2020年10月10日土曜日

二・二六事件 ウイキペディアより 要旨・感想

二・二六事件 ウイキペディアより 2020927()

 

 

感想 2020930()

 

 事件当時の文芸春秋の情報収集能力が、いかに低いかということが分かった。文芸春秋は、事件当初、陸軍上層部が青年将校やその昭和維新の主張に同情的で、蕨起将校の蹶起趣意書を天皇の前で読み上げるのを手伝ったということを伝えていない。戒厳司令官の香椎浩平が皇道派に属し、彼も青年将校に同情的だった。石原莞爾が暗躍していて、彼も昭和維新を積極的に進めようとしていた。(石原莞爾は、参謀第一部第二課長をしていた。)憲兵隊も全体として皇道派に同情的だった。岡田総理を救出した、麹町憲兵分隊の特高主任をしていた小坂慶助曹長を正面から罵倒する将校までいたという。(小坂慶助『特高二・二六事件秘史』文春学藝ライブラリーp18-19

 そういう流れを覆したのが、天皇自身であり、宮廷グループ(側近)がそれを支えた。また、海軍は多数の海軍出身者が蕨起叛乱軍の犠牲にされ、怒り心頭に発し、軍艦を東京湾と大阪湾に出して、軍艦の砲門を叛乱兵側に向けた。

 

 軍上層部の事件への関与が疑われたが、もみ消されたようだ。

 二・二六事件に関する研究書は多い。

公判記録がGHQに押収され、後に返却され、東京地方検察庁に保管されていたことが1988年9月になって判明したが、コピーを許されないという。あまりにも関係する人物名が多いためだろうとのこと。現在でも関わりのある人が大勢いるということだろう。1993年に、研究目的でのみ、漸く一部の閲覧が認められるようになった。

 

 

要旨

 

概要

 

参加下士官・兵数 1,483人。これに陸軍青年将校が加わり、合計1,558人になるらしい。

「二・二六事件後、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた」とあるが、この法律は治安維持法関連である。青年将校の思想と何か関連があるのだろうか。

 

青年将校とは陸軍幼年学校や旧制中学校から陸軍士官学校に進んで任官した、20歳代の、隊附きの大尉、中尉、少尉達である。蕨起青年将校は、「昭和維新、尊王斬奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼等が政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が終息すると考えていた。

 

決起将校らは、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。

彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否した。天皇の意を汲んだ陸軍と政府は、彼等を「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。(天皇の意思が強く働いている。)

叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。事件の首謀者たちは銃殺刑に処された。

 

背景

 

 陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校止まりの者と、陸軍大学へ進んだ者たちとの間で人事上のコースが分けられていた。陸大出身者は陸軍省、参謀本部、教育総監部などの中央機関に勤務したが、陸大を出ていない将校たちは、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。彼らは高度に政治化された若手グループ(青年将校、一部将校)とよばれるグループを作った。

 彼等が政治的思想を持つに到った背景には、農村漁村の窮状がある。隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちと直に接し、その窮状を知り、憂国の念を抱いた。

 2・26事件に参加した高橋太郎少尉の事件後の手記によれば、高橋は、歩兵第3連隊で第一中隊の初年兵教育係であったときのことを回想している。高橋が初年兵の身上調査の面談で家庭事情を聞くと、兵は「姉が…」といって口をつぐみ、下を向いて涙を浮かべる。高橋は「食うや食わずの家族を後に、国防の第一線に命を致すつわもの、その心中はいかばかりか。この心情に泣く人幾人かある。この人々に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにはしておけない筈だ。殊に為政の重職に立つ人は」と書き残している。(太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』PHP文庫2008, p.166

 また、1933年、昭和8年11月に偕行社(陸軍の将校クラブ)で、皇道派・統制派両派の中心人物が集まって会談した際、統制派の武藤章らが「青年将校は勝手に政治運動をするな。お前らの考えている国家の改造や革新は、自分たちが省部(陸軍省と参謀本部のこと)の中心となってやっていくからやめろ」と主張した際、(偉ぶった言い方だ。それではカチンと来る。集団の民主主義がない。)青年将校たちは「あなた方陸大出身のエリートには農山村漁村の本当の苦しみは判らない。それは自分たち、兵隊と日夜訓練している者だけに判るのだ」と反駁した。(太平洋戦争研究会編『「2.26事件」がよくわかる本』PHP文庫2008, p.112-113

 こうした農村漁村の窮状に対する憂国の念は、革命的な国家社会主義者北一輝の「君側の奸」思想の影響を受けた。北一輝の『日本改造法案大綱』は、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家改造案を示したものだが、この本は昭和維新を夢見る青年将校たちの聖典だった。『日本改造法案大綱』の「昭和維新」「尊王討奸」の影響を受けた青年将校は、安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原康秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次ら尉官クラスであり、彼らは、上下一貫・左右一体を合言葉に、政治家と財閥系大企業との癒着などの政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破して、特権階級を排除した天皇政治の実現の必要性を叫んだ。(天皇親政)

 青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、あるべき国体から外れた結果だと考えた。農村地域での貧困の原因は、特権階級が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであり、それが日本を弱体化させていると考えた。その解決策は、明治維新をモデルにした「昭和維新」を行うことであった。「君側の奸」を倒すことで、再び天皇中心の政治に立ち返らせる。その後、天皇陛下が、西洋的な考え方と、人々を搾取する特権階級とを一掃し、国家の繁栄を回復させるだろうと考えた。この考えは当時の国粋主義者たち、特に北一輝の政治思想の影響を強く受けた。(Shillony1973, p.x, 60, 64?, 68, 70

 

 青年将校グループは大小さまざまで、緩やかなつながりを持っていた。東京圏の将校たちを中心に正式な会員が100名いたと推定される。その非公式のリーダーが西田税であった。西田は、北一輝の門弟で、1920年代後半から急増した民間の国粋主義的団体のメンバーになっていった。西田は、軍内の派閥を「国体原理派」と呼んだ。西田は、1931年の三月事件と十月事件など、当時の政治的テロの大部分にある程度関与した。しかし、陸軍と海軍のメンバーが分裂し、民間の国粋主義者との関係を清算した。

 

西田税1901.10.3—1937.8.19 元陸軍少尉であり、1925年、肋膜炎で依願予備役となった。

 

 皇道派と国体原理派とは別個のグループであるが、互恵的な同盟関係にあった。皇道派は国体原理派を「隠蔽」しつつ、彼等を受け入れ、急進的な将校を抑えるために国体原理派を利用していた。

 

資金源

 

 国体原理派は少数だったが、その政治的テロの威力は大きかった。参謀皇族にも理解者がいて、天皇の弟で、西田や他の国体原理派リーダーたちの友人であった秩父宮がそれである。国体原理派は反資本主義的だったが、わが身を守りたい財閥から資金を調達できた。三井財閥は血盟団事件1932.2—3で團琢磨が暗殺されたのち、青年将校の動向を探るために、「支那関係費」の名目で、半年ごとに1万円(2013年、平成25年の価値で7000万円)を北一輝に贈与した。これは北の生活費となり、西田税にもその一部が渡っていた。

 

 2月22日、西田は北に蕨起の意思を伝えた。

 2月23日、栗原中尉は石原広一郎*から蕨起資金3000円を受領した。

 

*石原広一郎は石原産業(鉱山・海運業)の創業者。二・二六事件では、資金を提供したとして逮捕された。戦後A級戦犯容疑で逮捕されたが、不起訴で釈放された。

 

 2月25日夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税に会い、久原房之介*から受領していた5000円から1500円を村中に渡した。

 

*久原房之介は日立の基盤となった久原鉱業所や久原財閥の総帥。

 

政治的テロ

 

 海軍青年士官による五・一五事件の陸軍青年士官に対する教訓は、兵力を動員することだった。

 

統制派による青年将校への抑圧

 

 統制派は国家総動員体制を構築するため、軍部が国家全般を指導できるようにしようとした。これは欧州での第一次大戦の教訓であった。

 統制派のグループには、1918年、大正7年頃から結成された、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東條英機らの二葉会があり、1926年、昭和元年ころから、陸軍の長州閥を打倒しようとした。

 また、1927年、昭和2年ころから、鈴木貞一を中心とする木曜会が形成された。

 二葉会と木曜会は1929年に統合され、一夕会となり、その目標は、宇垣閥の追放、機を見て武力で満蒙を占領することであった。

 

また、これとは別に、1930年、昭和5年、橋本欽五郎を中心とする陸大卒エリートが、日本の軍事国家化と翼賛議会体制への国家改造を目指して桜会を結成した。桜会は、1931年3月の三月事件、同年10月の十月事件と、クーデターを計画したが、未遂に終わった。計画段階で青年将校も誘ったが、青年将校は、橋本の権勢欲と見て参加しなかった。

 青年将校たちは自分たちで政権を担うつもりはなく、蹶起後は民主的選挙に任せ、自分たちはクーデターが成功しても、腹を切って、陛下の股肱(ここう)を斬ったことを詫びるつもりだった。彼らはそれを「純粋な動機」とし、橋本らの行動は単なる欧米風の政権奪取であると考えた。

 

 1931年の三月事件、十月事件後、同年12月に陸相が荒木貞夫に代わり、事件首謀者の橋本らは左遷された。青年将校はこの荒木の処断を支持した。一方、統制派は荒木に重用されなかったので、統制派の一夕会は1934年、荒木排除に動き、林銑十郎を陸相に就任させた。

