは当時としては当然のことだった。しかし、その後陸軍部内はいろいろ『複雑』になり、…」と、陸軍の現状を説明し、私に「善処」を要望した。杉山は25日未明に、私の私邸に来ていたのに。
次に予備の建川中将が、寺内陸相を打診した後に私のところを訪れ、「陸軍大臣は絶対に得られない」と報告し、「善処が賢明である」と忠言した。
同日午後5時半、10期後輩の寺内陸相が現れ、「三長官会議で推挙した陸軍大臣候補が、全員辞退した」と正式に回答した。
この陸相候補とは、杉山元、中村孝太郎、香月清司の3人である。しかし、後年、香月は何らの交渉も受けていないと言っている。つまり、「全員辞退」は、陸相官邸で、寺内、杉山、西尾(参謀次長)の三長官会議の筋書によるものだったということだ。当時の三長官会議の決定は、政府にとって無効(効力がない)であったと最近聞いた。すなわち、小磯内閣成立の直前、広田弘毅が小磯に、「陸軍大臣現役武官制は、総理が三長官会議を経ることなく陸相を任命できるという交換条件の下で立法化されたものだ」と確認させた。これは東條が三長官会議を楯に、小磯内閣の陸相に居直ることを広田が恐れていたからだろう。
これが事実なら、今井田清徳、林弥三吉らの努力で実りつつあった組閣工作が、陸相問題で崩れることなく、宇垣内閣流産はありえなかったことだろう。広田はなぜ私にそのことを早く伝えてくれなかったのか。
362 私が1944年、昭和19年、支那での視察から帰朝した時、前述の中島憲兵隊司令官が私に、「宇垣内閣を新たにつくろうと努力した。ただ遅すぎた」と言った。また、当時、強硬に宇垣内閣出現に反対していた片倉衷中佐は、後日、反対理由を問われたとき「ただ時が悪かっただけで、宇垣氏に他意はない」と答えたところ、梅津陸軍次官に叱責され、満洲に追われた。その梅津は、1940年、昭和15年、第一次近衛内閣のとき、柴山兼四郎(軍務課長)が梅津次官と相談した後の国策研究会で、「陸軍は今後宇垣内閣に反対しない」と発表したが、これもまた時機を失したものであった。(意味不明)
27日朝、今井田清徳に「宇垣が三長官と会見したい」と申し込ませたが、無駄だと拒否された。(誰に拒否されたのか。三長官か。今井田は宇垣内閣を組閣中だから、そんなことを言うはずがないから。)
私は朝鮮軍司令官・小磯(國昭)中将に電話して、陸相就任を依頼した。彼は私の陸相時代に軍務局長を務めた。小磯は「三長官が同意するなら引き受けてもよい」とのこと。
残る手段は、私自身が現役に復するか、(しかしこのためには陸相の手を経ねばならない)あるいは大権の発動を奏請するかである。大権発動の先例として、隈板(わいはん)内閣*の組閣当初、軍部が大臣を出し渋り、明治天皇が陸海軍二大臣を選任したことがある。
*第一次大隈内閣(隈板(わいはん)内閣1898.6.30—1898.11.8)は日本史上初の政党内閣である。与党となった憲政党のうち、旧進歩党系の大隈重信を首相に、旧自由党系の板垣退助を内務大臣に迎えて組織した。
私は参内し、湯浅内府に会い、大命再降下あるいは「後任陸相を推薦せよ」とのお言葉を賜るよう執奏を求めたが、湯浅は、「無理を重ねて再び(二・二六事件のような)流血の不祥事となれば重大だ。」と反対した。
363 「私は死を賭している。執奏してくれ」と言ったが湯浅は拒否した。
私は万策尽き、1月29日午前11時50分、大命を拝してから108時間50分後に、大命を拝辞する上奏文を上呈した。
以下がその上奏文である。敬語省略。内容のみ。
臣(私)の組閣に反対することが陸軍の総意であるかのように伝えられていたが、実際は10数名が、その地位と官権を濫用し、宣伝・圧迫等によって誇張されていることが、だんだん明らかになってきたので、一度組閣すればこれらの始末はさほど難しくはないと考えられる。
私による組閣の大命拝辞の結果を想像してみる。昨日28日午前、陸軍当局と再度会見したが、自分らの力ではどうにもできないとのことであった。そこで権道(手段方法は道に外れているが、結果から見て正道にかなっていること)を考えてみた。内閣官制第9条によって陸相事務管理を設置し、立法当時の精神に訴えることは、違法ではないが、今は用いるべきではないと考えた。国家の大法を紊(みだ)すべきではないと考えたからだ。さらに現役将官に個人的に就任を交渉したところ、ご本人は進んで今の混乱を収める努力をしたいと考えているが、天皇の優諚(ゆうじょう、諚はおおせの意。天子の言葉=選任)を求めないと禍根が残るだろうという回答だった。しかし宸襟を悩ますことはできないから、その交渉も中止した。
