通州の日本人大虐殺 安藤利男 1955年、昭和30年8月号 三十五大事件 「文芸春秋」にみる昭和史 第一巻1988 感想・要旨
感想 2020年10月23日(金)
情緒的になるなと言っても、命に係わる問題だから、情緒的にならざるを得ないかもしれないが、戦後10年も経っているのに、情緒的な文章だ。しかし、この問題の核心は、親日的とされていた、中国側の冀東保安隊に対する日本軍の爆撃である。それが宗哲元軍に対するはずの誤爆か、意図的な爆撃かは未だ分からないと筆者は言う。395(編集部は誤爆だとする。)南京政府の冀東政府に対する影響や、抗日意識の冀東政府への浸透もあったのだろう。
いい迷惑なのは殷汝耕・冀東政務長官である。彼は、日本の憲兵隊に取り調べられ、戦後は中国側に日本に与したとして有罪とされ、死刑となった。
筆者安藤利男は、同盟通信社特派員。彼が銃殺の現場から逃げられたというのも不思議だ。「麻縄で腕を数珠繋ぎにされた」とあるから、どうやってほどいたのだろうか。392
追記 2020年10月24日(土)
中国側の資料も見ないと公平な判断はできない。
要旨
編集部注 1937年7月29日、北京東方30キロにある通州で、親日的と見られていた冀東軍が「反逆」し、日本居留民を襲撃した。その真因は戦後まで秘せられていたが、日本軍による誤爆によるものだった。この事件は戦争拡大の契機となった。(日本軍が戦争を拡大するために意図的に「誤爆」したのか。)
本文
北支では日本軍と宗哲元軍とが、盧溝橋事件や公安門事件を起こしていた。
390 北平の(日本)軍当局に通州事件の第一報が届いたのは31日の朝だった。
29日の午前4時頃から、銃声が鳴り始めた。冀東政府保安隊が「叛乱」を起こし、日本居留民虐殺という「大それた」「仕事」に取り掛かったのだ。
当時通州にいた日本人は約300人で、中には韓国人も交じっていた。筆者もその中にいた。筆者は虎口を脱し、北平にたどり着き、「通州虐殺事件」の真相をニュースとして送り出した。後に生存と発表された日本人は、たしか131名だった。ともかく200名以上は惨殺された。冀東政府は、北平に公署をもった宗哲元の冀察政務委員会より、親日性格の強い政権だった。冀東政府長官・殷汝耕氏は、日支提携協力論者だった。冀東政府保安隊が「寝返り」を打ったのだ。
冀東政府の建物の近くに蓮池があり、その近くに近水楼という日本人が経営する旅館(割烹)があった。日本人女中10数名が働いていた。筆者もそこに泊まっていた。菅島部隊という2、300名の通州派遣軍がいたが、27日の朝から付近に駐屯していた宗哲元軍に攻撃を加え、これを追い払い、北平の南苑方面に向っていて、留守だった。
391 筆者は28日夕方まで冀東政府の建物に出入していた。中はどの部局の部屋もざわめいていた。ラジオは支那軍の連戦連勝を伝えていた。蔣介石が南京から鄭州まで北上したとか、支那軍の飛行機200機が前線に出動するとかしつこく放送されていた。そして冀東の役人たちは、今夜の合言葉は、「勝」と言ったら「利」と言えばいい、と言っていた。
銃声は午前4時から始まった。8時頃ボーイが「特務機関あたりの日本の店やカフェーで日本人が大勢殺されている」と連絡して来たのが第一報だった。
私はこの時のことを生還直後に手記に書いた。
「午前9時頃、5、6軒先の支那家屋辺りでピストルが鳴り出した。近水楼の窓ガラスが一弾の銃声とともにバリバリと四散した。二階に上がり、畳で防壁を作った。屋根裏に隠れることにした。19人のうち11人が天井裏に隠れた。下から銃声と悲鳴が聞こえた。窓から下を見ると、暴徒が掠奪を始めた。最初保安隊の一部はこれを制止したが、効き目はなかった。この一団が引き上げると、今度は保安隊自身が掠奪を始めた。正午ころ屋根裏が発見された。」
392 身につけていたものは取り上げられ、男は6人ずつ1本の縄で数珠繋ぎに縛られた。筆者が最初だった。眼鏡をはずされた。梯子段を降りかかると、足元に惨殺死体が転がっていた。女中さんたちだった。一人の女中さんが丼に水を汲んで来て、皆で水杯を飲んだ。80名から100名の同じ境遇の日本人が政府建物内にいた。
「反乱兵」ははしゃいで銃を振り回し、嘲る者もいた。
393 銃殺現場の城壁の内側に連行された。筆者は先頭だったので、崩れた内側の城壁の斜面を登り、城壁の頂上近くに着いた。兵隊が銃を構えたとき、ある女が「逃げましょう」と言った。それと同時に私は跳躍し、外側の斜面を這いながら滑り落ち、外に逃げた。