 林の下で永田鉄山が軍務局長に迎えられ、陸軍省新聞班の名で、「国防の本義と其強化の提唱」(「陸軍パンフレット」)が発表された。ここで示された統制派の目指す国家改造は、軍部主導の総動員国家、統制国家の樹立であった。「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延いては階級対立を生ずるが如き事実ありとせば、一般国策上は勿論、国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」とし、「窮迫せる農村を救済せんが為には、社会政策的対策は固より緊要であるが、…経済機構の改善、人口問題の解決等、根本的の対策を講ずることが必要」とした。これは「国家改造は陸軍省や参謀本部がやるから、青年将校は大人しくしておれ」というメッセージでもあった。

 

 しかし青年将校の考えは、「君側の奸を倒して天皇中心の国家とする」ことだから、軍部中心の国家は求められていなかった。陸軍の中央幕僚(統制派)は、青年将校の動きを危険思想と判断し、長期間憲兵に青年将校の動向を監視させた。

 

 永田鉄山は、三月事件や十月事件で左遷された橋本欽五郎長勇らの清軍派(旧桜会)メンバーの復活を図った。青年将校はその処置に不信感を強め、橋本らを処断しないことは、「軍紀を乱し、天皇に対する欺瞞・不忠である」とし、統制派も君側の奸と映った。

 中央幕僚は、隊付青年将校に圧迫を加えるようになった。

 

陸軍士官学校事件

 

 1934年11月、国体原理派の村中孝次大尉と磯部浅一一等主計が、士官学校生徒等と共にクーデターを計画したとして逮捕された。二人は議論したことは認めたが、具体的な計画は否定した。1935年2月7日、村中は、片倉衷辻政信を誣告罪で告訴したが、軍当局は黙殺した。事件を調査した軍法会議は1935年3月20日、証拠不十分で不起訴としたが、村中と磯部は停職となった。4月2日、磯部が片倉、辻、塚本を告訴したが、これも黙殺された。4月24日、村中は告訴の追加を提出したが、黙殺された。5月11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議宛に上申書を提出し、磯部は5月8日と13日に第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。

 二人は、事件が統制派による青年将校への攻撃であると確信し、7月11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかしこれも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配付した。この中で、先の三月事件十月事件中央の幕僚たちが関与した事情を暴露し、これらの逆臣行為を隠蔽し、これに関与した中央の幕僚らを処断しないことは、大元帥たる天皇陛下を欺瞞し奉る大不忠であると批判した。中央の幕僚等は激昂し、緊急に手配して回収を図った。

1935年8月2日、村中と磯部は免官となった。青年将校の間で陸軍上層部に対する不信感が生まれた。

 

真崎教育総監罷免

 

 1935年7月、真崎甚三郎教育総監が罷免された。真崎は皇道派将校として最後の高官だった。青年将校はこの罷免に憤慨した。荒木大将が陸軍大臣であったころ、荒木は内閣の抵抗を克服できず、青年将校は、真崎に期待していたからだ。

 真崎の罷免は統帥権侵犯だという批判もなされた。陸軍教育総監は陸軍三長官の一つであり、これらのポストの人事は陸軍三長官の合意によって決められることになっていたが、三長官会議に真崎罷免案が示された時、真崎は承服しなかった。林陸軍大臣は、真崎が承服しないのに、天皇に真崎罷免人事案を上奏し、許しを得た。「教育総監は天皇が直接任命する(それは形式的ではないのか)のに、陸軍省の統制派が上奏し真崎を罷免したことは、天皇の大権を侵す統帥権侵犯だという論理だ。村中磯部は、この罷免に関して永田を攻撃する文書を発表した。また西田もその種の文書を発表した。(二・二六事件の根は深い。)

 

相沢事件

 

 1935年8月12日の白昼、国体原理派の一人で、真崎大将の友人である相沢三郎中佐が、報復として、統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長を殺害した。1936年1月下旬に相沢公判が始まった。公判で、相沢と国体原理派の指導者たちは、裁判官とも共謀し、公判を彼らの主張を放送する講演会にしたため、報道が過熱した。相沢の支持者たちは、相沢の道徳と愛国心を称賛し、相沢は、「真の国体原理に基づいて軍と国家を改革しようとした純粋な武士」と看做された。

 

磯部と陸軍幹部との接触

 

 二・二六事件の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るために多くの幹部と接触した。

磯部は事件後の尋問で「1935年10月ころから、(後藤文夫)内務大臣と(岡田啓介)総理大臣または林(銑十郎)前陸相か渡辺(錠太郎)教育総監のいずれか二人を自分ひとりで倒そうと思っていた」と答えた。

 1935年9月、磯部川島義之陸軍大臣を訪問した。川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい。国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った。(激励したのか。)

 1935年12月14日、磯部小川三郎大尉を伴い、古荘幹郎陸軍次官山下泰文軍事調査部長真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。山下泰文少将は、「アア、何か起こったほうが早いよ。」と言い、真崎大将は、「このままでおいたら血を見る。しかし俺がそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。(青年将校に激励しているのか)

 1936年1月5日、磯部川島陸軍大臣を官邸に訪問し、3時間話した。磯部が「青年将校が種々国情を憂いている」と言うと、川島は「青年将校の気持ちは分かる」と答え、磯部が「何とかしてもらわねばならぬ」と追求しても、川島は具体的な返答をせず、磯部が「そのようなことを言っていると、今膝元から剣を持って立つものが出てしまう」と言うと、川島は「我々の立場も汲んでくれ」と答えた。(これは拒否か)

 1936年1月23日、磯部が浪人・森伝とともに、川島陸軍大臣と面会した頃は、渡辺教育総監に対する青年将校の不満が高まっており、(磯部が)「このままでは必ず事が起こります」と伝えると、川島はその場は格別の反応を見せなかったが、帰り際に、一升瓶を手渡しながら、「雄叫(おたけび)というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ」と告げた。(結局賛同したということか。)

 1936年1月28日、磯部が真崎大将を訪れ、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては金が要るので都合していただきたい」と要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じて500円の提供を約束した。

 

 磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蕨起に理解を示すと判断した。

 1936年2月早々、安藤大尉が、村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて、山下泰文・軍事調査部長の自宅を訪問した。山下は十一月事件(陸軍士官学校事件1934)に関して、「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言った。一同は、村中、磯部の見解の正しさを再認識した。

 

決起のきっかけ

 

 青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊歩兵第3連隊近衛師団近衛歩兵第3連隊に属していた。第1師団の満洲への派遣が内定し、青年将校は、これを自分たちの主張する「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。

 

相沢事件の公判を利用し、重臣、政界、財界、官界、軍閥などの腐敗、醜状を暴露し、維新断行の機運を醸成し、決行はその後に回すという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになった。山口一太郎大尉や民間人の西田は、時機尚早としたが、彼らはそれを無視した。

 安藤輝三大尉は、第1師団の満洲行きが決まると、「渡満を楽しみにしている」と言っており、また、1935年1月の中隊長への昇進の前は、連隊長井出宣時大佐に、「直接行動はしない」と約束していた。しかし、栗原、磯部から参加を要請され、野中四郎大尉から叱責され、さらに野中から「今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ、我々に天誅が下るだろう。自分は今、週番中であるから、今週にやろう」と言われ、2月22日に漸く蹶起の決断をした。

 

 決起将校の中には、北一輝や西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、むしろ相沢事件公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織して、決起に向けて動き出したと考えられる。

2月20日、西田は、安藤大尉と会い、安藤の苦衷を聞き、「『野中大尉が強い決意をしている』と(安藤から)聞いて驚いた」と語っている。

山口一太郎大尉は、「(決起した)青年将校たちの多くを知らず、北や西田の影響を受けた青年将校が比較的少ないことに驚いた」と述べている。また、柴有時大尉も、2月26日、陸相官邸に初めて行った時の印象を、「西田派以外の青年将校が多いのに驚いた」と語っている。

 

 磯部は獄中手記で、「ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪や官匪が宮中・府中(政治を行う役所)にはびこり、天皇の御地位を危うくせんとしていたので、たまりかねて奸賊を討った。…藤田東湖の『大義を明らかにし、人心を正さば、皇道奚ぞ(いずくんぞ)興起せざるを憂えん』これが維新の精神である。維新とは具体案でも、建設計画でも、また案と計画を実現することでもない。維新の意義が分かれば、改造法案(北一輝のか)を実現するためや真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明らかだ。統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常な独断行動をした。…ロンドン条約真崎更迭は明らかに統帥権の干犯である」と述べている。(統帥権干犯とは、天皇大権の侮辱を意味したようだ。)

 

 村中は憲兵調書の中で「統帥権干犯があってから後、山口(一太郎)大尉から、『御上が総長宮(閑院宮載仁親王)とが悪い』と仰せられたということを聞いた。…(これは)本庄閣下より山口が聞いたものと思っている」とし、また、磯部は調書で「陛下が真崎大将の教育総監更迭について『永田が悪い』と本庄侍従武官長に御漏らしになったということを聞いて、私は林大将が統帥権を干犯していると思い、憤激した。」としている。

 

 『本庄日記』にこのような記述はないが、天皇が統制派に怒りを感じていて、皇道派にシンパシーをもっていると取れるこの情報が、彼等に重大な影響を与えたと考えられる。天皇→本庄侍従武官長→(娘婿)山口(一太郎)大尉という情報源は確かであり、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝われば、天皇はこれを認可するだろうと彼らが考えたとしても無理ないことだ。(誤情報を信じたのか。それとも真実の情報か。それなら、なぜ天皇は彼らの行動を認めなかったのか。)

 