354 その他の手段も尽くし、時局が大切であることや挙国一体の必要性を説いたが、上手く行かなかった。これ以上の遷延で時局を紛糾させるのはよくない。聖命に答えることができない。内閣組閣の大命を拝辞する。(文章が論理的に整理されていないように感じられる。)
今これを読み返し、日本が辿った運命を思う時、暗澹たる気持ちになるだけだ。
昭和29年7月号 昭和メモ
以上 2020年10月13日(火)
ウイキペディアより
宇垣一成(かずしげ)1868.8.9—1956.4.30
大正末期から昭和初期にかけて、長州出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥を築いた。陸軍大臣として宇垣軍縮を断行し、クーデター未遂事件である三月事件に関与した。予備役入り後に組閣の大命が下ったが、陸軍の反対で頓挫した。以後も幾度か首相に擬せられたが、いずれも実現しなかった。短期間外相を務めた後、公職を引退した。戦後参議院議員になったが、在職中に死去した。
生い立ち
水飲百姓の宇垣奎右衛門の5人兄弟の末子。10代で小学校の校長。岡山県から上京し、成城学校から陸軍に入り、軍曹になったところで、陸軍士官学校(1期)に入り、明治33年、1900年、陸軍大学校を卒業した。1902年~1904年、ドイツに留学。1906年にもドイツに留学した。1913年、山本権兵衛内閣による陸海軍大臣現役制廃止に反対し、左遷された。
1924年、田中義一の工作で、清浦奎吾内閣の陸軍大臣に就任し、加藤高明内閣でも陸軍大臣を留任した。しかし田中や政友会と距離をとり、憲政会に接近し、宇垣軍縮を実行した。1925年、加藤内閣で、軍事予算削減や軍縮を要求する世論の高まりを受けて、陸軍省経理局長三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会が設けられた。
21個師団のうち4個師団、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校が廃止された。
軍縮は予算縮減を目的としていたが、実際は浮いた予算を、装備の更新に回した。日本の装備は見劣りしていた。戦車連隊と高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾に山砲兵連隊1個を新設し、自動車学校と通信学校の開校、飛行機、戦車、軽機関銃、自動車牽引砲、野戦重砲を配備した。
定員縮小で師団長4人、歩兵連隊長16人のポストがなくなった。これは後に反発を招いた。中学校以上に余剰になった将校を配置し、軍事教育を徹底させ、国家総動員体制を構築しようとした。第1次若槻礼次郎内閣でも陸相を留任し、1927年まで務め、陸軍大将に進級した。
1927年、政友会政権下での陸相を辞退し、朝鮮総督に就任した。1929年、浜口雄幸内閣で再度陸軍大臣に就任し、軍縮を検討したが、自身の健康悪化と、濱口の銃撃で実現しなかった。
幕僚が首謀者となり、宇垣ら陸軍首脳も関与した、クーデター未遂事件である三月事件が発覚した。宇垣はクーデター後の首相就任を予定されていたが、合法的に政権を獲得できる見込みがついたので、計画を中止させた。1931年予備役となり、1936年まで朝鮮総督を務めた。内鮮融和を掲げ、皇民化政策を行った。「南綿北羊」の農村振興と工鉱併進政策を推進したが、あまり効果はなかった。金の産出を奨励したが、ほとんどの利益を日本の資本が占めた。朝鮮人の間では、「朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督」と評価されていたと、大谷敬二郎は言う。(『憲兵 元・東部憲兵隊司令官の自伝的回想』光文社NF文庫、2006、327頁。)
組閣流産
1937年、廣田弘毅内閣が総辞職し、宇垣に組閣の大命降下がなされた。
元老西園寺公望は宇垣の軍縮手腕を高く評価し、宇垣が軍部を抑えられると考えていた。(伊藤之雄『元老 西園寺公望 古希からの挑戦』文春新書2007)宇垣は軍部ファシズムに批判的で、中国や英米など外国に穏健な姿勢で、評判がよかった。