131名の生存者の中には、事件を早く知り、未明のうちに兵営に逃げ込んだ者が多かった。部隊が留守中で、少数の憲兵や通信兵が犠牲になったが、営庭に無数の弾薬が積まれてあって、それに弾があたり、大爆発となり、叛乱軍は恐れをなして逃げてしまったという。本物の日本軍が到着したのは、その2日後だった。叛乱軍はすでに城外に逃げていた。通州では日本人の恨みは長く続いた。
394 通州事件の原因、真相は何か。
冀東保安隊は(日本の)友軍だったが、一夜にして「寝返」った。そのいくつかの要因のうち、冀東保安隊幹部訓練所が日本軍によって爆撃されたことが直接の原因だ。事件前々日の27日、日本軍が通州の宗哲元軍兵舎を攻撃し、その時の一機が冀東兵営を爆撃した。冀東政府の五色旗がひるがえっていたのだが。
そこで冀東兵営はさらに標識を掲げたが、それでも爆弾は落とされた。保安隊幹部は、当時の(日本)陸軍特務機関長の細木中佐に抗議した。保安隊の幹部連はあちこちに飛び出していたので、殷汝耕・冀東政務長官が(彼等を)集め、細木と殷が誤爆だったと釈明した。その時の日本軍の飛行機は、天津や北京から来たものではなく、朝鮮から来たものだったと後で言われた。連絡がまずかったのか、できなかったのか、知りながら狙ったものか、その後も分からずじまいである。
395 この爆撃事件が冀東保安隊の寝返りに「ふんぎり」を与えた。爆撃事件を起こした者が通州事件の張本人であると言う人もいる。
殷長官は、細木中佐と前夜深更まで政府建物長官室で会った後、29日午前2時頃、反乱軍に拘束された。細木は宿舎への帰途、政府附近の道路上で戦死した。特務機関副官の甲斐少佐は、自分の事務所前で叛乱兵と戦って死んだ。
叛乱の主力部隊は、保安第一、第二総隊だった。叛乱軍は殷長官を引き立てて通州域外に出て、北平に向った。叛乱軍は殷長官を宗哲元軍に引き渡すつもりだったらしいが、宗は日本軍の、28日正午を期限とする撤退要求のため、29日未明に北平を出て、保定に向っていたので、叛乱軍が(北平の)安定門についたころには宗はいなかった。叛乱軍は城壁の外側に沿って門頭溝へ向ったが、日本軍とぶつかり、いくつかに分散した。
殷長官は安定門駅の駅長室から今井陸軍武官(少佐)に電話して、救出された。長官を手放した保安隊は、日本人に武装解除された。
(日本の)天津軍は今井少佐に、殷氏を天津軍に引き渡すように要求した。今井少佐は反対だったが、結局そうなった。
殷氏は六国飯店から日本大使館の隣の日本軍兵営の中の憲兵隊の一室に移され、そこから天津に護送され、天津軍憲兵隊本部に監禁された。殷氏は北平の憲兵隊にいた時、関東軍の板垣陸軍参謀長や東京の近衛公へ、通州事件の経緯を手紙に書き、殷氏の夫人(日本人で、たみえ夫人)の実弟の井上氏に託し、新京と東京へ行くように依頼していたが、井上氏も憲兵隊に足を入れたまま行動の自由を奪われ、殷氏の手紙は憲兵隊に取りあげられた。
天津憲兵隊の訊問はその年の暮れまで続いた。12月27日、当時訊問に当たった太田憲兵中佐は、殷氏と井上氏、その他3名の冀東政府中国人職員の5名に、「天皇陛下の命により無罪」と言ったそうだ。
18年後の今日、殷氏は南京の中山陵付近の墓地に眠り、たみえ夫人は、日本で余生を送っている。
通州事件後、政界から姿を消した殷氏は、北平で、終戦の年の12月5日の夜、国民政府の要人・載笠氏の招きで宴会に出たとき、その場で捕らわれ、多くの当時の親日政客と同様に、北平の北新橋監獄に送られ、民国36年(昭和23年、1948年)12月1日、中国の戦犯として、南京で銃殺された。享年59。
殷氏が南京高等法院の法廷で述べた陳述のうち、冀東に関して、「自分がつくった冀東政府は、当時の華北の特殊な環境に適応したもので、当時華北軍政の責任者・宗哲元の諒解を得ていた」と記録されている。殷氏は獄中で「十年回顧録」を書いた。
殷氏は南京で、たみえ夫人に日華の提携の必要を説き、死刑場では、「自分は戦犯ではない、歴史がそれを証明する」と言ったとのことだ。
張春根さんは殷氏の運転手であった。中共は、春根さんを、戦犯につくしたというかどで、激しく追及した。春根さんはそれに耐え切れず、狂って南京で自殺した。
397 いつの時代でも恐ろしいのは狂った政策だ。
通州事件も、当時の日本がたどった、中国の気持ちや立場をまったく思いやらない不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである。
1955年、昭和30年8月号 三十五大事件
以上 2020年10月23日(金)
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