 菅波三郎*は「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐であり、第二の理由は、陸軍の中央幕僚が考えていた北支那への侵略である。これは戦争になる。生還は期しがたい。大部分は戦死するだろう。だから満洲移駐前に元凶を斃す。北支那へは手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった。」と断定する。(山口一太郎『持論』1949.7「嵐はかくして起きた…二・二六事件の真相」、山口一太郎『持論』1949.8「嵐のあとさき…2.26事件の起きるまで」)

 

 東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合で、青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。

 

蹶起の計画

 

蹶起趣意書

 

 反乱部隊は決起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ、それを天皇に伝達しようとした。

蹶起趣意書は先任の野中四郎の名義になっているが、野中が書いた文章を北が大幅に修正したと言われる。1936年2月13日、安藤野中は、山下泰文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せた。山下は数ヶ所添削したが、何も言わなかった。

 蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では、宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求した。

 蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶であり、ロンドン条約と教育総監更迭が統帥権干犯であり、三月事件の不逞、天皇機関説の学匪、共匪(共産党のことか)、大本教などの陰謀をあげ、(それらが)反省することなく私権自欲にあり、維新を阻害しているから、これらの奸賊を誅滅し、大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭(つく)す、と述べている。

 

襲撃目標

 

 2月21日、磯部村中は、山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標は第一目標と第二目標とに分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標から外された。2月22日、暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また、天皇機関説を支持する訓示をしたとして、渡辺錠太郎教育総監が目標に加えられた。

 

第一次目標

 

岡田啓介(内閣総理大臣)

鈴木貫太郎(侍従長)

斎藤實(内大臣)

高橋是清(大蔵大臣)

牧野伸顕(前・内大臣)

渡辺錠太郎(教育総監)

西園寺公望(元老)(組閣のため対象から外される)

 

第二次目標

 

後藤文夫(内務大臣)

一木喜徳郎(枢密院議長)

伊沢多喜男(貴族院議員、元台湾総督)

三井高公(三井財閥当主)

池田斉彬(三井合名会社筆頭常務理事)

岩崎小弥太(三菱財閥当主)

 

西園寺公望襲撃の計画と取り止め

 

 18日夜、栗原安秀宅で西園寺の襲撃が決まり、翌19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校対馬勝雄中尉に(西園寺襲撃を)依頼し、同意を得た。

 対馬は、同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に(西園寺襲撃の)根回しをした。

 21日、山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと言ったが、磯部浅一は西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。

 23日、栗原が(豊橋の対馬勝雄に)出動日時等を伝えに行き、小銃実包2000発を(対馬に)渡した。

 24日夜、板垣徹を除く5名で、教導学校の下士官120名を25日午後10時ころ夜間演習名義で動員する計画を立てたが、翌25日朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、(西園寺)襲撃は中止となる。結局、対馬勝雄と竹島継夫だけが上京して蹶起に参加した。

 

 西園寺が事件の起るのを事前に知って、静岡県警察部長官舎に避難したという説はデマである

 事件発生直後の午前6時40分頃、木戸幸一が興津の西園寺邸に電話をすると、女中が「一堂未だお休み中」と返事をしているし。(西園寺が)官舎に避難したのは、午前7時30分頃であったと当時の静岡県警察部長橋本清吉がその手記で詳述している。

 

事件経過

 

襲撃または占拠等の状況(目標、時刻、指揮者、兵員、被害の一欄表)

 

 朝日新聞社に、軍用トラック3台、機関銃2基、兵60人を配置した。(後述の警視庁襲撃を除いて、ここだけが大装備による攻撃である。朝日新聞に対して憎しみがあったようだ。約3万円の損害。活字をひっくり返したとどこかに書いてあったような気がする。)

 

陸軍将校の指揮による出動

 

 反乱軍は前日夜半から当日未明にかけて連隊の武器を奪った。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎はこれを黙認した。歩兵第3連隊の週番司令安藤輝三大尉は指揮もした。

 反乱軍は圧倒的な兵力で警察官らの抵抗を制圧し、概ね損害を受けずに襲撃に成功した。

 

政府首脳・重臣への襲撃

 

岡田啓介首相

 

 岡田啓介は退役海軍大将で内閣総理大臣である。

特別警備隊に通じる非常ベルを押した小館喜代松巡査は拳銃で応戦したが、全身に被弾して昏倒した。警察病院に収容されたが、午前7時30分、「天皇陛下万歳」と叫びながら殉職した。

裏庭側の邸内で警備していた清水与四郎巡査は、非常非難口を守り殉職した。

廊下を守る村上嘉茂衛門巡査部長は、銃撃戦を演じ、全身に被弾して、中庭に追い落とされて殉職した。

 

 岡田総理は女中部屋の押入れに隠され、松尾伝蔵・退役陸軍歩兵大佐と土井清松巡査はあえてそこから離れ、松尾大佐は中庭で射殺され、土井清松巡査は、拳銃弾が尽き、林八郎少尉に組み付いたが、左右から銃剣で刺突され、殉職した。

 

 襲撃部隊は松尾大佐の遺体を岡田総理と誤認した。

 福井耕総理秘書官と迫水久常総理秘書官らは、遺体が松尾のものと確認し、女中の様子から総理生存を察知し、麹町憲兵分隊の小坂慶助憲兵曹長、青柳利之憲兵軍曹、小倉倉一憲兵伍長らと奇策を練り、翌27日、岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、反乱部隊将兵の監視の下、変装させた岡田総理を退出者に交えて官邸から脱出させた。

 

高橋是清蔵相

 

 高橋是清大蔵大臣は元総理で、陸軍省の予算の削減を図り、恨みを買っていた。高橋は積極財政により不況からの脱出を図ったが、インフレの兆候が生じ、緊縮政策に取り掛かった。高橋は海軍・陸軍を問わず一律に削減する案を実行しようとしたが、陸軍軍人は普段でも海軍の10分の1の予算しかなく、恨みをますます買うことになった。

 高橋私邸の玉置英夫巡査は重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれ、軍刀でとどめをさされた。

 27日、午前9時、商工大臣・町田忠治が兼任大蔵大臣となった。

 

斎藤実内大臣

 

 斎藤実内大臣は退役海軍大将であり、第30代内閣総理大臣である。長く海軍大臣を勤めていたが、1914年のシーメンス汚職事件*で引責辞任し、朝鮮総督府のときに退役した。五・一五事件後、内閣総理大臣兼外務大臣に任命され、満州事変では軍部に融和的な政策をとり、満州国を認めなかった国際連盟を脱退したが、帝人事件*で政府批判が高まると内閣総辞職した。

私邸で襲撃され、体から40数発の弾丸が摘出されたが、摘出できない弾丸が数多く残留した。

妻春子は筒先を手で押さえ腕に貫通銃創を負いながら、斎藤の体に覆いかぶさった。

 

シーメンス汚職事件 ドイツのシーメンスによる日本海軍高官への贈賄事件。第1次山本権兵衛(海軍長老)内閣が総辞職した。薩摩閥と海軍に批判が集まった。海軍の装備品納入に対する謝礼が暴露された。

帝人事件 1934年の疑獄事件。起訴された全員が無罪となった。倒閣を目的としたでっち上げの可能性が高い。時事新報が1934年1月、帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。鳩山一郎文相が関連を追及され、辞職した。その後、帝人社長、台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴され、政府批判が高まった。

 

鈴木貫太郎侍従長

 

 鈴木貫太郎は予備役海軍大将であり、反乱将校が、大御心の発現を妨げると考えていた枢密顧問官の地位にいたことからターゲットにされた。

 安藤輝三大尉が襲撃部隊を指揮し、麹町区(現・千代田区)三番町の侍従長公邸に乱入した。鈴木は複数の拳銃弾を撃ち込まれ、瀕死の重傷を負ったが、妻の鈴木たかが懇願したため、安藤大尉は止めを刺さずに敬礼して立ち去り、鈴木は一命を取りとめた。鈴木たかは、襲撃部隊の撤収後、昭和天皇に直接電話し、宮内省の医師の派遣を依頼した。天皇はこの電話で初めて襲撃事件を知った。

 安藤は以前鈴木侍従長を訪ね、時局について話したことがあった。鈴木は自らの歴史観や国家観を安藤に説き諭し、安藤に深い感銘を与えた。安藤は「あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で、懐が大きい人だ」と言い、何度も決起を思いとどまろうとしたと言われる。

 鈴木は太平洋戦争の末期に内閣総理大臣となり、岡田総理を救出した迫水久常(鈴木内閣で内閣書記官長)の補佐を受けながら終戦工作を行った。鈴木は生涯、安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。安藤は自分の命の恩人だ」と語っていたという。

 

渡辺錠太郎教育総監

 

 渡辺錠太郎大将は、真崎甚三郎の後任として教育総監となった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。これが青年将校の怒りを買った。

 斎藤内大臣襲撃後の高橋太郎少尉と安田優少尉が襲撃部隊を指揮したが、時刻は遅く、午前6時過ぎに、杉並区荻窪2丁目の渡辺私邸を襲撃した。斎藤實・内大臣(退役海軍大将)や高橋是清・大蔵大臣という重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅に入っていなかった。彼の身辺に敵側への内通者がいたという説もある。

 渡辺は機関銃掃射され、足の骨が剥き出しになり、肉が壁一面に飛び散ったと、目撃者の娘・渡辺和子は語る。渡辺邸は、牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長や憲兵上等兵が警護に当たっていたが、渡辺和子によれば、憲兵は二階に上がったままで、渡辺一人が応戦し、命を落としたのも渡辺だけであったという。(『文芸春秋』2012年9月特別号、渡辺和子「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」)

 28日付で教育総監部本部長の中村孝太郎中将が、教育総監代理に就任した。

 

牧野伸顕

 