宇垣に組閣の大命降下がなされたが、石原莞爾歩兵少佐など陸軍中堅層は、軍部主導の政治を目論み、宇垣組閣を阻止した。
石原は、自身が属する参謀本部など陸軍首脳部を突き上げた。石原は陸軍大臣・寺内寿一を説得し、宇垣に自主的に大命を拝辞するように説得するよう、寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。しかし、宇垣はそれを無視して、大命を受けた。
石原は諦めず、軍部大臣現役武官制を利用し、誰も陸軍大臣のポストにつかないように工作した。宇垣が陸軍大臣だったころ、宇垣四天王と呼ばれた者のうちの2人、杉山元教育総監、小磯國昭朝鮮軍司令官への石原の、陸相を受けさせない工作は成功した。
当時、予備役陸軍大将だった宇垣は、首相が陸相を兼任する内閣発足を模索した。宇垣は現役復帰と陸相兼任を勅命で実現しようと、湯浅倉平内大臣に打診したが、湯浅はそれに失敗した時の宮中への悪影響を恐れ、拒絶した。
石原は自身のこの行為を後日反省した。(嘘だろう)石原は中国との全面戦争に反対で、対米戦争は時機尚早と考えていた。(これも嘘だろう)
西園寺はその後、天皇の下問と奉答を辞退したいと述べた。(同前)
宇垣は陸軍省の課長だった頃、第一次山本権兵衛内閣1913.2.20—1914.4.16が、軍部大臣現役武官制を予備役に拡大することに反対した。現役武官制は廣田内閣のときに復活し、そのため自身の組閣が阻止された。
宇垣はその後も首相候補となったが、陸軍が賛成しないとして大命降下にならなかった。1938年第一次近衛内閣で外務大臣に就任し、拓務大臣を兼任した。
1938年5月の改造内閣のとき、宇垣は、日中平和交渉の開始や近衛文麿の「爾後国民政府を対手とせず」という声明を撤回することを条件に、外務大臣に就任した。宇垣は、近衛声明の再検討を表明し、駐日英国大使クレーギーや駐中英国大使カーなどを介し、孔祥煕国民政府行政院長らと極秘に接触し、中国側から「現実的な」和平条件を引き出した。しかし、近衛首相は、蔣介石の下野など和平条件を吊り上げ、近衛声明の維持表明もした。また陸軍は、宇垣の和平工作を妨害し、興亜院*の設置を働きかけ、対中外交の主導権を、外務省から奪おうとし、それに近衛も賛成した。梯子を外された宇垣は外相を辞任した。
*興亜院 中国侵略後の占領地の政務・開発事業を統一指揮するために開設された。1938.12.16
宇垣は在任中に発生したソ連との国境紛争張鼓峰事件*を外交交渉で停戦させた。在任中、牛場信彦ら革新派若手外交官が、対中強硬論や、革新派リーダー白鳥敏夫の次官就任など外交刷新を、宇垣の自宅に押しかけて訴えた事件が発生した。(戸部良一『外務省革新派 世界新秩序の幻影』中公新書2010、3頁)
*張鼓峰事件1938.7.29—8.11
満州国東南端の琿(こん)春市にある張鼓峰で起きた国境紛争。
宇垣が国民政府から引き出した条件は、後の日米交渉の条件より有利だった。また交渉ルートが確実に国民政府中枢と通じていて、実現性が高かった。ジャーナリストの清沢洌1890.2.8—1945.5.21は、宇垣の外交を高く評価している。(北岡伸一『日本の近代5 政党から軍部へ―1924~1941』中央公論新書、1999)
東条倒閣運動と宇垣
宇垣は同年1938年9月、拓務大臣兼外務大臣を辞任した。1944年、拓殖大学学長に就任。
1943年、東條英機内閣に対する批判が高まり、中野正剛らが宇垣を後継首相に推薦し、重臣たちの了解もとりつけ、宇垣本人もそれを了承したが、東條に弾圧されて、流産した。
戦後の宇垣
1945年、公職追放。
東京裁判を主導したキーナン首席検察官は、米内光政、若槻礼次郎、岡田啓介、宇垣を、ファシズムに抵抗した平和主義者と呼んで賞賛した。
1952年、追放解除となり、1953年4月の参院選挙全国区でトップ当選した。選挙運動中に倒れ、1956年、議員在職のまま死去した。一酸化炭素中毒とのこと。
評価
宇垣は軍部大臣現役武官制を主張して政党政治を批判し、三月事件に関与し、軍部による国家支配を画策したが、西園寺に首班指名されるとそれを全て否定した。張鼓峰事件*でも、天皇には戦争反対論を上奏していたのに、出兵を容認したかのような発言をした。
以上 2020年10月14日(水)