 牧野伸顕伯爵は欧米協調主義を採り、またかつて内大臣として天皇の側近にあったことから、襲撃を受けた。

 河野寿大尉は、民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、湯河原の伊東屋旅館の元別館である光風荘にいた牧野伸顕を襲撃した。皆川義孝巡査は、牧野を裏口から避難させ、拳銃で応射した。そのとき河野大尉が負傷し、皆川巡査は重傷を負った。

牧野の付き添い看護婦・森鈴江は、皆川巡査を抱き起こして後送(後方へ送ること)しようとしたが、皆川巡査はすでに身動きできず、森看護婦自身も負傷していたため、襲撃部隊の放火によって炎上する邸内からの脱出は困難として、森看護婦のみを脱出させ、自らは殉職した。この時重傷を負った襲撃部隊の河野は入院し、入院中の3月6日に自殺した。

 

 脱出を図った牧野は襲撃部隊と遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼び、旅館の主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下され、近隣の一般人に背負われて逃げた。旅館の主人・岩本亀三や従業員・八亀広蔵が銃撃を受け負傷した。

 吉田茂の娘で、牧野の孫である麻生和子は、この日牧野を訪ねて同旅館にいた。麻生和子が晩年に執筆した『父吉田茂』に、襲撃を受けてから脱出に成功するまでの模様が記されているが、脱出に至る経緯については上記の記述とは異なる。

 

警視庁

 

 1月下旬から2月中旬にかけて、反乱部隊の夜間演習が頻繁になってきたことなどから、警視庁は状況を察知し、東京警備司令部に取締りを要請したが、取り合われなかった。そのため警視庁は特別警備隊(現在の機動隊)に機関銃を装備しようとしたが、実現しないまま事件の発生となった。

 

 警視庁と首相官邸とは非常ベル回線が設けられており、官邸警備の警察官(小館喜代松巡査)から襲撃の報告が警視庁に伝えられた。警視庁は特別警備隊1個小隊(一説には1個中隊)を緊急出動させたが、官邸近くで反乱部隊に阻止され、武装解除させられた。また所轄の麹町警察署も官邸の異常を察知し、複数の警察官が個別に官邸に向ったが、いずれも反乱部隊の阻止線で拘束され、官邸内に留置された。

 26日午前5時、野中四郎大尉が指揮する500人の部隊(歩兵第3連隊第7中隊常盤稔少尉以下156名、同第3中隊清原康平少尉以下152名、同第10中隊鈴木金次郎少尉以下142名、同機関銃隊立石利三郎曹長以下75名)が警視庁を襲撃した。その圧倒的な兵力と重火器によって、抵抗させる間もなく警視庁全体を制圧し、「警察権の発動の停止」を宣言した。交換手の背に銃剣を突きつけて電話交換室を占拠し、警察電話を遮断しようとしたが、兵士の電信電話の知識が乏しく、実際は全ての通信が維持された。

 この電話手の働きにより、小栗一雄警視総監を始め各部長は、警視庁占拠直後から情報を知らされた。総監官舎の襲撃等も想定されたので、総監・部長は急遽脱出し、まず麹町警察署で協議し、警察部長名で非常呼集を発令し、本庁勤務員は部ごとに、麹町、丸の内、錦町、表町の各警察署に、また各警察署の勤務員はそれぞれの所属署に、集合・待機するよう命じた。次いで麹町警察署は、反乱部隊の占領地域に近く、襲撃を受ける懸念があったので、総監・部長は神田錦町警察署に移動し、ここに非常警備総司令部を設けた。

 

 警視庁内では決死隊を募って本庁舎を奪還しようという強硬論も強かったが、安倍源基特高部長は、警察と軍隊が正面から衝突することによる人心の混乱を懸念して強く反対し、警視総監もこれを支持したことから、最終的に、陸軍や憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することにした。

 

 半蔵門に近い麹町警察署の署長室には当時宮内省直通の非常電話が設置されており、午後8時、その電話が鳴ると、署長をサイドカーに乗せて走り回る役目の巡査がその電話に応対した。相手は「ヒロヒト、ヒロヒト…」と名乗り、巡査が「どなたでしょうか」と訊ねると電話が切れ、再度の電話で別の男性の声で「これから帝国で一番偉い方が訊ねる」と前置きし、最初に名のった人物が質問し、巡査から、「鈴木侍従長の生存報告」「総理の安否は不明で、官邸は兵が囲んでいる」などの報告を受けた。会話の中で相手は自らを「朕」と名乗り、巡査は相手が昭和天皇だと理解した。相手はその後「総理消息をはじめ情況を知りたいので見てくれ」と依頼し、巡査の名前を尋ねた。(猪瀬直樹「東條英機処刑の日」(旧書名「ジミーの誕生日」第2章))

 

 作家の戸川猪佐武によれば、警視庁は青年将校たちが数日前より不穏な動きを見せているとの情報をある程度把握しており、斎藤實内大臣にそれを知らせたが、問題にされなかったという。

 

後藤文夫内相(第二目標。第一目標に絞るはずだったのではないか。)

 

 警視庁占拠後、警視庁襲撃部隊の一部は、副総理格後藤文夫内務大臣を殺害するために、内務大臣官邸を襲撃し、これを占拠した。歩兵第3連隊の鈴木金次郎少尉が指揮した。後藤本人は外出中で無事だった。

 

霞ヶ関・三宅坂一帯の占拠

 

 更に反乱部隊は陸軍省参謀本部、有楽町の東京朝日新聞(後の朝日新聞東京本社)なども襲撃し、日本の政治の中枢である永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂一帯を占領した。

 

要望事項

 

 26日午前6時半ごろ、香田清貞大尉が陸相官邸陸相に対する要望事項を朗読し、村中孝次が補足説明した。

 

・現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる。

・皇軍相撃つことは避けなければならない。

・全憲兵を統制し、一途の方針に進ませること。

・警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること。

大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること。

・速やかに陛下に奏上し、ご裁断を仰ぐこと。

・軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉(衷)少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し、十一月事件の誣告をなす)を除くこと。

・同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48)を速やかに東京に招致すること。

・同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること。

・報道を統制するため山下少将を招致すること。

・次の者を陸相官邸に招致すること。

*26日午前7時までに招致する者…古荘陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、第一師団長、小藤歩一連隊長、山口(一太郎)歩一中隊長、山下調査部長

*午前7時以降に招致する者…本庄(繁)、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍治課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐

 

鎮圧へ

 

26日

 

 事件後間もなく北一輝のもとに、渋川善助からの電話連絡により、蹶起の連絡が入った。同じ頃真崎甚三郎大将にも、政治浪人亀川哲也から連絡があった。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて、陸相官邸へ向った。

 午前4時半ころ、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、蹶起と推測の目標を告げた。*本庄日記によると、午前5時、本庄繁侍従武官長のもとに、反乱部隊将校の一人で、本庄の娘婿の山口一太郎大尉の使者・伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約500、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と告げ、「引き続き増加の傾向あり」という走り書き紙片(「今出たから、よろしく頼む」とだけ書いてあった。どうなってんの)を示した。本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同(伊藤常男)少尉を帰した。そして本庄は。岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、宮中に出動した。

 

*このとき本庄繁は、襲われる人になぜ連絡しなかったのか。この後の記述「制止に全力を致すべく」と矛盾している。事後の作文か。

 

 鈴木貫太郎夫人の鈴木たかは、皇孫御用掛として迪(みち)宮の4歳から15歳まで仕えていた。(鈴木たかの電話を受けた)中島侍従武官から連絡を受けた甘露寺受長侍従が天皇に報告したとき、天皇は「とうとうやったか」「全く私の不徳の致すところだ」と言った。半藤一利によれば、天皇はこの第一報の時から「賊軍」という言葉を青年将校部隊に対して使用していた。

 襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、木戸幸一大臣秘書官長は5時20分頃事件を知り、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長に電話し、6時頃参内し、湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と協議した。宮中グループは、温厚で天皇の信任も厚かった斎藤が殺害されて、憤激し、反乱軍の鎮定、反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことで纏まり、(湯浅倉平)宮内大臣から天皇に上奏した。青年将校は宮中グループに何の手も打たなかった。

 

 午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが、丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに陸相官邸を訪れ、6時半ころ、川島義之陸軍大臣に会い、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蕨起軍の配置情況を説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古荘次官、真崎、山下泰文(軍事調査部長)を招致するように命じた。他の反乱将校も現れ、川島陸相を吊るし上げた。斎藤劉少将、小藤大佐、山口一太郎大尉がまもなく(陸相)官邸に入り、7時半ごろ、古荘次官が到着した。

 午前8時過ぎ、真崎甚三郎荒木貞夫林銑十郎の3大将と山下泰文少将が、歩哨戦通過を許され、真崎山下は陸相官邸を訪れ、(川島陸相に)天皇に拝謁することを勧めた。

 

 26日早朝、石原莞爾大佐宅に新聞班長の鈴木貞一中佐から電話があり、事件の概要を知らせた。石原は軍事高級課員の武藤章中佐に電話した後、参謀本部へ出かけた。

 歩兵第三連隊の麦屋清済少尉によれば、石原は、赤坂見附台上に張られた蕨起軍の歩哨線で、「ここを通せ」と麦屋と押し問答をしたが、麦屋が石原に懇願し、石原を軍人会館へ行かせた。石原は「お前たちの気持ちはよく分かっておる」と言った。

 参謀本部第1部第3課の部員の難波三十四砲兵大尉によると、石原莞爾がやってきて、(参謀本部の)日直の部屋の電話で杉山元参謀次長に「すぐに戒厳令を布かれるといいと思います。」と言った。

 磯部浅一の『行動記』によると、石原莞爾大佐は「やめろ、やめねば軍旗をもって討伐する」と言った。

 山本又予備役少尉の獄中手記『二・二六日本革命史』によれば、石原は陸軍大臣官邸前に現れて、山本に「君等の云うことを聞く」と言い、(陸相)官邸内で磯部・村中・香田に「まけた」と言った。

 磯部が陸軍省軍務局の片倉衷少佐を撃ったとき、石原は驚いた。片倉衷少佐によれば、片倉が陸軍大臣官邸に入り、陸軍大臣に面会しようとしたとき、石原はすでに陸軍大臣官邸内にいて、「早く事態を収めることだ」と言った。片倉は叛乱将校に「昭和維新はお互いに考えていることである。尊王絶対の我らは統帥権を確立しなければならない。私兵を動かしてはならない」と説諭した。

 この時、陸軍大臣官邸前の玄関で、石原は真崎大将に「ここまで来たのは自業自得だ」と言い、真崎は「なんとか早くまとめなければならぬ」と答えた。

 川島義之陸軍大臣と古庄幹郎陸軍次官が真崎のところに出てきて、古庄が石原を招いたとき、片倉は磯部浅一に頭部をピストルで撃たれた。片倉は部下に支えられて立ち去り、その後銃弾を摘出し一命をとりとめた。

 

片倉少佐は政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し、十一月事件の誣告をなすと反乱軍には看做されていた。

 

石原と皇道派との関係について、真崎甚三郎、橋本欣五郎、石原との近接関係が構築されつつあったという説(筒井清忠)や、石原の蕨起軍に対する態度は、他の軍首脳と同様にぐらついていた(尋問調書や裁判資料に基づく北博昭の指摘)という説がある。

2月26日夕刻の石原と橋本との会談で、橋本の、「陛下に直接奏上し、反乱軍将兵の大赦をお願いし、その条件で反乱軍を降参させ、その上で軍の力で革命政府を樹立し、時局を収拾する」という案に石原は賛成した。石原は参謀次長の了解が必要だとし、杉山参謀次長のところへ行ったところ、杉山も賛成したとされる(橋本の資料か)が、杉山の手記には賛成したという表現はなく、実際は石原が、事件を早く解決しようとして橋本に嘘をついて、蕨起将校との交渉を進めようとしていたことが指摘されている。(別冊歴史読本永久保存版戦記シリーズNo.35『二・二六事件と昭和維新』p.122

橋本は石原との会談の前の2月26日夕刻、反乱軍が占拠している陸軍大臣官邸に乗り込み、「今回の壮挙まことに感激に堪えん。このさい一挙に昭和維新断行の素志を貫徹するよう、お手伝いに推参した」と言ったが、村中や磯部らは有難迷惑で、橋本を追い返した。

 

26日、石原莞爾は荒木貞夫大将に会い、荒木を「馬鹿」と罵倒し、事件の責任を押し付けた。

 

真崎大将は陸相官邸から伏見宮邸に向い、海軍艦隊派の加藤寛治とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎と加藤は戒厳令を布くべきこと、強力内閣をつくり昭和維新の大詔渙発によって事態の収拾をすることを言上した。伏見宮と三人で参内した。道中の車中で真崎は平沼騏一郎内閣案を加藤に話した。天皇は(湯浅倉平)宮内大臣に自分の意見は伝えてあるとし、伏見宮の提案に取り合わなかった。

午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蕨起趣意書」を読み上げ、状況を説明した。天皇は「何で蕨起趣意書などのようなものを読み聞かせるのか、速やかに事件を鎮圧せよ」と命じた。

正午ころ迫水秘書官は、大角岑生(みねお)海軍大臣に、岡田首相が官邸で生存していると伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。(見殺しにするということか)

 

杉山元参謀次長が甲府の歩兵第49連隊と佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。

 

午後、清浦奎吾元総理大臣が参内し、天皇に「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」とのことであった。(真崎甚三郎日記)磯部の遺書には、「清浦(奎吾元総理大臣」が26日参内せんとしたるも、湯浅倉平宮内大臣)、一木(喜徳郎枢密院議長)に阻止された」とある。

正午半過ぎ、荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺田寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王など軍事参議官が宮中で非公式の会議を開き、穏便に事態を収拾させることを目論み、26日午後、川島陸相名で告示が示された。

 

一、蹶起の趣旨に就いては天聴に達せられあり

二、諸子の真意は国体顕現の至情に基くものと認む

三、国体の真姿顕現の現況(弊風をも含む)に就いては恐懼に堪えず

四、各軍事参議官も一致して右の趣旨により邁進することを申し合わせたり

五、之以外は一つに大御心に俟つ

 

 この告示は、山下泰文少将によって、陸相官邸に集まった、香田・野中・津島・村中ら将校と磯部浅一らに伝えられた。しかし意図が不明瞭であったため、将校らには政府の意図が分からなかった。その直後、軍事課長村上啓作大佐が、「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると(叛乱将校らに)伝えため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に、「維新大詔」の草案作成が命令された。(誰によってか)午後3時ころ、村上(啓作)議長が書きかけの草案を持って陸相官邸に行き、(反乱将校らに)草案を示し、維新大詔渙発も間近いと伝えた。

 

(天皇がこのときOKすれば、このときから軍事国家がスタートする状況だったようだし、またOKしなくても、軍事国家に突き進んだから、天皇の意思は大した影響力はなかったと言える。ただ天皇がここで反対したのは、自分の重臣が殺されたことに対する憎しみの情だけで、軍国主義とか国際協調主義だとかは、あまり眼中にはなかったのだろうか。)

 

 26日午後3時、東京警備司令官香椎浩平中将は、蕨起部隊の占領地域も含まれる第1師管戦時警備を下令した。(7月18日解除。ずいぶん長い。)戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にあった。結果的に、蕨起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下となり正規の統帥系統に入ったことになる。午後3時、前述の告示が、東京警備司令部によって印刷・下達された。しかしこの際、第二条の「諸子の真意は」が

 

諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む

 

と「行動」に差し替えられた。反乱部隊への参加者を多く出した第一師団司令部は、現状が追認されたものと考え、この告示を喜んだ。しかし、近衛師団はこれを怪文書扱いにした。午後4時、戦時警備令に基く第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾に次の口達が付属した。

 

一、敵と見ず友軍となし、ともに警戒に任じ軍相互の衝突を絶対に避くること

二、軍事参議官は積極的に部隊を説得し、一丸となりて活発なる経論をなす。閣議もその趣旨に従い善処せらる

 

前述の告示とこの命令は、反乱部隊の蹶起を認めたものであり、後に問題となった。反乱部隊のもとには次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた

午後になるとようやく閣僚が集まり始め(宮中か)、午後9時後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、天皇は「時局の収拾を優先せよ」と命じて、一時預かりとした。(天皇は川島陸相の辞表が他の大臣と同じであったことに不快感を示した。(どういうことか。川島が反乱軍寄りだったためか。)その後(午後9時から8時40分に逆戻りか)閣議が開かれ、午後8時40分、戒厳施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は、軍政に繋がる恐れがあるとして、戒厳令に反対していたが、天皇がすみやかな鎮圧を望んでいたので、その意向を受け、枢密院が召集され、翌27日早暁、戒厳令が施行された。(専ら国内治安のための)行政戒厳であった。

 

午後9時、主だった反乱将校は、陸相官邸で、皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが、結論は出なかった。蕨起者に同調的な将校の、鈴木貞一、橋本欽五郎、満井佐吉も列席した。磯部の手記は、この時の様子は好意的だったとしている。

そのとき真崎は「緒官は私を内閣の首班に期待しているようだが、自分はその任ではない。自分が総理になることは、お上に対して強要となるから、引き受けられない」と言った。(田崎末松『評伝 真崎甚三郎』1977、芙蓉書房)

 

26日午後、石原莞爾大佐は、宮中で開かれた軍事参議官会議後川島義之陸軍大臣に、事件の拡散を警戒して日本全土に戒厳令を布くことを進言した。その直後宮中に居合わせた内田信也鉄道大臣は、石原を始め幕僚たちの、強弁で傲慢な態度を目撃し、「陸軍省軍務局員や参謀本部の石原莞爾大佐らが、閣議室(宮内省臨時閣議室)の隣室で、聞こえよがしに、戒厳令不発令の非をならしてわめき、石原が閣議室に乗り込んできたので、僕らは『統帥部との直接交渉は断る。意見は陸相経由の場合のみ受け取る』とはねつけた」と言っている。このとき石原らが強引に推進した戒厳令施行が、翌27日からの電話の傍受の法的根拠につながった。(田中整一『盗聴 二・二六事件』文藝春秋p. 60

 

当時東京陸軍幼年学校校長の阿南惟幾は、事件直後全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったという。阿南は陸軍内で無派閥だった。

 

27日

 

 午前1時過ぎ、石原莞爾、満井佐吉、橋本欽五郎らは帝国ホテルに集まり、山本英輔内閣案や、蹶起部隊を戒厳司令官の指揮下に入れ、軍政上骨抜きにすることで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せて、このことを伝えた。

 

 午前3時、戒厳令の施行により、九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐が、戒厳参謀に任命された。戒厳司令部の命令「戒作命一号」では、反乱部隊を「二十六日朝来出動せる部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった

 

 「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、長年信頼を置いていた重臣たちを虐殺された天皇の怒りは益々高まり、午前8時20分、「戒厳司令官は、三宅坂付近を占拠しある将校以下を以て速やかに現姿勢を徹し、各所属部隊の隷下に復帰せしむべし」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。(反乱軍という認識は、この時が初めてか)

 本庄繁侍従武官長は、「決起した将校の精神だけでも認めてもらいたい」と天皇に上奏したが、天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」と一蹴した。奉勅命令は翌朝(28日、なぜすぐに出さなかったのか)5時に下達されることになっていたが、天皇は、この後何度も鎮定の動きを本庄繁侍従武官長に問いただし、本庄はこの日13回も拝謁した。

 午後0時45分、拝謁に訪れた川島陸相に、天皇は、「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。

 午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。天皇の強硬姿勢が陸相に直接伝わったことと、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出で、内閣が瓦解しないことが明らかになったことで、それまで曖昧な情勢だった事態が一気に叛乱軍鎮圧に向った

 

 午後2時、陸相官邸で、真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官と叛乱軍将校との会談が行われた。

 この直前、反乱部隊に、北一輝から、「人無し。勇将真崎有り。国家正義軍の為に号令し、正義軍速やかに一任せよ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。(一部青年将校は、台湾軍司令官として、任地にある柳川中将を、内閣首班として要求していたという。)真崎は、青年将校の間違いを説いて聞かせ、原隊復帰を勧めると、野中大尉は、「早速原隊へ復帰いたします」と答えた。(しかし実際はそうならなかった。)

 

 午後4時25分、反乱部隊は、首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするようにという命令が下った。

 

 午後5時、弘前から上京した秩父宮が上野駅に到着し、すぐに天皇に拝謁したが、「陛下に𠮟られた」とうなだれた。秩父宮は普段から皇道派青年将校たちに同情的であった。

 

 午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として、小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。(意味不明)

 

 夜、石原莞爾は磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな。もう幕引きにしろ。我々が昭和維新をしてやる」と言った。(真崎勝次『文芸春秋』1954年10月号「罠にかかった真崎甚三郎」)

 

28日

 

 午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。午前5時、蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐(小藤歩一連隊長)に、蹶起部隊の撤去、奉勅命令の伝達が命じられた。

小藤大佐は、「今は伝達を敢行すべき時期でない。まず、決起将校らを鎮静させる必要がある」として、奉勅命令の伝達を保留し、説得の継続を堀師団長に進言した。(命令違反)香椎威厳司令官は堀師団長の申し出を了承し(甘い)、武力鎮圧につながる奉勅命令(伝達)の実施が延期された。

皇道派の香椎戒厳司令官は、反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊と折衝を続けていた。香椎はこの日の早朝、参内して天皇に昭和維新を断行する意志があるのかを問いただそうとしたが、杉山参謀次長は、武力鎮圧の意向を固めていて、香椎に反対し、香椎も討伐方針に変更した。

 石原莞爾大佐はこの日の朝、香椎戒厳司令官に意見具申し、臨時総理に、建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させ、国政全体の引き締めを内外に表明してはどうかと提案した。

午前9時、撤退を説得していた満井佐吉中佐は、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発、強力内閣などを天皇に奏請するように進言した。香椎司令官は、無血収拾のために昭和維新断行の聖断を仰ぎたいと述べたが、杉山元参謀次長は反対し、武力鎮圧を主張した。

 

 正午、山下泰文少将(山下泰文軍事調査部長)が、反乱部隊に、奉勅命令が出るのは時間の問題だと告げた。栗原中尉は、反乱部隊将校の自決と、下士官兵の帰営、自決の場への勅使派遣の要請を提案した。川島陸相山下少将との仲介で、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は、「自殺するならば勝手に為すべく、此の如きものに勅使など以ての外なり」と非常な不満を示して叱責した。(昭和天皇実録 昭和11年2月28日)しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。(甘い。反乱部隊の同類か)

 自決と帰営の決定事項が、料亭幸楽に陣取っていた安藤大尉に届くと、安藤は激怒し、決起側は、自決と帰営の決定事項を覆した。午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官もそれを知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。(問題!)小藤大佐は、「形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同然の状態であった」と述べている。

 午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命した。(戒作命第10号の1)同時刻、皇居に皇族7人(伏見宮博恭王、朝融王、秩父宮、東久邇宮、梨本宮、竹田宮、高松宮)が集まり、一致して天皇を支える方針を打ち出した。

 午後6時、蹶起部隊に対する小藤の指揮権を解除(同第11号)。午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始できる準備をするよう、司令部は包囲軍に下命した。(同第14号)

 奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が、歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に抗議や説得の声を上げた。午後11時、「戒作命十四号」が発令され、反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力を以て当面の治安を恢復せんとす」と武力鎮圧の命令が下った。

 

 反乱部隊の側は、28日夜から29日にかけて、栗原・中橋部隊は首相官邸、坂井・清原部隊は陸軍省・参謀本部を含む三宅坂、田中部隊と栗原部隊の1個小隊は、赤坂見附の閑院宮邸付近、安藤・丹生部隊は山王ホテル、野中部隊は予備隊として新国会議事堂に布陣し、包囲軍を迎え撃つことになった。

 

29日

 

 29日午前5時10分、討伐命令が発せられ、午前8時30分、攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて、愛宕山の日本放送協会東京中央放送局を憲兵隊で固めた。また投降を呼びかけるビラを飛行機で撒布した。*

 

*午前3時頃、大久保弘一少佐が勧告ビラの撒布を思いつき、午前中一杯時間の猶予をもらうことを8人の軍事参事官に要請し、寺内大将が戒厳司令部官に交渉したという。

 

午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅令が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである…」に始まる勧告が放送され、田村町(現・西新橋)の飛行館(1978年に航空会館に改築された)には「勅命下る 軍旗に手向かうな」と記されたアドバルーンが上げられた。師団長を始め直属上官が説得した。

 

 反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を計ったが失敗した。(部下が制止した。)残る将校たちは陸相官邸に集まった。陸軍首脳部は、(反乱軍将校たちが自決する前に、叛乱軍将校の代表として)渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対し、法廷闘争を決意した。このとき野中四郎大尉は自決した。残る将校らは午後5時に逮捕された。同日、北、西田、渋川など民間人メンバーも逮捕された。

 

終焉

 

 3月4日、山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭し、逮捕された。

3月5日、河野大尉は、牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し、東京第一衛戍病院に収容されていたが、自殺を図り、6日、死亡した。

3月6日の戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊が50余名、歩兵第1連隊が400余名(450人を超えない)、歩兵第3連隊が900余名、野戦重砲兵第7連隊が10数名だった。

2月29日、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐が、説得失敗の責任を取って拳銃自殺。(人の命が軽んじられる時代だ。)

 

憲兵隊の動き

 

 皇道派は陸軍内で一大勢力をもっていたため、憲兵隊内部でも皇道派の精神が深く浸透しており、反乱軍と同じ思想を持っている者が大勢いた。「自己を犠牲にして蹶起した彼らの目的を達してやるのが武士の情けである」と主張する者もいた。しかし、麹町憲兵分隊の特高主任小坂慶助曹長は憲兵としての職務に忠実で、岡田総理救出を成功させた。しかし、事件後も憲兵隊内部には皇道派の勢力が浸透していて、憲兵隊内部では小坂は評価されず、小坂を罵倒する将校もいた。

 

海軍の動き

 

 襲撃された岡田総理・鈴木侍従長・斎藤内大臣ともに海軍出身の大将であったため、海軍省は26日午前、反乱部隊に対する徹底抗戦を発令し、東京市麹町区にあった海軍省舎の警備態勢を臨戦態勢にした。

 海軍は事件第一報から蜂起部隊「反軍」(反乱軍)と位置づけていた。(高松宮日記2巻390頁)26日午後、横須賀鎮守府(米内光政司令長官)の海軍陸戦隊4個大隊を芝浦埠頭に上陸させ、第一艦隊を東京湾内に急行させ、27日午後、旗艦「長門」以下各艦の主砲の照準を反乱軍が占拠する都内各地に合わせた。

 この臨戦態勢は、大阪にも及び、27日午前、第二艦隊の各艦が大阪港外に投錨した。

 

事件後の処理

 

陸軍統制派は、岡田内閣の後継内閣の組閣過程に干渉し、軍部独裁政治を実現しようとした。粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部で主導権を固めた。これは軍部ファッショ化の本格的スタートとなった。

 

政府・宮中

 

 事件収拾後、岡田内閣は総辞職した。元老西園寺公望による組閣大命が下った近衛文麿は、西園寺と政治思想が合わず、病気と称して断った。一木枢密院議長が、広田弘毅を西園寺に推薦し、広田に組閣大命が下った。

3月6日、新聞に新閣僚予定者の名簿が掲載された。しかし、陸軍は、陸相声明として、「新内閣は自由主義的色彩を帯びてはならない」と釘を刺し、陸軍省軍務局の武藤章中佐が陸相代理として組閣本部に乗り込み、下村宏、中島知久平、川崎卓吉、小原直、吉田茂などを名指しし、自由主義的思想を持つと思われる閣僚候補者の排除にかかった。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。(現自民菅政権と同じ。学術会議に気に入らない奴は採用しない。)

 

反乱軍将校の免官等

 

 2月29日付で、20名が免官となった。3月2日、山本が免官となった。3月2日、山本元少尉を含む21名が、「大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当する」として位階の返上が命じられ、勲章も褫(ち)奪された。

 

殉職・負傷者

 

 護衛の5名の警察官が殉職し、1名が重傷を負った。全国から弔文10万通、弔慰金22万円が集まった。4月30日、弔慰金受付の打ち切りが発表されると、抗議の投書が新聞社に殺到した。(警視庁史編さん委員会1962, pp. 475-476)合同警視庁葬に数万人が焼香した。

 

 血に染まった芝生が警視庁警備部警護課の窓辺に移植されているとのこと。(たいそうな)

 これが原因で戦後の陸上自衛隊も、警視庁公安部公安第3課の監視対象となっている。

 

皇道派陸軍幹部

 

 事件当時に軍事参議官だった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部信行*・林銑十郎の4人は、3月10日付で予備役に編入された。

 

*阿部信行は(首相になった1939年ころ、(阿部内閣1939.8.30—1940.1.15))ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとして、大戦への不介入方針を掲げた。

 

侍従武官長の本庄繁は、娘婿の山口一太郎大尉が事件に関与したこと、反乱青年将校に同情的な姿勢をとって、昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことなどから、事件後に辞職し、4月に予備役になった。

事件当時陸軍大臣だった川島義之は、3月30日に、戒厳司令官だった香椎浩平中将は7月に、不手際の責任を取らされて予備役となった。

皇道派の主要人物であった陸軍省軍事調査部長の山下泰文少将は、歩兵第40旅団長(司令部が朝鮮の龍山にあった。山下は事件後、軍から身を引く覚悟だったが、川島陸軍大臣が慰留した。)に転出させられ、1940年に陸軍航空本部長を務めた他は、中央の要職に就かなかった。

 

これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣のときから軍部大臣現役武官制が復活した。これは後に陸相の推薦拒否という手段で、内閣の命運を握ることになった。

事件当時関東軍憲兵司令官だった東條英機は、永田の仇打ちとばかり、当時満洲にいた皇道派の軍人を根こそぎ逮捕して獄舎に送った

貴族院では叛軍に職務を停止させられた陸軍の責任を追及したが、誰も責任を取らず、裁判にもかけられなかった。

 

事件に関わった下士官兵

 

 下士官兵は一部を除き、大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていたが、軍法会議にかけられた。

歩兵第1連隊と歩兵第3連隊はすでに渡満していて、無罪となった下士官兵は留守部隊所属となった。無罪となった歩兵第3連隊のうちの8人は、8月上旬、チチハルに向ったが、湯浅正雄連隊長は、「軍旗を汚した不忠者めが」と怒鳴った。(春山安雄伍長勤務上等兵の証言)

湯浅は5月22日に渡満する時、軍法会議にかけられなかった歩兵第3連隊の下士官兵に「事件に参加したのだから、白骨となって帰還せよ」と言った。(歩兵第3連隊第3中隊福田守次上等兵の証言)

歩兵第1連隊の連隊長・牛島満大佐は「汚名をすすぐために全員白木の箱で帰還せよ」と言った。(歩兵第1連隊第11中隊堀口真助二等兵の証言)

これら下士官兵は、中国で戦死した人が多い。安藤中隊にいた人はほとんどが戦死した。

 

 これら下士官兵の中の後の有名人 歩兵第3連隊機関銃隊所属小林盛夫二等兵は落語家で、5代目柳家小さんとなった。同隊所属の畑和(はたやわら)二等兵は、後に埼玉県知事や社会党衆議院議員となった。歩兵第1連隊所属の本多猪四郎は、映画監督となった。

 

反乱軍を出した部隊

 

 反乱軍を出した各部隊等では、指揮官が更迭された。近衛・第1師団長は、1936年3月23日、待命、予備役に編入された。各連隊長も1936年3月28日に交代が行われた。

 

 東京警備司令部、近衛師団、近衛歩兵第2旅団、近衛歩兵第3連隊、第1師団、歩兵第1旅団、歩兵第1連隊、歩兵第2旅団、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第3旅団、野戦重砲兵第7連隊などである。

 

捜査・公判

 

 事件の裏には陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性があるが、血気はやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走したというシナリオが世間に公表された。

 事件後、東條英機ら統制派は、軍法会議で皇道派の勢力を一掃し、政治的発言力を強めた。

 事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官や憲兵隊は、黒幕を含めて、事件の解明に尽力した。

 

 2月28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは、厳罰主義で速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3月4日、東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は、合囲地境戒厳下でないと設置できず、本事件では、容疑者の所属先が異なるケースが多数あり、管轄権の問題があった。特設軍法会議では常設軍法会議と比べ、裁判官の忌避ができず、一審制で、非公開、弁護人なしだった。匂坂春平陸軍法務官らとともに緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は、陸軍省内に普通の裁判をしたくないという意向があったと述懐する。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターであった。

 

 迅速な裁判は天皇の意向でもあった。特設軍法会議の開設は、枢密院の審理を経て上奏され、天皇の裁可を経て、3月4日に公布された。この日天皇は本庄繁侍従武官長に、裁判を迅速にやるべきことを述べた。天皇は「相沢中佐に対する裁判の如く、優柔の態度は、却って累(迷惑)を多くす。此度の軍法会議の裁判長、及び判士には、正しく強き将校を任ずるを要す」と言った。

 

 特設軍法会議では、審理の内容を反乱の4日間に絞り、その動機についての審理を行わないこととした。相沢事件の軍法会議が公開の軍法会議で行われ、軍法会議が被告人らの思想を世論に訴える場となり、報道が過熱し、被告人らの思想に同情が集まったことへの反省もある。2・26事件の審理は非公開で、動機の審理もしないため、蕨起した青年将校らは昭和維新の精神を訴える機会を封じられた。

 

当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。

 

第二十五条 党を結い兵器を執り反乱を為したる者は左の区別に従て処断す

一 首魁は死刑に処す

二 謀議に参与し又は群衆の指揮を為したる者は死刑、無期若しくは五年以上の懲役又は禁固に処し、其の他諸般の職務に従事したる者は、三年以上の有期の懲役又は禁固に処す

三 附和随行したる者は五年以下の懲役又は禁固に処す

 

 事件の捜査は憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが、黒幕の疑惑のあった真崎大将らの取調べを担当した。

 小川関次郎陸軍法務官を含む軍法会議で公判が行われ、青年将校・民間人らの大半に有罪判決が下った。磯部浅一はこの判決を恨み、栗原や安藤は死刑が多すぎると衝撃を受けた。

 民間人を受け持っていた吉田悳(とく)裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴ないし執行猶予の軽い禁固刑を言渡すべきだと主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」とした。

 

 軍法会議の公判記録は、戦後その所在が不明になった。そのため公判の実態を知る手がかりは磯部が記した「獄中手記」などに限られていた。

匂坂春平陸軍法務官が自宅に所蔵していた公判資料の存在は、遺族やNHKディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって1988年に明らかにされた。

中田や澤地は、匂坂が、真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとした陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から、匂坂を「法の論理に徹した」と評価した。

これに対して元被告の池田俊彦は、「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、全く事実に反する事項を書き連ねた報告書を作成し、われわれ一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税を不当に極刑に追い込んだ張本人であり、二・二六事件の裁判で功績があったからこそ*、関東軍法務部長に栄転した」と反論した。

 

*もう一つの理由は、匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任という説もある。

 

 また田々宮英太郎(ジャーナリスト、現代史家1909—2004)は、(匂坂が)寺内寿一大将に使える便佞(べんねい)に過ぎなかったと述べている。

 北博昭は、匂坂が「法技術者として、定められた方針に従った。その方針に法的側面から助力すべき役割を課されているのが陸軍法務官である」とし、「匂坂は真崎・香椎に対する二種類の処分案(真崎には起訴案と不起訴案を、香椎には身柄拘束案と不拘束案)を作成し、各選択肢にコメントを付している点は、陸軍法務官の分を弁えたやり方だ」と述べている。

 

 匂坂春平自身は後に「私は有為の青年を多数死なせてしまった」と話し、謹慎と贖罪の晩年を送った。

 

 公判記録は戦後、連合国軍最高司令官総司令部が押収し、その後返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが、1988年9月に判明した。(伊藤隆・北博昭『二・二六事件判決と証拠』朝日新聞社1995)しかしこれらには関係者の実名が多く載せられているためか、撮影・複写を禁止され、1993年に研究目的でようやく一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は元被告という立場を利用して、公判における訊問と被告陳述の全記録を筆写し、1998年に出版した。(池田俊彦『二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷』原書房、1998)2001年2月21日に放映された「その時歴史が動いたシリーズ二・二六事件後編『東京陸軍軍法会議~もう一つの二・二六事件~』において初めて一部撮影が許可された。

 

 民間人に関しては、木内曽益検事が主任検事として事件の処理に当たった。

 

判決

 

 第一次処断(1936年7月5日まで判決言渡)

 

 田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いをしたが、湯浅内府が反対した。

 7月12日、磯部浅一、村中孝次を除く15名の刑が執行された。

 

 第二次処断(7月29日判決言渡)

 背後関係処断(1937年1月18日判決言渡)

 背後関係処断(1937年8月14日判決言渡。ここに北一輝と西田税などの死刑判決を含む。)

 1937年8月19日、北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝次の刑が執行された。

 

真崎の事件関与

 

 真崎甚三郎は事件の黒幕と疑われ、1937年1月25日、「反乱幇助」で軍法会議に起訴されたが、真崎は否認した。論告求刑は「反乱者を利する罪」で禁固13年であったが、9月25日無罪判決が下った。

1936年3月10日、真崎大将は予備役に編入された。つまり、事実上の解雇であった。

真崎は1936年2月26日に蕨起を知ったとき、連絡してきた政治浪人亀川哲也に「残念だ。今までの努力が水泡に帰した」と語ったという。(児島襄『天皇Ⅲ』、児島襄(のぼる)は戦記作家。)

 

 真崎甚三郎取調べに関する政治浪人亀川哲也第二回聴取書によると、(亀川が言うには)「相沢公判の公訴取り下げに関して、鵜沢聡明博士*の元老訪問に対する真崎大将の意見の聴取(を聞くこと)が、(亀川の)(真崎)訪問の真の目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げた」と(亀川は)証言している。鵜沢博士の元老訪問に関する(真崎との)やり取りの後、亀川が「実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は悪化しないようにご尽力お願い致したい」と言うと、真崎大将は「もしそうなれば、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」と大変驚き、茫然自失に見えた、と(亀川は)言う。そして亀川が(真崎邸を)去るとき、「この事件が事実なら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えた。また亀川は、「真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったと感じ、後に久原房之介邸に行った時に事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起ったことは全然知らなかった*」と(亀川が述べた)いうことである。(田崎末松『評伝 真崎甚三郎』1977 芙蓉書房)

 

*鵜沢聡明博士は相沢三郎の弁護を引き受け、皇道派と思われ、1937年9月、貴族院議員を辞職した。

*この引用は分かりにくいが、要はこの引用は下線部のことを言いたいのであり、亀川が真崎に事件の発生を伝えたことはない、亀川と真崎とは事件に関して直接関係はない、と言いたいのだろう。

 

しかし(真崎が)反乱軍に対して同情的な行動をとっていたことは確かであり、真崎は26日午前9時半に陸相官邸を訪れた時、磯部浅一に、「お前の気持ちはようわかっとる、ようわかっとる」と声をかけた。(磯部浅一『行動記』、河野司編『二・二六事件―獄中手記・遺書』河出書房新社1972

また真崎は川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を上奏するように働きかけている。(児島襄『天皇Ⅲ』)

 

一方、当時真崎の護衛であった金子桂憲兵伍長は、戦後、真崎は「お前の気持ちはようわかっとる、ようわかっとる」とは言っていないとする。

(26日、陸軍相官邸で)磯部浅一が真崎に「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところは確報がありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります。」と言うと、真崎は「馬鹿者!何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。(田崎末松『評伝 真崎甚三郎』1977

終戦後、真崎は極東国際軍事裁判の被告となったが、真崎担当のロビンソン検事の覚え書きによれば、「真崎は二・二六事件の被害者であり、あるいはスケープゴートされたもので、この事件の関係者ではなかった」としている。

寺内寿一陸軍大臣が転出したあと、裁判長に就任した磯村年大将は「真崎を徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった」と戦後証言している。(山口富永『二・二六事件の偽史を撃つ』1990国民新聞社)

 

決起した青年将校には、天皇主義グループ(主として実戦指揮官)と、改造主義グループ(政情変革を狙い、北一輝の思想に影響を受けた磯部・栗原など)とがあり、後者は、宮中などへの工作を行っていた。(筒井清忠『昭和期日本の構造』1996、講談社学術文庫、p. 278

 

陸軍省・参謀本部は、クーデターが(万一)成功した場合の仮政府案を以下のように予想していた。

 

内閣総理大臣 真崎甚三郎

内大臣あるいは参謀総長 荒木貞夫

陸軍大臣 小畑敏四郎あるいは柳川平助

大蔵大臣 勝田主計あるいは結城豊太郎

司法大臣 光行次郎

不詳 北一輝

内閣書記官長 西田税

 

松本清張は「昭和史発掘」で

 

 26日午前中までの真崎は内閣首班を引き受けるつもりだった。真崎はその意志を加藤寛治とともに伏見宮軍司令部総長に告げた形跡がある。また真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるように勲一等の略綬を佩用していた。…真崎は宮中の形成が不利と見ると、態度を急変させ、軍事参議官一同の賛成(荒木は積極的賛成、他は消極的賛成)と、決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断った。

 

 磯部は、5月5日の第5回公判で、「私は真崎大将に会って直接行動をやるように扇動されたとは思いません」と述べ、5月6日の第6回公判で「私が真崎内閣を要求したことはないが、適任だと思っていた」とし、村中は「続丹心録」の中で、「真崎内閣説は、私の考えを予知した山口大尉や亀川氏がやったもので、私とは関係ない」と述べている。

 高橋正衛は『二・二六事件』の中で、真崎黒幕説を唱えていたが、1989年2月22日、真崎黒幕説に異を唱える山口富永に、末松太平立ち合いのもとで、「真崎組閣は推察で、事実ではない」と言った。(山口富永『二・二六事件の偽史を撃つ』1990、国民新聞社)

 

 真崎は次のように述べている。

 

 ・青年将校は相沢裁判で相沢三郎を救おうとしていたが、それに不利となるような方針(二・二六事件)に転換した。それは、彼らが2・26事件を通して相沢を救出できると、誰かに錯覚させられたからだ。

 ・西園寺は事件を予知して静岡に避難していた。(これを疑問視する説もある。)

 ・2・26事件は、持永浅治少将によれば、思想・計画とも十月事件そのままであり、十月事件の幕僚が関与している可能性がある。

 ・2月26日の昼ごろ、大阪や小倉などで、「背後に真崎有り」というビラがばらまかれ、準備周到であることから、本事件が幕僚派の計画であることが考えられる。

 ・真崎の磯部浅一との法廷での対決で、磯部が真崎に「彼らの術中に落ちた」と言って追求しようとすると、沢田法務官が磯部をすぐに外に連れ出した。

 ・小川関治郎法務官は、湯浅倉平内大臣らの意向を受け、真崎を有罪にしたら、法務局長を約束されたため、極力故意に真崎を罪に陥れるべく訊問した。

 ・小川法務官が、磯村年裁判長に、真崎を有罪にすれば得をすると不用意に口走ると、磯村裁判長が大いに怒り、「裁判長を辞す」と申し出たので、陸軍省が狼狽し、杉山元の仲裁で、要領の得ない判決文で折り合うことになった。(伊藤隆「真崎大将遺書」、弘瀬順皓校訂「現世相に関する特別備忘録」『This is 読売』1992.3

 

 1936年12月21日、匂坂法務官は、真崎に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。

 

刑 無罪、罪名 叛乱者を利す、階級 大将、氏名 真崎甚三郎、職名 軍事参議官、陸士期 9期

 

その他判決

 

死刑 水上源一 27歳

 

水上源一は、河野大尉と共に湯河原で牧野伸顕襲撃に加わり、事件に直接関わった民間人で唯一死刑に処せられた。

 

刑の執行

 

 1936年7月12日、青年将校・民間人17名*が旧東京陸軍刑務所で銃殺刑に処せられた。刑場の隣の代々木練兵場で刑の執行前から演習を行った。*前出「判決」の「第一次処断」では15名となっている。

 

 昭和40年2月26日、二・二六事件の死没者を慰霊する碑(観音像)が、渋谷区宇田川町(神南隣)の渋谷合同庁舎の北西部に建立された。これと別に、港区麻布の賢崇寺内に墓碑があり、毎年2月26日、7月12日に合同慰霊祭が行われている。

 

事件当時の政界・軍部の首脳等(省略)

 

事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)

 

 田中彌・参謀本部付歩兵大尉が10月18日、拳銃自殺した。田中は二・二六事件に関連して起訴中だった。田中は「帝都での決行を援(たす)け、昭和維新に邁進する方針なり」という電報を全国の同志に打電し、橋本欽五郎、石原莞爾、満井佐吉らの帝国ホテルでの画策に係わっていた。田中は、十月事件以来、橋本欽五郎の腹心の一人だった。事件の起る直前、全国の同志に、決起要請の電報を大量に発送しようとしたが、中央郵便局が差し押さえた。その事実が裁判で明るみになりそうになると、一切の責任を一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた。(岩淵辰雄「軍閥の系譜8」中央公論1946.9

 

昭和天皇に与えた影響

 

 戒厳司令官の香椎浩平中将は、当初蹶起将校に同情的で、昭和維新をやり遂げさせたいと考えており、すぐには実力行使に出なかった。しかし、蹶起将校の同志は、地方から駆けつけず、革新勢力の間でもこの蹶起がよく思われていなかったようだ。また、陸軍大臣は、単に事態を丸く治めようとしただけであり、叛乱に同調していたわけではなかったようだ。

 香椎は叛乱将校に同情的で、本庄侍従武官長も、何度も蹶起将校の心情を上奏するなど、日本軍上層部を含めて昭和維新を助けようとする動きは多くあったが、これら全ては昭和天皇の強い意志で拒絶された。

青年将校は君側の奸を排除すれば、天皇が正しい政治をして、民衆を救ってくれると信じていた。磯部浅一は事件後の獄中手記の中で、「天皇が我々の挙を聞き、『日本もロシアのようになりましたね』と側近に言われたということを耳にして、私は数日間狂った。それがロシア革命当時のことを意味するらしいと聞いて、私は神仏を恨んだ」と語っている。ロシア革命の最終段階で、軍は叛乱に協力し、ニコライ二世は一家ともども虐殺されていた。

 

 大日本帝国憲法では天皇は輔弼する国務大臣の副署がなければ国策を決定できなかった。昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を教えられてきた。張作霖爆殺事件の処理で、田中義一総理大臣を叱責・退陣させてからは、一層その傾向が強まった。しかし、二・二六事件は、首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起り、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例だった。(どうかな)戦後、昭和天皇は立憲主義の枠組を超えて行動せざるを得なかった例外として、二・二六事件と、終戦時の御前会議の二つを挙げている。

 

思想犯保護観察所の設置

 

 岡田内閣総辞職後の1936年5月、廣田内閣は思想犯保護観察法*(昭和11年5月29日)を成立させ、全国に思想犯保護観察所を設置した。思想犯保護観察団体に、全日本仏教会なども加わった。

 

*これは治安維持法違反で逮捕されたが執行猶予になった者、仮釈放者、満期出獄者に適用されたのに、なぜここで触れるのか。

 

以上 2020108()

 

 

 

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